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前の日記にも、城に桜は似合うとのコメントを幾つも頂戴したが、高岡城と同様に、日本の桜名所100選に名を連ねる城は27つあり、日本100名城にも兼ねている城も多い今回の日記で紹介をする越前丸岡城もどちらにも選定をされている桜の城だ別名を霞ケ城といい、桜の名所の方は霞が城公園の名称となっている。そして何と言っても日本でも数少ない、江戸時代の天守が残る城でもある娘と出かけた桜咲く北陸の7名城のツアー2日目はここ丸岡城からスタート。こちらも桜が満開であり、しかも雲一つない晴天で青空に桜と城が良く映え絶好のお花見日和だ坂井市丸岡観光協会キャラクターの城丸くんは、丸岡町町制100周年と町村合併35周年を迎えた平成元年に誕生をして丸岡城のPRキャラクターとしても活動中だこちらもボランティアガイドさんがお城の説明をしてくれ、まずはガイドさんお勧めのお城と桜の写真スポット。入口から反対側に回り込んだ所なので、もし個人で行けばここから写真を撮る事はなかったと思うやっぱ現地の事を良く知るガイドさんがいてこそといった事も多い。こういうガイド付きのツアーというのも面白いかも。さて現存天守をおさらいをすると、世界遺産の姫路城を筆頭に松本城や彦根城、犬山城が国宝だが、最近には重要文化財だった松江城が国宝に昇格をした弘前城、備中松山城、丸亀城、伊予松山城宇和島城、高知城が重要文化財に指定されている。戦前には20の城が残されていたけど空襲などで焼失をしてしまった。ここ丸岡城は戦前は国宝であったそうだなんでも、昭和4(1029)年に施行をされた国宝保存法にもとづくもので、現在の国宝と区別する為に、一般的に「旧国宝」と呼ばれている。昭和25(1950)年に国宝保存法が廃止され、文化財保護法に切り替わったて、旧国宝は全て重要文化財となったそこの中でも価値が高いものが、改めて「国宝(新国宝、現国宝)」に選ばれているそうだここ丸岡城も以前は旧国宝だったが重要文化財のままだ。というのも昭和23(1948)年の福井地震で天守が倒壊古材を用いて、元のように組み復元されているそうで、そんなあたりも理由であるかもしれません。小さなお城ですしね。それでも日本で一番古い天守であると言ってましたが、それも今春になって、柱などの部材を調べた結果から建てられたのは江戸期の寛永年間(1624〜44年)だった事が判明。1593〜94年に大天守と渡櫓、乾小天守が完成したとされる松本城の方が古いそうだ。続くのは犬山城の1601年、彦根城の1606年なんだとかしかし、松本城は乾小天守のみが先に造られて天守は江戸時代からだとか、犬山城は1537年には現存天守の2階部分までが完成をしていたといった説もあるので、一概にには断定出来ないてこてこと坂を登れば、あっという間に天守が目の前に現れた。岩村城とか山城なのでふ~ふ~は~は~と言いながら登城をせねばならないが丸岡城は年配観光客にも優しいお城であった元は木彫銅板張りの鯱であったが、戦時中に銅板が不足をしており、この石製のものと差し替えられたそうだが、福井地震の倒壊による修復時に、再び木彫銅板張りの鯱が屋根に乗せられたそうだではでは入城をしてみようか。添乗員さんの了解を得て、この時点でガイドさんから離れ娘と二人で先行をした形で見学をしていた。ウィキペディアによると・・・>福井平野丸岡市街地の東に位置する小高い>独立した丘陵に築かれた平山城である。>近世に山麓部分が増築され、周囲に五角形の>内堀が廻らされていた。安土桃山時代に建造>されたと推定される天守は重要文化財に指定>されている>その他、石垣が現存している。移築現存する>建物として、小松市の興善寺および、あわら市の>蓮正寺に、それぞれ城門、丸岡町野中山王の>民家に、不明門と伝わる城門がある>ほかに土塀が現存する。「霞ヶ城」の名の由来は>合戦時に大蛇が現れて霞を吹き、城を隠したと>いう伝説による城の変遷は・・・>1576年(天正4年) 織田信長の家臣で、越前ほぼ>一帯を領していた柴田勝家の甥である勝豊により>築城され、勝豊はそれまでの豊原寺城から当城に>移った。>1582年(天正10年) 本能寺の変の後の>清洲会議により、勝豊は近江国長浜城に>移された。代わって勝家は安井家清を>城代として置いた。