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9月30日(月)後藤早苗遺歌集「野菜とわたし」(仮称)(24)(整理中) 冬(2)「ジャガイモ」(2)この年の野菜の場所を決めつけてまずジャガイモと鍬ふるいたりジャガイモが今年も沢山とれるよう鶏糞たっぷり畑にまきたり鶏小屋の掃除し鶏糞ふりまいてジャガイモ植える場所が整う新年になったばかりの十五日もうジャガイモの種届きたり降り続く雨に籠れば植え時の種ジャガイモに芽が出てきたり(つづく)
2019.09.30
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9月30日(月)万葉秀歌(下巻)(17) 斎藤茂吉著 巻第八(17)沫(あわ)雪(ゆき)のほどろほどろに零(ふ)り重(し)けば平城(なら)の京師(みやこ)し念(おも)ほゆるかも(巻八・一六三九)大伴旅人大伴旅人が筑紫太宰府にいて、雪の降った日に京を憶った歌。茂吉:沫雪は消え易いけれど、降る時は勢いづいて降る。そこで、「ほどろほどろに」と繰り返している。ほどろほどろは、柔らかい感じの雪が、勢いづいて降るということではないか。
2019.09.30
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北原白秋歌集(188) 中公文庫:日本の詩歌9(北原白秋)より昭和49年十一月十日初版歌集「牡丹の木」(6)(注)この歌集は、白秋の死後、昭和十八年に刊行された歌集で、白秋最後の吟詠。 魚眼(1)雲騰(あが)る山門(やまと)のまほらはしけやし我が目のかぎり飛びに飛びける南風(はえ)のむた神立(かんだち)こもる夏雲の下照る潟(かた)を飛びにき我は見ずならむ一度(ひとたび)見むと産土(うぶすな)の宮の春日を恋ふらく我は荒れはてし我家(わぎへ)の汲水場(くみつ)春さりて水照(みでり)まさるか影に揺りつつ(つづく)
2019.09.30
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9月30日(月) 「内村鑑三書簡集」(岩波文庫より)(注)文語を口語に、わたしの意訳箇所もあります。明治39年より 事業の選択どんな仕事をするか悩む人が多いと思います、しかしそれは無駄なことです。人はどんな仕事をしてもいいのです、わたしたちはただキリストを信じていればそれでいつも満足できます。どんな仕事もわたしたちのこころを清めるまでは出来ないでしょう、キリストを信じることによって心が清められ満たされるのです。すべてはキリストにお願いして、結果として仕事も清められ満足することが出来るでしょう。
2019.09.30
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歌集「悲しき玩具」(七十七)下書き 後藤瑞義 (注)歌の順序は歌集の順序によります。 この四五年、 空を仰ぐといふことが一度もなかりき。 かうもなるものか? 以前何度も出て来ていますが、助動詞「き」は、過去にあった事を思い起こす(回想する)意をあらわします。現代では「た」で統一されていますので、微妙な感じが出ないのですが…。「(思えば)この四五年、空を仰ぐということが一度もなかったなあ…」、といった感じでしょうか。「一度も」と強調しています。啄木には、「不来方(こずかた)のお城の草に寝ころびて/空に吸はれし/十五の心」といった有名な「空」を題材にした歌があります。それを思い出しました。見上げるでなく、「仰ぐ」という言葉に、わたしなどは、神に通じる天をイメージします。そのような観点から、単に空を見上げたことがなかったといったこと以上の深読みをしたくなるところです。神仏を意識する、そういった心もちには一度もならなかったといった深読みをしたくなるところです。「こうもなるものか」も「?」がついていると、はたと解釈に苦しみます。単に「こんなふうになってしまった(空を一度も仰ぐことなく、あくせく暮らすようになってしまった)ことだ」といった単純な回想ではなさそうです。「人間は、こんなふうになるのだろうか。いや普通の生活環境であれば、そうはならないだろう。」といった反語の意味も少し含んだ「?」のようにも思えます。また、日々の困窮した生活の反省として、「貧すれば鈍する」に似た思いがあったのかもしれません。余裕もなく、希望もなく、祈りも感謝もなく、その日その日の生活に追われて、四五年を過して来たと、病気にでもなってふっとそんなことを思っている啄木が浮かんでくるのです。病気は休息の一種でもあるでしょうし、来し方を省みる余裕も与えてくれます。