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来夏の東京オリンピックで、世界からの注目を浴びて、ますます日本に来られる外国人観光客が増えそうな気もする。もはや日本人参拝者よりも外国人の方の姿が多いというのが、ここ京都の伏見稲荷大社であろう。その日は修学旅行生の姿もあり、グループ行動中の男子中学生に写真を撮って欲しいとカメラを渡された久しぶりの京都は、5月下旬に高価な宝石直営販売所に、立ち寄らなければならないいつもの無料招待の日帰りバス旅行の写真で今回も一人で出かけての伏見稲荷。宇治では昼食、あと八つ橋の工場見学といった内容でお天気も良かったし、なかなか充実した内容で良い写真も撮れたので、旅行記をここでも紹介しようと思っている。今回は今年3月から、最近までの懸賞の当選品をずらずら~と並べてみようと思うまずは毎年恒例の「日本香堂」主催の観劇公演で、全国各地で開催をされている。今回のは熊谷真実さんが座長をされおり、コメディタッチでほろりと泣ける舞台だったどうやらお香を売っているような小売店なども招待をされているようだが、一般では日本香堂の商品のバーコードを送る懸賞で、かたりべ白梅ミニのバーコードを2回応募しての当選だった観劇には、お弁当と仕出し屋の幕の内弁当と日本茶が付いているので、観劇前にもぐもぐ。ペア招待なので今回も姉を誘ってみた。来年の東京五輪でも前半の男子バレーとテコンドーは娘と観戦するが次の週の水球は、姉と一緒に出掛ける事になった。このフレグランスは日本香堂からのお土産で、一人1個ずつだこっちは姉が買ってくれたお土産で、千円で1500円分の商品でお得らしい。来年用の応募にバーコードも使えそうだここからは商品系の当選。まずはウィスキーと高級チョコの詰め合わせが当たって、旦那と娘かなり喜んでいたこちらもグルメな賞品で、クラシエのスーパーでシャンプー&リンスを購入したら夏らしいスイーツが当たったこっちはリラックス系の当選品娘が喜んで着ているのはBOSSの紅茶でユニクロのTシャツ。オリジナルカラーらしいそんなBOSSの紅茶のボトル自体も、ネット懸賞で当選したキシリトールガムのディスペンサーといったものもさてさてフジテレビのめざましテレビでじゃんけんを2度すると、応募が出来るというのをたまにやっていると、前にも紹介をしたが、最近も一週間やっていて初日の月曜日から当選!そしたら木曜日のも、またまた当選して賞品は午後の紅茶無糖のペットボトルでローソンで引き換えられる更に金曜日の朝にも当たった。全部が私がスマホで応募して当たったものである。次の週は東京五輪も当たったしこうなったら宝くじでも買うしかないかこういった飲料系の新商品とかはラインなどのネット懸賞で、多く見かけられて結構な確率で当たるので、ラインをしている方は飲料系メーカーのアカウントとお友達になって、応募されてみて下さいとは言っても、それだけを引き換えるのも抵抗があるので、何かしら1品くらいは購入したりもするけどと、これは懸賞当選ではないけども参考までに。コンビニでよくあるのが指定のペットボトル飲料を購入すると、関連をしたペットボトル飲料(新製品が多い)の無料引換券が貰えるというものコンビニは、スーパーとかより高めの価格だけど。こういった無料引換券を貰えたら1本あたりにしたら、かなりお得なのでよく利用したりするまた懸賞当選品の報告に戻ります。ここからは家計にも嬉しい商品券です♪中津川にアピタがなくなったので、お隣の恵那のユニー系列のピアゴまで行かないと応募が出来ないがここって懸賞が結構あるので、今日も車で遠征をしてきた。中津川市街からは車で15分程で、ちょっとした遠征ですこちらは中津川と恵那の中間位にある国道19号線沿いのオークワで、ここもなかなか行けないが、先程のウィスキー高級チョコセットなど、楽しい懸賞もこれもウィスキーのトリスを購入してのものだ商品券の額面が少なめだけど、当選者数6000名って、どんだけデカイんだろっ創業は和歌山県だとかこれもオークワで、豆乳を購入してのものでも家から一番近い、中津川のバローを一番使うというのに、懸賞自体も少なくしかも、あんまり当たらない。アピタ!カムバ~~ック!そんな中で、ドラッグストアなども懸賞をしていて、そっちの方もそこそこ当たるあとは、お酒の懸賞によく当たっていたような・・・ 2019年3月から6月下旬まで にほんブログ村
2019年06月27日
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現在、NHKでは大河ドラマのいだてん!ではオリンピックや、スポーツの黎明期を紹介をしている。マラソンの金栗君はアノの箱根駅伝も始めた人らしくって、そっちを打ち出した方がオジサンの食いつきが良かったかも。他局中継だけどもね(汗)まだ生まれたばかりだったので、昭和の東京五輪の時の記憶は全くないが、長野五輪では観戦する気満々で。当時は長野県だった馬籠にも聖火ランナーがやってきたりもして、地元開催で盛り上がってましたところが、開催の1年程前に行われた郵送による抽選の販売では購入出来ず、直前の旅行会社の店頭での追加販売で、朝から並び(2番目)男子フィギュアスケートのショートと、ノルディック複合のジャンプ(これはこの時の購入か?)も購入が出来ました。