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昨日の続きです。「ひらめき」や「気づき」は、宝が詰まった玉手箱であると認識する必要があります。でも、放置しておくと、すぐに忘却の彼方に飛び去ってしまうものであるという認識も必要になります。「ひらめき」や「気づき」を宝物として認識して、確実にチャッチするためにはどうすればよいのか。言い古されたことですが、忘れないうちにすぐにメモしておくということです。これに命を賭けて取り組んでみるという心構えが大切になります。私のやり方をご紹介します。まずいつでも書けるストラップ付きのボールペンを用意します。100均で2本100円で売っています。これをいつも首にかけておく。邪魔になる、目障りになるという人は、上ポケットに入れておく。これでいつでもメモできる態勢が整いました。次はポストイットを用意します。100均に行くと、さまざまなサイズの付箋があります。私が使っているのは7.5cm×5cmのものです。これくらいの大きさでないと、書き込むことが困難です。6cm×6cmくらいのものも使いやすいと思います。これをスマホのカバーを開いたところに取りつけています。クリアファイルを同じサイズに切り取り、両面テープで張り付けています。そこにポストイットを張り付けています。量は20枚程度です。なくなるとすぐに補充します。ポットイットは上部に弱い接着剤がありますので、ずり落ちることはありません。そこにプラスチック製の台紙挟み込んでいます。じかにポストイットが携帯画面に接触しないためと書き込んだポストイットを張り付ける台として使用しています。張り付けたポストイットは裏返しにしています。こうすると、携帯に電話がかかってきたときも、問題なく使えます。これを有効活用することで、「ひらめき」や「気づき」はかなりの部分拾えるようになります。そのためには最初のうちは意識して実行することです。そのうち習慣化してくればしめたものです。つぎにA4のノートを用意します。ノートは書くのではなく、台紙代わりとして使っています。A4サイズは、見開きA3サイズになりますので、とても使い勝手がよいと思います。これも100均で40ページのノートが100円で手に入ります。ノートの真ん中を折って、左右にそのメモをどんどん張り付けていくのです。その他貼り付ける時に、気づいたことはその都度書き込みます。私は色違いのノートを3冊用意しています。分類するためです。森田関係、趣味の関係、日常茶飯事に分けています。このノートは家に置いています。仕事から帰ってすぐにペタペタと分類して貼り付けます。あとはこの「ひらめき」や「気づき」を膨らませていかに活用させていくか。これが私の腕の見せ所だと思っています。楽しい作業が待っています。ほとんどは没になっても、10個に1つか2つを大きく育てることができたら望外の喜びになるのです。これはと思われた方は、即実行に移すことです。なお詳しいことは(1冊の「ふせんノート」で人生は、はかどる 坂下仁 フォレスト出版)という本が参考になります。興味と関心のある方は是非お読みください。
2021.06.30
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エジソンは、「天才とは1%のひらめきと99%の努力である」といったそうです。バンダイミュージアムの金井正雄館長は、これは「1%のとっても大切なひらめきがなければ、99%努力しても無駄になってしまう」と訳すのが正しいと述べられています。エジソン研究所では、エジソンがひらめきをスケッチし、それをもとに助手がデザインし、5000人のエンジニアが製品化していました。いずれにしろ、エジソンはひらめきの天才であったということです。もっと言えば、ひらめきの持つ意味についてことさら関心を寄せていた人であったのです。森田理論では、「ひらめき」のことを「気づき」とか「発見」と言います。気づきや発見に至るためには、目の前の物や出来事を、素直な気持ちになって「見つめなさい」と言われます。そうすると何らかの感情が動き出すといわれています。しだいにやる気が出てきて、積極的な行動に発展してくると説明されています。私は、見つめているだけで、「ひらめき」や「気づき」は出てこないのではないかと思っています。見つめている時に、問題点や課題、改善点や改良点が見えてくることが大切になる。それを何とか改善・解決したいという気持ちが湧き上がることが必須だと思います。でもその時は妙案が浮かばない。仕方なく、そのままにして目の前のなすべきことに取り組んでいく。すると、その時の問題点や改善点、疑問点は無意識の領域に降りていく。それは全く忘れてしまったのではなく、無意識の領域では解決すべき課題として生き続けているということだと思います。人間には顕在意識と潜在意識があるといわれています。潜在意識とは無意識と言われています。顕在意識はほんの数パーセントで、ほとんどは無意識の領域に埋もれている。たとえば、パソコンはキーボードを打つことで、字となってモニターに映し出されます。あるいは、ホームページの閲覧もできます。様々なアプリケーションが起動できます。しかしその裏では、私たちは全く気が付きませんが、デジタル信号が高速で飛び交ってソフトを立ち上げているわけです。私たちの顕在意識というのは、モニターに映し出された文字や画像のようなものです。その裏には膨大な量の無意識が縦横無尽に動き回っているというのが真実ではないのでしょうか。その無意識が「ひらめき」とか「気づき」といった形で、突如顕在意識となって浮上してくるということかもしれません。エジソンの場合は、その潜在意識が顕在意識として表面化したとき、きちんとキャッチしていたのでしょう。そしてそれを温めて、多くの発明に結びつけていたということです。「ひらめき」や「気づき」は、実は様々な場面で、泉のようにこんこんと湧き出ているのです。それを宝物として取り扱っている人とすぐに忘れてしまう人がいるのです。「ひらめき」や「気づき」は、捕まえようと構えている時には、でてこないことが圧倒的に多い。「三上」という言葉があります。馬上、枕上、厠上のことです。馬にまたがって移動している時、寝入りばな、トイレで用を足している時に、突然「ひらめき」や「気づき」が出てくるというものです。さらに言えば風呂に入っている時などです。いずれの場合も、メモを取ることはできません。そのうち用を済ませたころには、そのことをすっかり忘れてしまう。実に残念なことになります。地団駄踏んでどうにもなりません。森田理論の考えでは、「ひらめき」や「気づき」を確実にキャッチするという習慣を身につけないと、モチベーションを高めて、生産的、建設的、創造的な行動につながりません。どうすれば、きちんと掴まえることができるのか。とっておきの方法については、明日の投稿でご紹介いたします。
2021.06.29
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西村貴好さんのお話です。人は、悲しいことが起きたとき、苦しいときが起きたときに本当の悲しみや苦しみを感じるのではありません。自分に悲しいことや辛いことが起きたときに、自分の悲しみや苦しみ、辛さに共鳴してくれる人がひとりもいないと感じる時に、本当の悲しみや苦しみ、あるいは辛さを感じるのです。あなたも、誰かから相談事を受け、その問題を解決したり、悲しみや辛さを取り除くことができないこともあると思います。そんなとき、相手の問題を解決することができなかったとしても、相手の悲しみや苦しみの感情に共感を寄せてあげることはできる。共感を伝えてあげるだけで、相手の悲しみや苦しみがぐっと和らぐのです。むしろ問題を解決すること以上に共感を伝えることで救われることがあるかもしれません。(ほめ下手だから上手くいく 西村貴好 株式会社ユサブル 140ページ)カーネギーは人を動かすという本の中で、「盗人にも5分の理を認めよ」と言っています。相手を非難、中傷したくなった時は、その前にしなければならないことがあります。相手の考えや行動を理解しようと努めることです。これが優先されるべきです。でもよく目にすることは、そのプロセスを飛ばして、是非善悪の価値判断をしてしまう。それが適切で非の打ちどころのない普遍的な考え方だと思い込んでしまう。それを駆使して、有無を言わせないで、相手を追い込んでしまう。これは、共感や受容とは真反対の態度です。人間関係を簡単に破壊に導きます。こういう人は、その矛先を自分に対しても向けていますので、二重の苦しみを抱えているはずです。この態度を改めないと、神経症から解放されることはないと思います。共感するというのは、観念優先の態度を抑制して、相手の考えや行動に寄り添うという努力を意識的に行うということです。この努力はエネルギーを使います。観念優先に凝り固まっている人は、相当なエネルギーが必要になります。この実践は、とりもなおさず、「かくあるべし」を抑制して、事実に寄り添う態度を身につけることにつながります。森田が目指している方向と一致しています。傾聴力、共感力、受容力を身につける努力は、「かくあるべし」を抑制して、事実本位に近づくための手段となるのです。集談会では意識してそのことに取り組まれていると思います。集談会で難なくできるようになると、はじめて社会生活の場で応用可能となるのです。集談会でみんなで切磋琢磨しながら、是非習得に向けて頑張ってみてください。
2021.06.28
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人間の脳は快情動を求めて行動するようにできている。ドパミンが腹側被蓋野を刺激して喜び、幸福感、恍惚感、陶酔状態をもたらす。これを追い求めることは、人生を豊かにし楽しくしている。人生の隠し味、スパイス、アクセントのような役割を果たしていると思います。でも快情動を追い求めることばかりにエネルギーを費やしているとその弊害が出てきます。一度でもそのようなことを経験すると、脳には強い快刺激の記憶として定着し、何度でも繰り返すようになります。ギャンブル、アルコール、ネットゲーム、グルメ、薬物、性衝動を思い出すと、そのことがよく分かります。本能的欲望は、時として暴走を繰り返し、自分の肉体を蝕み、経済的な破綻に追い込み、人様に多大な迷惑をかけることがあります。欲望の暴走の結果、最悪の人生だったと後悔する人が後を絶ちません。しかし快情動を追い求めて生きているのが人間の普通の姿です。幸福感、恍惚感、陶酔状態の快楽神経を活性化する方法は、実は本能的な欲望の追求だけではありません。目標や課題、夢や希望を持って、努力精進している時にも、ドパミンやアドレナリンやセロトニンが分泌されています。オリンピックの日本代表に選ばれることを夢見て努力している人は、実に幸福そうに見えます。誰でもそういう経験はされていると思います。このことを森田では「努力即幸福」と言います。ここでは、本能的な欲望の追及と努力即幸福の追求の2つの側面のバランスがとれているかどうかが大切になると思います。ついうっかりしていると、動物脳といわれる本能的な欲望が暴走してしまうことになりがちになります。これは何もしなくてもでてくる欲望ですから、むしろその暴走を抑制することが大切になります。スパイスが効いていると、刺激的、刹那的、快楽的、享楽的な人生になりますが、これが多すぎるとむしろ弊害が大きくなることを忘れてはいけません。森田でいう規則正しい生活、凡事徹底の中で、小さな問題点や課題を見つけて取り組むという生活習慣を作り上げていく。それに弾みがついて、しだいに目標や課題、夢や希望が大きくなっていく。この方面での快楽神経の活性化の道を忘れてはなりません。つまり、本能的な欲望をすべて悪の根源として排斥するのではなく、それも受け入れ、また一方では、人間本来の「努力即幸福」の方向性も見失わないような生活を維持していくことが肝心になると思います。目指すべき方向性は、いかにその2つのバランスを維持していくかです。目の付け所を見誤っては、後悔の多いとんでもない人生になる可能性が高くなります。
2021.06.27
