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今年の3月に、旦那の勤続30周年の 旅行券&休暇で二人で出かけた沖縄の 日記は2回のみ・・・・なんてハズもない 今まで紹介をする機会を逸していたが 本格的な夏を前に、琉球の風を~♪ 実際に出かけてみて、がっかりするという 日本三大名所は、札幌の時計台に、高知の はりまや橋と 沖縄の首里城の守礼門と 言われているが、首里城の復元などもされ 石垣なども、本土のそれとは違っており 異国風で、なかなか見るところが多かった 以前にも紹介をしたグスクやウタキと共に 首里城跡(石垣、建物は含まれない)もまた 世界遺産に指定をされ、約450年にも及ぶ 琉球王国の王城として、その栄華を今に 伝えているのだ 各地に按司(あじ)とよばれる豪族が現れて 力のあるものが衝突し、次第に淘汰をされ やがて15世紀前半に、尚巴志(しょうはし)が 主要な按司を統括し、統一王朝を成立させ 琉球王国を建国をした 王は明の皇帝に使いを遣わして、冊封(中国 王朝の皇帝が、周辺諸国の君主と名目的な 君臣関係を結ぶ事)国となった 冊封国は毎年の朝貢と、中国の元号や暦を 使用する事が義務付けられ、中国から出兵を 命令される場合もあるが、攻撃を受けた場合 中国に、兵の救援を求める事が出来たそうだ ハイビスカスの原種 しかし、統一後も地方の按司の勢力が強く 内乱が絶えず、わずか数十年程で瓦解をし 伊是名島(いぜなじま)の農夫出身の重臣の 金丸(かなまる)が、政権を奪取し尚円王と 名乗って、第二尚氏王統を築いた 1609年に、薩摩藩は明との交易利権を 狙って三千名の兵を率いて、琉球を侵攻し 琉球王国は、薩摩藩の付庸国とされ貢納を 義務付けられ、徳川幕府にも使節を送った まるでイタリアの広場を思い出すような ラテン系な雰囲気の正殿前の広場 その後も、明を滅ぼした清に朝貢を続け 薩摩藩と清の両属という苦しい立場で ありながら、琉球王国を維持し続けた しかし、明治の新政府は、明治12年に 軍隊を派遣し、尚泰(しょうたい)王を 首里城から追放し、沖縄県の設置を宣言 琉球王国は、ついに滅亡をした 最後の国王となった尚泰王は、新政府の 命により東京に移住させられ、華族令の 発令に伴って侯爵となったそうだ 沖縄とは、琉球に対する日本側の呼称で 日本の領土である事を明確化する為に 琉球から、沖縄に呼称が改められそうだ 沖縄県内最大規模の城(グスク)であり 戦前は、正殿などが国宝であったのだが 沖縄戦において、日本軍が首里城の下に 地下壕を掘り、総司令部を置いた為に アメリカ軍艦ミシシッピなどからの激しい 砲撃を受けて焼失をしてしまった 更には、戦後になって琉球大学の建設に よって城の多くの遺構が撤去、もしくは 埋められたが、大学が西原町への移転した 30年程前から本格的な復興が始まり 正殿などが復元をされ、大河ドラマの 琉球の風の舞台となった 琉球王国の歴代国王が葬られている陵墓が 玉陵(たまうどぅん)で、中室、東室、西室の 3つの建築物に分かれる 中室で葬儀の後に、遺骸が骨になるまで 安置され、のちに洗骨をした。王と妃の 骨は東室、他の王族は西室に納められた 沖縄戦で、玉陵も、東室と西室が破壊され 戦後に修復をし、世界遺産に登録をされ 全体が国の史跡、玉陵墓室石牆が国の 重要文化財に指定をされている 16世紀の尚真王時代の園比屋武御嶽(その ひゃんうたき)は、国王が旅に出発をする 際に拝礼をし、聞得大君が就任して、最初に 拝礼したという聖地で御嶽の礼拝所である その礼拝所である園比屋武御嶽石門は、戦争で 破壊をされたが、修復され世界遺産となった これまでの沖縄の日記 ニライカナイより命が生まれ来る・・・神を信じる島々 沖縄ミュージックを堪能し、今帰仁グスクへ 平成20年3月12日午前に沖縄で撮影
2008年06月26日
