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目標を達成するためには、「大数の法則」を理解して、試行錯誤を繰り返し、成功をイメージすることが有効です。では早速、「大数の法則」について説明してみましょう。たとえば、サイコロを振ると1から6までいろんな数字が出ますね。これを2000回繰り返すと、1から6までの出目の比率は16.6%に落ち着いてくるという。何を言いたいかというと、少ない回数では1から6までの出目はランダムである。ところが、数多くサイコロを振り続けると、ある瞬間から16.6%に落ちついてくる。それ以降の出目の確率はずっと16.6%を維持していくという確率の理論なのです。サイコロの場合は2000回サイコロを振り続けるということが肝心だということです。面白いと思われる方はぜひ体験してみてください。私も試しにやってみましたが、必ずそうなります。株式投資の世界では、例えばグランビルの法則というものがあります。株式投資をする多くの人が知っている単純な移動平均線の理論です。移動平均線には短期、中期、長期線がある。中期、長期線を短期線が上抜いた時を、ゴールデンクロスという。下抜く時を、デットクロスという。これを利用して、トータルで利益が出せるまで試行錯誤を繰り返していく方法があります。少ない回数では損失を出すこともありますが、トータルでは利益が出るという自分なりの方法を一つだけ見つけ出すのです。そうなると勝ち負けで一喜一憂することがなくなるのです。回数を重ねれば、最後は利益になるという安心感や自信のようなものがでてくるのです。その回数はトレードの世界では、200回の試行錯誤で大方の結果が出るという。もし200回でトータルで損失になるようなルールはやればやるほど損失が膨らむ。この場合は、そのやり方はあきらめて、別の方法で試行錯誤を繰り返す必要があります。ここでは、いきなり現金を使って勝負を急いではいけない。本番を想定したシュミレーションを繰り返すことが大切です。そうでないと、虎の子の資金をドブに捨てることになる可能性が高くなるからです。このシュミレーションは心を鬼にして取り組む必要があります。そうしないと、正確な結果が出てこないからです。本番では全く役に立たないということになります。普通好結果が出ないと、投げやりになって、すべてを投げ出してしまうことが多くなります。そして今までの努力をあきらめて、全く違う別のやり方で最初からシュミレーションする人が多い。また他人が別のやり方でうまくいっていると聞くと、そちらの方向に流されてしまう。多くの人は浮気性なのです。隣の家の芝生は、緑が色鮮やかに見えるということです。これが問題なのです。山のあなたの空遠く、幸い住むと人が言う。実際はそんなものは存在しないのについあこがれてしまう。でも、トレードの世界は、こんな浮ついた気持ちで、成果を出せるような甘い世界ではない。またこうした方法は、失敗の経験が次に活用できないで、尻切れトンボになります。それは、一からの再出発となり、知識の集積が進まなくなるからです。これでは、いつまで経っても、大数の法則を有効活用できないのです。そして失意のうちに、投資の世界からいなくなってしまう人が実に多い。ここでは、あくまでもグランピアの法則にこだわることが肝心なのです。一度くらいついたら、どこまでも執着する方がよいのです。一度噛みついたら絶対に離さないというスッポンの心意気を見習う必要があります。今までのやり方に、別の要素を加えて、また200回のシュミレーションを繰り返す。そして結果を検証する。ダメならまた別の要素を加えて、シュミレーションを繰り返す。グランビルの法則はそのままにして、別の視点を加えて微調整する。そしてまたシュミレーションを繰り返していくことです。そして、これはという自分なりのルールを見つけ出すのです。するとグランピアの法則については、他の人の追随を許さないほどの知識が集積されていく。そして、風向きが変わり、運が味方についてくると、最後にはグランピアの法則というきわめて単純なルールでも、利益が出る方法を見つけ出すことができる場合があるのです。自分なりの勝てるルールを確立したあとは、淡々と実践あるのみです。プロのトレーダーの、勝率は20%から30%といわれている。プロのトレーダーでも70%から80%のトレードは損失を出している。それでは自己資金がどんどん減少しているのではないかという疑問が出てくる。心配はご無用です。そういう人は、損小利大で利益が出るという、自分なりの勝てるルールを確立している。その努力は、計り知れないものがあります。成功に至るまでに、数多くの失敗のシュミレーションを繰り返していることを忘れてはいけない。自分なりに勝てるというルールを見つけ出したとしても、トレードの世界は非情である。続けて大きく負けることも日常茶飯事です。貴重な資金かマイナスになることもある。普通の人なら前後不覚となって、慌てふためく。しかし、プロの投資家は、大数の法則を信じて、決して途中であきらめない。シュミレーションの結果を信じて、愚直に淡々と取り組んでいる。勝っても有頂天にならない。負けてもそんなに落ち込まない。仕事をするように、自分の信じた道を淡々と進んでいくだけという感じです。これはもはやギャンブルとは言わない。確率論に基づいた核心的なトレードなのです。予測不能ではあるが、データーに裏打ちされた確率論の世界に身を置いて、その結果をあらかじめ見通している人なのです。こういう人をその道の達人というのでしょう。以上は株式投資の世界で成功しているトレーダーのお話でした。私は大数の法則を森田理論の行動の原則に適応したいと考えています。大数の法則は、数多くのミスや失敗の実践や行動を積み重ねていくと、成功のためのコツが自然に身についてくるということだと思います。イヤだと思っても手を付けなければならないことが分かってきます。また手出し無用なことも分かってきます。無駄がなくなり効率がよくなってきます。私たちは小さなことが気になるという神経質性格を持っています。その小さな気づきを忘れないようにすぐにメモする。忘れてしまうということはなんとか避けたいところです。そしてその気づきを行動に移して、小さな成功体験を積み重ねていく。数多くの成功体験を積み重ねるというところがポイントとなります。その小さな成功体験が増えてくると、自信がついてくる。自信がついてくると、今まで気分本位で逃げ回っていたことに、踏ん張れるようになる。また他人の思惑に振り回されて、我慢や耐える行動ばかりの生活から、ある程度は自己主張できるように変化してくる。このように雑多な経験から得られるものは計り知れないということです。
2021.03.31
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小宮一慶さんの「ABC理論」というお話です。A・・・あたりのことB・・・バカになることC・・・ちゃんとやることものを片付け、ごみを拾い、汚れをふく。それが掃除です。つまり人間にとっては、やってあたりまえのことです。それをいい加減な気持ちで、ただ型どおりにこなすのか。それとも、心をこめて、バカになって、とことんていねいにやるのか。この小さな違いが、その人の人生の質と幅を見事なまでに決めていくのです。たとえば、皿を洗う、コピーをとる、電話をとる、食事をつくる・・・。自分にとってあたりまえの日々の単純作業を、型どおりにこなしているだけでは、ただ時間を消費しているだけで、何も見えてきませんし、何かが生まれてくることもありません。でも、真剣に、バカになって、ちゃんとやることで、ふつうなら気づけないことに気づき、他の人には見えていないことも見えてくる。そして、人生そのものがどこかいい方向へ進んでいくように思えてならないのです。(あたりまえのことをバカになってちゃんとやる 小宮一慶 サンマルク出版 4ページより引用)雑事を雑にやるのではなく、ていねいにやる。そうすることで、それは雑事ではなくなるのです。雑事を雑にやっている人は、結局、雑な生き方しかできない人になります。(同書 71ページより引用)これは森田理論でいう「凡事徹底」のことです。神経症で苦しんでいるときは、仕事、家事、育児などの日常茶飯事が「雑」になっています。あるいは、やるべき日常茶飯事がそのまま放置してあります。雑事に精魂込めて取り組む態度が、神経症の克服に役立ちます。雑事のプロフェッショナルを目指すことで、普通なら気づかないことに気づき、感情が発生して少しずつ流れ始めるのです。谷あいの小川を勢いよく流れゆく水のごとくです。不安や恐怖は気になりますが、それ以上に目の前のやるべきことに注意や意識が向いているのです。これは森田理論の実践・行動の原点となります。この段階は神経症の根治を10とすると、どの段階だと思われますか。私の体験ではいきなり5ぐらいだと思っています。神経症の人が「はい分かりました」といってすぐに習慣化されるようなものでないのです。二歩前進一歩後退のらせん階段を上るようなものです。くじけて以前の状態に戻ってしまう事もあります。私は集談会の仲間に助けられながら、なんとか身についてきたというのが実感です。ロケットでも地球の重力圏を抜けるのは莫大な燃料を消費します。しかし10分ほど上昇すると、重力圏を抜けてきます。その時は神経症から解放されて、生きる喜びを味わうことができるようになるのです。
2021.03.30
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イエローハット創業者の鍵山秀三郎さんがこんな話をされている。頭は臆病。でも、手は臆病ではない。つまり、手を動かさないかぎり、物事は何も動かないし、変わらない。机の上をふくと、おもしろいことが分かります。半分きれいにすると、残り半分の汚れがものすごくよく分かるのです。そこを全部きれいにすると、今度は机の表面の汚れやべとつきに気づきます。だから、心を込めてふく。すると、もっと別の汚れに気づくようになる。そこで何が起こると思いますか。気づきが深くなるのです。どういうことかというと、誰も気づかないようなちょっとした変化に気づけるようになる。感度がどんどん磨かれていくのです。その結果、思考がどんどん深まってきます。たんに漠然と片づけていたのではダメです。何かに気づくまで、徹底してやらなければいけません。そうでないと、ただ机の上をふいているだけで人生は終わってしまうのです。(あたりまえのことをバカになってちゃんとやる 小宮一慶 サンマーク出版 75ページより引用)森田理論そのものの考え方だと思います。まず日常生活に真剣に取り組む。凡事徹底のことです。すると感情が動き出す。様々なことに気づいてくる。精神活動が活性化してくる。緊張感が高まってくるのです。一つの行動が呼び水となり、どんどん意欲的、創造的、行動的になる。次々と問題点や課題が見えてくるようになる。実践や行動がさらにステップアップされていくのです。大きな夢や希望や目標を持つ人も出てくる。小さな課題に真剣に取り組んでいく中で人生は活性化していくのです。最終的には、人間に生まれてきて本当によかったと思えるようになる。このような日常生活の好循環を作り上げ、習慣化することが森田理論学習の目標です。森田でいう「努力即幸福」を満喫できるようになれるのです。
2021.03.29
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本日で200万アクセスを達成しました。9年と3か月目での達成となりました。私の予想よりも随分早かったです。始めた当初は10人から15人くらいのアクセスしかありませんでした。その期間がとても長かったです。現在アクセス数は、1000人を下回ることはほとんどありません。現在は平均すると1500人くらいかと思います。熱心に読んでいただいている皆様のおかげです。本当にありがとうございました。厚くお礼を申し上げたいと思います。ただ200万アクセスの達成は、通過点と考えています。今度20年間で1000万アクセスの達成を目標に設定したいと思います。とりあえず300万アクセスの達成ですが、2年半後を予定しています。このブログにアクセスされる方は、さまざまな問題を抱えながら、神経質性格を活かして、実りある人生を送りたいと願って、日々試行錯誤を重ねておられる方であると確信しております。森田理論学習の醍醐味は、神経症を克服するだけではなく、まさにこの点にあると確信しております。私はこのブログを通じて、微力ではありますが、精一杯の応援をさせていただきたいと考えております。さらに自分も成長していきたいと考えています。若い時は対人恐怖症でのたうち回っていました。でも今となっては懐かしく思い出すことができます。森田理論学習のおかげです。若い時に挫折し絶望の淵をさ迷ったとしても、終わりよければすべて良しということだと思います。この道より我を活かす道なし。この道を命のある限り愚直に進む。
2021.03.28
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昨日の続きです。青山学院大学陸上競技部のサポート部隊の役割としてどんなものがあるのか。実際のレースでは出場選手への声掛け、応援、給水、手荷物の保管、走り終わった選手へのケアなどがあります。移動や選手の回収などの役割などもあります。沿道においては幟を立てて選手を鼓舞することも行います。それ以外に部活動としては、重要な役割分担があります。陸上競技部というチームの中には、キャプテン、マネージャー、寮長、学年長という役割を持つ人を置いています。これらは基本的に選手に選ばせています。キャプテンはチーム状態が悪い時に、チーム全体を明るく前向きな方向に導く人です。リーダーシップが求められます。部員からの信頼感がある人です。また部員に自分のメッセージを発信できる人です。会社でいえば経営者です。その時の状況を読んで、方針を立案し、みんなを鼓舞して、チームとしてまとめ上げる能力を持っている人が適任です。マネージャーは、選手のサポート役です。裏方になります。選手として箱根駅伝に出場する希望がかなわなかった人の中から選びます。選手たちのコンディションの把握に努め、日々改善していくのが仕事です。アンテナを、幅広く張って、状況により敏感な人が向いています。細かいことに敏感な神経質タイプに向いています。また、監督と選手のパイプ役という側面もあります。時には監督に変わって、厳しい言葉を伝える必要があります。先輩後輩に関係なく物申せる人物でないと務まりません。反面口の軽い人は向きません。伝えていいことと、軽口をたたいてはいけないことが、よく分かり、実行できる人でないと務まりません。マネージャーになるためには一つの条件があります。それは、選手生活をやり切ったという人でないとダメです。とことんまで自分の限界に挑戦してきたが、設定タイムを期限までにクリアできなかったという人の中から選びます。そういう人がマネージャーになったときに力を発揮するのです。マネージャーが務まる人は、卒業後会社に入っても立派な仕事がこなせます。つぎに寮長ですが、部員の生活管理、衛生管理、整理整頓、食生活の管理を通じて寮の運営を担当します。寮母との相性がよいことが条件です。細かいことによく気が付き、凡事徹底に徹することができる人が適任です。率先垂範の人が適任です。これも神経質性格者がぴったりと合います。学年長は学年全体を束ねる人です。明るく前向きな人で、将来のキャプテン候補です。たとえ、箱根駅伝に出場して選手としてスポットライトを浴びなくても、その人の持ち味を見つけて、部活の中で、居場所を与えて、伸ばしていくことがとても大切だということです。それぞれが自分の課題や目標を見つけて、それに向かって努力精進していくことが、なによりも重要だということです。これはすべての人に当てはまることだと思います。(フツーの会社員だった僕が青山学院大学を箱根駅伝優勝に導いた47の言葉 原晋 アスコム 185ページより参照)なおこの本は、森田理論学習に取り組んでいる人に、役に立つことが沢山ありますので、推薦いたします。
