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島田荘司『占星術殺人事件』~講談社ノベルス~ 昭和11年の梅沢家一家殺人事件の謎は、40年経った今でも、解かれていなかった。 占星術師・御手洗潔のもとに、なかば助手のような立場にいる石岡和己。二人のもとへ、ある女性が訪れた。警察官だった自分の父が、40年前の事件に関わる手記を残していた。彼女の知人が、御手洗にトラブルを解決してもらったときき、相談にきたという。 御手洗はその事件を知らなかったため、石岡は事件の概要を説明する。 梅沢平吉という画家がいた。彼は占星術に凝っており、また、人形にも関心を抱いていた。 彼の名による手記が残っていた。そこには、以下のようなことがかかれていた。 母親がみな同じというわけではないが、彼には七人の娘がいた。一人は年も違うので除くとして、残りの六人は、みなそれぞれを支配する星座が異なっている。彼女たちの肉体の一部ずつを使って、究極の存在「アゾート」を作ろう、という。アゾート造りに使わなかった部分の遺棄の方法も記していた。 そして、実際に事件は起こる。まず、平吉自身が、密室状況で殺されていた。雪の足跡もからんでくるものだった。 そして、娘たちのうち、アゾート造りには関係なかった女性も殺された。彼女には、屍姦された形跡もあり、アゾート殺人事件とは別件と考えられていた。 最後に、俗に言う占星術殺人事件。日本各地の六ヶ所から、体の一部ずつが欠けた死体が見つかった。 真相は、40年解かれていない。 こうした背景を知り、依頼主が持ってきた手記を読んだ御手洗は、事件の「解決」のため、動き始める。 数年ぶりの再読です。島田荘司さんのデビュー作です。 はじめて読んだとき、このトリックにかなりの衝撃をうけたので、、正直トリックも犯人もおぼろげに覚えているままに読んだのですが、やはりすごい作品はすごいですね。梅沢平吉が密室で殺されていたというのを忘れていたので、そこも興味深かったのはあるとはいえ、話のもっていきかたがいいです。「パズル」を解くために、効果的な順番で、情報が提示されているように感じました。 ところで、御手洗さんはおだての利くタイプだったのですね。…そんな気はしていませんでしたが。 竹越刑事に対する態度。ああいうのが大好きなのです。権力をかさに着せた傲慢な人間に真っ向から反抗する。自分の信じる生き方をまっすぐに。犯人に対する思いやり(?)にも、やはり心をうたれます。そういえば、いま何作か御手洗さんシリーズを連想したのですが、彼はある種の犯人には非常に優しくふるまいますね。 ところで、本作のトリックは某マンガがほぼそのままの形で使ったのだそうです。私はそのマンガは読んでいませんし、先の記述が正確でなければすみません。密室トリック、アリバイトリック、一人二役、顔のない殺人、なんでもよいですけれど、巷はミステリであふれかえっていますから、似たようなトリックが出てくるのは、それは仕方ないと思います。でもいくらなんでも、これを使う(少なくとも、借用したと思われても仕方ない形で使われたから、私もどこかで非難の言葉を聞いたことがあるわけでしょう)のはどうかと。 たしかに、本作は、トリック以外にも読ませてくれる部分はあります。けれども逆にいえば、そのトリックが核心にあるわけで、さらにそれを効果的にプレゼンしていることが、本作の評価を高めているのでしょう。なのにその「核心」の部分を使いますか?本来ならそのマンガを読んだ上で以上のような批判をすべきだと思いますが(マンガはマンガでストーリーテリングがうまくて、感動させてくれるのかもしれませんけれど)、まあしばらく読むことはないでしょう。 私には、そのマンガでトリックを知った人があとから本作を読んだときに驚きが減ってしまうのが、残念なのです。たとえそのマンガの「核心」はそのトリックにあるのではなく、別のところにあるのだとしても。 ともあれ、私はトリックも知らないままに本作を読めて、本当によかったです。 やっぱり御手洗さんシリーズはいいですね。他にも感想を書いていない作品があるので、また読んでいきたいです(一作を除き再読になりますが)。
2005.10.29
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森博嗣『大学の話をしましょうか』~中公新書ラクレ~ インタヴューをもとにした本です。聞き手は中央公論新社の名倉宏美さん。 本書は、[学生論]、[大学論]、[研究者・教育者・作家]の三部構成です(いくつか、過去に森さんが書かれた文章が紹介されています)。 私は今年で、学生生活が五年目になりますが、ごちゃごちゃしているなぁ、と思っていたところがいろいろ指摘されていて、納得しました。実情がごちゃごちゃしているんだなぁ、という点に納得した、ということですが。~学研究科、という組織の名称が、無駄に変更されたり(ということは、従来あった名前が消される、ということですね)、長くなったり、結局なにをしているところなの、とよく分からない状況になってきているようです。私が現在所属している大学のある研究科も、名称が変わるという話をちらっと聞きました。もしそうなると、無駄に肩書きが長くなります…。もっとも、研究科のレベルで文学部・法学部・経済学部の壁(?)をとりはらって、特に手続きしなくても、他学部の授業をとって単位がもらえるというシステムは、なかなかよいと思います。学部の頃は違う大学にいたわけですが、他学部の授業をとるには、手続きがいったような…。 