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東大に合格した人に、1科目につき何冊の参考書を使ったのかという質問をすると、一番多かった答えは、1冊で42.1%だったという。この1冊さえクリアすればいいのだと思えば、気分は軽くなります。この安心感が受験勉強では大事だという。効率的な学習をしたいなら、参考書はできるだけ1冊にまとめることがポイントです。「これは」と思う参考書を1冊決めたら、そこに教科書や資料集、ほかの参考書に載っていた必要な情報をどんどん書き込んでいきます。この一冊をマスターすれば、その科目は完成するわけです。あとは傾向と対策に基づいて、問題集を1冊選定して、応用問題に取り組むわけです。問題集も基本は1冊です。それをボロボロになるまで繰り返すのです。これは森田理論学習にも応用したいと思います。ではどういう参考書を選べばよいのか。生活の発見会が出している、「森田理論学習の要点」があります。それを基に編集された「学習会シリーズ」があります。その他、北西憲二先生の「実践森田療法」などがあります。これ以外にも森田に関する書籍は星の数ほどあります。自分にぴったりする本を見つけて、この1冊を深耕すれば森田理論の内容が一通り分かるというものが望ましい。ただ基礎的な森田理論をすべての分野にわたって分かりやすく解説してある本というのはなかなか見つからない。もしなければ、それらのいくつかを寄せ集めて、自分で製作することをお勧めしたい。この作業は、私の経験では、結構おもしろく、やりがいがありました。その時は、次のようなカテゴリーを参考にしてみてください。1、神経症の悩みとは何か2、森田理論はどんな人に役立つのか、最終的には何を目標としているのか3、今神経症のどん底であえいでいる人へ4、森田理論の基礎的学習(神経症の成り立ち、神経質性格の特徴、感情の法則、認識の誤り)5、森田理論の全体像を俯瞰する6、生の欲望の発揮7、不安と欲望の関係8、「かくあるべし」の発生と苦悩の始まり9、事実本位の生活態度の養成10、神経症が治るとはどういうことか11、まとめはどのように行うか12、森田理論学習で使用されている特殊用語の理解13、自助組織、精神科医、カウンセラーとのかかわり方私のやり方を紹介します。まず上記の見出しをつけたファイルを作る。そこに、例えば、「新版 これで納得! 実践的森田理論学習」(これは私が上記項目に従って書き下ろしたものです、詳しくは「森田理論学習のやり方」というホームぺージをご参照ください)をプリントアウトして挟み込む。この用紙の裏面は余白になっています。この部分や後で追加した用紙に学習したことをつけ足していくのです。集談会で学習したこと、発見誌で役に立った記事、単行本で役に立った記事などの切り抜きを該当の場所に張り付けていく。あるいは自分の気づきや実践も書き込んでいく。この作業を根気よく続けていくのです。1年も続けていくと愛着が湧いてきます。元のテキストはA4サイズで100ページ足らずですが、どんどん厚みを増していく。最終的には、かけがいのない自分独自のテキストが出来上がるのです。森田理論の理解にはこの1冊で十分だという段階に至ります。森田の本は手あたり次第読んでもよいのですが、最終的にはこのオリジナルテキストに戻って考えてみることになります。一つのことに徹底して取り組んでいくと、深みが出てくるのです。
2021.06.26
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スティーブン・R・コヴィー氏の言葉を紹介します。人は、物事をあるがままに、つまり客観的に見ていると思い込んでいるのが常である。しかし私たちは世界をあるがままに見ているのではなく、私たちのあるがままに(条件づけされたままに)世界を見ているのだ。物事を説明しようとすると、それは結果的に自分自身、自分の知覚、自分のパラダイムを説明しているに過ぎない。そして自分の意見に相手が賛成しないとなれば、すぐにその人が間違っていると思ってしまう。しかし、この演習から学べるように、誠意がありかつ知力に恵まれた人たちでも、それぞれの経験というレンズ(パラダイム)を通じて、同じ事実について異なる見方をするのである。これは、事実が存在しないということを意味するのではない。演習の中で違う条件づけを受けた二人が合成した絵を一緒に見る場合、その二人ともが同じ事実を見ているのだ。すなわち、黒い線と白いスペースである。二人ともこの事実は認めるが、その事実をどう解釈するかは過去の経験によって決まるということなのだ。そして、事実そのものは、この解釈を抜きにすれば何の意味もなさない。自分の持っているパラダイムとそこからもたらされる影響を意識すればするほど、自分のパラダイムに対する責任がとれるようになる。つまり、自分のパラダイムを現実に擦り合わせ、ほかの人の意見やパラダイムに耳を傾け、より客観的で完成されたものの見方ができるようになるのだ。(7つの習慣 キングベア出版 23ページより引用)ここでパラダイムという言葉は「価値観」に置き換えて読んでみてください。目の前の事象を見た場合、人それぞれ異なった過去の経験や習慣、見方や考え方のパターンに強く影響されて見ているのだと指摘されています。事実を事実のままに見ると言っても、頭で事実を解釈しようとしなければ事実は見えてこない。事実を見つめて主体的に解釈することで、初めてその事実は意味のあるものになる。解釈することで、新たな感情が生まれてくると言われているのです。その感情に基づいて、対応策を考えて、実践するようになるというのです。問題は事実観察を怠り、解釈に重きを置くと、事実とは違うものを事実として信じ込むようになるということです。これは基本的に森田理論の考え方と同じです。森田では目の前の事象をよく観察することで、気づきや発見が生まれてくるといいます。それに基づいて意欲的に行動を開始する。しかし、人それぞれ一つの事実に対して独自の解釈をしているということは、人が10人いれば10通りの解釈が発生する。その解釈の違いが人間関係に影響を及ぼします。場合によっては、他人の解釈を否定、非難、無視することになる、それを前面に出すと、人間関係はすぐに悪化してきます。事実の解釈や評価の違いによって、生きづらさを抱えてしまう事になるのです。自分の解釈が絶対的なものだと思う事は、大きな間違いだということです。他人の解釈を謙虚な気持ちで聞いてみるという姿勢を維持することが大切です。では事実に対してどう対応すればよいのか。まず人間は、事実に対して、解釈や是非善悪の価値評価をする生き物だと認めることが大切になります。次に、それは人それぞれで全く同じであることはあり得ないと認めることです。問題ある事実に対しては、事実をより深く観察する。できるだけ事実に近づく。そのうえで、人それぞれ価値観が違うという前提に立ち、すべての人が、自分の解釈や是非善悪の価値判断を述べあう。この段階では喧々諤々議論になるかもしれない。そうなった方がよいのです。その中から、最終的にはみんなで最善の方法を選ぶ。いったん決定したことは、少々不満であっても、みんなの意見に従って行動する。つまり妥協や協調性が欠かせないということです。
2021.06.25
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今日の投稿は事実を先入観や決めつけでみてしまうと大変なことが起きるという話です。ある学校で、プログラミングの誤りから、コンピューターが秀才の子供をすべて学習能力が低いと表示し、逆に成績の悪い子をすべて優秀と表示してしまった。そのデータが、子供たちの基礎資料として先生たちに手渡された。5か月半後、その間違いが発見された際、事実を公表する前に、学校側は子供たちにテストを実施した。すると、驚くような結果が出た。秀才とされていた子供たちのIQ指数が著しく低下していたのである。つまり、彼らは、この数か月間、学習能力が低く、教えにくい、非協力的な生徒とみなされていたために、先生たちの誤ったパラダイム(ものの見方や考え方を支配している認識の枠組みのこと)が自己達成予言となってしまっていたのである。その一方で、もともと学習能力が低いとされていたグループのIQ指数は上がっていた。つまり、先生たちは、こちらの子供を賢い子として接し、その子供たちへの希望、楽観的なものの見方、期待感が、子供ひとりひとりの心に高い期待像と自尊心を植えつけていたのであった。先生たちは、最初の数週間がどのようなものだったのかと訊かれて、「それまでの教育手法がなぜだかうまくいかなかったので、教え方を変えてみました」と答えている。与えられた情報では、その子供たちは優秀だということになっていた。だから、うまくいかないのはきっと自分たちの方が悪いと考え、教え方を改善することに専念した。(7つの習慣 スティーブン・R・コヴィー キングベア出版 454ページより引用)もともと学習能力が低いとされていた子供にとっては、この上ない幸運でしたね。事実は学習能力が低く、やる気のない、授業をかき乱すような生徒だった。しかし先生たちは、この子たちは学習能力が高く、何事にも積極的に取り組む優秀な生徒だという強い先入観を持っていた。プラスのレッテルを貼って、ていねいに指導していった。もともと学習能力が高く、積極的で、協力的な生徒を放置してまで、それとは逆の子たちに期待をかけてその能力をもっともっと伸ばしてあげようと思っていた。成績が伸びないのは、自分の教え方のせいだと思って、教え方の方を改善していくようになった。元々出来が悪い子供たちにとっては、望外にも、高評価され、親身になって指導してくれる先生の期待に何としても応えたいと思うのは人情です。相乗効果が発揮されて、元々出来の悪かった子供たちは、どんどん伸びていったということです。可哀相なのは、元々学習能力が高く、積極的で、協力的だった生徒たちです。自分たちは勉強はできると思っていたのに、熱心に指導してくれない。なんか見放されているような気がする。誉めるよりも、注意されることが多くなる。期待されていない、自分たちは大切にされていない。こういうことは、先生の言葉や態度に現れてきます。すると先生に対する信頼感はどんどん失われてしまいます。本人の学習意欲も落ちてきます。なかには、先生に対して反抗的な態度に出てくる生徒も出てくる。そしてあらゆるところでその先生の悪評を拡散させる。卒業してからも「箸にも棒にもかからない先生だった」と噂する。同窓会に行ってみれば、罵声をあびせ、恨みつらみの合唱となる。悪い方の相乗効果が増幅されてしまうのです。森田理論を学習されている人は、事実を色眼鏡をかけて見ることの弊害はよくお分かりだろうと思います。事実を確かめないで、他人の話を鵜呑みにする。先入観、決めつけ、マイナスのレッテル張りなどで行動を起こしてしまうことは、自他ともに不幸の種をまき散らしているということになるのです。ですから、幸福な人生を送りたいと思うならば、事実以外のものには安易に近づかないという信念を持つことが大切になってくるのです。森田理論は、事実の取り扱いに詳しい。これを学ぶことができ、最終的に「事実本位」の生活態度を身につける事ができたならば、前途洋洋の人生が待っていると思う。
2021.06.24
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5月号の生活の発見誌に、健康で長生きをしている人の生活習慣についての記事があった。1、運動をする。2、適度な睡眠をとる。3、朝食をとる。4、アルコールは適量なら毎日でも可(男性)5、禁煙6、働いている。7、身だしなみに気をつけている。8、かかりつけの歯医者がいる。9、外出が好き。10、人との交流を大切にする。11、少し太っている。12、動物を飼っている。13、お金を管理している。ここにあげられたことは、私の場合ほとんど実行している。ちょっと心もとないのは、朝食はニンジンリンゴジュースとヨーグルトだけである。動物は飼っていない。以前金魚を飼っていたが2年くらいで死んでしまったので、それ後は止めた。歯は丈夫なのでかかりつけ医は持っていない。生活習慣病検診は毎年1回は受けている。自動車も同じですが、メンテナンスを怠ると重大な欠陥を放置することになると思う。私は90歳まではこのブログを続けたいと思っているので、健康には特に留意している。特に足腰の筋肉が衰えることを防止するために毎日の運動を欠かさないようにしている。これは現在マンションの管理人をしているので、通勤と勤務時間を活用している。通勤に自転車が15分、歩きが20分ある。自転車こぎも坂はよい運動になる。歩きは3分早歩きをして、3分普通歩きをすることを繰り返している。勤務先では、エレベーターは極力控えて、階段を上る。それも、1段飛ばしなどを取り入れて負荷をかけて登る。運動は毎日の生活の中で無理なく続けることが大事だと思っている。歳をとると物忘れが多くなるがこれは仕方ないと思っている。ただし認知症やボケることは何としても避けたいものだ。気を付けていることは脳の廃用性委縮現象を避けるようにしている。脳をどんどん活用するために、興味があることは何でも手を出してみる。問題点や課題が見つかると、脳を使うことになるので喜ばしいことだと思っている。そのためには、凡事徹底を心掛けて、気づきを大切にしている。気づきのストックを毎日忘れないようにメモするのが大切だと思っている。心配事が絶えないという神経質性格を逆手にとって脳を刺激しているのである。それから、趣味をたくさん持っている人は、心の張りがあると思う。好奇心、興味や関心、目標や夢や希望を持っている人は、精神的に若々しいと思う。歳だからと言って億劫がらずに、経済的に可能であれば何にでも手を出したい。最近目が悪くなってきた。特に老眼が進んできた。老眼鏡なしでは本が読めなくなった。サプリメントは飲んでいるが、どうも防ぎようがないようだ。スマホを長時間見続けることが目に悪いように思う。空き時間にいつもスマホを見るという習慣は改善していきたい。
2021.06.23
