全23件 (23件中 1-23件目)
1

「思考と直覚」人間の霊魂を思考/哲学用語の要旨(三百十八)序章 世に思想家と呼称され、なかでも世界形成の根源と其の理(理法)及び人間精神の根拠、心の在り処の深層を究めんとするのがフィロソフィー、明治時代に西周が造語として日本語訳した「哲学」ですが、何も西洋のみに哲学が存在した筈もなく、インドに成立した世界観・人生観のすべてをいうサンスクリット語の「ダルシャナ(日本ではインド哲学、また六派哲学とも呼称されるsad darśana)」、支那の「道」等々も其の理とするところは異なりません。但し、言葉に持たせられた語意に関しては異なっています。とはいえ、大凡は共通する部分があり、語意・用法を列挙するのも哲学理解ひいては人間の「自我」、自我は人間は言葉を意識したことにより「心(mind)」なるものが、自己に在ると意識或いは認識を誰に教わることもなく認識するのですが、其の基底にある潜む霊魂存在を究めるためにも、心の言葉を人間霊性の解明に区別しておくことが要求されます。此のことは生命の中で理性を持つと言われた人間だけの特性であり、生死を探求することができる世界からの賜物といえましょう。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2015年12月31日
コメント(0)

「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ルネ・デカルト-33(三百十七)最終章 ルネ・デカルトの生い立ち、境遇から輻輳した性状が浮き上がったにせよ、其のことがデカルトの偉大さを卑小化させることには、一部の狂信的マルキシズムを標榜する者を除いてはなりません。彼の出発点は無神論的な、言い換えれば非神論から始まり其の世界を懐疑して、存在の根拠を自己の精神に帰着します。自己が大宇宙其のものの起因でない以上、人間世界を基底とした思想のマルキシズムでは、彼の仮面を剥がせません。ルネ・デカルトの至上の理は「我」にありました。我とは肉体を指すだけのものではなく、自我の存在なさしめる「何か」です。歴史的弁証法以来の唯物主観は「根本的起因」を「在るものは有る」の姿勢で人間精神を形付けの起因を肉体に付属する蛆の如きものに起因させています。其のことが、人間生活に重きを置いたマルキストの偏重でしょう。人間の肉体の変調は当然に自己の精神にも重大な損傷を与えますが、さりとて、それを乗り越えた偉人がいたことは神話ではなく史的事実です。哲学とは単純化、人間精神の成り立ちか或いは世界理法の根拠の究明か、外感覚的物質文明を現実として在るものはあるとして受け入れたうえ、人間を取り巻く社会環境を究明する分野に別かちますが、哲学は「科学」ではない以上人間精神を根本付け行動に促す真相を問うべきだと覚えます。「霊・魂」等の言葉は人間には適用出来得ようが、世界理法の根拠には有り得ざるものであり、世界形成の全体からみれば「己(其れ以外に何ものをも見出し得ないもの)」の派生に過ぎないにしても、人間精神の維持・発展には人間精神の起伏まで物質化する現代でも捨て去ることは人類をアメーバーから何ら変わらない存在に貶めてしまうことの危険性を孕んでいます。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2015年12月30日
コメント(0)

「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ルネ・デカルト-32(三百十七) ルネ・デカルトの機械論的唯物論は、万有引力の法則の発見者ニュートンの力学体系同様に機械論的唯物論を立ち位置にしたために、ビリヤードのキューの最初の一突きである「神」を想定せざるを得ませんでした。此のことは、ドイツ観念論の土台に古典哲学とされるヘーゲルの弁証法に影響を与え、批判的論点から見直されます。ヘーゲルに言わせれば、機械論的唯物論は歴史についての学説、乃至、社会一般には分け入らずルネ・デカルトの哲学を新たに精神哲学及び歴史哲学、更には法哲学をもって現代に継続する唯物論的社会主観を構築しますが、外感覚的で物質的な経験的な唯物観に立つ現代人から観相すれば人間を生命体系の一員に格下げした此の理論は人間生命の疎んじへと綱がっており、一方で宗教と社会一般の矛盾を際立たせることになり、新たなる戦争である「テロ」に思考の混乱を賦与していることも歪めない現状です。現在に、求められるのは自然のみならず人間生命の起源と其の目的、人間社会全般に共通する世界観を創造する哲学であり、其のことが人間、更には世界が崩壊に向かうことを避け得る唯一の手段となるでしょう。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2015年12月29日
コメント(0)