二行目「空を仰ぐといふことが一度もなかりき。」と三行目「かうもなるものか?」との間には、前にも述べているような多くの思いが省略されているでしょう。繰り返しになりますが、単なる「こうなってしまった」、ではないということでしょう。困窮を極めた啄木のうめき声が聞こえるようです。 (注)短歌は瞬間を切り取って歌うよう、何度も師(原 昇先生)に言われました。短歌に、時間を入れると歌がだらけてしまう、説明になったり、単なるお話しのような、荒筋のようなものになってしまう。一方小説家志望であった啄木は、あえて一首のなかに時間(期間)を入れて、ふくらましているように思います。そのために、三行分ち書きも効果的でしょう。
2019.09.29
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9月29日(日)後藤早苗遺歌集「野菜とわたし」(仮称)(23)(整理中) 冬(1)「ジャガイモ」(1)ジャガイモを植え終りたり後はもう収穫する日を待つばかりなり地を割りて芽を出しそうなジャガイモにまだまだ寒い土をかけ足す芽を出したばかりのジャガイモ心配す霜注意報朝から伝える一夜明け恐れた霜もさほどなく芽が出たばかりのじゃが芋は無事朝なさな眺め収穫待ちおりしジャガイモ今朝の霜にやられる(つづく)
2019.09.29
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9月29日(日)万葉秀歌(下巻)(16) 斎藤茂吉著巻第八(16)大口(おほくち)の真神(まがみ)の原(はら)に降(ふ)る雪(ゆき)はいたくな降(ふ)りそ家(いへ)もあらなくに(巻八・一六三六)舎人娘子舎人娘子(とねりのおとめ)の雪の歌。「大口」は、狼(真神)の口が大きいので、真神の枕詞。茂吉:独詠歌というよりも誰かに贈った歌のようである。儀容を張らずに、ありの儘に詠んでいて、贈った対者に対する親愛の情のああらわれている可憐な歌である。
2019.09.29
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9月29日(日)北原白秋歌集(187)中公文庫:日本の詩歌9(北原白秋)より昭和49年十一月十日初版歌集「牡丹の木」(5) 牡丹の木(5)山牛蒡(やまごぼう)実の房しだりそこばくは秋日(あきび)のい照りしづけくなりぬ冬ごもりひと日のすゑはおもほえて金色堂(こんじきだう)の影も顕(た)つかに光堂黄金(こがね)かがよふ冬ありて澄みつつかあらむ我はおもほゆちかぢかと凍(し)むる夜ふけや泥炭の外積(そとづみ)くづれ後(あと)ひそまりぬ(つづく)
2019.09.29
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9月29日(日) 「内村鑑三書簡集」(岩波文庫より)(注)文語を口語に、わたしの意訳箇所もあります。明治39年より 患難の解釈苦しみは、消極的に考えるのでなく積極的に考えると良いと思います。たとえば、神様が罰を与えているとは考えず、神様が恩恵をお与えになっていると考えるのです。神様が怒っているのではなく、優しく愛していると考えるのです。雲は光と考え、強風は神様の力強い吐く息と考えます。どんなに身体的に苦しくとも霊魂を犯すことは出来ません。霊魂さえ幸福に保てるならば、どんな苦しみも苦しみにはならないのです。苦しみは霊魂を幸福にするための藥と考えることが出来るでしょう。その人の考え方によって、苦しみが多ければ多いほど、霊魂の幸福は多くなれるのです。
2019.09.29
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9月28日(土)後藤早苗遺歌集「野菜とわたし」(仮称)(22)(整理中) 秋(5)実りたる秋ナスはただの一つなり単身赴任の夫戻るに取れ過ぎた今年の夏をなつかしむスイカ畑を片付けながらヤーコンの苦き葉好む虫あるや穴だらけなるヤーコンの葉よあとはもう玉葱植えるばかりなり今年の畑もこれでお仕舞い大根が野菜売り場で得意げに百九十円の値を付けている(つづく)
2019.09.28
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9月28日(土)万葉秀歌(下巻)(15) 斎藤茂吉著巻第八(15)あしひきの山の黄葉今夜もか浮びゆくらむ山川の瀬に(巻八・一五八七)大伴書持大伴書持(ふみもち)の歌。書持は旅人の子で家持の弟に当る。茂吉:宴で「黄葉」を皆で詠んだのだが、彼だけ歌い方がやや趣を異にしていた。夜なかに川瀬に黄葉の流れゆく写象を心に浮かべて、「今夜もか浮びゆくらむ」と詠嘆している。今読んで見ても幾分象徴詩的なところがあっておもしろい。(つづく)