>1583年(天正11年) 柴田勝家が豊臣秀吉に>よって北ノ庄城で滅ぼされると、この地は>丹羽長秀の所領となり、長秀は丸岡城主と>して青山宗勝(修理亮)を置いた。>1600年(慶長5年) 丹羽長秀死後、領地は>そのままに豊臣秀吉の家臣となっていた青山>宗勝とその子・忠元は、関ヶ原の戦いで敗者>である西軍方につき改易された。越前国には>勝者の徳川家康の次男・結城秀康が入封し、>丸岡城には秀康家臣の今村盛次が2万6千石を>与えられ入城した。>1612年(慶長17年) 今村盛次は越前騒動に>連座し失脚した。幕府より附家老として福井藩に>附せられた本多成重が4万3千石で新たな城主と>なった。>1624年(寛永元年) 福井藩2代目の松平忠直が、>不行跡を理由に豊後配流となり、福井藩に減封>などの処分が下された。同時に本多成重は福井藩>より独立。大名に列し丸岡藩が成立した。>1695年(元禄8年) 4代重益の治世、本多家の>丸岡藩でお家騒動が起こり、幕府の裁定により>改易となった。代わって有馬清純が越後国糸魚川>藩より5万石で入城。以後、有馬氏丸岡藩6代の>居城となり明治維新を迎えた。>1871年(明治4年) 廃藩置県により廃城となり>天守以外全て解体された。1901年(明治34年)> 残された天守は、丸岡町により買い戻され解体を>免れ、城跡は公園となった。本丸を囲んでいた>堀は、大正後期から昭和初期までの間に徐々に>埋められ消滅した。>丸岡城を築城する際、天守台の石垣が何度も>崩れて工事が進行しなかったため、人柱を>立てることとなった。城下に住む貧しい片目の>未亡人「お静」は、息子を士分に取り立てる>事を条件に人柱となる事を申し出た。>その願いは受け入れられ、お静は人柱となって>土中に埋められ、天守の工事は無事完了した。>しかし、柴田勝豊はほどなく移封となり、息子を>士分にする約束は果たされなかった。それを>怨んだお静の霊が大蛇となって暴れ回ったという>毎年4月に堀の藻を刈る頃に丸岡城は大雨に>見舞われ、人々はそれをお静の涙雨と呼んだ。>現在城内にはお静の慰霊碑が残っているウィキペディアから転載させていただきました大蛇はここから出た話なのですか・・・松江城に行った時にも人柱の話が出ていたし全国各地のお城でもよのような話はよく聞く城の周囲には様々な碑があったが、顕彰したものとかいろいろのようだこちらは戦争で亡くなった方たちの忠魂碑時代がかわろうと、お国の為、大義の為に尊い命をささげた人たちの事は忘れてはいけない下城して、今度は城の表側から桜越しにお城を見上げてみた。ここの桜は殆どが染井吉野のようだ。手前のピンクの濃いのは枝垂れ桜かな?その日は土曜日でもあったので、お花見時期の週末でイベントなどもやっており地元の皆さんもご家族で遊びに来ていたようだのんびりと、浅い池で泳ぐ鯉をのぞくお父さん旧国宝であった丸岡城を、再び国宝にするのは、地元民の悲願でもあるようだお城のふわふわ遊具や消防車も、お城のイラスト入りだし城下町らしい古い門は、移築されて北国ものだが、この門をくぐった先にあるのが一筆啓上日本一短い手紙の館である。一筆啓上とは,簡単に申しますと・・・と言う手紙の書き出しに使う言葉であるが武勇に秀でて気性が荒い事から「鬼作左(おにさくざ)」と呼ばれ、三河三奉行の一人である本多重次(丸岡藩初代藩主成重の父)が、天正3(1575)年の長篠の戦いの陣中から、妻に宛て書いた手紙が、日本で一番短い手紙として有名でその書き出しが、一筆啓上なのだ「一筆啓上火の用心 お仙泣かすな馬肥やせ」でお仙とは、跡継ぎの仙千代(成重)で、男子はこの幼子しかいなかったようだ。後に仙千代は豊臣への人質として、秀吉の養子となった結城秀康(家康の子)の小姓として大坂に送られた時期もあった越前北ノ庄藩初代の藩主となった結城秀康の子の松平忠直の附家老として、本多成重は越前丸岡藩4万石を与えられている。そんな事から一筆啓上賞日本一短い手紙コンクールが、毎年行われて、昨年のテーマは先生で、国内外から4万近い応募の中から大賞5作が選ばれたその受賞者は7歳から86歳と幅広い年齢層から支持されているようだ。という訳で2日目の最初に出かけたのは現存天守、丸岡城であった。次はどんなお城へ向かうのだろうか。続く! 平成31年4月6日に越前丸岡城で撮影にほんブログ村
2019年05月27日
