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小さなお子様を施療させていただくことが時々あります。 子供たちは大人のお客様に比べてあまりおしゃべりはしません。けれど心の中は純粋で澄んでいていろんな思いが渦巻いています。霊的なビジョンもくっきりと視えることが多いです。 やっぱり子供たちの心というのは汚れていないというか、経験値が少ない分その中に視える道がまっすぐなようです。 彼ら彼女らに共通しているのは私がその心に秘めているものを代弁していると笑顔になってくるということです。やっぱりうれしく思ってくれているのが私にもわかるのでこちらも嬉しくなります。子供たちは自分の思いをうまく表現できないことが多くて、「何故わかってくれないの?」という気持ちにあふれています。 彼ら彼女らの「氣」の本質を視れば、どういうことなのか言葉になっていない思いも何となく私には理解できるように思います。彼らの中には「こうだからこうなんだよ。」というきちんとした理論が育まれているのです。くみ取ってあげる力を本当は親御さんが持たなくてはいけないのですが、大人は日々の社会での戦いに疲弊していてなかなかそんなことはできないと思います。 その子の本質を見極めれれば、きちんとした教育方針が親御さんにも見えてくると思います。言葉になっていない子供たちの声を聴けるようになってほしいものです。
2017年06月30日
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豊玉姫命様という女神さまとご縁のある方がが頻繁にお客様として来られるので、何故なのだろうと以前から思っていました。 先日やはり豊玉姫命様とのご縁が深い方がおいでて、その時のメッセージの中に「私は安産の神であり、子を数多く産めと願うものである。」というものがありました。よくよく調べてみると私の産土の神様である方とのご縁がとても強いことがわかり、当院に不妊で悩むお客様が数多く来られてその方達に当院の施療が効果があるのは、この女神様のお力なのだということが判明しました。 神縁を頂くということはとても深くて広くて強いけれど、表にははっきりと顕れないものであることが多いのは何となくわかっていましたが、必然として縁の結ぶ力の中に取り込まれていたということのようです。 豊玉姫命様は竜宮城の乙姫様のモデルになった女神様ですが、密やかで地味な存在ではありますが、日本の神霊的基礎を築いた方とも言えるように思います。
2017年06月28日
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五目飯のことをかやくご飯と呼んでいるのは知っていたのですが、今読んでいる「澪つくし料理帖」という本の中で本来は「加薬ご飯」という言葉だったことを知って驚きました。 そうか昔はご飯の中に薬となる漢方薬の素材のようなものを加えて食べていたんだなぁと思いいたりました。医食同源という言葉の通り普段から食べているものに薬となって身体を養う補うものを混ぜて食べるということを普通にしていたのだなと思います。 食事の内容に無頓着になりがちですが、今のように医療制度が整備されていなかった時代には日々の食事で身体を強く保つということが大切な行為だったのだろうと思います。旬のものを頂くということも、地のものを頂くということも人の生きる道として大切な道筋だったのだと思います。 先日のお年寄りがただ眠って身体を癒していたという思い出とともに加薬ご飯という言葉が人の本来の生きる道筋というものを知らしめてくれているように思います。
2017年06月26日
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氣視させていただいて「門の神」とご縁の深い方を視ました。門の神様とは別名「天石門別神」とも言われる御柱ですが、私の視た方は随身のお一人矢大臣と呼ばれる方だったように思います。 「随身門」という神社の参道の途中に立つ中門を守っておられる神様の眷属のような立場の方のようでした。 この方はお役目の性格上「頑固、評価が厳しい、悪いことを許さない等々」就いている人に対してはちょっと強引な影響力を及ぼす神の眷属のようです。 こういう方とご縁を結ぶと何かと生きづらいことにもなりそうですが、それはまたこういう人にはこういう人なりのお役目というものがあってのことだと思われます。私が知っている随身門は戸隠神社の奥宮の参道にあるものですが、ありありと矢大臣の姿が脳裏によみがえったものです。
2017年06月24日
