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昔からいろんな符牒が使われています。1から10までの数字の符牒には えびすのわらいがおを(戎符牒) あきないたからぶね(米、乾物、雑穀屋) ふくきたりめでたや(古着屋) よのなかわふたりづれ(大道・流し芸人) おこそとのほもよろを(古本屋) いせまつりかちらしぶね(木綿商)理髪業者や演芸会社の符牒になると へい(へが一に似ている) ぴき(1疋=2反) やま(山の形が三角) ささき(佐々木の紋が四ツ目) かたこ(片手、指5本) さなだ(真田の紋は6文銭) たぬま(七夕の訛り) やわた(八幡) きわ(10の傍、際だから)となっているようです。 相場の指符牒は1 人指し指だけ立てる2 人指し指+中指3 中指+薬指+小指4 親指以外の4本5 片手全部立てる6 親指だけ立てる7 親指+人指し指を立てる8 親指+人指し指+中指9 親指を中に全部握る又はスリの符牒10人指し指で円を描くということになっているようです。
2010.06.30
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今から20年ほど前に書かれた本を参考にしますので、ドイツに関する内容は若干のズレがあるかも知れませんが、わが日本の明治初期には、武士から馴れない商人の道を選んだ者も少なくはなく、顧客への対応が横柄な余り、家業が成り立たなかった例も多々あったようです。 ところで、ドイツでは第二次大戦中連合軍の砲火が炸裂する最中でも、花屋さんだけは開店していたと言われるほど、花の好きな国民性を持つ国。誕生日や結婚記念日だけでなく、良いことがあったとき、嬉しいとき悲しいときも、花をプレゼントし合う習慣があって、日本に於ける菓子折みたいなもの。このドイツの市内で花屋を開いた徳井さんが、愛想笑いをして客を迎えたのですが、意外や意外、客は怒ったような表情で直ぐ立ち去ってしまったのでした。親日派のドイツ人が何故?と思いつつ友人に訊ねると、<客は花を求めているのであって、笑顔は頼り無さそうで、逆効果>なんだそうで、そう言えば、パン屋の親父も、ソーセージ屋の女の子も、いつもむっつり顔で応対する。それは信頼感を持たせる為の、威厳ある表情をするのがドイツ流であることが解ったのでした。ちょっとした近所での買い物でも正装に近いナリでやって来るのだから、前掛けなどしないで、それに相応しい恰好で応対しないと受け入れて貰えないとか。徳井さんの失敗談から一つとりだすと、夫婦そろって上得意の客の一人の或るご主人が「女房にやりたいのだが」と花束を買って行かれた翌日、その奥さんが来られたので「昨日のご主人の花束、お気に召しましたか?」と軽く言った瞬間、奥さんの顔色が変った。しまったと思ったところで、もう後の祭。それ以来、ご主人も奥さんも来られなくなった。花屋と謂えど、医者と同レベル、お客さんの秘密は誰にも洩らしてはならないようですね。(参考図書:上前淳一郎氏の「読むクスリ 9巻」)
2010.06.29
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学歴・出世・安定を最重視する教育ママ・パパに育てられ、超一流大学を出て官吏になった人々が牛耳る日本は、今や人材的な危機に差し掛かっていると言っても過言でないでしょう。学校の先生たちは職業教師に成り下がり、校長以下、現状を知らない教育委員会の顔色ばかり伺っている気配。日本児童の学力はその昔、断然トップの高水準を世界に誇っていたのに、今や中・下位に落ちています。注目を集める仕分け作業に於いても、科学というものはトップを目指す熱意と責務を有していないと心もとないのに、2位ではいけないのですか?と言うような考えがまかり通りそうな雰囲気でした。 科学は常に時代の先端を行くものでなければなりません。工学部を目指す若者が16%から7%程度まで減りつつあるようで、これでは世界をリードする日本の技術が凡庸なものになってしまいます。最後に、東京への遷都で荒廃しかけた京都を救った2代目知事、植村正直の「京都府施政ノ大綱に関スル建言書」(明治3年)から1.京都市中ヲ挙ゲテ職業街トシ、追年諸機械ヲ布列シ、専ラ物産ヲ興隆スベキ事2.尽ク無用ノ地ヲ開キテ地産ヲ盛ニスベシ3.水理ヲ通シ道路ヲ開キ、運輸ヲ便ニシテ、以テ商法ヲ弘大ニスベシ4.職業教授場ヲ開キ、遊民ヲアゲテ職業ニツカシムル事5.広ク海外ノ形勢ヲ示シテ人智ヲ発明スル事何と頼もしい、熱血的な思想・鼓舞する理念ではないでしょうか。大相撲(角界)の劣化、国政の劣化、これらは全て”精神的な基本理念の欠如”がその病因であると愚考しますが、如何?
