2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
全12件 (12件中 1-12件目)
1
欲で他人の幸福を奪うなかれ過剰人員を減らす、コストを削減する、働きの悪い奴はいらない、できるだけ低賃金に置き換える、能力中心、成果主義、人間労働を機械に置き換える、賃金に格差が生じるのはやむを得ない、などなど。こういうのは経営学の正義であり真理であると言われてきた。誰も異議を唱えられない。この結果、「余った」人たちは掃き溜めの中にでも掃き寄せられるように疎外される。こういうのはやはり反人間主義なのではないかと思う。経営学がここまで言うのなら、哲学や倫理学や宗教は反論すべきであろう。ある人が商才があって、商売に向いて居て、どんどん儲ける。これは結構なことだが、大部分の人があまり商才がなくて、商才のある人から商品を買ってくれるから、商才のある人がもうかる。商才のある人からみれば、なんで大勢の人たちはこんな程度にも商才が働かないのかと不思議に思い、軽蔑するだろうが、人間はそういうふうにできているのだと思い、そういう状況をおし頂いて感謝すべきなのである。誰もかれもが商才があったら、困るではないか。戦前くらいまでは、サムライ的な観念が強かった。私の出身である熊本などは商人を軽蔑する気風が強かった。商人がおおっぴらに尊重される世界は大阪などに限られていたのではないか。江戸っ子などというのはまったくきっぷだけで生きて居て、宵越しの金は持たぬ、というのは言葉ではなく、実際にその日に稼いだ金は一晩で使うことが正義だと信じている人がいた。それが美学だった。一方、大阪商人にも美学があって、普段は1銭2銭もケチケチするが、年に一度は大盤振る舞いしてドンチャン騒ぎ、一晩に百万使って歯牙にもかけないというのが商人の誇りである、ということも聞いた。つまり、人間にはケチを軽蔑する気持ちがある。舞い上がる矜持、ロマンチシズムというのだろうか。毎年季節になると全国津々浦々の神社仏閣で縁日が開かれ、着飾った善男善女がひきもきらずに参詣に訪れる。とどろく太鼓に商売の熱気。みこしが大道を黒山の人で埋め尽くす。子供たちははしゃぎまわって喜ぶ。いい風景である。こういう善男善女を大事にすることが、才有る人のつとめである。
2009/05/31
今朝の朝日新聞朝刊は「西松事件は国策捜査だったのか」というタイトルで、編集委員の村山治氏、川本裕司氏と評論家の宮崎哲弥氏の3人がメディア衆論として語っているが、国策捜査だったのか、それを否定したのか、3人ともわからない、と断定を避けているだけで終わっている。要するに朝日の自己弁護に終始し、韜晦な理屈をこねて、自分たちがやった検察情報のたれながしをなんら反省も責任説明もしていない。「衆論」などとまるで他人事のような扱いである。なんのためにこういう「衆論」を掲げたのだろうか。朝日に期待するのは、今後、国策捜査とおぼしい事件があった場合に、どういう態度でこれを報道するのか、会社の方針を明確に決めて公示することである。編集委員がまっさきにやることはそれである。これから時々刻々、世の中が変化していくだろうが、大新聞やテレビによく出る評論家はいろいろ意見を多様にする読者をおおぜい持っている関係でその言説は中立厳守、どっちつかず、風向きや落ち着き先を見定めてからの後追いになるから、読者はそういうメディアや評論家の性質を見極めたうえで、適当に読まねばならない。メディアも自分たちの立場は中立の立場ですから、ということを明らかにすればいいだけである。
2009/05/29
