全22件 (22件中 1-22件目)
1

「思考と直覚」パルメニデスへの疑義(五十五) 多元論では其々質的に異なったものの元素の結合分離による変化を運動として説明しますが、此れに異議を唱えるのが、現代科学に通じるところの「原子論」です。原子論者はモノの質的に異なったものを一元的に捉え、原子こそが「モトの元」即ち万物の根源であり、極小にして無数の原子の空間内の位置や配列及び形状」に従って質の相違を生み出す根元だと主張します。其れ故、其の空間における運動がモノの質的に異なったものを生み出す変化を齎すと考察します。何れの説も元素にしろ原子にしろ不生不滅の「常有」と考えるところは共通します。これは現代科学が解明した素粒子理論や重力子から全てが派生した説には近似していますが現時の「無」から「認識としての有の存在」が生じ、有から「認識としての無の存在」への変化は読み取れません。直覚的には「無」は「無」としてアルモノとしなければ「存在」がないとするのを直感します。其れを内精神の奥底深く眺め睥睨するならば世界内存在としては「無」ではあるが、超絶的には「無」から存在をあらしめる「思」の在りようが観想できます。
2015年02月28日
コメント(0)

「思考と直覚」パルメニデスの挑戦(五十四) パルメニデスが唱える「アルものはあり、ナイものはない。」とは、喩えれば「水は水としてあり、水でないものではない」水は油にならないし油もまた水にはならないと考えれば論理的には明瞭でしょう。然し乍ら此の理論を全面的に受け入れると、始原の世界に万物すべてのうち有限個の質的に異なったもの「元のもと」が備わっていなければならないとする「多元論」へと導くことになります。これでは変化を論理的には説明出来ないことから、後には他の思想家が元素の結合分離による変化を運動として説明します。即ち、パルメニデスが唱える「アルるものあり、ナイものはない。」の論理的原則を満足させる形で、自然現象の生成消滅を運動として一応は説明します。然し乍ら、「直覚」的には「もの」を不生不滅と捉えることはエントロピーを認める現代科学では不可能事です。世界内存在のすべては崩壊の運命にあり定立することなどあり得ないからです。「常有」は「直覚」でしか捉えきれない何か(?)です。
2015年02月27日
コメント(0)

「思考と直覚」ミレトス学派の余波(五十三) ギリシァの植民地統治はミレトスをはじめ南イタリアやシシリー島にまで及ぶにつけ、東西の植民都市にミレトス学派お影響を受けつつも無神論的で唯物論的なミレトス学派に批判的に、自分自身の理性的欲求を適合させようとする新たなる宗教観に思想を傾ける人物がBC5世紀からBC4世紀頃に登場します。万物の根元を「火」に求めたヘラクレイトス、直角三角形の3辺の長さの関係を表す等式である三平方の定理である「ピュタゴラスの定理」の数学的にも鬼才を放つピュタゴラスは自然現象の変化を認めて、「万物の元」からの変化変遷に拠る理論を説きます。ところが此の考えにパルメニデスが異論を唱えます。「アルるものがナイものにナル。」例えばアナクシメネスの理論、「空気こそが根元であって、其れが希薄化すると火になり、濃厚化すると水、更に進むと土になる。」此のことを認めれば逆順に辿れば矛盾が見えそうである。パルメニデスは「アルるものがナイものにナル。」などの変遷変化は億見(ドクサ)だと言い切ります。興味深いことに遙か東のインド大陸で龍樹が「空論」で述べた道理で読みとくと火が水になるなら既に火の中に水が有り矛盾が表立します。此のことは素粒子理論から捉えれば何ら矛盾も見出だせないのですが未だ科学が其処までの水準に達しない理念社会である当時では致し方ないことです。反面「直覚」は世界が素粒子或いは重力子から全てが生成されたならば其の因を問います。「結果としてアルものの因の元の源」其のものに思考が働くからです。「直覚」的には経験哲学や科学哲学、自然哲学を超えた「存在の無」としての「無い」何か(?)であり変化を一切受け付けない根元の究極の根源が「覚知」されます。
2015年02月25日
コメント(0)

