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2006年12月08日
風の跫音 4
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短篇集『王城の護衛者』
1
平成十一年は歌壇にとつてじつに実り多き年であつたと言ふことができるだらう。丸谷才一氏の『新々百人一首』が大仏次郎賞を得、大岡信氏の評論選集『日本の古典詩歌』の一巻として《古今和歌集の世界》が刊行されたことによつて勅撰集以降の文学的な見直しに携つてきた両氏の仕事が総まとめの時期を迎へ、和歌を巡る状況の変化を最終的な段階へと到らしめる象徴的な出来事としてこれらの著作を捉へることができるからである。『万葉』偏重の伝統から八代集や『玉葉』『風雅』までをも視野に入れた文学的考察へと移行し、それに伴つて子規以来の浪漫主義的な和歌観がもはや完全に過去のものとなりつつある傾向は徐々に歌壇の主流を占めはじめてゐると言つてもあながち誤りではあるまい。
例へば「和歌は一作ごとに自己完結的で孤立した存在であり、一首一首が決して侵されることのない独自な世界を形成してゐる」といふ考へ方はすつかり影を潜めて、多義的な文学世界を可能にする存在としての和歌が明晰な輪郭を帯びて意識されるやうになつてきた。大岡氏の《古今和歌集の世界》から引いて具体的に言ふならば、このなかで筆者は「有明のつれなく見えし別れより暁ばかりうきものはなし」といふ壬生忠嶺の歌を取上げて、本文だけならば男女相逢ふた後衣の朝とも取り得るこの歌が『古今集』のなかでは「逢はずして今宵あけなば春の日の長くや人をつらしと思はむ」と「逢ふことの渚にし寄る波なれば恨みてのみぞたちかへりける」の間に挿入されてゐるためにこれは逢はざる恋だと解釈しなくてはならないとしてゐる。
ここから言ふことができるのは和歌なるものがもともとは自己完結的ではなくて様々な解釈、文学的な多義性を許すものであり、さういつた作品を詞華集といふひとつの体系のなかでどのやうに位置づけるかによつて固定した解釈が付与されるのだといふ思想だらう。さらにはかうした平安朝ふうの非自己完結的な和歌は前後に並べられた作者名の異なる作品たちと共鳴し合ひつついつそう豊かな魅力を放つてゐるのであり、いはば詞華集による文学的効果が浪漫主義的な作品世界を超越した美を作り上げてゐるのにほかならない。考へてみれば斎藤茂吉の「最上川逆白波の」といふのは厳然たる一義的存在として我々の目の前に屹立する作品であり、その閉された文学世界は詞華集による文学的効果を許さないほどに一首のなかで完結したものなのだが、逆に忠嶺に代表される平安朝の和歌は、解釈における文学的な境界のぼやけ、曖昧さ、あるいはゆらめきといつたものが詞華集といふひとつの大きな体系のなかでの位置づけと上手に結びつくことによつて、詩としての生命力をつよめてゐるのではないだらうか。そして他者によつて影響されることのない人間の個性や個人の絶対的な才能に価値を置く浪漫主義的な思考においては低いものとして考へられてきた詞華集の効果が、丸谷、大岡両氏以降ずいぶんと見直されるやうになつてきたのが現在の状況なのである。
さてここで考へてみるならば、歴史と人間といふものの関係についてもこの詞華集的なものが言へるのではないだらうか。ひとりの人間の一生などといふものは考へてみればごく雑然とした、性格づけの曖昧な「有明の」に似た存在であつて、例へば我々の知つてゐる徳川家康は江戸幕府を開いた歴史上の人物なのだがそれではその江戸幕府を開いた歴史上の人物といふ性格づけが彼のすべてかと問はれれば否と答へざるを得ないのを見てもそれは明かである。家康といふ人間は家庭にあつては息子であり、夫であり、父親であつたし、後家だつた妾の前では彼女に子を産ませるための男としての存在だつたし、医者たちにとつては薬好きな爺であり、能楽師たちにとつてはいかにも不器用な教え子だつた。さらにはむろん海道一の弓取りであり、駿遠三の領主であり、稀代の策士であり、江戸幕府の開祖、対外貿易の制限者、朱子学の強固な後盾でもあつたことは言ふまでもない。歴史になる前の家康はさういふ雑然とした曖昧な性格づけをいくつも抱へながら生きてゐる人間であつて、ひるがへつて言へば歴史といふこの抽象的なものはかかる多義的な人間の性格づけのなかから重要なものを抜き出してある体系(それを歴史の流れと呼んでもいい)に位置づけることによつて一義的なものへと昇華してゆく行為なのだらう。あたかも忠嶺の一首が前後の流れのなかで多義的存在から一義的な作品へと変化してゆくやうに、人間の一生となるものもまた歴史といふ名の詞華集のなかで余分な性格づけを削り落としながらはつきりとした歴史的性格を固め、さらにはさうやつて得た一義的な性格(あるいは歴史的存在としての一面)によつてほかの人生と共鳴し合ひつつ魅力を放つやうになるのだ。先ほどの家康の例で言ふならば、彼が非歴史的な存在のまま家庭人としての(あるいは男としての、薬好きの爺としての)性格づけに甘んじてゐたとするならば信長、秀吉との比照のなかで輝く彼の個性といふものはあり得ないのではないか。
すなはち歴史とは人間の詞華集であり、その魅力もまたそのやうな性質から生れてくるのである。
2
