全34件 (34件中 1-34件目)
1
生活の発見誌に水谷啓二先生の記事がある。私どもは人生の向上的欲望に対して、つねに心がけ、あこがれながら、その目的を見失わず、焦るでもなく悲観するでもなく、その現在の及ぶかぎりのベストを尽くしている。これが「現在になりきる」ということの自然の状態である。しかもそのときには、自らは努力も苦痛も超越してこれを感じない。意識しないのである。これは、「生の欲望の発揮」のことである。森田理論で最後に行く着く先は、「生の欲望の発揮」であるといっても過言ではない。森田理論で神経症を克服し、さらに神経質性格者としての人生観を確立した人は、日常茶飯事に真摯に取り組み、課題や目標、夢や希望に向かって努力精進されている。つまり「努力即幸福」の世界に身を置いて、悔いのない人生を満喫されているのである。これは言うは易し、行うは難しという側面がある。2つの原因がある。一つは気分本位の態度に流されてしまうことです。もう一つは、観念優先の態度が事実を否定してしまうので、その出発点に立つことを拒んでいのである。この2つを排除できれば、「生の欲望の発揮」という出発点に立てることが可能になります。オリンピックで予選を勝ち抜いて、出場権を獲得するようなものです。出場権を得たからと言ってもメダルを獲得できるわけではありません。さらに過酷な戦いが待っています。でも、スタート地点に立てたということに大きな意味があるのです。今日は気分本位について考えてみたい。気分本位の態度は、しんどいことは避けたい。予期不安があるときは何もしない。乗り越えなければならない壁が立ちはだかると、すぐにやめてしまう。つまり、無駄なエネルギーを使わないで、休みたい、楽をしたい、さぼりたいという態度です。できれば本能的な快楽を味わって生きていきたいという考え方に流されています。これに流されると人生は堕落してしまうと考えています。気分本位に流されそうなときは、過去の経験を振り返ってみることをお勧めします。たとえば我が家から1時間ぐらいの山を登るハイキングコースがあります。出かける前は、運動になりよいことは分かっているのですが、いざ出かけようとすると気分本位が足を引っ張ります。そういう時は、過去の経験を思い出すのです。ひと汗かいた後の達成感、爽快感。頂上から見た美しい景色。貨物列車や瀬戸内海を眺めていると、悠久の時の流れを感じます。また、桜、さつきなど季節の花々に癒されたこと。鳥の鳴き声に癒されたこと。岩場に這いつくばって生えている松の枝の生命力に勇気をもらったこと。神社やお寺にお参りできたこと。最初は億劫でも、最後はイヤイヤ出かけたことが結果としてはよかったのだと思えるようになっていたのです。楽器の練習もそうです。最初は億劫でも、みんなと会えて話ができたこと。合同練習でいろいろなことを教わったことなどが思い出されて、出かけてよかったと思うことばかりです。気分本位は、過去の成功体験を思い出して、最初はおっくうなままに行動することです。そうすれば弾みがつきますし、時間の流れの中ですぐに気分本位は姿を消す運命にあるのです。是非体感してみてください。
2021.08.31
コメント(0)
昨日の続きです。大谷翔平選手のマンダラチャートを参考にして、森田マンダラチャートを作ってみました。まず最初に正方形を書きます。縦横それぞれ等間隔に2本の線を書き入れて、9つのマスを作ります。そのど真ん中に、目指すべき大目標を書き入れます。ここでは、「森田理論によって神経質者の人生観を確立する」としました。つぎに、その周りの8つのマスを埋めていきます。これは中目標にあたります。ここでいろいろと悩みます。人によって目標は違うものになると思います。とりあえず直感で埋めていきましょう。たとえば私の例でご紹介します。1、神経症からの回復を目指す2、バランス感覚を養う。3、生の欲望の発揮に邁進する。4、事実本位の態度を養成する。5、物、己、他人、時間、お金の性を尽くす。6、変化対応力を鍛える。7、不即不離の人間関係を築く。8、生涯学習として取り組む。つぎに、中目標の一つ一つに対して、マンダラチャートを作ります。例えば、3の「生の欲望の発揮に邁進する」で説明します。これをマンダラチャートのど真ん中に書き入れます。その周りの8つのマスを埋めていきます。これが具体的な実践目標となります。1、凡事徹底2、規則正しい生活3、一人一芸に取り組む4、自家用野菜つくり5、加工食品作り6、アジサイ、菊など草花を育てる7、老人ホームの慰問活動を続ける8、パワーポイントを大いに活用するもう一つ例を挙げておきます。8の「森田の生涯学習に取り組む」1、集談会には毎回参加する2、生活の発見誌は丁寧に読み、切り抜きをする3、毎日いろんなジャンルの単行本を読む4、ブログは毎日1本は投稿する5、心の健康セミナーや支部研修会には積極的に参加する6、定期的にホームページの更新をする7、ZOOMでの交流を積極的に進める8、新たなテキストを作る小目標は達成したら別の小目標に取り換えてもよいと思います。当然そうなると思います。これらを一つにまとめてみることもお勧めです。まず大きな長方形を作ります。それを縦横均等の長さで9等分します。全部で81のマスができます。その中央に大目標を書きます。その周りの8つのマスを中目標で埋めます。さらにその外側を64個の小目標で埋めてマンダラチャートが完成します。つまり64の実践目標を設定するのです。これを模造紙などに書いて目につきやすいところに掲示しておくのです。これを意識しながら日々努力精進していくことになります。家族も興味津々で進捗状況をチェックしてくれるようになるかもしれません。自分でも1週間に1度、あるいは1か月に一度くらいは、進捗状態をチェックすることです。全く手つかずというのは、少し意識して取り組むようにすればよいのです。100%できなくても大丈夫です。ほどほどが肝心です。60%できていれば、「あんたはえらい」と自分で自分をほめてあげて下さい。注意点としては、具体的な実践目標であることです。さらに、少し努力すれば実現可能なものにする。つまりやる気になればできることを数多く設定していくのです。これで実践や行動に弾みがついてくれれば、望外の喜びとなります。
2021.08.30
コメント(0)
これが我が家の田んぼです。今年の長雨の影響が稲の成長にでています。早生の品種はモミが白く枯れたような状態です。収量は例年の5割程度とみています。中生と晩生はこれから澱粉をため込みますから、このまま天気が続いてくれると平年通りです。自家用野菜はトマト、キュウリ、カボチャがダメになりました。ナス、ピーマン、シシトウ、サツマイモ、サトイモ、ニンジンなどは雨の影響はありませんでした。秋ジャガイモはすでに植え付け完了しました。9月は、ダイコン、ハクサイ、キャベツなどの植え付けが始まります。今は草刈り作業で大忙しです。晩酌を楽しみに汗をかいています。そういえばもうすぐ梅酒が飲めるようになります。
2021.08.29
コメント(0)
大リーガーの大谷翔平選手は、高校生の時にマンダラチャートを作り、努力・精進していました。マンダラチャートは、正方形の中に等間隔に縦に2本、横に2本の線引きます。すると9つのマスができます。中央部分に自分の目指す最終目標を書きます。大谷選手の場合は、「ドラフトで8球団から1位指名される」ことでした。その周りの8つのマスに、中目標を8つ書きます。大谷選手の中目標を見ると、体つくり、コントロール、キレ、メンタル、160kmのスピード、人間性、運、変化球を上げていました。その次は、その中目標に対して、それぞれマンダラチャートを作るのです。つまり小目標を作るのです。具体的な実践目標です。このマンダラチャートを一つにまとめると、大目標を中心として周囲に81のマスが作られます。驚くべき数です。例えば、「運」という中目標に対して、「挨拶をする、ゴミを拾う、部屋の掃除をする、道具を大切に使う、審判さんへの態度、プラス思考、応援される人間になる、本を読む」という具体的な実践目標が並びます。「人間性」では、「感性を大切にする、愛される人間になる、計画性、思いやり、感謝を忘れない、礼儀を大切にする、信頼される人間になる、継続力」などの項目を設定しています。身体づくり、コントロールをつける、球のきれを磨く、球のスピードを上げる、変化球の習得などは野球を職業とする人の目標です。それとともに、メンタル面の強化、人間性を磨く、運を味方につけるという精神面も目標に掲げて努力精進していたというのに驚きました。このマンダラチャートは作っただけでは絵に描いた餅になってしまいます。毎日取り出して64の具体的な実践目標の進捗状態、8つの中目標の進捗状態、一つの最終目標の進捗状態を検討することが大切になります。命を賭けて取り組むと少なからず成果が上がります。64の小項目に対して、毎日、或いは1週間に一回ぐらい自己内省して、分析、検討、改善することで、初めてこのチャートは生きてきます。大谷選手は、グランドに落ちていたゴミを拾いポケットに入れていますが、これは運を引き寄せる実践の一つとして初心を忘れないで継続しているのです。現在の大谷選手は、このマンダラチャートの最終目標を取り換えているのでしょう。日本のプロ野球の世界に飛び込んだ時点で、取り換えていたはずです。目標を達成した時点で、また新たな目標を設定して、81のマス目を埋めていたに違いありません。現在では、アメリカ大リーグで二刀流の野球選手として両方とも成功を収める。ピッチ―としても10勝以上、バッターとしては長距離ヒッターとしてホームラン王や打点王になる。その実現に向かって努力精進して、着々と成果を出して、目標に近づいているというのが素晴らしいと思います。この方法は私たちもぜひ取り入れてチャレンジしてみたいと思います。例えば、国家資格試験の合格を目指すという最終目標を立てる。その目標を実現するために、8つの中期目標を立てる。8つの中期目標の周りに64の具体的な小目標を立てる。進捗管理を行いながら努力精進していく。これで生きる勇気と楽しみが持てると思いませんか。人間は生きている限り、課題や目標を持つことが大切になると思います。それは、空気や水、食べ物のようなもので、それらが不足すると生死につながるものだからです。私は大谷選手のマンダラチャートを参考にして、森田理論のマンダラチャートを作ることを思いつき、早速作ってみました。今の最終目標は、「森田理論を深耕して人生観を確立する」としました。その周りに8つの中目標を設定しました。詳細は明日の投稿でご紹介いたします。
2021.08.29
コメント(0)
仕事や勉強など対して、「できない」「無理だ」「やる気が起きない」と最初から周囲の人に断言する人がいます。心配性の人は少しでも予期不安があると、すぐに逃げ出してしまうことが習慣になっている人もいます。面倒なことやしんどいことはなるべく避けて生きてゆきたい。成果が上がるかどうか分からないようなことに挑戦して、もし失敗でもすればエネルギーの無駄遣いになる。時間とお金も失ってしまう。損失が見込まれることは、最初からパスした方がよい。また、失敗すれば、能力のないのに無謀な挑戦をしたと周囲の人から笑いものにされてしまう。下手に動かないで、じっとしていたほうが何かにつけてメリットがある。挑戦や冒険は取りやめて、楽しいことはいくらでもあるので、それらを追い求めて生きていくほうがよほど理にかなっている。このように考えて、行動しない。挑戦を取りやめることは、一見正しいことを選択しているように見えます。心配性が特徴の神経質性格者は、どうしても短絡的にその場限りの安楽な方向に流されてしまう。これに対して、考える事よりも、すぐに行動に移す人もいます。仲間を巻き込んで、身体を動かす方が楽しい。問題が発生すれば、その都度修正して、より良いものに改良していけばよいと考えている人です。100%の確信が持てなくても、10%の成功の可能性を優先する。常に見切り発車しているのです。ダメならすぐに撤退すればよいと考えているのです。常に前を向いて走り続けています。そして時間が経過してみると、立ち止まって何も行動していなかった人を大きく引き離している。雲の上の存在になっている。これはどちらが良いと簡単には、決めつけられない面があります。ただ慎重派の人に対しては、次のような問題があります。慎重派で行動を抑制してきたことは2つの面で問題を抱えています。一つは失敗や挫折の経験がほとんど体験できていないということです。体験しようとしなかったことが、大きな問題を生み出しているということです。人間は失敗や挫折の経験の度合いに応じて、その器が決まってしまいます。失敗や挫折の経験のない場合は、幼児がそのまま大人になったようなものです。社会人となって社会の荒波に投げ出されるようになると、自分を守ってくれた親は何の役にも立ちません。何しろ自己責任の世界で、自力で大海を航行しなければならないのです。そのとき、普通は今までの数多くの失敗や挫折の経験が役に立ってくるのです。こういう場合は、どう対処するのがよいのか、雑多な経験を潜り抜けていることで自然に分かるのです。子どもの頃の小さな失敗や挫折の経験は宝の山です。経験不足で大人になった人は自信が持てません。自己信頼感が持てないのです。オドオドビクビクして、他人の思惑ばかりが気になります。それは子供の頃の小さな成功体験が圧倒的に少ないからです。子供の頃の「できた」「やった」「偶然うまくいった」という体験の繰り返しは、自分への信頼感を高めることにつながります。自己信頼感、自己肯定感は、子供の頃の小さな成功体験の積み重ねなのです。小さなことにコツコツ取り組んできた経験は、自己肯定感を高めているのです。ですから、早計に「できない」「無理だ」「やる気が起きない」という言葉を口にすることは問題です。「やってみたけどできなかった」という言葉に置き換えていくことが大切です。この場合は、一旦気分本位に流されないで行動する方に舵をきったのです。でもうまくいかなかった。すると、どうしてうまくいかなかったのか、考えるようになると思います。時間が足りなかった。能力が足りなかった。自分一人では無理だった。資金が足りなかった。など。原因が分かれば、ではどのような対策を立てれば、成功に近づくのかおぼろげながら分かってきます。次の行動、挑戦の足がかりが作られることになります。一つの行動は次の行動の呼び水になるのです。森田では観念優先の頭でっかちの人よりは、フットワークの効いた小回りの効く、機動的な人間を目指しているのです。
2021.08.28
コメント(0)
