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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/トマス・アクィナス-17(二百六十八) トマス・アクィナスによれば「二重真理説」を一面では認めても、アリストテレスの基本概念其の儘に神の形相は質料のない可能性を含まない純粋形相としての現実性だとします。相違は「神」をアリストテレスが不動の動者、ビリヤードのキューを打つハスラー的なものとしているのに対して、トマス・アクィナスの「神の概念」は神は世界の原因でもあり、尚且つ目的としての原因でもあると述べています。それ故に神によって創造された世界は、当然ながら不滅ではないと説きます。其の対照に位置するトマス・アクィナスいうところの物質、此の物質概念はは形相としての「質料」であり、神の理法或いは世界の根本原則から生じ、原子のもっとも重要な属性である「質量」とは異相の存在です。此の「質料」を現実化及び動力を与えるのは神の精神的絶対意思である形相のみが成し得るのであり、一般的に捉えられている存在観念との区別すべき重要且つ慎重に取り扱うべき課題となります。
2015年10月24日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/トマス・アクィナス-16(二百六十七) トマス・アクィナスの定義では、物質を「質量」とは述べず、「質料」と表現されています。此れを誤解すると世界の理法を求めようにも迷走することになります。プラトンの思考では形相と質料が宇宙形成であり、その思想には形相と質料の二元論があります。形相は「もの」のかたちにみられる理念、即ち原型として考えられる、不変の完全な存在であり,霊的要因を示すと解釈するのです。質料(素材)を現代的には「質量」と観ても違和感はありませんがプラトン及びトマスも両者共に素材を質料と定義し、質量は物体に力を作用させたとき、容易にその運動状態を変えるものと、変えないものがあり、慣性の大きさを表す物理量を質量と言い、霊的要因は皆無です。此のことは18世紀後半から本格化する化学革命の質量保存の法則や、質量が原子のもっとも重要な属性であるという認識を持つことと関連し、形相としての「質料」は神の理法或いは世界の根本原則から生じる質量が原子のもっとも重要な属性であるという認識に立脚するにせよ、それだけで単独には目的としての現実態形相への移行は行われず、全てにおける存在者は形相(エイドス/eidos)〉と質料である素材(hylē)〉の結合体であり、その存在の何であるかを規定するのは、イデアを分有し、いわばその模像である形相であるとします。従って、存在の「何であるか(本質)」はそれ自体では変化をまぬがれており,生成消滅するのはその質料的部分だけということになり、質料とは異相の語彙を持ちます。物理科学における質量とは、形相としての「質料」とは意味合いが異なり、体に力を作用させたとき、容易にその運動状態を変えるものと、変えないものがある。運動状態の変えにくさの度合い、すなわち慣性の大きさを表す物理量を質量という。質量は物体の運動を調べる動力学において、位置と並んで物体の性質としてもっとも基本的な物理量である。また化学においても、質量保存の法則や、質量が原子のもっとも重要な属性であるという認識がフランスの「質量保存の法則」を発見、「近代化学の父」と称されるラヴォアジエに代表される思考が18世紀後半から本格化する化学革命の大きな決め手となったことからも「霊性」が入り込む余地はありません。
2015年10月23日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/トマス・アクィナス-15(二百六十六) 人間の本来的には持ち得る可能性としての精神の深奥に内在する筈の理性は、神が世界内、言い換えれば大宇宙の理を離れたところに在る、創造の意識であるからには、其の存在に宇宙内の物理原則は適用されない質料・時間・運動:空間、それ等から派生する法則、一切の法則性を含まない「現実現在時・永遠の瞬間」としての形相であり人間には可視すること能う(アタウ)ことべ可からずの存在有です。然しながら、人間の肉体はいざ知らず人間の「理性」を神の絶対意識の一部を映しているミラーと仮象すれば、姿や其の存在の有を認識することの可能性を人間精神の内奥に潜む理性、即ち「霊魂」の声に耳を傾けられる人物と云う条件付きではありますが不可能ではないとはいえます。