2021.03.28
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本日は田舎でジャガイモの植え付け、ニンジンの収穫、タマネギの追肥と水やり、サヤエンドウの手入れ、5月の連休の夏野菜の定植に向けて畑の整地でした。タマネギはずいぶん大きくなりました。5月末が収穫です。ジャガイモはすでに販売終了となっているお店が多くちょっと慌てました。なんとかぎりぎりで種芋を買うことができました。種芋は2月に大量に販売されていますので、植え付けは3月末ですが種芋は早めに確保しておく必要がありますね。いまはサトイモやショウガの種イモの販売がメインだそうです。サトイモはナスと並んで毎日の水やりが必要なので、週末だけの野菜つくりは敬遠するしかありません。田舎の桜は現在満開です。チュウリップが大きなつぼみをつけていました。我が家の畑では、水仙が色鮮やかに咲いています。とても癒されました。
2021.03.27
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青山学院大学の陸上競技部には約50人の選手がいます。1学年にすると10名程度です。全員が箱根駅伝に出場出るわけではありません。基本的にはタイムの上の選手を起用していくことになります。上級生が年の功で優先的に出場権を獲得できるようにはなっていない。問題は出場できない選手が投げやりになって意欲をなくして、チームの結束を乱してしまうことです。チームがまとまらないと、箱根駅伝で優勝、あるいは上位に入ることはできない。最悪シード権を逃して、次の年の予選会にも敗退すれば、エントリーすらできなくなる。出場できない選手はどう取り扱うかは、監督としては大きな問題です。原監督はそういう選手をどうやって、人間的にも一回り大きく成長させていくかに力を注いでおられます。一つは箱根駅伝とは別の大会への出場を目指して練習させる。10キロの持ちタイムが28分40秒以内が箱根駅伝にエントリーできるかの分岐点です。しかしどんなに頑張っても記録が伸び悩む選手が出てくるのが現実です。能力の限界を超えて、成績を伸ばせと叱咤激励すると、ある程度までは頑張りますが、緊張の糸が切れたときは悲惨なことになります。そんな風に選手を追い込んでも意味がありません。ましてや、そんな選手を見放すことはあってはならないことです。人間無視されて見放されることほど悲しいことはありません。そんな選手には、個人目標を与えてそれを達成できるように支援していく。目標を達成したら最大限に評価してあげる。そして新たな次の目標を与えて、その努力のプロセスを暖かく見守り続けることが大事です。学生スポーツというのは、4年間それぞれの選手の能力に応じて、選手が自ら設定した目標に向かって、努力精進するということが一番重要になります。努力精進によって掲げた目標を達成して、能力の獲得と自信をつけることが大切なのです。それは個人としてもチームとしても大切になります。部活動を通じて、身体能力を鍛える、選手としての能力を伸ばす、日常生活の心構え、人間関係のあり方、折衝能力、交渉力、組織の活性化などを身に着けていくわけです。青山学院大学の選手は、就職面接の際、陸上競技に取り組んだ4年間の成果について、面接官に大いにアピールしているそうです。そういう貴重な経験は、めったに持つことはできない。そのことに寝食を忘れるほど取り組むことで、今後の長い人生に大いにプラスになります。この経験をしたおかげで、普通は学力面で優秀な学生しか入れないような有名企業に数多く採用されている。もう一つは、陸上競技部として成果を上げるためには、何も選手だけが個々の成績を伸ばすだけでは不十分です。それを支えるサポート部隊のすそ野を広げていくことも同時に取り組む必要があります。サポート部隊の重要性を理解させて、選手として出場がかなわない人に、その活動に生きがいを感じてもらうことで、一回り大きな人間になってもらいたい。適材適所の役割を与えることで、選手以上に大きな人間として成長することができます。この点については、明日の投稿で紹介します。(フツーの会社員だった僕が青山学院大学を箱根駅伝優勝に導いた47の言葉 原晋 アスコム参照)
2021.03.27
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この言葉は不即不離、精神拮抗作用の説明です。さらに、この言葉を深耕してみましょう。私がインテリア卸の会社に勤めていたころ、とても気むずかしい部長がいました。ワンマンというか、独裁的というか、不快な感情をすぐに態度にだす人でした。私はそのすぐ下で働いていました。いつも緊張していました。出先の所長職の人は、直接この部長に電話をすることは控えているようでした。部長の精神状態を確認しないで、部長の機嫌を損なうような話をしようものなら、フロアーにひび渡るような罵声を浴びることになります。しかも長話になるのです。そこで、所長職の人は、まず私宛に電話をしてくるのです。今事務所にいるのか。外出しているのか。忙しそうか。そうでもないか。今日はどんな機嫌か。今電話をしてもよい状態か。トラブルの対処やノルマの進捗状況の報告については、特に気を使っていました。「今は問題のある案件を抱えて、荒れている」というと、「分かった」といって、「落着いたら頃合いを教えてくれ」といって電話を切るのです。この作業を行わないと、本来の仕事に支障が起きることが多かったのです。この問題について、森田先生は次のような話をされています。ここに入院している人は、森田を尊敬し、あるいは信頼しているからこそ入院したわけで、森田がこわいのは当然のことであります。この森田がこわいという心そのままであると同時に、一方では森田の話を聞き、指導を受けたいという心があるはずです。このこわくて逃げたい気持ちと、近づいて幸福を得たい気持ちとがはっきり対立している時に、私どもの行動は微妙になり、臨機応変になり、最も適切になり、いわゆる不即不離の態度となるのであります。間違った態度の人は、こわいとか恥ずかしいとかという心を否定し圧迫しようとし、一方には近づきたいという心をやたらに鞭うち、勇気をつけようとして無理な努力をし、その結果は精神の働きがかえって萎縮し、かたよったものになってしまうのであります。こわくないように思おうとするから、ムリに虚勢を張ってかたくなになり、しいて近づこうとするから、相手の迷惑などには少しも気がつかず、ずうずうしくなってしまうのであります。これらの話から分かることは、相手にお構いなしの自己中心的な行動は問題だということです。自分の気持ちや感情を優先して行動するとうまくいかないことが多い。その時の相手の状況を観察して、接触のタイミングを見極めることが大切になるということです。そして時期尚早と判断すれば、いったん引き下がる。チャンスを待つことです。その際、全く目をそらせてしまうことはダメである。絶妙のタイミングがやってくるまで、遠巻きに観察を続ける。ここがチャンスと判断したときには、不安であっても思い切って行動する。この手順を間違えて行動してはならないと教えてくれているのである。言い換えれば、刻々と変化する目の前の状況をよく観察して、その変化にこちらから合わせていくという態度のことである。(新版 自覚と悟りへの道 白揚社 73~76ページ)
2021.03.26
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青山学院大学陸上部監督の原晋さんのお話です。天才は、10のうち4ぐらいまでは何も考えずにできてしまいます。しかし、凡人は、その4まで到達するのが難しい。天才が現役を引退して監督やコーチになる場合があります。どうしても上から下目線で選手を見てしまう。それは、自分が難なくできていたところで足踏みしている選手を見たとき、「どうしてできないのか」と思ってしまうのです。手を抜いているからできないのだと判断してしまう。なげやりな態度で真剣に取り組んでいないから、記録が伸びないのだと判断してしまう。つまり、選手の目線に立つことができない。「かくあるべし」が強く出てしまう。これは何を意味するかというと、天才だった人は、苦労して能力を伸ばしたという経験がないので、1から4までを導くことができないのです。「名選手、必ずしも名監督にあらず」というのはそういうことです。現役時代名選手だった人は、元々能力が高く、そこを出発点として、さらに努力を積み重ねて栄光をつかみました。そういう人が監督やコーチになる場合は、過去の栄光は一旦白紙に戻すことが必要です。「自分についてこい。自分の指示に従っていると名選手になれる」という指導をしては、指導者としては失格です。その選手のレベルを見極めて、そのレベルを一段階押し上げるのだという姿勢が求められます。相手に寄り添った指導を心掛けることです。元々高い技術や能力を持っているわけですから、後は相手の状態を見極めて、寄り添っていく指導を肝に銘じていけば、「名選手で、しかも名監督にもなれる」ということです。選手として凡人だった人が、監督やコーチを引き受ける場合はどうすればよいのか。原監督は次のように言われています。私のような凡人監督は、虚勢を張らずに、1から教えられるかどうかを常に頭に入れておく必要があります。私も監督就任当時、虚勢を張っていました。現役時代に、箱根駅伝やオリンピック出場という華やかな実績がなかったことでネガティブな気持ちがあり、焦りがあったのがその理由です。自分を強く見せなければ、選手がついてこないのではないかと必要以上に目線を上げていました。大した実績もない自分を選手たちは信頼してくれないのではないか。そもそも実績のない自分が監督をする資格があるのだろうかと不安になっていたのです。監督やコーチになった人は、周りから、この人は監督やコーチの器であると認められたからこそその立場にいるのです。リーダーシップを発揮する人、経営者、指導者としての適性は、選手としての適性とは全く違います。その適正が感じられない人が監督になれるはずはありません。監督の適性について次のように指摘されています。まず目標設定能力がいります。目標達成に至る青写真を描ける人のことです。またそれに向かって努力を惜しまない人。多くの選手たちをまとめ上げ統率できる能力。自分のことは横において、相手の立場に立つことができる人。選手の目線に立ち、もう一段階能力を引き上げるための指導力のある人。他の部署との折衝能力のある人。協力者を集める能力のある人。などなど。そういう意味では、選手時代の能力はあまり必要ではありません。そこに胡坐をかくようだと、むしろ邪魔になる。それよりは、計画立案能力、目標達成に向かっての燃えるような情熱、チームをまとめ上げる能力、人間関係、交渉力などが必要です。原監督は選手としては無名であったが、中国電力で営業マンとしては抜群の成績をたたき出しておられました。自分の得意な面を青学の陸上競技部の組織運営に活かされて成功されたされたものと思います。選手時代は華やかな成績がなかったことが、むしろプラスになって作用したのではないでしょうか。人間はある面では、他人と比較して劣っていても、別の面では優れているところがあるのかもしれません。優れた点や自分の強みを早く見つけ出して、そこに焦点を当てて、磨き上げていくことが何よりも大事になります。私たちの場合は、かけがいのない神経質性格の優れた面を再認識して、そこで勝負するという決意を固めて、実際に実行に移すことです。
2021.03.25
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2020年11月14日発売の週刊現代に、65歳を過ぎた夫と妻の「やってはいけないこととやめるべきことの」特集記事があった。この記事をヒントにして、「やってはいけないこと」を、私なりに整理してみました。健康面・病院に通うのが日課になっている。・サプリや健康食品を手あたり次第買い込む習慣がある。・朝起きて今日は何をしようか考える。・昼間1時間以上昼寝をしている。・起きている時、いつも横になる癖がある。・お茶、コーヒー、お菓子は欠かせないという状態である。・テレビはほぼつけっぱなしである。・パソコンはほぼ一日見ている。・移動はバイク、自動車、バス、電車を利用している。・まず歩かない。運動しない、ストレッチをしない。嚥下防止体操をしていない。・家から出るのは、買い物をするときだけ。・家族以外の人と会話することがほとんどない。・晩酌を心ゆくまで楽しんでいる。経済面・医療保険以外にも、生命保険に入っている。・年金で株式投資をしている。・パチンコ、競馬、競艇などのギャンブルが大好きである。・パソコンゲームに時間を忘れるほど夢中になっている。・お金をためることばかり考えている。節約志向で、使うことを考えない。・子供や孫に言われるがままにお金の援助をしている。人間関係・配偶者と一日中一緒の行動をしている。・配偶者と3食共にしている。・毎日配偶者につきあって買い出しに行っている。・お互いの欠点を指摘しあう。・嫁の悪口を言う。・近所の人、親戚、友人たちのよくない噂話をして盛り上がっている。・孫のしつけや教育に口を出すことがある。ここにあげたことが当てはまるといって腹立たしく思われる方がおられましたら、お許しください。非難しているわけではありません。長生きするために問題提起しているのです。また程度の問題であり、そこそこの場合はかえって健康維持に役立つと考えています。さて、私は健康面では、マンションの管理人をしている。規則正しい生活になっている。仕事で階段の上り下りをして足腰を鍛えている。毎日7000歩から8000歩ぐらいは歩いている。通勤は速歩を取り入れている。3分間の速歩きをしたのち、3分間ゆっくり歩くことを繰り返す歩き方のことである。足が衰えると、同時に脳も衰えると考えている。1年に1回は生活習慣病診断をしている。がん検診をしている。多少の異常値は出ているが、決定的なものは出ていない。検査は欠かせないと考えている。ガンになって手遅れという人は、検査嫌いの人が多いようだ。仕事をしてある程度の収入があるので精神的なゆとりがある。パチンコなどのギャンブルはしない。ネット麻雀を少しだけやる。1週間に2回程度。時間は30分ぐらい。株式投資は余裕資金でやっている。楽しみになっている。生命保険はやめた。掛け捨ての医療保険にだけは入っている。子供や孫には定期的なお金の援助はしていない。お金よりもお米や自家用野菜などを送っている。入学や卒業の時、お祝いはしている。妻とは趣味も考え方も違うので、普段は別々の行動をとっている。夕食、休みのときの買い出し、田舎での野菜つくりだけは共同で行っている。妻は車の免許を持っていないからだ。妻は「亭主元気で留守がよい」などと言う。ママさんコーラスが息抜きになっているようだ。私もその方が精神的に楽だ。口喧嘩は大いにしているが、別に仲が悪いというわけではない。相手のやっていることを干渉し過ぎないという考えだ。お互いに多彩な人間関係を築いており、妻もイベントがあるたびによく出かけている。それぞれがやりたいこと、やるべきこと、やらなければいけないことを淡々とこなしている。こういう方針でこれからもやっていきたい。そしてともに90歳まで、できれば100歳まで人生を楽しみたいなどと話している。果たしてどうなることやら。