2019.09.28
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9月28日(土)北原白秋歌集(191)中公文庫:日本の9(北原白秋)より昭和49年十一月詩歌十日初版歌集「牡丹の木」(3)牡丹の木 (3)風先に百日紅の紅(あか)かるはおほよそに見て薄眼(うすめ)あるべし朝の麺麭(パン)食(は)むと面(かほ)あてこの幼な睫毛(まつげ)も頬もバタまぶれあはれ秋の日の白光(びやくくわう)にしも我が澄みて思(おもひ)ふかきは為(な)すなきごとし戦(たたかひ)はかかるものぞと書き来(こ)せり然(し)かおもほゆれおもほえなくに (つづく)
2019.09.28
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9月28日(土) 「内村鑑三書簡集」(岩波文庫より)(注)文語を口語に、わたしの意訳箇所もあります。明治39年より キリスト信者の多少真のキリスト信者は非常に少ないと思いなさい。キリスト信者は決して多くはないと思いなさい、また無駄に多くなくても良いとわたしは思っています。日本には三万人以上のキリスト信者がおると言います、それを信じてはいけません。三万人以上のキリスト信者がいるというのではなく、三万人以上の教会より洗礼を受けた人がいるということです。真のキリスト信者はキリストによって新しい人間に生れ変わった人のことです。このように真のキリスト信者はダイヤモンドと同じように数が少ないのです。あなたがたも、多くのキリスト信者を望んで、失望することのないようにしなさい。
2019.09.28
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9月27日(金)後藤早苗遺歌集「野菜とわたし」(仮称)(21)(整理中) 秋(4)「サツマイモ」(2)地中にて太くなる芋細き芋この差はどこからくるのだろうか地中にてどれほど育っているだろう芋掘る時の楽しみのひとつ地のなかに収まりきれずさつま芋地面持上げ顔を出したり気兼ねしつつ掘り損ないの芋選(え)ればこれもと言いて妹持ち行く甘藷にも種類は増えて年ごとに甘味の強いものが出回る(つづく)
2019.09.27
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9月27日(金)万葉秀歌(下巻)(14) 斎藤茂吉著巻第八(14)夕月夜(ゆうづくよ)心(こころ)も萎(しぬ)に白露(しらつゆ)の置(お)くこの庭(には)に蟋蟀(こほろぎ)鳴(な)くも(巻八・一五五二)湯 原 王湯原王(ゆはらのおおきみ)の蟋蟀の歌。茂吉:白露のおいた庭に蟋蟀が鳴いている。それを聞くとわが心も萎々(しおしお)とする。 (つづく)
2019.09.27
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9月27日(金) 北原白秋歌集(180)中公文庫:日本の詩歌9(北原白秋)より 昭和49年十一月十日初版歌集「牡丹の木」(3)(注)この歌集は、白秋の死後、昭和十八年に刊行された歌集で、白秋最後の吟詠。牡丹の木(3) 山といへば五山のひとつ臨済(りんざい)のこの大き寺の夏(け)に籠る我は雲くらき暁早くねざめして先声(せんじやう)の蝉に涙とまらず朝聴くに女性(によしやう)の声もまじらひて現しき寺やまた明けそめつ秋早やも東京こほろぎ声立ちてあはれころろぎぬ阿佐ヶ谷五ノ一やうやうに住みつくならし坪庭の薄(すすき)のい照り閑(しづ)けき見れば (つづく)
2019.09.27
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9月27日(金) 「内村鑑三書簡集」(岩波文庫より)(注)文語を口語に、わたしの意訳箇所もあります。明治39年より 成功と失敗わたしが行わなければならないことをした時には、神様は成功という贈り物をわたしにしてくださいます。わたしがしてはいけないことをした時には、神様はわたしを失敗させて反省させてくださいます。ですから、成功はもちろん、失敗も神様の聖意としてありがたく受けとめたいと思っています。
2019.09.27
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9月26日(木)後藤早苗遺歌集「野菜とわたし」(仮称)(20)(整理中) 秋(3)「サツマイモ」(1)芋畑にネットを張れば雄の雉すき間さがしてうろついている子を八羽連れたる雉がわが家の芋の畑を餌場にしてる芋畑たらふく食べたる雉たちかわれを嚇かしあたふた逃げる親子づれのキジが畑を荒らしおり畝は乱れて芋は飛び出す(つづく)
