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私は夜中に過去の夢をみる。また目が覚めて過去のイヤや出来事を思い出します。大きく分けると2つあります。一つは他人から理不尽な扱いを受けたことである。恨みというものは実に執念深いものであると思う。あいつだけは絶対に許せない。死ぬまで忘れない。あの世が存在していたならば、必ず仕返しをしたい。必ず罪は償ってもらう。怨念となってたびたび夢に出てくる。もう一つは、ミスや失敗をして恥ずかしい思いをしたことである。欠点や弱点を人前でさらけ出して恥をかいたことなどである。仕事をさぼり成果を上げられなかったこと。会社の足を引っ張ってしまったこと。会社のお荷物になっていたこと。部下を育てて成長させることができなかったこと。そして部下をダメにしてしまったこと。親や子供、部下や友人などに対して、思いやりのない冷たい対応をとった事などである。これらは後悔となって自分を苦しめる。後悔もしぶといものである。死ぬまで続くのだと思うとイヤになる。これらは自然現象であり、自分の力ではどうすることもできないものだが、夜中になると突然襲ってくる。激しい怨念や後悔となって自分を苦しめるのである。この問題について自分なりに考えてみた。他人を許せないということは、事実に対して反抗しているということである。森田理論ではどんなに受け入れがたい出来事であっても、基本的にはその事実を認めて受け入れるしかないと説明されています。動物の場合は、それは可能かもしれません。大脳新皮質が高度に発達している人間の場合は、それは至難の業です。私が問題だと思うのは、他人を許せないと思っている人は、根本的なところで、自分自身をも許せないのではないか。そう考えるとぞっとする。観念で理想の自分を想定しており、それからかけ離れている自分を嫌悪している。自己否定に陥っている。身体と精神が一体化している自分が内部分裂を起こしている。自分は自分の最大の理解者であり、どんな事態に陥っても自分を擁護して守り抜くという姿勢が欠如しているのではないか。そういう人は哀れだと思います。自己中心的で他人を痛めつけて自己の利益を拡大している人にも、嫌悪感をもたらすが、それと同様に自分というかけがえのない生命体を敵として取り扱う人にも嫌悪感をもたらす。自分は自分の最大の味方であると自信を持って言える自分になりたい。そのためには自分の強みや能力を見直すことです。私たちは神経質性格という素晴らしい長所を持っています。これに磨きをかけて、長所で勝負をかけていくという気概が大切になると思います。日常生活の中でも小さな成功体験を数多く積み重ねて、自信をつけていくことが自己肯定につながると考えています。後悔については、それは過去のことですから、もはや初心に戻ってやり直すことは不可能です。ではどうするか。これから残された人生の中で、取り戻すしかないと考えます。他人や会社、親や兄弟、子供や配偶者、社会や自然環境などに対して、今まで多大な迷惑をかけてきたならば、それを補って余りあるものを他人や社会に還元していく。その人たちにはもうどうすることもできませんが、別の人に還元していく。つまり過去の後悔を上回るような他人に役に立つことを企画して実行する。そして最後には後悔よりも還元したものが多かったという状態に持っていく。もし死後の世界に、神様が存在しているとすれば、そういう人は高く評価されるのではないか。後悔にさいなまれて、いたたまれない思いだけを残して死ぬことだけは避けたい。それよりはこれから先に目を向けて、世のため人の為に尽くすことをモットーとして頑張りたい。そうしないと、精神面で自分がつぶされてしまうと考えています。
2021.05.31
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吉田兼好の徒然草の92段に次のようにある。ある人、弓射ることを習うに、もろ矢(二本の対の矢)たばさみて的に向かう。師の言はく、「初心の人、ふたつの矢をもつことなかれ。後の矢を頼みて、はじめの矢になおざりの心あり。毎度ただ得失なく、この矢に定むべしと思へ」と言ふ。わづかに2つの矢、師の前にて一つをおろそかにせんと思わんや。懈怠(怠ける気持ち)の心、みづから知らずといえども、師これを知る。このいましめ、万事にわたるべし。道を学する人、夕べには朝あらんことを思ひ、朝には夕あらんことを思ひて、かさねてねんごろに修せんことを期す。況(いは)んや一刹那のうちにおいて、懈怠の心あることを知らんや。なんぞ、ただ今の一念において、ただちにすることの甚だ難き。弓を射る時に2本の矢を用意していると、仮に1本目を外しても、もう一本の矢が残っている。そういう逃げ道があると、背水の陣は敷くことができない。真剣さが足りなくなる。「二兎を追うものは1兎も得ず」ということわざ通りの結果になることが多い。的を射る矢は、これしかない。これを外せばすべて終わりだ。そういう覚悟を決めて、真剣に取り組む姿勢が大切だ。二本の矢のどちらかの矢が当たればよいという考えでは、真剣さが欠けるために、二本とも外してしまう事が多くなる可能性が高くなる。神経症の克服でいうと、森田療法、薬物療法、いろんな精神療法、カウンセリングに手あたり次第取り組んでみたが症状が治ったとはいいがたい。そういう人はいづれか一つに賭けた方が、良い結果が出てくる可能性が高くなると思います。ある人は気分本位になり、すっかりあきらめて無為の人生で折り合いをつける。これではいつまでも神経症の克服はできない。残念な人生で幕引きとなります。こういう人は、人生90年代を羅針盤を持たずに大海を航行するようなものです。私は、神経症を治し、神経質者としての生きる指針を見つけるためには、森田理論にすべてをかけてみることをお勧めいたします。具体的には、症状に対しては背水の陣を引く。俎板の鯉に学ぶことです。治すことはできないと白旗を上げて降伏することが大切です。神経症とは休戦状態に入ることです。そして仲間の援助を受けて森田理論学習に取り組む。「神経質にありがとう」の著者である玉野井幹雄さんは、治すことに絶望して、地獄に落ちたまま、地獄の住民として生きていくことを選ばれました。玉野井さんは、生きづまったままの人生を受けいれたことが、神経症の克服につながったといわれています。そういうあきらめの気持ち、戦意喪失の気持ちに入ることができた人は、不思議なことが起きます。特筆すべきことは、精神的な葛藤や苦悩がなくなります。その日から神経症克服後の逆転人生が幕を上げるのです。生まれ変わり、再生の人生が始まるのです。これを逃す手はないと思います。ここから本格的に日常茶飯事や好奇心、興味や関心のあることに手を出していけばよいのです。神経症の克服に向かって、手を変え品を変えてあらゆる治療法を渡り歩いている人は、なかなか思ったような成果が出ていないようです。特に生きづらさがいつまでも取れないようです。森田理論学習に絞って愚直に取り組んでいる人は、神経症の克服のみならず、確固たる人生観をものにしている。人生観を獲得しないと人生は味気ないものになります。私は森田に絞っている努力している人を見ると、つい応援したくなります。
2021.05.30
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「自己実現的予言」という言葉を聞かれたことがあるでしょうか。三橋貴明さんは次のように説明されています。先入観、思い込み、決めつけ、人の話を鵜呑みにする、流言飛語、「かくあるべし」などによって、事実とはかけ離れたことを、間違いない事実として信じ込んで、対応してしまうと大問題が起きてしまうというものです。その間違った認識に基づいて行動を開始した結果、間違って信じていたことが、現実のもとになって目の前に現れてくる。実に恐ろしいことが起きる。その時は多くの人がパニックになって混乱してしまうのです。たとえば、2020年のコロナ禍初期に「トイレットペーパー不足」が起きました。国内で流通しているトイレットペーパーは、97%が国産であり、外国との交易が途絶しても、品切れになることはなかったのです。それにもかかわらず、人々が買いだめに走り、運送サービスの「供給能力の限界」により、品切れ状態が起きたのです。「トイレットペーパーが無くなる」という、誤った状況認識により、多くの日本国民が買いだめに走り、結果的に本当に店頭からトイレットペーパーが消滅してしまったのである。私たちは森田理論学習によって、事実こそが真実であると学びました。事実に基づかないで、安易に、先入観、思い込み、決めつけ、人の話を鵜呑みにする、流言飛語、「かくあるべし」などを優先してしまう態度は、その後の展開を間違った方向に誘導してしまう。九州に行こうとして、東北新幹線に乗ってしまったような様なことになります。100%間違いないと思っても、念のためにこの目で確かめてみる。現地に飛んで行って事実の裏付けをとる。あるいは、両面観を応用して、あえて反対の立場から検討してみる。このようにして、できるだけ真実に近づこうとする態度を堅持する。この態度は森田理論の核心部分だと思います。そこで事実を正確に見極めると、間違いのない問題解決や目指すべき目標が明確になるのです。先入観などに基づいて行動した場合と比べると雲泥の差がついてきます。そういう態度で取り組んでも、真実には届かないかもしれません。何しろ真実を知られると困るという人は真実は知らせない。隠すわけです。捻じ曲げられた真実をニュースとして流して、世論を操作する。アメリカの大統領選挙ではそれが堂々と行われました。とても見苦しい光景が全世界に知れ渡りました。こういう操作が頻繁に行われていて、真実を知るという国民の権利が侵害されているのです。私たちは、国際情勢、政治、経済、外交、歴史につしても、真実を求めて行動していかないと、将来に禍根を残すことになると思います。子孫に対して問題を先送りすることになります。また国会で法律を成立させるときは、あえて反対意見を述べている人の話に耳を傾けてみる必要があると思います。数の論理で法律をすんなりと通すことは問題です。ショックドクトリンに乗じて、十分な議論がなされないまま、悪法が可決されることは忍びないことです。反対意見が一つもでないような法案は、議論が尽くされていないわけですから、廃案にすべきではないでしょうか。
2021.05.29
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堀江貴文さんが、こんな質問を受けたそうだ。「私は営業力しか自信がありません。他のスキルがまったくないまま起業してしまいました。どうしたらビジネスを軌道に乗せられるでしょうか」堀江さんは、「優秀な技術者と組めばいい」と回答した。今から新たに「努力して新しい能力を身につける」なんて、遠回り過ぎる。それより誰かに頼って仲間を作ることを考えた方がよい。誰もが、自分の「よい面」をうまく使う。言い換えれば、「得意なこと」「自分の強み」だけを活かすように考える。そのために有効なのは、「他人のよい面だけを見る」ことです。人間はよい面と悪い面の両方を持っている。悪い面に焦点を当てていると、他人と親しくなれない。仕事も進まない。いちいち傷ついていたら、何も進まない。だから、人の「悪い面」を見てしまっても、「そういうものさ」と軽く受け流す。人の「いい面」だけを見ていたほうが生きやすい。人間は助けられたり、助けたりの相互関係で成り立っている。人の価値は、「いざというときに頼れる人の数」で決まる。(炎上される者になれ 堀江貴文 ポプラ新書参照)メンタルヘルス岡本記念財団の元理事長岡本常男さんは次のように話されている。人を使う立場にある人は部下の長所を伸ばすように指導することが肝要だ。ドラッガーは、管理者にとってもっともたいせつなのは品性を身につけることだといっている。すなわち部下の欠点ばかりを責めたてて、罵倒するのは品性にかける行為である。部下の長所を見つけて、育てあげるのが品性というものであり、管理者の最大の義務であると言っている。(自分に克つ生き方 岡本常男 ごま書房 160ページより引用)神経質者は放っておくと、相手の悪い面、欠点、弱み、問題点に目が行ってしまう。それを口に出して相手のことを非難、否定、軽蔑する人が後を絶たない。相手はよい面、長所、強み、夢や希望も持っているのだが、そこに光を当てて誉める、評価する、持ち上げるということに無頓着な人が多い。これは別に神経質者だけではなく、多くの人が持っている傾向です。どうして険悪な人間関係に発展することが分かっているのに、止めようとしないのでしょうか。相手の悪いところは見て見ぬふりをする。良い点に焦点を当てて、これをクローズアップして評価する習慣を持っている人はそういう意識をもって生活している人だと思います。これは誰もが身につけたいと思ってもなかなか獲得出来ないものです。その能力を身に着けている人は、相手のよい面と悪い面の両方をバランスよく見ようとしている。バランスをとるためには、悪い方には目をつぶり、よい面ばかりを見る習慣を作らないとバランスは維持できないということがよく分かっている人です。悪い点を口に出しそうになった時、抑止力が働くような能力を身に着けているのです。森田理論はバランスをことさら重視している理論です。これを対人関係に応用していくと、目についた相手の悪いところは目をつぶり、ちょっとしたよいところは実態以上に高評価するということを実践することなのです。
2021.05.28
