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いよいよ8月。 皆さま、暑中お見舞い申し上げます 梅雨も開け、太平洋高気圧にも覆われた 途端に、積乱雲! 雷様も連日のおなりで、暑さも満開~! そんな皆様に、せめてもブログでは 涼しげな画像でも、お届け致します さて水のまち「大垣」に私が出かけたのは 何も芭蕉の大ファンであるとか、コンクリートの お城が見たかったわけでもない 大垣は夏に限る!という訳は、ひとえに 水まんじゅう。そう、水饅頭を食べたさに わざわざ大垣に出かけたのだ そんな鋭い指摘をされたブログ友が、前の 日記に幾人も・・・眼力、おみそれしました ま、私の行動パターンを考えれば、おのずと 判ることかもしれないけど(笑) それほどにも婦女子には、大垣といえば 水まんじゅう。大きな氷を浮かべた水ごと がりごり、ぷるんぷるんといただく・・・ 江戸時代、こんにゃく屋文七が、川端に 穴を掘り、その後に竹を入れるという方法で 作った井戸に成功で、渇水期にも水には 困ることはなかった お城のお堀の水に、揖斐川にも続くという 水門川・・・駅前から、上手にぐるりと まわれるような散策コースが作られており 芭蕉の奥の細道の代表的な歌碑も、幾つも ならんでおり、奥の細道気分に浸れる かわいい水門 一軒一軒の、専門のかわいらしい橋 水に囲まれた大垣の魅力は、それだけでは なかった。西に伊吹、養老山系を控えて 豊富な湧き水が、あちらこちらで楽しめ そのまま飲むことも出来るところも多い タンクや、大きなボトル、ポリバケツで サンダル履きで、水を汲む市民の姿も 幾人も見かけた。うらやましい話である いつもは、車窓から眺めるだけの地方都市 でも、その駅で下車してみたら、思いのほか 魅力あふれる、素敵な街であるのかもしれない そんな途中下車の小さな旅には、JRの 青春18切符の存在は、私には欠かせない 存在となった。2枚買ったので、家族を含め あと8回。8月には大活躍をしてくれそうだ 平成19年7月24日午前に、岐阜県大垣市撮影
2007年07月30日
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夕刻からのナゴヤドームの試合まで、せっかく だから、JRの普通列車乗り放題「青春18きっぷ」を 使って、岐阜県の反対側の大垣(おおがき)に 出かけてみようと思いついた 俳聖・松尾芭蕉は、相弟子にあたる谷木因を 訪ねたりと、大垣に4度訪ねたのだが、特に 名高いのが、元禄2年に弟子の河合曽良を ともなって、江戸を旅立ち奥羽・北陸の地を 巡遊した「奥の細道」紀行を、この大垣で終え 水門川の船町港から、桑名へ舟で下ったもので あるだろう 蛤のふたみに別行秋ぞ 芭蕉 大垣城主戸田公の文教奨励もあり、藩士を中心に 谷木因の指導のもと俳諧は盛んであり、度重なる 芭蕉の大垣の来訪で、多くの人々が芭蕉の弟子と なっていたそうだ。そういった弟子や友との別れを 惜しむ歌が、奥の細道の結びの句となっている その芭蕉も旅立った船町港は、江戸時代より 水門川から、揖斐川を経て桑名や、伊勢と結ぶ 船運で栄え、問屋、船宿、蔵などが建ち並んで 繁盛をしていたそうだ 大垣城は、明応年間(1500年)、竹腰氏に よって築城をされ、?城(びじょう)また 巨鹿城(きょろくじょう)の異名を持つ 関ヶ原の戦いでは、石田三成の本拠地にもされ 江戸時代に入り、大垣藩戸田氏の居城となった 昭和11年には、国宝にも指定をされたのだが 昭和20年7月29日の大垣空襲で、焼失をして しまった ところ狭しと、商品がディスプレイをされた 雑貨屋さんは昭和の雰囲気が、ぷんぷんとして ウキウキと夢中でシャッターを押した 平成19年7月24日午前に、岐阜県大垣市で撮影
