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この歌詞になぞられる想い出 強がってばかりの Runaway 夜を抱きしめて ここにもひとり あすこにもひとり Bud it's All Right Yes, he is a Down Town Boy 先週書いた「ダウンタウン・ボーイ」で、ちょっと誤解を招いちゃったかもしれません。わたしとわたしのダウンタウン・ボーイは正確には「生さぬ仲」です。はじめて会ったとき彼は13歳になったばかり、わたしは26歳になったばかりでした。まだ背も小さくて声もかわいくて、父親に気遣っている孝行息子という好印象。この子が22歳になるまでの9年間、わたしは一緒に暮らしていたわけです。途中、夫が外へ出てしまったときから帰郷するまでの3年半はこの息子と二人暮らしでした。 中学・高校と、元気すぎて学校から親が呼び出しをくらったことも何度かありましたけど、そこは父親がきちんと対処していたので、わたしは心配も少なかったほうでしょう。ところが父親不在になってから、息子は今で言うひきこもり的な暮らしぶりになってしまいました。大学入試の失敗、父親の家出、気に入って勤めたアルバイト先が倒産…次々と前途に希望がもてない出来事が集中したからでした。 わたしは、夫が家を出たとき、実家へ帰るしかない…と覚悟していたと同時に、息子を一人置いていくことに後ろめたさを感じていました。そんなとき、わたしは未明に吐き気をもよおし(消化不良)脱力となり、救急外来へ息子に連れて行ってもらいました。リウマチだけでもたいへんだというのに、こんなことでは、わたしがここにいたら息子に迷惑がかかるばかりと思って「わたしは栃木に帰った方がいい?」と尋ねてみたのです。そのときの息子の顔は、いまでも忘れません。普段からポーカーフェイスな人ですが、このときばかりは…。そして、何時間もかけて、思慮深く、彼の13年間(わたしの知らない時代)の苦労話を冷静に語り聞かせてくれました。彼はわたしに「帰らないでくれ」と直接は言えない。なぜなら、わたしの選択の自由を邪魔する言動になるからです。でも、彼の本心はわたしにもよくわかりました。 二人で暮らしていた3年半という時間は、わたしにとって根気強く砂金を探しあてるような日々でした。想い出は数限りなくありますけど、あるとき街中で殴り合いのケンカをして帰宅したときのこと。どうしたの?と訊くと、ケンカになっただけじゃなく、もう少しで相手に傷害を負わせるくらいの激しさだったけれども、殴っているときに彼が身につけていた聖母マリアのペンダントヘッドが路上に落ちて、我に返った。と言うので、わたしは言いました。「あなたに罪を犯させたくないから、マリアがこりゃ一大事!ってんであわてて出てきたのかもね?」。息子は満足な答えだ!とばかり、顔の表情に内心が現れていました。彼がいつからマリア像を持ち歩いてたのかはわからないし、ただのアクセサリーに過ぎないこともよくわかっているのですが、これはわたしへの心遣いだと、そのとき直感でわかりました。彼は自分自身のやり場のない憤り(思うようにはならない人生に対し)のはけ口を探して、毎夜暗い闇の中へと繰り出していたのでしょう、でもそんなときも、家で待っているわたしのことを、忘れてはいなかった。わたしがリウマチでもなく健康体だったら、いらぬ心配もしないで生きられたのでしょうに…。 あぁぁ、またしてもファントムが登場してしまうけど、ファントムの生い立ちにかぶる要素がこの息子にもあるので、映画観ながら、胸にわき上がる息子への思いに、じわり涙が浮かんだことも事実です。じぇり本人もそうなんですが、複雑な環境の中で生きてきた彼らに、わたしは生来、気持ちが向いてしまうんです。そして彼らの逆境に負けない生き様に、共感せずにいられません。はい、じぇりの中に、息子を投影しているきょうこのごろ(じぇり36歳、息子34歳)。
2006.04.29
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きのうは午前中のリハながらも、けっこう調子よく歩けました。家でも歩くようにいろいろ考えはじめているところです。病院の帰り道、国分寺の尼寺へ迂回して、車の窓越しに花見をしました。ここは八重桜の名所。うかれたおじさん&おばさんがいっぱい。わたしはさくらもすきですが、ここの敷地内にある一重で気品ある純白のツバキ(ツバキというよりカメリア?)が大好きで、ウチの庭にほしいくらい…でもツバキはたぶんもう終わっただろうから、見ずに帰ってきましたが。そして、ツバキ同様に、ここの雑木林がこれまた大好き! 新芽が出始めたばかりの眼に柔らかなグリーンには、いつも心洗われるのです。万葉のころも詩人たちが心ときめかせていたのでしょうね、この風景に。こんな新緑の中をのんびりお散歩できたら、いいなぁ~。 話180度かわって、本題。オッホン。わたしくが泣く泣く「禁じぇり」はじめてから早5日が過ぎました。いやもう、たったの2時間後にさっそく禁断症状が出ちゃって、どうにも耐えられそうになかったもんでインターネットで観ちゃいましたわ、ジェリーちゃん。これじゃダメじゃん、せっかくDVDしまったりスライドショーひっこめたって、ブラウザの「お気に入り」があるかぎり、いとも簡単にリバウンドしてしまうじゃないの。おまけに封じたつもりの「株式」までも…。でもまぁ、努力(ん?)の甲斐あって講座はいくらか進展しましたが。これならあと4カ月くらいかかれば終了できるかな(期待)。それまで「禁ブラウザ」の時間を義務づけるくらいしないと、全うできそうにないけどね。禁じぇり早く解禁できるように、がんばる! そんなこと言いながらも、わたくし、佐野市にある映画館に、オペラ座の怪人を上映してくださいコール、してしまいました。109シネマズという新しい劇場のHPに「お問い合わせ」というフォームを見つけたので、「ぜひぜひ上映してください」を書きました。そしたらお返事がきて「今のところ上映予定はありませんが、あなたの貴重なご意見も参考に今後検討したい」とのこと。うははは~、こりゃ実現しちゃうかも、な? まったく、わたくしほんと「おめでたい」やつなんです、はい。 じぇり効果しっかり充満してますねぇ、おほほほ。
