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白身魚の刺身丼は、魚の入ったのミソチゲも 昨年の冬のソウルでも円高傾向にあるなぁ などと感じてはいたが、一時は100円で 800ウォンの換金しか出来なかったのが 釜山の旅では100円で約1000ウォンと 更に換金率が良かったのでありがたい 新鮮なタコの足のたっぷり入った大きなチヂミ 韓国旅にリピートするのは歴史だの、人情だの というのもあるけど、やっぱりグルメにつきる メインになる食べ物を頼むと、付け合せの おかずが幾つもついて来るのもまた魅力だ チェーン展開もしている、地元民で盛況の このお店は、石焼ビビンバなど300円程で 餃子なども含めて3人前でも1100円で 食べれたのだが、私のカルグクス(うどん)も 石焼鍋でアツアツだ。やっぱアゲが入るんだ そして昨年もおじゃました郷土食のお店は 一人千円程で、ドルソパッ(石焼き釜飯)や 焼き魚などの20種類ものおかずが所狭しと 並ぶのは壮観だ。しかもケジャン(カニの キムチ)なんかも食べれて、シアワセだ 鶏肉が大好きな娘は、参鶏湯(サムゲダン)を 美味しそうに食べていた。 高麗人参、ナツメ 松の実、しょうが、ゴマ、もち米などを 鶏肉につめたもので、でかい高麗人参をつまみ あげ「これ食べれるの?」などと、娘 姉と私は鶏肉が苦手なので、コリコリとした 鮑の切れ端が幾つも入った、あわび粥で 私の大好きな水キムチも食べれた 日本人観光客に食べて欲しいという気持ち から、日本語でのメニューなども掲示して くれているのだが、なんだかつづりが怪しい でも、これもご愛嬌 ハングルだけのお店は、何が出てくるのか さっぱりなので、すぶたが鶏肉だろうが 大体の料理の特徴はつかめるし、これに 価格表示をしてくれたら、なお嬉しい 自販機の缶ジュースなどは70円ほどで コーヒーは30円? 安い~~ イマイチおいしそうには見えないけど 今回も伝統茶にチャレンジだ。娘は 柚子茶、私は五味子茶、姉は水正果で なぜだかポップコーンが付け合せ ロッテホテルのお部屋には、無料の ミネラルウォーターに、コーヒー、緑茶 とうもろこし茶に、高麗人参茶まで 用意されていた しかもロッテアーモンドの旅行の特典で ウェルカムケーキを食べれるというので 幾つもの中からチョイスして、パクリ そして、娘がド迫力のコリアンスイーツを 食べたいというので、アイスクリームや 果物なども乗ったゴージャスなカキ氷を 食べに出かけた。これで二人前のもので ワッフルもついて600円程だった みんなで一緒につつくのが韓国流だ 平成20年3月19~21日に、釜山で撮影
2008年03月28日
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今年の春もまた、ロッテの優待旅行で 娘と姉と一緒に釜山に出かけてきたの だが、家に帰ってレンタルの映画を借り 釜山でロケをした「チング」を見る つい昨日、歩いたばかりの汎一洞の クルム鉄橋とか、戦後を髣髴させる 古い町並みの、あそこもここもが 映画の中で出てくるのが面白い 朝早かったので、子供達が楽しそうに 学校にむかっていた。チングとは 古くからの長い友人の事を言う チャガルチ市場や国際市場で有名な 釜山港の南浦洞にある、海苔や干物など 乾物の市場もまた、映画の中で学生らが 楽しそうに疾走をしていた 日帝時代に建てられ、日本人が住んで いた日本家屋が、今も数多く残っており 瓦がふけないので、シートをかぶせて 古タイヤで押さえている ところで、韓国では○○洞という地名を よく聞くのだが、この洞は、町にあたる もので、集落を称する名称の一つだとか 小高い山がそこかしこにある、釜山は 坂の多い町で、高いところが好きな私は 長い階段を見るとついつい登りたくなる そんな私をあきれ顔で、娘や姉は早々に 長椅子を見つけて「一人で登っておいで」 と、付き合ってはくれないが、真っ白な 漆喰が、青い空に綺麗に生えていた とても細い路地の両側に、古本屋などが 所狭しと並んでいるのが、寶水洞にあり 学習書の他に、ハングルで訳された 日本の漫画も山のように積んであった 朝鮮戦争の頃に、全国からの難民が 集まり、生活の手段として、珍しい 本を売り始めたのが始まりのようだ 豊臣秀吉が半島を侵略しようとした 文禄・慶長の役で、戦略の根拠地と して築造をされた城(倭城)は、釜山 周辺に幾つもあった 釜山港に近い子城台は、毛利輝元が築き 拠点にしていた「釜山鎮」を母城として その支城である「子の城」というので 名づけられたそうだ。