2021.03.24
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世の中には珍しい同好会があるものである。ワイン好きの人が1か月に1回集まって高級ワインを味わうという会がある。会員の紹介があったので特別に参加させてもらった。正式メンバーは固定されているので、今回限りの参加だと言われた。一人2000円から5000円程度出して、高級ワインを1本だけ買う。一人では無理でも、人数が集まれば高級ワインを味わうことができるのだという。買い求める人は順番制になっているという。そのワインを開けて試飲して、感想を述べあうのである。そして評価をおこなう。歴史、産地、生産者、原材料となるブドウの種類、醸造法、ワイングラス、貯蔵などにやたら詳しい。それから、個人が今後期待しているワインについて意見を述べる。現在所蔵しいているワインを紹介する。普段飲んでいるワインの特徴を紹介する。ワインにまつわる情報や知識を拡げながら、素敵なワインに出会えることを夢見ているのである。決してワイン好きな人が、心ゆくまでがぶ飲みするような会ではない。そのため3時間ほどで終了となった。華やかな香り、柔らかな酸味、まろやかな渋みを味わいながら、至福の時間を過ごそうというのである。そういえば、集まっている人はなんだか雰囲気が違う。これは場違いなところに来たと思った。話がかみ合わないので聞くばかりである。ここに集まっている人たちは、生き方や考え方が精錬されているように感じた。普通の人を寄せ付けないオーラ、人間味を醸し出しているように感じた。私は今までワインは好きではなかった。1000円以下でコルクもついていないようなワインばかり飲んでいたため本物の味が分からなかったのだ。ワインは、ビール、清酒、焼酎、高級ウィスキーの足元にも及ばない飲み物だと思っていた。ポリフェノールが豊富で体によいので、我慢して飲むものだと思っていた。それは間違いだということがはっきり分かった。その認識はすべて払拭された。現在は、2000円程度の赤ワインを少しだけ飲んでいる。特にアメリカ産で「アポテックレッド」というワインが気に入っている。やや甘口で、今までのワインと比べて口当たりが全然違う。私の好みに合ったのだろう。原料のブドウは、メルロー、ジンファンデル、シラー、カベルネ・ソーヴィニヨンを混ぜ合わせて作っているようだ。フランスのボルドー地方では、このメルローとカベルネ・ソーヴィニヨンが主力だそうだ。友人に聞いたら、ワインは種類が多いので、飲み比べて自分に合うワインを見つけるのが楽しいと言われた。しかし予算もあるのでなかなか高級ワインには手が出ない。先日なんでも鑑定団に、1本が450万円と鑑定されたワインの出品があった。それが作られたのは、たしか1987年だった。醸造したのは、神の手を持つと言われたフランスのアンリ・ジャイエという人だった。フランスの東部ブルゴーニュ地方でブドウ栽培と醸造をされていた方である。すでに故人であるが、どんどん価格が高騰して幻のワインと言われている。この地方で作られるワインは、ピノ・ノワールという品種である。しぶみが少なく、柔らかな酸味、華やかな香りがするという。その中でも、アンリ・ジャイエは、化学肥料は一切使わない。それは葡萄の根が地中深く伸びていかないからだという。年5回土に酸素を送るために耕している。良果を得るため収穫量を制限している。そのために徹底した間引きをおこなう。不良な果実は絶対に使わない。その結果2割程度は廃棄している。選りすぐりのブドウを低温深漬し、自然酵母でゆっくりと熟成させている。そのアンリ・ジャイエが次のように語っている。「単なる飲み物に過ぎないと考えてワインに近づいてはならない。ワインは私たちの生き方であり、人生を彩る楽しみの一つなのだから」ブドウ栽培とワインの醸造に真剣に関わることで、人生を謳歌し、生きがいを見つけてきたと言いたいのであろう。本物は違う。本物の生き方は多くの人に大きな感動をもたらすということだと思う。私たちも森田理論学習によってそういう人間になりたいものです。
2021.03.23
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会社で営業をしていると、ノルマが毎月未達でチームの足を引っ張る社員がいます。女子マラソンの指導者の小出義雄さんは、そんな社員を叱りつけてはいけないという。他の社員と比較して、なじってもいけない。そんなことを言うと、できの悪い人間はますます小さくなり、落胆してしまう。希望を失って意欲は減退するばかりになる。小出さんはそういう社員がいたなら居酒屋などに誘う。酒を飲みながらの話はすぐに打ち解ける。そして、その社員のよいところを評価するようにするそうだ。どんな人間にも、必ず一つや二つ、取柄はあるものだ。不成績にばかり目がいき、長所を見逃している場合は多々ある。いいところをほめられて悪い気のする人はいない。普通はそこで終わってしまう。小出さんはもっとやる。実はここが一番言いたいところだ。それは、「へり下りと謝り」である。へりくだって相手のことを敬うことは、言葉でいえば謙譲語と言われている。「キミの成績が思うように上がらないのは、みんな上司であるオレのせいだ。オレの頑張りが足りないから、キミに苦労をかけてすまない。オレがしっかりしてさえいれば、キミの能力をもっと発揮させられるのに・・・。これから、キミに苦労をかけないように努力するから、キミも頑張ってくれ」(小出監督の女性を活かす「人育て術」 二見書房 72ページ)なんとも心憎い演出です。実際は居酒屋に誘っても、褒めるよりも説教する人が多い。上から下目線で相手を批判する。否定する。「かくあるべし」を一方的に押し付けるのだ。叱咤激励すれば相手は改心してくれると信じている。少し考えれば、事態はますます悪くなることが見え見えなのだが、そんなことには少しも気がつかない。はっきり言えば、上司、リーダー、監督、先生の器ではないということです。イソップ物語に北風とマントの話がある。北風が男のマントを脱がせようと、強風を吹かせる。力づくで男のマントをはぎ取ろうとするのです。しかし男ははぎ取られないように必死になって防衛する。北風は目的を果たせず退散する。つぎに、太陽が顔を出す。暖かい空気を送り込むと、男は自分からマントを脱いだ。成績の悪い部下は、会社でも居場所がない。孤独である。みんなから役に立たないお荷物として軽蔑されている。営業の基本が分からない。やり方が分からない。でも手を差し伸べてくれる人がいない。四面楚歌の状態で絶望しているのです。そんな時に、相手を否定することは北風のやり方と同じです。ここでとる態度は上から下目線で叱咤激励することではありません。相手の悩み、葛藤、言い分をよく聞いてあげることです。相手に寄り添う姿勢が上司に求められるのではないでしょうか。これは親子や夫婦の人間関係でも同じことです。一方的にこちらの意見を述べるのではなく、まず相手の話をよく聞く。弁明の機会を与えるのである。軽率に是非善悪の価値判断を行い、「かくあるべし」を押し付けない。事実をありのままに承認してもらうことが先に来ないと、相手からそっぽを向かれてしまうのではないでしょうか。溝はどんどん開いていく。集談会で家族の人間関係が悪くてストレスが溜まっているという話を聞きます。こういう場合は小出義雄さんの話を参考にしてみてはいかがでしょうか。
2021.03.22
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青山学院大学陸上部監督の原晋さんは、陸上競技部の基礎となるものは「規則正しい生活」と「適切な栄養補給」だといわれています。青学陸上競技部の場合、朝5時起床、門限22時、消灯22時15分が基本です。また、朝食と夕食は栄養を管理した寮の食事をとり、寮内の自室はもちろん、食堂や廊下などの共用部分はみんなで掃除する。この生活を4年間続けるのです。かなりハードルが高いと思われませんか。修行僧のような感じです。朝毎日5時起きはつらい。週一回もきつい。私は6時20分に起きることにしています。このブログの投稿があるので何とかその時間には必ず起床しています。夜10時15分消灯というのは難しいです。どうしても12時くらいになる。また、いつもは早寝早起きをしていても、土日、祝日は崩れてしまうことがあります。そんな事をして何の意味があるのですか。規則でがんじがらめで息苦しい。楽しみがなくなる。ストレスになる。そんな気持ちが少しでも頭をよぎるようだと、絵に描いた餅になってしまいます。習慣化して継続することは難しい。言うは易く行うは難しということです。でもこの規則正しい生活を維持することは、森田理論が強くお勧めしていることです。生活の土台ができていないうちに、症状を取り上げて克服したいというのは虫がよすぎるのではないかということです。原監督就任当時は朝の練習に遅れる選手が何人もいたそうです。練習場までの800mさえ走らず、コンビニに立ち寄る選手もいました。寮を抜け出して、コンビニで漫画を立ち読みしていたり、外泊する選手もいました。こういう当たり前の生活習慣を定着させるのに3~5年くらいかかったそうです。それくらい習慣化することは難しい。でも、規則正しい生活が欠けていると箱根駅伝優勝という目標は夢のまた夢となってしまう。規則正しい生活の重要性は、高校時代の体験があったからだそうです。1年先輩は1500m、5000mの高校記録保持者がいました。そのために全国高校駅伝競走大会の優勝候補の筆頭といわれていました。ところが結果は惨敗だったそうです。その原因は一体感のなさと乱れた生活にあったと分析されています。成績に胡坐をかいて、選手同士が切磋琢磨して、刺激を与えあうチームではなかったのです。原さんが最終学年でキャプテンになったとき、それを反面教師にしました。同じ時間に起き、みんなで練習し、食事に気を使って、同じ時間に寝る。それを繰り返していくことで、チームには一体感が生まれました。全国的にも注目度が低く、監督からは駄馬軍団と言われていましたが、結果は準優勝でした。能力的には1年上の先輩たちがはるかに上だったのですが、結果は私たちのほうが上回ったのです。早寝早起きの規則正しい生活の重要性が身にしみてわかっていたのです。私たちも心を鬼にして「規則正しい生活」を習慣化していきたいものです。神経症を治すということは、その基礎ができた人に挑戦権が与えられるということです。この投稿は、「フツーの会社員だった僕が青山学院大学を箱根駅伝優勝に導いた47の言葉」を参照しています。
2021.03.21
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本日はつりさげひな祭りから依頼があり、1年ぶりにチンドン屋興行がありました。文章だけではわかりにくいと思います。you tubeだと、どんな様子か少しは分かるかと思います。ためしに検索してみてください。ピンクの帽子をかぶっているのが私です。アルトサックスを吹いています。
2021.03.20
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2021年2月号の生活の発見誌に次のようなお悩み相談がありました。いろんな雑念や強迫観念が次々起こり、生活に支障が出るほど困っている。森田神経症の典型的な悩みのようです。森田ではどのような解決策を提示しているのでしょうか。不安を取ろうと努力すればするほど取れません。むしろ精神交互作用でますます悪化してきます。不安をなくしてしまおうとしても、どうにもなるものでもない。また、気分本位になって逃げまくっていると、自己否定で苦しむようになります。森田理論では不安の裏側には、必ずそれに対応した欲望があるという立場です。不安が小さい時は欲望も小さい。欲望が大きくなれば不安もそれに比例して大きくなる。不安にばかり注意や意識を集中させるのではなく、むしろ欲望の方に注意や意識を向けていきませんかという理論なのです。これを、森田理論では「生の欲望の発揮」と呼んでいます。これは難しいと思われるかもしれません。不安には直接手を付けないわけですから、こんなことでよくなるわけはないと思われるかもしれません。実際私も最初はそう思いました。集談会では、不安の取り除き方は何も教えてもらえない。実践課題を作って、日常茶飯事に丁寧に取り組みなさいと言われる。会社では一生懸命に仕事に取り組みなさいと言われる。失業中の人には早く仕事につきなさいと言われる。仮病を使って休んではいけません。苦しいからといって退職してもいけない。藁をつかむ思いで集談会に参加したのに、がっかりしました。でも私の場合は、薬物療法だけでは行き詰っていました。森田療法に従うしか道がなかったのです。仲間のアドバイスを受けながらの半信半疑の取り組みでした。これが効果がある事が分かったのは、実践課題が軌道に乗り始めた後です。NHKの番組で山里亮太さん司会で「逆転人生」という番組があります。私の好きな番組でよく見ています。この番組に登場する人は、経済的にも精神的にも、全員どん底を味わっています。間違えば人生を投げてしまってもおかしくなかった人たちです。しかし、どこかで反転のきっかけをつかみ、再び浮上しています。この番組の冒頭で、青い矢印がどんどん下降していきます。奈落の底に突き落とされているようなものです。この時は精神的、肉体的、経済的、人間関係で苦しんでいます。しかし、その矢印は、やがて底を打って反転しています。すると、矢印が青色から赤色に変わりどんどん上昇していきます。そこには人生が好転するターニングポイントがあったのだと思われます。幸運、人の援助、協力者、励まし、自助努力などがあったのです。それが全く掴めなかったらいつまでも下降していたはずです。森田ではそのターニングポイントに当たるものは何でしょうか。自分の人生が切り替わるポイントは何でしょうか。ズバリ言いますと、雑念や強迫観念はどうすることもできない。無くして精神的に楽になることはできないと体感することです。治すことや逃避する道を断念する。そういう覚悟を決めるということです。それが逆転人生の転換点になるのです。マラソン選手でいえば、オリンピックの出場権を得て、スタート地点に立つことができたようなものです。そこに立つことができると、人生はすぐに好転してきます。これは私も体験していますので、間違いありません。でもこれは、簡単なことのようですが、スタート地点に立つことは本当に難しい。不安神経症の人はどん底に落とされることが多いので、絶体絶命の心境になりやすいのです。強迫神経症の場合は、絶体絶命の状態に追い込まれことが少ない。どん底に落ちる度合いが多ければ、あきらめも早い。頓悟というのは不安神経症の人の為にある言葉かもしれません。あとで振り返れば、それが逆転人生の出発点となっていたということです。治す努力をきっぱりとやめる。やめざるを得ない状況に自分を追い込む。神経症を取り除くことが、治るということだという誤った認識がなくなった時、神経症克服への転換点になるということを頭に入れてほしいのです。そういう気持ちで森田理論学習に取り組んでほしいものです。
