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毎年好評をいただいている「バッハへの旅」と、「ヨーロッパ歌劇場めぐり」、 ようやく詳細なパンフレットができました。 ご興味のある方は、ぜひご覧ください。 バッハの旅は、恒例のバッハめぐりに加えて、ドレスデンでティーレマンの振るオーケストラコンサートを鑑賞、 オペラの旅は、ウィーンからロンドン、そしてグラインドボーンというコースが魅力です。 http://www.ytk.co.jp/music/kaigai_opera_classic/tour
February 28, 2011
ジェラール・ドパルデューという俳優はけっこう好きです。 もうはるか昔になりましたが、「シラノ・ド・ベルジュラック」という映画で、ぼろぼろ泣かされた思い出があります。 NY旅行の思わぬ収穫に、飛行機(全日空)のなかで映画をたくさん見られたことがあったのですが、そのなかでもドパルデューの出た2010年制作の映画「La fete en firiche」が、まさに「思わぬ収穫」でした。 ちなみに、近々で彼の出た映画を観たのは、ドヌーブ主演の「しあわせの雨傘」という作品だったのですが、どうもドヌーブ扮する傘屋の社長夫人がかっこよすぎ、ちょっとハリウッド映画ふうのサクセスお伽話だったのが、やや鼻についたのでした。 「La fete...]もお伽話ではありますが、もう少し身近な、手が届きそうなお伽話です。 ドパルデュー扮する主人公は、45歳。母子家庭に育ち、学校では勉強がまるでできず、読み書きも満足に身につけられないまま成人。今は日雇いの仕事や、家庭菜園でつくる野菜を青空市場で売って多少のお金を得ているような感じです。 実家を出た、とはいえ、住まいは実家の庭近くにおいてあるキャンピングカー。母親は昔から彼につめたく、ヒステリーを起して当たり散らすような女性でした。 毎日の息抜きは、行きつけのカフェでのおしゃべりや、公園でハトを眺めること。 ある日その公園のベンチで、ひとりの老女に出会います。 彼とは正反対のインテリ女性(女性科学者で、おそらく独身だった)らしいそのひとは、やがて彼に本を読んで聞かせるようになります。彼もいつしか、その時間を楽しみにするようになり、交流が芽生えます。 彼は、親に愛されないで育ったという心の痛みがあるのですが、こちらは両親に愛されて育ったらしい老女のそばにいると心が落ち着き、彼女の読み聞かせによって新しい世界の扉が開いていく感覚を持つのでした。 ある午後、主人公は、老女の住む老人ホームに、お茶に呼ばれて出かけます。そして彼女の口から、彼女がもうすぐ病気で失明することを知り、彼女のために杖を作り始めるのです。 「ほかに女性ができたの?」と勘繰った、彼の恋人である女性バス運転士も、相手のことをきいて納得するのでした。 杖ができ、老女も喜んでくれて何日かたったある日、主人公の母親が突然世を去ります。 母親が遺言を託した弁護士は、母親の家は唯一の相続人であるあなたのものです、と主人公に告げます。その家は借家だったはずなのですが、彼の知らない間に、母親は工場で働いたお金で自分のものにしていたのでした。 そして弁護士が遺品として彼に渡した箱のなかには、母親とその恋人、つまり彼の父親の写真と、彼の「へその緒」が入っていたのでした。 母親の愛情の証を生まれて初めて知った主人公に、さらに喜びが訪れます。恋人が身ごもったのです。これまで、「子供を愛せない」と悩んでいた主人公だったのですが、母の愛を知り、子供が生まれることを心から喜べるようになりました。 「あのひとに知らせたい」。彼は老女のことを思い出し、老人ホームへ急ぎます。 ところが彼女は、けさ退所した、と告げられます。理由は「お金が払えなくなったから」。 いてもたってもいられなくなった主人公は、老女の引き取り手である甥が住んでいるというベルギーへ向かいます。ついてみると老女は、どうも病院に入れられたようでした。主人公は息つく間もなく病院へ。そして、老女を連れ出し、自分の家へ連れて行くのでした。恋人と「子供」が待つ、母の残してくれた家へ。 「どうかもう少しこの世にいて」 最後のシーンで、ワゴン車の助手席に老女を乗せて走る主人公が映し出され、主人公のそんなせりふがかぶってきたとき、どうにもこうにも泣けてしまいました。 同じ機内でみた、ハリウッド映画各種もそれぞ面白く、最後に心があたたかになる家族ネタ(「ウォール街」の続編、「ウォールストリート」)、ドパルデュー映画の母親のように不器用な人間のドラマでもある時代劇(「日の名残り」)、これも不器用だけれどチャーミングな女性のサクセスストーリー(「恋と映画の作り方」)と、ジャンルも実に多彩だったのですが、ここまで地味な人間~落ちこぼれの中年男やひとり身の老女~に焦点を当てて、かつ彼らに起こる素敵な奇跡を描いて、地面にキスしたくなるような感覚を味あわせてくれる映画は、ありませんでした。さすが、フランス映画、というべきでしょうか。 地味ですが、日本でも公開してくれたらなあ、と思います。ちょっと検索してみましたが、今のところ日本には来ていないようでした。
February 28, 2011
