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山中湖から富士山須走口に行った。山開き後には大変な人出なのだろうけど、嵐の前の静けさという風情だ。その須走口から、すこし歩いたところに小富士という側火口がある。その小富士に行ってみた。林の中の道で足場が悪いところもあるが、そこさえ気をつければ高低差のない道で、迷わないようにロープもある。そして小富士につくと、さっと視界が開けて、砂地の中に石が積んであるのが見える。一方には山中湖や富士吉田の町。もう一方には富士山。残念ながら富士山は霧の向こうでシルエットだけであったが、それでも壮麗な霊気のようなものを感じることができる。なぜかそこには外国人観光客が一人だけ富士山に見入っていて、なにかSF映画の一場面のような風情だ。あっちが異世界に来た旅人、こっちがその異世界の原住民といったところだろうか。**話は変わって都知事選。自民党はさる方を必死に口説いているようだが、さて、口説いているのは実務能力にたけた元官僚なのか、官僚の肩書きをもった人気タレントの父親なのか…さてどっちなのだろうか。タレントの父親だからというのでは選挙民をなめすぎていない?実務能力なら都庁にも人がいないわけではないだろう。識見云々というのなら、この方は東京都の在り方とか都政の今後について、どんな識見をもっているのだろうか。どうもよくわからない。
2016年06月30日
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一説によると1982年生まれを中心とする世代は酒鬼薔薇世代とよばれ、凶悪な犯罪者が目立つという。酒鬼薔薇の事件は世を震撼させたし、その3年後にはバスジャック事件など、この世代の事件が連発し、「きれる17歳」が流行語にもなった。そして秋葉原通り魔事件もやはりこの世代だ。もちろん同世代といっても様々で一概にはいえないのだが、それでもやはり世代としての共通の特徴はある。まず、この世代が生まれた頃、ある育児論が大流行していた。それは「叱らない子育て」、「叩かない子育て」という理論である。子供にとっては親は絶対でその親が叱ると子供は不安定になる。だから子供は叱ってはならない。思いっきり愛情をそそぎ、だきしめてやれば必ずよい子になる…そんな理論だったと思う。でも、今にして思えばそういうのはたぶん間違っている。人が社会で生きる以上、絶対にやってはならないことがあり、そういうことは小さいうちからきちんとしつけておかなければならない。古来からの諺や格言は、虐待と同様、過度の甘やかしも人間をだめにすることを警告している。次にこの世代が幼児期を迎えた頃、日本は繁栄の絶頂期だった。ジャパンアズナンバーワンという書籍がベストセラーになり、親達も含め、多くの大人は日本の繁栄が今後も続くと根拠もなく思ったのではないか。その後、不況がやってきたが、しばらくの間は、この不況もそのうち終わる、また、景気のよい時代がやってくると思っていた。あの頃、若者は就職の心配などせず、フリーターは夢を追う若者ならではの自由な生き方といわれた。そんな時代だったから、親はあまり子供の尻をひっぱたいて勉強させることもしなかった。好きなことをやって生きていけばよいよ、今はいい時代なのだから…と親達も思っていたのではないか。つまり酒鬼薔薇世代といわれる1982年生まれを中心とする世代は、乳幼児期に非常に甘やかされた人が多いように思う。ある種の万能感をもって生育し、それがゆがんだ形ででてくると世間を震撼させるような事件を起こす。ただ、犯罪などにかかわるのは、どんな世代でも同世代の中でのごく少数である。酒鬼薔薇世代だって同様だろう。そしてその大多数の普通の人々は乳幼児期の豊かだった頃の記憶と、ものごころついてからの右肩下がりの感覚、そして就職の苦労、労働環境の悪化の中で、戦っているのだと思う。
2016年06月29日
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64を読んだ。未解決の誘拐事件をベースにした警察組織の人事派閥抗争を描いた物語といったところか。そういう意味では犯罪小説でも推理小説でもなく、警察を舞台にした企業小説といった趣である。結末部分は映画とちょっと違うが、個人的には映画の方が物語としてはすわりがよいのかもしれない。はらはらどきどきの展開を期待すると、たぶんがっかりする。けれども警察という組織事態に興味のある人には一読の価値はあるのかな…。*碑文谷公園の死体遺棄事件は被害者の身元がわかり、しかも、その被害者がマンションからでていないことも確認されている。そして被害者の部屋には物盗りの痕跡も死体損壊の痕跡もないらしい。となると、被害者は自分の意思で別室に行って、そこで事件にまきこまれたのだろうか。とぼしい想像力ではご近所トラブルでおもわずかっとなって…という悲劇くらいしか思い浮かばないけど、考えられないことが次々と起きる時代だ。いったい真相は何なのだろう。*今度の都知事選ではアイドルスターの父君にさかんにラブコールがあるらしい。けれども普通の人はその人物について有能な高級官僚でアイドルスターの父という以上の情報はない。東京に対してどういう考え方をもっているのか、東京をどうしたいのか、そういうものが全くみえない。なのに「知名度がないと勝てない」とばかりに、担ぎ出しに固執するのは、あまりに東京の有権者をなめているように思う。高級官僚で次官にまでなった人は行政能力はあるのだろうけど、じゃあ、都の職員には行政能力のある人はいないのだろうか。そんなことはないし、東京都に対する愛着や知識は中央の役人よりはよほどあるだろう。東京都にも行政マンはいるのに、なぜ中央官庁からばかり探すのだろうか。これもよくわからない。
2016年06月28日