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さてさて開催中の信州花フェスタの日記を優先し紹介をしましたが、再び4月上旬に娘と出かけた、桜咲く北陸7城巡りのバスツアーの日記に戻るとする。富山城に続き紹介をするのは「高岡城」であるウィキペディアで紹介をすると>1605年(慶長10年)6月28日、富山城に>隠居した初代加賀藩主・前田利長は4年後の>1609年(慶長14年)、富山城下の町人地>から出火した火災の類焼により、城内の>建築物の大半を焼失したため、利長は魚津>城に移り、>大御所徳川家康と将軍徳川秀忠に火災の>報告と、関野に築城の許可を貰う。利長は>築城の方針に伴うため、資材調達を小塚>秀正ら、現地奉行を神尾之直らに命じ、>魚津城から築城の指揮を取り、同時に>城下町の造成も始めた>縄張(設計)は当時の前田家の客将だった>高山右近とされている。同年9月13日、利長は>「関野」を「高岡」と改め、未完成の高岡>城に入城した。殿閣は先代利家が豊臣秀吉>から賜った豊臣秀次失脚に伴い破却された>伏見城秀次邸の良材を使って建てられた>とも伝えられる。>しかし、1614年(慶長19年)5月20日に>利長は死去(享年53)し、隠居城として>使われたのはごく短期間であった。その>翌年の1615年(元和元年)には一国一城>令により、大坂夏の陣からの利常凱旋を>待って高岡城は廃城となった>(その代わり加賀国に小松城を築くことが>ゆるされた)ただし、廃城時期については>1638年(寛永15年)とする異説もある。>しかしながら、廃城後も高岡町奉行所の>管理下で、加賀藩の米蔵・塩蔵・火薬蔵・>番所などが置かれ、軍事拠点としての>機能は密かに維持された>これは加賀藩の越中における東の拠点で>あった魚津城も同様であった。街道の>付け替えの際には、濠塁がそのまま残る>城址を街道から見透かされるのを避ける>ため、町屋(定塚町)を移転して目隠しに>したといわれる>また、廃城後に利長の菩提を弔うために>建立された瑞龍寺や周囲に堀を備える>利長の墓所自体も高岡城の南方の防御>拠点としての機能を併せ持つものとして>配置されたと考えられている>郭は、本丸、二の丸、三の丸、明丸、鍛冶>丸の五つからなるが、現在では「御城外」と>されている小竹藪や梅林も、これに加える>ものと考えられている。(中略)基本的な>プランは利長の先の居城であった富山城>との類似性が見られ>その発展型とみることができる。今なお>築城当時の濠塁をほぼそのまま残して>おり、総面積の約21万m2(71,261坪)の>内、約3割(24,400坪)が人工の堀である。といった感じで、ウィキペディアを丸写しさせていただき、高岡城址を紹介させていただきました。日本100名城の他に、桜の名所100選にも選ばれている。江戸時代には前田家の防衛を担っていた高岡ですが、ここ最近は違った意味で脚光を浴びてますよ。「令和」で~鶯(うぐひす)の鳴き散らすらむ春の花 いつしか君と手折(たを)りかざさむ 天平19年(747年)2月29日、病気であった大伴家持が、大伴宿祢池主に贈った悲しみの歌です。万葉集を編纂したと伝わる大伴家持は、越中の国守として高岡に赴任5年間の在任中、高岡で様々な万葉の歌を残しました。中には私が学生の頃から好きなもののふの八十娘子(やそおとめ)らが 汲み乱(まが)ふ 寺井の上の堅香子の花なんてものもある。堅香子(かたかご)とは今はジャガイモで代用される片栗粉を、本来根茎からとる、かたくりの古来の名前である高岡城址にも、愛らしい堅香子の花が咲いていた令和は万葉集の大伴旅人(家持の父親)による歌からとられており、その舞台となった大宰府が注目されているが、その子の大伴家持の赴任先だった高岡もまた、万葉集がらみで盛り上がっているようだったこの花は染井吉野ではないんです。固有の桜というと信州高遠城に咲く高遠コヒカンザクラが天下第一の桜として有名ですが、こちらの花は10年ほど前に、新種として認定を受けた「タカオカコシノヒガン」桜だそうですもともと富山県南砺市に自生地がある「コシノヒガン(越の彼岸)」という桜は知られていたのですが、「タカオカコシノヒガン」は花びらの丸みが強く、やや波打った形状をしているが特徴だそうだそれにしてもノッポな桜だ。