今回のNY訪問、アーティストの方にインタビューしたり、現地在住のジャーナリストの方と音楽談義を楽しんだり、いろいろ素敵な出会いがあったのですが、実は一番びっくり、というか感服してしまったのが、日本女性たちの優秀さでした。 私の参加したプレスツアーは、フリーのジャーナリストや新聞記者さん、そして現地ではテレビクルーも合流して、という構成でしたが(もちろん超優秀な通訳嬢と、現地在住のカメラマンも)、中心になっていたのは、プレスツアーのオーガナイズや現地での打ち合わせを担当していた、来日公演を主催するマネジメント会社の女性でした。 このひとが、また優秀なのです。 英語はもちろん堪能、いつも平静で、でも笑みはたやさず感じよく、てきぱきと流れをつくってゆく。その手際よさ、仕事の運びのスムーズさにはつくづく脱帽してしまいました。 最後近くなって、これから1週間ばかり、劇場と実務関係の打ち合わせをするという、同じ会社からの女性も合流しましたが、彼女がまた優秀で。 アーティストと実際にかかわることも多いらしく、デセイやドミンゴをはじめとする一流アーティストから、機材関係のスタッフまで、幅広い信頼関係を築いている様子で、彼女にもつくづくまいってしまいました。 海外で、外国語を使い、膨大な仕事を、平静さを失わずこなす・・・爪の垢を煎じて飲みたいほどでした。「先生」なんて呼ばれてしまうわが身の未熟をおもわず省みてしまいました。 このお2人は日本の会社のスタッフでしたが、海外を本拠に活躍する日本人女性も、ほんとうに優秀で素晴らしく、感嘆してしまいました。 ひとりは、インタビューしたアーティストの中で唯一の日本人だった、メットのオーケストラのハープ奏者、安楽真理子さん。 メットで仕事をすることの素晴らしさ、充実を、よどみなく、それでいて的確な言葉で語ってくださいました。 打てば響くようなお話ぶりに、頭のよさ、バランス感覚を感じました。 (安楽さんのインタビューは、後日テレビ東京で放映予定のメットの来日特番に出るようです) もうひとり、メットで演出のインターンとして活躍している、釣恵都子さんという方にもお会いすることができました。 釣さんはまだ30くらいととてもお若いのですが、欧米でとても積極的に道を切り開かれています。 日本の音大を出て、はじめ指揮を勉強するつもりでドイツに行ったものの、40校!まわるうちにベルリンで演出に興味がわき、そのままヨーロッパで演出の勉強を始めた、という経歴で、ベルリン、パリ、ウィーンなどで研鑽を積み、最近、メットにはいられました。 小柄で、口調も静かなのですが、内に熱い闘志のようなものが感じられ、将来が楽しみな方だなあ、と思えました。 はじめてベルリンに行った時は、英語くらいしか話せなかったようですが、今や何か国語も身につけ、「自分の劇場を造る」という夢に向かっていらっしゃいます。 先に紹介した日本の会社の女性たちも、好きなことをしている、という空気が感じられて、それは気持のいいものでした。 愛と情熱。そのスイッチをきちんと入れて、私もみなさんに負けないよう、自分を磨いて力をつけていきたい、と思えたNYだったのでした。
February 28, 2011
インタビューは、本当に面白いものです。 話を聞いたおかげで、そのアーティストのいろんな部分がとつぜんパズルのように組み合わさって、くっきりした像ができたりする。 話と演奏は別ものであることもありますが、近い場合もあり、そんなときが一番面白いです。 今回、メット取材で会うことのできたアーティストのなかで一番印象深かったのは、テノール歌手のピョートル・ベチャワでした。 実はベチャワのインタビューは予定になく、というのも彼がこの時期、「ロミオとジュリエット」のリハーサルでメットに来ていることを、把握していなかったのですね。 けれどある時、バックステージのモニターテレビに映っていた「ロミジュリ」のリハーサルを観ていたら、あ、ベチャワじゃないの、とわかり、急きょ広報のひとにインタビューを手配してもらったのでした。 ベチャワはもちろん何度も聴いたことがあります。いちばん印象に残っているのは、2007年のチューリヒの来日公演で、ヌッチ、メイの出た「椿姫」のアルフレードでした。安定していて安心して聴けたのですが、何しろほかの2人が大物だったので、かすんでしまった感はありました。(メイのヴィオレッタは、生できいたヴィオレッタのなかでは、デセイとならんで自分のなかではベストです) ポーランド出身のベチャワは、チューリヒの専属だったこともあり、着実に歩いてきたひとのようでした。 ステージの上や、ポートレートでは地味な印象を受けるベチャワ氏ですが、劇場のカフェテリアで見かけたときも、実際に会った時も、写真よりずっと若々しくて知的で素敵です。1962年生まれだから、脂ののってきた時期でしょうか。 奥様がずっと張り付いていましたけれど・・・。(残念?!) それはともかく、内容的にはほんとうにおもしろい、というか、わかりやすく内容のあるインタビューでした。 事前に彼のサイトをちらとチェックしていったのですが、レパートリーはけっこう広い。イタリアもの、フランスものから「タンホイザー」までカバーしています。 6月の来日公演では、「ルチア」と「ボエーム」に出るため、インタビューはそのあたりからはじまりました。 共演するダムラウ、ネトレプコとも、何度も共演しているということで、「2人はまったく正反対の歌手(わかるような気が)。