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英国のEU離脱の投票結果はおおきな驚きであったが、その投票について再投票を求める声があるらしい。批判票のつもりで投票したが、まさか本当にこんな結果がでるとは思わなかったといったところだろうか。民主主義にはつねにこうした問題がつきまとって悩ましい。圧勝はさせたくないし、批判票も必要だから…と思って投票したら、なんとその批判票のつもりで投票した方が勝ってしまうということもありうる。自分の票は分かっても、他人の票は分からない。おちょこ一杯づつの酒を持ちよるという取り決めで酒を集めたら水が集まった、みんな自分の分くらいなら水を入れてもわからないと思ったから。そんなこともあるのが民主主義だ。*世の中の問題には一般人の多数決になじむものもあれば、専門家による検討になじむものもある。多くの問題は両方の要素があるにしても、EU離脱の是非というテーマが国民投票になじむものだったのかどうか、よくわからない。移民が来てもらっては困るというのはあっても、それを超える経済への影響などはあまり考えていなかった人も多かったのかもしれない。ただよい悪いは別にして、こうした直接投票というものは今後ふえていくのかもしれない。スコットランド独立の是非につづいてEU離脱。こうした先例ができた意味は大きい。こうしたものが世界的にもひろまっていくかどうかは未知数ではあるのだが。
2016年06月27日
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英国のEU離脱についてはいろいろなことを考えさせられる。英国の新聞や有識者の論調では残留の意見が強かったにもかかわらず、投票結果は離脱だった。オピニオンリーダーという言葉がある(あった)ように、かつては新聞や有識者が世論をリードしていったが、もはやそれも通じなくなったということなのだろう。人の移動の自由化は経営者やそれに近い立場の人には恩恵が大きいし、理念で考えればグローバル化大いにけっこうということになる。ただ、外国からくる低賃金労働者と競合する一般労働者にとっては人の自由化は、そのまま労働条件悪化、場合によっては失業にもつながりかねない。ロンドン五輪前の英国の暴動騒ぎは、かの国にも貧困層の不満が鬱積していることを印象づけた。今度の投票でも、頭のよい奴ら、金のある奴らがなんといおうとオレはこっちに投票するという動きがかなりあったのだろう。そのうち、王室の存続についても国民投票が行なわれる…ということもあるのかもしれない。*世界には君主制をとっている国もある、先進国でも英国などいくつかの国では立憲君主制をとっている。そうした国では、立憲君主があるから国民がまとまっているのだろうか…そういう面も否定はしないが、その逆の要因の方がはるかに大きいのではないか。国民がまとまっているから立憲君主制が支持されているのである。そう考えると、立憲君主国が北欧など格差の少ない安定した国に多いのは、けっして偶然ではない。暴動が起きる国、大衆の不満が鬱積している国で、王室がいつまで支持されるのかは不透明なように思う。*米国の大統領選挙でも思うのだが、対立軸は人種でもなければ性別でもない。女性が大統領候補になったからといって、「女性の地位が向上したわ」と多くの女性が熱狂するような時代はとうに過ぎた。そしてまた、その対立軸は、保守対リベラルでもない。性的マイノリティーの人権や環境などはハラのたしにもならない。ただ一つ、金持ち対貧困層、つまり、能力、運などを持てる者対持たざる者との対立…これしかないのではないか。資本主義が高度に発達すればするほどこの対立は先鋭化する。その意味で、マルクスの言ったことは正しかった。
2016年06月26日
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東京は世田谷区にある閑静な住宅街、その住宅街の一角にある碑文谷公園でバラバラ死体がみつかった。池から足がでていたとかいう報道もあり、非常な猟奇的事件のようなのだが、真相は案外と平凡な事件なのではないか。バラバラにしたのは、おそらく遺体を運ぶためだろう。衣服をとったのは身元を隠すためだろう。そうなると遺棄した人物は車を運転しない人物で、至近距離には住んでいないだろうけど、自転車で走行できる程度のところに居住している。そして遺体の身元を隠そうとしたのは、遺体の人物と近しい関係にあった。まあ、そんなことを考えてしまう。違っているのかもしれないけど…。隣接する目黒区でも何年か前、目黒不動と林試の森公園で、やはり切断された死体が遺棄されていた事件があった。こちらの方は解決したのかどうかあまり記憶にない。井の頭公園のバラバラ殺人は迷宮入りの様相を呈し、「人違い殺人」という説まででている。こうした事件と碑文谷公園の事件はずいぶんと違うように思う。それにしても、もし、こうした事件で犯人が捕ったら、裁判員裁判となる可能性もある。そうなれば裁判員にあたった方は殺害の詳細や遺体の状況について、詳細な説明を受けることになる。やはり職業としてそうした道を選択したわけでもない素人には無理のように思う。この間はどっかの裁判で暴力団関係者が裁判員に声をかけ、そのため、裁判員の車での送迎も検討中という。いままでどれだけの税金がつぎこまれてきたかしれないけど、そろそろこの裁判員という制度も無理があったと認め、「勇気ある撤退」をするときではないか。**昨日、さる著名なアスリートが引退表明をしたらしい。頭もよさそうだし、語学もできる。もしかして都知事選?まさかね。
2016年06月25日