2019.09.26
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9月26日(木)万葉秀歌(下巻)(13) 斎藤茂吉著巻第八(13)秋(あき)の田(た)の穂田(ほだ)を雁(かり)がね闇(くら)けくに夜(よ)のほどろにも鳴(な)き渡(わた)るかも(巻八・一五三九)聖武天皇茂吉:「秋の田の穂田」までが序詞で、「刈り」と「雁」とにかけている。「闇けくに夜のほどろにも鳴きわたるかも」に中心があり、闇中(あんちゅう)の雁、暁天に向かう夜の雁を詠嘆したもうたのに特色がある。
2019.09.26
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9月26日(木)北原白秋歌集(184)中公文庫:日本の詩歌9(北原白秋)より昭和49年十一月初版歌集「牡丹の木」(2)(注)この歌集は、白秋の死後、昭和十八年に刊行された歌集で、白秋最後の吟詠。 牡丹の木(2)茶の料(しろ)と冬は牡丹の木(き)を焚(た)きてなに乏しまむ我やわびつつ口授(くじゆ)しつつ春も暮るるかながながと紫の藤(ふじ)こきたれにけり我が憤怒(ふんぬ)阿修羅のごとく時ありし眼(め)角(かど)思へば今は幽けさ我が盲(し)ふる安けきごとしうすうすに百日紅の咲くを待ちつつ八十(やそ)あまり五つの翁(おきな)み髯(ひげ)垂(た)り一片(ひとひら)食(は)ます珍(うづ)の白桃(つづく)
2019.09.26
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9月26日(木) 「内村鑑三書簡集」(岩波文庫より)(注)文語を口語に、わたしの意訳箇所もあります。明治39年より 遠大な事業わたしは、今生きている人だけを救おうと思っているのではありません、これから生まれる人々も救いたいと思っているのです。わたしは、日本人だけを救おうと思っているのではありません、地球上の全人類を救おうと思っているのです。わたしが今行っていることは、小さなことかもしれませんが、永久的であり宇宙的であると思っています。わたしは、今だけを目的にして働いているのではないということを強調しておきます。
2019.09.26
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後藤瑞義 入選歌 舗装路の継ぎ目に生きる場所を得て一列に咲く鶏頭の花 下田市 後藤瑞義 (読売新聞静岡版 よみうり文芸 九月二十五日 入選 渡 英子 選)
2019.09.25
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9月25日(水)後藤早苗遺歌集「野菜とわたし」(仮称)(19)(整理中) 秋(2)「残暑」(2)続きたる猛暑も秋は来ていると赤じその花ひっそりと咲く十分に収穫終えたるカボチャ畑いまだ小さき実があまた付くなすトマト彼岸というに実りいて秋まき野菜の遅れてしまう祈りにも似たる思いで空を見る秋まき野菜のまきどきの今収穫の終りしカボチャ畑には大根人参蒔き時を待つ(つづく)
2019.09.25
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9月25日(水)万葉秀歌(下巻)(12) 斎藤茂吉著巻第八(12)今朝(けさ)の朝(あさ)け雁(かり)がね聞(き)きつ春日山(かすがやま)もみぢにけらし吾(わ)がこころ痛(いた)し(巻八・一五一三)穂積皇子穂積皇子(ほづみのみこ)の御歌二首中の一つ。茂吉:一首の意は、「今日の朝に雁の声を聞いた、もう春日山は黄葉(もみじ)したであろうか。身に沁みて心悲しい、」というのである。(つづく)
2019.09.25
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9月25日(水)北原白秋歌集(183) 中公文庫:日本の詩歌9(北原白秋)より昭和49年十一月十日初版歌集「牡丹の木」(1)(注)この歌集は、白秋の死後、昭和十八年に刊行された歌集で、白秋最後の吟詠。 牡丹の木(1)春ふかき牡丹にぞ思ふかがなべて眼を病みしより幾とせ経たる黒きまで隠(こも)るぼうたん春闌(た)けてうれ葉のしげりいきほふものを内隠(うちこも)るふかき牡丹のありやうは花ちり方に観(み)きとつたへよ炉にくべて上無きものは木(ぼく)にして牡丹ぞといふにすべなほほゑむ須賀川の牡丹の木(ぼく)のめでたきを炉にくべよちふ雪ふる夜半(よは)に(つづく)