対照的な歌手とステージの上で共演できることはとてもいいことです」。 作品については、 「「ルチア」はベルカント。まあヴェルディに近いベルカントですが。エドガルドはマントトヴァ公やアルフレードに近い役です。「ボエーム」はヴェリズモ。この2つは違うのです」 そうだそうだ。 「今回、だからスタイルの違うものを歌わなければならないのですが、幸い間に6日間休みがありますから、その間に調整します」 自分の「声」はかなり大事にしているようです。 ベルカントとヴェリズモは、具体的にどう違うのか。 「ボエーム、つまりプッチーニの音楽は自由です。感情に応じて音楽が変わっていく。対してルチアのほうは、繰り返しも多いし、感情ではなくフレーズを大事にしなければなりません。フィギュアスケートでいえば、ヴェリズモはフリー演技、ベルカントは規定です。」 わかりやすいたとえですね。一緒に取材していたジャーナリスト(今回はいつも何人かまとまって取材でした)は必ずしも音楽のひとばかりではなかったのですが、そんな方たちにもわかりやすかったようでした。 ではヴェルディは? 「その中間です。ベルカントからヴェリズモまで、すべてがあるのです。ヴェルディにはすべての表現、感情があります」 「個人的な夢ですが、自分の歌手としての最後の3シーズンには、オテロを歌いたい。ヴェルディのすべてがある役だからです」 あー、聴きたい! そして話は、来日演目のプロダクションのことに移りました。 「ゼフィレッリのボエームは、歌手にとっても聴衆にとっても夢のようなプロダクションです。もう何度も歌っていますが、第2幕の幕があがると、いつも拍手が出るのです。それをきくと、自分たちは正しいことをしている、と感じます」 「ジマーマン演出のルチアも、時代設定も変えて(ドニゼッティと同時代の19世紀前半)、モダンでコンパクトになってはいますが、セットも衣装も素敵ですし、ルチアのストーリーはちゃんと守られています。 「2つとも、世界のどこででも通用するし、ステージ上で起こっていることがよくわかるプロダクションだと思います」 「ヨーロッパでお目にかかるクレージーなアイデアとは違う」 「クレージーなアイデア」。ベチャワ氏は何度か繰り返しました。そうすると、突っ込んでみたくなりますね。 「ヨーロッパ、とくにドイツでさかんなモダンなプロダクションだと、物語の脈絡がまったく変えられてしまっています。自分で伝えたいストーリーと、演出家の考えるストーリーが違ってしまっている。 そうすると、楽譜にない感情を呼び起こさなければならないのです。これはとても大変なことです」 それは、きついことでしょう。歌手にしてみれば。 「オペラの場合、作曲家、そして台本が主導権を握るべきです。 一部の演出では、プッチーニの「ボエーム」ではなく、その演出家の「ボエーム」になっている。それは間違いです」 ブラボー。 「そして舞台は、美しくなければなりません。死に方だって、きたならしく死ぬのはおかしい。そのような美的感覚がマヒしているのです」 お金を払う側にしても、まったく同じ気分ですね。 「私は今では意見を言える立場になりました。下積みからずっと積み上げてきて、いろんなプロダクションを経験して、観てきましたから。意見を言える立場になれて、幸運です。 モダンでもいいプロダクションもあるのです。デッカーやローズ、マクヴィカーといった演出家のプロダクションはいいですね。」 彼がいうところのクレージーなプロダクションは、とくにドイツに多い、そうで(同感ですが)、ではなぜ、そうなったのでしょう。 「それを説明するのは大変ですが(笑)。ドイツは第二次大戦で負けて、文化的に否定されたのですね。それに対する反省から、文学も劇場も、いろいろ解説することが必要になり、劇場に「ドラマトゥルグ」という、解説する立場の仕事ができました。そしてその傾向が、どんどんエスカレートしていった。 演出家の地位が高くなり、歌手や指揮者とのバランスが悪くなったのです。 いいプロダクションは、歌手、指揮者、演出家のバランスがとれていることが大事です」 「演出家優先の傾向がピークになったのが、90年代末です。舞台の上で何をやっているのか、だれにもわからないような演出が横行してしまったのです」 最後にベチャワ氏、私の目からうろこ、を落としてくれることを言いました。 「ドイツは劇場が国営ですから、客席があいていてもかまわないのです。それより芸術的なことのほうが優先されてしまう」 わかりました。なぜ、ライプツィヒ歌劇場の「カルメン」や、ラインドイツオペラの「ホフマン物語」ががらがらなのか。 ほんとにがらがらなんです。新国の不入り時なんて比較にもなりません。がらがら。 だから、必ずしも一般の聴衆に支持されているわけでもないのですよ。 利益考えなくてもいいのだから、あれでよかったわけですね。 「私がオペラ歌手になりたいと思った子供のころ、憧れたのは、伝統的な美しいコスチュームをつけたドミンゴやパヴァロッティの写真でした。もしいまどきの歌手の、Tシャツやジーンズをつけた写真をみたら、オペラ歌手になどなりたいと思わなかったのではないでしょうか。」 快哉。
February 27, 2011