以上、第二章を読んで感じたことを、思うままに書いてみました。 第一章では、学力の問題が取り上げられますが、森さんは、「学力」とはなにかを論じることが大切だ、とおっしゃっています。「ゆとり教育」をして、「心のゆとり」が増えているとしたら、それは一つの成果ではないか、というのです。仮定になっているのが、面白かったですね。私は「ゆとり教育」を受けている子供たちとほとんど接触がありませんし(少なくとも、「心のゆとり」があるかどうか、これはそもそも分かりにくいことだと思いますが、それが増えているかどうかを知るほどの接触はありません)、「ゆとり教育」の、そういう側面の是非を言える立場にはありませんが、結局文部科学省の方針(中央教育審議会という方が正確でしょうか)が中途半端だった、ということでしょうか。「学力の低下」が叫ばれていることについて、ここで森さんは、「好意的に考えることができない」のはなぜか、と問い、「マスコミが危機感を煽ろうとしているからでしょうか」と仮説を述べていらっしゃいますが、そういう側面もあるのでしょうけれども、「政治家」「官僚」「お上」に対する批判という面もあるのでしょう。 そう、お酒を飲んで大暴れでも泥酔でもなんでもよいですが、あとで振り返って「恥ずかしかったな」と感じる「大人」がいるとして、その人がまた別の機会に大酒を飲んで「恥ずかしい」と後から思ってしまうようなことをしでかしたとします。はたしてその「大人」に学習能力があるといえるでしょうか。「学力」をつけてもらってきているといえるのでしょうか。私はお酒が苦手なので、最近は飲酒を強要してくる方がまわりにいないので苦労していませんが、馬鹿みたいに酒を飲んでいた集団の話を最近聞きましたし、自分は酒を強要されるような経験はなるべくしたくないなぁ、と思っているので、お酒を例にあげましたが、別に例はなんでもよいです。ちなみに、私は自分自身に十全な学習能力があると思っていません。ですから、むやみに「学力低下」を非難する資格は、自分にはないのだろうな、と感じています。それでも、円周率が「ほぼ3」だか「約3」だか忘れてしまいましたが、おおざっぱにされたことには非難の気持ちを抱いたものです。実際問題、日常生活で円周率を使うことはめったにありませんし、単純計算は機械がしてくれるようになっていますから、合理的になってきた、と評価できるのかもしれませんが。 学習指導要領を見てみたのですが、「生きる力」をのばそう、ということで、「ゆとりある教育」をしよう、と動き始めたのですよね。最近では、逆の方向に(ゆとりをなくさせる、という意味ではないでしょう)動いているようですね。 などなど書いてきましたし、基本的に森さんの意見には共感できる部分が多々あるのですが、私はどうも古い人間なので(保守的、というか)、いくつか耳が痛い指摘もありました。特に、第二章と第三章の間にある、「どこを見ているか」という部分です。長く生きている人は、それだけの経験をしてきたから、過去の実績で評価しようとする、だからまだ実績をあげていない若者の「夢」を一笑に付す傾向にある。以上で森さんの意見を十分に反映できているとは思いませんし、一般化できるものでもないでしょうが、私は多少そういう傾向にあるので… (まだ「若者」ではないか、という指摘を受けそうですが)。 研究費について話しているところでもふれられていましたが、本当にこれからする研究に、成果があるかどうかは分かりません。そもそも、どういう成果がえられるかを実証するために、研究するというものでしょう。なのに、「実績」「成果」の見込みのある研究が優先される傾向にある。こういったことも指摘されています。 あとはもっと単純に面白かったこと(興味深かったこと)を書いておきましょう。 入試要綱は、大学の先生が作成されるのだそうです。事務じゃないんですね。 最後に載っている、「思い出は全部綺麗です」を読んでいると、『工学部・水柿助教授の日常』を思い出さずにいられませんでした。 案外速く読了できました。興味深かったです。
2005.10.27
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E・H・カー(清水幾太郎訳)『歴史とは何か』~岩波新書、1962年~本書は、カーが1961年にケンブリッジ大学で行った連続講演をもとにした本の邦訳です。目次は、以下のとおりです。1.歴史家と事実2.社会と個人3.歴史と科学と道徳4.歴史における因果関係5.進歩としての歴史6.広がる地平線文末が「~です・ます」体で読みやすいです。それから、具体的な内容はともあれ、全体の印象として、たとえがうまいなぁ、と思いました。適切かつ面白いたとえ話が、いろいろなところで見られます。もとが講演ということもあるのでしょうが、興味深かったです。歴史を学ぶ意味はなにか。歴史とはなんなのか。歴史を専門に勉強するようになってから6年目になりますが(大学一年生の頃は、歴史の専門の授業はありませんでしたが、中世ヨーロッパ史に関わる文献を読む割合が高かったですし、この一年もカウントしています)、考えつづけています。それなりの考えはもっているつもりですが、「だからどうしたの?」と言われてしまうとおしまいなのです。中学、高校と、歴史は、いわゆる強者の歴史を中心に学んできました。それはもちろん大切なことですが、これまでに、莫大な人々が、歴史に名を残さず亡くなっているのです。ですが、偉業をなしとげたわけでもない、日々畑を耕し、ときには領主の畑を耕してあげ、バッタやらに作物を荒らされ、腹をたてたり、ミサに行ってパンを食べたり…。