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ジャーナリストの堤未果さんによると、日本人の「マスコミを信じるランキング」は断トツで世界一だそうです。公益財団法人「新聞通信調査会」の全国世論調査によると、全面的に信頼しているを100点とした場合、NHKが73.5点、新聞が70.9点、民放テレビは63.6点 インターネットは58.2%であった。日本の次に、フィリピン、中国、韓国などが続いている。堤未果さんは、これはよい事なのでしょうかと疑問を投げかけておられます。もし報道内容に、真実が隠蔽、脚色、捏造されていたとすると、何も知らない国民は間違った事実を信じ込まされることになってしまいます。実はそういう報道がなされている場合があるのです。森田では事実に基づかないことを鵜呑みにすることは、あってはならないと言います。逆にテレビや新聞を全く信用していない国としてアメリカ、オーストラリアなどがある。アメリカの大手テレビ局は国際金融資本にほぼ買収されているという。ABCはディズニーに、NBCはGE(ゼルラルエレクトリック)に、CBSもどこかの投資会社に買収されている。彼らのビジネスにとって都合のよいニュースしか報道しない。たとえ真実を伝えたいキャスター、記者がいても、真実を伝えると即座に解雇されてしまう。ニューヨーク・タイムズの社内では、もはや自由に発言できるような雰囲気にはないという。今回の大統領選挙では、マスコミはかたよった報道しているということが、日本に住んでいる我々にもよく分かりました。たとえば、トランプ氏を非難する報道は、小さなことでもすべてのメディアが大きく取り上げていました。トランプさんは、国際金融資本の敵なので、再選されることは何としても避けたい。目を覆いたくなるような、かたよった報道を貫いていました。それで7000万以上の票を獲得したにもかかわらず落選したのです。イラク戦争以降、アメリカの大手メディアの信頼度はどんどん低下しているそうです。アメリカでは戦争を起こすことで、国内経済を立て直すことができるといわれているそうです。戦争によって莫大なもうけを上げる多国籍企業が出てくるのです。イラク戦争では、ミサイルをつくる軍事産業、石油会社、戦地に傭兵を送った派遣会社や傭兵会社、兵士の備品や食料、薬などを提供した民間会社、復興支援としてイラクの国営企業、金融機関、農業組織を解体して、その後二束三文で買収した多国籍企業などは笑いが止まりませんでした。戦争によって多くの兵士や民間人やが亡くなりましたが、そんなことはお構いなしです。むしろ、戦争が長引けば長引くほど、彼らには利益がもたらさられる仕組みが出来上がっているのです。だから政治家に献金して、戦争予算に賛成するように働きかけるのです。ロビーイストというのはそういう仕事です。そして買収したメディアを通じて、戦争をあおるようなことをどんどん報道していくのです。愛国心を煽り立てて、戦争に突き進ませようとするのです。イラク戦争の発端を思い出してみてください。クウェートの少女がアメリカ議会公聴会の席で泣きながら「イラクの兵士がクウェートの赤ん坊を保育器からだし、次々と床にたたきつけて殺した」と証言しました。この証言の報道がきっかけとなり、当時反対の強かったアメリカの国内世論が一気に戦争支持にひっくり返したのです。ところが、1年後に、ニューヨーク・タイムズが、この少女は、実は駐米クウェート大使の娘で、証言はアメリカの広告代理店演出の芝居だったと報道しました。つまりアメリカ国民はまんまとでっち上げられた報道に騙されていたのです。時すでに遅し、アメリカはイラクを相手に悲惨な戦争に踏み切っていました。その結果、アメリカ兵の多くが亡くなり、帰還してからも精神障害などで苦しんでいます。それ以上にイラクの国民に犠牲を強い、イラクの国は国際金融資本の都合に合わせて解体・再編されました。国民が犠牲なって、国外の多国籍企業だけが法外な利益を手にしたのです。このように真実は闇に葬られて、捻じ曲げられた報道で、国民を洗脳していくのです。そして自分たちのビジネスチャンスを拡大し、法外な利潤の獲得を目指しているのです。やり方が巧妙で事実がオブラートに包まれているのです。人間の欲望の暴走がここまできたかという感じです。そこには最大多数の国民の幸せを願う気持ちは全くありません。真実の報道を隠蔽、捏造して、国際金融資本の利益を最大限に追及しようという野望が暴走しているのです。私たちが真実を知る権利を放棄して、無知でいることは、国際金融資本の思うつぼです。西側諸国は、まだまだ表現の自由があるといわれていますが、その実態は表現の自由を抑圧している国とあまり変わらないようです。私たちは事実をつかみ取るという不断の努力を怠ってはならないと思います。今の日本はかろうじてyou tubeチャンネルなどで真実が伝えられているように思います。アメリカは自由な表現をする人は、命の危険と隣り合わせという国になってしまったのだそうです。しかし日本もうかうかしていると、すぐに茹でガエル現象が起きてしまいます。なんとか真実にアクセスできる道だけは残しておきたいものです。
2021.05.27
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2013年6月4日、サッカー日本代表はワールドカップ・ブラジル大会への出場を決めました。この試合は、オーストラリアを相手に、勝つか引き分ければ出場が決まるが、負ければ予選敗退という大事な試合でした。白熱試合になり、後半36分過ぎにオーストラリアに先制されました。誰もが負けを覚悟した中で、後半のロスタイム、日本はフリーキックを得ました。この時、本田圭佑選手は、PKの笛が鳴るや否や、「俺が蹴る」とボールを持ち、実際に同点ゴールをど真ん中に決めました。ここでもし外すと、できもしないくせに出しゃばるなとパッシングされたかもしれません。それなのにプレッシャーを乗り越えて、あえて挑戦の道を選んだ、本田選手の決断と勇気に日本中が感動しました。本田選手は試合後、「真ん中に蹴って捕られたらしゃあないと」思っていたと語っています。普通に考えると、真ん中はゴールキーパーがいるわけですから、右か左に打ち込まないといけません。これは雑念を取り除いた選択と決断しかありません。本田選手は、「こういう場面になったら、こう考え、こうプレーする」というシュミレーションを普段からしっかり持っていたのだと思います。日本中の人がかたずをもって見ているわけですから、相当大きなプレッシャーはあって当然です。それをはねのけるだけの精神力が、普段の練習や生活の中で自信や確信にまで高められていたのだと思われます。それが普通の人はしり込みするような場面で発揮されたのではないでしょうか。本田選手の行動から学べることがありそうです。私たちは、神経症的な不安、恐怖、違和感、不快感から逃げてしまう事が多いのが現状です。気分に振り回されて、逃げることで自分を守ることを優先してしまうのです。それを繰り返しているうちに、精神交互作用で蟻地獄に陥っていった。寝ても覚めても神経症の苦しみから逃れられない。むしろその苦しみは増悪していく。勉強や仕事に身が入らない。他人からも見放されてしまう。もはや自分ではどうしてよいのか皆目見当がつかない。自分は苦しむために生まれてきたのか。いっそのこと死んでしまいたい。強迫観念というのは、不安から逃げようとすればするほど、しつこく付きまとってくる代物なのです。アフリカのサバンナで小動物が肉食獣に追いかけられるようなものです。逃げれば逃げるほど勢いをつけて追い掛け回されます。そして最後には力尽きて捕らえられてしまいます。エネルギーのある人は、不安などは取り除いてしまえば楽になるはずだと考えて行動します。この方法も、結果は逃避の道を選んだ人と何ら変わりません。不可能なことにチャレンジしているのですから、元々勝ち目はないのです。水車に飛び込んでいったというドン・キホーテのようなものです。神経症的な不安に対しては、気分本位になって逃げ回る、あるいは取り除こうとするやり方は間違いだということです。森田理論が教えてくれているのは、逃げ回らないで、不安を直視するということです。イヤイヤ仕方なく受け入れることが道を選択するのです。不安を取り除くことにエネルギーを使うのではなく、不安を認めて受けいれる。そのためには不安の持っている役割を森田理論学習で理解することです。不安の方の立場に立ってみると、双方の関係性がよく見えてきます。不安の方は逃げ回る人を見つけると嬉しくなる。不敵な笑みが思わず出てしまう。さらに追い回していじめてみたくなる。不安を取り除こうと努力している人を見ると、圧倒的な戦力を動員して、身体的、精神的に立ち直れないほど叩き潰してしまおう考えているのです。息の根を止めることが快感なのです。さらにますます戦力の増強や補強を考えるようになる。太平洋戦争を戦った日本とアメリカのようなものです。そういう方向に向かっている人が、格好のターゲットになっているのです。不安を突き付けて相手が乗ってくるのを、手ぐすね引いて待っているのです。その誘いに乗ってしまうことは、針に掛かったマグロのようなものです。釣りあげられて一巻の終わりです。一方、不安の挑発に全く乗ってこない。不安から距離をとってじっと観察している。手はださないので、時間ばかりが過ぎていく。こういう人は、不安の立場からすると、何とももどかしい。イライラしてしまう。また、森田理論で不安の特徴や役割を理解している人は厄介です。不安を自分の仲間として取り入れようとしている人は手出しできなくなる。不安の方が立ちすくんでしまうのです。相手が反撃してこないので、戦うきっかけがつかめないので困ってしまう。不安の方としては、闘う口実がなくなるので、防衛力を強化することは、無駄なエネルギーを使うことになります。不安にとっては、自分の存在価値を否定されて、居場所が確保できなくなるのです。そのうち戦力の撤退を考えざるを得なくなるのです。不安の特徴や役割を身に着けて、実行している人は、いつの間にか大事な仲間として居場所を見つけることになります。不安を大いに活用することになるのです。昨日の敵は今日の味方になるのです。信じられないかもしれませんが、森田理論で神経症を克服した人はそうなれるのです。取り入れた相手と共存共栄の関係に入ってしまうのです。当初の目論見とは全く違う関係が出来上がってしまうのです。不安の方としても、自分の存在価値を認めてもらって働き場所を提供してもらっているので異存はありません。こういう関係が出来上がれば、双方とも友好的で、安全、安心、平和な幸せの時を享受できるようになるのです。こういう方向性をみんなでめざしていこうとしているのが、森田理論学習なのです。素晴らしい世界が広がるように思えませんか。
2021.05.26
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アンディー・ウォーホルというポップアーティストがいた。ウォーホルはすでに故人であるが、なんでも鑑定団に出品されたポップアートが高値と判定された。マリリン・モンローの肖像画やキャンベルのスープ缶の版画を大量に作ってギャラリーに展示した人だ。ご存じの方も多いでしょう。家に飾るポスターとしてほしい人が多いが、まず手に入らない代物だ。今や、アンディー・ウォーホルは、単なるポップアーティストとしてとり扱われているわけではないのです。世界の既存の価値観を変革させた人間として高評価されているのです。彼が活躍したのは1960年代である。この頃は安くて便利で大量生産されたものが世の中に出回っていた。裕福な人たちは、大量生産されたものには目もくれず、オーダーメイドのものにこそ価値があると思っていた。一品一品丁寧に手作りされて、希少性のある物にしか価値を見出さなかった。大量生産されたものは、粗末なもの、価値のないもの、貧乏人のものという風潮が強かった。ウォーホルの版画は、トマトの缶詰、コカ・コーラなど一般大衆が身近に親しんでいるものを題材にしている。あえてそういう身近なものをポップアートとして作品にしていった。つまり、彼の作品は、そこら中にありふれているもの、日常的に接しているものでも、注意や意識を向けてみると素晴らしいと思いませんかと価値観の転換を促しているのです。最初は、何だこの作品は、もっと題材を吟味して、人を感動させるような油絵などの作品をてがけなさいという時代だったのです。絵画の世界の異端児として、当然低評価されていました。そのうち、時代が変わりました。人々の価値観が変わりました。ありふれた題材をホップアートとして取り扱うことが大衆に認められてきました。みんなが知っているもの、大衆消費財にもよいものがあるという時代に変わってきたのです。日常的なものにも、心地よさを感じさせるものがある。これは何も物だけには限らない。自分たちの普段の日常生活、仕事、人間関係、子育て、教育、自然との付き合い方など、いままでとるに足りないと思っていたが、捨てたものではないのではないか。そういうものに囲まれていることは美しい。楽しい。安心する。落ち着く。感動する。自分たちが元々持っているものに、素直に光を当ててみると、いままで雑に扱っていたものが何だが宝物のように見えてきた。このような価値観の転換を促したアーティストだったのです。この価値観の転換は、例えばルイ・ヴィトンの経営戦略に影響を与えた。当時、ルイ・ヴィトンはオーダーメイドしか手掛けておらず、パリに3店舗しかなかった。つまり、富裕層を顧客として、一般大衆は全く相手にしていなかった。ところがウォーホルの出現によって「大量生産されたものでも人気のあるものは価値が高い」という考え方が一般的になったため、ルイ・ヴィトンはよいものを大量生産して、既製品として販売することにした。これが世界的な名声を得ることになった。他のブランドも、これに倣いビジネスモデルを変えて莫大な市場が生まれることになった、ウォーホルは、ポップアートの世界にありながら、時代を変革した風雲児だったということです。森田先生が創始された森田理論は、普遍性があり、人類が初めて到達した人生観、世界観、自然観を持っており、人類史を変革できる内容を含んでいます。森田理論の世界に、アンディー・ウォーホルのような人が出現することが、待ち望まれていると思います。きっと必ずそういう人が出てくると思っています。そうしないと、人類が滅亡への道をひた走ることになるからです。欲望の暴走社会がこのまま続き、紛争や戦争が激化し、核兵器が使用されることになると、すぐに人類は絶滅してしまいます。こんなことは誰一人として望んではいません。森田理論の考え方を日本中、世界中に広めていきたいものです。
2021.05.25