「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ルネ・デカルト-31(三百十六) ルネ・デカルトは自論の展開を追求成立させるためには、パスカルの言の如く、出来得(う)れば神との対面は避けたかったのは事実でしょう。其のルネ・デカルトの唯物論の立場に立ちながら観念論を受け入れざるを得ない矛盾点が湧き上がります。しかし、デカルト自身には此の矛盾をあくまで相対的なものとして捉えており、唯物論の立場と観念論の二つは、いわば分かち難いものとして自論を展開します。今日的な唯物観の見方からすれば、デカルトの時代背景の人民の組織的弱性の反映、市民階級の弱体を意味します。更には、デカルトの時代では科学の発展段階が、到底未だ哲学に追い付かず、当時の機械論的力学・物質論では両者、即ち、質量と運動を区別し、質量と運動を合体すること能わず、機械論的唯物論の立場では否応なく、他者に働きがけの起因を(運動)を求めることになると批判します。ルネ・デカルトの立ち位置では世界はたまた小宇宙を含有した大宇宙の外にハスラーのキューの一突きを仮定したことへの批判です。然るに、現代の物質主観に立つ思想が其の批判を証明出来たかといえばさもありなんでしょう。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2015年12月28日
コメント(0)

「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ルネ・デカルト-30(三百十五) ルネ・デカルトの根本基底は神を世界の本元・起因とする精神存在と人間の外感覚的世界である物質世界、人間の観相では対立する二つの実体を想定する二元論に帰着しますが、ルネ・デカルトの「実体」とは「それが存在するために何等のものをも必要としないものですから、そこには、厳密な意味での「二元」はなく、行き尽くところは「神」を起源とすることになります。然し乍ら、デカルトと同時代の「人間は考える葦である」などの多数の名文句や「パスカルの賭けなど」の遺稿集の代表「パンセ」で有名ブレーズ・パスカル(Blaise Pascal)は「デカルトは出来得ることなら、神なしで済まそうたかったのだろう」と評価するように、根底的には論敵や権威の攻撃を避けるデカルト特有の複雑な境遇からくる仮面劇かもしれません。当の本人が「方法序説」の公刊後に親しい友に書簡を持って、神の存在については、僅か数ページしか割かれていないが「序説」の最重要な部分であると述べ、更には、デカルトらしくなく亦デカルトらしいとも云える複雑な心情、「序説」の最重要な部分でありいちばん練れていないことを吐露しています。そのことを、出版社からの急き立てられたことを原因にしています。この告白はデカルトの中に形而上の哲学を引きずり込みます。デカルトの嫌った形而上哲学が頭を擡げ彼を仮面を被った哲学者に仕立てあげます。此の二面性が後世に大革命を準備したフランス啓蒙思想の唯物論的な流れを、他方に、ライプニッツを代表とする欧州の古典哲学「ドイツ観念論」としてその影響を与えます。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2015年12月27日
コメント(0)

「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ルネ・デカルト-29(三百十四) ルネ・デカルトは神を世界の本元・起因として主張します。神は其の存在上から完全なもの、其の意味するところは完全体(態)、あるいは、仏教哲学にいう「有」としての存在であり、神は神そのものが絶対意識であり、当然にそれを裏切ることなど決してないから、起因とするものは人間に対しても誠実だから神は我々人間を欺かないし裏切らない。然しながら、我々人間は自己の外感覚的判断でもって物質的世界を観念する。然るに、其のことは、神が我々人間を欺かないことから起因しており、其の人間の観念も正しい。故に、我々を取り巻く外的環境の物質世界は実在すると解きます。コギトエルゴスムで、外的物体の存在を「懐疑論」で主張するように疑問から始まった思考は、思考する自己の精神である「自己意識」から始まり、其の思考が神に遡ります。それらの経緯を経てルネ・デカルトは、漸く外的物質の世界に、自己の自然学を基底に神論を展開します。後世のマルクスの唯物主観に影響は与えたとはいえ異相の思考でしょう。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2015年12月26日
コメント(0)