専門に勉強している説教に関していえば、説教を聞き、涙したり、逆に説教師にヤジを飛ばしたり、そんな人々はいっぱいいたのです。そういう名もない人たちの生活を復元したい、などと本当に単なるロマンティシズムですけれども、そんなことを考えているわけです。ところが、「歴史学」は、政治史・制度史を中心に扱ってきましたが、経済史・社会史という分野も成長をとげ、すでに、日常生活の復元を試みる歴史家たちも多々いらっしゃいます。私が個人的にそういう歴史叙述が好きだから、先のような問題意識をもつようになっただけだ、といわれてしまうと、まだうまく応えられないのです。それに、問題意識はそれでわかったけれど、じゃあどうして12、13世紀の、しかもヨーロッパについて勉強をしているの、といわれてしまうと、これまたうまく応えられないのです。第2章で、個人と社会の問題が扱われます。個人は社会に規定される部分があります。社会史・心性史といった研究領域がもしさかんに行われていなければ、私はそういうことに関心をもったでしょうか。なければ、歴史って退屈だな、と思うだけで、この道に進まなかったかもしれません。カエサルがルビコン川を渡ったことは歴史に残っていますが、私が今日電車で岡山駅に行ったことは、歴史に残らないのです。なにがどう間違っても、私のその行動は歴史にいささかの影響も与えないでしょうから。それでも過去に起こった事実という点では、同じことなのです(この部分は、第1章をふまえて書きました。そのあたりの話は、とても興味深く読みました)。などなどとつらつらと書いてきましたが、ずいぶんパソコンに向かっているので、そろそろ記事を終えようかと。その前に、本書でいわれている歴史とは何か、歴史の意義について、いくつか書いておきましょう。カーは、「歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり、現在と過去との間の尽きることを知らない対話」(40頁)といいます。また、「歴史から学ぶというのは、決してただ一方的な過程」なのではなく、「過去の光に照らして現在を学ぶというのは、また、現在の光に照らして過去を学ぶということも意味して」おり、「歴史の機能は、過去と現在との相互作用を通して両者を更に深く理解させようとする点にある」というのです。ある事件に対する見方(評価)は、それを見る時代に規定される部分もあります。この記事はあくまで趣味の範疇…ということで(言い訳ですが)、不十分な紹介しかできませんでしたが、興味深い一冊でした。
2005.10.23
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二階堂黎人『バラ迷宮-二階堂蘭子推理集』~講談社ノベルス~「サーカスの怪人」「天竺大サーカス団」でおよそ30年前に起こった怪事件。サーカスでは、「人間大砲」という見世物があった。子供を大砲に入れ、天井の的に飛ばす。そして、宙に張った網の上に、子供が落下する、という手品だった。その際、衆人環視の中、網の上にとつぜんバラバラ死体が出現したのだった。 コメント。衆人環視の中、いかにバラバラ死体が現れたか。そのトリックが本作の根幹であって、他の部分(動機の裏付け)など、弱い部分はあります。そこは蘭子さん自身も、「事件の要素が全て割り切れたわけではない」と弁明していますが。なので、謎解きに重点をおいたミステリとしては若干ものたりませんが、そこは、サーカス団という、いわば「異人」たちの世界を舞台とし、独特の雰囲気を伝えてくれている部分で、補われているかと思います。「自己」と「他者」。興味深い問題です。自分の研究の中に、他者認識という観点からの切り口もとりいれていきたいところです…と、これは本作とは全く別の話ですが…。「変装の家」裕福な未亡人が、親類を探し、一人の若い娘が見つかった。未亡人は彼女と、孤児だった彼女を満州から日本に連れ帰ってきた者たちに、崖の上の家を与えた。その家で起こった殺人事件。被害者から電話があった、ということで、未亡人は警察に電話。しかしその時間までに降り積もっていた雪には、足跡はなかった。崖の上の家には、被害者の死体があるだけだった。 コメント。雪の密室ものです。このトリックはなかなか面白いですね。「喰顔鬼」R湖畔付近で、4人の男女が殺され、顔面あるいは頭部を破壊されるという事件が起こっていた。蘭子と黎人は、R湖畔付近の洋館に住む画家の友人、津村氏とともに、画家のもとを訪れる。しかしそこでも殺人は起こった。入浴中の津村氏が、密室状況で殺されたのだ。死体に、首から上はなかった。 コメント。密室殺人です。「変装の家」はともかく、こういうトリックは、あんまり好きじゃないです…。結局へぇ~ってだけなんですよね。なんで二階堂きょうだいや刑事は殺されなかったのだろう、など、ツッコミどころはありますね。感想に、批判的意見が増えてきてしまった気がします…。「ある蒐集家の死」ホテルの一室で、男が殺された。男と毎年そのホテルで出会っていた五人の男女。ある理由から、誰もが男を殺す動機をもっていた。被害者が残したダイイング・メッセージが、容疑者の絞り込みを多少複雑にした。 コメント。再読ということもありましたが、ダイイング・メッセージのトリック(?)は分かりました。けれども、もっと細かいところ(現場に立ち会っていた黎人さんが気づかなかったもの)など、なるほど、と思いました。もっとも、それが謎解きの鍵なのですが。「火炎の魔」人体の「自然発火」による死。。