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私の失敗談です。先日田舎に帰って、畑仕事をしていると、私の田んぼに突然コンバインがやって来て稲刈りが始まった。私は田んぼは小作に出しているので、受託者の人が作業を始めたのだ。私は挨拶のきっかけを掴めないまま、遠巻きに眺めていた。ある程度たった時、用事を思い出し車で出かけた。後で「挨拶をしなかった」ことが大問題に発展した。受託者は好きで作業を引き受けているわけではない。放置できないから、奉仕のつもりでやむなく引き受けているというのだ。感謝と慰労の気持ちを持って親しく挨拶をすべきであろうといわれた。そういわれればもっともなことである。後の祭りであった。でも言いにくいことを、正直に教えてくれたことを感謝している。私は挨拶を怠ったためにその後気まずい思いをしたことが何回もある。たとえば事務の仕事をしていた時、職人さんが会社に来たとき、出向いて挨拶をしなかった。後で、その職人さんが、「あいつは挨拶にこなかった」と他の職人さんに話していたという。それからあることないこと、さまざまな噂をどんどん広められてしまった。自業自得であった。パソコンで売上計上の仕事をしていた時、今まで面識のなかった部署の仕事をすることになった。その部署の責任者や営業マンにきちんと挨拶をしていなかった。すると、気に食わない奴と思われたのか、以後協力関係が築けなかった。クレーム商品や返品交換や値引き対象商品の売り上げ処理は困難を極めた。油の切れた歯車を無理やり回しているようなものですから、色々と問題が出てきたのです。転職したとき、その会社ではお世話になった上司にお歳暮やお中元を贈る習慣があった。私は全く知らなかったので何もしていなかった。上司からそのことを指摘されてびっくりした。この習慣がよい悪いは別にして、人間関係を円滑にするための挨拶のようなものをしなかったつけは大きかった。井の中の蛙状態は実に恐ろしいことだと思った。それから葬儀の時の失敗も多い。会社を代表して取引関係の葬儀に出席することが多かったが、その時会社の香典以外に個人の香典を渡していないことがあった。個人の香典を渡していないということは、後々大きな影響があることを思い知らされた。個人攻撃をされるようになるのです。また親戚の葬儀を、仕事を理由にして、妻に参列してもらったことが何回かあった。通夜に出席していたとはいえ、告別式に参列していないということは問題であった。私のマンションの管理人の仕事は、自分が休むと代行管理人を入れることになっている。葬儀は土日とは決まっていない。代行の手配がつかないことがある。その場合は仕事に穴をあけることになるので、休むことはできないと思い込んでいた。会社に親戚の葬儀で休ませてほしいというと、嫌な顔をされることがあったので、なかなか言い出しにくかったのである。そこでやむなく妻に参列してもらっていた。後日、法事に参列すると、親戚から非難されることがあった。これについては、最近分かったことは、葬儀の日を振替休日とし、土曜日か日曜日に振り替え出勤をすれば問題ないことが分かった。嫌味を言われるのにとらわれて思いつかなかった。これらの失敗は今後に活かしたい。まず、もし今後そのような指摘をされたら、言い訳をしないで素直に謝る。つぎに、親しく挨拶することは人間関係の基本と認識して実行する。そうしないと、その後の人間関係に暗い影を落とすことを肝に銘じたい。特に集談会に初めてやってきた人の対応をきちんとするようにしたい。つぎに結婚式は欠席しても、葬儀は万難を排して参列するべきだといわれる。これは社会的な常識、人間関係の基本とされている。基本を無視して後でいくら取り繕うとしても、相手は本音の部分で反発を感じているので、よほどのことがないがない限り修復は困難である。義理を欠かさないようにしたい。
2021.09.30
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山本昌さんのお話です。悩みや心配事が仕事の足を引っ張るというのは、大いなる誤解か、言い訳である。「一病息災」という言葉があるように、努力を怠らなければ、悩みや心配事は1つや2つあった方が仕事はうまくいくのだ。僕の場合、故障をかかえ、「ヤバイかな」と心配しながら登板した時は、意外にいい結果が出ている。神経が「心配」のほうに集中しているため、緊張することを忘れてしまっているからだ。したがってリキむこともなければ、緊張に気持ちがうわずることもない。しかも不安を押して登板しているのだから、腹のくくりもある。好投する条件がそろうというわけである。(継続する心 山本昌 青志社 184ページ)神経症になるような人は、このようには考えないのです。不安を一つに絞って対応している。その不安を徹底的に退治しないと、我慢できない。つまり不安に対して「分散」の態度が必要なのに、それとは真逆の「集中」の道をひた走っているということになります。これは空に一点の雲もない日本晴れをイメージしているようなものです。でも現実にはそんなにすっきりした状況にはなれない。こういう人は、人間はいくつもの不安を抱えて、未練を残したまま、目の前の目的や目標に向かって前進していかざるを得ないのが宿命だと観念することです。その方が不安が皆無の時よりも、事がスムーズに進展していくということです。それはまったく無視することのできない課題がいくつもあるために、「注意の集中」が起きないためです。適度な「意識や注意の分散」がよい効果をもたらしているのです。でもどうしても一つの不安に振り回されてしまうという人は、森田理論学習をしてほしい。症状の固着に「精神交互作用」が大きく影響しているという部分です。それが理解できたら、さらに「不安と欲望」の単元もよく学習して欲しい。これによると不安は欲望の裏返しであるという。欲望が小さいときは不安も小さい。欲望が大きくなれば不安も大きくなるという。この関係は、本体と影の関係と同じである。天気のよい日に外を歩いていると影ができる。本体が移動すれば、影はどこまでもついてくる。その影を箒で履いて無くしてしまおうと考えるのは間違いということになります。影の場合はそんな馬鹿なことはしませんが、不安の場合はついそんな馬鹿げたことをしてしまうのです。不安は信号でいえば、欲望を追いかけている時に、黄色や赤信号を点滅させて注意喚起をしてくれているのです。後先考えずに欲望を追い求めていると、思わぬ不覚を取ることがありますよと親切に教えてくれているのです。不安に留意して慎重に行動すればよいのです。不安に一つ一つこだわって、対応していると、元々目指していた目的や目標を見失ってしまう。これは極めて恐ろしいことです。この点が問題になるのです。進むべき方向性を失うと、GPS機能が壊れた飛行機のような状態になります。目的地が分からなくなり、むやみに飛び回っているだけでは、不安はどんどん増幅します。人間は生きている限り、目的や目標から目を離してはいけないということだと思います。目的や目標を放置して、一つの不安に意識や注意を向けていると、精神交互作用によって、神経症という蟻地獄の底に落ちてしまいます。一旦神経症として固着してしまうと、地上に這い出すことはとても難しくなるのです。
2021.09.29
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森田先生はチャンスという神様には、前髪はあるが後ろ髪はないといわれています。たとえば、独身の人に素敵な彼氏や彼女が現れたとき、すぐに何らかのアクションを起こさないと、付き合うチャンスを逃してしまうということです。私もこの手の苦い経験をたくさん持っています。時すでに遅し。今更後悔してもどうしようもないでしょうということです。躊躇する原因は、人間にもともと備わっている「精神拮抗作用」のせいです。これは森田理論学習の中でも大切なキーワードとなります。ある考え方が湧き上がってくると、それに待ったをかける感情も同時に湧き上がってくるというものです。その二つの調和がとれていればよいのですが、神経症に陥るように人は、待ったをかけるマイナス感情のほうに振り回されているのです。この2つがバランスを欠いて、不安との格闘にエネルギーを投入する人は、神経症の蟻地獄へとまっしぐらということになります。2つのバランスを意識することは、天秤に同じ重りをのせて調和させるようなものです。森田理論学習はこの態度を身につける事を目指しているのです。バランスの維持を心掛けないと、人生はうまく回転しなくなっているのです。私は、森田理論学習によって、バランスの維持を理解し、実生活に応用しようとしている人や応用できている人を、「生き方マイスター」という称号を与えてもよいと考えています。こういう人は不安を邪魔もの扱いしてはいない。不安はありがたいものだ。自分が気がつかない、落とし穴や危険個所を教えてくれている。信号でいえば、黄色や赤信号の点滅に当たります。それに従って、仮に行動を起こす時は、なお一層、ゆっくり、慎重、集中を心掛けているのです。不安がなければ、ミスや失敗の頻度が格段に増えてきます。大きなけがをしたり命を落とす危険性もあります。あとで取り返しのつかないことをした人のことを、軽率な人と言いますが、そんな人は不安が頭に浮かんでこなかったか、いいかげんに取り扱った人です。不安の役割を理解している人は、不安の存在に感謝しています。不安は、欲望が暴走した時も、大きな抑止力を発揮してくれます。こうしてみると不安は無二の親友として、もともと仲良くすべき相手だったのです。共に手を携えて生涯助け合う存在なのです。不安を毛嫌いしていると、反対に不安の方からあなたを見放してしまいます。不安にも見放されるような人は如何なものでしょうか。他人から見放されることも辛いことですが、不安から見放されることも困りものです。不安を敵とみなしているわけですから、今度は不安の方が反撃を開始してくるわけです。不安は欲望がある限り尽きることはありません。コインの裏表の関係にあります。つまり不安と戦っても勝ち目がないということなのです。また、不安から逃げ回れば、不安のほうがどんどん勢いづいて追い回されるようになるのです。アフリカのサバンナで肉食獣に追い回される小動物のようなものです。哀れとしか言いようがありません。これを強迫観念と言います。森田理論学習では「不安と欲望」の単元はとても大事なところです。ここを正しく理解して、生活面に応用するという方向性を見失わないようにしたいものです。
2021.09.28
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外科医の土橋重隆さんは、ガンになる人は基本的に真面目に生きた人ですと言われている。ガンは頑張る人がなるというのは本当です。性格的にいいかげんな人は一人もいない。肉体的に頑張ったのか、性格的に頑張ったのか、自分の本音を抑圧して建前優先で頑張ったのかによってガンの発生場所が違ってくる。たとえば乳ガンですが、乳ガンの場合はストレスが関係しています。過去のある期間、強い肉体的ストレスを受けた人は左乳ガン、長い期間をかけてじわじわと、精神的なストレスが蓄積された人は右乳ガンになりやすいのです。左乳ガンの人は、誰かの下で働くことで能力を発揮する。その要求に、つい頑張って、肉体を酷使してしまう。激しいこともできるし、深夜残業もこなす。肉体的にボロボロになるまで頑張れる人です。ですから、左乳ガンの人は「あの時の無理がたたったのだ」と思い出すことができる。右乳ガンの人は、潜在的に職場や夫婦などの人間関係のストレスをため込んでいる。人間関係に問題を抱えている人は、自分の思い通りに相手をコントロールしたい人です。相手と対立して勝ち負けを争っている。和解、妥協という気持ちが持てないで、主導権争いを繰り返しているとストレスとなります。自己中心性が強くて、職場で四面楚歌になっている場合は危ない。そういうストレスが蓄積された結果なので、原因はこれといって特定できない。肺ガンの患者さんは、病気が怖いのです。肺ガンであると知らされた途端に、一気に衰えてしまう。なんでこんなにガタガタになるのだろうと思うくらいです。そのショックが免疫力をさらに落としていく。その恐怖を不安の程度に落とすことが大切です。健康についての不安や恐怖は、健康体で長生きしたいという欲望が強いということですから、不安と欲望の関係をきちんと理解しておくことが肝心です。ガンは悪いものだから、排除することばかり考えていると、こういう心の余裕は生まれません。胃ガンや十二指腸ガンの人は、とにかく生真面目なんです。言われたことに対して、なにごとも真面目に取り組まれますね。自分の本音としては、断りたいのだけれども、相手のことを考えると建前上引き受けないとまずいことになると考えるような人です。そこに精神的な葛藤を抱えている。自分のことでいっぱいいっぱいで、他人のことを思いやる余裕がない。他人からものを頼まれると、引き受けるかどうかをとことん悩むような人がかかる。肝臓ガン、胆のうガンの人はとりあえず引き受けてしまう。引き受けてしまってから、あれこれと悩む人が多い。胆のうガンの人は結構ユーモアのある人が多い。サービス精神が旺盛です。相手を思い、気遣うようなところがあります。すい臓がんは、「弱音をはかず、最後まで凛としている。芯が強い」人がかかる。昭和天皇がすい臓ガンでした。侍従長でさえ、昭和天皇がまどろんだところを見たことがないというのです。すい臓ガンの人は、葬式の準備までして終わるような人ですよ。とにかく立派な最後です。この指摘は確かに思い当たることがあります。それとガンになる人が出る家系は、同じようなガンが別の人に再現される傾向もあります。それを遺伝子レベルで説明される人もいますが、土橋重隆医師の指摘されていることも影響していると考えるほうが妥当性があると思います。考え方、生き方、行動、食生活の偏りが、身体に無理やストレスを与え、それらが蓄積された結果、ガンが発症している。これを逆手にとって、自分の思考パターン、行動パターンの傾向を自覚して、片寄っているなと思った時は、すぐに修正してバランスを回復できる人はガンにかかりにくいということができます。そういう意味では、森田理論はバランスを取り戻すことをことさら重視している理論です。いかに不安と欲望の調和を保ちながら、生の欲望の沿って生きていくかに焦点を当てています。バランスのとれた生き方を身に着けるために、森田理論という人間哲学を学ぶことをお勧めいたします。
2021.09.27
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今日はサツマイモを半分ほど収穫しました。ツルも和え物にして食べます。というのは、近所の人からイノシシが狙っていると警告があったからです。まだ早かったのですが、半分はイノシシにやるつもりで残しました。向こうに見えるのはニンジンです。7月に植えて正解でした。ニンジンは発芽が悪いのです。一晩水につけた種を蒔いたのがよかったのかもしれません。横の白い虫よけの中には、白菜やキャベツが植えてあります。蝶が飛んでいましたが、虫よけをしないとほとんど幼虫に食べられてしまいます。8月末に植えたジャガイモが大きく成長していました。ダイコンは発芽が悪かったので、一部蒔き直しました。今日はホウレンソウを蒔きました。ホウレンソウも発芽が悪いのですが、順調に成長してくれますように!