一番最初の人はジャンプ団体のラージヒルゲットで喜んでましたっけその長野五輪の抽選時の当選倍率は、平均では17.7倍(フィギュアスケートは81.9倍)だったそうです。当時からフィギュアスケートは冬の五輪の花で、それを観戦出来て嬉しかった冬ですらこうですから、ニッポンのど真ん中の東京で、しかも気軽に応募が出来るネットでも応募なら、かなりの超・高倍率になる予想長野五輪は、スポーツ好きな友達と行ったけどなんで、私も連れて行ってくれなかったの?と当時は小学生低学年だった娘が、後から怒っていたので、来年夏の東京五輪は娘との観戦がメインで、子供や60歳以上のいるグループが応募出来る激安の応援チケットには姉や、千葉の兄夫婦も誘えばいいかって感じでしてオリンピックだから会社も休んでいけるだろうとか娘も言っていたので、一番当たりやすいと思われる週の半ばの平日(火曜日~木曜日)のあたりで、娘の見たいという男子バレー予選を中心に組んでみて、これでパーフェクトだぁ~などと申し込んだんだけど(↓最初の申し込み)会社なんて休めても月曜か金曜の1日位だってと娘からダメ出しがあって、申し込みを白紙にして今度は週末の土日に金曜午後から夜。月曜の朝と昼をチョイスして、バレーは当たりやすいように月曜に組み込んでのやり直しの二度目の申し込み↓2度目のは最初の平日オンリーよりも、当たる可能性は低くはなってしまったが、社会人の娘の事情も考慮をしなければなるまい。当初は体操柔道、レスリングなど日本人のメダルが期待が出来たり、バスケットやサッカーなどの人気がありそうな競技などは避けていたけどテレビやネットで情報を見ているうちに、娘がやっぱバスケットとか野球も観てみたいなんて言い出したものだから、今度もキャンセルしてやり直し。それでも人気競技なんて当たる確率も少なそうだし、本命ではなくって第二希望の方でとりあえず、野球と男子バスケットも入れての決定分です益々当選確率は下がりそうですが、まぁ長野もその後に、見たい競技のチケットが取れたので今回のネット抽選の後にも、先着での販売とかリセール(購入した人が行かないからと公式のHPで再販売をする)というのもありますしね最初のと比べて開会式の座席がグレードアップしたので、トータルで26万越えしましたそれにしても今回の抽選によるチケット申し込み難しかったです。まずは一般のチケットがあって開会&閉会式で2枚、決勝が4枚、予選が6枚とそれぞれに申し込み上限があるんですが、もしも自分の欲しい座席に外れても、その下の座席でも空きがあれば抽選に申し込めるというカスケードなんてのもあるんで、全部、それにしました更に行きたい競技自体に外れてしまっても、第二希望として違った競技にも申し込めるというのも出来て、それもカスケードが出来るので、1つの応募でも、合計で4回抽選が出来るんだそうです例を言えば、ある夜に卓球をC席で2枚申し込んだけど外れて、カスケードで卓球のD席でも外れたので同時間帯にある第二希望の水球のB席も外れたけどカスケードで、水球のC席を2枚購入が出来たって感じでして、何度もチャンスがありますそして高倍率になるのは必至なのが、車いすの方や子供や、60歳以上の人がグループにいる場合には僅か2020円でチケットが購入できるという応援チケット2020。こちらは開会&閉会式が4枚でうちも閉会式を4枚申し込みました(開会式は一般2枚) 応援チケットでは決勝が6枚、予選8枚といった感じなので、姉か千葉の兄夫婦とか動員して娘と私3枚で観るといった感じで。予選は3枚、3枚、2枚申し込みました。旦那も60歳オーバーですが、オレは行かん!と言ってて最初から数には入ってないです応援チケットは2020円で一番、価格の安い席が割り当てられるので一般のようなカスケードはないですけど、こちらでも第二希望も出来るのは嬉しいお子さんやお年寄りのいる家族が、敬遠をしそうな平日の夜遅くの競技にしぼってみましたただ応援チケットの決勝は、かなり少ない競技数で陸上しか応募ができませんでした。オリンピックスタジアムも観てみたいし。こうして一般と応援の合計の30枚いっぱいを申し込み、総額は26万円越えですけど、これは開会式でカスケードを使う為下から2番目の座席45000円×2のチケット代がでかいので5月下旬はノートの切れ端に、日時が重ならないように、会場移動とか入場も時間が必要だからと交通機関調べて、チケットの種類が規定数であるように、もう何度も吟味をして確かめた上で期限内に申し込みました。丸で囲んだのは2020応援チケットで、☆印は決勝、()内は第二希望ですやはり決勝はチケット代が高めでした、ABCDという座席があれば、近くで観たいという一番高いA席と、お金がないが生で観たいという一番安いD席が人気があるんじゃないかと予想。で先程のカスケードもしたいので、A席程ではないけどもほどほど高いB席狙いでいた。まぁ座席数や位置なども考慮もしての話だがやれ10万だ、4万だといった高額料金を見てると1万円越えの席でも安く感じてしまう。恐ろしや~今朝の国分のワイドショーでは、人気チケットをオークション式にして、一番高い値段をつけた人に売ればいいと真剣に言ってるし、恵のひるおびでは芸能人がコネクションを使うとか堂々と言ってるしネットとか見てると、どうせ当たらないしと決勝開会式など高額チケット連発で総額が100万円を優に超えたと書き込む人がかなりいるみたいだが当たったら大丈夫なんだろうか。