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ちょっぴり久しぶりの松本では、以前、ここでも 紹介をした事がある「どくとるマンボウ青春記」の 舞台で、北杜夫も通っていた旧制松本高等学校の 跡地である「県(あがた)の森」に出かけてみた 大正8年4月に、ナンバースクールの高校に 続いてのネームスクールの高校のうちでは 最初に設置をされ、信州大学の発足によって 文理学部(人文学部、理学部)の前身となった 本当は「第九高等学校」の内定がありながらも 延期となり、新潟市と猛烈な誘致合戦を繰り広げ 最終的に「第九高等学校」と命名するのは避けて 松本、新潟と地名を付ける事で落着をしたそうだ 旧制松本高校の施設のうちで、現存をする本館の 一部や、講堂は、国の重要文化財に指定をされ 孟子の「誠ハ天ノ道ナリ、誠ヲ思フハ人ノ道ナリ」 から思誠寮と名づけられた学生寮は、信州大学に 移行をされ、 昭和57年に新寮になった今もなお 寮歌60曲程と共に、伝統を受け継いでいる 小説家の辻邦生は、寮生活において斎藤宗吉 (北杜夫)と知り合い、お互いに影響をしあって 終生の親友となったそうである ベルリンやベネチアなど海外の映画祭の常連で サンダカン八番娼館望郷、深い河などの熊井啓 監督もまた、ここの卒業生だ 暦応2(1339)年に、諏訪明神のご加護により 戦勝に感謝をした、信濃守護の小笠原貞宗が 諏訪明神(建御名方命)を祀って創建したが 深志神社のはじまりだ 宮村宮(宮村大明神)と称していたが、後年 北野天満宮(天神)を勧請し、小笠原氏が 深志城(松本城)を築城すると、城の鎮守 産土神として崇敬されてきた 建御名方命の方が主祭神だが、天満宮の方が 有名となって、深志天神、天神様と呼ばれ 松本城下の南半分の商人町の総氏神となった ドラマシリーズの「白線流し」で、富山慎司の 実家の神社として放送されていた 勢ぞろいをした市の重要有形民俗文化財に 指定されている「松本城下町の舞台」を昨年 見たのだが、社殿の前に。祭りでも近いのかな 夏の松本を代表する風物詩が、1992年から 毎年8、9月に行われ、全国の音楽ファンに 有名なサイトウ・キネン・フェスティバル松本だ 桐朋学園大学の教師だった故・齋藤秀雄氏に 師事を仰いだ演奏家、同大学出身の演奏家が 集まって音楽祭のために臨時に編成をされる サイトウ・キネン・オーケストラをはじめに 様々なプログラムが用意される 主に小澤征爾が指揮を執るが、内外の著名な 指揮者、演奏者が松本に集う。その主要会場の 一つが、松本駅前の「まつもと市民芸術館」で 今夏は、小沢征爾の指揮によるヤナーチェクの 歌劇「利口な女狐の物語」が上演されるそうだ 1年前には、ここのメインホールで、娘の好きな 平原綾香のコンサートを見たのだが、綾香自身でも 「こんな綺麗なホールで歌えて」とおっしゃって いたが、赤を基調として、4層のバルコニー席を 備える馬蹄型ホールは、華やかで印象的だ 会場ももちろんだが、建物もまたユニークであり 流線型な建物は、いくつもの半透明の小さな 窓があり、外から差し込む光は、私にはまるで 海の底に差し込む光か、泡ぶくのようにも感じる 内外で活躍をされている伊東豊雄による設計だ そうで、ミキモト銀座2などは、写真を見ると 似た感じがする 久しぶりの松本で食べたのは、やっぱりお蕎麦 ガイドブックでもよく登場し、このホールの すぐ近くの浅田の十割蕎麦だ 平成20年6月14日に松本で撮影
2008年06月25日
