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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ルネ・デカルト-11(二百九十六) 17世紀のフランス・オランダでさえ、もはやルネ・デカルトにとって安住の地ではなくなり、当時のジェスイット派の学院の採用していた、即ち、アリストテレスの流れをくむスコラ哲学の公認教科書を批判する書をもって論破せんと両者に立ち向かいます。然しながら、彼の輻輳した性癖が頭を擡げ、其の批判行動を隠蔽するかのようにジェスイット派の学院の教科書を著述、彼の第三の書「哲学の原理」を書き、敵に手を差し伸べますが、ことは彼の意図のままにはいかず、「哲学の原理」其のものもまたジェスイットの論難攻撃の晒しものとされる始末です。此処に至って、ルネ・デカルトはフランス・オランダは安住の地どころか嫌悪の地と化します。おりもおり、スエーデンの女王クリスチナの招聘があり、一応は躊躇う姿勢を見せますが、極寒の冬を迎えるグスタフ・アドルフの娘に身を任せます。其の翌年1650年の2月に肺炎が彼を遅い生命を絶たれます。その後も生前の放浪者宜しく彼の遺骸は各地を変遷、終いには変えの頭蓋まで盗まれ、転々とした後1922年には、フランスの博物学者であり、比較解剖学の大立て者、古生物学にも大きな足跡を残したジョルジュ・キュヴィエ(Baron Georges Léopold Chrétien Frédéric Dagobert Cuvier/1769年8月23日-1832年5月13日)によってパリ自然博物館に、1822年寄贈され皮肉にも、現代まで空想的社会主義者サン・シモンのとなり、稀代の大泥棒カルトッシュの頭蓋骨とはやや離れるものの陳列されることになります。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2015年11月30日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ルネ・デカルト-10(二百九十五) 自己の信条を世に隠蔽きた筈のして来た筈のルネ・デカルトでしたが、匿名で公刊された「方法序説」も人の口には戸が立てられぬとて、其の内容が知れ渡り、16世紀にイグナティウス・デ・ロヨラによって創立されたイエズス会の開祖の教会一派のジェスイット(Jesuit/和名:耶蘇会)の攻撃・非難が集中します。其の開祖イグナティウス・デ・ロヨラ(Inigo Oinaz Loiola)は「私はいつでも,自分の欲するときに神を見いだすことができる、身体が進み・歩き・走ることで訓練されるように、意志も訓練によって神意を見いだしうる」と述べている程ですから、デカルトの自然論的思想より其の形而上学的思考論に無神論を嗅ぎつけ、彼は自己の中心思想の自然論から否応なく引き離されて、あまり気の進まぬ形而上学「省察」をもって反撃せざるを得ない立場に追い込まれます。其の時も、彼は友人に書簡に、口外しないことを頼んでいます。ジェスイットに加えて更なる強敵アリストテレスに繋がるスコラ学派がデカルトの原理が読者に浸透する前に、アリストテレスの基底を破壊することに氣づき更なる敵を迎えることになるからです。然しながら、彼の意向は其の地オランダでさえ叶えられる筈もなくエトレヒト大学により無神論のかどをもってデカルトを論難し、此の地においてデカルトの著作はおろか名さえ口にすることを禁止しています。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2015年11月29日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ルネ・デカルト-9(二百九十四) ルネ・デカルトの歴史上の圧政に屈せず死をもって戦った哲人に比して、あまりにも、用心深く怯者の振る舞いをしているとも思えます。然しながら、彼の思考の真意はは名を惜しむのではなく思想の温存でした。彼流の皮肉的口調で云えば、スペインの作家ミゲル・デ・セルバンテスの小説ドンキホーテ(Don Quijote)の勇気はいらざるものであるとする見解です。彼は世間からは一歩退き自己の信条を世に隠蔽してでもを貫く方針を図ります。其の隠忍の中で現れたのが1637年に匿名で公刊された「方法序説」、其の内容は極めて慎ましやかに自己の思考の閲歴を綴り、世に公認された正教、絶対王政にも忠実な、自己の分を弁(わき)まえた謙遜的な体裁を表現上は見せながら、巧みに世の思想の原理自体を私的思考をもって変革しようとするものでした。此のことは、彼の弱者の怯えの現れと取るよりも、何よりも、自己の信条とする考察を世に知らしめる意思を感じさせます。このあたりが、デカルト思想の好嫌を思想は兎も角も嫌う人がいるのが肯けられます。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2015年11月28日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ルネ・デカルト-8(二百九十三) パヴァリア公のカトリック軍に従軍、ドイツ自由都市共和制の衰亡を心に焼き付け、その後も、仏蘭西・伊太利・阿蘭陀を転々としています。