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米国大統領選は予測が難しくなっているようだ。かつては世論の動向をみる場合、マスコミの論調をみればよかった。マスコミは文字通りオピニオンリーダーであり、大衆はそうした「社会の木鐸」の意見に従うものだったのだから。ところが最近、マスコミのそうしたオピニオンリーダーとしての機能がおちていることはよくいわれる。ネットで誰もが情報や意見を発信できるようになった時代には、マスコミのおかしな論調などはすぐにネットでやり玉にあがる。また、社会の分断がすすんだ社会では、マスコミの代表する意見を「しょせんはあっち側の見方」と冷めた目でみる人々も大勢いるのかもしれない。米国のみならず世界に与える影響が大きい選挙だけに、結果については興味津津…。*大統領と言えば、韓国もけっこう揺れている。個人的な友人に演説草稿をみせたことなどが大問題になっているのだが、どうもよくわからない。日本ではそういう場合、秘書官に任命したりしているし、そうしたらまずいのだろうか。実際、日本ではそうした秘書官で権限をふるっている人間で、なぜそこまで上り詰めたのかよくわからない人もいる。官僚とか、弁護士とか、学者とかならわかるのだが、「家庭の事情で大学に行けなかった」と称する人間になるとさっぱりわからない。もちろん「家庭の事情で大学に行けなかった」人間で優秀な方はいくらでもいるし、その人ももちろん能力は十分にあるのだろうけど、不思議なのは、じゃあ、そういう人はどういう経緯でみいだされ、どんな理由で登用されたかということだ。*ハロウィーンは週末には人が集まらずどうかと思っていたが、今日は期待にたがわずおおぜいのコスプレーヤーが集まっているという。渋谷駅周辺の話だ。週末の寒さも和らいだ今日くらいがコスプレ日和なのかもしれない。それにもともとハロウィーンは今日だし。ただああいうのって仮装をして、そして何をするのだろう。見知らぬ人同士で写真をとったって、すぐに終わってしまうし、やはり仮装した仲間同士でもりあがるのですかねえ。周辺にも若い子はいるけど、実際にハロウィーンで何かやったという話は直接は聞いていない。
2016年10月31日
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あの東日本大震災の日は今でも思い出す。東京なので震度5程度なのであったが、それでもあんな地震は生まれて初めてであった。強い揺れがあり、その後も何度か揺れた。会社の建物はかなり老朽化していたので、外にいる方が安全なのか、それとも、外では電柱が倒れたりするおそれがあるので中の方が安全なのか。歩いて帰れる人は歩いて帰宅したが、遠方からの通勤者の中にも、あの古い会社の建物にとまるのが怖くて夜通し歩き続けた人もいた。次に大きな地震が来るかどうか、そしてそれは建物が崩れるようなものかどうか、そんなことは誰にも分からなかった。津波だってそうではないのだろうか。同じような建物の屋上に避難したのだが、一方の建物に避難した人は津波にのまれ、もう一方に避難した人はわずかにそっちの屋上の方が高かったので助かったという。大川小学校の子供達の遺族が起こした損害賠償請求訴訟で、市や県に賠償責任を認める判決が出た。津波で多くの子供が亡くなったことについて、学校や教師の側に過失責任があったというわけである。大川小学校は海から4キロも離れていたという。たぶん海の近くという意識はなかっただろうし、津波が川をさかのぼってくるというのは想像しにくかったのかもしれない。そして大きな地震の際には山崩れを危惧するのも普通のことのように思う。あの津波では教師も何人も亡くなっている。何万人も亡くなったような巨大な自然災害の中で、学校や教師に、損害賠償を行なわなければならないような過失責任があったのだろうか。素人目にはどうも疑問がのこる。
2016年10月30日
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元自衛官の爆破自殺事件で、娘が精神を病んだことを苦にして、妻は宗教にはしったという。退職金を宗教につぎこんだ云々については妻は否定しており、真相は明らかではないのだが、こうした不幸があった時、宗教に救いを求める気持ちというのはすごくわかる。人生は不条理なものだ。いつなんどき不幸がふりかかってくるかわからない。そしてそんなとき、なぜ自分だけが…と思うのも人間のつねである。宗教については、科学の発展とともに、自然消滅していくのではないかという見方もあるようだが、私はむしろ高齢化社会を背景にして、宗教の役割というものはたかまっていくように思う。高齢化社会というものは、多くの人が相当期間を高齢者としてすごす社会であり、そしてその高齢期というものは、いやでも生死の問題を考える時期だからである。ただ、宗教というものは薬にもなれば毒にもなる。弱みや不安につけこんで多額の財産を奪う宗教がもしあるとしたら、それは毒ではないのだろうか。多くの人が宗教についてなんとなく思っているのは、新興宗教はいかがわしいけど、伝統宗教は安心でよいものだということである。だからネット情報にあるように、もし元自衛官の妻がはまった宗教が伝統宗教なのだとしたら、これは伝統宗教自体の危機なのかもしれないと思う。