最近、ネットで「銀行法改正」の話をよく聞くようになってきた。この中身を見てみると、今まで銀行の仕事は企業に資金を貸し付けることだった。この改正によって、銀行はその企業の株式を100%持てるようになるのです。つまり銀行が株主になって、その企業を自由に操ることができるようになります。今までは銀行業は融資に限られていたのです。今度は銀行が圧力を加えて、会社を自分のものにすることができます。融資だけではもうけが少ないので、規制を撤廃してくださいと国際金融資本の横やりが入ったのでしょう。その要求を呑むことになりそうなのです。どんなしっかりした企業でも、銀行が白羽の矢を立てたらひとたまりもありません。その銀行ですが、都市銀行、地方銀行のほか、外資系の中国の銀行、アメリカの銀行などもあります。地方銀行は、これからどんどん統廃合されていくでしょう。そしてまとめてメガバンクとしてよみがえらせようとしているのです。ウォール街を牛耳っているゴールドマンサックスが、今年から日本で銀行業を始めたのはとても不気味です。これからは、コロナ禍に乗じて、日本のメガバンクと外資系銀行間で、資産価値の高い中小企業の奪い合いが始まるでしょう。特に外資系の銀行に目をつけられたら悲惨だと思います。乗っ取られなくても、株主配当を最大限に支払うように求められます。会社は社員や地域のものという考えは通用しなくなります。今までは銀行による株式取得は5%以内に抑えられていたのです。つまり融資はしてもよいが、会社を乗っ取ることは断じて許さないと規制されていたのです。これでは、中小企業を自由にコントロールすることができません。グローバル社会でマネー第一主義のやり方の国際金融資本は納得できません。日本の9割を占めるといわれる中小企業は、生産設備もさることながら、伝統技術、先端技術、優れた技術者、経営ノウハウをたくさん蓄積していて外国から見ると宝の山なのです。これらは売ればすぐに金になりますので、喉から手が出るほど欲しかったのです。「銀行法」が可決され、中小企業の株を抑えてしまえば、生かすも殺すも自由にできます。彼らの狙いは、ずばり中小企業の株式を買い取り、自分たちの所有物にすることです。自分のものにしても経営するつもりはないと思われます。売れるところを切り離し、或いは再編し、M&Aを仕掛けてより高い資産として売り飛ばすことを考えるはずです。だから少々株価を吊り上げても、それ以上に高く売れれば問題ないと考えるのです。今まで日本の中小企業は、雇用の確保、地域の活性化などで多大な貢献をしてきました。「銀行法」が改正されて、中小企業が草刈り場になれば、まず日本全国の中小企業はどんどん衰退していきます。そして地域経済が崩壊の危機に瀕します。当然雇用が失われます。残された人は低賃金で不安定な雇用で働かざるを得なくなります。地域の活力は徐々に失われて、再起不能に陥るでしょう。悪いことに、日本政府はそれを強力に後押ししています。2021年6月22日の日本経済新聞によると、日本における外国人の企業経営者や経営幹部は2019年9.2万人ですが、2030年までには20万人まで増やすという。26年までに地方に外国資本との共同開発企業を1万社に増やす。投資金額は2020年の40兆円から、2030年には80兆円までに増加させるという。これは地域活性化と銘打っていますが、実態は全く違います。国際金融資本に、できるだけ多くもうけさせるための「銀行法改正」なのです。国民生活が第一で、日本を豊かにするという政策はほとんど放棄しているのです。我々の次の世代は、1億総貧困層で占められるようになるかもしれません。国民皆保険も危うくなる。年収が平均300万円台で収まっているかどうか。GDPは550兆円が頭打ちで、350兆円台くらいまで下がってしまうのではないか。安定的な年金の継続も難しい。デフレ経済が解消できない。国土強靭化政策も手付かず。食料の自給もままならない。自国の安全保障もままならない。日本の国土も守れない。大企業の空洞化現象が拡大している。少子化に歯止めがかからない。そんな政治家を選んでいる我々にも問題がありますが、これは政治家の責任ではないのですか。この問題は、政府の政策決定の諮問機関である「成長戦略会議」(以前は「未来投資会議」と言いましたが、いかにも自分たちの利益を誘導しているかのイメージを与えるので名称変更した)のメンバーなどを見ていると一目瞭然です。新自由主義の考え方で、「金だけ、今だけ、自分たちだけ」を露骨に打ち出して、グローバル経済を推進する人は、日本の国民はどうなってもいいのでしょう。果たして、自由自在に何をしてもいいのでしょうか。あまりにも露骨で目に余るものがあります。それよりは自分の会社や組織の利益の拡大を図ることが生きがいになっているのでしょう。私たちは森田理論の学習も大切ですが、政治や経済から目を背けていては大変なことになります。子孫に対して申し訳ない気持ちでいっぱいです。せめて事実だけはウォッチしてゆきましょう。できれば国会議員に目を覚ましてもらいたいところです。来年の1月からの通常国会に「銀行法改正」が出てまいります。今、金融庁でその草案を作っているそうです。ここでの決め手は、銀行による中小企業の株式取得の100%の解禁です。これには外国の銀行が絡んでくることを忘れてはなりません。その内容には興味も関心もないという国会議員が多数を占めていますので、すんなりと可決されることになるかもしれません。残念ですがどうすることもできません。詳しくお知りになりたい方は、次のyou tube番組をご覧ください。菅政権が猛ダッシュ? 銀行法改正の闇 裏の思惑、すべて暴露します。解説は元官僚の室伏謙一氏です。実態がよく分かります。
2021.08.27
コメント(0)
不安や心配事を放っておくからこそ、葛藤や悩みに発展するのだという人がいます。だから、不安や悩みは、できる限り早めに取り除いた方がよいという考えです。もっともらしい考え方です。この考え方に対して、森田理論を学習した人は、その考え方は見当違いも甚だしいと思われるのではないでしょうか。たしかに、森田では不安を取り除こうとすれば、精神交互作用によってますますとらわれが強くなっていくと学びました。この考え方は、神経症の経験をお持ちの方は、自分の体験として納得できます。この2つは、まるきり反対の考え方ですが、どちらの見解が正しいのでしょうか。私は、基本的には、どちらの言い分も正しいと思います。ここで大切なことは、不安の中身を検討しないと不毛な議論で終わってしまうということです。一例をあげてみましょう。誰でも入院や事故が起きたときのために保険に入っています。自動車保険、車両保険、医療保険、生命保険、損害保険、火災保険、地震保険などがあります。これらは万が一の不測の事故を想定して、リスクに備えた対策をとっているわけです。私はマンションの漏水事故が発生した時、多額の修理費用が必要になりましたが火災保険のおかげで助かりました。この場合は、不安やリスクを察知した場合、早めに積極的な行動をとることが必要となります。それが有事の際に、自分の命や家族の生活をしっかりとサポートしてくれます。最近は土石流の災害等が、日本全国あらゆるところで発生しています。海水温の上昇とともに線状降水帯がいつどこで発生しても不思議ではないのです。ハザードマップで土石流の発生する可能性のある場所はあらかじめ分かっています。危険個所に住んでいる人は、7月、8月の豪雨時期になると、直前の天気予報で確認して、あらかじめ避難しておくことが重要になります。これぐらいは大丈夫だろうという安易な判断が取り返しのつかない大惨事になるのです。今年の熱海の土石流の災害は、盛土が被害を拡大させた原因とされています。今後盛土をして宅地を造成する場合、最悪の事態を想定して、立地条件や排水路を確保したうえで慎重に行う必要があります。神経質性格の人は、心配症で取り越し苦労が絶えないと言われますが、こういう不安にすぐに気づくことは大変ありがたいものです。不安が湧き上がってこないことは、即、生存の危機につながります。ただし、気が付いただけではダメです。対策を立てて実行に移すことが不可欠です。実際に行動しないと、鈍感な人と何ら変わりがありません。むしろ、不安がいつも付きまとい、イライラして精神的につらくなります。不安に気が付き、それに対して対策を立てて、実行することで、安全と安心を手にすることができます。つぎに神経症的な不安についてみてみましょう。森田理論では欲望が強い人は不安も強くなると学びました。生の欲望の強い人は、必ず不安が発生するようになっているのです。この二つは必ずセットになっているという理解を深める必要があります。車でいえばアクセルを踏み込まないと永遠に目的地を目指すことはできません。アクセルを踏み込むことを忘れて、ブレーキの効き具合ばかりを気にしているようでは、永遠に目的地にたどり着くことはできません。車の場合は、そんなことを考える人はいません。ところが、不安と欲望の関係では、欲望を目指すことを忘れて、不安を取り去ることや逃避することに全エネルギーを投入する人が後を絶たないのです。神経症でのたうち回っている人は、まさにそういう悪循環にはまっています。そして精神交互作用でどんどん増悪して、アリ地獄の底に落ちていくのです。神経症的な不安は生の欲望が暴走しないように、注意信号を点灯させてくれていると理解しておけば大丈夫です。不安を活用しながら、注意して前進すればこんなに役に立つことはありません。一番問題になるのは、生の欲望の発揮を無視して、本来は私たちの味方であるはずの不安に敵対することです。ミイラ取りがミイラになるというピエロを演じてしまうことです。不安の役割を森田理論学習によって正しく理解すれば、不安は私たちが生きていく上でのパートナーだということが分かります。かけがえのない仲間であることが分かります。これを無視すると、極端なことを言えば、双極性障害の躁状態の様相に近くなります。妄想的、空想的な発言や行動が多くなります。金遣いが荒くなる。運転が荒くなり交通事故を起こす。しっかりした計画もないのに、自由人を目指して、思い切って仕事を辞めて起業する。離婚に踏み切る、仲間を巻き込む、借金をする。不動産の売却や購入をする。高級車を買う。一攫千金を狙ったギャンブルに手を出す。病気が治って、その時のことはなかったことにしてくれ、と言っても後の祭りです。不安の存在は、それらの抑止力として、健全で健康的な生活を送るためになくてはならないものなのです。不安というのは、惨禍を回避して将来に明るい展望が開けるものや、他人の役に立つことは積極的に不安の解消に向けて行動することが肝心です。その方が望ましい。しかし、森田理論でいう、欲望の暴走の抑止力として発生している不安については、その不安を活用して欲望が暴走しないように配慮することが肝心です。つまり欲望と不安のバランスを常に意識しながら、しかも生の欲望に向かって絶えず前進していくという状態を維持することが大切になるのだと言えます。
2021.08.26
コメント(0)
男の子はドキドキする冒険が大好きです。冒険には、好奇心や勇気も必要ですが、一番大切なのは実は安心できる港のような存在なのです。安心できる場所のない人は、冒険することができません。男の子が母親に甘えるのは、母親のことを安心できる港のような存在だと思っているからです。毎日母親のひざの上で英気を養っては、また新しい冒険にでかけるのです。幼いとき、しっかりと甘えさせてもらった子供は、挑戦を恐れない人になります。たとえばこんなことも言えます。よちよち歩きの赤ちゃんがコテンと転び、本人は何が起こったのかわからずに、パニック状態で泣いてしまいました。「転んだら自分で起き上がる」子供になってほしいと思う気持ちは分かりますが、それを学ぶためにはその前に、「転んでも大丈夫」ということを学ばなければなりません。だからいきなり「自分で立ちなさい」というのではなく、最初は「大丈夫?」と歩み寄り、そっと手をさしのべてあげてほしいのです。そうすれば「転んだのは痛かったけど、転んでもボクは大丈夫なんだ。お母さんが見てくれている」という安心感が育ちます。安心感があるから、また立ち上がって歩き出そうとします。もう少し早く走ってみようかなと思う挑戦心が生まれます。失敗を恐れない子に育つのです。そしてそのうち、手をさしのべる親に、「大丈夫、自分で立てるから」と言えるようになります。そのときはじめて、親は、さしのべた手を引っ込め、「エライね」とひと言褒めてあげればいいのです。(男の子 育てにくい子ほどよく伸びる おおたとしまさ 主婦の友社 59ページより引用)子どもができたら母親や父親は子供の母港としての役割を果たすことが必要になります。母港に立ち寄って、食料や必要な物資を積み込み、大海原への出向が整うのです。母港を持たない子供は、信頼感、安心感、エネルギーの補給ができません。自信が育たず、冒険や挑戦へ踏み出すことができなくなります。「お父さんやお母さんが後ろで見ているから、思い切って挑戦してみなさい」という気持ちになれないのです。いざとなった時に自分を守るのは、自分しかいないということになると、冒険や挑戦するよりも、自己防衛にエネルギーを投入するようになります。外向きに向かうべきエネルギーが内省化して自分を攻撃するようなことも起きるのです。ここでは母親の役割のように書いてありますが、男にとっては父親が信頼できる母港の役割を果たしているかどうかは、その後の子どもの人生を左右します。父親になったら、できるだけ子供と一緒に過ごす時間を大切にしたいものです。授業参観日には必ず学校に行く。体育祭には子供の写真を撮る。行楽地には家族で出かける。帰省には子供を連れて行く。キャンプを企画する。チャッチボールや卓球などを一緒にする。その際、口やかましく叱責しないで、子供のやることなすことを暖かく見守り、いざとなった時は、助けに入るという態度を維持したいものです。他人と付き合うことが苦痛だという人は、安心できる母港を持っていない人だと思います。森田の人間関係は「不即不離」という考え方です。必要な時に必要なだけの人間関係を作り上げていく。狭くて濃密な人間関係を目指すのではありません。広く薄い人間関係を必要に応じて、必要なだけ築きましょうという考え方です。ここでも母港の役割は大切です。私は生活の発見会の集談会の中で母港を見つけました。頻繁に会って話しているわけではありません。心の中で、何か問題が起きたら、真っ先に相談する人がいると思っているだけです。それだけ信頼できる人です。その方は、頭から自分のことを否定することはない。包容力を持って私の話をよく聞いてくれる。そして豊富な人生経験の中からひと言アドバイスしてくれる。この母港を持っているから、生活の最前線で様々なトラブルで意気消沈することがあっても、母港に帰れば何とかなるという安心感に支えられて生きているのです。子どもにとってはそれは親です。父親も例外ではありません。いまだ母港を持っていない人は、早急に母港を見つけなければなりません。仕事、学校、友人、同級生、以前の会社の同僚、趣味の仲間、家族、親戚、地域社会、師、カウンセラーなど誰でもよいのです。何かあった時、安心して寄港して、羽を休めて英気を養うことが大切です。母港を持たないで人生の荒波を乗り越えることは不可能と肝に銘じることです。そこからはじめて、生の欲望の発揮に向かう足がかりができるのです。
2021.08.25
コメント(0)