それが、黎人の後輩の友人の家族に、何度か起こっていた。予言では、次は自分が死ぬことになる-。黎人と蘭子への依頼者の姉は、そう言って怯えていた。しかし、事件は起こってしまう。密室状況の中で、その女性は、焼け死んでしまった。 コメント。この短編集の中で、一番面白かったです。ここまでくると、ミステリというより、うんちくの部分で楽しむ感じですね。冒頭で、蘭子さんが過去にあった人体の「自然発火」の事例を紹介してくれるのですが、そういう話を私は大好きですし。「なんでそんなに事例を知ってるんだ?」とツッコミが浮かんだのですが、ちゃんとワケもありましたし。「薔薇の家の殺人」20年前、《薔薇の家》で起こった、ある女性の毒死。黎人は《薔薇の家》の女の子の家庭教師となるのだが、その叔母にあたる女性は、自分はその事件の犯人の子供なのだといって、身ごもった子供を産むことをためらっていた。蘭子は、20年前の事件を再検討する。 コメント。衆人環視の毒殺事件です。トリック自体はくだらないといえばくだらないのですが、たしかに盲点でした。「やられた!」という感じですね。 久々の再読です。 全体を通して。どの短編も、トリックに重点をおいています。専門的な知識が必要なトリックは批判される傾向があるかと思います。本書の中にもいくつかそうしたものはありますが、それはミステリとしてというより、雑学として役に立つ、というスタンスで読めばいいかな、と。さほど感動するようなお話もなかったですし。もっとも、ガチガチのミステリが二階堂さんの作風かと思いますので、そういう作品として読むには面白いです。 ミステリに夢中になりはじめた頃は、こういうトリックものは大好きだったのですが…。
2005.10.23
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ベン・ライス(雨海弘美訳)『ポビーとディンガン』Ben Rice, Pobby and Dingan~アーティストハウス~ アシュモル・ウィリアムソンの妹、ケリーアンには、「特別な人にしか見えない」友達がいた。ポビーとディンガン。アシュモルも、父のレックスも二人の存在を信じていなかった。 レックスは、鉱山でオパールを採掘するため、家族とともにオーストラリアのライトニング・リッジにやってきた。 ある日、レックスは、ケリーアンに、ポビーとディンガンが存在しないことを認めさせようと、ケリーアンが学校に行っている間に、鉱山に連れて行くと言い出した。 その夜から、ケリーアンは具合が悪くなり始めた。ポビーとディンガンがいなくなった、鉱山で死んでしまったのかもしれない。彼女はそう主張し、食べなくなった。 二人を探すために鉱山に行き、盗掘疑惑をかけられる父。日に日に衰弱していくケリーアン。二人を助けるためには、ポビーとディンガンを-あるいは、二人の死体を-見つけるしかない。少なくとも、ライトニング・リッジの人々に、二人を探すふりをしてもらうしかない。こう考えて、アシュモルは二人を「探す」ために奔走する。(以下の感想では、多少オチに言及しています) 数年ぶりの再読です。書店で、珍しく衝動買いをした一冊。 アシュモルの一人称で物語は進みます。ポビーとディンガンなんてうそっぱち。ずーっとそういうスタンスで語っている彼ですが、自然と、スタンスを変えるときがくるのです。うそっぱち、架空の友達、見えない、でも、「いる」。最初は、少しぎこちなく、けれど、次第に自然と、そういうスタンスに移っていくのです。 彼の淡々とした語り口のせいか、最初に読んだときに感動したのは覚えているのですが、今回、なかなか泣けなかったのです。はて、泣けるのかな、と思ったのですが、物語が終わりに近づくにつれて、やはり涙しました。 ところで、人は、自分が関心を持っていることには、注意をひかれてしまうものだと思います。ある言葉を知ると(あるいは意識すると)、それから、よくその言葉に出会うようになる、だとか。なんのことはない、それ以前から当然のように存在している言葉を、意識するか、しないかの違いだと思います。で、私は中世ヨーロッパの説教について勉強を進めているわけですが、本書の最後の方でも、牧師さん(というからには、プロテスタントでしょう)のお説教があります。人々は、ありがたくその言葉を聞いていますし(少なくとも、そのように読めました)、牧師さんも、説教に対する意気込みをもっています。なにしろ、そのお説教に私も涙してしまいましたし…。先日読んだ『白い犬とワルツを』にも、説教について言及がありましたが、説教の重要性というものを感じます。 なお、「ポビーとディンガン」は、辻村深月さんの『子どもたちは夜と遊ぶ(下)』の章題の一つとして使われています。同書の紹介のときにも、少しふれておきました。その記事はこちらです。 ちょっと疲れてしまったとき、そんなときに読みたくなるような本ですね。 * 訳者あとがきによれば、本書はベン・ライス氏のデビュー作だそうです(他の作品は読んだことがないのですが…)。舞台の事情、アシュモルのある行動など、物語の背景を知るのに参考になりました。
2005.10.22