其処にはルネ・デカルトの目指す一切の強制にない独立した真の世界の自然法の把握と解明にぞこの思考を傾けたことが読み取れます。其の頃の彼は、只管に名声を避け、身を隠遁して独学に励んでいますが、何が彼を其処に追い込むのか。其れは自己の方向付けされた思考の構想が、世界観、とりわけ其の中の自然観が、社会形成の変革を起こすことを予感、其の基本的実相を次第に立ち込めるつつある絶対王政並びに宗教権威にとり、如何に都合の悪い思想であり憎悪の対象になることを予期し、自己の思考を打ち壊されないために、只管に、隠忍自重の隠遁生活を敢えてして時期を伺います。物理や天文の研究に関しては天才的ではあったものの、政治や人間関係に関しては不得手で素朴な考え方をしていたガリレイはデカルト同様に世事的にはうまく立ち回れず、次第に敵を増やす形になってしまいます、ついには彼のことを快く思わない者によって、彼の支持した地動説を口実にして異端審問で追及されるように追い込まれたり、職を失ったり、軟禁状態での生活を送ることにまで追い込まれます。。職を失い経済的に苦境に立たされ齢も重ねたガリレオは病気がちになった。これを知ったルネ・デカルトは、自身も『宇宙論(世界論)』の公刊を断念してしまったです。此のことは、史上著名な宗教家や思想家が自己の思考を書き留めなかった一因にもなったでしょう。何れにしても1633年のガリレオ・ガリレイの処刑(所謂死刑ではなく自宅軟禁)前には完成されていた筈の「世界論」の公表は成されていません。彼の言動「私は殆んど決心して原稿を焼くか見せまいとした」に彼の処世術の一端が垣間見えます。彼は社会生活の一員として家族が居り、総てのしがらみを切る宗教・哲学の世祖ではない由縁であり、現実型哲学者の呼称も許されるでしょう。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2015年11月27日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ルネ・デカルト-7(二百九十二) ポアチエ大学で法学士の資格を得、社会的地位をえる法曹界に進む道の展望が開けた筈のルネ・デカルトでしたが、書物のなかから知識をもはや得ようとはせず,自ら社会という荒波のなかに飛び込むことによって、体験を以って学ぼうとします。此時の彼の心情は伝統的学問に対して否定的な反逆児でした。その後の彼は思想ではなく自然学を探求しています。22歳になる頃に、ドイツの三十年戦争によって挑発された西欧列国が其れ其れの思惑絡みで此の動乱に介入した時には、彼はパヴァリア公のカトリック軍に従軍、ドイツ自由都市共和制の衰亡を心に焼き付けます。その間に自ら哲学思考の基底として望むところのブレダの数学者と邂逅し彼の数学嗜好が高まります。其の間の心境は「教師から教えられる年代を過ぎると,僕は本を読んで学ぶことをすっかりやめた。そして自分自身や,世界という膨大な書物のなかからしか見つけることのできない知識を追求しようと決心した。僕の残りの青春を宮廷や軍隊を知り,さまざまな性格や条件をもった人々と交流し,多くの経験を積み,それらの出会いを自ら幸福であると思い,自分が本当に利用することができると思えるものについて考察することに費やそうと決心した。」に全てが言い尽くされています。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2015年11月26日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ルネ・デカルト-6(二百九十一) ラ・フレーシュでの学校生活で学んだものに、後にルネ・デカルトは歴史・哲学については其の内容を手厳しく批判しています。とりわけ、哲学については、なにごとにつけてもまことしやかに語って、浅学の者から嘆賞をうける術を授けてくれると、ペルシア戦争(紀元前492年-紀元前449年)の後からペロポネソス戦争(紀元前431年-紀元前404年)頃に、主にギリシアのアテナイを中心に活動した、金銭を受け取って徳を教えるとされた弁論家ソフィストを皮肉るように侮蔑し、加えて、「数世紀このかた最も優れたと称される人達によって開拓されてきた筈のものにもかかわらず,論争の余地のない,したがって疑わしくないものは未だひとつとしてない」とさえ述べています。其のことがあって、彼は学院では数学を中心とする自然科学に何よりも期待をよせ、数学は推論が確実で明白だからと思考の基底に置くことを期します。1614年ラ・フレーシュ学院卒業後には、1616年ポアチエ大学で法学士の資格を得て社会的地位をえる法曹界に進む道を選びます。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2015年11月25日