高岡城築城の際に太田村の宗右衛門という者が砺波地方の山桜を献上して植えたのが始めで、高岡城に隣接して馬場が設置され、その両脇には宗右衛門由来の山桜が植えられ、歴代の藩主の手厚い保護のもとで育成されたそうですその他にも高岡城址には「コシノカモザクラ」という新種の桜も咲いているのだという。桜の園では、華やかな衣装の花婿さんと花嫁さんが記念撮影を行っていた高岡城址にはこのような新種の、珍しい桜の花などの他にも、ソメイヨシノ、オオシマザクラ、エドヒガン、ヤマザクラなど18種、1800本もの桜が春には咲き乱れている今回の北陸の7つの名城を巡るバスツアーでは幾つかのお城で現地ガイドがつくのだが、私の班の担当の女性は、お濠とお花や万葉集が中心だったので、ぬぁんと前田利長の騎馬像なども観る事なく終わる・・・堅香子の花の近くの、こんな猿の写真は撮れたのだけど。。。娘も暇そうで添乗員さんが別行動をとってもいいですよ~と言ってくれたの、素直に聞いておけばよかった。でも別行動だった場合「タカオカコシノヒガン」に気が付かなかった可能性は高そうだと言った訳で、本来であればこれで山中温泉へ向かうはずだったが、最終日に行くはずだった金沢城に急遽立ち寄る事となった。その方が明日のルートが戻らなくて効率が良いらしいだったら最初からそうゆう日程で組めばいいのに・・・と思いつつ金沢城に着いたのは午後5時半近くで、近くのバス駐車場から、添乗員が城の前まで送ってくれて、そこからはフリータイム。集合時間までには、自分たちでバスまで戻るという話だったけども城門に着いた時点で、閉門の30分前~~たった30分しか時間がないのか。これでは櫓の中の見学どころか、満足にお城の中もまわれるか心配だ。他の奥様方は最終日の金沢が楽しみだったようで、時間はないしこんな夕暮れに!と、かなり文句が出ていた娘も、目の前の兼六園も行ってみたかったと言うので、入口の灯篭位しかないぞとか、冬の雪吊りがないとな・・・と。駆け足の金沢城もとりあえず石川門や三十間長屋、鶴丸倉庫の重要文化財は、外観をおさえたいところだ30分しか拝観時間がないので、とにかく速足でてくてくと・・・石川門は一番最初に入場をした桜に囲まれた門なので、まずは1つ目をゲット~!。再びウィキペディアに説明をお願いすると>金沢平野のほぼ中央を流れる犀川と浅野>川とに挟まれた小立野台地の先端に築か>れた、戦国時代から江戸時代にかけての>梯郭式の平山城である。櫓や門に見られる、>白漆喰の壁にせん瓦を施した海鼠(なまこ)>壁と屋根に白い鉛瓦が葺かれた外観、>櫓1重目や塀に付けられた唐破風や入母屋>破風の出窓は、金沢城の建築の特徴である。>この地は加賀一向一揆の拠点で浄土真宗の>寺院である「尾山御坊」であった。寺とは>いうものの大坂の石山本願寺(大坂御坊)と>同じく石垣を廻らした城ともよべる要塞>でもあった。>織田信長が一揆を攻め落とし、跡地に金沢城を>築いて佐久間盛政を置いた。後に盛政が賤ヶ岳の>戦いで羽柴秀吉により討たれ、秀吉は金沢城を>前田利家に与えた。利家は文禄元年(1592年)>から改修工事を始め、曲輪や堀の拡張、5重の>天守や櫓を建て並べた>兼六園は、加賀藩五代藩主前田綱紀が金沢城に>付属してつくらせた大名庭園である。なお金沢の>地名は室町時代の文明年間には既に存在していた>ことが知られているが、尾山御坊時代は金沢の>小立野台地の先端すなわち山尾(尾山)にあった>ことから尾山の呼称が使われていた>佐久間盛政が新城を築いた時に一向一揆の印象が>強い尾山ではなく金沢を城名に用いたが、前田>利家が入城すると羽柴秀吉(豊臣政権)に敵対>して滅ぼされた盛政命名の金沢城ではなく自身の>出身地の尾張国にも通じる尾山を採用した。>だが、金沢の地名が広く知られていたために>尾山城の名前は普及せず、利家自身も再び>金沢の城名を用い始めたと推測されている>城址は明治以降、存城とされて軍施設が>置かれたため建物の一部を残して撤去され、>第二次世界大戦後には金沢大学が平成7年>まで置かれていたこんな薄暗くなって!と奥さんたちに不評の閉園間近の金沢城フリータイムだが、私は結構好きかも。「逢魔時(おうまがとき)」というような薄暗くなってきて、人もひいた時の静けさは、より印象深く感じる事も出来るこれまでにも閉まる間近の夕刻に出かけた奈良の東大寺大仏殿や、京都の三十三間堂などは拝観者がいなくなり、独り占め気分かけがえのないひと時となった。