現代人の多くは、無気力、無関心、無感動の人が多いと言われている。興味や関心が持てない。やる気が出ない。動きたいという気になれない。身体が重い。また涙を流すような大きな感動を味わうことがあまりない。人間に生まれてきたのに、生きている喜びを味わうことができないのは残念この上ない。今日はどうすれば、ワクワクするような生き方に変えることができるのかを考えてみたい。ここでは乗り越えるための4つの提案をしたい。1、誰でも行動する前はおっくうなものだ。ましてや初めてのことには慎重になります。以前に失敗した経験がある場合は、「また失敗するのでは?」という気持ちにもなるでしょう。そこでついしり込みする人が多くなるのだと思う。自重していると言えば聞こえはいいが、これでは生きる喜びは味わうことはできない。そういう人は、過去行動してよかったと思う事例をしっかりイメージすることだ。行動しようかどうか迷ったけれど、思い切って行動した過去を思い出すことだ。たとえば、最初はおっくうだったが思い切っていつものハイキングコースに出かけた。終わった後の身体の爽快さ、美しい景色、スポーツドリンクのおいしかった思い出をよみがえらせることです。これが思い出せるようになると、よし思い切って出かけてみようという気持ちになることもあると思う。よいイメージを連想することが、行動に踏み切るきっかけとなるのである。2、つぎに問題ある状況を真剣に見つめる。今まさに家から火が出たという事実を目の前にすると、どんなに尻の重い人でも必ず逃げ出すそうだ。つまり問題のある事実を真の当たりにすると、その状況から逃げたり、対応方法を考えて行動するようになるということだ。つまり本来の人間力が発揮されるようになる。森田理論では、目の前の事象を真剣に「見つめよ」と言われる。見つめていると感情が動き出す。そしてその感情が高まる。気づきや発見が湧き上がる。興味や関心も高まる。そうすれば意欲的になる。アイデアも出てくる。行動に向かっての流れが出てくる。一つの行動がきっかけとなって、次につながる弾みがついてくる。新たな目標につながる。観念主導の立場から出発するのではなく、事実に焦点を当てて「真剣に見つめる」ことで、やる気に火が付くことがあるということです。3、脳の仕組みを理解する。人間が不安や恐怖を感じると、その情報は脳の偏桃体に入ります。扁桃体は、ノルアドレナリンを使って脳全体に緊急事態宣言を出します。戦闘態勢に入るか、安全なところに移動しなさいと指示を出しているのです。そうなると、やる気の脳と言われる側坐核や生産的・創造的な活動を担っている前頭前野が休眠状態に入ります。それらは、緊急事態の時は、出る幕がなくなるのです。こうなりますと、顕在意識がいくらやる気を最大限に発して頑張ろうとけしかけても効果がないのです。リーダーがいくらけしかけても、肝心の脳がしり込みしているのですから成果は上がるはずもないのです。練習には強いが本番には弱いという人はこんな人です。無意識の抵抗は本音ですから、建前よりも強いということを忘れてはなりません。ここで、ノルアドレナリンの代わりに、ドパミンが噴出することになった場合どうなるでしょうか。やる気の脳である側坐核、対応策をいろいろとシュミレーションする前頭前野は大いに活性化されます。何もしなくてもチャレンジ精神が旺盛になるのです。できない理由を探すのではなく、できる理由を探しているのですから本番には強いのです。この脳の仕組みを上手に活用することが、とても重要になります。4、脳の仕組みが理解できたら、今度はどのように活用すればよいかということになります。自分や他人に対して、グチ、否定、非難の言葉を使わないようにすればよいのです。それに変えて、承認、肯定、感謝の言葉を使うようにするとよいのです。この言葉を机の前に貼っておく。この6つを表にして○×をつけるようにしたら如何でしょうか。×が付いたからと言って悲観することはありません。×は注意喚起をしてくれているのです。以後少し気を付けるようにするだけで十分です。私の経験では、グチ、否定、非難の言葉は劇的に減ってきます。反対に、承認、肯定、感謝の言葉は格段に増えてきます。それらを意識して生活しているのですから当然のことです。普段の生活の中で、習慣化されて、自分のものになってくるのです。これが習慣化された人は、森田の達人と呼んでもよいと思います。この習慣が自分の人生をより味わい深いものに変えてくれるのです。無気力、無関心、無感動はその人の持って生まれた個性のように思われていますが、これは今まで述べた4つのことを実践するだけで、大いに改善することが可能です。あとはチャレンジするかどうか、あなたの決断次第です。
2021.08.24
コメント(0)
人間関係で悩んでいる人が多いように思います。私もその一人です。これまでの人間関係の投稿を読み返してみた。そして、これからの注意点や改善点をとりまとめてみました。私の場合は、他人から叱責、批判、否定、無視、からかい、侮辱、拒否、激怒、攻撃されることがイヤで仕方がない。相手が弱い場合は精一杯の抵抗をする。でも基本的には、攻撃するエネルギーが少ないので、そういう相手からは距離を置くようにしてきた。できるだけ逃げ回ってきた。しかしストレスがたまり、いつもイライラしている。一人で楽しいことを見つけて、人生を謳歌したいと考えても、そんなわけにはいかない。第一仕事をして、人とかかわりを持たなければ、生活できなくなる。人間は社会的な動物であるから、もともと仙人のような生活はできないと思う。どういうスタンスで他人と付き合っていけばよいのか。35年間森田理論を学習してきてある程度の方向性は見えてきた。一番役に立ったことは、森田理論で不即不離の人間関係を心掛ければよいということだった。広く浅く、必要に応じて必要なだけの付き合いで十分だということだった。たとえば、年賀状だけの人間関係でも、大切にしましょうという教えだった。それまでの私は、狭く深い人間関係にあこがれていた。親友が3人くらいいればよいと思っていた。それ以上は望まないと考えていた。しかしそれだと、何かトラブルが発生すると、人間関係が一挙に破壊されて、益々孤立することになる。この考え方は目の前のもやもやが晴れる考え方であった。集談会で次のようなアドバイスをもらった。人間関係は2人の人に好かれているとすれば、2人の人には嫌われている。そして残り6人の人は好きでも嫌いでもないという関係にある。ベタベタした人間関係は自分を窮地に追いやることになりますよということだった。次に岡田尊司さんの「愛着障害」の学習をしたとき、父親との関係に問題があって、根強い人間不信に陥っていることが分かりました。その解決方法として、遅まきながらも、「心の安全基地」を作る必要があることが分かりました。私は集談会の仲間の中に、「心の安全基地」となる人を見つけることができた。苦しいときに親身になって相談に乗ってくれる人を得て精神的にずいぶん楽になりました。今では大変感謝しております。次に高良武久先生の講話を聴いていた時、対人恐怖症の人は、仕事でも趣味でも何でもよいので10年間一つのことに打ち込んでみなさいと言われていた。そうすれば、その道の専門家になれます。生きる自信が持てるようになります。そうなれば、他人から少々非難されても、受け入れることができるようになります。私はそれを聞いて、このブログを10年間毎日続けてみようと思い立ちました。現在8年と8か月です。10年経った時に総括をしてみたいと思っております。今の段階では、高良先生のお話は間違いなかったと思っています。「他人中心から自分中心」の考えを主導しておられる石原加受子さんからは、他人の思惑に振り回されている人は、自分の考え、気持ち、欲求、都合を後回しにする傾向があります。本来は、それらをまず大切に取り扱うことが肝心なのではありませんかと教えてもらいました。これは森田理論の「純な心」を大切にすることと同じことだと感じています。これを森田理論とつなぎ合わせて、事実本位の考え方を確立できました。その他、「私メッセージ」の活用、win-winの人間関係の構築、共依存の人間関係の排除、「かくあるべし」の排除、他人への肯定的な言葉の投げ方など人間関係の改善に向けてポイントとなる学習をさせていただきました。これらはすでにこのブログで紹介させていただいております。その他にもいろいろと学習しましたが、人間関係の改善に向けての主な項目は以上です。ぜひ参考にしてみてください。精神的に楽になると思います。
2021.08.23
コメント(0)
生活の発見会発行の「学習会シリーズ」という本に次のような説明があります。集談会のメンバーで「治った」と明言する人にあまりあったことがないという話をしましたが、こうして「治る」という意味を考えてくると、「治る」という表現が適切ではなく、「あまり気にならなくなった」などの表現の方が事実に近いと分かってきます。いずれにしろ、森田の「治る」ことの究極の目標は「人間としての成長」です。私たちは「神経症が治る」という言葉をよく使います。この方は、この表現は適切ではないといわれています。「あまり気にならなくなった」という表現がよいのではないかと説明されています。私もこの考えに賛同します。不安神経症の場合は、心機一転、頓悟の経過を経て、突然に治るということが起きます。確認行為を続けている人も、突然強迫行為をやめた瞬間から症状から解放されます。神経症が治るというのは、この人たちのことを言うのだと思います。一般的に強迫神経症の人は、スパッと竹を割ったような治り方はしないものです。よくタマネギの薄皮をはがすような治り方をするといわれます。たとえば、対人恐怖症の人の場合で説明します。職場で孤立して、仕事が手につかなくなります。朝目ざめても職場に行くことができない。不安や恐怖に押しつぶされるようでイライラします。休職して、薬物療法、認知行動療法、カウンセリングなどを受けます。その途中で森田療法にも出会いました。一筋の光明が見えた瞬間です。森田理論の「不安を抱えたまま、なすべきことに手を付けましょう」という魔法の言葉に促されて、早速実践課題に取り組みます。このことに愚直に取り組んだ人は、1年もたたないうちに、蟻地獄の底から地上に這い出しています。仕事に対して前向きに取り組んでいるので、職場の仲間から評価されるようになります。この状態は普通の人と何ら変わらないわけですから、一般的には治ったといえると思います。これで大丈夫と思う人は結構なことです。しかしこの段階は表面的に治ったかに見えるだけで、対人恐怖のもとになっている不安や恐怖は依然として続いている。積極的に行動できるようになると、悩みはますます増えてくる。対人恐怖症に伴う生きづらさは一向に解消されていない。ここで気分本位になって、行動力が鈍ってくると、もとの状態に戻っていく。神経症に苦しんでいたころよりも、精神的な葛藤がより深刻になってくる場合があります。つまり症状のぶり返しが起きてくるのです。プロ野球の打率と同じで、調子が良い時は高い打率を維持できるが、スランプに陥ると打率はどんどん下がっていくのです。治るということに自信をなくしてしまいます。他人から見ると症状を克服したように見えるが、本人としては対人恐怖症を乗り越えたとは思えないのです。この段階で苦しんでいる人は次の段階に進むことが大事になります。それは森田理論学習の深耕によって、対人恐怖症は治すということはできないということの自覚を深める段階です。どんな手段を用いても、対人恐怖症は治すことはできない。人を見ると、自分の安全をおびやかし、精神的に自分に危害を加えるのではないかと思う感情が泉のようにこんこんと湧き出てくる。これを食い止める手立てはないと観念する段階です。ここまで到達した人は、対人恐怖症から解放されます。しかしこれは嫌な感情に完全服従するということですから、乗り越えるハードルは高いです。でも結果的に乗り越えたかのような、状況にまで持っていくことはできる。それは何かというと、対人的な不安や恐怖はそのままに放置して、自分のなすべきことや挑戦してみたいことにどんどん手を出していくことです。人生を楽しむということです。気分本位になって逃避しない。不安や恐怖を取り除こうとしない。そんなことに関わるよりは生活をもっと豊かにしていこう。興味や関心のあることに目を向けて、人生をとことん楽しもうというふうに考えて行動するのです。ここでは神経症を治すことをやめた人が、結果的に神経症から解放されるというパラドックス現象が起きているのです。神経症を治すという言葉に引っ掛かっている人は、いつまでも治らない。治すという言葉を忘れて生活していたという人が、結果として神経症を克服しているということです。これが、神経症は治るのではなく、「気にならなくなった」という意味です。治るという言葉に変えて、「神経症が気にならなくなる」「神経症に振り回されなくなった」という方向性を目指したいものです。
2021.08.22
コメント(0)
お母さんが、公園などで遊んでいる子供に対して、「もう遅いからおうちに帰りましょう」というと、子供は「イヤだ。まだ遊びたい」と反抗することがあります。こんな時、「ダメなものはダメなの。どうしてお母さんの言うことが聞けないの」と無理やり子供の手を取って遊びを中止させる親がいます。こうなりますと、普通、親と子供は言い争うことになります。森田理論で考えてみましょう。親と子供は経験の数が違います。力の差も圧倒的です。その親が権威や権力を利用して、「かくあるべし」を押し付けている。子供の気持ちを汲み取るという考えが入り込む余地がない。子供を自由自在にコントロールしようとしているのではないでしょうか。この時の子供の気持ちはどうなのでしょうか。今すぐに遊びを止めることはむずかしい。せめてきりのよいところまで遊ばせてという気持ちなのではないでしょうか。その気持ちを少しは分かってほしいというところでしょう。子供のもう少し遊びたいという気持ちを尊重できれば、「分かった。じゃ、後5分だけ待ってあげるよ」という言い方ができます。こういう対応は子供に対して好影響をもたらします。まず、自分の気持ちをきちんと受け止めてもらえたという信頼感です。仮に自分の気持ちがかなえられなくても、自分の気持ちや考えをきちんと聞いてもらえたということが大きいのです。自分の気持ちや考えを受けとめてもらったという、うれしさを味わった子供は、大人になった時、他人の気持ちや考えを受け止めることができるようになります。他人を見ればいつも対立的になるという関係を避けることができるようになるのです。親が二者択一で是非善悪の価値判断を押し付けないということは、子供にとっては、考え方や意見の違いが発生したら、話し合いで譲ったり譲られたりするのだという態度が自然に身につきます。人間が二人以上集まれば、考えていることはそれぞれ違うわけですから、人間関係は話し合い、交渉、説得、妥協、協調によって解決策を探ることが欠かせません。そういう基本姿勢を持っているかどうかは良好な人間関係を維持するうえで欠かせません。それと反対の立場は、自分の意志や考えに固執して、相手に全く弁明の余地を与えないで、自分の「かくあるべし」押し付けている人です。こういう人は、常に他人と対立して、苦難の人生を送ることになります。
2021.08.21
コメント(0)
少し前の話ですが、娘夫婦が孫を連れて我が家にやってきました。近くの森林公園に昆虫館があるので、さっそく出かけました。男の子の孫はカブトムシが気にったようです。その後売店に立ち寄りました。そこでカブトムシのおもちゃを見つけました。今すぐにどうしても欲しいというのです。父親はおもちゃよりも本物の生きたカブトムシの方がよいといってそのおもちゃを買うことをあきらめさせようとしました。孫はその後すぐに生きたカブトムシを買ってもらえると思ったようです。ところがまたいつかという話になり、その後1時間近く泣きわめいていました。根負けしてとうとう近くのホームセンターで買うことになりました。こういうことはよく目にします。幼児がスーパーのお菓子売り場で、「これ買って」とお母さんを困らせている光景を目にすることがあります。泣きわめいてフロアーに体をこすりつけて自分の意志を押し通そうとしています。特に男の子はエスカレートしやすい。親からしてみると人目もあって気が気ではありません。可愛い我が子とはいえ、「ダメ、ダメ」と叱り飛ばし、時には「どうしてお母さんの言うことが聞けないの」と叩いたりします。そして「もう買い物には連れてこないからね。それでもいいの」とダメ押ししています。私はそういう子供は、むしろ意志が強くねばり強いと思います。その特徴をうまく伸ばせてやれば、少しぐらいの障害物を乗り越えて挑戦する立派な大人になるかもしれません。いつも否定していると、そのうちに挑戦をあきらめてしまう子供になる可能性が大です。でも現実問題も無視できません。こんな時は森田理論を応用してみたいものです。森田では、「かくあるべし」を押し付けないで、相手の目線に立って話しすることをお勧めしています。例えば、スーパーでの「このお菓子が欲しい」が始まった時は次のようになります。「これを食べてみたいのだね」「うん」「どうして食べてみたいと思ったの」「この前○○ちゃんが食べてたのを見ておいしそうだったから」「そう。○○ちゃんが食べていたのをみて自分も食べてみたいと思ったのね。その気持ちはよく分かったよ」ここで肝心なことは、子供がどうして食べたいと思ったのか、子供の気持ちに寄り添うことが大切です。子どもは自分の気持ちを聞いてもらえたということで、少し安心します。そのうえで、「今日は別のお菓子を買ったでしょ。そのお菓子もあなたの選んだものよね。二つも一緒には買えないけど、どちらにしたいの」このように話しすれば、「分かった、前のでいい」とか「こっちにする」とか返答するでしょう。こういうやり取りをすることが肝心です。大人の世界でいえば話し合いをするということです。いつも一方的に親のやり方を押し通すと、子供のやる気の芽を前もって摘んでしまうことになります。いつも子どもの気持ちや意志を叶えていると、放縦児を作り出してしまいます。まず子供の気持ちに寄り添って素直に聞いてみる。そして、子供に親の気持ちを伝える。交渉の過程で、時には親が根負けすることもあるでしょう。これは子供にどんな困難なことがあっても「自分の意志を押し通す」という教育になります。時には、頑固一徹で親の意思を押し通すことがあるかもしれません。その時は、子供は、いつも自分の思い通りにならないことがあるものだという体験ができます。いつもどちらかが一方的に主導権を発揮していることは問題だと思います。譲ったり譲られたりの関係が自由自在に行われることが大切になります。こんな親子の関係を維持することで、子供は人間関係の距離感を会得していくのです。