NY滞在もぶじ終わり、今回は何もなくしたものもなく(笑)、家に帰りつくことができました。 NYは3回目、はるか昔に訪れた時をのぞいてほぼ1年ぶりでしたが、前回もほんの数日の滞在だったので、知らないも同然です。 今回、わりと自由な時間もあったので、多少はNYの町の空気を吸うことができました。 ヨーロッパはよく行くので、どうしても比較してしまうのですが、思ったのは、NYは気楽だな、ということ。 何でもあり、というか、マイペースで過ごせる場所のように感じたのです。というのもヨーロッパは、カップル社会。旅行にしろ食事にしろ、カップルまたは家族が圧倒的に多い。とくに大都会でないところはそうです。 なので、何日もひとりでいたりすると、なんとなく居心地が悪い、息苦しいような気分になることがあるのですが、NYは、年齢性別を問わず単独行動しているひとも少なくないし、お姉さん系のカップルも珍しくない。みなそれぞれ、自分のペースで動いているような印象を受けました。 治安は、場所にもよるのでしょうが、深夜、ブロードウェイの劇場から歩いて帰っても、危ない印象は受けませんでした。 もうひとつ、ヨーロッパと違うのは、携帯、とくにブラックベリー系の携帯の普及率が異常に高いこと。日本(首都圏)もかなり携帯依存率は高いですが、NYはもっとかもしれません。 それは、この町が仕事の町であることの反映でもあるような気がしました。 メトロポリタンオペラのスタッフに話をきいていても思ったのですが、スタッフは一般的によく働くようです。とくに総裁のようなトップはそうらしい。 スタッフからきいた話ですが、メットの総裁のゲルブ氏は、毎日11時から3時まで、本ステージでのリハーサルに立ち会うそう。その間、PCは持ち込んで絶えずチェックしています。もちろん携帯はブラックベリー。用事があれば深夜だろうと早朝だろうと電話をかける。そして「眠らない」。 それくらいタフなのが、アメリカのビジネスパーソンだ、ということでしょう。 それに比べると、ヨーロッパはやっぱりのんびりしています。劇場のスタッフでもヴァカンスはしっかりとるし、携帯中毒という感じも受けたことがありません(もちろん優秀な方は大勢いると思いますが)。 やはり最大の違いは、アメリカはオペラハウスが民間事業、ヨーロッパは国営、ということではないでしょうか。 民間だから、スポンサーも一から十まで探さなければならない。 これまでは、そのような内容の記事を読んで「ふーん」などと、わかったような気になっていましたが、やはり直接目の当たりにして、それがどんなに大変なことか、ちょっぴりわかったような気がしました。 何か事業をするのでも、スポンサーがいればできるし、いなくなればすぐさまできなくなる、のですから。 券売だって、死にものぐるいです。売れなければ、これまでできていたこともできなくなってしまうので。 このあたり、公共の予算が投入されているヨーロッパの劇場は、危機とはいってもどことなくのんびりしています。広報ひとつとっても、(もちろん劇場によりますが)スピードがまるで違う。 ウィーンやチューリヒのような、民間のスポンサーとも連携しているところは素早いですが、イタリアの地方の劇場などのんびりしたものです。イタリアでもトリノのように、地域企業とのパイプが太いところのほうが、事務的なこともちゃんとしている印象を受けました。やはり、お上に頼るだけでなく、民間とのパイプをもつなどあるていど自立運営をしているところのほうが、機動力は増してくるのかもしれません。 アメリカのようにすべて民間がいいのか、公の劇場であるほうがいいのか。それぞれプラスマイナスがあり、いちがいには言えません。 ただ劇場としての活力という点では、毎シーズン存亡をかけている民間の劇場のほうが強力になるのは、自然なことのように思われたのでした。そ 最後にひとつ、印象に残ったスタッフの言葉。「ここのひとたちはみんないい人。「好きなこと」を仕事にしているから、気持いい」 「好きなこと」でつながっている関係は、たしかに気持ちいいものだと思います。音楽好きの集まりは、ほんとうに心地のいいものですから。
February 26, 2011
同時代に生まれてよかった、という歌手は、私の場合まず2人います。 ファン ディエゴ フローレスと チェチーリア バルトリ。 最近それに、ナタリー デセイが加わりつつあります。 昨年の4月、ウィーンの国立オペラ座で「夢遊病の娘」を聴いたとき、劇場総裁のホーレンダー氏から「宮廷歌手」の称号の授与式があり、その際ホーレンダー氏が彼女を表現するのに引用したある批評家の言葉が、「デセイは音符ではなく魂を歌う」でした。 それが、彼女のオペラに接し始めてから、ステージごとにつくづく実感できるようになりました。 昨夏の日本での『椿姫」もすばらしかった。 そして今回、デセイの十八番のひとつである「ルチア」が聴けるとわかり、ずっと楽しみにしていました。 果たして期待通り、いえそれ以上といってもいいできばえでした。 「乙女」ルチアの非情な運命が、これほどひしひしと迫ってきた「ルチア」の公演ははじめてでした。 デセイの場合、ほんとうにその役柄が取り付いてしまうのがすごいのです。それでいて、「声」もおろそかにしていない。個性のある声ですし、それを大事にしています。 最後の決断を迫られたら、声より演技をとる、というような話も聴くのですが、いえいえやはり「声」の迫力も素晴らしいものです。 