2010.06.28
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捜していたものが見つかりました。それは一通の振込金受領書。昭和52(1977)年3月9日とあるから、33年も前のことになります。受取人が”山崎山荘”、振込人が母、取扱い銀行が第一勧業銀行で、長岡支店から高槻支店への仕向。 さて、この振込み金は何の費用かと言えば、当時、大山崎山荘で料理を提供していたレストランへの年会費と推測します。大山崎山荘を建てた加賀正太郎が喉頭癌で亡くなった後しばらくの間は、千代子夫人が彩月庵にて故人の菩提を弔っていましたが、やがて他人の手に売却されました。いろんな業者に所有権が移りましたが、昭和52年ごろは、レストランを営む業者があったという証明となる領収書と言えます。亡き母はチューダー王朝様式の山荘と庭園や三川合流の景色と、このレストランをとても気にいっていましたが、いつしか不動産会社の手に移り、やれ建売住宅にするとか、やれマンションを建てるとかいう噂に立ち向かった住民や心ある人々の尽力で、現在のような恰好、つまりアサヒビールさんと府・大山崎町が所有することで、立派な屋敷と景観を保つことが出来たのでした。
2010.06.27
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数日前、木津川の流れ橋のことを書きましたが、実は京都の四条大橋は、明治6年ごろまでの近世は浮橋(仮橋)だったとは今まで知りませんでした。明田鉄男著の「京都を救った豪腕知事 植村正直と町衆たち」によれば、四条大橋は平安時代からある古橋でしたが、<明治7年4月、祇園町の負担で京都初の鉄桁構造の橋となった。鉄材はすべて府立伏水製作所の提供である。この「自給自足」体制が、府庁・府民にとって大きな誇りだった。>とあります。祇園祭も町衆の力を見せる晴の舞台。京都の人間はケチではなく、お金の値打ちをしる商人の町でもあるのですね。本日付録の拙作は大津支店に居たころ、部下の女性の要望で作ったピアノ曲です。「Pre For Hiromi」
2010.06.26
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昨夜は久しぶりに天気でしたので、8時過ぎ、家内と蛍の散策に出かけました。・・・思えば、今から6年前、母が亡くなる1年前に蛍1匹を母に見せた想い出があります。母に見て貰ったあと、その蛍を返しに川筋まで戻り、草原に放免しました。 また蛍と言えば、右京区・桂に住んで居た幼い頃は、父に連れられ、家族ぐるみで桂川まで笹を携えて出かけました。遅い時間になると蛍が人の頭上の高さまで飛びますので、それを笹で覆い被せて取った記憶があります。その折の虫籠は、刺繍するときの輪のように二つの竹の輪の間に薄地の布を張り、その中に蛍を入れたような記憶も。 さて、昨夜の状況は家から歩いて5分も行かない場所に小泉川が流れていて、その川面や堤の斜面辺りに蛍が飛んでいました。1キロ近く川沿いの蛍を楽しみました。従来、こんなにも簡単に蛍を見ることができることに満足していたのですが、先日、俳句仲間と岐阜県は揖斐川の支流、飛鳥川で見た蛍の火の大きさが、こちらのものより3倍ほど大きかったこと、辺りが真の闇だったこともあって、今回はそれほど感動を覚えるほどではありませんでした。しかしながら、それは贅沢というものかも知れませんね。 ところでこの夜、小泉川の堤防では、蛍ならぬ別のものを見ていた人たち(3人)に出会いました。何でもつい先ほど、人工衛星がこの堤防の頭上を越えて行ったのが肉眼で見えたという話で、それはそれで残念に思ったのでした。 橋一つ渡り切ったる蛍かな きぬぎぬや昨夜(ヨベ)の蛍のつづり歌 つうと来てそのまま消えし蛍の火
2010.06.25
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京都の丸太町橋西詰に建っている石碑からも判るように、明治初期には幾つかの婦女子用の学校が建てられていました。女紅場と言えば祇園の芸・舞妓らへの躾けを主とする機関と思っていましたが、どうやら3通あったようです。艶っぽい呼び名の女紅場の「紅」には、工或いは巧という意味合いがあって、さしずめ「府立女子技芸学校」と置き換えても良さそうです。明治5年、京都に端を発して近畿の各地で数多くの女紅場が生まれましたが、次の3種類がありました。1)華・士族子女向けの上流女紅場2)遊女・芸者らを収容する遊所女紅場3)町家娘対象の市中女紅場現在で女紅場と言えば2番目のものが主流ですが、実は、1と3こそ京都の特性を示す女紅場史の重要な点なのでした。<上流女紅場> 新英学校・女紅場が正式名称で、九条家河原町別邸を教場として開講されました。当初は凡そ80名ほどの生徒。8歳の最年少から38歳の夫人まで、お供附きで登校。期間が2ないし4年で英語、書道、礼儀作法、細工物、茶道、華道、画道、裁縫、算術、読書などが教科としてあったようです。