沢山当たったからこれは買うけどあっちはキャンセルなんてのは無理で全部買うか、全部キャンセルという選択肢しかない更に30万円未満であれば、コンビニ現金払いも出来るけど、30万円を超えた支払いはスポンサー企業のVISAカードでの支払いでしか出来ないし限度額が100万越えなんて人はザラにいないように思う。それも一括支払いのみで、ローンは出来ないそうだいざ高額のチケットが当たっても期日までに払えなければ話にならないが、そのあたりの事とかもちゃんと知ってて、応募されているんだろうか?そうそうお金に余裕のある方であれば、豪華客船に乗船しオリンピックを観戦するツアーもありますよ結構、開会式とバスケ決勝とか人気競技に応募が集中しているのと、ネットに限ってか近代五種や馬術、射撃が観たいといったマイナー競技が注目されているような。日本戦がどこになるか現時点で全くわからないような球技の予選は、運ですよねだからやみくもにバスケだけ、サッカーだけと同じ競技ばかりを申し込んだりする方も購入をした事はいいが日本戦ではなく、イマイチな組み合わせの場合は、リセールに出てくる可能性が高いので、その競技自体に興味があれば購入をする事は出来そうな気も。ただね自分でも行きたくもないようなカードを果たして、ほかの人が買ってくれるものだろうか? ↑なんて事を5月末に書いたんですけど、北陸の城の日記が長引き・・・オリンピックチケットの当選通知がされる6月20日になった。未明には当落がわかると聞いて、昨夜はなかなか寝付かずそれでも、うつらうつらとしてのZZZZZ・・・・深夜2時近くに目を覚まして、枕元のスマホの画面を見ると、ツイッターでチケットの当落のつぶやきが並んでて、その殆どが沢山応募したのに全部、落選をしたというものばかりでしてやっぱ東京だし、ネットだし私も無理かも・・・と半ば諦めモードで、公式ホムペでログインすると30枚の応募総数のうちで、3種目(×2枚)合計6枚が当選してました。そこそこお高いB席に狙いを絞ったのが、功を奏したのかもしれません。落選をした人の中にはカートに入れただけで、申し込みが完了してなかったという書き込みが幾つもあった元バレー部の娘が楽しみにしてた「男子バレー」予選も当選していたので良かったです。なにせ娘と出かけるオリンピックなので。目標達成という感じです。月曜日の朝早い試合だというのも良かったかもしれません。普段の懸賞で鍛えた当たりやすいというカンを働かせましたその前夜には、私は格闘技が観たかったんで(他に空手も申し込んだが落選)「テコンドー」の決勝も申し込んで当選。決勝戦や表彰式なども楽しめそうですしね。娘とは7月末の日&月曜の男子バレー予選と、テコンドー決勝の観戦ですが次の週の月曜日は女子バレーが落選して、第二希望の「水球」の予選が当選したので、こちらは姉か千葉の義姉あたりを誘う予定でいます。これだけでは何なので、後日のチケット販売で観戦する種目を1つ位は増やしたいですが、2日朝の女子マラソンを組み合わせてもいいですしねという事でオリンピック観戦のチャンスは、まだあります。秋にネットで先着販売、来春には都内での店頭販売や、必要ない人が公式ホムペで欲しいという人に販売もしますので。私も長野五輪では抽選は外れて、直前の追加販売で希望の競技のチケットが購入ができたので、まだ諦めるには早いですよ地方在住なので、東京での宿泊も課題になりますがたぶん正規料金ですけど、既に予約できるホテルがあったので、当日テコンドー、翌日の男子バレーの競技場へも交通の便も良いので、予約をしました♪水球は昼位だし、千葉の兄の家に泊めて貰おうと思ってます最期に、今回の風景写真はゴールデンウィーク中の地元での写真です。とっても空が美しかったです!先週末(6月16日)は偶然、名古屋のミッドランドスクエアで、東京オリンピックのマスコットであるミライトワ(青)とソメイティ(赤)に遭遇しましたにほんブログ村
2019年06月20日
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さてさて、4月上旬に出かけた桜咲く北陸の七名城のバス旅も、最後の城となった。締めを飾るのはご想像通り「北ノ庄城」である。本能寺で信長が亡くなった後の戦国を大きく動かした羽柴秀吉と柴田勝家の戦いの場であるルイス・フロイスは「信長の時代の日本でもっとも勇猛な武将であり果敢な人」だと勝家を評している。武骨の性格と、秀でた武勇から鬼柴田と呼ばれもした戦国を代表する武将の一人だ本能寺で横死したは信長の後継者を決める清須会議で秀吉と対立。織田家臣団は二分にわかれ賤ケ岳の戦いに敗れた勝家は、北ノ庄城に逃れ、お市の方と共に命を絶った。勝家だが妻も持たず、子供も養子ばかりだったようで浅井長政の未亡人で、三人の娘の連れ子を持つお市の方(信長の妹)と、勝家は初婚だったのか短い期間でありながらも、仲睦まじく暮らしていたようだ。逃れようと思えば幾らでも城から出られたお市の方が、勝家と共に北ノ庄城で命を果てたのは、何かしら考えるところがあったからに違いない更には戦国を彩った浅井三姉妹だが、特に長女の茶々(淀君)は、信長軍に攻められた小谷城の落城で父親の長政を亡くし、秀吉軍に攻められたここ北ノ庄城では母親のお市の方を亡くし、更に家康軍に攻められた大阪城で息子と、己の命を散らしたという、戦国の悲劇のヒロインだ女城主直虎とか、松陰の妹をする位なら、なんで茶々を大河の主人公にしないのかな。