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ヒューマンエラー(意図しない人的ミス)の研究者ハーバート・ウィリアム・ハインリッヒの言葉です。一つの重大事故の背景には、29の軽微な事故があり、その背景には300の些細な異常がある300の些細な異常を見逃さないで、きちんとキャッチして対策を立てれば、軽微な事故は防止することができる。それが最終的には、世間を震撼させるような重大事故をも未然に防ぐことが可能になるのである。その一つの例として、1985年8月に御巣鷹山に墜落した日航機事故についてみてみよう。この事故によって500名近くの人の命が失われた。坂本九さんもその一人であった。この事故原因は、後部圧力隔壁の破壊によるものであったと結論づけられている。その結果尾翼は吹き飛んで操縦不可能に陥り、羽田空港に引き返すこともできなくなった。それでは、この事件は唐突に起きたものなのか。あるいは些細な異常が発生していたのか。調査によると、事故機には、飛行中、化粧室のドアの開閉がしにくくなるトラブルが多発していた。昭和60年2月から墜落するまでのわずか半年余りの間に、計33件も報告されており、このうち28件は、客室後部にある化粧室に集中していた。これは些細ではあるが、見落とすことのできない異常です。日本航空は、この報告をどう取り扱ったのでしょうか。同機は7年前の着陸の際に、尻もち事故を起こし、圧力隔壁が壊れて修理したことがあった。その後遺症として化粧室の開閉の不具合につながっているのではないかということを疑う繊細な神経を、機体の整備担当者および管理監督者が持ち合わせていたら防ぐことができたかもしれない。結果としてそこまでの繊細な神経の持ち主は一人もいなかったのである。存在していても上層部に進言する人はいなかったのである。もしそこに不安を感じる人がいたら、アメリカのボーイング社に機体を送り、再度検査・修理することになっていただろう。修理不可能なら廃棄する方がよほど理にかなっていたのである。航空機というのは、人の命を一瞬で奪ってしまう乗り物であることを考えると、繊細な神経の持ち主以外は取り扱ってはいけないのである。日本航空は、この事案を軽々しく取り扱った。結果として無視することになった。同社の調査によると、33件の報告のうち20件は、同機を大阪~グアム便に使った際に起きていた。またグアム線を飛ぶ他のジャンボ機にも同じトラブルが起きていたため、グアム線の特殊事情と結論づけた。何が特殊事情なのだろうか。不思議でならない。さらに、客室後部の化粧室近くにあるコート収納庫に、機内誌などの物資を大量に積み込んだことがあったため、コート収納庫の棚下に物品を積むことを禁止するという解決策を打ち出した。つまり圧力隔壁の修理ミスによる不具合ではないかという危惧を持つ人はいなかったのです。さて、神経質性格者の特徴は、些細なことが気になるということです。楽天的、発揚性気質の人が、全く気がつかないで見逃すようなことも意識化される。整備担当者、危機管理担当者のなかにバリバリの神経質性格者を配置していたらどうだろう。とにかく些細な異常を見逃さない。それを大きく拡大して原因究明をする。こういう人材がいたとすれば、原因究明にもっと力を入れることができたはずです。安易な対策で済ませるようなことはしなかったはずです。とても残念ことでした。神経症の発症は、小さな不安を拡大して、それにとらわれることで、日常生活、仕事、人間関係などに悪循環を招きます。これは不安の取り扱い方を間違っているのです。不安は信号でいえば黄色や赤信号を点灯させて、警告してくれているのです。その不安の役割を認識して、目の前の問題点や課題に対して、不安を存分に活用して慎重に取り組むという態度になれば、これほどありがたいものはないのです。不安を邪魔者扱いしてはいけません。もともと不安は私たちの強力にサポートしてくれている味方なのです。だから進化の過程で淘汰されずに残されてきたのです。些細な不安に振り回されることを極端に嫌う人が多いのですが、それはあまりにも一面的な見方です。些細な不安が泉のごとくコンコンと湧き出てくる神経質性格をもっともっと評価してあげることが大切です。それを最大限に活かしていくことが、私たち神経質性格者の、進むべき道であると心得ることです。
2021.06.22
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5月号の生活の発見誌から水谷啓二先生の言葉の紹介です。道元禅師は、「正師を得ずんば、学ばざるに如かず」と言われたが、正しい道を求める人は、かならず正師を得て学ぶのでなければならない。自分一人の判断でいろいろと試みるのは「迷い」を重ねるだけであるけれども、「悟り」への正しい道案内者であるところの「正師」にしたがって実行すれば、容易に「悟り」を得られるのである。「正師」に師事して、考え方、技術、心構えなどを真似て、師匠の域に達することを目標にすることが肝心なのである。ここでいう正師とは、もちろん森田正馬先生のことである。森田理論は森田先生が確立されたものですから、森田先生から直接学ぶことが一番良いということは分かります。もし今現在森田先生が生きておられたら師事してみたいものである。それは今となっては不可能なことである。幸いなことに、森田先生は多くの書籍や言行録を残された。それらを学んで、森田理論を深めて自分のものにしていくしかない。それでは現在森田理論学習をしている我々にとって正師とは誰のことか。私は「正師」は、集談会の仲間や先輩の中にいると思っている。正師という言葉はあまりにも大げさであるが、先輩会員の中に夜空にキラキラと輝いている星のような人がいる。そういう人は森田理論をよく学習されて解説が適切である。さらに、森田理論を生活や仕事、子育てや人間関係に大いに応用されている。そういう人は周囲にオーラを発しておられる。会話をしてみると、聞けば聞くほど、得も言われぬような味わいがある。畏敬の念が湧き上がり、この人に師事してみたいという気になるような人である。ここで肝心なことは森田理論を深耕されて、理論の説明が適切で奥深いことも必要ではあるが、それを自分なりに咀嚼して実生活に縦横無尽に活用されているかどうかである。学習と生活が混然一体となっている。これが肝心であると考えます。規則正しい生活、凡事徹底、ないものねだりをしないで、あるものを活かす。小さな幸せや感動を味わっている。大切にしている。不安を宝物のように取り扱っている。不安を大いに活用している。好奇心が旺盛でいろんな趣味を持っている。自分や他人を否定することがない。ほめたり励ますことが得意である。安易に是非善悪の価値判断をすることがない。動植物や人を育てることに大きな関心を寄せている。絶えず子孫の幸せのことを考えている。課題や目標、夢や希望を持って実際にチャレンジしている。観念優先から事実本位の生活態度に切り替わっている。これらが全部できている人は少ないが、一つでも徹底されている人は正師と呼んでもいいと思う。正師というのが大げさならば、森田道を極めている素晴らしい人と呼んでもよい。そういう意味では森田を学んでいるすべての人に正師になれるチャンスが与えられている。
2021.06.21
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森田先生のお話です。歌でも、具体的と抽象的とでは、ちょっとした関係で、非常に感じが違う。啄木の歌に、次のような和歌がある。かくかくに 渋民村は 恋しかり 思い出の山 思い出の川渋民村がどんな所か知らないままに、なんとなく実感に共鳴するものがある。これを、「かくかくに我故里は恋しかり」といっては、抽象的で、なんとなしに感じが薄い気がする。落ち葉掃く 男に問へば 海安寺という句がある。海安寺がどんな寺か知らないけれども、さてはここがあの紅葉の名所かという感じが深くなる。「紅葉掃く 男ありけり 山の寺」では面白くない。(森田全集 第5巻 675ページ)森田先生は事実を具体的に話した方がよいと言われているのである。これは簡単なことのようであるが、徹底することは難しい。集談会の自己紹介で、「私は強迫神経症です」で終わってしまっては、アドバイスをもらえなくなる。強迫神経症でも、対人恐怖症、強迫行為を伴う強迫神経症、神仏恐怖、不眠障害、ガンなどの疾病恐怖症などと種類が多いのです。いつどんな時にこうした不安で頭がいっぱいになります。症状に振り回されて、家事、育児、勉強、仕事が手につきません。症状について具体的に話せば話すほど相手に伝わります。自分の症状を人に話すと、軽蔑されるかもしれない。家族や会社や知人に知れ渡ることになるかもしれない。こういう態度で、自分の症状についてはなるべく隠しておきたい。集談会で、自分の症状は封印したままで、効率よく神経症が治る方法だけを教えてらいたいという気持ちでは、神経症を克服することはできないと思います。私は初参加の人がいなときの集談会では症状のことは一切しゃべりません。話す内容は、ここ1か月の生活の中で、挑戦したこと、やってみたこと、失敗したこと、面白かったこと、うれしかったこと、苦しかったこと、悲しかったことなどです。これらを、家で事前に日記を見ながら思いつくままにあげていきます。そしてその中から一つに絞ります。それを具体的に、相手に関心を持ってもらえるように話を組み立てています。私の話にいかに共感してもらえる人を作り出すかに苦心しています。でも初参加の人が一人でもいる時は、この準備した話は自己紹介では封印しています。初参加者の人に対しては、私が35年前にもがき苦しんでいた対人恐怖症の話を具体的に詳細に話すようにしています。思わず感極まって声が詰まるときもあります。そういう時は相手にもよく伝わっているようです。その時に話す内容は推考を重ねて、いつでも分かりやすい話になるように整理しています。ノートにきちんとまとめてありますので、毎回同じ展開になります。いつも参加している人からすると、また同じ話をしていると思われるでしょうが、私は初参加の人だけに焦点をあてて、包み隠さず話しているのです。自己紹介では、基本的に2つの方法を、その時の状況に合わせて、使い分けているということになります。それぞれ、具体的で詳細な話になるように、事前の準備が欠かせないと思っています。話すことが苦手な人は、具体的で丁寧に話すための事前の準備が大切になります。これだけでも集談会に行くことが楽しくなります。
2021.06.20
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今日は森田理論が目指している3つの視点について投稿してみたい。1、私たち人間は生きていくために、やるべきことややらなければならないことはいくらでもあります。それに向かって努力し続けることは我々に与えられている宿命です。このことを、森田理論では、「生の欲望の発揮」と言います。しかし、この欲望を追求しようとすると、必ず不安がでてまいります。欲望と不安はコインの裏表にあたります。車でいえば欲望はアクセル、不安はブレーキです。目的地に向かうためには、アクセルを踏み込むことが欠かせません。しかし一旦走り始めたら今度はブレーキを活用して、状況に合わせてスピードを調節する必要があります。神経症に陥ると、アクセルを踏み込むことを忘れて、ブレーキの効き具合ばかり気にしているようなものです。もっとプレーキの効き目をよくするために全エネルギーを投入しているようなものです。これでは本来の目的を果たすことはできません。この間違った努力を生涯にわたって続けるという事は、失意の人生で幕引きとなります。2、人間は動物と違って大脳が高度に発達しています。特に思考力、創造力、分析力、想像力、問題解決力に絡んでいる前頭前野の存在は特質すべきところです。人間はこの大脳を大いに活用して、文明や文化を築いてきたのです。そのうち人間は、そこに胡坐をかいて、驕りや慢心が生まれてきました。自分たちの頭で考えたことが、事実よりも優先されるべきであるという驕りを持つに至ったのです。強大な「かくあるべし」を持って、自分や他人をコントロールしようとし始めたのです。そして事実を隠蔽・無視・否定・捏造するようなことが平気で行われるようになりました。この態度が人間の葛藤や苦悩を生み出しているのです。そして神経症を生み出す一つの原因となっているのです。森田理論では、このことを「思想の矛盾」を抱えて苦しむといいます。これを打破するために、「かくあるべし」を減少させて、事実本位の態度を身につけることが森田理論学習の目標となってきます。3、人間は事実を目の前にしたときに、事実を見極めようとするよりも、短絡的にそれが良いか悪いか、正しいか間違いか、白か黒かという価値の判定をする習性を持った生き物です。これは普段の生活を振り返ってみると思い当たることが沢山あると思います。「あなたの方が正しい」「あなたは間違っている」などという裁定を毎日繰り返しています。しかし元々自然現象には良いも悪いもないはずです。地震、津波、噴火、ゲリラ豪雨、雷などは、ひずみの拡大という原因があって、そのひずみの解消に従って発生しているわけです。決して人間を困らせてやろうと思っているわけではありません。それらの出来事に対して、是非善悪の価値評価の判定をすることに何の意味があるのでしょうか。子どものけんかにおける親の仲裁や刑事裁判の裁判官を思い出してみてください。自分の立ち位置は、第三者という安全なところに身を置いています。そして双方の意見をある程度聞いて、上から下目線で是非善悪の判定を下しています。裁判官の場合は法律に基づいて裁定をしています。たとえば以前の日本では、治安維持法という法律がありました。それに違反した人は処罰するという裁定を下していました。しかし、その法律が人権を無視した法律であった場合は、後で振り返ると、下した裁定そのものが間違いであったという事になります。しかし処罰した後ではすでに後の祭りです。事実に対して、人間が勝手に是非善悪の判定をするモノサシを作り、それを振りかざしてよいか悪いかという判定をしようしていることは人間の思い上がりも甚だしいということだと思います。森田先生は、この問題に対してどう説明されているかというと、価値判断するよりも、また自分の意にそわない事実であっても、安易な価値判断は抑えた方がよい。クラゲや空に放たれた風船のように事実と一体となり、自然の流れに身をゆだねるという態度になればよいといわれているのです。暑いときは暑さに身をゆだね、寒いときには寒さに身をゆだねるといった態度です。価値判断が入り込む余地がなく、つねに自然の流れと一体化しているというイメージです。そこに是非善悪の裁定が入ると、事実の取り扱いに間違いが起こります。ですから事実を人間の力で裁定するということは、差し控える態度が大事になります。事実に対して、是非善悪の価値判断しなくなった人は、大学卒業のレベルに達した人であると言われているのです。
2021.06.19
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通勤途中の枇杷が鈴なりです。1000個以上はあると思います。長崎の茂木の枇杷が有名ですが、この枇杷は手入れもしていないのにこんなにたくさん実をつけています。摘果をするともっと大きな実に成長するのではないかと思っています。