これが明治37年に府一(府立第一高等女子)となり、昭和23年の新学制で共学の鴨沂(オウキ)高等学校に。福澤諭吉の書には「花の如く、玉の如く、愛すべく、貴(トウト)むべき子女の姿」とあって、喜悦満面だった様子が伺い知れます。<遊所女紅場> 明治3年の公認花街は島原を筆頭に、七条新地、五条橋下の下京地区、祇園町、八坂新地、清井町、宮川町、下河原、清水、辰巳の東山地区、二条新地の左京地区、北野上七軒、内野五番町、内野四番町、白梅図子の上京地区、先斗町、壬生の中京地区、そして中書島、恵美酒撞木町、黒染の伏見地区〆て20カ所ありました。明治5年に政府から発布された「芸娼妓開放令」には業者も貧農出身の芸妓たちも誰もが困惑。そこで考えついた苦肉の策が「婦女職工引立会社」という機関を作り、業者側もこれに賛同、各花街に出揃いました。料理、書道、華道、礼儀作法は無論のこと、裁縫・機織・養蚕・製茶などの技術を教練しました。引立会社の名を女紅場に変えたのです。<市中女紅場> どうやら従来市中には”縫物屋”という場所があって名目は裁縫ながら、芝居見物や俳優の噂にふける不良化を助長していたようで、裁縫は勿論、洋服の仕立、養蚕や紡織の技術をみっちり仕込む趣旨で10カ所ほど設立されましたが、明治40年にはいずれも消滅したようです。(参考図書:明田鉄男著「維新 京都を救った豪腕知事 槇村正直と町衆たち」小学館)
2010.06.24
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寿岳文章氏の勧めで始められた町田誠之さんの随筆「和紙散歩」(神崎製紙の”Viewかんざき”に掲載)は面白い本です。目次を見ても、紙と税、照々法師、樹下美人の図、出雲の漉き模様紙、和紙の風合い、小野小町と和紙、藍染めの紙、薄墨紙、おはらいの紙、秋燈の和紙、歌かるた、紙の笠、紙屋川などこころ惹かれる題が並んでいます。先日、芭蕉「奥の細道」最後の地の会館では、紙子(紙衣)の着物が2種類展示してありました。歌舞伎の世界では落ちぶれて貧乏になった人の衣裳になっています。が、なかなかどうして、風流味のある召し物です。父もいろんな和紙を遺してくれています。早く、立派な句を詠んで、これと思った作品をそういう和紙に書き残しておきたいなと思ったのでした。付録:拙作曲回想
2010.06.23
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幼い頃から余り長い物語、小説は読んで来ませんでした。トルストイの長編など鼻から避けて来ました。先日、夏目漱石の「夢十夜」が印象的であるような一文を此処に残しましたが、阿刀田高さんもその著「短編小説より愛をこめて」の中で、「夢十夜」を採り上げていらっしゃる。 私は高校生時代から何か文章を書き始めていましたが、文章の研究書として選んだのが川端康成の「新文章読本」で、文章の模倣は、漱石に始まり、泉鏡花、谷崎潤一郎、志賀直哉、そして横光利一へと誘われて行きました。で、短文・長文の中間ぐらいの長さの文章が一番身に合っているような、書きながら安堵感のあるリズムを感じているのが現状です。わたしも「布袋」「五百羅漢」「白衣」「勇み足」「温み」や、童話「赤い石」「ケンタウスの星」「すみれ」、地唄「落城」、落語「大坂の陣」などを書いてきました。拙い文ながら、あっさりと読んでいただくのが狙いでしたが、果たして鑑定や如何に?
2010.06.22
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3日連続の句会を終えて空間の1日ができたので、家内と一緒に城陽方面に出かけました。27日の日曜にはこの城陽市の鴻ノ巣会館で吟行句会があるので、その心準備とでも言いましょうか。JR城陽駅にて下車、先ずは開催地の会館を確認、この会館の真向いから水度神社の参道が爪先上がりに続きます。食事処は近鉄の駅へと進む道中の「だいや」さんで1050円の昼膳を戴きました。熱々の天ぷらが何よりの馳走でした。レンタルサイクルの小父さんが人懐っこいお人柄で話が弾み、あの憧れの”流れ橋”まで自転車で行く展開へとなりました。歩いて行くのは大変ですが、自転車なら「蓮の花」の栽培田を越え堤防に上り、眼下に広がる茶畑を視野に入れつつ、更に北進。木津川は大きく湾曲していますが、彼方に見えていた”流れ橋”まで凡そ3分。最近漸く改修工事が完了、今月の16日から渡れるようになっているのです。折りしも梅雨を集めた木津川は泥色で水嵩も可なり上の方まで近づいていて、激しい流れと化していました。東に向い、自転車を水度神社の境内まで乗り入れ、湿り気を帯びた裏山へ、「鴻ノ巣山散策道」では高齢の方が平気な顔して登っておられました。
2010.06.21