2006.04.27
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わたしは10年前まで、頸椎の変形のせいで首が右前方にかなり傾いていました。写真で見れば一目瞭然。これは発病して5年目あたりからでました。レントゲン画像でみると、第一頸椎が前に8ミリほどスリップしていたのです。当時通院してた病院の整形外科で「うーん、僕は手術したくないなぁ」と医師が一言。あら、わたしだって手術したくありませんとも、とくに頸椎は。内科の医師はこのままにしておくと神経を圧迫して手足に麻痺がでると言い「あたまは下げないこと」というアドバイスをくれました。で、そういわれた本人は恐怖のどん底に突き落とされた心境となりました。頸椎カラーも紹介してもらいましたけど、わたしは全身に変形がでていたので、カラーをつけると不都合が多く、車に乗るとき以外は使いませんでした。毎日の暮らしの中でなるべく注意はしましたが、とはいえ、どうしても下向きになる時間が多かったわたし。内職(ドレスの刺繍)をしなければ、生活費がすぐ底をついてしまうほどのビンボー暮らしだったので、とにかく無我夢中でした。首は回せないくらいになっていました(借金はなかったけど(笑))。 でも、その変形は4年後、元の位置にもどりました。ある本からヒントを得て自己流の治療をやってみたのです。内職はもうやらずに済んだのでそれも良かったのかもしれませんが、どうやったら戻ったのか? やってみた方法は公表していいものかどうか迷います、どなたにも向くとはいえないので…。でもこの方法を行ったから戻ったことは確かなのです、整形の医師はハナで笑いましたが。元の位置に戻ったおかげで麻痺への恐怖からは脱出できました。そして数年後、またレントゲンで診てもらったら今度は「第1と第2頸椎は癒着して固まっている」ということで「これならもうスリップするおそれはない」とわかりました。もう安心!と思ったんですが、またもや不都合あり。それは、頸椎上部がくっついてると、頸椎下部(背中の方)へ負担がくる、ということです。そんなわけで、現在のわたしは肩胛骨あたりから頸にかけて、コリがすんごく激しいです。毎日パソコンに向かう時間が長いこと、同時に目を酷使してることも大いに影響してると思います。 頸椎にかかる負担を減らすためには、極端な姿勢は避ける(姿勢良く座る)べきですよね。わたしは以前デスクトップ型のPCでしたが、2台目からはノート型でモニタはほどよく目線の先にあるため、いい案配です。角度に気を配り、あごを下げすぎないよう心がけています。逆にモニタの位置を高くすると、あごは上向きになりますが、頭の重みを感じるだけでなく眼も見開き状態になり、これですとシェーグレン(ドライアイ)がひどくなりますので、これまた要注意もの(目は半開き程度となるような角度にモニタを合わせています)。 首から肩・背中にかけてのコリ&不調は慢性化をたどっているのでやっかいです。せめて枕が合いさえすれば…と1年前から低反発枕を使い始めました。首にかかる負担が減り、寝ごこちよいこと請け合いです。もうこの枕じゃなくちゃダメダメというくらいに! パソコンを始める以前、日々もてあます時間は読書に充てていました。本はなるべく文庫本(軽量で扱いやすいから)。新書などは重いのですけど、読みたいものは読みたい。もしあのころ、このブックスタンドがあったら、わたしの読書ライフも快適だったでしょうにね。もちろん現在、たいへん重宝しています。頸椎や手指への負担を軽くするためにブックスタンド
2006.04.24
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去年7月に申し込んだ通信教育。申し込んでからすぐに母が倒れ、お勉強どころではなくなり、胸なで下ろしたと思ったら今度はオペ入院&感染症にジャマされて、半年の休学を願った。大事に至らず退院できたけれども、このわたくしぶっ壊れておりましたゆえ、なんにも手つかずな毎日でした。まぁ、ところどころ仕事が入ったんでやりましたけどね、お勉強に身が入る、までの心境には到達せず…。 心機一転、気を引きしめねば受講可能期間が終わっちゃうよ。まったく自業自得なんだから(←これはわたしの特技ともいえる)。きょうは対策を講じました。ジェリーに関するもんはすべて、しまっちゃった。DVDはもちろんのこと、伝言板の壁紙も、スクリーンセーバー(ジェリーのスライドショー)も、なにもかも。ジェリーごめんな! こうでもしないと、先に進めやしないから(笑)。「なぜファントムか」も書いたしね。これ書かないうちは、どうも気分的に落ち着かなかったんだわ。そしてジェリー映画も見納めしたし…じゅうぶんだろ、こんだけ観たらさ。いや、まだ観てないタイトルもいっぱいあるんだな、だけどこれはまた後のお楽しみということに。 いやはや、インターネットは便利でありがたいんだけど、便利すぎて悩ましい(笑)。興味ある世界へどんどこ流れていってしまうから。きのうもあと少しで「株式」の方へ走り出しそうになっちゃってね。こりゃもう、はまっちゃったらたいへんなのは目に見えてる。そうなる前に、ここらでいっちょ、線引き!