2019.09.25
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9月25日(水) 「内村鑑三書簡集」(岩波文庫より)(注)文語を口語に、わたしの意訳箇所もあります。明治39年より 天国の宗教キリスト教は西洋の宗教とは思いません、かといって東洋の宗教でもないと思います。キリスト教はこの世の宗教ではなく、いわゆる天国の宗教だと思います。キリスト教を理解するのが難しいのは、ギリシャ哲学でもって、あるいはドイツ哲学でもって、あるいはインド哲学をもって、理解しようとするからだと思います。キリスト教はこの世のどんな哲学でもとても理解は出来ないでしょう。イエス・キリストは言いました、「人がもし新しく生まれ変わらなければ神様の国は見ることは出来ません」と。神様によって新しく生まれ変わらなければ、東洋の儒者でも西洋の哲学者でもキリスト教がどういうものかを理解するのはとうてい出来ないでしょう。
2019.09.25
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9月24日(火)後藤早苗遺歌集「野菜とわたし」(仮称)(18)(整理中) 秋(1)「残暑」(1)透析に命ながらうわれなれど秋蒔き野菜の種を買いたり何日かぶりの雨なり秋蒔きの野菜の種が芽を出す気配いつまでも続く残暑に夏野菜季節忘れたように成りゆくいつまでも夏の野菜が採れるのを残暑も良いと一人喜ぶカボチャには猛暑が合うや九月にもまだ次々と花が咲きゆく(つづく)
2019.09.24
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9月24日(火)万葉秀歌(下巻)(11) 斎藤茂吉著巻第八(11)夕(ゆふ)されば小倉(をぐら)の山(やま)に鳴(な)く鹿(しか)は今夜(こよひ)は鳴(な)かず寝宿(いね)にけらしも(巻八・一五一一)舒明天皇秋雑歌(ぞうか)、舒明天皇御製歌一首。茂吉:一首の意は、「夕がたになると、いつも小倉の山で鳴く鹿が、今夜は鳴かない、多分もう寝てしまったのだろう」というのである。(つづく)
2019.09.24
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9月24日(火)北原白秋歌集(182)中公文庫:日本の詩歌9(北原白秋)より昭和49年十一月十日初版歌集「黒檜」(16) 黒檜(2)こごしかる湯檜曾(ゆびそ)の村や片谿(かただに)と日ざしたのめて冬はありつつ春雷(しゅんらい)の行(ゆき)かそけかる夜なりけり寒餅(かんもち)の水の雫(しづく)切らしむ花ひとつ枝にとどめぬ玉蘭(はくれん)の夏むかふなり我も移らむ(つづく)
2019.09.24
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9月24日(火) 「内村鑑三書簡集」(岩波文庫より)(注)文語を口語に、わたしの意訳箇所もあります。明治39年より われのすべて財産を失っても結構です、どうぞ神様のお顔を見失うことがありませんように。病気に苦しんでも結構です、どうぞ神様のみ心を疑うようなことがありませんように。友達を失っても結構です、どうぞ神様を失うことがありませんように。死亡することも結構です、どうぞ神様から離れることがありませんように。神様はわたしのすべてです。わたしが神様を失うということは、わたしのすべてを失うことなのです。「われらに父を示し給え、されば足れり」(ヨハネ伝十四章八節)。わたしの全生涯の目的は神様を見、神様を自分のなかにしっかり逃がさないようにつかまえている、これがわたしのすべてです。
2019.09.24
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9月23日(月)後藤早苗遺歌集「野菜とわたし」(仮称)(17)(整理中) 夏(13)「夏の野菜」(3)雨の日は部屋にこもりて秋蒔きの種のカタログくりかえし読む存在を主張するがににがうりの花匂いおり茶の間までにも秋蒔きの野菜の場所と思えどもまだ成ているカボチャ畑は秋蒔きの野菜の種を買いそろえ明日は畑の準備をしよう五十パーセント降水量に期待して秋蒔き野菜の種蒔き終る(つづく)
2019.09.23
