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明日から出張をする旦那から朝ドラのひよっこの録画を頼まれた。魅力的な脇キャラも多く、高視聴率で推移している。それに比べて地味な展開なのか大河は低視聴率だけど、ネットなどで内容が良いと評判が高い私も鶴、亀、おとわが成長し、親父たちが戦死したりの序盤の展開が早く脱落をしてしまったのだが、人気の脇キャラ政次が亡くなるというのでネットなどでは始まる前から評判になっていたので久しぶりに見てみた政次を演じた高橋一生は、軽井沢が舞台のカルテットで、気になってた俳優さんだし最後はどうなるかって思ったらおとわの為の大芝居。それに応えるおとわもまた辛い幕引きだった気になる俳優さんと言えば、定年女子夫の浮気は許さい妻役を南果歩が演じているっていうのが、なんかタイムリーなんだけど、23歳も年下男子に告白されたり漫画みたいな展開で。若い子じゃなくって、中年女子が主役の大人のドラマはやっぱ面白い年下男子や、元夫など男の影がちらつく主人公になにかと絡んでくるスイーツ中年男子がなかなか良い味を出していてこんな男優さんいたかな?と気になって調べてみたら、お~テレビ出演は久々の私でも名前位は知っているミュージカル俳優の山口祐一郎ではないですかさすがに長年、舞台で主役はってた方は存在感が半端ないです。彼と結ばれたらいいのになぁ~と思いつつ最終回を待つばかり。更にこのドラマの脚本家の田淵久美子は篤姫も書いているのだが、その作品でも山口祐一郎は島津久光を演じていたそうだ来年は明治維新150周年にあたるそうで大河も明治維新の立役者で、偉人の一人西郷どん。南果歩の夫の世界のケンさんが島津斉彬を演じるそうだけど。なんかねわかんないです。落語家とかハリウッドスターとかは芸の肥やしで、若手の歌手やお笑いはゲス扱いな芸能界のお常識あっ斉藤由貴も幾島役なんだとか。今度の西郷どんは、女にも男にもモテる男らしくって、何やらBL・・・ボーイズ・ラブ要素があるんだとか。またこんな西郷さんは見た事がないようなわくわくするものらしくて逆に心配。もう幕末はいいから大化の改新とか古代に一度チャレンジして欲しいなぁちなみに西郷どんを演じるのは花子とアンで旦那さんをやってた鈴木亮平。男にもモテる俺物語!の剛田猛男役を、映画で演じているがあれ見たら西郷どん、ぴったりすぎる。あと篤姫にも出ていた瑛太が大久保役で、篤姫は北川景子だ。恋愛ものの多い女流脚本家だがなんとかの妹みたいにはならないといいけどさて写真は昨秋に出かけた鹿児島2泊3日レンタカー旅の最終日。出水で鶴の飛来地特攻基地を見学してやってきたのは出水麓(いずしふもと)の武家屋敷群でここでも篤姫のロケが行われたそうである東京ドーム9個分の広さに約150軒の武家屋敷があり、国の重要伝統的建造物保存地区に指定もされている。往時の姿を残す武家屋敷の一部は一般公開をしており建物の中も見学させて貰えたこの殿と姫は誰? ↑最初に紹介をした税所家は関ヶ原の役の前年に加世田から移住をして出水郷の要職を務めた武家の屋敷で、雨天時の弓の練習場所や、隠れ部屋、抜け道などがあり出水麓で最古の建物であるそうだ こちらの竹添家は肥後の国人吉、球磨城主相良氏の一族で、寛永14(1637)年米ノ津から麓へ移り住んで、組頭といった出水郷の要職を務めたそうで、建物の建築は明治初期を下らないんだとか案内人が詳しく説明をしてくれるが知覧などに比べたら、出水麓は規模が違う。薩摩藩にとっては重要な拠点でとても栄えていたそうだ>薩摩の中では国府が置かれた高城地方>(現在の薩摩川内市)とともに最も>早くヤマト王権に属した。『和名抄』の>薩摩国出水郡の地である。下鯖町の加紫>久利神社は、薩摩二之宮と称される>『延喜式』の式内社である。>江戸時代には薩摩藩に属し、出水郡>出水郷が置かれた。特に出水郷の>武士団は事実上の鎖国状態であった>薩肥国境地帯の防衛・警備・関所の>管理を任ぜされ、出水兵児(いずみ>へこ)と呼ばれた>彼等は薩摩武士には珍しく、粘り>強く常に実直冷静な強兵であった>ため、藩内でも高く評価されていた ウィキペディアより転載なるほどね~、気質もまた違うのか観光用に使われているのか、黒い牛島津家の事を前に紹介をしたけど、都から移り最初に拠点としたのが出水であるのか宮崎県の都城であるか発祥の地争いをしているらしい。大河の篤姫では出水と紹介がされて都城から抗議が来たとか更にここは、島津家の分家筋の薩州家の本拠地であったようでその墓所があった>島津宗家8代当主である島津久豊の次子、>用久(好久)よりはじまる。「薩州家」の>名前は用久が薩摩守を称したことに由来する>2代当主国久の死後に起こった御家騒動は、>他の分家をも巻き込んだ騒乱となった。>一時は半独立状態にあったが、5代当主>実久は島津宗家当主の座を巡る争いで、>一時的に宗家当主・薩摩守護に就いたと>考えられているが、最終的には同じく>分家の伊作家に敗北した>以後は島津宗家となった伊作家に従う。>7代当主忠辰はこうした経緯からか豊臣>秀吉の九州平定に対しては、伊作家系>宗家よりも先に降伏した。朝鮮出兵に際し>豊臣秀吉の怒りを買い改易され、忠辰が>朝鮮在陣中に病死したため、薩州家は>その所領を失った。ウィキペディアより転載九州新幹線が開通し、ここ出水にも駅が出来て交通の便が格段に良くなり、観光客の数もかなり増えたみたいだ鹿児島空港のあたりにも霧島茶の茶畑が広がっていた。空港わきでガソリンを満タンにレンタカーを返却して・・・鹿児島空港に到着~っ飛行機の時間まで、まだまだあるので白くまを食べる。ファミリーレストランエアポート山形屋のものだし。白くまは鹿児島市内の飲食店などで提供をされるかき氷で、加糖練乳をかけた上から果物などを盛り付け小倉餡を乗せたもの鹿児島では戦前から親しまれてきたかき氷だそうだ。横から見たらこんな感じだ。やっぱ、その土地ならではのご当地グルメは旅に欠かせない空港内にはソラステージという展示室があって、飛行機の事などがお勉強できるほうほう・・・・でも、模型よりもやっぱ本物の飛行機を見てた方が楽しいやかなり大きなANA機こちらはJALのプロペラ機。ここから離島なんかにも飛んでいくんだろうなおっ、くまモンだ。