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本当にご無沙汰振りでございます。あの ように仏の道などを紹介をした、長野の 日記に続き、欲がまるだしのタイトル(笑) ネットも出来ないくらい、とても充実をした この一週間。以前から「観たかった」のは 木曜日の夜、娘と出かけた長野県辰野の蛍 今が盛りで、地元の人ですら「何年も来てるが こんなに飛んでいるのは初めてだ!」とか さすがに蛍は、写真が撮れないのが残念ですが 幻想的な夜の光景でした 「食べたかった」のは、千疋屋総本店の クリームチーズケーキ。某薬局チェーンで 千円程のシャンプーを購入しての応募で 2口の応募で当選。もう息子が大胆に2個 家に来てた娘も1個をご賞味。一口だけ 貰ったけど、むちゃくちゃ美味しいです~ そのシャンプー自体も、しっとりする!と 娘に大好評で、二度美味しい懸賞でした 娘といえばベットの上に、ダンボールを敷き その上に、せんべい布団という貧乏臭い生活を していたので、ホームセンターで洗剤などを 購入すると、低反発マットレスが当たると 知って「これは欲しいぞ~」と8口程を応募と いつになくやる気満々で、結果が出て良かった これで、ダンボールともおさらば出来そうだ そしてなにより、今シーズンは一度も出かけて いなかった名古屋ドーム! クイズでの応募で やっと応援に行けます。しかも内野A席。無論 ホーム側なので、安心して応援も出来ます ソフトバンクのビジター応援席のシーズン券も 当選をしたので、大阪でオリックス戦にするか 埼玉で西武戦にするか迷うところ。夏休みの 楽しみが増えました。偶然スーパーで見かけた チラシで知って、その時の買い物の1回だけの 応募で当選はラッキー♪ スーパーで伊右衛門茶を購入しての懸賞では 日本茶のセミナーで、色々なお茶の香りを かいだり、味見をしたり・・・ お菓子は京都のもので、大徳寺納豆を落雁で くるんだものだった。今年の新茶を一晩かけて 水出しをした冷茶も、グラスでおよばれをして セミナーで使った一人用のオリジナルの急須や ペア湯飲みはお土産に このペアのお茶碗は、昨年、このお茶の懸賞 当選品で、アウラというブランドのものだ そうだ。伊右衛門茶のペットボトルや、茶葉も いただいて、やっぱりメーカー招待は楽しい セミナー中、旦那は温泉へ。お昼は蕎麦(笑) そこに出かける途中で、塩尻のあたりでメスの 日本カモシカが道端に! 私も野生のものは 初めて観ました。時間なくカメラで撮れず残念 その他にも、図書カードや文具券などいろいろと 平成20年6月15日から21日に撮影
2008年06月22日
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善光寺の門前町などに比べて、長野駅 あたりまで来ると、他の地方都市同様に 近代的なビルなども多く、こぎれいな 町並みとなる。デパートの催事場では 北海道展もあり、娘も思わぬグルメに ご満悦だ かつては、仏閣駅舎が有名だった長野駅は 新幹線開業によって、近代的なデサインの 駅舎に改築をされたそうだ 駅前には、善光寺の阿弥陀如来様の由来に あたる、天竺(インド)にある毘舎離国 (びしゃりこく)の如是姫(にょぜひめ)の像も 月蓋(がっかい)という長者は貪欲な男で お釈迦様がおいでになっても「今日、供養を すれば、毎日のように来るであろう。むしろ 供養をせぬほうがよかろう」と、欲心を起こし 追い返してしまう程だった この長者には如是姫という、愛らしい娘が いるのだが、悪疫の流行で病魔に陥って しまい、巨額な金を投じ、名医などが手を 尽くしても及ばず、ついにはお釈迦様に お知恵を乞うしかないとなった 釈迦様に、長者は今までの己の強欲な行いを 謝罪し姫の命を救い下さる様に、お願いを すると「西方の極楽世界においでになる 阿弥陀如来様におすがりし、南無阿弥陀仏と 称えれば、姫は無論の事、国中の民を悪疫 から救って下さるだろう」と仰ったそうだ 長者が、西方に向き心からの念仏を続けると 阿弥陀如来様が、西方十万億土の彼方から その身を一尺五寸に縮められ、観世音菩薩や 大勢至菩薩を伴った三尊の御姿を現された すると国中に流行をしていた悪疫も治まり 如是姫の病気もたちどころに直ったので 長者は喜び、霊験あらたかなる三尊仏の 御姿をお写し、この世界に止め置く事を 願ったそうである お釈迦様は、目連尊者を竜宮城に遣わし 閻浮檀金を竜王から貰い受け、再び 阿弥陀如来様の来臨を請うと、忽然と 出現し、閻浮檀金は変じて、三尊仏 