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20日の今日は、父の日ということで、先ず娘から”信州の冷酒飲に比べセット”をクール便にて貰いました。生貯蔵酒の”七笑”、本醸造生酒の”岩波”、吟醸生酒の”真澄”、純米生酒の”善哉女鳥羽の泉”、純米吟醸・生貯蔵酒の”北安”、亀田屋の純米大吟醸・生貯蔵酒の”アルプス正宗”の6本入り。早速今夜、しみじみ味わってみることにします。一方、家内は家内で、前もって申し込んでいた懸賞にて、京都・滋賀・奈良3地区の生協と三幸製果さんの協同企画父の日プレゼント限定20名を見事当ててくれました。こちらは”新潟飲み比べセット”で、清酒”八海山(千秋歓酌芙蓉霞)”、焼酎”米柱”2本、地ビール”エチゴビール”の4本セットです。飲むことは好きですが、アルコール類にはそれほど強くないわたしですので、これから時間をかけて味わいたいと思っています。清酒や焼酎の深みの中に、句作のヒントが隠れているような気持ちもあって、楽しみです。ありがとう♪
2010.06.20
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古川柳「夕涼みよくぞ男に生まれけり」とあるように、夏場は男の方が楽に過せそう。亡父すばるの同僚だった方に俳人:梶本きくよさんが居られます。その句に寄せて一文認めました。 すててこの車を洗ふ日曜日 きくよ 住宅街ではよく目にするの図。昔颯爽として女心を口説いた旦那様。髪もふさふさとしていたし、黒くて艶があった。外で逢えば、大切な一日のスケジュールをきちんと立てていて頼もしい。この人ならと、我が一生を託した伴侶。もうお互いを知り尽くして遠慮というものが無くなった。これでいいのだが、何だか騙されたような、損したような気がしないでもない。近頃は奥様よりも車の方に、愛の手を施す時間がとみに増えて、自分は置き去りにされているみたい。車に嫉妬する訳にも行かず、その昔、角隠しに引っ込めていた角を今さら出す訳にも行かない。トドのつまりは、こっちも好きなようにさせて貰うことにする。旦那も古女房のご機嫌に時間を割く手間が省けるから黙認する。40代、50代の夫婦なら正常。結婚後間もなく旦那が様変わりで車に手をかけ過ぎるのは、イエロー信号。綺麗に磨いた車に乗るのは、よその女かも知れない。注意肝要、注意肝要。
2010.06.19
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佐賀の二度目の家には実のなる庭木が沢山ありました。蜜柑の木2樹。桑の木、グミ、隣からその大半が我が家を占める栗の木。そして勝手口近くの渋柿の大樹。桑の実は口に含みませんでしたが、蜜柑は熟れる前のあおい頃から木に攀じ登って食べていました。グミの実は赤いほど甘かった。渋柿は米びつに容れて暫く寝かせて、ぐじゅぐじゅになったものを食べていました。反対側のお隣さんからは無花果を貰った記憶も残っています。 わたしは都会から来た少年と言うことでクラスの女の子が大切にしてくれました。小さかったので抱っこなどされたような・・・。当然男子生徒の妬みを買ったのでした。当時偏差値が大きかったのでこんなことになったのでしょう。家から百メートル先に原っぱがありました。この原っぱのお蔭でわたしは自然の世界と仲良くできたのだと思います。空の色、耳たぶ触れゆく風のささやき、緑一面の原っぱの香り・・・。ちゃんばらごっこもしたし、弓を作って雀を狙ったり、トンボ釣りも楽しかったし・・・。近所のお兄さんが時々幻燈をして下さいました。今で言う八ミリ映画の動きの無い画像でした。
2010.06.18
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最近、庭で見かけるのが愛らしい蛍袋。この花の醸し出す雰囲気から、キキョウ科であることも頷けます。学名はCampanula punctata 。Campanula(カンパニュラ)は、ラテン語で「小さな鐘」の意味。また punctataは斑点のあるという意味ですが、乳房のような袋の中まで覗き込まないので斑点の有無まではわかりません。庭の中央に白いのが3株ほど固まっていて、でも白いから嫌味なく目に映ります。庭の数カ所に白や赤紫のものが遠慮がちに咲いています。先日、岐阜まで蛍を見に行きましたが、各所で見たのが西洋の松葉牡丹。サボテンの花のような金属的な輝きがあります。向日町の庭にあったものをこちら長岡京市へ移したら、今年から咲き出しました。西側の青桐のそばに立派な白百合が、仲違いする男女のように背を向けて対で咲いています。青紫色の美しい花といえば、額紫陽花。あじさいは歴史的仮名づかいでは”あぢさゐ”と表します。北面の玄関先にある濃い桃色の紫陽花が年々綺麗な色に変りつつあって嬉しい限りです。空家にしている向日町の額の花は見とれてしまうほど、いろんな色のビーズを集めたわたしのお気に入りです。さて、こちら長岡ではトイレの一輪挿しが赤いツツジ、仏間の床には、白色の蛍袋と紫の菖蒲が活けてあります。
2010.06.17
