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2017年09月20日
離乳食の頃
母は繰り返し私の幼かった頃の話をしてくれました。それは、どれほど幼い私が可愛らしくて、賢い子どもで、母にとっての自慢の娘だったかという内容です。ほんの小さな子どもだった頃から、つい先だっての電話でも、母の口をついて出るのは幼かった頃の私の話です。
例えば話はこんな風なものです。離乳食の時期だというので、母はうどんを柔らかく煮て人肌に冷まし、そしていつものように「今日こそは無事に食べてくれるだろうか」と胸の鼓動を高鳴らせ、歩行器に入れられた幼い子どもの前へやってきます。
そして更にうどんをふ〜ふ〜と冷まして、子どもの口に入れます。しかし間も無く子どもは口を噤んでしまいます。いくら「はい、お口をあ〜んと開けて」とやっても、もう子どもは口を開きません。しかし、おもしろいもので赤ん坊のくせにネギを見せるとその時だけ口を開きます。そこで母の作戦は、口を噤んでしまったら、ネギを囮にして口を開けさせ、その隙にうどんを口の中に突っ込むというものでした。
けれども、その内に赤ん坊はネギ囮作戦にも騙されなくなり、口を噤んだままイヤイヤを続け、ついに小さな手をうどんの器の中に突っ込み、うどんを鷲掴みにするや否や、母の顔をうどんで往復ビンタをしたというのです。
母はこの話をするのが大好きで、もう何百回も、私がうどんを鷲掴みにして往復ビンタする様を実演しながら、実に愉しそうに話してくれました。ネギに騙される赤ん坊の浅知恵と、結局まんまと復讐を成功させる赤ん坊の賢さの両方が可愛くて面白くて仕方ないという様子でした。
他にも、バナナのエピソードがありました。食べさせようと思って出しておいたバナナがいつの間にかなくなっていて、まだハイハイしかできない赤ん坊の私が犯人とは思わず、あちこち探してもない。まだ言葉も話せない赤ん坊に「バナナ、どこいったか知らない?」と尋ねると、玄関の方を指差す。でもそれが赤ん坊がハイハイしてバナナを隠しにいった場所だとは夢にもは思わず、お台所や部屋を探し回り見つからずに諦めてしまう。ところが夕方になってポストを開けると、郵便物と一緒にバナナも出て来るというものです。
この話には別バージョンもあって、数回バナナを郵便ポストに入れたのち、今度は傘立ての傘の中に隠すというのもありました。どこを探しても見つからなかったバナナが、雨の日に傘を開こうとすると傘の中から落っこちてきたというものでした。
母はこれらの話を、私がどれだけ賢い子だったかというエピソードとして幾度も幾度も話してくれました。この話をする時、母は毎回相好を崩して、本当に面白くってたまらないというように話してくれました。
ですから、私もうどんやバナナのエピソードは、幼い私がどれだけ母に愛されていたのか、可愛がられていたのかという内容として長年捉えていました。乳児の頃のミルク噴水事件も、若い母がどれだけ手間をかけて赤ん坊に向き合い愛情を注いでいたかというエピソードとして捉えていました。
例えば話はこんな風なものです。離乳食の時期だというので、母はうどんを柔らかく煮て人肌に冷まし、そしていつものように「今日こそは無事に食べてくれるだろうか」と胸の鼓動を高鳴らせ、歩行器に入れられた幼い子どもの前へやってきます。
そして更にうどんをふ〜ふ〜と冷まして、子どもの口に入れます。しかし間も無く子どもは口を噤んでしまいます。いくら「はい、お口をあ〜んと開けて」とやっても、もう子どもは口を開きません。しかし、おもしろいもので赤ん坊のくせにネギを見せるとその時だけ口を開きます。そこで母の作戦は、口を噤んでしまったら、ネギを囮にして口を開けさせ、その隙にうどんを口の中に突っ込むというものでした。
けれども、その内に赤ん坊はネギ囮作戦にも騙されなくなり、口を噤んだままイヤイヤを続け、ついに小さな手をうどんの器の中に突っ込み、うどんを鷲掴みにするや否や、母の顔をうどんで往復ビンタをしたというのです。
母はこの話をするのが大好きで、もう何百回も、私がうどんを鷲掴みにして往復ビンタする様を実演しながら、実に愉しそうに話してくれました。ネギに騙される赤ん坊の浅知恵と、結局まんまと復讐を成功させる赤ん坊の賢さの両方が可愛くて面白くて仕方ないという様子でした。
他にも、バナナのエピソードがありました。食べさせようと思って出しておいたバナナがいつの間にかなくなっていて、まだハイハイしかできない赤ん坊の私が犯人とは思わず、あちこち探してもない。まだ言葉も話せない赤ん坊に「バナナ、どこいったか知らない?」と尋ねると、玄関の方を指差す。でもそれが赤ん坊がハイハイしてバナナを隠しにいった場所だとは夢にもは思わず、お台所や部屋を探し回り見つからずに諦めてしまう。ところが夕方になってポストを開けると、郵便物と一緒にバナナも出て来るというものです。
この話には別バージョンもあって、数回バナナを郵便ポストに入れたのち、今度は傘立ての傘の中に隠すというのもありました。どこを探しても見つからなかったバナナが、雨の日に傘を開こうとすると傘の中から落っこちてきたというものでした。
母はこれらの話を、私がどれだけ賢い子だったかというエピソードとして幾度も幾度も話してくれました。この話をする時、母は毎回相好を崩して、本当に面白くってたまらないというように話してくれました。
ですから、私もうどんやバナナのエピソードは、幼い私がどれだけ母に愛されていたのか、可愛がられていたのかという内容として長年捉えていました。乳児の頃のミルク噴水事件も、若い母がどれだけ手間をかけて赤ん坊に向き合い愛情を注いでいたかというエピソードとして捉えていました。
2017年09月19日
乳児の頃
今日鍼に行ったら大先生が治療を対応してくださいました。右膝を治療していただいている時「この痛みなら痩せなくても治りますよ」と優しく仰いました。この言葉の裏には多くの意味が含まれており、大先生の一言には優しさと励ましが詰まっていて、とても嬉しいものでした。
しかしそれと同時に、7月から8kg減量していても、まったく気づかれないということの再確認にもなって、ちょっと残念でした。ただ帰りがけに別の先生が「あら、少し痩せました?」と言ってくれました。「ええ、少しだけですが」と答えましたが、今日初めて今回の減量を気づいてくれた人に出会えました。
今日のお昼もコンビニのサラダとミニ冷やし中華、それにヨーグルトでした。工業製品です。これから人生の食生活を振り返ってみようと思います。今日は乳児の頃について書いてみます。
母は、私が生まれてもなかなか母乳が出ず苦労したそうです。そのため私はほぼ粉ミルクで育てられました。哺乳瓶を熱湯消毒し、粉ミルクを溶き、人肌に冷まし、そして赤ん坊に口元に持っていきます。飲み終えてゲップをさせても横にした途端、赤ん坊は噴水のようにミルクを吹き出すのだそうです。
着ている肌着もお布団も全部取り替えて、それをまだ洗濯機のない時代に手洗いをしなくてはなりません。でも、ミルクを吐き出してしまった赤ん坊は、お腹がすいているので泣き止みません。そこで、また哺乳瓶を熱湯消毒し、粉ミルクを溶き、人肌に冷まし、そしてまた赤ん坊の口元に持っていこうと思うのですが、また吐き出してしまったらどうしようと思うと、若い母の心臓は高鳴ります。