「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ルネ・デカルト-28(三百十三) ルネ・デカルトの人間の「観念」、元来は仏教の用語で,真理または仏を観察思念するという意味ですが、今日ではギリシア語のイデア(Idea)の訳語として用いられています。古来は、プラトンによって、それは経験的な個物を超越した不変,永遠の存在の意味を負わされ、イデアには数学的対象や今日一般に抽象概念と呼ばれるものも含ませ、プラトンにあっては倫理的概念が重視され、その頂点に位するのが万人の究極的に追求すべき善のイデアとされ、イデアは同時に理想,理念の意味をも担っていたのですが、ルネ・デカルトは其れまでの神中心的な見方から、人間の意識を出発点として事象を考察する行き方に転換します。彼は観念を、心が外界から受け取った音とか太陽とか熱とかの観念、心が自分でつくりだしたユニコーン等々の想像的観念、人間の心に生来備わっている本有(生得)観念の3種を区別して、人間が持つ「神の観念」に対しては、凡そ人間は神とは無限な完全態の存在を意味し、比して人間の観念は有限で不完全態の存在と分別し、因果律を持ち込み結果が原因を超えて存在することは有り得ないことから、人間が神の原因には成り得ない。人間が神を創造することは勿論、神の観念を人間自身が創ることは不可能である。それ故に、神が原因として有るのは否定出来ないとする「生得観念」の人生論的証明を説いています。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2015年12月25日
コメント(0)

「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ルネ・デカルト-27(三百十二) コギトエルゴスムにしろ、仏教哲学で最重要課題にのぼる「因縁」も物質世界の事物に限らず人間の内感覚世界の「因果関係」を問題にしています。我が思うとは、無からは何も生じないという表現です。仏教哲学の最たる智者、大乗の世祖「竜樹(ナーガールジュナ)」は「無」と「有」を否定し、但し、その思考の基底には物質世界の喩を数多く掲げてはいますが事物そのもの外感覚的、物質世界を問うてはおらず、デカルト同様に思考の基底には内精神の因果関係を重要視しており、結論的には、思考する「我」を「無・有」を問わず囚われるなとする態度です。「無」からは何も生じないのは共通しますが、ルネ・デカルトは結局は我の精神の深奥の霊性を神を起因とし、大乗の世祖「竜樹」は「空観」を採用し無と有を離れた「モノ」を想定しています。その原因と結果を否定し想定しない「竜樹」の思考を採用すれば、内感覚世界の「因果関係」は崩壊しますが、「空」理論を持ち込むことにより矛盾を回避しています。対して、ルネ・デカルト「因果関係」は原因が結果より少ない実在性と完全性とを存することはあり得ないとして我の精神の深奥の霊性を神を起因とする観念に立ち返っています。西欧哲学はアリストテレス以来の形而上哲学が源流にあり、インド大陸とりわけ仏教哲学がヒンズー教の影響は無視できずとも東洋に花開いた大乗哲学と比肩すると格段の異相を示します。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2015年12月24日
コメント(0)

「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ルネ・デカルト-26(三百十一) 西洋哲学と中央アジア、なかでもインド大陸の仏教哲学の開祖シッダルタとの思考方法の運用の仕方には、まったく逆順ではないのかと想わせるものがあります。コギトエルゴスムは全ての存在を否定し切ったところに、否定しきれない自己の精神の存在をあらしめています。片や、仏教哲学では自己の精神を滅却するところから世界の理法が観相できるとしています。ルネ・デカルトも世界の汎ゆる存在を懐疑し、その世界の存在と呼称されるものを観相した結果が非在を否定出来得ない自己の内精神に辿り着きます。シッダルタは自己の内精神を世界に解放、云わば「無我」の境遇に自己の精神を陥らせ、其処に「自己を成さしめる存在」を見付ける姿勢です。其の差は彼岸の差程大きく隔たっているかのようにも見えますが、シッダルタの思考にも世界理法の矛盾の懐疑から、沙彌になった経緯があり、両者ともに存在の有無を問う姿勢は変わりませんが、ルネ・デカルトの場合には物質・精神をともに否定した段階から思考が始まりますが、シッダルタの対象とするのは凡そ人間の精神的経過に重点を置いており、因果関係に思想的相違が生まれています。「我」を主張して世界を観想するのか、「無我」を主張して世界を観想するのかは思考方法に相違はあれども結果は近似しています。然し乍ら、因果関係に関しては隔絶しています。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2015年12月23日
コメント(0)