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改造社版「志賀直哉全集」第九巻には、龍安寺に寄せた直哉の一文が収録されています。 <龍安寺方丈の庭は相阿弥の作で、一樹一草も使わぬ石だけの庭である。大小十四の石が五十余坪の平地に五つのかたまりに置かれてあるだけの庭である。・・・奇抜で思ひつきのやうであるが、吾々はそれから微塵も奇抜とか思ひつきとかいふ感じを受けない。それは相阿弥の作する動機の深さから来る。・・・吾々は広々とした海に点在する島々を観、島々には鬱蒼たる森林の茂るのを観る。(ここが一番主張したい部分でしょう)<自分は桂の庭が(小堀)遠州の長編傑作であるとすれば、これはそれ以上に立派な短編小説であると思ふ。・・・相阿弥が石だけの庭を残して置いて呉れた事は後世の者には幸だった。>直哉の考えは、他の名園がその時代のまま現在に受け継がれているのか不詳であるけれど、龍安寺の庭では<吾々は当時のままでそれを(=相阿弥の思い)感ずる事が出来る。>と述べています。受験浪人時代の私は川端康成の「新文章読本」を片手に、漱石から潤一郎、そして短文の名手・志賀直哉をも手本にしていました。俳句と言い、簡潔な構成の中に、自分の思いを読者に伝える事は技術を伴いますので、飽きる事のない修行の世界のように思えるのです。
2010.06.16
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数年来の楽天ブログでの友、yumeminさんが12日逝去されました。酒蔵元の隣りで育たれた所為か、お酒の大好きな女子行員さんだったようです。女性として美しくありたいと人一倍思っておられたので、胸の摘出手術の哀しさ、投薬による頭髪の脱毛はさぞや彼女の心を蝕んだことだと思います。数たびに及ぶ手術に際しては、血管が細いからなかなか麻酔注射が出来なかったことなどまさに彼女の人生は入退院の繰返しでした。それでも病気に屈することは一度も無く、絶対克服するぞという堅い信念を持って居られ、気分転換も非常にお上手な女性でした。 祖父や父、親戚の身近な人たちを侵し、苦しめる癌という難病、病気の中でも憎らしいヤツです。彼女の日記はその病魔と真っ向正面から闘う病床日記でもありました。yumeminさんの人生観はその日記を通して理解することができました。この世に遣り残したこと、もう一度銀行員という天職に復職したい願い、彼女を心から愛して下さる男性との出会い、子供を生むことなど、数え切れません。それでも、わたし達に与えて下さったものはお日記の玉章がある限り、永遠に消えることがないでしょう。ありがとうね ゆめみん 安らかにお休み下さい。天国で素敵な伴侶を見つけてね♪弔句 そぼ降るも蛍袋の白明り 星子葬送の曲になるでしょうか 拙作Kyrieを添えておきます。
2010.06.15
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わたしは京都市内で生まれ、小学2年の一学期まで右京区の桂で育ち、父の転勤に伴って九州は佐賀県に引越しました。辿り着いた社宅の門前に、会社の人が出迎えて下さり、綺麗な色とりどりのアイスキャンデーを振舞って戴いたことを鮮明に覚えています。一階建ての瓦葺でしたが物見櫓(畳一畳分の広さ)が有ったこと、庭には枇杷の大樹があって、籠三個ほど、枇杷の収穫があったことを覚えています。この家には一学期間しか居らず、学校も変わって水ケ江町に移り住みました。学校は赤松小学校と言い、鍋島藩の城跡が学校の正門でした。太い柱の金具には大砲の弾痕跡が残っていたし、化け猫の話で有名でしたので、真っ暗な櫓には一度も昇ったこともありませんでした。学校の校庭の端には池が有りました。真冬には蓮根を捕る夫婦が長いゴム合羽を着て、黙々と蓮根を集めていたような記憶があります。黒い菱の実がいっぱい池に浮かんでいました。一般教室から音楽室に行くには長い廊下が有って、壁にはバッハ、ヘンデル、ベートーベンの肖像画が掛かっていました。
2010.06.14
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大正後期から昭和の挿絵界に新風を吹き込んだ蕗谷虹児が作詞した「花嫁人形」を先ずご覧下さい。金襴緞子(きんらんどんす)の帯しめながら花嫁御寮はなぜ泣くのだろう 文金島田に 髪結いながら 花嫁御寮はなぜ泣くのだろうあねさんごっこの花嫁人形は赤い鹿の子の 振袖着てる 泣けば鹿の子の たもとがきれる 涙で鹿の子の 赤い紅にじむ泣くに泣かれぬ花嫁人形は赤い鹿の子の 千代紙衣裳現代でこそ見合い結婚の場合、ある程度相手の顔や人柄を理解してこそ、結婚に踏み切れる訳ですが、それよりも昔は旦那になる人の顔も知らず、或いは悪い噂を耳にしていても嫁することを強いられました。嫁入りまではめそめそしていたでしょうけれど、一旦、自分の新しい境遇を知ってからと言うものは、亡くなった我が母も含めて、女性のしなやかで忍耐強い、良い意味での”したたかさ”に男として脱帽してしまいます。