このようなことを繰り返していくうちに、母が極度の緊張状態で哺乳瓶を持って赤ん坊に近づく度に、その緊張が赤ん坊にも伝わるのかミルクを飲む前から泣き出し、母の鼓動は益々高まっていくという悪循環になっていたそうです。子どもの頃から「本当によその子の何倍も手のかかる子だった」と言われ続けてきました。
時は流れて2004年、浜名湖の花博に母と一緒に出掛けたときのことです。乗り物の列に並んでいたら、近くの乳母車に乗った小さな赤ちゃんが泣き始めました。すると母は私が初めて聞くエピソードを話し始めました。
私の生まれた1960年前後は戦後約15年で、古い因習や迷信から、合理的で科学的な思考に人々の価値観がシフトし始めた頃でした。母によれば、当時育児のお手本といえばアメリカの育児の翻訳本だったそうです。これまでの戦前の育児のやり方とは違い、衛生的で近代的なアメリカ式育児法を母は早速取り入れました。
そのひとつがミルクの与え方でした。赤ちゃんが泣いたらおっぱいをあげるという従来のやり方ではなく、きちんと時間を測って、きちんきちんと時間通りにミルクを与えるという方法です。母の目にはそれが輝くばかりの育児法と映りました。
ところが、ただでさえミルクの噴水芸を得意とする赤ん坊の私は、育児本通りにお腹をすかせるわけではありませんでした。お腹がすいて泣き出しても、時間が来ないとミルクは与えて貰えません。赤ん坊は声を張り上げて泣き続けます。それでも翻訳育児本には一定の間隔を開けることがなにより大切だと書かれています。母は、赤ん坊のことを思えばこそ、心を鬼にして泣かし続けました。
赤ん坊は顔を真っ赤にして空腹を訴えますが、その内声を上げて泣く元気もなくなり、泣き声のトーンが変わっていきます。泣くというよりはヒーヒーというかすれた声だけになっていったそうです。そばにいた祖母(母の母)が声を荒げて「可哀想に。もういい加減ミルクをやりなさい」と叱っても、母は最新鋭の育児法を遵守し続けました。
力の限りを尽くした赤ん坊がくたびれ果てて眠ってしまった頃、ミルクの時間はやってきました。母は寝入りばなの赤ん坊の唇をこじ開け、哺乳瓶の吸い口を捻じ込みました。赤ん坊はむせ返り、またミルクを吐き出し、そして洗濯物が増えていきました。
母は「あの時は本当に可哀想なことをした」と目にうっすらと涙を浮かべました。まだ二十代の若い母の試行錯誤の育児はこのようにして始まりました。
しかしそれと同時に、7月から8kg減量していても、まったく気づかれないということの再確認にもなって、ちょっと残念でした。ただ帰りがけに別の先生が「あら、少し痩せました?」と言ってくれました。「ええ、少しだけですが」と答えましたが、今日初めて今回の減量を気づいてくれた人に出会えました。
今日のお昼もコンビニのサラダとミニ冷やし中華、それにヨーグルトでした。工業製品です。これから人生の食生活を振り返ってみようと思います。今日は乳児の頃について書いてみます。
母は、私が生まれてもなかなか母乳が出ず苦労したそうです。そのため私はほぼ粉ミルクで育てられました。哺乳瓶を熱湯消毒し、粉ミルクを溶き、人肌に冷まし、そして赤ん坊に口元に持っていきます。飲み終えてゲップをさせても横にした途端、赤ん坊は噴水のようにミルクを吹き出すのだそうです。
着ている肌着もお布団も全部取り替えて、それをまだ洗濯機のない時代に手洗いをしなくてはなりません。でも、ミルクを吐き出してしまった赤ん坊は、お腹がすいているので泣き止みません。そこで、また哺乳瓶を熱湯消毒し、粉ミルクを溶き、人肌に冷まし、そしてまた赤ん坊の口元に持っていこうと思うのですが、また吐き出してしまったらどうしようと思うと、若い母の心臓は高鳴ります。
このようなことを繰り返していくうちに、母が極度の緊張状態で哺乳瓶を持って赤ん坊に近づく度に、その緊張が赤ん坊にも伝わるのかミルクを飲む前から泣き出し、母の鼓動は益々高まっていくという悪循環になっていたそうです。子どもの頃から「本当によその子の何倍も手のかかる子だった」と言われ続けてきました。
時は流れて2004年、浜名湖の花博に母と一緒に出掛けたときのことです。乗り物の列に並んでいたら、近くの乳母車に乗った小さな赤ちゃんが泣き始めました。すると母は私が初めて聞くエピソードを話し始めました。
私の生まれた1960年前後は戦後約15年で、古い因習や迷信から、合理的で科学的な思考に人々の価値観がシフトし始めた頃でした。母によれば、当時育児のお手本といえばアメリカの育児の翻訳本だったそうです。これまでの戦前の育児のやり方とは違い、衛生的で近代的なアメリカ式育児法を母は早速取り入れました。
そのひとつがミルクの与え方でした。赤ちゃんが泣いたらおっぱいをあげるという従来のやり方ではなく、きちんと時間を測って、きちんきちんと時間通りにミルクを与えるという方法です。母の目にはそれが輝くばかりの育児法と映りました。
ところが、ただでさえミルクの噴水芸を得意とする赤ん坊の私は、育児本通りにお腹をすかせるわけではありませんでした。お腹がすいて泣き出しても、時間が来ないとミルクは与えて貰えません。赤ん坊は声を張り上げて泣き続けます。それでも翻訳育児本には一定の間隔を開けることがなにより大切だと書かれています。母は、赤ん坊のことを思えばこそ、心を鬼にして泣かし続けました。
赤ん坊は顔を真っ赤にして空腹を訴えますが、その内声を上げて泣く元気もなくなり、泣き声のトーンが変わっていきます。泣くというよりはヒーヒーというかすれた声だけになっていったそうです。そばにいた祖母(母の母)が声を荒げて「可哀想に。もういい加減ミルクをやりなさい」と叱っても、母は最新鋭の育児法を遵守し続けました。
力の限りを尽くした赤ん坊がくたびれ果てて眠ってしまった頃、ミルクの時間はやってきました。母は寝入りばなの赤ん坊の唇をこじ開け、哺乳瓶の吸い口を捻じ込みました。赤ん坊はむせ返り、またミルクを吐き出し、そして洗濯物が増えていきました。
母は「あの時は本当に可哀想なことをした」と目にうっすらと涙を浮かべました。まだ二十代の若い母の試行錯誤の育児はこのようにして始まりました。
2017年09月18日
サムギョプサル
今日の日曜日は学生時代の仲間5人で展覧会へ行き、遅いランチで韓国料理屋さんに行きました。ランチのお店探しで歩いていた時、仲間のひとりの「ここにしよう」との提案でそこに決めました。そしてお勧めのサムギョプサルのランチを5人分注文しました。私にとってはサムギョプサルは初体験でした。
まず前菜はバイキングになっていて、ご飯やナムルや野菜の煮物を好きなだけ取ってきます。私はご飯は遠慮して、モヤシ、ほうれん草、人参、茄子などのナムルを一人前と思われる分いただきました。野菜たっぷりの嬉しい前菜でした。
