10 時半起床.
目が覚めたのは 6 時頃だったのだが軽い鬱と強い疲労感で起きられない.
頓服を飲んで何とか起きた.
天気が良かったので少し踏ん張って散歩に出た.
軽いとは言え, 鬱のせいで体が重くて歩くのがやや苦しい.
スポーツセンターまで歩き, 入口を通って中のエントランスホールまで行った.
実は昨日も朝の散歩でスポーツセンターに行って中に入ってきた.
その時もそうだったのだが, ホールに入った直後から緊張と恐怖で動悸が激しくなる.
この状態ではとてもではないがまだプールに入るのは無理だ.
焦ってはいけないのはわかっているつもりだが, やはり時間はかかるなあ...
昼食は蕎麦を茹でる.
さがえ蕎麦という銘柄の乾麺で, 美味しいために通販でまとめ買いしている.
美味いし, 乾麺だと体調があまり良くない時でも簡単に作れるので重宝する.
午後は何とかして読書と絵と数学をやろうともがいた.
コーヒーを飲んだり, ストレッチをしたりして気持ちを高めようとしたのだが駄目だ.
夕方になって, まずやっと本を開くことができた.
半ページ読んで限界.
けれども内容はちゃんと頭に入って本を読む喜びを味わえた.
ようやく脳が動き始めてくれた感じ.
一休みしてコーヒーを 1 杯飲み, その勢いで今度はスケッチブックを開く.
鉛筆で描きかけの絵に少し手を加えた.
時間にして 10 分くらいのことだったと思うが絵に集中する高揚感は得られた.
コーヒーを飲みながら最後に数学をやった.
読書と絵とで脳味噌に元気が出てきたおかげか, かなり集中できた.
考えるのが楽しくて興奮した.
軽度の鬱でも難儀だったが, 読書・絵・数学の継続はできた.
短時間だったがそれぞれに集中できたのは良かった.
読書・絵・数学を日々の習慣にしようとしているのは, 鬱とうまく付き合っていくためである.
特に昨日や今日のような寝込むほどではない軽い鬱と向かい合えるように.
集中できる何かを持っていないと, ぽっかり空いた無の時間の中に心が投げ出されてしまう.
この無の時間から生じる虚無が恐ろしい.
同時に, 今後の自分が過ごしていくであろう孤独な生活が, 社会からの孤立に繋がらないようにするためでもある.
このあたりのことはもう少し元気が出て, もうちょっと頭が回るようになれたら書いておきたい.
2016年12月02日
補足: 今日の数学のこと
今日は以前やった練習問題の証明の LaTeX での清書を印刷したものの内容のチェックを行った.
このプリントアウトは, 一番最初の清書に加えた修正を反映させたものだ.
つまり清書の第 2 版.
所々にまだ論理の飛躍があったので加筆した.
加筆した箇所は, 論理の飛躍があって自分にはまだ理解できないと感じられた部分である.
数学の証明は, たとえば「条件 $A$ が成り立つならばその結果として $B$ が成り立つ」といった推論を積み上げて最終的な結果に辿り着く.
様々な証明のパターンはあるが, 少なくとも自分にとって数学の証明とは一般的にそういうもの.
どんなに複雑な証明であっても, 独創的な証明であっても, そういった小さな論理の歩みを重ねた結果と考えている.
そういう証明を見出だし, 閃く瞬間に数学の静かな美しさを感じる.
証明を行う中で, 前述のように $A$ から $B$ を導く根拠が (数学にある程度親しんだ者にとって), それをわざわざ書いて説明する必要が無いくらい単純明快だったり簡単な計算で確かめられるような場合,「$A$ からは明らかに $B$ が導かれる」とか「$A$ によって $B$ が成り立つことは自明である」などと書いて詳細を書かずに済ますことがある.
そんな子細なことまですべて書いていたら全体が冗長になり過ぎてしまうから.
自明なことの細かくて長過ぎる説明があることで, 読むための余分な時間を強いてしまう可能性があるから.
等々.
けれど今回, 自分はそういう子細な論理の流れもすべて事細かに書いている.
理由ははっきりしている.
現在の自分の想像力・思考力ではそこまで書かないと理解できないからだ.
それに, これは人に読んでもらうためのものではなく, 自分の鬱からの回復のためのものでもあるから.
鬱はゆっくりと回復している.
これは確かに実感できる.
だが想像する能力, 考える能力の回復という点でまだまだ先がある.
このプリントアウトは, 一番最初の清書に加えた修正を反映させたものだ.
つまり清書の第 2 版.
所々にまだ論理の飛躍があったので加筆した.
加筆した箇所は, 論理の飛躍があって自分にはまだ理解できないと感じられた部分である.
数学の証明は, たとえば「条件 $A$ が成り立つならばその結果として $B$ が成り立つ」といった推論を積み上げて最終的な結果に辿り着く.
様々な証明のパターンはあるが, 少なくとも自分にとって数学の証明とは一般的にそういうもの.
どんなに複雑な証明であっても, 独創的な証明であっても, そういった小さな論理の歩みを重ねた結果と考えている.
そういう証明を見出だし, 閃く瞬間に数学の静かな美しさを感じる.
証明を行う中で, 前述のように $A$ から $B$ を導く根拠が (数学にある程度親しんだ者にとって), それをわざわざ書いて説明する必要が無いくらい単純明快だったり簡単な計算で確かめられるような場合,「$A$ からは明らかに $B$ が導かれる」とか「$A$ によって $B$ が成り立つことは自明である」などと書いて詳細を書かずに済ますことがある.
そんな子細なことまですべて書いていたら全体が冗長になり過ぎてしまうから.
自明なことの細かくて長過ぎる説明があることで, 読むための余分な時間を強いてしまう可能性があるから.
等々.
けれど今回, 自分はそういう子細な論理の流れもすべて事細かに書いている.
理由ははっきりしている.
現在の自分の想像力・思考力ではそこまで書かないと理解できないからだ.
それに, これは人に読んでもらうためのものではなく, 自分の鬱からの回復のためのものでもあるから.
鬱はゆっくりと回復している.
これは確かに実感できる.
だが想像する能力, 考える能力の回復という点でまだまだ先がある.