2021.03.20
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神経症の渦中にいる人にとっては、ホッとする言葉になります。神経症を治そうとしなくてもいいのですよとお墨付きをいただける言葉だからです。でもそのままでいいなんて、症状の解消はできないですよね。なんかあきらめに近い言葉みたいですね。実はそうゆう事ではないのですよ。今日はこの言葉から症状を乗り越えるということを考えてみましょう。神経症というのは、もともと自分が自分自身に対して、解決困難な問題を考え出して、答えを導きなさいと迫っているようなものです。普通の人でしたら、そんな課題に真剣に取り組もうとしていないのです。興味や関心がないのです。時間の無駄だと思っているのです。そんな難しい課題や問題に取り組むよりも、目の前の解決可能な問題に取り組んだ方がましだ。学校のテストでいえば、やさしい問題を見つけて、確実に点数を稼ぐという戦法です。実を取る作戦、実利主義、現実主義を徹底しているのです。難しい問題はみんなもできないはずだから、大勢に影響はないはずだと思っているのです。また気になっても、目の前の仕事、家事、育児、勉強、付き合いなどに忙殺されて、かかわりあう時間的余裕がないのです。この方法は生活が好循環に向かうのです。神経質性格者は、真面目で責任感が強い。一旦食いついたら決して離さないという粘り強い面があります。これらは神経質者の長所ですが、反面短所もあります。気分本位になって、気が進まないことからすぐに逃避する。日常茶飯事のような価値のない事よりも、もっと意味のあるクリエイティブで、他人から称賛を得られるようなことに取り組みたい。誰でもできることは、人に頼るほうがよい。理想主義、目標達成第一主義、コントロール至上主義に陥ることがあります。そんな状態で生活していると、行動力が低下して、自己内省的になります。極めつけは、観念上の言葉遊びを繰り返すようになります。その時考えることはネガティブな事ばかりで、行動することはますますおっくうになります。そして精神交互作用で神経症の泥沼に落ちていくのです。これは学校のテストでいえば、やさしい問題はいつでもできるので、後で時間の取れたときにやればよい。それよりも誰も解けないような難問を見つけ出して、全エネルギーを投入している。その難問が解けないうちに時間切れとなってしまう。当然よい点数はもらえません。でもそのやり方は、別に悪い方法ではないと確信しているようなものです。実際には生活の悪循環で行動が停滞しています。「悩むあなたのままでよい」というのは、神経質性格者が、様々な不安、恐怖、違和感、不快感で葛藤、苦悩してのたうち回っている状態を見て、それを意志の力で無くさなくてもいいのですよと教えてくれているのです。それらは取り除く必要はありません。また取り除くこともできません。また心配性という神経質性格も、発揚性気質、社交的で外向的な性格に転換することはできませんよ。その必要もありません。つまりいくら現状の自分に不満であっても、非難、否定してはいけないということです。他人と比較して、才能や能力面で劣っている。容姿が悪い。貧しい生活をしている。などと思っても、自分を嫌悪・否定してはいけない。それらは放置しておけばよいということです。目の付け所を変えていけばよいのです。あるがままに受け入れて、目の前のなすべきことに全エネルギーを振り向けるのです。神経質性格は、理知的、分析的、真面目で責任感が強い、粘り強い、生の欲望が強いという優れた特徴がありますので、それらに磨きをかけていく方が得策ですよと教えてくれています。どんな状況に陥っても、自分は自分の敵に回ることは決してしない。自分というかけがいのない身体と精神を持った存在に、優しく寄り添って守り抜いてみせるぞという決意を固めて実践する態度が求められているのです。誰しもよく考えてみると、自分という一人の人間の中に、現実で苦しみのたうち回っている自分とそれを上から下目線で眺めて自己嫌悪している自分が同居していることに気が付きます。「悩むあなたのままでよい」というのは、強力な「かくあるべし」押し付けているもう一人の自分を自分の頭の中から追い出してしまいなさいと言われているのです。そして事実にしっかりと基盤を築いて生きていきましょうということなのです。現実の自分という立場をわきまえて、そこから少しだけ目線を上にあげて生活していくことが大切なのではありませんかと教えてくれているのです。
2021.03.19
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人生は自分の強みや長所で勝負しなさいと言われます。でも人と比較して特別に優れた能力もない。実力もない。学力もない。学歴もない。体力もない。スポーツ、音楽、絵画などは大の苦手です。毎日生きていくことが精いっぱいで貯えもない。神経質性格の持ち主で、細かいことが気になり、いつもビクビクしながら生活している。強みや長所なんてなにもないと嘆く人が多い。元女子マラソンの指導者の小出義雄さんは、高校の先生だったころ、校長先生から、「お前は教室で間違いを教えるから、昼間は校長室で寝ていろ。課外活動の時間になってから動いてくれ」と冗談を言われていたという。小出さんは小さいころはガキ大将で、スイカ泥棒などを繰り返していたという。それで逃げ足が速くなったといわれている。自分の長所は、「足が速い事」「夢や情熱があること」「やりだしたら途中であきらめないこと」「陸上で成果を出すための努力を厭わないこと」と言われている。それに磨きをかけることで、女子マラソン界に旋風を巻き起こした。小出さん曰く。人間、誰にでも必ず一つや二つは長所があるものだ。どんなワルといわれる子にも、逃げずに忍耐強く接触したら、必ず長所は見つかると、私は確信を持って言える。(小出監督の女性を活かす「人育て術」 二見書房 参照)短所や弱みを修正したり、無くするために、多くのお金を使い、時間を割いて涙ぐましい努力をする人が後を絶たない。そんなやり方は問題があるのではなかろうか。そんなことに注意や意識を傾けていくと、元々ある自分の強みや長所にヤスリをかけて、削っていくことになるのではないか。そんなことより、長所や強み、興味や関心の持てるものを早く見つけ出して、そちらの方にエネルギーを投入し、磨きをかけていく方がよほど意味があるはずだ。その方がきっと将来の展望が開けてくるはずだ。でもないない尽くしの自分に何があるというのか。そういう人に言いたい。神経質性格というものがあるじゃありませんか。どんな性格にも二面性があります。神経質性格は細かいことにもよく気がつくという特徴があります。感受性が鋭い。自己内省性もある。粘り強い。責任感も強い。好奇心も強い。よりよく生きたいという気持ちを持っている。これは天性のものです。後からお金を出して買い取ることはできません。この宝物を、磨いて伸ばしていけば、素晴らしい人生を送ることができます。神経質性格の人は、ネガティブな部分に焦点を当てることが多いと思います。それは横において、ポジティブな部分に焦点を当てて、生きていくと覚悟を決めてしまえば人生は全く違ったものに変身します。森田理論学習で「神経質の性格特徴」を、この視点から学習し直してみてください。
2021.03.18
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今日は課題や目標について考えてみたいと思います。人間は問題や課題を抱えて、それを何とかして乗り越えようとする宿命を持った生き物だと思います。大脳が高度に発達した人間は、その宿命に沿った生き方を目指すことが求められているのだと思います。課題や目標、夢や希望を持って挑戦していく中に、生きる意味は存在しているのではないでしょうか。ですから課題や目標のない生き方は、もはや人間とは言えない。表面的には人間ではあっても、大脳が発達していない動物と同じだと言えます。目標と言えば、いきなり大きな目標を考える人がいます。たとえば山に登るのに、いきなりエベレスト、モンブラン、デナリ、マッターホルン、キリマンジャロ、アコンカグアを目指すと宣言するようなものです。日本百名山の10座も踏破したこともないのに、いきなりは無理です。小さい目標を達成した後で、徐々に目標を上げていくことが大切です。近くの山、日本百名山でも近くまで乗り物で行ける山、富士山、剣岳のような登頂困難な山、夏山から冬山を踏破した後に大目標を設定するべきです。私たちの場合は日常生活の中で小さな課題や目標を見つけていくことが大切だと思います。そのためには、まず規則正しい生活を心掛ける。つぎに「凡事徹底」を生活信条として、なにごとも丁寧にこなしていくことです。規則正しい生活、凡事徹底の当たり前の生活の中から、夢や目標を育てていきたいものです。そのように心掛けていると、仕事に追われるのではなく、仕事を追っていけるようになります。投げやりで惰性に流される生活から、普段の生活の中で、小さな楽しみをたくさん見つけることもできるようになります。人生を大いに楽しむことができるようになるのです。小さな課題や目標を持って生活できるようになったとき、できればもう少し大きな目標を設定してみましょう。会社でいえば、中期計画、長期計画に当たるものです。私たちの場合でいえば、1か月の実践目標、あるいは1年計画というのはどうでしょうか。神経症で真っただ中という人は、神経症と格闘して日常生活はほったらかしという場合が多いのではないでしょうか。私もそうでした。集談会では、対人恐怖症の直接的な乗り越え方は教えてもらえませんでした。そのかわり、毎日実践課題を5個ぐらい作って取り組んでみるようにアドバイスされました。藁をもつかむような苦しさでしたので、愚直に取り組んでみました。今は当たり前にできている、布団上げ、靴磨き、食器洗い、部屋の掃除、風呂の掃除、トイレの掃除、挨拶をする、洗車をするなどでした。毎日の実践を日記に書いて、まとめを1か月に1回の集談会で報告していました。これで当面の神経症を乗り越えてきました。つぎに、生活の発見会の集談会で次のように聞きました。1年経過したときに、この点は1年前と比べて明らかに変わった点がある人は、神経症はいつの間にか治っていく。そのためには、1年間の目標を持つことが有効になります。一つでもよいと思います。なんでもよいと思います。たとえば、1年間はよほどのことがない限り、集談会に出席する。森田全集第5巻を1年かけて読む。生活の発見誌を欠かさずに読む。できれば感想文を書く。その中から、気に入った記事を一つだけ選んで、集談会の場で発表する。少し努力すれば達成可能な目標にすることが大切です。目標は具体的であることが肝心です。できれば数値目標を立てておくことが励みになります。たとえば、森田全集は774ページありますから、1か月あたりでは64ページになります。1日あたりでは2ページくらいです。これを1年間続けたあなたはきっと自信がついていると思います。つまり人間として成長したということです。そしてできれば10年先、20年先の目標も立てておくことがよいと思います。私の目標はこのブログをあと20年続けて、1000万アクセスを達成することです。1年間40万アクセスを続けることができれば達成可能となります。そのために、速歩運動、嚥下防止、読書、趣味のボランティア、自家用菜園、加工食品作りを継続していこうと思っています。最終的にはピンピンコロリを目指しています。目標というものは、その途中は苦しいことがつきものです。それで途中で放り投げてしまう人もいます。そして、根無し草のようになってしまうのです。私は大学時代神奈川県の丹沢山系で沢登りをしていたことがあります。20メートルぐらいの岩場を登るスポーツです。登っている最中に少しでも下を見ると怖くて登れなくなる経験をしました。登っているときは手や足をかける場所を探して、常に3点確保に集中しないと大変なことになるのです。もちろん命綱があり死ぬことはありませんが、恐怖心は残ったままです。下を見るというのは、森田でいえば理想の立場に自分を置いて、理想とは程遠い自分を眺めて叱咤激励しているようなものだと思います。常に今に集中して、一歩また一歩と上を目指すしか道はないのです。それが人間に生まれた私たちの宿命だと思っています。
2021.03.17