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相手を非難し否定することが習慣になってしまっている人がいます。旦那の言うこと、なすことのすべてが気に入らない。奥さんの言うこと、なすことのすべてが気に入らない。子供の言うこと、なすことのすべてが気に入らない。親の言うこと、なすことのすべてが気に入らない。他人の言うこと、なすことのすべてが気に入らない。叱責、批判、否定、無視、からかい、侮辱、拒絶、激怒、憤慨、攻撃を生活信条として押し出しながら生活している人です。こういう人は、他人と常に対立して戦闘状態に入り、自己防衛に最大限のエネルギーを投入しなければなりません。無駄でむなしいことに取り組む人生にどんな価値があるのでしょうか。まちがいなく、自他ともに苦しい生活を余儀なくされます。でも分かっていてもやめられない。それはなぜなのでしょうか。私は太古から人間に引き継がれてきた本能の仕業だと思っています。アフリカの東海岸に人間のルーツはあるといわれますが、サバンナの中で肉食獣から身を守ることは大変なことだったのです。絶えず近くに肉食獣がいないかどうか、神経を研ぎ澄ましておく必要がありました。万が一危険な目に遭った時は、一目散に逃げる。木の上に逃げる。武器を持って戦う。仲間と一緒になって追い払う。逃げる、攻撃することで、初めて生き延びることが保証されてきたのです。周りは敵だらけだと思っている人の方が延命できたということです。相手を無条件に信頼し、好意を寄せることは自殺行為に等しいということです。そのDNAが脈々と人間の本能として受け継がれてきていると理解すれば、なぜ他人を見れば非難や否定したくなるのかが分かるような気がします。人間はもともとそういう特徴を持った生き物であると認めることが肝心だと思います。そういう特徴は、性格と同じようなもので、いくら無くしてしまいたいと思っても無理だと思います。叱責、批判、否定、無視、からかい、侮辱、拒絶、激怒、憤慨、攻撃を生活信条として生きている自分を受けいれるしかないと思います。しかしそれだけでは、高度な大脳を持った人間としては、芸がないと思います。また、その生活態度は森田理論で考えてみると、きわめてバランスが悪いと思います。バランスを失うと、その存在すら危うくなるというのが森田理論の考え方です。それは不安と欲望の調和、精神拮抗作用、不即不離の学習の中で学びました。このバランス感覚を人間関係に応用するためにはどうすればよいのか。批判や否定の反対は、相手のことを認めて受け入れるということです。相手の言動を認めて受け入れる。評価する。誉めてあげる。相手が「当たり前」と思っているような発言や行動に価値を感じて、感謝の言葉とともに伝える。その方にほとんどのエネルギーを投入するといういき込みで取り組む。地道な普段の行動の積み重ねが肝心です。とりあえず、これを夫婦や子供や親に対して取り組んでみませんか。それで少しずつバランスが取れてくるようになる。相手との信頼関係が生まれてくる。信頼関係がない状態で、非難や否定だけを前面に押し出す態度は、人間としてはとても未熟な人だと判断せざるを得ません。こうした信頼関係ができた人に対して、たまには叱責、非難、否定することは許されると思います。それが人間の本能なのですから。でも、信頼関係が全くない人に対して、叱責、非難、否定する言葉を発することは、決して許されることではないと思います。これはどんな状況においてもそうです。いつも自分の存在を認めて、評価してくれている人から、たまに叱責されても、それは私のことを思ってくれての言葉だと受け取れるようになります。人間関係にバランス感覚を応用している人は、問題あるときは、躊躇なく叱責、非難、否定できるようになります。自由自在です。自由人として生きていくことが可能になります。あえて苦言を呈することで、相手の信頼感は、さらに尊敬や畏敬の念に昇華されていくのです。
2021.05.24
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好きの反対語は嫌いです。肯定の反対語は否定です。相手のことを、嫌い、虫が好かない、非難、否定していると対立します。負けないように対抗しますので、ますます人間関係は悪くなります。そこに常にエネルギーを集中させていますので、目の前のなすべき仕事や家事などが雑になります。では「愛」の反対語は何でしょうか。嫌いではありません。「愛」というのは無条件に好きということです。尊敬しているということです。相手のことがいとおしい、かけがいのない人として心の底から思っている。貴重品を扱うように丁寧に大切に接しています。「愛」の反対語は、ずばり「無視」だそうです。「嫌い」には、まだその上があって、それが「無視」するということなのです。嫌いというのは、険悪ではありますが、まだ相手との人間関係があります。誤解が解け、人間関係が修正できるとまた交流できるようになる可能性を秘めています。太平洋戦争で日本とアメリカは敵同士で殺し合いをしていました。ところが今は唯一無二の同盟国といった関係です。男女の関係でも、あんなに犬猿の仲だったような人が、いつの間にか結婚したという光景を何度か見てきました。どこで和解したのでしょうか。不思議なことがあるものです。「嫌い」というのは、現在両者の間に、埋めることのできない大きな溝があるということだと思います。その溝を埋めることができれば、むしろかけがいのない仲間・伴侶として助け合う関係に変化していくのです。そういう人の方がむしろ固い絆で結ばれている。それは相手の欠点や弱点、主張をあるがままに認めて、受け入れることができたということです。こういう方向に向かうほうが望ましいと思います。そのためには、関係修復に向かって努力する態度がもとめられます。新たな人間関係を構築するという気持ちが大切です。しかし「嫌い」という考えにとらわれてしまうと、相手のことを徹底的に「無視」するという方向になることもあります。神経質者が選ぶのはむしろこちらの方が多いと思います。溝を埋めて、問題を解決し、妥協点を探していこうと努力する道よりも、相手を無視、排除する方が楽ができるからです。エネルギーの消耗を防ぐことができるのです。しかし非難や否定、無視を繰り返していては、永遠に険悪な人間関係は好転しません。無視するというのは、相手からできるだけ離れる、顔を背けるということですから、相手も同様の対抗手段を行使します。そして自己防衛に多くのエネルギーを投入しないと、不意に攻撃されて息の根を止められることになりかねませんので常時緊張・戦闘状態になります。すると、目の前のなすべきことがお留守になるという悪循環が始まるのです。無視するという人間関係がいったん発生するとあらゆる面に波及します。会社や友達関係だけではありません。たとえば家族の人間関係です。配偶者とは食事も別々、洗濯も別々。居間に集まらず個室で過ごす。当然寝室も別々。なかには配偶者が寝静まった後に帰宅し、起きてくる前に家を出るという人もいます。一つ屋根の下で暮らす意味がないという状態です。子供とは没交渉。子どもは心の安全基地を失って、他人が信頼できなくなります。子供を巻き込んで不幸の再生産をしているのです。森田理論でいう人間関係の原則は、「不即不離」です。引っ付きすぎず、離れすぎず、バランスをとっていく。必要に応じて必要な人間関係を、時と場所に応じて使い分けていく。濃密な人間関係ではなく、薄くて広範な人間関係を築いていくということです。無視するという態度は、最初から人を避けていることですから、「不即不離」の人間関係を構築するという出発点に立つことができない。天涯孤独に生きていくことを宣言しているようなものですから、じり貧で後悔の多い人生が口を開けて待っているということになります。そういう意味では嫌いという態度に戻って、お互いの溝を修復していくという段階に戻すことが必要になります。
2021.05.23
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親鸞聖人の言葉に「悪人正機」説というのがあります。難しい言葉です。森田理論に近い言葉なので、あえて取り上げてみました。ここでいう「悪人」というのは、オレオレ詐欺やひき逃げ事故、殺人事件などを起こした極悪非道な人のことではありません。他の動植物の生命を無理やり奪って、生きながらえている人間そのもののことです。さらに欲望に目がくらんで、自己中心を前面に押し出して生活している人間のことです。親鸞聖人の言葉でいえば、煩悩を持って生きている私たち自身のことです。どこまでも我利我欲にまみれながら生きている私たち自身のことです。そういう意味で、この世で普通に生活している私たち自身のことです。人間というのは他の生き物を殺生して、初めて命がつながるという宿命を持った生き物です。是非善悪の価値判断する以前に、そういう存在としてしか存在できないということです。そういう意味では、少し手を抜くと、自己中心的な欲望は暴走してしまいがちです。どうすることもできない欲望に縛られて生きている私たち自身が「悪人」なのです。「正機」というのは、阿弥陀様はこの悪人こそ、精神的に救うべき対象としているということです。悪人いうのは、自分は多くの動植物や、他の人に迷惑をかけながらこの世で生きながらえているという自覚をもっている人のことです。そういう心掛けの人は、精神的に安定した境地に達することができるということだと思います。このことは森田理論に照らして考えると、欲望はどんどん弾みがついて暴走する危険性を孕んでいます。生の欲望の発揮と言いますが、無制限に追い求めてはいけない。私たち人間には、精神拮抗作用という欲望を制御する機能も標準装備されています。それを活用して、無制限な欲望の追及は制御していく必要がある。つまり欲望は不安を活用して、バランスや調和を目指していく必要があるということです。浄土真宗の場合は、念仏を唱えることで阿弥陀様がその方向に導いてくれます。私たちの場合は、森田理論を学び、生活に応用することで可能になります。親鸞聖人の思想は、「他力の思想」だと言われています。他力の思想は、他人に依存することを連想させます。イメージが悪い言葉です。森田では、自力の思想で運命を切り開いていくと教えています。ただ親鸞聖人は、そのことをおっしゃっているのではありません。自分の頭で考えた思想や主張を前面に押し出して、現実、現状、事実を否定するような態度は如何なものかと疑問を投げかけておられるのです。これが親鸞聖人のいう他力の思想なのです。これは森田理論でいうと「かくあるべし」を振りかざして、現実や事実を否定してはいけないということです。事実に対しては、どんなに承服しがたい事案であっても、服従する方がよいということなのです。どこまでも観念の世界、自分の立場を押し通そうとするのではなく、もっと謙虚になって事実本位に生きていきましょう。大自然に溶け込んで無理のない生き方を目指していきませんかという提案をされているのです。森田でいう事実唯真の世界のことをおっしゃられているのです。「他力の思想」は極めて森田の神髄に近い言葉なのです。
2021.05.22
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今日は木曜日放送の「プレバト」という番組を紹介したい。ファンの人が多く改めて紹介するほどのことはないと思いますが、森田の事実本位の態度を養成するうえで格好の番組である。俳句では、夏井いつき先生と俳句名人の梅沢富美夫さんのやり取りが面白い。それに加えて、浜田雅功さんの突っ込みも面白い。そして昇段、降段、現状維持の査定にハラハラさせられる。特に夏井先生の的確な講評にはいつも感心させられる。こんなにはっきりとものが言える女性には頼もしさすら感じる。いつも夏井先生にやり込められているが、梅沢さんの俳句の実力は相当なものである。事実の観察、感情の高まりを、季語を絡めて5・7・5の言葉で表現する。感受性の鋭い人でないと言葉の奥に隠れている感性は表現できない。自然と触れ合って、豊かな感性のほとばしりを楽しむ高尚な芸術だと思う。この点、神経質性格者は、元々鋭い感性が備わっている。俳句の基礎を学び、自然観察力を磨いていけば、優れた俳人になれる可能性がある。続いて野村重存先生の水彩画である。水彩画というのは、自然観察から始まる。自然をよく観察しないとそもそも絵は描けない。絵を描く人は、生活の中で四方八方にアンテナを張って緊張感を持って生活している人だと思う。森田ではそういう習慣を作ることを目指しています。事実本位の態度を身に着けるためには、事実を正確に把握することから始めるのです。それには、水彩画はうってつけです。さらに野村先生は濃淡のつけ方と構図の取り方を評価の対象とされている。構図というのは、森田でいうとバランスのとれた水彩画かどうかということだと思う。バランスが悪いと何かすっきりしない。違和感のある絵となってしまう。それは空間の取り扱い、対象物の配置の方法に問題を感じるからだと思う。森田でもバランス、調和のとれた考え方や行動をお勧めしています。森田理論の「精神拮抗作用」「不即不離」の教えは、このバランス感覚の大切さのことを説明しているのです。私は熊本で開催された森田療法学会に特別参加したことがあります。そのときに刺激を受けたことがあります。それは、歌う森田、踊る森田を実践されている先生がおられるということでした。観念中心の生活から、身体を動かす行動への呼び水として、歌や踊りを取り入れている。これはリズム感を養成することにも役立つ。森田では規則正しい生活を目指しています。規則正しい生活を続けている人は、無意識の行動がリズムよく繰り返されているということになります。森田先生もダンスを楽しみ、このバランスのとり方の研究をされていました。森田では緊張状態と弛緩状態の波を上手に作り出していくことを目指しています。「休息は仕事の中止ではなく、仕事の転換にあり」という有名な言葉がありますが、これは一つのことをやり続けて飽きがくるときがあります。その時精神状態は弛緩状態に陥っています。それを解消する方法として、それを中断して、全く別なことに取り組む。そして新たな精神や行動の緊張状態を作り出すというものです。森田理論は、理解したことを、生活に応用することが重要になります。理論学習だけにめり込んでいる人は、思っているような成果はあがらないようです。俳句、水彩画、生け花、歌唱、カラオケ、社交ダンスに取り組むことで、事実本位の態度が知らず知らずに身についてくるとすれば、捨てたものではないと考えます。
2021.05.21