次に、お店の人が運んできた巨大なお肉を見て驚きました。韓国人の店主によれば、サムギョプサルとは三段バラのことだそうで、脂身の多いお肉の塊でした。5人分だったので量もかなりありました。店主が焼きながらハサミでチョキチョキとお肉を切ってくれ、大量のニンニクや玉葱、キムチなども一緒に焼いてくれて、それをサンチュと呼ばれるレタスのような葉っぱに包んでいただきました。
私は糖質制限やっているわけではありませんが、これは糖質制限にもってこいだと思いました。脂身の多いお肉は20gで80kcalですがが、ご飯抜きでお野菜とお肉だけなら、普通に食べれば500kcalに充分収まると思いました。皆んなはビール、私はアルコールに弱いのでウーロン茶を注文しました。食後にコーヒーもついてひとりが2,000円でお釣りがくるというコストパフォーマンスも抜群のランチになりました。
その後、おしゃべり目的で昔ながらのちょっとお洒落な喫茶店に入りました。そこにはレモンタルトやレアチーズケーキやアイスクリームなどがあって、仲間の内2人はケーキセットを注文しました。あとの2人はグラスワインを注文しました。私は、迷いましたがミルクティーだけを注文しました。
喫茶店で私がタルトやケーキを注文しないなんて嵐でも来そうですが(実際台風で終日雨でした)、甘い物を「控えること」ができました。「我慢」ではなくて「控え」たのです。我慢というのは強い欲求を無理に抑圧することですが、昨日の私は「せっかく順調に食事療法がうまくいっているのだからやめておこうかな」という程度で控えることができました。実際に友人のところへ運ばれてきたケーキセットを見ても、「強い欲求」は沸き起こりませんでした。
糖尿病などではなくて、体重も気にせず好きなだけ注文して良いのなら、もちろん注文していたに違いないのですが、昨日は「控えること」ができました。
あっさりと「控えること」ができたのには、いくつか理由があると思います。まず、食事療法が順調なのでここで調子を狂わせたくないと思ったこと。それにそもそも強い欲求がなかったということ。前者は理性的な理由ですが、後者は感情的というか生理的な理由です。これまでのダイエットがことごとく失敗に終わったのは、理性的判断<<<生理的欲求だったからです。理性的な判断は必ず生理的な欲求に捩じ伏せられてきました。
ダイエットを成功させるには、生理的な欲求が湧き上がらないような環境を整えれば良いのだと思います。それには血糖値や糖質量をうまくコントロールする必要があると感じています。
まず前菜はバイキングになっていて、ご飯やナムルや野菜の煮物を好きなだけ取ってきます。私はご飯は遠慮して、モヤシ、ほうれん草、人参、茄子などのナムルを一人前と思われる分いただきました。野菜たっぷりの嬉しい前菜でした。
次に、お店の人が運んできた巨大なお肉を見て驚きました。韓国人の店主によれば、サムギョプサルとは三段バラのことだそうで、脂身の多いお肉の塊でした。5人分だったので量もかなりありました。店主が焼きながらハサミでチョキチョキとお肉を切ってくれ、大量のニンニクや玉葱、キムチなども一緒に焼いてくれて、それをサンチュと呼ばれるレタスのような葉っぱに包んでいただきました。
私は糖質制限やっているわけではありませんが、これは糖質制限にもってこいだと思いました。脂身の多いお肉は20gで80kcalですがが、ご飯抜きでお野菜とお肉だけなら、普通に食べれば500kcalに充分収まると思いました。皆んなはビール、私はアルコールに弱いのでウーロン茶を注文しました。食後にコーヒーもついてひとりが2,000円でお釣りがくるというコストパフォーマンスも抜群のランチになりました。
その後、おしゃべり目的で昔ながらのちょっとお洒落な喫茶店に入りました。そこにはレモンタルトやレアチーズケーキやアイスクリームなどがあって、仲間の内2人はケーキセットを注文しました。あとの2人はグラスワインを注文しました。私は、迷いましたがミルクティーだけを注文しました。
喫茶店で私がタルトやケーキを注文しないなんて嵐でも来そうですが(実際台風で終日雨でした)、甘い物を「控えること」ができました。「我慢」ではなくて「控え」たのです。我慢というのは強い欲求を無理に抑圧することですが、昨日の私は「せっかく順調に食事療法がうまくいっているのだからやめておこうかな」という程度で控えることができました。実際に友人のところへ運ばれてきたケーキセットを見ても、「強い欲求」は沸き起こりませんでした。
糖尿病などではなくて、体重も気にせず好きなだけ注文して良いのなら、もちろん注文していたに違いないのですが、昨日は「控えること」ができました。
あっさりと「控えること」ができたのには、いくつか理由があると思います。まず、食事療法が順調なのでここで調子を狂わせたくないと思ったこと。それにそもそも強い欲求がなかったということ。前者は理性的な理由ですが、後者は感情的というか生理的な理由です。これまでのダイエットがことごとく失敗に終わったのは、理性的判断<<<生理的欲求だったからです。理性的な判断は必ず生理的な欲求に捩じ伏せられてきました。
ダイエットを成功させるには、生理的な欲求が湧き上がらないような環境を整えれば良いのだと思います。それには血糖値や糖質量をうまくコントロールする必要があると感じています。
2017年09月17日
98.7→98.2kg
今週の平均体重は、98.2kgでした。先週の平均値に比べて丁度0.5kg減、入院前に比べると7.8kg減となりました。
2017/07/16 106.0kg
2017/07/23 104.6kg -1.4kg -1.4kg
2017/07/30 103.3kg -1.3kg -2.7kg
2017/08/06 102.7kg -0.6kg -3.3kg
2017/08/13 101.9kg -0.8kg -4.1kg
2017/08/20 101.2kg -0.7kg -4.8kg
2017/08/27 100.3kg -0.9kg -5.7kg
2017/09/03 99.7kg -0.6kg -6.3kg
2017/09/10 98.7kg -1.0kg -7.3kg
2017/09/17 98.2kg -0.5kg -7.8kg
この1週間で500g減りました。小さなペットボトル1本分の脂肪が減ったと考えて良いのでしょうか。それとも、水分や何か他の要素が減ったのでしょうか。
入院したのは7月17日でしたから、ちょうど2ヶ月前でした。今朝の体重は97.9kgだったので、2ヶ月間でおよそ8kgの減量となりました。ひと月4kg、体重の5%以下の減量は維持できています。それにしても2ヶ月で8kgというのは、私にとっては非常に速いスピードです。1,500kcalのカロリー制限はやはりすごい威力です。退院後にクリニックへ行った時、医師からは「もう100kcalくらい食べてもいいかもしれませんね」と言われたくらいです。
この2ヶ月間で変わったと自分で思うことを述べてみます。まず体調全般が良くなりました。入院前は病気の一歩手前で、四六時中体がだるく、隙あらば横になりたいという状態でした。その状態がかなり改善しました。
そしてそれに伴って、生活全般に意欲が少し出てきました。元々観劇や映画に行くのが好きなのですが、出かけるのが億劫になっていました。以前に買ってあったチケットでピアノリサイタルなどには行っていましたが、この前久しぶりに当日券で映画に行きました。