2021.08.20
コメント(0)
昨日の続きです。相手からの依頼事やお願い事を断りたいのに断れない。自分の素直な気持ちや意志を抑圧して、正反対の心にもないことを選択する。これはつらいです。モチベーションが上がらない。ストレスでイライラします。あげくの果てに、胃潰瘍やうつ病などの身体的な病気に罹ります。この心理を分析してみましょう。依頼されたことやお願い事を断ると、相手に嫌な思いをさせてしまう。相手に無理を強いることになる。相手に負担をかけてしまうのではないか。そんなことをすると、人間関係がぎくしゃくしてくる。相手に嫌われ、嫌味を言われて、気まずい関係になる。相手から冷たくあしらわれるようになる。同調者を集めて攻撃されるようになるかもしれない。孤立することは何としても避けなければならない。このように考える人は、子供の頃に、他人からお願いされる、それを断る。自分からお願いする、相手に断られるという経験が圧倒的に少ないのです。そんな人が大人になって、自由自在に相手と交渉できるとは考えにくい。子供の頃の雑多な社会体験不足が大人になって問題になっているのです。神経質な人はそういう傾向が強いのですが、いまさらそんなことを言っても仕方がない。では社会体験が不足して大人になった人はどうすればよいのでしょうか。大人になって四苦八苦している人はどうすればよいのでしょうか。こういう人は、「・・・を断ってはいけない」「お願いされたことはすべて引き受けなければならない」「断られる可能性があることは他人に依頼してはいけない。そうしないと後で間違いなく大変なことが起きるはずだ」「お願いしたことは有無を言わせず引き受けてもらわないと承知しない」などという「かくあるべし」を持っている。それも強力なものです。相手からの依頼事項やお願い事は、相手が自分に引き受けてもらえるかどうかを打診してきているのです。引き受けるかどうかは自分に選択権があるということを忘れてはなりません。自分が相手に依頼することやお願いすることは、今度は相手が引き受けるかどうかを選択する権限を持っているということです。提案を引き受けるかどうかは、常に相手に委ねられているのです。「かくあるべし」を前面に出すと、相手を自由自在にコントロールしてしまおうということになります。それは即、支配被支配の人間関係に陥ってしまいます。良好な人間関係が崩れて、お互いに敵対する方向に向かいます。そうなると自己防衛に膨大なエネルギーを投入せざるを得なくなるのです。精神的につらくなり、一人で過ごす方がストレスがないという気持ちになります。これが人間関係の悪循環の始まりとなります。ですから人間関係に「かくあるべし」を持ち込むことは極力避けなければなりません。「かくあるべし」が少なくなれば、人間関係は事実本位になります。それはどういうことかと言いますと、自分の考えや気持ち、欲求や都合を明確に打ち出すということです。相手の思惑に振り回される前に、自分の立場をはっきりさせるということです。それらを優先して考えていくという姿勢を持つということです。森田理論でいうと「純な心」を大切にするということになります。人間関係を改善するためには、この態度を持つことがとても重要です。これを大切に取り扱う人は、相手の要求に対してすべて言いなりになるということはなくなると思います。自分の素直な気持ちと相手の要求の対立の中で、どうすれば折り合いが付けられるのかと考えるようになるはずです。中間の妥協点や落としどころを探して、交渉するということになると思います。時には自分の要求を押し通す。別の場面では相手の要求を受け入れる。つまり、状況に応じて臨機応変な行動がとれるようになります。この態度を維持すると、いきなり相手と闘うことがなくなります。闘うよりも話し合いによって、人間関係を改善していく方が好ましいと考えるようになります。相手から依頼やお願いごとがあった時は、負担が少なければ、なるべく引き受けた方がよいでしょう。自分の都合がつかないときは、相手の依頼をよく聞いて、できる限りの範囲で引き受けるしかないと思います。また、時間的にどうしても無理なら丁重にお断りするしかない。早めに言ってもらえれば、次回はなんとか協力しますということにするしかない。また能力的に無理な場合は、引き受ける範囲を絞って引き受けるしか方法がない。あるいは自分にはあまりにも荷が重すぎるといってお断りする。いずれにしても、自分の考えや意思をはっきりと相手に伝えることが大切です。その方が、いったん人間関係が悪化することがあるかもしれませんが、長い目で見ると、人間関係はうまくいくと思います。また自分の気持ちに素直になるので、ストレスがなくなります。反対に自分が相手に依頼するときも、「ここで断られたらどうしよう」などとあまり深刻にならなくなります。相手が引き受けてくれるかどうかは相手に決定権があるわけですから、どう決着するのか全く読めません。結果は半々ぐらいだと思って依頼することができるようになります。もし相手が引き受けてくれればもうけものという気持ちになります。断られたら「ああ、そうなの。残念ね。じゃまた今度ね」と言って、快く引き下がることもできるようになります。あとくされのない付き合いになります。「私はいつも我慢して引き受けているのに、私の依頼したことを簡単に断わる人は許せない」といった気持ちになると、後に尾を引きます。ストレスでイライラするようになります。そのうちあの人とは今後絶対につき合わないという最悪の状況に陥ります。「自分一人で過ごす方がよほど気が楽だわ」と思っている人は、人生の楽しみの半分を捨てているようなものだと思います。実に残念なことです。
2021.08.19
コメント(0)
私は集談会で、何回も参加している人に対して、「世話活動をお願いできませんか」という声掛けができない。相手から「手伝いましょうか」という言葉をいつまでも待っている。大学生の時、好きな彼女ができた。彼女もまんざらではないようだったが、「つき合ってください」とは言えなかった。万が一断られたら恥さらしになると考えたのだ。いつの間にか彼女は別の人と付き合い始めて、最終的には二人は結婚した。しまったと地団駄踏んだが後の祭りだった。飛び込み営業をやっていた時は、見ず知らずの人に「買っていただけませんか」というお願いができなかった。断られると自尊心が傷つくことが恐ろしいということにとらわれていた。「売ってください」と先方から言い出すのを待っていた。当然営業成績は振るわなかった。営業事務をやっていた時は、仕事がいっぱいでパニックになった時、「手伝ってもらえませんか」というお願いができなかった。万が一拒否されたらどうしようかという予期不安に振り回されていた。断られるくらいなら自分でやった方がよいと考えてしまう。残業して、一人でたくさんの仕事を抱えて苦しんでいた。他人に依頼やお願いができなかったのである。その結果一人で相撲を取っているような状態になった。重い荷物を一人で抱え込んで苦労することになった。それだけなら自業自得で我慢できたかもしれない。他人に依頼やお願いができないということは、他人からの依頼やお願い事があった時に、断ることができないということでもあった。本心は嫌でやりたくないのだが、断ることができなくて、不本意ながらしぶしぶ引き受けてしまう。これもとても苦しい。私の場合でいえば、他人を束ねてリーダーシップをとる能力がないのに、管理職を引き受けてしまった。まとめきれずに組織は崩壊した。課員には今でも申し訳なく思っている。あるとき、明日が生活習慣病検診というとき、上司の得意先の接待に同行したことがある。飲み過ぎて結果は最悪だった。どうしてあのとき断ることができなかったのか、後悔でいっぱいになった。明日は有給休暇で休みというときに、営業マンから大事な仕事の依頼があった。それを「明日は有給休暇で引き受けることができない」と断ることができなかった。「こんなに忙しいときによく有休がとれるものだ」といわれることを恐れたのだ。その依頼を同僚に頼み込んで肩代わりしてもらうことになった。これで大丈夫だと思って、自分は有給で休んだ。しかし次の日、その同僚はその依頼をすっかり忘れていた。私の責任になり、営業マンから軽蔑された。私はいたたまれなくなった。他人からの依頼やお願いごとを断ることができる人は、他人に対して気軽に依頼やお願い事ができる人だと思う。反対に断ることができない人は、他人へお願い事をすることができない人です。なぜかと言えば、根っ子が同じだからです。立場が変わっただけのことです。この問題を、森田理論を応用してどう対処したらよいのでしょうか。明日の投稿課題とさせていただきます。
2021.08.18
コメント(0)
現在の世界を牛耳っている人たちはどういう人たちかを明確に説明してくれている人がいます。林千勝さんという人です。2021/04/17のsakura so TV という you tubeチャンネルです。題名は、「今世界はどうなっているか 第1回 民族無き世界を目指す2つのグローバリズム」です。世界の支配構造、政治、経済、金融、紛争、戦争、脱炭素社会から原子力ビジネスなどのからくりがよく分かりました。世界を自由自在に操ろうとしているのは、マネー第一主義を掲げて、国境の垣根を取り払いグローバル世界の舞台で無限大の金もうけを企んでいる国際金融資本・多国籍企業群です。端的に言うとアメリカにはGAFAという巨大企業があります。グーグル、アップル、アマゾン、フェイスブックのことです。中国にはBATHという巨大企業があります。バイドゥ、アリババ、テンセント、ファーウェイです。これらが国際金融資本、多国籍企業の代表格です。これらの企業は氷山の一角です。業種ごとに世界を席巻している多国籍企業が存在しています。それらの巨大企業が、グローバル世界で無限大の利益拡大を目指しているのです。目指しているのは、世界中のすべての人の幸せではありません。むしろ、大衆を犠牲にして、独占的に富をかき集める事だけを考えているのです。その結果10%の超富裕層と90%の貧困層に分けられてしまうのです。現在世界の政治体制は2つに分かれています。この中でどう立ちふる舞っているのか。一方にはアメリカを中心として、新自由主義を標榜している国があります。西側諸国は、自由と民主主義を掲げています。自由の名のもとに行われているのは、競争第一、民営化、規制緩和、弱者切り捨てです。アメリカでは、国際金融資本、多国籍企業は、政治に深く介入しています。上院、下院議員に数多くの協力者を送り込んでいるのです。それは今回の大統領選挙でよく分かりました。マスコミを総動員して、7000万人以上の支持を集めたトランプ氏を追放しました。現在トランプ氏の息の根を止めようと活動しています。政治の世界だけではありません。経済、行政、司法、金融、教育、マスコミ、軍事面も完全に支配しています。いかに大衆が悲惨な状況に陥っているかは、堤未果さんの「貧困大陸アメリカ」という本を読むとよく分かります。さてもう一方は、一党独裁、マルクスの共産主義を標榜する中国です。ブルジョアを追放して労働者中心の幸せな社会を標榜した共産主義国家の樹立はどうなっているでしょうか。1億人の超富裕層と約8億人の貧困層に二極分解していると李克強首相が指摘しています。現在の中国は管理社会、全体主義国で国民の自由、人権、民主主義は制限されています。治安維持法下の日本人の言論統制を思い出します。中国が覇権を握ると、世界中が監視社会、言論統制、管理社会、全体主義に染められてしまいます。その可能性が高まっています。政治的には、西側諸国と中国は全く別物ですが、西側の国際金融資本、多国籍企業は依然として中国への投資を増加しています。経済は相互依存関係にあるのです。それは、人権を抑圧して、強制労働、低賃金労働者を使って安価な製品が手に入るからです。価格競争のためには中国で作るしか勝ち目はないというのが実態です。こうしてみると世界を操っているのは、国際金融資本(ディープステイト)、多国籍企業群だと言えます。欲望の暴走の最先端を走っている人たちです。ブレーキの壊れた車を坂道でアクセル全開で突っ走っているように見えます。森田では欲望の暴走は自他ともに破滅の方向に向かうと言います。欲望は不安によって制御する必要があるといいます。森田理論の立場から警鐘を鳴らすことが必要だと考えます。
2021.08.17
コメント(0)
できたからほめるのではない、ほめるからできるようになる。どこの会社でも、仕事をスピーディーにこなす人と、もたもたして遅い人がいると思います。特に流れ作業で一定のスピードについていけない人がいると、仕事がつかえてしまいます。仕事が停滞すると、全員の仕事のリズムが崩れてしまいます。こうなりますと、その人を叱責するようになると思います。人間関係が悪くなります。マツダの工場見学をしました。ベルトコンベアーの上を次から次へと自動車が流れていました。一人の人は同じ仕事をしています。例えば機械が自動でフロントガラスを運んできます。それをきちんと固定する仕事を担当している人は、2年間は同じ仕事をすることになるそうです。時間内に完了しないと、その人の上部に取り付けてある赤色灯がグルグル回転します。同時にけたたましい警報音が鳴り響きます。そういうときは、すぐにお助けマンがやって来て、仕事の遅れを取り戻します。仕事の遅い人は居づらくなる職場のように感じました。仕事の遅れが常態化している人は、人に迷惑をかけてしまいますので、最終的にはその職場から排除されることになります。相手には、ほめるところは一つもないようにみえます。相手をほめるということに焦点を当てた場合、これは目の付け所が悪いと言えるのではないでしょうか。ではどんなところに注目してほめればよいのでしょうか。例えば、最低でも70のスピードが要求される仕事に取り組んでいる時に、60のスピードでしかできない人がいるとします。その人がたまたま63のスビードでできたとき、その3はほめるに値するのではないでしょうか。ほかの人と比べるとまだ物足りないところはありますが、その人は小さな進歩を果たしているわけです。ここはほめどころだと思います。普通は「その程度のことで喜んでもらっては困ります。それでなくてもお荷物になっているのですよ。もっと仕事に集中してください。みんな難なくできていることですから。できないのなら辞めてもらうしかありませんよ」と叱咤激励することが多い。こんな言い方をされると、誰でもやる気は起きてきません。この3を評価してあげると、相手はうれしくなり、積極的に仕事に取り組むようになるでしょう。その結果、仕事のスピードがアップしてくるという流れになるのです。最初はスピードアップしていなくても、スピードを意識して仕事に取り組んでいることも、ほめる材料になります。「スピードを意識して取り組んでいるね」と評価するだけで、不思議と仕事は速くなってくるものです。目の付け所の問題です。できるからほめるのでは遅すぎる。小さな変化を見逃さないできちんとほめてあげる(評価してあげる)ことで、その人のやる気に火がついてくる。きっかけはごく小さなものなのです。これは、組織を統括して、成果を上げるマネージャの資質としては、必要不可欠な能力となります。神経質者はその小さな変化に敏感に反応するという性格特徴を持ているわけですから、対人関係にこれを活かさない手はないと思うのですが如何でしょうか。