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神社にお参りに行ったとき、改憲を訴えるチラシかなにかがあって違和感を感じたことがある。政治的なものに関与するという違和感よりも、なぜ人々が身の回りのささやかな幸福を願ってお参りするところが、どうみても国民の権利を制限するような改憲案を支持するのだろうか…という違和感である。だから佐原さんのブログにあった三輪隆裕さんの記事をみたら、ストンと納得した。http://plaza.rakuten.co.jp/bluestone998/diary/201606220000/要約すると、明治以降の国家神道は伝統でもなんでもないという主張である。明治という時代は大きく近代文明に向かって窓が開かれた時代であったが、その窓からは近代文明のよいものだけではなく、当時の支配層からみて都合の悪いものもあった。マルクスが共産党宣言をだしたのは明治維新よりも前であったし、近代化の模範とすべき西欧諸国の中には、王様や貴族の首を斬りおとしたような国もあった。明治政府は近代化をいそぐともに、そうした窓から入ってくる「悪い思想」の防波堤になりうるようなものを必要としたのではないか。そしてそのために造ったものが国家神道ではないかと思う。もちろん何もないところから急にそういうものを造ることはできない。江戸時代に国学に基礎を置く、尊王思想というものはあって、それが国家神道に繋がっていく。けれども、そうした神社信仰と尊王思想との結びつきが民衆レベルにまで共有されていたかといえばとちょっと疑問のように思う。明治初期にはよく宣教と言う言葉が出てくる。これはキリスト教の宣教師ではなく、尊王思想の普及である。江戸時代の人々にも漠然とした「天子様」への崇敬はあったのかもしれないけど、将軍様よりも偉い人はいないと思っていた人も多かったのではないか。神国日本なんて思想ももちろんなく、人々は「天子様」のおわします日本ではなく、それぞれの地域を小宇宙と考えて生きていた。ある人々が唱える伝統というもののなかには、「国家神道」にねざしたものもあり、実はそれはたかだか明治以降のものにすぎないのである。
2016年06月24日
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映画64を見た。後編だけだったし、重厚な話なので、今、原作の方を読んでいる。といっても、今日、書くのは64の話でない。昭和の終わりにD県で起きた未解決の幼児誘拐殺人事件。64のモデルとなった実際の誘拐殺人事件についてである。64では時効直前の刑事の奮闘が描かれているが、実際の事件はとうに時効が完了している。http://yabusaka.moo.jp/yoshiaki.htm群馬県高崎市で起きたこの事件の詳細は今でもネットでさがせばでてくるし、事件当時も子供を生きたまま橋から投げ落として殺害したという残虐性で世間の耳目を大いにひいた。この頃、近所では学校のウサギが殺される事件が相次ぎ、これとの関連もふくめて、犯人は社会から孤立した異常者ということもいわれている。でも、本当にそうなのだろうか。被害者の苦痛を考えれば、生きたまま投げ落とすのは残虐極まるが、その一方で被害者が苦しんで死ぬ様子は犯人はみることができない。首を絞める、刃モノで刺すなどに比べると、殺人には違いないが、直接手で殺すというのとは違う。犯人は異常者ではないし、ウサギとは関係ないのではないか。それよりも、殺された子供が脅迫電話にでて最後に言った言葉が気になる。「おまわりさんは一緒。これから帰る。」最初は犯人が子供を通じて警察官が被害者宅にいるかどうかを聞いたのではないかと報道されたが、疑問のような語尾をあげる言い方ではなかったという。暗くなり、知らない場所にいるけど、「おまさりさんは一緒」、だから安心して…と伝えたかったし、自分も安心したかったのではないか。この事件の真相は不明だし、永遠に謎なのかもしれないけど、「おまわりさん」というか警察官が事件のこっちではなく、向こう側にみえかくれすると不可解なことが多すぎる。富山県で起きた夫婦強盗殺人事件では警部補が犯行を告白しているのに、なぜか強盗殺人では不起訴となっている。また、警察官が関与した集団女性暴行事件では、「女性の抵抗が弱まってきたから」同意があったとして、これも不起訴となっている。「抵抗が弱まって」くると同意があったというのだろうか…それは違うのではないか。http://www.j-cast.com/2013/01/09160752.html?p=allhttp://www.sankei.com/affairs/news/160620/afr1606200018-n1.html
2016年06月22日
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「怪しい家政婦」を見終わった。いいねえ、ああいう終わり方。それにしても家政婦のポンニョ(福女)さん凄すぎ、そして男運も家族運も悪すぎ。最初はぶっとんだポンニョさんのキャラクターに驚きながら、しだいに登場人物に感情移入していき、それぞれのハッピーエンドになっとく。父親は最後まで優柔不断人間(韓ドラではこういうキャラは少ない)だったが、4人兄妹はそれぞれ個性豊かで、特に二女役の子はめちゃめちゃうまくて可愛い。日本のドラマ「家政婦のミタ」のリメイクなのだが、日本の方はシリーズ化も念頭に置いたラストになっているという。つまり家政婦は去っていき、次回作では別の家庭での物語を作ることができるという具合だ。ただ、こういうシリーズ化は俳優が役柄の固定化を嫌ってひきうけない場合が多く、そのせいか「家政婦のミタ」の続編はない。そういえば、倍返しで流行った「銀行員半沢直樹」も小説では続編もでており、ドラマにすればヒット確実なのだが、こちらも続編はないようだ。たしかにイメージの固定化が俳優生命を縮めるという場合はある。でも、世の中の人々が続編を望んでいるのなら、それに応えるのもプロではないか、十分な演技力があれば役柄の固定化など怖れる必要はないのではないか…と思うのだが、まあ、これについては韓ドラ以外はほとんどドラマを見ないので、とやかく書くのはよしておこう。
2016年06月21日