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テリー・ケイ(兼武進訳)『白い犬とワルツを』Terry Kay, To Dance With The White Dog~新潮文庫~ 結婚生活57年目。妻、コウラが亡くなった。 サム・ピークとコウラの間には、7人の子供がいた。ピーク家の手伝いをしてくれているニーリーは、何人かの子供たちにとっては、親のような存在でもあった。そのかしましいおしゃべりは玉に瑕なところもあったけれど。 コウラが亡くなってからしばらくは、子供たちがひっきりなしにサムの家を訪れて、世話をしてくれた。しかし次第に、訪れる回数も少なくなってきた。ケイトとキャリーは、近くに住んでいたけれど。 そのころ、サムは、白い犬を見かけるようになる。なかなか自分に寄り付かない白い犬は、しばらく姿を消していた。しかしまた、現れるようになる。サムにしか近寄らない白い犬を、子供たちはしばらく見ることができなかった。父の頭がおかしくなってしまったのではないか。子供たちがそう考えていることが、サムにはよく分かった。しかし、サムは信じていた。子供たちにも、いつか白い犬が見えるようになる、と。 足の悪い老人、サム・ピークが主人公の物語です。ずいぶん有名になった作品ですが、私はドラマも見ていませんし、内容もあまり知りませんでした。ほとんど先入観をもたずに読んだのですが(もちろん、感動できる話というのは想像していましたが)、あたたかい物語でした。 なにかに夢中になっていると、そのことに関わることに、敏感になるものです。私は中世ヨーロッパの説教について勉強をしているのですが、サムの息子たちのうち二人は牧師で、説教活動を行っています。サムが、60年ぶりにマディソンの学校の同窓会に行く途中、道に迷うのですが、そのときに彼を助けてくれるのも説教師です。こんな感じで、説教が関わるところを気にしながら読みました。ああ、説教を聴いてみたいです。 本作の中で特に素敵だなぁと思いながら読んだのは、コウラとの思い出です。 一箇所だけ気になったところがあります。字の文で、基本的にサムは、”彼”と表記されていますが、サム自身の心境が語られることもあります。セリフの中でも字の文に描かれる心境でも、基本的にサムの一人称は”俺”なのですが、少なくとも180頁では、一人称が「わたし」となっているのです。細かいことですけれど。
2005.10.15
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戸田誠二『生きるススメ』~宙出版、2003年~ある方に貸していただいた漫画です。入学してから、いろんな方にいろんな方向の漫画を借りて読んでいるのですが、なるたけ記事には買って読んだ作品の感想をあげようと思い、それらの感想は書いてきませんでした。『密リターンズ!』1巻も読んだのですが、どう書くべきか分からず(自分用に感想書くならよいのですが、HPにあげる際は、どこまで内容に踏み込んでよいのか、考えてしまうので)、書いていません。ですが、本作は、純粋に今日は一日ゆっくりしようと思っていることと、本当に感動させられるお話が多かったため、紹介することにします。戸田誠二さんという方は、個人ホームページ「COMPLEX POOL」に、短編の漫画を公開していらっしゃるのですが、本作はそれらの作品を単行本化したものです。背表紙に、本作品集の中から、「人生」という作品がそのまま載っています。たったの5コマなのですが、その中でとても感情に訴えかけてきて、貸してくれた方がそばにいたのもかまわず、涙しかけたのを覚えています(ずいぶん前に借りたのです…)(*追記:日本語がおかしかったので、この部分の一部を訂正しました)まず、目次の前に、「Making World-世界の作り方-」という短編があります。服が欲しい、お腹がすいた、寝るところが必要…主人公の前に、思ったことをすぐにかなえてくれることが起き、また多くの人々がやってきて、主人公の願いをかなえてきます。しかし、満たされない主人公。これは夢の中の出来事ですが、きれいに終わっていて、読んだときの心境にもよるところは大きいと思いますが、これは(この作品にも、というべきでしょうか)泣きました。それから、第一章◎まるで花が咲くように、に移ります。この中から、いくつか紹介しましょう。「2009年の決断」も、切ないのですが、素敵な作品です。流されるように生きてきた女性の、人生で(たぶん)最大の大きな決断。悲しい結果が分かっていても、自分が自分で本気で決めたことなら、後悔はしないだろう…などと、そのまま言葉にしてしまえばありきたりな感想しか書けないのですが、もっと深いものを感じました。第一章の最後を飾る「花」。それまで続けていた仕事をやめ、漫画家のアシスタントになった女性。その漫画家は、最期まで、彼女のことを考えていた、と私は感じました。自分自身の漫画のことを考えていたのはもちろんでしょうが、漫画家が彼女に渡した花。きれいな花は、見事に咲きました。第二章◎1Pほどの毎日には、長くても見開き2ページほどのショートショートが収められています。最初に、先にも紹介しました、「人生」が載っています。日常の、悔しいこと、悲しいことなどなど、読後感がしんみりする作品もあるのですが、この部分には、どこかコミカルな作品もいくつかあります。「アトムの光」「遠隔操作」「し・た・た・か」などは、そのように読みました。あたたかい気分になれた作品は、「スマイル¥0円」です。こういうお話大好きなのです。第三章◎夜を抜けるために、の中には、章題の通り、どこか暗い世界が描かれています。もちろん、「夜を抜けるために」ですから、暗いままで終わるわけではありません。この中で思うところがあったのは、「幸せ」ですね。自殺未遂をはかった同級生。かけつけた同級生たちに、その夫が告げる言葉、そしてかけつけた友人たちが考えること。誰にでも、「いろいろ」あるのです。