これはソラシドエアの「がんばるけん!くまモンGO!」機だセントレアよりも滑走路が近いので離発着も近くで見えて、それなりにいろんな飛行機の発着も多いので、見ているだけでも楽しいくまモン機、離陸!今回の旅行のおさらいを1日目 知覧の武家屋敷群、知覧の特攻基地 番所鼻、指宿温泉の砂風呂、開聞岳2日目 長崎鼻、フェリーで大隅半島に移動 鹿屋の特攻基地、桜島、霧島温泉3日目 霧島神宮、曾木の滝、出水の鶴飛来地 特攻基地、武家屋敷群毎日のように特攻基地に行ったのでちょい重い旅行であったのと、なんといっても鹿児島市街をぶっとばした事が旦那のとしては不満だったみたいあと温泉でもっとのんびりしたかったみたいだ私としては以前に(と言っても30年前)霧島温泉に泊まって、鹿児島市街の城山仙厳園や桜島も行っており、その印象がまだ残っているので、今回は知覧や指宿行けたらいいやって感じで飛ばしたけど旦那には一生に一度、行くか行かないかわからないような鹿児島旅行、やっぱり大隅半島諦めて、鹿児島市街に立ち寄るべきだったかなぁ~とか思いつつ、また行けばいいじゃんと、軽く旦那に言いはしたがたぶん、もう行かないかも。九州で次に行きたいのは長崎、佐世保、ハウステンボス雲仙温泉と長崎市街は、↑の九州旅行で行ってはいるが駆け足だったので、のんびり出かけたいと思いながらも、早30年・・・頭の中は、早くも次の旅行に思いを馳せるどうやら、これに乗って名古屋に帰るみたいだ。プロペラ機というものに乗るのは初めてなので、乗るとわかってから名古屋で降りるまでちょいビビっていたここまで小さな飛行機に乗るのは初めてだし。30年前に新婚旅行でグアムに行った時の米国機は軍用機みたいに、飛行機のお尻が大きく開口し、そこから乗り降りしたっけ。あれは何て飛行機だったんだろう11月なので日が短くなったので暗いけど夕刻に愛知県のセントレアに到着。ここから高速を使って自家用車で2時間ほどで自宅だ名古屋に帰ってきたなぁ~と、実感する青い耳のコアラのパネル高速で三河方面などに出かけたら、まず立ち寄るのが刈谷のハイウェイオアシス女性トイレがゴージャスで、えびせんのお店で試食が出来るという特典もここで夕食。ピザを食べた鹿児島旅行のお土産は芋タルトやかるかんや、霧島神宮の鉾餅とかそして旅行のグルメ特典で貰った鹿屋のお芋の洋菓子2箱えびせんはたぶん刈谷で買ったものかも?みかんはどこで買ったか覚えてもいないまっ9ケ月も前の話だし。長々お付き合いいただきましてありがとうございます。次はたぶん、今夏の話をします 平成28年11月17日に鹿児島県で撮影にほんブログ村
2017年08月23日
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連日の雨、雨、雨マークが続く今年の夏ですが、珍しく息子も参加しての家族旅行2泊3日は、傘を一度も使う事もなくって満喫も出来ました。その様子は、9月あたりに紹介出来たらと思いますその前に、まずは昨秋に旦那と出かけたレンタカーでまわる鹿児島2泊3日の旅最終日。ホテルを出てから霧島神宮を参拝し、曽木の滝を観光してやってきたのは出水(いずみ)ですかつてやっていた芦屋雁之助主演の裸の大将で、ここの鶴の回があってこんなに沢山の鶴がやってくるんだ機会があれば行ってみたいなぁ~と若い頃から思っていた場所だ本当は釧路の丹頂鶴を見てみたいのだけど、北海道は遠いし(夏に2回行った)冬場は寒いので行きたくもないので九州の出水で我慢ここにやってくるのは殆どがナベヅルみたいで、他にもマナヅルとか少しはいるみたい。マナヅルは一回り大きいみたいだねこう見てもマナヅルはハッキリとわかるし。これらの鶴は主に中国北東部やシベリアで夏場に繁殖し越冬の為に、この地へ海を越えてやってくる「鹿児島県のツルおよびその渡来地」として出水平野の一部の約245ヘクタールが国の特別天然記念物に指定をされており鳥獣保護地域となっている有料の鶴の展望室もあり、高い所から飛来地を眺める事も出来るが、まっ下で普通に見る事も可能だ。周辺あちこちにいるし造成された開拓地に元禄7(1694)年鶴がやってきた記録が最初で、幕府も藩も鶴の保護をしたので、鶴はその後もこの地に飛来していたところが明治維新で幕府や藩が解体保護がなくなると狩猟の対象となり乱獲により一羽も飛来しなくなってしまった。明治28(1895)年に狩猟法で保護がされると、再び鶴も増えた大正時代に敷かれた鹿児島本線は出水平野のど真ん中を通る計画であったのが鶴の飛来地を迂回するルートにもなった。その甲斐もあり昭和14(1938)年には4千羽弱も飛来するようになったしかし第二次世界大戦が勃発をして出水にも海軍の飛行場が設置をされ保護活動も縮小されると飛来数は275羽(昭和22年)に激減してしまったそうだ昭和27(1952)年に国の特別天然記念物に指定をされて、鹿児島県ツル保護会も結成をされ、1万羽を優に超える鶴の飛来地となった為に問題も出てきており、越冬地を西日本各地に分散する調査もされているようだこれらの鶴の越冬地は他に山口県の八代盆地や、韓国の大邱と高霊郡や軍事境界線の湿地帯、中国の長江流域などで、その年の気象条件で越冬先を変える鶴も多いので出水の飛来数も年により増減する昭和51(1976)年に韓国の軍事境界線付近での、米韓合同軍事演習が行われるようになって、ここへの越冬飛来数が急増したみたいだ自然の鳥獣も、人間界のきな臭い紛争やら乱獲やらに巻き込まれて大変みたい。あの対馬で発見されたニホンカワウソ(かもしれない)も乱獲により絶滅したという話だし日本中いたるところにいた日本カワウソの毛皮は保温力に優れているので、大正から昭和初期に乱獲されて激減し1928年には捕獲禁止となったが高度成長期の開発による護岸工事や河川汚染もあり日本から姿を消して久しい出水でのお昼ごはんはお魚にしたやはり山の人間は新鮮な海のお魚が一番ごちそうに感じる本日の定食のようなもので、価格も1000円よりもかなり安く済んだ今夏もテレビなどで、先の大戦に関する番組を幾つもやっていた。朝ドラでも名前が出たインパール作戦、731部隊本土空襲、原爆、満州からの決死の帰国樺太残留邦人。