2007年07月30日
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夏らしい青空が広がった火曜日の午後 プロ野球後半戦のスタートに、混戦模様の セ・リーグで、中日ドラゴンズに頑張って 貰おうと、今年もまた「お~いお茶」の 懸賞で、つボイノリオ団長と応援だ~! 地下鉄「ナゴヤドーム矢田駅」の通路では ドラゴンズの選手のパネルがはられ、気分も 乗ってくる。それにしても、この大事な時に 福留の離脱は痛いなぁ・・・・ パカパカも貰ったので、姉は首にかけて 早くもヒートアップ。逸りたてる心を 沈めようと、ドーム横の大型商業施設の スイーツコーナーで、午後のおやつを いただく。カロリー控えめな果物系を 選んだ横で姉はクリームたっぷり!とは 羨ましい 試合前には、姉をドラゴンズミュージアムに 連れて行った。今年大ブレイクをした楽天の 山崎は、かつてドラゴンズでホームラン王を 取った年もあった。懐かしいものだ さして昔でもないのに、他球団のスター選手の ユニホームを見物すると、メジャーだったり 他球団に移籍した選手も 半世紀も既に過ぎて、ぼろぼろになった日本一の トロフィーの横に、そろそろピカピカの新品が 並んでもいい頃じゃないのかな? 後半戦の最初の試合だったので、前半で記録達成を した選手らのセレモニーが行われ、中日新聞や 球団などの偉い方の姿も。特にいろいろあった 中村紀洋選手のプロ通算1000打点おめでとう~! さて試合開始に、浴衣の女の子を引きつれた つボイノリオ団長もあいかわらず、腰が低く サインをして、おしゃべりして、彼のファンも これを楽しみにしているのだろうなぁ つボイノリオも、レコーディングに参加した ドラゴンズの公式応援歌「燃えよドラゴンズ! 2007」が8月に発売されるそうだ 1年経って、応援のバリエーションも増えて こんなかわいい髪飾りの小さな女の子までも 超・でっかい声で「打ってぇ! 打ってぇ!! 打ちまくれぇ~!!!」とやっていた(笑) 度重なる満塁のチャンスを生かすことも 無く、せっかくのリードも、打たれては バンザーイ!の写真も、もうお手上げよ にしか見えないかも。はぁ~~、厳しい シーソーゲームだった そんなお疲れ観戦ではあったが、来場者対象 スクラッチのくじではホームラン賞に当選 またもや応援ユニホームを、お土産に貰った♪ 平成19年7月24日にナゴヤドームで撮影
2007年07月26日
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日本の国技といったら、モンゴルの横綱 とはいえ、やっぱり大相撲。子供の時に 連れて行ってもらったのだが、私が覚えて いるのは、おトイレで並んだ事ぐらい 愛子様ほどの情熱は、当時の私には無かった あれから幾星霜。タウン紙で名古屋場所の チケットが当たったので、姉と共に観戦を してきた 名古屋城の横にある会場に向かうと、もう 取り組みが終わった若い力士が会場を後に して、観客とすれ違う。地元力士なのだろう 70代の奥さん達が「あれ、○○君」と声を かけると、嬉しそうに、にやっとしながら 「今場所、勝ち越ししたッス!」と・・・ 入り口の14日目の赤いじゅうたんの先には 親方が切符もぎをされており「向こうに 取り組み表があるから、持っていって」などと なかなかアットホームな対応をされていた 軍配の形をしたうちわもタダで配布をされて おり、縦型ミニなので外出時に使いやすそう 結局、地元で大関取りを決めた琴光喜の善戦 むなしく、今場所も朝青龍であったのだが 名古屋場所らしく金シャチが輝くトロフィーも お楽しみの一つだった、限定販売の日替わりの ちゃんこに並ぶ。