「思考と直覚」ギリシァ哲学ミレトス学派(五十二) 世界史的に見ても紀元前のギリシァ以外に東西世界には哲学思想はあったにも関わらず、何故にギリシァ哲学が持て囃されたのか、其れはギリシァ文字の高尚性と文献上の高尚さに拠るところが要因と想われます。彼らは現代から眺めればまるで当時の未開社会に降り立った宇宙人と見紛う如き有り様の思想を発露しています。其処にまずはBC6世紀からBC6世紀前半にかけてギリシァポリス社会の支配下にある小アジアの西海岸の植民地化された商業都市「ミレトス」に云わば神話世界の中に唯物論、現代の多数が唯物主義を近代以後に生まれた思想と考えていますが、世界史的には西洋哲学は唯物論から始まります。当時のギリシァ世界には、神話や叙事詩に代表される宗教的世界観があるにも拘らず、ミレトス学派の著名なタレスに代表される哲学者は万物の根源を「もの」に求めています。タレスは万物の根源を「水」に求め、他に代表されるタレスに遅れるミレトス学派の哲学者は無限なるモノや空気を万物の根元だと主張します。其処には未だ果て無き大宇宙、然し乍ら閉じられたともいえる宇宙像が想像できないことから来ることからくる限界があります。宇宙膨張説を考察すると永遠に膨張するともいえずある限界点において縮小するともいわれます。収縮期が存在するなら閉じられたともいえる宇宙像が浮上します。「思考」は果て無き宇宙を想定し、「直覚」は「無」から「有」を生み出す「因としての無」を想定します。
2015年02月24日
コメント(0)

「閑話休題」死生観を直覚9最終章 宇宙創造にさえ関わる「無」としての因子、その「無」は「有」を存らしめる存在の根元の根源を成します。「無」としての因を一体全体どう捉えるべきものなのか。現状の哲学が観念論にしろ唯一論にしろ世界内存在を問題に考察し、方や、信仰では現状の観点からはやはり世界内存在を有らしめる存在として宇宙万物の頂点に立つ唯一の意思として霊性・神性を供与しています。其処からの立脚点から観想し得るのは世界内存在としての万物の根元であって「有」を存らしめる存在の根元の根源ではありません。大宇宙或いは次元を異にする無数の大宇宙があればこそ其れ等を流出させるのは、物質観念では捉えきれない「一者」としての「無」がそのものです。其れは「虚」ではなく人間が捉えきれない「思い」だとも言えます。「無」は「有」の元の源としてあり、「有」は「無」から見れば「夢」のような存在だとも云えます。「無有夢有」だと言い換えることも可能です。「無」は「有」の根元の根源としての「一者」として云えようが、「無」には万物を支配する質量もエネルゴーも無い。「無」は「有」に対しては「夢」の如き有り様の「全体」、完成された完璧なもの故、他者はない。「無」には無限とか虚とかの言葉の定義付けは許されない。人間の思観が神仏を超えた時に観相される「何か」(はてなブックマーク「?」)です。人気ブログランキングへ
2015年02月23日
コメント(0)

「閑話休題」死生観を直覚8 哲学のなかでも自然哲学と観念論的哲学、信仰と其の系列上の神学系哲学では、人間の霊魂観並びに世界の万物の根源の捉え方はかけ離れているとするのが通常では一般的です。一元論的に捉えるにしても、二元論的に捉えるにしても観念論では霊魂を非物質としてエネルギーとしては扱わず、自然哲学では究極の根源から派生する様態として扱い、信仰と其の系列上の神学系哲学では霊魂を否定することは稀です。ましてや、宇宙万物は言うに及ばず其の存在の根源の根源には一様に答弁しているものは皆無であるというほど見当たりません。何れの分野にしてもエントロピー下におかれる大宇宙の捉え方は「存在」です。此等の全ての思想は初めに絶対宇宙の存在を前提にしています。然しながら、創造ということを考察すれば究極の根源のそのまた根源的には「無」が浮上します。現代科学が宇宙で考察する「無」を「有」に在らしめる存在、万物の根源の創造を有らしめる存在の根源の根源には大宇宙や世界も存在しない「無」ではない絶対しか見えて来ません。此処で問題視されるのは存在の根源の根源は果たして世界内存在か或いは物質的には無の存在にある「絶対意思」、宇宙創造にさえ関わる「無」としての因子です。「無」は「有」を存らしめる存在の根元の根源なのです。人気ブログランキングへ
2015年02月22日
コメント(0)