静岡の従軍カメラマンの写真集も興味深かった鶴の渡来地の近くにも、海軍航空隊の飛行場が作られ、昭和20年4月には特攻基地となり、敵の攻撃から戦闘機などを守る掩体壕(えんたいごう)が残されていた当初は飛行士を急速に、なおかつ大量に養成をする為に、初歩練習部隊が設置をされ、阿川弘之の小説「雲の墓標」では主人公の海軍予備学生が、訓練を行った地でもある。田村高廣主演によって「雲の墓標より空ゆかば」として映画化もしたその文章が刻まれてた慰霊碑もあった雲こそわが墓標 落暉よ碑銘をかざれ吾らに代わりて 代わりなき若き命を南海の千尋の底に沈めし若き勇士たちよ今日よりは安らけく瞑れここからは主に銀河など大型機が使用をされ、所説はあるが200名以上が特攻出撃をされたそうである。名前のわかる方は数十人程しかおらず、全国から入れ替わり立ち替わりで来られ、出撃をした多くの隊員の名前もわからぬままであるここから特攻に出撃された方の中に高知出身の山崎祐則(すけのり)さんがおり最近になって、ご実家の押入れから沢山の漫画や、絵手紙が発見されたそうである祐則さんは旧制城東中学(現追手前高校)で友人らと漫画研究会を結成したそうだグライダーの模型を飛ばすのが好きで漫画の題材にも気球や飛行機を好んでペンネームは「青空高士」といった昭和15(1942)年10月に中学を中退海軍航空隊へ志願し三重や静岡、愛知の基地で訓練を受けた見つかった漫画の中には「空の少年兵」や「予科練時代」などで、基地内での水泳やボートをこいだり、風呂に入ったりといった訓練とか日常生活を描いたもので、遺族には戦争の悲惨さが感じられない程に、明るくおかしさのある内容だったところが昭和19(1944)年の秋に出水航空隊基地に移るとその内容は一変し、手紙からは漫画が消え文章も短くなった。ご遺族は「特攻作戦が始まるのをうすうす感じていたのでは」と話されている昭和20(1945)年3月19日の消印のものが、家族に届いた最後の手紙であった「元気に軍務に精励致して居りますれば何卒御安心下さい。義ちゃん(弟)、恭ちゃんも元気ですか。では又さようなら」 享年19歳。翌年になって出水基地にいた祐則さんの同期生から祐則さんの郵便貯金の通帳が届き、その通帳の裏表紙に細い走り書きがあった「私は特攻隊で行きます。皆様御気嫌宜(よろ)しくお暮(くら)し下さい。父上様、母上様御元気で。サヨウナラ」と 元の高知新聞記事より特攻碑公園内には、旧海軍航空隊基地の戦闘指揮所の地下壕が今も残されていた。空襲激化によって全ての戦闘指示がここでされていたそこには出水基地上空の空戦で被弾墜落をした松島空所属の九六式陸上攻撃機の主翼の一部があった3枚のプロペラは、昭和20(1945)年4月26日に出撃した一式陸上攻撃機の左エンジンのプロペラで、2枚の方は陸軍九七輸送機のもので、どちらも近海で漁船の網に引っ掛かり引き上げられたものである航空隊正門(現桜並木)に対面して建てられ、通行者の監視と警戒に当たった衛兵塔。兵は常に銃を所持し、下士官や兵の敬礼には「気をつけ」の姿勢をとり仕官の通過の対しては「捧銃」の礼を行った近くには特攻神社があった。最初は航空隊の守護神として建立されたが後には特攻出撃をする隊員が使命の成功と、国家安泰を祈願したそうだレイテ沖海戦において最初の特攻を行った関行男命と、出水より特攻し空母フランクリンを爆撃し、甚大な損傷を与えた金指勲命、更には全国特別攻撃地散華之命達が祀られている英霊の碑の前に、第二出水海軍航空隊正門も移築保存がされていた。戦争の体験者もご高齢を迎え、ご存命の方がますます減っているのが現状だ。テレビか何かで戦争について少しは知っていたり考える機会のあった人間と、全くない若い世代では、認識が全く違うそうだ自由にもの言えぬ時代、自由に生きる事も出来ない時代、否応なしにその命さえも差し出さなければならない「戦争」というものを決して、風化をさせてはいけないそんな事を思いながら甲子園の高校野球をテレビで見ている。この時代に、この国に生まれてこれて良かったと思える世の中であればと切に願う平成28年11月17日、鹿児島県出水市で撮影にほんブログ村
2017年08月20日
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はや8月も半ばとなった。2泊3日の昨秋の鹿児島旅行も盛り沢山で、既に5回も紹介しているが、まだ3回分もあり、8月中になんとか紹介出来たらなんて思いもする。では2日目の続きをフェリーで大隅半島へ渡って、道の駅神社二つに、滝を見下ろし、鹿屋基地を見た後、かなり遅いお昼を食べに行ったのは垂水の「十五郎そば」だ。なんでも鹿児島県は蕎麦生産量が全国2位なんだとか。ちなみに1位は北海道である桜島の火山灰で覆われ水田が少なくってサトウキビ、サツマイモ、タバコ、蕎麦などの生産が盛んであった。農村では蕎麦をソマといい家庭料理として食べられていた中でも、ごちそうさったのは自然薯をつなぎに使ったお蕎麦だったもともとは伊地知氏に仕えた武士であったが天正元(1573)年、島津義久にはむかって武士をすて商人になった人たちがこのあたりに住んでいるんだとか。江戸時代からの老舗の蕎麦屋で屋号は当時の藩主から貰ったものだ一人の行脚僧が空腹のあまり中町の貧しい農家で一杯の飯を所望したところ、作ったばかりのそばを出して貰ったので、お礼に美味しいタレの作り方を教えた。垂水名物十五郎そばもこのタレを受けついでいる写真枚数の関係で、紹介をするのが前後をしたが鹿屋基地からお蕎麦を食べて、その後に桜島を眺め、車窓から福山の黒酢の甕を見つつやってきたのは霧島温泉郷の今夜のお宿。霧島国際ホテルである霧島温泉では、幾つかの温泉旅館から宿泊先を選べたんですが、ここの風呂が良さそうだったので霧島国際ホテルの公式HPから岐阜県の旅館のメインは飛騨牛ですけど鹿児島県は、やっぱり黒豚みたいですねお刺身の質も良さそうですなんか写真がおいしそうに見えずスイマセン・・・美味しかったですよここでもお蕎麦が出てくるのは、先程の鹿児島名物にあたるので。さつま揚げが浮かんでましたデザートが何やら盛りだくさんでしたよ大きなホテルなので、一度も見る機会はありませんでしたが何やら県内の小学生が修学旅行で泊っていたらしくチェックインでもこの時間は学生さんが使ってますのでと聞いていたけど30分短そうだ。