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奥の間というか昔、おばあちゃの家などに行くと少し具合が悪い時などに寝間着のままのおばあちゃんが寝ている部屋があったように思います。戸を開けると薄暗くて、少し湿布薬やら漢方薬の煎じた香りやらが匂っていたような気がします。 アニメのトトロの中にも一瞬描かれていて懐かしさに目を細めた記憶がありました。昔のお年寄りは元気な時は野良仕事や家事に目一杯働いていて、疲れたり体調が悪くなるとそういう奥の間に引きこもって一日中寝て身体を治していたように思います。 変な例えですが、野生動物も同じように怪我をしたり病気になったりするとひたすら横になって眠って自らの治癒能力を発揮させて治すようです。 今のように医学が発達して医薬品が人を治すとされている時代にはそういうただひたすらに眠って治しているお年寄りはいないように思いますが、それなのにそういう昔のお年寄りの方が自然の生き物に近い自然な姿に思えるのは気のせいでしょうか? 人は生き物としての原初の姿に還ることを考えてもいいのかもしれないとフト思ったりします。
2017年06月22日
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明日あたりから北陸も梅雨入りになるのでしょうか?微妙に涼しい気候が続いていて、快適と言えば快適なのですが、気温が低い割には日向に出ると夏の日差しを感じたりして体が気候になかなか順応できない日々が続いています。 遠くの山も雪の白さは消えて、白山の山頂以外は緑に覆われた山並みが見えるようになりました。金沢を流れる犀川は田植えへの水配給のために上流から農業用水に水量を取られて、本流の水はとても少ないものになっています。 季節は夏へ向かっていますが、気候の変動は否応なく人の身体の季節への順応をさせがたくさせているようです。 夏の準備・・・でも肌寒い夜や早朝もあってなかなか衣服による調整が大変な日々が続いております。皆様もお身体の体温調整にご注意ください。
2017年06月20日
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近江商人というのは商売に携わる人たちにとってはお手本とするべき方達のようで、戦国時代あたりからのその成り立ちについての本を読みました。 その中で心に残った言葉が「商人の道はホトケの道だ。」というものでした。どこかの地方で何かが足りなくて困っておられるお客様がおられる、それならば自分がその品物がふんだんにあるところから持って行って供給してさしあげようと思う・・・その心はホトケに通じるのだと。 純粋に困っておられる方達の手助けをして差し上げたいと思う心が商人としての大切な心なのだと書いてありました。 確かにそういう心が商売に携わる者としてはとても大切だと思います。足りていないと思っておられる方にその足りていないものを足して差し上げたいというのが商売の基本になっていなくてはならないと思います。 基本中の基本。人として守っていかなくてはならない商業倫理の基本を思い返したように思います。
2017年06月18日
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天孤というのは稲荷神様にお仕えする眷属のお狐様の中で最高位の方なのですが、今回氣視の中ではっきりとお姿を視させていただいたのですが、全身金色に輝いておられるので驚きました。 ある方のお家を守っておられる形で視れたのですが、とても高貴な雰囲気は感じられました。天孤様からのメッセージについては個人情報になるので詳しいことはお伝えできませんが、来院されたご本人についての伝言ではなかったので、逆に真実味というものがあったようにも思いました。 稲荷系の方達は私の守護仏でおられる不動明王様と近しいというか縁がある方達なのでよくお姿を視ることがあります。以前にも書いたことがありますが、稲荷神様の眷属のお狐様は天孤、水孤、地孤、野孤と位があって野孤になるとちょっと人に悪戯をしかけたりすることもあります。 金沢は武家中心の城下町という部分もあったので稲荷系はそれほど強い勢力を持っていたようではないようです。商人の町では一大勢力だったのだろうと思います。京都大阪あたりが強いのかもしれません。神様の勢力分布というのも面白いものです。 何しろ天孤様からのメッセージが役に立てばいいのですが。
2017年06月16日