結果的には豊臣家を滅ぼしたヒールイメージが強いんだろうかでも三度の落城と、その相手が三英傑(信長、秀吉家康)って、すごいシチュエーションじゃないかとさて織田信長の親族は美形ぞろいだったようでして妹のお市の方は、戦国一の美人だったそうで、モテ祈願も出来るという柴田神社。前回の福井城が元は北ノ庄城だと書いたように、かなり広い城だったようで、このあたりには当時の天守があったらしい柴田神社は勝家を主祭神とし、妻のお市を配祀する。二人の辞世の句は、お市の方が「さらぬだに打ちぬる程も夏の夜の別れを誘ふほととぎすかな」で、その返句として勝家は「夏の世に夢路は儚きあとの名を雲井にあげよ山ほととぎす」との事だ北ノ庄城について、ウィキペディアによれば>朝倉氏の滅亡後、越前を支配していた一向>一揆(越前一向一揆)を平定した功績に>よって、越前国北ノ庄を与えられた柴田>勝家が、天正3年(1575年)に自らの>縄張りによって築城を開始する>同11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いに勝家が>敗れ、妻・市と共に自害すると城にも火が>放たれ、建造物のほぼ全てが焼失することに>なるが、その後も青木一矩が北ノ庄城に封じ>られたという記録が残っている>1601年より柴田氏の北ノ庄城の跡地に、新たに>結城氏によって北ノ庄城が築城されたため>現在では柴田氏の遺構を見ることは出来ない>平成5年(1993年)から6度にわたるの発掘>調査の結果、本丸の推定位置である柴田神社の>地下から、石垣の跡と思われる石が出土したが>本丸の正確な位置を完全に特定するまでには>至っていない>城は足羽川と吉野川(のちの百間堀)が合流>した位置に築かれ、堀の一部に足羽川を使用>していたと推定されており、天守は7層(一説>には9層)構造で、安土城に匹敵する巨城で>あったと伝えられている。柴田時代の建築を>しのばせる史料として、宣教師のルイス・>フロイスが1581年(天正9年)に北ノ庄を>訪問したときの記録があるが、それによると>「城及び他の屋敷の屋根が全てことごとく>立派な石で葺かれており、その色により>一層城の美観を増した」とある。この「石」>とは、城に程近い足羽山で産出される笏谷石の>ことであり、現在発掘調査で見出された柴田>時代の石垣は笏谷石であるし、北ノ庄城と>ほぼ同時期に勝家の養子、柴田勝豊によって>築城された丸岡城の天守も笏谷石製の石瓦で>葺いている>また、町の規模が安土の2倍ほどもあること、>勝家によって足羽川に架橋された九十九橋に>ついても言及がある。次に、勝家を攻め滅ぼ>した羽柴秀吉が戦後間もない1583年(天正>11年)4月25日に毛利氏の重臣・小早川隆景に>送った書簡には、「城中に石蔵を高く築き、>天守が九重」であった旨の記述があるとの事で、安土城にも負けなかった戦国の城跡は今は街中でひっそりと。その殆どは結城氏による北ノ庄城(福井城)になって官公庁の庁舎が建っている。こうして北陸七名城の旅は終わった午前中に既に出かけてる越前大野へ戻りそこから九頭竜湖のある油坂峠を越えて岐阜県に入るようだが・・・、越前大野結構、移動に時間がかかるのに丸岡城→大野城→昼ごはん→福井城&北ノ庄城→再び越前大野→九頭竜って、時間ロスが帰路にあたる越前大野を最後の見学に出来なかったのは、本来なら金沢城が最後の観光先だった為だろうか。もしかしたら、当初は九頭竜ルートじゃなく行きと同様に北陸自動車道から、東海北陸自動車道が利用されるはずだったんじゃないかとだったら最初からそうゆうルートにすれば越前大野の無駄な往復をしなくても済むのに安い旅行は宿や、食事、観光、日程などで何かしら、しわ寄せのようなものがあるような気もする長野県松本市から福井県福井市までを結ぶ高規格幹線道路である「中部縦貫自動車道」油坂峠道路が建設されており、これが出来れば高山方面から福井方面もアクセスが楽になるまだ開通をしていない九頭竜付近は、福井市から岐阜県高山市を経由して長野県松本市に至る国道158号を利用する事になり、スキー場などもあった道の駅九頭竜で、トイレ休憩でバスを降りた時刻は午後4時頃だったが、高山までは道半ばと言うか、福井市からそのまま米原経由の高速利用で名古屋に帰った方がずっと早いと思うがバスは高山発着の濃飛バスだし、名古屋からは高山までのワイドビュー飛騨を利用することが外せないのかもしれない高山からは午後7時近くのワイドビューで名古屋には午後9時頃着。ネット検索をしたら福井から特急ではなく、JRの普通電車を利用しても、午後3時に出れば午後7時には名古屋駅に到着できる費用も3020円で済むし、お金を出せば特急で所要時間は2時間だう~む。7つの城に目がくらんだけど、やっぱり個人旅行では考えられない、へんてこなルートだまぁ、そのおかげで(北陸道&名神利用なので)今まで来ることがなかった、名前だけは知っていた九頭竜というような所に来れた訳だが何でも鉄道ファンには憧れのJR西日本越美北線(九頭竜線)の終点である、九頭竜湖駅のログハウスっぽい駅舎も見学が出来た。ここからは越美南線の北濃駅(岐阜県郡上郡白鳥町)まで鉄道が繋がるはずだったが実現はしなかった。岐阜県側は第3セクター化をされ長良川鉄道となっている越美北線は福井市の越前花堂駅から、大野市の九頭竜湖駅に至る22駅、路線距離は52.5 km愛称を九頭竜線という。