2021.06.18
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水谷啓二先生の形外会での発言です。形外会記事は最も愛読されるものであり、これによって救われた人も少なくないのであります。私はいろいろと修養書をあさりましたけれども、こんなに人の心を深く極め、神経質の症状を治すのみならず、深い自覚を与えるような書物は、ほかにないのであります。私は論語にも劣らざるものと信じ、今こそ売れないけれども、将来、必ず広く悩めるもの・修養を志すものの指針となる事を疑わないのであります。世には、神経症に悩んでいる人が、ほかにどんなに多い事か。これらの人びとのために、救われる機縁を作り、後世の人に修養の指針を与えることは、私ども形外会員の義務ではないかと思います。(森田正馬全集第5巻 白揚社 681ページ)当時は形外会の記録はある人が速記を取り、それを森田先生が後日加筆訂正して、機関誌に掲載されていたのです。その後1975年、森田正馬全集の第5巻として、青木薫久先生が中心となって復刻されたのです。森田先生の代表作(神経質の本態と療法、神経衰弱と強迫観念の根治法)と並んで、森田理論を学ぶ人の福音書となっているのです。この本が森田理論学習の深耕に果たした役割は大変大きなものがあります。この本の特徴は、774ページあり分厚過ぎる。さらに高価です。装丁が立派で箱に入っている。立派というよりも度が過ぎているような気がする。森田理論の学習をする人が、神棚に祭ることを想定しているような雰囲気があります。極めて実用的な本でありながら、あまりにも学術的な様相に見える本だということです。これを市販の本のように、250ページ程度にして、3分冊されていると活用範囲が格段に増えたと思われます。そして1冊1500円程度にしてもらえれば、お求めやすい価格になります。ついでに言えば「形外先生言行録」という絶版の本があります。森田先生のところに入院されていた大勢の人が書いた追悼集です。優れた本だと思っております。これを単行本としてぜひ復刻してもらいたい。さて、それを打破しないと身近に手元に置いて読む愛読書とはなりえない。私は少し躊躇したが、この本を分解して3冊に分けた。そしてひもを通した。すると自分の手元に置いて隙間時間があればいつでも読める愛読書となった。もうすでに数十回は読み返している。マーカーや付箋、書き込みだらけとなった。読むたびに新しい発見がある。再度読むときは古い付箋は取り除き、新たな付箋を張り付けるようにしている。私の読み方は少し変わっている。生活の発見会編で「現代に生きる森田正馬のことば」という本が2冊ある。この本は、主としてこの森田全集第5巻からの抜粋である。項目別に分けて整理されている。これは先輩たちの努力のたまものである。これを森田正馬全集第5巻の掲載場所にマーカーで印をつけるという方法をとっている。そしてどういう項目として取り上げられているか記載している。これが水先案内人のような役割を果たしてくれている。マーカーで囲んだところにくると、ここはポイントとなる部分ですよとあらかじめ教えてくれているのである。「現代に生きる森田正馬のことば」の中では唐突に出てくる言葉であっても、全集第5巻の中ではその前後の話がすべてわかる。この何でもないようなところのなかに、森田理論を深耕するカギが隠れていることがよく分かりました。それからさらに活用するためには、自分なりにファイルを用意する。それにはインデックスをつける。この見出しをつけて整理するということがポイントになります。たとえば、全般、不安と欲望、生の欲望、自覚、生涯学習、かくあるべし、あるがまま、劣等感、人間関係、治るとは、実践と行動、事実唯真、神経症の発症、純な心など。項目は自分なりに整理しやすいように作ればよいと思います。そこにこれはと思った記事を書き出していくのです。私はそういう見出しのついた冊子を何冊も作っていますが、今ではこれは私の宝物です。全集5巻の中でも自分にぴったりと寄り添ってくれるところを抜き書きしているのですからこれほど役に立つものはないと思っています。このやり方進めていくと、「生活の発見誌」もこの方法で整理するとよいのではないかと思いつきました。何しろ35年も毎月生活の発見誌をとって、ほぼ隅から隅まで読んでいるのです。すると昔の本はほったらかしになります。保管の場所にも困ります。それなら1冊の本で気に入った1本の記事を切り取って、項目別にスクラップブックに張り付けておいたらどうでしょうか。項目別に分けて張り付けるというのがポイントです。このブログを投稿する時は、該当するテーマの部分を参照することがあります。これは「生活の発見誌」の、「物の性を尽くす」ということにつながると考えています。このように森田理論学習のツールの活用方法に真剣に取り組むだけでも、神経症は克服できるのではないかと思っている次第です。
2021.06.18
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森田理論はモチベーションを高めるため方法を教えてくれています。見つめる。感情が動き出す。気づきや発見がある。興味や関心が湧いてくる。問題点や課題や目標が見えてくる。それに基づいて生産的な行動を開始する。この一連の流れは、「努力即幸福」といわれています。この路線に乗ることで人生は活性化してきます。この路線がすでに習慣化している人は、それをどんどん推し進めていけばよいと思います。陸上競技でいえば、練習場所、試合までのスケジュール、練習メニュー、調整方法、食事の管理、体調管理、生活の管理、メンタル管理、時間管理、コースや戦略の研究、移動方法、スポンサー探しなどいろいろとあります。これらを自分で自由に創意工夫して、管理している人も実際にいます。ところがこれらは言うは易く、行うは難しという側面もあります。特に、日々の練習で、自分に過酷なトレーニングを課していますので、心身ともに疲れ果てます。そんな状態の中で、常に緊張感を維持して、自分に厳しくあたる事はかなり難しい。自分に厳しい人、粘り強い人、意志の強い人でしたら、このような誘惑や困難を押しのけて課題や目標達成まで難なく到達できるでしょう。こういう人には、コーチ、監督、指導者、サポーターなどは必要ないかも知れません。しかしこれは誰にでも当てはまるわけではありません。困難な状況や目の前の壁に跳ね返された場合、それらに負けてしまう事が多々あります。普通の人は、「休みたい、楽したい、人が見ていなければさぼりたい」などと言う気持ちを持っています。気分本位になって簡単に課題や目標を放り投げてしまう事が起きるのです。いったん気分本位になると、次から次へと楽な方向に流されていきます。課題や目標を設定したときは、途中であきらめることはできるだけ避けたいものです。そのためには、それを押しとどめてくれる第三者の存在が有効になります。課題や目標を見失って、現状維持に留まっている人を、「努力即幸福」の人間本来の既定路線に引き戻してくれる人を持っておくことは大切なことだと思います。私たちは森田理論を学習して、神経質性格者としての人生観を確立して、実りある味わい深い人生を目指しています。森田道を極めていきたいという大きな夢を持っています。ところが自分一人では暗中模索状態に陥ることがあります。森田理論を理解する段階で足踏みしてしまっている人も多い。どういう手順で推し進めていけばよいのかよく分からない。森田理論を生活にどのように応用し、活用していけばよいのかが明確でない。そこで停滞して、次の段階に移行することに迷い、悶々とした生活に甘んじている。こういう人は、集談会の中で、先輩会員を大いに活用することをお勧めします。すでに森田理論を生活に活用している先輩会員は、後輩のために、なんとか前進のためのヒントを積極的に提案してあげて欲しいと思っています。自分のものにした森田理論の解釈や活用例を具体的に伝えていく気持ちを持って実践することです。人間は一人で生きていくことはできません。仮にできたとしても効率が悪い。お互いに刺激し合うことで、自他ともに大きく成長していく方向を目指したいものです。生活の発見誌を読むと、生活の発見会という自助組織はそういう人の宝庫だと気づきます。気分本位に流されることが多い人でも、そういう人間集団の中に所属していると、他人から刺激を受けて本来の正道に引き返すことが可能になると思っています。そして自分がその流れに乗ることができたならば、今度は後からやってくる後輩たちのために、自分が先輩としての役割を果たすことが肝心です。そうすれば自他ともに成長できます。お互いがともに味わいのある人生を送ることができるようになります。
2021.06.17
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私は森田理論の認知度が社会に浸透してくれることを願っています。多くの人の幸せづくりに役立つからです。ところが現実は、風前の灯火のような寂しい状況になっています。今日はこの原因と打開策を考えてみたいと思います。森田先生の時代は、社会の傾向としては、立身出世を夢見て、都会で一旗揚げて、故郷に錦を飾りたいという人が多かった時代です。そうなれない自分に対して、常に葛藤を抱えて苦しんでいた時代です。大きな夢や目標を持っていた人たちが、神経症で苦しんでいたのです。「形外先生言行録」という森田先生の追悼集などを拝見すると、その肩書は実に驚くほと立派な人が多い。実業家、官僚、大学教授、医者、教師、有名大学の学生などがその対象であった。つまりその当時神経症で苦しんでいた人たちは一般大衆ではなかったということです。勉強ができて、将来を嘱望されていたその時代のエリートたちであったということです。一般庶民はその日一日をいかに生き延びていくのかに必死で、神経症で苦しむという時間の余裕はなかったということです。特に戦時体制下と終戦後は生き延びることに力を入れざるを得ませんでした。そういう時代は、神経症で苦しむ人は少なかったのです。時は移り一億総中流社会と言われる高度経済成長の時代がやってきました。1960年から1990年始めの日本は、飛ぶ鳥を落とすような経済発展を遂げてきました。そして日本は世界第2位の経済大国に躍進しました。多くの国民の生活が豊かになってきたのです。すると精神的にもゆとりが出てきました。こういう社会環境が整って、神経症のすそ野が一般大衆まで広がってきました。私たちの自助組織も参加人数が多すぎて、まともな学習会が開催できない状態になりました。どんどん根分けをして集談会の数を増やしてきました。会員もどんどん増えてゆきました。森田理論学習の大衆化現象が起きたのです。ところが、1993年を頂点にして森田の自助組織はどんどん衰退の一途をたどっています。パブルがはじけたのが1990年ですから、その後3年間は何とか持ったのです。我々の自助組織もどんどん参加者が減少しています。そして組織の維持に支障きたすほどの状況に陥っています。これは森田理論があまねく一般大衆に支持される時代は過ぎ去ったということです。その背景は経済の低迷です。その後日本はデフレ経済に陥り、未だに回復できていません。主だった企業は日本に見切りをつけて中国などに目が向いています。中国のGDPの増加は日本、アメリカ、ドイツをはじめとした先進国の投資によるものです。日本のデフレの進行は、そのまま国民所得の減少と結びついています。1980年頃は、年収は500万円から600万円、700万円台の人が普通でした。今はどうでしょうか。派遣社員や非正規社員の場合は200万円から400万円台の人が普通です。賞与もない。昇給もままならない。これでは結婚もできない。仮に結婚しても子供を産むこともできない。パートや派遣社員、臨時社員が主力になり、その日一日をどう生き延びていくのかが最大の国民の関心事になっているということです。これはあなたの責任ではありません。構造改革、民営化、自由化、規制緩和、グローバル化を進めた政治家の責任です。政治家の責任は大きい。本来ならば責任を取ってもらわなければならないところです。現在も反省するどころか、日本の成長は中国経済に頼るしか道はないと言った状況です。親中派、媚中派の国会議員や経団連、御用学者と言われる人たちは、日本国民をどん底まで叩き落すつもりなのでしょうか。日本のGDPの85%は内需で支えられているということを忘れているとしか思えない。私たちは、バブルがはじけて数年のうちに、生活をどう維持していくのかが最大の関心事で、精神的に悩む余裕がなくなってきたのです。我々の自助組織では高齢化が進行しています。現在の状況は、以前に森田理論の恩恵を受けた人たちが、その余韻に浸っているようなものです。我々がいなくなった後を思うと胸が痛みます。経済が低迷し、希望や夢がなくなると、覇気がなくなります。自立や夢や希望を口にすることさえはばかられる時代になってきたのです。それとともに不安の中身が昔とはかなり変わったと言えます。昔、森田に頼っていた人たちは、不安の中身を即答できる人が多かったのです。現在は自分の悩みを即答できる人は少なくなっています。また即答できても、そんなに深刻さを感じられない。輪郭のはっきりしないぼんやりとした将来不安、あるいはぼんやりした対人関係に関する問題を抱えている人が増えています。しかもその不安が慢性化している。つまり全体としてみると、昔と比べて不安の程度が軽くなっている。不安が軽いということは、欲望も小さくなっているということです。森田理論の適応者はご存じのように、生の欲望が強い人というのが一つの条件になっています。肝心の生の欲望が少ないというのは、森田理論との親和性は薄いと判断せざるを得ないのです。さてこのような時代において、森田療法を次世代に引き継ぐことが可能なのでしょうか。神経症の治療としての森田療法の存続は大変困難になると思われます。人生観の確立のための森田理論の継承はどうでしょうか。この方面の将来性は前途洋洋だと考えています。またそうならないと、人類が絶滅に近づいていくとみています。神経質者の生き方としての森田理論は、学校教育や社会教育の必須科目として学ぶ価値が十分にあります。森田理論を学ばずして、人生哲学を身につけることは難しいと思います。森田理論は時代を越えて普遍性のある理論ですので、未来永劫後世に伝えていかなければなりません。森田の自助組織はそこに特化した活動を期待されているものと考えています。現在の状況では、森田理論学習を自然消滅させないで、後世に受け継ぐことを最優先させて取り組みたいと考えています。そして変化の波を待ちたいと思います。森田理論の理念が必要とされる時代は、すぐにやってくると思っております。
