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高校野球の地方大会も、今日最後の愛知県大会が決勝を終え、これで甲子園出場の49校が出揃った。私は以前から書いているように、この時期の炎天下の屋外での大会には批判的ではあるが、「やる」と決まってしまっている限りは、割り切って観戦することにしている。出場校リストにざっと目を通すと、まずもって目を引くのが、「東海大グループ」だ。四・望洋・相模・甲府と4校も入ってきた。実はこの他にも、西東京の決勝には、東海大菅生も進出していたのだが、惜しくもライバル(?)である“日大系”の高校に敗れてしまったのが心残りである。この東海大グループ同士での対戦というのも、ぜひ見てみたいものだ。あと興味ある対戦といえば、「山形中央」と「鹿屋中央」の、“中央”対決。「神戸国際大付」と「九州国際大付」の、“国際大”対決。「静岡」・「三重」・「大分」の、“単なる県名”対決、などなど...。「真面目にやれ!」という声が飛んできそうだな(^_^;)
2014年07月31日
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先日も長崎県佐世保で、高校生が同級生を殺して遺体を切断するという、信じられない事件が起きた。もっとも今日のハナシは、この事件の本筋とは関係はない。今回の事件もそうだが、以前から訝しく思っていることがある。それは、殺人事件などで被害者の氏名や素性が当たり前のように報道されることだ。メディアというのは放っておいたら、なんでも報道したがる。だから報道すべきでないとされるものには、報道規制が敷かれる。私は被害者の氏名などもその対象に入れるべきだと思う。これについては、何故?、と思われる方も多いだろう。でも逆に考えると、公開する必要があるのかどうか疑問だ。殺された被害者の氏名を公表して利益を被る人がいるとしたら、その知人くらいではないか。その人数はたかだか知れている。それよりも氏名が公開されることの弊害は、相対的に多すぎる。被害者宅はもちろん、その親類縁者宅にも野次馬が群がることは必定だ。それだけならともかく、状況によっては被害者の過去の行状などが暴かれることによって、被害者すらも悪者呼ばわりされてしまうケースだって考えられる。メディアは「知る権利」だのなんだのと振りかざして反対するだろうが、ほとんどの国民から遠い存在でしかない被害者の氏名を知ることが、果たして必要なことなのか。デメリットの方を考えれば、犯罪被害者の氏名の公開は避けてほしいと思う。少なくとも私の身内で不幸にもそのような目に遭う者がいたら、私は絶対に公開して欲しくない。
2014年07月29日
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今日来店された、とあるお客さん。店に入ってからあれこれと商品棚を物色している。しかしその視点の移動はかなり素早い(サッ、サッ、という感じ)ので、何か特定の商品を探しているのは明白だ。そんな時私は、「何かお探しですか?」と声を掛ける。そう言うと、「○○っていうお酒、ないですか?」と返事が返ってくることもあるが、「いえ、結構です」と言わんばかりに探し続ける人も少なくない。今日の人もそのタイプだ。しかしそういう人に限って、なかなかお目当てのものが見つからない。こちらも意を決してもう一度問いかけてみるが、そもそも商品名が分からないという。ボトルやラベルの特徴を尋ねても、「う~ん、見ればすぐ分かるんだけどね~」と、何とも頼りない返事しか返ってこない。こういう人が月に1人か2人は来られる。お酒好きな方にとっては、「自分の買いたい物の名前も知らずに店に来るとは....」と呆れられるかもしれないが、たいていは飲食店の使いの人だったりすることが多い。要は、こんな物(=自分の買うべき商品)はどこの酒屋でも売ってるだろう、それなら一通り棚を見まわしたらすぐに分かるだろう、という先入観だけで来てしまう訳だ。ところがどっこい、酒屋の品揃えなんて、どこもかしこも同じなわけがない。画一的な棚割りをしているスーパーやコンビニならともかく、個人経営の酒屋なんて、そのアンチテーゼでやってるところが多いわけだから(ウチも含めて)、先入観だけで来られても、無駄足に終わる憂き目に遭う公算が高いのだ。確かに来られたお客さんには申し訳ないと思うし、品揃えに一般的なお客の意向を反映させることも必要なのかもしれない。しかしそれではウチのような個人店の存在意義が無くなってしまうのだ。だからせめて冒頭に書いたようなお客さんには、ぜひともお願いしたい。ご自分の求める商品の、せめて商品名くらいはどこかに控えてきて欲しい。ボトルを写メで撮ってきてもらってもいいし、空瓶の現物があれば完璧だ。しかしここまで書いて、そういえば以前にも同じようなことを書いたような気がするなあ、と思って調べたら、ちょうど3年前にも同じようなことを書いていた。でも、まあ、いいか。