彼女のオペラは、「声」も「演技」もぎりぎりいっぱい、がけっぷちに立っているような印象を受けます。それだけ賭けているということなのでしょう。だからこそ、引き込まれてしまう。 狂乱の場で、階段から転がり落ちたり、もみくちゃになりながらも魂の震えるような高音を通したり、かといえば、呆然として静止しているだけで内面の悲しみが伝わってきたり。 声も含めて表現のひとつひとつに、電流のような衝撃と、恐ろしいまでの密度があるのです。 幕間に今回ご一緒した方といろいろお話ししていて、デセイという歌手が今回少し見えてきたかな、と思う部分もありました。 たとえば、NY在住のあるジャーナリストで、デセイにインタビューもした方の話ですと、役柄の選定にそれは慎重なのです。 自分の「声」にあった、かつドラマ的に共感できる演目、という選択を、考え抜いてやっているようでした。 彼女は本当はドラマティックな役柄(たとえばトスカのような)が好きなようで、けれど自分の声にはあわない、やりたいものと声が違うのが辛い、ようなのですが、いくらやりたくとも、踏みとどまる賢明さがあるようです。それだけ自分と自分の「芸」を大事にしている、ということなのでしょう。 「声」があっているが、ドラマ的には共感しにくい役柄も、いくつかレパートリーにはしているようですが、その場合、「音楽がとびきり美しい」とか、「演出がありきたりでない」など、何かドラマ以外の理由があって、やっているようでした。 「声」という面で言えば、今は十八番の「ルチア」も、「椿姫」のヒロインも、当初は自分の声でできるとは思っていなかったようです。 けれど、長い時間をかけて近づいていった。 このあたり、どんどんオファーを受けてしまう歌手とはちょっと違うようです。 出るオペラはとてもしぼっていますが、それだけリハーサルも徹底的にやるようですし、細かい演技も、繰り返すたびに磨き抜かれていくようでした。 (ちなみに演目を選ぶという点は、フローレスも同じ。この2人のコンビは絶妙です。今後もどんどん共演してほしいものです。) デセイの熱演に刺激されたのか、共演者たちも次第に盛り上がりました。 悪役でありながら人間的なルチアの兄を、バス バリトンに近い美声で聴かせたテジエ、 徐々に調子をあげ、最後は持ち前の甘い声を存分に響かせたカレヤ。 いずれも聴きごたえ十分で、盛んな拍手を浴びていました。 ジマーマンの演出したプロダクションは、2007年のシーズンオープニングに制作されたもので、当時の主演もデセイだったそうですが、舞台をドニゼッティと同時代の19世紀前半に設定。 当時の流行だったロマン派の趣味を強調し、森の雰囲気を強調したり、幽霊を登場させていましたが、いわゆる読み替えではないので分かりやすいし、美しいものでした。 ただ、第3幕に巨大な階段と廊下を作るために、休憩を40分!もとっており、終演が12時近くなってしまったのは(開演は8時)ちょっと問題かもしれません。 日本ではちょっと変えて、休憩が適当な時間に収まるようにする、という話をききましたけれど。 日本でルチアを歌うのはダムラウ。テクニックという点では、あるいはダムラウの方が上かもしれません。ほんとは、2人一緒に聴けたら、なんて思うのは贅沢すぎますね。
February 25, 2011
プレスツアーできている、NYはメトロポリタン オペラ。 今回、ボエーム、アルミーダ、ドン パスクワーレ、ニクソン イン チャイナ、そしてルチアを観られるのですが、ソリストの豪華なことはやっぱりため息が出てしまいます。 女声ソリストが知らないひとばかりだったボエームも、男声はといえばヴァルガス、マッティ、脇役にプリシュカという豪華版でしたし、ドン パスクワーレはネトレプコにこそ振られてしまいましたが、テノールはポレンザーニ。アルミーダはメットの女王、フレミングに加え、シラクーザ、ブラウンリー、オズボーン。そして最後の夜のルチアはデセイ!なんとも贅沢です。好き嫌いは別にして、これだけのキャストをそろえられるのは、メットとウィーンくらいなものでしょう。 来シーズンのカタログも、有名どころがずらりと揃っています。 新制作は7本。オープニングはネトレプコのアンナ ボレーナですが、脇もガランチャ、アブドラザコフと豪華です。これはこの4月にウィーンでプレミエになるものと同じでしょうか。昨シーズンはオープニングが「リング」でしたので、今シーズンもリング後半になるかと思いましたが、プリマドンナ優先のようでした。 ネトレプコがらみは、日本でもやったロイヤルと共同制作の「マノン」も出ています。 個人的に面白そうなのは、新年のガラに出る、クリスティ指揮のバロックオペラのパスティッチョ。ヴィヴァルディ、ヘンデル、ラモーなどいろんなオペラのハイライトを、デ ニースやダニエルズやディドナートで聴かせます。すごく面白そうで、これはライブビューイングしてくれるのでしょうか。 新制作では、先日インタビューしたクヴィエチェンのドン ジョヴァンニ にも惹かれます。共演もがフリットリ(ドンナ エルヴィーラ。本当のヒロインですよね)、レベカ、モリス、ピサローニ、ヴァルガスと豪華なのです。ここまでそろえるのはやっぱりすごい。 けれどキャスティングについては、実は再演ものに魅力的な物が多かった。 リチートラ、フヴォロトフスキー、フルラネットの「エルナーニ」。 