「いろいろ」あってもきちんと自分の道を歩める人々は、かっこいいと思います。もちろん、「いろいろ」あって、それを機に、少し休んだりすることも、大切です。がむしゃらにがんばってどこか壊したって、仕方ないですから。ある方から、「がんばらない勇気」という言葉を聞きました(読んだ、というべきですし、かっこつきで引用を示したつもりですが、正確な表現でなければすみません…)。がむしゃらにがんばりたい、でもこのままだと疲れがたまって弱ってしまう、でも休むことにはためらいが…。そんなときに、「がんばらない勇気」を持つことも、大切ですね。過去の私は、それを持てないために、間違った(?)表出の仕方をしていたのだと思います。しかし、世の中には、そういう人々もたくさんいると思います。だから、「間違った」と言い切りたくないというのが、いまの私の心境です。第四章◎ラスト・ムービーには、同題の短編一本が収録されています。死ぬ間際の男性が、自分の人生の映画を観ます。一匹の犬のから、「真実」を聞きながら。またいつか、本作は自分でも買ってもっておきたいなぁ、と思います。なお、お借りして読んだけれども感想を書いていない漫画の中に、森雅之さんの『ペッパーミント物語』という作品があります。本作もとても感動したので、いつか買いたいなぁ、と思っています。
2005.10.15
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久々にテレビのネタを。昨夜、「登竜門ヒットパレード」を観ました。南海キャンディーズ、なんだか懐かしかったです。一時期そうとうはまっていたのですが、最近はほとんどテレビを見てませんでしたから…。陣内さん、アンガールズは、以前に観たことのあるネタだったのですが、どちらも好きな芸人さんですし、楽しめました。お笑い芸人の相撲大会というのをしていたのですが、やらせっぽさが露骨ににじみでていて、あまり好感がもてませんでした。私の見方がゆがんでいただけかもしれないですが。そのせいもあったのかもしれません。いつもここからも、レギュラーも(あるあるフレーズは三つしか言わなかったですが)含め、いろんな方々のネタで笑いましたが、私が笑いながらもほっとしたのは、こだまひびきさんと、のいるこいるさんだったのです…。年のせいでしょうか…。とまれ、両組とも、昔から笑点などで拝見していたこともあり、みていてなんだかほっとするのです。若手芸人さんも面白いし、好きな方々はいますが、やっぱり昔ながらのコンビもいいなぁ、と思いました。
2005.10.10
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1945年、横溝正史さんは、岡山県真備町(現在は倉敷市に合併されています)の岡田村というところに疎開しました。ここで足掛け4年を過ごしたということです。今日はまず、真備町ふるさと歴史館に訪れました。ここには、横溝正史さん関係のコーナーが設けられています。ネットの情報では、入館料が100円とあったのですが、無料になっていました。入って右手に、横溝さん作品(漫画化されたものもありました)が並んでいました(冊数は、私の家の蔵書の方があるような気がしましたが…)。江戸川乱歩さんの作品が一冊ありました。アンソロジーで、横溝さんの作品も収録されていたのかもしれません。見とけばよかったです…。作品一覧表が便利でした。短編集の場合、表題作の他の収録作品も書いてくれていましたので。でも、一覧は館内閲覧のみのようでした。残念。横溝さんの手書きの原稿もあり、テンション上がりました。行く前に、『真説金田一耕助』(角川文庫)をぱらぱらと読んでいったのですが、横溝さんは疎開先の方々といろいろ交流をとり、その後の作品の着想を得ていたということですが、それはひとえに横溝さんの人柄のおかげなのでは、と思いました。横溝さんの作品は、おどろおどろしいものも多くありますが、どこか優しいのです。さて、ふるさと歴史館周辺には、「名探偵金田一耕助ミステリー遊歩道」なるものがあります。『八つ墓村』に登場する濃茶の尼のモデルとなったという「こいちゃのばあさん」と親しまれ、まつられている祠(疎開宅はこのすぐそばです)、「空蝉処女」という短編の舞台とされているという岡田大池、とりあえず行ってみたのはこのあたりです。「空蝉処女」も読んでいるのですが、内容をすっかり忘れてしまっていますし、他にもいろいろと再読したくなりました。さて、歴史館を出て、横溝さんの疎開宅に向かいました。こちらも、入場無料でした。地元のボランティアの方でしょうか、年配の女性が二人いらっしゃって、お茶をふるまってくださいました。ここで面白かったのは、疎開にきた横溝さん一家の生活がかわいい絵のパネルに描かれていたのですが(小さなパネルが20近くあったでしょうか)、トリックを考えるのに夢中になる横溝さんと、池(湖でしたか)からつきだした二本の足が同じ画面の中に描かれたパネルがあったのです。なんだかほほえましい気分になりました。どの絵もかわいかったですし。眠くなってきたので、このあたりで。
2005.10.09