2014年07月22日
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先日飲みに行ったとある居酒屋で、〆にカレーライスが出てきた。もちろん和風の店だから、味的にもそれ相応のアレンジが施され、家庭で作るそれとは違っていた。まあ味はともかくとして、私にはそれがどんぶり(そんな大きいものではない)で供されたことが、ちょっとしたカルチャー・ショックだった。カレーといえば「カレー皿」というのが、定番、というか常識、と刷り込まれていたからだろう。で、一昨日の我が家の夕食はカレーライス。ここはちょっと目先を変えて、ということで、初めてどんぶりに盛ってみた。「カレーライス」というよりは、「カレー丼」だな、これは。でもこれが、なかなかいいのだ。細かい話になるが、私は日頃から「ごはん」と「おかず」のバランスには、人一倍気を遣っている。おかずを全部平らげたのにまだご飯が残っているとか、あるいはその逆とか、そういうのがたまらなく嫌なのである。カレーライスもその例にもれず、いつもライスとルーの比率に気を遣って食べている。たいていカレー皿の半分にライスを盛り、もう片方の空白にカレールーを流し込むわけだが、その両方を均等に消化していかないと気が済まないのだ(初めから混ぜてしまう人も多いと思うが、それは初めから私の選択肢には無い)。ところがこれが「丼」となると、どんぶりという小宇宙の中でライスとルーが混然一体となり、日頃の私のこだわりなどあざ笑うかのように、魅惑的なビジュアルと香りで私の心を魅了するのだ。ひととき、目に見えない何かから解放されて、自由になった気がするのだ(大げさだな)。全然関係ないが、例えば親子丼や牛丼をカレーライスの如く、皿の中で具とご飯を半々に盛って、食べてみたらどうなるだろう?....きっと美味しくないと(訳もなく)確信できる。これと同じことだろう。もっとも毎度こういう食べ方では、それはそれで飽きも来よう。あくまでもストレート主体のピッチングの中に織り交ぜる変化球、という位置付けにするべきだろう。
2014年07月17日
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前回のブログに関係することだが.....今このネット社会では、何らかの悪事をはたらいた者は、徹底的に叩かれる。実際に悪事をはたらいてなくても、「悪事をはたらいてそうだ」とみなされた時点で叩かれる。もちろんその事件が社会的に影響が大きい場合、あるいはその当事者が公人である場合、そういった時には徹底的に追求していかなければいけないだろう。しかしそれにしても、最近はあまりにも度を越していると思われるケースが多い。これでもか、これでもか、という感じで叩き続ける。ネットの場合、「匿名性」ということも大きな要素だと思う。ただそれだけではなく、もっと大きな要素があるように思う。それは、「自分が相対的にセーフティーゾーンに居られる」という安心感ではないだろうか。あるいは一握りの「悪人」(と一概に言えないような場合もあるが)をスケープゴートとして、これらを叩くことで引き換えに、自分自身の気晴らしをしていると言えるかもしれない。昨年大ヒットしたTVドラマ『半沢直樹』の最終回に、印象的なシーンがあった。役員会の席上で香川照之演じる大和田常務の不正を暴く、堺雅人演じる半沢。半沢に追い詰められ、どんどん状況が不利になりうろたえる大和田を見かねて、北大路欣也演じる頭取が静かに言う。「もうそれくらいにしておけ」叩く時は叩かなければいけないが、いい加減のところでさっと手を引っ込める。そのあたりの絶妙な力加減、いわゆる「手加減」が、日本人には昔からあったと思う。それは言い換えれば、「赦す」ということだとも思う。ある意味、日本人固有の美意識、と言ってもいいんじゃないかと思う。それがここのところ、あまり見られないようになってきたと感じる。もちろん「赦すべきもの」と「赦されざるもの」との区別はつけなければいけない。しかし、以前ならある一定の謝罪なり社会的制裁を以って赦されていたであろうことが、今の世の中では「世論」という名の謂れなき圧力によって、抹殺されかねない状況にある。人間生きている限りは、いつ自分が過ちを犯すことになるか、絶対に無いとは言い切れない。そんな時、自分がズタズタに打ちのめされるようなことがあっても、普段他人を平気で非難している人たちは、自己責任と割り切れるのだろうか?少なくとも私は、いずれ自分の身に降りかかることと思えば、他人を「赦す」ということを、常に念頭に置いておきたいと思う。