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2015年11月24日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ルネ・デカルト-5(二百九十) ルネ・デカルトの輻輳したとも云える複雑な思考癖は彼の前半生の境涯を探求すべきです。ルネ・デカルトは祖父が医者、父はブルターニュ高等法院評定官でしたが、生母ジェンヌはデカルトが生まれた翌年に5人目の子供の出産後に亡くなっています。其の後は母方の祖母によって育てられます。其の頃、官職販売が広く普及していた仏蘭西で蓄財した家庭によって家族が称号と領地を手に入れ、父が法曹界で職を得ています。其の環境下、彼はジェスイット教団が経営する名門ラ・フレーシュ校に1604年に8歳で入学、文法クラス3年・人文クラス2年・修辞クラス1年・哲学クラス1年を履修したが、のちにこのとき学んだ歴史・哲学については、手厳しい批判を加えているように、中世を代表する思考方法「スコラ学」は、もはや、不要のものに化しているとの確信を得て学院を卒業しています。このときに学んだ歴史・哲学については、手厳しい批判を加え、その歴史の考察については「過去の世紀の出来事にあまりにも興味を持ち過ぎていて、現代の出来事に極めて無知になってしまう」と嘆き、哲学については「まことしやかには語るも、浅学の者から賞嘆をうける術を授けてくれる術」と皮肉るとともに、「数世紀このかたもっとも優れた人たちによって開拓されてきたものにもかかわらず,論争の余地のない,したがって疑わしくないものはまだひとつとしてない」とも述べ。彼の真骨頂の懐疑論が芽吹きます。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2015年11月24日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ルネ・デカルト-4(二百八十九) 14世紀頃からイタリアに始まり、16世紀には西欧に絢爛と花開いたルネサンス期も、17世紀の初頭には権力層の度々の弾圧にも屈せず全ヨーロッパに波及した農民戦争と、其れに歩調を合わせるかのように誕生発展してきたのにフィレンツェ(Florence)に代表される自由都市共和制も、連携基盤の弱さもあって挫折しルネサンスの花は萎れます。其の結果、都市部では、市民層の上層に位置される一部の富裕層が自らを貴族な特権的市民と成さしめ、旧勢力の権力層と妥協して下層市民を圧迫、農村部でも同様に富裕な新興市民と地主貴族層との妥協が階級的な闘争である宗教戦争を終わらせ、終わりのゴングを告げます。其のゴングとはナントの勅令であり、押し潰されたルネサンスの廃墟の上に権力を際出せた絶対王政の時代にルネ・デカルトは誕生します。ところが、デカルトは官職販売が広く普及していた仏蘭西で、此の制度を利用した富裕なブルジョアジーの家庭に生を受け、貴族の称号を手に入れます。此の新しい貴族が、高等法院である司法官に多かったために、従来の封建貴族や市民階級を離れた中間的な階層を形成します。デカルトの複層的な性格や思想は此処に準拠しています。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2015年11月23日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ルネ・デカルト-3(二百八十八) ルネ・デカルトといえば其の性状には二面性があり哲学思想史上でも稀有な人物であることが知られています。其の要因には彼の生きた時代趨勢の背景を考慮に入れて判断しなければなりません。だと云えども、反動思想に対する仮面を被る闘士と評されるデカルトの性格は、哲学史上極めて稀な性格であり、同時代のガリレオ・ガリレイや其れに続くコペルニクス等の興学の士とは趣を異にします。ソクラテスの如き生が約束されているにも係わらず毒杯をあおった人間から見れば、思想家としての評価は下がるかもしれませんが、自己の思考と其の真意を残すべく、敢えて、表層の妥協を選択したデカルトの境涯も、人物評価に考慮して彼の思想を読み取ることも是非は無しです。彼の哲学に対する姿勢が評価されるのは、既定の存在とされる外感覚的・物質的な世界の存在其のものの有無を問うところから存在の真相を思考したことにあります。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2015年11月22日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ルネ・デカルト-2(二百八十七) 近世哲学にラテン語でRenatus Des Cartesと書かれ、単にCartesと呼称され彼を信奉する学派、デカルト学派をCartesianと名付けられる程にルネ・デカルトは近世哲学に影響力を与えます。デカルトといえば、誰もが「我思う故に我あり(Cogito ergo sum)」を一度は耳にしたに違いない程の懐疑論、世界そのもの内外を問わず其の存在を疑い、自己の身体を形成する肉体さえも其の存在の真偽に懐疑し、行き着く思考の果てに、其のことを疑う我の意識だけは疑う余地はなく結論、其のことから、「神は死んだ」で有名な虚無主義ニーチェ的な人物を想定すると彼の人物像は理解出来ません。彼は同時代に生きるガリレオ・ガリレイを支持していたことでも知られるが、其のことを明らさまに露骨にさせる程の闘士を現れ出ない、明らかにガリレオ・ガリレイのように圧迫を招くことを注意深く避ける巧妙さも持っていたと想われます。彼は表面には激しさを決して表せない静かな闘士、彼自らの著書「思考手記」を見る通りは社会適応を基本的には重要視し、自らの思考を剥き出しにして戦う闘士ではなく、彼自身の言葉「仮面を付けて登場する」闘士です。