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森田先生のお話です。私は昨日、古閑君の祝賀会で、雅叙園に行くのに、あの激しい風雨であったので、もし出かけて、身体に障りはしないかと心配して、行こうか・やめようかと迷った。それで、「迷い」というのは、行こうか・行くまいかかと、ただ二途にのみ思いが循環して・限りのない事である。もしどちらか一方に仮定して、例えば行くと決めれば、行く事ができるかどうかの疑問ということになって、そこで行くについての種々の条件をいちいち考究して行けば、必ず解決の結果に到達する。すなわち迷いには果てしがないが、疑問には解決があるのである。(森田全集 第5巻 659ページから660ページ)この話を身近な話でしてみよう。誰でも結婚適齢期になれば、「あんな人と結婚すれば毎日楽しいだろうな」と思うような人が現れる。そして積極的に話しかけて、なんとか相手の気を引こうとする。うまく交際に発展すれば、望外の喜びとなる。しかし神経質者に多いのは、積極的な行動をとらずに、遠巻きに眺めている。相手の方から言い寄ってくれないかなと、淡い期待を持って待っている。相手もまんざらではなさそうなので、ひょっとすると、という気持ちを持っているのだ。しかし、まわりからけしかけられていても、何も行動を起こさない。この状態は、近づきたいという気持ちともし拒否されたらどうしようという気持ちが頭の中を循環して果てしがない。やるせないわだかまりの気持ちで勉強などが手につかなくなる。そのうち好意を寄せていた相手が、他の人と仲良くなり、「二人は結婚するらしい」という話が飛び交うようになる。相手も何も行動を起こさない自分に愛想が尽きたのだ。その時初めて後悔する。失ったものの大きさに気づく。でもすでに後の祭りである。そして積極的に行動しなかった自分を責めるようになる人もいる。これは私の大学時代の苦い経験である。こういう傾向の人は、やろうかやめようかと迷った時、行動への選択を先延ばしにする。そして観念上の言葉遊びを始める。それを延々と続けるのです。その時は行動した時のデメリットをいくらでも思いつく。行動に移して、もし失敗して恥をかいたらどうしよう。みんなにそれ見たことかと笑いものにされてしまうに違いない。それだけは何としても避けなければならない。どう見てもそうなる可能性が高い。などなど。遂に手も足も出なくなるということになります。森田理論では、やろうかやめようかと迷った時は、できるかどうかとは無関係に「まずイエス」と答えて引き受けなさいと言われる。これに対しては反論もある。それはあまりにも無謀だ。できるという自信がある人ならいいが、自信もないのに安請負するのは、あまりにも軽はずみな人のすることだ。また神経質者は石橋を叩いても渡らないような人が多い。そんな無茶なことを煽って行動を鼓舞するのは如何なものか。ここで森田理論が言いたいのは、観念上の言葉遊びを延々と続けることはやめませんかということです。欲望が発生すれば、それを何としても成就したいと思うのが人間です。その過程では必ず障害物が存在しています。それに怖れをなして、おめおめと欲望をあきらめてしまうというのは、人間の本来性を無視することになります。森田理論はこのことを声を大にして言いたいのです。欲望はあきらめてはいけない。生の欲望を発揮していくのが本来の人間の在り方です。障害物や壁があれば、それを乗り越えて、欲望を達成するために、どうしようか考えるのが人間ですよ。最初の話に戻りましょう。迷った時にどう行動すればよかったのか。自分独りではどうにもならなかったのですから、彼女のいる友達に相談する。どうすればよいのか智恵を借りるのだ。そして今度のデートの時に同行させてもらう。それぐらいだったら声掛けができたかもしれない。ダメならきっぱりとあきらめることもできる。いきなり大きなことはできないが、できることから手をつける事から始めれば、その後の展開はまた違っていたのかもしれない。それをいつまでも観念上の言葉遊びで満足していたのだから、お人好しな人だったと言わざるを得ない。
2021.03.16
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森田先生のお話です。「心頭滅却すれば、火も亦涼し」という事があるが、思うにこれは、洞山禅師の「暑さ寒さになりきれ」というように、苦痛・不快は、そのまま苦痛不快になり、あるがままになりさえすれば、そこに差別はなくなり、絶対になって、心頭のはからいがなくなり、苦痛も消滅するということであろう。苦痛はそのまま苦痛する。やはり絶対である。しかもそれは事実であるから、なんの策略も・骨折りも・修行もいらない。ただこれだけの事で、神経質の頭痛・不眠・耳鳴り・胃アトニー・心悸亢進発作やなんでも極めて簡単に全治する。耳鳴りは苦しいままに、その耳鳴りに明け暮れ聞き入ればよい。心悸亢進発作は、恐ろしいままに、静かにその発作を見つめていればよいとかいう風である。(森田全集 第5巻 667ページ)普通に考えると、不安、恐怖、苦痛、不快などは、きれいさっぱりと取り除いてしまいたいと考えます。その方法が有効な場合があります。この一面を無視してはなりません。むしろこれを第一優先順位とする。いつ大きな地震が襲ってくるか分からない。大津波がやってきたらどうしよう。ガンになったらどうしよう。くも膜下出血になったらどうしよう。その他、いろんな不安や恐怖が次々と湧きあがってきます。これらの予期不安は、ありがたく受け取ることが大切です。不安に学び、対応策をたてて、即実行することが求められます。「不安は安心のための用心である」ということです。不安の元がなくなるとともに、葛藤や苦悩が解消されます。現実的な不安は積極的に手を出していきましょうということです。基本的に将来に先送りすることで、問題解決を遅らせ、問題をますます大きくするような事は、不安解消に向けて積極的に動く必要があります。また他人に役立つことは積極的に行動に移した方がよい。さて、森田先生が言われている不安、恐怖、苦悩、不快は、今述べたものとは全く異質なものです。神経症的な不安の特徴は、手を出すことで問題解決に役立つ不安ではありません。葛藤や苦悩があるというけれども、それは自分の頭の中で作り出したものです。現実的な問題点や不具合があって、改善や修正できるものは何もないのです。自分の身の回りの状況にはあまり関心がなく、自分の作り出した不安と戦っているのです。一人で相撲を取っているようなものです。自分の心の中に仮想の敵を作り出して、それを倒さないと自分は安心して生活することが出ない。何としても仮想の敵を倒して、平穏な生活を取り戻そうとしているのです。その状態は傍から見ると、精神異常者に見えてしまうほどです。ここで有効な対応は、仮想の敵を無くしてしまえばよいのです。自分という一人の人間の中に、自分を守ろうとする自分とその自分を破壊してしまおうとする自分が同居しているわけです。自分をとことん守ろうとする自分だけに統一できればよいのです。つまり自分自身を破壊してしまおうとしているもう一人の自分を追い出してしまうのです。自分は自分の最大の味方であるという方向で一本化していけばよいということです。そのためにどうするか。「かくあるべし」を自分に押し付けることをやめる事です。減少させていく努力を開始することです。最終的には、どんなに問題がある自分だと思っていても、すべてをまるごと許してあげることです。暖かく包容力のある手で寄り添ってあげることです。そして事実、現実、現状にしっかりと根を張った生き方を開始することです。森田先生の言葉をじっくりと見直してみると、観念の世界で思いついたことを前面に押し出すやり方は間違っている。それより事実、現実、現状の世界で起きていることをよく観察し、そこを基地にして生活するという方向に転換すればたちまち神経症はなくなる。事実の世界を無視して、観念至上主義に陥っているのは大きな認識間違いをしているのですよと教えてくださっているように思います。
2021.03.15
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森田先生のお話です。座敷の掃除をするにしても、女中根性でするのと、入院患者の修養根性でするのと、あるいは自分の部屋を自分でするのとは、そのハタキをかける音を遠くから聞いても、これを聞き分けることができる。女中は給料のために働く場合は、タンタンタンタンと景気よくたたき、修養者は、なんでも物を几帳面に・忠実にしなければならぬ、と頑張っているから、埃の有無や・多少に関係なしに、単調にリズミカルにたたいて、時間に無関係に緩急の変化がない。また自分の部屋を掃除する時には、埃をとり・汚いものを綺麗にしようとするためであるから、その変化が自由であり・複雑であるとかいう事で、区別ができるのである。(森田全集 第5巻 662ページ)森田先生はこの話で何を説明しようとしているのか。お使い根性でハタキをかけてはいけないということです。特に森田先生は喘息持ちであったので、森田先生の部屋のはたき掛けする時に、女中根性や入院患者の修養根性でされると、障子のサンなどにたまった埃が部屋中に拡散される。ハタキをかける前の状態の方がまだよかったということになる。障子や棚の上にたまった埃などは、少し時間はかかるが、まず雑巾やテッシュなどで取り除くのが普通です。あるいは現在では掃除機で吸い取る。昔は掃除機がなかったので、ハタキで床や畳の上に落として、しばらく経ってから箒で履くという方法をとっていたのでしょう。これは掃除としては少し杜撰なような気がする。それはともかく、自分の部屋を綺麗にするつもりで掃除してもらいたいと言われている。どうして、指示や命令で取り組む仕事は、お使い根性の仕事になってしまうのか。それは、目にしたものから感情が動き出し、自分の意思を反映した行動になっていないからです。目にしたものー感情の発生―気づき・発見―意欲ややる気の高まりというプロセスを踏んでいないからである。いきなり他人から行動を強制されても、一心不乱に取り組むことはできない。むしろ逆である。森田理論でいう「物そのものになる」ことが難しいのである。それでは、他人から指示や強制されて行う行動は意味がないものなのか。そうともいえない。神経症で悩んでいる人は、予期不安があるとすぐに逃げだす。それでなくても人間は、しんどい事は避けたい。面倒なことには手を付けたくないという気持ちもあります。神経症で苦しんでいる人は、それに輪をかけて行動が停滞しています。その方向に流されてしまうと、生活が益々後退してしまう。そんな状態が続いている人に対しては、カンフル剤が必要である。指示や命令によって、行動を強制されることは、心機一転のきっかけとなることがある。仕事のさぼり癖がある人に、同行営業などで叱咤激励することは決して悪い事ではない。その人の為になることです。森田では最初はイヤイヤ仕方なしの行動をお勧めしています。最初はそれで充分合格点がもらえます。私は時々近くの山にハイキングに行くことがある。一周1時間30分ほどの行程である。坂道や岩場があり結構しんどい。そのため行く前は憂うつになる。行こうかやめようかと迷う。実際にはその気持ちを振り切って思い切って家を出る。すると不思議なことに、ひと汗かいてハイキングが終わる頃になると、「運動にもなったし、景色もよかった。気分転換になったし、出かけてきて本当によかった」と思うようになるのです。最初の行動に当たってはイヤイヤ仕方なしで一向にかまわない。むしろそれが普通だと心得ることが大事です。この段階では、行動する方向に舵を切っていくことが肝心です。その次のステップに移れるかどうかが成否を分けます。別に難しい事ではありません。一旦はその行動に踏みこんでみるということです。その目安は、感情が動き出しているかどうかです。興味や関心、気づきや発見が発生したかどうかです。この状態になりますと、もうお使い根性の仕事ではなくなっている。イヤイヤ仕方なしに始めた行動が呼び水となって、しだいに意欲が高まり、行動に弾みがついていくことになるのです。森田理論では、勢いをつけた馬車馬のような行動をお勧めしているわけではありません。行動することによって、新たな感情が生まれて、過去の不安や不快な感情を流し去ることを目指しているのです。
2021.03.14
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青山学院大学陸上部の原晋監督のお話は、森田理論を深耕するうえで参考になることがありますので、明日以降もしばらく続けます。青山学院大学陸上部に入部する条件の一つに、5000mの持ちタイムが14分40秒以内というのがあります。10000mで計算すると29分20秒です。全国高校駅伝では、5000mの持ちタイムが13分台の選手がごろごろいます。ですからこれが特別速いとは言えません。ちなみに私が出した記録は最高で5キロ20分ちょうどでした。箸にも棒にもかからないタイムしか出せませんでした。入部してきた選手には、監督やコーチの指導、規則正しい生活、目標管理、激しい練習、仲間との切磋琢磨などで、10000mで28分40秒を目指します。箱根駅伝では、往路、復路合わせて、その目標タイムに近い選手を10名そろえるようにします。部員は約50名ほどです。タイムごとにそれぞれ順位が出ます。中には、入部後に伸び悩んで、10000m30分前後に留まる選手も出てきます。入部の頃より成績が落ちてくる選手がいるのです。こういう選手は箱根駅伝にエントリーされることはありません。しかし、こういう選手にどういう言葉をかけるかは、とても重要になります。たとえば、こういう選手が10000mを29分30秒の自己ベストを更新したとき、「チーム目標から見ると50秒も遅い。こんなタイムで喜んでもらっては困る」と言えば、その選手のモチベーションは下がります。目標を見失い、チームの足を引っ張るようになります。「よく頑張ったね。来年は29分10秒を目指してみよう」などと前向きな言葉がけをする。そのための指導を惜しまない。それがチームの底上げになり、チーム全体が強くなるのです。原監督は、チームの目標タイムをクリアすることは箱根駅伝で優勝を目指しているのだから当然のことです。でも、これからの人生を考えてみた場合、それよりももっと大切なことがある。私が見てきた陸上選手は本当に努力しています。自己ベストを更新しようと必死に練習しています。そこまで練習をしても、レース本番で結果が出ないことは多々あります。私はそこまで努力をしたなら、結果は負けでも、負けだとは思いません。私が考える負けの基準は、努力しなかった負け、これだけです。これは胸に響く言葉ですね。近代オリンピックを提唱したクーベルタンも同じことを言っています。「オリンピックで勝つことだけが大事なのではない。勝つためにどんな努力を積み重ねてきたのかが最も大事である」私たちは、たまたま人間としてこの世に生を受けたわけですが、人間に生まれたからには、手に届く身近な目標を設定して、なんとかその目標をクリアしようとする姿勢が厳しく問われているのだと思います。たとえ目標達成に至らなくても、努力し続けた態度がその人の人生を実りあるものにしているのです。こうしたチャレンジ精神を持たずして、その人の人生は決して活性化することはない。また成功した人よりも、失敗して挫折した経験を持っている人は、人の気持ちに寄り添える魅力ある人間になれる可能性が高いということが言えます。