「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ルネ・デカルト-25(三百十) コギトエルゴスムは現代教育の基底にある、個性の育成・個人尊重から見れば、物質科学偏重の時代にあっても「我」は否定しません。それ故、我思う故に我ありの言もすんなり受け入れています。其れは物質主義・外感覚的観念から「モノ(精神的・物質的)」因果関係、「無からは「ナニモノ」をも生じないし、結果生じたものより原因が過小である筈がないし、其の実在性と完全性とを有しよう筈がないとのルネ・デカルトの基本概念です。原因は結果を含有していることは明らかなりと主張します。ヘーゲルからマルクスへの弁証法的唯物主観に立てば此のことは否定し得ません。但し、アジア系の哲学シッダルタ、其の思考を大乗哲学にまで高めた龍樹の思考から解析すれば、因果関係そのものが崩壊します。現時の超絶科学も時間観念及び因果関係の後先(あとさき)、無からの有の誕生を匂わし、科学が哲学を追い越しかねない時代がようよう訪れる時代を迎えんとしている鏡目に我々は生きています。だからといって、無から有が生まれることは一部の稀な才能の学者の分野であり、時間論や存在論と共に此れからの課題となり、科学が哲学を追放しきれた時点には、「人間存在」其のものも予測出来ないものに変貌するでしょう。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2015年12月22日
コメント(0)

「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ルネ・デカルト-24(三百九) ルネ・デカルトの「我は精神なり」なりから始まるコギトエルゴスム(我思う故に我あり)も専ら、唯物主義、形而上学的な哲学から実証を基底とする経験主義への傾斜かと思いきや、彼は此等の思考を前面には押し出してはいますが、彼の複雑な性状から、もう一つの面を醸します。驚くべきことにはコギトエルゴスムを媒介として、再度の神への接近、それも信仰という形式を纏わせ、神的哲学は初めに「神は精神」なりから始まるのに対して、「我は精神なり」を門口とした神への到達を目指します。然しながら、彼の神学論は正教会の初めに信仰を前提にしているのではなく、我の精神をも懐疑したのちに神への信仰を再構築すし、世界の合理的秩序を神に帰す思考方法です。言い換えれば、人間の自己意識は、神の絶対意識の信頼において目覚めており、後の「神は死んだ」のニーチェの如く虚無主義(ニヒリズム/Nihilism)、とはいえ、ニーチェの説くニヒリズムに二種あり、現代人にも適用可能な、何も信じられない事態に絶望し、疲れ切り、時々の状況に身を任せ、生きるという弱さのニヒリズム、消極的・受動的ニヒリズムと、すべてが無価値で偽りあり、仮象ということを前向きに考える生き方。其処から自ら積極的に「仮象」を生み出し、一瞬一瞬を一所懸命生きるという態度、つまり、強さのニヒリズムとも云える積極的で能動的ニヒリズムがあり、ニーチェは後者の立ち位置で、永劫回帰(Ewige Wiederkunft des Gleichen) 、終末を迎えることなく時を越えて同一である物にして、且つ万物を指すのですが、ルネ・デカルトは純粋マルクス主観的の立場にも立ち得ませんでした。とはいえ、「ルネ・デカルトの数学的志向の哲学がスピノザの「エチカ」に継承されたことには、無神論の立場に立つ人間からの批判はあろうとも「霊魂」完全滅却説でないことに霊性を求める人間に安堵感を與えています。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2015年12月21日
コメント(0)

「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ルネ・デカルト-23(三百八) 中世のキリスト教を、青年ヘーゲル派の代表的な存在であるルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ(Ludwig Andreas Feuerbach/1804年-1872年)が、唯物論的な立場から「神は霊(ガイスト)であり、また精神なりと言い切るキリスト教に対して激しい批判を行ったように、中世の神的哲学は「神は精神」なりから始まります。即ち、人間の精神も絶対的精神の様態の派生に過ぎないと考察していると分析するのです。それに対抗するがの如くルネ・デカルトに始まる近世哲学は、先ず以て、「我は精神なり」なりから始まります。そのことは、中世の神を世界原理とすることに対する挑戦状でした。神を「原理」として思考の基底に置くのではなく「思考の基底を我の精神」から、世界の構築に対しても人間の認識から始まり、神を出発点とする中世の専制的な思考、信仰への痛烈な批判を含有しています。ルネ・デカルトは、キリスト教の世界観が専制的な拘束を及ぼしていた世界から、人間に人間自身への信頼と理性を再び回帰させることに努め、其の功績が近代唯物主観へと継続されます。言い換えれば、神的主観から人間主観への変貌です。更には神秘主義から唯物主義、形而上学的な哲学から実証を基底とする経験主義への変遷を促したのです。此処にソクラテス以来の根源的思考、人間の霊魂の不死に危機が訪れます。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2015年12月17日
コメント(0)

