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神経質者は、心配性の度が過ぎていて、やる前から、「これはできないかもしれない」「失敗するかもしれない」「ミスをするかもしれない」などと否定的、ネガティブな思考をする傾向があります。仕事では「この仕事はやりたくない」「難しそうだ、面倒だ、怖い」などです。これに対して、ほとんど成功の可能性はないにも関わらず、「できるかもしれない」「できるだろう」「きっとできる」「できるに決まっている」と常に前向きに考えることができる人がいます。仕事でいえば、「この仕事は面白そうだ」「やりがいがある」「楽しそうだ」などです。この差はたいしたことがないようですが、脳の活動から見ると、全く違う回路が動いているようです。人間は物事に接したときに、不安、恐怖、怒り、心配、恐怖心、悲しみ、喜び、やる気、情熱、意欲が出てきます。この情報はまず扁桃体に入ります。扁桃体は、過去の記憶データに基づいて、外から入ってくる刺激が、自分にとって都合の良いものであるか、都合の悪いものであるかを判別しています。その結果を「快」「不快」という信号にして脳全体に伝えています。否定的、ネガティブな感情は「不快」信号として脳全体に拡散します。実際にはノルアドリナリンという神経伝達物質が飛び交うことになります。その影響を受けて、やる気の脳と言われる側坐核、脳の指揮者と言われる前頭前野が活力を失い、未来を創造的に作り出す目的実現能力、そのための実行機能がレベルダウンしてしまうのです。本人はどんなに努力しているつもりでも、脳は十分に能力を発揮しきれない状態です。前頭前野がレベルダウンするとは、発想力とか構想力、想像力、さらにはもっと複雑な能力であるリーターシップやコミュニケーション能力まで、ありとあらゆるところにその影響が現れるということです。扁桃体が「快」判断したものは、意欲的、情熱的な脳といわれる側坐核に送られます。側坐核はすぐに反応してドーパミンが湧きだしてきます。この神経伝達物質は、麻薬や覚せい剤とそっくりな分子構造をしています。私たちの脳に言い知れぬ快感や喜びを感じるようになっています。それが脳のあらゆる部分に拡散してくるのです。特に前頭前野に送られて、ここが活性化すると、生産的、建設的、創造的なチャレンジへと発展していくのです。側坐核の特徴は、いったん喜びを味わうと再びその喜びを味わいたいと思うようになります。成功体験が大切だとよく言われますが、その理由は側坐核にあります。一度成功した人は、さらに大きな成功を期待し、大きな期待で興奮状態になった側坐核は、前頭前野の実行能力をさらに活性化するのです。側坐核にはもう一つ特徴があります。側坐核は、別名を「期待の脳」とも言われています。側坐核は目的や目標を達成したときに活性化してドーパミンを出しているというよりも、目的や目標に向かって努力している状態の時に大量のドーパミンを出していることがすでに分かっています。森田でいう「努力即幸福」の状態の時、側坐核が活性化し、さらに前頭前野をはじめとした脳全体に波及しているということです。こう考えると、「できない」「難しい」「面倒だ」「そんな気分ではない」「いやだ」と言って安易に気分に流された生活がどんなに大きな弊害をもたらしているか、今一度考え直してみることが大切だと思います。森田では形から入ることを大事にしていますが、この場合は、「もしかするとできるかもしれない?」と声掛けすることが大切になります。そのとき一つだけ注意事項があります。私は絶対に大成功する。私は必ずこの大目標を達成する。オリンピックに出て絶対に金メダルを取る。こういう「かくあるべし」で自分を鼓舞するとかえって弊害が多い。「かくあるべし」の弊害は、森田理論学習で学ばれた通りです。私は大成功するかもしれない。私はこの大目標を達成するかもしれない。オリンピックに出て金メダルを取れるかもしれない。「かもしれない」ということは、何が何でも目的を果たさなければいけないというものではありません。挑戦した場合、可能性がいくらか残されているということです。ここで大切なことは、目線を目標の達成に向けているかどうかということです。どうすれば目標に近づくことができるかと考えると、「期待の脳」と言われる側坐核がドーパミンを湧き出させるということになるのです。それが脳全体にプラスの効果を生み出します。自分に対する「声掛け」一つで、人生が活性化するのでしたら活用するしかないと思いますが如何でしょうか。(かもの法則 西田文郎 現代書林参照)
2021.07.31
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奥村幸治さんのお話です。野茂英雄さんならフォーク、田中将大さんならスライダー。誰にも負けない武器を持つ。これは一流のピッチャーの必要条件です。バッターが決め球を攻略しようと意識し過ぎると、ストレートなど他のボールが有効に使えます。逆にバッターが決め球を最初から捨ててくれれば、配球の面でピッチャーは非常に優位に立てます。これだけは誰にも負けないというレベルまで技術を高めるには、自分の長所と特徴を冷静に見極めたうえで、地道な努力が求められます。それは容易なことではないでしょう。しかし、「あいつにはアレがある」と周囲が認めるレベルに達すると、プレーをする前から精神的に優位に立てます。何よりも自分に対する自信が深まります。「自分はできるんだ」という自己効力感が得られて可能性が広がり、他の長所も伸ばせるようになります。それが、第2、第3の武器を身につけることにもつながります。得意なことをするのは楽しいので、練習にも学習にも身が入ります。宝塚ボーイズというリトルリーグにも様々な個性を持った選手がいます。バントが得意、スローイングが上手、いい声を出せる、スコアが正確につけられるなど、その個性を伸ばしてやることが自信を深め、野球選手としても人間としても大きく伸びる足掛かりになるのです。むろん、弱点が少ない方がベターです。たれにも負けないものがしっかり確立したら、得意でない部分を見直す心のゆとりが生まれます。弱い部分は余裕ができてからカバーしていけばよいのです。(一流の習慣術 奥村幸治 ソフトバンク新書 160ページより引用)普通、自分の欠点や弱点を克服した後で、自分の長所や強みを活かしていこうと考える人が多いと思います。奥村氏はそれは順序が逆ですよと指摘されています。そういわれても、素直に納得できないと思われる人も多いでしょう。それは、自分の欠点や弱点を野放しにして、みんなの目につきやすい状態にすると、仲間として受け入れてもらえなくなるという危惧があるからです。現実は欠点や弱みを隠さないで堂々と開示している人のほうに安心感を持って人が集まってきます。それは誰でも大なり小なり欠点や弱点を持っているからです。自分の都合のよいところだけは、必要以上に誇張して目立たせ、都合の悪いところは徹底的に隠す。あるいはごまかすという態度をとる人に対しては、油断も隙もならない人だという感情を持つからだと思います。そうは言われましても、自分には長所は強みは何もありませんという人もいます。そういう人は、森田理論学習で学んだ神経質性格の特徴を思い出していただきたいと思います。神経質者の長所や強みとしては、ねばり強い。真面目でコツコツ努力を続けることができる。また、感受性が強い、好奇心が強い。理論的で分析力がある。反省する力がある。失敗やミスを成功の糧にすることができる。よりよく生きたい気持ちが強い。課題、目標、夢、希望に向かってチャレンジ精神が旺盛である。責任感が強く、軽率な行動は避けることができます。営業などでは、負けず嫌いで少々のことではへこたれない。この特徴を活かして、一つのことに照準を定めて、努力精進していくことです。イチロー選手は1日10分の素振りを高校時代3年間休まずに続けたそうです。イチロー選手は「たった10分です。でもその10分を続けることが大切です」と言われています。1日300スィングしたとしても、1日や3日で止めたのでは、力はつきません。「継続こそ力なり」仮に一つのことを10年続けたら、人間としてすごく成長し、全く違う自分に変身できるとは思いませんか。人生はマラソンのようなものです。42.195キロは長い道のりのように思えますが、完走して振り返ってみるとあっという間の出来事です。そういう気持ちでこのブログを続けています。毎日投稿して現在8年と7か月になります。
2021.07.30
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生活の発見誌6月号より森田先生のお話です。子供を持った28歳になる会社員の妻がありました。ある日、突然悪寒がして動悸が激しくなり、めまいがして倒れてしまいました。1年前に叔父さんと甥を亡くしていたため、今度は自分が死ぬ番ではないかとひどく恐怖した。突然自分が狂いはしないかと感じたり、刃物を見るとぞっと恐ろしくなって包丁に手を出すことができなくなってしまいました。新聞の死亡記事が気になり、それを読むまいと苦しんだりした。そのうちに不眠症に悩まされるようになりました。頭がぼんやりとし、時々めまいがしたりするので、外出はほとんどせず、新聞を読むことさえ堪えられなくなりました。身体は疲労しやすく根気は無くなり、何事も冷ややかに感じられ、いつも世を厭う気持ちで憂欝で、子供の面倒を見たり顔を見るのさえ嫌になり、自分の死を願うようになりました。その人はドクターショッピングを繰り返しました。内科、婦人科、漢方医と、しかしどこでも神経衰弱だと診断されたのです。どの治療も効き目がなかったので、今度は方向を変えて眼科医の診断をうけたのです。眼科医の見立てに従って、普段はサングラスをかけるようになりました。普段は粥を食べ、ほとんど毎日臥床しておりましたので、診察の際直立しても、めまいと体の動揺が強くて不動の姿勢がとれないほどでした。全く憔悴して、途切れ途切れに病気の苦痛を訴えるのです。この容態は多くの医師が指摘した強度の神経衰弱にあたるのです。森田先生の見立ては、典型的な神経症という診断でした。本人はなんだか分からないうちに、アリ地獄に突き落された感じです。地上に這い出ようと砂を搔きむしると、ますますアリ地獄の底に突き落されてしまうような悪循環に陥っています。こういう人は森田療法に取り組むことがベストです。この方の場合は、入院森田療法から入ることをお勧めします。現在は慈恵医科大学に、森田療法センターがありますので、そこへの入院を検討されることをお勧めしたいです。次善の策としては、外来森田療法もあります。最初は薬物療法を主体にする。精神状態が上向いてくれば、本格的に入院森田療法に取り組む。慈恵医大には森田療法に詳しい先生が多数いらっしゃいますので一安心です。そこを退院できるまでに回復されても安心するのは早すぎます。ここではマラソンの出発点に立てただけのことです。ここで気を抜くと再発は免れないでしょう。さらに神経質者特有の生きづらさが解消されていないので、生きることは針の筵に座っているようなものです。この時点に到達された人は、森田理論学習に本格的に取り組むことをお勧めします。学習に当たっては自分一人ではなく、仲間と一緒になって取り組むことをお勧めします。そうしないと学習が進みません。途中でやめてしまうことにもなります。また誤った独りよがりの理解や表面的な理解で留まってしまうことにもなります。これでは自分の生き方を変革することは難しいと思います。NPO法人生活の発見会の会員になり集談会に参加することです。現在は停滞気味ですが、全国的な規模で見ると、優れた先輩が多数在籍しておられます。そういう人の力を借りてレベルアップを図ることが理になっています。森田理論学習によって、神経質者としての人生を切り開いて、実り多い悔いのない人生を築き上げていただきたいと切に願っております。
2021.07.29
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奥村幸治さんのお話です。イチロー選手のルーティンへのこだわりは有名です。オリックス時代も、イチロー選手のウォーミングアップは、まるで録画したビデオを見ているように毎回同じでした。同じリズムでアップをして、バッティング練習でもレフト、センター、ライトと順番に打って終了します。試合中の行動も細部までルーティン化されています。ベンチはグランドから一段低くなっているので、打順が回って来てネクストバッターズサークルに出るところには少し階段があります。イチロー選手は前の打席でヒットを打ったときは右足から、打てなかったときは左足から上がります。さすがにうっかり間違うこともあるらしいのですが、そのときは一度ベンチに下りてもう一度やり直すそうです。ルーティンには「ゲンを担ぐ」という意味もあるのだそうです。バッターボックスに入るときは、バットを両手で持って上にあげ、屈伸で股関節をストレッチしてから、ゴルフのスイングのように下から上に振り上げる素振りを行います。そしてバッターボックスに立ったら、左足の軸足を定めてから、右手で持ったバットをピッチャーに向けて伸ばし、立てたバットを制止させて、左手でユニフォームの肩のあたりをまくりあげます。奥村さんはイチロー選手の専属のバッティングピッチャーでした。あるとき、6人のバッティングピッチャーのローテーションが乱れたときがありました。ルーティンが崩れることを嫌ったイチロー選手から、元に戻してもらえるように懇願されたこともあったそうです。それをコーチに伝えて元に戻したこともありました。球場入りする前は、奥さんが作ってくれたカレーを食べる。3時間前には球場入りをする。入念に専用の器具を使ってストレッチをおこなう。これらも毎回同じでした。(一流の習慣術 奥村幸治 ソフトバンク新書参照)ルーティンを守るというのは、毎日同じ時間に同じことを行うということです。規則正しい生活を繰り返すということです。これでは、何かに束縛されるようで息苦しい。刺激がないので、マンネリ化してくる。変化を加えて、刺激を与えて、意欲を引き出した方がよい。このように考えて、決まりきった規則正しい生活に注意を払わない人がほとんどです。イチロー選手は、次のように言っています。ヒットを打つという結果にこだわると心が乱れます。「自分がいま何をやるか」という過程だけに集中し、最終的に結果がついてくればいいというスタンスです。これは、今現在の目の前のことに手を出していないと、いつの間にか大脳の前頭前野が働きだすということだと思います。前頭前野が動き出すと取り越し苦労をするようになります。それがプレッシャーとなり、もしミスや失敗をしたらどうしようという気持ちになるのです。予期不安がなければ、問題なくできる事でも、ミスや失敗をおびき寄せてしまうのです。特にスポーツ選手、格闘家、音楽家、舞踊家、勝負師などは、無意識の演技や行動ができるかどうかが成功のカギを握っているのです。それをゾーンに入るという人もいます。そのためには目の前のなすべきことをルーティン化して淡々と手足を動かすことが大切になるのです。森田では規則正しい生活を維持することを大事にしています。それは目の前のルーティンに取り組むことで、観念優先の生活態度が是正されます。行動することによって生活はどんどん前に進んでいきます。そして行動の中から、気づきや発見、興味や関心が生まれてくるのです。それがアイデア、目標、課題、夢、希望に結びついていくことは自然の流れです。考えてばかりで、手足が動いていなというのは、精神的にも、身体的にも悪循環のスパイラルにはまっていくのです。神経症の発生原因になっているのです。それと生活にはリズムがあります。リズムというのは強弱のことです。生活は緊張状態と弛緩状態を交互に繰り返しながら、バランスを維持しているのです。緊張状態ばかり、弛緩状態ばかりというのは、バランスが崩れているということです。バランスが崩れると、存在自体が許されなくなるというのが森田理論です。規則正しい生活を心掛けると次から次へと手掛けることが出てまいります。一つのことが完全にキリがつかないときでも、つぎに予定されている行動に移る必要があります。自分の都合ではなく、時間に対応して、流れに乗っていくことが優先されます。波に乗って毎日の生活を維持していくことは、観念優先の生活からは離れていくことになります。建設的、生産的、創造的な生活へと変化していくということになります。森田理論が目指している生活は、自然の流れにいかに上手に乗れるかを試されているのだと思います。