2021.09.26
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森田先生は物事を見るときに、周囲との関係性を考慮しなければものを見たことにはならないと言われています。アインシュタインの相対性原理の説明をされています。たとえば、太陽とその周りをまわっている惑星は、引力と遠心力が釣り合って初めて存在しています。太陽の引力だけを取り上げて議論しても意味がありません。反対に惑星の遠心力だけを取り上げることもおかしなことになります。これらはお互いの関係性の中で真実を見ていくことが肝心です。真実は、絶えず流動変化しているお互いの関係性の中にあります。その一部分だけを切り取って、いくら詳細に事実を調べ上げても、混乱の度を深めるばかりということです。物事はすべて周囲との関係性の中から生まれているのです。ガンになった場合を考えてみましょう。外科医はガンがどこにどんな形でできているかを特定しています。そして、ガンは人間を死に至らしめるので、手術、放射線、抗がん剤などで取り除こうと試みます。ここではガンという事象だけにフォーカスして詳しく見ているにすぎません。そして最善の対応策をとって、ガンを退治しようとしているのです。このやり方を否定するわけではありませんが、ここでの問題は、誰がどうしてガンになったのかについては、興味も関心もないという現実です。いわゆる対症療法だけで対応している。手に負えなくなると、ホスピスで死を受け入れてくださいという。ガンだけを敵対視して闘いを挑むことは何かおかしいような気がする。こういう態度でガンに立ち向かっていると、ガンは反発して猛威を振るうようになると思います。転移するというのは、別のところに転移して今まで以上に抵抗しているということではないでしょうか。闘いは勝ち負けという決着がつくまで繰り広げられるのです。外科医の土橋重隆氏は、ガンは心の病気であると言われています。ガンは誰でも毎日3000個くらいはできている。でもTキラー細胞などの免疫細胞がきちんと退治してくれている。そのおかげでガン細胞は増殖しないのですが、心の病気、仕事のやりすぎなどを抱えていると免疫機能の働きが衰えてきます。その隙をねらってガンが増殖しています。生活が不規則、食品添加物の摂取、肉食中心の食生活、仕事のストレス、人間関係のストレス、観念中心の生活、運動不足、健康維持の不足などが、ガンをおびき寄せているのです。ガンは外科的な応急手術と同時に、生活習慣の見直しが不可欠だと思います。ガンはその事象だけを取り上げると、憎き敵ということになる。その敵を医療技術を駆使してせん滅することだけに注意や意識が向けられてしまいます。しかし、そのやり方では、その後の経過について細心の注意が必要になります。でもいくら注意していても再発の危険性が付きまといます。不安なるばかりです。ここで大事なことは、ガンは私たちに生き方の問題点を教えてくれていることです。ここらで一旦立ち止まって、生活習慣、食習慣、ストレスなどの問題点を見直しませんかと親切に教えてくれているのです。これが森田先生のいわれる相対性理論に結びつきます。土橋先生によると、抗がん剤ですべてのガンを撲滅できるとは考えていないと言われる。その反面驚くような事例を目にすることがある。末期がんで手の施しようがないと思うような患者が奇跡の生還を果たしている事例がある。不思議な現象ですが認めざるを得ない。代替療法もあるが、そういう人の特徴は、ガンを味方にしているのです。何が何でもガンを完全に征服しようと意気込んではいない。ガンをきっかけにして、今までの生き方を総括して、新しい生き方・考え方に切り替えているのです。ガンになって人生の意義が分かりましたという人です。最新鋭の設備の整った大学病院に入院して、ガンを絶対に治すのだと意気込んでいる人は、治らないというのが現実です。ガンを倒すべき敵として認識して、そこに注意と意識を集中していると、ある程度の成果がでますが、最終的には敗北してしまうのです。お金をかけて、痛みに苦しんで、最後は負けてしまうのですからやり切れません。不安や恐怖に対して、そこに注意や意識を集中させて、取り除こうと全エネルギーを投入するというやり方は、抵抗もむなしく敗北する運命にあるようです。
2021.09.26
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ホームページで「森田理論学習のすすめ方」を解説しています。森田理論学習のすすめ方関心のある方は、クリックしてご覧ください。
2021.09.25
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森田先生は、「煩悩即解脱」と言われました。「煩悩即涅槃」「雑念即夢想」「矛盾即統一」「諸行無常即安心立命」「強迫観念即安楽」というのも同じことであると言われています。ここでいう「涅槃」とは、一切の苦しみや悩みから解放された悟りの境地のことである。不安や悩みを取り除こうとしないで、不安や悩みと一体になると、実際には不安や悩み取り除いていないにもかかわらず、不安や悩みを取り除いた状態になるという意味です。神経症は不安や悩みと格闘を繰り返していると、どんどん深みにはまっていくわけですが、それを断ち切り、生の欲望に向かって努力するようになれば神経症の第一段階は治ります。ここのところは、森田理論学習をすれば、なんとなく理解できます。しかし上記の言葉は、まるで真反対のことがイコールであるといわれるのですから、なるほどそうだとはにわかに納得できないところです。今日はこの言葉の意味するところを考えてみたいと思います。私たちは、「死」という言葉を聞くと、とたんに嫌悪感を覚えます。この世から永遠にいなくなってしまうことはとても恐ろしい。反対に「生」という言葉は、とても好感の持てる言葉です。できたら100歳くらいまで生きてみたいと思っています。人間は「生」に対立する言葉として、「死」という言葉を思い浮かぶようになっています。対立語として取り扱っています。思い浮かべるだけならまだ許せます。この先が問題なのです。「死」を忌避するようなると、「死」という言葉を敵とみなして、対抗するようになります。一つの例として、数字の「4」は「死」と同じ音なので嫌います。車のナンバーでも、日本人は「4219」は絶対に避けます。この言葉が「死に行く」を連想させるからです。この数字を、欧米人が忌み嫌うことはありません。さて、これに対して、仏教で「生死(しょうじ)」という言葉があります。この言葉は、「生」と「死」を別々に取り扱っていないのです。一つの言葉です。つまり「不二」という考えです。「不二」とは「身土不二」という言葉がよく知られています。健康は食べ物と不可分であり、食べ物を度外視して、健康を語ることは意味がないということです。決して2つは分けることはできないという立場です。それと同じように、「生」と「死」はもともと一体であるというのです。人間が勝手に2つに分けて、さらに是非善悪の価値判断をして、「死」を葬り去ろうとするのは間違っているというのです。そのような行為が人間を苦しめているという考えです。まだ少し難しいですね。このことはハッブル望遠鏡で超新星爆発を見るとよく分かります。超新星爆発を起こした巨大惑星がその残骸を宇宙空間にまき散らしています。この超新星爆発のおかげで、新しい元素が次々と生み出されるという。つまり巨大惑星の死は新たな生の始まりとなっているのです。しばらくすると真ん中付近にいくつもの星の赤ちゃんが生まれているのが確認できます。これらのいくつかがいずれ太陽系のような惑星になっていくことでしょう。これが宇宙で繰り返されている死と生の真実なのです。ここでは、巨大惑星の死は、新しい星々の誕生とイコールになっているのです。つまり死はすべての終わりではなく、新たな命の誕生につながる営みとなっているのです。春夏秋冬のように、生と死が永遠に繰り返されているのです。私たちは気に入らないものを、排除してしまおうとしているのは自然現象に逆らっている、おごり高ぶった考え方です。宇宙の仕組みがそうなっているということを、我々は謙虚に受け入れるべきだと思います。我々のように「生」と「死」別々に分けて、ことさら「死」だけを毛嫌いして取り除いてしまおうとしていることは、浅はかな行為ということになります。抵抗するのではなく、死そのものになりきる。死地に入り込んで死と一体になることを目指した方が理にかなっているということだと思います。森田理論は不安を取り除こうとするのではなく、是非善悪の価値判断をやめて、不安と一体になりましょうという理論です。さらに森田先生は、事実を正しい、間違い、良い悪い、善か悪、白か黒といった見方ではなく、二つは一体であり、是非善悪の価値判断をしないことが大切であると言われているのです。森田理論は二元論ではなく、一元論と言われているのはこのことです。人生は山あり谷ありです。その自然の流れに合わせて、喜んだり悲しんだりしながら生きていくことが肝心であると言われているのです。この段階が、「イヤとか好きとかの名目を超越した大学卒業程度」であると言われているところです。
2021.09.25
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元中日ドラゴンズの山本昌さんのお話です。取り立てた才能もない自分が、なぜ50歳まで現役選手としてマウンドに立つことができたのか。その最大の原因は「継続力」にあると思っている。だが、何事も継続するというのは苦しい。「よし、今日からダイエット。毎朝5キロ走るぞ!」と、決心は誰でもできるが、それを継続するのは至難の業です。1日目、頑張って走る。2日目、なまけ心にムチ打って走る。3日目、雨ば降れば、「止めた」となって、ジョギングは3日坊主で終わり。そして、「オレは、意志が弱いな」と落ち込むことになる。こうした経験はどなたにもあるだろう。これは意志が弱いのでも何でもない。継続するには目標が高すぎたのだ。つまり「目標値」を先に設定して、それを継続しようとすることに無理がある。「目標値」を成果から逆算するので、どうしても目一杯のものになる。そんなことが長続きするわけがなく、挫折して当然なのである。僕は逆発想する。「目標値」を成果から逆算するのではなく、継続できるかどうか、から考えて決めるのだ。たとえば毎朝走るなら、「何キロだったら毎日続けられるか」を考える。だから思い切って距離を短くする。5キロを目標にしたいと思ったら、1キロにする。これだったら、雨が降ろうがヤリが降ろうが継続できるからだ。たった1キロでも、1ヶ月、2ヶ月、半年、1年と続けていくうちに「俺はやりとげている」という自信が腹の底から湧き上がってくるものだ。5キロの距離をノルマにして挫折すれば、「自己嫌悪」、わずか1キロでも継続すれば「自信」になる。どっちがいいか、言うまでもないだろう。手首を鍛えるのにダンベルを購入した。重さは2キロと軽いものにした。さらに、10種類のトレーニングがあったが、僕はそれを3種類だけにした。ノートに10種類のトレーニング内容を書いて、その日に行った3種類のトレーニングに○をつけていった。3種類だけなら、10分もあればできる。本当は10種類全部やるのがいいことは分かっている。しかし、それをやれば苦痛になって続かないということもまた、僕にはわかっていたのだ。高校時代から始めた2キロのダンベルトレーニングは30年以上も続いている。(継続する心 山本昌 青志社参照)小さな目標を設定して、継続すると、それが成功体験になり、自信になると言われている。自信の数が増えてくると、自己肯定感がでてくる。弾みがついて、さらに別の目標にも手を出すようになる。大きな目標への足掛かりにもなる。神経質者は「やればいいな」という気づきはたくさん湧き上がってくる。でも、しんどい、億劫だと理由をつけて何もしないというパターンが多い。仮に手を付けても、ちょっとした障害物があると、すぐにあきらめる。これではよいことに気づいても、鈍感な人と何ら変わりがない。むしろ自己嫌悪に陥るので、精神的にはこちらの方が問題だ。私の場合を振り返ってみた。生活の発見会に入会して35年である。地区集談会にはほとんど参加している。瀬戸内支部研修会は25年になるがほぼ毎回参加してきた。仕事に携わって46年になる。今でもマンションの管理人の仕事を継続している。これがいいのは通勤でウォーキングをすることだ。毎日7000歩以上は歩く。さらにマンションの階段を利用して、足腰を鍛えている。収入にもなり、冷暖房完備の管理人室を自由に使えるのでうれしい限りだ。この仕事が終わったら、今度はファイナンシャルプランナーの資格を活かして、終活相談の仕事をしてみたいと考えている。これは生涯にわたる仕事になるかもしれない。このブログは8年9か月になる。毎日投稿してきた。ほぼ毎日続けていることとして日記をつけている。すでに15年になる。ドジョウ掬い、しば天踊り、腹話術の口上、皿回し、アルトサックス、カラオケの練習は習慣化している。時々獅子舞と浪曲奇術の練習もしている。朝晩の草花への水やりと手入れは欠かさない。田舎での自家用野菜つくりは、1時間30分かけて毎週のように通いで続けている。毎年梅酒やラッキョウ漬け、マフィン作りは続けている。一つ一つを取り上げてみると、たいしたことではないかもしれない。でも継続してきたことで、血となり肉となり、自己肯定感を養成したように感じている。「継続こそ力なり」昔の人はうまいことを言ったものである。
2021.09.24