2015年10月22日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/トマス・アクィナス-14(二百六十五) トマス・アクィナスの思考の真理は一つの矜持が、アヴェロエスの主張する、神学と哲学の求めんとする処は或る部分では異なり、人間の元来持っている精神に内在する筈の理性と信仰の真理が異なるとは、或る範囲には認めるにしても、両者の間に異相として浮かび上がるのは矛盾対立ではなく、主張の差異に過ぎないと述べます。トマス・アクィナスはアヴェロエスの主張するアリストテレス形而上学を逆盾として「二重真理説」に回答します。選択された人間が受ける神の啓示によって與えられるものは神学的真理であり、「超理性的」とされているが、其れも「反理性的」なものではない。「神の理性」、此処では「人格神」ではなく「絶対存在」としての「神」を指し示しています。其の絶対理性は哲学における世界理法と異なることはないとの表現の違いこそあれ矛盾対立ではなく、言語的な差異に過ぎないと述べます。それ故に、トマス・アクィナスは「神学」こそが真理の頂点にあり、哲学は真理を経験主義的な真理で人間に納得させる道具であり、哲学が「神学」の真理を傷つけることはあり得ないと確信しています。仮に人間が肉体のみならず、精神取り分け内精神の理性の奥に潜む理性は「神的意思」の延長物である限り、神の恩寵としての霊魂の不死(Immortality of the soul)が約束されると解しても当たらずと雖も遠からずでしょう。
2015年10月21日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/トマス・アクィナス-13(二百六十四) トマス・アクィナスに思考は結論から言えば、基督教の教義に、アリストテレスの経験主義的であり、哲学的にも純然たる思想を体系化して思想化することにあります。其処で課題となるのが、哲学と神学の関係の明確化、人間の持つ理性と信仰の折り合いです。初期スコラ哲学のノルマンディーのベック修道院(ベネディクト会)の院長1093年にカンタベリーの大司教に任ぜられ,死ぬまでその職にあり、其の思考の検索には「知らんがために信ず」の原則に従っており信仰と理性の動的連関を追求する思索の歴史であったアンセルムス。彼は信仰を超自然的・非理性的に固定すること,また其の逆に自然的理性の中に綴じ込めることの何れをも退けて,神学固有の認識方法を成り立たせます。その立脚するところの対象把握の深さと論証の厳密さとは比類なきもので,時代を超えて今日まで神学の模範とされている人物、其れを後世の アヴェロエス(ラテン語: Averroes) の名でよく知られているスペインのコルドバ生まれの哲学者(1126年 - 1198年)によるアラブ・イスラム世界におけるアリストテレスの注釈者として有名を馳せ、更に医学百科事典を著した人物の「理性の真理と信仰の真理」とが屡々矛盾することが指摘される「二重真理説」をまえにして、トマス・アクィナスはかってのようには、理性と信仰の一致思考を捨て去ります。
2015年10月19日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/トマス・アクィナス-12(二百六十三) 神学の完成者と目されるトマス・アクィナスの著作は凡そ4種類、何と言っても師匠アルベルトゥスの取り組んだアリストテレスに関するものが、彼の「分析論後書」「ニコマス倫理学」「形而上学」「霊魂論」等に関する注解が際立ちます。第二は、当然の如く旧約聖書に関わる「ヨブ記」「詩篇」等の注解、新約聖書にあっては「マタイ伝」「ヨハネ伝」の注解及び「パウロの書簡」についての講義録があります。此処にトマス・アクィナス自身が最も重視し述べたかった第三の神学体系が登場します。此れには、紀元1095年生誕頃から1160年に没したイタリアの神学者で聖書学者であり聖書釈義の仕事と並行して、キリスト教の教義の全体を聖書および教父,教会の権威ある学者たちの著作にもとづいて簡潔に叙述することを企てた「命題論集」4巻への注解、イスラム教の哲学論破を試みた「護教大全」、自らの思考方法の組織立てから組み上げられた思想体系の、膨大且つ難解な「神学大全」があり、最後の第4の書簡である50種程の小論文は代表作「存在と本質について」は、存在の形而上学、アリストテレスの読解を通し古代ギリシアから中世を経て近代に至る存在論、ひいては西洋哲学全体の読み直し、「時間と存在」の歴史的考察の基盤とドイツの哲学者マルティン・ハイデッガーの「ものが存在するとはどういうことか」というアリストテレス形而上学以来の問題を先取りした「ZAIN」としての作動因にも言及しており興味深いものがあります。何れにしても其れまでの哲学と神学の相容れない不融状態を統合し、人間霊魂の救済の道を開示したのは彼の業績です。
