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そもそも今回の旅に出発する前から、その予兆はあった。出発の前日、仕事を終えて帰宅する途中、柏レイソルのホームの前の交差点で信号待ちのために自転車のブレーキをかけたところ、バキッッ!!て音がして、ブレーキが壊れた。うっそおお!ブレーキって、人力で壊れるもんなの!?おいおいジジイ、どんだけ~って思ったアナタ!!自慢じゃないけど、私は子供の頃から握力ないのだよ。だから、私の怪力で壊したってワケじゃ・・・あ、でも指の力はあるな。抜けなくなった指輪を外すのも得意だし、山登りをしてた頃は、すでにいっぱいのザックに器用に物を詰めていく私を眺めて「魔法の指だ」と相棒がいつも感心してた。いやいや、指の力なんてたかが知れてるし、大体今まで一度もブレーキ壊した事なんてないんだからね。パカパカになった右のブレーキを握りながら、「不吉な・・・」と思いながらゆっくり安全運転で帰宅したさ。前回の記事で書きもらしたけど、初日は福山城域にある小さな神社へ行った。境内へ入ったら、大きなのぼりが立っててテントが張られ、人がいっぱい・・・うおおお~ッ、なんじゃこりゃ!!皆様は「それのどこが不運なんだ?」って思うでしょうけど、私は機嫌が悪くなった(理由は「大内氏館(1)」をご参照ください)。あ~、ツイてない・・・3日目。この日は、かなりな萌えスポットをご訪問。城は大変に満足して、となりの山にある資料館へ行った。内部を見た後で、史跡地図をわけてもらえるという話だったので、事務所に声をかけた。他に、興味深い本のチラシが置いてあったので、ここで売ってないか聞いてみたら置いてないとのこと。発掘調査の報告書がないか聞いてみたら、かなり古いものなので今はもう販売してないとのこと。けど、資料館蔵のを見て、欲しいページがあればコピーしてくれるとの事だったので、借りて読んでいた。その時点で、親切なおじさんは3冊ばかり貸してくれたんだけど、読んでる間も自主的に「福山市史」から資料をコピーしてくれたり、別の本とかも追加して沢山持ってきてくれた。マイナーな情報はやはり地元に限るので、全ての本にざっと目を通し、欲しいページがあまりに大量になったため、おじさんにコピーを取らせるのはしのびなく、自分でコピーを取った。事務所には他の人はいなかったので、2人で色々な話をしながらコピーを取りまくり・・・一般的なコピーの単価である1枚10円くらいは払うつもりで遠慮なく選んでコピーしたのに、おじさんは実費代ですら受け取ってくれなかった。ざっと数えたところ、106枚だよ・・・フツー、コピーしていいよって言われて100枚コピーする人間なんておらんじゃろ。でも、お金は受け取ってもらえなかった。このおじさんはホントに親切だった(いや、金が絡むからじゃなくて)。んで、10:30くらいに資料館に入ったハズなのに、出たのは14:00・・・うひゃああ、どんだけいたんだ、私!!これは別に不運じゃない。時計を全然見てなかった私が悪い。しかし、予定ではこの頃には目的の3つの城は見終えてるはずだった。とりあえず、2つめの城は絶対に外せないので、急いで歩く。時間短縮のためにタクシーを呼ぼうかと思ったけど、迎えに来るまでに時間がかかったら、大してメリットはない。ので、結局歩くことにしたんだけど、段々爪が痛くなってきた。ツイッターのフォロワーさんの中にはご存知の方もおられるでしょうが、今、両足の親指の爪がはがれかけててね。新しい爪に押し出される形で、ちょうど真ん中へんまで古い爪が上がってきてるんだけど、その爪が痛い。今回は山城ばかりで爪にも負担がかかるので、途中ではがれないようにと接着剤がわりにマニキュアを厚塗りしてきた。