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9月23日(月)万葉秀歌(下巻)(10) 斎藤茂吉著巻第八(10)夏山(なつやま)の木末(こぬれ)の繁(しじ)にほととぎす鳴(な)き響(とよ)むなる声(こゑ)の遥(はる)けさ(巻八・一四九四)大伴家持大伴家持の霍公鳥(ほととぎす)の歌。茂吉:「夏山の木末の繁」は写生であろうが、前出の「山の際の遠きこぬれ」の方が上手いようにおもう。「こゑの遥けさ」というのがこの一首の中心で、現実的な強みがある。巻十(一九五二)に、「今夜(このよひ)のおぼつかなきに霍公鳥鳴くなる声の音の遥けさ」というのがあり、家持はこれを模倣しているのである。(つづく)
2019.09.23
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9月23日(月)北原白秋歌集(186)中公文庫:日本の9(北原白秋)より昭和49年十一月詩歌十日初版歌集「黒檜」(15) 黒檜(1)黒き檜(ひ)の沈静にして現(うつ)しけき、花をさまりて後(のち)にこそ観めか黝葉(ぐろば)にしづみて匂ふ夏霞若かる我は見つつ観ざりき雨とふる朝ひぐらしの声きけば常あるに似たり繁(しげ)き杉山水上(みなかみ)は屋(や)群(むら)片寄る高岸に瀬の音(と)ぞひびく冬陽(ふゆび)さしつつ (つづく)
2019.09.23
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9月23日(月) 「内村鑑三書簡集」(岩波文庫より)(注)文語を口語に、わたしの意訳箇所もあります。明治39年より 最も難(かた)きこと神様を信仰している人にとって最も難しいことは、一大決心して神様の喜ぶようなことをしようと動き回ることではありません、独り静かに神様のみ言葉が聞こえるまでじっと待っていることです。それは、一年かも知れません、あるいは三年、あるいは十年、あるいは二十年かもしれません。その人なりの信仰の度合いにしたがって、ただ黙って神様のみ言葉を待つことなのです。詩人ミルトンは言いました「単に待つ者もまた善く神に奉仕す」と。すなおに神様のみ言葉を待つことは神様のもっともお喜びになることです。わたしは、大きな事を成し遂げようというような野望を捨てて、こころを常に安らかに保って神様をお喜びさせたいと思っております。
2019.09.23
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9月22日(日)後藤早苗遺歌集「野菜とわたし」(仮称)(16)(整理中) 夏(13)「夏の野菜」(2)草取れば生姜の小さな芽が出てる秋の豊作目に浮かびくる摘果などもったいなくて出来なくてぎっしり成ってるわが家の甘夏八月のお盆のころが採り時と蒔きたるモロコシ野鳥のえさに朝ごとになすが育ちて食べきれず猛暑といえど野菜は育つ夏野菜せっせと子等に送りたりわれの存在知らせるように(つづく)
2019.09.22
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9月22日(日)万葉秀歌(下巻)(9) 斎藤茂吉著巻第八(9)神名火(かんなび)の磐瀬(いはせ)の杜(もり)のほととぎすならしの岳(をか)に何時(いつ)か来鳴(きな)かむ(巻八・一四六六)志 貴 皇 子磐瀬の杜は、竜田町の南方車瀬にある。茂吉:この歌は、「ならしの丘に何時か来鳴かむ」といって、ホトトギスの来ることを希望している。おおどかの中に厳かなところがあり、感傷に淫せずになお感傷を暗指している点は独特の御風格というべきである。(つづ)
2019.09.22
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9月22日(日)北原白秋歌集(175)中公文庫:日本の詩歌9(北原白秋)より 昭和49年十一月十日初版歌集「黒檜」(14)瞳人語 蘭の香に寒波押し来(く)る夜の闇や春酣(たけなは)といふに間(ま)はあり春蘭の根に置く卵殻(から)なるを鼠(ねずみ)は出でて触れゐるらしき薄眼にぞ走る鼠の影追ひて何すとならし春も暮るるに花塵(くわぢん)をさまりて幽(かす)けく暑くなるものか梁(うつはり)を走る鼠すら無し聴くものに春はのどけき鑿かんな昼の鼠のそことなきこゑ盲(し)ひてなほ浄慧(じやうゑ)の人は明らけし面(おも)もちしろく春を寂(さ)びてぞガソリン・コールター・材香(きが)・沈丁(ぢんちやう)と感じ来て春繁(しげ)しもよ暗夜(やみよ)行くなり(つづく)
2019.09.22