2015年10月18日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/トマス・アクィナス-11(二百六十二) アリストテレスの経験主義的哲学・マニ教の善悪二元論・グノーシス派の宇宙の起源を追及する思想を正統派教会は異端と決めつけますが、其の禁書を読み解析する人物トマス・アクィナスは、其の危機的状況の中で独自の思想展開を試みます。基督教が最も畏怖した「二重真理説」を、アリストテレスの学説を基督教に合致するよに適合させ、キリスト教神学に取り込ませようとした師である大アルベルトゥス・全領野にわたる博識のゆえに全科博士と称される非凡な博識さゆえアルベルトゥスの知識の羅列から、その思想を発展させて統合化に取り組みます。トマス・アクィナスの思考は天性の体系化としての素養があり、アルベルトゥスの多くの著作を自らの解釈から大体系に纏め上げます。アウグスティヌス(紀元354~430年)初期キリスト教の西方教会最大の教父で、正統的信仰教義の完成を成し遂げた人物、青年期には事もあろうにゾロアスターの流れを汲むマニ教を信奉し、次いで新プラトン学派哲学に傾倒、32歳でキリスト教に回心。異端・異教との論争の中で、神の恩寵のみによる救いと教会の絶対性を著す著「告白録」「神の国」「三位一体論」を叙します。其の経験主義的哲学傾向の強いアリストテレスとアウグスティヌスの正統的信仰教義を融合させることを成し遂げんとしたのがトマス・アクィナスで彼にあっては矛盾なしに完成したと肯んじています。
2015年10月17日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/トマス・アクィナス-10(二百六十一) トマス・アクィナスの師、世俗的学問に関してはアリストテレスが最善の教師であると確信したアルベルトス・マグナスの彼への影響を見逃すわけにはいけません。アリストテレスの経験主義的哲学は当時の正統派教会にとっては、マニ教及びグノーシス派、キリスト教の教義は大きく別けて二つある。天地創造の物語と、イエスの言行録の解釈をめぐる争いです。キリスト教が広がりを見せていた2から3世紀の時代、異端視されながらもその勢力を拡大し続けた神秘思想グノーシス派です、天地創造を正統派教会の書が「旧約聖書」とするのに対して、グノーシス派の書は「旧約外典」とも呼称されます。イエスの言行録は、正統派が「新約聖書」で、グノーシス派が「新約外典」であり、正統派教会からは異端視されますが、其の一方では、宇宙の真理を追及する思想という興味深い一面も持ち合わせています。それを正統派教会はグノーシス主義、神を憎むべき対象とした思想であると決めつけます。本来的にはグノーシス主義とは決して、神の存在を否定しているわけでは無いのですが、キリスト教における神の位置づけとグノーシス主義における神の位置づけは異なっています。正統派教会の中には基督の言葉及び奇跡の解釈のみを扱うのに対して、「知識」という意味を持つグノーシス主義は「イエス・キリスト」の本体である神の位置づけを異にしているから弾圧を受けることになります。
2015年10月16日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/トマス・アクィナス-9(二百六十) トマス・アクィナスは、別名アルビジョワ派とも呼称される南フランスのアルビ地方に多くの信者を抱えた「現世否定」を標榜するゾロアスター教の流れにあるカタリ派の教えに帰順する人々に剣によらず村から村を巡って説教やロザリオの祈りをなし、清貧に甘んじる者の実践を示し、この世の全てはサタン(悪魔)によって創造されたものであり、結婚、生殖、現世の生活すべてを罪であると考えた善悪二元論である、此の世の全てはサタン(悪魔)によって創造されたものであり、結婚、生殖、現世の生活すべてを罪であると考え、禁欲的な生活を送ることこそが天国である彼の世に近づく最善の方法であるとした菜食主義者で卵やミルクも口にしなかったカタリ派をバチカンの支援のもと説得します。此処にはもはや哲学者としての思考方法は失われて信教が表立ちます。まして、グノーシス派を完全否定するに至っては絶対理法と絶対意識及び絶対意思の存在を人格化することになります。霊性の象徴である神を捉えるのには霊魂が不可欠であり取捨選択を絶対理法に関わらず、人格神に委ねるところが神学哲学の限界かもしれません。但し、後世に此の解決を試みる「エチカ」の著作で知られるスピノザが現出します。