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韓国ドラマの「怪しい家政婦」をDVD視聴中である。日本の「家政婦のミタ」のリメイクなのだが、こっちの方はみていない。それでも「はいかしこまりました」が流行語になったことは知っているが、これも「ネープンブデロハゲッスムニダ」とそのまんまになっていて面白い。家政婦役のチェジウもすごくうまいし、子役たちも個性豊かでかわいらしく面白く見ている。ミステリー要素もあり、先のよめない展開なので、あと2話ほどでおわるのがなごりおしい。このドラマ、すごく面白いと思うのだが、韓国ではさほど視聴率がとれなかったという。ひとつはやはりリメイクの限界というのがあるのかもしれない。物語の、特に前半では、家政婦の正体という謎解きの興味がある。これがリメイクだと謎解きの興味は弱くなる。そしてもう一つは、「家政婦のミタ」ではどうだかわからないが、主人公の父親の性格がうけなかったのではないか。悪い人ではないのだが、優柔不断というキャラである。こういうタイプは日本以上に韓国では人気ないのかもしれない。韓ドラをみると、登場人物の性格は非常にはっきりしていて、こういうタイプはあまり出てこない。「家政婦のミタ」はシリーズ化も意識したエンディングになっているようだが、韓国版では、どんな結末になるのか楽しみである。
2016年06月18日
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南欧出身の母を持ち、南欧風の名を持つ主人公が、美しい友人に対する憧憬や少女に対する恋を抱いたまま、成長し、文筆家として名をなした後、二人に再会するという物語である。再会といっても、幸福そうにダンスをする二人を垣間見るだけなのであるが。主人公の名前はトニオ。憧れる友人はハンス、少女はインゲボルグ。そして、ハンスもインゲボルグも金髪と青い瞳の持ち主である。日本人にも縄文系とか弥生系とかいう容姿の差はあるが、目や髪の色が異なるということはない。けれども、ヨーロッパではけっこうそうした容姿の差が自意識の形成や人間関係に影響を与えることもあるのかもしれない。こういうのは想像力を刺激するのか、日本の少女漫画にもでてくる。「トーマの心臓」も「風と木の詩」も、南欧風の容姿を持つ少年が主人公になっている。それに、描き方はごく控えめであるが、トニオのハンスに対する憧れを描いた部分はBLを思わせる。物語は文学の世界と俗な世界を対比させた自伝的小品なのだが、今日読むと、作者の意図を離れて、少女マンガの耽美的な世界に与えた影響を考えてしまう。
2016年06月17日
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ようやく都知事が辞任した。法的には議会を解散してしばし居座る道もあったのだが、その場合には参院選に与える影響ははるかに大きい。辞任の裏になにか取引があったのでは…とかんぐるのはゲスなのだろうか。有名人の人気投票のような都知事選はもううんざりである。千葉県のように看板に徹するタレント知事ならともかく、そうでないのなら、都職員で要職を歴任した人物の中から出すのも手ではないかと思う。中央官庁の元役人もよいが、都職員の士気がそがれるおそれもある。オリンピックムードもこれだけいろあせてしまうと、かつて都市博中止を公約した知事のように、オリンピック返上を公約にする候補者もでてきたりして…。*話かわって海の向こうの大統領選挙も興味深い。本選の候補者が決まったが、予備選挙のしくみについての解説がなぜあまりないのだろう。本選の候補者を決めるのには特別代議員の意向が大きく、この特別代議員というのは、なんのことない、セレブさん達である。つまり本選では一人一票であっても、その前の段階で庶民の意見が反映されないようなしくみになっているわけである。大衆はバカだから歯止めをかけているというのも一つの考え方ではあろうが、小生など、その大衆に国家の将来をまかせるのが民主主義ではないかと思う。米国は民主主義の宗主国のつもりなのかもしれないけど、いつのまにか、周回遅れのカッコ付き「民主国」になっているのかもしれない。庶民大衆にはう○こ味カレーとカレー味う○この選択しかないのだから。
2016年06月16日
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ニュースをみていると同じ人命被害でもなにか軽重の差があるように思うことがある。よくいわれることだが、同じ事故でも、アフリカのどっかの国で何百人の人が死んでもさしたるニュースにならず、フランスやドイツのような先進国では10数名の人命被害があっても大ニュースになる。そしてそれは国際ニュースだけではなく、国内のニュースでもあるのではないか。報道関係者は否定するのだろうけど。 もうかなり前になるが、日本から米国に留学していた高校生が強盗に誤認されて射殺されるという事件があった。この事件は、大きな衝撃をまきおこし、日本国内で「米国の家庭から銃をなくす」ための署名運動まで起きた。こうした報道を見聞きしていた当時、不思議でならなかったものである。銃による事故は日本国内でも起きている。山菜とりの農家の主婦などが鹿と誤認されてハンターに撃たれるという事故は毎年のようにある。それなのにそうした事故は、たいていはベタ記事で扱われ、すぐに忘れられていく。国内で農家の主婦が鹿と誤認されて撃たれたというニュースよりも、米国で高校生が強盗に誤認されて撃たれたというニュースをはるかに大きくとりあげる感覚がよくわからなかった。農家の主婦は情報の発信源から遠いところにいるのに対し、留学した高校生は進学校の生徒で父親もたぶん影響力のある人なのかもしれない。そうした情報源からの距離がニュースの重さに反映されているのだろうか。 最近、農山村の高齢者がクマに襲われる被害が相次いでいる。これも人命被害のわりには扱いは小さいし、ネットの論調も自己責任や自然との共生の問題としてとらえるものがめだつ。でももしこれが都会の子供や若者がハイキング途中でクマに襲われたというのであればどうなのだろうか。報道の仕方も行政の対応も、ずいぶん違うのではないかと思う。
2016年06月15日