2021.08.16
コメント(0)
8月10日の投稿の続きです。この投稿では本音と建前が一致していないと、無理やり行動してもよい結果に結びつかない。それは、ノルアドレナリンなどの神経伝達物質が、「やる気の脳」といわれる側坐核や前頭前野を刺激して、機能不全に陥るからです。実働部隊が後ずさりしているような状態です。逆にドパミンという神経伝達物質が多く出るようになると、脳全体が自分の行動をアシストしてくれるようになる。少々困難なことでも勇気100倍になり、失敗をもろともせずに成功するまで挑戦することができるようになります。ダメだ、自分には無理だ、能力不足だというよりも、どうしたら目標に近づくだろうかという未来志向的な脳に変身しているのです。努力即幸福という森田理論の考え方を実践しているわけですから、周りから見ていてとても好感が持てます。周囲の人に感動を与えます。どうすればドパミンがより多く出るような脳になるのかを考えてみたいと思います。現在普段の生活の中で愚痴や否定的な感情や気持ち、自分や相手を非難する感情や気持ちがどれぐらいの割合で湧き上がってきていますか。部下や配偶者や子供を叱責する。友達を軽蔑する。無視する。腹を立てる。避ける。自分に対しては、ダメ、できない、無理などの愚痴を言うなどの感情や気持ちです。もし否定的、非難するような感情ばかりが数多く湧き上がっているとすれば、これは大きな問題ではないでしょうか。ノルアドレナリンが脳を支配しているというのは、親のしつけや子育ての影響があると思います。それが現在の生き辛さになっているのです。でも今更親を恨んでもどうしようもありませんね。自分が苦しくなるばかりです。別の方法を考えてみましょう。これを改善するために一つの提案があります。愚痴を言いたくなったとき、否定的な感情や気持ちになったとき、自分や相手を非難する感情が湧き上がってきたとき、まずは「あっ、また来たな」とその気持ちをしっかりと受け止めるのです。意識するということです。認識したら、それをもとにした言動はできるだけ慎むように気を付けるのです。次に、自分の周りには、とりとめのないことで感謝すべきことはいくらでも転がっています。たとえば、「今日も元気に目覚めてありがたい」「今日も食事がとれてありがたい」「今日も元気に歩けてありがたい」「花が綺麗に咲いてくれてうれしい」「畑に野菜がいっぱいできてありがたい」「汗いっぱいになったがシャワーを浴びて気持ちがよかった」「トウモロコシやスイカがおいしかった」こうした小さな取るに足らない出来事をできるだけ大きく喜ぶようにするのです。それを「今日の3つの感謝」として日記に書くというのは如何でしょうか。次に目の前のことを肯定的に見るようにするのです。ダメ、無理、できない、難しすぎるという言葉は封印することが大事です。やたらと愚痴を周りの人に吹聴するのも差し控えましょう。もしネガティブな言葉がでたら、「ちょっと待て」をキーワードにすることです。いきなり肯定できなくても、形だけでも「大丈夫、なんとかなるはず。ダメで元々、成功すればもうけもの」と口にすることです。形から入るということですが、これは意外と大きな効果があります。現状を認めて受け入れ、希望を見出だすことができれば、多少なりともドパミンが出てくると思います。ここが肝心なところです。たとえば、私は麻雀が好きですが、配牌を見た瞬間、これはダメだとイライラすることがあります。勝負を楽しむよりも、「なんでこんな配牌なんだよ」と否定して憂うつになっているのです。しかしよく考えてみると、点数の高い役満というのは、悪い配牌の中から生まれてくるのです。こういうときは、嘆き悲しむのではなく、それを逆手にとって、プラスに受け止める。思い切ってそちらのほうを狙って勝負することを考える。途中で相手がリーチをかければ、そのときは悠然と撤退を考えれば、振り込むということは少なくなります。そういう戦法をとるとたまにですが、大きなあたりが来ることがあります。それは望外の喜びとなるのです。最初から配牌の悪さを嘆いていてばかりでは、自分がみじめになるだけです。困難な状況の中から、発想を変えて、小さな希望を持つ。そして事実を肯定的に解釈するという態度になれればよいと思うのです。事実は同じことでもどう解釈するかが、その後の展開を大きく左右します。愚痴、否定、非難の言葉を、承認、肯定、感謝の言葉に置き換えるという意識で生活していると、多少なりともノルアドレナリンが減少し、ドパミンが増えるように感じています。これが人生を楽しみ、何事にも挑戦する勇気をもたらすのだと思っております。こういう生き方を身につけた人に、数多くの幸せが近寄ってくるのではないでしょうか。これをキャッチフレーズにして、机の前に貼りつけて、日々努力して習慣化する。すると、生産的、建設的、創造的な味わい深い人生に変化してくるはずです。
2021.08.15
コメント(0)
私のブログをお気に入りに登録してくださっている楽天のブログが現在12個あります。ここにご紹介するとともに感謝申し上げます。みなさまの今後の健闘を祈念いたします。・心食動操 メルトスライム25様・「氣」研究所 「氣楽」 ローズこころ1様・「あるがまま」日記 water2046様・きれいの秘密を見つけよう あんずの日記様・へこきもと 気まぐれブログ へこきもと様・ファインディング うつ! まけどにあ様・神経症を克服します ROSE33333様・せーちゃのほぼ毎日ブログ せーちゃ3851様・私の父は双極性障害 こはる日和だな様・kenko-mのブログ kenko-m様・「私」がいる幸せ えみこた2様・フカヒ2021のブログ フカヒ2021様
2021.08.14
コメント(0)
子供のけんかには親が口をはさまないのが原則です。実際には、子ども同士のけんかに親で出てきて、相手の家に怒鳴り込んで傷害事件にまで発展することもあります。仮に親が子供の仲裁に入るときはどんなことに気を付けるとよいのでしょうか。たとえば、兄弟げんかの場合、弟の言い分だけを聞いて、「あなたはお兄ちゃんでしょ。弟をいじめてはいけません」などと一方的に叱責することはいただけません。お兄ちゃんにはお兄ちゃんの言い分があります。それもきちんと聞いてあげるべきです。別々に聞くよりも、兄弟がそろったところで、一人一人の言い分を聞きます。途中で他の兄弟が口を挟もうとするときは、それは止めさせます。手足を出したり、泣き叫ぶ時も同様です。一人ずつ、相手の目の前で自分の言い分をきちんと主張させるのです。ここで肝心なことは双方の言い分を黙って聞くだけです。司会進行の役割を果たすことです。信号機が壊れたとき、警察官が交通整理をすることがあります。これと同じです。どちらかに肩入れすることなく、平等に話をさせることです。自分の言い分をしっかり聞いてもらえたという体験が大切です。これが大人になった時、利害関係が衝突したときに、話し合いによる解決策を探るという原点になるのです。こういう経験がない大人は、無理やり暴力や権力で短絡的に相手をねじ伏せてしまうようなことを考えるようになるのです。双方に大きな痛手を与えます。次に大事なことは、スポーツの審判や裁判所の裁判官のように、どちらが良いか悪いかを裁定することは慎むことです。森田理論では、観念で是非善悪の価値判断を行い、それを前面に押し出すやり方は、「かくあるべし」の押し付けになるといいます。これが神経症の原因になり、葛藤や苦悩でのたうち回るようになると学びました。いいところまで行ったのに、最後でずっこけてしまっては元もこうもありません。実に残念な結果となります。大岡越前の裁定に三方一両損というのがありますが、これは喧嘩沙汰になったときには、話し合いによる痛み分けが人間関係の破壊を防止するというものです。上から目線でいい悪いと裁定すれば、いったん解決したように見えても、後々大きなしこりを残します。親が司会進行役に徹すると、子ども同士はそれぞれの主張を吐き出して、自分たちの気持ちを相手に知ってもらうことができます。それで少しは冷静になれます。お互いに、相手の気持ちを多少なりとも理解できるようになります。そしてつぎに自分の主張と相手の主張の妥協策を探るようになれば、犬猿の仲になることはありません。こうした経験は、大人になって、利害関係で対立したときに、いかんなく発揮されることでしょう。人間関係が破壊されることを防止します。こういう交渉力は大きなコミュニケーション能力の獲得につながります。その原点は、相手の話を平等に聞いてあげるというところにあるのです。
2021.08.14
コメント(0)
覆面調査会社というのがあるそうです。これは、飲食店やサービス業、セールスのお仕事など、経営者から依頼を受けて、お店、現場のスタッフが実際にどんな接客やサービスを行っているかを調査する仕事です。調査員が、その立場を隠して、お客様のふりをしてお店を訪れ、接客を受けてその内容を報告するというものです。普通は接客サービス、店員の態度、服装、お店の雰囲気、清掃、提供された商品などの改善点を見つけて指摘することが多い。相手の問題点を見つけ出して、非難、否定しているわけです。それが依頼主の要望にかなっていると思ってしまいがちです。ところが実際は、その手法を推し進めて行くと、仕事の依頼は減ってくるそうです。ではどんな点に着目した調査を行うと仕事が繁盛するのか。それは「できていて当たり前」の中からいいところを探し、「○○さんのこういうところがとてもよかったですよ」と具体的に事例をスタッフの名前付きで報告することです。簡単なことのようですが、発想が反対になるために実行は難しいのです。大阪市内にある焼き鳥チェーンの覆面調査の事例です。一人のアルバイトスタッフの頑張っている様子を報告しました。彼女は、人の見ていないようなところで、客の帰った後のテーブルを一生懸命拭いたり、テーブル下を見て「忘れ物なし。OKです」「あ、忘れ物、傘です!」とレジまで走って行ったり、とても丁寧に、そして一生懸命に仕事をしていました。すると後日、その報告書を目にした店長が彼女を呼び「お前の仕事の丁寧さをこのお店の基準にしたい。だからミスが多くてもいい。失敗してもいい。この仕事の丁寧さだけは失わないでほしい」と告げたそうです。彼女は、元々仕事が遅く、店が満席になるとミスを連発する「ダメバイト」のレッテルを貼られていたのです。店長の言葉で、彼女の仕事ぶりが大きく変わりました。仕事が少しずつ早くなり、ミスが減ってきました。仕事を覚えることに苦労し、さまざまな失敗を繰り返してきたことを教訓にして、新しいバイトたちに分かりやすくアドバイスすることもできるようになりました。それから3か月後。彼女は系列店7店舗130人のアルバイトスタッフの中で「最優秀アルバイト」に選ばれて表彰されました。さらに半年後、お店の売り上げは161%になりました。ひとりのアルバイトのがんばりを店長が評価したことが店のスタッフ全体によい影響を与え、それが業績アップという形となって表れたのです。(ほめ下手だから上手くいく 西村貴好 株式会社ユサブル 122ページより要旨引用)「かくあるべし」の強い人は、相手の弱点、欠点、ミス、失敗を実態以上に大きく取り上げて、相手を非難、否定、叱責、説教することが多いように思います。そして、その人の人間性を否定し、人格否定をしてしまうこともあります。自分もたびたび間違ったことをしているのに、それを棚に上げてよくそんなことがいえるものだ。開いた口がふさがらないというのはこのことを言うのではないか。反対にそれには目をつむり、できていて当たり前のことを見つけ出して、そこに光を当てて実態以上に評価する能力を身に着けている人もいます。これは森田理論でいえば、相手の状態に寄り添い、そこを出発点と考えて、新たな生きる課題や目標を提案していくことになります。この方向を森田理論は目指しているのです。こういう人生観を森田理論で学習して、身に着け、悔いのない人生を送りたいものです。あきらめないかぎり、森田理論に取り組んでいる全員にそのチャンスは与えられています。
2021.08.13
コメント(0)
生活の発見会の集談会に参加している方は、共感することを心掛けておられると思います。アットホームな集談会にするためには、相手に純粋な関心を寄せることが大切です。相手の話を真剣になって聞いて、共感する。参加者一人一人に対して、そういう気持ちで対応していけば、お互いに信頼感が作り上げられることでしょう。それはとても大切なことですが、共感する時に、1つだけ気を付けてほしいことがあります。西村貴好さんは次のように指摘されています。共感する時は、共感に留めて、マイナスの同調まではしないことが大切です。「○○さんに、こんなことを言われました」「あぁ、それは辛かったですね」これが共感です。「○○さんに、こんなことを言われました」「あぁ、それは辛かったね。それは△△さんひどいわ」「△△さんひどいわ」というのがマイナスの同情に当たります。マイナスの同情までしてしまうと、火に油が注がれ、マイナスの感情が山火事のように広がります。また△△さんを要らぬ敵に回してしまうことにつながりかねません。共感に留めておくと、共感している相手のマイナスの炎がやがて鎮火してきます。(ほめ下手だから上手くいく 西村貴好 株式会社ユサブル 141ページ)同情するというのは、相手の辛い気持ち、悲しい気持ちを受け止めるということです。幼い姉妹でお姉ちゃんが泣いていると、妹もつられて泣きだすといったイメージです。相手の辛い気持ちや悲しい気持ちに対して、解釈することはやりすぎということです。神経症の悩みは、普通の人から見ると異質に見えます。実際にそれで苦しんでいるわけですから、「しんどいですね」「辛そうですね」と同情してあげることは大切です。しかし一般的には、「そんなことを些細なことを気にするのは止めなさい」「すぼらはダメですよ」「それより目の前のやるべきことをしなさいよ」「あなたは逃げているだけではないの」などと自分の見解述べて相手を非難しています。とくに神経症に縁のない人から見ると、しんどいことから逃げる手段として、神経症を悪用しているように見えてしまうのです。自分は不安や苦しみを抱えても前向きに頑張っているのに、そんな態度は絶対に許せないという気持ちになってしまうのだと思います。共感を通り越して、解釈してしまうことは、即「かくあるべし」を押し付けてしまうことにつながります。そういう人は、自分自身にも「かくあるべし」を押し付けていますので、二重の葛藤を抱えて苦しむことになります。一般社会では仕方ないとしても、集談会の中で、「早く仕事を見つけて仕事をしなさい」「正社員の仕事につきなさい」「仕事や学校へ行くのをさぼってはいけません」などと言われると、自分の居場所はここにはないのだなと敏感に察知してしまうのです。集談会では相手に寄り添う共感を大切にして、自分の解釈は封印するという態度が求められます。
2021.08.12
コメント(0)