2021.07.28
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イチローのオリックス時代にバッティングピッチャーをしていた奥村幸治さんの話です。ニューヨーク・メッツのキャンプに参加させてもらった時のことです。メッツの何人かの選手に「メジャーで活躍するために必要なものはなんですか?」と質問しました。すると答えはすべて同じでした。「誰よりも強い体がないと年間160試合は戦えない。そのためには誰よりも練習をしなくてはならないし、身体のケアも必要だ」ここまでは私の予想通りです。しかし次に挙げたメジャーリーガーの条件は、想像もしないものでした。彼らは「運」だと言ったのです。驚いて私が、「運なんてどうやってつかめばいいの?」と尋ねると、「そんなの簡単だよ。当たり前のことを、真面目にやるだけさ」と選手たちは口を揃えました。運は自然とそういう人間に向いてくる。メジャーリーガーは心技体がバランスよく鍛えられていないと、年間160試合は戦えない。一つでも問題があると成績が下降して、3Aに落とされる。心技体のバランスを維持することは、まさに熾烈な生存競争を生き抜くための必要条件となる。ただし、いくら心技体が高度に鍛えられていても、運がなければ試合で使ってもらえない。運というのは厄介な代物です。運というのは、監督やコーチからチャンスをもらうことです。チャンスは監督やコーチがその選手の特徴を把握していて、この場面ではこの選手が最適であると判断したときに突然訪れます。そういう意味では、チャンスが巡ってくるかどうかは常に受け身なのです。自分から「チャンスを下さい」と言ってもプロ集団である以上、自分より適任者がいる場合はその人にチャンスが巡ってきます。そんな中でチャンスをものにするためにはどうすればよいか。自分の得意技を磨き上げて、他の追随を許さないところにまで高めていくことに尽きると思います。普段の努力でこれだけはというものを作り上げておくことです。なんでもよい。球を遠くに飛ばす。正確なスローイング。コントロール。多彩な変化球を投げる。スピードボールを投げる。バントがうまい。足が速い。ピッチャーの癖を見抜く力がある。ケガに強い。守備範囲が広い。守備が上手い。大声が出せる。チームを鼓舞する力がある。そういうものができたら、監督やコーチにアピールすることが必要になります。すると、いつか突然降ってわいたように、ツキが回ってくるのです。運の女神が微笑んでくるのです。運がついても必ずしも成果が上がるわけではありませんが、運が回ってこなければ次の飛躍はないわけです。また一つでも運を味方につける経験は、つぎに活きてきます。神経質者でいえば、神経質性格をとことん活かしきることで、突然チャンスはめぐってくると信じて、努力を怠らないことです。
2021.07.27
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上の写真は鳥取大山の麓で撮ったアジサイです。下の写真は友達の家に咲いていたものです。アジサイは人の心を癒す力があると思っています。赤や青や白、花火が開いたようなもの、色が緑のままの秋色アジサイなどがあります。どれも個性があってよいのですが、私は青色が好きです。青色は酸性の土に咲くそうです。アルミニュームが溶けると青色になると聞きました。これらに影響を受けて、私もさっそくアジサイを育てることにしました。今年は白色、青色で花火の咲いたようなもの、秋色アジサイを育てました。来年は青色のアジサイを咲かせたいです。開花は6月ですが、1年通して手入れしないと立派な花が咲きません。特にベランダで育てている方は、乾いた後の水やりがかかせません。光は好みますが、開花や夏は70%遮光した方がよいそうです。風通しよく、とにかく涼しくするのがコツだそうです。アジサイの苗はどうするのかと思って思案していましたら、you tubeで挿し木の方法を説明しているものがありました。挿し木で増えるのなら、ドンドン増やせますね。来年たくさんの花を咲かそうと思えば、花が終わった後7月か8月の剪定が大事になるそうです。花の咲いた1節か2節目で剪定するのだそうです。その下の花芽から開花してくるそうです。肥料は花が咲く前の3月から5月と8月から9月ごろに鉢植え用の緩効性固形肥料を与えるとよいそうです。いつも気にかけて、手入れすれば来年の6月には立派な花を咲かせて応えてくれます。興味のある方はぜひ挑戦してみてください。
2021.07.26
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「ありがとう」の反対語はなんだと思いますか。それは「当たり前」だという人がいます。「当たり前」と感じた瞬間に、そこに感謝や価値が見つけられなくなります。家族がいて当たり前、自分のことをしてくれて当たり前、仕事があって当たり前、部下は会社に来て当たり前。ノルマは達成されて当たり前。子どもは学校に行って当たり前。自分や家族は健康で暮らすのが当たり前。当たり前と思った瞬間に感謝がなくなる。そんなことってないでしょうか。人は悲しいことに、失うか、失うかも!という状況にならないと、本当に大切な存在の価値に気づかないものなのです。そんなとき、心の闇の光となるのが「ありがとう」なのです。「ありがとう」を探すヒントは、「当たり前」だと感じてしまっていることに意識を向けること。「当たり前」の中にこそ、価値を見つけ感謝を伝えていくのです。これは意識すれば、いくらでも見つけることができます。これを実践すると、小さな事実を宝物のように大切に取り扱うことができるようになります。そして森田の事実本位の生活に近づいていくのです。日常生活の中で「すみません」「ごめんなさい」が口癖になっている人はいませんか。この言葉は、相手に精神的、物質的な負担やご迷惑をおかけして申し訳ない。何かお返ししなければ、私の方の気が済まないという気持ちにあふれています。何かお返しすれば、貸し借りがなくなり、私の気持ちが楽になるという心理です。これを、積極的に「ありがとう」「助かりました」「うれしい」という言葉に置き換えませんか。相手に、感謝の言葉を伝えることに専念するのです。相手は、自分の声掛けや行動が相手の役に立ったようだ。相手が喜んでくれて、私もうれしいという気持ちになります。そういう人は、相手が喜んでくれる声掛けや行動に注意や意識を傾けるようになると思います。さらに人の役に立つことを探して実行するようになると思います。自分の持っている能力の範囲で、他人の役に立つことを実践するというのは、森田が目指しているところです。これを心掛けていると、注意や意識がネガティブな自己内省ばかりに向かうことを防止することになります。外向きに前向きに変化してきますので一石二鳥となります。(ほめ下手だから上手くいく 西村貴好 ユサブル 59ページより一部引用)
2021.07.25
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皆さん、ご自分の周りにこんな人はいませんか。・私はネットゲームが好きで時間を忘れて翌朝3時ぐらいまですることがあります。・規則正しい生活はよいと思いますが、それに縛られたくはありませんね。人間は自由で自主的な活動が一番です。規則通りの生活は窮屈ではありませんか。・私はギャンブルが好きです。パチンコなどでは3万円、5万円くらい使うこともあります。ストレス解消にはパチンコが一番です。時には大勝ちすることもあります。・私は食事は、ほとんど外食で済ませています。その方が食器を洗わなくて済みます。わずらわしさがなく、好きなものを食べることができます。・風呂はもっぱらシャワーです。湯船に浸かるようなことは全くありません。風呂の清掃や湯をためるのが大変ではありませんか。・趣味を持てばいいのでしょうが、今のところ全くありません。やるつもりもありません。それ以外に楽しい事はいくらでもあります。・一日中家にいるほうが落ち着きます。運動は大の苦手なのです。疲れからすぐに横になるのが、至福の時間です。・動くとすぐにつかれるので、なるべく行動することは控えています。それをサプリメントで補っていますので、何の問題もありません。・車でドライブを兼ねて、少し遠いショッピングモールに買い物に行くことが息抜きです。出かけるのはそれぐらいですね。・野菜などは買った方が手っ取り早いですよ。土を扱うのは汚い。質の良い野菜が育つとは限らないでしょう。・日記や家計簿などは今まで書いたことはありません。何の意味があるのですか。煩わしいでしょう。・生活の発見誌は義理でとっているだけでほとんど読みません。辞めたいけど、世話係をしているので退会はできないのです。今まで世話になってきたので、寄付をしているようなものです。・経済的には親の遺産があるので大丈夫です。今のところ親の年金で生活しています。いずれ家も自分のものになりますし、何とか生活できると思います。・時間を持て余し、毎日「何か楽しいことはないかな」と考えながら生活しています。みんなそんな感じで生活しているのではないですか。・車が好きでおおむね5年ぐらいで新車に乗り換えています。新車は気分がいいですよ。ちょっと維持費がかさむのが痛いですね。・ネットで買い物するのが趣味です。欲しいと思ったらすぐに買ってしまいます。アマゾンは便利がいいですよね。なんでもありますよ。しかも割安ですよ。・自己嫌悪、自己否定、他人否定に悩まされています。自己肯定感はないですね。仕方ないですね。このままでいきます。・親や子供との人間関係はとても悪いです。この年になると仕方ないですね。息苦しいのは確かです。でも、愛犬もいますし、なんとかなるでしょう。・課題や目標、夢や希望は考えたこともありません。今日を生きるのが精いっぱいです。酒やネットゲームでストレスを発散しています。これらは、森田理論を実践している人から見ると、直観的に波長が合わないなと感じる人が多いのではないでしょうか。森田理論の目指しているところとは異質な感じがします。集談会の仲間からは、こんな話を聞くことは少ないように思っています。それは森田理論を実際に生活面に活かしているからだと思います。類は友を呼ぶと言いますが、自分もそういう生活スタイルを心掛けていますし、そういう人たちの仲間の和が自然に形成されるのではないかと思います。それが相乗効果を発揮して、いままでそうでなかった人にも影響を与えて、その人の生活が森田的に変化してくるように感じています。集談会に長らく参加している人にとって、集談会は心安らぐオアシスのようなところです。集談会は傾聴、共感、受容を心掛けているので、とても居心地がよいです。私は仲間の援助を受けて対人恐怖症を克服できました。そのうえ、学習を続けることで、神経質性格を活かした人生観も確立できました。また、アルコールの好きな人は、居酒屋での懇親会があります。森田を離れて、どんな話でも盛り上がります。明日からの英気を養うことができます。さらにカラオケ同好会のようなものもできてくることもあります。あるいは、気の合う仲間同士で、一緒に旅行を楽しむようなこともあります。私は集談会に参加することなくして、自分の人生は活性化しなかっただろうと思います。私の人生の最大の幸運は、森田理論に出会い、集談会を通じて貴重な人々知り合いになり、味わい深い人生に切り替えることができたことです。この感動はいつまでも後世の人に伝え続けたいと考えているところです。
2021.07.24