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9月22日(日) 「内村鑑三書簡集」(岩波文庫より)(注)文語を口語に、わたしの意訳箇所もあります。明治39年より 真正の伝道伝道は、聖書の言葉を伝えるだけのことではありません、その精神を注ぎ尽くすことだと思います。自分というものを完全に捨て去って他人の心を満たすようにすることだと思います。この世の中で伝道ほどつらい仕事はないでしょう。伝道というのは、自分を犠牲にする仕事です、そして人の魂のために身を尽くすことです(コリント後書十二章十五節)、人々の罪のために自己を捧げることです(ヘブル書七章二十七節)。伝道はとにかくキリストが見本を示された偉大な仕事です。キリストのように人々の罪をすべて自分に引き受けて、自分を神様の供物となるように求めることが出来る人が、真の伝道をすることが出来る人と言えます(テモテ後書四章五、六節)。
2019.09.22
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9月21日(土)後藤早苗遺歌集「野菜とわたし」(仮称)(15)(整理中) 夏(12)「夏の野菜」(1)百本の芋差し終わるを待ちいしや雨降り始む梅雨の初めの台風にいためられたるナスキュウリ色鮮やかな花咲かせたり今年こそブルーベリーを鳥達に取られぬようにネットまきたり取りもれたオクラがたった一日で二十センチになっているなり畑には夏の野菜の花盛り眺めているととても幸せ少しずつ夏の野菜がなりだして自給自足のわが家の食事(つづく)
2019.09.21
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9月21日(土)万葉秀歌(下巻)(8) 斎藤茂吉著巻第八(8)波(なみ)の上(うへ)ゆ見(み)ゆる児島(こじま)の雲隠(くもがく)りあな気衝(いきづ)かし相(あひ)別(わか)れなば(巻八・一四五四)笠 金 村入唐使(多治比真人広成)が立つ時に、笠金村が贈った長歌の反歌。茂吉:一首の意は、「あなたの船が出帆して、波の上から見える小島のように、遠く雲がくれに見えなくなって、いよいよお別れということになるなら、嗚呼(ああ)吐息(といき)の衝(つ)かれることだ、悲しいことだ、」というのである。
2019.09.21
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9月21日(土)北原白秋歌集(179)中公文庫:日本の詩歌9(北原白秋)より昭和49年十一月初版歌集「黒檜」(13) 短日童女像(2)我が二人(ふたり)いたりつくらし何くれと言(こと)には出でね依(よ)り合ふ思へば家妻は心おきなし読む書(ふみ)の声ねむたげに落ちゆく聴けばありやうは春の朝(あした)の飲食(おんじき)も色に見ずてはつひに寒けき一つ来て瞼(まぶた)に煮ゆる雪片(せつぺん)の須臾(しゆゆ)とどまらず水と滴(た)りにけり(つづく)
2019.09.21
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9月21日(土)「内村鑑三書簡集」(岩波文庫より)(注)文語を口語に、わたしの意訳箇所もあります。明治39年より 罪を犯さざる道わたしは、罪を犯してはいけない、いけないと思いながら、つい罪を犯してしまったことがあります。わたしは、イエス・キリストを心に信じて初めて罪を犯すことがなくなりました。罪を犯さない方法は、罪を犯さないように努力することではなくて、深くキリストを信じることだと分かったのです。「キリストわれらを愛しその血をもってわれらの罪を洗い清め給えり」(ヨハネ黙示録一章五節)、これは聖書の単なる一節ではなく、実験された事実です。わたしはキリストにおすがりし、お頼みし、キリストがすでにわたしの罪を洗い清められていることを知りました。
2019.09.21
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9月20日(金)後藤早苗遺歌集「野菜とわたし」(仮称)(14)(整理中) 夏(11)「里芋」来週の梅雨明けまでに里芋の敷き藁しよう日照りに備え里芋に水やりおればどこからか蛙出て来て喜びて鳴く里芋にたっぷり水やりこの秋の大豊作を目に浮べおり里芋の葉の色日ごと枯れゆけど病む身のわれは水もやれない(つづく)
2019.09.20
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9月20日(金)万葉秀歌(下巻)(7) 斎藤茂吉著巻第八(7)平常(よのつね)に聞(き)くは苦(くる)しき喚子鳥(よぶこどり)こゑなつかしき時(とき)にはなりぬ(巻八・一四四七)大伴坂上郎女茂吉:一首の意は、「身につまされてむしろ苦しいくらいな喚子鳥の声も、なつかしく聞かれる春になった、」というのである。季節の変化に対する感じも出ており、春の女心に触れることが出来るようなところがある。(つづく)
