そして、ただ、この世のものはすべて絶対的な実体はなく(空)、固定した相はなく(無相)、何かに作られたものでもない(無作)のである、というような思索ばかりに心がとらわれておりました。一一六─九─上などということはつまり空論に対する法華経の明確な否定と言えよう。
仏さまが今お説きくださいましたような、〈すべての人が平等に仏性を具えていることを悟った上で、さらに人びとの間にある違いを認め、相手によってそれぞれにふさわしい教えを自由自在に説き、世の中を美しくし、すべての人を人格完成の域にまで導く〉という菩薩の法を、喜んで求めることをいたしませんでした。
本当に考えが至らずに、申しわけないことでございました。
わたしも父である。
世界全体の、父である。
世の衆生の、もろもろの苦しみ悩みを救うものである。
常に衆生と共にあって、苦患から救おうと願い続けているものではあるが、凡夫は心が顚倒しているゆえに、目に見えるものしか実在とは考えない。
その顚倒を正すために、実際は衆生と共にありながら、時期がくれば入滅するのだと告げる。
もし、いつでも仏に遇えるというのであれば、わがままな心が生じ、放逸の気持が起こり、五官の欲望を律することを忘れてそれに執着するために、次第に悪業に走り、したがって人生の苦患がさまざまに起こってくるであろう。
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