だから、大丈夫だとは思うんだけど・・・でも、痛い。ああ、大丈夫かなあ・・・去年の一件(「つめのはなし」をご覧ください)以来、爪がウィークポイントになってしまった私としては、一体靴の中で何が起こっているのか確認するのがコワイ。この先の事もあるし、今爪がはがれてまた化膿しちゃったりすると困るんだけど爪に負担がかからないように歩きながら、目的の城へ到着。3つめの城は、2つめの城のすぐ隣の山にある。ちゃっちゃと2つめを済ませれば、3つめに行けなくもないけど、2つめも楽しみにしてた城だったし、数をこなす為にさらっと見るようなそーゆー歩き方はしたくない。日の短い時期なので、無理して何かあっても困るしな。足も痛いし。て事で、2つめの山に登る前に3つめは断念して、その分2つめの萌えスポットをゆったり満喫した。・・・結局、福山に戻った頃にはもう日が暮れてて、今日に持ち越した備後国人衆ゆかりの寺と史跡は諦めざるをえなかった。4日目は帰宅ラッシュに巻き込まれるのがイヤで大抵は帰るだけにしてるので、今回の行動はこれでおしまい。あれ、待てよ・・・国人衆の城や寺を回るから「戦国備陽編」てタイトルを考えてて、国人衆のことも時間がない中で一生懸命勉強したのに、結局ほぼ1つの国人に関するところしか回ってないぞしかも、その国人は私の中ではあまりお目当てじゃなかった。わかってない事も多いみたいだし。ダメじゃん!「戦国備陽編」になってないじゃん!!・・・本編の公開はまだ先のことですが、たぶんノーマルに「福山編」に変更すると思います土産を買って、宿に戻る。まだドキドキの瞬間が待っている。血だらけになってたりしたらどおしよう・・・と靴下を脱いで足を見てみたら、なんともなかった。ああ、よかったあ~!!という訳で、今日現在もまだ古い爪は新しい爪に貼りついてます。岡山の撫川城でぽろりと爪が取れたように、今度も何とか穏便に終息してくれますように・・・にほんブログ村
2012年11月29日

今回の旅は備後・福山でした。行き先については本編の公開まで内緒にしようかと思ってたけど、ちょっと後回しになるかもしれないので教えちゃいます。前回の記事で、今回の旅は最初からトラブル続きだったことは書いたけど、少し間が開くかもしれないので、先発して今回起こったあれこれをご紹介しましょう。ここで書いておくと、少しは本編の方もすっきりスマートになるかもしれないし(笑)。うっかりモンなので、私の一人旅にアクシデントはつきものですが、こんなにあれこれ起こる事はないからさ~。他人の不幸は蜜の味、とも言いますが、ケガしたり何かと失敗も多いので、私の失敗談をひそかに楽しみにしておられる方も若干名いるしでは、他人の不幸をお楽しみくださいまず、初日。普段ヒコーキの時は時間にかなり余裕を持たせておくんだけど、今回は予約が取りにくくて、朝イチで出て順調にいけばまあ乗れるだろうという位の時間のヒコーキにした。お陰様で、途中電車の遅延などもなく、ちゃんとヒコーキには乗れました。ところが、出発時刻を過ぎても後から後からのんきな乗客が乗り込んできて、なかなか出発しない。それも、後から来たのって1人や2人じゃないんだから。広島便の客層って、あんまり良くないのカモ・・・あ、広島人が時間にルーズとかって言ってるんじゃないですよ。で、定刻を過ぎてヒコーキは飛び立った。広島空港から福山までは、直通のリムジンバスに乗る。通常、機内を出てから急いでトイレに行って出てくると、預けておいた手荷物がやって来るタイミング。福山までは1時間かかるので、トイレには行っておかなければならない。それでもいつもちゃんとバスには間に合うし。で、今回も便所から出てきて手荷物受け取りの所へ行ってみたけど、なかなか私のコロコロが出てこない。