鍼とヨガのおかげもあって、くるんと丸まっていた体が少しずつ伸びて、姿勢が少し良くなりました。以前は背筋を伸ばしただけで、ズキンという謎の痛みが体の中心で起きていたものでした。今日の記述をあとで読み返したら笑ってしまうようなレベルかもしれませんが、カチコチだった体に少し血が通い始めました。これまでマッサージしようにも、ふくらはぎなどパンパンでマッサージの余地がなかったのが、少し指で揉むことができるようになりました。
何よりよくなったのは、空腹になっても「低血糖症状」が出なくなったことです。生あくびもなくなり、胃酸過多が原因だったと思われる口臭も以前ほど気にならなくなりました。空腹を空腹として感じることができるようになって、安心して生活できるようになりました。
まだまだですが、千里の道を歩き出しています。
2017/07/16 106.0kg
2017/07/23 104.6kg -1.4kg -1.4kg
2017/07/30 103.3kg -1.3kg -2.7kg
2017/08/06 102.7kg -0.6kg -3.3kg
2017/08/13 101.9kg -0.8kg -4.1kg
2017/08/20 101.2kg -0.7kg -4.8kg
2017/08/27 100.3kg -0.9kg -5.7kg
2017/09/03 99.7kg -0.6kg -6.3kg
2017/09/10 98.7kg -1.0kg -7.3kg
2017/09/17 98.2kg -0.5kg -7.8kg
この1週間で500g減りました。小さなペットボトル1本分の脂肪が減ったと考えて良いのでしょうか。それとも、水分や何か他の要素が減ったのでしょうか。
入院したのは7月17日でしたから、ちょうど2ヶ月前でした。今朝の体重は97.9kgだったので、2ヶ月間でおよそ8kgの減量となりました。ひと月4kg、体重の5%以下の減量は維持できています。それにしても2ヶ月で8kgというのは、私にとっては非常に速いスピードです。1,500kcalのカロリー制限はやはりすごい威力です。退院後にクリニックへ行った時、医師からは「もう100kcalくらい食べてもいいかもしれませんね」と言われたくらいです。
この2ヶ月間で変わったと自分で思うことを述べてみます。まず体調全般が良くなりました。入院前は病気の一歩手前で、四六時中体がだるく、隙あらば横になりたいという状態でした。その状態がかなり改善しました。
そしてそれに伴って、生活全般に意欲が少し出てきました。元々観劇や映画に行くのが好きなのですが、出かけるのが億劫になっていました。以前に買ってあったチケットでピアノリサイタルなどには行っていましたが、この前久しぶりに当日券で映画に行きました。
鍼とヨガのおかげもあって、くるんと丸まっていた体が少しずつ伸びて、姿勢が少し良くなりました。以前は背筋を伸ばしただけで、ズキンという謎の痛みが体の中心で起きていたものでした。今日の記述をあとで読み返したら笑ってしまうようなレベルかもしれませんが、カチコチだった体に少し血が通い始めました。これまでマッサージしようにも、ふくらはぎなどパンパンでマッサージの余地がなかったのが、少し指で揉むことができるようになりました。
何よりよくなったのは、空腹になっても「低血糖症状」が出なくなったことです。生あくびもなくなり、胃酸過多が原因だったと思われる口臭も以前ほど気にならなくなりました。空腹を空腹として感じることができるようになって、安心して生活できるようになりました。
まだまだですが、千里の道を歩き出しています。
2017年09月16日
お味噌汁
私の育った家のお味噌汁の具は、必ずお豆腐と油揚げでした。他の具材であったことは記憶にありません。父が偏食だったので、冷や奴があったとしてもお味噌汁は必ずお豆腐と油揚げに決まっていました。
いつの頃からか、母は「最高級の煮干し」で出汁を取るようになりました。その煮干は滅多なことでは手に入らない最高級品なので大切に扱う必要がありました。手で背ワタを取って水から煮出し、沸騰直前に削りたての鰹節を入れて出汁を取りました。栄養素がたくさん含まれているという理由で出汁は布巾では濾さずに煮干と鰹節だけを取り出して利用していました。味噌自体ももちろん「最高級品」で、それを象徴していることになっている大豆の破片がたくさん混じっていました。
母は手間暇かけて取った出汁と味噌で、豆腐と油揚げのお味噌汁を作りました。いつも大き目のお鍋で作っていました。お椀によそわれたお味噌汁には、キラキラした煮干の欠片がたくさん浮いていました。そして、お椀の底には大豆の破片が溜まっていました。煮干の欠片も大豆の破片もどちらも最高級品で栄養満点なので残さず食べるよう躾けられていました。
子ども達には残さず食べるように言いつけていた母ですが、自分だけは具材のお豆腐と油揚げだけを食べ、味噌汁の汁はほとんど残しました。そして食後に、その残り汁をまだたくさんのお味噌汁が残っているお鍋にあけるのです。そして父が大声で怒鳴るのです。「そんな汚いことをするな。残り汁はきちんと捨てろ」と。
翌日の夕食の時には、母は前日に作り、母の残り汁が入ったお味噌汁を温めて出しました。父は「味噌汁は温めないでくれ。温め直す味噌汁はまずい。冷たい方がよっぽどうまい」と常々言っていました。しかし母は「あら、温め直した方がずっとおいしいわ」といい平然と温め直しました。父は顔を真っ赤にして怒鳴り、母は「温め直した方がずっとおいしいのに」と不思議そうに首を傾げていました。
このやり取りは、私が小学生の頃から十数年前に父が亡くなるまで、判で押したように繰り返されました。?@お味噌汁を作って食後に母が残り汁を返す日と、?Aそのお味噌汁を温め直す日が、一日置きに繰り返されるのです。お味噌汁を作らないことがわかっている日には、父はあらかじめ「今晩の夕食には味噌汁は温め直さずに、冷たいまま出してくれ」と言っていましたが、母は「お味噌汁は温め直した方がおいしいから」と言って必ず温め直して出しました。つまり毎日毎日父はお味噌汁のことで母を怒鳴りつけていました。
友人の家のお味噌汁には煮干のキラキラも、大豆の破片もなく、舌触りのいいお味噌汁でした。後年、結婚したばかりの弟が、「うちの妻の作る味噌汁は、毎日具材が違うんだよ」と感慨深げに語っていたことも忘れられません。
いつの頃からか、母は「最高級の煮干し」で出汁を取るようになりました。その煮干は滅多なことでは手に入らない最高級品なので大切に扱う必要がありました。手で背ワタを取って水から煮出し、沸騰直前に削りたての鰹節を入れて出汁を取りました。栄養素がたくさん含まれているという理由で出汁は布巾では濾さずに煮干と鰹節だけを取り出して利用していました。味噌自体ももちろん「最高級品」で、それを象徴していることになっている大豆の破片がたくさん混じっていました。