「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ルネ・デカルト-22(三百七) 西欧の解放期、啓蒙運動が盛んだったルネサンスの花はルネ・デカルトの時代には、絶対王政と教会権威が再び頭を擡げ、ルネ・デカルトの前に立ち塞がります。自己の思考の真相を語るには、危険極まりのない旧世界の復活です。否応なく、彼は此の旧世界の柵(しがらみ)に自己の思考を仮面で覆います。その仮面とは、自己が発見した懐疑から得た経験主義的実証を、形而上学的な思想で覆い、理性の基底に「神」を前提にしますが「それでも地球は回っている」のコペルニクスではないけれど、コギトエルゴスム(我思う故に我あり)の発見は捨て切れず、旧世界の権威と権力に立ち向かざるを得ませんでした。「我思う、ゆえに我あり」(仏訳 Je pense, donc je suis、羅訳 Cogito ergo sum)は、であり一切を疑うべし(De omnibus dubitandum)という方法的懐疑であり、自己を含有する世界の全てが虚偽だとしても、まさにそのように疑っている意識作用による認識が確実であるならば、そのように意識しているところの我だけはその存在を疑い得ない。即ち、自分は本当は存在しないのではないかと疑っている自分自身の存在は否定できないところに、思考の第一義に持って行きます。そのことは、中世キリスト教神学が世界の全てを神を出発点とするのに対し、神の認識ではなく人間の認識を出発点とする思想は西洋にあっては革命的なものです。但し、表面上、後世の宗教への棚上げした思想はどうあろうと「天上天下唯我独尊」、インド大陸の仏教哲学の世祖シッダールタ(Siddhartha)が既に思考方法としては取り入れていたことです。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2015年12月11日
コメント(0)

「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ルネ・デカルト-21(三百六) ルネ・デカルトの根本思想、否、教義とも云える、コギトエルゴスム(我思う故に我あり)で有名な「懐疑論」ですが、其の骨子は、先ず世界に現存する一切の万物、神的存在を除いているところから無神論者と問われるのは致し方無いところですが、存在がはっきりと明確なものであり、且つ、論理的に導き出されたものでないかぎり、一切を認識しない態度をとります。彼が懐疑に重要性を置くのは、懐疑を過去のものを批判して、未来へと向かう現実の真の本質を発見するための手段だと思考するからです。その目的とするところは懐疑を門口にして、自然と人生の科学体系を構築し、人間を「自然界の主人で所有者」としてこそ理性がすべての事物の認識に到達すると説きます。此の思考法は「我」に固執することから始めて物事の真相を把握するものであり、きわめて西洋的です。インド大陸に始まる仏法哲学の「我」を離れたところに真相を求めたのとは対照的であり何れが真相を極める方法として適するのかの優劣判断には興味津々たるものがあります。ルネ・デカルトの科学体系では過去から現在そして未来に向かうのを時間特性として捉えるのも止むを得ず、人間の時間感覚を懐疑しなかったのは残念です。然しながら、此の思考方法は「すべてを疑う、此れが私のモットーだ。」とするマルクスの流れへと継承されます。ルネ・デカルトの懐疑は、中世の封建的支配を脱却させ近代への解放をはたすのには一定の方向性を与えたことには間違いない成果を果たしています。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2015年12月10日
コメント(0)

「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ルネ・デカルト-20(三百五) ルネ・デカルトの活躍する時代の正教会は、聖職者と俗人との間に真理を認識し得る能力を差別化し、真理は教会にあり、俗人はただ只管(ひたすら)に聖職者の言の権威にすがり信じることが強要されています。然しながら、ルネ・デカルトは「正しく判断し、真理を弁別、する能力を良識乃至理性と呼称し、聖俗変わらずイエス同様、人は生れ乍らに全てに平等にあると述べます。更には、健全な精神を持っていることだけでは足りず実践の重要性を強調しています。平等で健全な精神の実践には正しく適用する能力を人間其れ其れか掴むいかんに関わっており、其の指針が方法序説であり、此のことを学ぶことにより、人間の判断明晰の有無にかかわらず、たとえ劣った思考する人間であっても優れた思考をするようになり、少なくとも思考の分野にあっては確実に人間の平等を実現する手段だと唄います。此の考えが正教会をバックボーンとするスコラ哲学が放置しておく筈もないことは当然です。方法論でキリストの生誕の意味と真相が顕れるならば、信仰を前提とする神性スコラ哲学は崩壊します。ルネ・デカルトの懐疑論は神=基督を否定していることは疑いを得ません。但し、神の子として自覚するイエスが贖罪の犠牲を絶対者からの働きがけを認識し、原罪ある存在の人間を救済する力を得ていたことも一概に否定することも人間の霊魂を思考する立場からは否定することは出来ません。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2015年12月09日
コメント(0)