この城もお花見客も多く真昼は大変な人出であっただろうにこちらが2つめの重要文化財の「三十間長屋」安政5(1858)年に再建されたもので、金沢城には、この他に全部で14の長屋があったと伝えられている。元は軍備倉の堅固な造りで千飯が貯えられていたらしいが、後には鉄砲蔵とも呼んでいたそうだ加賀百万石の前田家の居城である金沢城であるだけに、城内には見どころなどもあるけど時間がないから、横目で眺めつつも早足でスルー。さて金沢城には天守閣はなかったのだろうか。どうやら当初は天守閣を造ったのに、僅かな年数で落雷のため焼失その後は天守閣が再建をされないままで、廃藩置県を迎えたそうだ。理由は財政的に厳しい事と戦いに直轄をするような天守を作ることで幕府に対して反乱でも起こす意思でもあるのかと疑いをかけられたらいけないので。それに江戸期などは天守がなく、櫓を代用した城が多かった第一、江戸城自体の天守も、明暦の大火により寛永度天守が焼失してしまい、今も残る御影石の天守台が、加賀藩主の前田綱紀によって築かれれ計画図も作られたが、保科正之が「天守は織田信長が岐阜城に築いたのが始まりであって、城の守りには必要ではない」と言い、江戸の復興が優先された江戸幕府が盤石になったので戦いの為の天守はもう時代に合わなくなったのかもしれない。とは言っても江戸期に作られた天守もあったようだがさてさて重要文化財の金沢城土蔵の「鶴丸倉庫」武具蔵として嘉永元(1848)年に建てられた大型の土蔵で、土蔵造2階建、切妻造、桟瓦葺で加賀藩大工の山本勝左衛門が普請を手がけた、明治以降には、軍隊の被服宗箇などとして利用がされていたそうだこのようにお城の塀などは作られているといったわかりやすい実物模型とか時代による城の石垣の変遷なども。初期の野面積みなどから、後期の切石積みなどを、石垣の内部がどうなっているのかなどもわかって参考になった金沢城は天守はないが、石垣も見どころだそうで時間があればそれらを楽しみもしたかった。それに前田利家の像もあったらしいが、気が付かなかった高岡城の利長に続いて、金沢城の利家も・・・(泣)閉門時間の午後6時ちょうどには、石川門に戻ってきました。ここからバスの駐車場まで数分。集合時間は6時10分です。石川門の説明を最後になりましたが・・・金沢城の搦手門(裏門)として、重要な位置にあり、河北門、橋爪門とともに「三御門」と呼ばれた。櫓と櫓を長屋でつないだ重厚な枡形門で、宝暦の大火で焼失したが後に天明8年(1788)に再建をされた金沢城の中には入れないが、石川門の真下とか周囲では、お花見客が宴会などをして賑やかだった。金沢らしいお店もいくつも並んでいたが素通り、写真だけパトリ。そんなんで集合時間前にはバスに戻ったが、慌ただしく添乗員さんがバスから降りて。。。石川門から反対側に行ってしまい、戻ってこないお客さんがいるようで、携帯電話で連絡しあって10分程で、バスに戻ってきた。携帯電話が無い時代は大変だっただろうなぁ・・・こうして舟川と富山城、高岡城、金沢城の見学を終え山中温泉へ向かった。ではでは、続く~! 平成31年4月5日に高岡城、金沢城で撮影にほんブログ村
2019年05月21日
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ある熊です。いえ「アルクマ」といいます前にもここで紹介したと思いますが、名刺貰ったので、それを読めばどんなクマかはわかると思いますもっと詳しく知りたい人は、ネットで↑からご覧ください。とにかく信州で大人気のクマさんです。本当の熊には会いたくないけど、アルクマは大歓迎カメラに向かってポーズもしっかりとってもくれました。前回の日記に続いて、信州花フェスタ2019で松本のスカイパークに出かけた日の後半を紹介しますこちらは開催地の松本市のマスコット「アルプちゃん」で、帽子は北アルプス服は豊かな自然を表す緑色、楽都をイメージしたバイオリンを持っていて松本市が、花いっぱい運動の発祥地である事から花の飾りを頭につけてます戦後で荒廃し人々の心にも余裕を持てない中、社会を美しく・明るく・住みよくする事と、花を通じ人々の気持ちを豊かにとの願いを込めて花いっぱい運動は、昭和27年4月に松本市の小学校の教員であった小松先生によって始められたそうですよこの子は大町市の「おおまっぴょん」大町市にもサブ会場がありますので最後のはブドウのアタマの塩尻市の食育推進キャラクター「グレータス」ここ松本空港のある松本スカイパークですが一部分は塩尻市にあたります他にも、サブ会場のある安曇野の「みずん」もよく登場するみたいですよ。