母は手間暇かけて取った出汁と味噌で、豆腐と油揚げのお味噌汁を作りました。いつも大き目のお鍋で作っていました。お椀によそわれたお味噌汁には、キラキラした煮干の欠片がたくさん浮いていました。そして、お椀の底には大豆の破片が溜まっていました。煮干の欠片も大豆の破片もどちらも最高級品で栄養満点なので残さず食べるよう躾けられていました。
子ども達には残さず食べるように言いつけていた母ですが、自分だけは具材のお豆腐と油揚げだけを食べ、味噌汁の汁はほとんど残しました。そして食後に、その残り汁をまだたくさんのお味噌汁が残っているお鍋にあけるのです。そして父が大声で怒鳴るのです。「そんな汚いことをするな。残り汁はきちんと捨てろ」と。
翌日の夕食の時には、母は前日に作り、母の残り汁が入ったお味噌汁を温めて出しました。父は「味噌汁は温めないでくれ。温め直す味噌汁はまずい。冷たい方がよっぽどうまい」と常々言っていました。しかし母は「あら、温め直した方がずっとおいしいわ」といい平然と温め直しました。父は顔を真っ赤にして怒鳴り、母は「温め直した方がずっとおいしいのに」と不思議そうに首を傾げていました。
このやり取りは、私が小学生の頃から十数年前に父が亡くなるまで、判で押したように繰り返されました。?@お味噌汁を作って食後に母が残り汁を返す日と、?Aそのお味噌汁を温め直す日が、一日置きに繰り返されるのです。お味噌汁を作らないことがわかっている日には、父はあらかじめ「今晩の夕食には味噌汁は温め直さずに、冷たいまま出してくれ」と言っていましたが、母は「お味噌汁は温め直した方がおいしいから」と言って必ず温め直して出しました。つまり毎日毎日父はお味噌汁のことで母を怒鳴りつけていました。
友人の家のお味噌汁には煮干のキラキラも、大豆の破片もなく、舌触りのいいお味噌汁でした。後年、結婚したばかりの弟が、「うちの妻の作る味噌汁は、毎日具材が違うんだよ」と感慨深げに語っていたことも忘れられません。
2017年09月15日
食卓の光景
あたたかな食卓というと、脳裏に一枚の光景が浮かび上がります。高校生の時、友人の家で夕食に招かれた時の光景です。湯気が立ち昇る食卓を、驚きを持って見つめたあの時の自分の戸惑いと共に思い起こされます。
その日、いつものように学校帰りにバス停の目の前にあった友人宅に上がり込み、あれこれおしゃべりしていたら、友人のお母さんが「夕食時だからよかったら食べてって。あり合わせのものだけど。家族とおんなじものしかないけど、どうぞ」と呼びにきてくれて、友人も「そうだよ、そうだよ、一緒に食べようよ」といってくれ、階下の食卓に向かいました。
お父さんはその時はいなかったように思います。まだ仕事から帰ってきていらっしゃらなかったのかもしれません。友人と、友人の妹と、友人のお母さんと、私の4人でした。「なんにもないけど、遠慮しないで」という友人のお母さんの目の前には、揚げたての一口カツ、みずみずしいキャベツの千切り、たっぷり盛られた大根おろし、茄子のお味噌汁、炊き立てのご飯、そして他にも小鉢がいくつか並んでいました。
友人は私に向かって「遠慮しないでどんどんお代わりしてね」といい、妹と一緒に「いっただきまーす」と声を上げてソースをたっぷりかけた一口カツにかぶりつきました。友人のお母さんも「カツもまだまだあるからたくさんお代わりしてね」と言いました。
私にとってこの時の食卓の光景は、40年経っても脳裏に焼きついたままの衝撃的なものでした。
私の家ではカツを自宅で揚げたことはありませんでした。カツはお肉屋さんで揚げてもらうものでした。小学生の頃の、母が得意そうに言った言葉を今でも覚えています。「今日、お肉屋さんでカツを(家族の人数分の)4枚揚げて貰っていたら、(弟の同級生の)○○君のお母さんに『お宅は贅沢ねぇ、うちなんてそんなに高いお肉は買えないわ』って言われたの。これは特上のカツなのよ」
母は、特上とか、舶来とか、一流とかという言葉が大好きで、このような言葉をいつも枕詞に使っていました。幼い私は、素直にそのまま信じ、うちは他の家より贅沢をさせて貰っているのだと思っていました。
しかし、友人の家ではカツは「あり合わせのもの」だったのです。確かにひとくちカツ用の肉は、一枚の特上の肉に比べれば値段は安いかもしれません。でも、我が家のようにもったいぶって恭しく供されるものではなく、日常の食卓に並ぶ普段のおかずであり、子どもの友人が来たらついでに枚数を増やす程度のものだったのです。
ちなみにお母さんが「そんな贅沢はできない」と言っていた弟の同級生は、当時はまだ珍しかった受験をして、有名私立中学に進学しました。カツ代は教育費として貯金されていたのでしょう。
私が驚いたのは、カツを自宅で揚げていたからだけではありませんでした。そこには食卓としてのまとまりがあったのです。献立と表現したら良いのでしょうか。カツもあるけれど、他にも旬野菜やらお浸しが並んでいて、それぞれがバランス良く互いを引き立てあっていました。
それは一家の主婦が家族のことを思って、健康を考え、愛情をもって作った献立でした。そこには温かさがありました。
私の育った家では、「特上のカツ」の日にはおかずは「特上のカツ」だけでした。キャベツの千切りはもしかしたら自分たちで刻んで並べていたかもしれませんが、でも、テーブルの上にはカツと、キャベツと、お味噌汁とご飯だけでした。そして、そのお味噌汁は気味の悪いものでした。キラキラした煮干の背がたくさん浮いている「特別な」お味噌汁でした。お味噌汁には、苦くイヤな思い出がたくさんあります。時間のある時に後述しようと思います。
その日、いつものように学校帰りにバス停の目の前にあった友人宅に上がり込み、あれこれおしゃべりしていたら、友人のお母さんが「夕食時だからよかったら食べてって。あり合わせのものだけど。家族とおんなじものしかないけど、どうぞ」と呼びにきてくれて、友人も「そうだよ、そうだよ、一緒に食べようよ」といってくれ、階下の食卓に向かいました。
お父さんはその時はいなかったように思います。まだ仕事から帰ってきていらっしゃらなかったのかもしれません。友人と、友人の妹と、友人のお母さんと、私の4人でした。「なんにもないけど、遠慮しないで」という友人のお母さんの目の前には、揚げたての一口カツ、みずみずしいキャベツの千切り、たっぷり盛られた大根おろし、茄子のお味噌汁、炊き立てのご飯、そして他にも小鉢がいくつか並んでいました。
友人は私に向かって「遠慮しないでどんどんお代わりしてね」といい、妹と一緒に「いっただきまーす」と声を上げてソースをたっぷりかけた一口カツにかぶりつきました。友人のお母さんも「カツもまだまだあるからたくさんお代わりしてね」と言いました。
私にとってこの時の食卓の光景は、40年経っても脳裏に焼きついたままの衝撃的なものでした。
私の家ではカツを自宅で揚げたことはありませんでした。カツはお肉屋さんで揚げてもらうものでした。小学生の頃の、母が得意そうに言った言葉を今でも覚えています。「今日、お肉屋さんでカツを(家族の人数分の)4枚揚げて貰っていたら、(弟の同級生の)○○君のお母さんに『お宅は贅沢ねぇ、うちなんてそんなに高いお肉は買えないわ』って言われたの。これは特上のカツなのよ」