昨夜は60年ぶりに麻布高校54回期生の同窓会に出た。50人ばかりが集まっていた。皆老人の顔になって、記憶にある顔にぶつからなかった。名簿をみてびっくり、死亡者65人のうち、なんとその中に私の親友やよくつきあっていた友が9人もいるではないか。なんて早く死んでしまったものか。私は終戦直後の22年に麻布中に転校し、25年に高校を卒業するまで2年半ほどいたわけだが、あのころが学区制だったから、地元の子供が入り、今の麻布とちがっていろいろな子がいた。下駄やソウリを履いて通う子もいれば、サージの紺の制服できめたいい家の子も多かった。昔から都会的でリベラルな学校だった。親の職業は、医者が比較的多く、それから弁護士とか裁判官とか、老舗の商店や製造業などなど実家で事業をやっている家が多かった。だから、周りに座った同級生同士、家業の中小企業を継いでオヤジになっている者が多く、景気の悪い話ばかりを聞かされた。注文が3割から4割来なくなった、銀行が金を貸してくれるかくれないかが山だ、などと深刻な話ばかりだった。さて、一昨日は、ドイツ証券副社長の武者氏に取材したので、私は経済に関心が集中している。今の日本の窮況は、やはり一口に言えばグローバル経済への転換の仕方がよかったか悪かったか、の両面が出ているということであろう。日本の民間企業で働いて居る人の20パーセントが大企業、80%は中小企業である。中小企業を2つにわけると、グローバル経済つまり輸出関連で食べている企業と国内需要だけで食べている企業になる。前者は今の経済危機のあおりで大企業と同じように打撃をうけているが、後者の中小企業では、三千数百万人がはたらいている。このあたりは国内市場が収縮しているので商売は先細り、賃金も上がらない。希望ももてない。それでまったく意気が上がらない。グローバル時代が始まった時、安値の輸入品攻勢に耐えきれずに、猫も杓子も海外に生産拠点をうつして、当時、空洞化と言われて騒がれたが、やはりその報いが深刻になったといえよう。われわれがふたん使っているもの、ナベカマから家具寝具、衣類、靴、食品、電化製品、機械器具、文房具などありとあらゆるものをこれら中小企業で作って販売していた。これで大勢の産業や流通がなりたち、たくさんの人が食べていけた。学校の卒業生は就職先があった。それらの大部分が海外に生産がうつされて、仕事がなくなったわけである。今、私が思うに、少々値段が高くても国産品は品質がよく、長持ちする。それでそれを大事に長く使うことで、差し引き損得はない。こういう国内需要向けの商品は国際競争力など必要ないのであるから、そういう中小企業に対して政府は法人税を下げて、経営を存続させ、雇用を確保することだったと思う。経済は少数の人に富が偏在しても貯金になって投資に回らない。金は大勢の人に広くうすく回るからこそ、消費に回って経済が活性化する。金は天下の回りもので、それが何倍にも回転する。(つづく)
2009/05/27
ナンデモ経済時代1エコノミーを福沢諭吉が経世済民から取って「経済」と訳したと言われている。まことに壮大な訳だと感心するが、こういう訳語も誤訳のきらいが常にあると思う。エコノミーの原義は家計管理というものであるらしく、少ない収入でうまくやりくりして無駄を省く生活をおくるというところから来たらしい。エコノミカルというと安いという意味があるからそうだろうと思う。やがて家計は企業や団体の「家計」に発展したが、企業になると将来にむけての投資、リスク負担という要素も出てきた。18世紀から19世紀にかけてイギリスで起こった産業革命というものが、その後の200年間を決定づけたように思う。このときに出たのが、アダム・スミスの国富論。はじめて経済学らしいものができたが、経済学というものは要するに世の中説明学で、アダム・スミスは「見えざる神の手に導かれて全体経済はうまく回る」「誰もが一生懸命商売をやれば、全体としてうまくいく」というふうに説明したが、これは説明しきれなくなって、「みえざる神の手」というものを持ち出したが、私はこういう言い方は、経済学なんていうほどのものではないと思う。要するに、一部の先進国の成長が一方であって、一方に膨大な非先進国、まずしく無知な人達がいたから、一部の人たちが豊かになり、200年も右肩上がりでやってこられたというのが歴史の本質である。