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高野山の山中で「悟り」について何だか色々考えてしまうことになり、考えていて思いついたことがありました。 悟りというにはほど遠いのですが、人は「0」か「1」なのではないかということです。そうデジタルの基本構造でもあります。 「1」というのは人は所詮独りだということ。生まれてくる時も死ぬ時も一人だということです。他者を自らの内側に封入することは決してできず、同じ心を同時に持つことは決してできない。それだからこそ唯一無二の存在でもあるという事。自分からすべてが始まり、全ての周囲の出来事の認識もそのすべてが自分自身にのみ行ない得ることだという事。 そして「0」ということ。これには二つの大きな意味があります。自分は「無」でもあるということ。自分の事を考えずに他者のために尽くすことが出来て、その時自らを「0」にできる存在でもあるのが人だということ。 もう一つ「0」は円でもあるということ。球体でもあるということ。全てを含むものでもあるという事。自分は「無」になるけれど、その時に周囲のすべての人やモノや事象を含みうる存在になれるという事。全てのモノとつながっているという事。それが「0」ということ。 今のところそういう事がなんとなくわかっていて悟りへと歩んでいる段階なのかもしれないと高野山の山中で考えたということです。
2017年06月14日
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高野山へ行ってきました。やっと呼んでいただけたようですが、行った感じからするともう一度も行かないとお大師様にはきちんとは受け入れていただけないようです。 それにしても高野山というのは秘境ですね。つづら折れの細い山道が延々と続いて、こんなに長いワインデイングロードは初めての経験でした。 しかし高野山そのものはまさに真言密教のワンダーランドで、とても楽しくて興味深い土地でした。初日には奥の院に参拝させていただきました。院へ通じる参道脇の墓石群には有名な武将たちのお墓が立ち並び、とても興味深く加賀前田家の二代藩主利長公のお墓もありました。織田信長、武田信玄諸々いかに高野山が武将の信仰を集約していたかうかがい知るものでした。 奥の院ではお陰様で弘法大師様の掌に包まれる感覚を感じました。何もかもを包み込んでくださるお大師様の御心というものが満ちていることを感じることが出来ました。それでもはっきりとした顕現はまだ表してくださらなかったので、まだまだ修行が足りないのだろうなぁと思いました。 宿泊は一乗院という宿坊に泊まりました。とても気持ちの良い綺麗で立派な寺院でした。お風呂も大浴場があって旅の汗をさっぱりと流させていただけました。 二日目は金剛峯寺、大伽藍等々を巡ってきました。規模の大きさ、建物それぞれの創建時期が違ったりするので歴史をとても感じました。 三鈷の松にもお参りして一葉見つけてきました。普通は双葉の松の葉が三本に分かれている珍しい松葉でした。 母と弟と三人で行ったので難しい大変な道路は運転の上手い弟に任せることが出来たのでとても楽ちんでした。 高野山はどうももう一度は行かなくてはならない場所のように思っております。
2017年06月12日
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薬害という言葉は当てはまらないのかもしれませんが、母の友人の女性が同じディサービスに来られていて、あまりに体調不良を訴えるのであれこれと検討を重ねていたのですが、一度お医者さんからいただいているお薬を見てみようとお薬の詳細のレジメを手に入れてみると、血圧を下げる薬だけで四種類、それ以外のむくみを取る薬にも血圧を下げる成分が含まれていて計10種類くらいの薬を出されていて・・・・・これはちょっと出しすぎだろうと思いました。 未だにお年寄りにこれでもかと言わんばかりに多量のお薬を出すお医者さんがおられるようです。これでは「薬害」と言われてもおかしくないなぁと思ってしまいました。調剤薬局に試しにこのお薬のリストを持って行って精査してもらおうとしましたが、薬剤師はやはり相手にしてくれませんでした。「診断」を下すのはお医者さんの専売特許なのですから、薬剤師さんには手の出せるものでないようです。 セカンドオピニオンという手もありますが、それは身内の人の承諾やら、また再度の全身検査が必要やらで負担・無理が多すぎます。 薬の大量服用で体が弱ってきているように思えてならないので、ちょっとОリングテストを使って少し試してみようと思っています。安易に大量の薬漬けにする手法は止めてほしいと思います。現に母の行っているお医者さんは必要最低限のお薬しか出していないように思います。
2017年06月10日