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スーパー銭湯に行くとサウナがあります。サウナから出ると、すぐに水風呂がありますね。水風呂に入るときは、サウナで体を十分に火照らせた後に入ります。すると、火照った体が一瞬で中和されて、爽快な気持ちになります。身体に心地よい刺激を与えて、疲労を回復させる効果があるように思います。この順序を逆にして、まず水風呂に入り、その後サウナに入る人は見たことがありません。水風呂から入ることは拷問を受けるようなものです。苦痛以外のなにものでもありません。この順序をきちんと守ることで、爽快な刺激を体に与えることができるのです。サウナに入るときは、順番を間違えることはありませんが、人間関係では順番を間違えている人が多いように思います。信頼関係ができていないにもかかわらず、一方的に注意、指示、命令、非難、否定してしまう人のことです。これは先に水風呂に入り、そのあとでサウナに入ろうとするようなものです。親子関係、夫婦関係、上司と部下の関係、同僚との関係、友達関係、近隣の人間関係、自治会の人間関係などを思い出してみてください。私も拙速に相手にそのような態度をとることがあります。やってしまった後で、いつも後悔しています。でもなかなかその態度が改まりません。こういうことを繰り返していると暖かい人間関係を築くことはできません。対立関係に陥りやすく、その後ずっと恨み続けることに発展しやすい。つまり人間関係が遮断されてしまう方向に向かうことになります。こういうことが繰り返されると、最後は孤立してしまうと思います。すでに信頼関係ができていると、少々きついことを言ってもあの人は私のことを思って助言してくれているのだと素直な気持ちで受け入れることができるようになります。信頼関係を築くためには、日ごろから、相手の話を価値批判しないでよく聞く。受容と共感を心掛けて、絶えず温かい言葉をかける。相手が喜びそうなことを見つけて、実行に移す。相手に寄り添い、ともに楽しむといった時間を過ごすことが大切です。注意、指示、命令、非難、否定したくなった時は、相手との信頼関係はできていますかと自問自答することが大切です。それが作られていないときは、それらはすべて自重しなければなりません。信頼関係ができると、相手から攻撃されることに絶えずビクビクすることがなくなります。自由に自分の思ったことを表現できるようになります。自由自在な人間関係に変わってきます。他人と付き合うことで、初めて自分の人生が豊かになることを実感できます。森田理論では信頼関係のない状態の時、自分の気持ちや考えを相手に強要することを「かくあるべし」押しつけると言います。「かくあるべし」を押し付けるという態度が神経症の発症の大きな原因になるとみています。葛藤や苦悩でのたうち回るようになるのです。「かくあるべし」というのは、他人に向けられているように思われがちですが、その矛先は自分にも向けられているのです。この方がより深刻です。最愛の味方であるべきはずの自分が、自分に対して敵対しているのですから、生きること自体が辛くなるのです。
2021.09.23
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元中日ドラゴンズの山本昌さんのお話です。山本昌さんの趣味はラジコンとクワガタを育てることだそうです。ラジコンは全日本選手権に出場して4位に入るほどの腕前です。始めたころは、わずか3分で周回遅れにされていた。負けず嫌いの性格だったので、どうすれば勝てるようになるのが必死で観察したそうです。そう思って観察していたら、秘訣が分かったそうです。優秀な成績を出している人は、ラジコンノートをつけていたというのです。車高が何ミリのときに走行がどうだったとか、バネの強さがどうだ、リバウンドがいくつだ、気温や天候はどうだったと、すべて克明に記録をとっている。車高ゲージで、コンマ5ミリくらいまで測る。試行錯誤してトライした結果を記録として残し、次に活かすという作業を地道に繰り返していたというのです。それを5ミリ単位で行っていた。山本昌さんが、「もうちょっと曲げたいのだけど」と質問すると、即座に「こうすれば曲がるようになります。でもやりすぎるとスピンします」と的確に答えてくれた。「すげえな、こいつら」舌をまく思いだった。と、そのとき、ふと思った。「なんで彼らは、こんなに一生懸命にやるんだろう。趣味なのに」それにくらべて自分はどうだ。野球は趣味じゃない、職業だ。高額な報酬をもらってプレーしている。こんなことではいけない。野球は「才能勝負」のような考え方をされがちだが、そうじゃないんじゃないか。ラジコンのように、いろいろなところを追及して行けば、もっともっと良くなっていくのではないか。そうひらめいたのである。そんな時期に小山裕史先生の「初動負荷理論」に出会ったそうだ。小山先生は身体の動きについてすごく詳しく、僕は投球というものに対して、メカニック的なことを勉強し始めることになった。それが50歳まで現役を続けられた最大の要因になった。(「継続する心」 山本昌 青志社参照)ミシュランガイドで3つ星を獲得しているシェフが、料理は一つ一つの作業を取りだしてみると、単純作業の繰り返しなんです。その単純作業の中にどれだけ多くの疑問や改善点を見つけることができるか。そして工夫や改善を繰り返して、さらなる高みを目指すのが一流シェフなのですといわれる。これは私たちでいうと、日常茶飯事の料理、仕事などに我を忘れるほど「ものそのものになれるか」どうかということだと思います。言われたからイヤイヤやっていますというのは、初期段階はいざしかたがない。でもその段階で終わってしまっては、次にはつながらない。神経症でいえば、目の前に日常茶飯事に一心不乱に取り組まないかぎり、いつまで経っても神経症は克服できない。それは行動によって症状が治ることを期待する考えが邪魔をするからである。最初はイヤイヤ仕方なしでも構わない。でも行動に弾みがついたときに、一心不乱になって取り組むようにならないと症状が改善するということは起こりえない。
2021.09.22
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今日は元中日ドラゴンズのピッチャー山本昌さんを取り上げてみたい。この方は、50歳までプロ野球の選手として活躍された。5年間くらいプロ野球の選手として在籍すればよいという中で、29年間50歳まで活躍できたのは驚嘆に値する。その間219勝をあげて名球会入りされている。山本昌さんは、特別ストレートが早いわけではなかった。1回143キロを計測したことがあるが、ほとんど130キロ台である。このスピードは、プロのピッチャーとしては心もとない。高校生レベルです。1年で首になってもおかしくない選手だったのです。山本昌さんも不安だったそうです。山本昌さんは、入団当時のエース小松辰雄投手のストレートを見たとき、とてもプロではやっていけないと思ったそうだ。ではなぜ過酷なプロ野球の世界で前人未踏の50歳までプレーできたのか。それはスクリューボールを持っていたからだと言われている。このボールは横に変化しながら落ちるボールである。山本昌さんはこれをアメリカで身に着けたそうだ。アメリカの選手は大振りしてくる選手が多い。勝負球として有効だった。日本ではコツコツ当ててくる選手が多いので、習得することは困難だっただろうと言われている。でもプロの世界では、スクリューボールを投げる投手は多い。なぜ、山本昌さんのスクリューボールは威力があったのか。これは自分の欠点と関係があるという。僕の股関節、膝関節は外を向いている。いわゆるガニ股なのです。他人とは違う向きをしている。これは一般的には、投げる時にヒザが外へ割れてしまうので力が逃げてしまう。投手としては致命的ともいえる欠点を抱えていたのです。山本昌さんの投球フォームを一目見たトレーニングコーチは、「野球選手としては大成しない」と即座に断言したそうだ。ところが捨てる神あれば救う神ありだった。専門的になるが、力を逃がす球はよく曲がる。球をリリースする位置と、反対側の腰の位置が遠ければ遠いほど変化球はよく曲がるのです。つまり力を逃がすには、膝関節を外に開けばよいのだ。もともとガニ股の僕は自然にヒザが外に開くので、願ったりかなったりだったのです。ヒザが開くというプロ野球選手としては致命的な欠点が、スクリューボールには、強力な長所として作用したのです。そのかわりガニ股では快速球は投げられない。力が逃げていくからだ。でも変化球に磨きをかければ、プロの世界で飯を食っていけるという確信を持つことができたのです。欠点と長所は表裏一体だと思います。コインの裏と表の関係にあるということです。欠点を素直に認めて受け入れると、それは類まれな長所に変身するかもしれない。長所に胡坐をかいて、有頂天になっていると、その長所が自分に災いをもたらす欠点にならないとも限らない。私たちは心配性で、他人の思惑に振り回される神経質性格を快く思っていませんでした。ところが森田理論学習のおかげで、神経質性格の長所をはっきりと自覚できました。こんなにはぐくみあいのある性格はないと思えるようになりました。生きる自信と勇気が湧いてきました。いまでは、両親に対して「神経質性格に生んでくれてありがとう」という気持ちです。
2021.09.21
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日本のリーダーになる方は、全国民の生活を豊かにしてくれるリーダーであってほしい。国民の所得を大幅に増やしてくれる政治家にかじ取りを任せたい。中小企業はお荷物だからつぶすと明言している人を、経済成長戦略会議のメンバーに入れないでほしい。GDPを600兆円ぐらいまで増やす政策をたてて実行してほしい。アメリカのディープステイト(陰で政治、経済、金融、司法、軍事、教育、医療を動かしている国際金融資本)や中国共産党に対して、対等な立場で外交交渉を展開して欲しい。国土と国民の安全を守り抜いてほしい。日本を自立ある国に変えてほしい。4人の総裁候補の中に、そんな心意気のある方がおられるのでしょうか。その4人がどんなことを提言しているのか。まずは耳を傾けて、分析してみることが大切なのではないでしょうか。そのための参考になるyou tube番組がありますのでご紹介しておきます。関心のある方はぜひともご覧ください。林千勝さんと水島総さんの対談番組です。題は、「今、世界はどうなっている 第6回 菅総理退任と総裁選 自民党総裁選キーマン達の通信簿」です。この番組は9月18日にアップされましたが、すでに140,000人以上の人が視聴されています。時間は1時間30分です。総裁選びを間違えると、日本の総理は、ディープステイトや中共の草刈り場、植民地化の管理人にされてしまうという言葉にショックを受けました。
2021.09.20
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森田先生の言葉です。ここでの療法で、その症状だけは、たんに苦痛もしくは恐怖そのものになりきることによって、治ることができるけれども、これが根治するのに、さらに欲望と恐怖との調和を体得することが必要であります。(森田全集 第5巻 112~113ページ)今日はこの言葉の意味を考えてみたいと思います。神経症を治すためには2段階の乗り越える壁があるといわれている。一つは、神経症的な不安や恐怖とは決して戦ってはいけないということである。対人恐怖の人でいえば、どんなに人の思惑が気になっても、その不安を無くしてしまおうとしないということです。あるいは予期不安ですぐに逃げたりしないということです。ものそのものになりきるというのはそういうことです。どんなに受け入れがたい感情が湧き起こっても、その不安を受忍していくことです。しかしこれは神経症の渦中にある人は、なかなか受け入れがたいことだと思います。私もそうでした。最初は実践課題を作ってそちらのほうに目をそらすことに取り組みました。それが軌道に乗ってきたので、今度は気が付いたことをすぐにメモして、一つ一つ片づけていくことに取り組みました。今考えてみると、「凡事徹底」に取り組んだのです。これは効果がありました。症状一辺倒だった生活に変化が現れました。日常生活や仕事が好循環し始めたのです。そして会社でも仕事ぶりを評価されるようになりました。ボーナス査定や昇進に結びつきました。私の場合は、これが第一段階の神経症の克服と言っていいと思います。普通はここで、安心して森田から離れる人が多いように感じています。本人が満足しておられるならば、それはそれで結構なことだと思います。私の場合は、それでは収まりませんでした。生活は好循環してきましたが、肝心の人の思惑が気になるという不快感は取れませんでした。生活や仕事が軌道に乗ってきても、行動が広がるにしたがって、対人不安がどんどん強まるように感じました。どうにかしないと、自分がダメになると思っていました。私がとった作戦は、「まな板の鯉になったつもり」「清水の舞台から飛び降りたつもり」をキャッチフレーズにして、人の思惑が気になるという問題を放置して、自分がやってみたいことに積極的に取り組んでみる事でした。トライアスロン、資格試験への挑戦、一人一芸の取り組みと老人ホームの慰問活動などでした。その結果はどうなったのか。対人不安はなくなりませんでした。しかし、大きな副産物がありました。対人不安に生活がかき乱されるということはなくなりました。大いに気にはなっているのですが、次の瞬間は、自分が現在取り組んでいることに意識や注意が向かっているという状況が訪れました。つまり頭の中を対人不安で100%占めていたのですが、比重が下がって、30%ぐらいになっていたのです。対人不安で辛いときもあるけれども、それ以上に人生を楽しんでいると思えるようになってきたのです。確かに対人不安にとらわれているのだけれども、それに振り回されて、生活が破壊されているという感じがなくなってきたのです。今考えるとこれが森田先生の言われている、欲望と恐怖の調和のことではないかと思います。私は対人不安にとらわれやすいという性格は治しようがないと思っています。人生を大いに楽しむことに精力をつぎ込んでいるうちに、少しくらい対人不安にとらわれても別に大きな問題ではないと思えるようになってきたのです。精神的にかなり楽になってきました。一旦そのような気持ちになると、これは一生ものだと思います。この感覚で人生という荒波を乗り越えて行けるという確かな自信を身に着けたのだと思っております。欲望と恐怖の調和というのは、難しい言葉ですが、私はこの言葉をサーカスの綱渡りの話として理解しています。サーカスの綱渡りでは必ず長い物干し竿のようなものを持って常にバランスをとっています。そして向こう岸に到達するために少しずつ前進しています。これは人間でいえば、欲望と不安のバランスを取りながら、生の欲望に向かって前進している姿とダブっているように見えます。不安だけに過度にとらわれてしまいますと、サーカスの綱渡りでいうとバランスを崩して大けがをすることになります。決してバランスをとることを忘れてはならないのだと思います。一言付け加えれば、森田の場合は、生の欲望の発揮を第一優先順位とする。不安を生の欲望が暴走しないように、制御機能として補助的に活用する。そして現実の問題や課題に対して、真摯に取り組む姿勢を堅持することが肝心です。