2021.03.13
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青山学院大学陸上部監督の原晋さんのお話です。2015年5月、関東インカレのハーフマラソンでうちの部のI君が優勝しました。実は彼は、それまでは本番にとても弱い子でした。真面目で、本番が近づくと試合の練習から緊張するタイプです。(我々と同じ神経質性格だったようです。)そこで原監督は、彼に「彼女、できたか」「最近、面白い事はないのか」などと陸上に関係のない話題で緊張をほぐそうとしましたが、なかなかうまくいきませんでした。そんな彼が本番で結果を出したのです。この優勝を引き寄せたのは、その1か月前に行われた小さな大会での優勝でした。私はその時中継車から彼の走る姿を見ていましたが、実に素晴らしいフォームでした。彼は、たった1回のこの優勝で、次の大きな大会で結果を出せるほどの自信をつけたのです。原監督は少し努力すれば手が届く「半歩先の目標」を持って小さな成功体験を積み重ねていくと自信がついてくる。どんな小さな目標でも、達成すると嬉しいものです。嬉しいことはもう一度味わってみたいと思うのが人間ですから、次のステップへと行動するようになります。原監督はこの半歩先の目標をクリアしていく方法を「柿の実作戦」と名づけています。「半歩先」が柿の実に手を伸ばすのに似ているからです。柿の実を取るときは、いきなり一番上の柿を取ろうとはしません。まず少し手を伸ばせば届く実から取るはずです。そして取った実がうまいとわかれば、さらに上の実に手を伸ばす。手が届かないようであれば、工夫するでしょう。石を投げたり、棒でつついたり、通販で高枝切りバサミを買ったり、気づけば、一番上の実を取るためにどうしようかとあれこれ考えるようになります。小さな成功体験が、呼び水となって、どんどん意欲を高めて、生産的、積極的、建設的、創造的な行動につながっていくのです。私たちが学習している「改訂版 森田理論学習の要点」のテキストには「理想は高く、実行はこきざみに、小さな成功体験を積み重ねること」とあります。これらが日常生活や仕事の面で実行できるようになることが大変重要になります。この方法で小さな成功体験の数をどんどん増やして、自信をつけていきましょう。(フツーの会社員だった僕が、青山学院大学を箱根駅伝優勝に導いた47の言葉 原晋 アスコム 118ページより要旨引用)
2021.03.12
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森田先生のお話です。お釈迦様は・・・14、15歳から17歳くらいの間に、人生問題に悩み始めて、つまるところ「安心立命」という事を目的として、王位を捨てて宮中を出奔したのが29歳の時であった。お釈迦様は有名な学者・修道者を歴訪して、修道の法を尋ねた。ところがどうしても納得できる悟りには至らなかった。お釈迦様は、ついに一人で山に入って、自力の修行を始めた。6年間の歳月を費やしてようやく強迫観念が全治した。発病してからは12、13年後のことである。心機一転して、転迷開悟したのが「諸行無常・是生滅法」という事であった。(森田全集第5巻 650、651ページ)これは世の中のすべての出来事は、一定の所にとどまっているものは何もない。絶えず変化流転している。私たちはその流れにのって駆け抜けていくことしかできない。その方が無理がないのでうまくいく。これは精神面においても同じことがいえる。心配事を安心したり、忙しいのを落ち着いたりしようとするのは、それは「難きに求む」以上のことで、全く不可能の努力である。心配事をも、作為をもって安心しようとするから、そこに迷妄が起こり、たえざる不安心に駆られるようになるのである。不安心に常住すれば、初めてそこに安心立命の境地がある。世の中の出来事はすべて「諸行無常」である。すなわちこの世に固定・常住しているものは何もないというのが真実である。この事実をそのままに認識さえすれば、初めて安心立命の境地に到達し、強迫観念が解消する。気になる不安にいつまでも固執するのではなく、それを抱えたまま変化の流れに乗って生活していくということである。つまりあるがままの生活を続けることです。口でいうのはたやすいが、実行できるようになるまで持っていくことが大切です。これを無理なく自然に実行できるようになることが肝心です。私は対人恐怖症は治すことはできないと体感できたのが、森田と出会ってから15年くらい経ってからのことである。それまでは、なんとかして治そう、その方法は必ずあるはずだと信じて疑わなかった。その間、対人恐怖の葛藤や苦悩は頭から消え去ることはなかった。「まな板の鯉になったつもり」「清水の舞台から飛び降りるようなつもり」という背水の陣を敷いたときに、対人恐怖症の解消への重い扉が開いた。これは人からいくら分かりやすく理屈を教えてもらっても無理なのだ。自分が絶体絶命に追い込まれて、初めて体感できることなのです。そのためには対人恐怖症でいえば、どうしても苦しむ無駄な時間の経過が必要なのかなと思っています。そして森田から離れないようにしておくことも大切です。いったんこのような心境に至れば次の展開は早いです。それは過去のしがらみから決別できるからです。次のステップに向けての出発点に立てるからです。せき止められていた水が一挙に動きだすようになるのです。ぜひこの体験を味わってみてください。味わい深い人生が口を開けて待っているはずです。
2021.03.11
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東京都の小池百合子知事は、新型コロナウイルスの緊急事態宣言に関して、1都3県の知事との協議で、事実と異なる説明で延長要請の文書をとりまとめようとしたことが明らかになった。神奈川県の黒岩祐治知事は、小池知事から宣言延長について国にお願いしようと電話があったものの、神奈川県は数値がよくなっていたので「様子を見させて欲しい」と回答した。ところが小池知事は、千葉の森田知事や埼玉の大野知事に賛成してもらうために、「黒岩さんが賛成している」と説明していた。つまり事実と異なる説明をしていた。逆に黒岩知事には、千葉の森田知事と埼玉の大野知事はすでに賛成していると説明していた。 念のために、黒岩知事が千葉県の森田知事に確認したところ、森田知事は「『黒岩知事が賛成する』と聞いて、自分も賛成しようということになった」と回答した。この時点で、小池知事による事実の捏造が発覚した。1都3県の知事のリーダーシップをとって、功を得るための勇み足であった。このことを報道機関に暴露された小池知事は、「考え方が幅広い中、文書のたたき台をつくるのはよくある話。そういう中で事務方を含めてやり取りしており、普通のやり方を進めていた」などと説明した。この釈明では、ウソをついた事への反省がないばかりか、自己弁護に走っています。これは事実に従うという森田理論とは対極の対応です。事実をごまかして、他人を意のままに動かそうとすることを森田先生は大変嫌っています。この点に関しては、鬼のような形相で入院患者を叱りつけています。事実を隠蔽する、捏造すると、現実と理想のギャップで苦しむことになります。他人を間違った方向に追い込み、苦しませることになります。理想を優先して、現実を批判し、否定することを、森田では「思想の矛盾」と言います。これが神経症を発症させる大きな原因となるのです。このやり方ですと、行政目的を達成するためには、ウソをついても構わないという考え方につながります。うがった見方をすれば、都民なんかいくら騙しても構わない。そもそも私は都民の為を思って行政を行っているのだから、事実を捻じ曲げても、勇猛果敢にリーダーシップを発揮している点を評価してほしいものだ。私に任せておけば、万事うまくいくのだから、多少の事実の捏造は大目に見てください。それくらいのことをしないと、まとまりませんよという気持ちです。このやり方はうまくいくのでしょうか。森田に関わってきた人間として、この手法はそのうち行き詰まると思います。本来、目標に向かうはずのエネルギーが、事実に対抗して打ち勝つという方向にシフトしてしまうからです。エネルギーの無駄遣いになります。エネルギー漏れを起こすので、これだけで消耗してしまいます。それ以上に、もっと切実な問題があります。それは事実の方が間違っている。自分の考えの方が正しい。などと言う認識の間違いが起こります。そして他人と戦い始めるのです。どちらが勝つかどちらが負けるかという世界です。本来は事実を正しく認識する。そこを基点にして、改善点や課題を考え抜いて、問題解決に取り組むことが肝心なのです。他人と敵対するということは、都民のための行政をおこなうというよりも、自分に反対する勢力をいかに抑圧するかという方向に向かいます。その結果、一向に都民の為の行政を行うことはできないということになるのです。今回の件は事実を大切に取り扱うことがいかに重要であるか、考えさせられました。小池都知事への都民からの信頼は多少なりとも失われたかもしれません。小池都知事はエネルギッシュな方です。今後信頼を取り戻すためには、この件に対しては言い訳は一切しない。謙虚に謝る。今後は決してウソを捏造しない。今後事実に基づいた行政に励むという姿勢を貫き通すことができるかどうかにかかっていると思います。
2021.03.10
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森田理論には特殊用語が出てくる。純な心、初一念、思想の矛盾、精神交互作用、精神拮抗作用、事実唯真、無所住心、不即不離、物そのものになりきる、あるがまま、諸行無常、努力即幸福、両面観、物の性を尽くす、かくあるべし、気分本位などである。これらの言葉を集談会などに参加した人は全員よく分かっていると思って使っていると大変問題であると思う。長い期間森田理論学習を続けている人は、それなりに理解しているのだが、まだ学習期間が短い人は意味不明という場合がある。一人でも初心者参加している場合は、分かりやすい言葉や具体的な事例に置き換えて話すことが欠かせない。それが自分の学習にもなると思う。例えば、「純な心」を取り上げてみたい。森田先生が具体例として取り上げておられるのは、皿を床に落として割った時の話である。皿を落として割れてしまった時に、最初に思うことは、「あっ、しまった」という気持ちである。これが「純な心」である。出来事に対して真っ先に感じる感情のことをいう。この感情を大切に取り扱いなさいと言われている。すると、残念なことをしたと思う。一時的にショックを受けるが、すぐに持ち主に事の顛末を報告する。飛び散った破片を丁寧に片づけてけがを防止する。必要ならすぐに新しいものを取りそろえる。相手もすぐに指示を出してくるだろう。それで一件落着ということになる。この感情は、きちんとキャッチしないとすぐにかき消されてしまう。そして、別の感情が湧き上がってくる。持ち主に叱責されるのではないか。人格まで否定するような人だから、叱られたら嫌だな。自分は何をやってもそそっかしいダメ人間だ。損害賠償を請求されたらどうしようか。これがなんでも鑑定団で高額鑑定されるような代物だったらどうしようか。そうだ強力な接着剤でくっつけてしまおう。幸い誰も見ていないようなので、分からないように処分してしまおう。自分はその場にいなかったとアリバイ工作をしてしまおう。こんなところに皿を出して置いた人の責任にしてしまおう。言い訳や責任転嫁する理由を工作するようになるのです。これらは事実を隠蔽しようとしている。捻じ曲げようとしているのです。森田先生は観念や思想で事実を捻じ曲げるという態度が問題であると言いたいのです。この場合は、自分が皿を床に落として壊してしまったという事実を素直に認めることが大切になります。同時に「残念なことになってしまった。ショックだ」という感情の事実もそのままに認めましょうということなのです。2つの事実をそのままに認めましょうということです。事実を認めるという態度に立つことができれば、そこを基点にして善後策に取り組むことができます。反省して今後皿は丁寧に取り扱うようになる。以後同じような間違いを防ぐことができるようになる。問題のある事件が片付くと同時に、将来につながる貴重な体験となって生きてくる。事実をごまかし、責任転嫁をして事なきを得たとしても、それが発覚するのではないかという不安に苦しむようになる。仮にバレてしまうと、さらにうそを重ねないとつじつまが合わなくなる。将来につながる教訓を得ることはできない。同じような事件が起きたとき、事実を事実のままに認めて受け入れることができなくなる。そして、先入観や決めつけを前面に押し出した観念中心の行動にはまり込んでしまう。自分の頭で考えた事と現実が乖離するようになる。思い通りに現実をコントロールできないので、精神的に苦しくなってくるのである。「純な心」という特殊用語は、このように説明されれば何となく分かる。以下先にあげた特殊用語も分かりやすい言葉に置き換えて説明することが欠かせない。
2021.03.09
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森田先生のお話です。連想は絶えず暇なく流動活躍しているのである。これは覚醒時でも、少し注意して自己観察をしていれば、我々が如何にボンヤリしている時でも、決して全く無想念という事はないという事を知るはずである。これは心の自然であるから、この連想の流動を随意に拒んだり、否定する事はできない。(森田全集第5巻 648ページ)ここでいう連想は「雑念」と置き換えて考えると分かりやすい。雑念とは、読書に専念したいと思いながらも、とりとめのない、様々な感情が次々に湧き上がってくることを言う。こういう経験は誰でも持っていると思う。普通の人は読書に集中できないのでイヤだなと思う。理解できないので同じところを行ったり来たりしている。そのうち頭がもうろうとしてきて眠くなったりする。どうすることもできない。結果として無駄な時間を過ごすことになる。それが続く場合は、途中で読書はあきらめて、別のことを始める。頭を休ませて、身体を動かすことに切り替えることもある。試験勉強の場合は、しばらくは雑念にまかせて時間の経過を待つ。いつの間にか、雑念が霧のように消え去ってくることがある。また雑念だらけで読書に集中できない時でも、自分に興味や関心のある所に差し掛かると、急に読書にのめりこむことになることもある。ここで肝心なことは、雑念という不快な感情をやりくりしようとしていないことです。どんな不快な感情でも、自分が自由自在にコントロールできないということを自覚していることです。不安な感情も同じことが言えます。そういう邪魔な感情をやりくりするのではなく、そのまま受け入れていくことしか方法がないということだと思います。神経症の人は、感情は自由自在にコントロールができるものであると考えているのかもしれない。雑念は読書の障害になる。雑念が湧きおこらないようにしないと時間の無駄遣いになってしまう。時間は効率よく使わなければならない。強い意志を持って、感情を制御して、雑念を無くしてしまおうと考える。今後に影響することだから、この際雑念が湧きおこらないように対策を立てておきたいと考えるようになる。このような対応は、ますます読書に専念できなくなる。本来の目的から外れて、雑念という障害物の除去に向かうことになる。それは本来不可能に挑戦していることなので、不毛な戦いが永遠と続く。こういう人は森田理論の感情の法則を今一度学習し直すことが大切です。感情は、人間の内なる自然現象のひとつであって、意志によってコントロールできません。悪天候、台風、地震、津波などは、嫌なものですが、人間の意志の力でコントロールできません。雑念や不快な感情もコントロールできません。どちらも自然現象だからです。自然現象に対しては、基本的にはあるがままに受け入れるのが唯一の対処法です。森田理論は、どんなに問題ある感情が湧きおこっても、謙虚になって素直に受け入れましょうと言っているのです。感情と敵対するのではなく、感情をいとおしみ仲良くするという気持ちになればよいのです。そのためには、不安、恐怖、違和感、不快感の持つプラスの面を再認識するようにしたいものです。マイナス面を拡大して、対立しているようでは、ますます苦悩が深まっていきます。