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「宣告」を読んでからキリスト教に関心をもっている。主人公の心を最後にうけとめたのは「光につつまれた死後の世界」という観念だった。そして何時間後に処刑される彼が何度も何度も読み返したのは聖書のゲッセマネの章。古来、宗教家や武将、英雄には死を前にして端然としていたという話がいくらでもでてくる。けれども意外なことに聖書に出てくるイエスキリストの最期にはそうした話があまりない。むしろ来るべき死に怯え苦悩する様子が描かれ、それがゲッセマネの章である。聖書に描かれるイエスキリストは奇跡を除けばあまりにも人間的だ。だから、奇跡がなければキリスト教という宗教そのものがなりたたない。そして奇跡の中で最大の奇跡といえばもちろん復活だろう。病気を治したのは実際にあったが、死者を生き返らせたり、自身が復活したりしたことはなかったというのでは、単なる薬草の知識や心理的治癒効果のせいだったのかもしれないということになってしまう。合理的、理性的に考えれば、復活は虚偽だろう。そんなことはあるわけがない。でも、そうだとしたら、なぜ弟子達は命がけで虚偽の話を伝えたのだろうか。キリスト教徒がその後も増えていったのはなぜなのだろうか。弟子達は権力や財力とも無縁な若者で、復活さわぎも政治の中心からはるかはなれた辺境でのことだったにもかかわらず…。「キリストコミッション」は推理小説家がイエスの死後6年目のエルサレムにタイムスリップして、遺体を動かした容疑者に話を聞くという物語である。なぜ岩が動いていたのか、墓の中にいた若い男は誰かというなぞ解きは新機軸なのだが、似たような小説では「イエスの復活」(エリック・エマニュエル・シュミット)の方が面白いように思う。作者は自堕落な生活の後、信仰に入り、社会的にも成功したという。この作者については信仰が人生にプラスに働いている。理性を超えたものの存在などどうせ人はわからない。ならば、自律的な生活の維持、苦悩を前にした精神の平安など現実の必要のために、宗教が役立つというのであれば、それはそれでよいのかもしれない。邪道かもしれないが、功利主義からの信仰というものもある。
2016年06月14日
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現在、都知事が批判の集中砲火にあっている。人間性や私生活の問題についてはなんとでもいえるだろう。政治家は聖人君子ではない。公私混同疑惑だって、都知事の他にも、他の知事、議員で大なり小なりやっていることなのかもしれない。そしてそうしたものについても賢い都知事は犯罪となる部分は巧妙に避けていたようだ。そのあたりが号泣県議とは違う。いろいろとあるが、都知事の最大の問題は、「都市外交」ではないかと思う。もちろん都市間外交というものはあるだろう。ただそれは親善とか儀礼とか一定の枠におさまるべきもので、その枠を超えると二重外交になってしまう。ぎりぎりいえば外交は国家の専権事項である。都知事は就任直後から「都市外交」に力を入れ、膨大な金を使ってきた。そしてその金は本来なら都民のために使われるはずのものである。それだけではない。都市外交のためなのだろうか、浜離宮に都の迎賓館の建設も計画している。国の迎賓館でさえ、ほとんど使われず、一般公開施設として利用される時勢である。都の迎賓館建設だなんてバカなことに金を使うのは即刻止めてほしい。外国の賓客でなく、都民のための、都民が利用できる施設を造った方がはるかに有益ではないか。ご本人はやる気満々のようだけれどご勘弁ねがいたい。人と言うのは本当に様々だ。能力のある奴もいればない奴もいる。そして能力のある奴の中にも、その能力の恩恵を社会全体に及ぼす奴もいれば、能力を私利私欲のためにしか使わず、社会全体にはかえって害をなす奴もいる。
2016年06月13日
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尖閣諸島付近を中国とロシアの船が航行したのだが、中国大使だけを呼びつけて抗議したという。中国はさほどでもないがロシアは怖いのだろうか。それはともかくとして、都知事のバッシング報道が終わらない。あの都知事を擁護する気はないが、あの人がああいう人だというのは選挙前からわかっていたり予測できたりしたことではないのだろうか。だからああいう知事を選んだ選挙民なら、再び選挙をやってもろくなのを選ばないのではないかと言う気がする。前の知事も不祥事で辞任したし、その前の都知事も、妙な人気も一方ではあったが、実質都庁にはほとんど出勤しなかったという話もあるし、日中関係の緊張だって、彼の尖閣諸島を買い取るといった発言から始まったように思う。いっそ都知事など、スポーツ選手やタレントの名誉職にしてもよいのかもしれない。都市外交とか余計なことをやるよりも…。それにしても、ああいうマスコミの集団バッシングというのはいつごろからあったのだろうか。昔、野球監督の夫人がなぜか叩かれたことがあった。多少は芸能活動っぽいこともやっていたし、選挙にも出たこともあるので、全くの一般人というわけでもないのだが、それでも人格攻撃だけで番組を作るのは異様に思えた。その後にも、「女性宰相候補」と持ち上げられていた女性政治家がとつぜん手のひら返しのバッシングにあい、「女性宰相候補」は一瞬にして、「お嬢様育ちのわがまま女」に格下げされた。これも、最初から持ち上げるほどの人でもなかったと思うけど、叩く理由もまた伝聞による話ばかりでいいかげんなものであった。その女性政治家も消えていった。最近では、ゴーストライターを使った自称作曲家や若い女性研究者に対するバッシング報道が記憶に新しい。ゴーストライターについては、どこまでが許容範囲なのかよくわからないし、たとえ超えていたとしても犯罪でもないものを叩くのもどうなのだろう。有名タレントの自伝をゴーストで書いた人が、それを公言して有名作家になった例もあるし、厳密にはゴーストではないが、ユダヤ人を騙って本を書いて大評論家になった人もいる。世の中を騙したのがけしからんというのなら、ゴーストの方の作曲家は騒動以後、表舞台で活躍するようになった。また、女性研究者の方は、科学に無知な人々が、面白半分に叩いている感じで、人権侵害としか思えない。若くて女性で、「らしくない」雰囲気で叩かれるのなら、ああいう憂き目はいつ誰の身にふりかかるかわからない。いやな世の中だと思う。