母は、特上とか、舶来とか、一流とかという言葉が大好きで、このような言葉をいつも枕詞に使っていました。幼い私は、素直にそのまま信じ、うちは他の家より贅沢をさせて貰っているのだと思っていました。
しかし、友人の家ではカツは「あり合わせのもの」だったのです。確かにひとくちカツ用の肉は、一枚の特上の肉に比べれば値段は安いかもしれません。でも、我が家のようにもったいぶって恭しく供されるものではなく、日常の食卓に並ぶ普段のおかずであり、子どもの友人が来たらついでに枚数を増やす程度のものだったのです。
ちなみにお母さんが「そんな贅沢はできない」と言っていた弟の同級生は、当時はまだ珍しかった受験をして、有名私立中学に進学しました。カツ代は教育費として貯金されていたのでしょう。
私が驚いたのは、カツを自宅で揚げていたからだけではありませんでした。そこには食卓としてのまとまりがあったのです。献立と表現したら良いのでしょうか。カツもあるけれど、他にも旬野菜やらお浸しが並んでいて、それぞれがバランス良く互いを引き立てあっていました。
それは一家の主婦が家族のことを思って、健康を考え、愛情をもって作った献立でした。そこには温かさがありました。
私の育った家では、「特上のカツ」の日にはおかずは「特上のカツ」だけでした。キャベツの千切りはもしかしたら自分たちで刻んで並べていたかもしれませんが、でも、テーブルの上にはカツと、キャベツと、お味噌汁とご飯だけでした。そして、そのお味噌汁は気味の悪いものでした。キラキラした煮干の背がたくさん浮いている「特別な」お味噌汁でした。お味噌汁には、苦くイヤな思い出がたくさんあります。時間のある時に後述しようと思います。
2017年09月14日
工業製品
昨日は夕食を宅配弁当にしたら気持ちがとても楽になったと書きました。それでは昼食はどうかというと、実はほとんど毎日コンビニのお世話になっています。コンビニで買うものは、サラダやそのまま食べられる野菜、サンドイッチ、ブランパンなどのパン類、冷やし中華、カレーうどん、ピリ辛蕎麦などの麺類、あるいはビーフシチューやミートソースなどレトルトパウチ製品、それにカットフルーツなどです。色々と組み合わせて500kcalに納めるように工夫しています。
正直に言えば、毎日工業製品を食べているような感じです。規格に合った工業製品のような食品です。
多くのダイエットブログには、朝昼夕の食事の写真がたくさん載っています。腕をふるったお料理をなさっている方も多く、弟子入りしたくなるような方々もおられます。それに比べて私は、朝は外食、お昼はコンビニ、夜は宅配弁当なのです。夫がよく私の手料理を褒めてくれていたので、私はお料理は嫌いではないと思い込んでいましたが、きっと料理自体が好きではないのでしょう。
お料理上手というのは、女性としてポジティブポイントが高いという先入観があって、無理やり自分自身を料理上手と思い込みたかったのでしょう。毎日手作りの家庭料理をテーブルに並べたいというのが私のささやかな夢でしたが、現実にはデパ地下やスーパーマーケットのすぐに食べられるお惣菜をよく買ってきていました。
人間は育てられたようにしか育たないと思うのですが、今、自分の子どもの頃の食卓を思い浮かべると、今日私の食生活の原点は、やはり母の食卓にあったのだと感じます。何度思い出そうとしても、私の家には「あたたかい食卓」というものは存在しなかったのです。
私の育った家は、決して裕福な家ではありませんでしたが、だからと言ってことさら貧しい家でもありませんでした。食べるものに不自由したことは一度もありません。食後にいただくクッキーなどのお菓子も常にふんだんにありました。それでも、私が夢見てきたような手作りの家庭料理が並んでいたことはなかったように思います。いえ、もしかしたらあったのかもしれません。ただ私が思い出せないだけなのかもしれません。
ほうれん草の胡麻和えや、カレイの煮付け、オムライス、秋刀魚の塩焼き、蕗ご飯…。一品一品、断片的には母の手料理を食べていたことは思い出せるのです。幼い時の雛祭りのちらし寿司のご馳走とか、母と一緒にオーブンで焼いたシュークリームのことなどは懐かしく思い出せるのです。しかしまとまった集合体としての「あたたかな食卓」となると途端に記憶がないのです。これは一体どういうことなのでしょうか。
これから、時間を見つけては、子どもの頃の食卓の思い出を書いていこうと思います。
正直に言えば、毎日工業製品を食べているような感じです。規格に合った工業製品のような食品です。
多くのダイエットブログには、朝昼夕の食事の写真がたくさん載っています。腕をふるったお料理をなさっている方も多く、弟子入りしたくなるような方々もおられます。それに比べて私は、朝は外食、お昼はコンビニ、夜は宅配弁当なのです。夫がよく私の手料理を褒めてくれていたので、私はお料理は嫌いではないと思い込んでいましたが、きっと料理自体が好きではないのでしょう。
お料理上手というのは、女性としてポジティブポイントが高いという先入観があって、無理やり自分自身を料理上手と思い込みたかったのでしょう。毎日手作りの家庭料理をテーブルに並べたいというのが私のささやかな夢でしたが、現実にはデパ地下やスーパーマーケットのすぐに食べられるお惣菜をよく買ってきていました。
人間は育てられたようにしか育たないと思うのですが、今、自分の子どもの頃の食卓を思い浮かべると、今日私の食生活の原点は、やはり母の食卓にあったのだと感じます。何度思い出そうとしても、私の家には「あたたかい食卓」というものは存在しなかったのです。
私の育った家は、決して裕福な家ではありませんでしたが、だからと言ってことさら貧しい家でもありませんでした。食べるものに不自由したことは一度もありません。食後にいただくクッキーなどのお菓子も常にふんだんにありました。それでも、私が夢見てきたような手作りの家庭料理が並んでいたことはなかったように思います。いえ、もしかしたらあったのかもしれません。ただ私が思い出せないだけなのかもしれません。
ほうれん草の胡麻和えや、カレイの煮付け、オムライス、秋刀魚の塩焼き、蕗ご飯…。一品一品、断片的には母の手料理を食べていたことは思い出せるのです。幼い時の雛祭りのちらし寿司のご馳走とか、母と一緒にオーブンで焼いたシュークリームのことなどは懐かしく思い出せるのです。しかしまとまった集合体としての「あたたかな食卓」となると途端に記憶がないのです。これは一体どういうことなのでしょうか。
これから、時間を見つけては、子どもの頃の食卓の思い出を書いていこうと思います。
2017年09月13日
宅配弁当
教育入院の時、栄養士さんに宅配弁当のパンフレットをいくつかいただきました。栄養士さんに評判を聞いて、一番良さそうなところに連絡し、退院の日の夕食から届けてもらうことにしました。私のお弁当は、エネルギーとカロリーが計算されたおかずだけのお弁当です。
そもそもお弁当をお願いしようと思った理由は、これまでのダイエットでは初めてのうちは気合が入っていたけれど、慣れるに従って段々量が増えてきてしまっていたからです。量を定期的に見直す意味でも週に一度か月に一度は宅配弁当にしようと思いました。ところがお試しコースを頼んだら、案外想像を超えるおいしさだったので、結局、退院以来夕食は日曜日を除いて毎日お弁当です。