「閑話休題」死生観を直覚7 通常に受け止めれば「信仰」は霊魂の不死や転生・復活を骨子として成り立っています。かたや哲学、中でも形而上哲学の分野に多数を占めるのは霊魂存在は認識是認するにしても其の普遍性を認めているわけではありません。特異なのは神学系哲学と呼ばれ分野に属する哲学者は霊魂の不死や転生・復活と其の普遍性を人間の内精神の霊性の成長に鑑み其の霊魂が唯一の「神」帰するとして両者が説く教説並びに学説を見事に融合させていると思えるものもあります。これらの主張の違いは「信仰」が人間の死後を考察し、形而上哲学は人間存命中の生き方を教えているところに起因します。現代哲学に普及している科学哲学と呼称される唯物的認識論では社会的に人間の生き方を教えるのが哲学であって霊魂の存在自体を認めず来世の概念はないとするのが一般的です。此等の主張の全てを通して探求するのが「直覚」を求め結果を知る「直覚知」です。其れは人間がビッグバン以前の「存在有」を「創造」の絶対意思・精神・意識との関わりを覚えるからです。単に霊魂の輪廻再生だけではなく究極的には人間の内精神に奥深く潜む霊性は「創造」の絶対意思・精神・意識の様態の延長上にあり「肉体の死」は見掛けの「滅び」と「直覚知」は捉えます。人間の内精神が存在不存在を問うことすら出来ない「創造」の絶対意思・精神・意識の様態の延長としてある限りにおいて「霊性」を高貴と呼ばしめる「霊魂」にまで昇華せしめた人間の霊性は大宇宙の創造に関わる「有」に還元されるのです。人気ブログランキングへ
2015年02月21日
コメント(0)

「閑話休題」死生観を直覚6 人間が大宇宙の存在の始源に関わる絶対存在の根源に感応するとは人間が絶対意思の様態の延長としてある限りにおいて、詰まるところ、人間の内精神の本源的な霊魂が大宇宙の創造に関わる唯一無二の「有」絶対意識と同化作用を起動していることになります。其処には既に「人間の個々」は無く、霊魂の存在さえ離れた無限とは定義することさえ不可能な、通常の人間が纏っている時間や空間は意味をなくし、絶対の「瞬間」しかないことを覚ります。「瞬間」には初めとか終わりとか「永遠」とかの言葉の定義はしようもなく、その「直覚を」獲得した人間は「有無」を離れた「有」であり世界理法其のものであり、現世的に視える形姿は仮想であり肉体の死は見せ掛けで不生不滅の存在となります。人間の内精神の本源的な霊魂さえもが昇華しています。其のことが人間が史上で信仰として其の人物を伝聞していることの本因です。人気ブログランキングへ
2015年02月20日
コメント(0)

「閑話休題」死生観を直覚5 人間が偉大とされるのは、生物学的個体として唯一「理性」を獲得し保持する動物だということです。此のことが人類を他の生物と根本的に区別するものです。古から人間を定義する名言の「人間は二本足で歩く動物であるとか、人間は笑う動物であるとか、人間は話す動物である」等の定義は現代的には笑止千万でしょう。人間が人間たる所以は「理性」にあるのです。其れ故「理性なき人間」、赤子や幼児段階を除く意思年齢に達しても理性がない或いは理性が損傷している人間を「人類種(ホモ・サピエンス)」ではあっても厳格には「真間」と呼ぶことは憚られることになります。史上に継続して伝達され残存している偉人の足跡或いは教えは、背景には理性の深層に隠された霊性の存在が見い出されます。一方では世界理法を追求する結果が人間の内精神の深層の奥深くに隠された霊性の本源を直覚し、更には、世界理法の絶対意識に感応する感性を持つ偉大なる人物には絶対意識の権原が顕現されるのです。何れにしても大宇宙の存在の始源に関わる絶対存在の根源に感応するのは人間の内精神の深層に創造に関わる「有」を感受出来得るまで高められた霊魂なのです。人気ブログランキングへ
2015年02月19日
コメント(0)