まづ『王城の護衛者』について。松平容保を扱つたこの一篇は、幕末の騒然たる社会情勢を、京都守護職である主人公の目から描いたものである。叛服常ならざる幕末政界にあつて治安の維持者に徹し、孝明天皇の絶大な信頼を得てゐたはずの彼が、政情の変転につれて朝敵奸族の名の下に会津若松籠城戦への悲劇の道を歩んでゆく。そこにあるのは刻々と変化してゆく社会の流れのうちでひとり変らざる人間の姿であり、そしてその変らざるがゆゑに時流のなかで悪役に仕立て上げられる会津の姿にほかならない。この小説において筆者は、有為転変する時流の不可解さを前にして立ちつくす人間といふ集約的な性格によつて松平容保を捉へ、そしてさういつた人間の肖像を幕末維新史のなかに位置づけることによつてこの時代の奔馬のごとき社会情勢、一夜にして価値観が逆転する革命的な状況をみごとに描ききつてゐる。
次に『加茂の水』。岩倉具視の謀臣である玉松操が倒幕の勅や錦旗を偽造する姿を通して、歴史を作る作業の過程を小説に仕立てたものである。この作品のなかには主人公と直接には関係のない人物が何人も登場してそれぞれが生き生きと活躍するのだが、最終的に彼らは玉松の作つた勅と錦旗を核として鳥羽伏見の戦ひといふ一点に収斂されてゆく。いはば玉松の手による歴史を変換させるための小道具が大久保や、西郷や、木戸を動かしてゆくところが一作の眼目なのだと言へるのであつて、この小説の主人公は魚嫌ひで粥ばかり啜つてゐる老書生ではなく実務家としての才能によつて時代を変革してゆく人間の姿であり、ここでも多義的な存在としての人間といふものをひとつの性格づけに集約するといふ作業が行はれてゐるのだと考へることができるだらう。さらに言ふならば、かうして玉松といふ人間を一義的存在へと昇華することで歴史を動かす実務者のおもしろ味が明確に意識されるのにほかならない。
そしてある意味では村田蔵六を描いた『鬼謀の人』もまた『加茂の水』と同じことが考へられるのではないだらうか。歴史の転轍機を実際に動かす実務者(木戸のやうな革命家は転轍機を動かすのを命令するだけである)から見た明治維新こそがこの小説の主題であり、そこでは絶望的なまでに対人能力の欠落した蘭学者を通して大いなる歴史のうねりとそのうねりを作る人間が描かれてゐるのである。『加茂の水』と『鬼謀の人』を隣どうしに並べて一冊に収めたのが筆者の意図であつたかどうかは判らないが、少くともこの小説がさういふ脈絡によつて読者の前に提示された場合に歴史の転轍機を動かす人間といふ主人公の性格づけがよりいつそうしつかりとした存在感を持つて現れてくるのは紛れもない事実であるだらう。歴史の大きな流れのなかで蔵六といふ個性が玉松と比照されることによつて共鳴的な効果を生んでゐるのであり、ここに到つて詞華集的存在としての歴史の魅力がもつともよく発揮されてゐるのにほかならない。
あるいは『英雄児』。河井継之助といふまさしく英雄児としか表現できない男の一生に材を採ることにより常に乱を思ひ乱世に生きることを望む(それは継之助が『李忠定公集』を愛読してゐることを見ても判る)人間を捉へ、たつたひとりの英雄児のために阿鼻叫喚の巷となつた越後長岡の悲劇を描いた作品である。そしてその奥には英雄児である男と英雄児を生むにはあまりに小さ過ぎた社会との関係を通して、歴史のなかの英雄とは善なのか悪なのかといふ主題がづしりと据ゑてあるのだ。この作品における河井の肖像は、例へば同じ筆者が同じ主人公を扱つた『峠』とは微妙に異なり、英雄といふ彼の一面にその全存在が収斂されてゐて、そしてそのことが主題と深く結びついてゐるのにほかならない。言つてみればこのことによつて、主人公が歴史やあるいは幕末なる時代のなかでいつたいどんな意味を持ち、いかなる場所に位置づけられるのかといふことが筆者の手によつて明かにされ、限定された一時代における河井といふ存在から抜け出して人類にとつての英雄とは何だらうかといふ普遍的な命題へと高められてゆく過程が『英雄児』といふ小説なのだと考へることができるのかもしれない。
『人斬り以蔵』は洛中に暗殺者として怖れられた岡田以蔵の物語である。以蔵における絶対的な武市瑞山への服従意識を核にして幕末の闇のなかに蠢く人斬りを突き動かした暗い情念を扱ふこの小説は、政治的正義による暗殺といふ行為が実はごく些細な人間関係や感情的な問題から発するものでしかないといふことを痛烈に描いてゐるのだ。それは『異邦人』のなかで太陽が暑いから主人公が殺人を犯すのと同じことであり、以蔵の内面的な問題(武市との人間関係における葛藤)と人斬りの間には常人の理解し得るやうな関連性はない。そこにあるのは武市に認められたい、武市に服従しなくてはならないといふ精神的な事象が一気に暗殺へと飛躍してしまふ主人公の狂気であり、読者としてはさういふ部分を知つてしまつた限り政治的正義による暗殺などといふものはすべて以蔵の場合のやうなつまらないものなのだといふ意識を持たざるを得ないだらう。筆者はここで、人斬りとしての一面と武市との精神的葛藤における一面といふふたつの性格づけによつて以蔵を描くことで、歴史のなかで彼が行つた暗殺のばかばかしさを証明してしまふのである。そして例へば以蔵の恋人としての一面(さういふものがゐたかどうかは判らないが)、あるいは子としての一面を中心に描いてゐたとしたら、この作品における右のやうな効果を上げるのが不可能であつたらうことは言ふまでもない。
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最終更新日 2006年12月18日 09時03分11秒
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