サウナや泥パックはまだしも露天風呂も利用禁止なんだ。まっ30分しかないしアイスや飲み物の自販機も禁止でタバコも禁止。そりゃ小学生だしねあらら、エレベーターも利用禁止なんだ霧島方面からの朝日を受けて、湯煙がキラキラと輝く。早起きをして早朝の温泉に入るのは旅の楽しみの一つだお昼ごはんがいつになるのかわからないので、朝ご飯のブッフェも盛りだくさんというか和な感じで美味しそう。おかゆも大好きだしこの湯煙が温泉町らしくて情緒があるがこんなに何本もあるのは別府鉄輪温泉とか限られたところ位だが。霧島温泉郷は霧島山中に点在をする幾つもの温泉の総称で国民保養温泉地に選ばれているって、そんなのもあるんだ効能の高さや湧出量、湧出温度などの他温泉地に関しては、健全性、周辺の景観保養地としての環境、温泉を利用した医療設備、スタッフの充実、交通の便、災害に対する安全性などハードルも高い環境省による選定だ霧島温泉の温泉大使はアヒル隊長らしい丸尾温泉から霧島神宮に向かう道沿いにあるのが丸尾の滝で、高さは23メートル幅16メートルの豪壮華麗な滝で、すぐ上の林田温泉、硫黄谷温泉の温泉水が集まって流れ落ちる珍しい温泉の滝です今回の旅って連日のように特攻と、猫そして滝が随所で登場してくるような気もします。最終日にももう一つ滝を紹介しますねさて霧島温泉と言えば幕末の志士であった坂本龍馬がお龍さんと日本初の新婚旅行に行ったというのでも有名。慶応2(1866)年寺田屋で襲われお龍さんに助けられ、療養を兼ねて、鹿児島の温泉でのんびり過ごしたそうださて平成の鹿児島旅行3日目は霧島神宮参拝からスタートだ。こちらの主祭神は天饒石国饒石天津日高彦火瓊瓊杵尊(アメニギシクニニギシアマツヒコヒコホノニニギ)天照大神の子の天忍穂耳尊と、高皇産霊尊の娘の栲幡千千姫命の子だそうだが「アメニギシクニニギシ」は天にも地にも親和的であるとの事で、「アマツヒコ」は神をたたえる尊称。「ヒコ」は日神である天照大御神の嫡流の男子、「ニニギ」は稲穂がにぎにぎしく成熟する意味だとか ウィキペディアによれば ↓>ニニギノミコトは葦原中国を統治するため>高天原から地上に降りたという。これを>天孫降臨と呼ぶ。『古事記』では、この>降臨の地については「竺紫の日向の高千穂の>久士布流多気に天降りまさしめき」と記述>している。>『日本書紀』では、「日向襲之高千穗峯」>あるいは「筑紫日向高千穗」と記述している>この降臨の経路の解釈ついては、日向国の>高千穂峰に降り吾田国(現在の鹿児島県>南さつま市)の長屋の笠狭碕に到達したと>する説のほか諸説ある>日向(ひむか)の歴史はかなり古く、鹿児島>県大隅地方もその昔は日向と呼ばれていた 相殿神は、木花開姫尊、彦火火出見尊豊玉姫尊、鵜鷀草葺不合尊、玉依姫尊神倭磐余彦尊である欽明天皇の御代に慶胤という僧侶に命じ高千穂峰と火常峰(御鉢)の間に社殿が建てられたのが始まりだそうだが、火山の山麓に立地しているので、たびたび噴火で炎上したりもした文明16(1484)年に、島津忠昌の命で兼慶が再建をしたのが、今の霧島神宮であるが建物は、その後も何度も炎上をしてしまって現社殿は正徳5(1715)年の、島津吉貴が奉納したものであるご神木の杉は樹齢800年で、南九州の杉の祖であるそうだ境内に大きな切り株があり、中からは新しい息吹が更には温泉の池があった。むちゃくちゃ良い色だし売店では名物の鉾餅の試食が、山のように積まれていた。霧島神宮でお供えをされる小判型の鉾の形をしているから鉾餅なんだとか。米粉とサツマイモを使った求肥で粒あんを包んだものだ季節柄、綺麗な菊も展示してあった比較的、暖かな鹿児島県でも霧島山麓は紅葉が見ごろだった。さて次の観光地はやっぱるるぶのガイドブックで見つけたもので、今はカーナビがあるから土地勘なくてもへっちゃらだやってきたのは鹿児島県伊佐市南部の川内川上流にある「曽木の滝」で、高さ12メートル滝の幅は210メートルと幅も広くて、東洋のナイアガラと称されており、加久藤火砕流の堆積物によってできたものだそうだ加久藤(かくとう)火山は霧島火山群の地下に位置しており、33万年前に大噴火を起こして南九州を焼き尽くしたそうだ。石黒耀の小説「死都日本」ではこの火山が再び噴火をするというものなんだとか島津攻めの帰路で、大口筋にて肥後へ向かう途次に、豊臣秀吉もその雄大な景観を楽しんだとも伝わる。というかどんだけ中央覇権と戦ってんだ島津氏平成元年の日本の滝百選の選定では、滝の上流の橋で景観が台無しとされて選から漏れており、その撤去に伴い下流に新しい曽木大橋が作られていた古い上流の橋は撤去されるとあったが、あれもう古い橋はないような。真ん中の黒い棒みたいなのは橋げたとか残ってるのかな?これなら日本の滝百選にも十分に選ばれてもおかしくはないが時間は取り戻せずただ平成21年に読売新聞が創刊135年を記念した平成百選には選ばれたそうで地域の人たち、留飲をさげる風景写真家である竹内敏信の監修により全国三百ケ所の候補地の写真から公募で応募総投票数は64万票(1人5か所まで)更に地域振興を図るという企画の趣旨と地域バランスを考慮し、各選考委員らの審議によって、平成百選が選ばれたその結果、公募での応募数の多かった上位30位までは全て選ばれ、得票数100位のうち約7割が選ばれている。上位30位は得票順で発表をされており1位はやっぱり富士山で、それに続いて昇仙峡知床、十和田湖と奥入瀬川、合掌造り、京都姫路城、上高地、函館、奥入瀬と名だたる全国の観光地が並ぶ中で、この曽木の滝は見事24位にランクイン日光の社寺や錦帯橋、蔵王に勝っているのは素晴らしい。31~100位は順不同だが妻籠、馬籠なども選ばれていた。今度は来日外国人に人気の観光地でもやってくれたらかなり上位にランクインしそうだここでもにゃんこ。マンホールの上は暖かなのかな? さて鹿児島最終日の観光はまだまだ続く。次に向かうのは平成28年11月17日に鹿児島県で撮影にほんブログ村きりさまの
2017年08月11日