2021.03.08
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森田先生のお話です。橋田東声君が「忙しい時に、かえって歌がよくできて、暇なときには、なかなかできない」といった事があるが、私共もその経験は明瞭に認めている。かえってよくできるのではない。忙しいと時に当然にできるのである。それは暇な時は心が緩み、忙しいときは精神が緊張するからである。(森田全集第5巻 649ページ)精神緊張状態にあるときに、優れた短歌や俳句が生まれるといわれている。仕事、家事、育児の中で、気づきやアイデア、工夫や改善点をどんどん思いつく。昆虫の触角が四方八方に向けられて、絶えず動き回っているような感じの時にすぐれた作品が生み出される。生活の発見誌に毎年1月号で川柳を募集している。ここに掲載されている人の名前を見ると、毎年同じような顔ぶれである。日ごろから意識して川柳のネタを集めて作品作りに励んでおられるのだろう。そういう人は普段から精神的余裕があり、しかも緊張感に満ちた生活をされておられるように感じている。なすべきことがきちんとなされていて、生活の中にちょっとした楽しみを見つけることが定着している。川柳は常識とされていることと現実の乖離のなかに面白さがある。それが面白いという感じる感性は、物そのものになりきる生活の中から生まれている。それは普段の生活の中で、そういうものを見つけようというアンテナを張っているからこそ思いつくのである。日常生活や仕事の面が充実していることが想像できる。よくダジャレをしゃべる人がいる。言葉遊びのようなものである。たとえば、「その通りです」というところを、「醤油ことです」などという。馬鹿にしたくなるような言葉を連発して、その場を盛り上げようとしている。そういう方は、面白い事を思いついたら、それをネタにして、なんとか使えないものだろうかと考えている。他人にしょうもないことだと笑われながらも、収集と創作を続けている。そういう人の意識は、絶えず外向きで、内向きにはなっていない。一見馬鹿にされているように見えるが、そういう人の周りに人が集まってくる。特に、「箸が転がっても面白い」などという若い女性などの受けがよいようだ。神経症の人で、日常会話の中でダジャレを連発し始めたら、神経症とは縁が切れたと思って間違いない。ダジャレ名人を目指すことでも、神経症は克服できるのです。私の周りにはダジャレを連発する人がいますが、残念ながら神経質な人ではありません。ぼんやりして、精神が弛緩状態にあるときは、いくら知恵を絞ろうとしても難しい。そういう人に「もっと考えて行動しろ」「もっといい知恵を出せ」と言っても無理なのです。問題解決に向けてのアイデアや発想も精神緊張状態の中で生まれる。精神を緊張状態にするためには、注意や意識が外向になり、目の前のなすべきことを丁寧にこなすことが大切です。つまり物事本位になっているということです。問題を抱えて解決策が思い浮かばないときに、仕方なく別のことをしていると、急に解決策が頭に受かんでくるということがあります。これは精神緊張状態にあるときにはじめて可能となることです。神経質性格は細かい小さなことが気になるということです。普通の人が気づかないような事でも気づくというのが特徴です。これをプラスとして認識し、さらに鍛えて精錬させることが大事になります。そのためには、森田先生が言われるように、実践や行動力に留意して、精神を緊張状態にしておくことが最も効果があるということです。誰でもマラソンをしているときは、腕を前後に振っています。つまり足だけではなく、手も自然にテンポをとって前後に動いています。精神活動も同じです。身体が動いている時に初めて活性化しているということです。そういう状態の中で、私たちの小さなことが気になるという神経質性格は、自他ともに大いに活かすことができるということだと思います。
2021.03.07
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阿久悠という作詞家がいた。この人の作詞した曲に「ジョニーへの伝言」というのがある。ジョニーが来たなら 伝えてよ2時間待ってたとわりと元気よく 出て行ったよとお酒のついでに 話してよ友達なら そこのところうまく伝えてジョニーが来たなら 伝えてよわたしは大丈夫もとの踊り子で また稼げるわ根っから陽気に できてるの友だちなら そこのところうまく伝えて今度のバスで行く 西でも東でも気がつけば さびしげな町ねこの町は友だちなら そこのところうまく伝えて今度のバスで行く 西でも東でも気がつけば さびしげな町ねこの町はジョニーが来たなら 伝えてよ2時間待ってたとサイは投げられた もう出かけるわわたしはわたしの 道を行く友だちなら そこのところうまく伝えて うまく伝えて場所はアメリカのど真ん中にある町の、バス停を兼ねたドライブインのようなところです。この町で一緒に暮らしていた男女が、生活のために新天地を求めてこの町を出て行くことにしました。このドライブインで待ち合わせをしていたのですが、相方のジョニーはやってきません。ジョニーがやってくるのを待ちながら、彼女が顔なじみのバーテンダーかウェイターかと話ししている場面です。彼がやってくるのを、もう2時間も待っているのに、一向にやってこない。そう多分私はジョニーに捨てられたのです。わたしは、2時間待って、ジョニーに対しては、充分すぎるくらいな誠意は尽くしました。それは今でも未練はあります。今まで一緒に暮らしていたのですから。でももう来ないなら来なくてもよい。きっぱりと未練を断ち切って私は一人で生きていきます。男手なしで、女一人で生活していくことがどんなに大変なことはよく分かっています。でも私を見捨てたジョニーに未練がましく電話をする事なんか決してしません。また彼の不誠実さを攻め立てることもしません。それが私の運命だったのですから。例えそれで無理やり元のさやに納まったとしても、またすぐに気持ちが離れていくことは目に見えています。だからネチネチと彼に追いすがることは止めようと思っているのです。私は幸いダンサーとして生きていくあてがあります。東に行けばニューヨーク、西に行けばロスアンゼルスあたりでしょうか。風来坊の大変な生活が待っていますが、私はその道を選んでこの町を出て行きます。もう決して会うことはないでしょう。「気がつけばさびしげな町ね この町は」という言葉は、ジョニーと過ごした楽しかった過去の生活とは、もはや決別しなければならない時だということを暗示しています。私はその覚悟を固めました。もう決して後ろを振り返ったりはしません。自分の力で新たな道を歩んでいきます。わたしはこの話を聞いて感じたことは、森田理論の「事実唯真」です。名前は書いてないですが、登場人物の彼女は、ジョニーのために精一杯尽くしていたのでしょう。ところがジョニーは自分に対してはつれない態度をとった。ジョニーは、別な女性と暮らすことを選択したのかもしれません。女性の立場に立てば、決して笑って許せるような事ではありません。普通なら誰でもそんな事実を素直に受け入れることはできないでしょう。多分離婚訴訟を起こして、できるだけ多くの慰謝料をふんだくることを考えるでしょう。登場人物の彼女はその理不尽極まる事実を仕方なく認めて受け入れています。そして過去の未練を断ち切って、視線をこれから先の生活に向けている。ここが凄いところです。これは、「かくあるべし」という観念の世界にどっぷりと身を置いていては決してできないことです。事実を事実として正しく認識することで、初めて可能になるのです。どんなに受け入れがたい事実でも、それに反旗を翻すと、一時的にはすっきりするかもしれません。でもそうすればするほど、自分が益々みじめになることが体験的に分かっているのでしょう。彼女のような方向に舵を切ると、初めて逆転の人生が幕を上げるということになるのです。阿久悠さんは、今までの歌謡曲というのは、女性が男性に捨てられて、嘆きかなしむ「怨歌」だった。あるいは未練たらたらでドロドロした男女関係を歌った「艶歌」だったと言われている。そういう歌詞は私は書かない、書きたくないと言われている。みじめで、キズをなめ合うことになってしまうからだ。共依存の関係に陥ってしまう。不幸や理不尽な出来事を逆手にとって、自立する女性を応援する歌詞を書きたいと言っておられます。事実を認めて受け入れるという事実唯真の立場に立つと、たちまち「怨歌」や「艶歌」が、前向きな「援歌」に変わるのだと言われているように感じる。(阿久悠 詞と人生 吉田悦志 明治大学出版会を参照しています)
2021.03.06
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森田先生のお話です。とらわれたときはとらわれになりきればよいのです。悲しみは悲しみのまま、苦しみは苦しみのままであるよりほかに仕方がないように、とらわれはとらわれるより仕方がありません。なおここでいうとらわれとは、広く言えば「注意の集中」であり、狭く言えば「注意の固着」であります。(自覚と悟りへの道 74ページ)ところが別のところではこうも言われています。とらわれがなくなれば、神経症は全治する。とらわれを離れれば非常に便利で、生活が自由自在になります。(森田全集第5巻 240ページ)「とらわれ」については、すっきりと整理しておく必要があると考えています。私たち人間は、目にしたもの、頭に浮かんだことにたえず注意や意識を向けています。このことを別の言葉でいえば、何かに「とらわれている」と言ってもよいと思います。この瞬間はとらわれるしかありません。とらわれたときは、大いにとらわれるほうがよいのです。大いにとらわれると、また新たな感情が発生することもあります。気づきや発見もあります。興味や関心も生まれてきます。アイデアや工夫も生まれてきます。逆に言うと他のことを考えながら上の空でとらわれていると、そのようなものは生まれてきません。これが森田先生の言われている、とらわれる時はとらわれ尽くせということだと思っています。しかし、同じことに、ずっととらわれていると大変なことになります。神経症の場合は、不安や恐怖、違和感、不快感にずっととらわれてしまう。目の前にとらわれる対象が現れても、それに対しては蚊帳の外になる。自分が気になっているとらわれから離れられなくなるということになります。むしろ、精神交互作用によって増悪させているのです。私たちが生活していると時間の経過があります。時間の経過とともに頭の中に湧き上がってくる感情はどんどん変化しています。また目にするもの、自然や周囲の状況も、絶えず変化流動し消長しています。その変化に対してきちんと対応はされていますか。ここが肝心なところです。変化流動という自然現象を見逃してはいけない。明鏡には及ばない、ただの鏡でよいが、鏡は物がくれば映り、去ればまたその影をもとどめない。そういう風に心はさらさらと流れていく。(森田全集第5巻 654ページ)整理すると、まずいったんは目の前のことにとらわれ尽くすことが大切だということです。しかし、次の瞬間、時間の経過とともに、自分の感情、周囲の状況も刻々と変化しているわけですから、その変化に常にベクトルを合わせて、とらわれる対象にどんどん飛び移っていく。変化に合わせて、変化の波に上手に乗りながら、バランスを意識して、人生を駆け抜けていくというイメージでしょうか。この点から神経症の蟻地獄に陥っている人を見ると、対応方法に問題があるということです。一つのことにいったんとらわれると、あまりにもそれにのめりこんでいる。そして変化の波に気づかなくなっている。あるいは意識して無視している。傍から見ると馬耳東風というイメージです。とらわれたことで何とかなることでしたらすぐに対応していく。どうにもならないことなら、後ろ髪をひかれる思いがしても、放り投げて、次のことにとらわれていく。あきらめる、きっぱりと縁を切っていくことです。その方向で生活していけば何ら問題は発生しないはずです。もちろんすぐに習得することはできません。生活の発見会の集談会の仲間が協力してくれるはずです。これが自分の生活の中で縦横無尽に応用できるようになれば、神経症は克服できます。
2021.03.05