今日はあっさりしょうゆ味で 私のは魚のかたまり一つだったのに、姉のは 魚のほかに、イカや鶏肉なども入っていたらしい さて幕下からの観戦になるが、姉の近所の力士や 四股名ではなく「○○(名前)落ち着いて~!」 なんて近親者らしき応援もあって、なんだか 楽しい。時には物言いなどもつき、あっと見張る ような良い取り組みもあった 十両、幕内の土俵入りに続いて、横綱の土俵入り このころになると観客もほぼ入っていたが、それに 間に合わなかった外国人団体客、お気の毒でした しかしお子さん連れや、若いカップルなどと 結構、幅広い客層なのには驚かされた 塩を大量に投げて清める力士には、塩のメーカー モンゴル力士には、モンゴルの携帯電話会社で 琴欧州には、ヨーグルトなんて懸賞金も面白い 無論、お茶漬けの数が一番多かった やはり白星の多い好調な関取は、動きも機敏で 元気が良い。順当に白黒つきながら、いよいよ 最後の取り組みとなったが、若い横綱の白鵬が ごろんと土俵に倒されて、あ~、座布団がとんだ びゅんびゅん飛ぶ座布団に、外国人観光客も 大興奮。いやぁ~、面白いものを見せてもらい ましたが、ご高齢の方や、小さなお子さんの 観覧も多いので、座布団飛んできたら危ない なんて思いもしますが 平成19年7月。名古屋場所14日目の撮影
2007年07月23日
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といいながら、水族館のタダ券があったので 娘と出かけたのは、暮れも押し迫った頃 しかし、空は青く、よく晴れ渡った日だった 名古屋の移動手段でお馴染みのの地下鉄で 簡単にアクセスが出来る、名古屋港は 水族館に、以前紹介をしたイタリア村など 手軽な観光地スポットである 映画で有名になった。樺太犬のタロと ジロの像や、南極観測船「ふじ」もある いよいよ名古屋港水族館だ。しょっぱな イルカのショーを見物してから、ゆっくり まわってみる。シャチやベルーガなどは 綺麗なものだなぁ~ やっぱ、水族館は楽しい♪ 大好きなのよ お昼には、名古屋名物あんかけスパゲティー こんな暗がりに、海底人!? 平成18年12月27日 撮影 さっ、いよいよ夏休み本番、皆さんも沢山の 夏の思い出を作られてくださいね♪♪
2007年07月20日
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長浜の北国街道と、美濃谷汲街道の交差点 (スクエア)である「札の辻」を中心とした クラシカルな街並みを、黒壁スクエアと呼び 古建築を活用をしたギャラリー、ガラス工房 レストランなどが並んでいる JR西日本の新快速が、1991年に長浜まで 延伸した事もあって、手軽な観光地として人気だ 舟に使っていた板を再利用した、舟板塀の通り お菓子についているおまけのおもちゃ 「食玩」で有名な、海洋堂のフィギュアは チョコエッグによって、知名度が上がった 映画「ジュラシック・パーク」のスタッフは 海洋堂の恐竜モデルを、CG製作の資料に したという話だそうで、ガメラなどの映画 製作にも協力しているとか。そのミュージアムが 黒壁スクエアにある さて昼飯にはやっぱり、娘の大好きな牛肉 日本有数のブランド「近江牛」で決まりだ 老舗の「毛利志満」長浜店では、ランチに お手軽な丼ものを賞味した。お肉の登場に 大興奮で、思わず写真もぶれた 鉄道マニアこと、鉄ちゃん、鉄子さんにも 注目なのが長浜鉄道スクエアであろう 明治15年に築造された、旧長浜駅舎は 当時の新橋駅をモデルにした 現存する 日本最古のもので、英国人技師の設計による 洋風の駅舎には、駅長室や待合室など 当時の面影も随所に残っていた また人気のデゴイチ。