マチャイゼ、カナワ、ブラウンリー、マレイの「連隊の娘」。 ペトレンコ指揮、ボロディナ、ガルージン、コチェルガの「ホヴァンシチーナ」。 ノセダ指揮、ハンプソン、ミッシェルの「マクベス」。 ピエロフラーヴェク指揮、マッティラの「マクロプロス事件」。 ルイージ指揮、デセイ、ポレンザーニ、フヴォロトスフキーの「椿姫」。 ポピュラーなものからレアものまで、演目のヴァリエーションもさすがです。 レパートリー方式というのは、よほどの蓄積と余裕がないとできないなと思う今日この頃、なんだかんだいっても高水準でレパートリー方式を続けられるのは、商売上手なところも含めて希有なハウスだと感じました。 今回、総裁のゲルブ氏にもインタビューができそうなので、運営に関してどんな話をきこうか、あるいはきけるのか、とてもわくわくしています。
February 21, 2011
メトロポリタンオペラのプレスツアー。2日目の今日は、昼間にインタビュー2本、夜は「アルミーダ」を鑑賞しました。 昼間のインタビューは、「ボエーム」で来日する、バスのポール プリシュカと、マリウス クヴィエチェンです。 アメリカ人バスのプリシュカは、メトに欠かせない存在。43年間もここでソリストをつとめています。 それこそ悲劇から喜劇まで、ありとあらゆる役をやっていますが、個人的に印象に残っているのは、『ファルスタッフ」のタイトルロール。演技と歌が一体化した、すばらしいファルスタッフでした。 気さくな方で、いろいろ面白い話が聞けたのですが、ひとつだけ印象に残ったことをご紹介。 今回のボエームで担当する、ベノワとアルチンドーロ(1人2役)に関連する話なのですが、ベノワについて、「この役はわずかな出番しかないけれど、ファルスタッフのような人物であることを数分で示さなければならない、興味深い役」なのだそうです。 アルチンドーロはそれに対して見えにくい役らしいのですが、ブノワに関しては、とても共感する部分があるようでした。 たしかに、「ボエーム」全体を観ても、あのブノワの登場するシーンは、とくによく書けている、ヴィヴィッドな部分のように思いますから、役柄に突っ込んでみるともっといろいろみえてくるのかも知れません。 マリウス クヴィエチェンはポーランド出身のバリトン。1972年生まれというから、若いといえば若いですが、そろそろ働きざかりにさしかかる歌手です。 メトでは90年代の終わりから活躍しており、来シーズンは新制作による「ドン ジョヴァンニ」のタイトルロールを歌うそうなので、とても期待されている歌手といえるでしょう。 とても感じのいいひとでした(プリシュカもそうですが)。 「ボエーム」についてもいろいろ話してくれましたが、「ドン ジョヴァンニ」の話もとても興味深いものでした。 この役柄のポイントは、「ドン ジョヴァンニ」が誰か、誰ににもわからない、ところだそうです。 彼はもう何度もこの役を歌っているのですが、そのたびに解釈が違うそうなのです。生き延びたり、殺されたり、自殺したり。。。。 そして自分でもいろいろ考えたそう。 今では、「彼は若者なのじゃないか」という考えにたどりついたようですが、それでもまだまだこれから変わっていきそうな。そんな印象を受けました。 ドン ジョヴァンニは、バスやバリトンにとってマイルストーン的な役柄と感じますが、やはりそうなのだろうな、と、熱弁をふるうクヴィエチェンを観ていて感じました。 もちろん、マルチェッロについても一家言ありましたが、それはまた別の媒体でお話しできるかと思います。。。。
February 19, 2011
オペラハウスは町の顔。 とても、そう思います。 聴衆の反応も含めて、その国や町の文化に対する考えとか、ぜんぶ反映されてくるのがオペラハウスという場所。 だから、やめられません。 NYのメトロポリタン オペラは、実はまだ1回しか行ったことがないのですが、「誰でも楽しめるエンタティンメント」という印象が強いところです。 間口が広くて、お客さんもおおらかに楽しんでいる、という感じでしょうか。反応も、たとえばイタリアのそれとは違うおおらかなストレートさがあって、楽しい。 今回、取材のお話をいただいて、しばらくメット三昧させていただけることになりました。 到着初日の今日(17日)は、「ボエーム」。ゼツフィレッリ演出による定番のプロダクションで、6月の来日公演にも登場する演目です。 キャストは6月とはかなり違いましたが、全体的なレベルは高く、演出とあわせて堪能することができました。 端正なうまさが光るロドルフォ役のヴァルガス、演技も板について低めの美声も決まるマルチェツロ役のマッティの男性主役2人は文句なし。女性では、来日組の、ムゼッタを歌ったフィリップスに、アメリカ人らしいチャーミングさがあふれていました。これから洗練されていけば、スターの一角に加わる素質は十分のように思えます。 改めて見直したのが、ゼッフィレツリ演出の素晴らしさ。映画のシーンを観るような美しさに加え、通行人のひとりひとりまで、場面の状況を明らかにするために立体的な演技を行います。昨今はやりの極端な読み替えが、賞味期限が限られてしまうのに対し、半世紀経っても古びないのは、まっとうに描かれた時代劇の強みでしょう。 一流の歌手をそろえ、ていねいで美しい装置に、演技性もわかりやすく打ち出された演出。