2021.09.20
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今年も「発見会川柳」の募集が始まりました。ぜひ挑戦してみてください。私は、今年も田中貞之さんの額入りイラストを目指して投稿しました。愛嬌よ! 似顔絵マスク 場が和むコロナ禍で 疎遠になった 人恋しマスク癖 口の周りは 日焼けせず必需品 拡大鏡に 老眼鏡隔離する! 家ではすでに 隔離中マスクした! 妻に叱られ 引き返すマスクなし バスに乗り込む 勇気なし
2021.09.19
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神経症と格闘しているときは、それを抱えたまま、凡事徹底に取り組んだ方がよいといわれます。今日はその意味を考えてみたいと思います。神経症と格闘しているときは、たいてい一つの不安、恐怖、違和感、不快感を目の敵にして、取り除こうとしています。あるいは逃げ回っています。並々ならぬ決意のもと、自分の持っているエネルギーの大半をそこに投入しています。自分の持っているエネルギーを症状に集中投下しているのです。他のことを考えるゆとりもなければ、他のことに取り組むエネルギーも残されていない状態です。日常茶飯事や仕事、家事や育児に手をつけることができなくなってしまうのです。これは天気のよい日に拡大鏡を外に持ち出して、太陽の光を一点に絞って、新聞紙やテッシュの上に当てているようなものです。すぐに炎が上がります。そのままにしていると、最後には燃え尽きてしまいます。普段、地球に降り注いでいる太陽の光エネルギーは、周りを明るく照らしてくれています。光合成を可能にしてくれています。その恩恵をすべての動植物は享受しています。使い方を誤らなければ、太陽の光はとてもありがたいものなのですが、太陽の光エネルギーを一点に集めてしまうと、恩恵を得られないばかりか、大変な惨禍をもたらしてしまうのです。神経症に陥る人は、不安を目の敵にして、一人で相撲を取っているようなものです。仮想の敵を想定して、陸海空軍の全エネルギーを結集して、不退転の決意のもとで不毛な戦に挑んでいるようなものです。周りの人から見ると、あの人は頭がおかしいと思うような状況ですが、本人は真剣に悩み苦しんでいるのです。余裕が残されている人は、補給路を確保して、次々と、応援物資を送り込んで、先の見えない泥沼の戦いに突入しているのです。誰かが調停役を引き受けて、助け舟を出してくれないと、収まりがつかないという状況になります。森田理論はエネルギーの一点集中はダメですよと教えてくれています。ことに、一つの不安、恐怖、違和感、不快感を敵視して、エネルギーの集中投下は有害無益だと教えてくれています。そういう意味では、エネルギーの分散投入をお勧めしているのです。そのときに凡事徹底に取り組むとどうなるのか。日常茶飯事や仕事、家事や育児に真剣に取り組むことは、それらと敵対関係にはありません。しんどいといって気分本位に陥ることはありますが、敵対しているわけではありません。これはエネルギーの無駄遣いをしなくて済むということを意味します。自分のエネルギーを有効利用できるきっかけが整ったということになります。目の前の問題点や課題に素直に向き合えるということになります。逆転人生という番組でいうと、生の欲望に向かう出発点に立てるということです。症状に投入していたエネルギーを、生活をより豊かにする方面に切り替えることが可能になったのです。森田理論は、エネルギーの活用という視点で見ると、自分の持てるエネルギーの有効活用と方向性を見直す理論と言って過言ではないと思います。
2021.09.19
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今あなたは自営業の会社の社長だと仮定します。そのとき、社長のあなたは、あなた自身を社員として雇いたいと思いますか。みなさんはどうですか。私は自分自身を雇いたいとは思いません。与えられた仕事をイヤイヤこなしている。会社に利益をもたらすような働きをしてくれない。給料さえもらえば、後は適当に最低限の仕事をしていればよいと思っている。そういう人を雇用することは、会社も働いている人も不幸になります。高額の宝くじが当たればすぐに辞職したい。仕事は生活のために我慢してするものだ。そんな気持ちの人が良い仕事をしてくれるわけがないと思います。この状態は、自分の気持ち、感情、意志、欲求が仕事をすることをかたくなに拒否しているのです。いくら仕事にやりがいを持ちたいと思っても、本音の部分では拒否しているのです。それが「かくあるべし」となって、自分自身を脅迫しているのですから無理があります。これは一言でいうと、本音と建前が大きく乖離しているというのが問題だと思います。仕事は必要悪だと思っている限り、仕事に対して情熱的に取り組むことは難しいですね。この問題に対して森田理論はどう答えているのか。本音を大事にすることをお勧めしています。ここでは建前の部分は無視するのです。仕事はイヤだ。億劫だ。しんどいことはしたくない。そういう素直な自分のネガティブな感情や気持ちに寄り添ってあげることです。これは建前が上空から地上に降りてきて、本音に寄り添い、対立がなくなることを意味します。今までは、その本音の部分を否定して、建前優先で対応していたのです。不快な感情を無条件に受けいれると、自分の中で対立相手がいなくなります。この状態は、森田でいうと「ものそのものになりきる」ということです。そういう状態になると、目の前の課題や問題点に視線を移すことが可能になるのです。オリンピックでいえば、厳しい国内予選を勝ち抜いて、マラソンの出発点に到達することができたようなものです。ここで初めてかすかにメダルが取れる可能性が生まれてきたのです。森田でいえば、「生の欲望」に向かって走り出することが可能になるということです。仕事でいえば、物事本位になって、目の前の仕事の問題点や課題に向き合うようになります。ここまでくればしめたものです。感情が動き出します。仕事に対して興味や関心が生まれます。気づきや発見も湧き上がってきます。そうなれば、イヤイヤ仕方なしの仕事に無我夢中で取り組むことができるようになります。創意工夫ができるようになれば、仕事はもはや与えられた辛いものではなくなります。自分が社長なら、給料の3倍の利益を会社にもたらしてくれる人を求めています。与えられた仕事だけではなく、社長が思っている以上の成果を出し続けてくれる人なら何人いてもうれしい。さらに協調性や後輩の面倒見がよい人ならなおさらよろしい。そんな社員になるためには、最初に、不快な感情、ネガティブな感情を素直に受け入れることが肝心であると思われます。
2021.09.18
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私は12年前に田舎にある実家の庭作りを手掛けた。庭の広さは15M×7Mぐらいである。その時庭師に頼んで庭木を植えた。まず全面芝生にした。ゴルフのパターの練習場にしようと思ったのだ。生け垣はレットロビンにした。その庭に、カイズカイブキ2本、金木犀2本、シャクナゲ1本、南天1本、マキ1本、ユズリハ1本、さざんか2本、山椒1本、千両、万両を各1本ずつ植えてもらった。写真の中央の花がシャクナゲです。左の緑の木がカイズカイブキです。その後どうなったか。芝生は3年くらいはもったが、そのうち雑草がはびこり、芝生を駆逐した。仕方ないので、いまは管理機で掘り返して、野菜畑にした。レットロビンは、最初のうちは葉が赤くなるので、見応えがあった。ところが生長が早く、剪定を怠るととてつもなく大きくなった。そのうち病気になり、枯れ始めた。3分の2が枯れたので、すべて掘り返して処分した。金木犀は、通勤途中にたくさん植えてあり、時期がくるととても良いにおいを放つので、是非にと言って植えてもらった。ところが思惑違いで育たなかった。それに木の周りに苔が生えてきて難儀した。さざんか2本も期待していたが早々に枯れた。千両、万両に至っては霜ですぐに全滅した。結局今でも生き残っているのは、カイズカイブキ2本、家に古くからあったシャクナゲ、ユズリハ、南天、マキ、山椒だけになった。カイズカイブキは針葉樹でとても強い。放っておくと電信柱の電線の高さにまで伸びてくる。成長が早いので1年に2回くらいの枝打ちが欠かせない。これが重労働になっている。ユズリハは名前がよい木なので勧められるままに植えた。この木は順調に成長してくれた。シャクナゲも大きく成長して、時期がくると大輪の花を咲かせて楽しませてくれている。でも全体としてみると反省点が多く、どちらかというと失敗だったと後悔している。特に芝生やレットロビンの生け垣は何のために植えたのだろうかと悔いが残る。その原因は、庭木の本やよその家の庭を見て、自分で勝手に植木を選定してしまったことだ。自分の好き嫌いよりも、木の特徴を活かした庭木を選定する必要があったことを思い知らされた。また、庭つくりや庭木に詳しい人の話を謙虚に聞いて、参考にすることが必要だったと思っている。庭つくりは莫大な経費が掛かるので、思い立ってすぐに始めるよりも、1年くらいは試行錯誤の期間が欲しいものです。その際参考になることを上げておく。植木には、生長がものすごく早いものと、じっくりと成長する木がある。すぐに大木になってしまうものと、比較的小さいままで収まる木があるのです。手入れする時間が取れない人が、成長の早い木を選ぶと手に負えなくなる。また病気に罹りやすいもの、虫が付きやすい木がある。木の周りに苔がびっしりと生えてくる木もある。いったん植えるとどんどん増殖して、仲間を増やして、他の木を駆逐してしまう木もある。棘がある木やツルがやたらと伸びる木がある。ツルはすぐに伸びてきて、他の植木に巻き付いてくるので始末が悪い。また柳のように家に植えると縁起が悪いとされている木もある。ゆずやザクロのように実が楽しめる木もある。根が大きく張る木や葉が広がり落葉樹で落ち葉が多く隣近所に迷惑をかける木もある。肥料や剪定などこまめに手入れをしないと育たない木がある。水やりが欠かせない木がある。庭木は人間と同じで個性派ぞろいなのです。それから庭には雑草が次々と生えてくることを考えておく必要がある。雑草退治はどうするのか。除草剤は使いたくないので、草刈り機で刈り取っている。刈り取ってもたくましく次々と生えてくるのが雑草なのである。私は街に住んでいて、通いながら管理しているので、生長がゆっくりで、病気や害虫に強く、あまり手がかからない木を選定すべきだった。自分の好き嫌いを優先したため、後悔することになったのだ。庭作りは、時間をかけて構想を練る。その際あちこちに出かけて、どんな庭木を選定すべきかを経験豊富な人から教授してもらうことが大切だったと思っている。現在は残った木を大切にし、ゆずを1本植えて、菊、ダリア、アジサイ、チューリップなどの花を植えて楽しみたいと思っているところです。いずれにしろ、神経症で悩むよりも、庭木や野菜の土つくりや輪作体系で悩むことが多いのが現状です。これは対人恐怖症と格闘していた時には、全く眼中になかったことです。
2021.09.17
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「楽」という言葉は、2つの使い方があります。一つは、「楽しい」「楽しむ」という使い方です。人生を楽しむ。苦労を楽しむ。愉快である。精神が活性化してウキウキしている。大変な問題や課題を抱えて、苦しいそうに見えても、当の本人は苦労とは感じていない。むしろ、難題の解決や目標達成のプロセスを楽しんでいるように見える。必死である。森田でいう「努力即幸福」に入り込んでいる状態です。もう一つは、「ラク」ができたという使い方です。簡単だった。楽をする。楽に勝てた。楽に手に入った。苦労しなくて済んだ。国語辞典によると、身体に痛い、苦しい、きついなどのイヤな感じがない。心につらい、やりきれない、せつない、困ったなどの思いがない。安全で安心の世界に身を置くことができたということです。「ラク」の反対は、「苦」ですが、「ラク」は「苦」が全くない安全・安心の世界です。実際には、そのような世界はあり得ませんが、人間はそういう理想を追い求めています。解決すべき問題や課題が全く存在しない。無駄なエネルギーを使わないで済む。あっても親や他人が肩代わりしてくれて、自分は何もしなくて済んだ。仕事をしなくても食っていけた。頭を使わなくても何とかなった。エネルギーを温存できた。たしかに、こういう人生は理想的に見えます。「ラク」という言葉は、「効率」という言葉と親和性があります。少ないお金や投資でできるだけ大きなリターンを得ることができる。「損小利大」に大きな価値を置く考え方です。反対に目標は達成しても、それ以上の経費が掛かっていたら、それはしない方がよかったということになります。つまりプロセスはどうでもよい。結果がすべてという考えに近くなります。このように「楽」という言葉は、全く違う使い方をされているのです。自分が一生を終わるときに、「自分の人生は実に効率的でラクな人生だった」と自慢できるでしょうか。つねに困難な場面をするりと避け続けてきたけれども、成功体験はほとんど経験できなかった。人生の醍醐味なんて何もなかった。お世辞にも楽しかったとは言えない。何か物足りない人生だったと思うようになるのではないでしょうか。それよりは、大きな病気になったこともあった。子供のことで苦労もした。人間関係で苦労が絶えなかった。退職して経済的なダメージを受けたこともあった。自然災害で財産も失った。神経症で押しつぶされそうなことが多かったが、みんなに助けられながら、右往左往しながら何とか生き切りました。今振り返ってみると、あっという間で、過ぎてしまえば思い出深い楽しい人生だった。皆さん「ありがとう」といって人生を終えることができれば、それで充分ではないでしょうか。苦を避けて、「ラク」を追い求める人生は、骨粗しょう症のようなスカスカの人生になります。森田理論は、一生涯問題や課題を抱えて、自分の持てる力をフルに活用しながら生きている人間を応援している理論です。「努力即幸福」の路線から一時的に外れても、いずれその路線に戻ってくることが肝心です。