「D51形793号機蒸気 機関車」や、北陸線で活躍した「ED70形1号機 交流電気機関車」の車両展示もされている 他にも、日本最長66メートルの鉄道 模型レールが敷かれ、SLや特急などの 鉄道模型が走っていたり、子供連れにも楽しい 長浜の銘菓といえば堅ボーロ。着色料 防腐剤を使用せず、小麦粉の生地を二度 焼きし、生姜砂糖をまぶしたお菓子で 裏千家推奨、宮内庁御用達の由緒正しい 御菓子であるとか 早速、千成亭の干し肉と共にお土産にした 現代の長浜は、お兄ちゃん、おっちゃんに 知る人ぞ知る、人気の穴場スポットなの かもしれない 平成19年3月31日、滋賀県長浜市で撮影 日常的ブログ、馬籠人日記もよろしく
2007年07月17日
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さて春休みに、娘と大阪に出かけて フィギュアスケート・エキシビションと 大阪ドームで、風船飛ばしを見物を した時に、最終日は琵琶湖畔の城下町の 一つである「長浜」に立ち寄った 信長が、浅井長政を攻め落とした際に 木下藤吉郎は戦功によって、浅井氏の 領地の大部分を与えられ、 羽柴秀吉と 名乗り、城持ちの大名に出世をした 早速、北陸と京阪神を結ぶ重要な交通の 要衝である北国街道にあり、琵琶湖に 面した今浜(現・長浜)に、築城したのだ それだけに、秀吉にまつわる遺構が幾つもあり 真宗大谷派別院大通寺、別名・長浜御坊には 秀吉が隠居所として建てた、安土桃山文化の 粋を集めた伏見城の遺構の殿舎が、本堂として 残されている 関が原の戦いの前哨戦ともいえる、西軍による 伏見城攻めで、城を守っていた鳥居元忠らは自刃 関が原の戦いの間は、伏見城内の遺骸は放置され 床に染み込んだ血潮で、指の跡や顔の跡が残され その供養にと、幾つかの寺院の天井に残され 大通寺にもまたあった こちらは、秀吉が長浜城で使っていたという茶亭門 戦国の世、鉄砲が種子島に伝来され、国内でも 鉄砲の製造が始まった。将軍足利義晴が、管領の 細川晴元を通し、国友村の鍛冶・善兵衛らに 鉄砲製作を命じたのが、国友鉄砲鍛冶の始まりだ 無論、長浜城主の秀吉の庇護を受けた時期もあり 関が原の戦いでは石田三成軍、のちには徳川家と 関係を深め、大阪城内で、豊臣秀頼と淀君がいた 場所を直撃し、自害に追いやったのは、国友の 鉄砲であったという 日本三大山車祭のひとつ、長浜曳山まつりは 国の重要無形民俗文化財でもあるが、長浜の 城主時代の秀吉が、側室に男子が誕生をした お祝いにと金を振る舞い、そのお金で町衆が 山車を作って、八幡宮の祭礼に曳き回したのが 始まりと言われているそうだ 長浜の春を告げるのは、2メートルを超える 巨木や、樹齢四百年を超す古木などの珍しい 梅の盆栽が並ぶ「長浜盆梅展」である その会場である「慶雲館」は、明治天皇の 行在所として建設をされ、当時の総理大臣で あった伊藤博文が、慶雲館と名づけたそうだ 池泉回遊式庭園(国指定名勝)は、7代目 小川治兵衛の代表作であるとされる 長浜城のノラちゃんたち 平成19年3月31日、滋賀県長浜市で撮影
2007年07月15日
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上田市の南方に開けた、豊かな土地を 塩田平と呼ぶが、鎌倉幕府の執権の 補佐役である連署であった、北条義政が 出家し、この地に館を構えた 義政、国時、俊時の三代、数十年を 塩田北条と称し、その庇護のもとで 仏教文化が栄え、信州の鎌倉と呼ばれる ようになった所以だ 北条一族の危機に、いざ鎌倉!