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永遠のゼロで宮部が、最後に飛び立ったのが大隅半島にある日本海軍航空隊の鹿屋特攻基地だった。この基地から南方へと飛び立った特攻隊員の数は908名にものぼり、数ある特攻基地の中で飛び抜けて多い人数であった飛行機による特攻隊は、前に紹介した薩摩半島の知覧のように日本陸軍のものと別に日本海軍のもあり神風特攻隊という。その名の由来は、蒙古襲来時に神風が吹いて追っ払ったという伝承に基づいてであるカミカゼ、もしくはシンプウとも言ったらしい日本海軍の神風特攻隊において一番使われたのが零戦。零式艦上戦闘機だ宮崎アニメでは設計者を主人公にした「風立ちぬ」もあれば、永遠のゼロなど様々なメディアでも取り扱われる機体だ開発者は三菱重工業であるが、日本海軍航空隊の主力となって、生産数が多いので中島飛行機も半分近くを作っていたそうだ生産数は1万機にものぼったそうだ。当時の軍用機は採用年の皇紀(神武天皇紀元)下二ケタを冠する決まりで、昭和15年は皇紀2600年なので00から零戦となった連合軍が付けたコードネームは、ジークだが将兵らはゼロとかゼロファイターと呼んでいた昭和14年に試作一号機が完成し、4月1日に岐阜県の陸軍各務原飛行場で初飛行に成功翌15年(皇紀2600年)に採用をされると、7月大陸戦線にて零戦11機が配備され、夏には実戦にも使われるようになった太平洋戦争の中期あたりまでは、零戦の卓越した性能が勝り、敵機を撃退し無敵とも言われるほどであった>アメリカ戦略空軍司令部作戦部長補佐代理>ジョン・N・ユーバンク准将は「ニューギニアや>ラバウルで我々が遭遇した日本軍は、本当に>熟練した操縦士だった>我々は最優秀の敵と戦っているのだという>ことを一時も疑ったことはなかった」と>回想している (中略)登場時こそ高性能を>誇った零戦であるが、後継機の開発が順調に>進んだ陸軍に比べ、海軍は後継機の開発が>うまくいかず、零戦は終戦まで主力機として>使用され、性能でもアメリカやイギリスの>新鋭機に敵わなくなった>戦争中盤以降アメリカ軍は2,000馬力級エンジンを>装備するF6FヘルキャットやF4Uコルセアなどの>新型戦闘機を投入するようになっていったが、>雷電や烈風など零戦の後継機の開発に遅れを>とった日本海軍は零戦の僅かな性能向上型で>これらに対抗せざるを得なかった。 ウィキペディアより転載しました そして飛行戦を行っていた零戦も、戦争末期には、熟練したベテランパイロットも戦死し、若い命を乗せて敵艦に突っ込む特攻兵器としての運命をたどる事となったこの零戦の機体は、1992年に引き揚げられた中島製ニ一型と五ニ型丙の二機の残骸から復元した機体で、機体の強度上の問題からエンジンは取り外して展示されている海上自衛隊鹿屋航空基地の敷地内にある鹿屋航空基地資料館(無料)には先程の零戦が展示され、これは撮影が出来るが、特攻隊員の遺品などは撮影禁止となっていた旅から帰ってから知ったのだが、更に屋外にも世界で唯一現存をするという二式飛行艇もあったのだが、遠くから見ただけだった。しまった、もっと近くにいって、じっくり見ればよかった。やはり旅の事前学習は必要だ旧日本海軍が九七式飛行艇の後続として昭和16年に初飛行、高い性能を持った傑作機で、空の戦艦とも呼ばれたそうだ通称は二式大艇、製造は川西飛行機だ戦争後に米国が残存機の性能試験をしてその高性能ぶりに驚き、飛行艇技術では日本は世界に勝利したと称賛した名機だ聞けば聞くほど、もっとしっかりと見て来ればよかったと思った。もう鹿屋に行く機会もないだろうに・・・。なんて事で、こちらは海上自衛隊の展示機US-1A(おおとり)緊急飛行艇。さっきの二式大艇の川西飛行機の後進である新明和工業製だT-6テキサンのSNJ-5練習機はノースアメリカン社のレシプロ高等練習機でその形からカラーリングを施し、零戦や九七式として映画で使用されていたビーチクラフトモデル18のSNB-4(米国のビーチクラフト社)ビーチクラフト社の設計で、富士重工(旧中島飛行機)がライセンス生産をしたT34Aメンター。メンターとはよき助言者、優れた指導者という意味だそうだロッキード社のP2V-7対潜哨戒機(後に川崎飛行機がライセンス生産も)米軍の愛称はネプチューン(海神)で海上自衛隊ではおおわしと呼んでいたグラマン社の艦上対潜哨戒機S-2。愛称はトラッカー(追跡者)。海上自衛隊にはMAP(軍事無償援助)として、S2F-1が数十機供与され、愛称はあおたかダグラスエアクラフト社のダグラスC-47は世界初の旅客機で愛称はスカイトレインノルマンディー上陸作戦など第二次世界大戦で輸送機として活躍をした。イギリス軍に供与された機体は、ダコタの名で運用されたアイゼンハワー大統領が「第2次世界大戦を勝利に導いた3つの兵器はジープ・バズーカ砲(対戦車用)そしてダコタ(C-47)輸送機である」と言ったらしい。海上自衛隊ではR4Dー6Qまなづるといって戦後に導入されたてな感じで、戦中から戦後にかけての軍用機をいろいろと見せて貰いましたが悔しいのはやっぱ二式大艇を近くまで行って、じっくりと見学をしなかった事先程、資料館内は零戦のみ撮影可能で遺品もあるので後は撮影禁止と言ったが海上自衛隊のブースは写真が撮れる鉄分一杯、気分もウキウキ。そうそう先週日曜日に、中津川へ買い物に出かけたら汽笛の音が。公園に屋外展示されているD51のイベントで汽笛を鳴らしたみたいだ郷愁を感じる良い音だ南極の石もあった。海上自衛隊の活動には、砕氷船「しらせ」による南極観測の協力もある昭和11年4月1日、日本海軍鹿屋海軍航空隊が創設され戦争末期は菊水作戦神風特攻隊の基地となり908名が出撃平成27年まで海軍航空隊本部時代の司令部庁舎も使われていたそうだ昨年1月27日には、パプアニューギニアで戦後に発見されアメリカ人コレクターが回収しロシアで修復した零戦が、日本人の所有となって里帰りプロジェクトを行い、この鹿屋の空を飛んだそうだ鹿屋を後にして錦江湾沿いに大隅半島を北上すると正面に大きく見えてきたのが桜島かつては名のごとく錦江湾に浮かぶ島であったのが、大正3(1914)年の噴火により陸続きになった今も頻繁に噴火活動をする活火山で展望所の入り口には注意書きもあったそして丈夫そうな避難所も、あちこちに今回は南岳の麓、有村地区の大正溶岩原に作られた展望所から桜島を眺めてみようと思う。