「閑話休題」死生観を直覚4 生物学的個体として身体の存亡に絶えず怯える人間が「不死」を願うことはいたって自然のことです。然しながら肉体を持って此の世に生を受け胎盤から産まれた人間には早くも死の危険性が伴い身体的成長には絶えず崩壊の理法が纏わり付きます。肉体を持って生まれた人間には此の則はたがえようにも延命に科学が助長したとしても肉体の終末は必然として来ます。一方、生物学的な肉体の個体差の自然淘汰による進化ではなく、精神史の進化は頭蓋の中の脳の進化だけに特定して満足行くものでしょうか。其れが是とすれば、現代の先端に生きる人間は幾千年前の人類より精神が高等な筈です。シッダルタやイエス・キリスト更には史上の偉大なる思想家を現代の先端に生きる頭蓋の中の脳は進化している故に高等であるといえましょう。ここに人間の或る特性、印度の狼少年の例を見るまでもなく脳細胞の進化だけではない内精神の深層に於ける活動がありそうです。私的直覚は其れを「霊魂」の働きと捉えます。即ち、霊魂は或るサイクルをもって此の世に現れ生物学的な進化とは異にした進化を促されていると捕らえます。言い換えれば人間の霊性は生物学的な進化とは次元を異にした理法に則っているのです。人気ブログランキングへ
2015年02月18日
コメント(0)

「閑話休題」死生観を直覚3 個体としての再生不可能な身体を持つ人間が、いわゆる生命科学の進歩によったクローン(挿し木・複製)人間の生産システムにおいての成功或いは工学系のナノ技術の発達による白血球に置き換える極細的ロボット或いは或いは血小板等の置き換えのシステムによっての人間身体の延命技術の発展は人間に「幸」を齎すのであろうかは興味津々たるものがあります。言い換えれば、人間が自然生態系に挑戦して自らの「生命」を左右することになります。但し、クローン人間は其の「源としての個人」と遺伝子は同一ですが夫々が個体としての滅びを持ち、内精神においての霊性に不滅の「原個人」を再現しているわけではなく、個々には死があり恐怖は抱えていることは否定できません。一方のナノ技術の発達による生命工学の成功による延命は医療に関わっているあいだは非常に恩恵がありますが、脳内物質の置換にまでに至れば其のものを「人間」と定義されるのかは甚だ疑問に感じます。哲学や宗教はこのことへの解答を用意すべきです。何故なら、クローン人間の場合は個々夫々に共通した霊魂があるとすると其れは霊魂の肥大化を齎し信仰上の「神」に劣らぬ力をも獲得できるからです。一方、ナノ技術の発展により人間がロボット化された時には哲学は霊魂の存在性の有無に立ち向かうことになります。充分に修養して「直覚」という思考経過を経て「直覚知」を獲得した人間から此等のことを鑑みれば絶対意識の世界の中での人間の造成した魔性もとい人間の傲慢さを見るかもしれません。人気ブログランキングへ
2015年02月17日
コメント(0)

「閑話休題」死生観を直覚2 地球上の生命はたとえ分裂して増殖、生物的には個体種としてはとしての死がないゾウリムシやアメーバーにしてもたった雌雄二種から派生したブロイラーにしても個々には滅びがあります。生あるものに滅びは違えない世界の理法です。但し、其れ等が、本能ではなく精神を持っていたとしたら其れは不死に繋がります。其の事ゆえ高等生物である哺乳動物、取り分け理性的動物であるとされる人間には「死」が意味を持ちます。其れ故、生物全般の本能的な「仕留め」を恐れるのとは次元が違います。人間のみが誕生に対する「死」を考察します。死こそが人類を人間たらしめているのです。生物全般のなかでも植物の存在を観察すれば、特に「竹木」を例にあげれば50年に一回優曇華の花を咲かせようが「死」とは無縁の形態です。哺乳動物の「仕留め」にしても其れは個体としての滅びであって「死」ではありません。人間だけに「死」は訪れるのです。人間の死生観が其れを語っています。ゾウリムシやアメーバーや竹木のような再生不可能な身体を持つ人間はクローン(挿し木・複製)人間科学の進歩と実現を目指しているのでしょうか。其の時に人間はクローン人間には通常には見えない隠された霊的内精神である霊魂の不存在を認識するでしょう。人気ブログランキングへ
2015年02月11日
コメント(0)

「閑話休題」死生観を直覚1 生命の宿主青き水の惑星地球上に生命(ある種ウィルスは生物ではないとする説もある。)を得て棲息する生物は数え切れない程の種があるなかで、進化過程を経た生物、たとえウイルスにしても原始生物とは言えなくそれなりの進化生物であり、下等生物なりの種の保存本能はあるともいえます。此れが高等生物になると痛覚神経を発達させて「仕留め」を忌避させるように働かせます。とはいえ、彼等が常時「仕留め」を死に結びつけているとは考えられません。高等生物ののなかでも人間だけが胎盤で母体と生を共にしていたのが誕生した瞬間から生が分かたれ個体として死の危険に晒されることになります。誕生の産声は其の悲しさの泣き声かもしれません。哺乳類全般に共通して誕生した赤子は乳房を求めますが其れも個体としての恐怖感から本能が働くともいえます。特筆すべきなのはオーストラリア大陸の有袋類でしょう。彼等の誕生した赤子は環境上安全とみられるまではほぼ胎盤にいた時と同様の環境を保ちます。現代日本の母親が前面に袋で子供を抱いてるのは子に乳房に近く一体感を感じさせる点で理に適っているわけです。まさに「お袋さん」です。人気ブログランキングへ
2015年02月10日
コメント(0)