2004年の福井豪雨で九頭竜川水系の足羽川にかかる5つの橋梁が流失越前花堂駅と越前大野駅間が不通となり。莫大な費用による全線の復旧には、数年を要したそうだ九頭竜湖駅は福井地域鉄道部が管理し、隣接する道の駅九頭竜の指定管理者である業者が窓口業務を受託する簡易委託駅である。どれくらい利用者があるんだろうか道の駅九頭竜には、24時間利用が出来るEV充電スタンドもあった。休憩を終えてバスはいよいよ九頭竜湖へと九頭竜湖は、高さ128メートルのロックフィルダムの九頭竜ダム(洪水調節・発電が目的。元は長野ダム)によって、九頭竜川がせき止められ出来た広大な人造湖である九頭竜湖は面積890ヘクタールと、日本全国有数の広さを持ち、春は万本桜が咲き、秋は紅葉が美しい風光明媚な湖である。しかしバスの奥様らは女性の遺体が入れられた冷凍庫が遺棄された殺人事件の舞台として認識しているようだ湖に架けられた箱ヶ瀬橋は瀬戸大橋の試作として建設をされた吊り橋だそうで、愛称は夢の架け橋なんだとか湖畔には二つの慰霊塔があり、ネット検索をすると日本語の他に英語やハングルの碑文もあり、どうも戦没者のものであるらしいが、正しくは判らない更に幾つかのふるさとの碑もあり、ダム建設によって湖底に消えた集落の人たちの、故郷の記念碑であるようだ。旧和泉村(現大野市)の上半原、米戸、箱ヶ瀬、大谷、野尻(字)集落計500世帯あたりが湖の底に沈む事となり、更にダム湖の造成で孤立する集落を含めると800余名が立ち退き、主に中京圏に転居した九頭竜川の語源であるが、寛平元年(889年)6月平泉寺の白山権現が衆徒の前に示現され、その尊像を川に浮かばせると、一身九頭の竜が現れて尊像を捧げたからだとか色んな説があるそうだ湯坂峠を越えて、いよいよ岐阜県へ突入。岐阜県もクローバーみたいな形をしてて、東端に住んでいる私には、西の果てはあまり縁がない。というか全く未開の地であったお~、これがスーパーによく置いてあるひるがの高原牛乳の牛舎なのか!! バスの車窓からだけど名前だけは知っていた地名を見て感動白鳥からそのまま、東海北陸道を南下して名古屋に出た方が良さそうだが、まぁ珍しい地域を車窓から眺めれるだけいいか。もう来ることもないかも車は北上し、旅の起点であった飛騨高山へと向かう道路脇には残雪なども東の彼方に岐阜県と長野県にまたがる北アルプスの白い峰が目に飛び込んできた夕刻に高山駅に無事に到着。午後7時近い特急の時刻近くまで、自由時間となったが遠くまで行く時間もないし、とりあえずコンビニで軽食を購入駅のベンチで少し早い夕食をとる事にした間もなく春の高山祭だという事で、駅前にはのぼりもたっていた福井のお土産は、昼ごはんを食べた土産物屋で購入高山でも好きな塩せんべい越前大野城では登城証明書を貰った。31897名目みたいだ。行きには名古屋駅で集合をして、特急に乗車をしたが、帰りには途中下車をしてもいいので中央線を利用する人たちは、我々も含めて高山線の美濃太田駅で特急を下車し、太多線で多治見に出てそこから中央線へショートカット名古屋駅に着くのと、さほど変わらない時間に中津川駅に到着し、近くのスーパーで激安価格になっていた総菜を購入出来て、良い土産となった 平成31年4月6日に福井市と、九頭竜から飛騨で撮影にほんブログ村
2019年06月17日
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さてさて、春に娘と出かけた桜咲く北陸の7つのお城の中で、一番、桜が見事だなぁと思ったお城は、この福井城である。広いお濠越しに石垣を彩っている桜は、とても華やかだ1泊2日の盛りだくさんの弾丸ツターももう終盤。このお城も今までに来た事はなかったし、もし今回の旅行が無ければ今後も行く機会もなかったかも知れないと思うと、こういう企画旅行は一押しをしてくれたようにも思えるいつかは行きたいとずっと思い続けているままの東北や、四国に、鳥取、日光だって行こうと思えば、スグにだって行けるとは思うのに、これだ!と思うようなツアーがあればいいのだけど桜の花にも負けないような、素敵な和服の女性もお花見なのだろうか。土曜日でもあるので花見客も多く、様々なイベントも行われていた横井小楠と由利公正(三岡八郎)が一緒に熊本に旅立った際の「旅立ちの像」。横井小楠は熊本藩士だったが、藩主の松平慶永(春嶽)に招かれて、福井藩の顧問として藩政改革に関わったそうであるし、春嶽を通じて幕政にも深く関与したそうだ由利公正もまた、春嶽に認められ横井小楠とともに藩財政の立て直しを行ったそうだ。更に坂本龍馬と親交があり、龍馬が福井に訪ねて来た事もあり、維新後は「五箇条の御誓文」の起草にも関わった人物だ島津斉彬(薩摩)、山内豊信(土佐)、伊達宗城(宇和島)らと並んで、幕末の四賢侯と称された。松平慶永(春嶽)は、田安徳川家第三代徳川斉匡の八男として生まれ、徳川将軍徳川家慶の従弟であるが、松平斉善の養子となって、わずか11歳で福井藩主となった肥後熊本藩主、細川斉護の娘である勇姫が正室となっている事から、横井小楠とも繋がりが出来たのかも。公武合体派として名を馳せたが、米国からリンゴの苗木を取り寄せ、日本で初めて栽培をした人物でもあるそうだ。自転車に初めて乗ったのも彼らしいまた明治や、元治などの元号の選定にも大きくかかわっているんだとか。