やっと出てきたので、番号を照合してバスの切符売り場へ向かう時、「福山行き、○分発車で~す」っておじさんが拡声器でお知らせしてるのが聞こえた。え~、もう?早く切符を買わなくちゃ・・・って切符を買ってたら、バスが出ちゃった。うっそお!!拡声器を使ってるのは、バスの運ちゃんじゃなくて案内専用の人。広島空港には「バスの切符を買え」って紙が貼ってあるから真面目に切符を買ったのに!目の前でバスの切符を買ってる人間がおるのに、なんでバスを出すか!!広島空港からはいくつかのバスが出てるけど、ヒコーキの到着に合わせてのダイヤだから、どのバスも大体同じような時間に出発する。どのバスに乗るにしてもギリギリの時間な訳だから、ちったあ配慮してくれてもいいんじゃないの?バスに乗る人間を取りこぼさないようにするのがアンタの仕事じゃないのか大体、定刻に着いてないのにバスが定刻に出るってどーゆーことよ・・・そもそも、ヒコーキが遅れたのは私のせいじゃないし。信じられない出来事にあぜんとしたけど、しかし私にも非はある。いつもはちゃんとPCでバスの時間を確認しておくんだけど、今回は調べ忘れてたことを前日の寝る前に思い出して、ケータイから調べたのだ。ケータイからだとすごく見にくい時刻表で、なんかぼんぼんバスが出てるように見えちゃったんだよね~。よく考えれば、そんなことあるハズないんだけどさ。だから、タカをくくってたのがまず1点。2点目は、おじさんがアナウンスした時にとっつかまえて「乗りますから、バス待たせといて!!」って言えばよかったのだ。今度はそうする。怒りながらバス停に行って次の時間を調べたけど、1時間くらい来ない。うおっ、こんなとこで1時間のロス・・・ありえね~白市までタクシーで出て、電車に乗るか・・・でも電車も本数少ないだろうしな~。切符売り場に戻って路線図を見ながら代替ルートを考えたけど、どれもあまりメリットがない。路線図を眺めて考えてたら、拡声器のおじさんが「どちらまで?」って声をかけてきた。「もう出ちゃってるからいいです」(←真顔)そのお声がけを、もうちょっと早く欲しかったわ・・・しかし、怒っててもしょうがない。1時間で次のが来るなら、まだいい方か・・・福山に着いてから、どっかのお店で食事でもすれば同じくらいの時間を使うしな。どうせだから、ここでお昼を済ませていこう。で、コンビニで食糧を買って空港内のベンチでお昼にした。トイレに行ったり、空港内のパンフレットを物色して歩いてた時、「バスの切符は必ず買え」って紙が目に入った。そうでしょ~。だから買ったのにさ~。いやでも、広島行きくらいならICOCAが使えるんじゃないのかな~。時間をつぶしてるうち、ヒコーキの出発便のアナウンスが入った。「当機では、すべてのお客様が乗るまで出発いたしません」・・・ヒコーキが取りこぼさないようにしてるのに、バスが客を置いてくってどーゆーことよ・・・(←しつこい)しかしまあ、こんな事は初めてだったけど、いい教訓になりましたよ。広島空港のバスは要注意!拡声器のおじさんは、こき使うべし!!皆様も、空港からのバスのご利用は注意してくださいね(笑)。2日目。この日は山城攻めのオンパレードで、早く宿を出てタクシーで現地へ向かった。・・・が、タクシーのおじさんも道がわからなくて、私の地図を見ながら進んでくれたんだけど、目的地付近で迷って、到着がかなり遅れた。ある程度の広域の地図も用意しておいたんだけど、県道をずっと南下すればいいんだと思ってたんだよね。しかし、その県道があり得ないくらい細い道だったので、道が見つからなかったのだ。でもタクシーのおじさんはすごくいい人で、私のために車を降りて道を聞きに行ったりしてくれた。