2015年11月21日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ルネ・デカルト-1(二百八十六) トマス・アクィナスは、実在論の立場から普遍は神の知性においては「事物に先だって(ante rem)」存在し、世界の中においては「事物の中に(in re) 」存在し、そして人間の知性においては「事物の後に(post rem )」存在するとしているトマス・アクィナス属するスコラ哲学の批判の先鋒とも云えるのが、トマス・ホッブズ・ジョン・ロック・ロバート・ボイル・ロバート・ボイル達等の反スコラ派の著名人がいますが、中でも、手厳しくスコラ哲学の思考法を非難したのはイギリス経験論の開祖フランシス・ベーコンと並び近世哲学の祖と称せられる、フランスはフランスのサントルのヴァル・ド・ロワール地域に生まれた合理主義哲学の祖とされるルネ・デカルト(René Descartes/1596年-1650年)です。彼に始まる思考方法はゲーリンクス、マールブランシュ、神学哲学に含まれるとする説と協会異端哲学とする批判があり、神学哲学か懐疑・論理哲学なのかは評価の定まらないスピノザ。学者・数学・科学など幅広い分野で活躍した学者・思想家として知られて、更に加えること、政治家でもあり、外交官でもあったフリードリヒ・ニーチェにも影響を与えた人物であるライプニッツに行き着きます。然しながら、英国を除く仏蘭西・独逸・阿蘭陀で継承展開されたので大陸合理論と呼称されますが、内的思考法には種々様々なものがあり一括りする訳にはまいりません。
2015年11月20日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/トマス・アクィナス-34(二百八十五) 希臘アリストテレスからトマス・アクィナスへと流れる霊魂観は、人間精神の理性の奥底に存し、其の霊魂存在が重力を離れては物理的制約を離れて不滅だとするも、其の根拠をアリストテレスは世界内存在の根本的原理を理法に求め、トマス・アクィナスは世界内存在を超えた理法の創造者に帰しています。然しながら、時代が進むに連れ、人間の性(さが)の追求、人間の認識論を経験論にまで押し進め、更には、目的論的な人間の思考を放逐し、無機的な機械原理を哲学体型に導入するデカルトが出現します。但し、其の思考は万物は人間の身体はもちろん,魂をも含めて,一切,原子とその運動に由来すると考えたフランスの哲学者・数学者・自然学者。機械論的自然学の体系化,幾何学と代数学の総合に努め,それらの基礎づけとしてスコラ哲学にかわる新しい形而上学を構想を自らの論理に取り入れたデカルトの思考により人間の精神を神から断ち切られます。此処において、霊魂の不滅は砕けさる筈でしたが、デカルトの思想からスピノザが其の思考法を数学史観を取り入れて霊魂存在は通じて不滅であると断言することになります。
2015年11月19日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/トマス・アクィナス-33(二百八十四) トマス・アクィナスが純粋哲学でなく神学哲学であることに気付かされるのは、人間の社会的行為に関する彼が骨子とする思想でしょう。彼は現実的な人間の行動、政治活動や経済活動さえ神を起因とすると述べます。其のことを、神は家族・国家等の目的を認識し且つ此れを実現し得るように人間を創造した。それ故に、政治活動や経済活動を、自己及び他者を牽引・導くものは、自己を「第二原因」として、神の摂理に積極的でなければならないとします。トマス・アクィナスの思想の根本を流れる基底には、当然に「神」が在り、「自然法」としての神の被造物、人間一般全てをも含む本性並びに被造物相互の根本関係も、神の理念であり、其のことなしには、被造物相互間の関係は成り立たないし、更に、其れを人類一般の関係にまで昇華させます。此のことから、新旧聖書の他人の生命・身体及び財産・名誉を傷づけてはならないという神学特有の原則に導きます。その思考は階級制・職分にまで及び、神が各々の人間に与えた性向ににより公益に貢献しなければならないと歴史的背景の制約を脱することは成し得ませんでした。当時の降龍し始めた中産階級を最善としますが、偉大な哲学の思考も、信仰遵法を基本とするため矮小化される恐れも無きにしも非ずです。
2015年11月18日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/トマス・アクィナス-32(二百八十三) トマス・アクィナスが正教会から敬われるのは、彼の思想が「世界自体及び世界内の全被造物が神を起因とし、被造物である世界内精神存在のみならず、目的的被造物であれば其のものも神を目的としている」と述べていることがあります。総ての無機質なモノであろうとも一定の方向性を持っているならば神そのものに方向付けされている。詰まりは、自己の方向付けされた運動法則、エネルギー転換、果ては重力子までも方向性は神を目的としている訳となります。然しながら、トマス・アクィナスの事実的思考の認識は其処までは至らずとも、人間の社会一般はおろか、世界を有機体的に捉え、宇宙そのものを生命構造とする思考へと導きます。それ故に、人間の社会形成活動による種々の問題にしても「モノ」の是非善悪は別にして「神を起因とし神に帰す」こととなります。