2016年10月27日
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宇都宮の爆破事件では、娘の精神病を苦にした妻が宗教に入信し、容疑者の退職金を使い果たしたのも大きな背景になっている。容疑者は妻と離婚し、その際の慰謝料で住居まで奪われたので、自暴自棄になったのだから…。容疑者は長期間自衛官として勤務していたので退職金は相当の額になっていたはずだ。それを妻に使い果たさせた宗教ってなんなのだろうか。報道を聞いた当初は、これはてっきり新興宗教かなんかだと思った。しかしそうではなく、伝統宗教の大宗派だといったら意外な感じがするだろうか。*この宗派と僧侶については、ネットではすでに特定がされているのだが、いわれてみればさもありなんと思った。実は、この僧侶の常駐している寺の墓地には行ったことがあり、そこで著書も拝見したことがある。精神病は病気ではなく先祖供養を行なわないことが原因であるという趣旨の本で、内容は霊が見えるといったような新興宗教によくあるようなものだった。ただこの僧侶は新興宗教ではなく、大宗派の方だったので、すごく不思議な気がした。精神病については世の中の偏見はまだまだ強い。もしそうした診断を下されても、認めたくないという気持ちを持つ人は多いだろう。そうした苦境にある人に、「精神病は病気ではない」という主張はアピールするだろうし、著者がいわゆる新興宗教の教祖ではなく、伝統宗教の大宗派の僧侶であることも安心感をあたえたことだろう。宗教が悪いとはいわない。先祖供養を行なうことで精神的に安定し、その先はおちついて医療にまかせるようになったら、それはそれで宗教の存在理由はあったというものだろう。しかし、この場合は、退職金を全部つぎこみ、精神的安定どころか、とんでもない悲劇と破滅につながった。宗教はたぶん必要なものなのかもしれないのだが、そのつきあい方を間違えるととんでもないことになる。そしてそれは新興宗教だけではなく、伝統宗教も同様なのだろう。
2016年10月25日
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宇都宮の爆発事件はどうやら高齢者の拡大自殺(他者をまきこんでの自殺)の可能性が高いようだ。妻との離婚で住居まで失ったということが引き金になったようだが、高齢者の生活不安からくる自殺という意味で、新幹線放火自殺とよく似た事件のように思う。ただ、新幹線放火自殺に比べても、今回の事件は、娘の精神疾患、妻の宗教入信と財産喪失、離婚による住居喪失と、どんどん人生が暗転していってしまったようで、おそろしい。なんかこういう歯車の狂い方って、一歩間違えると多くの人に起こり得るように思う。死ぬ気になればなんでもできる…という言葉がある。でも、この言葉は裏返すと、死を覚悟しさえすれば、後は野となれ山となれで、それこそ何でもできるとも解される。この何でものなかには、爆破も放火も含まれる。最後の最後に人が犯罪を躊躇する理由というのはなんなのだろうか。重刑に対する恐怖というものはあるし、逮捕され世間にさらされる恐怖というものもある。ただそうしたものは死を覚悟してしまえばブレーキにはならないし、そうでなくても、70歳代の人間に死刑や無期懲役等の刑が若い人ほど抑止力になるとも思えない。宗教はどうなのだろうか。これも地獄だの閻魔様だのを信じている人がそんなにいるとも思えず、抑止力としての機能はなさそうである。やはり犯罪を思いとどまる一番のブレーキは家族の存在であろう。昔なら、高齢になればなるほど、子供、孫と家族は増えていった。でも、今では必ずしもそうではない。それどころか宇都宮の爆破容疑者については、あの拡大自殺が妻や娘に対する復讐のようにもみえる。高齢化社会と、それにともなう困窮老人の増加を考えると、今後もこうした事件は増えていくように思う。
2016年10月24日
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ひたちなか公園のみはらしの丘ではちょうどコキアが紅葉を迎えていた。コキアとは和名箒草といい、もこもこした小動物を思わせる形状で印象的な一年草である。これが今頃になるとちょうど深紅になり、広い丘がこの赤いコキアに覆われた光景は幻想的である。このひたちなか公園のみはらしの丘は春はネモフィラの花、秋はコキアの紅葉が見ごろになる。丘の上には、鐘の台があり、その鐘を鳴らした後、記念写真をとるカップルも多い。こういうのはあちこちの観光地にあり、一種の流行なのだろうか。ここからは海も見ることができるが、すぐ下は工業港になっており、海岸景観とはほどとおいのは仕方ない。