迷い始めたあたりからはもうメーターを止めてたので、再び走り出した時に「もうメーター戻してください・・・」って言ったんだけど、おじさんは「いいのいいの」って言いながら、最後までメーターを再開させなかった。かなりあちこち走ってくれたので、多めに料金は払ってきたけどね。で、ようやく歩き出したものの、ひとつめの城、失敗。まあこれは想定内だった。で、みっつめの城・・・ここが大変だった。結論から言うと、最後まで辿り着けなかったんだけど、その後がちょっと・・・これについては、本編の方で書きます。よっつめは良かったんだけど、ここまででかなり時間を使ってたし、足も疲れてきたので、楽しみにしてたいつつめの城を断念した。ここは私の中でかなり重要な城だったんだけどな・・・順調にいってれば、多少は時間が余るだろうと踏んでたので、福山に戻って備後国人衆に関連のある寺や史跡を2、3回るつもりだったけど、福山に戻った時にはもう暗くて、翌日に持ち越すことにした。疲れて部屋に戻って、音楽をかける・・・私はホントにTVを見ないので、旅の時にはポータブルのオーディオプレイヤーとスピーカーを持参して、ニュースの時以外は好きな音楽をかけてマイルーム化してる。ところが、途中で音が出なくなったので見てみたら、「修理に出してください」って英語で書いてある。うっそおお~!アンタがダメだと、私が困るんだけど!!うう、福山、呪われてるう・・・って言いたくなったけど、翌日には大古戦場を控えてるので、ここで弱気になってはヤバい。まあね~、かなり以前に買ったものだし、一度修理に出してるので、今回カバンに詰める時、「これ、いつまでもつかな~」ってちょっと頭をよぎったんだよね。あ~あ・・・仕方ない、もう新しいのを買おう。寿命だったんだ。とマイナーな考えに陥らないように努めて、以後の滞在中はTVをつけっ放しにしてた。にほんブログ村
2012年11月27日

まだ広島にいます。ミワラでは、広島弁は糸崎から帰るバスの中でくらいしか聞かなかったし、しかもダミ声の怒ってるセリフだったから、「うわ~、893みたいだ・・・キョワイ」って思った。今回は結構広島弁で話しかけられたんだな。相手はみんなジジババだけど(笑)。みんな私のことを若い娘さんだと勘違いしてるので沢山優しくしてもらったな~。そんな雰囲気の中でいっぱい広島弁を聞いてるうち、すごくほんわかした気分になって、「広島弁、いいなあ~」って思うようになった。相手がジジババ…ってか、ほとんどがジイちゃんだったので、やっぱイメージしたのは元就さんだよね。謀略のイメージが強い(まあ、実際そうなんだけど)元就さんだけど、人間的には可愛らしいところもあるし、しまいには広島弁で話すジイちゃんがみんな元就さんに見えた(笑)。慣れってコワい…でもホント、あったかい言葉だな~って思った。今回はのっけからトラブル続きで、ちょっと広島がイヤになりかけたんだけど、広島人(正確には備後人)の優しさと広島弁のあったかさに救われた旅になりました。明日は帰るけぇ、ちょっとさみしいけんど、また来るけぇ~。隆景ちゃんもホントに安芸弁使ってたんかな~。にほんブログ村
2012年11月25日

タイトルのプロローグ・・・これは、(たぶん)次回連載予定のプロローグです。いつも書き出しのプロローグは、チョ~個人的な経緯とかから始まりますが、最近記憶装置が壊れてきているので、私にとっては大事な作業です。過去のシリーズの最初を見ると、「あれっ、こんな経緯だったっけ!?」ってすっかり忘れてることが多くて(笑)。とゆー訳で、本格再開は来年と言いつつプロローグを書いてるのは、ただいま現地に来てるからなのです。ここは、備後某所。「また広島かよ~!」って思ったアナタ、そうです、また広島です。それが何か?私は会社の中にある歯医者さんに通ってるんだけど、先生は私の趣味を知ってて、旅の話なんかもするので、三原の話をした後で「今度はどこ?」