会いたかったのにな後ろ姿はこんな感じです会場内には、他の自治体のマスコットもうろうろしておりまして、高遠城もある伊那市の「イーナちゃん」は市の花でもあるさくらの花を身にまとった水の妖精だそうですよう、わからんマスコットです・・・・高原の爽やかな風が吹く松本で沖縄島唄を楽しんだりEXILEのTETSUYAがプロデュースをした「AMAZING COFFEE」も出店(~GW)ご当地グルメなども楽しめる飲食ブースやお花も購入が出来るこんな、こじゃれた休憩スペースもあればまだまだお花見も楽しめそうな休憩所お花の好きな人には、のんびりと過ごす事が出来そうな、信州花フェスタだが雨の日も大丈夫。様々なイベントでも使用をされる「やまびこドーム」でおっきな屋根を見上げながらサボテンを見る。なんでも長野県はサボテンの産地の上位に入っているそうである。ダントツなのは愛知県岐阜県、埼玉県のようだがご当地の物産ブースもあり、試飲もさせて貰えるので、娘が嬉しそうに塩尻のワインを飲んでいたそして、見逃せないのが「劇団四季企画展」(~5月19日)で、様々なミュージカルの衣装や小道具などが展示をされているのだ(撮影OK)「キャッツ」は名古屋で見たけど、ごみも都市によって、ご当地色が出ていると聞いたことがあるような仮面だぁ~。オペラ座の怪人のだなタイトルは知っているが、内容は判らない結局、劇団四季で見たのはキャッツとライオンキング位なものだけど・・・李香蘭かな。上海のブログを書く時に劇団四季のミュージカルのも動画であったんでライオンキングっす。もともと大町に劇団四季の稽古場があったり、舞台の大道具とかの倉庫が大町に出来たりとかなり以前から、大町市との関係が深かった為の展示のようです今も大町市には劇団四季記念館がありこういった舞台衣装や小道具が観れるようですよその日は午後から劇団四季の俳優さんのトークショーもあったけど、昼前に退場しちゃいましたあっ、アルクマブースだ。なんだかパイプ椅子に座りたいらしい世話役の女性に、なにやらヒソヒソしゃべれるのか!色鉛筆を手にして、塗り絵にチャレンジするみたい先着来場者に貰えた花のクッキークイズで花の種を貰えたり、ブラブラしてただけで貰った粗品など。菓子はその日に泊まった安曇野のホテルでといった訳で朝早くから出かけた事で存分に信州花フェスタも、楽しんだしそろそろお腹も空いたので、退散するかなメイン会場は赤い飛行機の上のあたりで現在地のあたりに車を停めました。最初の芝桜は一番右側のあたりです駐車場へ向かう道は大渋滞。有料のピストンバスも渋滞に巻き込まれて全く進まずに、横を歩いた私の方が早く駐車場に戻れたくらいですやっぱイベント開催時は、開始時間の1時間~30分前には着いていないと駐車場が心配です。飲食系イベントも午前が勝負です。昼には大行列必死日テレのケンミンショーで、信州の回転寿司店では、長野県民はこぞって「サラダ軍艦」を食べるというのを見たので、長野市創業のかっぱ寿司で食べました。私は山かけマグロが一番好きですそんな、ほのぼのとしたケンミンネタならまだしも、全国放送で「松本走り」(松本ルール)なる危険な運転方法が紹介をされている。交差点での右折車の危険運転で、幼い子供を含む歩行者が犠牲となった痛ましい事故の関連による城下町で、狭い道に右折レーンが取れず慢性的な渋滞に悩まされる為、右折車が強引に右折をするのを、直進車も黙認をしているので、他府県ナンバーは注意が必要だ私などは片側2車線の国道19号線の右折レーンから右折をしようとしたら対向車(直進車)が来たので停まったらその直進車も停まったので、えぇ~っ?なに~??と、何が起こったかとビビる片側2車線の国道の直進車が、右折レーンの車に遠慮をして停まるなんて? 普通は右折矢印青信号(対向の直進は赤)でも突っ込むバカ車が多いのが当たり前なのに。そんな目を疑うような体験が松本で2度ありました。でもでも直進車に先に行って貰いましたよ~「前の車が行けたから自分も行く」といった今回の大津での事故の右折車みたいなのも松本ではよくある運転なので、要注意ですそんな「松本走り」の他にも「名古屋走り」では、赤信号で右折レーンの一番最初に入り青信号になると強引に直進を行うというのうちのあたりは愛知県の観光客が一番多いので、よくやられるんですよ~。