「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ルネ・デカルト-19(三百四) 何故、ルネ・デカルトは我々には常識的と想われる思考方法を敢えて提唱するのかと云えば云えば、一つは当時の最大の論敵スコラ哲学が念頭にあり、他方には天文学と占星術、更には化学を神秘がかった錬金術(alchemy)と同一視していた神秘系に傾いた自然学派の識者に対しての批判が意識があります。ルネ・デカルトの同様の方法論はガリレオ・ガリレイの理論の組み立てに採用され始めていた思考方法であり、其れをルネ・デカルトは哲学的に一般化し、思考方法を定着化させるために論理化し方法論として体系化させることに務めます。彼はその著書「方法序説」のなかで、真偽判断の能力を理性を基底にし、其の理性が全ての人間に機会均等にあるものであるが、其の理性を持っているだけでは不十分であり、その理性を正しく適用する方法を考察する重要性を説きます。然しながら、彼の思考の基底には懐疑説があり、理性の在処(ありどころ)の根拠が、なにゆえ(何故)発生したのか、其の理性の根源には触れず「有るものは在る」という態度をもって思考方法論を展開します。其の背景には、当時の自由思考の妨げとなる教会の枷があります。人間の思考の自由を得るという意味では其の後に教会のしがらみを解き放つある程度の目的の成果はあげています。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2015年12月08日
コメント(0)

「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ルネ・デカルト-18(三百三) ルネ・デカルトが自らを探求し発見したところの事物の真の認識を解明する方法とは、禅宗における導者の心構えのようなものとは趣を異にしています。ルネ・デカルトが自らの思考の探求から発見した、其の精神指導の原則は四つに大別されるでしょう。一つは、誰しもが疑問の余地なしに真と認めることなしには、どの様なものであれ真とは受け取らないこと。即断と偏見を遠避けることにより、明らかに紛れようもなく、自己の心に何等疑いもなく顕われるもの以外は判断に受け入れないこと。第二には具体的であり、複雑なものを、其の構成要素っを遡及して分解・分析すること。第三は、複雑なものを其の構成要素っを遡及して分解・分析することとは対照的に、事物の物事から単純な素要素を正順に従って統合し、具体化した構想を確立すること。第四はそれらを実践した後に分析・統合を鑑みて取り落としの吟味を図ること。言うまでもなく其の論理的観点は数学です。此の思考方法の論理の進め方をルネ・デカルトは「普遍数学」と呼称します。円の中心点は一つであり、三角形の内角の和が180度であることは誰しも認めるもの、ルネ・デカルトの思考方法は此処に基盤をもって展開されます。この影響は後世の神学哲学の域を超えたスピノザ(Spinoza/1632-1677)の「エチカ」で花開きます。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2015年12月07日
コメント(0)

「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ルネ・デカルト-17(三百二) ルネ・デカルトは思考するには予めに其の方法を極めることを重要視し「事物の真理を尋ねるのに、方法なしでやるくらいなら、其れを全く企てないほうが遥かにましである。」と精神指導の規則著書で述べています。此の西洋的論理はインド大陸に始まる「禅」と比較すると其処に求めるものの違いが顕著にあらわれており興味深いものがあります。ルネ・デカルトはあくまでも事物の真理を求めるために精神を駆使するのに対し、「禅」は事物のしがらみから離れて精神の根源の存在を探求するところに原則を置くからです。其の彼の思考における方法とは彼に言わせれば「方法というのは、確実な、しかも容易な規則、つまり、確かに其れを守る人間は誰しも、虚偽を真理として認容することなどなく、精神の努力を無為に費やすこともなく、常に、次第に知識を増しつつ、其の達しうる限りのすべての事物の真の認識にあるところのものである。」と同じく精神指導の規則にて説きます。確かに誰もが其の規則に則って行けば事物の真の認識・真理に達するならば、歴史はルネ・デカルト以外に他者を必要としなかったでしょう。豈図らんや、世界の真相は宗教・哲学・科学を問わず新しい思考を生み出しています。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2015年12月06日
コメント(0)