って言われたから、「広島!!」って答えたら、「また広島?彼氏とかできたって訳じゃないよね!?」って言われたう~ん、カレじゃないけど、似たようなもんかも・・・ただし、すでにこの世にはいないカレですが。しかも、対象者は1人じゃないしホントは、この連休はおきゃやまに行くつもりだったんだ。備中松山城に行って、大松山と元親の秋冥菊を見たかった・・・「なんで備中で長宗我部元親?」って思ったアナタ!ざんね~ん、ハズレです。「またミムラ?あんたも好きね~」って思ったアナタ、ピンポーン、正解ですで、三村氏の拠点なんかも回るつもりだったのが、色々あって予定を大幅に変更したので、備中は来年以降にしました備後のいずこかは、後のお楽しみってことで・・・予定では、タイトルは「戦国備陽編」。元々の目的は、2大スポットを見たかったからなんだけど、三原編をなんとか書き終えてあわてて調べだした時に、結構山城が多いことを知りまして。折しも、山城シーズンの開始時期。これはやっぱり、こっちでしょ~って事で、当初の予定を大幅に塗り替えて、今回はかなり土くさいプランになりました。ただ、いつも直前まで予定は二転三転するので、結局今日は近世城郭へ(笑)。もう満喫したよお~( ̄∀ ̄)楽しかったよお~んじゃ、ケータイからはあまり文字数入らないので、今日はここまでね。にほんブログ村
2012年11月23日

「大津編」で三井寺入口にある馬神社の記事を書いた時から、私のよき理解者であり熱心なブログの読者でもある京都在住の友達は、このお祭りを楽しみにしていた。 彼女は馬をやる人なので、ブログでもツイートでも、馬の話題っていうと食い付きが違う(笑)。ウマっつっても、競馬じゃないウマだけどね。馬まつりは10/17と日付が固定されてるので、今年は水曜日だった。彼女は普通の勤め人じゃないけど、仕事が入っていた・・・が、わざわざこの日のために仕事までずらすとゆー熱の入れよう。 そしてお祭りの日が近づいてきたが、週間予報ではあいにくの雨。だって彼女、自他共に認める雨女なんだもん(笑)。去年、私が畿内に行った時は何日か付き合ってくれたけど、ワタシの日頃の行いが良かったので、幸い降られたのは1日だけ。それも、途中からやんだし。しかし、行いが良すぎるのも考えもので(笑)、素晴らしく晴れたがために2人とも苦しい思いをすることになったのは、「大津編」に書いた通りです…祭りが近づいて週間予報をチェックしながら、「あ~、やっぱりね~」って私がクールに思っていた一方で、当の本人は「雨だよ~」って前日あたりにメールをしてきた。(そんな事、わかってたじゃん…)て思いながらも、楽しみにしてたのは知ってたので、「んじゃあ~、輝々坊主にお願いしてみたら?」って言ってみた。輝々坊主はもちろん、てるてる坊主のことです。彼女は(なぜか)毛利輝元が好きなので、「てる」の音に「輝」の字をあててやると喜ぶのだ。しかしファンとは言いつつも、評判の悪い三代目だけでは霊験に不安があったのか、「又さん(←隆景)にも頼んでおくれでないかい」と言ってきたので、「なら、ちょっと老けたのをもう一体造れば?私も、法常寺(三原)で撮った隆景ちゃんの像にお願いしといてあげるから」とお返事した。「輝々」に俄然やる気が出たらしく、「合点合点合点!」って京都から荒い鼻息が聞こえてきそうな返事が返ってきた。その後しばらくして送られてきたのがこの写真。 なんか、てるのが老けてな~い~?しかも、てるてる坊主ったらフツー軒先とかに吊るすもんだけど、これをつるすと可哀想ってことで、律儀にも吊るさなかったんだそうな。さて、当日。今にも降りそうってメールが入ってきたけど、予報よりかは雨の降り出しが遅れたみたいだから、何とかもつかな・・・と思っていた。