2015年10月15日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/トマス・アクィナス-8(二百五十九) 西欧は中世の十字軍と都市の発展の時代にトマス・アクィナスは、社会的背景として教会の封建化の構造化、都市の発達による交通の自由、十字軍による東西の交流によって、東方の異端ボゴミル派の支脈であり、サーサーン朝ペルシャのマニ(紀元216年-276年或いは277年)を開祖とする二元論的な宗教で、初期キリスト教の時代にはキリスト教の最大のライバルであった「マニ教( 摩尼教/Manichaeism)」。初期キリスト教の時代にはライバルであったばかりではなく、中世においてもその影響力は衰えることなく、キリスト教世界の中に生き続けてさまざまの集団を形成し、ペルシャ発祥だから当然にペルシャの国教であったゾロアスター教の流れはにありますが、キリスト教や近隣の宗教や思想のとの関わりにおいて発展し、厳しいけれど非常に精神性に富んだ宗教として多くの人々に迎えられ、やがてオリエントからエジプト、中央アジアから中国にまで一大勢力となります。トマス・アクィナスはバチカンが危機を感ずる特に12世紀初めに現れた東方の異端ボゴミル派の支脈、善悪二元論を教えるカタリ派の教えに帰順する人々に剣(つるぎ)によらず村から村を巡って説教やロザリオの祈りをなし、「清貧に甘んじるキリスト教徒」として托鉢によって基督の根本教義である手本を人々に示します。そこには、哲学・神学だけではなく実践のトマス・アクィナスを見い出します。
2015年10月14日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/トマス・アクィナス-7(二百五十八) 南イタリアはロンバルディアの貴族の子として生まれ、モンテ・カシノ修道院(Monte Cassino monasterium)の院長であった伯父の跡を継がそうとする両親によって5歳にして修道院に入れられた両親が、清貧に甘んじるドミニコの「説教者修道会」への入会を決意、両親にしてみれば、穏便にモンテ・カシノ修道院との院長であった伯父の跡を継がそうとしていたから困惑し、豈図らんや、事もあろうにアクィナスが最も不自由していたであろうもの、女性を充てがうことに決め、彼を無理やり修道院から生家である生家の豪邸に連れ戻し、しかも軟禁状態にしておいた上で高級娼婦に巡りあわせます。しかし、決意堅きトマス・アクィナスはイタリア・ナポリからドイツのケルンへの旅路につき人生の門出へ向かいます。その地のドミニコ大学院で、人物神学の研究と教育のためには、世界と人間に関する学、すなわち哲学が不可欠であり、そしてこのような世俗的学問に関してはアリストテレスが最善の教師であると確信した人物アルベルトス・マグナス(Albertus Magnus/1200?―1280)に師事し、1,260年にはドミニコ会のナポリ総会によって全修道会説教家の地位を得て、神学教授としてパリ大学に赴きますが、1,272年にはナポリ大学に呼び戻され、生涯をナポリ大学での活動に捧げています。ドイツの神学者でありスコラ学者並びに自然学者。ドミニコ会士で聖人。その名は大アルベルトゥスと称される学の全領野にわたる博識のゆえに全科博士(Doctor universalis)とも尊称される人物との出会いがトマス・アクィナスに不朽の名声を欲するまでもなく与えます。