しかし、資本主義には恐慌というカタストロフィがつきもので、これをいかに解決するかで、マルクス主義、社会主義というものが出てきた。また、ケインズ経済学というものも出てきた。社会主義がかかげた計画経済は失敗したが、資本主義も富の偏在、格差という問題を産み出し、経済学はいまだに学問としては未完、試行錯誤の学問でありつづけている。こういう未完の状態のまま、今度は、いかに節約、効率だけでなく、いかに収益の幅を広げるかと言うことを追求する経営学が発達し、経済学者か経営学者かわからない人たちが、不景気のたびごとに財政出動を云々し、膨大な国の借金をつみあげてしまい、一方で、その行きつく果てが金融経済となって今回の破たんをもたらした。世に経済学者となのる人たちが多いが、この人たちに本当に人間を幸福にする経済学の構築に努力してもらわないと困るわけである。
2009/05/24
朝日新聞を広げると相変わらず、非小沢、反小沢だとか鳩山は小沢の傀儡だとか、民主党は小沢から脱却できるかとか、小沢ぎらいで通している。他社にくらべて朝日はとりわけこの傾向が強い。いったい朝日はなぜこうも小沢を嫌い、警戒しているのか説明する必要があろう。金権体質だとかを批判するが、小沢のポテンシャルについては言わない。さて、ナンデモ法律時代の話に移るが、ナンデモ法律ということがいちばん問題なのは官僚支配をますます強めるからである。官僚つまり国家公務員は28万6千人ほどいるが、この人たちはどういう人たちかと言うと、国民の支配層に属している人たちである。したがって国民という一般的には被支配の側にいる人たちを指す言葉からマイナスしておくべき人たちである。なぜかというと、この人たちは権力をもっているからである。国民主権というが、国民が持っている権力は選挙権だけで、それで政治家や政党を選ぶことはできるが官僚を選ぶことはできない。官僚は徴税権を持ち、法律の執行権をもっている。制度の維持管理権を持っている。また官僚組織がもっている人財や施設、財産、知識・情報、人脈などの蓄積はすごいものがある。政策作りも大半はこの人たちが行っている。このひとたちが行っていることは国民のためが目的であるが、同時に自分たちの組織継続、権力維持も目的である。このひとたちが朝から晩までやっていることは法律・法令づくり、予算づくり、政策作りである。法律をつくり、国会で承認されると、官僚はその法律を守り、違反者を摘発する権力をもつ。閣僚級であろうとどんな有力者であろうと逮捕訴追できる。官僚は法律に準拠して権力をもつが、それだけでは足りないと感じている。それで与党である自民党やアメリカの政策などを自らの権力の支えにしている。官僚にとってはコンプライスで国民が法律・法令を自分のほうから守ってくれることがいちばんガバナンス上ありがたいわけで、官僚はなにかというと「法律」ということになる。こうして官僚を中心とした国の中の国ができる。官僚がいちばんきらうのが、自分たちの権力をおさえつけ、対抗しようとする別の権力が現れることである。その相手は政党である。田中角栄内閣は、官僚をうまく制御してじわじわと官僚の権力の一部をはぎとった天敵だった。官僚がよりどころにしていたアメリカをだしぬいて中国と国交回復したり、アメリカ系以外の石油会社から石油を買おうとし、採掘権を得ようとした。道路づくりの裁量権を奪い取った。この官僚と田中派との権力闘争は小沢までつづいており、小沢がリベンジに出ることを官僚は警戒している。これが小沢秘書逮捕事件に現れた。さて、われわれ国民はこういうことを横目でみながら、法律よりももっとその淵源にあった正義、合理的な精神をしっかりもって、法律などを必要としない生き方をすべきである。法律はいざというときに利用すべきものと心得るべきである。
2009/05/19