が、報告のメールによると土砂降り。ゆえに、お祭りのギャラリーは彼女一人だったんだと。まあねえ~、歴史あるお祭りだけど、三井寺に行く人でもぶっちゃけほとんどが寄らない神社だろうし、大々的なお祭りって訳でもないしね~。しかし、そんな天候の中でも見に来てくれた彼女に対し、神社サイドでは大層嬉しかったらしく、大歓迎してくれたとのこと。「行ってよかった。教えてくれて、ありがとう」って喜びのメールが入ってきて、天気はあいにくだったけど満足したようでよかった・・・と思っていた。んで、ブログでどんな報告をしてくれるのかと楽しみにしていたら、想像を大幅に覆す内容だった・・・(馬まつりの直接報告「Wingaのひとり言♪」はこちら)「真面目に実況せんかい!ゴルァ!!」・・・しかし、ふと我が身を振り返り、「やっぱ、私のトモダチだわ・・・」って似た者同士だったことに気がついたさて、なんで行ってもいない私が間接報告をしてるのかとゆーと、授与品があったからなのです。お祭りっていっても神事だったらしく、その後社務所の方でしばらく宮司さんとおしゃべりをしたんだそうな。まあ当然、「どうしてこのお祭りを知ったのですか?」って話になるので、私のことを話したそうで、私の分までお土産を持たせてくださったとのこと。そんで送られてきたのがこちら。まずは、お守り。 裏の刺繍がカッコいい霊験ありそう・・・それから、なぜか五穀米。こちらは早速いただきました。 もっとわからないのが、これ。 友達は、馬が甘いものが好きだからだよと言ってるけど、ホントにそのためのセレクトなのかは不明。とりあえず、これは山城に行く時に持って行こうかな・・・授与品じゃないけど、こちらは友達から。 カワイイっしょ中におみくじが入ってるの。こんなのあったなんて、知らなかったな~。・・・して、最後にコレ。 用済みの隆景ちゃまてっきりチリ紙で造ったのかと思ってたら、ちゃんと布製。とゆー訳で、今では千葉と京都にそれぞれ叔父と甥が別れて住んでおる訳です。うぬぅ、コレ、どうしよう・・・用もないのに1年中つるし首にしておく訳にもいかないし・・・で、今は私の信長様(のフィギュア)の横に寝かせてあります。400年の時を経て、織田と毛利が千葉で居並ぶ奇妙な光景(笑)。しかし、1人じゃちょっとな。今度は元春ちゃんも造ってもらおうかな。ああ、でもコレ、顔は書きこんであるけど後頭部は何もない・・・ちゃんと髷も描いてよね!って注文しておかないと・・・結局、間接報告までおちゃらけた内容になってしまったが、一緒に送られてきた神社の縁起を見ると、馬神社の隣の長等神社の境内にあるお稲荷様は、大津城の鎮守だったそうですよ。これについては、長等神社の記事に追記をしておきますね。そのうちにね。にほんブログ村
2012年11月18日

三原編、長かった~(笑)。城とあわせて、全76話。日程が長かったせいもあるけど、それにしてもね~ホントは10月なかば位までには三原編を終わらせて、もう1本アップしたかったんだけど、ちょっと長引いちゃった。通常だったら、ここですぐ次のシリーズに入るところだけど、都合によりしばらく本編をお休みいたします。元々、11月から年末にかけてはかなり厳しいスケジュールだったんだけど、ここに来てさらに複数の問題が同時に発生しまして、ブログを書いてる時間が取れそうにありませぬので単発では時々雑談などを書くかもしれませんが、本格的な再開は年明けになりそうです。先日、ブログ1周年を前に読んでくださる皆様への感謝の言葉を述べさせていただきましたが、どんなに地味なスポットの記事の多いシリーズでも一定数の方々が読んでくださっていることはアクセス数を見ていればわかるので、「みんな、偉いよな~」・・・もとい、「ありがたいよな~」っていつも感謝しています。