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ネグレクトという言葉を時々は耳にしていたのですが、どういう意味なのかを知らずに最近までおりました。 それは地方都市に住んでいて周囲にそういう事が少ない環境にあったという幸いもあったということなのかもしれません。大都市のみで起きている現象でもないのでしょうが、私の住んでいる金沢周辺ではまだ少ないように思います。少なくはあってもきっとあることはあるのだろうとは思いますが。 育児放棄、児童虐待・・・要するに幼い子供たちが巻き込まれる悲惨な状況ですね。人が幼いものや弱いもの、小さなものを見た時に自然と覚える「保護欲」というか防護意識というものが人はみんな持っているものだと思っていました。 そういう意識が欠落している人間というのはどういう精神状態なのか、なかなか想像すらできません。ギャーギャーと泣きわめく子供さんを見ていても、それは何か原因があってのことだし、泣くのが仕事なんだからと思ってしまうのが普通なのですが、精神の発育が未成熟な人たちがいつの間にか親になってしまっているのがネグレクトを産む原因なのかもしれません。 核家族化というものも何らかの原因になっているのかもしれません。昔の日本では子供というものは親だけではなくて地域の人たちがいっしょになって育てていくという環境があったようです。現在の日本でもどこかの島で子供たちを集めて集団で育てていく養い親制度というようなものが残っているところがあったように記憶しています。 子供たちへの温かい目や耳を地域全体が持っているようなそういう地域社会を養っていけたら社会はもっと充実するような気がします。
2017年06月08日
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自分の身体に起きていることは全て何らかの意味を持っていると私は考えています。 例えば利き手の指先に小さな怪我をしたということは、今何か手を付けようとしていた事柄をちょっと一旦考え直してみたほうがいいよということなのかもしれないと思います。 身体のどこかに急に体毛が濃くなったり生えてきたりしてきた部位があれば、そこの内部の臓器が弱っている兆しかもしれません。腕の上腕部がだるくなっていれば心臓や肺が弱くなっている兆しかもしれません。 身体に起きていることは何かを知らせようとしているメッセージなのだと私は思っています。以前から何度か書いたことがありますが「病は四関に出ず」という中国のことわざは、病気の兆候は全て肘、ひざの先の部位に出るということを言っています。 中国の古人はそこに様々な刺激を与えることで全身の病気を予防できると考えていたようです。 身体というのは本当に精妙に作られています。心の状態も世界の状態でさえも一人の身体の上に現れるものなのかもしれないとさえ私は思っています。 身体を注意深く見つめることは、自らの心や周囲の出来事を精確に見つめることにつながるのではないかと私は思っております。
2017年06月06日
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座敷童というのは妖怪というよりは精霊のような存在で古い大きな旧家などに棲んでいて、その家の繁栄を守っているという子供の姿をしたモノですね。 でも座敷童というのはどんな家にも棲んでいるのではないかと私は思っています。家庭があってその家で子供が生まれてお年寄りが亡くなっていってという連綿とした歴史があれば、必ず座敷童がいるように感じます。 家という木にいつの間にか棲んでいる小動物のようなもの。いなくても困りはしないけれど、いることは多いようなそんな存在のように思います。 例えば妊婦さんがおられると必ずご先祖様が見学ツアーを組んで見守りに来られます。それと同じように家系の中に必ず「見守る存在」というものがおられて、いつもどこかでその家の人たちを見守っているのだと思うのです。 そういう見守りの存在に気づければあちらも気づいてくれてより強く守って下さるように思います。ご先祖様とは別に座敷童のような存在も各家庭にいるのだと信じてくださるとうれしいような気がします。
2017年06月04日
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地球の大気の状態が近年おかしくなっているのは間違いないことです。それを人的原因と捉えるか、地球の歴史的原因と捉えるかはそれぞれに意味あることかもしれませんが、何しろ異常気象と呼ばれている想定外の自然現象が増えてきていることは間違いないと思います。 風の神様はサルタヒコノミコトという神様でもあり、伊勢神宮の根本にも風の神様がおられることはよく知られていることです。古い古い神様はサルタヒコノミコトというお名前ではないのですが、本質的には「空」を持っておられる神様なのだろうと思っています。 何もかもを通す、何物にも依らない、拠らない、因らない、縁らないのがこの神様の本質です。人の為すことは人に還っていくし、地球の成り立ちは時間経過とともに悠久の道を行くだけだし、風の神様が何かを為しているわけではないのだろうと思います。 ただちょっとだけ人に優しくしていただけないかなと時々お祈りしております。
2017年06月02日
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