昨日は実に面白い映画を川崎で観た。「ブッシュ」。満員の盛況だった。ブッシュはじめ、チェイニー、ウオルフウイッツ、パウエル、ライスなど容貌もそっくりサンが出て、かなりリアルに、さもありなんと思うほど、内閣内のイラク戦争決定までの会話がすすんでゆく。チェイニー、ウオルフウイッツの積極論、パウエルの反対論、ライスの消極的な沈黙など報道されてきたとおりの展開である。つい4か月前まで大統領をしていた男やその内閣のメンバーをこれほどまでに痛快にこきおろした映画、さらに6年前の9.11直後の支持率80%にのって、アメリカ全体の殺気立った雰囲気の中でブッシュは英雄になり、イラク戦争を批判する言論が影をひそめてしまったことを思い出すと、それをあっさりひっくり返してしまうアメリカの民主主義というか、前任者の責任を徹底的にこきおろす変わり目の早さと言うか、そういうことにおどろく。 映画は、どうしようもない酒飲み、女好きのボンボンのブッシュが父ブッシュにあれこれいわれながら、落選のあとで、テキサス州の知事になり、ある偶然で大統領になる。この愚かでアバウトな大統領を中心に、フセインが大量破壊兵器をもっているという情報を唯一の開戦理由にして、国連査察官がどう調べてもその事実がつかめないことに我慢できなくなって、ブッシュの先制攻撃論が一気に大統領室の空気をおさえてしまう。日本だけでなく、やはり空気なんだなと思う。戦争がはじまり、爆撃や例のフセイン像が倒される実写ニュース。閣僚たちは成功だといって乾杯し、パウエルも満足する。しかし、やがて場面は一転、ティクルート作戦で頓挫が始まる。必死に探し求めた大量破壊兵器も出てこない。閣僚たちが困ったとき、チェイニーがイラクの石油を支配し、イランも占領して中東の石油を独占してしまうことが戦争の目的なんだ、われわれはイラクから撤退せずに居座るのだと居直る。やはり本音はそうだったのかと、イラク戦争の本当の目的が確認できた。この映画では、ブッシュの失敗はイラク戦争を中心に描かれるが、金融危機も彼らの責任である。この史上最低の大統領がどうして生まれたか、やはり父ブッシュの威光をかりた世襲の悪である。しかし、あのころのブッシュ政権に日本の小泉内閣もいいなりだった。日本の学識あるはずの有識者、政治学者、評論家、言論人の大半もイラク戦争にひとことも反対言論を発しなかった。素人だった私でさえ、疑問をもち、反対意見をもっていたのに。
2009/05/17
14日の水野和夫セミナーでずいぶん根本的なことを学んだ。近代化が終わったということは、これまで地球上で人口13%の先進国がのこりの87%の後進国の人口の上にのっかって150年ほどの豊かな生活を享受したが、今はすべての統計が下降して行き、87%の下支え人口が53%になると、1974年程度の生活水準にわれわれはもどってゆくのだという。しかし考えてみて、1974年頃のわれわれはさして不幸に感じていたわけではないし、それぞれの生活レベルでの生活の仕方と幸福があったわけである。私がサラリーマンをやめてなれない商売を始めたころ、たちまちだまされたり、お金を払ってくれない人や理不尽に弱い者をふみつけにする人たちが現れた。この世の中はこういう人たちを制裁する方法がないことをつくづく知るようになった。悪い人は法律に違反するような悪いことはしない。法にひっかかる人は同じ悪い人でもバカな人である。警察は民事にはかかわらない。 裁判にかけるなんていうのは、金と時間がかり、よほどのことでないかぎりおっくうである。弁護士は勝てる訴訟でないと引き受けない。だから、本当は法律というものは、本当はあまり役に立たない。だから人類は長い歴史の過程で宗教、道徳、倫理、教育というものに力を入れ、法律以前で円満な社会を作ろうとした。しかし、近代はそういうものを壊してゆき、今は法律しか残らなくなった。日本人は昔はよく「恥を知れ」と言った。言われた方はそれに相当こたえた。「あなたはそういう人間だったのですか」と怒りとさげすみの目で見られたらおしまいだった。しかし、堕落した人に対して「恥を知れ」と言っても、その人は恥の観念などないから、こたえない。「あんたとは見解の相違、関係ないね」などとうそぶく。したがってこういう人を脅すには「法律に訴える」「あなたのスキャンダルをばらす」というしかない。だから、法律を守る、コンプライスなどというのは、ほんとうは正しい方向ではない。法律を離れても維持できる社会をつくりましょうということが正しいのだ。(つづく)