と ばかりに、馬を駆けさせた鎌倉街道が ひっそりと残る その居であった塩田城は、北条氏滅亡 後は村上氏の所領となり、戦国の世には 信濃への進出を図る武田信玄に、ついに 攻め落とされ、武田の東信濃の拠点と なったそうだ 塩田城の鬼門に位置する前山寺は 弘法大師が、護摩修行の霊場として 開創し、塩田北条氏の祈祷所であった 室町時代の和様唐様の折衷様式で 窓や扉、廻縁、勾欄が無いながら 長い胴貫が四方に突き出し、調和を させていることから、未完成の完成の塔と 呼ばれる重要文化財の三重塔がある 中部日本(中部・関東)で、最も古い 平安末から、鎌倉初期の木造建築であり 方三間の阿弥陀堂形式による、中禅寺 薬師堂は重要文化財に指定されている 皿蕎麦を検索すると、兵庫の出石が ヒットをするのだが、西日本では うどんが主流であるはずが、蕎麦が 栄えた所以は、信濃の国で誕生した 蕎麦切りが、徳川幕府による領主の 国替えによって、全国に広がって いったというのだ 三百年ほど前に、上田の領主であった 仙石政明が、但馬出石にお国替えを した時、随行をした蕎麦打ちの名手が 蕎麦の製法を伝えたと言われている 高遠藩の保科氏による、山形の蕎麦と 会津に伝わる高遠蕎麦や、松本藩の 松平氏による出雲蕎麦などの例も かつては独鈷山の鷲岩という巨石に 祀ってあり、現在の場所が遙拝所で あった塩野神社は、塩田の人たちの 信仰も厚く、武田信玄や、真田昌幸 信之らも祈願をしたそうだ めずらしい楼閣造りの拝殿もだが 苔むした磐座が幾つもあり、独特の 雰囲気のある神社である 人が死ぬと、魂を清めて仏になる為に 中陰の道を歩き、その所々に審判の門が あり、生前の罪が裁かれる 死者の罪を裁いて、地獄へ送ったり 六道への輪廻を司る、十王をまつって 死して後の罪を、軽減してもらうという 十王信仰が、いつしか十仏と相対させる ようになった 秦広王→不動明王 初江王→釈迦如来 宋帝王→文殊菩薩 五官王→普賢菩薩 閻魔王→地蔵菩薩 変成王→弥勒菩薩 泰山王→薬師如来 平等王→観音菩薩 都市王→勢至菩薩 五道転輪王→阿弥陀如来 別所温泉への湯治客輸送の為、上田駅 から、千曲川を渡り、塩田平を抜けて 別所温泉駅までの15駅(起終点駅含む) 11.6キロ足らずの、小さな上田電鉄 別所線 扉脇の戸袋窓が、楕円形になっている 独特の外観から、丸窓電車と呼ばれる 上田交通モハ5250形は、上田電鉄 別所線の前身の上田温泉電軌(のちの 上田丸子電鉄から、上田交通)が 1928年に新造をした電車である 運用を退いた今も、留置線に保存されている ちなみに、東京急行電鉄(東急)の系列 である上田交通が、ここの持ち株会社だが 東急の創業者の五島慶太は、上田のお隣の 小県郡青木村の出身で、東映の再建、伊豆や 北海道の開発、多摩田園都市の開発など 企業家として広く名をはせている 平成19年6月25日午後に塩田平で撮影もう1個のブログの「馬籠人日記」もよろしく 「マスクメロンに、アップルマンゴーに、イチローMVP」
2007年07月11日
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七夕の朝、中日新聞の一面には 鮮やかに咲く誇るレンゲツツジの 群落の写真が載っていた。これは 見物に行かねばなるまいと・・・ 日本百名山にも選ばれている美ヶ原は 2000メートル級の王ヶ頭、王ヶ鼻 茶臼山、牛伏山、武石峰など幾つもの ピークが存在をしている 晴れた日であれば、美ヶ原の東山に対し 松本平の人たちに、西山と呼ばれていた 槍、穂高のなどの北アルプスを眺める ことが出来るそうだ 100万~80万年前、火山噴火で 粘度の低い溶岩が広がって、形成を されたといわれ、どこまでも続く 高原の草原には、牛が放牧をされ ている 花につられての曇天の美ヶ原では あるが、3日に1度は、霧が発生を すると言われるだけあって、その日も みるみる霧に包まれてゆき、先の 見えぬ風景もまた神秘的であった 美ヶ原産の鉄平石で作られた美しの塔は もともとは、登山者の霧鐘塔として建て られたもので、霧で視界の悪い日には 鐘を鳴らし位置を知らせたそうだ 足元のかわいい高山植物などを眺めつつ 娘の手には苔桃とバニラのソフト。