幕末のファンとしては、春嶽の側近であった福井藩士、橋本左内も特筆すべき逸材だ西郷隆盛の盟友でもあったが、安政の大獄で若くして命を落としてしまったそんな訳で幕末の頃には、松平春嶽公や横井小楠、由利公正、橋本左内といった志を持った人たちが日本の行く末を憂い語ったであろう福井城に、私も出かけてみよう。今回もガイドの女性による団体行動だ現在、福井城の本丸内には福井県庁や福井県警察本部、県議会議事堂などが所狭しと並んでいるが、この日は土曜日であった為か花見の一般市民の姿が多かった。御本城橋を渡いよいよ城内へお城については、こんな感じです↑ ウィキペディアで補足すると・・・>1600年(慶長5年)に家康の次男である結城>秀康が68万石で北ノ庄を拝領すると、翌>1601年(慶長6年)9月には知行割を実施し>築城に着手した>1604年に秀康が松平氏を名乗ることを許され>名実共に御家門の居城にふさわしい城となる>よう、全国諸大名の御手伝普請で約6年の>歳月をかけて完成する。完成した城は東が>新堀川(現在の荒川)、南は足羽川、北は加賀口>馬出までの2キロメートル四方に及んだ>石垣の積み方は、天守台、大手門、櫓台、隅角>部等の重要な部分は切込はぎ積で、その他の>城壁は打込はぎ積である。また、横線が波立って>いるが布積である。福井市小山谷町で産出した>笏谷石を用いている。 石垣の構築には、穴太積で>有名な穴太衆も携わったことが推測される>明治維新後、1871年(明治4年)、福井藩は>福井城の解体を幕府に願い出、旧城地は1873年>(明治6年)陸軍省の管轄となったが、旧藩士>たちが1879年(明治12年)同地を借り受け、>開墾を進めた > 現在は外堀は埋められているが、内堀、石垣、>天守台などの遺構が残り、本丸跡には福井県庁、>県会議事堂、県警察本部などがあり、公園と>しても整備されている(中略)本丸御殿の一部は>(市内足羽5丁目)瑞源寺本堂及び書院に移築>されているさてさて、この城は徳川家康の次男の結城秀康が初代城主であるが、それについて説明してみると家康は正室の築山殿との間に、嫡子の松平信康がいたが、信長の命令で切腹をさせられてしまった本来であれば秀康が継ぐはずであったが、生母の身分の違いから、西郷局の子で三男の徳川秀忠が二代将軍となった徳川でもなく、松平でもなく、なぜ結城を名乗る事となったのか、ウィキペディアによれば>天正2年(1574年)2月8日、徳川家康の次男>として遠江国敷知郡宇布見村で生まれた。母は>三河国池鯉鮒明神の社人・永見吉英(永見氏)の>娘で、家康の側室の於万の方(長勝院、通称>おこちゃ、小督局)幼名を於義伊(於義丸/>義伊丸/義伊松)と名づけられた秀康は、父・>家康とは満3歳になるまで対面を果たせなかった。>その対面も、あまりの冷遇に異母弟を不憫に>思った兄・信康による取りなしで実現したもの>であったという。天正12年(1584年)の小牧・>長久手の戦いの後、家康と羽柴秀吉が和睦の>条件として、秀康は秀吉のもとへ養子(実際は>人質)として差し出され、家康の後継者は異母>弟の長松(後の徳川秀忠)とされた>母親の身分は秀忠の方が上であり、信康切腹>前に生まれた秀忠が当初から後継者だったと>考えられる。羽柴秀吉の養子として「羽柴三河>守秀康」と名乗る。秀吉に実子の鶴松が誕生>すると、秀吉は鶴松を生後4ヶ月で豊臣氏の>後継者として指名。そのため他の養子同様に>再び他家に出される>秀吉は、関東平定の功労者である家康へ更なる>加増として、秀康を北関東の大名結城氏の婿養子と>することを考えついた。結城氏は下野国の守護に>任命されたこともある名家であった。秀康は関東に>下り黒田孝高の取り成しで結城晴朝の姪と婚姻>して結城氏の家督および結城領11万1,000石を>継いだ>関ヶ原の後、秀康は家康より下総結城10万>1,000石から越前北庄68万石に加増移封>された。慶長9年(1604年)には松平氏に>復することも赦されているとする史料も>存在する僅か34歳で、梅毒で亡くなったそうである梅毒の日本での最初の記録は、1512年の記録で、南蛮からもたらされたそうであるが加藤清正、浅野幸長、前田利長、黒田官兵衛といった名高い戦国武将も梅毒で亡くなったという説もある。キリスト教や鉄砲以外にもそんな迷惑な南蛮渡来もあったなんてさてさて本丸御殿と、天守は内堀の中にあるが何代目かの藩主から、西三の丸に屋敷を構えてそこで暮らしながら、政務は本丸御殿の政庁で行う為に通うようになった藩主がその移動の際には、雨のなどで濡れないよう、橋にも屋根がつけられて、本丸と西三の丸御座所を結ぶ「御廊下橋」が、往時の姿に復元をされていた、は2008年3月に完成橋の長さ14.5メートル。幅3.6 メートル総工費は約1億5900万円だそうだそれに続く「山里口御門」も、復元整備を開始し2017年10月末、櫓(やぐら)門、棟(むな)門の建物と白壁の土塀が完成をした完成をした櫓門は、木造2階建ても切り妻造りで笏谷石(しゃくだにいし)による瓦葺きである2階部分の櫓の外壁は漆喰塗りで、梁(はり)はマツ、床、壁板、柱にヒノキを使用しているそれにしても何だかんだいっても、徳川家康の次男の城だけあって、その辺の大名のものとは違った、凝った造りで目を見張るものがあるウィキペディアによれば、その天守は>本丸北西隅に天守曲輪と天守台の2段の石垣を>ついて望楼型4重5階の天守が建てられた。>高さは、天守台も含めて約37メートルにも>及んだ。