2006.04.23
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また観てしまった、ゆうべ「オペラ座の怪人」(これで何度目?もう数えられない)。映画館で観られなかった怨念(笑)を緩和するためにはこうするしかないと前々から思ってた、その方法。いえ、たいしたことじゃありません、デカイほうのモニタ(17インチ)につなぎ、ヘッドフォンで鑑賞。モニタつなぐのもヘッドフォンつかうのも、わたくし簡単にはできませんから、いくぶんかの気合いが必要で、まとまった時間がとれるときがチャンスというもの。何度もみてるとはいえ、全編通してみたのは久しぶりでした。3月ころは、自分のお気に入りシーンをくり返し観てただけだし(飽きもせんと)、ここひと月は、別のジェリー映画観てたから(笑)。 初めて観たとき、わたしはファントムではなくラウルに一目ぼれだったっけなぁと、思い出しましたわ。けど一目ぼれは、しょせん一目ぼれに終わる。2回目から、ラウルはどこかへ飛んでっちゃって、ファントムばっかり視線がいっちゃう。内心、この男には近づいちゃいけないと敬遠しつつ観ておりましたのに。やっぱり「魂が求める対象」に惹かれ…というのが、わたしのファントムへの想い入れの始まり。見目麗しいことは、観る回数が増えてから気づいた(ウソじゃないって)、なによりファントムの孤独に共感してしまったってぇのが、発病機序でありました。 この共感した内容は、1月3日に一部書いているので重複を避けますけれど、なぜそんなにまで?といえば、この映画はトライアングルの人間模様が如実に描かれているからです。そしてこのトライアングルこそが、わたしにとってリウマチよりもずぅっと苦しいテーマだったからなのです。手塩にかけたひとを、第三者に奪い取られたファントムもわたしも、それは我が身を切り裂かれる痛み、としか言い表しようがありません。この映画のラストで、ファントムは嫉妬に駆られた狂人と化し、理性などどこにもなく、ひとことでいっちゃうと「みっともない」んです。わたしもコレと同じく、みっともないほど取り乱した日々、涙と鼻水だらけの日々があった。でも、なぜかこのシーン観てても涙は出てきませんでした。おそらく、もう涙は流しきったから、ですかね。それで、わたしはファントムに肩入れしながらも、トライアングルそれぞれの立場を客観視していました。こんなふうに冷静な目で見られるくらいに時が流れていたとは、まことに喜ばしいことですなぁ。 置いてきぼりをくらったファントムがいちばん哀れにちがいありませんが、置いていったクリスティーヌは、ファントムの孤独を理解する唯一の存在であり、わかるからこそ後ろ髪引かれる思いは強い。でもこうするしかなかった運命は、ラウルと幸せになった後も、すっかり書き変えられるものではないでしょう。クリスティーヌを連れて行ったラウルのほうも、自分がクリスを愛しさえしなかったら、このふたりは互いに通じ合う内面(音楽の才能)をもっともっと深められたにちがいないことを敏感に感じ取っていた。ラウルにのしかかる重み・自責の念は、やはり背負い続けるしかないと思うのです。 こんなことを感じながら、何遍も見てるうちに、わたしは「自分だけじゃない」という安心感に似た想いが浮かんできて、救われた気がしたんです。こういう感情は、味わったことのないひとに「お願い、わかって」と訴えたところで、まるきり無理な要求でして。たとえ妹や親友でも、アイツを罵るような理解しか得られない、それはわたしにとって耐えがたいことでしたから、そういう意味ではずっと孤独でした。でも、ファントム役を全身全霊で演じファントムになりきったジェリーなら、わたしの「お願い、わかって」を両手広げて受けとめてくれるにちがいない。おや、妄想か、こりゃ? まぁ、妄想でもいいんです、あの御方を観てるとそう「感じる」のだから。わたしのこれまでの孤独は、おかげさまでめでたく解消されたというわけです。 そんなうれしい気持ちで過ごす中、まったく神さまは粋な計らいをしてくださるものですわ(感謝)。なんのことかって? 再会ですよ、元亭主との。2月24日は生涯忘れません、記念すべき日です。これでわたし、霧の中をさまよい続けた日々さえ、忘却の彼方へ(笑)。心が解放されたことに乾杯!
2006.04.21
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きょうの関東地方は午前中、強い風雨にみまわれおまけに雷鳴までありました。大陸からデッカイ低気圧が近づいています。こんな不安定なお天気の中、母は「目がまわる」と言い…母の場合どんなめまいなのかをきちんと把握するまでは、家族は落ち着けるもんではありません。きょうは血圧も低めなので、それによるめまいと思われ、安静にしてるよう医師に電話で指示をいただきました。こんな天気ですから、体調が悪いと感じた方はけっこういらっしゃるかと思います。わたしはなぜか、きょうは普段通りに過ごせていますが、こんなことは希で、不安定な気圧配置に悩まされることたびたびです。わたしはこれまで、まっさきに膝関節痛が強まりました(人工関節以前)、でも近ごろは息苦しさとか頸から背中にかけての痛みに変化しました。 春の嵐でうろたえたあと、今度は地震。