一面に広がる溶岩原もまた見ものらしい東西約12キロ、南北約10キロ、周囲約55キロ面積約77kmの姶良カルデラの南縁に位置した火山で、このカルデラの2.9万年前の巨大噴火の3千年程後に誕生をした有史以来30回以上の噴火が記録に残されており特に文明、安永、大正の3回が大きな噴火だった文明3(1471)9月12日の噴火(VEI5)では北岳の北東山腹から、溶岩(北側の文明溶岩)が流出し多数の死者があった安永8(1779)年9月29日に大噴火が起き火砕流も流れ、火山灰は長崎や江戸でも降ったとか。一連の海底火山活動で燃島、硫黄島、猪ノ子島など6つの火山島が出来安永諸島と名付けられた大正3(1914)年1月12日午前10時5分桜島西側中腹から黒煙が上がり大音響とともに噴火が始まり、約1か月間にわたって頻繁に噴火が繰り返された。更に午後6時30分には噴火に伴いマグニチュード7.1の桜島地震が発生し大きな被害があった今もなお頻繁な噴火活動が続く桜島の御岳は筑紫富士と呼ばれているそうで筑紫は以前は九州を指していたそうだという訳で、本来なら鹿屋の屋外展示をした飛行機の写真の時に書こうと思ったけど、ついつい飛行機の説明に終始してしまったので桜島の写真をバックに、鹿屋基地から出撃した特攻隊の隊員の話を紹介したい。彼の名前は石丸進一。昭和20年5月11日に500キロの爆弾を抱えた零戦で、鹿屋基地を飛び立ち、沖縄へと向かって出撃消息を絶った佐賀市で理髪業を営む家の五男に生まれた石丸進一は、兄の藤吉の影響で野球を始め送球派エースとなった。兄に続いて名古屋軍(現在の中日ドラゴンズ)に昭和16年に入団し持ち前の速球と、針の穴を通すほどの抜群の制球力で大活躍をした昭和18年10月12日の対大和戦では戦前最後となるノーヒットノーランも達成をしたこの年は20勝12敗、防御率1.15と前年以上の好成績を収め、チームを2位まで躍進させた兵役を逃れる為に、大学に籍を置いていたが昭和19年春の学徒出陣で招集をされた石丸は海軍飛行科を希望し、筑波海軍航空隊に配属となり、昭和20年に神風特別攻撃隊に志願して特攻隊員となった。出撃前に同僚の本田耕一と、最後のキャッチボールを行って従軍記者だった山岡荘八(作家)が審判を務め「涙でよく見えなかった」という10球は全てストライクだったそうだ>藤吉が最後に会った時は「敵艦に体当たりして>轟沈(ごうちん)させる」と話す弟を、「そんなに>死に急いでどうする!」と諭したという。「兄さん、>そんなこと分かってるよ」――。それが石丸の答え>だった。出撃前、鹿屋基地では戦友に「死にたくない、>怖い」とも漏らした。兵舎の陰で泣いている姿も>あった。22歳。死の恐怖と必死に闘っていた。スポニチ記事 詳しくはこちらをお読み下さい↓戦前最後のノーヒッター神風に散った22歳・石丸進一の在りし日 平成28年11月16日に鹿児島県で撮影にほんブログ村
2017年08月09日
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旦那の運転によるレンタカーでまわる鹿児島旅行二日目も、気持ちの良い青空が広がって昨日はお釜の蓋のような雲を頭に乗せていた開聞岳(薩摩富士)も、今日は頭のてっぺんまで綺麗に見えた日本にはまるで富士山のように美しい円錐形をした山を○○富士と言うけどここは海岸沿いにあって、余計に綺麗全国各県に〇〇富士がある中で、岐阜県などは山の国だけあり8つもあるらしい日和田富士(御嶽山継子岳、2,859 m)蒲田富士(がまだふじ、2,742 m)飛騨富士(船山、1,479 m)徳山富士(とくやまふじ、925 m)下呂富士(中根山、782 m)美濃富士(烏帽子岳、865 m)美濃富士(浅間山、372 m)米田富士(愛宕山、261m) 御嶽くらいしか知らない2日目の最初の観光先は、鹿児島だけど長崎鼻だ。薩摩半島の最南端に突き出した岬(鼻)で、指宿カルデラの外輪山の一角らしく火山岩だとか。北緯は31度09分岬の先端には薩摩長崎灯台がたっていたその近くには記念写真スポット。周囲に人もいなかったので、写真も頼めず一人ずつ。まだ朝が早いからだからかな~天気の良い日には硫黄島、竹島、黒島の島影も見えたりするらしいし、年に数度屋久島、種子島も見えるんだとかこのあたりは、ウミガメの産卵地だそうで長崎鼻の別名は竜宮鼻ともいって、浦島が竜宮城に旅立った場所であるそうだ。乙姫(豊玉姫)を祀った竜宮神社があったその前にはカメと浦島像。昨秋に出かけたので頭の中には、昨年のヒット曲auの三太郎シリーズの浦島太郎の歌が流れてそうそううちの近くにも木曽川の中ほどにある大きな岩が乙姫岩といって、竜宮があったらしい木曽川の上流の寝覚ノ床で釣りをしていた浦島さんが鉄砲水で流されて、下流の山口まで流され、竜宮の乙姫に助けられ暮らしてていたが、このままではと寝覚ノ床に戻って玉手箱開けたんだとか。鉄砲水・・・・竜宮神社の参道には幾つかの土産物屋が並んでいて、こんな看板もあった。私も珍百景、喜んで見ていたし。この回も見た覚えがあるやはり泊りで2日位現地にいれば、山も思うような姿を見る事も出来る。海越しの開聞岳はこの上なく美しかった。名残り惜しいが、次の時間も迫ってきたので長崎鼻を後にして向かった先は、お父さんたちがのんびり釣り糸を垂らしていた山川港。わんこをつれたお父さんも。奥にいるにゃんこは飼い猫か、地域ネコか?釣れた小さな魚をにゃんこにおすそ分けするお父さん。ど~りでよく肥えている訳だしとれっとれ、ピチピチのお魚をいつも貰っているのか、にゃんこまだ子猫なのか、貰った魚に何度も飛びついて、じゃれていた。そんなんで待ち時間も全く苦にならず、のんびりにゃんこを見ているうちに小さなフェリーが港にやってきた。姉や姪娘、息子と春休みで出かけた瀬戸内の旅で人だけでは利用をした事のあるフェリーに今回はレンタカーをともにしての初フェリーこれで薩摩半島の先っぽから、大隅半島にひとっとびだへ~、こんなフェリーがあるんだと知ってはいたが当日の天候もあるし、旅行前には利用を考えていなかった。