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7月11日から7月22日まで、「観念中心の態度を事実優先の生活に切り替えるために」と題して投稿してきました。森田理論を踏まえて、実際にどんなことに取り組んでいけば、「かくあるべし」が減少し、事実中心の生活に切り替えていくことができるのかを9項目にわたって紹介してきました。最後にまとめをしておきましょう。1、「かくあるべし」の弊害と「事実本位」の利点について理解を深める。「かくあるべし」の態度と縁を切って「事実本位」の立場に立つと、エネルギーの無駄遣いが無くなること。また、事実を認めると、生の欲望に邁進する出発点に立つことができること。森田理論学習でそのことを十分に理解することが肝心です。2、自分のなかにいる二人の自分を一つに統一する。自分は自分にとって最大の味方になりましょう。そのためには、上から下目線で自分を見下して批判・否定するのではなく、現実の世界で四苦八苦している自分に常に寄り添う態度に切り替える必要があること。心強い味方が一人いれば、十分生きていけます。3、事実観察を徹底する。事実は具体的、赤裸々に取り扱う。事実にできるだけ近づこうと観察を徹底すれば、問題点や課題が明確になり、行動する意欲が出てくるということ。事実は事実のままに開示すると、苦悩や葛藤が少なくなるということ。4、観念による先入観、決めつけ、マイナスのレッテル張りをしない。観念の世界を最優先して、事実の世界を観念の世界の下に置くという態度は、人間の思い上がりであるということ。先入観、決めつけで今後の方針を決めてしまうと、事実からどんどん離れて、人間関係が悪化し、大惨事を招く可能性が高くなるということ。5、物の性を尽くす。物の性を尽くす、己の性を尽くす。他人の性を尽くす。時間の性を尽くす。お金の性を尽くす。以上5つの尽くし方がある。そのものの価値や潜在能力を命尽きるまでとことん活用するという態度は「かくあるべし」の態度から決別することになるということ。6、「あなたメッセージ」を「私メッセージ」変更する。「私メッセージ」の発信は、自分自身の感情、気持ち、意志、欲求に注意や意識を向けることになる。相手に「かくあるべし」を押し付けることが少なくなり、人間関係が改善できること。7、両面観のものの見方を身につける。物事には、必ずプラス面とマイナス面が表裏一体となっている。その両方を過不足なく見ないと、物事を正しく判断することができなくなってしまうということ。8、直観、第一の感情、初一念の感情を大切にする。「純な心」の体得。「純な心」は、きちんとチャッチしようとする意志を持っていないと、するりと滑り落ちて、忘却の彼方へと飛び去る運命にあるということ。その隙間を「かくあるべし」我が物顔で占領して、様々な問題を引き起こしているということ。9、否定語から肯定語の活用を心掛ける。言葉は、包丁と同じで料理を作るときはとても便利なものです。ところが使い方を誤れば、すぐに凶器に変身する。このことをわきまえて、正しい使い方を身に着けておきましょう。以上、簡単にポイントをまとめてみました。これ以外にも、「事実本位」に近づく方法はあるのではないかと思っています。それらを付け加えて学習し、最後に自分が取り組みやすいものを1つか2つ選択する。そして、愚直に取り組んでみる。この方向で1年くらい経った時、あなたの生活がどんな風に変化しているか。あなた自身で確かめてみてください。
2021.07.23
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昨日の続きです。「がんばれ!」と言いたくなる場面では、「がんばれ!」という言葉は使わないようにしましょう。そういいたいときは、「がんばっているね」という言葉に置き換えましょう。ガンや難病で闘っている人たちは、もう十分すぎるほど闘ってきた人たちです。その人たちに「がんばれ!」という言葉は、酷な言葉になります。「がんばっているね」という言葉は、自分に寄り添ってくれて、安心感を与える言葉になります。「がんばりすぎないでね」という言葉も同様です。仕事の内容をチェックする時に、「不備がない、大丈夫、オッケー、問題なし」という代わりに、「完璧!」という言葉が有効です。相手との付き合いがある程度ある人ならば、「いつもながら完璧」と言えば、相手もついうれしくなるでしょう。居酒屋などで、「ご注文のお品はすべてお揃いでしょうか」と聞かれたときに、「大丈夫」「全部出ている」「オッケー」という代わりに、「完璧!」という言葉を使ってみましょう。きっとスタッフの顔が緩んでくるはずです。「すみません」「ごめんなさい」が口癖になっている人がいます。これはすぐに改めるほうがよいと思います。たとえ使っても、すぐ後で「ありがとうございます」と付け加えたらいかがでしょうか。相手に何かしてもらった時に、「すみません」というと、あなたに借りができました。いつかこの借りをお返ししないと、自分の気持ちの収まりがつきませんと言っているようなものです。交通事故の時に、何はさておき「すみませんでした」と謝ることは、この後の交渉にマイナスの影響を与えます。そういうときは、「すみません」という代わりに、「お怪我はありませんか」というのが正解となります。企業のお客様相談室では、クレームの電話をかけてきた人に、「すみません」とすぐに謝るようなことはしません。クレームの内容が分からないときに、「すみません」と謝ると、自社の非を認めたようなものです。相手はそれに付け込んで損害賠償を要求してくる場合があるからです。そういうときは、「ご不便をおかけしております」と言って、早速事実確認に移るのです。「いつも」という言葉と、「珍しい」という言葉を間違えて使っている人が多いようです。「あなたはいつも遅れて来るね」「おや、今日は珍しく早く来たね」などです。これは事実多少違っていても、言葉の使い方としては、逆にしなければなりません。「どうしたの、珍しいね、君が遅れて来るなんて」「いつもながら、時間厳守だね。いい心がけだね」この一言で、相手は気分が楽になります。また今後に良い影響を与えます。言葉というのは相手に「かくあるべし」を押しつける道具になる場合があります。反面、有効活用すれば、相手を和ませ、鼓舞させる言葉にもなります。これは包丁がおいしい料理を作る道具にもなるし、凶器にもなるということだと思います。「面白い」「惜しい」「がんばっているね」「完璧」「ありがとう」「いつも」「珍しい」昨日、今日取り上げた言葉を自分のものとするだけで、人間関係は大きく変化すると思いますが、如何でしょうか。言葉は自分の素直な気持ちを、ストレートに相手にぶっつける道具に過ぎないと信じている人は、認識の誤りを抱えている人です。人間関係は悪化の一途をたどります。できれば、これらの言葉を習慣化して自分のものにしたいものです。(ほめ下手だから上手くいく 西村貴好 株式会社ユサブル参照)
2021.07.22
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「かくあるべし」を減らして、事実本位に近づくために、言葉使いを意識して変えていくという方法があります。とっさの時に対応できるように、普段から訓練しておくことが有効です。まず、「でも」「しかし」という言葉を頻繁に使う人がいます。この言葉を使う人は、相手の話を途中で打ち切って、自分の考えや気持ちや要求を相手に飲ませるという方向に向いています。相手は話半分で消化不良を起こします。さらに、相手が自分を意のままにコントロールしようとしているのが分かりますので、その態度に敵対するようになります。森田では「傾聴」「受容」「共感」を大切にしています。この言葉を連発している人の周りには人が近づかなくなります。注意したいものです。相手の考え、やり方が自分の思っていたことと違う場合、「それは違います。間違いです」と相手を否定することが多いと思います。そのとき、「その考え方ややり方は面白い」という言葉に変えてしまうのです。機械的に使うようにするのです。習慣化するとよいと思います。「面白い」という言葉は、相手を否定していません。でも積極的に同意している言葉ではありません。相手にとっては、自分を認めてもらったという気持ちになります。相手の話がまるっきり違うと思った時は、「面白い、あともう少し変化したバージョンははないかな」というようにしたらどうでしょうか。相手に伝えたいメッセージは、「間違っている、箸にも棒にもかからない、このままではダメ、考え直しなさい」ということなのですが、相手への伝わり方、相手の受け止め方が全く違います。もう一つの言葉を紹介します。相手がこちらが考えている水準からはるか低水準なことしかしていない場合。例えば、仕事にしても、やるにはやっているが、おざなりである。部屋の掃除をさせると、中途半端で止めてしまう。勉強を始めてもすぐに止めてしまう。頼みごとをしても、依頼した以上のことをやろうとしない。こんな時「ダメじゃないの。やる気がないんだね」「自分でやった方がましだわ」「依頼した私がバカだったわ」これでは、相手を非難、否定、バカにしていますね。相手はいやいやながらもいったんは行動したわけです。何もしないでごろごろしているよりはましなわけです。そこに着目すると、「惜しいね」という言葉が効果を発揮します。相手にとっては、自分の行動を全面否定されたわけではありません。2割か3割はできている。そこは認められたという気持ちになれます。非難や否定されると、もう二度とやるものかという気持ちになります。惜しいといわれると、気持ちが離れていきません。5割か6割の出来にして、相手の期待に応えたいという気持ちにつながるチャンスが出てきます。あるいは期待以上に頑張るかもしれません。相手を生の欲望に突き進ませる魔法の言葉になるのです。この言葉も、こういう場面が訪れたときは、この言葉を使うという準備ができていないとなかなか出てくるものではありません。習慣化しておくことが大切になります。「その考え方は面白いね」「惜しいね」という言葉づかいを身につけた人は、人間関係がよくなります。使わない手はないと思います。また「かくあるべし」から、「事実本位」の態度を推し進める言葉でもあります。これ以外にも魔法の言葉がいくつかあります。明日ご紹介いたします。
2021.07.21
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観念優先の態度を事実優先の生活に切り替えるために!その8、直観、第一の感情、初一念の感情を大切にする。純な心の体得。「純な心」という言葉は、森田理論学習の中で頻繁に出てまいります。聞きなれない言葉ですが、「かくあるべし」を含まない、素直な感情のことだと理解するとよいでしょう。人間は、物事や出来事に遭遇した場合、先ず、「ハッとした」「びっくりした」「驚いた」「心配になった」「嫉妬した」「不安になった」「どうしよう」などという一次感情が発生します。しかしこれらは、一瞬で「かくあるべし」を含んだ第2次感情で吹き飛ばされてしまいます。これに翻弄されて苦しんでいるのが、よくありがちな人間の姿です。理論学習の中では皿を床に落として割った話が出てまいります。自分の不注意により取り扱いを誤って皿を床に落とした。そのとき、最初は「しまった。どうしよう」と思わず拾い上げてくっつけてみる。ところが、しばらく経つと、接着剤でくっつけて何事もなかったかのように細工をしてしまおう。見つかる前に、すぐにゴミとして出してしまおう。そうだ、いいことを思いついた。弁償すればこの不始末は帳消しできるはずだ。気が楽になった。第一、こんなところに無造作に放置していたのが悪い。誰だこんなところに置いていた人は?つまり他人に責任転嫁することを考える。最後には、注意力散漫な自分自身を責めてしまう。人間は大脳の前頭前野が高度に発達しているので、事実を事実のままに素直に認めることができなくなっているのです。このようなさまざまな隠蔽工作をするようになるのです。それが人間の葛藤や苦悩を作り出しているのです。森田理論は、最初の素直な感情、直観、初一念を見逃さないで大切に取り扱いましょうと言っているのです。この場合は、すぐに事の顛末を森田先生に報告する。すると高価の皿だった場合は、「ばかもの」と叱責されるかもしれません。それは嫌な事ですが受け入れるしかありません。あるいは、森田先生と一緒になって「残念なことをした」とお互いに嘆くことになるかもしれません。でも元に戻すことはできません。それよりも、壊れた破片がそのあたりに散乱しているわけですから、とても危険なわけです。新聞を濡らして細かくして床一面にまいて、小さな破片まで取り除くことが大切になります。事実をそのままに認めてしまうと、つぎに問題解決に向かって行動することが可能になります。事実をごまかしていると、それがいつ森田先生にばれるかもしれないという不安でいつまでもビクビクしなければならなくなります。すると目の前の仕事が上の空になって、いつもは難なくできることで思わぬ不覚を取ってしまう。もう一つ例を出して説明しましょう。学校の遠足で二人の男の子が行方不明になった。先生方は手分けをして探し回ったが、見つからないで時間ばかりが過ぎていく。警察に連絡して捜索依頼をお願いしようと考えていた時、二人の男の子が何食わぬ顔で帰ってきた。その時の先生の対応。「どこへ行っていたのよ。勝手な行動をしてはいけないとあれほど注意していたでしょ」と叱り飛ばした。こういうときは、最初の素直な感情を思い出して対応することが大切ですというのが森田でお勧めしていることです。「先生たちはあなたたちがいなくなったのでとても心配していたのよ。でも何事もなく帰って来てくれてうれしい」この方法をとると、子供たちは、素直に事の顛末を話してくれるでしょう。それが教訓となって、今後の他人を配慮した正しい行動につながるのです。「純な心」の体得は一人では無理です。集談会などを利用して身につけましょう。なぜならば、その必要性も感じていないし、その理屈も森田理論で学習しないと知らないままで時間だけが過ぎていきます。私はこの体得のためのシートを作ってみんなで話し合うようにしています。まず出来事を書き出します。例えば夫がこんなまずい料理は食べられないという。最初の素直な感情を書きます。「ええ、ショック。味付け間違えたかな。確かにしょっぱいな」「ごめんね。味付けを変えてみるからビールでも飲んで待ってて」つぎに、「かくあるべし」を含んだいつもの対応について書き出します。「そんな言い方はないでしょ。私だって仕事で疲れているのよ。少しは手伝ったらどうなのよ。皿も出さないで、寝っ転がってテレビを見ていたくせに。そんなにまずいのなら食べなくていい。私一人で食べるから」どんどんエスカレートして口げんかに発展した。最初の素直な感情はきちんと掴まえないと、すぐに忘却彼方へと飛び去っていく運命にあるのです。それをきちんと掴まえて、それを出発点として発言できる人は、それなりの素晴らしい能力を獲得した人ということになります。森田理論学習ではこういう人を数多く世の中に輩出させていこうと考えているわけです。それが事実優先の生活に近づいていくのです。実に簡単なことですが、習慣化することは難しい。一生かかっても身につけることができない人がほとんどです。森田理論を学習しているあなたにはその挑戦権が与えられているのです。
2021.07.20