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アンデルセン(大畑末吉訳)『完訳アンデルセン童話集(1)』H. C. Andersen, Eventyr og Historier~岩波文庫~ 物語が多いので、まずは目次から。「火打箱」「小クラウスと大クラウス」「エンドウ豆の上に寝たお姫様」「小さいイーダの花」「親指姫」「いたずらっ子」「旅の道づれ」「人魚姫」「皇帝の新しい着物」「幸福の長靴」「ヒナギク」「しっかり者の錫の兵隊」「野の白鳥」「パラダイスの園」「空飛ぶトランク」「コウノトリ」 全てを紹介するのは大変なので、印象に残った作品を紹介します。なお、いわゆる古典的な作品なので、細かいところまで(オチまで)ふれることにします。「火打箱」 魔法使いのお婆さんに、銅貨、銀貨、金貨が手に入る木を紹介された兵隊さん。お婆さんのお願いを聞き、そこから火打箱も取ってきた兵隊さんは、お婆さんにその箱の秘密を聞きますが、お婆さんは答えようとしません。そこで、兵隊さんはお婆さんを殺して、火打箱を自分のものにしてしまいます。兵隊さんは、しばらく木の中から取ってきた金貨を使って暮らしていましたが、すぐに貧乏になってしまいます。ところが、火打箱で火を打つを、木の中でお金を守っていた、目の大きな犬たちが出てきて、言うことを聞いてくれるのです。兵隊さんは火打箱を駆使しながら、お姫様と結婚、めでたしめでたし…。 …まったく意味が分かりませんでした。お姫様に一目ぼれとか、ハッピーエンドとか、そのあたりはありふれているのですが、なんで魔法使いのお婆さんを殺して、ズルして生きている兵隊さんが幸せになるのでしょうか。お姫様と結婚するまでに、処刑されかけたりもしますが、一応この物語の中ではハッピーエンドなのです。うーん…。分かりません。子供に聞かせるとして、説明を求められたら困るところです。「親指姫」 子供を欲しがっていた一人の女の人が魔法使にお願いすると、魔法使は大麦の粒をくれました。粒からはチューリップが生え、花が開くと、そこには親指くらいの大きさの女の子がいて、その子は親指姫と呼ばれるようになりました。ところがある晩、親指姫の寝床にヒキガエルがやってきて、せがれの嫁にと、彼女をさらってしまいます。親指姫がヒキガエルたちのところから逃げたいと思っていますと、虫たちのおかげで逃れることはできたものの、あちこちをさまようことになります。 有名なタイトルですが、内容は全く覚えていませんでした。子供の頃にもっと絵本読んでおきたかったな…。いまさらですが。さて、いろんな生き物たちとふれあい、最後は花の天使により、花の女王さまにしてもらいます。彼女を救ってきたツバメは、別れを惜しみながらも、去っていきます…。ちょっとせつなさが残るラストですが、私は冒頭に出てきた女の人は、親指姫がいなくなってから、どうしていたのだろう、ということが気になりました。また魔法使にお願いしたのでしょうか。いなくなった親指姫のことを思い、悲しみながら暮らしたのでしょうか。所詮は魔法使のおかげでさずかった幻みたいな女の子、夢だったのだと言い聞かせ、日常に戻ったのでしょうか。「旅の道づれ」 細かい話は省略しますが、道づれとともに、ある町にやってきたヨハンネス。その町では、お姫様のよくない噂が流れていました。こらしめてやりたいと思っていたヨハンネスですが、いざお姫様を見ると、あんまり美しかったので好きにならずにいられなかったんだそうです。要は美人だからテンション上がってるだけ…というのは、ある方の指摘ですが、ここまできたら私もその指摘に同意せずにいられません。まぁでも、夢に伏線もありましたし、なにより二人が結ばれるまでの「旅の道づれ」の活躍は、わくわくしながら読みました。面白かったです。「人魚姫」 六人姉妹の末っこの人魚は、六人の中でもっとも美しく、夢見がちな性格でした。 15歳になると、人魚たちは、海の上まで行くことを許されます。お姉さんたちが海の上で経験したことを聞いて、人魚姫はますます期待を膨らませるのでした。15歳になり、姫が海の上に行きますと、船が嵐にあってしまいます。海に投げ出された王子様を人魚姫は救い、そして人間になりたいと思うようになりました。姫は魔女にお願いして、言葉を失うかわりに、二本の足を手に入れます。王子様と再会し、王子様の愛を得られるようになったかと思うのですが…。王子様は別の国の姫君を、嵐の夜に救ってくれた女性と思い、その姫君と結婚することになるのでした。 先日読んだ『かしましハウス(3)』にも、この作品のオチについてふれられていましたが、決してハッピーエンドではないのです。なぜ人魚姫がこころみの時を経験しなければならないのか、やはり分かりにくいです。十分、生きている間に苦しんでいるように思うのですが…。もっとも、人魚姫は不死ではなくなっていますから、こころみの時を経て神様の国に行けるということは、考えようによっては良いことなのかもしれません。あるいは、かたちとしては人間になっているわけですから、最後の人魚姫の行為は「自殺」とみなされているのでしょうか。そもそも人魚をやめた時点で、一種の「自殺」とみなされているのでしょうか。考え始めると、奥が深いですね。「皇帝の新しい着物」 いわゆる、裸の王様です。無邪気な子供が、王様が本当は裸だと指摘する。権力に逆らうまいとする気持ち、自分の欠点を隠そうとする気持ち、などなど、大人ならではの気持ち(考え方)への、一種の批判とも読める作品です。 ずいぶん長いことパソコンに向かってしまっているので、このあたりで。 なお、たとえば第二話に、「これは、ほんとうにあった話なんですよ」という文章が見られます。他にも、その物語が本当にあったことだとする文章がありました。私が卒業論文で勉強したことと関連がありますので、興味深く思いました。教訓話に、それが本当にあった話だとすることで、さらなる権威(説得力)を持たせようとする態度、と現段階では解釈したいと思っています。