「閑話休題」生と死を直覚 生命の宿主青き水の惑星地球に恵みを齎した太陽系は、天の川と知られる銀河系の恒星数2000~4000億個の恒星の一つ太陽を中心にして構成されています。しかし更には大宇宙には天の川銀河と同様の銀河系が此れ亦1000億個以上存在すると云われます。其の中で仮に地球上にしか生命が宿らないとしたら宇宙の中の特異点であり創造主神話が成り立ちます。科学的に分析すればその確率は常識的に考えても非常に低い筈です。とはいえ、其の地球に生を得たものは有機体として進化し無数の生命を育みます。しかし生命は発現した時より誕生と死を繰り返してきたのでしょうか。現代においても一部の下等生物は分枝・分裂により個体を再生しています。其処には一部の個体に亡びはあっても「寿命」という概念は結び付きません。誕生と死をむかえるのは高等生物の特徴です。ならば、高等生物の「寿命」は死と定義されるかといえばナンセンスでしょう。いつなんどき天変地異やアクシデントや病によって「死」が訪れるかは不明だからです。高等生物として昆虫や両生類や爬虫類であれ誕生した時点から「寿命」とは別に「死」が「生」に纏わり付いています。「死は生の伴侶」なのです。此のことを人間の高度の頭脳と直感で考察するならば、人間の死生観が変わること必定です。人気ブログランキングへ
2015年02月09日
コメント(0)

「思考と直覚」宗教と科学(五十) 霊的自然力の人格化が支配階級に結び付けられいた時代にも、他方では否応なしに社会的要請から分業化が進み貨幣経済と生産技術の発展に伴い科学的知識が発達します。其のことは科学的知識とは対角関係ともいえる「現生と彼の世」の存在を基底とした神秘主義や宗教との対立を齎す筈でした。ところがエジプトであれインド大陸であれモーゼの例を見るまでもなく科学的知識が其の時代の最高学府である王権の庇護下にあった神官(エジプトの例では特に職業神官としてのヘム・ネチェルが有名)が独占するという矛盾が表面化します。此の段階ではモーゼの著と想われる「旧約聖書」で、当時の王室最高学府の科学的知識を持つモーゼが」隷従する民族を救出せよとの預言に困惑する記述によく表れています。史的解釈的にはモーゼが宗教観を奴隷民族解放の手段として持ち込んだとも考察することもあり得ましょうが、逆に科学的知識が直覚には何程の力を持たないことの証しだともいえるのです。ただ、其れにもかかわらず科学的知識は時代を通じて宗教的観念に挑戦するという性格を帯びています。其れは為政者や宗教が権威をかざす程挑戦的になります。
2015年02月08日
コメント(0)

「思考と直覚」直覚と宗教(四十九) 鉄器文化の発展とともに奴隷制度が発展成立する時代には、自己の権威付け並びに権力を守るために神権的な存在を持ち出し、高度高貴な霊存在の不滅は自己の発祥の素因からみても自分のみに資格があり、例外的に自己に仕える高貴な地位にある従僕には己の霊力の力で賦与するという体裁を取ります。ところが奴隷制移行社会の発祥の地ともいえるエジプトから隷従者には霊性を認めていない王族の中から異端者が出現します。当時の社会では神秘的で強力な自然力を否定する傾向があったのですが、其の異端者は自ら荒野に身を置き彼なりの霊的直覚知を得ています。彼は当時の社会では霊的自然力の人格化が支配階級に結び付けられ、猛獣や猛禽の類が同時に戦争や支配者の守護神とされるのを、霊的直覚知を得て徹底批判をしています。彼自身は信仰の形姿を採用しているとはいえ其の深層には世界理法の通常には見えない隠された真相が垣間見えているのです。
2015年02月07日
コメント(0)