2010.06.13
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昨日から本日にかけて小団体で蛍を観る旅をしてきました。本来なら昨日は入梅の日ですが、なんのなんの日焼けしそうな上天気でした。現役の銀行員時代は営業のとき、雨に濡れることが多いので、辛く感じた時節でした。ツユは露にかかるとか、ものの腐り易い季節だから「潰ゆ」が語源だとか、或いは梅が熟す、つまり「熟(つ)ゆ」になったという説もあります。この期間はケチケチしないで、時間の経った食べ物は捨ててしまうぐらいが安全なのかも。ホタルについては後日、この日記に書くことになるでしょう。感動ものでした。
2010.06.12
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昭和46~58年日本テレビで放映された「スター誕生」の歴史を紐解くと、リバイバルを果たした森昌子さんが筆頭に挙げられましょう。<それはまるで、テレビの魔法のようだった。昨日まではどこにでもいそうな普通の女の子が、今日はブラウン管の向こう側に立つ。スポットライトを浴びて歌う姿は、全国の少年少女に「私もスターになれるかもしれない」という夢を抱かせた。>日本テレビで音楽班のプロデューサーをしていた池田文雄氏がブレーンの作詞家阿久悠氏と相談し、オーディションに合格したら”賞金をあげる”じゃなくて、スターデビューへの道を開いてあげようというスタイルで、この番組が発足しました。第1回の決勝者は13歳の森昌子さんで、いろいろ注目を集め無事歌手デビューを果たしました。レコード会社のスカウトマンが社名入りのプラカードを挙げる光景は、正にオーディションそのものでした。司会者は萩本欣一、タモリ、谷隼人、坂本九へと引き継がれ、阿久悠、松田敏江、都倉俊一ら審査員の辛口の批評も人気を煽りました。「アイドル垂れ目論」は前述の池田氏の持論で、石野真子や柏原芳恵はひと目でいけると思ったのだそうです。翌年、予選会場でふっと浮いたような、静かな雰囲気の少女が居て、どこか惹き付けるものを持っていたのが山口百恵さんだったようで、桜田淳子との3人娘で売り出すに際して最も心配したのが百恵さんだったとか。1番キラキラ輝いていて最高のプラカード数を得たのが桜田さん。そして伝説の歌手山口百恵さんは引退を境に2度とステージには現れませんね。女子高生だったピンク・レディのおふたりは正にシンデレラ。岩手出身の新沼謙治さんは栃木で左官業だったけれどシンデレラ・ボーイに。応募者数は200万人、88組(人)が芸能界にデビューした番組でした。岩崎宏美、藤正樹、城みちる、伊藤咲子、渋谷哲平、松本明子、片平なぎさ、そしてギターを片手に清楚だった清水由貴子(故人)さんも忘れられません。
2010.06.11
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先日は秋田実さん本から”言葉と数”の話題をご紹介しましたが、今回は1000題収められた彼の「ユーモア辞典」から2題、ところどころ私流に変えていますが。No301話:”何よりの証拠”A夫人「今時の青年は、昔と較べると本当に質が悪くなって来ています。16、7になると、すでに悪いことをおぼえます」B夫人「一概にそうとは言えませんわ。今の若い人は、かえって真面目になって来ているようですわよ」A夫人「あらまぁ~どうして?」B夫人「だってぇ、20年前には私が道を歩いていると、いつも若い人に後をつけられたものなのに、今の若い人は皆さんたいそう真面目で、誰ひとり私の後をつけて来ないンですもの・・・」もうひとつ如何?No303話:”気は若い”89才にもなるお婆さんが小包を出そうと郵便局の窓口に並んで順番を待っているのを見かけ、或る青年が言った。「皆さん、お婆さんを先にしてあげようじゃありませんか」その言葉に、前に並ぶ人々はみんな、そのお婆さんを見ようとして振り返りました。ーーーしかし、當のお婆さんも一緒に振り返ったとさ。 こういう上品なユーモア、素敵ですね。
2010.06.10
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わが俳句結社の宝物とも言える存在である佳子先生(前師夫人)が、遥々長岡京の拙宅までご来駕下さいました。本来の用事は来月の7月号に掲載する近詠5句の原稿を届けんが為。Faxで充分ですという当方に対して、一度お目にかかって日頃の礼を述べたいという趣旨のようですが、畏れ多いことです。今年で102歳におなりになりますが、現在なお20を越える句会の指導に当られておられます。お土産に3人前のほっかほっかのお赤飯を携え、お越し下さいました。主宰はこの度、俳句四季大賞を受賞されますので、結社にとって、めだたいこと続きの今日この頃です。
2010.06.09