2015年10月13日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/トマス・アクィナス-6(二百五十七) 修道士には屡々見られる自らを鞭打つために全身紫色に染まっていたトマス・アクィナスが光明を見い出したのは地下の図書室の棚にあった「禁書」ドミニコ会の教えを記した書物です。正式名称は「説教者修道会」(Ordo fratrum Praedicatorum) とは1216年に教皇ホノリウス3世の認可の下に 「ドミニック(Dominique)」という歌で1965年頃ヒットしたテンポがいい歌でも知られる、西欧中世の十字軍と都市の発展の時代にスペインに生まれ、南フランスで善悪二元論を教えるカタリ派の人々にキリストの福音を説こうと村から村を巡って説教やロザリオの祈りをなし、「貧しいキリスト教徒」として托鉢によって清貧の手本を人々に示したドミニクスによって創立された修道会で正式会名は「説教者会修道会」であり、フランシスコ会とともに托鉢修道会とも呼称されますが、トマス・アクィナスは、後にベルナール・ギーをはじめとする冷酷かつ、見方によれば非常に優秀な異端審問官をやからを輩出した程、厳格で神学研究と三誓願、従順・清貧・貞潔を掲げ、其の極端な教えがローマ・カトリック教会から見れば煙たかった故に「禁書」とされていたものに、彼は其の魅惑的な背徳感を覚えるに反して書物を手に取り、目眩く思いでページを繰づり、その中の一枚の挿絵に惹かれます。燃え盛る炎・其処に聳える三つの十字架、加えて其の凄まじい苦悶の表情。その描写臨場感にあふれ、肉の焦げる音や、群集の叫びが聞こえてくるようだと感応したのでしょう。これまで散々自分を理不尽に痛めつけた誰やかれやの顔を思い浮かべ、それを十字架の上に据えるのを想像すると、アクィナスの顔は今は綻び、心は得も言われぬ恍惚感に満たされ、そこで彼はドミニコ行こうと決心します。
2015年10月12日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/トマス・アクィナス-5(二百五十六) トマス・アクィナスの生涯は、南イタリアはロンバルディアの貴族の子として紀元1225年頃生まれ、モンテ・カシノ修道院(Monte Cassino monasterium)の院長であった伯父の跡を継がそうとする両親によって5歳にして修道院に入れられますが、トマスにとり本人の意思は別にあったようです。其れは「母上様、お元気ですか、ゆうべ杉のこずえに明るく光る星一つ見つけました」の記録が残っている手紙(ふみ)からも読み取れます。しかし、トマス・アクィナスは親元を離れた寂しさ、時には厳しすぎる戒律の息苦しさにも耐えながら、それを自らの鬱屈した感情を学問への熱意に変えて日々刻苦勉励したとあります。毎日のように図書室に通い、鎖が付けられた分厚い書物を読みむさぼり、それらの悉くを記憶し、あとで暗誦して理解を深めたのは頭脳的には秀でた明晰さを持っていたからです。記録ではトマスは毎日の勤めも欠かさず、誰よりも早く、多くの仕事をこなし、夕食後には若い修道士の間で交わされる卑猥な冗談に耳を貸すことさえもなく、自室で神に祈り決まった時間に寝たとあります。修道院からナポリの大学に入ってからも常に模範的修道士として振舞う彼は、青春時代を同様に送る同僚からは、現代人同様に煙たがれがり勉・面白みが無い等の罵声を受けるのは致し方なかったと想像します。其のストレスからか、年齢的には禿げ上がります。此のストレスが彼を増々、人との交わりを避けて地下の図書室に篭もらせ書棚とテーブルの間の往復を除く運動を怠ったためだらしなく太り、日光をほとんど浴びないため青白くなった彼の体は実に醜悪で、不健康な生活を送る負い目から毎夜自ら鞭打ったために全身紫色に染まっていたと記されています。其の試練の中に彼に神の光明が齎らされます。
2015年10月11日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/トマス・アクィナス-4(二百五十五) 日本探偵小説三大奇書に数えらる探偵小説家夢野久作の代表作「ドグラ・マグラ」の原義は、切支丹の伴天連(バテレン)の呪術を指す長崎地方の方言とされたり、「戸惑う、面食らう」や「堂廻り、目くらみ」がなまったものとも説明されているように、どちらかと言えば独断とか教条とか一般には悪くとられることなきにしもあらずですが、カトリックの立ち位置からは、確定した教説としてドグマ(dogma)は理解されます。此のことはトマス・アクィナスの著作「神学大全」の難解さにあるでしょう。彼の思想に取り入れたアリストテレスの経験主義的哲学はソクラテス・プラトンと続く普遍主義とは袂を分かつ現実主義的傾向が見られるからです。其のこと故に、トマス・アクィナスはキリスト本人の「現在・現有」を一般にも確信させる必要に迫られ「神学大全」を書き上げたのでしょう。誰もがイエスの生存していたことは疑いを差し挟むことはないのですが、キリストが妄想か現実かを解き明かすためにはアリストテレスの現実主義的傾向の経験主義的哲学は取り入れざるを得ない思考方法でした。