今日は時間の使い方について考えてみたいと思います。人間は集中できる時間は、長くても2時間から3時間だといわれています。それ以上になると、疲れて頭の回転が悪くなります。飽きてくる。そして精神が緊張状態から弛緩状態へと変化してくる。大学の講義時間は90分が基本です。映画の上映時間は90分から120分程度。サッカーの試合は45分×2の90分。野球の試合でも2時間から3時間程度です。たまに4時間くらいの時もありますが、見るほうもやる方もダレてきます。仕事では一般的には9時からとりかかり12時まで働く。3時間です。そして1時間休む。食事の後は眠くなる。うつらうつらとしている。そして2時くらいから5時くらいまで、3時間くらい集中して仕事をする。そして一休みして、さらに遅くまで働く人が多いのですが、それはやりすぎというものでしょう。確かに、みんなが働いているのに、自分だけ帰宅するというのは気が引けます。ですから時間の使い方としては、2時間から3時間を目安にして取り組むことが理にかなっているということです。神経質者は動き出すまでは時間がかかるが、その後弾みがついてくるとのめりこんでしまうという人がいます。特にネットゲームなどに凝っている人は、深夜まで続けています。貴重な時間の使い方が気分に流されています。気分本位を地でいっているようなものです。森田先生が指摘されている「休息は仕事の中止ではなく、仕事の転換にある」という言葉を思い出していただきたいと思います。森田ではリズムを意識した時間の使い方が必須となります。一日のうちで一番頭の回転が良くなるのは早朝4時から8時くらいまでだといわれています。早起きして、この時間帯を有効活用することが大切になります。私も社会保険労務士の試験勉強をしていた時は、早寝して、毎日4時に起きて2時間30分ほど勉強していました。頭がさえているので、勉強がはかどるという体験をしました。このブログも前日のうちにテーマを決めて、早朝6時20分くらいから、7時50分までの間に一気に書き上げます。これを午後に持ってきたことはありません。頭と体がついてこないからです。午後は、投稿テーマ見つけ、体を動かすことを考えて行動しています。これを8年以上も続けていると、完全に習慣化しました。早起きして学習する利点は、一日の生活のリズムが作れることです。規則正しい生活が自然と身についてきます。リズムに沿って緊張と弛緩の波に乗るという生活習慣は安心感や安定感が生まれてきます。1週間で区切ってみると、火曜日、水曜日くらいが調子がよいように思います。本来ですと、土日の休みを取った月曜日が調子がよいように思いがちです。でも実際には仕事が体になじんでくるのに、半日くらいかかるような気がします。その後やっとエンジンがかかり、午後からやっと走り出すことができるような感じです。ですから仮病を使って月曜日にお休みするということは、極力避けなければいけません。そうすると、火曜日が月曜日のような状態になるからです。他の人が仕事の調子が上がっているのに、自分だけとり残されたような状態になります。1週間のうちでも、緊張と弛緩のリズムがあるということを理解しておくと、月曜日に気分本位になって休むということは避けることになります。時間の使い方に特化して神経症を克服することができます。興味のある人は、「時間の性を尽くす」ことに取り組んでみてください。その段階に至れば、森田理論の要点のほとんどが芋づる式に理解できるようになるはずです。
2021.08.11
コメント(0)
プロ野球で、ツーアウト2、3塁で、バッター8番という場面があったとします。次9番バッターがピッチャーで、状況から考えて代打はあり得ないとき、ベンチから申告敬遠で満塁策を指示される場合があります。ピッチャーは打てないだろうから、得点は入らないだろうと誰もが考えるのです。たしかにピッチャーはバッティング練習を本気でしていないので、そういうケースが多いようです。ところが対戦するピッチャーの心理は複雑です。普段通りの心理状態であればよいのですが、万が一という感情に支配されるとパニックになります。アウトをとって当然の場面では、「これでチェンジになるだろう」と、守っている味方選手もベンチも、そしてファンも信じて疑わない。ピッチャーは、みんなの期待を一身に背負って、「何が何でも抑えなければならない」という気持ちが強くなるのです。これが大きなプレッシャーとなり、精神的に大きな負担となるのです。そういう気持ちが前面に出てくると、ここはなるべく慎重に投げようと思うようになる。必要以上にコーナーを狙ってみるようになる。ストレートにしようか、それとも変化球にした方がよいのか配球にも悩むようになる。疑心暗鬼になり、自分が信じられなくなるのです。もう一人の自分が、パニックに陥っている自分を否定するようになるのです。すると手元が狂ってなかなかストライクが入らなくなる。ボールが先行すると、その不安はますます高まる。3ボールになると、パニックになります。自分のふがいなさを嘆くようになると始末に負えない。1割にも満たないバッターでも、偶然にあたる事はあるはずだ。ポテンヒットを打たれたら、たちまち2点はとられてしまう。フォアボールで押し出しになると目も当てられない。監督、コーチ、ファンに合わせる顔がない。叱責される。ヤジられる。つまり精神交互作用でネガティブな考えが次々に頭をよぎる。こうなると頭で考えていた最悪のシナリオが、現実のものとなる可能性が高まります。これだけは絶対に避けなければいけないと思っていることが現実になるのです。何とも歯がゆいことですが、最悪の事態を自分自身が引き寄せているのです。最悪の現実を目の当たりにして、やはり自分の見立ては正しかった。以後、怖気づいて、バッターとの駆け引きを忘れてしまうと、どうにも止まらなくなります。この心理状態は、どんな仕組みになっているのか。この現象は脳の仕組みを観察するとよく分かります。ネガティブな感情や気持ちは、まず扁桃体に入ります。扁桃体は、神経伝達物質のノルアドレナリン等を使って、不安や恐怖の情報を脳全体に伝えます。すると「やる気の脳」と言われる側坐核の機能が上がらなくなります。沈黙するのです。さらにプラスの行動をとるために、本来なら全力で試行錯誤を繰り返している前頭前野も機能停止になります。一大事の時に休眠状態になっているのです。自分はなんとかしなければと思っていても、脳が機能不全を起こしているのでどうすることもできないのです。脳全体が、委縮して、慌てふためき、放心状態に追い込まれているのです。これでは成果が上がるはずもありません。もしこの時、「よし、この状況では何とかチェンジに持ち込めるぞ」というポジティブな感情や気持ちが湧き出たとしたらどうなるか。この場合は、神経伝達物質としてドパミンがどっと出ることになります。それはまず「やる気の脳」である側坐核に届きます。自信に満ちて、おのずからモチベーションが上がります。ピンチになると、本気モードになって、エンジンのギアが一段階上がるという選手がいますが、この部分が活性化しているのです。その情報は直ちに脳全体に伝えられます。特に前頭前野に伝えられて、その活動が旺盛になります。前頭前野は打者を打ち取るための方策をあらゆる角度から分析します。いくつかの選択肢からこれぞと思うものを、捕手と相談しながら選択します。あれこれ迷わず、これで勝負という建設的で前向きな気持ちになります。このように脳が緊急事態に当たり、総力を挙げて自分に協力してくれる訳ですから、火事場の馬鹿力がでてくるという仕組みになっているのです。最初にネガティブな感情や気持ちが湧き出てしまうと、最初からおよび腰になります。反対にポジティブな感情や気持ちが湧き出てくると、やる気に火がついて勇気百倍になります。でもこれは意志の力だけではどうにもなりません。そのためには、森田では形から入ることをお勧めしております。形から入るということは、普段から愚痴や否定語を使わないで、希望的な肯定語を使うように心がけていくのです。これを習慣化していくことが肝心です。一大事の時に、ドパミンが湧きだしてくるような仕組みを作り上げていくのです。これはピンチになればなるほど、効果が出てきます。例えば、自分に次のように語りかけるのです。「大丈夫。大丈夫。相手は9割の高い確率で凡打する。それは何よりもデーターが示している。掲示板を見ると打率が1割にも達していないではないか。自分は140キロ以上のストレートを投げることができる。スライダーも鋭く曲がっている。今の自分の力を持ってすれば抑えられるはずだ。自分の力を信じて、ここは腕を思い切り振って勝負してみよう」何の根拠があってそんなことを言うのかではまずいのです。自分は自分の最大の味方であって、どんな事態になっても、見捨てないで応援し続けるという気持ちが大切になります。このように自分と対話すれば、大事に至らない可能性が高まります。仮に失敗しても、自分を否定しないので、早く気分の切り替えができます。そして次の投球に専念できるので、勝てる機会が増えてくるのです。この脳のからくりは、神経質者も心得ておくといざというときに役立ちます。
2021.08.10
コメント(0)
宇野千代さんの言葉です。ものを書こうとするときには、誰でも机の前に坐る。書こうと思うときだけに坐るのではなく、書こうとは思っていないときでも坐る。この机の前に坐るということが、小説を書くことの基本です。毎日、または1日の中に幾度でも、ちょっとでも暇があるときに坐ると言うのではなく、毎日坐るのである。坐る、という姿勢があなたを規制します。不思議なことですが、ほんとうです。あなたは坐ったら、何をしますか。どうしても、何か書くしかないでしょう。この、毎日坐るということが、小説を書くことの基本です。机を前にしたら、どうしても書かなければならない。では、何を書くか。何を書くかは、あなたが決定します。しかし、間違っても、巧いことを書いてやろう、とか、人の度肝を抜くようなことを書いてやろう、とか、これまでに、誰も書かなかった、新しいことを書いてやろう、とか、決して思ってはなりません。日本語で許された最小限度の単純な言葉を持って、いま、机の前に坐っている瞬間に、あなたの目に見えたこと、あなたの耳に聞こえたこと、あなたの心に浮かんだことを書くのです。「雨が降っていた」「私は腹を立てていた」「また、隣の娘が泣いている」という風に、一字一句正確に、できるだけ単純に書くのです。あやふやな書き方をして、それで効果を出そうなぞと、そんなことは、決して考えてはなりません。素直に、単純に、そのままを書くと言うことが、第一段階の練習であり、やがて、大きなものの書ける基本です。(行動することが生きることである 宇野千代 集英社文庫 203ページより引用)小説家というのは、ものを書くのが仕事です。決まった時間に机の前に坐るということが最も大切だと言われている。億劫でも、その気にならなくても、時間になれば仕事に取り掛かる。つまり当たり前のことをルーティンにして、毎日規則正しく繰り返すということです。平凡なことを機械的に繰り返すというのは、思った以上に難しい。気分本位に流されてしまうとすぐに崩れてしまう。また外からの誘惑や刺激に影響をうけると、すぐに放り投げてしまう。放り投げても、時間が経てば、元の状態に戻れば問題はない。ところが、いったん脱線してしまうと、規則正しい生活や凡事徹底という森田がお勧めしている生活指針を反故にしてしまう。これでは本来の森田実践からはずれてしまう。宇野千代さんは、平凡なことは平凡に徹する方がよいと言われています。無理をしないで淡々と手足を動かしていく方が長続きする。軌道に乗せるのは時間がかかる。しかし破壊するのはその日から可能になる。水谷啓二先生は次のように話しされている。神経質者は風雲に乗じて成功を遂げるタイプではない。平凡を軽視しないで毎日の生活や仕事に精を出す。そういう平凡な生活が20年から30年積み重さなると、非常に非凡な成果を生む。非凡な能力の持ち主として周囲から尊敬されるようになる。それを積み重ねた人は、類まれな能力を身に着けた人である。これは簡単そうで意外に難しい。例えば、1キロのジョギングをすることは、ほぼ誰でもできる。でも、マラソンのフルコースの42.195キロを完走できる人は、めったにいない。もし完走できれば、周りの人からその挑戦や努力に対して高く評価されるようになる。我々は人から高く評価されたいという気持ちが強いわけですが、一発逆転ホームランよりも、コツコツとヒットを積み重ねるという方法でその目的を達成したいものだ。習慣づけられた日々の生活に真剣に取り組む中で、日々新たな気づきや発見がある。そういう生活の中に人間本来の楽しみや生き方のコツがあるように思えてならない。
2021.08.09
コメント(0)
私の参加している集談会には、歴史に興味を持っている人が5人おられます。地元の歴史研究会などに参加されている。旺盛な知識欲に感心しています。積極的に現地に出向いたり、図書館に通って研究をされている。これは、神経質者の強い好奇心、分析力という性格が多分に影響している。歴史に学び、今後の世の中の動きを自分なりに展望することは、これからの生き方に影響を与える。実は私もそのうちの一人です。私は現代史に興味がある。それには訳があります。私の母は、原爆が落とされたとき、広島駅で改札の仕事をしていて被爆しました。なんとか命は助かりました。私は被爆二世なのです。特に先の太平洋戦争(第二次世界大戦、大東亜戦争という人もいる)は、312万人の日本人が亡くなり、戦後はアメリカに支配され、国民の生活の困窮を招いたが、この戦争を回避する道はなかったのかに興味がある。結論から言うと、この戦争は避けることが可能であったと思います。歴史研究を通じてそのことがはっきり分かった。今日はこの問題を取り上げて分かっている範囲で紹介したいと思う。当時のアメリカ大統領はルーズベルトでした。日本を戦争へと向かわせた張本人です。ただアメリカ政府のバックには、ディープステート(陰で政府を操っているロックフェラー系のユダヤ系国際金融資本)がいることを見逃すと分析を誤ることになると考えている。当時のアメリカの世論の9割は、第一次世界大戦で12万人の戦死者を出し、戦争は絶対反対の立場だった。しかしディーブステートの考えは違いました。戦争を引き起こすことで、自分たちの富を増やすことができるのです。造船、航空機、兵器製造、戦時物資、食料、移送、土木、建設などあらゆる分野で儲ける機会が爆発的に増加するわけですから、人の命が軽く扱われることは何とも思わない。それどころか、戦争を引き起こすことが悲願なわけです。その意向を受けてルーズベルトはある作戦を立てました。日本をガラガラヘビに見立てて、針でつつきまわせば、からなず反撃してくるはずだと思っていたというのです。仮に日本が挑発に乗ってくれれば、戦争反対の国内世論が、「憎き日本を打つべし。戦争に無条件に賛成します」という方向に転換するとみていたのです。選挙では当選するために、表向き戦場に若者を送ることはしないと言っていましたが、自国防衛のためにやむなく戦争を開始せざるを得なくなったというシナリオを描いてそれを実行したのです。1939年から、矢継ぎ早に輸出製品の制限を強化して日本を挑発しています。とどめは1941年石油の全面輸出禁止です。これが日本が戦争に踏み切る大きな引き金となりました。当時石油はアメリカに9割方依存していました。しかし驚くことに、日本が2年間戦えるだけの石油は備蓄させています。そうしないと日本が挑発に乗ってこないことが分かっていたからです。その挑発にまんまと乗ったのが、山本五十六連合艦隊長官の率いる日本の海軍です。1941年12月8日ハワイの真珠湾を攻撃しました。その時の暗号は、事前にすべてアメリカで解読されています。ルーズベルトは、日本連合艦隊が、国後島を出発して、南下していることをすでに知っていました。しかし、日本に警告はしませんでした。予期せぬ攻撃に見せるために黙殺していたのです。その情報を掴んだ時、ルーズベルトはこの上なく喜んだということです。