2021.06.16
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森田先生のお話です。私の神経質でも、私は決してこれで満足しているのではない。研究すればするほどいよいよさまざまの疑問が起こり、治療方法もしだいに改良される。作業の方法でも、10年前5年前と今とは、その着眼点がしだいに変化している。神経質と他の種類との鑑別なども、「日に新たに、また日々に新たに」進歩しているのである。(森田全集 第5巻 668ページ)1919年に確立された森田理論は時の経過とともに変化していると言われているのである。変化しないと森田理論は、時代に取り残されていく運命にあるということかもしれない。私たちは最初から森田理論は完璧なものが出来上がったと思いがちです。でもそうではなかったようです。占い、内観法、催眠術、暗示療法、生活正規法、精神分析などもありとあらゆる療法を試されています。感情の法則も最初から今のような内容ではなかったのです。試行錯誤を経て成熟した今のような理論として整備されてきたのです。生活の発見会が出している「新版 森田理論学習の要点」は森田理論のすべてではありません。後世の人が森田先生の教えの中から是非学んでほしい部分を中心にまとめたものです。分かりやすい内容ですが、微妙なところまで掬い上げているものではありません。この学習が終わった後は森田先生の原典にあたるようにしたいものです。さて、もし森田先生が現在生きておられると仮定すると、森田理論はどんな方向に変化しているでしょうか。ここで私なりに大胆に予想してみたいと思います。その前に、いきなり前提が崩れるような話ですが、森田先生は、神経症を克服するために、この療法にこだわっておられるでしょうか。現在は薬物療法、認知行動療法をはじめとした多くの精神療法、またカウンセリングを受ける敷居が低くなり、神経症の治療法は百花繚乱の様相を呈しています。この現実を直視して、森田先生は、神経症の蟻地獄から抜け出すためには、その人に適した治療法を勧められるのではないかと思います。時代は大きく変貌してきたのです。別に森田療法に頼らなくても早く治る方法を採用すればよいといわれるのではないか。神経症の苦しみは、不安が肥大化して、いわば出血している状態なので、止血することが先決です。そのあと、人間の自然治癒力を活用して、再発の防止を図るのが森田理論の役割になるのかもしれない。その方面での森田理論の存在価値は、とても大きなものがあります。その部分をさらに精錬されて、人間哲学として確立し、普及活動に取り組まれていると思います。日本の神経質者のみならず、世界の神経質者を相手にされていると思います。文化人類学者、哲学者のイメージが強くなります。そういう意味では、今まで森田療法が担ってきた神経症の対症療法的役割は、他に譲られているかもしれません。人間教育、人間哲学、子供の育て方、子供の教育、社会教育、人間関係、仕事と人間の在り方、自然と人間の関係、欲望の暴走社会の弊害、人間の自立、国の自立、国防や安全保障、政治や経済の在り方、紛争や戦争の原因と防止、人類の将来などについて特化した活動にシフトされているのではないか。そのように考えることがむしろ自然なのではないか。神経症というのは、神経質性格を持った人が、何かにとらわれ続けることで発症します。一つの神経症が治ったと言っても、対症療法では再発することが十分に考えられます。あるいは別のことにとらわれるようなことも十分起こり得ます。それ以上に問題なのは、当面の神経症を克服したからと言っても、とらわれることによる生きづらさは容易に解消できるようなものではありません。森田理論は、最終的には、神経質性格を持った人が、人生観を獲得する理論なわけです。人生90年時代を曇天や雨の中で過ごすのか、花かおる春風の中で過ごすのか、すっきりと澄み渡る秋風の中で過ごすのかによって、人生の味わいは全く変わってきます。味わい深い人生にするためのエッセンスを提供しているのが森田理論なのです。森田理論は神経質性格者の人生哲学という面を持っているのです。森田理論というのは、もともとその方面に向かって、すくすくと成長していくものを内包しているのです。神経質性格を持っている人は、蟻地獄から地上に這い出したのちは、森田理論学習に取り組むことがとても大切になります。味わい深い人生を送りたいのならば、人生の必須科目としてとらえるとよいのです。森田理論を学校教育、社会教育の現場で、積極的に取り上げられるような社会にする必要があると思います。
2021.06.15
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望月泰彦さんのお話です。望月さんはお寺の僧侶をされています。私たちは僧侶を呼ぶ時に、一般に「上人」(しょうにん)と呼ぶのですが、実は私はこの「上人」という言葉が大嫌いでした。なぜ嫌いだったかというと、「上人」とは、上の立場の人の略ですよね。だから好きになれなかったのです。お坊さんは、どうしても、檀信徒の方々から、仰ぎみられることが多く、あげくの果てに、のぼせ上り、自分は偉いものだと思い込んでしまいがちです。困ったものです。そんなある日、私が尊敬している先輩の僧侶と、その話が出ました。先輩はこう言いました。「私も最初は嫌いだったけど、今では素晴らしい言葉だと思っているよ。なぜなら、上人=上を目指す人なのだから」私は、あっと、思いました。上人=上の立場の人ではなく、上人=上を目指す人と捉えれば、良かったのだということが分かったのです。何ごとも、自分自身の受け止め方ひとつで、その印象が大きく変わることに気づかされました。この話は両面観の話に近いと思います。一つの考えが浮かんできたとき、その考えだけで突き進んではいけない。あえて別の反対意見をぶっつけて、調和を目指す必要があるというものです。別の言葉でいうと、人間には精神拮抗作用という機能が備わっているので、それを活用して、不安と欲望のバランスをとる必要があるということです。やくざ映画などで極道非悪な役ばかりをする役者さんがいます。見るからに恐ろしそうです。二枚目ではありません。どちらかというと三枚目です。その人のことをブサイクな俳優と表現したら、私生活でも人様に迷惑ばかりかけている人のような印象を与えます。ところが、その俳優さんを、個性派俳優と呼んでみたらどうでしょうか。人生のあらゆる苦しみを経験し、乗り越えてきた素敵な人のように思えませんか。別の例でいうと、・変わり者→個性的な人・はぐれ者→一匹狼、自立心旺盛な人・口うるさい人→自分を鍛えてくれる人・根暗な人→控えめな人、思慮深い人・目立ちたがり屋→人を楽しませてくれる人・八方美人→社交上手な人・融通の利かない人→一徹な人、意思の強い人先入観や決めつけを優先するのではなく、別の見方も加味して、物事を両面観で見ることができる人は、人間としての器が大きくなっているのでしょう。森田理論は、両面観という能力を身につける事を目指しているのです。両面観を身につけた人は、安易に人を非難、否定することがありません。むしろ相手の強みや長所に焦点を当てて、高評価、賛辞を惜しまない人です。そういうおおらかで包容力のある人のもとに人が集まってきます。(「どうせ自分なんか」から「こんな自分でも」へ 望月泰彦 太陽出版参照)
2021.06.14
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会社の就職試験で、「あなたの長所は何ですか」「自分の強みと考えていることは何ですか」「どんなことで会社に貢献したいですか」「今まで寝食を忘れるほど取り組んできたことがあったら説明してください」という質問が必ずと言ってよいほど出ます。これらは、私が企業の採用担当者だったころ、必ず質問していたことです。誰でも面接の前には、そのような質問を想定して、自分の長所や強みなどを考えてみると思います。企業の方は、自分の長所や強みを活かして、ポジティブな姿勢で仕事に立ち向かおうとしている人であるのかどうかを見極めたいと思っているのだと思います。そういう人を一人でも多く採用すれば、会社は伸びてくると思っているわけです。ところで、神経質者の場合は、性格テストなどで、内向的、神経質、消極的、情熱不足、好奇心が乏しいなどではねられる可能性があります。神経質性格のよさは分かっていても、外向的で積極性のある人と比べられると多少不利になります。多少はったりをかますくらいの方がよいと思います。入社後は、外向的で積極的な人が目立ちますので、多少差がつくような場合があります。また根回しや交渉術、リーダーシップを発揮するという面では苦手の人が多いようです。とりわけ、上司の機嫌を取ることは、下手な人が多い。むしろ相手が気分を害するようなことを平気で口にする。神経質者は、外向的で楽天的、行動的な人とは違ったよい面をたくさん持っています。問題は、普段からそういう強みや長所を意識した生活を送っているかどうかです。それらはあって当たり前、それより弱みや欠点にばかり注意を向けていませんか。神経質者は自分が持っている強みや長所で勝負をかけた方がよいと思います。神経質な人は、時間がかかりますが、徐々に真価を発揮してくる人が多いように思います。噛めば噛むほど芳醇な味が出てくるするめのようなものです。森田理論学習の「神経質性格の特徴」でそれらのことを学びました。神経質者の長所としては、ねばり強い。真面目でコツコツ努力を続ける人です。また、感受性が強い、好奇心が強い。理論的で分析力がある。反省する力がある。失敗やミスを成功の糧にすることができる。よりよく生きたい気持ちが強い。課題、目標、夢、希望に向かってチャレンジ精神が旺盛である。責任感が強く、軽率な行動は避けることができます。営業などでは、負けず嫌いで、ライバルを想定して情熱を燃やすこともあります。持って生まれた性格特徴を最大限に評価して、なんとしても生活の中で、自分の強みや長所を活かしていこうと覚悟を決めて取り組むことが大切だと思います。そのためには、森田理論学習で神経質性格のプラス面とマイナス面をバランスよく理解することが欠かせません。
2021.06.13
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森田先生のお話です。私はすべての治療に関して、どんな迷信的な事でも、これを排斥する前に、必ずまずなるたけ、これを実験する事を心掛けている。今も時々灸をしているが、昨年は、106回灸をした。しかし私は、まだ灸が、私の咳や腸のほうに、効があるのか・ないのか、区別はつかない。常に様々な条件において、疑いをもって実験を続けるのである。私が常に考えている事は、特に学者は、自分の研究問題に対して、常に疑い深くて、すべての条件を考え尽くして、これを証明する事を怠ってはならない。修養の浅い・思想の浅薄な人ほど、何事にも直ちに信用して、迷信などにも陥りやすい。医者の間にも、注射やある治療法が、直ちに非常に効能のあるように妄信する一方には、通俗療法といえば、頭から排斥して顧みないとかいう風の気の軽い人もいる。(森田正馬全集 第5巻 667ページ)森田先生は、他人の話を鵜呑みにして、事実確認を怠ることはあってはならないことだと言われている。事実の裏付けが取れないものを、事実として取り扱うと、それに基づいて立てた解決方法は間違いになることが多い。また一からやり直しとなることが多くなる。それまでの努力が無駄になる。時間とお金の無駄遣いが発生する。その間違った対応が他人に苦痛を強いることにもなる。他人の話をすべて鵜呑みにしないで、自ら現地に足を運び、事実確認怠らないという姿勢が厳しく問われているのです。決して早合点して、短絡的な行動に走ってはいけない。少し前に、国会では外国人に土地を売ることについて規制を緩めるべきだという法律が審議されていた。これは明らかに中国を念頭に置いたものだと思われる。中国は日本の国土を虫食い状態に買いまくることを画策しているようだ。この法案の背景には、中国の意向を忖度しようとしているのである。私はこの法律には反対の立場です。まず日本の国土が外国人によって買いまくられている実態を詳細に調べ上げることを提案したい。特に北海道は悲惨な状態だ。空港周辺の土地など、3分の1はすでに中国のものになっているという。将来北海道は中国の食糧基地にしようという構想がある。北海道で作った食料は日本人の口に入るのではない。中国に送ることを優先する。北海道に移り住んだ中国人と日本人との間で紛争が起きると、人民解放軍が中国人保護のために正々堂々とやってくるという事態が想定される。今や親中派の国会議員がほとんどであるが、その人たちは中国のエイジェントとして政策立案にあたっているのだろうか。決して日本国民の幸せを増進することを第一目標に置いているとは思えない。これで日本の国土と日本人の生活を守り抜くことができるのだろうか。本来の目的を見失っているのではないか。私の田舎でも、農地は二束三文である。売れる土地はまだいい。田舎の人の話では、都会に移り住んでいる人は、田舎の農地は固定資産税もかかる。畔草を刈らないと近所から苦情の電話がかかってくる。もらってくれる人がいればただでもあげるという人がいるのが実態です。30m×100mに整備されている農地が買い手がないというのが残念です。もらう方は登記費用がかかる。それを負担するのは嫌だという。それを負担してくれるならもらってもよいなどと言う。中山間地の大切な農地が戦略的に買われてしまったあとではどうすることもできなくなる。このような実態を国会議員は知っているのだろうか。政府はコロナ対策も大事だが、それとともに国防、外交、治安の維持から手を抜いてはならないはずだが、如何なものだろうか。そんな土地を野放しにしていると、中国人に虫食い状態で買いたたかれることになるのではないか。それを仲介する会社が日本にある。日本では有名な会社である。インテリア大手の会社です。さらに北海道の知事や自治体の長が親中派では手の打ちようがない。それが全国各地で展開されると、日本は虫食い状態で内部から崩壊していくはずだ。中国は尖閣諸島を侵略した後は、台湾、石垣あたりを間違いなく侵略してくるだろう。本音としては、米軍が沖縄に駐留していなければ沖縄を狙っているという人もいる。台湾、南沙諸島と合わせて中国固有の領土にすれば、太平洋はすべて中国の支配下に入る。そんな状態を指を加えてみていてもよいのだろうか。そんな実態を調査もしないで、自国の領土を簡単に外国人に売り渡すような法律を作ってしまってもよいのか。それでも日本を愛し、日本の国の自立と日本人の生活を守り抜くことが可能であると思っているのか。そういう政党や政治家をのさばらせている私たちが、その事実に対して無頓着であることが一番の問題ではないのか。これでは私たちの子孫に対して申し訳ない気持ちでいっぱいである。