NHKの地震情報によれば、我が町は震度3だったようです。そして震源地はここからそう遠くないようでした(小山市南部あたりか?)。今月、縦揺れの地震があったばかりで、そのときも、震源地は近かったし「この土地は災害が少ないのよ」なんて、安心してはいられないと感じています。 「春の嵐」といえば、同名のヘッセの小説がありますね。わたしはヘッセの生き方と小説がとても好きで、いくつかのタイトルは読みましたが、まだ「春の嵐」は未読です。ヘッセは自然児であり、情熱とデリケートな心を同時に宿すひと、そして人生に挫折を味わった経験をもっています。そんな詩人の書いた作品には、感銘をうけないわけがありません。なかでもこの「春の嵐は」 ――デジタル書店・グーテンベルク21 立ち読みフロアより クーンは少年時代、そりの事故を機に失恋して不具となったときから、音楽家として立つことを志す。そのなかで永遠の女性ゲルトルートを見出したように思ったが…それはあっけなく、友人で情熱家の歌手ムートンの手に奪われてしまう。心傷つきながらも、クーンは諦観の境地にいたる。ヘッセの名作。「……人間生活の中でだいじなことは、どうにも避けようのない運命を自覚をもって受けいれ、よいことも悪いことも心ゆくまで味わいつくし、外面的な運命とともに、内面的な、もっと固有の、偶然とはいえない運命にうち勝つことだとすれば、私の一生はみじめでもなかったし悪くもなかった。外面的な運命は、どうにも避けようがなく、神のみこころのままに、すべての人とおなじように私をかすめていったが、内面的な運命は私自身の作ったものであり、その甘さやにがさも私にはふさわしいものである。だから、この内面的な運命にたいしては私ひとりで責任を負いたいと思うのだ。」――(抜粋終わり) わたしの心の中を整理整頓して表現してくれたような文章…なのですわ。偉大な詩人って、こんなふうに巧みに書けちゃうところが、凡人との違いですね(あたりまえか)。繊細な人だからこそですか、うらやましい限り。
2006.04.20
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いやぁ~Yahooさん、やってくれるでないの。「Yahoo!!ダウンロード」こんなサービスもあったのね(キャッチが遅いわたくし?)。けっこう充実してますこと、ソニーがらみみたいけど。わたしのダウンロードしたくなる曲は、最近(ここ10年くらい)のお歌はゼンゼン知らんから、どうしても懐メロになっちゃいますねぇ。ダウンロード(有料)しないまでも、ちょこっと試聴もできるし、ほんと、うれしいサービス。 聴きましたよ、ひさしぶりに佐野クンを。一気にあの時代にひきもどされてしまった。ラジオから流れてきた「ダウンタウン・ボーイ」を初めて聴いたときの、あの熱い胸さわぎがよみがえる。あれから4半世紀がすぎたのか…はやいもんだね。あのころ、佐野クンにどれだけ励ましてもらったことか! 仕事に躓いたとき、佐野クン。なにしろ不本意な仕事・職場にはほとほと嫌気がさしてて、刺激のない毎日のけだるさを忘れたかった。外ではウォークマン必携、親友どもに白い眼で見られようとも、浴びるように聴きまくってました。特に「Someday」は「あきらめてはいけない」というメッセージが込められてて、何度もなんども「立ち直り」のお手伝いをしてもらった曲です。「ハートランドへようこそ」というツアーが、宇都宮にくると知ったときゃ、もう仕事なんてどうにでもなれ!気分。当日は早退して足利の職場から宇都宮までつっ走った(電車でですよ、もちろん)。新宿ルイードでしかライブやってなかったのが、全国ツアーをスタートしたちょうどそのときに、わたしは佐野元春に出逢ったわけなんです。佐野クンに励まされながら1年半勤めた会社も、もうこれ以上ガマンならない、見切りをつけて転職。田舎を離れ都会へと。わたくし、あのころはダウンタウン・ボーイに会いたくてしかたなかったのだわと、今ではよ~くわかります(それが目的かぃ)。 佐野クンを「元カレ」と勝手に命名してヤキモチやいてた男が一人おりまして、佐野クンに負けまいと「Someday」をCD聴きながら練習してカラオケの十八番までたどり着いたヤツ、これが元亭主です。こやつはビートルズ・フリークで、かつての来日時には武道館まで観に行ったひとりでした。佐野クンもビートルズに詳しく、これまた負けじと競う競う。まぁまぁかわいいもんです。そして、うれしいことに六本木にあるキャヴァン・クラブというライブハウス(ビートルズのコピーバンド)へよく連れてってくれました。ここへは、最初ふたりでしたが、そのうち息子が17歳になったころ、一緒に連れて行きました。この子はまさに、わたしが遭いたいと思っていたダウンタウン・ボーイそのものだと、そのとき感じましたわ。わたしのダウンタウン・ボーイは、亭主ではなく息子のほうだった。そう、わたくし息子がいたから結婚したのかもしれません、アイツとは(笑)。出逢いって、無意味じゃないのであります。ホント。わたしの興味連鎖は、ビートルズ→佐野クン→アイツ→息子(+いまジェリー)ですわね。ただし誤解なきよう、息子は母性愛の対象ですからね。さまざまな心情を教えてもらいました、息子から。そしてたくさんの想い出も、ありがとう。元気でいてくれれば、それでいい、わたしのダウンタウン・ボーイ!