「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ルネ・デカルト-16(三百一) 具体的思考を探求するためには、予めに其の方法を構築すべきだとの主張は、偉大な哲人アリストテレスが説くところでしたが、11世紀以降に主として西方教会のキリスト教神学者・哲学者などの学者たちによって確立された学問のスタイル、スコラ派が神秘主義的なキリスト教神学を学問の技法や思考の過程を理性的なアリストテレス哲学を導入したことによりアリストテレスの方法論は、正教会の守護神トマス・アクィナスの流れを汲むスコラ派が歪め、其の原意的な思考方法はルネ・デカルトの時代には役立たずのものにまでに陥り、デカルトに改めてスコラ哲学に向かい合う方法論を求めます。勿論のこと、ルネ・デカルトもルネサンスのと共通の基盤を持ちますが、ルネサンス期の人間が宗教の箍から離れ歓びいさんで、手当たり次第に知識を味わい主張したのとは相違し、宗教の柵から拡大された知識をやみくもには採用せず、其処から一つの体系を汲み上げ方法論としての認識を体系化します。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2015年12月05日
コメント(0)

「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ルネ・デカルト-15(三百) ルネ・デカルトが、古くは古代ギリシャのデモクリトスの「原子論的機械論」を継承発展させたとことは誰しも認めようが、彼は全く「霊魂」を否定仕切ったのであろうか。機械論を先鋭化させた唯物論の発展形の唯物主観は確かに「霊魂は無い」と先験的に断定し主張しています。ルネ・デカルトの「機械論」は「霊魂を考慮しない」と述べているのであって、暗黙裡に「霊魂」に言及するのを避けているのであって、「霊魂」の存在・不存在には言及しない思考法を以って、デカルト思考の門口とし、自己が描く科学的な方法論で分析できるだけ分析を進めてみようとするところに比重が置かれているのであって、アリストテレスの霊魂観には賛成しないものの、天候や地形、生命などの諸々の世界自然現象を、心や精神、意志や霊魂などの概念を用いずに、その部分或いは要素の決定論的な因果関係のみ、特に古典力学的な因果連鎖のみで解釈でき全体の振る舞いも予測できるとする立場の思考に近似する思考方法と捉えるのが妥当でしょう。近代初頭の17世紀的な古典力学的・静的因果律を想定したデカルトの「機械論」と終局或いは目的的あり方から遡って情報を取捨選択し秩序だてる「目的論」とは後世の思想家に其の論点が影響を与えることになります。アリストテレスの思想を取り込んだスコラ哲学は批判するものの、彼デカルトは世界に対する「静的」(static) な考察という性格が強く其の影響は見逃せません。彼は宗教的絶対者を否定はするものの世界秩序の根源を否定はしていないからです。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2015年12月04日
コメント(0)

「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ルネ・デカルト-14(二百九十九) 猜疑心の非常に強いデカルトはあらゆるものの存在を疑い、人間の属する世界の「実体・本質」的存在が何であるかを考察するアリストテレスの流れをくむ「存在論」はもとより、人間を含む諸存在が、究極的にはどこに向かって亦何を目指し、何ものを達成且つ実現すべく存在しの活動しているのかを考察する「目的論」さえ放逐し、コペルニクスやケプラー及びガリレオ・ガリレイの先駆者の思考を体系化し、宇宙内存在を天候や地形、生命などの諸々の自然現象として捉え、人間に属する心や精神や意志、霊魂などの概念を用いずに、要素の決定論的な因果関係のみで解釈する世界が物質と運動からのみ成り立ち、それ故に、世界は物質的に統一されている。此の統一的な世界には物質的な要素としての実体の他には何者も存在しない。宇宙の汎ゆる体系が、機械論的な法則其のものの経過を経て誕生した。即ち、世界自然は一つの機械装置であり、人間の生物としての特異点はないとします。此の思想は特に巧みで説得力があったので、多くの信奉者を生み出し、ニュートンやライプニッツ等にも大きな影響を与え、それはひとつの潮流ともなり「デカルト主義」を生み出します。更に加えてデカルトが亡くなってから100年近く経った後、ジュリアン・オフレ・ド・ラ・メトリー(Julien Offray de La Mettrie/1709年-1751年)が霊魂の存在を否定し、デカルトの動物機械説を人間にも適用し、人間を精神と肉体の機械とみるデカルト的二元論よりも機械論に徹底した生命観「人間機械論」を提唱する羽目となります。其れでは、デカルトは無神論の徹底した唯物論を唱えているのかといえば、其処には疑問点が多々あります。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2015年12月03日
コメント(0)