2015年11月17日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/トマス・アクィナス-31(二百八十二)ヨーロッパ中世の初期にフランク王国のカール大帝(在位768ー814年)がヨーロッパの各地に神学院を建設し、学問の育成に努めたわけですが、スコラ学の名称は、それらの中の神学校の一教授(doctores scholastici)の思考方法に由来するのですが、その後、中世の神学院や大学で研究、教授されている学問が広くスコラ学(scholasticism)と呼称され、スコラ哲学は、その思考方法を哲学の思考に応用したものです。初期におけるスコラ学の思考方法は新プラトン学派の哲学を導入し、信仰と理性の関係を明確に限定、真理は神の啓示(光の光明)としたカンタベリーのアンセルムスが代表する思想が大勢を占めていましたが、後にイスラム世界、当時の世界では並外れた自然科学の知識に接した後は、トマス・アクィナスの頃には経験に基づく、所謂、物質的で外感覚な世界からの影響を神的哲学も否応なしに無視することは出来得ず人間の経験的・科学的な或る意味外感覚世界の認識を思考論として取り入れます。其れを巧みに自らの思考に反映させたのがトマス・アクィナスであって、物質的で外感覚な世界からの影響を認識の門前に据え置く一方で、其の認識の経過において、棄却する経緯を示すことに一応は成功し、科学を神学に従属させます。トマス・アクィナスにとっては科学は神学に服従するものとの立ち位置です。詰まり、科学を認識の感覚として反映を認め、人間其れ其れに大なり小なり違いこそすれ、神の認識の様体としての人間理性、言い換えれば「霊魂」に科学を従属させ、神の認識の後には無用の用の科学は捨て去られるという位階制を説きます。
2015年11月16日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/トマス・アクィナス-30(二百八十一) トマス・アクィナスの感覚から始まり、其の反映を神的理性の様体を反映した人間精神の基底の理性よって知る得べく促されたものを取捨選択し外感覚的なものは棄捨(きしゃ)され「普遍」に至る経過は、トマス・アクィナスの認識論とは切っては切れない関係にあります。人間の思考の認識経過は、個物についての感覚的知覚の反映が先ずあり、次いで、人間の理性にのみ捉えられる種及び類(たぐい)についての普遍的認識は、個物についての感覚的知覚の反映が理性に有用なもののみが選択された後に生じると云うことです。然しながら、「普遍」は元来は「神の理性」即ち「絶対存在」に起因するものであって、あらゆる個物に先んじている存在です。其れ故、トマス・アクィナスの認識論とは「普遍」を認識するための人間の理性にのみ捉えられる思考方法を述べ、世界理法其のものの経緯を説いているのではないことに注意が必要です。然しながら、後世スコラ哲学のトマス・アクイナスの思考方法其のものを徹底して批判する人物が、ガリレオ・ガリレイととき同じくして同様に「普遍」そのものの思考方法を否定します。それが、フランス生まれの哲学者・数学者・合理主義哲学の祖であり、近世哲学の祖として知られるルネ・デカルトです。
2015年11月15日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/トマス・アクィナス-29(二百八十) トマス・アクィナスが思想の骨子となる、一部の特殊な事例を除いては、凡そ人間が神託の一部、神的理性を反映した人間精神の基底の理性よって知る得べく促されたものを、物質世界・感覚世界に探し求める認識論は外感覚要素に影響を受ける反映論は認識の高み歩んだ時点では用済みとされ打ち捨てられます。此のことは、禅宗における「真我への集中」による概念、自我を追求することにより自我を極め、自我が「夢我」であることに目覚め棄捨することにより「無我」の境地を獲得する状況と酷似しています。「無我の我」とは夢幻の自己の「我」の認識により、「普遍の世界理法」を獲得することです。宗教的立ち位置に違いこそあれ、思考論には共通性があります。但し、「普遍」の理解に関しては認識を確定すべく其れ其れの人間が思考して理解すべき課題となります。