2006.04.19
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温泉病院入院中の記憶。 (入院先は塩原温泉病院、期間は平成7年10月から8ヶ月間) 「リウマチックな掲示板」にてご質問いただいた内容をもとに記します。・温泉病院ってどんなんなの? 主にリハビリしながら回復を目指したい人(意欲のある人)のための病院。とわたしは理解しています。療養型病床がたくさんあって、リハビリメニューの1つに温浴療法がある(もちろんOT・PT・ST必要ならば受けられます)。リウマチの方が多く入院しているため話しやすい点もありますが、たいていは60歳以上くらいの方でした。わたしは30代半ばの入院…最年少でした。母親くらいの年齢の方と、仲良くしていただいてました。リウマチ以外では、脳疾患で麻痺の遺った方もたくさんいました。塩原病院は、自治医大で人工関節置換を終えリハビリが必要なのでこちらに入院、という方もいます。・普通の病院とはやっぱり違うのん? 起床・就寝など規則は変わらないのですが、雰囲気はだいぶ違うと思います。のんびりムードです。大学病院のような緊張感はなかったです。 わたしが塩原病院へ入院する際、一番気がかりだったのは、介助でした。一人でできないことが多く、はたして着替えやトイレ介助などがどうであるのか。でもちょうど入院した年度から、介護士が勤務する体制が始まっていて、介助はばっちりでした(ある本を読んでたら、自分のことができなくては入院させてもらえない、または家政婦が必要と載っていたのですが、それは旧体制の情報でした)。 温泉病院へ入院中に、どこか容態が変化したときは、専門病院のほうへ転院しなければなりません。わたしは婦人科の疾患が出て、半月くらい西那須野(塩原から近い)の婦人科に入院、治療が済んでからまた塩原へ戻りました。・温泉とか温水リハビリとかできるのん? 温浴療法は、腰~胸くらいまでつかる温泉プールに水着で入り、歩いたり身体をひねったりなどの自主運動をしました。水の浮力で膝や足首にかかる負担がへるため、痛み少なく歩行訓練ができます。当時の塩原病院は、お湯の温度が高くて、わたしは5分くらいしか入ってられないことも度々でした。なぜそんなに高い湯温かというと、高齢者(大多数)が希望するから、みたいでした。ぬるいと文句がでるのです。のぼせやすいわたしは、これじゃリハビリにならない。高齢な方たちは、リハビリの意味を知らないのか?「湯治」にきてる感覚みたいで、なんだかなぁ…という感じ。本来、病院側でちゃんと説明をするべきでしょうに、それはしていないようでした。リハビリに適する湯温の管理を、きちんとしてほしいものです。 塩原病院は週に5日(月~金)温浴できます。温泉は、身体を温めてくれるのでリウマチに良いのですが、「湯づかれ・湯あたり」という症状が出ると、身体はぐったりしてしまいます。お湯につかったあとは必ずベッドに横になって、身体を休めないといけません。わたしは最初、それができず、ぐったりが続くようになり、CRPが高くなりました。それで体調を見ながら、身体ごとお湯につかるのではなく「足湯」をしてもらったりしました。 わたしは立ち上がれない状態でしたので、プールにはリフトで入れてもらってました。歩ける人は、階段で入れます。また、プールとは別に、銭湯みたいな浅い湯船もあった。こちらは自由にいつでも使えたようです。・一般の湯治とは違う感じ? 一般の湯治では、健康保険がつかえませんが、温泉病院は保険がききます。これが良いのか悪いのかわからないけど、入院したら自由はかなり限定されますね。ならば、湯治で気ままに過ごすほうが、リラックス効果が期待できるかもしれません。まだ歩けたころに泊まった宿のお風呂へいってみたら、足場が不安定でコワイし、湯船に入っちゃったら出られそうになかった(段差のせい)ので入らずにかえってきてしまいました(苦笑)。こういうことを考えたら、温泉病院のほうが安全といえますが。 わたしほどに障害があると、湯治はぜったいできません。湯治宿はたいていバリアフリーじゃありませんから。日本はお湯の文化ですけど、いざ身体に障害がある人・車いすの人の入れるお風呂(温泉宿)というものは、稀少です。●湯治をくり返してるリウマチの人の話 そのかたはご高齢なのですが、1月ほどを年に3回くらい、湯治場での自炊療養をくりかえしていらっしゃいました。湯治してる間は、リウマチ痛がだいぶ和らぐそうです。でも、自宅に戻ってくると、残念ながらまた痛み出すとのことでした。●玉川温泉へ湯治に行ったひとの体験談 塩原病院で仲良くしてた方(当時60歳・リウマチと糖尿病あり)が、秋田県の有名な玉川温泉へ湯治で1カ月滞在したときのこと。 玉川温泉は、ガンが治った、難病・リウマチが治ったとかの、実証例がたくさんある温泉場だそうです。治りたい一心で、その方は元旦に電話予約(1年先まですぐに埋まるそうで)、秋頃にお出かけになりました。玉川温泉には、湯治のための宿泊施設があり、入浴だけでなく、岩盤浴がなお効き目が高いとのこと。岩盤までは足場が悪く、岩がごろつくような山場を歩いて行って、岩盤上にシートを敷いて寝そべって過ごすのが基本、あったかくて気持ちがよいそうです。お風呂は足を入れたとたんピリッとくるような感じで、半月もしたら、足(内脛)が真っ赤にただれだし、湯につけるのも苦痛で、針で突き刺されてる痛み。これは悪いものが身体から出てきてるので良い徴候といわれたけど、耐えきれない痛みだったそう。ベッドから起きあがれないほどになってしまったので、ついにあきらめて帰宅。おみやげにと、温泉水をペットボトルにいれて、わたしにくださいました。 これは誰でもこうなるのではなく、人によって反応はさまざまと思います。でもとにかく、高いエネルギーを発してる場所は、効果も高いぶん、こちらのエネルギーもかなり消耗するのかなと、わたくし勝手に想像してしまいました。体力が衰えてるときは考えもの。1カ月で引き揚げてきたのは正解でしょうね。塩原の熱い湯でのぼせちゃうわたくしには、玉川温泉って、なんか、命がけっぽいな。命かけて治りたい!ってくらいの意気込み、大切かも知れないけど……。