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観念優先の態度を事実優先の生活に切り替えるために!その7、両面観のものの見方を身につける。物事にはプラス面の裏には、必ずマイナス面が隠れています。その両方を過不足なく見ていかないと、物を見たことにはなりません。例えば、神経質性格ですが、森田理論学習で「神経質の性格特徴」を学習した人は目からうろこの学習になったのではないでしょうか。私の場合でいえば、神経質性格は小さなことが気になって毎日不安な日々を送ることになり損な性格だと思っていました。さらに、執着性が強く、不安を増悪させてしまう性格が嫌でした。社交的で小さな心配事は気にもかけないで、笑い飛ばして、自分の好きなことに積極的にチャレンジしている人がうらやましくて仕方がありませんでした。できたら自分もそのような性格に変えてしまいたいと思っておりました。この考えは、神経質性格のプラス面とマイナス面を過不足なく分析することで考え違いをしていたことがよく分かりました。心配性というのは、不安にとらわれやすい面もありますが、プラス面としては鋭い感性の持ち主であったということが分かりました。これはたとえてみれば、神経質者はハッブル宇宙望遠鏡を標準装備しているようなものです。今までの地上望遠鏡ではよく分からなかった超新星爆発した星の残骸なども詳しく分かるようになりました。また爆発の残骸の中から新しい星々が誕生していることもはっきりと分かるようになりました。鋭い感性を持っているという特徴は、小さなことにこだわりやすいというマイナス面を補って余りあるものがあると思っています。高性能レーダーや高性能の魚群探知機を生まれながら持っていたことは喜ばしい事なのです。機微な感性は、芸術や文学や料理などの分野には欠かせないものです。すぐれた作品を生み出している人はほとんど神経質性格者です。神経質性格は、自己内省性が強いと言われます。これは失敗の原因をとことんまで分析して、原因を特定し、改善策を立てる上においては欠かせない性格特徴となります。野球の解説者でも、投手や打者の心理を的確に分析している方は、神経質性格を持っておられます。その他、真面目で責任感が強い。粘り強い。簡単にあきらめない。よりよく生きたいという生の欲望が極めて強い。森田正馬先生は形外会という名前をつける時に、「神経質礼讃会」にしたらどうかと言われていたそうですが、それだけの値打ちのある性格なのです。ですから、神経質性格のマイナス面ばかり見て、性格否定をしていると罰が当たると思います。よくぞ神経質性格者として生まれてきたものだ。「神経質性格に生んでくれてありがとう」とお父さんお母さんに感謝してもし過ぎることはありません。プラス面に光を当てて、さらに磨きをかけるのが私たちの務めです。私もこの性格をとことんまで活かして生きていくぞという決意を新たにしているところです。この性格は、外向的、社交的、発揚性気質の人がいくらお金を積んでも、お売りすることはできない代物なのです。こういう見方ができるようになったのは、森田理論の両面観を学習したおかげなのです。「かくあるべし」を前面に押し出す人は、この両面観の考えをとることができない人です。田原総一朗さんの「朝までテレビ」という討論番組では、真反対の意見を持っている人を両方とも招待して徹底的に討論し尽くします。それを見ている人は、正反対の主張を聞いているうちに自分の意見を確立していくのです。将棋の加藤一二三名人は、打つ手が皆目見当がつかなくなった時、おもむろに対局相手の後ろに回り、相手の立場から見つめ直すことをされていたそうです。真剣勝負をしている時に、そんなことが許されるのかどうかは分かりませんが、視点の違う見方を取り入れることが勝負を決することになるということが分かっておられたのだと思います。両面観の見方を身に着けるためには、集談会を利用するとよいと思います。例えば、「人間関係はごく親しい少人数の人間関係作りを目指す方向がよいと考えているのですが、この方向で間違いはないでしょうか」と問題提起するのです。この質問に対して、賛成する人、反対する人様々な意見が出ることが望ましいと思います。ご自分の体験を踏まえて、多くの人に自分の考えを述べてもらうのです。喧々諤々の議論の中で、多くの人がそれなりの答えを見つけ出すことができれば、集談会に来たかいがあったというものです。すぐには答えられない次のようなテーマをいくつか用意しておくと、学習の中身が飛躍的に向上すると考えています。・不安はすぐに取り除いた方がよいと思いますが如何でしょうか。・頭で納得できないことは、安易に行動しない方がよいと思いますがどう思われますか。・嫌なことから逃避することは、リスク回避につながると思いますが、この方向で間違いはないでしょうか。など。このような考え方の癖をつけることは、日常生活の中で両面観の見方が自然に磨かれていくのではないでしょうか。これは森田理論の中では、精神拮抗作用の活用にあたります。ここでのポイントは、性急に一つの考え方に固執すると、それが間違っていた場合、どんどん横道にそれていき、最後には取り返しがつかなくなるということです。
2021.07.19
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観念優先の態度を事実優先の生活に切り替えるために!その6、「あなたメッセージ」を「私メッセージ」に変更する相手と会話する時、「あなた」を主語にするのではなく、「私」を主語にして会話するということです。例えば、妻が夫に、「あなたはどうしてゴミを出してくれないの。結婚する時に、あなたは家事を分担してあげると言ってたじゃないの。あなたはきちんと約束を果たすべきよ」この言い方ですと、自分の頭で思い描いている夫像とは程遠い態度を批判、否定しています。これを「私」を主語にすると、「私はあなたがゴミ出しをしてくれると助かるのだけどね」という風な言い方になります。これだと言い争いになりません。夫はこれに対して、自分のことを非難、否定されないので、反発する態度には出ません。冬の寒いとき、子供が炬燵に潜り込んでいつまでも転寝をしていることがあります。そのとき、お母さんが「あなたはいつまで寝ているのよ。早く風呂に入りなさいよ。後から入る人がつかえているのよ」これでは、子供もつい反発をしたくなります。こんな時も「私メッセージ」応用したいものです。「お母さんは、すぐに風呂に入ってくれると、うれしいのだけどね」「あなたメッセージ」では、自分の考え(かくあるべし)を相手に押し付けることになります。非難、説教、命令、指示、禁止、叱責、怒りの言葉が多くなります。ちなみに、母親がよく使う「あなたメッセージ」は、「それは絶対ダメですよ」「すぐにあきらめないで、がんばりなさい」「もたもたしないで、早くしなさい」だそうです。上司が部下に使う「あなたメッセージ」は、「その考え方、やり方は間違っている」「言い訳しないでノルマをこなせ」「失敗したときに責任をとれるのか」などです。「私メッセージ」は、自分の素直な感情や考えたことを、そのまま「私」を主語にして話します。私はこう思います。私はこういう考えです。私はこう感じました。私にはこう見えます。私はこうしてくれたらうれしいです。最初の素直な感情は、恐怖、不安、心配、悲しさ、嬉しさ、嫉妬、驚き、イライラ、心細さなどでしょう。私メッセージは、相手に自分の考え方や行動を強制しません。私メッセージによって、相手がどう感じ、どう行動するかは相手に任せることになります。当然自分の思惑通りに行動してくれないことが多くなります。それが普通です。それはあらかじめ想定済みなのです。それから先どうしても自分の意見を通したいならば、相手と交渉することになります。その場合も、相手の意見を尊重しながら、ある程度のところで妥協に持ち込めればオッケーという気持ちで構えることです。「私メッセージ」を生活の中に取り入れてみてください。人間関係がよくなります。それは、他人に対して「○○してはいけない」「○○しなさい」「○○しなければならない」という「かくあるべし」を押し付けることが激減してくるからです。ただしこれは無自覚に連発していることですから、自分では気づきにくい。親しい人に頼んでおいて、「あなたメッセージ」を使った時は教えてくださいと頼んでおくことです。集談会はその訓練の場と捉えて切磋琢磨したいものです。
2021.07.18
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本日は森田実践の一つ、夏野菜の収穫でした。ミニトマトは鈴なりでした。これから楽しめそうです。キュウリはすぐに大きくなります。週末だけでは大きくなりすぎてしまいます。ピーマンもよくできています。ジャガイモは昨年植えた後に生えてきたものです。タマネギは5月末に収穫して干しておいたものです。今はカボチャ、サツマイモ、サトイモ、夏野菜が育っています。週末のみの野菜つくりです。これからニンジンを7月末、ジャガイモを8月末、秋野菜を9月に植える予定です。神経症で悩むよりも野菜つくりで悩むことが多くなってきました。将来は家の庭を秋は菊とコスモス、冬は水仙、春はチュウリップ、梅雨の時期は紫陽花で満開にしたいです。
2021.07.17
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観念優先の態度を事実優先の生活に切り替えるために!その5、物の性を尽くすことに専念する。これはそのものの持っている潜在的な価値を見つけて、命が尽きるまでとことん活用していく方向を目指していくことを言います。形外先生言行録に片岡武雄さんが次のような話を紹介されている。縁の下をもぐって掃除していたら、汚い古下駄が1個出てきたので、井戸のような深い穴(塵を捨てる穴)へ持って行って、ポイと投げ入れた。その途端書斎にいられた先生に、ちらりと見られてしまった。「今何を捨てたのか」「はい、下駄を捨てました」「燃えないか」「はい、燃えます」早々に梯子を持ってきて、穴にはいり、拾い出してきた。下駄としては寿命は終わっている。でもまだ燃料として、活躍できる道が残されていると森田先生は言いたいのであろう。その道を全うさせてあげることが、下駄にとっては生き尽くすことにつながる。生きとし生けるものは、最後まで役に立つ生き方をしたいのである。田原あやさんは森田先生が亡くなるまで近くで接しておられた方です。物の性を尽くし、100円のものは1000円に、1000円のものは10000円に、というように、その物よりもっともっと高く活かして使いなさいと言われました。「綾子たちは、1000円の物は100円に、100円の物は10円にしてしまう。もったいなくてやる気にもならない」とよくいわれました。新聞に入ってくる広告でも一度見て裏の白いのはメモにして、他はまるめて焚付けて、正馬先生のご飯を炊いていました。薪は火が強いので難しくなりますけれども、紙で焚くとふんわりとよくでき上がります。先生は薪で焚いたか紙で焚いたかすぐわかっていました。捨てる時は灰になって肥料、それで尽くしきったものです。なんでも捨てるということは一番最後にする。どんなものでも何かの役に立つので捨てることは最後としていました。物の性を尽くすことは、己の性を尽くす、他人の性を尽くす、時間の性を尽くす、お金の性を尽くすことにもつながります。他人から、自分の存在価値を見出され、活用場所を与えられ、さらに行動したことに対して、最大限の賛辞を与えられることは、生きがいを持ち幸せな人生を送ることにつながります。自分としては、ネガティブで悲観的な自己内省に向かうことなく、意識や注意が前向きに、外向きに広がってきますので、神経症とは無縁になります。以上の5点に対して、絶えず意識して、取り組むことで、「かくあるべし」の態度から、事実優先の生活へと転換することが可能となります。これらに取り組むことで、精神的な葛藤や苦悩と決別し、生の欲望に向かって努力する人間本来の生き方に立ち戻ることが可能となるのです。
2021.07.17
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観念優先の態度を事実優先の生活に切り替えるために!その4、観念による先入観、決めつけ、マイナスのレッテル張りをしない。事実確認を怠り、先入観や思い込みによって事実を捏造してしまうことはなんとか避けたいものです。また相手や物事をネガティブに判定して、否定的に見る態度は不幸をおびき寄せます。国立国語研究所で話題となった実話があります。ある方が、一人の女性のことを、「目がパッチリして、スリムだ」と言いました。ところが別の人は、「目がギロッとしていて、電信柱が歩いているようだ」と言いました。実際に彼女を見ていない人は、どちらの人から話を聞いたかにより、女性への印象が全く違ってしまう。一方ではモデルのような美人だと思い込んでしまう。別の人は、栄養失調気味で不健康な印象を持ってしまう。とても美人という発想は出てこない。福井商工会議所が県内の企業人348人を対象に、言葉のイメージを調査したことがあるという。大勢というと、何人ぐらいの人のことを指すのか。これに対する答えは、最多が1万人でしたが、最小は4人でした。おじさんというと何歳以上の人のことを指すのか。78歳という答えがあった半面、22歳という答えもあった。長電話は時間でいうとどれぐらいのことを指すのか。最大は10時間、最小は2分でした。人それぞれ頭の中でイメージしていることは違うことが多いということです。それなのに、他人も自分と同じようなことを考えて行動しているはずだという先入観は何の役にも立たないということになります。御巣鷹山に日航ジャンボ機が墜落して500名の尊い命が失われました。これは、はっきり言って人災でした。安易な決めつけが招いた取り返しのつかない事故になりました。どんな決めつけがあったのか。このジャンボ機は7年前に尻もち事故を起こして圧力隔壁が壊れて修理していました。その影響からか、事故前の6か月間に後部化粧室のドアの開閉の不具合が合計33回も報告されていました。この不具合を、機体整備係がどのように取り扱ったかが問題になります。気になる人は、当然圧力隔壁との因果関係の調査に乗り出すのではないでしょうか。少なくともボーイング社に再整備を依頼していたはずです。現実は、圧力隔壁の近くにコート収納庫があり、そこに機内誌を大量に詰め込んでいたことが、後部化粧室のドアの開閉の不具合につながっていると結論づけました。あまりにも安易な決めつけが、大惨事を招いてしまいました。蚤のジャンプ力は、人間でいうと霞が関ビルを軽々飛び越えてしまうぐらいだそうです。その意欲、積極性、能力を奪い去ってしまう方法があります。それは、一匹の蚤をコップに入れて蓋をします。蚤は逃げようとジャンプしますが、蓋に突き当たって落ちてしまいます。蚤がフラフラになり、小さな心を痛め、まさに落ちようとするときに、「何をやっているのだ」「おまえは何をやらせてもダメだ」「救いようのない奴だ」などと罵声を浴びせかけてやるのです。疲れた蚤に「もっと気力を奮い立たせて、何回もチャレンジしなさい」とけしかけてやるのです。そのうち蚤は、「ああ、ぼくはダメだ」と意気消沈して、自己嫌悪で苦しむようになります。劣等感の塊になり、少ししか飛べなくなります。こうして、自信を失い、不安でおろおろし猜疑心の塊になってしまうのです。そういう先入観で洗脳しておいて、蓋を取って「さあ君は自由だ、自由に飛んでもいいよ」と優しく声をかけてやるのです。蚤はもう決して自由に飛ぶことはありません。飛ぶ意欲が根こそぎ奪い取られてしまったのです。マイナスの先入観や決めつけ、レッテル張りは、子供や部下の伸びる力を根こそぎ奪い取り、無気力、無関心、無感動な人間へと追いやってしまうのです。森田理論をかなり学習した人でも、ネガティブな先入観、決めつけ、レッテル張りを手放そうとしない人が多いように思います。観念の世界で分かったようなつもりになる事は、犬も食わない代物なのです。この態度は放棄する必要があります。この点は心して事実に向き合う態度を高めていく必要があると思っています。そういう能力を獲得した人は、安易に他人を非難、否定しなくなります。もちろん自分自身も、自己嫌悪、自己否定することはありません。森田を学習した人でそんな人がまれにいます。この人たちは、森田道の頂点に達した人だと思います。