2014年07月10日
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出張費を着服したという疑いの持たれている兵庫県会議員の「号泣釈明会見」が話題になっている。そうしたら予想通り(?)、ある芸人がネタにして、テレビで披露していた。いずれそういうのが出て来るだろうとは思っていたが、正直あまり気持ちの良いものではない。もっともあの議員の会見自体も、決して気持ちの良いものではないが、それ以上だ。そういえば「セクハラ野次」で話題になったあの東京都議会議員、このところ過去のいろんな言動や行状がネット上で話題になっている。あれだって見ていて気持ちの良いものではない。そういえば今年に入ってからでも、失点を喫した何人もの人が、ネット上で叩かれている。佐村河内守氏、小保方晴子氏、ASKA.....。いつの頃からか日本では、何らかの失敗を犯した人、汚点を残した人をあげつらって、寄ってたかって再起不能なまでに血祭りに上げることが、文化として定着しているように感じる。そういうのにカタルシスを覚える人が増えてきたんだろうな、コワイコワイ。
2014年07月05日
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酒類メーカー、特にビールメーカーのシェア争いといえば、これはもう熾烈なものがある。何せ大手は4社しかなく、お互いに相手の顔がハッキリと見えているわけだから、より一層熱も入ろうというものだ。そのあたりが多薦業界の清酒や焼酎と比べて、明らかに違うところだ。ただこれがエスカレートすると、お互い消耗戦を強いられてしまうのでよろしくない、ということで、しばらくの間、一時的に表面上はおとなしくなっていた。しかしそれがここへきて、とあるメーカーのあまりに傍若無人な振る舞いが目立つ様になってきた。このままではまた消耗戦に逆戻りしかねない状況だ。もっとも我々小売業者は、べつにこの競争に加担することも無いので、あくまで高見の見物をしていればいいではないか、という考え方もある。確かにそれはそうなのだが、それでもやはり無関係ではいられない。何かと「振り回される」のだ。それが鬱陶しくて仕方がない。例えばどこかの飲食店で、今までA社を使っていたところに、B社が攻勢をかけたとする。その飲食店が義理堅いところであれば一蹴するところだが、昨今はそういうところばかりでもない。何かのエサに釣られてB社に鞍替えしようとすることもある。そんな時、間に入って苦労するのは、納入店である我々なのだ。いくらお客である得意先の意向とはいえ、「それはちょっとないだろう」と思うこともしばしばだ。しかし我々の立場で文句をつけるわけにもいかず、不本意ながらも粛々と従うしかない。ある意味、メーカーのシェア争いも渦に巻き込まれて、右往左往させられているようなものだ。我々、小売販売者はまだいい。少なくとも特に「売らなければいけない」というものは無いからだ。しかしこれが卸業者となると勝手が違ってくる。今は多少状況が変わってきているが、かつてはどの卸問屋も、特約のメーカーが決まっていて、そのメーカーの商品を売ることに関しては、ノルマのようなものも存在した。その中で営業マンたちは、自らに課せられたノルマを消化するために、粉骨砕身した。しかしそれは言ってみれば、特約メーカーがシェア争いで勝利するためのお手伝いでしかない。それほどまでにメーカー(特にビール)の支配力は強く、卸問屋の立場は弱くなってきている。そんな中で私の親しかったある卸営業マンは、「これじゃ、メーカーの奴隷だ!」と吐き捨てた。彼はその後、ほどなくしてその卸問屋を辞めた。もちろん彼の考え方も一方的なものかもしれないが、同じ業界に身を置くものとしては、とても他人事とは思えない。もっとも立場の違う「小売店」の私は、メーカーのやり方に翻弄されることはあるかもしれないが、基本的には自分の売りたいものを売っていくだけだ。決してメーカーの奴隷などにはならない。
2014年07月03日
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