ひと月半宅配弁当で過ごしてみて、思ってもみなかった御利益がありました。
それは、食べ物のことを考えずに済むという利点です。私はこれまで毎日毎日今日は何を食べようというより、今日は何を食べてはいけないかということを四六時中考えていました。食べてはいけないもので頭がいっぱいだったのです。特に夕飯がいけません。朝食・昼食はほとんど問題はないのですが、私の場合、夕飯は本当に鬼門でした。
まずお買い物で考え込む。これは食べてはいけない、あれもダメ。でも結局買い過ぎる。お菓子やアイスクリームを買ってしまう。買うこと自体に罪悪感。しかも帰宅してすぐに食べてしまい自責の念。罪悪感と自責の念から自暴自棄を起こして大量に食べて、夕飯などはいらなくなる…という日々をどれだけ送ってきたことでしょう。
宅配弁当になってみると、驚いたことに私にとっては夕飯のおかずなんて何でもよかったんだと気がつきました。250kcalに計算されたお弁当に、家で炊いたご飯をラップで包んで冷凍してあるご飯を解凍し、それを緑茶を淹れて、焼海苔と一緒にいただきます。初めの頃は病院の指導通り、ご飯を150g(240kcal)食べていましたが、今はご飯を50g(80kcal)にして、ヨーグルト100g(65kcal)と果物を適宜いただいています。極めて快適です。
私は長年に渡って自分のことをグルメかつグルマン、つまり美食家かつ大食漢だと思い込んでいましたが、それは大いに間違いでした。日々の食事の苦しみから救ってくれたのは、何を隠そう宅配弁当だったのです。毎日、何を食べようとか、何を食べてはいけないとかを考えることから解放されました。買い物からも、夕飯の支度からも、後片付けからも解放されました。本当に楽になりました。
経済的にも、食品を無駄にすることがなくなり宅配弁当の方がかえって安く済みそうです。それに夫の食事の準備や片付けは不思議と少しも苦になりません。いわゆる同じ釜の飯を食べなくなって(厳密に言えばご飯そのものは同じ釜の飯なのですが)夫婦の距離ができてしまったらどうしようという心配も夫の協力もあって今のところは大丈夫そうです。
家に帰ればいつでもお弁当が待っていてくれる。ご飯もチンすればよい。ヨーグルトと果物でデザート欲も満たされます。これまで一日中頭の中を占めていた食べ物から解放されて、本当に人生が変わりました。宅配弁当屋さんには足を向けては寝られません。心から感謝してます。
そもそもお弁当をお願いしようと思った理由は、これまでのダイエットでは初めてのうちは気合が入っていたけれど、慣れるに従って段々量が増えてきてしまっていたからです。量を定期的に見直す意味でも週に一度か月に一度は宅配弁当にしようと思いました。ところがお試しコースを頼んだら、案外想像を超えるおいしさだったので、結局、退院以来夕食は日曜日を除いて毎日お弁当です。
ひと月半宅配弁当で過ごしてみて、思ってもみなかった御利益がありました。
それは、食べ物のことを考えずに済むという利点です。私はこれまで毎日毎日今日は何を食べようというより、今日は何を食べてはいけないかということを四六時中考えていました。食べてはいけないもので頭がいっぱいだったのです。特に夕飯がいけません。朝食・昼食はほとんど問題はないのですが、私の場合、夕飯は本当に鬼門でした。
まずお買い物で考え込む。これは食べてはいけない、あれもダメ。でも結局買い過ぎる。お菓子やアイスクリームを買ってしまう。買うこと自体に罪悪感。しかも帰宅してすぐに食べてしまい自責の念。罪悪感と自責の念から自暴自棄を起こして大量に食べて、夕飯などはいらなくなる…という日々をどれだけ送ってきたことでしょう。
宅配弁当になってみると、驚いたことに私にとっては夕飯のおかずなんて何でもよかったんだと気がつきました。250kcalに計算されたお弁当に、家で炊いたご飯をラップで包んで冷凍してあるご飯を解凍し、それを緑茶を淹れて、焼海苔と一緒にいただきます。初めの頃は病院の指導通り、ご飯を150g(240kcal)食べていましたが、今はご飯を50g(80kcal)にして、ヨーグルト100g(65kcal)と果物を適宜いただいています。極めて快適です。
私は長年に渡って自分のことをグルメかつグルマン、つまり美食家かつ大食漢だと思い込んでいましたが、それは大いに間違いでした。日々の食事の苦しみから救ってくれたのは、何を隠そう宅配弁当だったのです。毎日、何を食べようとか、何を食べてはいけないとかを考えることから解放されました。買い物からも、夕飯の支度からも、後片付けからも解放されました。本当に楽になりました。
経済的にも、食品を無駄にすることがなくなり宅配弁当の方がかえって安く済みそうです。それに夫の食事の準備や片付けは不思議と少しも苦になりません。いわゆる同じ釜の飯を食べなくなって(厳密に言えばご飯そのものは同じ釜の飯なのですが)夫婦の距離ができてしまったらどうしようという心配も夫の協力もあって今のところは大丈夫そうです。
家に帰ればいつでもお弁当が待っていてくれる。ご飯もチンすればよい。ヨーグルトと果物でデザート欲も満たされます。これまで一日中頭の中を占めていた食べ物から解放されて、本当に人生が変わりました。宅配弁当屋さんには足を向けては寝られません。心から感謝してます。
2017年09月12日
毎週火曜日
毎週火曜日は、基本的に体メンテナンスデーにしています。鍼に行って、近くの公民館のヨガに行きます。
現在、生活習慣の変革中ですが、これまでの何十年にも渡る悪習慣によって凝り固まっってしまった私の体は、これからもある程度の歳月をかけて変革していく必要があります。肩も腰も脚も膝も、どこもかしこも鍼の先生方がびっくりするくらい凝り固まっっています。
ヨガのポーズも、インストラクターや周りの人とはひとりかけ離れたポーズをしています。例えば開脚して上体を前に倒してそのまま床にくっつけるポーズの時も、鏡にはひとりだけ首を下に向けただけの私の上体がばっちり映っています。
運動療法は充分とは言えませんが、週2回の公民館ヨガと、自宅で膝の曲げ伸ばし運動をしていますので、しばらくはこれでいきます。食事療法は、時には会食もありますが、基本的には愚直に1日1,500kcalを守っています。
体重は7kg以上減りましたが、周囲の誰にも気づかれていません。それどころか、今日も鏡に映る自分の姿を見みた私自身の目にさえ、変化はまったく感じられませんでした。千里の道も一歩からといいますが、まだ減量を始めて2ヶ月も経っていないので、すべてはこれからです。
現在、生活習慣の変革中ですが、これまでの何十年にも渡る悪習慣によって凝り固まっってしまった私の体は、これからもある程度の歳月をかけて変革していく必要があります。肩も腰も脚も膝も、どこもかしこも鍼の先生方がびっくりするくらい凝り固まっっています。
ヨガのポーズも、インストラクターや周りの人とはひとりかけ離れたポーズをしています。例えば開脚して上体を前に倒してそのまま床にくっつけるポーズの時も、鏡にはひとりだけ首を下に向けただけの私の上体がばっちり映っています。