2016年10月23日
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沖縄での機動隊員の差別発言が問題になっている。ヘリパット建設に反対する住民の抗議行動に対し、東京警視庁、千葉県警、神奈川県警、大阪府警、愛知県警、福岡県警から総勢500人という機動隊員が派遣されているというが、通常警察活動はその県の警察が担当する。これだけ大量の機動隊員が遠方の県に派遣されるという事態そのものが異様なのではないか。そしてそのわりには、そのおおもととなっている抗議行動に対する報道は少ない。そしてその少ない報道の中で「ドジン」という一言だけがニュースとして独り歩きしている。それ以前に住民と機動隊員との間にどんなやり取りがあったのかについては報道されないし、機動隊から抗議住民への実力行使、抗議住民から機動隊への実力行使についても報道されない。それに抗議住民の背景とか構成、つまり県内の住民だけなのか、外部からきた運動団体の人がいるのかについても、わからない。ドジンという言葉はセンセーショナルだが、そこだけを非難してもしょうがない気がする。そもそもドジンというのは未開種族を指して言う呼称なのだが、沖縄住民に対してこの言葉を使うのは無知そのものである。琉球は古来中国の冊封体制に入っていた国で、儒教文明圏の一角をなしていた国である。そこからみれば冊封体制に入っていない日本本土こそ化外の地で「ドジン」という語感に近いのかもしれない。裸は儒教的価値観からすれば野蛮人の風習だが、本土には褌一丁でねりあるくような祭りがいくらでもあるのに、琉球にはこうした習俗は、暑い国でもあるのにかかわらず、まずない。小さいながらも守礼の国だったわけで暴言を吐いた人は歴史を勉強した方がよい。琉球には士太夫という人々がいて、これは本土の武士にあたる。ただし、文治の国だったので、たぶん侍よりも朝鮮の両斑に近かったのかもしれない。琉球処分後、こうした人々の中には日本に組みいれられたことに不満を持つ人もいて、日清戦争が起きた時、もし清国が勝てば再び琉球に戻れるのではないかと期待していた人もいたという。ただそれも昔々の話で、第二次世界大戦後、米国統治下にあったときには、沖縄は一貫して日本復帰を望んできた。世論調査でも8割か9割の人々が日本復帰を支持してきたという。ただ人の心は時代とともに変わる。本土の側が沖縄に負担を押し付け、それに対して住民の不満が高まり、しかも、日本政府からの交付金なしでも十分に自立できると思えば、独立という動きも冗談ではなく、でてくるのかもしれない。
2016年10月21日
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家族がだいぶ前に買っていて本棚にはあったのだが読まないでいた。ところが最近友人と雑談しているうちに、たまたまこの本が話題になり、貸すこととなった。貸す…となると読んでおかなければということで急きょ読み始めたが、数時間もあれば読み終える本である。お笑い芸人が書いたということで話題になった本なのだが、読んでみた感想はそれ以上でも以下でもない。この方がお笑い芸人としてどの程度の知名度があったかは知らないが、テレビに出るくらいの人が書いたものならそこそこ売れるであろう。かといって普段からこざかしいことをいっている人物なら意外性もなく売れるとは限らないが、バカ言っているお笑い芸人の「文学」なら売れるだろう。そんなわけで昨年の芥川賞の受賞騒ぎは商業主義の匂いがぷんぷんしていた。長くはないというものの一冊の本になる分量である。それを最後まで読ませる筆力はなかなかのものであるし、文章もよみやすい。途中で読むのを止めようとも思わなかった。ただ、巧みな表現とか気になる描写とかそうしたものはなく、一般に「うまい文章」という範疇を超えるものではない。また、肝心の中味なのであるが、正直お笑い芸人の世界が興味深く描かれていると言うだけでそれ以上の感動はない。これはノンフィクションなら「こういう人もいた」、「こういうこともあった」で記録としての価値があるのだろうけど、フィクションであれば、やはりそこに何か感動させる要素はないとだめだろう。人によって違うのかもしれないが、正直いってこの先輩芸人の奇人ぶりには嫌悪感しか感じなかった。この方がさらに二作目、三作目とよいものを書いて文筆家としても不動の地位を占めていくか否かはわからない。けれども、雑誌などをみるかぎり、次に書く芸能人は誰かということはとりざたされても、次にこの人が何を書くかは話題にされていないように思う。せっかくお笑いで売れた軽妙な話術があるのだから、小説ではなくても、コラムなどでは出番はあるのかもしれないし、そういう方がむいているのかもしれない。