2009/05/15
今朝の朝日はオピニオンで山口二郎氏と郷原信郎の両氏が小沢退陣にふれて発言している。この前の立花、浜氏の感情的な切り捨ての文章より客観的で納得のいく書き方である。今朝の朝日の記事は民主党代表選の報道でいっぱいである。各紙が民主党の動きについてどういう書き方をしているか、読売、産経、東京、日経の記事も読んでみた。毎日は手に入らなかったので、インターネットで読んだ、すると、朝日以外の新聞は、鳩山、岡田氏の発言をそのままあっさり書いて文章量もたいして多くない。しかし、朝日の政治記事だけは「親小沢か非小沢か」とか鳩山だと小沢院政のおそれだとか、若手は岡田擁護だとかで、まるでノンフィクション仕立てで書いている。小沢があるベテラン議員に代表選の行方を電話で聞いたという記事では、記者がそのベテラン議員から聞いたらしい会話の内容を書いているが、それがほんとうかどうかはわからない。とにかく関連記事をふくめると2ページくらいになり、やたらに長い。2ぺージ目では「12日夜、民主党内をさまざまな情報がかけめぐった」などという書き出しで始まり、民主党内でさまざまなグループが会合などをひらいている記事になっている。しかし、こんな劇場仕立ての記事、しかも政治記者の忖度が入った反小沢とか非小沢だとかいう勝手に図式化した記事などは必要だろうか。要するに鳩山だろうと岡田だろうと、小沢の院政だろうと、そうでなかろうと、国民はいい政策、いい政治をしてくれればいいのであって、もっと客観的にその政党が政権を担った場合のポテンシャルなどを解説してくれたほうがいい。選挙が近づいたら、国民の投票行動に影響を与えるような政局だとか政争だとかの記事は余計であるし、こういう書き方はやめるべきだ。
2009/05/14
始まった朝日の世論誘導8日の朝日朝刊で「あえて問う政権交代は善なのか」がオピニオン 政治衆論として今井貴子、御厨貴、牧原出、薬師寺克行氏らの発言が紹介された。これをみると、イギリスの例をあげて政権交代するには、交代する政党の優位性がはっきり示されないといけないという立論で、民主党にはそれが不足しているという結論である。こういうきわめて印象批評的な書き方は曲者である。政権交代は善ではないということをいいたいのであろう。13日の同紙朝刊オピニオンには、「小沢一郎とは」で立花隆、浜矩子氏が寄稿。一貫して小沢一郎批判、小沢けなしである。ここに登場した人たちは、「衆」ではなく毛並みのいい日本で第一級のエリートとみられている。かれらエリートが民主党をきらい、政権交代に反対するのはなぜだかわからないが、立花氏は、最初は小沢は党首をやめて個人で闘えと言っていた。今度の小沢辞任で、小沢に対する同情論でも少しはあるのかと思ったら、浜氏とともに、小沢一郎の旧体質という一点をとりあげて、民主党ともども、政権交代などはメじゃないということを言おうとしている。こうした重鎮的エリートといわれる人たちは、インテリに影響力があるからそれでインテリの世論から誘導しようとするのであろう。あれほど長きにわたって政権交代が待ち望まれ、自民党の旧体質批判がリベラルな文化人の御家芸だった。しかし、そういうのは、政権交代の可能性などない時代だったから、安全パイとしてエリートたちが安心して発言していたが、にわかに政権交代の可能性がでてくると、どちらかというと革新的な発言をするとみられていた著名人が今度は保守の顔を表すようになった。読者はむずかしい読みをしなければならなくなったものだ。著名人という人たちはずいぶん勉強した人たちであろうから、教養の積み重ねの頂点で、上澄みで物をいう。そういう上澄み発言を言われても、わからないものだ。印象批判でなくもっと具体的な政策論を言ってもらいたいと思う。どういう政党で、どういう政策がいいのか。決定的なことは大新聞も著名人もそういうことはいっさい言わないということである。こういう中途半端な言論はもう読みたくない。