2006.04.18
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服飾専門学校へ通ってたころ、文化出版局の「装苑」を副読本として毎月購読していた。あのころはまだ、既製服よりもオーダーに需要があったから、わたしは友人たちの服を縫ってあげて、ささやかながらお小遣い稼ぎをしていた。もちろん製図から仮縫い・縫製まで全部やらなければならないが、腕を磨くべき学生にとってはとても合理的なアルバイトだった。何年前の夏だったろうか、友だちが遊びにきてくれたとき、着ていたワンピースに見おぼえが…その昔、わたしが縫った服だった。まだこうして身にまとってくれてるんだと思うとうれしくて、ぐっときてしまった。(彼女はいま病気と闘っているが、きっと快復すると信じている。) わたしが、もっと絵を上手にさらさらと描けたとしたら、きっとデザイナーを目指したと思う。けど、見本となる絵を模写することはできても、頭ん中にあるイメージを描き表すのはすごく苦手だった。それでパタンナーとして会社に入った。その仕事はたのしかったのに、いまや職場を思い出すことはめっきり少なくなった。あのころのように社会の荒波にはもうなじめそうにないからかも知れない。家で自由気ままに暮らす楽さを覚えてしまったから。 もしこの不自由さがなく、この時間を悠長に使えるとしたら、文化出版局の本たちは必須アイテムになったとおもう。手づくりの暮らしを愉しめたらサイコーだね。でもそれはもう絵空事でいい、ときたま本を手に取ってページをめくりながら、空想してるだけでシアワセフレンチテイストのビーズ刺繍
2006.04.16
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私流イメージ療法について。 このブログに「イメージの力」という記事を載せてから、はや10カ月が過ぎ去った。あのあと、母が倒れてあたふたし、加えて自分はオペでドタバタとなり、気を入れてイメージ云々どころじゃなかった。けれども感染して困惑したときには、いまこそがイメージを描くとき!と気づき、「白色ブドウ球菌・撲滅!」をさっそく実行に移した(このことは「右膝感染症」の中に書いている)。 「菌をやっつける」という具体的イメージを描くことは、自己免疫疾患をやっつけるイメージよりも、ずうっとたやすかった。悪い外敵を打ちのめすのだから、「ためらい」を感じる必要はみじんもなく、イメージを妨げる要因は何もない。時代劇のように刀で「めった斬り」してもいいし、機関銃を立て続けにブッ放す(カゲキだ!)のでもいい(わたしは後者を用いた)。抗生剤「バンコマイシン」を強力な助っ人につけているということも、もちろんイメージに加えた。そして、イメージが有効だったから菌が消えたと、いま胸を張って言いたいところではあるが、こればかりは「断言」できるものではない。現代医学とイメージ療法が“相乗効果となって”菌は衰退したというのが真実だろう。イメージ療法は、単独で結果が出るものではないと思うし、そんなもんで治るわきゃないよ、とドライなご意見の方もいらっしゃるのではなかろうか。 ところで、問題の自己免疫疾患のためのイメージであるが、わたしの中で反乱を起こしている細胞も、自己なのだから、これを「徹底的に攻撃」するイメージは描けっこないというか、描いてはいけないとわたしは思っている。それに、彼らが反乱を起こしたには、それなりの理由があるのだ。反乱を起こした細胞1つ1つを攻撃するのではなく「説得する」イメージならば、わたしは描くことができる。しかしながら、これは相当に時間を要することでもあるので、まだ結果は現れていない。 イメージを描くにあたり、まずは、反乱を起こしたその理由がどんなことであるのかがポイントと思った。わたしは、この原因に確かな心当たりがある。これは異常事態だと深層心理は察知しているのに、安全地帯に退避しなかったわたし。その結果、免疫細胞が反乱を起こしてしまったのが Myリウマチであると思っている。たとえるなら、司令塔が横暴になれば組織の秩序は乱れるしかないのと同じか。一度こうなってしまったものを鎮められるとしたら「本当の生き方」へ戻らなくては!という思い(あせり)がいつも心にあった。でも一朝一夕に軌道修正できるものではなかった。 じゃ「本当の生き方」って、どんな? と訊かれたならば、わたしのそれは「夢を描けること」と答える。子供のころから、大きくなったらコレをする…という具体的なユメをわたしは持っていて、現実化への道のりを楽しみ喜べたうちは、リウマチも姿を現さなかった。ところが発病寸前のころは「もう明日なんか来なくてもいい」と思うくらい疲れ果て、ユメを描くどころかドロ沼の心境だったのだ。発病後も、身体は毎日痛むし不自由はつのるしで、リウマチになったことを憾む気持ちと「こんな状態に明日はない」みたいなすんごいマイナスイメージがあった。と同時に、マイナスとはいえイメージをこれほど描けるのなら、ともすればプラスイメージも描けなくはないだろう、という達観もあったのだが。 本来の自分に還るためには、時間はかかるにちがいない、でもあきらめたらお終い。そう自分に言い聞かせながら、いつも暮らしていた。そして、アンテナをたててきた。「待つだけ」というスタンスのまま、ひたすら長く苦しい道(The long and winding road!)が続いたが、ついに「とき」はやってきたのだ。勘の良いアナタならもうおわかりのことだろう。わたしのアンテナはファントムという強い磁界に触れたのだから(笑)。おかげで毎日たのしくてたまらない。何するにつけうれしい。こんな日がくるとは!なんてシアワセというくらいに。こんなすばらしい出逢いを与えてくれた神さまに感謝している。そしてこれを無にすることなく生涯、心に抱き続けるとしよう! なんたって Point of No Return なのだから。 …なぜファントムか? それはまたの機会に書くことにしマス(ま、「右膝感染症」に書いたようなことと想ってくだされ) 追伸:「オチ」は、こんなもんでよろしい?