「思考と直覚」直覚を奴隷制に学ぶ(四十八) 人類が史上に記録として現出する時代、社会的には原始共同体いわゆる原始共産制度を導入して狩猟にしろ刈り取りにしろ、皆が協力して働き其の収穫も共同体に分配する階級なき世界でした。金銭を媒介にしての売買制度を発展させITにより現実的には其の金銭さえ不要となる方向に向かう現代人から見れば、一時期にみられたヒッピー系部落社会を除いては未開社会としか思えないでしょう。その未開社会とされ狩猟に依存していた文明が道具に石器から金属へと移行が進み、狩猟経済は牧畜と農耕に転じていわゆる労働の分業化、生産物の交換に物ではなく代替貨幣経済の発展を見せます。其れに伴い生産手段の獲得競争に勝ったものが鉄器文化の発展とともに武力を手に入れ他者を従属さていきます。結果は社会の多数者が少数者に従属せられ奴隷制度が発展成立させることとなりました。此の時点では霊的な神秘主義が権力者そのものを権威づけるものに利用され、隷従者に対しては霊存在そのものを否定する傾向がありました。自己の権威付け権力を守るために神権的な存在を持ち出し霊存在の其の不滅は自分のみで高貴な地位にある従僕以外の隷従者には霊性を認めていません。所謂霊学は権力者が独占していたとも言えます。其処にはもはや原始共同体いわゆる原始共産制度を導入して狩猟にしろ刈り取りにしろ、皆が協力して働き其の収穫も共同体に分配する当時のアルタミラピクチャーズに観る人間の内精神の感受性や自然観は恣意的なものに侵されています。あの世は特権階級のみに許されたものとされたのです。
2015年02月06日
コメント(0)

「思考と直覚」直覚を史前の人間に学ぶ(四十七) 生産力の技術水準が極めて低かった人類の黎明期の原始共同体では、現代に言うところの科学哲学と呼称されるものがあり得ようにもある筈もなく、人間と自然力との関わり方は受け身で従属するしかなかったが、其のことがかえって、現代人が物質文明の発展と科学技術を地球環境そのものを変えるまでの力を手中にした人類が、其のこと故に失った生命への神秘性軽視の状況による諦念とは逆に自然現象の背後にある力の存在への感受性に長けていたとも言えます。現代における外感覚的な物質的科学文明は人間に隠された内精神の奥深くに潜める霊性を疎んじて全ての実在を科学によって究明出来得るとさえ極論します。此のことが実際には見たところのものの真相を却って誤謬させることにもつながっていま。科学哲学は文明を誇る現代にも信仰が定着していることに答えを賦与する義務があり要請されています。人間は知識力を高める替わりに霊性を失い外的な反応しか出来ない心を持ったコンピュータとなるのが未来世界なのでしょうか。それが間違いでないとしたらコンピュータは人間に成り得ます。そこで要請されるのが精神科学ですが科学は先達の偉人の内的精神の真相に踏み込んだ思考を解き明かすまでには未だ足らずです。
2015年02月05日
コメント(0)

「思考と直覚」直覚を先達に学ぶの6(四十六) 直覚を探求する修養には、信仰的な伝説を除けば、其れに先立つところの自分自身の理性と経験が齎す感性を拠り所としています。こう云えば個々の理性と経験は大いに異なるから其の探求も個々別々なものとも解釈されがちですが、人間の思考とは産まれ出た時より母親の思考に反応・継承し、更には社会的な環境からも影響されるとはいえ、偉大な先達の継承発展してきた思索を出発点に置く限りには、其れ等の活動が実際には相互に統合リンクされていることに気付かされます。思考とは産まれ出た時に突然に生まれるというものではなく歴史を通した体系なのです。其れ故に、世界理法を自己の内精神の奥深くに沈潜させてその霊性を「絶対的な精神世界」に共鳴させるということは旧来の論理学の経過を理解する必要があります。霊性を「絶対的な精神世界」に共鳴させるというのが「直覚知」を獲得することを意味します。其れには偉大な先人の結論ばかりではなく、其の論理的思考と思索を追体験して自らに適った思考方法を学び取ることが重要です。「直覚知」とは永遠無窮の存在の懐に自己の内精神の根本へ根本へと探求し沈潜した霊魂の存在が絶対意識に抱かれ同化させることを覚ることで、人間精神の高揚にあっては肉体的に朽ちる運命とは異次元の其の霊性に不滅の安らぎを得ることを確信し、人生の終焉に向けての要らずもがなの不安を解消させてくれるものであり、結果的な信仰ではなく自らの不滅を獲得する実践的思考方法だと言えます。
2015年02月04日
コメント(0)