2009/05/13
ナンデモ法律時代3法律の元は何かというと、江戸時代なら武家ご法度、公家ご法度、寺社ご法度というものがあったが、明治になってから西洋から法学を輸入した。その西洋の法律もその元は何かというと、そのまた昔の法典とか慣習法とか判例の積み重なりだとかでむいてもむいてもタマネギみたいに芯になるドクマはないことがわかった。今の裁判でも、法律通りにやっているわけでなく、検事、弁護士、裁判官の三者が法律を材料にして、いわば理性と正義で裁量を働かせてやっているわけである。つまり、法律そのものはたえず社会が変わるから、実情に合わなくなり、その分、人間の理性を働かせている。陪審員制度になればそれこそ庶民感覚とか常識とかが、加わってくる。ところが、小泉内閣になってから、コンプライアンスということが突然言われだした。つまり法律を遵守しましょうという運動。法律を守ることは誰でも異議はないから、反対する人はいないわけだ。こういうことを言い出した裏には、規制緩和になり、お役人がいちいち監査したり、行政指導したりして未然にトラブルを防ぐということができなくなり、その代わり、法律を結果的に犯した悪い奴には法律を厳しく適用して、見せしめにするということがある。だから、民衆は自分から法律を守っていく意識と習慣をつけましょうというキャンペーンだった。ところが、しゃくし定規に、法律をまちがった態度で守ったら何が起こるかと言うと、法律ファシズムである。メディアがコンプライアンスの推進役になり、検察みたいな摘発役をするようになる。大新聞の論説委員や記者たちは、一般国民(つまり大多数の購読者)が法律解釈していることと違うようなことを反論・異論として書くことは困難になる。そこに思考停止が起こる。郷原氏が著書「思考停止社会」(講談社現代新書)であげているたくさんの事例からひとつとれば、2008年10月25日、伊藤ハムが工場で使用している地下水からシアン化合物が検出された。これは水道法の基準値(1リットルあたり0.01ミリグラム)を上回る0.02ミリグラムだったので、大慌て。地元の保健所と相談したところ、公表しなさいと命じられ、ただちに自主公表して、謝り、商品の自主回収を行った。記者会見して公表した結果、大大的に報道され、世間から指弾された。商品回収のコスト、売上減、会社の信用の喪失など考えると莫大な損失をした。ところがである。極めて微量のシアン化合物が検出されたといっても、そのまま飲むわけではなく、ソーセージやハムなどの製造に使われて、薄められ、製品からはシアン化合物は全く検出されなかったのである。製品を食べてお腹をこわした報告などなかった。だから健康被害などなかった。ところが、新聞は伊藤ハムが検出したことを隠して食品製造を行っていた、つまり知っていたのに、「隠蔽」したと報道したから、「隠蔽」が独り歩きして世の中の指弾がいや増したのである。シアン化合物が水道法の基準値から若干多く、「違法」したかもしれないが、こういうのは、会社の人間も保健所もメディアの人も知恵を働かせれば、世の中を騒がせないで処理できたはずである。まず、「法律の遵守」の前に理性を働かせばならないことを教えるひとつの事件である。(つづく)
2009/05/08