2015年11月14日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/トマス・アクィナス-28(二百七十九) トマス・アクィナスの反映論に見る思考方法は、霊魂不滅説の立場を取る神秘主義者にも多くに共通性が見受けられる。人間の生前の肉体が死して滅ぶとき、生前に人間精神の理性の奥底に存在した霊魂は、其の人間が理性を以って認識した自己の霊魂の成長を促すものを取捨選択して自らに取り込み、用済みの人間が成育した精神即ち「自我」は人間の霊魂が神の絶対精神・絶対理性の様体の延長に入る門口の条件として滅却され世界の霊体に合流し、次期の新たな肉体への沈着を待つのと相似しています。トマス・アクィナスの反映論に見る思考は、正常な人間の理性が神的理性の延長の様体として知り得べく促されたものを、外感覚的・物質的な理性を通じて神的理性が其の目的意思に応じて取り込むことになります。トマス・アクィナスの反映論に云う感覚的知覚内容は、人間の理性に対する認識としての独立の立ち位置はなく、霊魂の自我と同様に独立の存在意義は認められす道具として捨て去られる運命にあります。
2015年11月13日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/トマス・アクィナス-27(二百七十八) トマス・アクィナスとっては掲げる反映論は、人間の霊魂が肉体を離れるときに生得した自我をあらかた浄化されるのと同様に、本質的・必然的な認識に続く理性への過程では、最早、物体的対象から受ける感覚を通じて知覚されるとする外感覚的・物質的知覚は障害になるだけ反映論は捨て去られています。人間の純粋理性には反映論は無用の長物と成り果てているからです。理性は外感覚的・物質的知覚の作用を利用するものの其れは可能的理性であって能動的理性ではなく、此の能動的理性が可能的理性から神を起点とする絶対理性の延長の様体である人間精神の基底に付属しているからです。トマス・アクィナスの認識論は精神の根底に隠された神の属性に促され、外感覚的・物質的知世界からの情報を取捨選択し認識に高めるという訳です。其れ故に、人間は神の絶対理性の様体の属性の延長として人間の霊魂が肉体を離れるときに生得した反映論と規定される外感覚的・物質的知覚である可能的理性を「神的理性」に取り込み、反映論、即ち、其の成果は能動的理性へと取り込まれ用済みの外感覚的・物質的知覚得られた受動的・可能的理性は反映論に云う認識の独立的意義が失われ棄捨されるから、トマス・アクィナスの反映論に矛盾はないと説明されます。
2015年11月12日
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「至極の女性」魅惑の極み眼力(めぢから) 伝説的な美貌の女性は幾多あれども、魅惑されるのは美形の象徴のミロのビーナスの感情に欠けた表情ではなく、性を問わず表情の中に美、美の中に情が湧き上がる。絵画・彫刻に見るミロのビーナス・モナリザの微笑・画像の引目鉤鼻(ひきめかぎばな)の平安美人にも心の底から人間の持つ肉体的性状・感性は特殊な性癖を持つ人物を除けば心底から動揺はしません。其処に現実に在って異性を魅了した人間の真相があります。「眼は心の鏡」とは言いますが、九尾の狐(きゅうびのきつね)として、中国神話の生物、九本の尻尾をもつ妖狐とされた狐の妖怪である「妲己」や悪女「褒姒」、絵画・彫刻の世界の美形ではなく、「活きた」美女は異性はおろか同性をも感情を揺り動かします。彼女らは日本の宝塚のトップスターの眼力(めぢから)を発揮する術(すべ)を生れ乍らに授かり知っていました。それらの総てを加味するにしても、ジュリア・ロバーツからは「世界で最も美しい女性」と絶賛されたアイシュワルヤー・ラーイ(Aishwarya_Rai)、純女の眼力はには驚かされます。人気ブログランキングへ
2015年11月11日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/トマス・アクィナス-26(二百七十七) 客観的に正しく是正されにくいものが人間の認識には全く否定的なものとする「先入観(prejudice)」とは、或る特定のものに、予め抱いた情報や自己が初めて接触したときにもった知識が強力に作用し、対象に対して形成される固定的で変化しにくい評価ないし見方をいい、其の性状は極度に好意を抱いているか、反対に極度に嫌悪を抱いている対象と結び付きやすく、一度(ひとたび)先入観が出来上がってしまうと、其の観想を限定し是正すること能わずの状態に人間を縛り、客観的な判断を失わせるため、例えて申せば、「先入観」は人種的偏見などの社会的偏見の多くは肯定するような情報は積極的に集めようとする傾向があり客観的に正しく是正されにくいものからも見て取れます。其れ故に、敢えてトマス・アクィナスが人間の認識は物体的対象から受ける感覚を通じて知覚されるとするトマス・アクィナスを掲げますが、其の真相は人間の深層認識に至る出発点であるに過ぎず捨て去られる運命にあります。