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宇野千代さんが次のようなエピソードを紹介されている。森田理論に関わるポイントになる話です。九州に住んでいたある豪農の息子が、強度の神経痛にかかった。金に糸目をつけないで、あらゆる治療法を試みた。福岡、京都の大学病院に入院した。治らなかった。最後の望みを託して東大病院にも入院した。ここもダメだった。絶望にあえいでいた時に、その男はある街に住む高名な漢方医を紹介された。藁にもすがる思いで受診した。その漢方医は丁寧に診察して、こう言い放った。「あなたのこの病気は、あなたにとっては死病です。たぶんあなたはこの病気で死ぬでしょう。しかし、ただ一つ、これは試しにやってみるのですが、この薬を飲んでみてください。昼と夜と2回これを飲んで、もし万一効き目があったら、明日の朝は真っ黒な便が出る。そうなったらあなたは助かるが、しかし、たぶん、この薬も効き目はないと思うが・・・」と言って、一包みの粉薬を渡した。ところが、その翌日、慌ただしくその男が駆け込んで来た。「先生、私は助かりました。真っ黒い便が出ました」漢方医の先生は、「出たか。そうか。助かったのか」とその男と手を取り合って喜んだという。その男はそのまま九州に帰ったが、先生から頂いた薬のおかげで、難病の神経痛がけろっと治ったというお礼の手紙が先生のもとに届いたという。以後再発もなく元気で暮らしているという。一番驚いたのは医者の方である。この粉薬は飲むと必ず黒い便が出るという偽薬(ブラセボ)だったのだ。そんな薬なのに、「たぶん効き目はないと思うが・・・」などと、駄目を押すあたり、田村正和も顔負けの迫真の演技であった。こういうのをまさに名医というのだろう。(行動することが生きることである 宇野千代 集英社文庫 158ページより要旨引用)ここでは神経痛と書いてあるが、実際は神経症の間違いではなかろうか。集談会でも慢性疼痛で整形外科の治療を受けている人がいます。あるいは慢性的なアトピーや皮膚病で苦しんでいる人もいます。長らく専門的な外科的施術、薬物療法を受けているのに、一向によくならない。生活の発見会の協力医の話によると、うつ病の3分の2は薬物療法でよくなるという。問題は最新の薬物療法に取り組んでも、一向に改善の兆しが見られない患者がいるということです。慢性的なうつ病を抱えて苦しんでいる人がいるという。また一旦治ったかのように見えても、再発を繰り返す人もいる。従来の治療法で治らないと、熱心な精神科医は途方に暮れてします。生活の発見会の協力医は、薬物療法に加えて、森田療法にも取り組むことで大きな成果を上げている人がいるのです。つまり精神療法にも取り組むことが、うつ病克服のカギを握っていたということです。森田理論学習を続けている人は、このエピソードのからくりはすぐに分かりますね。その痛みはもともと5ぐらいなのに、精神交互作用によって、7にも8にも、10にも増悪させているのです。絶えず注意や意識が痛みに向けられているのです。しまいに固着している。注意や意識が痛みに対して敏感になっていて、アリ地獄の底に入り込んでもがいている状態です。そういう人は、多分日常茶飯事のなすべきことはおろそかになっているはずです。そういう人は痛みがあってつらいでしょうが、それを抱えたまま、身の回りのなすべきことを丁寧にこなすことです。ここが神経症克服の最初の関門となります。痛みにどっぷりと漬かって、周囲の人の同情をさそうような言動はご法度です。痛みと日常茶飯事の行動のバランスを目指すことが肝心です。そのからくりが分かっていれば、偽の薬は絶大な効果をもたらすということになります。
2021.05.20
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スティーブン・R・コヴィー氏は、「7つの習慣」の7番目に心掛けることは「刃を研ぐ」事だと言われています。1、健康でスタミナのある肉体を作り上げて維持していくこと。2、安定した精神的状態を保つこと。3、自己啓発に努め、知性を高めること。4、他人の生活に貢献すること。1は、バランスのとれた食生活、適度な運動、休養や身体のケア、規則正しい生活、生活習慣病の検査、身体のメンテナンスなどに注意を払うことです。自分の身体は自分のものだから、どうゆうふうに取り扱おうがかまわないという人もいます。この考え方は如何なものでしょうか。今よりももっと健康体に作り変えたいものです、125歳が人間の寿命といわれていますから、いかにそれに近づけるか、勝負のしどころです。御身大切にする人は、他人も大切にできる人になれます。2、安定した精神状態になるためには、森田理論学習をすることが欠かせないと考えています。森田理論というのは、人生哲学として、すべての人間が学習すべき内容となっています。特に不安の役割、不安と欲望の関係。バランスや調和のとり方。変化への対応方法。今あるものを活かす方法。生の欲望の発揮とは何か。凡事徹底、規則正しい生活。人間関係の在り方。「かくあるべし」という観念優先の態度を事実本位の態度に切り替えるためにどうするか。などの意味するところを、よく学習して、人生哲学を確立することが、大切になると考えています。3は、人間は誰しも、課題や目標、夢や希望を持って生きていきたい。向上発展したい。他人に喜ばれることをしたい。他人の役に立つことをして評価されたい。物質的にも精神的にも豊かになりたい。暖かい家庭や人間関係の輪を広げて、人生を楽しみたい。それを成就するためには、その目的や目標に向かって努力することがかかせません。自己啓発、生涯学習がかかせません。それに向かって努力することが生きがいになります。そういう習慣を身につけている人は素敵な人です。森田理論学習では「生の欲望の発揮」と言います。神経症を克服する過程で、最後に行きつき先は「生の欲望の世界」ということになります。4は、森田理論では、人間関係のコツは「不即不離」と説明しています。引っ付きすぎず離れすぎず適度の距離を保った付き合いを心掛ける。必要な時に、必要に応じて、必要なだけの人間関係を心掛けて生活する。その中で、誰でも持っている自己中心性が暴走しないようにすることが肝心です。そのためには、何か他人に役に立つことはないかと注意や意識を高めて、周囲を観察することが有効です。人間関係で苦しいというのは、油をささないで歯車を回すようなものです。絶えず潤滑油が潤沢に行きわたっているような人間関係を築いていきたいものです。以上が、スティーブン・R・コヴィーが述べおられる「7つの習慣」を、私なりに森田風にアレンジして、6日間にわたり紹介してきました。1から3は行動の原則、4から6は人間関係の在り方、7はその基礎や土台となる考え方でした。確かにこのような7つの習慣を身に着けている人は、社会の中で成果を上げて、光輝いていると思います。森田理論は地下に眠っている金鉱を掘り当てるようなものです。もう少し掘り進むと豊かな金鉱に出会うとしたら、途中であきらめてしまうのは実にもったいないことです。以上、詳しく知りたい人は、「7つの習慣」 (スティーブン・R・コヴィー キングベア出版)をご参照ください。ただし500ページ近くあり、少し難解な本です。
2021.05.19
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「7つの習慣」の習慣の6つ目に「相乗効果を与える」というのがあります。これは人間関係で、1プラス1が2ではなく、3にも4にもなる結果をもたらすかかわり方のことを言います。プラスのシナジー効果が生まれるようなかかわり方、好影響を与える関係性のことを言います。そんな人間関係を築くためのヒントを考えてみたいと思います。植物の世界では共栄作物というのがあります。たとえばアブラナ科(ハクサイ、キャベツなど)の野菜を連作するとネコブ病菌が増殖します。ところが連作を止めて、アブラナ科以外の野菜であるネギなどを植えるとネコブ病菌は死滅することが分かっています。この2つの野菜を交互に植えることによって、病気を防ぎ合っているのです。クロールピクリンなどで土壌消毒を行なう必要はなくなります。双方が協力して病気にかかりにくい土壌環境を作り上げているのです。こういうかかわり方は素敵ですね。お互いの特徴を活かして、好影響を与えているのですから。人間関係においても、プラスの波及効果をもたらすことが可能です。私の場合を振り返ってみると、興味をもって挑戦したことは、すべて他の人から影響を受けています。テニス、スキー、チヌ釣り、加工食品作り、自家用野菜つくり、国家資格試験への挑戦、トライアスロン、沢登り、カラオケ、国内旅行、海外旅行、温泉巡り、グルメ、読書、ブログ、楽器演奏、コンサート、一人一芸、ホームページ制作、パワーポイントの活用術、株式投資、競馬、麻雀など。私は執着性が強いので、やり始めるととことんまでやり続けるという傾向があります。気づいてみると、影響を受けた人は、とっくに止めているのに、私だけがとりこになっていたというものもあります。それが神経症の克服に大いに役立っていたのです。生き方の面では生活の発見会の集談会、支部活動などで知り合った人から好影響を受けました。仕事で行き詰った時、精神的に落ち込んだ時、真っ先に相談したのは、気心の知れた集談会や支部の仲間たちでした。私は、安心できる心の寄港地、母港を持っていたので、なんとか荒波を乗り越えることができたのです。お世話になった方々には、感謝してもしきれません。それから生活の発見会が出している「生活の発見誌」の記事に助けられました。もう35年間も毎月丁寧に読んでいるのです。だいたい2日ぐらいで読み終えています。心に響いた記事はノートに書きだしました。切り抜きをして、項目別に整理してきました。そしてそれらを基にして自分の考えをまとめてきました。ただ読みっぱなしではなく、自分の意見や考えと比較しながら読み込んでいく作業が、今の生き方に反映されてきたと思っています。発見誌を通じて多くの人にお世話になりました。この場を借りて、感謝申し上げます。生活の発見誌をこのように活用するということは、まさにシナジー効果を存分に味わってきたと思うのです。こういう人たちの好影響を受けて、今まで生きてきたのだと感じます。集談会で森田理論を実際の生活に応用している人からは計り知れない好影響を受けました。集談会でそういう人に会えることは無類の喜びでした。愚直に森田道に邁進している姿を目の当たりにできたことは、とても幸運でした。一つのことに真剣に取り組むことは、知らず知らずのうちに、他人に大きな影響を与えるということが分かりました。森田理論学習の世界で、他人の人生を左右するようなかかわり方をしたいものです。これからは好影響を与えられるように精進してゆきたいと考えています。7つの習慣の最後は「刃を研ぐ」です。これについては、明日投稿します。
2021.05.18
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7つの習慣の4番目は、win-winの人間関係を作り上げるということです。人間関係には次の4つがあります。1、自分だけが勝って相手が負ける。2、自分が負けて相手だけが勝つ。3、二人とも負ける。4、二人ともが勝つ。1は自分の力が強くて、相手を自分の意のままに服従させるということです。自分にとっては短期的にみれば、うれしいでしょう。しかし相手にはストレスが残ります。また自分よりも強い人との関係では、今度は自分がストレスにさらされます。こういう人間関係は、絶えず勝つか負けるか、戦いが続きます。他人と仲良くなることはありません。絶えず警戒するようになって疲れます。2番目の場合は、逆パターンです。自信をなくして、オドオドするようになります。3番目の場合は、力関係が拮抗していて、お互いに妥協しない場合に起こります。周囲の人から、あの二人は犬猿の仲だとうわさされるようになると、その人を避けるようになります。夢の中に出てきてうなされるようになります。7つの習慣の中では、4番目の方法を目指して話し合いを心掛けている人は、葛藤や苦悩を抱えることがなくなる。人間2人いれば考えていることはどこかに食い違いが出てきます。たとえば大型連休の時、夫は家族でキャンプに行きたいと妻に持ちかけました。妻は実家の母親の病気で入退院を繰り返しているので、今度の連休は実家に帰り看護をしたいと言いました。お互いが自分の主張を押し通そうとすると、喧嘩になります。それがエスカレートすると、口もききたくない。勝手にしてという気持ちになります。ここで妥協を求めて話し合いをするとどうなるか。妻の実家に行って母親の介護を優先する。さらに家の片付けなどを手伝う。その合間を縫って、妻の実家から近くの釣り堀で釣りを楽しむ。あるいは、比較的近い湖で釣りを楽しむ。露天ぶろや観光地を散策する。このような形で双方が納得すれば、雨降って地が固まるということになります。人間は元々考えていることが異なっており、その溝を埋めていくのが欠かせないと考えて、実行している人は強いということです。神経質性格の人は負けず嫌いな人が多い。征服欲が強いのです。すべての面で相手と争って、相手に勝ちたい。相手の上に立ちたいということです。相手も同じ性格特徴を持っていると、戦いを意識するようになります。営業などで、成績の良い人をライバルとみなして、その人に追いつきたい。なんとかよい成績を出して追い越したいという挑戦の気持ちは、モチュベーションを高めて、「努力即幸福」の体験ができます。ライバルの存在はその人を一段と成長させる側面があるのです。しかし一方で、どうにも勝てないと判断すると、劣等感で苦しむことになります。あるいは、相手を蹴落とすために、足を引っ張ることを考えるようになるかもしれません。負けず嫌いというのは両面性があるということです。負けず嫌いの人がwin-winの人間関係を心掛けるとどうなるか。お互いにライバル心を燃やして切磋琢磨するばかりではなく、それぞれが目指すべき目標を別に設定するようになると思います。たとえば、相手を倒すという目標よりも、全国一の営業成績をたたき出して社長表彰を受けるという目標にすり替えることが起きます。そのために、当面ライバルを追い越すために切磋琢磨しているが、目標は相手を倒すのではなく、二人同時に全国優秀営業マンに名を連ねて、社内で一目置かれるような営業マンになる。そうなれば管理職になって昇進したり、ヘッドハンティングされるようになる。そのためにはお互いに営業ノウハウを開示して、さらに営業テクニックを向上させる。青山学院陸上部の原監督は、自分の練習メニューや指導方法などの多くを他の大学に公開しているという。企業秘密ともいえるノウハウを開示することは、リスクを伴うが、さらに自分たちが成長していくためにはそのやり方の方が有効であるといわれています。この方法は二人とも人間的に成長できます。ライバルでありながら、無二の親友であるという人間関係を築くことができます。明日は人間関係のシナジー効果について投稿します。
2021.05.17