白漆喰総塗籠の外壁仕上げで、最上>重には、外廻り縁高欄と西面に向唐破風が>あり、元和大坂城天守に見られるような配置に>破風が並べられていた>寛文9年(1669年)に焼失した後は、同じように>類焼した本丸南西隅の2重巽櫓を3重に再建し>天守の代用としている。古写真では、複合式>望楼型で1重目と2重目の窓が上下にあること>から、3重5階の櫓であったと見られている>福井地震(ふくいじしん)は、1948年(昭和23年)>6月28日16時13分29秒に発生し福井県を中心に>北陸から北近畿を襲った地震である。福井大地震>ともいう。震源は福井県坂井郡丸岡町(現坂井市>丸岡町)付近。戦後復興間もない福井市を直撃し>都市直下型地震。規模はM7.1(Mw 7.0)>大正関東地震(関東大震災)、兵庫県南部地震(阪神・>淡路大震災)、東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)>などと並ぶ日本の災害史上最悪クラスの震災となった>2015年現在も東日本大震災、阪神・淡路大震災に次ぐ>戦後3番目の規模の震災である。死者の大部分が、当時>あわせて人口15万前後にすぎなかった福井市および>現在の坂井市、あわら市に集中しており、その被害率は>日本の近代史上でも類をみない。>福井市中心部は昭和20年の福井空襲で壊滅してから>数年後、復興途上でバラック建築が多く、不安定な>構造だったためにかなりの建物が倒壊している。福井市内の死者930名、負傷者は10,000名。建物は全壊12,425棟、半壊4,418棟、焼失1,859棟といった有様であった。福井地震で崩れた石垣がそのままに残されていたもともと福井にあったお城は、戦国ドラマでもとても有名な北ノ庄城であった。しかし福井藩第三代藩主の松平忠昌が、北は敗北に通じるとして嫌って、縁起の良いよう「福の居る場所」という意味で「福居城」としたのが、後に今の「福井城」と改められたそうだ福井城の天守台には、北ノ庄城(後の福井城)築城当時からあったという「福の井」があり、こちらが福井の語源では?なんて説もあるそうだ。そこで汲まれた水を使ったお茶を振舞って貰えた福井県は、フクイサウルスをはじめとして恐竜の化石が多数発掘をされたことから「恐竜王国」と呼ばれおり、恐竜をモチーフにしたマスコットがいろいるようで、この子は昨年の福井で開催をされた「福井しあわせ元気国体」のマスコットの「はぴりゅう」ステゴザウルスをモチーフに、やる気を表現するために赤いツノを付けた架空の恐竜で、国体のキャラクターなので、ジャージを着ているそうで福井工業大学の学生さんのデザインが、公募で採用されたようだ恐竜王国だけに、福井の駅前にも巨大な首長竜がお出迎え。という訳でいよいよ北陸の7つの城も最後の訪問先へとバスは向かった 平成31年4月6日に越前福井城で撮影にほんブログ村
2019年06月13日
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雲海(朝霧)に浮かぶ姿が、まるで天空の城のようだと、竹田城址が知れ渡ったのは平成24(2012)年の高倉健の最後の主演作品となった、映画「あなた」からで降籏康男監督は、今年5月20日に亡くなられたそうだ今でこそ鉄道員(ぽっぽや)を代表として高倉健とのコンビが有名だけども、多岐に渡る作品を監督されており、へ~この作品もなのかと驚かされる。山口百恵のTVドラマ赤いシリーズにも参加されていたそうだ降籏監督は信州松本出身だそうで、3丁目シリーズの山崎貴監督もまた松本だ。城の話からそれたが、天空の城としてブームとなった竹田城に続けとばかりに、全国各地の城も名乗りを上げた岐阜県などは山と川しかないような地形が功を奏して、郡上八幡城、岐阜城、苗木城岩村城と4つの城の名が、天空の城として挙がる場合が多い。全国的には現存天守が雲海の上に浮かぶ「備中松山城」がお勧めらしい。行ってみたいなぁ4月に娘と出かけた桜咲く北陸の7名城巡りにも、前から行ってみたいなぁと思っていた天空の城で売り出し中の越前大野城がコースに入っていたので、参加をする決め手となった(あと越前丸岡城も)。JR西日本の越美北線(九頭竜線)の越前大野駅。さて越前大野をウィキペディアで紹介すると>天正3年(1575年)、織田信長より一向一揆>討伐の命を受けて、金森長近が美濃から大野に>進攻。一揆平定後、長近は大野盆地が見渡せる>亀山に大野城を、その東麓に城下町を造り始めた。>これが現在の大野市街地の起こりである。以後>今日まで、大野市は奥越地方の中心地として>栄えてきた>山頂にそびえる天守と短冊状に区切られた>町並み、中世から近世にかけて築かれた寺院が>甍を連ねる寺町通り、城下町誕生のころから>続くとされる七間朝市など、400年を超える>歴史を彷彿とさせる景観を今も色濃く残して>いることから「北陸の小京都」と呼ばれている>1888年4月8日、大野市(当時は大野町)で>1000棟以上を焼失する大野大火が発生。以後>この日にあわせて消防訓練が毎年行われている。>また、2008年には40年ぶりに消防隊のラッパ>隊が復活した。川の水がとっても綺麗だ。山頂に城のある亀山のすぐ下にあるバスの停車場からは、それぞれのペースで山を登り、旅行代に入場料が含まれているので、みんなが揃ってから城の中を見学するそうだ。