2021.09.16
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森田療法は神経症をどうとらえ、どこへ導こうとしているのだろうか。精神疾患の一つとしてとらえ、不安を根絶しようとしているわけではない。ここが薬物療法や精神分析、一般的な認知行動療法等の精神療法と大きく異なるところである。不安を憎き相手とみなしているのではなく、手を携えて協力し合う仲間として大切にしているのが森田理論なのです。ここが森田理論の最も優れたところです。早速、神経症の成り立ちを見てみよう。不安は誰にでも発生するものであるが、神経質性格者は感受性が強いので、小さな不安でも見逃さない。そしてキャッチした不安に対して、敏感に反応する。引っ付かず離れずで適当にあしらっておけばよいものまで、真面目にかかわりを持ってしまう。そして不安を持ったままでは苦しいだろうから、なんとかして取り除いて楽にしてあげようと考える。かかわりを持ちすぎていつの間にか、引くに引けない状況に追い込まれてしまう。神経症が固着すると、その不安に振り回されて、普段の生活や仕事に悪影響が出てしまう。神経症は100人いれば100通りの症状があるが、同じからくりから生み出されている。脳の働きに異常があって、発生する器質的な精神疾患ではない。自分が気になる一つの不安を、精神交互作用によってどんどん増悪させた結果なのである。しかし時として、神経症は器質的な精神疾患の患者よりも、より深刻な病気を持っているように見えてしまう。一つの不安にとらわれすぎるというのは、実に悲惨な結果を招いてしまう。森田療法は一つのことにとらわれて、生活を破壊され、治っても生きづらさを抱えて苦悩している人に対して、どのように手を差しのべようとしているのだろうか。人間が適度に不安にとらわれるのは当たり前のことである。だから大いにいろんなことにとらわれたらよいのである。しかし、神経症に陥った人は、一つの不安に絞って深入りし過ぎているとみているのです。深入りし過ぎて、車のスピードメーターが振り切れたような状態になっている。車でも100キロも120キロも出したら緊張を強いられ、もしものことが頭をよぎります。これはいくら何でもやり過ぎというものです。一瞬のハンドル操作の間違いで一巻の終わりです。それでは後悔しますよ。車でいえば、50キロから60キロぐらいのスビートに落とせば、精神的にリラックスできて、ドライブを楽しむことができるじゃありませんか。一つの不安にあまりにも肩入れするのではなく、もう少し力を抜いたらどうですか。その時の脳の容量を100とすると、一つのことにとらわれているときは、症状のことで80%から90%を占めているのではありませんか。ほかのことを考えるゆとりはありません。その比率が70%、60%に下がった時のことを想像してみてください。だいぶ他のことを考えるゆとりが生まれました。さらに、50%、40%、30%、20%に下がった時のことも考えてみましょう。症状のことは、時たま思い出すくらいで、大半は、仕事や日常茶飯事や子育てや趣味など様々なことを考えているのではありませんか。10%にまで低下した人は、神経症とは無縁な人です。普通の人と比べても、より生産的、建設的、創造的な魅力ある人間として、人生を楽しんでおられるはずです。森田理論で症状が治るとは、こういうイメージなのです。様々な同じ程度の不安が現れては消えているといった感じになります。森田理論は、突出した不安の取り扱いを、他の不安と同じ程度の比重に下げようとしているだけなのです。神経症に陥る人は、不安の取り扱い方を間違えているということです。一つ注意したいことがあります。それは、神経症のもとになった、不安を根絶しようなどとは、夢にも思わないことです。「不安と欲望」の単元を学習すればよく分かりますが、不安は戦うべき相手ではなく、あなたの味方であり、協力者なのです。不安とは仲良く付き合わないといけません。その時、あまりベタベタと付き合うのではなく、森田理論の「不即不離」を応用して付き合えばよいということです。不安を抱えたまま、ある程度のストレスを感じなから生きていくことに意義があるのです。
2021.09.15
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不安のターゲットを一つに絞り、それにのめりこみ、格闘することで神経症が発症します。精神交互作用が強力に後押しして、アリ地獄の底に落ちてしまうと、自分一人では身動きがとれなくなります。逆に言えば、神経症に陥らないようにするためには、一つの不安に関わり合うことをやめて、広く浅く多くの不安に平等に関わり合うという姿勢を維持すればよいということになります。たとえば、対人恐怖症の人は、学校や会社で人の思惑ばかり気にしています。全神経を他人が自分をどう取り扱うか、どう取り扱ったかに集中しています。非難、否定、叱責、からかい、バカにされる、無視されることをものすごく警戒しています。他人の評価に一喜一憂しているわけです。それが生きていることのすべてになっています。考えてみてください。このとき他のさまざまな不安は全く蚊帳の外になっていませんか。たとえば、奥さんの仕事や家事の悩み、子供とのふれあい、親の健康状態、近所付き合い、仕事の問題や課題、家の掃除、洗濯、整頓、車の洗車、家の修理、畑の手入れ、集談会の手伝いなどに神経が向いているでしょうか。そんな不安にも平等にかかわりあっていれば、神経症にはならないと思います。自分の状態が、対人恐怖症で最悪の時に、そんなことに関ることなんてできないでしょうという人が多いのではないでしょうか。ふとん上げも奥さんにやってもらっているという人は最悪です。正直なところ、これは症状で苦しんでいた時の自分です。実はここで大きな認識の間違いをおかしているのです。悩んでいる本人は、対人的な不安に全エネルギーを集中して、不安を無くしたり、軽減させることが、何はさておき、一番肝心だと思っています。それ以外のことは考えられない。この方向は、対人恐怖症がなくなるのではなく、ますます取り返しのつかない迷路にはまり込むことになるのです。普通に生活している人は、不安は次々に沸き起こってくるようになっています。「浜の真砂は尽きるとも、不安の種は尽きることなし」と言われるように、不安や恐怖、違和感、不快感が湧き起こってこなくなったとしたら、それはまともな人間とはいえません。不安の取り扱いを少し変えるだけで、神経症とは無縁になります。それは一つの不安にとりつかれて、悪戦苦闘する方向ではありません。むしろその不安を掘り下げないで、それを抱えたまま次の不安に飛び乗っていくことです。そんな調子で次から次へと湧き上がってくる不安に飛び乗っていく。そして解決可能な不安には、その都度手を付けて処理する。手ごわいなと思ったら、その不安をメモしておいて、いったんは保留にする。あとで時間があったら、考えてみましょうという気持ちでよいのです。ここで肝心なことは、不安はたくさん湧き上がってくるので、いちいち引っかかっていては身が持たないと認識することです。その方向を目指すと容易に神経症をおびき寄せます。とにかく一つの不安にとらわれて、それを深堀してしまうことが問題なのです。時間はどんどん流れていきます。年配の人はお気づきだと思いますが、年を取るにしたがって、1年という時の流れはどんどん早くなります。今後20年か30年か、どれだけ生きられるか分かりませんが、いづれにしてもあっという間です。「夏草や 強者どもが 夢の後」という俳句がありますが、一つの不安に格闘していくよりも、次々に現れては消えていく不安に次々と飛び乗って、生活を前進させて、人生をより深く楽しむ方が有益ではありませんか。もし認識違いをしておられる方がいらっしゃいましたら、早めに認識を改めましょう。森田は意識化された症状を、水に流して無意識化させる理論になっているのです。
2021.09.14
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今日は森田理論でいわれている「幼弱性」について考えてみたいと思います。大人なのに、赤ちゃんのような振る舞いをするということです。これは自分では、その意識が希薄ですが、他人があの人は箸にも棒に掛からない人だと思っているわけです。一旦そうみなされると、要警戒人物として周りの人に知れ渡り、しだいに孤立してゆきます。ストレスがたまり、それを解放するためにさらに幼弱性に拍車がかかります。幼弱性の強い人は、仲間内から毛嫌いされますので、社会的には死んだも同然です。幼弱性の全くない人は、可愛げもなく、近寄りがたい人になりますが、これも程度問題だと思われます。森田理論でいう「幼弱性」とは、観念的、依存的、自己中心的のことだと言われています。観念的とは、観念や思考を優先する態度です。自分の考えに固執する人のことです。自分の意見、気持ち、主張、要望を相手に押し付けることです。他人だけではなく自分自身にも押し付けてしまいます。観念的の反対は、事実本位です。事実、現実、現状のことです。この二つの関係ですが、本来は事実本位が主導権を発揮して、理知の力を補助的に使い、バランスを維持しなから、生活すれば問題は起きません。ところが、幼弱性の強い人は、観念最優先で、事実、現実、現状は眼中にないという状態です。観念優先で、事実を観察しようという気持ちが希薄です。観念の世界で、事実はいくらでも修正可能だと考えているのです。これでは、森田でいう思想の矛盾で葛藤や苦悩を抱えてのたうち回るのは自業自得となります。依存性とは、本来自分ですべきことを放棄して親や他人に肩代わりしてもらうことが習慣化している人のことです。たとえば3度の食事を用意することは、人間としてあたりまえのことです。献立を考える。買い出しに行く。下ごしらえをする。料理を作る。家族で食卓を囲む。食べ終わったら後片づけをする。ゴミ出しをする。自家用野菜をつくる。加工食品を作る。デザートをつくる。これが面倒だといって、外食に頼る。デリバリーを利用する。ファーストフードで済ます。いつもスーパーの惣菜に頼る。食材の宅配を利用する。これが習慣化すると、栄養のバランスが崩れて、健康の維持は難しくなります。さらに問題なのは、日々の課題を無視することによって、暇を持て余すようになります。その隙間を刹那的、享楽的、刺激的な娯楽で埋めようとするようになります。生きがいとは無縁な生活になります。依存体質の強い人は、無為の人生と親和性があります。依存の反対は自立です。基本的に自分のことは自分でするということです。経済的に余裕があろうがなかろうが、自分のやるべきことは自分ですることが大切です。「凡事徹底」という言葉がありますが、そのような心掛けで生活している人が、人生を謳歌しているのです。自己中心的とは、自分さえよければ他人がどんなに悲惨な状態になろうが意に介さないという態度のことです。人間は長生きして子孫を残したいという動植物の命をいただいて、延命を図っている生き物です。つまりある程度、自己中心的でない人は、生き延びることはできません。ですから自己中心を否定するわけではありませんが、その欲望が暴走してしまうことは大きな問題です。人類史は欲望の暴走の繰り返しだったと言っても過言ではありません。自己中心の反対は何でしようか。私は、森田理論でいう「物の性を尽くす」をあげたいと思います。他人、他の動物、植物に至るまで、自分の能力を最大限に活用して、生き尽くしたいという気持ちを持っています。その気持ちを汲んで、相手に寄り添う気持ちが大切になると思います。自分の私利私欲を前面に打ち出して、相手を虫けらのように取り扱うことは慎むことだと思います。2つの関係でいうと、まず「物の性を尽くす」ことを最優先することだと思います。自己中心性は、誰でもその方向に流されてしまいますので、この際抑制するくらいの気持ちで取り扱うのです。そうなりますと、お互いの人間関係、自然との付き合い方が好循環を始めると思います。現実は自己中心性が独り歩きし、しかも暴走気味なのでとても友好な関係にはなれないのです。このような生き方で一生を終わることは、いづれ後悔することになると思います。
2021.09.13
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生活の発見誌の6月号に行動と症状の関係について分かりやすく説明してありました。車には前輪と後輪がありますが、後輪の方はコントロールできないんですね。前輪の方はハンドルを右に回せば右へ行く、左に回せば左に行く。だから、前輪はコントロールできる行動と心構え、後輪は症状とか感情とかコントロールできないもの。前輪をコントロールすれば、後輪は前輪についていくんですね。だから、間接的にですけれども、いずれ後輪は前輪についていくということです。そういうふうにして、前輪は「行動と心構え」、後輪は「症状とか感情」、こういう風にすれば分かりやすくなるかなと思います。感情は台風のような自然現象の一つですから、意のままにコントロールすることはできません。人間は天候などの自然現象は、素直に受け入れています。ところが、どういうわけか不安や恐怖などは取り除いてしまおうとします。不安や恐怖は、人間の意志の力でコントロールできると考えるのです。これは不安や恐怖の中身を、十把一からげに取り扱っているからではないでしょうか。これに対して、ラインハート・ニーバンは、不安や恐怖には変えることができるものとできないものがあると言っています。1、変えることができないものについては、それを「受け入れる冷静さ」を持ちなさい。2、変えるべきものについては、それを「変える勇気」を持ちなさい。3、そして、変えることのできないものと変えることができるものを「区別する智恵」を持ちなさい。生活の発見会が出している「森田理論学習の要点」の中に、感情は、人間の内なる自然現象のひとつであって、意志によってコントロールできるものではありませんと書いてあります。たしかに、人前での緊張感、憂うつな感じ、不安感など、湧いてくる感情は人間性の自然であって、変えようと思っても変えられるものではありません。それをあえて変えようとして、悪戦苦闘した結果が神経症で苦しむことになるのです。この手の不安や恐怖には手を出さない。つつきまわさない。これが前提です。神経症は不安や恐怖との格闘を中断した途端、その日から治ると聞きましたがまさにその通りだと思います。さて、森田理論によると、不安や恐怖の裏には欲望が隠れていると言います。不安や恐怖を無くするためのエネルギーを生の欲望に振り向けることが肝心ですよというのが森田理論です。そうすれば不安や恐怖に振り回されることは無くなります。そして、欲望が暴走しないように、不安や恐怖を活用して、欲望を制御すれば万事うまく収まりますよと教えてくれています。理にかなった理論だと思います。ただし、すべての不安や恐怖をそのまま放置していればよいと理解してしまうことは早計です。不安や恐怖を察知したら、改善策や打開策を考えて、早めに行動に移すことが必要な場合があります。例えば、日本は災害が多い。地震、台風、土砂災害、火山の噴火などです。これらは不安を感じたら、ただちに身の安全を確保する対策を講じる必要があります。自動車保険、生命保険、火災保険、医療保険、地震保険などに入るのは、不安や恐怖があるからこそ手が打てるのです。万が一の災難を想定した対策です。将来のリスクヘッジになるもの、人の役に立つことなどは、不安を感じたらただちに行動に移すことです。こういう知恵を持つことが大切になります。