去年の今頃も、事情により一時期ブログをお休みしていましたが、それ以外は自分でも感心するほど毎日ブログを書き続けてきたので、このお知らせを読んで「ええ~、ジジイのだらだら日記を読むのが日課だったのに、さみしいじゃん」って思ってくださる奇特な方がもしいたら、過去のシリーズのどれかを選んで毎日1話ずつ読み返してみては・・・ナゴヤ編とか、日帰りのシリーズを除いてはどれも素晴らしく長いので、1シリーズ読み終わる頃には間違いなく年が明けてるでしょう(笑)。しかし、こないだ書いたように、今年は当初の予定より大幅にお出かけを減らしたにもかかわらず、今年の分だけでまだアップしてないシリーズが3本もある。去年の大物のシリーズを先に書いちゃったからね。まあ、リクエストもあったし、先に延ばせば延ばすほど、大物ってのは書きたくなくなってくるので、これはこれで良かったと思ってはいますが。という訳で、取り急ぎお知らせまで。次のシリーズもまた地味で素敵なところをご紹介させていただく事になるかと思いますので、楽しみにお待ちくだされにほんブログ村
2012年11月16日

糸碕神社拝殿の脇には、こんな建物がある。 ここでお神楽とかするのかな?先に話しかけられた地元の女性は、ここの中で派手に孫と遊んでた。最初は神社の人なのかと思ってたけど、私と話した後でご飯を食べに家に帰っていったから、違ったみたい。んなら、私も上がっていいのかな・・・てんで、建物の内部も見たかったし雨も結構降ってたので、ちょっと上がらせていただいた。 う~ん、いいわあ、木造建築 ここには幾つか板絵も飾られてた。あと、天井には何やら気になるものが・・・ 梁の上に乗っかってるもの。なあに、これ?デカいキセル・・・(笑)。下に穴があいてるから、何かにはめ込んでぐりぐり回すとか・・・しばらく眺めてあれこれ想像してみたけど、結局わからなかった。建物の隅っちょには、こんな額があった。 う?忠吉公佩用の刀?三原市の重要文化財として宝物館に収められてる刀は、色男の忠真さんの奉納だし、それとはまた別のものってことかな?浅野忠吉さんは、福島家のあと浅野家が芸備に入ってからの、三原城の初代城主。まだ口伝の域を出てない刀なのかもね。さて、これで神社内は全部見た。最後にもう一度移築門を眺めてたら、ここの瓦は打出の小槌だった。(ホントは三原城シリーズの方に載せるべきでした。漏らしました。アハハ・・・) 軒丸瓦がコレだから、たぶんだいぶ後になってから瓦は葺き替えられてるね。↓神社を出たとこ。 海がすぐ目の前に広がってると思ってたから、ここで小早川家の養子となった金吾の見送りに来た毛利一族のきらびやかな船団を妄想して遊びたかったのに、神社の前だけ埋立地が広がってて、私の計画がガラガラと音を立てて崩れていったちょっと歩いていけば海が近いと思うけど、もうバスが来るからそこまでの時間はないし。まあ、何にしてもこの辺で送別の宴が開かれたのだ。(この辺については、「三原城(8)」をご覧ください)毛利一族のもてなしように、報告を受けた秀吉は大層喜んだというけど、見送る側のそれぞれの心中はどんなだっただろう。当の隆景ちゃんなんかは割とドライなところもあるから、本家の一大事をとりあえず逃れることができて案外サバサバしてたかもしれないけど。しかし、私のいるところから海はほとんど見えなくても、海が近い事に変わりはないので、道路にはこんな標識があった。 千葉県在住といっても、うちは内陸もいいとこだからシケとかの苦労は知らないけど、海が近いところは大変だね。バスで三原駅まで戻る。バスの中では、バアちゃんがバスのおじちゃんに怒られてた。