だが、与えられた仕事を、無心になって色々細やかに気配りをし、打ち込んでいけば、先徳と肩を並べられる。
いや、それ以上のことは、必ずなし得ることができよう。
それはただ一つ。道心があれば、必ず通じる。
そのことが体解できないということは、妄想妄念が、野原を思いのまんま走る馬のように、樹々を飛び交う野猿と同じで、煩悩、妄想のおもむくまま、主観だけで、その時々の、きまぐれな思いつきだからである。
猿や馬でも、一歩引き下がり我が身を省みれば、宇宙のはかない現象などに、心は動かされることなどない。
わずか、三センチ足らずの茎や葉であっても、一丈六尺の御仏と見なし、一丈六尺の御仏を真心込めて調理するのである。
そのことが人々の心を潤わせ、ほっとさせるのである。
遺偈 五十四年、第一天を照らす 箇の跳を打して、大千を触破す 咦 渾身覓る無く、活きな
がら黄泉におつ
訳「私の人生はひたすら第一天、すなわち仏法を求め照らし続けてきた。
この命、この場から跳び上がって、この迷いの三千大世界をぶち破ろう。
ああ。
全身求めるものは何もない。
この人生で見続けてきた仏法を見続けてあの世に行こう」
道元「禅」の言葉 2025.11.18
『正法眼蔵』全巻解読 2025.11.13
正法眼蔵1 2025.04.09