2016年10月19日
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東京五輪の費用はこのままでは3兆円を超えるという。以降はちょっと悪夢めいた想像なのだが、東京都の発行する地方債を日銀が引き受けるということもあるのかもしれない。国債を日銀で引き受けているのに、地方債はダメという理屈はない。そうなると、東京以外の自治体もこれに続くので、国だけではなく、都道府県でじゃぶじゃぶとお金を刷るのと同じことになってしまう。まさかこんなことにはならないと思うのだが、単なる想像である。*某大学で起きた暴行事件についても、悪夢めいた想像をしてしまう。あの大学と言えば比較的金持ちの子弟が多いということでも知られている。加害者の親達は当然弁護士を雇う金くらいある。そんな弁護士達が被害者の女性(未成年)やその家族に猛烈に接触をしているのではないのだろうか…今頃。親告罪ではなくとも、「合意」ということにしてしまえば犯罪自体はなくなる。弁護士は法の専門家であるので、もちろん脅迫とみなされることはしないにしても、結果的に被害者が不安に思うような言動はあるのかもしれない。それにもちろん金も提示する。このあたり、こわもての男性弁護士よりも、あたりのやわらかい女性弁護士の方が接触しやすいのかもしれないが、女性弁護士≒女性の見方とはかぎらない。犯罪事実自体がうやむやになり、結局被害者だけが大学を辞めるようなことになれば、大学の評判自体が地に落ちることだろうに。まあ、これも単なる想像である。
2016年10月18日
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某大学でミスコン中止が話題になったと思ったら、今度はとんでもない事件が発覚している。場所が大学の施設であったこと、大学公認のサークル活動が舞台になっていたこと等からして、こうした事件は大学の評価に大きく影響していくことだろう。それにしても…と思う。大学ってこんなに多くの人が行く必要があるのだろうか。たしかに大学でしか学べない高度の学問というものはある。ただそうした必要に応じて大学に行く人はほんの一握りであり、ほとんどの場合、単なる4年間のモラトリアムのためだけに行っているようにみえる。4年制大学だけで全国に700以上あるというが、どうみてもいらないだろう。もちろん需要があって供給があって、それを各人の負担でまかなっているのならよいのだが、私立大学でも相当の助成金が投入されており、さらに学生の側には公的な奨学金も投入されている。限りある資源をふりむけるのならbe動詞を講義してやっているような大学よりも、老人介護施設の方がずっと優先度が高いと思うのは私だけかしら。介護といえば、障害者福祉施設の元職員で殺傷事件を起こした人も4年制大学出身だった。初等教育学科ということで、たぶん4年間安くない授業料を負担していて、これではかなしすぎる。それでも、大学という学歴が、余分なお金のようにあっても邪魔にならないものなら、モラトリアムとしての大学進学はある。けれども、実際には大学卒の学歴は桎梏になることすらある。ある自治体では高卒相当で入った職員が、実は大学をでていたという理由で免職にしたという。公務員の免職は、犯罪行為のような場合がほとんであるが、大学を出たということも、それと同様の免職自由になると言うのでは不条理きわまる。**芥川賞受賞作品である「火花」を読んだ。友人から借りて読んだのだが、お笑い芸人の世界が興味深いと言うだけで、それ以上のものはないように思う。まあ、最後まで読ませる筆力はあるのだが、じゃあ、この人の書いた他のものを読みたいかと言えば、そうは思わない。
2016年10月17日
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将棋のトッププロが対局中にスマホでカンニングをしたという疑惑を受けているという。疑惑そのものについてはなんともいえないが、将棋トッププロよりも、コンピューターの方が強くなっているという点には大いに興味をひかれる。もしかしたら将棋のプロなんて「いらなくなるのではないのだろうか。人間より速く走れる動物、人間より高く跳べる動物はいくらでもいるし、そうでなくても、機械の力を使えばどんな人でも速く移動することはできる。それでも、スポーツ競技がすたれないのは、そのままの人間が速く走ることに感動があるからだろう。人間の走る姿に感動するのである。たぶん…。