「思考と直覚」直覚を先達に学ぶの5(四十五) 仏法の祖「正覚者・釈尊」と尊称されるシッダールタの「直覚」を理解する上での立ち位置には二通りあります。一つはシッダールタの思考・思索の結果を崇め尊重し、其の「直覚」理解に努めるためとして釈尊の修養と瞑想を追体験して、即ち、自己の内精神をシッダールタの通常における生活では外環境の干渉ゆえに見えてこない世界理法を内精神の奥深くに沈潜させて世界に共鳴させる瞑想方法を実践することですしかし、その視点で学ぶのはシッダールタを師としてではなく神格化から来るものであり自己の納得でき得たと想える思考は信仰に変じている可能性も無きにしも在らずです。他方は、当初はシッダールタの「直覚」に批判的に捉え、自らの思考方法に拠り自己の内精神を高揚させた結果がシッダールタの「直覚」に相似していたというものです。此処には釈尊信仰の要素は皆無でシッダールタの成果を覽て正覚者と認識します。どちらが正邪というものでもなく「直覚知」を志ざす人間も始めは何れの仕方でも其の思考する習慣を身につける事こそが重要な事であって、霊性の不滅とか忘却の可否は修養の結果自ずと現れてくるものであり、正邪の見極めは内精神の奥深くに潜める霊性に従います。
2015年02月03日
コメント(0)

「思考と直覚」直覚を先達に学ぶの4(四十四) 神の啓示を受けた預言者や信仰の対象とされる人物は古今東西幾多と挙げられますが、其の中で印度大陸の北方にアーリヤ人のクシャトリヤ王統に属するといわれるチベット・ビルマ系と思われる釈迦国の王子シッダールタが生を受けます。然し乍ら、彼の修養によって得たものは神の啓示を受けた預言者とは区別されるべき特異的な存在「覚り」です。彼は先達の偉人の思考方法を学び取り自己の内精神を探究するに至り、内精神を理法そのものと同期するまでに高めます。それ故に「最初に神ありき」とは当然に思考経過が異なり異なり自己の内精神を拡張し精神世界において物理世界ではなくあくまで精神性の世界においてですが、自己の霊性を大宇宙世界を睥睨俯瞰するにまで高め得た大哲人であり、通常云われるところの預言者や神の申し子とは次元の異なる存在です。其の思考の経過や思索に関して忠実に我々現代人が再現するならば、「偽経」とも言われる後代の哲学的には真相に踏み込んだともいえようが神憑り的な大乗は現れない筈です。シッダールタはあくまで世界理法の基底に精神を傾け直覚知を得た最初の人間であるとしても当たらずとも遠からずでしょう。
2015年02月02日
コメント(0)

「思考と直覚」直覚を先達に学ぶの3(四十三) 直覚への思考方法と思索を語る上で欠かせないのがギリシャの大天才と評される哲学の祖タレスに始まるのちの三哲でしょう。第一はソクラテスですが彼は先達の偉人の業績を評価しつつも其の思考方法には飽きたらず問答法によって自己のなかで先達の偉人の欠点や誤りを指摘して、彼等の思索を超えようと思考方法に新たなる世界を持ち込み、時世背景もあり一応は神話的叙事詩に歌われる神々をあからさまには批判はしなかったが、先達の思考を稽古台にして自己の内精神を探求し理法を直覚しています。次いでその弟子プラトンが師の文章化されなかった思考を肯定的に取り込み纏め上げますが直覚という面では師に到らなかったかもしれませんが、その教えに関しては忠実に再現し完成させています。更にはソクラテスの弟子であるプラトンの弟子アレグザンダーの家庭教師であるアリストテレスはプラトンの業績を評価しながらも「直覚」を前面に出す霊魂観を確立します。霊魂の存在を現代人がとらえる「生き霊」としてではなく人間の内精神に眠る靈性を「霊魂」と称し神学的な要素は排除して純粋理法論に徹しています。然し乍ら、霊性の不滅を探究するには此の「死と不死」の問題を追求した三人の何れの人物の思考方法にも学ぶべき価値ははかりしれないものがあります。
2015年02月01日
コメント(0)
全22件 (22件中 1-22件目)
1