2016年06月11日
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報道というものはどうしても集中豪雨的になりがちだが、昨日の報道は歌舞伎俳優の妻の病気のことばかりだったようだ。たしかに有名人ではあるが、こうしたことは大報道すべきものなのだろうか。疑問に思う。集中豪雨報道といえば都知事バッシングもすごい。あの都知事は公人であるし、擁護する気はさらさらないのだが、あの報道の影で報道すべきものが視界から消えているのではないかと思う。パナマ文書はどうなったのだろうか。オリンピック招致疑惑もあれから続報がない。さらに不安なのは、福島県で子供の甲状腺癌が30人みつかったというのだが、原発事故との関連はないのだろうか。住民には検査の機会があるのだが、原発作業員や除染作業員には追跡調査もなされていない。原発作業員や除染作業員でそうした病気が出ているのかどうかも気になるところである。
2016年06月10日
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連日のように都知事がたたかれているが、辞任に向けての具体的な動きはない。都知事も、そして都知事を推薦した政党も、いずれ火は消えると思っているのではないか。SMAPの解散騒ぎ、ベッキ―騒動など騒ぐネタにはことかかないし、大衆はあきっぽい…なんてね。だいたい政治家は選挙民のレベルを超えるものではない。都知事を選んだのは都民だ。となるともう一度都知事選をやったって似たようなのがでてくるのではないだろうか。そしてまた、都知事は続投だけではなく、今後も「都市外交」をやる気まんまんだけれども、そうした二重外交が必要だとも思えない。姉妹都市との友好行事とか、五輪の旗のうけとりとか、そういうのはミス東京でもよいのではないか。*小説「宣告」の余韻にまた浸っている。処刑の朝の描写は息詰まるようだ。切れ切れの悪夢と焦燥。時計の音はチックタックではなく、カカカカカと狂ったように早く進む。そして夢の中で、死体となった彼は、行きかえり、ホルマリンの水槽を抜け出し、街をさまよい学生時代の友人に会う。「お前、有名になったなあ」と彼は笑う。そして次には文通相手の女子大生にも…。オレはホルマリン漬けの死体、その前は死刑囚、その前は殺人者。「わかっているわよ、そんなこと」そしていつのまにか死者の舟に乗りこんでいく。主人公も、そしてそのモデルとなった死刑囚も処刑の際は平静だったという。最期の時に、死後の世界を信じていたのだろうか。パスカルの賭けというのがあるという。死後の世界、神の存在、そんなものはわからない。ならば存在する方に賭けるのと存在しない方に賭けるのと、どっちが割がよいのだろうか。たぶん前者ではないか…という話である。まあ、宗教については人それぞれ考えが違うのだろうけど。
2016年06月08日
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保育園騒音が問題になっている。それだけではない。電車やレストランなど公共の場所での子供の声でも露骨に嫌な顔をする人が多いという。さらには妊婦に対する冷たい視線を感じるなんていう話もある。妊婦ステッカーをもっていると故意に腹を叩いたりする人までいるという。http://togetter.com/li/634018思えば、子供の声など、昔はどこにいっても聞こえていた。そんな時代に比べると、赤ん坊や子供の声は、ずっと少なくなっているのに、「うるさい」と思う人が増えているのはなぜなのだろう。おそらく、子供を持つということが万人のものでなくなってきていることと関連があるのではないか。子供を持つのが普通という社会であれば、それこそ「子供叱るな来た道じゃ」というわけで、子供の声などほとんどの人はうるさいとは思わない。しかし男性の生涯未婚率は20%を超え、女性も10数%、そしてさらに未婚率の上昇がまだまだ続きそうな社会では、状況が異なる。子育てなど自分とは関係ないと思う人が少なくないし、そればかりではなく、結婚し子供のいる人々に対する無意識の嫉妬を持つ人も多いのかもしれない。子供の騒音について、どういう人がうるさいと思っているかを調査してみればよい。おそらく、小さな子供や孫のいる人はさしてうるさいとは思わず、そうでない人がうるさいと思っているのではないか。
2016年06月06日
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奨学金が議論になっている。現行の奨学金の多くが貸与制であり、卒業と同時に何百万円もの借金を負うことが新社会人への負担になっているのだという。このため給付制の奨学金、無利子の奨学金への要望が強くなっている。さて、問題を整理してみよう。奨学金は本来、資質が優れているが、経済的な事情で進学できないものを救済するものである。資質イコール偏差値ではないが、とりあえず偏差値を指標にした場合、高偏差値の学生については、実は給付型の奨学金というものはかなり用意されている。その上、そうした学生の場合、家庭教師や塾などの条件のよいアルバイトもあるし、国公立の場合には、もともと授業料が安いうえに授業料免除の制度もある。しかも卒業後に高所得の職業につく可能性も高い。つまり高偏差値の学生の場合には昔も今も奨学金返済はさして負担ではなかった。逆にいえば、そうではない場合、成績のさしてよくない学生が奨学金を利用した場合に、返還が問題になるのではないか。有利子の奨学金は成績要件が緩く、入試競争の成立しないような大学の学生にも貸与する。そうした学生ほど、就職できない、あるいは低所得の職にしかつけない可能性が高いので返還が問題になる。税金で生活しているのは公務員だけではない。直接国や自治体に雇用されていなくても、回ってくる税金で生活している隠れ公務員というものも多い。現行の奨学金制度でさえ、これがなくなると、日本に700ある大学のかなりの部分がなりたたなくなっていくといわれる。給付制の奨学金を設置したとしても、それは700もある大学の教職員という隠れ公務員の生活を支えるだけで、有限の税金の使い道としてそれほど優先すべきものとも思えない。奨学金の問題…その根は給付制でないことではなく、奨学金で学校を卒業しても、まともな就職の場がないことではないか。知り合いの子息で老人ホームで栄養士をしている人が人がいるが給料は非常に低い。高い授業料を払って学校に行き、国家資格をとってもこんな低賃金では生活できないという。これでは、奨学金返済どころではないだろう。奨学金の問題も、教育の問題ではなく、若者の雇用の問題としてみてみると、また別のものがみえてくるのではないか。