2021.07.16
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観念優先の態度を事実優先の生活に切り替えるために!その3、事実観察を徹底する。事実は具体的、赤裸々に取り扱う。三重野悌次郎さんは、地図で現地のすべてを網羅することはできない。地図と現地を混同する人はいませんが、事実と観念を混同する人はたくさんいますと指摘されています。例えば、専門医が心臓に欠陥がないと断言しているのに、心不全の発作を恐れて電車に乗れない人がいます。あるいは、ガンにかかっているに違いないと思い込んで、長期の療養生活に入る人もいます。人前で緊張するのは、自分の精神が脆弱なためだと判断して、精神強化のために座禅を組んだりします。いずれも事実よりも観念を優先して、一人で苦悩を作り出して格闘しているのです。森田先生は疑問な点は、自ら現地に出向いて、自分の目で確かめる方法をとっておられます。必要ならば自ら観察や実験に取り組んでおられました。五高校時代には、夜中に一人で幽霊屋敷の探検をしておられます。熱湯の中に手を突っ込むという大道芸を見て、実際に自分の手で実験もされています。大正13年9月1日に発生した関東大震災の時は、各地に出向いて流言飛語がどのように発生してどのように拡散していったのかという調査を念入りに行っておられます。森田正馬全集第7巻の315ページから340ページにその詳細が説明されています。事実は具体的に話さないと間違いが起こりやすくなります。森田先生は、電車道を横断する子供に対して、「注意せよ」とか「気をつけよ」とかの助言よりも、「決して走ってはいけない。静かにゆっくり歩きなさい」と具体的に指示されていたそうです。子どもは、「注意せよ」「気をつけよ」と言われても、何に気を付けたらよいのが分からないからであると言われています。対人恐怖症とうつ状態で苦しんでいますと自己紹介されても、他人にはその内容はほとんど分かりません。いつどんな時にこんな症状が出ましたと、具体的に包み隠さずに話すことで初めて共感してもらえます。都合の悪いことが拡散しても、それは事実だから仕方ないという人の方が治りがよいようです。神経症の人は、自分の都合の悪いことは、隠す、捻じ曲げることが習性になっています。自分の都合の悪いことは開示しないで、手っ取り早く神経症の苦しみだけを取り除いてもらいたいなどと虫のよいことを考えているものです。うっかり開示した秘密(?)を、「これは外部に漏れるようなことはありませんよね」と確認しているような人は、事実の隠蔽体質が強すぎて、症状の回復には程遠いのが事実です。事実を積極的に赤裸々に開示することに徹することを実践するだけで、神経症はよくなっていくものだと思います。この手の情報開示は、自分の恥をさらけ出すことだと勘違いしている人が多いように思います。実はその方法をとることで、人間関係は改善してきます。三重野悌次郎さんは、「いつも」「みんなが」という言葉を使う人は、要注意だと言われています。「私はいつも失敗する」という人に、「では最近の失敗がいつ、どのようなことであったのか」と聞くと、たいていすぐに思い出せない。事実は、何日か前に一度仕事の失敗があった。その前にもいくつか失敗をしている。それが事実であり、それ以上のものではない。ところが本人は、自分はいつも失敗をしている。自分は能力のないダメ人間だと決めつけているのです。これは事実ではありません。私の妻はこの「みんな」という言葉を使う名人だった。「みんながそういっている」というのが口癖だった。そこで誰が言っていたのかを聞くと、親戚の女の人が一人言っていただけで、それに自分も賛同したので、いつの間にか「みんなが言っている」ことになってしまったのである。実態は本当の事実とは程遠いと言わざるを得ない。他人の話を鵜呑みにしないで、必ず事実の裏をとる。事実に基づいて、具体的、赤裸々に話すように心がける。この2つを徹底するだけで、あなたの人生は大きく変化してきます。
2021.07.15
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観念優先の態度を事実優先の生活に切り替えるために!その2、自分のなかにいる二人の自分を一つに統一する。私は森田理論を学ぶ前は、現実の自分とその自分を叱咤激励しているもう一人の自分が同居していると考えたことがありませんでした。これを教えてくださったのは、玉野井幹雄さんです。人は誰でも自分の心の中をよく観察すれば、「現実の自分」と「それを批判している自分」に分かれて争っているものです。普通の人は、それが当たり前だと考えて、適当に「折り合い」をつけて生きているのですが、神経症になっている人、または主観的に悩んでいる人は、完璧を求めすぎるために、「折り合い」をつけることに失敗して苦しんでいる状態である、と言ってもいいと思います。それは「批判している方の自分」の力が強すぎたり、対処の仕方を間違えているために起きている現象であって、その点を改めることができれば解決する性質のものであります。現実の自分を強力な「かくあるべし」で、非難、叱責、否定しているというのです。現実の自分の行動が行き過ぎないように、理知の力である程度抑制することは大切です。でも観念の世界で思考したことを、事実、現実、現状の上に置くという考えに至ると弊害の方が多くなります。その状態に至ると、観念と現実の力のバランスが崩れています。バランスが崩れると、サーカスの綱渡りですと地上に落下するということになります。私たちの場合でいうと思想の矛盾に陥り、葛藤や苦悩、生きづらさを抱えるようになるのです。このバランスを回復するためには、当面は事実、現実、現状の自分に肩入れすることです。どんなことがあっても自分を守りぬき、擁護して見せると覚悟を決めて実行することです。この覚悟を表しているキャッチフレーズがあります。天才バカボンの「これでいいのだ」です。この言葉を絶えず口ずさむようにするのです。この言葉は、快く思っていない弱点、欠点、ミス、失敗、両親、境遇、環境などに対して、すべてをあるがままに認めて、受け入れますと高らかに宣言しているのです。こうして「かくあるべし」を弱めて行けば、現実との葛藤は少なくなりますので、無駄なエネルギーを使わなくて済みます。問題だらけの自分をゆるすことができると、今度はその余ったエネルギーを生の欲望の発揮に使うことができます。つまり新たな人生の幕開けになるのです。自己防衛が無くなり、日常茶飯事、課題や目標、夢や希望に向かって努力できるようになります。そういう生き方は、周りの人に幸せを届けることになるのです。だから、二人の自分に折り合いをつけることは、事実本位の態度を身に着けるために、最初に取り組むべき課題となるのです。ここで山崎房一さんの「自分の最大の敵は自分」という詩を紹介しましょう。自分にとって一番恐ろしいことは自分が他人の目で自分の欠点を責めたてて自分の存在を否定すること自分にとって一番心強いことはどんなことがあっても自分が自分の味方になって自分を守ることです自分にとって自分は自分の安住地でなくてはなりません他人からどんなに非難、否定されても、他人と一緒になって自分を非難、否定してはいけません。戦争でいえば、最前線で敵と戦っているのに、後ろから身内の者が自分を攻撃しているようなものです。どんなに強い人でもひとたまりもありません。自分が自分を守り抜くことは最後の砦となります。自分で自分を守り通すという覚悟があれば、それだけである程度の逆境を乗り越えていけます。つらい時には母港に戻って英気を養うこともできます。他人から非難、否定されている時に、他人と一緒になって、自分自身を非難、否定して見放したとき、一挙に人生の防波堤が決壊し、自分の人生は惨憺たるものに変わります。せっかく与えられた命です。もし神様が存在するとすると、自分自身をどのように大切に扱ってきたかが査定評価のポイントになると思います。自分自身を粗末に扱った人を、また別の惑星で生まれ変わらせるようなことがあると仮定すると、人間のような高度な知的生命体として生まれ変わらせることはないのではないでしょうか。与えられた命を大切にして、とことん己の性を尽くしていきましょうというのが森田理論です。
2021.07.14
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観念優先の態度を事実優先の生活に切り替えるために!その1、「かくあるべし」の弊害と事実本位の利点について理解を深める。これは生活の発見会に入り、地区の集談会に参加して、学習することになります。ここでは、概略を説明しておきます。「かくあるべし」の弊害・・・観念優先で事実を軽視するということは、事実を批判、否定しているということです。批判や否定を繰り返していると、お互いが対立関係になります。喧嘩になります。また事実を隠蔽する、ごまかす、捏造する、他に責任転嫁をするようになります。事実を観念の世界に引き上げようとすると、事実の抵抗にあい、なかなか思っている方向には向いてくれません。そこで葛藤や苦悩を抱えてしまうのです。いわゆる思想の矛盾に苦しむことになります。私たちでいえば神経症に陥ってしまうのです。この件については、イソップ物語の狐と葡萄の話が有名ですね。ある日、狐がたわわに実っている葡萄を見つけました。ところがいくら全力で飛び上がっても葡萄まで届きません。すると狐は、「きっとあの葡萄はまずくて食べられるようなものではないのだ」と自分の気持ちをごまかしてしまいました。そして、もともと自分は葡萄なんか食べたくなかったのだと言い聞かせようとしました。また、ブドウを獲るこのできない自分に劣等感を抱いてしまいました。そんな自分を生み育てた親を恨みました。すぐに葡萄を手に入れる超能力を得たいと考えました。事実を素直に認めないとこのような展開になるのです。事実本位の利点・・・ではここでの事実とは何か。「自分は葡萄を獲って食べたい」「でも自分の力では葡萄を獲ることはできない」この2つです。この事実を素直に認めると、事態は急展開します。自分を否定するのではなく、葡萄を手に入れるためにはどうすればよいのかと考えられるようになるのです。これは生の欲望に向かう出発点になっているということです。例えば、脚立を用意する。葡萄を叩き落す棒を見つけてきて、挑戦してみる。あるいは、仲間に声をかけて、知恵を借りて共同作業に取り組む。など。苦しい困難な現実に直面したとき、動物であれば、四方八方手を尽くして、力及ばなければ、そのままその事実に服従します。だが人間の場合は、事実をあるがままに認めようとしないで、観念で事実をごまかし、自分の気持ちを欺いてしまうのです。これが人間の苦悩の始まりとなるのです。事実優先の態度は、無駄なエネルギーの消費を抑えることができます。そして、今度はその貴重なエネルギーを生の欲望に投入することができるようになります。良寛さんに、「裏を見せ 表を見せて 散るもみじ」という句があります。人間誰でも弱みや欠点があります。病気を抱えて体調を崩している人もいます。人間関係や経済的な問題を抱えている人もいるでしょう。ミスや失敗は生きている限り永遠と繰り返されます。これらを隠す、ごまかす、言い訳をする、他人のせいにするのではなく、あるがままにすべてを開示する。表も裏も包み隠さずにありのままに開示して生きていく。そのときは気まずい思いをしても、長い目で見れば、その方向がよいと思います。その手法は、葛藤や苦悩でのたうち回ることを避けることができます。防御態勢をとっていないので、周りの人も安心して近寄ってきます。何よりも、エネルギーの無駄遣いが無くなり、エネルギーを効率よく使うことができるようになります。観念優先の態度を事実優先の態度に切り替えるためには、先ずその弊害と利点を森田理論学習に取り組み理解することから始まります。
2021.07.13