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かつては世界のトップ選手だった空手の荒賀知子監督の率いる華頂女子高が、京都府予選団体組手で24連覇を果たしたと新聞で報じていますが、いずれにせよ競争でトップを取ることは並大抵な練習だけでは掌中にできない筈で、心技が一体化してこその結果だと思います。 わたしは学生時代、グリー・クラブという男性ばかりの合唱団に在籍し、2年間指導され、それを活かして3年次にクラブの運営側に立って人事という職を担いました。合唱という音楽性を追求するクラブ活動を通じて人格の育成に努めることが趣旨でしたが、それこそ死にもの狂いの練習を重ね、部始まって以来の関西での初優勝を果たすことができました。 学生生活は或る程度時間に余裕がある為、無駄にも近い練習を積み重ねた訳なのですが、社会人になって、数年躊躇してから職場部門では常勝の合唱団に入ってみると、さして練習時間を積まないのに、その合唱団に潜在する伝統的なレベルという貯金のお蔭で、トップの成績を維持していました。その合唱団は指導者が合唱界の中心的人物であった事も相俟って、合唱界に君臨していたのかも知れません。無駄とも言える練習量をこなして得た初優勝の感激に較べると、この合唱団での優勝の実感が希薄なものに思えたりしました。 現在はそのOB団体に時々顔を出していますが、わたしの気持ちの在り方と言えば、必勝という枷を省いた気楽さに甘んじている次第なのです。
2010.06.08
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最近テレビを通じて耳にする言葉と言えば、それは”エコ”。その昔、オイルショックのあった時代にはトイレットペーパー騒動がありぃの、ネオンサイン規制がありぃの、地下鉄構内の広告板がかなり減らされました。お堅い銀行員であっても、香港シャツにノーネクタイでOKとの指令が本部から伝達されていました。永年ネクタイで自らの首を締め上げることによって緊張感をキープしていた私には、それは寧ろ落ち着かない出で立ちでした。小池環境大臣の時代にはクールビーズが流行り、現在も踏襲されているように思いますが、我が家のエコは。自家用車を持たないで、電動自転車に留め置くこと、真夜中の微照明は数ワットの小型の電燈で、トイレ前、台所、洋間の3カ所に置いていること。・・・丘の斜面に並ぶ1階建てばかりだった住宅街の殆どが2階建てに改築。ご家族が独立された現在では無用の2階となっていて、遠望の見通しが半減し、夏場の風の通りを悪くしているので、リフォーム後も1階建てで済ませた我が家には、少々不満なのです。
2010.06.07
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桂枝雀さんは笑いの根源まで考え尽くして、答半ばに早逝されました。お笑いの神様とも称すべき秋田実さんの「日本語と笑い」(日本実業出版社)の中から、ちょっと拝借しアレンジしてみました。「あんた、1から2が引けますか?」「そんな無茶な」「八百屋さんなら出来る筈や、毎日1(市)から2(荷)を曳いて来るじゃん」 昔にあった漫才のネタらしいものを1つ「この手にタバコが6本あるとしてやな、今、1本くわえたら、何本になる?」「そんなン3つの子でも言える、7本や」「ちゃう(違う)、5本や。1本口に咥えたから手には5本や」飛行機事故で亡くなった歌手・坂本九さんがお元気な頃のなぞなぞ。「坂本九が改名したそうや」「九ちゃんが何て改名したん?」「赤ん坊ができたンで、10(父)ちゃんにならはったンや」付録です。一人でも五妻(後妻)とは如何に~ 一人居ても三婆(助産婦)というが如し一つでもお八(鉢)とは如何に~ 一戸あっても八百屋というが如し囃し唄) 一二の三平さん 四ごと(仕事)もせんと 五(碁)ばかり打って六(碌)なことせんで 七(質)屋で 八じ(恥)かいて 九う(食う)こと十人前如何し様もない暇な時間ができた時、こう言った言葉遊びを考えたら退屈しませんね。
2010.06.06
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季節の移ろいが早くって、庭を彩る花々も上手にバトンタッチしていくようです。前の日記から続いているのは庭石菖。白色と紫色が渾然一体となっていて愛らしいです。またゼラニウムも白、オレンジ、朱、紅といろいろ顔を出しています。紫色の上品な趣きは岩桔梗、箕面の叔母さん宅から30年前に分けて貰ったもの。零れタネから生えてきたのは赤紫蘇。地面に栄養が少ないのか、小さいのが部分的に群がっています。遅ればせながら、ツツジが垣や庭のあちこちに咲いています。落花の掃除が大変たいへん。紫陽花(あぢさゐ)に色が匂い出し、夾竹桃が蕾出し、そして白い蛍袋が見事に咲き初めました。蛍袋は年々立派になって来ています。夾竹桃が咲き出すと、もう真夏日和の暑さに変りますね。では拙作のギター曲でもお聴き下さい。自分では弾けないものだからMACで譜面を作り、音源を通して鳴らしています。GUITAR その1