城と言っても中は資料館だ越前大野城がそびえる亀山の南側を流れるのは金森長近が、天正4(1576)年頃に越前大野城を築いた際に、外堀として掘られたという新堀川で川沿いに湧く新堀清水は、ふくいのおいしい水に認定されている見上げた先には越前大野城。ウィキペディアによると・・・>1575年(天正3年)、織田信長より越前一向一揆を>平定した恩賞として越前国大野郡の内の3万石を>与えられた金森長近がその翌年、最初に居城とした>戌山城の近くの亀山(大野盆地の小孤峰)に城郭を>築き始めたのが越前大野城の始まりである>築城に数年間を要した。その後、越前松平家が>3代続いた後天領となり、土井氏で定着するまで>目まぐるしく城主が替わった。城は1775年(安永>4年)に焼失し、1795年(寛政7年)には天守を>除いて再建されたが、明治維新後に破却されている>山頂の石垣および堀が現存し、山麓部にも内堀および>外堀の一部が残る。建造物としては、不明門が市内>中丁真乗寺山門として、櫓門であった鳩門の門部分が>光明寺山門として、それぞれ移築され現存する。また>8代利忠の隠居所が柳廼社社務所として移築現存する>天守は、亀山の山頂にある天守曲輪に建てられた。>本来は望楼付きの2重3階の大天守に2重2階の小天守、>天狗の間(天狗書院)と呼ばれた付櫓(天狗櫓)が>付属された複合連結式の天守であったが、1795年に>焼失して以降、再建されないままであった。>現在山頂に建つ天守は、1968年(昭和43年)に元>士族の萩原貞の寄付金を元に、往時の絵図や創建当時の>同時期の他の城の天守を元に、鉄筋コンクリート構造に>よって推定再建されたものである。しかし、小天守が>天狗の間の位置に建てられていることなど、史実に>基づいた復元再建ではない>復興天守の内部は、金森氏や土井氏など歴代の城主に>関する資料を展示した資料館として利用されている。>12月から翌年3月までは閉館となっている。2014年に>有志による「ラピュタの会」が結成され、「天空の城>大野城」の知名度向上に努めている狭い山頂部に石垣が、築かれての天守なのでなかなか天守の全貌を、まじかに眺められる事がなかったが、どこかにそんなポイントがあるのかもしれない。今回はガイドがいないので、バスの最短ルートからの往路、帰路はかんな感じで遂にここで銅像ゲット。第七代藩主の土井利忠である。藩政改革、教育制度の整備、軍制改革などで大きな実績を挙げて、樺太開拓を目指すなどスケールの大きい名君であったそうだ日本の瓦屋根に桜が良く映えてます。とは言っても、天守脇にあった和風なおトイレの屋根なんですがこちらは、天守の上の方から見たおトイレの屋根越しの桜。それにしても良い瓦を使っているなぁ~。いぶし銀?それにしても桜の一番良い時期に、この城にも来れて良かったです。最初の富山県北部の舟川、春の四重奏以外はどこも桜は満開と言った感じでした今回の桜咲く北陸のなつの城の団体旅行はまだ10日近く後の日程もあるので、それに参加される人も桜が楽しめるように、時期がズレそうな、遅めの桜の名所も組み込んであるのだろうこのお城は戦後に建てられたもので、中は資料館なので、写真撮影も出来なかった遠くに見える東側の白い山々。あの向こうは岐阜県だ。高山もその彼方そんな訳で越前大野城について、大体説明も出来たので、ここからは近況という訳で、来年夏の東京オリンピックで全国をまわる、聖火のコースが発表になりましたね長野オリンピックの時には、長野県内をまわりまして、その当時は長野県だった「馬籠宿」もコースになって、私も見に出かけました。娘や息子らは越県通学で岐阜県中津川市の小学校に、通学をしていましたがすぐ近くなので学校から、みんなで応援に来ていました。その時にスポンサーなんでしょうか。あったかな缶コーヒーを配ってまして、娘は缶コーヒーを初めて飲んだと今日も話してました平成の大合併で「馬籠宿」は、岐阜県になりましたが、今度は岐阜県のスタートとして聖火がやってくるそうです。しかも週末のようで、娘も見に行けると喜んでますよ結構、全都道府県のあちこちに聖火がまわるようなので、皆さんもお近くでご覧になれるかもしれませんので、要チェックです。それにしても馬籠宿はかなりの坂の宿場町なのですが馬籠宿の一番下側でセレモニーがあってラストは、宿場の一番上のはずれにある展望台って、あの坂を上るんだろうか?箱根駅伝の山の神クラスの人じゃないときつそうだけど、どんなんだろう皆さん、時間前には下山されてお土産屋をのぞいたり、のんびりしたり・・・・再びバスに乗って、お昼を食べに福井市方面へ戻りますそれにしても、日本の田舎町と言った風情があり、なかなかのんびりとした素敵な町ですね私も周囲を山に囲まれた田舎町で生まれ育ち、今も住んでますので、こういった風景は親近感もわきますあの山はなんていうんだろう。4月になっても白いまま・・・。今年の春は遅くまで寒かったので、恵那山も白い時期が長かったです走行中のバスのからの風景写真ですがなかなか良い感じで撮れました遠くに見える銀色に輝く丸いのが、勝山の世界三大恐竜博物館とも言われる福井県立恐竜博物館だそうです。見に行きたいなぁ~富山城、高岡城、金沢城、丸岡城、大野城と、5つのお城をまわりました。残す所はあと二つ、どこのお城でお花見が出来るのだろう。続く 平成31年4月6日に越前大野城で撮影にほんブログ村
2019年06月05日
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