2016年06月05日
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小説「宣告」で最も印象に残ったのは主人公である死刑囚の母親である。毎週、かかさずに面会を続け、そして面会の後には、もうこれで会えなくなるのではないかとなげく。いよいよ処刑が告知され、最期の時間をともにすごすことが許された時には「こんなに若いのに、私が代わりたい」と泣く。いよいよ朝になると処刑場に向かう護送車の前に飛び出して、車を止めようとする。この母は小説の人物であるが、実際にもこういうものなのだろう。死刑が残酷だとしたら、それは死刑囚に対してだけ残酷なのではない。その親にとっても、やはり残酷な刑罰なのだろう。*そういえばオウム事件のある死刑囚の母の記事を読んだことがある。地元の進学校から公立医科大学に進んで医師になり、学業だけではなく、スポーツマンで友人も多く、ある時期までは申し分のない息子だった。それがオウムに入り、弁護士一家殺人など数々の凶悪事件に関与した。彼が逮捕されたとき、「いったい麻原はなんの恨みがあってあんな凶悪事件に関与させたのか?」と母は泣いたという。麻原は医師を志望したがかなわなかった、柔道をやったけど盲人のハンディはあった。それに比べ、この実行犯は晴眼で柔道の有段者で、医師で、暖かい家族、多くの友人、可愛い恋人がいた。そして障害者を対象としたボランティア活動も行なっていたという。たしかに…自分が麻原のような境遇で、そして自分の運命に不条理なものを感じていたとしたら、実行犯のような人間をとことん憎むだろう。泥沼でもがいている人が遠くのお花畑を気持ちよさそうに歩いている人を見た時の憎しみ。人間にはたしかにこんな心理もある。評論家が口をそろえてひところいっていた「マインドコントロール」なるものはなんの説明にもなっていない。そんな魔法のようなものがあるわけがない。実行犯の犯罪は実行犯の責任ではないか。かれらは恵まれすぎるほどの能力と知能があったのではないか。たしかにそう思うのだが、もしかしたら麻原は実行犯を憎くて、犯罪者に、そして死刑囚にしたのかもしれないという一抹の不気味さはぬぐえない。実行犯の母の話に戻る。代われるものなら代わりたいとこの母も言っていた。そして、自分の産んだ子だから、心だけは元に戻してやりたいとも…。最近読んだ報道では今でもニ月に一度は拘置所に面会に行っており、その際には、必ず弁護士一家の墓にもお参りにいくのだという。小説「宣告」を読みながら、実際の事件でのこの母の話を思い出していた。
2016年06月04日
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小説「宣告」には様々な死刑囚がでてくる。そしてそのほとんどは実在のモデルがいる。そうした実際の事件について、小学校トイレでの女児暴行殺人、バーを舞台にした大卒青年の強盗殺人、駅での爆破殺人、「おせんころがし」殺人事件など、ネットで検索すると今でも多くの情報がでてくる。こうした事件を見ていると思う。人間というものは常に幸福を求め、利得で動くとばかりはいえないのではないか。ときには自ら不幸となる行為を行なうこともある。周到に用意された完全犯罪も世の中にはあるが、どうみてもさして利益にならない犯罪、逃げおおせるとも思えない犯罪も多い。「宣告」の主人公のモデルとなった強盗殺人事件もそうだ。あの方法では、すぐに主犯の身元もわかる。奪った金も短期間のうちに浪費し、逮捕されたときには残っていなかったという。人の心には深淵がある。破滅願望とかタナトスとかよばれるものだ。そうしたものが自分に向かえば自殺になるし、他に向かえば犯罪になる。「宣告」で描かれている主人公が犯罪にむかう経緯は、モデルとなった実在の人物についてもほぼ同様のもののようである。病気を原因とした就職内定の取消しと失恋、そして不本意に就職した会社は解雇される。小説ではあまり語られないが、やはり犯罪の背景には絶望や人生に対する閉塞感があったのではないか。あの時代、戦争は終わったけど、結核は国民病で、病気で人生の軌道修正を迫られた青年が沢山いた。主人公は獄中で、母との絆をとりもどし、多くの人と出会うことで、幸福な気分を抱いたまま従容として死に赴く。ただこれは希有な例で、実際には、何かに逃げこみ、精神を崩壊させていくものが多いのではないか。国家の一角でありながら、多くの人が見て見ぬふりをしているもの、それが死刑囚のいるゼロ番区なのかもしれない。主人公のモデルとなった人物が処刑されたときの新聞記事は覚えている。キリスト教に帰依して完全に改心し、獄中で点訳奉仕活動を行なっていた、処刑により点訳が未完になった最後の本は「奇しくも」罪と罰だった…と記憶している。その一方で、被害者の遺族の怒りのコメントもあり、投書欄では被害者に比べ、殺人者の方が、平穏な死を迎えたのはおかしいという憤りを吐露したものもあった。たとえ囚人が改悛の日々をおくっていても、遺族の感情は峻烈なものである。*最期の夜からそして朝をむかえるまでの部分はこの小説の圧巻である。最初は息をのんで読み、二度目、三度目とよみかえした。
2016年06月03日