そのままのお姿となり、天竺の人々を 救ったそうである その後、月日は流れて、お隣の百済国に 月蓋長者の生まれ変わりである聖明王が 悪行を重ねていると、三尊仏がお渡りに なって過去の因縁を話され諭すと、王は 改心し善政を行なうようになったそうだ 百済国の人々を救い、如来様は次なる 教化の地が日本国であると、告げられて 聖明王から献ぜられた、三尊仏こそが 善光寺如来である 10年前に、長野冬季オリンピックの表彰 式が行われた、セントラルスクウェアは 今では駐車場になっていた 街角では、ジャズフェスティバルが行われ おしゃれな音楽が風に乗って、あちらこちらに 長野から、湯田中や、須坂など近郊を結ぶ 長野電鉄でレトロな電車を楽しむ。中は 真ん中を境に座席方向が決まっているのが 面白い 次はこれで、湯田中温泉に足を伸ばしたいなぁ 初日は、お天気がイマイチだとわかって いたので美術館でも出かけようと、善光寺の 裏手にある城山公園に出かけた。ここには 日本画家でもある東山魁夷から、長野県に 寄贈された作品をもとにした美術館がある この水を配した平面的な建物は、岡崎で 見たばかりの谷口吉生による設計であった 東山画伯と建築家であった父の谷口吉郎は 親しく、その縁で画伯から声がかかったという そして、こちらのおしゃれなミュージアム カフェでは、ブログでもお付き合いをいた だいている中野市の天領誉酒造の美味しい お酒が飲めるのだ~~ なんだか嬉しい 勿論、昼は蕎麦に舌鼓~。しかも戸隠蕎麦 予算の都合から高速バスを利用し、車窓からの 景色を楽しむと、遠くに名古屋と長野を結ぶ 馴染みのワイドビューしなのが走っていた 平成20年5月31日&6月1日に撮影
2008年06月13日
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善光寺以外にも、長野市内には「七」に こだわるマニアックな善光寺七名所が 江戸時代からあったそうで、七社、七院 七池、七清水、七塚、七橋、七小路の 他に、善光寺七福神もあったりする そんな七塚の一つであるのが、刈萱山 寂照院西光寺の刈萱(かるかや)塚だ 平安時代末、九州は筑前国の刈萱荘の 領主であった加藤左衛門繁氏は、妻が いながら、千里という美しい女性に懸想し 側室としたそうだ 同じ屋根の下で、妻と千里は仲良く 平静を装いながら、その確執は激しく 繁氏が薄暗がりで、囲碁を楽しむ 二人の姿が、二匹のヘビが絡みあって 戦っているように見えたという ついには妻が、千里の殺害を企て 他人が身代わり、命は助かったが 命からがら、千里は逃げ出した 己の不徳から、二人の女性を不幸にし 修羅を招いた繁氏は、誰にも行く先を 告げずに、出家をし円空(有名な円空仏の 僧とは別人)と名乗り、高野山の蓮華谷に 質素な庵を結び、刈萱(かるかや)道心 とも呼ばれていた 播磨国に逃れた千里は、男子を産み その子の石童丸がすくすく育った頃に 高野山に、刈萱荘と同じ名を持つ 刈萱道心というお坊さんがいると知り わが子を会わせようと、二人で高野山へ 向かった ところが、高野山は女人禁制なので 千里は麓の宿に残り、父の特徴などを 母から伝え聞いた石童丸が、一人で 高野山へ父を探しに入山をした 刈萱道心、石童丸、千里の墓 繁氏は、衆生を捨てて出家をした 修行の身であるので、石童丸に父で あるとは名乗らず、繁氏という人は 既に亡くなったと告げ、落胆する 幼い息子の後ろ姿を見送った 悲しみにくれる石童丸が、麓の宿に 戻ると、長旅がたたって母の千里が 急に亡くなっており、ひとりぼっちに なった石童丸は、高野山の刈萱道心の 元で弟子となり、道念と名乗った その後、刈萱道心は親子の情を絶つ 為か、善光寺如来に導かれるように 高野山から信濃国に向って、そこで 草庵を開いて、地蔵菩薩を刻んだ そうである 高野山の石堂丸は、信濃国の方角に 紫雲がなびいたのを見て、善光寺に 赴いて師の往生を知り、その菩提を 弔う為に刈萱塚を作り、父と同じく 地蔵菩薩を刻み、親子地蔵として 