城の石垣ばかりが 当時の様子を物語っていた ここで指揮を執っていた小西行長の名から 「小西城」と呼ばれていもいたそうだが そんな戦いの為の城跡も、釜山の人達が 健康の為に軽い運動や、ジョギングをしに 訪れる憩いの場所となっている 平成20年3月20&21日に釜山で撮影
2008年03月25日
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二夜にわたる東京大空襲のドラマを ご覧になった方も多いのではないの だろうか。炎の中を逃げ惑い、川に 飛び込む人々、地下壕の片隅で死の 恐怖にすくむ子供達 自分が暮らし、生活をしている町が 突然に戦場になってしまい、年寄りで であろうが、子供だろうが、女だろうが 容赦なく、殺戮をされていく たとえ戦争に勝とうが、負けようが どの国の人においても、命を奪われ 家を焼かれ、愛する人と引き裂かれる 一般の人たちこそが、一番の被害者だ 太平洋戦争の末期ともなると、軍部は 本土決戦を年頭にし、国体護持の為に 宮城(皇居)、政府の諸官庁の主要部 日本放送協会海外局(ラジオ)などを 安全な土地に疎開する計画を進めた そんな中で選ばれたのは、陸地の幅が 広く近くに飛行場があり、固い岩盤で 掘削に適しているなどの地形が整い 信州は神州に通じ品格もあり、人は 心が純朴で、秘密が守られるといった 事から、長野県の松代が選ばれた そうである 昭和19年7月にサイパン陥落をし いよいよ本土決戦が現実味を帯びた中 東條内閣最後の閣議で、長野松代への 皇居、大本営、重要政府機関などの 移転のための施設工事が了承された その年の11月11日11時に発破が かけられ工事が開始。朝鮮人約七千人と 日本人約三千人が、12時間二交替で 工事にあたり、命を落とした人なども 少なからず居たらしい。故郷を思って であろうか、大邱(テグ)という韓国の 地名も残されている 昭和20年8月15日の終戦時には 工事は75%程が進んでいたそうで 象山、舞鶴山、神山の3箇所が掘削を され、象山地下壕の一部が、一般にも 内部公開されている 平成19年11月10日に松代で撮影 昨年の秋に出かけた、松代の旅日記で こちらの紹介のタイミングを逃しましたが 東京大空襲のドラマを機会に、書かせて いただきました
2008年03月19日
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1年間にわたる信州は松本で撮影を した写真も、いよいよこれが最後だ この日記を書く事で、松本とも 本当にお別れになってしまうようで 寂しい気持ちもこみ上げて来る 美ヶ原温泉の近くの住宅街にひっそり 建っているのが、明治時代までの様々な 古民具が展示をされている松本民芸館だ 江戸時代に木綿糸などが出回るように なると、女の子達に手毬遊びが広がり 松本のご城下でも作られるようになった シックな松本家具の歴史は、松本に城下が 出来た頃に始まり、松本藩のもとで発展し 江戸時代には、指物、大工、塗師、鍛冶 などの職人が100人以上もいたそうだ 先日の日記で、大きな屋敷の障子に 影絵のようになっていたのは押し絵雛だ 江戸末期に藩の殖産興業のひとつとして 士族の奥方の手内職として始まり、維新後 士族がこれで生計をたてもいたそうだ 山辺学校歴史民俗資料館(旧山辺学校) は 明治中期に造られた、擬洋風建築の校舎で あの開智学校のギヤマン校舎に相対して 「障子学校」と呼ばれていたそうだ いまは、昭和60年に県宝に指定をされて 開校当時の教育資料や、山辺地区の民俗 資料などがが展示されている 白線流し主要キャラの自宅として、よく ドラマにも登場をした深志神社は、通称 「天神様」と呼ばれ、建御名方命と菅原 道真(天神様)を主祭神としている 松本のオマケ。