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森田先生のお話です。熱海で散歩していると、ある家の庭先に、非常な綺麗な真紅の若葉の木があった。縁側には2、3人の人がいたが、私は好奇心にかられて、その庭先へノコノコとはいって、見に行った。私は、ただきまりが悪いままに、先方の人の心を当て推量して、人が自分の庭のきれいなのを見てくれる事は、ただの泥棒と違って、かえって憎らしくもないであろうと、自分の都合のよいような理屈をつけて入っていった。あとで患者に、「あのとき、僕が入っていったのを見て、皆どんな感じがしたか」と問うてみた。すると、入院患者の一人は「先生はなかなか研究心があると思った」と答えた。付き添いの娘に、「なんと思ったか」と尋ねると、「私はきまりが悪いと思いました」と答えた。この二人の返事の違いについて森田先生はどう答えたか。付き添いの娘の対応について、「その通りです。これが誰でも感じる本当の気持ちです」といっておられます。入院患者の答えに対して、「そんなに先生をいちいち批判するようなことを言わずに、おのおの自分の感じを打ち出した方がよい」と言われています。さらに次のような話をされている。赤面恐怖の人は、自分の心は、きまりが悪いと思ってはならないという風に、押さえつけると同時に、一方には、他人をなるたけ悪意に解するように種々に工夫を巡らすのである。(森田全集第5巻 659ページ参照)この話は、森田理論の「純な心」に関する話です。「純な心」というのは、一般的にはなじみがない言葉です。しかしこの言葉の理解を深めないと、森田の神髄に近づくことはできません。私なりに説明してみたいと思います。人間が何かを見たときや事件に出くわしたとき、まず直観的な感情が湧き上がってきます。瞬間的に湧き上がってくる感情のことです。素直な感情のことです。これは意識して捕まえようとしないと、すぐに忘却の彼方に消え去ってしまいます。それに引き続いて、観念で解釈した感情が湧き上がってくるようになっています。今までの経験、先入観、決めつけ、「かくあるべし」に裏付けされた感情です。この感情は人間に特有なものです。この感情は強大です。瞬間的、直観的な感情などはすぐに吹き飛ばしてしまうほどの力があります。たとえば中学校に通う娘の帰宅が深夜になった時、親は心配でたまらないでしょう。「何か事件にでも巻き込まれてはいないだろうか」いてもたってもいられません。ところがそのうち娘が何食わぬ顔で帰宅しました。すると今まで娘の帰宅を案じていた感情は消え去ってしまいます。そして「連絡もしないでどこで何をしていた」と娘を叱責する。この感情は、直観的、瞬間的、素直と言われる「純な心」ではありません。森田では、観念的な「初二念」の感情だと言われています。どうしてこれが問題になるのでしょうか。感情の事実を無視していることが問題なのです。「かくあるべし」という立場に自分の身を置いて、感情の事実を否定し、操作しようとしていることが問題なのです。感情の事実を無視することで苦悩や葛藤を生み出すのです。さらに悪いことに、感情の事実を否定することが習慣になっている人は、自分の弱みや欠点、ミスや失敗に対しても否定している。つまり感情以外の事実も否定しています。あらゆる事実を隠蔽する。事実をごまかして捏造する。他人に責任転嫁を画策する。常にあらゆる事実と敵対関係にあるということです。頭で考えたことと現実、現状、事実はほとんどの場合乖離しています。それを頭で考えている観念の世界に自分の立ち位置をとって、事実のほうをねじ伏せようとすると、葛藤や苦悩が生まれてくるのです。たちまち、生きる苦しみを抱えて、のたうち回るということです。人間は、基本的にあらゆる事実に従うという意志を持たないと、すぐに「かくあるべし」という観念の世界でのたうち回るようになっているのです。
2021.03.04
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堀紘一さんの話です。少数派の意見を無視するようなことがあってはならない。少数派の意見を尊重するということは、まだ誰も考えつかないようなアイデアを他に先駆けて実行に移せるのだから、それが当たれば先行者利益で大儲けができる。私は、少数派の意見を尊重するために、会議で何かを決める時には「全会一致は否決」というルールを採用している。反対意見が出ないような提案は最初から否決する。誰か反対する者がいない限りは可決にならない。反対意見というのは、今から採用しようとしている案の問題点を述べるわけだ。そしてそれとは違った見方をした案のよさを主張する。何か物事を決めようとする時には、提案された案の欠点をすべて理解し、他の案のよさを捨てるという意思をはっきり持ち、確認しあわないと、後になってから、「ああ、やっぱりうまくいかなかったなあ。何か違ったやり方をしなければ」と朝令暮改につながっていくし、後悔することになる。そういうことを防ぐために反対意見ほど大切なものはないという考え方である。反対者がいて、議論を闘わせ十分納得したうえで議決する、という手法だ。(人と違うことをやれ 堀紘一 三笠書房 166ページより引用)この考え方はとてもユニークであると思う。また理にかなっている。しかし他人と対立することを嫌う人が多い。一般的に自分の意見に反対する人はイヤになって排除しようとするケースが多い。またこのやり方では、議論ばかりが多くなり、いつまでも方針が決まらなくなる。この変化の激しい世の中、早く決断して行動力を発揮することが成否を分けることもある。だから反対者や反対意見は排除する。あるいは抑え込んでしまう。全会一致ですべての物事を決定することは、平和的でみんながハッピーになれるという考え方である。合理的な考え方であるが、これで果たして後悔することはないのだろうか。森田理論の立場から言えば、「全会一致」の考え方は問題があるといわざるを得ない。森田では「両面観」という立場をとっている。私はこれを拡大して「多面観」とみている。物事は一面からばかり見ていては、事実を見誤ってしまうという考えである。円錐柱は真上や真下から見ると丸に見える。真正面から見ると三角形に見える。様々な角度から見ることで初めて、丸型でもないし三角形でもないことが分かる。正確に判断して方針を出すためには、あらゆる角度から検証しないと見誤ってしまうということです。方針を決定するときは、決して反対意見、別の見方、リスク、予想される問題点を軽々しく取り扱ってはならないということです。意見がまとまらなくて、決定するのに手間取っても、また仮に方針の決定に至らない事態に追い込まれても決して無視してはならないのです。田原総一朗さんの「朝まで生テレビ」では、意見の対立する論者をそれぞれ同数参加させている。喧々諤々の議論を見ているうちに、事実が明らかにされて、視聴者の意見がまとまってくるということだ。一方的な論者ばかり参加させていると世論操作を行うことになる。これは間違った方向に、国民を洗脳していることであって、あってはならないことだ。全体主義の国はすべて「全会一致」になる。反対意見を述べる人は、追放されるので、無理やり同調させられているのである。自由を奪われている。これは民主主義とは言えない。全体主義の国は、一部の特権階級の人がその国の富をすべてわがものにして、贅沢の限りを尽くそうというやましい考え方から出発しているようである。1割の富裕層と9割の貧困層から成り立っている。全体主義の国家体制は、反発する人や反対意見を抹殺するので、根強い民衆の反発を招く。権力や力の衰えたときには、反乱に発展して、その体制は簡単に崩壊する。一時は飛ぶ鳥を落とすような勢いを見せるが、いずれ崩壊していくのが歴史の示すとおりである。反対意見にも耳を傾けて、より良い方向を模索することかより大切である。森田理論では、「精神拮抗作用」と「欲望と不安の関係」の説明の中に、両面観の考え方が盛り込まれていると思う。精神拮抗作用は、人間には、ある考えが浮かぶとそれを打ち消すような考えが同時に湧き上がってくるようになっているというものです。神経症になると打ち消す方の考え方にとらわれて、本来の目的を失ってしまう。手段の自己目的化が起こり、それが葛藤や苦悩の原因を作り出している。森田理論で説明されている、「欲望と不安」の関係もそうですね。欲望が発生すると、必ず不安も発生する。欲望が大きくなれば不安も大きくなる。それは常に正比例しています。欲望が増えてくれば、不安の数も増えてきます。神経症に陥る人は、いつの間にか本来の欲望を忘れる。あるいは意識して簡単にあきらめてしまう。エネルギーのある人は不安の排除に専念する。エネルギーのない人は気分本位になって逃避の道を選ぶ。本来は第一優先に欲望の追及を考えるべきなのに、不安を取り去ることを唯一で絶対的な目標として認識してしまうのです。森田理論は背反する対立した事象に対して、反発しあうのではなく、事実関係を精査して、調和を目指している理論です。その両方に視線を向けて、注意深くバランス・調和を取りながら生活していきましょうという理論なのです。決して自分の考えた通りに事が進まないということです。
2021.03.03
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私は経営コンサルタントの仕事は、その会社の問題点を見つけ出して、経営改善の提案をすることかと思っていました。堀紘一さんはその考え方は間違っているといわれています。コンサルティングという仕事は、企業や経営者に向かって「答えはこうしなさい」と教えることではないそうです。「経営者により深く考えてもらう」のが仕事なのです。たとえコンサルタントが戦略を練り、計画をつくってそれを実行しろと企業に強制しても、相手にとってそれは所詮、無責任な他人の計画にしかすぎず、実行するにしても熱が入らない。やはり自分で頭を絞り、考え出したものでなければならないのだ。ただ、自分一人で考えているだけでは思考が堂々めぐりになってしまうことが多い。自分の専門分野のことは、独りよがりの思い込みが強く、考えが一定の枠の中で凝り固まってしまっていて、なかなか新しい発想が出てこないものだ。視野が狭くなっている。そこにまったく別の視点や発想から異質の価値観を提供して、依頼主の頭脳を刺激し、何が問題なのかをあらためて考えてもらうのがコンサルタントの仕事なのです。この考え方は森田理論学習のすすめ方にも通じると思います。森田理論に詳しい人が、森田理論の「いろは」を知らない人に、最初から手取り足取り教えこむという方法は、必ずしもうまくいかないということです。集談会に初めてやってきた人に、森田理論の詳しい人が、森田理論の原理原則を説明することは、説明する方からすれば優越感を味わうことができます。聞いている方は、いきなり正解を教えてもらっても、その時は感心して聞いていても、ほとんど身につかないということだと思います。いきなり、正解を説明することは、相手が自ら成長する貴重な機会を奪い取っているということかも知れません。正解は相手が時間をかけて到達すべきものなのです。相手が行き詰った時に手を差し伸べるくらいがちょうどよいのです。そうかといって理論を無視してよいということではありません。相手に対して、いきなりそういう方法をとることは百害あって一利なしと心得ることです。今困っていることや悩みを親身になって聞いてあげる方がよほどその人の為になる。そもそも集談会にやってくる人は、神経症の克服のために様子見にやってくる人が多い。森田療法が果たして神経症克服に役に立つものなのか見極めるために来ているのです。そいう人に、神経症を治すには森田療法が一番よいですなどと言う対応は問題です。これしかないという態度でいきなり森田理論の説明をしても相手は警戒するばかりです。相手が知りたいことは、あくまでも森田理論学習が自分に合っているのかどうかだと思います。神経症の克服のためには、さまざまな精神療法、カウンセリング、薬物療法も含めて様々な選択肢が用意されています。最初はそこらあたりの説明を大まかにおこなうことだと思います。あとの選択は相手に任せるしかありません。ここで10人のうち8人くらいは適応外になってしまいますがそれは仕方がありません。去る者は追わずでいくしかありません。つぎに、そういう前提に立ったうえで、「相手が全く考えもしなかった別の視点から、解決のヒントを提供し、相談者の頭脳を刺激する」ためにはどう対応すればよいのでしょうか。森田理論の集団学習のメリットを伝えることが肝心です。集談会に参加することのメリットを説明するのです。私の35年間の経験からして、集談会に参加することのメリットは計り知れない。神経症で悩んでいる仲間がいる。心の安全基地を作れる。自分の味方ができる。神経症を克服した人を目の当たりにすることができる。また人間として目標とすべき人が身近に存在している。神経症を克服した仲間に相談にのってもらい、アドバイスを得ることができる。生活の刺激を得ることもできる。それにより自分の生活が変化してくる。神経症克服のためのヒントを得ることができる。機関誌を読んで、みんなで話し合い、森田理論を学習して自覚を深めることができる。膨大な森田先生の著作の中から、森田の核となる考え方を容易に学習することができる。相互学習の中で、自分の信じていたことがすべてではなかったことに気づくことが可能になる。視野や見方が広くなる。そのための出費は比較的少なくてすむ。集談会は薬物療法、他の精神療法、カウンセリングの治療が終わった後の受け皿として重要な役割を果たしている。受け皿の役割を安定的に果たしているNPOは他に見当たらない。最終的には、神経症の克服だけではなく、神経質性格者としての人生観をつかむことも可能になる。これが自分の人生を豊かにしている。これらの情報をきちんと伝えれば、私なら自助組織に参加して、ぜひとも森田理論学習を始めてみたいと思うようになると思う。
2021.03.02
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味噌作り講座に行ってきました。写真はみそ玉です。これをタッパーに詰め込みます。加工食品は実際に体験してみるとすぐに習得できます。3か月ほど熟成させて食べることができます。今から楽しみです。私は、森田実践の一つとして加工食品づくりを多くの人にお勧めしています。手始めに、梅酒、らっきょう漬けから取り組んでみてください。興味のある方のために、味噌の作り方の説明をしてみます。いたって簡単です。9時からはじめて12時前には終わりました。用意する物 (出来上がり約4リッター)タッパー 5リッター用大豆 500gこうじ 1.5キロ塩 250g圧力釜、ミキサーなどがあると便利。消毒液とサランラップは必須です。・大豆はよく洗い、2倍の水に一晩漬けておく。・大豆を軟らかく煮る。指で押すとつぶれるくらいまで。圧力なべを使うととても早いです。蒸気が出てきてから15分弱火で煮る。煮こぼれに注意してください。・ミキサーで煮豆をつぶす。すり鉢でつぶしてもよいです。・こうじと塩を混ぜ合わせる。そこにミキサーなどでつぶした、煮豆を入れてよくこねる。味噌団子を作る。・タッパーに詰める。その上に軽く塩を振る。サランラップで覆う。・タッパーのふたをして冷暗所に保存する。・1か月後と2か月後にタッパーの中を開けてかき混ぜる。カビが発生したら、取り除いてくださいね。カビを防止するために消毒が必要なのです。3か月経過後から食べられます。色は白っぽいです。その後は必ず冷蔵庫で保管してください。長期に熟成させれば、茶色に色づき、風味が増します。1年熟成の味噌を試食してみましたが、市販の味噌とは香りと風味が違いました。講習会での講師の話によると、大豆も自家製で作っている人がおられるそうです。こういう人にぜひあやかりたいと思いました。
2021.03.01
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