2006.04.15
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「日記、このごろ書いてないね」って、先生ツッコミありがとうございます。そういえば、これが5日ぶりですね。日が経つのはまことに早ぅございますこと。 今週は、ちょっと忙しかったのです。といっても、わたくしの「忙しさ」などはたかが知れておりますが。水曜日、入院してる友人のところへ面会に行ってきました。彼女のことは日曜に知ったのですが、いざ顔を見ないうちは、気が気じゃなく、いわば「気持ちが忙しかった」というべきでしょうか。人工呼吸器をつけていました。いつから病気に冒され始めたのかはわからないけれど、もっとはやく気づいてあげられたらと、くやしい限り。でも彼女はにっこりとほほえみをみせてくれ、筆談ができましたので、少しホッとしました。家に帰ってから、コーヒーを飲むにつけても、おやつを食べご飯を食べるにつけても、彼女のことが脳裏に浮かびます。早く良くなって、人工呼吸器を外せるようになって、味わう愉しみをもういちど取り戻せますようにと、心から祈るばかりです。 わたしはファントムばっかり書いてきましたが、そうですよね、クリスティーヌの美しさには同性であるわたしでさえも魅せられましたよ。あの若さ(17歳)であの歌唱力、純粋無垢なる美貌、まさに芸術ですわ。この映画はラブストーリーに終わるばかりでなく、テーマも奧深いものがあるとわたしも感じています。そんなお話をしながらリハ室を歩いていたので、2周がアッという間に終わってしまいました、ははは。
2006.04.14
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わたしが車いすで暮らすようになって10年が過ぎようとしている。平成7年に腹部の激痛で緊急入院したとき、消炎鎮痛剤をストップ(鎮痛剤は消化器を荒らすおそれが大きい)された。その後、2か月くらいベッドで安静にしていたために、膝の屈曲が強まり(30度くらいだったものが60度くらいに変形)筋力も落ちてしまったので歩行は不可能となった。大学病院には3か月しか置いてもらえないので、塩原温泉病院へリハビリ入院をした。ここでリハビリをすればまた歩けるようになるだろうと軽く考えていたところ、リハビリするどころじゃないくらいに痛みが強くなってしまった(たぶん、温泉療法はわたしに不向きだったのだろう)。じつは、車いす生活になったことは、わたしにはショックどころか、内心ほくそ笑んでたくらいだった。なぜかといえば、あの一歩一歩の激痛を車いすなら感じなくて済むのだから。 病院では車いすを貸してもらっていたけれど、退院するには自分用のものが必要となり、当時わたしは新宿区民だったので郵便で身障手帳の見直し(3級→1級)を申請し認可されて、自分専用車いすを作ってもらった。 作製のポイントは、(1)家の中でも小回りがきくようコンパクト(幅も全長も)(2)手が使えないので足でこぐから足台は着脱可能に(3)リング付きの車輪は不要なので小型のタイヤ(4)アームレストは横移動(トイレやベッドへの移乗)にじゃまだから無し。この車いすには、たいへん満足できた。10年経ったいまでもガタはきていないし「通院用」として現役である。 さて、いま家の中ではどうかというと、こちら↓の電動車いす(ヤマハのタウニィジョイ)を介護保険でレンタル中だ。上記のポイントを満たす電動車いすはレンタル商品一覧の中には載ってなかったので、自分でネット検索し、ケアマネに「コレを借りたいの」と申し出た。ケアマネは熱心な人で、ありがたいことにタウニィジョイを揃えている業者さんを見つけてくれた。 使い始め(昨年秋)は座面がやや高めで少々不便を感じたけれども、退院後は業者さんが不便な部分(パソコン・テーブルが低い)をテーブルに下駄を履かせてくれたので、解消した。これまた快適! ちなみにレンタル料は¥2,300/月。難点を言えば、充電を満タンにしても26~7時間が限界、という点かな。わたしは毎日定時に充電している(所要時間は1時間強)。フットレストは外しっぱなし、左のアームレストも外してある。つまり横移動はもっぱら左側。 タウニィジョイのHPはhttp://www.yamaha-motor.co.jp/product/wheelchair/complete/townyjoy/index.html
2006.04.09
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私的な記憶(無精ゆえ正確なデータは保存しておらず、非常にアバウトな内容ですみません)。 発病当初がどのくらいの値かはわからないけど、症状を思えば相当高数値(10.0以上とか)だったろう。こんなに高いともう起きていることはできず、寝ててもどうにもならないくらい苦痛だ。眠ってしまえばいくぶん痛みは遠のくが、熟睡はできない。家事などもってのほか。ちょっとしたことも出来ないほどに(トイレに行くのがせいぜい)気力も落ちているし、食欲もない。食べるより寝ている方を選んでしまう。そんなこんなで体重は10キロも一気に減った。 シオゾール+インダシン時代は、たぶん2.0前後。数値としてはマシなほうだけど、午前中は体が動かしにくく、午後の数時間のみ有効に使えるという感じ。当時はパートで出勤していた、でも帰宅してから家事が待っているので、いま思えばハードな暮らしぶりだったかも。このころは病気の体であるという認識が薄く、痛みが軽くなったことのうれしさあまって、あれこれと動いて(動けて)しまう時期だった。変形はまだ始まっていなかった。 シオゾールの次の抗リウマチ薬が見つからず、ついにプレドニンを開始したころは、始め0.25ミリから使い出し最終的には7.5ミリでCRPが3.0くらいに下がった。シオゾールが効かなくなったとたん変形が始まっていて、もう出勤はムリなので家に仕事を送ってもらった。プレドニン+インダシンで痛みはある程度押さえられても、動作はかなり難儀だった。しばらく(発病以来)、朝食は夫が出勤前に置いていった「バナナヨーグルト」をやっと(空腹に薬は飲めないから食べた)くらいだったのが、プレドニンが増えたらやけに食欲が出てきた。顔はムーンフェイスが顕著となり、このころから写真に写ることに大きな抵抗を感じるようになった。 リマチルも効果なく、変形はどんどん進むし、精神的にもかなりのダメージがあって苦しかったときに、メソトレキセート(現・リウマトレックス)を開始した。2か月経過すると痛みが引いてくるのがわかった。メソ+プレドニンで、CRPはたぶん1.0を切ったかもしれない。