交差点の事故は一番多いし、私も中津川市内ですが脇道から大きな道に入ろうと停車してたら目前で無理な右折車と直進車が接触、うちの車にぶつかってきたという事もあったので他人事じゃないです一瞬の出来事なのに、車が来る~来る~来る~~と車が迫ってくるのが、スローモーションのように感じました(同乗してた娘も) 車の斜めにぶつかってきたので怪我はなかったです。すぐ横は川だったし(汗) そんな交通事情の悪い松本市街ですけど色んなお店などが出来ていて、女子とか外国人観光客でにぎわってました。この信毎メディアガーデンもこじゃれたお店幾つもありましたよ。軽井沢の丸山珈琲とか、長野駅みたいに試飲も出来ます安曇野のホテルは素泊まりだったので少し早めの夕食を松本駅前の居酒屋でハッピータイム。娘は1杯100円の日本酒や、ビールなどをご当地グルメ山賊焼きをさかなに、ぐびぐびと私の方は安曇野まで車で行かなきゃいけないので、お酒は飲まずにお得な価格のまかない丼。よく考えるとお昼には回転寿司だったんだけど、お酒のおつまみのようなのはどうも食べる気にもならないゴールデンウィーク中は松本市街のホテルは満杯で、仕方なく松本から車で、約15分そこそこの安曇野のホテルは素泊まりで二人で1万円強でした。朝8時台にチェックアウトしまして行きたかった三澤珈琲の松本店が臨時休業だったので、全国チェーンの星乃珈琲店でモーニングを食べ、山形村のアイシティの映画館(レディースデーでお得)に出かけお昼過ぎには、よく出かけていた国道19号沿いの南松本のイトーヨーカドーと、イオンモールをハシゴイオンモールで、新潟からしラーメンチェーンの「ちゃーしゅうや武蔵」で遅めのランチ。ツルヤなどいつもの店で買い物もして車で2時間、自宅に午後6時台に帰宅して夕飯の準備! ではでは~ 平成31年4月29日&30日に信州松本で撮影にほんブログ村
2019年05月15日
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どうもどうも久しぶりでございます。ここ10日程の間に、世の中は平成から令和へとかわり、10日間もの長期休暇で家でのんびり旅行でリフレッシュとお過ごしだった事でしょうね皆さんはどこかにおでかけされましたか?海外旅行など論外で、国内も高い宿泊代金渋滞も嫌いな我が家としては、平成最後の旅行先に選んだのは、勝手知ったる第二の地元の松本で北アルプスのいつもの風景をと、言いたいところですが・・・・よくここでも紹介をする信州まつもと空港の松本スカイパークが、芝桜で彩られて何やらド派手な事になっていますこれは、「北アルプスの麓から広がる花と緑に包まれたしあわせ暮らし」をテーマにした、第36回全国都市緑化信州フェア「信州花フェスタ2019」を見に出かけたのですよウィキペディアによりますと>全国都市緑化フェアは、日本の地方博覧>会のひとつで、花と緑の祭典である。>1983年、建設省(現在の国土交通省)の>提唱で都市緑化基金(現在の都市緑化>機構)が主催する第1回全国都市緑化>フェアが大阪府で開催された>公式見解によれば目的は、都市緑化>意識の高揚、都市緑化に関する知識の>普及等を図り、緑豊かな潤いのある>都市づくりに寄与することである。>その中で全国都市緑化祭は最大の行事>であり、現在は式典には眞子内親王が>出席する。主催は公益財団法人都市緑化>機構と、開催地の地方公共団体である。この最初の大阪の花博は、結構な賑わいであったようで、花好きの今は亡き母親も大阪まで見に出かけ、綺麗だったと喜んで話していた。ちなみに来年は広島らしい旦那は田植えの準備などもあるので、それが終わらないと行楽などはいけないと言うので娘と二人で出かける事にしたが、電車も混みそうだし、高速道も怖いので一般道を使って私が出かけられるといったら、やっぱり信州更に決め手になったのがゴールデンウィークに合わせて公開をされた「アベンジャーズエンドオブゲーム」を松本にある3つの映画館で見るという心づもりもあったのだ。しかも日程的にレディースデーで1100円と安く見れそうだ行こうと決めた3月下旬には、既に松本や諏訪での宿泊先は全滅だったが、安曇野あたりではまだ宿泊先に空きもあって、しかも宿泊料金が通常価格。