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昨日の続きです。観念優先の態度を抑制して、事実、現状、現実主導で生活していく態度を養成するためにどんなことを心掛けていけばよいのか。その手法はいろいろあると思います。自分が取り組んでいる手法があれば、引き続いて取り組んでみてください。とっておきの方法は、私もぜひ教えてもらいたいところです。ここでは私が取り組んでいる9つの方法をご紹介してゆきたいと思います。1、「かくあるべし」の弊害と事実本位の利点について理解を深める。2、自分のなかにいる二人の自分を一つに統一する。3、事実観察を徹底する。事実は具体的、赤裸々に取り扱う。4、観念による先入観、決めつけ、マイナスのレッテル張りをしない。5、物の性を尽くすことに専念する。6、「あなたメッセージ」を「私メッセージ」に変更する。7、両面観のものの見方を身につける。8、直観、第一の感情、初一念の感情を大切にする。純な心の態度の養成。9、否定語から肯定語の活用を心掛ける。これらはいきなり全部に取り組む必要はありません。「二兎を追うものは一兎も得ず」という言葉もあります。私の学習仲間は、5番の「物の性を尽くす」に取り組んで、人生観を確立した人がいます。富士山への登山口は5つあるそうですが、どの登山口を選んでも最終的には、頂上に立つことができます。これと同じことがいえると思います。それでは何日かにわたって、順次説明してみたいと思います。1番目ですが、森田理論の中の「かくあるべしの発生と苦悩の始まり」「事実本位の生活態度を養成する」を学習することです。手っ取り早いところでは、「これで納得!実践的森田理論学習のすすめ」というテキストで説明しています。「かくあるべし」の弊害はご自分の経験を振り返ってみることが有効です。事実本位については、三重野悌次郎さんの「森田理論という人間学」(白揚社)が詳しい。それから事実をどう取り扱うかという点になると、「状況が人を動かす」(藤田英夫 毎日新聞社)をお読みになる事をお勧めいたします。目からうろこの本でした。さて「かくあるべし」というのは、観念の世界で作り出されます。人それぞれのモノサシを当てはめて、是非善悪の判定を下して、自分や他人に押し付けるわけです。特徴としては、硬直的で変化対応力に乏しい。人それぞれ多様な価値観で生活していますので、一方的に「かくあるべし」を押し付けると、対立が生まれます。この態度は、観念重視で、事実を軽視しているわけです。観念と一致しない事実は、非難、否定の対象となります。事実を隠蔽する、捻じ曲げる、捏造する、言い訳をする、平気で他人に責任転嫁をするようになります。そして最終的には、事実を観念の世界に合わせてしまおうと考えるようになるのです。人間の思い上がりも甚だしいと思わざるをえないところまで来ているわけです。この態度が、神経症を生み出し、人間の葛藤や苦悩を生み出しているのです。ですから森田理論の事実唯真、事実本位の考え方が大事になるのです。その9つの手法はこれから順次説明してゆきます。ここではその前提として、「かくあるべし」の弊害、事実本位の利点について理解してほしい。NHKの番組に「逆転人生」があります。この番組の冒頭部分で青い矢印がどんどん下降していきます。ところがある時点を境にして、赤い矢印に変わり、方向も上昇軌道に乗り始めます。森田理論でいうと、神経症と生きづらさを抱えてのたうち回っていた状態から、生きていくのが楽しいという心境と行動の変化が訪れるということです。それは「かくあるべし」を抑制して、事実本位の生活態度を身につけることで可能となるのです。この態度を身につけると2つの利点があります。事実唯真の生活態度は、葛藤や苦悩が少なくなりますので、エネルギーの無駄遣いがなくなります。また、事実を素直に受け入れるという態度になると、生の欲望の発揮に向かって、その出発点に立てることになります。オリンピックの出場権を得るようなものです。有り余ったエネルギーを集中投下できるようになるので、やりがいの持てる人生へと昇華してくるのです。本日はここまでです。明日以降の投稿にご期待ください。
2021.07.12
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森田理論は神経症を克服するためだけではありません。神経質性格者が人生観を確立するためにあります。どこに目をつけて取り組んでいけばよいのかを説明してみたいと思います。内容としては2点あります。まず、不安の裏には欲望があるというということをしっかりと理解することです。私が神経症で苦しんでいた時は、そんなことを考えてみたことはありませんでした。その結果、生の欲望の発揮は蚊帳の外になりました。ひたすら不安と格闘していたのです。取り除こうとあらゆる手法に取り組んでいました。また予期不安を察知すると逃げ回ることを繰り返していました。もがけばもがくほど、ずるずるとアリ地獄の底に落ちて行ったのです。森田理論学習によってそのやり方は間違っていたことが分かりました。進むべき道は、生の欲望の発揮を視野に入れて、不安と欲望のバランスを回復させて、それを維持していくことだと理解しました。そういう意味で森田理論はバランス療法と呼んでもいいのではないか。神経症の真っただ中という場合は、不安には手を付けてはいけません。生の欲望に100%エネルギーを投下していくべきです。日常茶飯事、興味や関心のある事などに力を入れていくことです。イメージとしてはサーカスの綱渡りです。サーカスの綱渡りは、長い物干しざおのようなものを持っています。この竿を右に傾けたり、左に傾けてバランスをとっています。バランスを維持しながらも、少しずつ前進していきます。こういう態度で生活できるようになると神経症は治るのです。生活の発見会では、不安は横において、目の前のなすべき課題に取り組むことが肝心であると教えられてきました。それはその通りなのですが、私の体験では、欲望と不安のバランス療法に取り組むのだという考え方がしっくりときたのです。意欲的になれたのです。これは比較的即効性があります。半年から1年くらいで軌道に乗ってくると思います。日常生活、仕事などが好循環に入るのです。これで万々歳か。ちょっと待ってください。生活面では劇的な変化をしてきますが、肝心の症状は依然として残ります。それは不安の方には手を付けていないわけですから、土砂降りの暴風雨が吹き荒れている中で生きていることは、何ら変わらないわけです。指針が持てず、苦しいです。むなしいです。もはや解決方法がないのか。悶々としたまま、森田から離れていく人が後を絶ちません。こういう人は、「惜しい。もったいない」と声を大にして忠告したいです。森田はそういう場合にもきちんと解決方法を提示しているのです。ところが、「不安には手を付けないで、目の前のなすべきことに手をつけること」があまりにも肥大化して、これが森田理論のすべてだと誤解したところから、悲劇が始まったのです。もう少し掘り進めば、豊かな金鉱脈に到達したのに、早々とここには求めている金鉱脈はないと判断して撤退した結果が、果実を手にできなかった最大の理由です。35年も生活の発見会にいると、その宝物を発見して、人生の指針を見つけて味わい深い人生を送られている人に遭遇します。そういう人からはオーラを感じます。もったいぶらずそれを早く教えてくれという声が聞こえてきそうです。それは、観念優先の思考パターン、行動パターンを、事実、現状、現実優先の思考パターン、行動パターンに変えていくことです。人間は、大脳の前頭前野が高度に発達してしまった結果、事実よりも観念を優先する生物になってしまったのです。事実軽視する、事実を隠す、事実を捻じ曲げる、事実を捏造する。言い訳をしてしまう。事実を他人に責任転嫁することを平気でしてしまう生き物に変わってしまったのです。事実を否定して、その事実を観念の世界に引き上げよう、修正してしまおうと考えるようになったのです。ここが悲劇の始まりのような気がします。頭で考えた理想や完全の世界が、事実よりも上にくるという、思いあがった生き物になったのです。でも事実はおいそれと捻じ曲げることはできません。その努力を続けると葛藤や苦悩で苦しみ続けるという悪循環にはまってしまうのです。森田では、このことを分かりやすく「かくあるべし」を振り回すと言います。思想の矛盾に苦しんでいる状態と判断します。目の付け所の2点目は、事実を最優先にして、観念の世界は、事実の下に置くことです。森田では感じから出発して、理智で調整すると物事はうまくいくと言います。事実主導で観念を従にする方法を見つけ出して、習慣化する努力を意識的に行うことが不可欠です。私は「かくあるべし」をできるだけ減少させて、事実本位の態度を養成する方法を9つにまとめてみました。その方法は明日以降、順次投稿してまいります。
2021.07.11
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森田先生は自分が好きか嫌いかという感じから出発して、つぎに理智で調整することが肝心であるといわれています。今日は、好きという感情、嫌いという感情から出発することについて考えてみたいと思います。好きというのは快の感情、気持ちよいという感覚のことです。すぐに思い浮かぶのは、本能的な感情です。本能的な欲望は、瞬間的、刹那的、刺激的でドーパミンが脳に快感を生起させます。アルコール、ギャンブル、ネットゲーム、グルメ、娯楽、性行動などがそうです。しかし本能的な欲望を追い求めることが習慣になってしまうと、生活や健康や人間関係が破綻してしまう可能性が高まります。でも分かっているのについ暴走してしまうというのが実態です。これらは、人生にアクセントを与えるカンフル剤としては有効ですが、のめりこんでしまうことは何としても避けたいところです。自分は抑止力がないと自覚している人は、第三者に抑止力を担ってもらい、暴走を抑止する必要があります。そうしないと、自分のこれからの人生が破壊されてしまいます。それともう一つ大切なことは、嫌いと思っていることに取り組むことで、嫌いという感情が好きという感情に変化する場合があるということを忘れないようにしたいものです。嫌いという気持ちが湧き上がると、当然なすべきことなのにその感情に流されて何も行動しない。気分本位に流されてしまうことが問題です。しんどいことはしない。不安なことは避ける。失敗や困難が予想されることから逃げる。さぼったり楽をすることばかりに流される。そうすると一瞬は楽になれます。ところがその後、むなしくなってしまう。楽ができたはずなのに、精神的には空虚な味気なさに占領されてしまう。そしてその心を癒すために、さらに本能的な欲望を追い求めてします。悪循環が始まってしまうことになります。しんどいことは避けたい。失敗や実現困難なことでエネルギーの消耗は避けたい。楽をしたい。仕事でも、人が見ていなければさぼって休みたい。とりかかる前は、誰でもそんな気持ちです。ついうっかりしているとその悪魔のささやきにそそのかされてしまうのが問題なのです。これをぐっと抑えて、いやいやながらでも行動に向かう方法がいくつかあります。まず、仮に行動した場合、その後の感情がどう変化してくるのか考えてみることです。たとえば、ウォーキングやランニングを続けている人は、出かける前は少し億劫な気持ちになります。それを押しのけて、実行している人は、終わった後の爽快さを覚えているからです。またあの爽快感を味わいたい。そして、おいしいビールを飲みたいという気持ちに後押しされて、気分本位の気持ちに押しのけて出かけているのです。それから行動する時、最初に使うエネルギーは大変なものがあります。でも、行動して弾みがついてくると、エネルギーの消耗は10分の一ぐらいになるという事実を忘れないようにしたいものです。これはロケットの打ち上げがそうです。地球の重力圏を抜けるまでは、大変なエネルギーが必要ですが、それを抜け出ると楽になるのです。行動は手掛けているとはずみがついてくることを忘れないでください。失敗をすることに耐えられないという人は、大数の法則を勉強することです。飛び込み営業の経験がある人は、大数の法則の学習をしています。たとえば、自動車の販売台数が日本一という人の話を聞いてみると、成約確率は100件の飛び込み営業をすると、1件の見込み客が見つかるという自分なりの確信を支えにしているのです。大数の法則の理解が、行動へと駆り立てているのです。だから断り文句に耐えられるのです。自尊心が傷つくことがほとんどない。できるだけ多くの人に会って、99人から断わられたという実績を作りたい。あとは大数の法則が働いて、自然に1件の成約が舞い込んでくることを確信しているのです。私たちは、規則正しい生活、凡事徹底にこだわることで、実践・行動への流れに乗ることができる。そこでの生活で、楽しみをたくさん見つけて、自信をつけて、能力が高まっていくことを学んできました。それが人として生きることだと学びました。こうしてみると嫌いと思っていることが、行動することで好きになるということが、味わいのある人生につながっていることが分かります。
2021.07.10
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ダイエットに挑戦した人で、4ヶ月で14キロ体重を落とした人がいる。その時に得た知識を活用して、その後もリバウンドすることもなく体重をキープできているという。ダイエットには運動と食事が大きく影響しています。食事は、同じだけの量を食べても、次の日には体重が減っているという食事の仕方があるそうです。一般的には、カロリーを抑えた食事になります。しかしそれが極端になりますと逆にエネルギーの補給ができなくなります。野菜中心の食事では力が出ません。また食事制限によって、ストレスがたまります。脳の快楽神経には、美食の快感がしっかりと刻み込まれています。それを断つということは、苦痛と戦うことになります。リバウンドする人は、苦痛の反動で、手を抜いたときにドカ食いを始めるのです。すると元の体重よりさらに太ってしまう。栄養学の本によると、太っているのに栄養失調の人がいるという。これは食事が片寄っているのだと思います。甘くて口当たりの良いものばかり食べている。カップラーメン、スナック菓子、ファーストフード、外食中心、偏食、多量の飲酒、清涼飲料水のがぶ飲みなどが習慣化している人は、その傾向が高くなると思われます。ダイエットに取り組もうとする人は、自己流では難しいと思います。また長続きしない。ダイエット前の状態よりも、さらに事態は深刻になる場合があります。ダイエットに取り組もうとする人は、まずどのように取り組めばよいのか自分なりに研究する。ダイエットの専門書を読む。そしてインストラクターや専門家の指導を受ける。ダイエットに取り組んでいる人たちの自助グループに入り、情報交換して励まし合う。これらがセオリーだと思います。この過程を無視して安易に自己流のダイエットに飛びつかないほうがよいと思います。これは神経質性格を持ち、症状や生きづらさを抱えている人にも同じことが言えます。私はこういう人は、森田理論学習に取り組むことをお勧めします。人生観を確立するための勉強を開始することできっかけができます。そのための参考書は山のようにあります。それを一人で取り組んでもよいのですが、この場合は時間がかかります。さらに間違った理解をしてしまうことがあります。観念的で独りよがりの人生観を持ってしまうこともあります。これを防ぐためには、森田理論の専門家に学ぶことが有効です。ポイントは、理論ばかりに長けている人よりも、理論と実践が車の両輪となって前進している人を見つける。森田理論はほぼ体系化されています。問題は森田理論を生活に応用している人かどうかがカギとなります。助け合いのための自助組織として、NPO法人生活の発見会があります。現状ではこの会に入り、機関誌を読む。他の会員との交流によって励まし合う。相乗効果を利用する。現状これがベストの選択となります。参加する集談会では物足りないという人がおられるかもしれませんが、全国展開している自助組織としては、歴史も長く、頼りになる人があちこちに存在しているというのが真実です。