また、ボーカロイドを使えばどんな難曲でも少しも音程をはずさずに歌う声を作ることができる。でもそれだからといって、ボーカロイドで事足りると思う人はあまりいない。楽曲にこめる情感は人間でしか表現されないし、それにこれもスポーツ同様に、人間が歌う姿をみたいという需要がある。これに対して将棋がどうなのだろうか。たしかに棋士個人にもファンがおり、人間がハ駒音をだして対局する姿に美を感じるという人もいる。けれども将棋のプロに期待するものの多くは、棋力であり、プロならではのレベルの高い対局であろう。そうだとすると、コンピュータの棋力が人間を上回るようになれば、人間の棋士は不要…という気もする。暗算名人とか円周率を何ケタまで記憶している人というのは世の中にいて、それはそれですごいと思うがそれだけのものである。そんなのはコンピュータを使えばだれでもできる。将棋だってそれと同じになっていくのかもしれない。
2016年10月17日
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ノーベル文学賞にボブ・ディランが決まって、いろいろと議論をまきおこしているらしい。別にいいんでないという気がする。最近ノーベル文学賞を貰ったアジアやアフリカの作家とボブ・ディランの歌詞とどっちが人口に膾炙し愛されているかといえば、どうみても後者だろう。日本でノーベル賞をとった川端康成と大江健三郎にしても、この二人が傑出した日本の現代作家というわけでもないし、有力候補とされていた村上春樹も周囲の人にきいたかぎりでは「読んだけどわけがわからない」という評が多かった。小生も同感である。ある程度客観的に評価できる科学と違って、文学の評価は主観的なものだし、時代や社会風潮によっても変わり得る。ノーベル文学賞も、そういう意味で優れた文学に与えられると言うよりも、授与する側の政治的な思惑に左右されるもののようである。要は、そういうものだとわりきればよいだけのことである。例えば大トルストイはノーベル文学賞があったときに存命だったにもかかわらず貰っていない。無政府主義的な思想傾向が嫌われたとのことだが、トルストイを人類史最大の文学者と評価する人は多い。その一方で、ソルジェニーツインは受賞しているが、これはソ連の反体制作家ということで評価されたわけで、今日彼の作品はどの程度読まれているのだろうか。もっとすごいのはチャーチルが自伝で文学賞を貰っている。これも、チャーチルの自伝にどの程度文学的価値があるかわからないが、彼の自伝が本屋に並んでいるのをみたことがなく、どうみても政治的な思惑が背景にあったとしか思えない。ノーベル賞と一口にいっても、科学分野と平和賞、文学賞は区別した方がよい。
2016年10月15日
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ニュースをみていると不思議に思うことがある。マスコミを支配下に置き、自らの不祥事があっても、決して報道されないはずの某大企業がある。その企業での過労自殺が報道されている。それも、「ニュースにしてくれ」とばかりに亡くなった美人女性の顔写真とともに…。たしかに過労死やブラック企業の問題は社会問題となっている。でも、その某大企業がブラック企業かと言うと違うような気もする。毎年、就活生の人気を集め、高給でしられる企業である。そういう企業でおきた過労自殺はそれはそれで問題なのだが、それと某外食産業の事案とはやはりちょっと違うように思う。そういえば、そんなブラックで有名な外食産業の社長だった方は某政党の公認を受けて議員になっているのだけど。*報道していることとしていないこと、大騒ぎしていることとしていないこと。こうしたものを比べると不思議に思うことがときどきある。東京オリンピックにしても新施設や新種目の経緯はあまり報道されなかったように思う。多くの人がしったのは新施設の設計が終わった後、新種目が決まった後ではないか。また、福島の甲状腺癌の報道も少ないように思う。そもそも甲状腺癌とはどういう病気なのか。原発事故との因果関係はどうなのかなど、知りたいことは山ほどある。マスコミ報道が少ないことが余計にネット報道などによる不安を煽っているようにみえるのだが。それに住民の健康被害も懸念されるのなら、それ以上に問題なのは作業員の方だろう。こうした方についての報道はなく、身元確認もないようである。事故直後には作業員の被ばくの記事も何件かあった。そしてその被爆後の報道はない。もしかしたら深刻な健康被害が起きているのではないかと懸念するし、そうでないのだったらそうでないという報道があればどんなに安心するだろうか。
2016年10月14日