戦争開戦の口実が、日本によって作られるのが目に見えたからです。早速ルーズベルトは、最新鋭の空母は真珠湾から緊急避難させました。その上、旧式戦艦ミズリーを「いけにえ」として無防備で真珠湾に停泊させていたのです。できるだけ派手に暴れてくれというお膳立てをして、笑いを隠して静観していたのです。もちろんその内情はアメリカ国民には極秘事項です。結局挑発に乗った日本はピエロを演じていたのです。実はドイツも大西洋でアメリカ海軍から挑発を受けていましたが、耐えがたきを耐えて、アメリカの挑発に乗ることはなかったのです。アメリカを敵に回して戦争すると負けるということが分かっていたのです。そんな時に、日本というガラガラヘビがまんまと噛みついてくれて、世論を味方につけて戦争を開始することができたのです。まさにシナリオ通りです。ここで疑問なのは、山本五十六長官は、日本がアメリカを相手に戦争しても勝ち目がないということは百も承知していました。それなのに、あえて陸軍や海軍省軍務局などで反対意見の多かった真珠湾攻撃を強行したのか。彼一存の考えではなかったことが想像できます。アメリカの挑発以外にも、近衛文麿前首相やその他の閣僚等の強力な後押しがあったはずです。この点は東京裁判で一部明らかにされていますが、詳細は不明になっています。今後の解明が必要です。しかしキーマンの証拠文章は、敗戦後焼却されたので、難しいかも知れません。さて、ここで重要なことは、1941年9月29日に、大本営陸海軍部で「対米英蘭戦争指導要綱」が正式決定されています。これは重要な文章です。この内容を見ると、日本は世界の情勢を正確に分析しているのです。その中にアメリカとの戦争はどんな手段をとっても回避すべしという方針を打ち出しているのです。この方針に基づいて行動していれば、戦争は防ぐことができたと思われます。この要綱によると、日本がアメリカを刺激しなければ、アメリカは日本を敵に回して戦争に踏み切らないとみていました。それはアメリカ国民の9割を超える戦争反対の世論があった。さらにルーズベルトは戦争不参加を公約として当選した大統領だった。いくらディープステートの傀儡政権とはいえ、積極的に戦争に打って出られなかった。日本が日本や東南アジアの防衛に専念すると、地理的な面で不利であったことなどが上げられる。当時航空機で日本本土を攻撃しても、帰還は困難で、そのまま中国に着陸しないと燃料が持たないといわれていました。この要綱によると、真珠湾攻撃などはもってのほかの自殺行為だとみなしていました。アメリカの動向を注視しつつ、東南アジアから、ビルマ、インド、中東への侵攻が正しいと指摘している。この戦略に基づいて、真珠湾攻撃と同時期に、インドネシアに侵攻して、石油の生産設備を無傷で獲得している。シンガポール陥落では、欧米列強による植民地支配の一大拠点を壊滅させている。当時のインド洋はイギリスが進出して、アジア各国を植民地化していました。反面ドイツの潜水艦Uボート作戦により多くの軍艦を失い、相当な戦力ダウンになっていました。その上、第一次世界大戦の後始末で戦費を賄う状況にはありませんでした。日本がイギリスをアジアから追い出すには、千載一遇のチャンスだったのです。そういう作戦を国内で共有していたにもかかわらず、山本五十六長官が真珠湾の攻撃を行い、その後サイパン、ミッドウェイ、ガダルカナルに航空基地を作って、アメリカとの全面戦争に入ったことは、勇み足としか言いようがありません。日本国民を奈落の底に陥れたのは、まさにこの独断的な作戦にあったと言えます。本来なら誰かが実力行使で止める必要があったのです。もしその時アメリカと戦争をしていなかったらと思うと残念です。日本はアジア各国の独立自治を推し進めて、協力して欧米に対抗しようとしていました。決して欧米のようにアジア各国を植民地にして、骨の髄まで吸い取ってやろうと考えていたわけではないと思います。その証拠に日本が駐留していた東南アジアの各国からは、いまだに親日国が多いのです。くわしく知りたい人は次の書籍をお読みください。「日米戦争を策謀したのは誰だ」 林千勝 ワック株式会社 全396ページ
2021.08.08
コメント(0)
星山海琳さんのお話です。人には、「理解してもらえないと生きていけない」というタイプと「まあ、そう理解されるもんじゃないよな」というタイプがいます。「理解してもらいたい」は「承認欲求」ともいいますが、生きていて楽なのは圧倒的に後者で、こう考えていると、けっこうたくさんの問題を回避できます。私は後者なのですが、これは「理解なんていらない」と一匹狼を気取っているわけではなく、もちろん理解されたり認められるのはうれしいし、自信にも勇気にもなります。でもそれはラッキーかつ幸福なプレゼントであって、足りないものを埋めてもらうことでも、マイナスをゼロやプラスにしてもらうわけでもありません。前者は、つまり他人から理解されないと自分で自分の価値を認められない、ということです。でも、他人の嗜好や気分に自分の価値を左右されるのは疲れますよね。理解されているときは問題は表面化しませんが、人生には理解されないタイミングもあるので、できたら手放したい苦労のはずなんです。(不登校になって伸びた7つの能力 星山海琳 廣済堂出版 149ページ)アフリカのサバンナで暮らしているシマウマは群れで暮らしています。群れから追い出されるということは、死を意味します。人間も一人で孤立しても生きていけると粋がっても、実際には不可能です。生きるということは、社会に受け入れられることが前提になります。仲間として認めてもらい、のけ者として排除されないように言動には細心の注意を払う必要があります。マズローの欲求5段階説では、承認欲求は3番目に挙げられています。では、社会に受け入れられるためには、自分の感情、気持ち、意志、欲求を前面に押し出してはいけないのか。他人の意向を忖度して、じっと我慢しなければいけないのか。神経症の人は、このような二者択一的な考え方をする傾向が強いようです。自分の素直な感情や気持ちを抑圧して、他人配慮型の生き方を選択するしか生きる道はないと考えがちです。すると自分の本音と実際の言動が乖離して苦悩や葛藤が生まれてきます。これは、他人の意向を配慮して、心にもないことを言ったり、行動しているわけですから、自分の本音の部分が無意識に猛反発しているのだと思います。これが心身症、神経症を引き起こしてしまうのです。私は、他人に配慮することも自分の感情や気持ちを大事に扱うことも、どちらも大切だと思います。自分の態度をどちらかに決めてしまうことは問題だと思います。考え方としては、2つのバランスをいかに上手に取っていくかにかかっていると思っています。他人に配慮した生活をすることは、普段誰でも実践していることだと思います。精魂尽き果てるほど、気を使っているのです。そして疲れ果ててしまっている。そのうち一人で過ごす方がよほど精神的に楽だと思うようになります。では、肝心な自分の本音の部分は、どう取り扱っていますか。自分の素直な感情、気持ち、意志、欲求をどうにか叶えてあげたいと思っていますか。社会不安障害で苦しんでいる人は、こちらの方が蚊帳の外になっている可能性が高いと思います。車のアクセルとブレーキの関係でいうと、自分の素直な気持ちの方がアクセルです。それを踏み込まないかぎり、前進はしません。とりあえず前に進むことが大切です。でもブレーキ(他人への配慮)が壊れていると欲望が暴走するリスクが高まります。暴走して交通事故を起こしてはどうしようもありません。それを防止するには、本音の部分を全面的に押し出しながら、それが暴走しないように、ブレーキを活用して調整すれば問題は発生しません。神経症の場合は、他人の言動に振り回されて苦しいばかりです。その時、自分の感情、気持ち、意志、欲求などを軽視、無視しているのです。ここが問題だと思います。サーカスの綱渡りでは、バランスを失って地上に落下して大けがをします。時には命を落とすことになります。バランスが崩れているのであれば、今からでも遅くはありません。バランスを意識して、その感覚を取り戻すことです。そのためには、他人への配慮の努力は一時封印することです。封印しても今までの習慣から、多少なりとも出てきますから大丈夫です。そのエネルギーを、自分の感情、気持ち、意志、欲求などを叶えてあげるにはどうすべきかに振り向けるのです。バランス感覚を取り戻すために、避けて通れないと覚悟を固めることです。この方法でバランスを回復したとき、対人関係は劇的に改善されているはずです。実際に取り組んで、真偽のほどをご自分で確かめてみてください。
2021.08.07
コメント(0)
NPO法人生活の発見会という自助組織は、神経症になった人が、全国各地で月1回開催されている森田理論学習の勉強会に参加して、交流を深めながら神経症の克服を目指しています。そこには利害関係はありません。入会も退会も自由です。政治や宗教とは無縁です。この団体は、1993年には6000人以上の会員を抱えて大変盛況でした。この数はNPO法人としては最大級です。ところが、その後低迷して現在に至っています。この組織の存在意義を強く支持しているものからすると、その原因を分析して、なんとか復活してもらいたいと切に願っております。低調の原因はいくつかの要因が複雑に絡み合っているとみています。1、精神科の敷居が低くなり、神経症の治療に薬物療法が入り込んできたこと。2、認知行動療法をはじめとした様々な精神療法が百花繚乱の様相を呈していること。3、カウンセリングの敷居が低くなってきたこと。4、バブル経済が1990年に終わり、それ以降生活のゆとりが失われてきたこと。5、生きることに汲々として、神経症で苦しむ人が減ってきたこと。6、不安の中身がはっきりと特定できなくなってきていること。7、漠然とした将来不安、対人不安を抱えて、生きる意義を見失ってしまっていること。8、その日を無難に暮らしていくだけで、生の欲望の発揮が希薄になってしまっていること。9、その他これらを総合的に考えると、もう森田療法や生活の発見会の果たしてきた役割は終わってしまったのではないか。時代の大きなうねりの中で、森田療法は自然消滅の運命にあるのではないと思わざるを得ない。少なくとも今の日本人の置かれた状態を考えてみたとき、今の時代には合っていないと思う。神経症の治療として森田理論を役立てようとしていると、どんどんじり貧に追い込まれてしまうと考えています。残念ですが、それが自然の流れです。では森田先生が考えられた人間学としての森田的な考え方はどうか。神経質者としての生き方、不安の役割、不安と欲望の関係、観念中心で事実軽視の弊害、事実唯真の考え方、生の欲望の発揮、人間教育、社会教育、子育て、人間や国家の自立、社会の在り方、自然との付き合い方、人間関係の在り方、政治や経済の在り方、欲望の暴走社会の弊害など。これらはこれからの人類史を考えてみたときに、無視することはできない。今まで無視したからこそ、人類は不幸な歴史を積み重ねてきたと思う。「今だけ、自分だけ、金だけ」という風潮に流されることは何としても阻止したい。それが最終章を迎えるということは、人類は絶滅に近づくことになると思う。この方向を目指すことは、森田理論が森田人間学として脚光を浴びることになると思う。森田理論は普遍的な人間の進むべき道をしっかりと照らしている。ですから森田理論の神髄は、世界中の人に伝えていく必要があると考えています。この方面では、森田理論が時代遅れの遺産として色あせるものではなく、磨けば磨くほど光り輝くダイヤの原石のようなものであると考えています。そういう視点で自助組織を見渡した時、おのずから道は開けてくるというのが私の考えです。そういう活動に軸足を移すことで、会員が1万になり、そのすそ野が10万人になり、100万人になる展望が見えてくると思う。この段階は、森田理論学習の本音と建前がぴったりと重なり合う合流点になると考えています。そして将来的には森田人間学の考え方が世界中に拡散することを願うばかりです。
2021.08.06
コメント(0)
森田先生の言葉です。さて、書痙なり・そのほかの神経質の症状が治るには、背水の陣という事が最も必要なことです。背水の陣というのは、兵法で敵前に、川を後ろにして陣をしいて、逃げることのできないようにする事です。退却することができないと確定すると、突進して血路を開くよりほかに方法が尽きてしまう。鼠一匹でも、正面からパッと飛びかかって来ると、たいていの人が身をかわすものです。必死の勢いで突進して行けば、必ず血路は開ける。これを必死必勝といいます。「窮すれば通ず」といって、神経質の症状は、みなこの心境になりさえすれば、必ず全治することができます。(森田正馬全集第5巻 687ページ)神経症は不安にとらわれて、不安を取り除こう、不安から逃げようと「はからう」ことで、どんどん増悪して、最後には日常生活に支障を起こすようになるまで悪化するのです。森田理論学習によって、神経症の成り立ちが分かれば、その逆のことをすれば、神経症で苦しむことは無くなります。不安を取り除こうとするのを止める。不安から逃げない。しかしこれは、たとえ森田理論学習で理解しても、実行となると大変難しい。苦しくて気が狂いそうなときは、どうしても神経症の原因である不安を取り除きたい、取り除くことができなければ逃げて身の安全を確保したい。これが人情です。私の場合を振り返ってみるとそのパターンにはまっていました。対人恐怖症という強迫神経症でしたので、背水の陣を敷くことができなかったのです。その点不安神経症の人は、集談会にやってきたときは、生きるか死ぬかのような大変な苦しみを抱えておられるのですが、それが結果として背水の陣を敷くきっかけになっていたようです。森田にすべてを託してしまうと、1年足らずで症状から解放される人も数多く見かけました。胃腸神経症で苦しまれた公益財団法人メンタルヘルス岡本記念財団の元理事長の岡本常男さんもそうでした。大手企業の営業本部長や副社長を歴任された方でした。岡本さんは胃腸神経症で体重が30キロ台にまで落ちました。そのころの写真を見せてもらいましたが、骸骨のようなみすぼらしさでした。自宅への坂道も、一人では登り切れず、奥さんに背中を押してもらってやっと家にたどり着くという有様だったと聞きました。そういう最悪の状態を経験されていたのです。岡本さんは、縁あって取引先の方から、森田療法を紹介してもらわれたのです。するとなんと1年足らずで、完全に胃腸神経症を克服されました。体重はすぐに50キロ台にまで回復したそうです。背水の陣を敷かざるを得ない状況が、幸いしたのだと思います。関心のある方は「自分に克つ生き方」(ごま書房)を参照してください。私が対人恐怖症を克服したと感じたのは、森田理論学習に15年くらい取り組んでいた時です。「不安はそのままにしてなすべきをなす」という実践を続けて、日常生活や仕事面では、大きな成果を上げていました。ところが他人の思惑が気になるという対人恐怖症の葛藤や苦しみは、全く改善の目途が立たなかったのです。そんな時玉野井幹雄さんの自費出版の本を読んでいた時、次のような言葉に出会いました。「森田先生は神経症が治るとは一言も言っていない。治そうとすればするほど治らない。治そうとしてはならない。治すべきではない。むしろ症状と一体になって生きるところに本当の生き方があるのだ」玉野井幹雄さんは、30数年間対人恐怖症で苦しみ、最後にたどり着いた先は、対人恐怖症という地獄に住家を構えて、生きづまったまま生きていくしかないと覚悟を固められたのです。つまり対人恐怖症を治すことを断念するという決意を固められたのです。まさに、死地に入ってかすかな光明を見つけられたのです。そこから自分らしい生き方ができるようになったのです。私は玉野井幹雄さんの壮絶な人生に接して、対人恐怖症を治すのは、これなんだなと認識を新たにしました。今までなんとエネルギーの浪費をしていたことかと思いました。そうだ、これからはそのエネルギーを興味のあること、やってみたいことに投入したらよいのではないかと思いました。残りの人生は神経症を治すことよりも、日常生活に基盤を置いて、人生を悔いのないように思い切り楽しんでいこうと決めました。しだいに、対人恐怖症は気にはなりますが、関わることが少なくなっていったのです。私が対人恐怖症に関わらないものですから、対人恐怖症の方は張り合いをなくしたのでしょう。そのうち趣味の数も増え、利害関係のない付き合いも格段に増えてきました。それから10年くらいたってみると、そういえば昔は対人恐怖症で、生きていても仕方ないなと思っていた時があったなと思うくらいです。今も依然として他人の思惑は気になりますが、楽しい事を追いかけるほうに時間を取られて、振り回されることはほとんどありません。たとえ振り回されても、すぐに断ち切ることができるようになりました。これは対人恐怖症を克服したという事ではないのでしょうか。対人恐怖症は、不安神経症の人のように短期間に克服することは難しいと思います。強迫神経症はタマネギの薄皮を取り去るように治っていくといわれますが、実際には私のような経過たどって、あとで振り返ってみると、そんなに気にならなくなっていた。むしろ広く浅い人間関係は、自分の人生を豊かに彩ってくれていると、しみじみと感じる今日この頃です。