素泊まり5千円程×2名の宿発見!娘が数年はいただけに、最新店舗はともかく普通に飲食店などは頭にインプットもされているし、道だってカーナビがなくても大丈夫こうなったら、あそこにここにと行きたいと思うお店やスポットも色々出てきて心配だったのはお天気位。でも初日はまだ雨も降らず、西から怪しい雲が湧き出てもきたが、まだ屋外の観光に支障もなさそうだし、天気が崩れる前にメイン観光である「信州花フェスタ2019」を見て回ろうそのメイン会場はいつもの松本のスカイパークでして、駐車場も熟知しているがこうゆうイベントは、開始時刻の30分前には、会場入りをしていた方が安心だ朝ごはんを作り、洗濯も干して午前7時ちょい過ぎには家を出発し、車で2時間程で会場到着。開始時間の30分以上前なので、思った駐車場に車もとめられて最初に出かけたのが先程の芝生の公園だあそこは、松本空港の一番端っこにあたり有料の乗り物で、広い会場も移動もできるが節約志向の母子は歩く。てくてく。そんな節約・・・いや「健康志向」の来場者も北アルプスを見ながらひたすら歩く普段から、花壇などに綺麗な花も咲かせているのでチューリップやいろいろな季節の花が道中を楽しませてもくれた。今回の信州花フェスタ2019について紹介をするとメイン会場場ここ、長野県松本平広域公園(信州スカイパーク)ですが、他にもサブ会場として、国営アルプスあづみの公園(堀金・穂高地区)と(大町・松川地区)長野県烏川渓谷緑地などで6月16日まで5月25日~ 6月8日の期間限定で、松本市サテライト会場などでも開催をされます花がテーマになりますが、期間中は様々なイベントなどもあるようで、春の信州を満喫できそうですよあと1回くらいは行きたいけど、今年の5月はむちゃくちゃ予定が入っているのでもう行けそうにもないかもしれない・・・うちは南端の芝生の公園を先に見てきたが駐車場からは、この滑走路下の歩道を歩くルートの方が近道だ。私も帰りにはここを歩いて駐車場に戻ったといった訳で、メイン会場のある松本空港脇のやまびこドームに着いた同時に、開場時間の午前9時半。一斉に会場入りをする人たちについて入場まだ松本では、桜の花も咲いてましたよ流石に、染井吉野ではない遅咲きの桜だとは思いますが。これが平成最後の花見となりそうです桜の咲く一角には、全国の観光地の写真パネルと花壇が並んでおり黒いお城の仲間、修復中の熊本城こちらは姫路城。やっぱ城仲間が集うようです。首里城とかもありました大掛かりな花壇は向きが変わると雰囲気も変わります近くにある松本山雅のホームグラウンドアルウィンの大きなパネル山野草なども植えられたアルプスの風景を再現もしてましたこちらは茅野の国宝の埴輪のレプリカ真田氏の上田城もありました軽井沢の白糸の滝イメージだったかな酒樽も花壇化してます。夜明け前は小野宿ですねそんな感じで、長野県内の市町村の特色も花壇で紹介されていましたさてさてメイン会場で、一番の見どころなのが、いつも飛行機の離発着を眺める図書館横の小高い丘で丘全体に花が植えられて、メルヘンタッチ溢れる風景となってました。この前、朝のワイドショーとくダネ!のお天気コーナーここから生中継をしてましたし西の空にはワイルドな分厚い雲が広がってきていましたが北アルプスはなんとか、まだ見れてましたまぁ、当初は雨予報だっただけにお天気が崩れるのが遅くなって良かったですそうそうNHKのBS放送でやっている火野正平さんの「にっぽん縦断こころ旅」ですが今週は長野県で、昨日は伊那のみはらしファームから娘の好きなラーメン屋「じゃげな」も映って今朝はここ松本空港からスタートと見慣れた懐かしい風景ばかりなので見ていても、余計に楽しいですねとうちゃこ版も観なければ~一日に3便しかないので、残念ながら飛行機の飛ぶ時間まではかなりあって離発着を見る事は出来そうもないです普段はよく利用をしている駐車場にはお花の手入れをする建物などが臨時に作られていましたこうして平成も僅かとなった一日、始まったばかりの「信州花フェスタ2019」に娘と出かけた訳でして、後半ではやまびこドーム会場や飲食ブース、マスコットを紹介します つづく 平成31年4月29日に信州松本で撮影にほんブログ村
2019年05月08日
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