祀られている 花の世は仏の身さへおや子哉 善光寺の北西にある、刈萱堂往生寺も また、親子地蔵が祀られているといい 苅萱上人が、亡くなった場所だそうで 西光寺の方では、石童丸が亡くなった そうである 長らく高野山で、共に修行をしながら 刈萱道心は、自分が父親であるとは 生涯、名乗る事はなかったそうだ 説経節、浄瑠璃、謡曲「刈萱」などで 二人の話は世間で知られるようになった 境内には、七福神の寿老人や、金運に 良いという朝日山の大蛇さまも 善光寺の門前町にある、古くからの商店 などは、ウィンドーを利用をして、小さな まちかど博物館をしているのが楽しい 路地の先には、なにやら金ぴかなお堂が! 鎌倉時代の作で、我国唯一の銅造の 等身大の釈迦涅槃像があるそうだ 善光寺への表参道に、その距離を 一丁(約100メートル)ごとに道標べ 長野市に本社を置く北野建設が、文化貢献 施設として建設した演芸場。スポーツにも 貢献し、かつてはノルディックの荻原兄弟 今はモーグルの上村愛子が所属している 平成20年5月31日&6月1日に撮影
2008年06月11日
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秘仏の、御本尊の一光三尊阿弥陀如来像は インドから朝鮮半島の百済へ渡り、欽明天皇 13(552)年に、百済の聖明王から献呈を されたという、日本で最古の仏像だが、秘仏の 為、御身代わりとして前立本尊が御開帳になる 仏教推進派である蘇我氏は、仏教を日本に 広めようとしたのだが、それを良く思わない 廃仏派の物部氏によって、仏像は、難波の 堀江へ打ち捨てられてしまった 信濃の国司に伴って、都に参ったという 本田善光が、難波の堀江にさしかかると 「善光、善光」という、妙なる御声が聞こえ 水中より、燦然と輝く尊像が出現をした 如来様は、日本国で多くの衆生を救う 為に、善光と共に東国へお下りになると 告げたので、善光は喜んで如来像を 背負い信濃国に戻り、まずは飯田で お祀りをされていたそうだ 如来様の霊徳は人々の知るところとなり 時の皇極天皇は、本田善光に伽藍造営の 勅許を下し、三国伝来の阿弥陀如来様を 御安置し、開山である善光の名を寺号と して「善光寺」となった 仏教が、まだ諸宗派に分かれる以前からの 寺院であることから、宗派の別なく宿願が 可能な霊場とされ、天台宗と浄土宗の別格 本山ともなっている これまでの5枚の写真は、天台宗の大勧進で 住職は貫主(かんす)と呼ばれ、浄土宗の 大本願の上人と共に、善光寺住職を兼ねて いる。貫主は比叡山延暦寺より推挙をされる 慣習になっており、毎朝、善光寺本堂での お朝事(お勤め)に出仕をされる 浄土宗の大本願は創建以来、尼公上人を 住職とし、門跡寺院ではないが、代々 公家から入山をされたそうで、現在は 五摂家のひとつの鷹司家出身の、善光寺 上人第121世、鷹司誓玉大僧正である ここの宝物館には、仏教関係のものの他に 幕末の和宮のお道具や、明治、大正天皇の 所縁の品があって、非常に面白いものだった 境内地入り口から、三門下に敷かれている 石畳は、江戸中橋の大竹屋平兵衛から 寄進をされたもので、7777枚あるそうだ 平兵衛には、放蕩息子がおり勘当をして 家から追い出したのだが、ある月夜の晩 息子は遊ぶ金欲しさに、大竹屋に忍び込み 物音に気がついた平兵衛が、盗賊と思い 槍で突き殺してしまったそうだ 明かりを点ければ、我が息子の変り果てた 姿に、世の無常と因果の恐ろしさを感じ 息子の菩提を弔う為、門前に敷石を寄進し 自らも出家し道専と名乗ったそうだ 現在の位置に、本堂が建てられるまでは 本尊を安置する本堂があった場所には 「延命地蔵尊」が祀ってある 門前町で見つけた、そば粉のクレープ 創業二百年の老舗旅館であった五明館は グルメでも有名な作家の池波正太郎や 吉田茂首相の息子で、文学者の吉田健一も 推賞した程に料理がおいしく、今では 洋食レストランとして営業をしている 中でも、旅館時代は朝食メニューだったと いう五明館風オムレツは、人気だったりする 昭和7年の建築の、旅館五明館の旧館は お隣で、善光寺郵便局として営業をしている 平成20年5月31日&6月1日に撮影