2021.09.12
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7月号の生活の発見誌に集談会にのめりこんだら会社の業績が伸びた。幹事や世話人を引き受けることで自分が成長したとありました。この方は幹事や世話人を引き受けたそうです。今日はその意義を考えてみたいと思います。幹事・世話人にはいろんな役割があります。代表幹事、会計、受付、お菓子係、司会進行、本部や支部への連絡係、メールやはがき案内係、ホームページ更新係、会場予約係、報告書作成係、初心者対応係、派遣講師連絡係などです。幹事・世話人になると、集談会前に行われる幹事会に出席することになります。そこでその日の予定の確認、3か月先までの予定の立案。集談会で何か問題が発生するとその都度対応策を考える。以前はイベントが目白押しでした。野外学習会、ハイキング、一泊学習会、一日学習会、暑気払い、忘年会、新年会、花見などがありました。これらの計画を立てるのも幹事・世話人です。特に一日学習会の企画と実施は、宿泊を伴いますので、みんなで協力して、きめ細やかな対応が求められます。ここで成功すると大いに自信がつきます。この成功体験が大きいのです。それは即仕事面で応用できるようになります。一石二鳥とはこのことです。最初に幹事・世話人になりませんかと言われたときは、しり込みする人が多いです。私も最初はそうでした。症状で苦しんでいるのに人の世話なんかはとてもできない。でも結果的に、この幹事世話人を引き受けたことがプラスになりました。幹事世話役に取り組むことで、小さな成功体験を数多く蓄積することができたのです。これがその後の生活や仕事に大きな影響を与えるとは思ってもみませんでした。それをお金を賭けずに身につけることができたのですから、笑いがとまりません。それまでは観念的で、実行する前から「やったことがないので不安だ」「どうせ挑戦してもうまくいかない」「どうもやる気が起きない」「面倒だ」「億劫だ」などと理由をつけて行動力が欠けていたのです。そして雑多な成功体験を身に着けないで大人になっていたのです。集談会に参加して、幹事・世話役を引き受けたことで、小さな成功体験を遅ればせながら数多く体験できたのです。小さな成功体験を持っていると、つぎの課題や問題が出てきたときに、やればできるかもしれないと思えるようになるのです。日常生活の中での小さな成功体験はとても重要です。成功するとドパミンがたくさん出て気分がよくなります。それは意欲の脳と言われる側坐核に良い影響を及ぼします。さらに脳全体に好影響を及ぼし、前頭前野は建設的、生産的、創造的に活動してくれるようになります。そしてまた新たな課題を見つけて挑戦するようになります。こうした好循環を作り出すと人生は活性化してきます。小さな数多くの成功体験を持たないで大人になった人は、今からでも遅くはありません。そのためには積極的に集談会で幹事・世話人を引き受けることです。そこで小さな成功体験を積み重ねるという戦術をとることです。そこでは失敗しても大目に見てもらえます。上手くいくと大いに評価してらえます。こういうことは利害関係が複雑に絡んだ普段の社会生活の中では難しいことです。最近はコロナの影響もあり、人材が不足していますのでいくらでも役割があります。私の経験では、集談会の幹事世話活動に丁寧に取り組んでいる人は、社会の中でも相当重要な役割を無難にこなしておられるといったイメージあります。
2021.09.11
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7月号の生活の発見誌に心を軽くするキーワードが紹介されていました。これによると、「ありがとう」というと、心が軽くなる、心の中にいい風がスッと吹いてくるのを実感しますとあります。眠れないときに、「ありがとう」を口ずさむと、身体がリラックスして睡眠がとれる。この方はもう2年近くやっておられるという。非常に効果があるので、ぜひ試してみることを勧めておられます。「ありがたいと感謝したいこと」を日記に書いて、それを寝床に入って「ありがとう」と繰り返すとよいかも知れませんね。「ありがたいと感謝すること」は、あたりまえのことの中かから見つけることが肝心です。するといくらでも思いつきます。「ありがとう」という言葉で感謝探しを続けていると、自己否定や他人否定からどんどん遠ざかることができます。人間関係が丸くなります。それ以外のキーワードとして、「一生懸命を楽しむ」「今に生きる」と言われています。私は座右の銘として「凡事徹底」という言葉を大切にしています。森田では「ものそのものになりきる」という言葉もあります。会社から指示された仕事は、最初から意欲的にはなれません。それでよいのです。ここでは、イヤイヤでも行動に手を付けたということが肝心です。森田では、目の前の事象を見つめていると、感情が動き出す。感情が動き出すと、気づきや発見がある。興味や関心が生まれてくる。しだいにモチベーションが高まり、積極的、建設的、生産的な行動に結びついていくと言います。つまりイヤイヤ始めたことでも、行動には弾みがついてくるということです。最初は気持ちが入ってなくても、行動しているうちに、無我夢中になって自分のことはすっかり忘れていたという状態に入ることが重要です。結果ではなく、プロセスを楽しむためには、いったんは仕事に入り込むことが欠かせないということです。逆に「がんばる」という言葉はあまりよくないと言われています。神経症の人は、間違ったことを一生懸命がんばって神経症になったわけですから、頑張るというのは止めた方がいいと言われています。スポーツ観戦などの応援で「がんばれ」という言葉を使うことがあります。「もっとがんばれ」という言葉は、よく考えてみると「結果を出せ」「成果で答えろ」「負けは許さないぞ」と「かくあるべし」を押し付けている言葉です。猛練習を積み重ねて、試合に臨んでいる選手にしてみれば、「勝負はやってみなければわからない」「普段の練習通りのことが出せたらよい」と思っています。逆に「絶対に勝って成果を出さないとお世話になった人に合わせる顔がない」という気持ちが少しでも入り込んできたら、それがプレッシャーとなって、想定以上の成果を出すことは極めて難しくなります。本番に臨む選手には、「練習のつもりで思い切ってやれ」で十分です。この方が良い結果につながるように思います。
2021.09.10
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私のもとにエッセイを書いてメールで送信してくれる人がいる。その方は10年くらい前に、5年生存率5パーセント以下というスキルス性のガンになられた。そして生きがい療法に出会われて、フルマラソンに挑戦された。そして今では、もう定期検診にくる必要はないと言われるまで回復された。いまはその体験をガン患者や看護学生たちの集まりで発表されている。今回のテーマは依存症だった。その内容が、アルコール依存症、ギャンブル依存症、ネットゲーム依存症、通販依存症、恋愛依存症などの方たちに参考になると思われますのでご紹介いたします。ネズミを使った興味深い実験があるそうだ。まず、同数のオス・メス合計32匹のネズミをランダムに16匹ずつ環境の異なる2つのグループに分ける。一方は一匹ずつ金網のオリの中、他方は広々とした場所(ラットパーク)に雄雌いっしょに入れられて生活をする。そして両方のネズミに普通の水とモルヒネ入りの水を用意して、その後の様子を57日間観察した。9~13日後、ゲージのネズミたちはどんどん薬物の深みにはまる。一方広々とした場所のネズミたちは、自由にモルヒネが飲めるにも関わらず、ほとんど触れられずに自由な生活を楽しんでいた。19~23日後、ゲージのネズミはますます薬物を口にし、反面ラットパークのネズミは薬物を避け続けた。心地よい環境にあるラットパークのネズミたちは薬物に対する欲求がほとんど見られなかったという。その結果、依存症の発症には、身体的、精神的、そして社会的状況が大きく影響しているという結論に達した。依存症は、誰でも最初は好奇心に突き動かされ、軽い気持ちで手を出す。そのときの快感が脳にしっかりと刻まれる。二度三度と手を出すうちに、しだいに脳がハイジャックされる。気が付いたときは、量がどんどん増えている。また中断すると禁断症状に苦しめられる。アリ地獄の底に落ちると、自分の意志では依存症から抜け出すことは不可能となる。依存症を強力に後押ししているのが、自分の普段の生活が、孤独、退屈、無目的、不自由な生活環境、対立している人間関係に置かれているかどうかであるという。さらに生活が不規則である。日常生活に真剣に取り組んでいない。お金で済むことは極力人に依存している。特に食生活が大切になります。買い出しをしない。自分で料理を作らない。宅配を頼む。ファーストフードが多くなる。外食中心になる。など。こうなりますと、まず野菜の摂取量が減ります。食事のバランスが崩れます。なんとか命は生きながらえても、体調が悪くなり、病気になります。また、自分で小さな目標に挑戦して達成感や自信をつけるという楽しみがない。外から与えられる娯楽的、刺激的、享楽的な楽しみばかりを追い求めている。これらは人生を豊かにするカンフル剤として活用するとよいのですが、それが主力となってしまうと、人間が骨抜きにされてしまいます。実に恐ろしいことになります。こうなると、依存症は恐ろしいということを頭で理解していても、身体はしだいにのめりこんでいく。そうしないと自分の精神状態が不安定になり、混乱してくるからである。私もある時期、パチンコ依存症になりかけたことがある。そこから生還できたのは、お金を湯水のように使うことの罪悪感があったのと、生活のバランスを意識した森田的な生活を維持していたことだと思う。パチンコに行きたくても、目の前には手掛けなければならないことが次々に待ち構えている。そちらのほうに意識や注意を向けて、手を出していく。パチンコはそのあとで考えようと思ったのです。そんな状態でパチンコをしない日が3日~4日続く。最終的に1か月くらい足が遠のくと、別にパチンコをしなくても、ほかに楽しみはいくらでもあるといった心境になった。それが習慣となってパチンコから縁が切れた。
2021.09.09
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今日はクイズを出します。口という字に2画足して、別の漢字を作ってください。これを集談会など大勢で行うのです。時間は3分間です。一番多く見つけた人にプレゼントを用意しておくのもよいでしょう。10個以上見つける人は非常に少ないそうですから、見つけた人には全員プレゼントを渡してもよいかも知れません。例をださないとよく分からなという人がいるかもしれません。たとえば、2画足して、「目」とか「田」という漢字になります。二画たして別の漢字を短時間でいくつ見付けられるのか競うのです。結論から言うと、27個あるそうです。これは最後に掲載しておきます。答えを見る前にまず自分で考えてみてください。教えてもらうと、なるほどそうかと納得します。しかし自分ではなかなか見つけられない。他人が2つ3つと見つけると、俄然やる気が出てきます。それでも、なかなか難しい。でも、見つけようという努力をしないと、永遠に見つけることはできません。見付けようという努力が大切です。そうしないと次に進めません。これは森田理論でいうと両面観にあたります。自分が観念で考えたことに固執することは、一面的で間違いが多くなるということです。円錐柱も多面的、立体的に見るからこそ、正しく見極めることができます。自分の一面的な考えを相手に押し付けることは、「かくあるべし」を押し付ける事になります。自分はこういう考えですが、あなたはどういう考えですかと謙虚な気持ちで尋ねてみることが肝心です。田原総一朗さんの「朝までテレビ」という番組では、真反対の論者を参加させて、喧々諤々の議論をしています。双方の主張を聞いていると、しだいに自分の考えが浮かび上がってきます。民主主義の基本は、相手を力や理屈や経済力でねじ伏せる事ではありません。双方が対等の立場で自分の意見を述べあい、時間をかけて妥協点を見つけるところにあります。こうすれば、間違った方向に流されないので、その後の惨禍を免れ、平和で友好的な人間関係を築くことができるのです。両面観を無視して自分の一方的な考え方に固執すると、後で後悔することになる場合が多くなることを忘れないようにしたいものです。それでは、クイズの答えを書いておきます。全部で27個です。囚、四、目、田、申、由、甲、旧、旦、白、古、占、召、台、只、兄、号、叶、叱、加、石、右、史、句、可、司、叩10個以上思い浮かべた人は、普段の生活の中で多面的なものの見方や思考ができる人だと思います。
2021.09.08