2010.06.05
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小説家:佐藤愛子さんの実兄、詩人サトウ・ハチローさんの「小唄と絵」という本から 「海水浴シャンソン」 あなたの水泳着に LOと あたしの水泳着に VEと 二人並んで歩く 時や LOVEとよめるわ 嬉しいわ はじめて逢うたも 水の中 恋を語るも 水の中 なかをとりもつ さざなみに 浮いた噂の たつ二人 夕べ汀の さびしさに 砂にのこした 足の跡 ならんでみだれて また並ぶ お安くないよな 足の跡 泳ぎつかれて パラソルに 影をかくした あたし達 つもる話の 砂の山 くづしてつきない ものがたり左ページには清水三重三さんの挿絵手前に太い横線の入ったパラソルが少し描かれ肩を組んだ水着の男女、二人とも逞しい。
2010.06.04
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方言は残し置くべし桐の花 麦の秋ざらめ地蔵が見てござる 桐の花咲かせ村人貧しかり 人訪はぬ八十八夜の猿丸社しまなみ吟旅 工学の髄の架橋や夏つばめ 目薬は要らぬ新緑吟旅かな 夏つばめ瀬戸の明かりを欲しいまま○讃州の呪詛伝説や黒揚羽 薫風と暫し懇ろ瀬戸の海 薫風の揚力狙ひ土器投ぐ 悲がさねの帝や讃州桐の花 しまなみの緑雨燦さん因島 梅雨霧らふ水軍もどき巡洋艦 芸州へ十橋渡る緑雨 黒南風や筆の流れの夫婦島 初夏や眼下の灯台ケーキめく 大三島緑雨三昧県境 山吹の貴なる余韻の松尾の社 山吹や源氏と姫の逢ふた場所 花桐や根もとの母の小さきこと 山麓の襞のうねりと桐の花 青田風歯の真っ白な人が好き 歓声はその大ぶりに桐の花 新緑を食み出す大樹スペードの形 遠望や御陵へ余花の丘攀ぢる 日当りの庭のひんがし千千の蕗◎豊公の御廟を下る余花残花 関東の舌の伽羅蕗濃かりけり 蕗の葉やレシピの見出し「捨てないで」 夏めくや時空を翔ける恋の詩 緑陰やそれにつけても君の美肌 初夏の寄せ植習作第一号 海統べる住吉大社の青田風 みちのくの青田や文明開化論 大青田ところどころの凹みかな 縦縞の単衣滑らか手に柄杓 朝掘りの筍おいど向け売られ 明日のこと告げる菖蒲の花二三 窓といふ窓明け句座の若葉風 実梅満つ梅宮大社の句座明かり実際には90句ほど作りましたが・・・。
2010.06.03
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わたしには俳句関係の友人とボランティアガイド関係の友人などが沢山居て下さって”ありがたい”限りですが、そういうグループ活動の触れ合いの場では、冗談を承知で”京の花街ことば”をトレードマークのように多用しています。そうです”どす”を使うのです。ええ歳したおっさんが舞妓や芸妓はんの言葉遣いをするのは滑稽ですが、その場の雰囲気を和らげる効果や不満など噴出する余地のない和気藹々のムードを醸し出してくれますので、結局居合わせた男女の皆さんが、揃って”どす調”になって下さいます。「まぁそうどすか」「ほんにおおきにさんどした」お客さんを得てガイドする時も、”どす調”でしゃべるとお客さんとの距離がぐぅっと縮まります。「どすんどすえ」などと軽口を叩くと皆さん噴出してしまわれます。 大阪さかいに京どすえ、兵庫神戸は何ぞいなと言われるように、同じ関西弁でも”京のドス”を柔らかく効かせるンどすンどすえ。昨日の日記にコメントを下さいました友美夢叶さんに、ガラシャ夫人に寄せた拙作の曲を付録として添付致します。”ガラシャお玉への挽歌”本日もガイドで、亀岡からお越しの女性10名ご一行様を天王山山頂、古刹、山荘美術館、サントリー蒸留所などへご案内します。
2010.06.02
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日本人ならば1日に数回は日本茶を飲む機会を持っておられることでしょう。わが家はコーヒー・紅茶の朝食に始まり、昼と夜は日本茶の世話になっています。わたしはカフェインに敏感に反応しますので夕方4時以降は極力茶を嗜まないようにしていますが・・・。直射日光を避けるように栽培されたものが抹茶、苦味と甘味の織り成す余韻が魅力ですね。日光をふんだんに浴びて栽培されたものが煎茶で、カテキンの量が一番多い種類。抗酸化・抗がん・虫歯予防・抗菌作用があり、さらに、体重や内臓脂肪の減少にも有効ですね。 お茶はビタミン類が豊富に含まる飲み物ですが、中でもビタミンCはレモンの4倍、ホウレン草の3倍近く含まれています。ビタミンCにはメラニン色素の沈着を防止し、シミやソバカスができるのを防ぐなど、美白の働きがあります。カフェインの一番少ない種類は番茶で、しかも60度くらいの湯を使ったものがカフェイン抑制効果があるようです。
2010.06.01
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