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昨日の続きです。「7つの習慣」の4、5、6は人間関係に関するものです。5番目の習慣は、「まず相手のことを理解してから、自分のことを理解してもらう」というものです。私たちの自助グループの生活の発見会の集談会では、傾聴、受容、共感を心掛けています。どんなにしゃべりたいことがあっても、まず相手の話をよく聞く。相手に8割くらい話してもらって、自分が2割くらい話すくらいの気持ちでやっとバランスがとれて、会話が成り立つと聞いたことがあります。そういう心構えでやっと調和が保たれるということだと思います。話すことばかりに、気を取られていると、肝心なことを聞き逃してしまいます。また自分の「かくあるべし」を相手に押しつけるということにもなります。カーネギーの「人を動かす」という本に、「盗人にも5分の理を認めよ」というのがあります。この言葉をキャッチフレーズとして、しゃべり過ぎないように心がけましょう。相手を理解することに100%エネルギーを集中することです。集談会の自己紹介のとき、順番が来たら何を話そうかと考えている人がいます。そういうことは、集談会に参加する前に家で準備することをお勧めします。また、症状の説明は、あらかじめ整理してまとめておくことです。その原稿を見て話す態勢ができていれば、相手の話に集中できます。受容できない人は、事実、現実、現状を批判、否定することが習慣になっている人です。誰でも自分のことを叱責、非難、否定されると腹が立ちます。人間関係は対立関係に入り、勝つか負けるかの泥沼の状態になりエネルギーを消耗します。「でも」「しかし」「そういわれますが・・・」「一言言わしてもらいますと・・・」「その意見は違うと思います」という言葉が口癖になっている人がいます。相手が話しているのに、相手の発言の途中で口をはさんでしまう人もいます。これらは傍で見ているととても見苦しいことです。こういう人は他人を最初から受容しようという気がないのではないでしょうか。相手に勝つことばかりが優先されているのかもしれません。他人を受容しない人は、自分も受容できないことに通じます。このことを忘れないでください。自分自身で苦の種を作り出しているのです。自分で自分を否定しているのですから、将来にわたり生きづらさを抱えてしまうのです。さらに自分を取り巻いているあらゆることに対して、敵対的であるという傾向が強くなります。森田理論の中心的な考え方の一つが「事実唯真」です。どんなに受け入れがたい事であっても、実際に目の前で起きている事実に対しては、受け入れるしかないという考え方です。事実に対しては完全服従です。これに反旗を翻して、闘う、事実を隠蔽する、ごまかす、捏造することは、ますます葛藤や苦悩を抱えるようになるという考えです。事実を否定することが習慣になっている人は、否定して自分が勝つことが目的になっています。すると事実を正しく把握することができなくなります。事実に対して色眼鏡をかけて見誤ってしまので、間違った対策を立ててしまう。問題の鎮静化どころか、火に油を注ぐような結果となります。正しい課題や目標に向かって、行動するという態勢づくりができていないということです。集談会で共感、受容、傾聴を心掛けているということは、普段の生活の中で、自分、他人、自然などと折り合いをつける生き方を身につけることにつながるのです。集談会ではとても共感などできないという場合もあるかと思います。そういう時は森田理論の形から入るということを思い出してもらいたいと思います。ジェームスの言葉に「人は悲しいから泣くのではない。泣くから悲しくなるのだ」というのがあるそうです。集談会では、とてもこの人の考えには共感できないと思っても、形から入ることをお勧めします。相手の身になって形の上だけでも共感するのです。「大変ですね。つらいですね」と相手に寄り添っていくことです。すると不思議なことですが、時間の経過とともに、心から相手と共鳴しあえる場合があるのです。行動によって感情はどんどん変化していくということだと思います。森田先生は、親の理不尽な言動に反発していても、介護が必要ならばイヤイヤ世話をしているうちに、親と気持ちが通じ合うようになる場合があると言われています。「共感を心掛けよう」と言葉で言っているうちはダメです。共感に向けて一歩を踏み出したその行動が、カギを握っているのです。4と6の習慣については明日の投稿といたします。
2021.05.16
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「7つの習慣」の紹介の続きです。第一番目の習慣として、何事も主体的に取り組むというのがあります。物事に主体的に取り組む習慣をもっている人が、人生の成功者になっているというのです。これは森田先生も同じことを言っています。最初はイヤイヤ仕方なしの行動で構いませんが、そのうち一歩踏み込んで一心不乱になって取り組むことが大切です。では主体的に取り組むためにはどうすればよいのか。事実をよく観察することです。事実をよく見つめていると、問題点や改善点が見えてくることがあります。気づきや発見、アイデアが見つかるのです。興味や関心が高まります。なんとかしたいという感情が生まれて、やる気が高まってきます。これが主体的に取り組むうえでのポイントになります。第2の習慣として、目的と目標を持って取り組むというのがあります。人間は大脳が高度に発達しており、対象に働きかけて、生産的、建設的、創造的に生きていくように宿命づけられた生命体です。宿命に沿って生きていくことが大切です。目標や課題というのは、最初から存在しているものではありません。森田でいう日常茶飯事を丁寧に行い、小さな成功体験を積み重ねることで、しだいに大きな目標や課題が見えてきます。大きな夢や希望を持てた人は幸せです。目標や課題を持つということは、現実、現状、事実を正しく認識し、どんなに問題があってもそれを素直に受け入れるという態度が大切になります。「かくあるべし」を振りかざして、自分や他人を非難、否定しているとその出発点に立つことはできません。昨日から行動面での3つの習慣について説明してきました。4つ目から6つ目の習慣は、人間関係の心構えに関することです。そして7つ目の習慣は、行動面と人間関係の習慣を維持するための心構えです。これらについては明日以降投稿いたします。
2021.05.15
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「7つの習慣」というスティーブン・R・コヴィーの著書がある。古今東西の人生の成功者は、「7つの習慣」を身に着けていたというのである。この本は世界30か国に翻訳されて、累計で1200万部発行されたという。この本には、森田理論で学んだことが数多く含まれていることに気づいた。これを紹介してみたい。なおここから述べることは、この本に述べてあることを、私なりに解釈したものである。コヴィー氏の意見を右から左に紹介したものではないことを断っておきたい。コヴィー氏の7つの習慣とは、主体性を持つ、目的と目標を持つ、最重要事項に取り組む、win-winの人間関係をつくる、相手のことを理解することを優先する、シナジー効果を作り上げる、刃を研ぐということです。一つ一つ見ていきたい。7つの習慣の3番目に、最重要事項を優先するというのがある。人間の行動は、緊急度合いと重要度合いで分類すると次の4つに分かれるという。1、緊急でない・重要でない・・・刺激的、刹那的、享楽的な本能的な行動のことである。2、緊急である・重要ではない・・・自分や家族の生命や財産の安全に関する行動のことである。3、緊急である・重要である・・・日常茶飯事、仕事や勉強にかかわる行動のことである。4、緊急でない・重要である・・・夢や希望、子育てや教育、人間関係の持ち方、今後の政治や経済、自然との共生、自己啓発、人生観の確立、個人や国の自立に向けての行動のことです。1の本能的な快楽主義的な行動は、人間だけではなくすべての生き物に共通するものです。本能を無視すると、生命体として生きながらえることはできません。ただ人間はその事ばかりに執着しているわけではありません。本能的な行動が行き過ぎてしまうと、自分の健康を壊し、人様に迷惑をかけるようになります。暴走しないように抑止力を働かせる必要があります。2は、突発的な問題が発生したときはすぐに緊急出動して対応する必要があります。火事や地震や津波、交通事故やオレオレ詐欺などは素早い対応が求められます。1と2は、習慣化しようと心掛けなくても、自然発生的に行動できている部分ではないでしょうか。特に問題視するほどのことはないと思います。3は、普段の生活のことです。森田理論では規則正しい生活、凡事徹底ということで特に大事にしています。神経症の蟻地獄にはまってしまうと、ここが手抜きになってしまいます。神経症を克服するためには、不安、恐怖、違和感、不快感を持ち抱えたまま、自分の生活を整えていくという態度で生活すると治ってきます。この部分は、森田理論で学習を深めて、実生活に応用しておられる方が多いように思います。この部分は頭で理解しただけでは、葛藤や苦悩は解消できません。学習と行動を一体化して取り組むべき課題となります。4についてですが、コヴィー氏は。世の中で成功した人は、この部分に強い関心を寄せていると言われています。ここがすっぽりと抜け落ちていると、人生で成功を収めることはできないと言われています。私は森田理論学習を進めていくと、当然4番目のことには大いに関心が湧いてくると思っています。この点まで進まないと、森田理論は宝の持ち腐れになってしまうという考えです。神経症を治すための手段に終わってしまう。これではもったいないと思います。森田理論は、すべての人が、自分の持っている技術や能力、可能性を、それぞれの置かれた境遇の中でとことん活かしていく理論です。己の性を尽くし、他人の性を尽くし、自然の性を尽くしていく理論です。つまり、人間の生き方、人間の同士のかかわり方、自然との共存共栄を志向している理論です。その方向から、外れている場合は、修正していくことが私たち人類に課せられた責務となります。欲望を追いかけることは構いませんが、欲望の暴走を放置することは問題です。コヴィー氏が述べておられる、4番目の指摘は、森田理論学習を続けていると、必ず取り組むべき課題として我々の前に立ちはだかってくると考えています。森田道を究めた人は、この方面についての見識が非常に高くなると思っています。
2021.05.14
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プロフェッショナル仕事の流儀に、枕崎の鰹節職人の瀨﨑祐介さん(40歳)が紹介された。この人の仕事に対する取り組み方に感動した。年間56000本の鰹節を作っている。お父さんと従業員4人で「本枯節」という鰹節を作っている。「本枯節」というのは、高級料亭が使う鰹節である。おじいさんと息子の稜空(りく)君も時々手伝っている。この方は4年に一度開催される品評会で最高賞を獲得している。瀨﨑祐介さんの仕事ぶりを一言でいうと、一つ一つの作業をとくかく丁寧に行っている。森田でいう、凡事徹底を貫いておられるのだ。経費や効率面を考えると、無難なところで妥協した方がよいと思えるような事にも、こだわりをもって丁寧に取り組まれていた。そのことで、意地を張り、祖父や父親、従業員からは猛反発を受けて、耐えきれず転職したこともあった。転職先の福岡の会社で、家で作った鰹節を試食してもらったところ、絶大な称賛を受けた。そこで鰹節作りは、やりがいのある仕事なのだと再認識して、家に戻ったという。今では自分の考えややりたいことをきちんと伝えて人間関係も好転している。特に息子の稜空君(13歳)は、お父さんを羨望の目で見ていた。こんなに父親を尊敬している子供がいるのかと驚いた。姉さんかぶりで、時々仕事を手伝っている。カツオの三枚おろしもできるようになっていた。取材に対して、「お父さんの仕事ぶりはかっこいい」と高評価であった。よい跡継ぎになるだろうと思いました。それ以上に、瀨﨑祐介さんの子育てに感心した。鰹節作りは三枚おろしから始まる。相断ち包丁で20秒で裁く。その後熱湯に2時間漬ける。60度から65度だが、温度管理には神経を使う。手を抜くと、割れやギズものになるからだ。その後、ピンセットで骨をすべて取り除く。つぎに、カツオのすり身を使い、表面のキズを埋めていく。先端部分はカツオの皮を張り付ける。これが先端部分の割れを防ぐという。この工程は省いている人が多いところだという。瀨﨑さんは、「手間はかかるし、経費には見合わないが、いいものをつくりたい」とひと手間を惜しまない。その後、燻し作業に入る。焙乾という燻製作業のことです。ここでユニークなのは、モーツァルトのピアノソナタをかけていることだった。そして、発酵を促すためにカビを噴霧器で振りかける。この作業でうまみが凝縮されるという。「本枯れ節」は、ルビーのようなワイン色に輝くようになるという。つぎに天候を見定めて天日干しに移る。これは4か月にわたって何回も繰り返す。最後は回転ヤスリで形を整えて出荷する。どの工程も手を抜かないで、ていねいに得組むことは、私たちの目指していることと同じである。ひと手間を惜しまない取り組みが、他人に感動を与えるのだと思う。
2021.05.13