2015年11月10日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/トマス・アクィナス-25(二百七十六) 意外にもトマス・アクィナスの認識論は人間の認識は物体的対象から受ける感覚を通じて知覚されるとする外感覚的・物質的知覚を優先すると述べますが、此の思考は神秘的哲学はおろか、アラビア半島のペルシャ・エジプト・印度圏の神秘的宗教乃至哲学を考慮すると意外に覚えます。正教会最大の神学者として格付けされているトマス・アクィナスが、人間精神を鏡面(ミラー然)と見做し、認識を現実に在る通りに其の精神の鏡に客観的現実を時々刻々に映し出すことと考える反映説、先入観は全く否定的なものであり、先入観は鏡の曇り乃至は其の歪みのようなものであって、逆に人間の認識に対しては正確な反映を妨げる。つまり、正しい認識を妨げるのであって排除しなければならない。然しながら、この考えはわれわれの常識に適っており、素朴であり理解しやすいとするも、反映の対象を現実の外面だけでなく、その構造や本質、法則にまでに拡張するマルクス主義的認識論に陥りかねない思考でもある。反映論という唯物主義に基づく認識は人間の認識活動をあまりに受動的に考えすぎているきらいがあり過ちをもたらす可能性大でもあります。街の喧噪(けんそう)を漠然と聞くのではなく、耳を澄まして其処に或る特定の音、子供の泣き声や 言い争いの声に焦点を絞ることがわれわれには出来得る。人間の精神は外界からの情報を選択していることはないのか。また、反映論は視覚をモデルにしており、嗅覚や触覚では反映とはどの様に捉えるのか自体が理解しずらい問題を抱えています。
2015年11月09日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/トマス・アクィナス-24(二百七十五) トマス・アクィナスが思考の骨子に置く「モノ」の形相とは何を意味するのか、世界自然の中における形相とは、其の中に含まれ人間の精神には隠された「ナニ」かを意味するのか、或いは「形相」には「実体」が伴っているのか、ダイアモンドが燃えにくいのは単に形相から来るのだとしても意味不明で陥弄が待ち構えます。太陽が熱く燃え続けられるのは核融合の形相であり原始のなせるエネルギー発散の技だと答え万人理解できるならば、何もアインシュタインが表舞台に立つことはないでしょう。ウラン235や重量子がエネルギーを出すのが形相こそが本質なのだと説くならば、其のことが納得出来得た時点の諸士は科学を離脱したものの本質に隠された形相の更には実相を観相出来ていないこよになります。此の論点がトマス・アクィナスを神学哲学者の枠に縛ります。
2015年11月08日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/トマス・アクィナス-23(二百七十四) トマス・アクィナスは人間の霊魂についても、普遍三種説を受け継いだかたちで、其の根拠から人間個々の霊魂が不死であることを展開してみせます。彼の形相と質料の論理からいって、物体が滅することは、質料から形相が分離することが可能になった時点であり、人間の霊魂は元から質料を持たない存在である「純粋形相」、此のことを「神」の形相を考慮すると容易に解釈出来得るでしょう。神が「純粋形相」であり不滅の存在とするならば、人間の霊魂も質料を源(みなもと)に持たない存在であるが故に、神の絶対理性の様態の延長である人間精神の心底にある霊魂が滅することはないとしています。但し、死後の霊魂の個々の魂が個々に滅しないとは表現されておらず死後霊魂の合体変容は、神的存在である霊魂(天使群)とは趣を異(こと)にしています。トマス・アクィナスは霊魂観は可能的な受動的理性(nous pathētikos)の立ち位置にあり、アリストテレスの二重霊魂説「一つは有限で一時的で個人に属し個人と生死を共にする受動的・理性、いま一つは永遠で個人の肉体から分離できる「能動的理性」、能動的理性のほうを基礎と見て、 受動的理性はこれに依存するものと解釈し、現実的な自分が死んでしまうことは疑いないから、「受動的理性」は有限で個人と生死を共にし滅するのとは対照的です。
2015年11月07日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/トマス・アクィナス-22(二百七十三) 中世の西洋圏においてひときわ哲学論争のテーマとなった「普遍」概念ですが、一般的には全体に広く行き渡ること、例外なくすべてのものにあてはまることと解釈し、 哲学的にも般的には宇宙や世界の全体に関していえること及び特殊・個物に対して、ある範囲のすべての事物に共通する性質、更には普通名詞に対応する項辞ないし概念と解釈するのが凡そ一般的な思考だといえます。インド大陸における「遍在」の語彙、「世界のあらゆるところに、遍く(あまねく)行き渡って存在すること」と意味するところは粗方共通する概念です。ところがトマス・アクィナスは基本的にはアラブ圏のペルシアを代表する知識人で、哲学者・医者・科学者であり、独自の存在の形而上学を完成したアリストテレス主義者であり、ギリシア,ローマ医学の伝統をもつアラビア医学を集大成したイブン・スィーナー(980年‐1038年)の示唆した取り込み普遍三種説を説きます。先ず一に挙げるのが、普遍は神の絶対意思とも捉えられる「神の理性」のなかに個物の観念低典型としてそんざうするが、神そのものが普遍であるからには、普遍が個物に先立つのは言わずもがなのことだということです。第二は、普遍は世界内存在としての自然的事物においては個物に内在するものとして存在しているが、其の内在は個物そのものに在中する。第三には普遍は理性を持つ或いは抱く(いだく)人間の基底に存在するものの、其の理性は個々の事物からの抽象による概念として形成され築き上げられたものであり、普遍は個物に後れることになります。此のトマス・アクィナスの思考論は認識論へと繋がり、普遍は人間の外感覚世界からの物質的刺激による思考過程を経ての「普遍」の認識が「神の普遍」への道程への門口となると解釈しています。