2015年10月10日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/トマス・アクィナス-3(二百五十四) トマス・アクィナスの属する思考法は、スコラ学派ラテン語では「scholasticus(学校に属するもの)」に由来する言葉で、11世紀以降に主として西方教会のキリスト教神学者・哲学者などの学者たちによって確立された学問の思考方法を言います。此のコラ学の方法論にのっとった学問の中の哲学・神学を「神学大全」として完成させたのがトマス・アクィナスです。スコラ哲学の中核は理性的認識と宗教的真理を補完的調和にもたらすことにあり、アリストテレスの経験主義的哲学をキリスト教の教義に取り入れることは思考法的には合理的です。しかし其の中にもプラトンの「イデア)論における普遍的真理の思想の影響は見逃せません。また、トマス・アクィナスの哲学もカトリック神学の歴史の中では論理的であり正当と看做されますが、一方では寧ろ、或る意味、ドグマ(dogma)「独断と訳されることもあるが、本来はキリスト教の教理で、人間の救済のために神から示された真理」として、教会によって神的権威を与えられた信仰箇条からなるものを意味するものの筈なのですが、ストア派のドグマは論理哲学の面からは信教に阿る独断と偏見の思考だとも批判されることもあります。其れは思考方法の集大成とされる「神学大全」の難解さにも端を発しているのでしょう。
2015年10月09日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/トマス・アクィナス-2(二百五十三) 中世カトリック教会きっての最大の哲学者にして神学者とされるトマス・アクィナスの哲学を、一言で決めつければ、アリストテレスの経験主義的な哲学をキリスト教の教義に取り込んだ、其の最初の人物だといえます。カトリック神学の歴史の中で、アリストテレスを真に深く理解し、それを前面に押し出したのがトマス・アクィナス其の人なのです。当時までのキリスト教神学は新プラトン主義的傾向を帯びており経験主義的ではなく抽象的側面が多数派を占め決定的な論理は確立していませんでした。其れをトマス・アクィナスはアリストテレスに準拠することにより、神学から曖昧模糊とした部分を抜き去り、学問的な思考の基礎の上に立たせようとしたのです。彼の主張するところの基底には、スンマ(大全)と呼称される著作形式、スコラ哲学においては総合を意味し、神学上の主要問題について教父たちの思想を整理,体系化したものであって、 12世紀に多くに書かれた中世ヨーロッパの神学者かつ哲学者でもあり、1093年の誕生から亡くなるまで カンタベリー大司教の座にあった人物。カトリック教会では聖人と称され、日本のカトリック教会ではカンタベリーの聖アンセルモ、聖アンセルモ司教教会博士とも呼ばれるアンセルムスによって始められた命題集を意味しますが、其の影響は後世のスピノザにも其の影響は見られます。然し乍ら、スンマ(大全)と呼称される著作形式は神学の中でもカトリックに興味のない者には難解であり興味深いものとは成り得ませんでした。
2015年10月08日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/トマス・アクィナス-1(二百五十二) 新旧問わず聖書では「初めに言葉ありき」の語句の如く、世界は言葉によって造られたるものとされますが、此の言葉は、大宇宙の実質が「一」の絶対的な想念を言葉という形式で表顕しているに過ぎないと考えます。人間は神ではない以上、絶対的な想念を言葉としては表現しようがありません。此のキリスト教的な矛盾点をアリストテレスの哲学に結び付け、カトリック教会の正統派哲学を構築したのが、公同的博士(Dr Commuunis)・天使的博士(Dr Engelicus)・スコラ哲学の頭(Princeps Scholae)と称せられる「神学大全」を著したトマス・アクィナス (Thomas Aquinas/AD:1225頃-1274)です。彼はイタリアの神学者、哲学者でありシチリア王国出身のドミニコ会士でした。更には、カトリック教会の33人の教会博士のうちの一人ではありながらも他から抜きん出た存在でカトリック教会の正統派の神学哲学者たちは自らをトミスト(トマス主義者)と呼称する程に敬愛され、聖者として礼拝までされ存在であり、神学哲学の分野においては、最大の哲学者とされています。
