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二人は15年くらい夫婦として暮らしてきて、 なぜか、伊達公子がテニスで復活してきて、 とうとう子供は持たないまま、このままラブラブなのかと思いきや、 お互いが違う道を生きることにしたらしい。 もう、支えあうことが必要ないのだろうか? 他に支えあえる相手が生まれたのだろうか? 愛し合って結婚し、二人だけの時間を15年も生きてきたカップルが、 結婚を解消するのって、すごいエネルギーなんだろうなぁ。 yumiさんが、笠女郎と大伴家持のことを取り上げてくれていて、 ますます、yumiさんとの縁の深さを強く感じる。 大伴家持の歌に多大な影響を与えた女性として、 換言すれば、家持を介して、後世の歌人に、多大な影響を与えた女性として、 私の大学時代の卒論のテーマは、「笠女郎の後代への影響」みたいなことだった。 当時の私は、笠女郎の歌への家持の返歌が異常に少ないことに不思議を覚え、 家持の歌稿は残せない状態だったのかと思っていた。 あまりにも、家持が、露骨に笠女郎の歌を使いまわしていたこともあり、 後世には、家持の作として用語が影響を与えたりもしているほどだ。 笠女郎の歌は、一括りにされているだけでなく、別巻の比喩歌にも採られている。 「陸奥の真野の茅原遠けども面影にして見ゆといふものを」 「奥山の岩本菅を根深めて結びし心忘れかねつも」 唐突に出て来る「陸奥の真野の茅原」の語。 「奥山の岩本菅を根深めて結びし心」に見る遠路の旅。 大伴氏は、「海行かば水漬く屍 山行かば草生す屍 大君の辺にこそ死なめ 顧みはせじ」 そう、武門の家柄であって、家持は最晩年まで武人として陸奥の多賀城で将軍職についていた。 そしてかの地で没したことが近年の研究で言われている。当時としては高齢だった67歳くらいだ。 かの有名な坂上田村麻呂に14年先んじての鎮守府将軍である。 41歳か42歳くらいの年に因幡の国で詠まれた万葉集の最後の歌よりも、ずっと後のことなのだ。 越中守だったのは、まだ20代の頃だろう。 ここにも、笠女郎は逢いに行っている。多分極秘裏に。 思い返せば父に伴われて九州太宰府から戻ったのは、まだ10代の初めの頃だ。 幼い家持と書持を連れて一緒に太宰府に行った母は、かの地で没し、 旅人は喪失の寂しさと深い悲しみを 「妹として二人作りし我が山斎は木高く繁くなりにけるかも」と詠んでいる。 「験なきものを念はずは一坏の濁れる酒を飲むべくもあるらし」と、飲んだくれていた父は、 太宰府からの帰還後幾許もなくして病没する。従二位。家持はまだ13~14歳だ。 家持の一家の主としての始まりは、あまりにも早く若い。 後年正妻となる従妹の坂上大嬢は、幼い。歌も坂上郎女に代作してもらっている。 二人の正式な結婚までの間に、笠女郎との出会いがあり、相聞があったのだろうか。 あるいは、別の妻との死別後に、笠女郎との相聞があったかもしれない。 もっとも、この「死別した妻」を相聞がないから・・・文学的フィクションとする見方もある。 越中守の時は、まだ20代だった家持・・・(ずいぶんな恰幅のおじさんの銅像) 意外にも、天皇家以外は、律令制における重婚の禁止をちゃんと守っていたかも。 天皇家はもう、乱倫で。。。平城天皇の愛人薬子は、正式な妻の実の母親で、 皇太子時代に桓武天皇が激怒して追放した女性だが・・・ その後の彼女の末路を考えると、即位後に復活したことが命取りだわ。。。 あら脱線。 とまあ、笠女郎と家持は、おそらく十代から死の直前まで、交流があっただろうと、 勝手に思っています。。。 笠女郎の歌の才能は、捨てがたいものだっだろうし、母親を早くに亡くした家持君には、 ちょっと年上の彼女は、終生頼りになるパートナーだったんじゃないかと・・・ 万葉集の編集者、文系男子と思われがちな家持君ですが、すごい政治家で、 激動の時代を生き、死後までも毀誉褒貶のあった人。 万葉集が勅撰の歌集のような扱いにならなかったのも、彼の没後わずか一カ月で起きた例の事件で その後20年以上も墓も作れないほどの罪人扱いだったからでしょうね。。。。
2016年09月26日
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