2019.09.20
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9月20日(金)北原白秋歌集(178) 中公文庫:日本の詩歌9(北原白秋)より昭和49年十一月十日初版歌集「黒檜」(12) 短日童女像(1)短日(たんじつ)は盲ふる眼先(まさき)に朱(しゅ)の寂(さ)びし童女像ありて暮れてゆきにけり田(た)鼠(ねずみ)ら硝子戸のぼりあわただし谷地(やち)の月夜も凍(し)みて明(あか)きか瀬の音のひと日ひびかふ冬まけて鉄瓶の湯気我も立たしむ書(ふみ)読みて楽しかりにし昨(きぞ)思(も)へば燠(おき)掻きほぜり冬よるべなし(つづく)
2019.09.20
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9月20日(金) 「内村鑑三書簡集」(岩波文庫より)(注)文語を口語に、わたしの意訳箇所もあります。明治39年より 教会と天国教会はこの世の天国ではありません。また、天国は来世の教会ではありません。天国は教会の中にもありますし、教会の外にもあります。ですから、教会がなくなっても天国はなくなりません。むしろ腐敗した教会がなくなって、始めて天国が現れるのです。わたしたちは、必ず天国の市民にならなければならないでしょう。しかし、必ずしも教会の会員になる必要はありません。神様の天国は広大ですから、天国に入りたい人はかならずしも教会に入る必要はないと思います。
2019.09.20
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9月19日(木)後藤早苗遺歌集「野菜とわたし」(仮称)(13)(整理中) 夏(10)「ブロッコリー」七月の半ばになりてブロッコリーキャベツの種を蒔かねばならぬブロッコリーの脇芽を摘んで食卓に自給自足の暮しが続くわが畑を縄張りとしてひよどりがブロッコリーの葉毎日食べる白菜もブロッコリーもよい苗が出来たり冬の収穫を待つブロッコリーの花に群がる蜜蜂よ集める蜜はいかほどならん(つづく)
2019.09.19
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9月19日(木)万葉秀歌(下巻)(6) 斎藤茂吉著巻第八(6)蝦(かはづ)鳴(な)く甘南備河(かむなびがわ)にかげ見(み)えて今(いま)か咲(さ)くらむ山吹(やまぶき)の花(はな)(巻八・一四二五)厚 見 王厚見王(あつみのおおきみ)の歌一首。茂吉:一首の意は、「蝦(かわず)(河鹿(かじか))の鳴いている甘南備河に影をうつして、今頃山吹の花が咲いているだろう、」というので、こだわりの無い美しい歌である。
2019.09.19
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9月19日(木)北原白秋歌集(177)中公文庫:日本の詩歌9(北原白秋)より昭和49年十一月十日初版歌集「黒檜」(11) 曇れる魚眼(3)眼力(まなちから)けだし敢(あへ)なし夕顔の色見さだめむ睫毛(まつげ)触りたりよく磨(す)らむ愛(かな)し女童(みわらは)七夕(たなばた)は磨る墨のいろの金(きん)に顕(た)つまで端渓(たんけい)の硯(すずり)の魚眼(ぎょがん)すがしくて立秋はいま水のごとあり佐渡ケ島雑太(さはた)の庄に目は盲ひて干すさ筵(むしろ)の粟(あは)の粒はや啄(つ)む粟(あは)の薄日(うすひ)あはれとほうやれと追ふ鳥すらや眼には見なくに(つづく)
2019.09.19
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9月19日(木) 「内村鑑三書簡集」(岩波文庫より)(注)文語を口語に、わたしの意訳箇所もあります。明治39年より 福音とは何ぞ福音は、高い道徳ではありません。福音は、完璧な哲学でもありません。福音は罪を赦すものです。主はおっしゃいました、わたしを仰ぎ見なさい、そうすればあなたは救われるでしょう。天からのこの神様の声がないのであれば、福音がいかに理路整然であっても、福音がいかに高邁なものであっても、わたしにとってはそれは福音ではありません。福音は簡単明瞭な神様の声であると思います。ですから、わたしは子供のような心で、福音の神様の声を聞き、それを信じて救われるのです。わたしは福音を聖書学とか、宗教哲学とか、組織神学などとは別のものと考えています。
2019.09.19
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