2015年10月07日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/アリストテレス-47(二百五十一) プラトンのいう世界の普遍の法則である「イデア」、アリストテレスの主張するところの自然物、特に人間をとりあげれば運動及び静止を個々に持つ原理、即ち其の内在するものこそが真実在とした霊魂観、一般の思考からすれば、信教を持つ人間はともあれ、物質世界の科学が進み外感覚を理解していると考える現代人には、アリストテレスの主張するところの自然物論が取り込み易いことは歪めません。だが、人間が外感覚でとらえた個物を認識するときは真赤なバラとは言ってみたものの、真赤なバラは幾種類もあるし、個物ではなく個物一般です。此のことは、個物が常にプラトンのいう世界の普遍の法則「イデア」的側面を持つことを意味します。人間の思考は個物の感覚的知覚から出発して、一般的概念といわれるものを無意識に構築しています。しかし、真の存在者とは個別的論理・普遍的論理とを統合した存在であり絶対的論理の保有者として「有る」ものです。其れ故に、両者の思考が全く相反しているとも云えなく弁証法的に捉えて其の統合を図るのが学問的には正しい思考法だといえます。
2015年10月06日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/アリストテレス-46(二百五十) プラトンのいう世界の普遍の法則、アリストテレスの主張するところの自然物が運動及び静止を個々に持つ原理は霊魂観に顕著な相違が浮かび上がります。プラトンの立場にたてば人間の通常の感覚では捉え切れない存在有があり、人間霊魂は不滅にしても其の人間の外感覚では捉え切れない絶対意識である霊魂に統合され不滅ではあっても最早自己意識は消滅します。片や、アリストテレスの主張する自然物が運動及び静止を相伴に持って人間も此れに類するならばアリストテレスの説く霊魂は不滅ではあっても、絶対霊性を持つ筈もなく輪廻転生を繰り返すこととなります。然し乍ら、人間精神の内奥の感性は、個物の感性から始まり一般的概念を形成しています。それ故、信教及び神秘学を除けば、真の存在者とはプラトンの主張と伴にアリストテレスの云う霊魂は不滅ではあっても、絶対霊性を持つ筈もなく輪廻転生を繰り返すことにも一方的には切り捨てることは、未だに解決されていない問題であり、科学が神の域に至った時に初めて理解されることです。勿論のこと、其の時点で人間は世界創作の神と成り得ています。
2015年10月05日
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思考と直覚」人間の霊魂を思考/アリストテレス-45(二百四十九) アリストテレスの主張するところの自然物が運動及び静止を相伴に持っている原理とは、自然物は其れ自身の目的を持ち、凡そ他のものに妨害されないかぎりは目的に向かって運動すると唱えます。此処にプラトンの感覚的個物を離れた新実在を求める思考であるイデア論と感覚的個物こそが真実在とする顕著な相違が表面化します。プラトンの感覚的個物を離れた真の実在を認めるならば、汎ゆる存在には人間の外感覚では捉えられない普遍の法則が厳然として有ることになり、アリストテレスの主張する自然物が運動及び静止を相伴に持っているとするならばプラトンのいう普遍の法則は隠され、人間が思考経験をするものだけが真実となりますが、アリストテレスが至高の存在を否定しない以上矛盾していると捉えかねません。星の世界で成り立っているこの全宇宙は一つであり、それは同じき実質で造られ、同じき力で動かされ、同じき物理的法則で支配される唯一つの体系であり唯一つの法則であると思惟すれば唯一つの不可分の宇宙が浮かび上がり、アリストテレスの主張するところの自然物が運動及び静止を個々に持つ原理は崩壊します。
2015年10月04日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/アリストテレス-44(二百四十八) アリストテレスの思考に政治学は師のプラトン譲りの人間をポリス的動物即ち社会的動物と認識し、ロビンソンクルーソー(Robinson Crusoe)的な独孤の生活を否定します。彼の脳裏には国家を離れての人間は倫理を持たないし、倫理学も育たないとしています。然し乍ら、この実践哲学の立場に立つと倫理は社会から齎されるものとなり、其の人間の素養は無視されかねません。