2021.08.05
コメント(0)
あなたの周りにこんな上司はいませんか。傲慢な上司、仕事をしない上司、批判ばかりする上司、意地の悪い上司、無能な上司、意思決定できない上司、上にへつらい下に厳しい上司、感情の起伏の激しい上司、権威を振り回す上司、リーダーシップのない上司、やる気のない上司、無理難題を押し付ける上司、部下を育てることができない上司・・・こういう上司のもとで仕事をしていくことは辛いものです。ストレスがたまり、仕事を放棄したくなります。実際に、「こんな上司のもとで仕事なんかしていられるものか」と言って辞職する人もいます。でも多くの人は、家族の生活を考えて我慢しているのが現状だろうと思います。ではどういうスタンスで付き合ったらよいのでしょうか。仕事の妨げになる悪い上司を、テレビゲームの「悪玉キャラクター」に見立てるというのはどうでしょうか。例えば、「スーパーマリオブラザーズ」では、さまざまな障害物や悪玉キャラクターが次々に出てきます。それらを回避し、或いは押しのけて最終ゴールを目指します。このゲームの面白いところは、行く手の先々に必ず障害物が用意されているということです。もし障害物がなく、簡単にゴールに到達するゲームだとすると、ゲームとしては成り立ちません。そんなゲームは面白くも楽しくもありません。絶えず障害物が待ち構えているというのは、私たちの人生そのものですね。その障害物を正面からまともにぶつかるのではなく、うまくかわすことを心掛けるのです。ときには巧みに味方につけることができればいうことはありません。上司の言動に振り回されるだけというのは、地獄の苦しみです。それは自分の気持ちや欲求とまともに向き合っていないから起きるのではないでしょうか。上司に限らず、親や学校の先生などを完全無欠で理想化し過ぎるのは問題だと思います。すべての面に渡りパーフェクトな人間像を求めてしまうのは無理があります。人間というのは、誰でもプラスの面があれば、マイナスの面があります。どんなに高潔に見える人であっても、醜い面、欠点、弱みを抱えています。長所や強みがあれば、短所や弱みもあって全体としてみればバランスがとれているのです。それなのに権限を持ち、人を指導し、教育する立場の人は、完全無欠であるべきであると理想化していると、その「かくあるべし」によって無残にもその期待が裏切られることになります。その反動として、上司、親、先生に反旗を翻して対立することになります。双方が不幸になる原因がここにあります。どんな人間も完全無欠な人はいない。そういう人間同士が、仕事という現場で激しくぶつかり合っているのが、普通の状態であると心得ていれば、少々問題行動のある上司に対してもむきになる事が防げるのではないでしょうか。完全に無視するでもなく、完全に追随するでもなく、森田でいう不即不離を心掛けるのです。私の経験では、そういう上司はいずれ降格、左遷、退職に追い込まれていました。管理職として成果を上げられないということは、会社のお荷物になるわけです。そういう人を平社員として降格させても、行きがかり上人間関係が窮屈になります。その上司の上にはさらに上の上司がいて、厳しく査定していることを見逃してはいけません。のらりくらりとほどほどの付き合いに留めることをお勧めしたいと思います。会社勤めの最大の目的は、生活費を賄うということです。この目的を忘れないことも大切です。この目的を忘れてしまうと、自分の立ち位置が浮遊物のように空間をさ迷うことになります。この目的を忘れて、上司との良好な人間関係作りを目指すことは本末転倒です。このことを森田理論では、手段の自己目的化と言います。逆に言うと自分の目標をしっかりと意識している限り、上司の言動にいちいち振り回されてしまうことはなくなります。そしていずれ潮目が変わるはずだと希望を持っておくことです。
2021.08.04
コメント(0)
森田先生は尊敬語、謙譲語の誤った使い方に手厳しい。豊島園の池には、「金魚を可愛がってあげて下さい」という立札がある。近来は敬語や稚語の使い方が全く滅茶苦茶である。ラジオの講演などでも、文学博士などという人が、随分、民衆におもねるような不用意な言葉を使って、はなはだ不愉快になることがある。この場合は、「可愛がってやってください」というべきではありませんか。私の家でも、女中などが、「魚屋がいらっしています」などというかと思うと、「先生が来たよ」とか、知らずしらず口からのでたらめでいっている。朝日新聞の相談欄でも、山田わかさんが、「お子さんを世話してあげなさい」という風に書いてある。教養のある人でも、近来はこんな言葉を正しい事と思っているのであろうか。これは「お子さんを世話しておやりなさい」「お母さんを世話してあげなさい」という区別が、日本語にはあるのではあるまいか。(森田全集 第5巻 669ページ)日本語の意味が通じればそれでよいという人は、言葉使いに目くじらを立てておられる森田先生の発言は眉をひそめるものかもしれません。また適切に使い分けているかというと、どうも心もとない。森田理論と何か関係があるのでしょうか。日本語には、昔から尊敬語や謙譲語や丁寧語を使い分けることが重要視されています。尊敬語は、先生や目の上の人を敬う気持ちを表現する敬語です。謙譲語は、自分がへりくだることで、目上の相手に対して敬う気持ちを表現します。たとえば、「来る」という言葉を、尊敬語でいうと、「先生がいらっしゃる、先生がお見えになる、先生がお越しになる、先生がおいでになる」という表現になる。これを謙譲語でいうと、「私が参りましょう、私が伺いました」ということになる。「食べる」ということは、尊敬語では「先生が召し上がる、先生がお食べになる」となる。謙譲語では、「いただきました、頂戴しました」となります。尊敬語と謙譲語が逆になるということは、先生、先輩、目上の人をことさらに敬っていないということになります。友達感覚、目下の人と同じように考えている節がある。反対に友達や子供、部下や目下の人に対して尊敬語を使うということは、相手を法外に持ち上げて、自分がよく見られたいとか利得を得ようという下心が垣間見れる。使い方がでたらめということは、大切に取り扱うべきものと、普通に取り扱うべきものとの感覚が麻痺していると言わざるを得ない。こうなりますと先生や先輩はいい気がしない。森田先生は、先生、先輩、監督、リーダー、コーチ、親などは経験を積み重ねて、知識も持っている。自分をよくしようと思ってくれている人たちである。そういう人は最初から尊敬すべき相手ではないのか。それが人情ではないのか。森田理論はそういう自然な感情に素直に反応する態度を身に着けようとしているのである。自分よりも豊富な経験や知識を持っている貴重な人材を大切にして、その人たちから何らかのご利益を得るという敬いの態度を持っている人は、自然に言葉遣いも適切になる。言葉使いひとつとっても敏感になり、尊敬語と謙譲語の使い方が適切になる。決して逆になることはないはずだとおっしゃっておられるのだと思う。そういう見落としがちな面に注意を払う心がけを持っている人は、元々持っている鋭い感性を存分に活用できるようになるといわれているのです。森田理論は小さいことが気になるという特徴を逆手にとって、普段の生活の中でとことん活かしきることを目指しているのです。
2021.08.03
コメント(0)
両面観のものの見方を身に着けるためのクイズがあります。よかったら集談会などで取り上げてみてください。ここに見た目にはまったく同じの硬貨が8枚あります。その中に1枚だけ偽物が混じっていて、本物より少しだけ軽くなっています。その偽物を判別するために天秤がありますが、さて、最低何回、天秤を用いれば判別できるでしょうか。制限時間は10分です。ヒント・・・両方の天秤に1枚ずつ合計4回天秤にかける方法はすぐに分かりますね。どこかで釣り合わなくなります。上に傾いた方が偽物のコインということになります。これでは芸がありません。もっと少ない方法で判別できる方法を考えてみましょう。一人で分からないときは、他の人と協力して、考えてみましょう。実際には、3回、2回、1回で判別できる方法があります。どうすればそれが可能になるのか。ああでもない、こうでもないと思考を巡らせることは、両面観のものの見方の訓練になります。これから答えを書きますが、実際にはこれから先は、すぐに見ないようにしてください。あくまでもいろんな見方を試行錯誤することが目的となりますので。3回という答・・・最初に硬貨を「4枚・4枚」のせる。上に傾いたほうの4枚を、次は「2枚・2枚」のせる。そして、上に傾いた方の2枚を「1枚・1枚」のせたとき、上に傾いたコインが偽物ということになります。この方法は少し考えてみると、だいたい思いつきます。みんなで考えると、ほぼ誰かが答えを見つけ出します。2回という答・・・まず適当に「3枚・3枚」を皿にのせる。ここから2通りに分かれる。①もし、この時皿が釣り合ったならば、乗せなかった2枚を「1枚・1枚」のせれば、偽物が判別できます。②もし、皿が釣り合わなかったら、上に傾いたほうの3枚から、適当に2枚を選び、「1枚・1枚」をのせる。傾けば、上に傾いた皿が偽物。釣り合えば、のせなかった残り1枚の硬貨が偽物となります。1回という答・・・硬貨を「4枚・4枚」のせる。すると、天秤はどちらかに傾く。この傾いた状態から、そっと両方の皿から硬貨を「1枚・1枚」同時に抜き去ることを繰り返す。抜き去ったと同時に皿が釣り合う状態に戻れば、そのとき手にしてた硬貨で上に傾いた皿にあった方が偽物となります。(そんなのありと思う人もいますが、確かにこれは天秤を1回しか使用していない)このゲームを私が参加している集談会でやってみました。ゲーム感覚でやるとみんな身を乗り出して乗ってきました。これしかないと思い込んでしまうと、他の方法はすべて無視してしまいます。これは森田理論でいうと、事実を確認しようという姿勢が希薄になるということではないでしょうか。そして先入観、決めつけ、マイナスのレッテル張りで他人を評価することにつながります。これは森田先生が厳しく指摘されていることです。両面観というのは、物事には必ずプラス面とマイナス面が同居している。その両方を過不足なく見ないと、物を正確に把握できなくなる。そこから葛藤や苦悩が生み出されるという考え方です。これ以外にも、皆さんの方でも両面観を身につける方法をぜひ開発してください。これらを集めて、共有財産にしようではありませんか。(ぶれない「自分の仕事観」をつくるキーワード80 村山昇 クロスメディア・パブリッシング参照)
2021.08.02
コメント(0)
ミニトマトが鈴なりです。私は赤いダイヤと呼んでいます。真っ赤に熟れたものはとても甘みがあります。量が多いのでトマトジュースにもします。ナスはツナと一緒に炒めると酒のつまみに最適です。元気な夏野菜はとても生命力旺盛です。ついでに私も元気が出てきます。
2021.08.01
コメント(0)
奥村幸治さんのお話です。私は現在、「宝塚ボーイズ」という中学硬式野球チームの監督をしています。そこで子どもたちに野球を教えていますが、最初によい習慣を身につけさせるには、監督やコーチ、親などから「やらされる」という外部環境も必要だと思います。たとえばチームに入ったばかりの中学1年生に「自分の目標を持って練習をやりなさい」と教えてもできません。そこで、キャッチボールのときはこういうことを考えながらやろう」とか「道具を大事にしよう」といった具体的な話をしながら習慣づけをしていきます。すると初めは監督やコーチに「やらされる」だったことが、どこかで主体的に自ら「やっている」ことに変わっていきます。イチロー選手も小さい頃はお父さんに毎日バッティングセンターに連れて行かれていました。お父さんとキャッチボールをするのは純粋に楽しめていたかもしれませんが、毎日バッティングセンターに行くのは大変です。今日は行きたくない。つらい時期もあると思うのです。けれど、それを続けているうちに、「自分のなかに目標を作る」という意識づけができるようになったのではないかと私は思います。「やらされる」を「やっている」に変えると、目的意識ができて練習に張りが出てきます。(一流の習慣術 奥村幸治 ソフトバンク新書 40ページより引用)仕事でも、学校や資格試験の勉強でも、最初から面白くてたまらないという人はいません。むしろ、取り掛かる前は億劫で、やらないで済むことなら、やらない方を選択したいと思いがちです。それが正直な気持ちです。でも、それに流されると、次の展開は望めません。気分本位で逃避的態度を選択することは、人間の本来性に背くことなります。ですからイヤイヤ仕方なしでも行動を起こすことがとても大切になります。そうはいっても、「楽したい。エネルギーを消費しないで休みたい。人が見ていなければさぼりたい」という気持ちの誘惑にまけて、堕落の道に真っ逆さまというのが実態です。そういう人を見つけると、首に縄を巻いてでも、オアシスまで連れて行くという人がいるということは、将来的に見るととてもありがたいことです。奥村さんは、とりかかる前は、本人がどんな気持ちだろうが関係がない。とにかく無理やりにでも、行動のきっかけを作っていく。その先はどうなるか分からない。イチロー選手のように、興味や関心を高めて、目標を持って主体的に行動してくれるようになることは理想ですが、そうならないこともある。その方が多いかも知れない。そういう場合は、別のことを考えて刺激を与えるようにする。ここで大切なことは、「やらされている」という気持ちが、いったん手をつける事で、好奇心が刺激されたり、疑問や関心や興味が生まれてくるということです。そうすれば、つぎに課題や目標が生まれてきます。つまりいつの間にか主体的な行動に変化しているのです。課題や目標、夢や希望に向かって、努力精進するというレールに乗るかどうかは、その人の人生が活性化するかどうかの分岐点になっるということです。子供を持っている親は、無理やりにでも多くの経験をさせて、きっかけづくりをする必要があります。集談会では、自分の日常生活や趣味などを開示して、刺激を与えることが大切です。相手が刺激を受けて自分でも取り組んでみようと思ってくれればよいのだと思います。それが20人、30人に一人でも刺激を与えることができたとすれば、大成功という気持ちで取り組むことです。
2021.08.01
コメント(0)
全34件 (34件中 1-34件目)
1