2021.06.12
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望月康彦さんのお話です。私は蜂を手で掴まえられるんです。掴まえ方のコツがあって、ギュッと掴んでしまうと、間違えなく刺されます。蜂が身のキケンを察知するからです。しかし、包み込むようにやさしく自然に、蜂の方から手にたかるようにしてあげると刺されません。そうすれば蜂は、私の手を敵だとは認知しないからです。たとえ、皆が嫌う蜂であっても、敵意をむき出しにさせなければただの虫なんです。この技を、人間関係にも応用することができたのです。嫌いな人、苦手な人を、好きになることは、非常に難しいことです。だから、無理に好きにならなくてもいいんです。ただし、敵として思わないことです。自分の方から、心の中で相手に敵対心を向けると、相手もそれを察知し、そこから摩擦や苦しみが生じてしまうのです。自分と合わないからといって、敵になる必要はないのです。肯定できなくても、否定しないことですね。相手を否定すればするほど、それが苦しみへと変わります。(「どうせ自分なんか」から「こんな自分でも」へ 望月泰彦 太陽出版 35ページ)嫌いな人や苦手な人がいると、態度に現わす人が多いようです。「私はあなたのことが嫌いです」から、私に近づかないでください。目を吊り上げ、しわを寄せて、ムカデやゴキブリを見つけたときのような、険悪な表情になります。そして敵対心を持つようになります。そして、暴言を吐く、実力行使に訴えたりします。まわりにいる人は、幼児が駄々をこねているように見えます。これに対して相手もすぐに敏感に対応します。こうして最後には犬猿の仲となるのです。こういう人間関係に陥ると、いつ相手と戦闘状態に入るか分からないので、いつでもスクランブル発進できるように緊張感を高めることになります。エネルギーの無駄遣いをせざるを得ないということです。やりたいことややらなければならないことがあっても、注意や意識の大半がそちらのほうに向けられているので、気もそぞろになってしまいます。森田では、嫌いな人や苦手な人とどう付き合うことを勧めているのか。ずばり不即不離の人間関係でしたね。嫌いな人や苦手な人に対して、自分を叱咤激励して近づいてはいけませんと言っています。最低限の人間関係を維持しているだけでよい。あいさつ程度でよいということです。さらに、相手のことをこき下ろすような言動は厳に慎む必要があります。嫌いだという態度や悪口、批判する言葉はぐっと我慢することです。役者は嫌なことがあっても、演技の最中はそんなことを態度に出す人はいませんね。役者の演技力を参考にすることです。少し、距離を開けて遠巻きに眺めているだけにする。無視、無関心というのは、相手を攻撃していることと同じことですから、慎む必要があります。そして時間の経過をひたすら待つという戦略です。時間と場面が変化すれば、それに対応して感情も変化してくるというのが森田理論です。森田理論では、人間関係はあまり親密でベタベタという関係はよろしくないといいます。そういう人は、反対に嫌いな人は全く寄せ付けないという態度になりやすいのです。広く浅く、必要な時に必要な人間関係を構築するのが基本だといわれています。イメージとしては、集談会、仕事、家族、親族、趣味、習い事、学習、同級生、OB会、ボランティア、町内会、地域社会など幅広い人間関係作りを普段から心掛けておくことです。さわやかでさらりとした人間関係を心掛けることで、嫌な人や苦手な人に過度にとらわれることはなくなっていくはずです。嫌な人や苦手な人は、いつの間にか自然に人間関係が途絶えてくるという運命にあるのです。付き合い方が間違っているから、自分で苦しみを作り出しているのです。さらに相手を巻き込んで二重の苦しみを作り出しています。
2021.06.11
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以前、不安に振り回されないために、否定語やネガティブを使うことを減らして、肯定語やポジティブ語を使いましょうということを提案しました。それ以外にも不安に振り回されないようにする方法があります。今日ご紹介するのは、やりたいことや興味のあることを常に10個くらいストックしておくというものです。これは神経症的な不安に振り回されそうになったときに有効です。1、加工食品を作る。梅酒、らっきょう漬け、味噌作り、そば作り、燻製など。自家用野菜の作付計画を考える。2、テレビの録画(プロフェッショナル仕事の流儀、題名のない音楽会、情熱大陸、逆転人生、人生の楽園など)を見る。いいものは永久保存版とする。3、楽器の演奏をする。先日楽器店に行きました。そこにシンセサイザーがありました。バック音楽がすでに入っており、それに自分の演奏をかぶせていくのだそうです。半年くらいで人様に聞いてもらえるぐらいになるそうです。4、酒屋に行ってワインの品定めをする。ワインほどピンからキリまである飲み物はない。5、今度の休みにハイキングを企画する。山がいいか。海がいいか。見晴らしの良い場所がいいか。考えただけでも楽しくなります。6、ブックオフで古本を物色する。骨董市、植木市、古着屋、リサイクルショップ巡りをする。掘り出し物がきっと見つかりますよ。7、カラオケの練習をする。あらかじめビデオに撮ってあるカラオケに合わせて行う。8、家の片付け(断捨離)をおこなう。ついでに部屋の模様替えや改造を行う。9、ペットショップに行く。犬や猫、小鳥や土佐金を見に行く。10、ホームセンターで野菜や観葉植物を見て回る。これで10個です。人それぞれ違うでしょう。すぐにできることや好奇心をくすぐるものを10個以上持っておくと、夢が広がってくるような気がします。これらに手をつける事で、いったんはとらわれから抜けることができます。手軽ですが、結構効き目があります。ご自分なりにリストアップしてみてください。
2021.06.10
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神経症でのたうち回っているときは、次のような状況に陥ります。相手が悪いと思えば、腹が立ちます。不満や怒りでいっぱいになります。自分が悪いと思えば、自己嫌悪、自己否定で苦しみます。自分は何もできないと思えば、無力感でやるせなくなります。他人と自分を比べていると劣等感で苦しむことになります。こうでなければならないと思えば、思惑とは反対のことが多くなり、葛藤や苦悩でイヤになります。気分に振り回されていると、暇を持て余すようになり、生きることがむなしくなります。これらはすべて神経症で苦しんでいた時の私のことです。生きていても何も楽しいことがない。自分は苦しむために生まれてきたのか。自己否定、他人否定、他人との対立、専守防衛、無気力、無関心、劣等感の塊のような生活でした。苦しいばかりでは精神的につぶされてしまうと感じていました。それらから逃れるために、本能的、刺激的、刹那的、享楽的な事に手を出していました。アルコール、ギャンプル、趣味、風俗、スポーツ、ネットゲーム、グルメ、旅行、買い物などでストレスを発散していました。そうしないと生きていけない感じなのです。でも対症療法は、ますます自分を追い詰めていくだけでした。最悪の時は、精神的に普通ではないという自覚がありました。テレビを見ていても上の空、座れば立つ、立てば座る。とにかくそのあたりをうろうろして落ち着きがなくなりました。うつ病か精神障害の一歩手前という感じです。仕事、職場の人間関係は最悪。家族の人間関係もバラバラ。これを解消するには、もはや死ぬしかないなと考えていたのです。精神科に通い薬物療法を受けていました。でもほとんど効き目がありませんでした。ショックでした。今考えると、神経症を薬物療法で解消しようとしていたのは虫がよすぎたと思っています。転機になったのは、30代後半で出会った、森田理論、生活の発見会、集談会でした。最初は毎週土曜日に、「土曜読書会」というのがあり、1年くらいは通いました。カウンセリングのようなものです。そこでは悩みや愚痴をよく聞いてもらいました。そこで英気を養い、次の1週間を何とか乗り越えるという状態でした。そこには、私と同じように精神的に追い詰められている人が5名から6名くらいはいました。同じような人を目の当たりにすることは、自分一人ではないという安心感がありました。自分よりも苦しんでいる人がいると思うと、なんだか分かりませんでしたが、生きる力がみなぎってくるのが分かりました。自分は会社では孤立しているが、まだまだ大丈夫と思えました。捨てものではない。自分が自分を見捨てないかぎり、生きていけるという確信が持てたのです。その人たちは、全員集談会に参加していましたので、私も藁にもすがる思いで参加し始めました。今考えると私の逆転人生はそこから幕を上げたのです。その後、その人たちは、ほとんど集談会から離れていきました。神経症を克服したのですから当然のことです。私はスッポンのように噛みついたら離さないという執着性が強かったのです。その後の人生は、森田理論と集談会の仲間によって大きく花開いた感じです。人生の仕切り直しができたのです。そして今では、神経質者としての、人生観を獲得できたと確信しています。感謝以外の何物でもありません。今度は、そのおすそ分けを寿命の尽きるまで続けるつもりです。それがまた生きがいになっているのです。森田のことを考えない日はありません。神経症で苦しんでいる人、神経質性格を持ち生きづらさを抱えている人は、森田理論学習をお勧めします。それも一人で取り組むのではなく、自助グループに参加して、先輩や仲間の力を借りて取り組むことをお勧めします。近くの集談会に参加してみたけれどもダメだったという人は、集談会は全国に100か所くらいあります。自分に合った別の集談会に参加することをお勧めします。そこでつながりができれば、その後は、オンラインを利用した交流も盛んになってきましたので、そちらの方に参加することも可能です。とくかく今が最悪と思っている人は、そこが大底で、森田理論学習を支えにしていれば、必ず浮上してくるという希望を持つことが肝心だと思います。そのための応援は、時間の許す範囲で、先輩会員が引き受けてくれるはずです。どうか希望を持ち続けていただきたいと思います。
2021.06.09