其の倫理学のアリストテレスの晩年の著作とされる大著「ニコマコス倫理学」は、日本の貝原益軒を彷彿とさせる、倫理に関する常識的な記述が大半を占めており、いわば経験主義的道徳論に過ぎないものと言えます。但し、アリストテレスが発した「一羽の燕は春を成さず、また一日のみでも春を成さない、其のように、僅か一日や短時日で人を祝福された幸せ者にすることは出来ない」と述べ、人間の幸福を人間の奥深くに潜む精神の深層に眠る霊魂よりも社会生活を規律する国家の重要性を説いています。殊政治学に関してはアリストテレスの思考はギリシァ古来の都市国家(ポリス)の域を出ず、弟子のアレクサンダー大王の思考との相違が顕著に現れています。但し、両者に共通するのは人間の精神内の心の在り様を理解し、信仰を否定はしなかったことです。
2015年10月03日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/アリストテレス-43(二百四十七) アリストテレスの目的論的自然観、特に秀でた生物学観、主として動物学であったものも、辛うじて、其の研究は、アリストテレスの次にリュケイオンの学頭を務めたアリストテレスの同僚であり友人、逍遙学派の主要人物の一人、アリストテレスの次にリュケイオンの学頭を務めたテオプラストスが植物学研究になって受け継がれてはいますが、その後は立ち消えとなり現在に至っても目的論的自然観の生物学の研究は不十分だと言わざるを得なく、其の評価も十分なものを得ていません。アリストテレスの目的論的自然観が再び脚光を浴びることとなったのは、皮肉にも、生物学観ではなく、13世紀のキリスト教アリストテレス主義の、アリストテレスが最も力を入れた生物学ではなく、其の反動的だともいえる天文学でした。勿論、アリストテレスの天文学は評価されるに充分な価値を秘めており、紀元後83年から死没168年の中世のアラビア語の文献では、エジプト南部に出自を持ち、上エジプトの出身者であるとされプトレマイオス、「アルマゲスト」の著者として知られる古代ローマの天文学者、数学者、地理学者、占星術師であり、エジプトのアレクサンドリアで活躍した人物、アリストテレスやヒッパルコスなど、それ以前の古代ギリシアの天文学の集大成をを成し遂げ、以後永く定説とされる地球が宇宙の中心にあり、太陽やその他の惑星が地球の周りを回るという天動説を定着化したクラウディオス・プトレマイオスに引き継がれます。然し乍ら、此れが権威ある宇宙観とされケプラーやガリレオの苦渋を生みます。但し、現代でもプトレマイオスが「ハルモニア論」第3巻後半で論じた死すべきものども、その中でもとりわけ人間が判別するハルモニアを論じることから離れて、完全なる調和の世界である天上の世界で奏でられている調和の音楽「宇宙の諧調」を解き明かそうとしたことを支持する人間がいること、「霊魂の世界の音楽」を説いたことには意味深長な解釈が出来そうです。
2015年10月02日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/アリストテレス-42(二百四十六) アリストテレスの霊魂観とは一体どのような理論に基礎づけられているのかを理解するには、師プラトンの霊魂の捉え方と比較すれば其の思考の基底が容易に現出します。プラトンの思想の基底には、科学的には未発達の時代にあっては、自ら運動するものが即ち「霊魂」と捉えられ、「動くものが」霊魂だと述べます。プラトンの霊魂観とアリストテレスの霊魂観との相違が此処で顕著に表れているのが此の点です。対照的にアリストテレスの霊魂観は、プラトンが自ら運動するものが即ち「霊魂」と捉えるのに対し、その全ての自ら運動するものを「動かすもの」と「動かされるもの」に厳密に区別して、動物については「動かされるもの」である肉体各部分を備えた身体からは離れた「動かすもの」を霊魂と呼称しています。プラトンの動くものが霊魂とする思考と動かすものが霊魂だとするアリストテレスが定義する霊魂観は、神秘学及び神学や宇宙摂理に此の相違が顕現します。例えば天文学を取り上げれば、アリストテレスが定義する動かされる天体と此れを動かす存在を有する筈の個々各々の背景に持つ霊魂ではなく、此の壮大な大世界を動かす存在が必須となり「宇宙霊魂」或いは「不動の動者」としての「絶対意思」或いは「神」が浮上します。此処にプラトンの科学・経験主義的天文学とアリストテレスの天文学的には不可知論が芽生えています。
2015年10月01日
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