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麻生太郎財務相は、2020年東京五輪・パラリンピックの開催費が当初見込みを大幅に上回る可能性について、国の費用負担に消極的な姿勢を示しているという。http://www.sankei.com/economy/news/161011/ecn1610110016-n1.htmlこれには多くの人がのけぞるのではないのだろうか。だって、リオ五輪で閉会式の主役を演じた安倍マリオはいったい何だったのだろうか。国が関係ないというのならマリオはピエロになってしまう。それも、非難ごうごうのなかに辞めていった前都知事のファーストクラス費用の何席分もつかって…。費用負担の主体も責任者も曖昧なまま、費用だけが膨らんでいく。誘致した当初はコンパクトな五輪といっていたはずだ。新競技にしても、野球やソフトはほとんど異論ないのだろうけど、それがいつのまにか5競技にも膨らんでいる。「若者のスポーツ離れが深刻だから若者に人気の高いサーフィンとスケボーを入れる」というのはとってつけたような理屈だし、ましてや、日本人にメダル候補者がいるからスポーツクライミング(そんなのあったの?)を正式競技にするとなると、いったい五輪は何のために、そして誰のためにやるのかといいたくなる。競技数だけでなく、競技場の膨張もすごい。既に国際大会にも使用されている水泳競技場があるのに、観客数20万席の新競技場を建設するという。こんなばかでかい観客席を有する水泳競技場など、オリンピック意外に用途もないし、無駄の一言につきる。水泳競技団体は新競技場の建設を強く主張しているというが、「メダルメダルというのならあんたがやってみれば」といった某女子水泳選手の発言にみられるように、だいたいスポーツ選手なんてのは一般人を見下したゆがんだ選民意識をもった人が多いと違うのだろうか。誰も責任者がいないままに、無責任に膨張をつづけるオリンピック…その裏にみえるのは、スポーツ関係者の特権意識と利権にむらがる有象無象の姿だけのような気がする。
2016年10月11日
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瀬戸内寂聴氏の「ころしたがるバカ」発言が波紋をよんでいる。そりゃそうだろう。だって殺したがるバカは自分の欲望や不満のはけ口に人を殺した人を指すのであって、死刑廃止に反対する遺族をいうではないだろう。もともとは作家だというのだが、こんな言語能力でどうして作家をやっていたのか不思議である。それにまた、この問題は一般人の中でも様々な意見がある。それは本質的に、この問題は、その人の価値観や道徳観、あるいは宗教観にかかわることだからだ。もちろん弁護士の中にもいろいろな考えの人がいる。中には、御自身の奥様を殺害されて自らが犯罪被害者遺族になったことで、強固な死刑存続論者になった弁護士もいるという。それなのに、弁護士会として「死刑廃止」を宣言するのは変なのではないか。議論をなによりも大切にしなければならない職業のはずなのに…。この死刑制度については存廃の議論ばかりがめだち、執行方法についての議論がないのは不思議だ。死刑執行の方法は太政官布告で規定されている。21世紀の今日、明治初期の方法そのままで執行されているのについて、なぜ誰も議論しようとしないのだろうか。わて、もう一つ、著名人の発言で鳥越俊太郎氏の都知事選には「おもいつきで出馬した」という言葉も波紋をよんでいる。この人の発言には選挙期間中から、えっと思うところが多く、今さら驚かないのだが、都知事選の真の敗者は共産党のような気がする。非正規労働者、低賃金労働者、失業者などの不満層の受け皿として。支持を伸ばしてきたあの政党の勢いが、宇都宮氏を降ろして鳥越氏を推薦したことで止まったように思うからだ。そういう意味では鳥越氏の意図には関係なく、鳥越氏の出馬を喜んだ人も多かったのかもしれない。https://news.nifty.com/article/item/neta/12189-173478/
2016年10月09日
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ノーベル賞の話題がひとしきり続くが、チャールズ・ジョン・ペダーセンについてはどのくらい知られているのだろうか。検索しているうちに初めて知った名前である。1987年のノーベル化学賞受賞者なのだが、日本ともゆかりがある。1904年にノルウェー人の技師と日本人女性との間に生まれ、良男という日本名ももっていたという。韓国の釜山で生まれ、その後、日本で暮らした後、米国に渡ったというのだが、特にその後、日本に来たということもないようである。博士についてはもちろん、明治のあの時代に国際結婚をした日本人女性が、どんな人生を生きたのかにも関心がある。*ノーベル賞の中で経済学賞は正式なノーベル賞ではないらしいのだが、文学賞と平和賞もノーベル賞とはべつもののような気がする。