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森田先生の言葉です。「世の中に我というもの捨てて見よ、天地万物すべて我がもの」この「我を捨てる」ということはどういう意味があるのか、またどうすれば我を捨てることができるか、なかなか難しい。ちょっと思い違えると、途方もない事になり、野狐禅などにもなるのである。世間では、「我を捨てる」ということを、他人の物をうらやみ・我物を惜しむとかいうような、他と我との区別をやめるとか、あるいは惜しや・欲しやとかいう我欲を捨てる事かという風に解釈しがちである。しかし、それは人間本来の感情であるから、それを否定することは不可能である。これを抑制したり・捨てたりする事も、当然なかなか難しい事に相違ない。(森田全集 第5巻 660ページから661ページ)私も森田先生と同意見である。「我」というのは、「欲望」と置き換えてもよいかと思う。欲望を持たないと生命体として生き続けていくことはできない。それは身体面、精神面の健康維持にとって大切なものになります。身体面では、他の生命体の命をいただいて、自分の命を延命させているのが実態です。他の生命体の命を無理やり奪うというのは、自己中心の塊のように見えるが、それが生きとし生けるものの宿命である。そんなことは忍びないので、一切食べる事を拒否するいう風に考えて実行した瞬間に命は絶えてしまう。むごいようだが人間は宿命に従って生きていくしかない。そうしないとむしろ自分の命を粗末に扱っているということになる。せっかくいただいた命を大切にしていくことが人間の宿命である。自己中心的な面を抑圧している人は、人間に与えられている課題を放棄しているともいえる。それを「我」「欲望」というのなら、謙虚な気持ちで素直に従うしかない。さて、欲望というものは、先ず本能的な欲望が存在する。でもそれはごく一部である。それ以外の欲望も大切なものである。人間は、目にするもの、行動したことに対して、気づきや発見、問題点や課題、改善点や改良点を見つけ出したときに目標、やりがい、生きがいを見つけだす。それを見つけだして、熟慮を重ねて、実行に移すことが人生の醍醐味となる。このことを森田理論では、「努力即幸福」という。それが精神面、身体面の健康維持に役立っていることを忘れてはならないと思う。森田先生も欲望のない人は哀れであると言われていたように記憶している。欲望の存在は、人間が活き活きと生活するうえでなくてはならないものである。しかし、欲望の持つ特徴として、絶えず暴走の危険にさらされているということである。人類の歴史は、悲惨な差別、紛争、戦争の繰り返しであった。力や財力で勝った人や国家が、それらを持たない人や国家、あるいは動植物や自然を力でねじ伏せ、征服して奪い取るという歴史を繰り返してきた。欲望はむやみに暴走させてはいけない。理性を持って抑制する必要がある。森田先生は精神拮抗作用の説明の中で、人間にはある欲望が発生すると、その欲望の暴発を防止する考えも同時に湧き上がるように作られていると述べておられます。その役割を認識して、調和を求めて行動することが肝心であると言われています。自動車でいえばアクセルを踏み込まないと前進しない。前進しないと行きたいところに行けない。これを人間でいえば、まず行動するということが大切だということです。しかしいったん行動を開始したら、ブレーキを臨機応変に活用して、そのスピードをコントロールしていくことが肝心です。ブレーキの壊れた自動車は大変危険です。欲望を前面に打ち出しながら、欲望に合わせて自然発動する不安や恐怖を活かしてバランスをとっていくことが肝心なのです。まとめると、「我」は捨ててはいけない。また捨てられるものでもない。「我」「欲望」は貪欲に追い求めるに越したことはない。しかしそれらを野放しにして暴走させはいけない。人間の創造主は、欲望が暴走しないような仕組み(精神拮抗作用)を人間にあらかじめ持たせているわけですから、そのことの意味を今一度再確認して、調和を目指した生き方を目指すことが肝心になるわけです。
2021.06.08
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行動できない人は、「二度あることは三度ある」という言葉を誤解している人が多いようです。「二度失敗したら、きっと次もまた失敗する。二度失敗したらずっと失敗し続けるはずだ」だから予期不安のあることは決して手をださないようにしたい。誰しもミスや失敗することは嫌なものです。特に神経質者はミスや失敗をことさら恐れています。ミスや失敗をすると他人に批判・否定される口実を与えてしまう。いたたまれない気持ちになる。ミスや失敗をすることは恥になる。なんとしてもミスや失敗を防止しなければならない。予期不安を感じたことには、絶対に近づいてはならない。チャレンジ精神はなくなり、延命が保証されればそれでよしという気持ちになる。この言葉の真意は、「二度も起こるようなことは、さらにもう一度起こる可能性があるから、慎重に行動しましょう」という意味です。行動しないのではなく、行動の方法を教えてくれているのです。この言葉を別の言葉で言い換えると、「人生には成功と失敗があるのではなく、成功と成長があるだけだ」ということです。エジソンがそうでした。電球を開発するのに何千回も失敗を積み重ねています。エジソンは失敗するたびに、「電球に向かない素材を無数に発見したのだ」「成功とは縁のないやり方がまた一つ見つかった。別のやり方を考えてみよう」と捉えていました。最後はフィラメントに竹を使うことを思いついたそうです。エジソンの成功がもとになって、今のような優れた照明器具の開発につながったのだと思います。集談会で人間は3000回のミスや失敗を経験して立派な大人になるのだと聞きました。私は、不安や恐怖、予期不安を上手にかわしながら生きてきました。人生のやりくり名人だと思っていました。嫌なことを避ける天才だったのです。それは理にかなっていると思っていましたが、大人になって苦労しました。幼児が突然社会の荒波に放り出されたようなものですから、適応不安で苦しめられるようになったのです。子どもの頃にできるだけ多くのミスや失敗、人間関係のトラブルを経験しておくことが大切になってくるのだと思います。ではそれらを回避して大人になった人に救いはないのか。私は集談会の場で、いろいろとミスや失敗の経験させてもらいました。集談会では、図書係から始まり、いろんな世話活動を経験させてもらいました。人材が足りないわけですから、世話係や幹事などの仕事はいくらでもありました。集談会では利害関係がない。基本的には責任を追及さることはありません。ミスや失敗をしても寛容な気持ちで許してもらえる。むしろ喜ばれることの方が多い。そんな中で参加者に喜んでもらえるようなことを考えて実行に移していったのです。様々な経験は、今までパスしてきたことを、遅まきながら追体験していたようなものです。集談会での数多いミスや失敗の経験は、会社での仕事に大いに活用できました。こんなことはしてはいけない、これは少々苦しくても手を抜いてはいけないことが身についてきたからだろうと思います。集談会の世話活動は、ミスや失敗の経験の場になると思います。この場を存分に活用することをお勧めいたします。最終的には、集談会単独の「心の健康セミナー」の企画から実施まで行いました。1年がかりでしたが、失敗や困難の連続でした。特に集談会の参加者の協力を取り付けること。一般の人にセミナー参加を促す広報活動は初めての経験で試行錯誤の連続でした。この目標に取り組むことで、人脈を広げる活動について貴重な体験ができました。思い通りにならないことばかりが多く、眠れない日々を過ごしました。しかし努力の甲斐があって、結果は参加申込者が100名を越えました。最初はどうしてこんな大それたイベントを引き受けたのだろうと後悔ばかりでした。しかしこの取り組みで、イベントの参加者を増やすための方法がある程度分かるようになりました。ミスや失敗を糧にして、成功のコツを掴んだなと思いました。ミスや失敗は上から下目線で非難や否定するのではなく、そこから教訓となるものを一つでも掴んで、必ず次の成功に結びつけてやるんだという気持ちの持ち方が大切だと思います。
2021.06.07
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この車は中古車で10年目で購入しました。現在18歳の車でした。この度車検でしたが、車検代と税金で10万円を大きく超えるということと燃費が7キロぐらいで田舎に帰るたびにガソリンを入れることになるのでやむなく廃車にすることにしました。古い車は重量税などの加算があり、軽自動車で1万円足らずのところが4万円もかかるのです。愛着が湧いていた車なのでとても名残惜しく断腸の思いでした。最後は綺麗に洗車して送り出すことになりました。「大変お世話になりました。本当にありがとうございました」と感謝の言葉を伝えました。エンジンは問題ないので、外国に輸出されてまた活躍することを期待していましたが、出したところはもう寿命ですといわれるのです。人間でいえば80歳以上でしょうと言われるのです。普通の人は、5年から10年乗って買い替えるのが普通でしょうと言われるのです。そういえばトヨタの社長は5年くらいでどんどん買い替えてくれる人が一番うれしいと言っていたのを思い出しました。とても残念な気持ちです。
2021.06.06
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お年寄りが正月に餅をのどに詰まらせて亡くなることがある。これは餅が食道を通って胃に向かわずに、気道を塞ぐことで起きる。先日の集談会で話題になった。誤嚥というそうだ。コンニャクゼリーで誤嚥を起こすこともあるそうだ。そういえば私も時々ある。息が苦しくなり、しばらくせき込む。ぜんざいが好きなのですが、餅がのどに詰まりそうになることがある。このまま息ができなくなって死ぬのではないかという心配がある。のどを詰まらせて死ぬことはなんとか予防したいものだ。餅などは食べないほうがよいのかもしれないが、好きなものはやめられない。森田理論学習で人生の指針を見つけたのに、誤嚥で突然死することは悔いが残る。誤嚥を予防する首の体操があるので紹介しておきたい。①首を前後に曲げる。まずあごをのどにつけるように曲げる。つぎにあごを天井に向けるように後ろに伸ばす。②顔を左右にねじる。肩は動かさないで、顔を左にねじる。目線は後ろを見る。右も同じようにする。③首を横に曲げる。耳を肩に近付けるようにして、左に曲げる。続いて右に曲げる。④首をぐるっと回す。首の根元から円を描くように左に回す。続いて右から回す。①から④を2回繰り返す。つぎにあごの体操をおこなう。これは噛む力を鍛えるのです。①下あごを前方に引き出す。②下あごをのど側に引き入れる。③下あごを左耳方向に引き出す。④下あごを右耳方法に引き出す。①から④を2回ずつ繰り返す。話は変わりますが、健康で長生きするためには、脳の活性化と運動が欠かせません。大脳は使わないと廃用性萎縮現象を起こします。ボケの原因となります。日常茶飯事に丁寧に取り組んでいる人は、気づき、発見、関心、興味が泉のようにこんこんと湧き出てくるので、認知症などにはならないと思いますが、如何でしょうか。足の筋肉を鍛えることは、脳細胞を活性化することになると聞きました。天気の良い日は、外出することが大切です。私は畑仕事が脳細胞を活性化すると考えています。それと足の筋肉を鍛えるためには、ウォーキングのとき、ちょっとしたコツがあります。強弱を取り入れた歩き方をすることです。3分間ゆっくり歩いた後、次の3分間は早歩きをするのです。簡単なことです。これを交互に繰り返す。つまりある程度の負荷をかけることが、心肺機能を鍛えるのです。私は毎日通勤で20分は歩きますが、この方法で歩いています。足の筋肉を鍛え、さらに脳神経も活性化してくれるとなれば、こんなに良いことはありません。関心のある方は、生活の中に取り入れてみてください。
2021.06.06
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西郷隆盛の言葉です。正道を以て之を行へば、目の前には迂遠なる様なれ共、先に行けば成功は早きもの也この意味は、急がば回れということでしょう。3割も5割も回り道になっても、その方が楽に目的地に到達することはよく目にする。あるいは近道のルートを選んだ人よりも早く目的地に到達する場合がある。安易に短絡的な対症療法に飛びつくことは、厳に慎みなさいということです。正しいやり方でことに当たるのは遠回りに思えるが、そのまま進んでいけば、かえって早く成功できるものだ。これを神経症の克服という面から考えてみましょう。まず神経症を克服するためには、治すための方法がいろいろありますが、その中から正道を見つけることが肝心です。その前に、神経症は小さな不安を精神交互作用によって増悪させて、日常生活や仕事、人間関係に支障をもたらしているものだという認識を持つことが大切です。森田理論学習で神経症の成り立ちを学習すれば分かります。そういう生き方をしているために、生きづらさが半端な状態ではないということです。器質的な病気やケガをしたわけではない。自分の頭の中で、仮想の敵を作り上げて、勝ち目のない戦いを延々と繰り広げるに至ったものである。これを森田理論学習によって十分に理解することが大切になります。森田理論の学習によって、まず敵の正体をよく理解することです。神経症の治療には、まず薬物療法があります。これは松葉杖のようなものだと考えることが必要です。対症療法で不安が軽減されても、再発は免れない。まして薬物療法が生きづらさを解消してくれることはない。これに頼りっぱなしではいけない。つぎに認知行動療法などの精神療法があります。これらは基本的には、不安を根こそぎ絶やしてしまおうという考え方です。雑草退治に草刈り機で刈り取るのではなく、薬剤で雑草の根を枯らすという無謀な対応をしているのです。草刈り機で刈り取れば、集めて牛などの餌にすることができます。あるいは積み上げて発酵させれば緑肥にできます。雑草の根は強いですから畔が崩れるのを防いでくれています。ラウンドアップのような除草剤で植物の根を枯らすということは自然に対抗しているということです。土壌に住んでいる微生物を一網打尽するということは、人間の思い上がりだと思います。そんなことをすれば、いずれ自然から大きなしっぺ返しが待っているでしょう。森田理論は、不安とのかかわり方を考え直しましょうという理論です。不安を邪魔者扱いしてはいけない。不安は大きな役割を果たしている。不安と欲望のバランスを図ってくことが大切である。欲望が暴走しないように、不安は大いに活用する必要がある。つまり不安との共存共栄を目指しているのです。これは、森田理論の中核をなす考え方になります。これが西郷隆盛が言う神経症に対する正道となります。正道にたどつくまでが大変難しい。これは森田理論学習によって、認識の間違いを正していくことが肝心です。認識の間違いは自分一人では難しいと思います。仮に可能であっても、時間がかかります。そういう時は集談会の先輩と一緒になって取り組んでいくことが有効です。森田理論学習によって神経症の成り立ちを知る。神経症の特徴を知る。神経質性格の特徴を知る。認識の誤りを知る。そして正しい対応方法を知る。実践によって検証していく。この方向で努力していくことが正道を歩むことになります。その気持ちを精いっぱい応援してくれる人が生活の発見会の会員の中にいるわけですから、活用しない手はないと思うのですがいかかでしょうか。悔いのない人生と感謝の気持ちで晩年を迎えたいものです。