誰もが楽しめる、間口の広いオペラがそこにありました。イタリアの地方の劇場の伝統芸能オペラでもなく、ドイツの劇場の実験場でもない。このようなところだとどうしてもお客を選びますが、メットには誰でも抵抗なく入れるおおらかさがあります。 レパートリー方式なので、歌手が舞台に立つ機会が多く、こなれた舞台ができているのもさすがです。この点、スタジオーネ方式であるイタリアの地方のオペラハウスや、日本のオペラハウスやカンパニーだとなかなかこうはいきません。やはり舞台に立たないと、歌手としての「型」ができにくいような気がします。 以前Nyに駐在していて、メットの会員だった方の話によると、メツトで一番上演回数の多いオペラは、「トスカ」と「ボエーム」だそうです。なるほど、誰でも楽しめる演目ですね。しかも時間的にも正味2時間ですから気楽です。メットでは、オペラが開かれているともいえるのでしょう。 「ライブビューイング」などの効果もあってか、若い客層も目立ちました。この手の戦略は、やはり一流です。イタリアなど国営のオペラハウスだと、広報も、危機にあってもなんとなく「官製」ののんびり加減が抜けていませんから。
February 18, 2011
ちょっと前まで、「椿姫」は苦手なオペラでした。 きれいごとすぎるから、というのが一番の理由ですが、男性的なヴェルディにしてはそれらしくなくてちょっと、というのもありますし、ほっておいても?1年に何度も聴くことになる、という事情も無関係ではなかったようです。 けれど最近、「椿姫」って偉大だな、とつくづく思うようになりました。 たしかにヴェルディらしくないけれど、これのおかげで彼の人気がだいぶ増幅していると思えば貴重だし、それに何より、やっぱりすばらしい音楽です。どこをとっても口ずさめるほど親しみやすく、同時に美しい旋律が、ドラマや感情をくまなくすくいとっていく。簡潔にして雄弁。女性的とはいえ、やはりその点はヴェルディです。 歌手による名演に接する機会が多いのも、「椿姫」の特徴です。デセイ、メイ、デヴィーア、ロスト、ムーラ、そしてチョーフィ。「あの歌手の名演」を思い浮かべるとき、いちばん出てきやすい作品でもあります。歌手にとつても、やりたい役なのでしょう。 モシュクなんて、「死ぬほど好きな役」なんて言ってましたものね。 今月、新国立劇場ではその「椿姫」です。 17日に行く予定だったのですが、17日から急遽海外取材が入り、昨日、初日の14日に観劇してきました。 今回はどうしても聞き逃したくなかった、2年前にオランジュですばらしい名演を体験できたチョーフィの主役だったからです。 いや、やっぱり素晴らしい演唱でした。 彼女の個性は、愛らしさにあると思うのですが、昨日もその個性全開。何度となく歌ってきただけあって、役柄を完全に自分のものにしていました。技術的にもあぶなげなく、安心して聴いていられました。何より、可憐ではかなげな、ほんとうに役らしいヴィオレッタだった、と思います。 ルーチョ・ガッロのジェルモンも期待していたのですが、初日のせいか疲れていたのか、やや本調子でないようではらはらしました。とはいえ実力はありますから、いざというところの踏ん張り方はさすが。もとの声もいいですから、やはり聴かせます。 瞠目したのはアルフレード役の韓国人テノール、キム氏。彼は、ドレスデンの専属だったひとで、現地で何度か聴いているのですが、昨年の6月はファウストのタイトルロールに挑戦していました。地元に根付いているみたいで、あたたかな喝采があったことが印象に残っています。 私はといえば、マルグリートの歌手のほうに気をとられてしまつたのと、ファウストにしてはやや繊細かな、と思ったのでした。 そういえば彼、東京で、チョンミョンフンとヴェルレクも共演してましたね。 で、昨日のアルフレードですが、すばらしい健闘ぶりだったと思います。 声がやわらかく、繊細なので、この役にあっている印象を受けました。ちょっと文学青年のようなアルフレード。甘く、鳴りも十分かという印象を受けました。 会場で新国のひとにきいたのですが、なんとキム氏、これから母国に本格でビューするそう。韓国ではまだオペラをきちんと歌える環境が整っていないそうなのです。 だとすると、母国で場所がないから、海外でちゃんと専属になって力をつけたわけで、快挙ですね。 思うのですが、やはり日本人歌手にしろ、海外のトップクラスの劇場で専属になって何年か鍛えられたひとは違います。ぜひ日本人の才能ある歌手の方々も、どんどんチャレンジして、この舞台で堂々とアルフレードを歌う力をつけて欲しいな、と、日本の一オペラファンは思うのです。 新国立劇場「椿姫」、公演は26日まです。 http://www.atre.jp/10traviata/
February 15, 2011