2008年06月06日
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皆さんは、いつごろの記憶からが あるだろうか。私は母親とともに 団体旅行で出かけた、善光寺の バス旅行の記憶が最初だと思う 大きなレストランで小さなサルが 走り回っており、頭に乗られた事や 車窓からの林檎畑が脳裏に浮かぶ 鳩字の額と呼ばれ、善光寺の文字に 鳩が5羽隠されており、更に「善」の 字が牛の顔に見えると言われている 長野冬季五輪では、フィギュアスケート 男子や、ノルディック複合のジャンプ 観戦などの為に、友達と長野入りした 善光寺では、外国の男子選手団らと 真っ暗な通路を通り、本尊の真下に ある、極楽浄土へ約束されるという 錠前に触れる「戒壇巡り」をした 今回はラッキーなことに平成の大修理を 終えたばかりの三門の特別公開をしており 約40年ぶりに、上に登る事が出来るという 文殊菩薩に、四方を守る四天王像。そして 四国四十八ヶ所霊場御分身仏などがあるが 昭和の松代群発地震で幾つかが、落下をし 破損してしまったそうである そんな土産話をする間もなく、突然に ジャンプ団体の金メダルを歓びながら よく晴れた日に、母がこの世を去った 1707年の再建の本堂は、間口が 24メートル、奥行き54メートル 高さ30メートルという国内有数の 木造建築で、国宝に指定をされている あれから十年の年月が流れ、今回は 娘の好きな一青窈のコンサートの為の 長野入りであった 当日は生憎の雨模様だったが、会場は 一青窈ワールドで、まるで異次元の ようで楽しかった 7年に1度(御開帳の年を1年目と 数えるので、実際には6年に1度) 御開帳をされる前立御本尊と結ばれる 回向柱は、長い年月を経て、徐々に 朽ち果てていつかは土へと還っていく 亡くなったお母さんが、生前に作って おいてくれた料理が、冷凍庫に残って いたという話に思わず、目頭を押さた 次の日は青空が広がり、再び訪れた 善光寺で、写真の撮り直しとなった 親鸞聖人が、善光寺で滞在された際に 残された爪彫りの阿弥陀如来といわれ 眼の病を救ってくださるという 輪廻塔は「南無阿弥陀仏」の六字名号が 刻まれており、石柱の中央にはめ込まれた 輪廻車を回すと、極楽往生ができると いわれている。ここでも母娘の姿が・・・ 仁王門は善光寺大地震などにより、二度 焼失をし、現在のものは大正七年に再建 したものだ 仁王像、背後の三宝荒神、三面大黒天は 高村光雲、米原雲海の作で、その原型は 善光寺史料館に展示をされている 地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天の 6つの世界において、衆生を救って くださるという六地蔵 その向こうの延命地蔵尊は、明暦の 大火を出した、八百屋お七の霊を 慰めたものといわれ「八百屋お七の ぬれ仏」とも呼ばれているそうだ 昔、下総の国に住んでいたというむじなが 殺生をする事なくしては、生きていけない 己の罪を恥じて、善光寺に灯篭を寄進を したいと、人間に化けて参拝にやってきた 参詣を果たしたむじなは、宿坊の白蓮坊で お風呂につかり、うっかりむじなの姿に 戻っているのを見つかって、慌てて逃げ 去ったそうだ 姿を消したむじなを、不憫に思った住職は 灯篭を寄進したいという願いを叶えようと 常夜灯を建てたものが、今も残っている 白蓮坊の前には、真新しいむじな地蔵尊が あり、「奈良のせんとくんにそっくりだ」と娘が 言うが、つぶらな瞳といい、ふくよかな顔も 確かに・・・ネット検索したら同じ方だった 平成20年5月31日&6月1日に撮影
2008年06月03日
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