2021.06.05
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西郷隆盛さんが次のように話している。過ちを改むるに、自ら過ったとさえ思ひ付かば、夫れにて善しこの意味は、「過ちを改めようとするのであれば、まず自ら間違いを犯したことに気づけば、それでよいのである」ということです。それ以上のことをする必要はないし、してはならないということだと思います。事実を素直に認めることができる人は、過去を思い出して後悔することがなくなる。反対に、事実をいつまでも受け入れられない人は、精神的に苦しくなるばかりだ。恥ずかしい過去の思い出、ミスや失敗を引きずっている人は、時々悪夢でうなされて、夜中に目が覚めてしまうようになる。そして夜が明けるまで、悶々とした時間を過ごす。誰でもミスや失敗をした場合、最初は「しまった。大変なことをしでかしてしまった」と思います。その事実を素直に認めて受け入れることができれば、ただちに事後処理に取り掛かることができます。思い煩う事がなくなる。これだけで実に安楽な心境になれる。ところが観念優先の思考が身についている私たちは、事実にたいして「かくあるべし」という物差しを当てて、裁判所の判事になり代わって厳しく裁く。その予想される判決に怖れをなして、素直に認めることができなくなる。予期不安に振り回されて、事実を隠す。ごまかす。言い訳をする。捏造する。他人に責任転嫁する。こちらのほうに、エネルギーを投入してしまう。森田を学習していないと、これが自然の流れとなります。これは東京から大阪に向かおうとしていたのに、間違えて東北新幹線に乗ってしまったようなものです。この方向へ進むと、他人に迷惑をかけ、自分を責めるようになる。事実を軽視する。事実よりも観念を優先する態度は葛藤や苦悩を増長させて神経症に陥る大きな原因となっています。森田では不安への対応方法の誤りと事実を軽視する観念重視の態度が神経症発症の原因とみているのです。事実を認めないと、下降基調から上昇基調へのきっかけを掴むことができません。逆に事実を認めると、無駄なエネルギーを使わなくて済む。省エネにつながります。そのエネルギーは、目の前の問題のある事実の修復、解決に投入できるようになる。問題や課題に取り組むことは、やる気やモチベーションを高めることにつながります。森田理論学習によって事実の取り扱いを十分に学びたいものです。森田理論学習をしている人は、もし「事実の取扱主任者」という国家試験があれば、ぜひ合格を目指していただきたい。そして実生活に存分に応用・活用してほしいものです。
2021.06.04
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「でもね」「どうせ」という言葉を普段からよく使っている人がいます。反対意見を述べることは、物事を多面的に検証できるというプラス面もあります。プラス面があるということは、必ずマイナス面もあります。この点は森田理論が指摘しているとおりです。今日は、これらの言葉に含まれているマイナス面に焦点を当てて考えてみたいと思います。こういう人は、目の前の事実を素直に認めないことが多くなります。相手の話を十分に聞かない。話の途中で腰を折る。短絡的に、先入観、決めつけ、風評、常識で自分が思いついたことを口にする。取るに足らない話だと判定して、相手の気持ち、考え方、意見を批判する。エスカレートして、相手を否定、攻撃し、責めたりする。このような態度を持っていると、人間関係は対立するようになります。相互の信頼関係が無くなり、人と交流することはむしろ苦痛になります。ビクビク、オドオドしながら交流するようになります。その時の意識は、責めるか責められるかという二者択一になりやすい。責められると相手に自由自在にコントロールされてしまうので、それだけは避けたいと思うようになります。そのためには一にも二にも、専守防衛に傾倒していくようになります。注意や意識が内向きになり、外に向かって解放できなくなります。こういう人は、他人ばかりではなく、その矛先が自分にも向けられます。欲しいものがあっても、でもお金がないから。目標が見つかっても、どうせ失敗してしまうから。やりたいことがあっても、でも才能や能力がないし。問題解決のために話し合う必要があるが、でも分かってもらえないし。こんな仕事をしてみたい。でもこの仕事では食べ行くことはできないし。これらは「でも」「どうせ」という言葉で、自分の気持ち、欲望、考え、意見を否定しているのです。「でもね」「どうせ」「しかし」という言葉を口癖のように使っていると思う人は、親しい人に聞いてみることです。それが自覚できたら、修正に向けて切り替えていく必要があります。相手が話しする前から、否定するという態度を改める必要があります。まず相手の話の内容、気持ち、考えを先入観なしに正確に理解することに努めましょう。「なるほど」「確かにそういう見方もありますね」「そうなんですか」「よく分かりました」「あなたはそういう考え方をされているのですね」「あなたはそういう気持ちを持っておられたのですか」「あなたの言いたいことはこういう事なのですね」ここで注意したいことは、相手の気持ちや考え方や主張をそのまま受け入れなさいということではありません。自分はこうしたい、こう考えているという気持ちも当然あるはずです。相手の気持ちや意見を受け入れるかどうかは、私の自由だという認識を持つことです。そうしないと相手の言いなりになってしまいます。それを「私メッセージ」という手法を使って、相手に伝えることです。「私の気持ち、考え、意見も聞いてもらえますか」「私はこんな風に感じています」「私はこういう考え方、見方をしていますが如何でしょうか」意見の対立があれば調整していくという態度が大事になります。責めるか責められるかという専守防衛の気持ちが強いと、勝つか負けるかにこだわって妥協点を探るということはできなくなってしまいます。戦うかしっぽを巻いて逃げまくるというのは、自ら葛藤や苦悩を背負って生きていくということになります。
2021.06.03
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私は森田実践として、自家用野菜つくり、園芸、加工食品づくりをお勧めしています。趣味と実益を兼ねていますので、とてもやりがいを感じます。これに一生懸命取り組むことで、神経症は軽減されるという考えです。自家用野菜・・・5月末はタマネギの収穫です。11月に100個の苗を穴の開いた黒マルチに定植しました。それがソフトボールのような大きさに育ってくれました。葉を取り除いて軒先に吊り下げています。5月は3月に植えたジャガイモが大きく成長しています。大きなジャガイモを育てるため芽かきをします。5月の連休にはラデッシュ、トマト、ナス、シシトウ、オクラ、キュウリ、カボチャ、サツマイモ、夏ダイコン、サトイモを植えました。これからは誘引が始まります。ラディシュはすでにサラダにして食べています。その他の野菜もしっかりと根付きこれから収穫できるようになります。これからは手入れ、土寄せ、雑草取り、水やりの為、毎週のように田舎通いが始まります。作付計画、手入れ、防除などに気を遣うようになると、神経症のことは一時忘れてしまいます。先日ホームセンターに行くと、ビニール袋に培養土と肥料をを入れてミニトマトを育ててていました。たくさん実がついていました。この方法は簡単ですから、誰もが楽しめますね。キュウリやナスもいけるかもしれません。園芸・・・今の時期は、紫陽花が紫、ピンク、白などの花を咲かせてきました。そのほか、日々草、マリーゴールド、夏菊などの小物の花でいっぱいです。ダリアも植えましたのでこれから秋にかけて楽しみです。田舎では藤、芝桜が見ごろを迎えます。楽しみでいっぱいです。加工食品・・・2月末にみそを仕込みました。3か月熟成させて5月末から食べ始めました。市販の味噌と比べるとコクがあります。作り方は公民館活動で習得しましたので、再度挑戦します。今の時期は、ラッキョウ漬け、梅酒づくりの時期ですね。お勧めします。田舎の梅の木にたくさんの実がつきました。これを収穫して、ホワイトリカー、梅酒用ブランデーに漬けます。毎年3つの広口瓶につけています。1年くらい経つととても味がよくなります。また。付け込んだ梅が酒のつまみとして最適です。これらが呼び水となって、そば作り、燻製作り、ビザ作り、ブドウ酒作り、お好み焼き、バーベキュー、魚の三枚おろし、渓流釣り、果樹作りなどにも取り組むようになれば最高です。これらはやろうと思えば、比較的簡単に取り組むことができます。田舎に行けば、耕作放棄地だらけですから、農協や役場などに問い合わせれば市民菜園を紹介してくれると思います。また田舎のお年寄りは、いろいろなノウハウを持っていますので、教えてもらえるはずです。今神経症で苦しんでいる人は、挑戦してみる価値があります。それから公民館活動で、料理教室がありますので、コロナが治まったらまた再開したいと思います。
2021.06.02
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ハーバードビジネススクールという経営大学院がある。ビジネスの世界に次々と有能なリーダーを送り込んでいる。この学校の授業のやり方が変わっている。先生が生徒に最先端の経営学を講義しているわけではないそうだ。授業時間は1コマ80分。それが1日3コマある。内容としては、すべて実際に企業で起きている問題を取り上げて行う。前日、ケーススタディのプリントが渡される。学生は一つのテーマに対して4時間の予習をする。授業が始まると、教授が「君はこのケースを読んで自分が社長だったらどう対応するか」と聞いてくる。それに対して、自分の意見を述べる。それに対して、他の生徒が次々と反論をしていく。教授は決して「それは違う」とか「そんなことはあり得ない」などと口をはさまない。ただ、司会進行に徹して発言する学生を指名し、ちょっと質問をするだけである。ようやく、最後の5分間になって話のまとめに入るが、それも「生産管理という話が出たが、それにはこんな理論がある」という基本的な説明だけで終わってしまう。その日、学生たちが喧々諤々とやり合った肝心の問題については、何の答えも教えてくれないのである。しかし教授自身もテーマによっては、12時間くらい学習しているという。このやり方は、日本の教育を受けてきた人にとってはストレスになるという。日本では教授がいずれ正しいとされている考え方、つまり答えを教えてくれる。そして正しい答えをきちんと覚えているかテストをする。記憶力のテストです。正解を覚えている学生には終了のあかしとして、単位が与えられる。定められた単位を終了した人は、卒業して専門家として認められる。そういう教育スタイルに慣れている。しかしハーバードビジネススクールでは答えは教えてくれない。したがって、皆目問題の解決方法が見えてこない。いつまでも心に引っ掛かり悩み続けるということになる。これが2年間続く。2年間で1000個のケーススタディの問題と格闘することになる。会社経営における研究開発から生産、営業、財務、会計、広告宣伝に至るまで、あらゆる実践的な問題が含まれている。これらの問題に対して、正解を教授から直接教えてもらうのではなく、一人で悪戦苦闘するのである。でもそんな学習を続けることで、やっている最中は全く分からないが、授業に真剣に取り組んだ人は、経営センスが自然に研ぎ澄まされていくそうだ。そして困難な経営問題に直面したときに、それを乗り越えるノウハウをさまざまな視点から提案することができるようになる。変化対応力も身についてくる。つまり経営者や経営コンサルタントとしての能力が身に付くというのである。(人と違うことをやれ 堀紘一 三笠書房 80ページより要旨引用)私はこの話は森田理論学習にも応用できると思う。森田理論の学習ではまず基礎的な学習をする必要がある。そのためには、さまざまなテキストが用意されている。たとえば、生活の発見会から「学習会シリーズ」という画期的な本が発売された。一人で森田理論学習されている方にぜひともお勧めしたい。このブログも参考になるかも知れない。学習内容としては、「森田理論全体像」の学習まで済ませると申し分ないと思う。1年も学習すれば、一定のレベルには達すると思う。そのあとは、ケーススタディの学習に入るとよいのではないか。事例研究である。このケースなら自分はどうするかを研究するのである。たとえば、「会社の中で人の思惑に振り回されてストレスを感じている」などと言う問題に対して、自分はどうしたらよいと思うか。事前に自分の考えや対応策を練っておく。他のメンバーも事前に練ってくる。集談会の理論学習の場で取り上げて議論する。こうした議論が積み重ねられればすごいことになると思う。自分なりに森田の目指すべき道が自然と理解できるようになるのではないか。森田理論学習はあらかじめテーマを決めて、集談会に参加する前に家で自分なりに考えてみる。みんながその準備をして集談会では、それを開示して議論を深める。それを積み重ねていくというコンセンサスがあれば、集談会がマンネリに陥ることはなくなる。私個人としては、生活の発見誌やこのブログを読み返して、毎月テーマを決めて参加しているが、多くの人が議論に参加してくださると内容が深まると感じている。
2021.06.01
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