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私の通っていた高校は、冬になると体育の時間は5キロの長距離走だった。年に4回はあったように記憶している。全校を上げての駅伝大会も毎年開催されていた。私の通っていた高校は、地元の国立大学に2人から3人くらいしか合格しなかったが、全国高校駅伝では、男子は優勝回数最多の10回の強豪校だった。そこで成績を上げれば、箱根駅伝の常連校に推薦入学ができた。ちなみに女子も2回全国制覇している。もっとも私の場合は、陸上競技部ではなかった。平凡な1高校生だった。私の長距離走の戦略は、最初のうちは抑え気味に走る。全体の中ほどにつけていて、流れについていくという戦法だった。そして、3キロ過ぎから目の前を走る選手に照準を合わせて、一人また一人と抜いて順位を上げていくことを考えていた。この方法は、目標が明確になり、その目標を達成すると自信になる。順位を上げるという意欲が益々強くなっていく。ゴールに入っている頃には、自然と上位グループに入っている。この方法は、自己肯定感を育てていく。この方法をとるまでに痛い経験をしたことがある。スタートすると、すぐに先頭集団にはいり、1キロくらいまではなんとかついていけた。ところが。その後は息が苦しくなった。また足がついていかなくなった。そのうち後続の選手に次々と抜かれ始める。走る意欲が萎えてきた。2キロ地点で歩き始めた。そして最後には棄権した。自転車に乗った先生が後ろから叱咤激励するという体たらくだった。今考えると、これは人生も同じことがいえると思う。最初に人生のピークが来て、晩年になって落ち目になるよりも、最初は鳴かず飛ばずの人生だったが、晩年を迎えるころには、経済的にも、精神的にも、人間関係にも恵まれて味わいのある人生になっている。生きがいが持てて、夢や希望が膨らんでいく。「終わりよければすべてよし」という言葉があるが、この流れが理想だと思う。私も人生の晩年を迎えて、一生を振り返ってみると、大学を卒業後ずっと仕事を続けてきた。今もマンションの管理人の仕事をしている。「継続こそ力なり」だと思う。そして毎日通勤と仕事の中で、無理なく足腰を鍛えている。仕事を続けたおかげで、いざというときのための、ある程度の貯えを築いた。これが精神的な安心感をもたらしている。人間関係は、森田理論の不即不離を応用して、尽きず離れずの付き合いを楽しんでいる。対人恐怖の私が、今では人との交際が楽しみになってきた。それと森田に出会い人生観を確立できたことは大きい。森田の学習はこのブログを続けているおかげでどんどん深まっている。森田の自助組織に参加していなかったら、人間関係は井戸の中の蛙状態で終わっていたと思う。森田なしでは私の人生は、こんなに充実感は味わうことはできなかったであろう。森田を通じて、これからもどんどん目標や夢が膨らんでくるようだ。森田理論には感謝以外にはない。真冬のマッキンリーで消息を絶った登山家の植村直己氏が次のような言葉を残している。「夢を持つことは素晴らしいことだ。大事なことは、夢が大きいとか小さいということではなく、夢が実現したかどうかでもなく、夢にどれだけ自分自身を賭けたかどうか、である」この言葉は、森田先生の言う「努力即幸福」の世界のことである。「終わりよければすべてよし」とするためには、課題や目標、夢や希望の有無が決め手になると思う。小さな課題の達成が、小さな幸福のかけらを運んでくれることを忘れないようにしたい。
2021.09.07
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三重野悌次郎氏のお話です。宇宙の現象は、常に流動変化であり、一瞬の間も停止固定することはない。これは、仏教でいうと「諸行無常」ということです。いくら自分の都合のよいようにしようと思っても、周囲の事情でどう変化するか分かりません。どう変化していくか分からない人生に、絶対的な安楽を期待して、安らかな気分を求めようとするのが神経質者です。(森田理論という人間学 三重野悌次郎 春萌社 148ページ)この世の中は猛スピードで動いている。同じところに固定しようと思っても無駄である。できることは、その変化という流れにうまく乗って疾走することだ。精神現象も、常に変化流動している。不安があっても、それを一つ一つ解決してから次に進むという考え方では、変化にはついていけない。とり残されてしまう。非安心行動(不安を抱えたまま行動に取り組む)という心構えで、日常茶飯事や仕事に取り組むことが大切である。人間は、変化流動の生活の中で、欲求や欲望が発生する。欲求や欲望が発生すると、それを制御する不安や心配事も同時に発生するようになっている。森田理論でいう「精神拮抗作用」のことである。これは人間に標準装備されている。普通の人は、不安や心配事に細心の注意を払い、欲求や欲望の達成を目指していく。神経症の人は、欲求や欲望の達成のためには、まず不安や心配事を片づけないと、次のステップには進めないと考える。森田理論では「手段の自己目的化」が起きているという。解決のめどが立たない不安や心配事に関わっているうちに、本来の欲求や欲望を完全に見失ってしまう。そして悶々とした生活に甘んじることになる。たとえば結婚したいと思うような人が現れた。なんとか声をかけてお近づきになりたい。でも、もしも相手に結婚を前提に付き合っている人がいたとしたらどうしょう。すぐに断られてしまう。それを面白おかしく周囲の人に吹聴されたりすると、自分の立場がなくなる。そのことを考えると、気軽に「付き合ってくれませんか」と声をかけることができない。そして、付き合うチャンスを逃して、いつの間にか二人は疎遠になっていく。それを思い出すたびに、後悔でやるせなくなる。精神拮抗作用に対しては、目的物から目を離さないことが大切になる。紙に書いて机の前に貼りつけて置く。つぎに、欲求や欲望が発生すると、必ず不安や心配事、乗り越えなければならない障害物が発生することを忘れてはならない。それは軽率なことだけはするなよと警告してくれているのだ。それに学んで慎重に行動していけばよいということです。それをクリアして初めて果実を手に入れることができるのです。そのためには達成可能な目標を設定する。数が多ければ多いほどよい。先の例では、まず挨拶をする。世間話をする。相手の趣味などを知る。友だち関係を知る。グループ交際をする。友だちに協力を取り付ける。お茶をする。飲み会やカラオケを企画する。メールやライン、携帯番号を聞く。プレゼントをする。等々。脈があると思えば、さらに課題や目標を増やしていく。どうも相手にその気がない。自分もどうも合いそうにないと思えば、その時点で撤退する。うまくいかなかったときでも、失敗の経験は次の成功のための力になります。成功のためのノウハウを一つ身につけたと思えばよいと思います。不安や心配事に取りつかれて、具体的な行動を起こさないというのは、精神衛生上もっとも悪いパターンとなります。
2021.09.06
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対人恐怖症の人で、自分の「生の欲望」が分からない。夢や希望と言われても、そんなものはありません。何をしたいのか自分でもよく分からない。挑戦してみたいこともありません。趣味はなんですかと言われても、すぐに答えられるものがありません。自分がどんな気持ちなのかもよく分からない。漠然とした将来不安はあります。でも、毎日楽しく生活できていれば十分じゃないですか。そういう人に、話題を変えて、「自分に対する他人の言動や態度は気になりますか」と質問すると、「それはものすごく気になります」と言われます。問題はそこですよと言われます。仲間から排除されると生きていけませんから、他人の言動や態度は、常にアンテナを張って監視しています。とにかく仲間外れにされないように、極力相手に合わせています。自分のことを非難、否定、無視、からかい、軽蔑、叱責されるようなことが発生しないようにいつも気を使っています。気を使い過ぎてしんどいのです。わずらわしい人間関係には極力かかわらないようにしようと思っています。そこまで気を使っているのに、無難な人間関係を築いているとは思えません。人間関係の悪化はストレスがたまります。他人と付き合わないで済む方法はないものでしょうか。つい羽目を外して、喧嘩を売り、切れて不平不満をぶちまけています。それがさらに人間関係の悪化を招いています。例えば、上から下目線でものをいう。馬鹿にした言い方をする。尊大かつ問答無用という態度をとる。横暴な態度をとる。怒鳴る。感情的になる。平気で嫌味を言う。委縮する。おびえる、平身低頭する。媚びへつらう。緊張しながら笑顔をつくる。ふてくされる。ふくれ面をする。警戒心丸出しで険しい目つきで相手をにらむ。不機嫌な顔つきになる。斜めに構える。あきらめる。無気力になる。これらは相手に反抗し、仕返しをしているのですが、人間関係はますます悪化します。こうした人間関係を改善する方法はないのでしょうか。私たちは森田理論学習で「純な心」が大切だと学びました。「純な心」とは、言い換えると素直な感情、直観、一次感情、初一念などと言われます。素直な自分の感情、気持ち、欲求、意志、意向、自分の立場や都合などと言い換えてもよいと思います。まずこれらにきちんと向き合う態度が大切であると学びました。これらをきちんと認めて、確実にキャッチすることが肝心です。これらは意識して取り組まないと、すぐに自分の頭からすり抜けてしまいます。これが石原加受子さんの、自分中心心理学でいう、自分中心主義のことだと思います。こういうものを確実にキャッチできたら、それらを大切に取り扱うことが肝心です。辛い感情や傷ついた気持ちになれば、自分自身でその心を癒してあげる。欲望や目標があれば、できるだけ自分自身で叶えてあげる。満たしてあげる。これらは最初から他人に依存して満たしてもらうものではありません。自分が自分のために自分の心や感情や欲求を満たしてあげることが重要です。注意や意識は、まず自分の感情、気持ち、欲求、意志に向き合うことが肝心なのです。そこを抜きにして、人間関係を議論しても根本的な解決策にはなりません。対人関係で苦しんでいる人は、ここがすっぽりと抜け落ちているのです。すると行き場を失った注意や意識は、他人が自分をどう取り扱ったかに向けられているのです。さらにその感覚が敏感になって、相手の一挙手一動に向けられて振り回されるようになるのです。2つのバランスが崩れて、他人思惑の方に偏り過ぎているのが問題です。これが、対人関係で苦しむ原因となっているのです。ですから、対人関係を改善するためには、このバランスを回復させていく必要があります。自分の素直な感情、直観、一次感情、初一念を基本にして、発言・行動する習慣を早急に作り上げることが大切です。素直な自分の感情、気持ち、欲求、意志、意向、自分の立場や都合などを最優先するようにするのです。他人の思惑を気にして生活している場合は、それは一旦放り投げて、自分の感情、気持ち、欲求は何かを見つめ続けることです。100均で3冊100円で売っているメモ帳を「感情、気持ち、欲求ノート」として、見落とさないでチャッチしていく習慣作りに取り組むことです。これは森田実践で取り組む「初一念ノート」で純な心を捕まえる訓練とよく似ています。軌道に乗ったら、次に嫌な感情や気持ち、欲求を癒す、満足させる、叶えてやるための行動に手を付けていくようにするのです。すると注意や意識がいきなり他人配慮型に向かうことが少なくなります。他人をいきなり攻撃するよりも、私の感情、気持ち、意向などを「私メッセージ」で発信することになりますので、いきなり戦闘モードに入ることが無くなります。自分も楽になり、他人をも傷つけることが格段に少なくなります。ぜひ実践してみてください。以上は、「また断れなかった・・・がなくなる本」(石原加受子 河出書房新社)を参照しています。関心があればご参照ください。
2021.09.05
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石原加受子さんは、人間関係は自分中心から出発することが大切であると言われています。他人中心から出発すると問題だらけになると言われているのです。その順番を間違えると、人間関係は葛藤や苦悩を抱えるようになると言われているのです。今日は人間関係における自分中心心理学を取り上げてみたいと思います。私たち人間には、次々とさまざまな感情、気持ち、欲求が湧き起こります。それに基づいて、他人とかかわることになります。これは他人への配慮を欠き、自己中心的な行動のように見えますが、そうではありません。石原さんは、人間関係で一番大切なことは、自分の素直な感情、気持ち、欲求などを明確にして対応していくことだと説明されています。ここでは自分の感情や意志や欲求が宝物のように大切に扱われています。これは森田理論でいうと、最初に湧き上がってくる感情、第一次感情、直観、初一念と言われるものです。いわゆる「純な心」として説明されている部分です。森田理論を学習した人は、「純な心」の体得は悲願と言ってもよいものです。「かくあるべし」を骨抜きにさせて、「事実本位」に近づく手段となるものだからです。「純な心」の大きな特徴は、きちんと掴まえようという意志を持たないと、すぐに消え失せてしまうということです。見逃してしまうと、「純な心」に基づいた対応はできなくなります。「純な心」を見失うと、単にそれだけでは済みません。さらに大変な事態に直面することになるのです。見失った途端、その問題ある事象を観念で解釈するようになるのです。人間は高度に発達した大脳を持ち、言葉を使う生きものです。記憶力も高度に発達しています。一旦初一念を掴みそこなうと、その隙間はすぐに別のもので埋められてしまいます。その隙間を埋めにやってくるものが曲者で始末に悪いものなのです。これをずばりいうと、理屈や知識や情報などです。その他、一般常識、規範、規則、習慣、法律、ルール、風習、しきたりなどが我が物顔で侵入してくるのです。今までの人生で身につけた観念の世界で満たされてしまうのです。森田でいう「かくあるべし」が前面に出てきて、他人との対応に当たるようになるのです。これが人間関係に暗い影を落とすのです。「かくあるべし」で他人に対峙すると、他人を上から下目線で見てしまいます。決して対等ではない。力の強いものが弱いものを攻撃するようになります。相手を自分の考えに同調させる。自由に相手をコントロールしようとします。相手を攻撃し、喧嘩になってもそれは仕方がない。とにかく相手に勝つことが目的になります。ここで負けると、逆に相手に主導権を取られてしまう。この状況に至ることは、最悪と考えるようになります。相手の話を聞かない。理解しようともしない。受容と共感とはほど遠くなる。実際には、批判、非難、否定、叱責、攻撃、説得、指示、命令、強制、抑圧、脅す、一喝する、見下す、無視する、からかう、悪評を立てる、大声でわめくようになります。これに対して、当然相手は猛反発してきます。そしてついに双方が戦闘状態に入ります。緊張状態にあるときは、まだよいのですが、少し気弱になった時、或いは自分を援護してくれる人がいなくなった時は極めて危ない。そのとき相手が、本気モードに入り、どんどん軍備を増強し、援軍を引き連れて現れたときはひとたまりもない。すぐに仲間内から追い出されてしまいます。あとはひっそりとなりをひそめて、生き永らえることぐらいしかできなくなってしまう。それは社会的な死を意味します。人間は群れから離れて単独で生きていくことはできません。ぎりぎり生きていけるとしても、味気ない人生になります。どこで歯車がかみ合わなくなったのかと反省しても、すでに時遅しということになります。この最悪のパターン陥らないようにする事が必要です。そのヒントは森田理論が示してくれています。森田理論では、最初に湧き上がってくる自分の素直な感情、気持ち、欲望をきちんと掴まえましょうと言っています。それがするりと滑り落ちてしまうようでは、とても人間関係の改善には向かいません。森田では「初一念メモ」を持ち歩いて、素直な感情、第一次感情、直観をきちんとキャッチするという実践があります。それを参考にして、「自分の感情、気持ち、欲求ノート」のようなものを持ち歩いて、絶えず自分を見つめるという作業を続けるのです。これが習慣になるまで取り組むことです。また、その体験を集談会で発表して、アドバイスをし合うことが有効です。つぎに、自分の素直な感情、気持ち、欲望を相手にどう伝えるかという課題に取り組むことになります。こういうプロセスを大切にすると、絶えず相手の思惑に神経をとがらせて、言い争うということが避けられると思いますが如何でしょうか。