2021.07.09
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「存在していて当たり前」「持っていて当たり前」「居て当たり前」「やってもらって当たり前」「問題がないのが当たり前」ということの中に、感謝や価値を見つけることが苦手な人が多いように思います。たとえば家族がいて当たり前、自分の世話をしてくれて当たり前、友人がいて当たり前、好きな食べ物を腹いっぱい食べられるのが当たり前、仕事があって当たり前、経済的に何不自由がない生活が当たり前、自動車があって当たり前、クーラーがあって当たり前、仕事があって当たり前、ノルマが達成されて当たり前、人間関係が良好であるのが当たり前。健康であるのが当たり前、安全に暮らせることが当たり前。当たり前ということが習慣になると、なかなか感謝の念は持てません。当たり前の中にことさら価値を見出す必要はなくなります。これらは、自由に手に入る空気や食べ物のようなものになるからです。普段の生活の中では、そこに注意や意識を払うことがなくなってしまうのです。それよりは、欲しいのに手に入らないもの手に入れる。問題のある現実を解消する。幸福感をさらに高めることなどを追い求めて、さらに「当たり前」のことを増やそうとしています。そうこうしているうちに、今まで「当たり前」と思っていたことに問題が発生することがあります。勝って当たり前という相手に、思わぬ不覚を取るようなものです。今まで「当たり前」と思っていたことには、注意や意識が向けられることがなかったわけですから、精神的にはかなり混乱することになります。これは今まで「当たり前」のことに光を当てずに、軽率に取り扱ってきたつけが回ってきたと考えてはどうでしょうか。森田理論は生の欲望を発揮して生きていくことが、人間本来の生き方ですよと教えてくれました。そのことに異論はありません。そのスタンスを維持することが肝心です。しかしザルで水を掬うようなことをすると、決して幸せは近づいてこないと思います。何を言いたいかと言いますと、普段から「当たり前」のことに感謝して、評価することに注意や意識を向けていきませんかということです。自分が今現在生きているということ、自分が持っているもの、恵まれた生活環境、居心地の良い人間関係に「ありがたい」と感謝することを、いつも忘れないようにすることです。ないものねだりばかりではなく、今存在しているもの、持っているものに光を当てることです。朝晩、仏壇に手を合わせている方もおられるでしょう。そこでは先祖様に感謝の念を言葉にして伝えています。食事をする前には、手を合わせて、食べられることに感謝している人もいます。この種の行動は、自然に感謝の気持ちが湧き上がってきますね。「当たり前」のこととして、今まで見向きをしなかったことをできるだけ書き出してみることをお勧めします。そこに大きな光を当てるのです。10個も20個も見つかると思います。日記を書いている人なら、今日の出来事の中から、「当たり前に感謝」を込めて、毎日3つずつ日記に書きだしてみるのです。これを最低1か月間続ける。感謝探しは、小さな幸せのかけらを見つけることになります。考えただけでも幸せになれるような気がしませんか。それは感謝探しは、「かくあるべし」のつけ入るスキがなくなるからだと思います。さらにこの手法を人間関係に応用していくのです。他人が自分にしてくれた「当たり前」と思っていたことに、感謝の言葉でお返しするのです。「ありがとうございます」という言葉を使うようにするのです。「申し訳けありません」「すみません」が口癖の人は、早速「どうもありがとうございます」に切り替えましょう。そういう気持ちを持っている人に、他人は安心して近づいてきます。
2021.07.08
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後白河法皇の「梁塵秘抄」(りょうじんひしょう)という本の中にある言葉の紹介です。この本は、当時京都で民衆が流行り歌のように歌っていたものを集めたものです。遊びをせんとや生まれけむ、戯れせんとや生まれけん、遊ぶ子供の声聞けば、我が身さえこそ動(ゆる)がるれ人間は苦しむために生まれてきたのではない。偶然、この命に満ち溢れた太陽系第3惑星に生まれてきた。せっかくもらった縁ですから、その恩恵に感謝しつつ、おおいに人生を楽しんで生きていきましょうと言っているのです。ではどうすれば人生を楽しめるのか。一つには本能的、刹那的、刺激的、享楽的、物質的楽しみを追い求める方法があります。アドレナリンが出て、脳のエーテン神経が刺激されるのでえも言われない快楽に酔いしれることができます。これをカンフル剤として活用すると人生は楽しくなります。ギャンブル、ネットゲーム、アルコール、薬物、愛、グルメ、買い物などがあります。これの欠点は、のめりこむと金がかかる。瞬間的であり、持続性がないということです。そこに最大の価値を置くと、どんどんエスカレートしていく。薬物でいえば、少々の量では満足できなくなる。これが途絶えると、イライラして精神的な面に悪影響が出てきます。つまりこの方面の楽しみばかりを追い求めていくと、身体面、精神面の両方に悪影響が出てくる。ほどほどにすることが大切です。基本はどうするか。日々の日常生活に丁寧に取り組んでいく中で、問題や課題を見つけて、解決に向かって行動するということだと思います。物そのものになって取り組んでいると、新たな気づきや発見が湧き上がってきます。それが呼び水となって、興味や関心が高まってきます。やる気やモチベーションが高まってきます。そして次の課題や目標が見えてきます。希望や夢を持てるようになってきます。これらは基本的にお金はそんなに多くはかかりません。その余韻は長期にわたって持続します。生活も安定して豊かになります。精神状態も健康的になります。いいことづくめとなります。そのためには気分本位な行動は抑制することです。最初はイヤイヤ仕方なく行動したことが、後で振り返ってみるとあのとき一歩を踏み出してよかったと思う事が多いはずです。仕事は生活していくためにやむを得ずしている。宝くじが当たれば、すぐに辞めますという人がいます。その一方で、仕事の中に問題点、課題、改善点を見つけてなすべき目標が明確になった人は、活き活きとしています。積極的、建設的、生産的、創造的な人生を楽しんでいます。仕事は、人生の3分の1くらいは占めているわけですから、ここに焦点をあてて、できるだけ人生を実りあるものにすることは大切だと思います。良寛さんに次のような短歌があります。霞立つ 長き春日を 子供らと手まりつきつつ 今日もくらしつ良寛さんは極貧の生活でしたが、精神的には大変穏やかな心境で、人生を楽しまれていたのではないかと想像しております。物質的な豊かさよりも、先ず精神的な安定感を優先した方がよいと思います。徳川家康は、「人の一生は重き荷を負うて、遠き道を行くが如し」と言いました。徳川家康が人生を苦行と捉えていたのかどうかわかりませんが、それとは対照的に人生は子どもの遊びのように無我夢中になれるものであるという考え方もあるのです。私を振り返ってみると、神経症の克服に向かって一途に努力することを中断して、人生を楽しんで生きて行こうと方向転換した時から、新しい自分の生き方が見つかったような気がします。森田理論学習と実践によって、いくらでも人生は楽しむことができるようになります。生活の発見会の集談会は、そんな話を披露しあう場だと思っております。私は小さな楽しみを身近な生活の中でたくさん見つけて、楽しむことのできる人に魅力を感じています。
2021.07.07
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引き続き、宇野千代さんのお話です。観念優先の世界で生活している私にとっては耳の痛い言葉です。頭で考えるだけのことは、何もしないのと同じことである。私たちは頭で考えるのではなく、手で考えるのである。手を動かすことによって、考えるのである。手を素早く動かすことが、そのまま、頭を素早く動かすことになる。どんなことをするのでも、先ず頭が、その、することを伝達する。その伝達が、間、髪を容れないほど、素早いのは、手が頭の伝達を、神業のように素早く受け取るからである。私たちは、先ず、手を動かすのかと思うほど、頭の回転を素早く受け取る。頭の動きというものは省略されているのかと思うほど、手が、手だけが素早く動くのである。小説を書くのも、手が動くのである。どんな大傑作を書くのでも、手が動くのである。手が動かないものは何もない。私もときどき、頭の中で大傑作を思いつくことがあるが、それは手が考えたことではないので、さて、書こうと思うと、何であったか、まるで思い出せない。人の考えることは、その行動によって引き出されることが多い。私にとって、計画は何もない。ただ、ああしたい、こうしたい、と絶えず思い描いて、それが喩え、少々無理なことであっても構わずにやってしまう。あの、いつでも何かを追いかけていく気持ち。大袈裟に言いますと、そういうことの人生であったな、と、ふと思うのです。私はそういう気持ちに却って追いかけられ、振り回されて暮らしてきたのではないかと、今更のように考えるのです。おかしなことですが、それが自分の生活であったと気がついても、いまではただ、苦笑するばかりです。(行動することが生きることである 宇野千代 集英社文庫 12ページより引用)宇野千代さんは98歳でお亡くなりになられましたが、絶えず好奇心を大切にして、心ゆくまで人生を謳歌された方だと思います。その生き方が、優れた小説を生み出す原動力となっています。我が人生に悔いはなし。感謝の気持ちを持って旅立たれたようです。
2021.07.06
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宇野千代さんの言葉は、森田の考え方に近い。小説家だけあって、無駄のない表現方法にほれぼれする。人間のすることは、すべて現実と想像である。私たちは朝から晩まで、この二つの現象の間を往復して、巧みに生活している。誰が、生活を巧みに成し遂げるかは、この間の微妙な感覚の揺れ動く有様で決定する。どこまでも体をぶっつけて、逃げないことである。おかしな言い方ですけれど、あの時は思わずそうした、考える隙間がなかった、と思うほど早い、速力のある行動ほど、「生きていた」という感覚が強いのです。悪かったかもしれない、しかし後悔はみじんもしない、という感覚です。人間の考えていることは、いつでも、変転極まりないものです。あなたは私のことを、いつでも、思ったらとことんまでやってしまう、自由気ままな人生を送ってきたように、お考えになるようようですが、その私でも、あるときは立ち停まって、行き先を考えたことだって、たびたびありました。ただ私の場合は、その考えている間が、とても素早いのです。まるで、考えたことなぞなかったように、素早いのです。自分から進んでその中に這入っていくことによって、私は傷つかないことを覚えた。(行動することが生きることである 宇野千代 集英社文庫)この考え方は陶芸家の河井寛次郎氏と同じです。河井寛次郎氏は、「手考足考」と言いました。頭の中で構想を練るだけでは優れた陶芸作品は生まれない。手足を動かして、試行錯誤の中からこれはという作品が生まれる。行動すると、いずれにしても出来栄えという結果が出る。その結果をもとにして、工夫やアイデアが膨らんでいく。肝心なことは、手足を動かすことが先で、考えることはその後にするということだ。ここが神経質者と違う。神経質者は頭の中で、成功間違いなしという感触を優先する。しかし実際に行動に移してみると、考えた通りにならない。思わぬ壁も立ちふさがる。見込み違いが常に付きまとう。こうなりますと、急に意欲が衰えてしまう。すぐに撤退を考えて実行する。そのうち予期不安に苦しみ、手も足も出なくなる。宇野千代さんは実は結婚を4回経験されている。たびたび結婚と離婚を繰り返すことは、精神的には振幅の幅が大きすぎて、普通の人は耐えられるものではない。宇野さんは以前の夫やその家族ともつきあいは継続している。思い立ったらすぐに行動という宇野千代さんらしい生き方に驚くばかりです。宇野千代さんは、好奇心の塊のような人ですね。しかも凝り性です。書き残された文章や挑戦してこられた内容を拝見すると、「すばらしい」の一言に尽きます。神経質性格者も執着性が強く、好奇心旺盛です。あとは観念優先の態度を少なくして、「手考足考」の考え方を一部取り入れると、素晴らしい人生の幕が上がります。私たちは元々観念的なので、そちらの方は放置して、行動面に力を入れると、観念と行動のバランスが取れてくるはずです。
2021.07.05