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宣告をまもなく読み終わる。死刑の残虐さは処刑方法ではなく、毎日の死の恐怖にあるというある登場人物の言葉に納得。人は必ず死ぬ。ただそれは生理的医学的現象であるかぎり、不確定の未来にあるし、不治の病にかかった場合だってそうだろう。100%健康で、清澄な意識のまま死を迎えなければならないという局面は国家という圧倒的な権力によって処刑される場合しかない。死刑囚の中には精神を病む者も多いという。肉体的な病と違い、精神の病には防御反応という面がある。事件のことを忘れて幼児のようになっていく者、もっと極端にいえば人間をやめて動物のようになっていく者も作中にでてくる。こうした者を「治療」したとしても、結局それは死刑囚という耐えがたい現実に戻すことでしかなく、本人にとっての救いにはならない。そしてまた精神が正常であることは執行の要件であり、監獄医である主人公は正常の判断をしたことで処刑に加担したような気分をもつこともある。作中には様々な死刑囚が登場し、多くは現実の事件をモデルにしたもので、そうした興味で読まれた面もあるかもしれない。この小説と前後して実際の獄中経験のある人物による「実録戦後大物死刑囚」という本もたしかあった。中心的にえがかれている死刑囚も実際の人物をモデルにしており、大卒がまだステイタスであった時代の大卒の凶悪犯として大変な衝撃を与えた事件であった。ただ、事件を見ると、病気による就職内定取り消し、小さな法律事務所への就職と退職、そして乱脈な生活の果ての凶行であり、どうも恵まれた青年の犯罪というよりも、生活の行き詰まりによる自棄的な犯罪という匂いがする。人は単純に幸福だけを求めて行動するわけではない。自殺願望のような破滅願望というものももつことがあるのではないか。これについては読了した後にもう一度書いてみる。
2016年06月02日
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統計の見方の初歩として相関関係と因果関係を混同するなというものがある。毎朝体操をやっている高齢者は健康であるということが統計的に確認できたとして、じゃあ、ジョギングをやれば健康になるということになるのだろうか。一部そうした面もあるのだろうが、統計の見方としてはこれは因果関係が逆であろう。健康な老人だからこそ毎朝体操をやっているというのが真相であろう。これはあるサプリメントを常用している人が一般に比べ健康だということについてもいえる。だいたい高価なサプリメントを常用できる人は経済的にも恵まれ健康にも関心のある場合が多い。そういう人がそうでない人に比べて健康なのは当然ではないか。体操同様にサプリにも効果のあることは否定しないけど、統計全体としては因果関係が逆である。このように因果関係を逆に読む以外に、よくあるのは、真の原因は別のところにあるという場合である。例えば、アイスキャンデーの売れる日には缶ビールも売れる。だからといってアイスキャンデーを食べるとビールが飲みたくなるという因果関係もないし、その逆の因果関係もない。気温という第三の要因が作用した結果にすぎないのだから。現政権は少子化対策の一環として三世代同居の促進を政策としてかかげているという。少子化云々の議論はさておき、三世代同居と出生率の関係も大いに疑問ではないか。たしかに統計でみると、三世代同居世帯ほど出生率は高い。しかしだからといって三世代同居が出生率を高めるとはいえないのではないか。祖父母と同居しているから子供を産むというよりも、子供が生まれたから祖父母を頼るという場合も多いのではないか。因果関係が逆である。そしてその場合、祖父母を頼るのが親にとっても、祖父母にとっても望まないものであったとしたら、保育園不足の問題を三世代同居で解消しようとするのは政策としては問題ではないか。保育士が足りないので祖父母が子供の世話をすればよいという発想である。さらにいえば因果関係が逆という以上に、第三の要因も大きいように思う。三世代世帯比率の高いところでは、女性の就業率が高く、出生率も高い。都市部よりも農村、純然たるサラリーマン世帯よりも、自営業、農地をもっている世帯の多いところである。だいたいそういうところでは住居そのものが広い。主婦の労働力を期待して工場も進出しており、主婦達はそうしたところに勤めに行くのが普通になっている。三世代同居が普通だから子供の面倒は祖父母がみる。さして住宅が広いわけでもない都市部で、保育園が足りないから、三世代同居を促進しよう…というのはなんか政策の方向としてちょっと違うように思う。
2016年06月01日
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サミットで総理は世界経済の現状について「リーマンショック前夜」という認識を示し、賛同をえられなかったという一幕があった。消費税引き上げ延期の背景に「世界経済」を使おうとしたのだろうし、どうせ原稿を書いたのはどっかの官僚だろう。その後、総理はその発言を否定しているというが、もともと他人の書いた原稿で自分は読んだだけなのだから、認識はそんなものなのかもしれない。http://www.asyura2.com/16/senkyo206/msg/891.html国内の報道は翼賛報道ばかりで内閣支持率は上がっているという。普通に考えれば消費税増税見送りというのは、経済政策がうまくいっていないということではないか。金持ちを優遇すれば庶民にも恩恵がいくという「トリクルダウン効果」つまりおこぼれによる効果などは否定されたのではないか。残業代タダや首切り自由化法案も検討されているし、ブラック企業の創業者も政権党の議員として活動中である。はるか遠くの大陸の国では労働法の改悪に反対してデモが起きていると言うのに、こちらの庶民の大人しく従順なこと…本当に不思議でならない。
2016年06月01日
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