2021.09.04
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生活の発見誌に、お悩み相談があります。学校の親睦会や委員会のことを考えると憂うつになります。自己紹介があるのでほとんど欠席しています。どうしても出席しなければならないときは、人前で発言する自分が思い浮かび、頭から離れず怯え、発言する言葉を考えてはまとまらず、不安に襲われます。ソワソワ落着かない状態になり、家事が手につかなくなり、気持ちにも余裕がない日々を過ごしています。この方は自己紹介が苦痛だとおっしゃっています。自己紹介を堂々とよどみなく、完璧にこなしたいという気持ちが強いのだと思います。自己紹介は自分の名前と役割、自分の状況などがある程度伝えることができれば十分です。集談会などでも、名前と症状だけの自己紹介をする人もいます。時間にすると30秒くらいです。誰も変に思いません。むしろ時間が押しているときは、早く切り上げてくれてよかったと感謝されます。自己紹介があるときは、事前準備が必要です。これは家にいる時に、具体的に紙に書いてみることをお勧めします。しゃべることが分かっていると安心します。本番では、それを棒読みするだけでもよいと思います。誰も変には思わないはずです。それとこの方は一人で悩みを抱えて苦しんでおられるようです。神経症の蟻地獄に落ちた人は、もがけばもがくほど深刻になりますので、孤立することは避けた方がよいのです。相談相手として、ご主人はどうですか。話を聞いてもらえていますか。学校行事には、時間が取れれば、一緒についてきてもらうことはできませんか。私も飛び込み営業ができなくなった時、同行営業をしてもらった時は、すぐに逃げ出さないで何とか仕事ができたという経験があります。それと生活の発見会に入会しておられるのでしたら、信頼できる人に個人相談に乗ってもらうのが有効です。あるいは信頼できるカウンセラーに話を聞いてもらう方法もあります。より深刻な場合は、精神科で薬物療法を受けてみるのも選択肢の一つです。この方は、今すぐにこの苦しみを取り除いてほしいと切なる思いで相談されているのですが、残念ながらこれといった処方箋はありません。たとえノウハウを教えてもらったところで、それは今の苦しみを刺激して、さらに増悪するだけになります。神経症で苦しんだ人は、自分も同じような経験をしているので、傾聴、共感、受容はできますが、これといった特効薬を提示することはできません。ではどうすればよいのか。森田理論学習に取り組むことをお勧めします。とくに神経症の成り立ちをしっかりと理解することです。注意と感覚の相互作用(精神交互作用)によって、神経症が固着してきたことを理解することです。また不安と欲望の関係についても、学習することが必要です。不安というのは、欲望とセットなっています。この方の欲望は、人前で堂々と発言したいということです。本来は不安に学んで、堂々と発言するためにどんなことに取り組めばよいかと考えればよいのです。今は、そのことを忘れて、不安を取り除くことばかりに目が奪われています。不安と欲望のバランスが崩れているのが問題です。ミイラ取りがミイラになっていることがわかれば、それだけでも楽になれます。私が対人恐怖症を克服したと思ったのは、治す努力を緩めたときでした。不安を放置して、生の欲望に方向転換した時でした。どうせ治らないのなら、これからの人生を精いっぱい楽しんでみようと切り替えたからです。トライアスロン、資格試験、楽器の演奏、自家用野菜つくり、加工食品、一人一芸、カラオケなど興味や関心のあるものにどんどん手を出していきました。そうしていたらある日突然気が付きました。たしかに人の思惑は今でもとても気になります。でも人の思惑に振り回されて、生きていくのがむなしいという状態は回避できている。それよりも毎日の生活の中でささやかな楽しみをいっぱい味わうことができている。これは不本意かもしれないが、ある意味で対人恐怖症を克服したと言えるのかもしれない。また、神経症を完全に克服すると、神経質のプラスの面がなくなる事だから、この程度の治り方がよいのではないか。他人の思惑を気にしながら、精いっぱい人生を満喫して生きていこう。この方向で努力したことは間違いなかったと思う今日この頃です。
2021.09.03
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「純な心」とは、素直な感情、直観、第一に感じる感情、初一念のことです。その特徴は、大切なものですが、一瞬で消え去ってしまうということです。森田理論学習では、それが消える前に確実に掴むことが大切であると学びました。掴まえそこなうと、続いて、初二念、初三念といわれる、「かくあるべし」を含んだ感情が湧き出てくる。大脳で処理された観念が前面に出てくるようになるのです。森田先生は、「純な心」をきちんとキャッチして、そこから行動すれば問題は起きない。初二念から行動を起こすと、相手と対立し、言い訳や責任転嫁が多くなり、次々と問題が発生して拡大していくと言われています。皿を落として割ってしまったときの逸話、ウサギが野犬にかみ殺されたときの逸話で説明されているとおりです。この方向は事実本位の態度からどんどん遠ざかっていくというのが問題になるのです。分かりやすい例では、遠足ではぐれた子供が無事に帰ってきた。「お母さんはとても心配していたのよ。でも無事で帰ってくれてよかった」これは「純な心」です。「どこに行ってたのよ。自分勝手な行動をとってはダメだとあれほど注意していたでしょ」と叱責するのは、初二念からの発言であり「純な心」ではありません。初一念に立ち返った言葉がけができるかどうかで、その後の展開はまるで違ってきます。正直で素直な感情(純な心)が大事なのが分かったところで、次のような場合はどうだろうか。「あなたは化粧が濃すぎるのではありませんか」「あなたにいたただいたお土産はまずかった。とても口にできるようなものではなかった」「あなたは顔色が悪いけど、ガンがあちこちに転移しているのではないの」「あなたはいつの間にか皴やシミが多くなったね」「あなたは最近すごくやつれたように見えるね」「あなたの髪は風前の灯火だね」「あなたの歩き方は、まるで老人みたいだね」「あなたはそんな容姿でよく外出できるね」こんな発言は、正直で噓偽りのない素直な感情だからと言って正当化されるものでしょうか。正直で素直な感情だからと言って、こんなことを口にしてはいけませんね。相手はムカッとして反発してきますね。これらは常識以前の問題ですね。でも世の中にはこんな人がいますね。これを「純な心」だと思っているとすれば、それは大いなる誤解だと思います。これは「正統派の純な心」とは区別して、「偽の純な心」と呼ぶのは如何でしょうか。「正統派の純な心」と「偽の純な心」の違いは何でしょうか。「正統派の純な心」は、相手を責めているわけではありません。相手の行動によって、自分がどんな気持ちになったのか、どんな感情が湧き起こってきたのかを説明しています。自分の素直な感情を吐き出しているのです。このとき湧き上がってきた自分の感情に焦点が当たっています。その発言を相手がどう受け止めるのかは相手に任せています。その後どう対応するのかも相手に委ねています。「偽の純な心」は、明確に相手を非難、否定、攻撃しています。相手を自分の思い通りにコントロールしようとしています。素直で正直な感情という「隠れ蓑」を身にまとい、相手のことを「かくあるべし」で極評しているのです。それに対して、当然相手は気分を害して、反発してくるのです。これは問題ある相手の状況や状態を、「快・不快」「良い・悪い」で価値判断しているのです。間違い、悪い、劣っている、問題ありと判断したものは、自分に不快感を与え、憤懣やるかたない気分にさせるので、その不満を相手にぶちまけているのです。どんな感情でも自然に湧き上がってくるのですから、コントロールはできません。「純な心」の本旨は、自分の素直な感情をそのまま相手に伝えることです。うれしかった、悲しかった、心配だった、ビクビクハラハラしたなどです。しかし、素直で正直な感情という言葉にとらわれていると、相手と対立するようになります。自然に湧きあがってきた感情に対して、是非善悪の価値判断をして、相手を否定、非難、攻撃することは厳に慎むことが大切になります。それは決して正しい「純な心」の活用方法ではありません。「かくあるべし」が肥大化した自己中心的なわがままというべきものです。「偽の純な心」は、一旦ろ過機を通すことが不可欠です。いくら正直で素直な感情であっても、ろ過機を通して、相手が気分を害するような感情は、抑圧するのが常識のある人間のすることです。この使い分けをきちんと理解して、実生活で活用できるようにしたいものです。
2021.09.02
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イチローさんは、オリックス時代は「振り子打法」でした。独特な打ち方で、そんな打ち方をしている選手はいませんでした。監督やコーチから、一般的な打ち方に変えるようにきつく言われていたそうです。しかしイチロー選手は、頑として自分のフォームを変えませんでした。すると、2軍に落とされて、試合で使ってもらえませんでした。陽の目を見たのは、仰木監督に代わってからのことでした。これについてイチローさんは、「人の意見や評価ほど、あいまいなものはないから」と答えています。仮に他人のアドバイスを全面的に受け入れて、迷路に入り込んでも、責任は自分で引き受けなければなりません。下手をするとプロ野球を断念しなければならなくなるかもしれないのです。自分の考えたこと、感覚を大切にした方が、仮に失敗しても納得ができます。他人のアドバイスに振り回されて、元々持っていた自分の考えや気持ちをコロコロと変えることはマイナス面が大きいと考えたのです。この点については、別の考え方もあります。本来、将来のことを決める時に、周囲の人に相談して意見を聞くのはいいことです。他人のアドバイスを試してみることもとても大事です。その中から、解決のヒントが見つかることが多々あります。そこから学ぶこともあるし、すぐにうまくいくようになることもある。うまくいかなくても、自分には合わないなということが分かります。いいことずくめのような気がします。この相反する2つの視点をすっきりと理解しておくことは大事になります。どう考えて行動していけばよいのでしょうか。ここで肝心なことは、自分の立場、感じ、意思、気持ち、考え、欲求などを、何よりも優先して取り扱っているかどうかだと思います。主体性を持っているかどうかがとても大切になります。ここが曖昧である。よく分からない。無視しているということは大問題となります。ここを出発点として自分の立ち位置を固めることが大事になるのです。森田でいえば、現実、現状、事実をしっかりと見つめて、目線を一歩上において行動を開始するということです。自分の立場が曖昧なままで、他人のアドバイスを全面的に受け入れてしまうと、仮にうまくいかなかったとき、相手のせいにしてしまう。責任転嫁して、相手を怨むようになります。そういう受け身の態度が身についた人は、人によってアドバイスが変わるたびに、自分の考えをコロコロと変えるようになってしまう。また他人から指示、命令がないと何もできなくなります。自分の意思、気持ち、欲求が蚊帳の外になっているために、自分の行動が他人にコントロールされやすくなります。これは、自分から積極的にチャレンジするというのではなく、他人から「やらされている」という感覚になります。これでは行動する喜びが持てません。行動すること自体がむなしくなります。行動する場合は、最初に自分の立場、感じ、意思、気持ち、考え、欲求は何だったのかを自分に問いかけてみることです。それがないときにアドバイスに頼ることは百害あって一利なしと心得るべきです。自分の主体性が確立していれば、それを後押ししてくれるアドバイスであれば、積極的に取り入れてみる。目的を達成するための一つの選択肢として受け止めるということです。この順序が逆になるということは本末転倒です。やる気や意欲がどんどん高まるということはほとんど期待ができません。ここを勘違いしていると、人生はいつまで経っても活性化してこないと思います。
2021.09.01
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