一口 食べさせて貰った 草原に点々と巨大な彫刻が並ぶ美術館も あったので、売店で試食なども楽しむが 箱根同様に、ミュージアムグッズや お台場の土産も多くあった 名前は美しいが過酷な山岳ロードの ビーナスラインを、一気に下った先は ブドウ畑が点在し、山辺ワイナリーに 立ち寄りワインの試飲をし、プラムや 杏などを購入し、家路に向かった 平成19年7月7日午後に撮影
2007年07月09日
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まるで水底にいるような、圧迫感を 感じながら、その薄暗い空間に掲げ られた、彼らの生きていることの証 夢も、希望も、喜びも、悲しみも 憤りも、愛をもこめられたような 作品の数々を、目でたどろうとした しかし、どうしても目の前にある 作品自体ではなく、その下に書かれた 説明文に視線が奪われてしまう 山之井龍朗(兄)昭和20年5月○日 フィリピンルソン島にて戦死。享年24歳 山之井俊朗(弟)昭和19年4月○日南方へ 向かう輸送船爆沈のため戦死。享年21歳 画家を志した仲の良い兄弟は、生きて 故郷の地を踏むことは無かった 念願だった美術学校にも入学をして これからという時に、召集がかかり 思うような絵を一枚も描けなかったと 嘆きつつも、戦場に散った青年 父には日本男子の本望と語りながら 前線に向かう前日に、訪ねた母には 「生きて、もっと鋳造作品を作り たかった」と、本音をもらした青年 あと5分、あと10分、この絵を 描きつづけたい。生きて帰ってきたら 必ずこの絵の続きを描くから。しかし 完成をすることが無かった絵だけが残る 戦没画学生慰霊美術館「無言館」に ついては、以前に、このブログでも 取り上げた事があるが、先日、信州 上田にある無言館に訪れることが出来た 彼らの残した生きた証を、戦後も保存を されていたご遺族。中には、青年が亡く なった病院の関係者が、捨てるに忍びなく 長らく保存をされていた作品もあるという ああおとうとよ 君を泣く 君死にたもうことなかれ 末に生まれし君なれば 親のなさけはまさりしも 親は刃(やいば)をにぎらせて 人を殺せとおしえしや 人を殺して死ねよとて 二十四までをそだてしや 日露戦争に出兵をした弟を嘆く、与謝野 晶子の「君死にたもうことなかれ」が 頭の中でぐるぐると渦巻いていた 今度は、彼らの作品を見ようと思い、また 館内を一周をした。それでも、なかなか その場を離れることが出来なかった 温泉帰りの高齢の団体客が、むごい話だのぉ などと見学をしていたが、彼らと同じくらいの 若い人たちにこそ、彼らの絵を見てほしい 自由に生きることが、どれだけ幸せであり 自分達には、限りない可能性があるのを 自覚をしてほしい 余談だが、硫黄島からの手紙の映画の中で 妻子の為にひたすら帰還を願い、妻あての 手紙を書き続ける若きパン職人の西郷を 助け、無意味な自決、特攻を許さなかった 栗林中将は、 真田藩のご城下である松代の 郷士の家に生まれたという 藤田嗣治に師事をし、二科展にも入選した 椎野修はビルマで戦死をした。彼はつぶやいたそうだ 空も海もこんなに美しい。それなのに 人間はどうして戦争なんかするんだろう 享年31歳 平成19年6月25日午後、上田で撮影
2007年07月05日
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