2005.10.08
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武田泰淳『わが子キリスト』~講談社文芸文庫~「わが子キリスト」 内容紹介と感想をわけて書きづらいので、まとめて書くことにします。 多少内容に詳しくふれる部分もあるかと思いますので、あまり先入観をもたずに物語を読みたい方はご注意ください。 ローマ帝国のユダヤ進駐軍兵士である「おれ」の一人称で、物語は進みます。 その地の幾人もの女性たちと肉体関係をもち、その女性がその後どうなろうが、子供が生まれようが、そんなことはどうでもいいと思っていた彼ですが、マリアとイエスは例外となります。 「おれ」が「子供狩り」のためにたまたま訪れた家にいたみすぼらしいかっこうの女とその子供。夫は、その子の父親ではなく、「神」であるといいます。 「おれ」は、顧問官に気に入られ、ユダヤ人征服の計画に荷担します。そのとき、ユダヤ人最高の指導者(もしいれば)の扱いが問題となるのですが、二人とも、イエスに目をつけます。 イエスの説教を、自分たちに都合のよいものに改変して、流布させる。このあたりは、とても興味深く読みました。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」、「左の頬を打たれたら、右の頬も向けよ」(いま、手元に聖書がないので正確な文言ではないと思います)。いずれも有名な説教ですが、彼らの計画によるものだとしたら…。うまく言葉がまとまりませんが、興味深く、というか、ゾクゾクしました。別段涙したわけでもないですが、広い意味での「感動」を覚えました。 先に、マリアとイエスは例外だった、と書きましたが、「おれ」は、イエスが自分の子だと気づきます。豹変したマリアの態度も印象的でしたし、狡猾な顧問官の計略にもゾクゾクしました。 ユダヤ人指導者としてのイエスを利用する。そのためにはイエスの説教や超越性を利用しなければならず、「おれ」はなんとしてもイエスを復活させなければならなくなります。 イエスの死後のマリアとのやりとり、ユダとのやりとり、そして…。 大まかなあらすじは以上のとおりです。 最後にふれましたイスカリオテのユダ。彼の人間像も、とても興味深いものでした。最近、太宰治さんの「駆込み訴え」(新潮文庫『走れメロス』収録)を読みましたので、そちらも連想しました。 「おれ」が、はじめの方は世俗的で計略家で、「神」など信じず、もちろんイエスの奇跡だって信じない(というか、いくつかは「おれ」たちが作ったことになっています)のですが、物語が進むにつれて、どこかとても敬虔な人物に思えてきたのはなぜでしょう。イエスの神性は一貫して信じていないように思いますが、正統キリスト教の教えはともかく、「神」に忠実であろうとしているように思えるのです。 普段の読書体験では、読みながら、感動的な言葉にあったり、シーンを読んだりしたらたいてい泣くのですが、本作ではそういうことはありませんでした。むしろ、イエスに関する意外な説に、とても興味深く思いながら読み進めていました。 でも。読み終わったとたん、泣いてしまいました。ラスト数ページ、上のあらすじ紹介のところでは「そして…」であえて省略した部分が、とても印象的だったのです。それまでに読んできた部分もあいまって、自分の語彙の貧弱さが悔しいのですが、とても感動したのです。「王者と異族の美姫たち」 晋国王は、驪戎を滅ぼし、美女驪姫を后としていた。驪姫は、祖国を滅ぼされた恨みもあり、晋の三人の王子に対して、政治的影響力を行使しようとしていた。 太子申生は、自分が驪姫にも、驪姫と彼女に生まれた子供の方への愛情が強くなっている国王にも疎んじられていることを知っており、流されるままに死を選んだ。 三男夷吾は、たくましく、政治的野心にあふれ、晋も、美しい驪姫も自分のものとしていようとしていた。 次男重耳は、晋内の驪姫派と、有能な大臣里克派の争いを好まず、他国に亡命した。もはや晋の運命は、重耳の動きにかかっていた。 晋に従属していた国で、さらにその国に従属していた国の美女をあてがわれた重耳。彼はまた国を移り、斉に行く。ここで一人の女を愛するのだが、彼についていた五人の賢人と、その女性自身は、重耳が晋の国王となることを望んでいた。 感想。申生の母は、斉の桓公の娘です。春秋時代の中国が舞台ですね。 時代背景をあまり知らないので、あまり歴史小説ということを意識せず、一つの物語として読みました。政治と、女性。二つの間で板ばさみになる、王子たち。重耳を中心に物語は進みます。 驪姫と、重耳が他国で出会う女性たちとが、対照的だなぁと感じたのですが、根本的なところはつながっているようにも思います。なんだかあいまいな感想ですが…。「揚州の老虎」 清朝が滅んだ直後の、揚州が舞台です。ごめんなさい、分かりませんでした…。 全体を通して。 本書(表題作)は、torezuさんに紹介していただいたのですが(torezuさんの記事はこちらです)、「わが子キリスト」はとても面白かったです。 表題作は新約聖書、「王者と…」は春秋時代の中国、「揚州の老虎」は清滅直後の中国のとある地方に題材がとられています。いわゆる歴史小説ですね。ミステリ絡みではない歴史小説を読むのははじめてのような…。 表題作は水曜日に読了して感想をつけていたのですが、その後思い返しても、すごい物語だなぁ、と感じます。
2005.10.01
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