運動療法は充分とは言えませんが、週2回の公民館ヨガと、自宅で膝の曲げ伸ばし運動をしていますので、しばらくはこれでいきます。食事療法は、時には会食もありますが、基本的には愚直に1日1,500kcalを守っています。
体重は7kg以上減りましたが、周囲の誰にも気づかれていません。それどころか、今日も鏡に映る自分の姿を見みた私自身の目にさえ、変化はまったく感じられませんでした。千里の道も一歩からといいますが、まだ減量を始めて2ヶ月も経っていないので、すべてはこれからです。
2017年09月11日
中華料理
昨日の日曜日は学生時代の友人5人で中華料理店に行きました。木曜日にフランス料理をフルコースでいただいたばかりなのに、また会食です。しかも中華料理。5人の内ひとりは、よく会う友人なので教育入院のことも知っていますが、他の3人は卒業式以来三十数年ぶりで、もちろん今の私の状況は知りません。
久しぶりの友人は、3人共一目でわかりました。全然変わっていなくて、道ですれ違っても、電車の中で会ってもきっとわかったと思います。でも3人は私のことは「すれ違ってもわからないと思う」と言っていました。「太ったからね」と私が言うと、「学生時代は細い人っていうイメージだった」と1人が言い、もう1人が「そうそう、すらっとしてたよね」と言ってくれました。
友人たちのいう通り、きっと私はすらっとしていたんだと思います。でもあの頃は、自分のことを心底太り過ぎでみっともないと信じていました。だからダイエットとリバウンドを繰り返し今日まで来てしまったのです。本当に18歳の私に「そのままでいいのよ。きれいよ、可愛いわよ」といってぎゅっと抱きしめてあげたくなります。
コース料理にはしないで、アラカルトで色々と注文することになりました。スープを2種類、野菜中心の炒め物を数品、それに点心を数品、さらに主食を数品、最後にデザートの杏仁豆腐でした。
いつもの「all or nothing 思考」を抜け出し、「うまくいかなかったこともあるけど、うまくいったこともある思考」に切り替えようと思い、昨日は成功しました。もしかして、生まれて初めての成功かもしれません。
まず最初に「医者から減量するように言われているの」と宣言しました。そして酢豚などは取り分けの際お肉を減らしてもらいました。でも取り分けられた自分の分は残さずいただきました。点心でチャーシュー饅が1人にひとつずつ配られた時にも、これはかなりのカロリーオーバーになりそうだと思いましたが、残さずいただきました。
チャーハンや焼きそばを注文する時には「減量しなくてはいけないので主食は遠慮させていただくわ」と言ったら、友人のひとりが「じゃ、替わりに大根餅なんていいんじゃない?」と言ってくれたので、アドバイスに従いました。大根餅のカロリーが高いのか低いのかはわかりませんでしたが、きちんと断れたこと、そして代替案を素直に受け入れられたことが自分なりに大きな進歩だと思いました。
デザートは周りの雰囲気に合わせて、私も杏仁豆腐を注文しました。でも半分くらいいただいて、半分残しました。帰宅してカロリー計算してみたら、夕食だけで1,100kcalを超えていたと思います(大根餅は200kcalで計算してみました)。それでも、1日の総カロリーは2,000kcalを下回っていました。そして今朝の体重測定でも、昨日の体重を維持することができました。
これまでうまくいかないことがあると、「どうせうまくいかなかったんだから」とすぐに自暴自棄に走ってしまいがちでしたが、今回は「うまくできなかったこともあるけれど、うまくできたこともある」と思うだけで、とっても気楽で伸びやかな気持ちになれました。食後にコーヒーを飲みに行った時も、ブレンドを1杯だけ注文することができました。友人のひとりが持ってきてくれたお菓子の詰め合わせも、帰宅後夫に渡して仕事場に持って行ってもらうことができました。
このブログを書いて、自分を省みることができて本当に良かったと思いました。
久しぶりの友人は、3人共一目でわかりました。全然変わっていなくて、道ですれ違っても、電車の中で会ってもきっとわかったと思います。でも3人は私のことは「すれ違ってもわからないと思う」と言っていました。「太ったからね」と私が言うと、「学生時代は細い人っていうイメージだった」と1人が言い、もう1人が「そうそう、すらっとしてたよね」と言ってくれました。
友人たちのいう通り、きっと私はすらっとしていたんだと思います。でもあの頃は、自分のことを心底太り過ぎでみっともないと信じていました。だからダイエットとリバウンドを繰り返し今日まで来てしまったのです。本当に18歳の私に「そのままでいいのよ。きれいよ、可愛いわよ」といってぎゅっと抱きしめてあげたくなります。
コース料理にはしないで、アラカルトで色々と注文することになりました。スープを2種類、野菜中心の炒め物を数品、それに点心を数品、さらに主食を数品、最後にデザートの杏仁豆腐でした。
いつもの「all or nothing 思考」を抜け出し、「うまくいかなかったこともあるけど、うまくいったこともある思考」に切り替えようと思い、昨日は成功しました。もしかして、生まれて初めての成功かもしれません。
まず最初に「医者から減量するように言われているの」と宣言しました。そして酢豚などは取り分けの際お肉を減らしてもらいました。でも取り分けられた自分の分は残さずいただきました。点心でチャーシュー饅が1人にひとつずつ配られた時にも、これはかなりのカロリーオーバーになりそうだと思いましたが、残さずいただきました。
チャーハンや焼きそばを注文する時には「減量しなくてはいけないので主食は遠慮させていただくわ」と言ったら、友人のひとりが「じゃ、替わりに大根餅なんていいんじゃない?」と言ってくれたので、アドバイスに従いました。大根餅のカロリーが高いのか低いのかはわかりませんでしたが、きちんと断れたこと、そして代替案を素直に受け入れられたことが自分なりに大きな進歩だと思いました。
デザートは周りの雰囲気に合わせて、私も杏仁豆腐を注文しました。でも半分くらいいただいて、半分残しました。帰宅してカロリー計算してみたら、夕食だけで1,100kcalを超えていたと思います(大根餅は200kcalで計算してみました)。それでも、1日の総カロリーは2,000kcalを下回っていました。そして今朝の体重測定でも、昨日の体重を維持することができました。
これまでうまくいかないことがあると、「どうせうまくいかなかったんだから」とすぐに自暴自棄に走ってしまいがちでしたが、今回は「うまくできなかったこともあるけれど、うまくできたこともある」と思うだけで、とっても気楽で伸びやかな気持ちになれました。食後にコーヒーを飲みに行った時も、ブレンドを1杯だけ注文することができました。友人のひとりが持ってきてくれたお菓子の詰め合わせも、帰宅後夫に渡して仕事場に持って行ってもらうことができました。
このブログを書いて、自分を省みることができて本当に良かったと思いました。