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宇野千代さんのお話です。ある作家の話であるが、その作家は結婚披露の席上でテーブルスピーチを求められると、好んでこういう話をする。今日から新婚生活に入られるお二人に、私はこういうアドバイスをします。それは二人とも、仲の良いときばかりではない。けんかをするときもある。そのけんかのときに、腹が立ったら、相手をひっかいても、ぶんなぐってもかまわないが、決して言葉でもって、お前の顔はなんだ、サルが怒ったときみたいだぞ、とか、あなたは無類のけちんぼだとか、薄情者だとか、口がさけてもそんなことを言ってはなりません。打たれて痛かったことは忘れても、言葉で言われた痛烈なことは頭の中に刻み込まれて決して忘れることはないからです。(行動することが生きることである 宇野千代 集英社文庫)相手から受けた暴力は時が忘れさせてくれます。ところが相手から受けた言葉の暴力はいつまで経ってもなくなることはありません。心の中でいつまでもめらめらとくすぶっているのです。私も以前生活の発見会活動の中で、先輩会員から受けた人間性を否定する言葉は、今でも忘れることはできません。その方は、今では、他の人からは神様のように尊敬されている方ですが、私の心の中にはいつまでも怨念が渦巻いているのです。もっとも私も、「かくあるべし」を振りまいて、他人を非難、否定してきましたので、自分では気がつかないが、他人を生涯にわたって苦しめているのではないかと思います。自覚がないというのが実に恐ろしいことです。過去のことはもはや取り消せないわけですから、それ以上のことをしてなんとか返済しなければなりません。そう考えて、人の役に立つことを見つけるようにしているのです。結婚する前は、誰でも、努力して、相手の機嫌を取ることばかりをしています。プレゼントや暖かい言葉を投げかけます。必要以上にしている人が多い。ところが、結婚したとたん、釣り上げた魚にエサはやらないといった態度で、手のひらを逆さにしたように、相手のことを叱責、非難、否定してしまう人がいます。相手を無視するのはさらに悪い。DVというのは最たるものでしょうね。結婚する前は、ことさら相手の機嫌を取ることをしなくてもよい。極端なことを言えば、けんかを売るようなことをしてもよい。これはあくまでも結婚する前のことです。しかし、いったん結婚したからには、そのやり方は捨てる必要がある。結婚してからは、誕生日のプレゼントを欠かさない。母の日、父の日のプレゼントを用意する。相手のことを思いやり、暖かい言葉をかける。困っているときは相談に乗る。大変な時には助けに入る。結婚には、もともとそういう努力義務が課せられているのです。努力義務を放棄することは許されるものではないと心得るべきです。そうはいっても自己主張の塊のような夫婦が一緒に生活するわけですから、波風が立たないわけがありません。けんかの種はそこら中に転がっています。相手がおならをしただけでも許せない。せんべいや漬物を音を立てて食べるのが許せない。などなど。それを防ぐためには、結婚する前にお互いが衝突した場合は、話し合いによって解決するという約束を文章にして署名捺印しておくことです。クリナップ契約のことです。けんかばかりする夫婦は、それを額に入れて居間に飾っておくことです。結婚とはひたすら妥協を求めての交渉を繰り返すことなのです。その交渉が嫌だという人は、もともと結婚する資格がないということです。そういうことを続けていると、雨降って地が固まるようになるのです。そして私の人生はこの人でよかったのだという気持ちが生まれてくるのです。そして自分の人生を優雅に彩ってくれた配偶者に感謝できるようになります。相手に「かくあるべし」を押し付けることが習慣化している人は、自分にも「かくあるべし」を押し付けている人です。自己肯定感が持てないという原因は、ここにあります。まるごとの自分、現実の自分を認めることができないで、自分に対して喧嘩を売ることばかりしているのですから、自業自得ですね。これを改めるには、まず夫婦の人間関係を改善することです。それは子供の精神的な成長に、とても良い影響を与えるはずです。
2021.07.04
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望遠鏡が大事か、顕微鏡が大切かと二者択一で取捨選択する人はいないはずです。遠くを見たり、天体を観測する場合は望遠鏡が必要です。ウィルスなどの研究をする場合は顕微鏡を使います。目的に応じて適切に使い分けています。ここで何を言いたいかといいますと、それぞれが極めて優れた特徴を持っているということです。私たちは、どちらかに偏ることなく、それぞれの良い面を評価して活用していくことです。これは経済の面でいうと、マクロ経済とミクロ経済の違いということになります。マクロ経済が望遠鏡で、ミクロ経済が顕微鏡にあたります。企業の経営者は、顕微鏡を使いミクロ経済の中で、効率化、利潤の最大化を目指します。自分の会社が成長して利益を最大限にあげることを考えるのが経営者の責務です。当然のことです。その努力を怠れば、会社はいずれ倒産します。個々の企業が儲かるように、さまざまな経営方針を打ち出してきます。たとえば、今の日本は少子化です。基本的に物が売れません。賃金も高い。デフレの時代が続いています。過当競争で企業は四苦八苦しています。そんな状況の中で、企業の経営者はどう考えるか。そうだ、人口の多い開発国にシフトしていくと、まだまだわが社は成長できる。そうだ、中国、東南アジア、インドなどに進出していくべきだ。アフリカやアメリカなどにも進出していくチャンスがあるかもしれない。これらの地域では、爆発的に人口が増えており、市場はまだまだ拡大局面にある。さらに現地の賃金は、日本に比べると安い。これを指をくわえてみているようでは経営者失格の烙印を押されてしまう。一刻も早く、日本を脱出して海外に工場を移転して、現地の安い労働力を雇用して、国際競争に勝ち残って永遠に生き延びていこう。これは至極まっとうな考え方です。このようなことを考えない経営者は、経営者としては失格です。事実現在の日本はそうなっています。その結果、日本国と日本国民は苦しみ続けています。日本国内の産業は衰退の一途をたどっています。GDPは最大で550兆円ありました。それがどんどん右肩下がりで減り続けています。近い将来350兆円くらい位にまで落ち込むと予測している人もいます。こうなりますと、日本は開発途上国並みの国に近づいていきます。信じられないでしょうが、東南アジアの一小国となります。このGDPは三面等価の原則により、生産力、国民所得、消費量は同じといわれています。つまり、生産力が海外に移転することで、私たちの給料がどんどん減っていくことを意味します。1970年代から1980年代くらいは、毎年ベースアップがあり、ボーナスもたくさんもらっていました。年収500万円以下という人はほとんどいなかったように記憶しています。それが現在惨憺たる有様です。300万円台の年収が普通になっている。企業の経営者がミクロの世界で合理的な経済活動を行った結果、我々国民はどんどん貧しくなっているということです。雇用が生まれない。公務員でさえその多くが派遣労働者に切り替わっている。生活が成り立たないので、結婚もできない。少子化に歯止めがかからない。私たちの国民の生活の質の向上を考えてみた場合、どうしてもマクロの考え方が必要になります。経営者の視点だけではなく、国民目線から目標を設定する必要があるのです。富士山を眺める時に、現地いくことも大切ですが、富士山から距離を置いて鑑賞するという態度も欠かせないということになります。現在の日本では、マクロの視点から。我々国民の生活を向上させるという考え方が決定的に欠けています。政府が政策決定をする際に、経済諮問会議のメンバーとして、パソナの会長やゴールドマンサックスの出身者、経団連、御用学者などを平然と入れているような状態です。それらの人々はミクロの世界で、個々の企業の成長と発展、もっと言えば自分たちの利益の拡大を画策している人たちです。ミクロの世界で、個々の活動としては許されますが、それを国民生活に直結するマクロの世界に拡大させることは考え直す必要があります。なぜなら日本の国民の生活がこれから先さらに苦しくなっていくからです。アメリカでは主としてロビイストがこの活動をしているのですが、日本では総理が指名して経済諮問会議などのメンバーとしてこの人たちを重用している。このやり方で自分たちの利益を拡大させていくやり方は、アメリカの国際金融資本家にとって、日本に大いに見習いたいと言っています。笑うに笑えない状況となっているのです。このやり方はやめてほしいです。日本の国民の生活を最大限に向上させることが、政治の根底になければなりません。マクロの視点がすっぽりと抜け落ちると国民は不幸になるばかりです。私たちの国民の代表者である国会議員は、マクロの視点からのものの見方をまずしっかりと固めることが必要と考えます。経団連や中国にすり寄る政治家は国民の敵です。特に総理大臣は、国民の生活を向上させるという国家観を明確に持っている人がなるべきです。今は、自然災害に備えた国土強靭化、国土の防衛、対等な外交交渉、テロ対策、サイバー対策、国内への企業回帰、企業の海外移転の防止、移民の防止、派遣労働の見直し、最先端技術の育成と保護、国内産業振興、中小企業の保護や育成、食料の自給率向上、農業の保護、種子法の維持などやるべきことはたくさんあります。やってはいけないことは、国民第一の基本理念を無視して、ミクロの世界で合理的な経済活動をしている人たちと結託して、それらの人々を諮問機関のメンバーとして加えて政治を行うことです。国民第一の視点から、ミクロの視点で利益の追求を図っている人を政治の世界から排除することです。国民目線からの提言をしている人もいらっしゃいますので、その人たちの意見に耳を傾けて、先ずは事実の把握に努めることです。その人たちは、you tubeのチャンネルで優れた人が問題点を解説してくれています。事実を隠蔽し、ごまかされていることに無知であることは、子孫に対して申し訳ないことをしていることになります。
2021.07.03
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私は宇野千代さんの考え方に共感を覚える。私は固く信じているが、人の中には、駄目な人は一人もいないものである。人と人との相違は、その人が自分の良い芽をひらかせるような気でいるか、或いは摘み取ってしまうような気でいるか、その違いである。誰にでも、その人の持っている芽、と言うものがある。その芽を太陽のよく当たるところへ出して、ときどき水をやり、肥しもやっているか、或いはそこら中へおっぽり出して、まるで構わないでいるかで、勝負は決まる。私の一番嫌いな人は、「私駄目なんです。生まれつき文章なんて書けないんです」という人です。これは恐ろしいことであるが、つい、今しがた、その気もなくて言ってしまった自分の言葉の、「私駄目なんです。生まれつき、文章なんて書けないんです」と言った自分の言葉が自分の耳に反射して、ほんとうに、自分のことを自分で駄目だと思うようになるのではないだろうか。噓にでも冗談にでも、自分は駄目だなどと言ってはならない。自分は書ける、とそう言い切ることである。その言葉の反射によって、自分では思わず、自分は書ける、と思い込むようになる。謙遜は美徳ではなく悪徳である。人の持っている好い芽は決して摘み取るものではなく、伸ばすことが大切である。芽は手当次第でどんどん伸びる。伸びない、などとは夢にも思ってはならない。伸びる、伸びる、どんどん伸びる。(行動することが生きることである 宇野千代 集英社文庫 55ページより引用)集談会で「自分が好きになれない」「自己肯定感が持てない」という話を聞きます。その最大の原因は、事実、現実、現状と絶えず敵対しているからだと思います。観念的に考えると、物足りないこともあるでしょう。決して見逃すことのできない欠点や弱みもあるでしょう。理想主義、完璧主義、目標達成第一主義を標榜し、コントロール欲求の強い人、征服欲の強い人は、自分や他人の現状を、理想や完全な状態に引き上げることを願っているのです。犬も食わないような代物を、むりやり口にくわえようとしているようなものです。その発想が根本的な誤りなのです。そのことに疑いをもっていないことが不幸を招き入れているのです。空高く雲の上の自分が、地上に降りてきて、悪戦苦闘している自分や他人に寄り添うようにすれば、事態はすぐに好転換します。どんなに問題があろうとも、現実を踏まえて、そこにベースキャンプを張って行動を開始することです。簡単なことのように見えますが、観念優先の人にとって、かなりの難題です。宇野千代さんが言われていることは、自分の持っているプラスの面に焦点を当てて、それを活かす生き方をしている人は素晴らしい人であるということです。それしか生きる道はないのではないかと言われているのです。
2021.07.02
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自分や他人を非難、否定することが習慣になっている人は、いくら自分では正しいことをしていると思っていても、側から見ているととても見苦しい。短期的には相手との争いに勝利しても、将来に明るい展望が開けるものではありません。森田では相手に対してどんなに言いたいことがあっても、自分の是非善悪の価値判断を押し付けてはいけないといいます。それは、相手の気持ち、考え方、行動を否定し、自分の「かくあるべし」を押し付けることになるからです。ではどうすればよいのか。相手の気持ち、考え方、行動に至った事実を観察して、できるだけ正確につかむように心がけるようにするのです。森田理論で身につけた事実唯真の立場に立った行動をとることです。こういう立場に立つと、相手と対立しません。これには2つの利点があります。まず無駄なエネルギーの使い方を防止できます。また、事実唯真の立場は、次の目標や課題、夢や希望への出発点に立つことになります。目標や課題が見つかり、それが生きがいになります。相手に「かくあるべし」を押し付けることを防止するために、今日は3つの提案をします。1、相手の長所、強みを20個ほど紙に書いてみる。2、配偶者、子供、両親の長所、強みを考えてみる。過去お世話になったことを20個探してみる。集談会では配偶者の誕生日に妻への感謝、妻の長所を100個書いて、額に入れてプレゼントした人がいました。3、欠点や弱点だと思っていることを手あたり次第書き出してみる。性格でも行動でも、欠点や弱点の裏には長所や強みが隠れています。欠点や弱点の裏に隠れている、長所や強みを探し出してみる。無理にでも絞り出してみることです。これは森田理論の両面観という考え方です。片寄った考え方は、バランスを欠いて、不自然になります。最後には自らまいた種で、生きづらさをおびき寄せてしまいます。神経症は欲望と不安のバランスが崩れた状態です。不安に過度に偏り、生の欲望が蚊帳の外になった時、アリ地獄の底へと落ちていくのです。バランスを欠いたときはその存在さえ許されなくなるというのが森田の考え方です。バランスを取り戻すためには、両面観を活用して、今までとは違う考え方を大きく膨らませていくことにあります。
2021.07.01
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