連休初日の11日に、びわ湖ホールの小ホールで開催させていただいたレクチャーコンサート、「ヴェルディ・ガラ」。 おかげさまをもちまして、全席完売!大入り袋も出て、盛況のうちに終了いたしました。ご来場くださったみなさま、主催のみなさま、本当にありがとうございました。 個人的には、大好きなヴェルディについてお話させていただくことができ、とびきりの名曲を堪能でき、これ以上のしあわせはない、コンサートでした。 出演者冥利につきる、といったらいいのでしょうか。 当日もお話させていただきましたが、あまたいるオペラ作曲家のなかで、なぜヴェルディが好きなのか、ときかれたら、「メッセージがあるから」と答えると思います。 もちろんワーグナーにもあるわけですが、それとは違う次元で、彼のオペラ、音楽には「人間とは何か」という熱い思いがたぎっているように思うのです。 それこそ、たとえば同じイタリア・オペラの、ロッシーニやプッチーニにはないものだ、と思っています。 ある意味、音楽的なうまさ、作曲の技術からいえば、ロッシーニやプッチーニのほうが上のところがあるかもしれません。 声楽技巧をきわめたロッシーニ、オーケストラもあわせてうまさをきわめたプッチーニ、それぞれに天才です。それに比べて、ヴェルディはたしかに無骨だし、やぼったいところがあるかもしれない。 けれど、胸を打つ、という点では、ほかの二人に比べて強烈なものがあるのではないでしょうか。 そしてその源泉は、「人間とは何か」という、やむにやまれぬ問いかけにあるように思うのです。 ほかの2人には、そのような「やむにやまれぬ」ところは、少なくとも個人的には感じられないのです。 丸谷才一さんの名著に、「文章読本」があります。 その最後のしめくくりの言葉が忘れられないのですが、「書きたいことがあってはじめて筆をとれ。その時にこそ、言葉は流れるだろう」というような内容でした。それがあってこその文章、それがあれば、多少の瑕は気にならないはずだ、というこだと解釈しています。 ヴェルディの音楽には、それがあるのです。だから独特のパワーがあるのだ、と思います。 少なくとも彼の音楽、オペラに出会わなければ、私はこの仕事をさせていただいていない、と確信しています。 viva verdi! あなたは本当に偉大でした。
February 12, 2011
幅広い知識とシャープな表現力、ボキャブラリーの豊かさで人気の音楽ジャーナリスト、林田直樹さん。 アスキー新書から出された、「クラシック新定番 100人100曲」も、林田さんらしい幅広い選択とわかりやすい語り口が魅力です。http://www.classicajapan.com/wn/2008/12/210306.html ネットラジオ「ottava」の解説者としてもおなじみですが、もうひとつ、林田さんが司会役をつとめるネットラジオ番組が「カフェ・フィガロ」。 トップクラスの演奏家から、写真家の加納典明さんのような文化人まで、これも広い人脈を生かしてゲストを招聘し、毎回軽妙かつ奥深いトークが楽しめます。 先日、その「カフェ・フィガロ」にお招きいただき、2回にわたって「オペラ」のおしゃべりを収録しました。 好きなオペラハウスから歌手まで、オペラ公演の魅力からこぼれ話まで、言いたい放題!の「これぞラジオ」的時間が過ごせました。 昨日、2回目が更新。とりあげた曲は「アイーダ」の「清きアイーダ」とロッシーニ「オテッロ」のロドリーゴのアリア、「何だって?」の2曲。 同じ「テノール」用の曲でありながら天地ほども違う、そのだいご味などを語り合っていきます。 御用とお急ぎでない向きは?ぜひお立ち寄り下さい! http://www.blue-radio.com//program/cafe/?genrename=110208
February 8, 2011
大のオペラ好きであるフリーアナウンサー、「オペラ・ソムリエ」の朝岡聡さんが、素敵な本を出しました。 「いくぞ!オペラな街」(小学館) ご自分のオペラ旅の経験を、写真とエッセイでたどるおしゃれな本です。 ちなみに写真もすべてご自分で撮られているようですが、風景から歌手とのツーショットまで、オペラハウスから食べ物まで、その土地の魅力が丸ごと伝わってきます。 朝岡さんはお話もとてもお上手で、ロッシーニのオペラの解説をなさったときなど、俳優なみの演技も交えたトークに酔いましたが、文章も軽妙で、ご本人のわくわく感が伝わってきます。とても臨場感があるのです。 海外旅行でオペラ、と考えている方、お勧めです。 http://www.amazon.co.jp/%E3%82%AA%E3%83%9A%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%82%BD%E3%83%A0%E3%83%AA%E3%82%A8-%E6%9C%9D%E5%B2%A1%E8%81%A1%E3%81%AE-%E3%82%AA%E3%83%9A%E3%83%A9%E3%81%AA%E8%A1%97-%E3%83%9F%E3%83%A9%E3%83%8E%E3%80%81%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%80%81%E3%83%91%E3%83%AAetc-%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%91%E3%82%92%E3%82%81%E3%81%90%E3%82%8B%E3%82%AA%E3%83%9A%E3%83%A9%E3%81%AE%E6%97%85/dp/4093881693
February 8, 2011
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