メソが効いていたのは約2年半で、この時期は行動的になれた。効き目がなくなったのは冬だったが、つぎの梅雨のCRPは7.9あった。大きく息を吸い込むと、関節を動かしてもいないのに全部がメリメリと痛んだ。火を熾したとき、風が吹けば、まさによく燃えるといった感じに。家事も入浴も困難となり、その秋には、意を決して実家へ戻った。実家なら面倒を見てもらえるので身体は楽だが、精神的にかなりまいっていたので、CRPも悪かった。ここから数年、抗リウマチ薬の不毛が続き、たとえるなら荒野をさまよっているようだった。メソは継続させられたが、プレドニンは10ミリ飲まなくっちゃつらい。CRPは平均して4.0~5.0あたりをうろついていたと思う。そのため、変形はとどまることなく悪化した。 人工関節置換をしたとき、オペ後のCRPは驚くほど低く0.3~0.8程度。その後も3か月くらいは1.0前後だった。これは、手術用にプレドニンを大量点滴しているからではないかと思う。内科の医師が「手術はパルスに似た効果がある」というようなことをおっしゃっていたから。パルス療法ほど量はないけれども、普段のプレドニン(当時10ミリ)よりはずっと多いはずだ。手術のたび、3か月くらい痛みが少ない日が続いた。 現在は、アラバ+プレドニン7.5ミリで落ち着いている。CRPは時によって高めになるけれども、せいぜい1.8で、平均したら1.2くらいかと。このくらいの状態でいられるなら、日常生活にひどく困ることはない。
2006.04.08
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きのうの通院、リウマチ科・整形外科・リハ。正午に家を出て、帰宅したのは夕方6時半。3科でこの所要時間なら、まぁ良い具合に進んだ方かな。お天気は雨がたくさん降ってて、せっかく桜が満開だっていうのにハッキリ見えないのが残念…といっても、わたくしの目には桜が入っていても頭ん中には別のイメージがあぐらをかいてるから…そう、花よりバトラー(ああ、もうホンマに Point of No Return…どないしよ) 急きょ正気を取り戻し、主要な検査結果を記そう。(内は基準値) CRP 0.82(<0.06) 白血球数 7.2 (3.5~9.1) 赤血球数 443 (376~500) ヘモグロビン 11.6(11.3~15.2) リンパ球 11.1%(19.9~46.01%) 尿潜血反応 2+ (-) ここに書き出したものは、いつもわたしが注意を払っている項目だ。ほかに肝機能や腎機能も気にしているが、異常は見られないので省いた。CRP(炎症反応)がこれくらいなら「まぁまぁかな?」と先生。毎度ながらリンパ球は少ない、がこれは免疫抑制剤を飲んでいるのだから致し方ない。このところわたしは、尿潜血がとても気になっていた。入院中3+なんてのもあったから、ひょっとして膀胱になにか異常アリ?なぁんてふと憂いたりもして。で、先生に「尿潜血はどうなんでしょうか?」と訊いてみると「あ、リウマチの人はこのくらいよくあるんですよ」の一言、心配して損した。そして、最後に「下痢止めもください」と申し出た。入院以来、整形から出してもらってたものだが、今回からは内科で出してもらうのがよかろうと考えたためだ。そうしたら簑田先生「下痢が続くとアミロイドージスという怖い合併症が潜んでるかもしれないんだ」とおしゃる。わたしは「軟便でトイレに何度も行くのがイヤで毎日ロペミン愛用してました」と言った。すると先生「軟便なら飲まなくたっていいじゃない」と。次の外来までなるべく回数を減らして状態を観察しなさいと言いながら8週間分処方くださったが、外出の時だけ使うようにと念を押された。わたしはアラバを飲み出してからずっと(かれこれ2年)軟便な毎日で、外出が本当に本ッ当におっくうになっていたのだ。だがロペミンさえあれば気強いというもの。今後も外出時はこのクスリに助けられたいと思っている(とりあえず56個ゲットした、バンザイ)
2006.04.06
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ジェリーの壁紙。即席で作ったにしては、我ながら満足なできばえ。そうそう、先に言っておかないとね、壁紙はこのブログ用じゃなく、「リウマチックな伝言板」のほうです。よろしかったら、飛んでってみてください(注・ジェリー壁紙は4月8日にお蔵にしまっちゃいました)。はじめは、ブログ用を作ろうと思ったんだけど、やってみたら壁紙設定に制限があってうまくできず、不完全燃焼状態となり。それで伝言板のほうに矛先が向いたのでありまして。ジェリーに似合う、クールでカッコいい壁紙の、つ・も・り(笑)。でも、ゲストさまの画面サイズによっては、レイアウトからズレるおそれありです、お許しくだされ。壁紙自作しちゃうほど…わたしのバトラー熱も、ついにここまできたか!って感じデスかね、うははは~。 トップページにフォトアルバムも加えました。でも、もう少しゆっくりスライドしたらいいのにね、めまぐるしいよ。うーん、今宵のジェリーもかっこええ
2006.04.04
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きのう、ヤフー動画で古い洋画を観た。この映画を初めて観たのは、花も恥じらう17歳のころ。ヴィヴィアン・リーの完璧なまでの美しさに酔いしれ、悲しい結末に涙した。戦時中、貧しい身の上となってしまい、体を売って生計を立てるしかなかったマイラ。本当だったら、純粋で清らかなままクローニン夫人になるはずだったのに…。運命とはいたずらなものよのぉ。でも、わたしは信じる、クローニン大佐は、生涯マイラを心に抱いて生きたはずだと。一生に一度の真実の愛だったのだからっ! ね、なのにね、映画見終わったときにメールが来たのであります、例の迷惑メールが。今度は女ッコからのダイレクトメール。「はじめはお食事から」なんぞ書いてある。アホ女! おまえにはマイラの純粋さは理解できないだろう、え? なげかわしい世の中になったもんだ、と、わたしは腹立ち紛れに説教メールを出したろかと思ったけども、無駄なエネルギーを消費するのはもったいないから、鼻息あらくも夕ご飯を食べて気を整えた、のでありました。 髪の長いジェリーをお気に入りくだすった方がいらっしゃるので、きょうはこの画像にいたしました。でも、ちょっと伸びすぎかしら……お許しあそばせ、なんたって古代スカンジナビアのヒーローですので
2006.04.03
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