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加藤光一さんがハワイで水上スキーに挑戦されたそうです。モーターボートに引っ張ってもらい、海上をさっそうと滑る遊びです。私も経験がありますが、見た目と違ってとても難しい。最初はボードを足に装着して海の中に沈んでいます。モーターボートが動き出すと、しだいに海上に浮き出てくる。足をバランスよく突っ張っていないと、うまく立ち上がれない。ここでみんな苦労する。一旦立ち上がれば、水上スキーを楽しめることになります。スピードは40キロぐらいです。次はモーターボートの後ろには大きな波がたちます。その波を乗り越えて右に行ったり、左に行ったりするのが難しい。バランスを失うとすぐに転倒する。下手をするとボードが自分に衝突してけがをすることがある。自由自在にボードあやつり楽しめるようになるまでには、結構時間がかかります。加藤さんはインストラクターを頼んだ。その人の教え方が凄かったという。彼は、初歩的なことが出来ずに何度も同じ失敗を繰り返す私を叱ることもせず、「誰でも最初はそんなものだ。ナイストライ!」「今のは惜しかった。もう一回やればきっとできる」と励まし続けてくれました。やっと体が起こせるようになったものの、姿勢を維持できずにすぐ転んでいたときも「体の起こし方はばっちりだから、今度はもう少し足を突っ張れ!」「今の体の動き方はいいぞ。もう一度だ」と、できた部分を繰り返しほめてくれます。うまくいかないときでも「お前の年齢でこんなに早く体が起こせるようになるやつはいないぞ」「こんなにトライするなんてすごい」と励まし続け、しまいには転んだ時にまで「今のコケ方はよかった」とほめてくれます。そのうちわずかながら、ついに水上に立って滑ることができるようになりました。彼は、「今のはよかった。完璧だったぞ」と言ってくれた。そして笑顔で握手を求めてきた。いつもなら1時間も動き続けていれば休みたくなるところですが、疲れも忘れて「もう1回」「もう1回」と自分から練習に向かっていくことができたのは、きっとほめられ続けていることがポジティブに働いたのだと思います。日本ではミスや失敗をすると、「ドンマイ」(気にするなとか心配するな)といいますが、彼は「ナイストライ」(勇気を持ってよく挑戦した。その態度が素晴らしい)を連発した。(「ほめちぎる教習所」のやる気の育て方 加藤光一 角川書店 44ページより引用)この話は森田理論と関係がありますね。私たちは他人がミスや失敗をすると、あざわらい軽蔑することがあります。そして人のミスを見ると、優越感に浸り、急にやる気が出てくるという人もいます。仕事の場面では叱責、非難、始末書の提出、左遷、降格、退職勧奨へと進みます。相手は取り返しのつかないミスや失敗で意気消沈しているのに、それに追い打ちをかけるようなことを平気でします。この態度は火に油をかけるようなものではないでしょうか。ミスや失敗した人を非難・否定することはよいことは何もないのに、どうしてもその方向に流されてしまいます。これは森田理論でいうと、事実をありのままに認めることができない。理想や完璧という観念の世界にどっぷりと身をおいて、事実を否定する出来事を注意深く監視しているようなものです。そしていったんそういう出来事が発生するとサイレンを鳴らして、突撃しているようなものです。そんな人が全く気づいていないことがあります。そういう事実軽視で他人を攻撃する人は、反対に自分がミスや失敗をしたときは、格好の攻撃材料を相手に提供しているのだということです。今まで相手を追っかけていたのに、反対に相手から追い回されるようになる。すぐに立場は逆転するということがよく分かっていないのです。事実を軽視する人は、生活態度が常に防衛的になります。建設的、生産的、創造的な方面に投入すべきエネルギーを自己防衛に投入せざるを得なくなるのです。もったいないというか、その努力はむなしくなります。そして無気力になります。最後には、ミスや失敗を恐れて積極的な行動ができなくなります。また、ちょっとしたミスでも隠すようになります。ごまかすようになります。他人に責任転嫁するようになります。「かくあるべし」を前面に押し出して、他人を非難・否定を繰り返す人は後悔の多い人生を送ることになります。人間に生まれたことを怨むようになると思います。
2021.05.12
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5月号の生活の発見誌によると、毎年全国で、約5000人の学校の先生が精神疾患で休職されているという。集談会にも現役の先生や先生の経験者の方の参加があります。生徒や保護者とのトラブル、学級崩壊、教育委員会の軋轢などの話が出ます。職場の人間関係や校長や教頭との軋轢に苦しんでいる人もいる。5月号では、これらの問題への対応策が明確に示されているので困っている人は読んでほしい。ここでは視点を変えて、森田先生の言葉を紹介してみたい。教育の弊は、人をして実際を離れて徒らに空論家たらしむるにありこの言葉は教育とは何かという問題に対して、森田先生なりの方向性を打ち出されています。森田先生は、学校教育はあまりにも観念的で、実際的でないというのが問題であるといわれています。事実軽視に陥っていると警告されています。先人の知恵を伝承していくこと自体はとても大切なことです。ただ現実的というよりは、観念的、理想的、理論的な教育が中心になっているのは如何なものかと問題提起されているのだと思います。さて、先生という職業は、教えることが先行して、上から下目線での対応になりやすいという特徴があります。自分では意識していなくても、人を教育しようとすると、どうしても上下の人間関係に陥りやすい。対等な人間関係が成り立ちにくいということです。森田理論でいう「かくあるべし」が前面に出でしまうということです。それが昂じると、驕りや慢心が芽生えてくることになります。そして、生徒と先生が対立関係に陥りやすいということです。現在は生徒と保護者が一体となって先生に対峙しているので、先生も辛いのだと思う。それでなくても先生はまじめにコツコツ勉強してきた人が多く、対人関係のコツを会得している人は少ない。リーターシップを発揮して、組織をまとめ上げるという経験をしていない人が多い。むしろその方面は苦手な人が多いのではないか。精神疾患を抱えて休職者が多いというのも理解できます。私は学校教育で特に問題なのは、学期末に行われる期末テストにあると思う。さらに進学するための入学試験である。本来のテストの目的は、先生が教えたことが、生徒によく理解されていたかどうかを見極めるために行うものではないのかと思うのです。その結果に基づいて、生徒の理解が不十分なら、再度同じところを繰り返す必要があります。その参考のため理解度テストをするのは分かる。ところが今やテストの本来の目的を忘れて、本末転倒になっている。生徒の記憶力や能力の選別や差別化に利用されている。生徒の記憶力や理解度の違いに対して評価を下すことを目的にしているのである。勉強のできる人とできない人の序列をつける。中には成績順を公開する。高評価して持ち上げる人と見捨てる人の選別を行っているのです。高評価されれば自尊心が刺激されて気持ちがよいでしょう。でもその結果、見捨てられた生徒はやり切れませんね。どこかにストレスのはけ口を求めて暴走することになります。そうしないと生きているという実感が持てなくなるからです。さらに、下手をすると、成績に基づいて生徒の人格判定までしてしまう。何もやってもダメな人間として人格否定をしてしまうのです。さらに保護者の家庭教育の評価にまで結びつけてしまう。こうなりますと、保護者と先生は敵対するようになると思います。免疫力のない先生が、その対立のはざまで精神的に追い詰められてしまうのかもしれません。これは、先生にその気がなくても、教育制度そのものが内包している問題であると思う。本来の教育は、一人一人の人間の個性や能力を見極めて、それを引き出し、さらに大きく成長させることにあると思います。そのためには先生が生徒をよく観察することが肝心です。つまり観念優先の態度を改めて、生徒の目線に立った教育を目指す必要があります。そういう視点に立つと、生徒と先生の人間関係がよくなると思います。また個々の生徒の自立に向けて先生の果たすべき役割が明確になるのではないでしょうか。今の教育制度で身動きできない中では、難しい課題かもしれませんが、自分のストレスをなくして、先生という職業を全うするためには大切な視点だと思います。
2021.05.11
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「動物学校」というリブズ博士の書いたおとぎ話があります。昔々、動物たちは、新しい世界の様々な社会問題を解決するために、何かしなければならないと考えて、学校を設立することにした。科目は、かけっこ、木登り、水泳、飛行であった。学校を円滑に運営するために、すべての動物にこれら4科目の履修が義務付けられた。アヒルは、水泳の成績は優秀だった。先生よりもうまかった。飛行もいい成績だったが、かけっこは苦手だった。それを補うために、放課後居残りをさせられた。やがて、足の水かきがすり減り、水泳も平凡な成績に落ちた。しかし、学校は平均的な成績でいいとされていたので、アヒル本人以外は、誰もこのことを気にかけなかった。ウサギは、かけっこにかけては最初から優等生だったが、水泳が苦手で居残り授業ばかりさせられているうちに、神経衰弱を起こしてしまった。リスは木登りは上手だったが、飛行の授業では、木の上からではなく、どうしても地上から飛べと先生に強制され、ストレスがたまる一方だった。疲労困憊の末、肉離れを起こし、やがて木登りもⅭ、かけっこもⅮにまで落ちた。ワシは問題児で、厳しく更生する必要があった。木登りの授業では、いつも一番早く木の上に到着したが、先生の指示する方法にどうしても従おうとしなかった。結局、学年末には、泳ぎが得意でかけっこもまあまあ、木登りも飛行もそこそこという少々風変わりなウサギが、一番高い平均点を獲得して卒業生代表に選ばれた。学校が穴掘りを授業に取り入れてくれなかったことを理由に、モグラたちは登校拒否し、その親たちは税金を納めることに反対した。そして子供を穴グマのところに修行に出すと、後はタヌキたちと一緒に私立学校を設立し成功を収めた。(7つの習慣 スティーブン・R・コヴィー キングベア出版 417ページより引用)自分の長所や強みを伸ばすことに焦点を当てないで、欠点や弱みを人並みに引き上げようとしていると、元々持っていた自分の長所や強みは、しだいに精彩を欠いていくという話である。私は高校時代、生物と倫理と古文だけは成績が良かった。10段階評価でいずれも9だった。しかしこれらは受験科目で特別重要視されているのではなかった。特に私立大学の場合は、試験科目にはなかった。みんなが見向きもしない授業に格別な興味を抱いていたのである。特に倫理は古今東西の偉人の哲学が面白かった。ところが受験科目に指定されていた化学、物理、世界史はさっぱりだった。化学に至っては、赤点でレポートを提出して何とか単位を得るありさまだった。高校は単位の取得は、選択制ではなく、すべての教科で基準点をクリアすることが求められた。この点は、「動物の学校」と同じであった。いろんな経験をして今思う事は、いろんな教科をまんべんなく学ぶことはよい事だと思う。しかし平均的な人間として教育された人が、自信をつけて、職業人として、人間として大きく成長して行けるかというとこれは疑問であると思う。医者でも、弁護士でも、ファィナンシャルプランナーでも一般的な最低限の知識は必要である。ところが、一般的な知識だけでは人様に役に立つような仕事をすることはできない。自分の専門分野を決めて、一層の研究や経験を重ねていかないと人から信頼されることはない。資格を取得した後が問題になるのだ。たとえば、ファイナンシャルプランナーであるが、一般的知識としては、金融資産運用設計、不動産運用設計、ライフ・リタイヤメントプランニング、リスクと保険、タックスプランニング、相続・事業承継の分野がある。それぞれの分野のすべてに合格して、初めてファイナンシャルプランナーという名称を使用することが許される。特にCFPという資格を取得すのはたやすい事ではない。しかし、資格を獲っただけでは開業しても飯は食っていけない。ここがまさに出発点になるのである。私のように資格を獲った段階で満足していては、その資格はまさに「死格」となってしまう。優秀なファイナンシャルプランナーは、専門分野については、他を寄せ付けない知識や経験を積み重ねているのである。専門分野については、問題解決の高度なノウハウを持っている。さらに、関連各所との強力なネットワークを作り上げている。例えば金融資産運用設計では、証券アナリスト、金融関係の様々な資格も持っている。不動産運用設計では、宅地建物取引主任者、不動産鑑定士などの資格も持っている。タックスや相続税については税理士や公認会計士の資格を持っている。つまり一般的な知識を身につけた上で、専門分野に特化して、どんどん深堀しているのです。自分の専門分野については、どんな難しい案件が持ち込まれても解決に導いてくれる。自分の長所や強みをどんどん磨いて、その地域で絶大な信頼を得ているのである。これらのことから言えるのは、すべての分野で一流である必要はないということです。そのようなことに取り組む必要もない。唯一資格取得の受験校の講師として役立つくらいである。それよりも、一つの分野に特化して技なり技術を磨き上げていくことが極めて大切になるということです。ですから、苦手な分野を普通のレベルに引き上げることに力を入れるよりも、自分の長所や強み、興味のある分野に最大限のエネルギーを投入した方が、自他ともにハッピーになるということなのです。自分の苦手な部分は、他の人に花を持たせるくらいの気持ちを持ち合わせるとちょうどよいくらいだ。
2021.05.10
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こどもの教育相談の昌子武司さんのお話です。広一君のお母さんから聞いた話です。ある日、広一君の家にとなりの芳夫君のお母さんが苦情を言いに来ました。広一君が芳夫君とけんかをして、けがをさせたというのです。芳夫君の頭にはコブができて、血がにじんでいました。芳夫君の言うところによると、広一君は芳夫君にかなわないと思ったのか、石を持ってぶったというのです。広一君のお母さんはすっかり逆上してしまいました。すぐに広一君を玄関に呼んで、芳夫君にあやまらせようとしました。ところが、普段はすなおな広一君なのに、その時だけは、「だって・・・」といって、謝ろうとしません。「だっても何もないでしょ。あやまりなさい」お母さんは、いやがる広一君をおさえつけるようにして、あやまらせたそうです。もちろん芳夫君親子が帰ったあとも、クドクドとお説教したのはいうまでもありません。それでも、その日のことは一応それでおさまりました。それから何日かたってからです。夕ごはんを食べながらおしゃべりをしているとき、何かのきっかけで広一君が話しはじめました。「芳夫君はひどいんだよ」「どうして」「だって、ユーちゃん(弟)に草を食べさせたんだよ」「ええ、どうして」広一君はトギレトギレに次のようなことを話したそうです。広一君一家は半年ほど前に、いなかから越してきたばかりでした。芳夫君と広一君兄弟が遊んでいるとき、芳夫君は「お前はいなかからきたから、草が食べられるはずだ」といって、小さな弟の口に草をつっこんだのです。弟が泣き出したので、広一君は「やめろ」と何度もいったのだけれども、芳夫君はいっこうにやめようとしなかった。それで腹をたてた広一君が、そばにあった石を取って、芳夫君の頭を叩いたというのです。お母さんは、先日の自分のしかり方を思い出して、ゾッとしたといいます。まさか、こんな事情があるとは思わないで、いちずに広一君が悪いときめつけて、無理やりにしかりつけた自分のやり方が、広一君をどれくらい傷つけたかを思うとたまらない気がした、と言います。いつもすなおな広一君が、なかなかあやまろうとしなかった理由もよく分かったので、その場で、「ごめんね」とあやまったそうです。もしこのような対応を、2度3度と起こすと、子供はひどく傷つくことになるでしょう。そしてひねくれものになって反抗的な子供になるか、ウソをつく子供になるに違いありません。(逆効果の心理 昌子武司 あすなろ書房 117ページより要旨引用)この話は森田理論学習をしている人に参考になります。真実を調べないで、表面的な出来事に基づいて、相手を非難・否定してしまうことがどんなに問題を複雑にし大きくしてしまうかということです。先入観、決めつけ、レッテル張りで価値判断をする人は、自他ともに、とてもつらい人生を送ることになります。事実を認めない人は、非難、否定、叱責、脅迫、指示、命令の天才ですね。そういう人は犬も食わない人柄を持ち合わせています。誰でも他人から敬遠されるような人間にはなりたくないでしょう。森田理論は、「観念優先の態度を事実本位に切り替えなさい」と教えてくれました。生きる喜びを味わいたい人は、「かくあるべし」という態度を改めて、事実に素直に従うことですぐに変身できます。デール・カーネギーは、名著「人を動かす」という本の最初の部分で「盗人にも5分の理をみとめよ」と言いました。どんなに凶悪犯であっても、まず相手の言い分を十分に聞いた後で、対応策を議論しないと大変な間違いを犯すことになると警告しています。これをキャッチフレーズとして、事実本位の獲得を目指していくことをお勧めしたいと思います。