「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ルネ・デカルト-13(二百九十八) ルネ・デカルトの天文学にも秀でたもの、特に屈折学が得意分野でしたが、彼の登場以前に、聖書の言葉と思考の出発点には経験を重視するも、実証主義的に捉える実在論を唯物主観其のもの立場に立つことはなく、人間精神の実相を説くアリストテレスの哲学を巧みに取り入れた神学哲学、即ち、スコラ哲学に脅威を与えた人物が登場しています。其の一人がアリストテレスとプトレマイオスの天動説では説明のつかない動きをしていることに気がつき、太陽が動いているのではなく、地球が他の遊星とともにその周りを回っていること、そして地球自身も自転していることを確信「それでも地球は回る」で有名なコペルニクスや占星術師という顔ももつケプラー(Johannes Kepler)によってです。其れを一歩勧めたのがガリレオ・ガリレイ、もはや、スコラ哲学は論理的には論証によって転じる反撃に転じることは困難になります。其処に懐疑論を主張するデカルトの登場ですから正教会の弾圧はしごく当たり前の反応であり現代にまで其の争いは引き継いでいます。其の賛同者というより同調者のルネ・デカルトが力学的・機械論的自然観を思想に取り入れ絶対者を受け入れず懐疑論に陥り自己の精神の有り様のみ存在とするのも、実証主義的経験論からは肯けます。但し、其処には人間の精神における特異性の根源の解明は成されておらず、キリスト教と同じく「初めに我れありき、ゆえに我在り」では、公理以前の前提となって信教と些かも変わらず疑問を抱くのも止むを得ないでしょう。彼は神をないそがれにしたにもかかわらず、自らを特権的に捉えています。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2015年12月02日
コメント(0)

「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ルネ・デカルト-12(二百九十七) ルネ・デカルトの複層し、また輻輳した性格は彼の生涯の境遇と体験に由縁します。デカルトは生涯結婚はしませんでしたが、若年の折には社交界に出入りもし、歳40にしてメイドに生ませた娘で、5歳の時死亡した娘フランシーヌを誕生させています。其の死後は愛嬢に似せたドールを常に傍らに置いています。彼は探求の人でありながら書庫に篭もるたちではなく、デカルトとは彼が亡くなるまで活発な文通を続け、デカルトの最も熱心な弟子の一人であったドイツのプファルツ=ジンメルン家の公女エリーザベト・フォン・デア・プファルツ(Elisabeth von der Pfalz)との書簡のなかで、自己の中心思想の思索には日々極僅かしかか時間を用いず、残りの時間は官能のくつろぎと精神の休養に割り当てていたとしたためているように、現代に捉える職能的な学究肌の人間ではありませんでした。レオナルド・ダ・ビンチが恋した「モナリザの微笑」のように、彼も恋する人間であり人間肌を持ち合わせています。但し、レオナルド・ダ・ビンチ同様その学究の分野は、彼が最も好む解析幾何学と屈折興学(ガリレオ・ガリレイとの心流が此処に見えます。)の創始者であるばかりでなく、建築・造園・動植物・解剖・水力・天文・水路・航海術にも秀でている万能の天才でした。彼の複雑な性状から政治面には関わろうと表面上は観得ますが、彼の女性関係を見れば何らかの政治的な欲望も推察できます。何れにしても、レオナルド・ダ・ビンチに始まるルネッサンス期の典型人の最後を飾るには相応しい人物です。但し、デカルトの弱点は経験論及び自然論に重きを置いた故のアリストテレスの流れをくむ「霊魂」を蔑ろにしたことでしょう。其のこと故に彼の終末が惨めなものとなります。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2015年12月01日
コメント(0)
全23件 (23件中 1-23件目)
1