ラスト 地盤が悪くて松本城が傾いたという日記を 書いた事があるのだが、深瀬(深志)とも 呼ばれるような湿地帯で、深志神社そばの 長沢川から、女鳥羽川の間の地域などは 「棒を地面に刺せば、水が湧き出る」と 言われていた程に、湧水が多かったそうだ 多田嘉助が磔刑に処せられる際に、天守を 睨んで絶叫をした怨念によって、松本城が 傾いたとも言われる、嘉助騒動と呼ばれる 農民一揆の農民たちの助命、救済に奔走を した鈴木伊織のお墓脇の湧水 かつて割烹料亭「鯛萬」があった事から 名づけられた湧き水などなど、街を歩けば いたるところでのどを潤すことが出来る 湧き水に出会えることが出来た あっという間の一年であったが、忘れる 事のできない楽しい一年だった。ありがとう 松本、さようなら松本 平成19年、20年に松本で撮影
2008年03月16日
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松本周辺には、古くからの温泉があり 中でも浅間温泉は、娘のアパートから 歩いて行く事が出来たので、娘は講義 私は温泉へという日も幾度かあった 日本書紀にも記述があり1300年もの 歴史を誇る名湯で、 歴代の松本藩主の 御殿湯(浅間御殿)が置かれたとっても 由緒正しい温泉だったりもする 日帰り温泉「湯々庵枇杷の湯」の露天の 「お殿様の野天風呂」が御殿湯があった 場所だそうだが、とっても雰囲気が良い♪ 野趣あふれる九州の黒川温泉を思い出した 秋には日本三大奇祭でもある、100本 以上もの巨大な松明を担ぎ、練り歩く祭が あるそうだ。日程が合わず見物が出来ずに 残念だった 浅間温泉から数キロ南には美ヶ原温泉が あって、こちらも日本書紀に記載があり 江戸時代には松本藩の御殿湯があった ここの共同湯「白糸の湯」が安くって 飲泉もでき、お気に入りであった 日本の各県に建立をされ、その県出身の 戦死者、自衛隊殉職者などを、日本国に 殉じた英霊として祀るのが、護国神社で 戦没者の遺族会や戦友会が支えてきた 終戦記念日、松本の護国神社に参拝した 松本のオマケ2 川島浪速は、松本藩士の子として生まれ 若くして大陸に渡り、清朝の王族である 粛親王善耆や、粛親王の妹婿で蒙古王公の 喀溂泌王グンサンノルブらと親交を結んだ 粛親王の第4側妃の子で第14王女である 愛新覚羅顕シ(王偏に子)を養女をして 貰い受け、川島芳子と名付けたという 川島浪速が松本に移り住んだ為、浅間温泉の 近くの家から、長野県松本高等女学校(現・ 長野県松本蟻ヶ崎高等学校)に、川島芳子は 颯爽と馬で通ったそうだが、若干17歳で 自殺未遂。断髪をして男装の麗人となった 後に、上海事変の謀略工作に関わったとされ 東洋のマタ・ハリと呼ばれたが、日本敗戦で 中国国民党軍に逮捕され、漢奸(国賊)として 銃殺刑に処されたそうだ 数奇な運命を生き抜いた王女の遺骨は、僧侶に よって、養父の川島浪速のもとへ届けられ 松本の正鱗寺の川島家の墓地に眠っている 平成19年に長野県松本市で撮影
2008年03月08日
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明治維新による廃藩置県で、全国の藩は 無くなり、その象徴であった「城」もまた 無用の長物どころか旧体制の象徴とされ 解体の憂き目にあった 松本城天守もまた競売されてしまったが 地域の人たちが保存を訴え、買い戻した のは、このブログで紹介をした事がある 古いものを大切にする、伝統を重んずる 人の気持ちは今にも受け継がれ、松本城の 二の丸御殿跡にあった、長野地方裁判所 松本支部庁舎が、新庁舎建設に伴って 取り壊しが決まったものの、それを惜しむ 熱心な市民運動によって、現在地への移築 保存がされた 昭和58年、わが国初の司法博物館として 開館をしたそうだが、その移築復元費用の 半分近くは、市民の人たちの寄附により まかなわれているそうだ その後「人権」「蚕糸」という、信州の 近代にとって大切な2本柱を基調にして 松本市にゆかりの幾つかの建物が移築 保存をされ「松本市歴史の里」として 松本市立博物館の附属施設となった 