ナンデモ法律時代2このごろ、「それは違法か」「いや、違法ではない」ということで、社会的な規範イコール法律みたいになってきた。違法でなければ何をやってもいいというふうになった。したがって、いろいろ変なことが多発してきた。法律とか法令は、普通の常識では考えられないような悪事をなす人間の出現を未然に防ぐとか罰するとか、あるいは民事の世界で解決困難な係争の解決手段として設けられるとか、いずれも非日常性の世界での行為に対して作られたものである。だから、昔、東大教授で川島武宜という民法の大家が、「ある法学者の軌跡」という自著で、普通の人がまじめに暮らしているかぎり、人生において法律とか裁判とかは全く無縁で過ごすことができるし六法全書のお世話にならないで済む、法律などというものは本来ない方がいいと言っている。つまり法律以前の社会常識で十分機能するわけだが、今はそれが機能しなくなって、何でも法律が基準になった。現代は法治社会である、ということはわかっている。しかし、毎年おびただしい文系の人が法学部を出て、難しい六法全書を勉強し、難関の司法試験をパスした人は法曹の世界に入り、お役人一般も法律に準じて仕事し、彼らのよって立つところは法律である。彼らは法にかなっているかを基準に物事を考え、何かやろうとするとまず法律をつくる。法律に違反したら警察が取り締まるが、法律違反の疑いをかけられたら最後、裁判で最終的に無罪になったとしても、社会的な名誉は傷つけられ、社会的な地位から追放されるから、法律は郷原信郎氏が水戸黄門の印籠と同じだと言ったのは的を得ている。こういうことはちょっと異常な世界ではないだろうか。法律のそもそもの元は何なのか、ということを考えたことがある。中東のイスラム法みたいに、西洋の法律の元はキリスト教ではないかと思ったが、英米法は判例と慣習が積みあがったものだという。ヨーロッパ大陸のほうはローマ法典とかフランス法典とかだという。まるでむいてもむいても法律がでてくるタマネギの皮みたいだ。(つづく)
2009/05/07
世の中の仕組みを解くためには、ナンデモ法律時代に、ナンデモ市場時代、ナンデモ専門家時代、ナンデモ有名人時代とペアになっているわけだが、こういう現象をひとくくりすると、この国に自律的にあった庶民の知恵とか生き方の工夫とか当たり前の倫理・良識とかいう基準がなくなってきたということである。土曜日の昼、大阪のお笑い芸人をつかって面白おかしく法律講釈をやるNHKの番組がある。もう十何年も続いている。最初に漫才師が登場して、例えば、宝くじを買った人が、あたったら前に半分やるよ、と口約束した。そうしたら本当に百万円当たってしまった。しかし本人は口をつぐんで1銭たりともやろうとしない。これって約束違反だから、請求できるのでしょうか?というような他愛ない話を漫才師が演じて、3人の回答者がそれぞれ賛否を言う。最後に司会者が「では、法律はどうなっているのでしょうか」と常連の弁護士に聞く、というわけである。このときは、そういうのは契約違反にはならないが、まあ、ご馳走してあげる程度はしたらいいでしょう、なんてコメントする。しかし、こんな程度の話は弁護士に聞かなくても、常識で判断すればいいことである。法律はどうなっていますか、と確かめても、たいていは常識、良識の範囲内でことがすむ。この番組とは逆に、例えば長年別れたきりになって消息の失われた人たちが再会するのを手助けする番組もある。例えば、親が離婚して片方の親に育てられた子供が大きくなって、両親が離婚した理由が知りたい、別れた片方の親に会いたい、という依頼があった場合、番組担当者が独自に調査して親の行方をつきとめ、対面させるという企画である。まず9人の審査員がいて、会わせるべきか会わせるべきでないかを討論する。最初はかならず意見が割れる。しかし、依頼者の意思が固いことや、番組担当者の調査報告などがあってほとんど全員意見一致する。そうしてドアの向こう側に当の人物が現れるかどうかがスリリングである。私は、それぞれ離婚歴やトラブル歴を経てきた芸能人のつわものが互いに賛否を闘わせるのを聞いて居ると、そこに人生の機微のようなものを感じて、こちらのほうが面白い。なるほどここに庶民の知恵があるな、と思う。専門家やエリートの言うこととはかなりちがうわけである。(つづく)
2009/05/03
全12件 (12件中 1-12件目)
1