ノーベル文学賞は権威はあると思うが、じゃあ、川端康成や大江健三郎が日本で最高の作家かというと首をかしげる人も多いのではないか。もともとの言語を離れたとたん、文学は変容するし、そうした文学の中でどれがよくて、どれが劣っているかなんて客観的な判断はできないだろう。川端康成はその日本的美意識が異国情緒をかきたてた面があったのだろうし、大江健三郎の場合は反核の姿勢が、「日本に核兵器をもたせたくない」という価値観と合致したのだろう。ノーベル平和賞に至っては完全に政治的なショーで、毎年あの平和賞に該当する人物や団体がいるとはとても思えないし、ああいった部門の存在自体が、授与主体となっているノルウェー政府の政治的力になっているのだろう。
2016年10月07日
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タイトルだけ知っていて読んでいなかった小説というものがある。 「虎よ虎よ」もそんな小説の一つであった。なぜタイトルを知っていたかといえば、SFマガジンという雑誌でSFの人気投票をやっており、いつも上位に入っていたことと、タイトルが印象的だったせいである。じゃあ、なぜ今まで読む気がしなかったのかといえば、テーマが超能力だったからである。超能力というテーマ自体一種の選民思想だし、超能力をもつ者と持たざる者に分断された社会は究極の格差社会ではないか…ただこの小説の超能力はジョウントとよばれる瞬間移動能力である、この小説の舞台となる遠未来では、ほとんど人がこの能力を仕えると言う設定でその分荒唐無稽度が増している。 全体の読後感は大味なハリウッド映画を見たのと似たような感じである。たいていの人がそうだと思うが、小説を読んでいるときは頭の中で登場人物のイメージを想像しながら読む。それはときには劇画や漫画であることもあるし、実際の人物である場合もある。「虎よ!虎よ!」で想像しながら読んだのはだんぜん映画のイメージであった。まず、遠い未来世界ということで、舞台装置は映画「フィフスエレメント」を借用する。そうなると粗野でマッチョな主人公はブルースウィリスにはまる。長身で赤毛の美女ジズベラのイメージはそうなると自然に「フィフスエレメント」のヒロインだったミラジョノビッチになる。アフリカのヴィーナスと呼ばれる黒人美女はハルベリーがぴったりだ。ただし、アルビノの美女のオリヴィアだけはCGでないと無理かもしれない。 この小説はながらく映像化不可能といわれてきたそうだが、今日の技術ならできるだろう。映像化したらみてみたい。小説と同様に、げんなりとおなかいっぱいになるだろうけど。 お勧め度は、おひまならどうぞ…といったところか。
2016年10月07日
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いつのまにかノーベル賞の時期になり、さっそく大隅博士の受賞が大ニュースになっている。頭がよいのは当然として、人柄もすばらしく、よき家族にも恵まれ、充実した人生した生きている。世の中はなんて不公平なんだ…なんてことはいわない。奥さんも同じ研究室の後輩で大学の先生もされていたという。女性として才色兼備に生まれるだけでも幸運なのに、しかも心から尊敬できる夫と仲良くなんてのは、それこそものすごい幸せじゃん。そうなると二人の間の子供もついつい気になる。だって余計なお世話かもしれないけど、親がノーベル賞学者なんてのは、子供にとってはものすごい重圧だと思うよ。才能や能力だけではなく、七光がものをいう芸能や政治家の世界と違って、あの世界は実力だけなのだから。そして親の才能や能力が遺伝するなんてのはあくまでも確率の話であって、個々には遺伝しない例なんて山ほどある。それくらい才能や能力は貴重なもので、それはもう人類共通の資源であり、国家の競争力の源泉、民族の地位(そんなものに拘泥するとしてだが)の決定打だと思っている。最後の点については、個人的には民族なんてものにはこだわるなという感覚なのだが、それでも、●●を発明した●●民族とか●●博士を出して病の撲滅に貢献した●●民族という見方は案外あるのではないか。優れた学者は国家や民族の誇りといってよい。だから子供にとっては逆に超ド級の重圧になる。特に才能や能力を受け継がない場合には。でも、ネットでみると、御子息も優秀で医師をなさっているらしい。よかった。きっと優秀なお子さんや優秀なお孫さんに囲まれ、受賞のお祝いもすることだろう。重ねていうけどつくづく人間は不公平。でも、こういう幸運な人々が、幸運+努力で世の中をきっとよくしていくのだろうし、我々が近代文明の恩恵の中に暮らしているのも、そういう人々のおかげである。*今日の日記とは関係ありませんが、お勧めブログがあったので紹介http://ryuma681.blog47.fc2.com/blog-entry-1859.html