2015年11月06日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/トマス・アクィナス-21(二百七十二) トマス・アクィナスは当然の如くに神の実存に疑いを持つことはあり得ようがないが、信仰を超自然的・非理性的に固定すること,また其の逆に自然的理性の中に綴じ込めることの何れをも退けて,神学固有の認識方法を成り立たせた偉大なカンタベリーの大司教アンセルムスの神の存在論的証明を、神は存在するという命題において「神の存在論的証明」は世界が始めて創造されたということからのみ証明し得るのであり「無い世界」に神を存在証明する手段はあり得ない。ここにアリストテレスの経験主義的実体論の影響が見られ、アンセルムスの「神の存在論」との証明論に食い違いが生まれます。世界が創造されなくば認識は生まれよう筈もなく神の様態の延長である人間の精神があってこそ神の有無が浮上し問えることになると説き、「有」は生命の精神世界のみから観相出来得るものとします。
2015年11月05日
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思考と直覚」人間の霊魂を思考/トマス・アクィナス-20(二百七十一) スコラ哲学の特徴でもあり常套的手法がトマス・アクィナスの「存在の類比」の主張にみられますが、21世紀の現代に「類似性はあるが共通性はない」という言語表現を充分納得し理解させる力は持たないでしょう。何故なら「類似性」自体に其の語彙の中に「共通性」を含有している筈だからです。其れにも拘わらずトマス・アクィナスが、殊更、両者を区別するのは、生命の無い物体と人間身体と表現される肉体の存りかたと、人間精神の根底に潜む霊魂といわれる存在、其の最上位に「有る」神の存在とは持たないと思考するからです。生命の無い物体と人間身体と表現される肉体の存りかたは物質的に世界を哲学的(唯物論)に捉える判断であり、霊魂といわれる存在、其の最上位に「有る」神の存在とは異質であると主張するのです。其のこと故に、両者が「存在」において類似性があるにもかかわらず、生命の無い物体と人間身体と表現される肉体の存りかたは「神」及び「霊魂」に奉仕的存在として成り立っているとの思考段階を踏まえます。此のことから存在の位階制、神を筆頭として、霊魂から、霊魂に奉仕する肉体、生命なき物質を区分していることが読み取れます。
2015年11月04日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/トマス・アクィナス-19(二百七十) トマス・アクィナスの存在のヒエラルキーの説に立てば、生命あるもの、生物一般とか人間とかに「在る」のは、其れ其れが独自的存在であって、具体的・一回限りの存在だとも解釈すれば、人間が自己の存在について、人間として自己があると認識するのは、存在の両極である「神」と無生(生命が無い)の物質との共通性は存在を異にしていると述べます。それならば、共通性が内にも関らず一様に人間が「在る」と表現する根拠は何処にあるのかをトマス・アクィナスが理論立てるのが「アナロギア・エンティス(analogia entis)」存在の比喩と呼称され、様々なが存在者が等しく「存在」といわれるのは、「存在の類比」、即ち、すべての存在する事物は存在するという点では共通であるが,そのあり方は夫々に本質的に異なるということ。アリストテレスに基づいてトマス・アクィナスは、被造物からは無限にかつ絶対的に異なる神をとらえる方法としてこの考えを発展させています。
2015年11月03日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/トマス・アクィナス-18(二百六十九) 「神」をアリストテレスが不動の動者をトマス・アクィナスは自己の思考に反映させて、ビリヤードのキューを打つハスラー的なものとして捉え、世界の創造を白玉として捉えれば、ナインボールは物資界の「質料」となります。然しながら、此の両者を両極とした種々異なる領域、存在の位階制が領域を占めます。神の領域に始まり、天使の領域・将又、生物とりわけ人間精神の内奥に潜む精神の領界・地上の生物の領界・無生、生命を持たない意味での物質界の物体との区分を理論付けています。此れは「存在」の領域の位階制「ヒエラルキー」即ち本来はローマ-カトリック教会における天使群の序列を説くもの、現代では社会システムのそのものから企業体系など広義の意味で用いられているが、一般的には「ヒエラルキーの崩壊、打倒」など、マイナスのイメージとして使われることが多く、かつ、ヒエラルキーという構造そのものではなく、ヒエラルキーの上層のみを特定した意味で用いられることが多い言葉でもって存在の区分分け・断層を主張します。
2015年11月02日
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