ところが指宿のホテルの部屋に、フェリー会社のパンフがおいてありちょうどレンタカーは千円引きのクーポン券なんかもあったので、これは使うしかないと次の朝もお天気にも恵まれ運行しそうなので朝一番で電話をして予約をしたのだ。出航の30分前には港に来ているようにという事でにゃんこ見ていたんだけど、車の乗る部分は満車だったので、くれぐれも事前に予約をした方が良いと思う昨夜、泊った指宿いわさきホテルも見れたけど、薩摩半島から大隅半島へという旅の計画の変更で指宿中心地は寄らず、名物の指宿温たまらん丼は食べれなかった先程まではあんなに大っきく見えていた開聞岳もあんなに小さくなってしまった当初の予定では、この日は指宿から錦江湾沿いに海岸線を鹿児島市内へ戻るか、もしくは西側海岸線を万世へ出て出水へ、北上なんて薩摩半島巡りを考えていたんだがまっ、こんな船旅もいいもんだこんな大っきな貨物船もいたなんて言っているうちに、もう大隅半島が眼の前に見えてきて、キラキラ輝く海には小さな漁船の影がいくつも見えて到着をするのは大隅半島の南部にある根占(ねじめ)港だ車のままで下船できるように、搭乗者も一緒に事前に車に乗り込んで待機をしていたやってきました、大隅半島。このまま30分くらい南下したら、この先に佐多岬があるのだけど、長崎鼻みたいに浦島伝説があるとか特にゆかりの地でもなさそうなのでパスとりあえずやってきたのは、港より少し南にある道の駅根占。本州最南端にあるという道の駅だ昨日は指宿で本州最南端の石焼き芋屋って、大きな看板を車の助手席から見つけたが、気が付くのが遅くて写真を撮り損ねたとりあえず、このあたりでは本州最南端の小学校とか、本州最南端のコンビニとか色々とあるんだろうなここにも幸せを意味する黄色いポストがあった。ネットによれば他にも福岡市熊本県芦北、高千穂、宮崎市といった九州各地の他に、全国にもあるみたいだお天気にも恵まれて南国らしい光景も見る事が出来たので、次の観光先へと向かうとしよう。先程の根占港の近くにあるのは二つ鳥居が並んでいる、南大隅町の諏訪神社である。ここもガイドブックで写真を見て知ったんだけど、ちょうど次の観光先への道沿いにあったので立ち寄る一番左側のシルバーのフィットが今回のレンタカーで、旅行プランでは代金は1台一日千円か、500円でと格安で借りれた(空港で満タン返し)そして海辺から離れて山道を、ぐんぐん登って行き、これじゃあ、まるでいつものうちのあたりみたいだなんて思いつつやってきたのは雄川の滝。ホントは駐車場から1200メートルも遊歩道を歩いた滝下から見るのが、定番だけどまだ先も長いので、お手軽にすぐ見える滝上から覗き込む事にした上から覗き込むとこんな感じだが、ちゃんと歩いて行って滝つぼから見ると緑も鮮やかで岩肌も印象的なんだとか。落差46メートル幅60メートルで、その日も滝つぼには幾人もの観光客が来ていたやっぱ上から見ても、とりあえず川は綺麗な色をしていた。100%を求めず60%でも満足する、手軽に、簡単なが好きな我が家である写真枚数の都合上、滝の後に出かけた観光先は次回の日記にまとめて紹介をするので、順番としては一つ飛ばした形になるが、ガイドブックで見つけた海辺の神社に立ち寄った大隅半島の鹿屋市にある錦江湾に面した荒平天神は通称で、正式名は菅原神社である。無論、ご祭神は菅原道真公であり16世紀位の創建なんだとか海岸から海に突き出た小さな岩山の上に鎮座しているのだが、なかなかハードな参拝道だ。満ち潮になると、砂洲が波に洗われ海の中にあるようにも見える事から天神島ともいうひょえ~、命綱あるし上に登るとこんな感じで。ここは映画「チェスト!」のロケ地でもあるらしい鹿児島市内の二つの小学校が昔から実施している錦江湾横断遠泳大会をテーマにした映画で実際に遠泳をしている鹿児島市内でロケをする予定だったが、鹿屋市の自然の美しさに監督が感動し、ロケの7割が鹿屋市内で行われたそうだ。確かにね 鹿屋市では、鹿児島土産として有名な唐芋菓子専門店の「フェステバロ」に立ち寄った。というのも旅行プランに鹿児島県内各地で食べられるグルメの利用券が一人1枚付いていて、夕飯もホテルだしお昼位にしか使えないが、しっかりしたお料理などは予約の必要なお店も多いし第一、どこでお昼になるのかはっきりもしなかった。で、二日目の昼頃にいたのが鹿屋市の予約のいらないこのお店無論、行く前にはこのようなのを利用したいのですがと電話をして、了解をして貰ってからお店に向かった。定番の唐芋ラブリーと飲物のセットを、旅行プランのでタダでいただく旅行プランでは、常温OKのお土産のギフト「西洋風唐芋」一箱もそれぞれ貰えたので一つは土産に残りは家で食べた。JALでの機内の菓子にも使われていたんだとか更にお店では、他のお菓子の試食もいただいたので、ちょっとばかし昼が遅くなっても良さそうだ (これは二人分) では大隅半島にやってきた目的地へと参りますか。続くっ!平成28年11月16日に鹿児島県で撮影にほんブログ村
2017年08月07日
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普段、山国に住んでいると海を見るのも年に1,2度の機会しかなく、まとまったお休みの行楽先はもちろん海だったりする前に旦那と出かけたお泊り旅行は紀伊半島勝浦や串本で、その前は日本海の天橋立と丹後半島だった昨秋に旦那と出かけた鹿児島旅行、初日薩摩半島の内陸にあった知覧から南へと向かうと、程なくキラキラ輝く海が眼の前に広がっていた。太平洋でも日本海でもなくってここは東シナ海で、前の九州時に沖縄に続いて生涯3度目どこか面白い観光先がないか、事前に本屋で購入したガイドブックで、これは行くべきだろうと、行先に追加したのは射楯兵主(いたてつわものぬし)神社、またの名を釜蓋神社だその名のごとく釜の蓋が山ほど並んでおり中には二人用だというどでかい蓋もあった釜蓋を頭上に載せて参拝をする、願掛けが有名なのだそうだ鳥居から10メートルほど先にある賽銭箱まで、落とさずに頭に釜蓋を乗せていくというのを旦那、やってみる戦前には釜蓋を持ったり、鍋を被って祈願をすると、戦争に行っても砲弾にあたらず無事に帰れると、出兵をする兵隊さんやその家族が、祈願に訪れたそうである勝負事にも強いという事から、スポーツ選手らのサイン色紙もたくさん貼ってあって、指宿出身の福元選手と澤選手もここに参拝してロンドンオリンピックの銀メダルとれたんだとか更にその時に金メダルに輝いたアメリカチームも大会前に参拝をしているだとかやっぱ頭に釜蓋を乗せたのかな? 