2021.05.09
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私たちの身体は、絶えずがん細胞やウィルスなどの攻撃にさらされています。がん細胞は毎日3000個程度はできていると言われています。しかし一般的にはすべての人が、がんを発症しているわけではありません。またコロナウィルスに感染しても、コロナウィルスで命を落とす人もごくわずかです。それは、これらの外敵に対して、きちんと免疫システムが働いているからです。それらの外敵との戦いに勝った人が、命を落とさないで、生命の維持が可能になっています。重大な疾患をもっている人は免疫機能が万全ではありません。薬物療法、放射線、抗がん剤、手術などで、免疫機能が低下してしまうと、簡単に命を落としてしまうこともあります。免疫機能はどのように働いているのでしょうか。簡単にみておきたいと思います。がん細胞ができ、ウィルスなどの病原体が、体内に侵入してしまうと、白血球の好中球やマクロファージなどの免疫細胞が出撃します。マクロファージは、直接病原体を飲み込んで死滅させます。それと同時に、敵の情報をヘルパーT細胞に伝達します。ヘルパーT細胞は、危機管理センター、参謀本部のようなものです。ヘルパーT細胞は、キラーT細胞やナチュナルキラー細胞に出撃命令を出します。敵に対して本格的に戦いを挑んでいるのは、キラーT細胞やナチュナルキラー細胞です。軍隊でいえば、陸、海、空軍の実働部隊です。さらに、ヘルパーT細胞は、B細胞にそのウィルスに対する抗体を作るように指示を出します。B細胞は抗体生産細胞に対して有効な抗体を作り上げるように指示を出しています。再びウィルスが勢力を盛り返したときには、その抗体が出撃しているのです。緊張感を高めて、情報の収集、軍備の増強を図り万全の体制を作っているのです。これらが人間の体の中で毎日のように繰り返されているのです。毎日3000個のがん細胞が生まれていても、免疫細胞が掃討作戦で勝利しているおかげで、私たちの健康は維持できているのです。この免疫細胞がきちんと働いてくれるように、私たち自身がバックアップする必要があります。それはバランスのとれた食生活を維持すること。適度な運動を続けること。人間関係のストレスを軽減すること。薬物などの異物を、なるべく体内に取り入れないようにすること。そして、毎日緊張感のある生活を維持して、精神的に張りのある生活を維持していくこと。森田理論で学んだことばかりです。これらを怠ると免疫機能が、低下して、ウィルスなどの外敵やがん細胞に対して敗北することも起こり得ます。つまり死んでしまうということです。この視点から日本の国防を見た場合背筋が寒くなるばかりです。中国はどんどん軍備を増強しています。あと20年経つと質と量でアメリカを上回ると言われています。日本は国防についての自助努力をほぼ放棄しています。アメリカの助けを借りて日本の安全を守ろうという安易な考えが強い。自立して国民の生命と国土を守り抜くという姿勢が全く感じられない。アメリカと中国の力関係が逆転した時、日本は今までのような生活を維持できるのでしょうか。中国に物心両面で完全に征服されてしまうのが、近い将来の事実です。そして最終的にはチベットやモンゴルのような人権破壊が日常茶飯事に起きてしまうのではないでしょうか。子どもや孫たちにとんでもない未来を押し付けるようなことになるのです。こうしてみると生き抜くことは、命を賭けた戦いであるというのが事実です。
2021.05.08
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サケは孵化した後1~2年で海に出るそうだ。夏は北のほうに移動する。冬は少し南の方へ移る。海で1年生活した後、産卵のために、再び生まれた川に回帰するという。これを母川回帰という。実に不思議な現象だ。一旦生まれ故郷を離れたのだから、どこの川で産卵してもよさそうだが、必ず生まれ故郷の川を目指す。私は退屈な田舎が嫌で、中学生の頃から都会暮らしにあこがれていた。特に農業をすることが嫌だった。田舎は刺激に乏しく楽しみがほとんどないと思っていた。また蛇が出てくるのが嫌だった。さらに隣近所の視線を強く感じていた。高校を卒業するとすぐに東京に出た。北区田端、大塚、小田急沿線の生田で暮らした。その後、仕事の関係で仙台、福岡、岡山などで暮らした。父親が早く亡くなり、農業を手伝う必要が出てきたため、30代で広島にUターンした。と言っても田舎に帰ったのではなく、マンションを購入して都会暮らしを選んだ。やはり都会暮らしの方が刺激があり暮らしやすいと思っていたのである。最近は心境の変化が起きた。サケが生まれ故郷を目指すような気持が湧き上がるようになってきたのだ。実際には井戸が枯れて住めるような状態にはないのですが、春から秋にかけては週に1回は帰省する。60キロ離れているが、マンションにいる時よりもやることが沢山ある。家の掃除。家の中に風を通す。墓の手入れをする。田んぼの草を刈る。車の洗車をする。近所の人との交流を楽しみにしている。同窓生との話も楽しみだ。家庭菜園、草花、庭木、果樹の水やりや手入れをする。たけのこ堀も楽しみだ。騒音を気にすることもなく、サックス、カラオケ、一人一芸の練習ができる。近所の道の駅やそば打ち体験をする。季節の花が咲き乱れる風景を楽しんでいる。近くの景勝地や花街道で売り出している農園、果樹園に行く。田舎では広報誌などを見ていると様々な人がいろいろと珍しいことをしている。訪ねていくと喜んでいろんなことを教えて下さいます。特に野菜つくり、加工食品作り、燻製作り、ピザの作り方、風車、水車、竹細工などを教えてもらった。草刈り機や管理機などの農機具の手入れも聞いた方が早い。できたての野菜や卵、野菜の苗をいただくこともあります。時々人を呼んでバーベキューをする。田舎の夏は涼しいので昼過ぎからは昼寝をする。石川啄木の歌に「かくかくに 渋民村は恋しかり 思い出の山 思い出の川」というのがある。私の心境も同じです。あれ程毛嫌いしていたのに、故郷のよさに目覚めてしまったのである。自給自足を中心とした森田実践ができるのも田舎があればこそだと思う。これを大いに活用して、生活を精いっぱい楽しみたいと考えるようになった。「人生の楽園」というテレビ番組に出てくる人たちは、田舎暮らしを満喫している人が多い。みんなそれぞれ活き活きと生活されている。そういう人たちの情報を得て、さらに楽しみを増やしていきたいものです。
2021.05.07
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これは、鉛筆書きの似顔絵です。実にうまいものですね。公民館の似顔絵教室の作品です。さて、神経質性格の人は好奇心が強いという特徴を持っておられると思います。5月号の生活の発見誌を拝見すると、実に多くの趣味や特技が紹介されている。生涯森田への取り組みはもちろんのこと、それ以外には腹話術、絵画、傾聴ボランティア、自分史作成、作曲、ハーモニカ、電子ピアノ、吉田松陰の研究、歴史研究、読書、二胡という中国楽器の演奏、琴、茶道、イタリア歌曲、イタリア語、ボランティア活動、登山、ブログ作成、ウクレレ、写経、スマホの活用術、犬などのペットを飼うなど多彩な趣味や特技が紹介されている。それ以外にも、日本百名山登頂、模型飛行機の操縦、ドローンの操縦、トライアスロンへの挑戦、一人一芸、日曜大工、家庭菜園への取り組み、創作料理、加工食品、海外旅行、ピアノ、フルート、エレキギター、シンセサイザー、バイオリンへの挑戦、陶芸、鮎釣り、海釣、日本舞踊、手品、フラダンス、カラオケ、神楽、社交ダンス、似顔絵、絵画、水彩画、絵手紙、書道、俳句、川柳、コーラス、大正琴、三味線、太鼓、篠笛、オカリナ、尺八、詩吟、民謡、語学、手芸、着付け、茶道、卓球、ヨガ、バトミントン、ハイキング、ソフトボール、ゴルフ、バレーボール、ゲートボールなどがあります。ちなみに私は、ドジョウ掬い、しば天踊り、皿回し、けん玉、腹話術、浪曲奇術、獅子舞、アルトサックス、チンドン演奏による慰問活動、カラオケ、読書、ブログ、競馬、麻雀、ハイキング、家庭菜園、加工食品作り、花つくりなどの趣味があります。以前はトライアスロン、チヌ釣、スキー、テニス、資格試験への挑戦などに凝っていた時期がありました。趣味を持っていると、神経症のつらさは和らぎます。目標を持っていると、森田理論の生の欲望の発揮に向かうことになります。同好の人間関係は利害関係で衝突しないので楽しいことが多いようです。人生を大いに楽しむことができます。神経症で苦しい時ほど、意識して趣味を見つけましょう。地元の公民館に行けばいくらでも見つかります。そんな公民館が私の住んでいる市内に100か所くらいあります。
2021.05.06
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本日長らく更新が滞っておりました、「森田理論学習のすすめ方」というホームページに手を入れました。生活の発見会や私のブログにすぐにアクセスできるようになっています。このホームページは、本を見て一から作り上げたものです。1か月くらいかかりました。特にリンクを貼ったり、ページを自由に飛ぶのが難しかったです。写真や地図を挿入するのは簡単でした。まだまだ改善点は多いのですが、私の能力ではこれで精一杯のところです。一度試しに見てみてください。簡単なものでしたら、エクセルで一から立ち上げ可能です。これ以外には、商工会議所主催のパソコン教室に通って「パワーポイント」をほぼ完全にマスターしました。結婚式や葬式、同窓会の時に思い出の写真や動画が流されることがありますね。これはほとんどパワーポイントで製作可能なものばかりです。実際に中学の同窓会で、古い思い出の写真を加工してスクリーンに投影しましたが、中には感激して泣き出す人もいました。音楽、動画、アニメーション、矢印や強調ポイント、字が飛んでくる加工などの編集は自由自在にできます。このアニメーションの活用法がいろいろありまして、とても面白い。色も鮮やかです。映画で字幕が流れるシーがありますが、これも簡単にできます。写真は古いものでも、簡単にパソコンに取り込めます。これを利用して、私の森田の体験発表を行っていますが、反響はとても大きいものがあります。映像、音楽、アニメーションを駆使した体験発表はやる方も見るほうも楽しいものです。森田理論学習は楽しみながらやりたいですからね。それから先日you tubeデビューしました。チンドン屋の演奏とカラオケを歌っているシーンです。友だちがこの方面に詳しくて、終わった後30分くらいで世界中に向かって発信されていました。こんな楽しみ方もあるかとびっくりしました。
2021.05.05