2016年10月05日
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ロシアがシベリア鉄道の北海道までの延伸を求めているという。http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/fnn?a=20161003-00000958-fnn-polもし、実現したら日本から記者に乗ったままヨーロッパに行けるわけで夢のある話だ。ただ、その一方でこんな話も思い出した。青函トンネルが完成したとき、海外からもおおぜいの見学客がやってきた。そのうちで、ある東欧から来られた方が、トンネルをしげしげと眺めてこんなことを言ったという。「このくらいの広さがあれば戦車も通れますね。」戦後の日本人にはこんな発想はないが、外国でたぶんこんなことを考えるのが普通なのだろう。人間の技術は日進月歩でいつか日本も島国ではなくなる日がくるかもしれない。ただそのためには、周辺国との間に強固な信頼感がなければならないし、戦車も武装難民も不法就労者も絶対に来ないという信頼感がなければならない。そう考えると、もし日本が島国でなくなるときがあったとして、そのトンネルはどこの国に通じているのだろうか。
2016年10月03日
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豊洲の新市場についての汚染対策の意思決定経緯が問題になっているのだが、それよりも不思議なのはそもそもなぜ豊洲への移転が決まったのだろうか。築地が老朽化しているというのが問題であれば、普通は改修とか整備を考えるのではないか。たしかに築地が手狭というのはわからないでもないが、もはや人口が急増して東京にもどんどん人が集まってくるような時代ではない。無理に移転する必要などそもそもなかったのではないか。そしてまた豊洲の場所は東京ガスの工場があったところで汚染の問題は当初から指摘されていた。なぜ移転、そしてなぜ豊洲…こういう意思決定の経緯をぜひ知りたい。同じようなことはオリンピックにも感じる。競技種目に野球とソフトを追加することについては、報道もなされたし、国民の間にもそんなに異論はないだろう。野球の施設なら十分にあるし、この競技はもはや国技といってもよいくらいに普及している。ただ、それだけではなく、空手、サーフィン、スケボー、スポーツクライミングまでが入っていることについては、あまり報道も議論もなかったように思う。とくにスポーツクライミングを種目に入れることについては「なあに、それ」といった感がぬぐえない。種目だけではなく、競技場にしても、現在、国際大会に使われている立派な水泳競技場があるのに、観客席が足りないと言うので大きな競技場を新たに作るのだという。こうした新施設は水泳以外にもあるのだが、本当にそんなものを作る必要があるのだろうか。いつのまにか決まって、膨大な費用がどんと降ってくる。基本、オリンピックは東京都で行なうものなので、本来都民のための他の用途にも使えるはずのお金がきえていくわけである。その額は3兆円…一千万で割っても30万円でため息のでるような大金だ。しかも、都は国と違ってじゃぶじゃぶ国債を発行して日銀に引き受けさせるわけにもいかない。新施設の建設見直しはスポーツ団体が猛反発しているというが、彼らが金を出すわけではなく、金の出所は税金である。*週刊誌が元有名女性キャスターの経歴詐称疑惑を報じている。超難関の国立大学講師としての実態に疑惑があるということなのだが、大学がそんないいかげんな経歴を放置していたなんてことがあるのだろうか。どうもよくわからない。それよりも、このキャスターについては、昔々の離婚の際の記者会見で違和感をもったことがある。弁護士である夫が海外進出のための試験に落ちたことが離婚の理由だったようだが、夫だって試験に落ちるつもりで落ちたわけではない。それを妻が非難し、背を向けるのではたまったものではないだろう。また、離婚会見で相手を非難していたのも異様な感じであった。有名人と一般人の離婚の場合には、有名人の方はことさら相手を非難したり批判したりしないのが礼儀ではないか。自分には発表の場があっても相手には自分ほどにはそういう機会はない。芸能人が一般人と離婚するような際に、相手を非難批判したら嫌悪感をいだくものだが、それと同じである。そんなわけで、その時は別れた夫が気の毒なように思ったものだが、美人に惑うのは男の本性。美人に惑い、失意の最中に捨てられたとしても、それもまた自己責任、男の本望というものなのかもしれないけど。
2016年10月01日
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