祭神は素戔嗚(すさのお)と保食神(うけもちのかみ)である天智帝と大宮姫が安藤実重中将を訪ねるというので、その接待に実重が何十石も米を蒸していると突風が吹いて、釜の蓋が空に舞い飛び、この地に飛んできたのを拾って拾い神として蓋を祀り、釜蓋大明神と呼ぶようになったんだとか良縁、子宝、安産に良いという石もあったここからの海越しの開聞岳の姿がまた綺麗! といっても山頂にはまるで釜の蓋のような雲が乗っかっていたが参道にあった立柱は以前の鳥居の跡で昭和26年のルース台風で流されてしまい長く海底にあったものが引き揚げられたものなんだとかさてお次にやってきたのは、その近く番所鼻自然公園だ。ここは後でテレビで知ったけどタツノオトシゴを飼育しているそうで見に行けばよかった日本地図を作る為に日本中をまわった伊能忠敬が天下の絶景として称賛した番所鼻は、ここに鹿児島藩の番所があった事から。鼻は先っぽみたいな意味合いで、他に長崎鼻もありますここからも開聞岳が良く見えます。故郷にある円錐型の山を○○富士と言い、ここは薩摩富士といいます。ヒオウギ貝の絵馬のようなものがありましたさて、ここで見モノなのはラグーンのように岩場で囲まれた海の池で、火山活動とその後の浸食でできた自然の産物だ前に出かけた丹後半島に浦島神社があり丹後国風土記や日本書紀に、丹後国の事として、浦島の記述があったのだけども日本各地に浦島伝説があり、ここ鹿児島でも海の池の中に竜宮への入り口があるというのだ。また海幸彦山幸彦の神話が浦島のモデルだとも言われている。名の如く海で漁する海幸彦と、山の猟が得意の山幸彦が、獲物を交換しようとしたのだが海幸彦から借りた釣り針を、海で失くしてしまった山幸彦は小舟に乗って海津見神宮(わたつみのかみのみや)へ向かい、海神に歓迎をされ、娘の豊玉姫と結婚して3年の間楽しく暮らしていたそうだそろそろ国へ帰らねばと思った海幸彦は山幸彦の釣り針と、霊力のある玉を貰いそれを使って海幸彦を服従させたそうである。山幸彦と豊玉姫の孫が神武天皇となって、海幸彦は隼人の祖であるのだとか他にも沖縄のニライカナイ伝説や、南方のミクロネシアのカーニムエンソ伝説などもあって、その類似性から普遍的な物語でもあるのかなさてさて、その海の池を作っている周囲の岩礁ですが、干潮時などには歩けるように整備がされていますとりあえず、こうゆうのは一周をしたくなります。こんな時に津波でもきたらと思うとビビりますが海の彼方といえば、常世(とこよ)の国ってのもありますね。永遠不変な理想郷垂仁天皇が田道間守(たじまもり)に不老不死の非時香菓(ときじくのかくのみ)を探しに遣わしたそうである田道間守は非時香菓8竿8縵を持って常世国から帰ってきたのだが、既に天皇は崩御をしており、嘆き悲しんで天皇の陵で自殺したという垂仁天皇陵(菅原伏見東陵)とされている奈良の宝来山古墳の周濠内に小島があるがこれが田道間守の墓とされる。非時香菓とは、今の橘であるとかなんて言っているうちに、南国らしい風景の中、開聞岳も近づいてきた近くで見ると、先っぽが見えない為か結構、丸っこくかわいらしい開聞岳は日本百名山で、942メートルの火山だ今回の心残りは、イッシーでも有名な池田湖に行けなかった事でも近くにある西大山駅には行きました団体バスもやってくる、有名な観光地になっているここはJRの最南端の駅。北緯31度11分にあるんだそうで。西は佐世保だそうで北は稚内、東は東根室みたいですね佐世保位は行きたい旦那は、先程のように風景の綺麗な観光地は好きですが、なんとかの地みたいなのは、興味がないみたいで早く旅館に行って、温泉に入りたいようだ。まっ、そうゆうのは私の性分には合わないし今回の旅行もついつい、あそこもここもとあちこち立ち寄ってたし鹿児島についてから帰るまで旦那がずっと運転してたしなぁ・・・とはいっても私のような人間が知らない土地で運転は無謀すぎるし、何とかの地ゆかりの地、発祥の地があればとりあえず立ち寄りもしたい。素通りも出来ないここでの目的は実はJRの方ではなく私は黄色いポストがあるとネットで知って、こちらに食いついたのだけど池田湖はそんな訳でスルーした。山に雲もかかっていたしという訳で午後5時過ぎには、旦那のおまちかねの温泉リゾートホテルに到着指宿いわさきホテルで、名物の砂風呂なんかも早速、やってみました~お部屋のベランダからはこんな感じで夕食はレストランのバイキングタイプでした。巨大ホテルなどはこのタイプが多いですね黒豚とか、さつま揚げとか鹿児島の名物料理もあります。でもやっぱりかなりな大食いでない限りは、会席料理とかより寂しい気もデザートはいろいろ食後に浜辺へと続くホテルの庭園に出てみましたこの日は普段より大きく見えるというこの前の夜がスーパームーンだったんですが雨で見れず望遠だとこんな感じでしたこれがあこがれだったんですよ。山国では見れない、海に月の光の道が出来るの次の日の朝のバイキング。私の経験上昼ごはんは、いつになるかわからないので、しっかり食べておきます。無論早起きをして朝ご飯の前に温泉にも入ってきましたよ早朝の海の朝焼けがとても美しくって、ふと私が思い出したのは、補陀落渡海(ふだらくとかい)。仏教において、西方には阿弥陀仏の浄土があるように、南方には観自在菩薩(観音菩薩)の住まいの補陀落があるというのでウィキペディアより>南方に臨む海岸に渡海船と呼ばれる小型の>木造船を浮かべて行者が乗り込み、そのまま>沖に出るというものである。その後、伴走船が>沖まで曳航し綱を切って見送る>場合によっては、さらに108の石を身体に>巻き付けて、行者の生還を防止する。ただし>江戸時代には、既に死んでいる人物の遺体>(補陀洛山寺の住職の事例が知られている)を>渡海船に乗せて水葬で葬るという形に変化するともかく海の彼方には、人知を超えた不思議な世界があったようだ 平成28年11月に鹿児島県で撮影にほんブログ村
2017年08月04日
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