旧憲法下の法廷は、全国で唯一の現存と いう、長野県宝にも指定をされている 長野地方裁判所松本支部庁舎は、明治 41年の建設だ 日本唯一であり、そして世界的にも例の ない、塀の中の公立中学校があることから マスコミでもよく取り上げられている 松本少年刑務所で、大正15年に建てられた 旧独居・雑居棟は平成2年まで使われていた 戦後の混乱の中で、収容されていた少年の 約8割が、中学を出ていなかったのを憂慮を した所長らが、政府や松本市に分校の設立を 働きかけたそうで、今は年齢を問ず高齢の 学生もいるそうだ 明治から大正にかけて、岐阜県飛騨地方の 貧しい山間の寒村に生まれ育った少女達は 口減らしと貧しい一家の稼ぎ頭として、険しい 野麦峠を越えて、諏訪や岡谷の製糸工場で 女工として懸命に働いていた 大正期から平成7年まで操業をしていた 繭から生糸をひく製糸工場が下諏訪から 移築をされていた 「動態保存」を目的にしているので、設備や 機械類も含めて移築され、昔ながらの技術で 生糸をひく実演を、定期的に行っている 映画化もされた「あゝ野麦峠 - ある製糸 工女哀史」は、松本の農家の生まれである 山本茂実が、女工さんだったお年寄から 聞き取り調査をして本にまとめたものだ 名も無き女工らもまた、富国強兵へと突き 進む近代日本の歴史と発展を、影ながら 支えていたのだ 我が家もまた戦後まで、お蚕さんを飼育を していたので、夜になると桑の葉を食べ 這い回るお蚕さんのがやがやとした音が 家の中に響いていたと、姉が話していた ここでもまた、ご自由にと干し柿を いただける。信州の観光地はどこも おもてなしと、お土産があちらこちらで 平成20年1月6日に松本市で撮影
2008年03月05日
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松本には、国道19号を利用して出かけて いたのだが、塩尻からの渋滞をいかに回避 出来るのかというのがポイントで、西側に 並行する道を利用する松本空港ルートの他 もう一つ 東側の山麓の高台を走行し、アルプスの絶景を 楽しむ山麓ルートを開拓していた。その途中に 前から気になっていたのが、国の重要文化財にも 指定をされている「馬場家住宅」である そのご祖先は、武田信玄の臣下である美濃守 信春の縁者とされており、武田氏の滅亡により この地に移り住み、田畑を開拓をしたそうだ 諏訪高島藩とは、親密な関係を持つ権力者で 殿様しか使わない専門の門まで用意されていた 江戸末期に建てられた、長野西南部を代表する 民家建築であり、長屋を持つ表門、塀、主家 中門、文庫蔵、奥蔵、隠居屋、茶室、旧馬屋 などの建物が配置され、敷地の一部にご子孫の 方が住まわれていた 家はアルプスなどを望む高台にあり、松本平を 見下ろす絶景を楽しむ事ができる。古屋敷とも 呼ばれていたらしい 軒先には凍り餅がぶら下がっていた うちのあたりは干し柿ぐらいなので こうゆうのを見るのは初めてだ。やはり こちらの方が冷え込みがきついのかな 家というものは、そこに住んで生活をされる 家族の為にあり、そこには様々な人生を垣間 見る事ができる 外交官としてアメリカに赴任をし、メキシコ 革命の動乱の中で、多くの日本人を救出を した馬場家15代当主であった馬場称徳氏の 旅行用トランクも残されていた 大正時代に、ドイツから日本へと渡った一台の ピアノは各地を転々としながら、幾人もの名だたる ピアニストらが奏でたものだという。蘭子のピアノ ピアノもまた、家と同じように幾つもの人生を 見つめてきたのだろう 松本のオマケ。その一 松本市街の裕福な家に生まれた草間彌生は 統合失調症を病まれているそうで、それに よる幻覚のインスピレーションを、様々な 作品とし、特に水玉のモチーフが有名だ 常時、松本市美術館で彼女の作品を楽しむ 事ができるのだが、こんなサイン入りの かわいい水玉の自販機も設置されている 馬場家の撮影は、平成20年2月16日 水玉の撮影は、平成19年8月13日に撮影
2008年03月03日
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