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この連休中に田舎で森田の「事実本位」に関する貴重な体験をした。今日はその話を投稿したい。私は田舎に1町歩の田んぼを持っている。この田んぼは長らく小作に出していた。その方が昨年度で小作契約を解除したいと言われた。昨年の夏の頃の話だった。その理由は、ある田んぼの水はけが悪く、コンバインがめりこんで立ち往生するので、作業効率が悪いからということだった。事実この田んぼは5年に1回くらいしか作付けされていなかった。その話を聞くと、妙に納得できる話だった。そこで新たな引き受け手を見つける必要があった。なにしろ、トラクター、田植え機、コンバイン、乾燥機を持っていないのだ。それらを全部取りそろえると、700万から1000万円の投資となる。幸い、地域には営農組合集団があり、依頼するとすぐに引き受けてもらえることになった。営農組合の人も、水はけが悪く、ぬかるむ田んぼが含まれていることは十分知っていた。私は、この田んぼは、今までと同様耕作放棄地にされるのではないかと予想していた。営農組合の人は、引き受けるからには当然作付けしますという。私は驚いた。しかし水はけの悪い状態のままで作付けすることは、作業効率の面でおおいに問題がある。作付けしないほうがよかったという結果になることが目に見えている。あるメンバーは、早速水はけの悪い原因究明に取り掛かるということだった。湧水が湧いてくるのか、地盤に問題があるのか、高低に問題があるのか、今の段階ではよく分からない。あらゆる面から検討して対策を打つといわれた。頼もしく感じた。そして試行錯誤の上で一つの仮説を立てられた。たまった水の逃げ道を作ればぬかるむことがなくなるのではないかという話だった。その仮説を基にして、冬から春先にかけてユンボーという機械を使って田んぼの端に40mくらいの溝をつくられた。田んぼにたまった水を、いったんその溝に集めて排水してみるといわれるのだ。その結果を見て、もしうまくいかなければ、暗渠排水も考えてみるということだった。私は以前の受託者と今度の受託者の違いをまざまざと見ることとなった。それは森田理論の事実をどう取り扱うかということと大いに関係することだった。両者とも水はけが悪く、ぬかるむ田んぼがあることは認めている。問題はその先だ。以前の受託者はその事実を受けいれることができなかったのだ。その事実に向き合うことをしないで、始末の悪い、いわば敵とみなしていたのです。毛嫌いして無視しようとした。つまり事実を否定していたということです。長らく敵対関係にあったのです。その結果5年間も耕作放棄地にしていた。そのうちチェーンソーで切り取らないと取り除けないような草木が生えてきた。事実を無視して、戦いを挑むようになると、こういう結果になるという見本のようなものです。これから考えられることは、家族、友人、親戚、仕事などの人間関係にも同様の対応をされているのではないかと思われます。一方、営農組合の人は、水はけが悪く、ぬかるむ田んぼに対して敵対していない。ぬかるむ田んぼを上から下目線で否定していないのです。両者の関係が事実という面において対等な関係にあるのです。決して「かくあるべし」でぬかるむ田んぼを悪者と決めつけていないのです。先入観や思い込みで是非善悪の価値判断をしていない。事実を事実のままに見ているということです。森田でいう事実本位の態度が出来上がっているということです。こういう関係を築いている人は、家族、友人、親戚、仕事などの人間関係にも好影響を与えていると思います。また、この態度は次の建設的、生産的、創造的な行動へつながります。水はけの悪い田んぼ、ぬかるむ田んぼをどうすけば、解消できるかという出発点に立つことができるということです。この出発点に立てるかどうかが、その後の展開を大きく左右します。一方事実をどうにも始末の悪いものだと決めつけて敵対関係に入った場合はどうでしょうか。次から次へと問題点が発生してきます。最後には破れかぶれとなって、自滅してしまう方向に向かいますね。この差は実に大きいと思います。また人間としての器の大きさの違いを感じます。事実を観念でいい悪いと価値判断しない。事実をそのままに認めるという態度を身につけたとき、その人の下降人生は、上昇人生へと逆転してくるということが実感として分かります。森田の達人というのは、この態度を身につけた人だと思っています。森田理論学習と応用によって誰でも身につけることが可能になります。
2021.05.05
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5月号の生活の発見誌に、水谷啓二先生の言葉の紹介があります。自己改造の努力をやめたとき、自己改造が実現した。今日はこの言葉の意味を考えてみたいと思います。神経質性格者は、小さなことにビクビクオドオドして、不安にとらわれる自分が受け入れられないのだと思います。そこで、性格改造を画策するようになるのです。発揚性気質の人、外向的で陽気で明るい人、社交的な人、交渉力のある人、リーダーシップのある人、小さなことは気にもとめない人、考える前に手や足が動いている人などを目標にしています。神経質性格者は、生の欲望が強く、負けず嫌いの面がありますので、挑戦することになるのです。またこれは自分の努力次第で実現可能だと信じて疑いません。性格というのは、他人が自分の言動を見て、あの人は社交的な人だと判断していることなので、表面的にはある程度可能になります。しかし、根本的に神経質性格を発揚性気質に入れ替えてしまうことは不可能だと思われます。持って生まれた神経質性格は、一生涯変わることはないと考えることが正解に近いと思います。神経質性格をきれいさっぱり無くしてしまうことは、ほぼ不可能だと思います。それに挑戦することは、実現不可能なことに無駄なエネルギーやお金を投入することになります。ではそのまま泣き寝入りするのか。そうではありません。もともと持っている神経質性格の分析をして洞察力を深めることが肝心です。私たちは神経質性格のマイナス面ばかりを取り上げて、悲観してきたわけです。どんな性格もプラス面とマイナス面が同じ割合で入り混じっています。マイナス面ばかりを取り上げて、否定しているとバランスが崩れてしまいます。ですから、マイナス面はそのままにして、プラス面に光をあてて、調和を目指す作業に取り組むことが肝心です。神経質性格者は豊かな感性を持っている。好奇心が旺盛である。生の欲望が強い。分析力がある。真面目で努力家である。責任感が強い。創造性がある。このような優れた面が沢山あります。自分がもともと持っているものを改めて再評価する必要があるのです。これは森田理論学習の「神経質の性格特徴」の学習で明らかになります。つぎにこれらを仕事や生活の中でどう生かしていくのか考える必要があります。これは集談会に参加することで、そのヒントはいくらでも見つかると思います。この段階に至りますと、自己改造を目指す意味はなくなります。元々持っている自分の優れた面を再評価して、それを最大限に活用することを考えるだけのことですから無理がなく、自然ではありませんか。その路線にのって生活を送ることは、人生が実り豊かになります。つまり無理なく自己改造が実現するということになります。
2021.05.04
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私たちは、森田理論学習によって、「かくあるべし」を自分や他人に押し付ける態度は、不幸に向かってまっしぐらといった状態であると学びました。「かくあるべし」という観念中心の生き方を、事実を中心とした生き方に転換することによって、苦悩や葛藤はほぼなくなることが理解できました。さらに、事実に立脚した生き方は、問題点や課題、目的や目標、夢や希望に向かう出発点になることが分かりました。この事実本位という生き方は、普遍性があり、人類の幸せにする理論です。しかし言葉ではよく分かっているのですが、実行は難しいというのが本音です。この方向性を阻んでいるのは何か。換言すれば「思い込み、思い違い、思い上がり」という生活態度です。自分のやり方や考えは常に正しいという思い込み。他人はいつも間違いを起こしている。他人の考えていることは間違いだらけであるという思い違い。他人は、自分の正しいやり方や考え方を学んで、やり方や考え方を改める必要があるという思い上がり。あなたの周りにこのような人はいませんか。自分では自覚がなくても、実際はその通りという人は多いように思います。どうしてそのようなことになるのでしょうか。観念優先という態度があまりにも強すぎるからではないでしょうか。事実を観察しない。事実を確かめない。事実を軽視する。都合の悪い事実は隠蔽する。事実を捻じ曲げて新たな事実を捏造する。先入観で物事を判断する。自分の考えに固執する。聞く耳を持たない。風評や他人の話をそのまま鵜呑みにする。他人を自分の意のままに操りたいという気持ちが強い。自分で動いて真偽のほどを確認しないで、今までの経験を基にして観念の世界で是非善悪の価値判定を行う。そして他人を自分の都合に合わせてコントロールしようとする。こういう人はつねに観念と事実の間に溝ができます。その溝を埋めるために、他人と戦いを始めることになります。他人を敵として認識しているわけです。勝つか負けるかが唯一生きる目的になってしまうのです。人間本来の生の欲望に向かう生き方とは無縁となります。森田理論では、面倒でも事実確認、事実観察を怠ってはならないといいます。先入観や決めつけ、レッテル張りなどはもってのほかです。そして人間が2人いると、必ず見解の相違があるものだという前提に立っています。その思いを出し合い、溝を埋めるために話し合いをする。妥協点を見つける努力をする。あくまでも事実を出発点として、課題や目標を見定めて生活する態度を身につけましょうと言っているわけです。事実唯真を口でいうのは簡単です。意識して取り組まないと身につきません。森田理論学習は、事実唯真を生活の中に取り入れて習慣化することを目指しているのです。
2021.05.03
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中里良一さんのお話です。私が尊敬するある会社の社長は、「欠点とは四角形でも三角形でも「カド」の部分、長所とは「辺」の部分をいう。ほとんどの人は欠点を直すために「カド」の部分を丸く削り落としていくが、それによって長所である「辺」の部分もいっしょに削ってしまい、どんどん小さな器になってしまう」と話してくれた。「カド」を削らず、長所である「辺」を伸ばしていけば、いずれは小さな欠点などは見えなくなってしまい、器も大きくなっていくものである。だから、「カド」がとれて丸くなった人よりも、欠点はあるけれども「辺」が長い人が好きだ。社員の面接の時も、学校の成績がオール5の人よりも、通知表に1から5までバラエティに富んでいる方が魅力的に感じる。こじんまりとまとまっているよりも、たとえ欠点があっても何か飛び抜けた特徴を持っている人の方が、話をしていて私も学ぶべき点が多い。(負けるな町工場 中里良一 日刊工業新聞社 124ページ)中里さんは、欠点や弱みのない人間は魅力を感じないといわれています。欠点や弱みが大きい人は、その裏にとてつもない長所や強みを持っているに違いないと信じておられるようです。この考え方は、森田理論のこの世の中は調和によって成り立っているという理論と合致しています。普通は、人と比較して、自分の欠点や弱みに気が付くと修正しようとします。その差がありすぎると、ひがんでしまう。相手の足を引っ張ることを考える。あるいは、相手に軽蔑されないように隠蔽工作を図る。ごまかしてなかったものにしようとする。そして注意や意識が自分の持っている欠点や弱みばかりに向いてしまうことになります。この考え方に取りつかれてしまうと、人生に希望は持てません。どうすれば希望が持てるようになるのか。欠点や弱みがあるということは、それに比例して長所や強みもあるはずだと信じる事です。どうしようもない欠点や弱みがあるということは、とてつもない長所や強みがあるはずだと無条件に信じる事です。その二つが同じ程度あることで、存在することが許されていると信じる事です。そして自分の長所や強みを見つけ出すことに注意を払いましょう。長所や強みは、欠点や弱みと思っていたことの中にも存在しています。小さなことにクヨクヨと悩むとい神経質性格は、自分の最大の欠点や弱みと考えていた人も多いと思います。しかし、森田理論学習で「神経質の性格特徴」を学習したおかげで、これは類まれな素晴らしい長所や強みを兼ね備えた性格であったと認識を新たにされた方も多いと思います。このことに気づいたら、次に手をつける事は、欠点や弱みの修正はほどほどにして、長所や強みの活用法を考えて実行に移すことです。例えば、神経質性格は小さなことが気になる性格ですから、この気づきを忘れないようにすぐにメモする。そして小さなことをおろそかにしないで、丁寧に取り扱う。「大きなことはできませんが、小さなことからコツコツと」いう西川きよしさんの言葉通りです。これだけのことを1か月、2か月、3か月と続けて行けば、それだけで類まれな素晴らしい人間に変身できるということになります。自信とやる気が出てくると、欠点や弱みは恐れをなして後ずさりを開始するようになるのです。欠点や弱みは、私の愛嬌と笑い飛ばせる人間に変身できるかもしれないのです。それは紛れもなく、まるごとの自分を、受け入れることができたということです。この世に生まれてきてよかったという気持ちになれるはずです。それを応援し、バックアップしてくれているのが森田理論学習なのです。
2021.05.02
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森田理論学習の中で、「理論と行動」は車の両輪のようなものだといわれます。よくありがちなのは、森田理論にはとても詳しいが、行動面は見るべき点がないという人です。たとえば、規則正しい生活、凡事徹底、生の欲望の発揮、変化への対応、物の性を尽くす、事実本位などへの取り組みに注意が向いていない人です。理論の車輪が大きくなり、行動の車輪は小さいままですと、その車輪を転がしますとまっすぐに進むことができなくなります。横道にそれてしまう。あるいは、行動の車輪の周りを理論の車輪が回り続けるということになります。理論が小さい時は、行動の車輪も小さくてかまいません。森田理論の理解度が高まれば、それに対応した行動・実践力が欠かせないということになります。さて、森田理論全体を俯瞰したとき、車の両輪にあたるものは何でしょうか。一つは不安に対する理解度を高めることだと思います。もう一つは、「かくあるべし」を減らして、「事実本位」を身につける事だと思います。森田理論を理解し、生活の中に活かそうとするときに、この2つが両輪であるということを忘れてはなりません。神経症に陥ると、不安にとらわれてはからい行為ばかりをするようになります。森田理論を学習すると不安の役割、不安と欲望との関係、不安との付き合い方、生の欲望の発揮などがよく分かるようになります。それを踏まえて、行動としては、不安を抱えたままなすべきことに注意や意識を振り向けていくことになります。この実践で、アリ地獄の底から地上に這い出すことができます。これで所期の目的は達成できるのですが、車の両輪の考え方からすると、それは片手落ちということになります。その証拠に、心の底にへばりついた生きづらさ、適応不安は解消できません。せっかく、森田療法で最悪期を乗り越えたのですから、もう一つの車輪も大きなものに付け替えたいものです。つまり、森田先生のいわれる思想の矛盾の打破、事実唯真という考え方を理解して、事実本位の生き方を身につけるということです。これは人生90年とも100年とも言われる長い人生の心構えを確立することです。神経質性格者としての人生観の確立を目指すことになります。森田理論学習によってこの2つがバランスよくステップアップできたとしたら、素晴らしい人生の幕が切って落とされることになります。一つだけでは不十分だと思います。この2つがベクトルを合わせてバランスを取りながらということが肝心です。森田理論をこのように捉えるということは、人生哲学を学ぶということになります。そのためには、森田理論学習の内容を車の両輪としてとらえていることが肝心だと思います。
2021.05.01
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