今回の旅で私が話した人で広島弁丸出しの人はいなかったんだけど、このおじちゃんはダミ声の広島弁。たぶんナマ広島弁を聞いたのは今回が初めてだったので、「うわ~、隆景ちゃんがこんなだったらやだな・・・」とか思った(笑)。ブログの中では、他のシリーズでもさんざん隆景ちゃんに広島弁喋らせてるくせに今さらだけど、ダミ声となると結構迫力がある。一口に広島弁っていっても実際は色々あるみたいだけど、まだ広島弁をマスターできてない私は、方言変換サイトのお世話になってますので、細かい間違いは気にしないでね駅に着く頃にはお腹がすいた。三原名物・タコ料理のお店を探すのもめんどくさいし、まだ手持ちのパンがあったので、どこか座れるところないかな~と思ったら、例の競争率の高い天守台ビューのベンチが空いてた!やった。又四郎様、ありがとう天守石垣を見つつパンをかじってて、ふと今回の食事内容を考えた。初日の昼はお店で食べたけど、あとは・・・2日目は三原八幡宮でパン。3日目は親鸞様の向かいの公園でパン。今日もガード下でパン。うわ~、色気ねえ!!!夜は種々の事情から外食はしないので、結局今回食べたタコ料理は「ウラベのたこ天」だけ・・・・・・・グルメがお楽しみの人にとっては、「そんなんで、何が楽しいの?」って感じだろうな。でもいいの。又四郎様の町であちこち見て回って、もう充分幸せいっぱい胸いっぱいなんだもんさて、大体これで、見たいところは見終えたかな・・・まだ行きたいところもあったけど、あまり無理するのも何なのでひとまず今回はこれで終わり。まだ時間も早いので、図書館に行こうっと市立中央図書館へは、駅の西側の道をまっすぐ行けばいいんだけど、ちょっと回り道をしてこれを見に寄った(撮影場所はこの辺)。 【西野川のヘビ石 川の流れを緩和するために造られた石の導流堤。まるでヘビのようだ】 (「城下町みはら散策マップ」より)この時は、和久原川と同じく、水量はそんなになかったけどね。これを見ながら、図書館まで歩いていった。市立中央図書館まで行った目的の一つは、「三原市史」。ネットでは中世までの三原の歴史を書いた部分の通史が売り切れってあったんだけど、現地ならもしかして手に入るカモ・・・って淡い期待を抱いて行ってはみたものの、やっぱり売り切れだって紙が貼り出してあった。三原の歴史の中じゃ、まあ一番人気は小早川時代だろうと思うので、せっかく刊行したものなんだし、増刷したらどうかと思うんだけどね・・・てな事で、「三原市史」はお買い上げならずしかし、やはり郷土史関係の史料は色々あったし、事典とかの参考図書系は充実した品ぞろえでうらやましかった。しばらく本を読み散らかした後でコピー請求。「三原城本丸建物図」なんかも、ここでゲットしました。帰りは又四郎様が治めた海を眺めながら歩いた。ええ、まあほとんど埋立ですけど この日は14,962歩。バスでの移動ばっかりで、歩いたって感じじゃなかったからな。5日目<2012/8/29(水)ちょっとくもり>最終日は帰るだけ~。帰宅ラッシュにぶつかりたくないからさ。九州を襲った台風の影響が心配されたけど、どうやらヒコーキは予定通り飛んでくれるみたい。 バスが出るまでの間、ぼんやりと本丸御殿跡地を眺めながらまた400年前へタイムトリップ。隠居してから隆景ちゃんは自分史ちっくな回顧録を書いたけど、自ら破棄したって事だったよなあ・・・もったいない一体、どんな心境だったのか・・・とかって妄想してるうち、バスが広島空港へ向けて走り出した。ああ、楽しかったな、ミワラ・・・地味なプランだったけど、実際行ってみると三原の寺は歴史もあるし、建造物も良いものが多かった。今回行った寺社は、26(チラ見しただけの寺は除く)。アハハ、アハハハ、私ならではでしょ~戦略的城下の町並みも良かったな。ちょっとこれを楽しむには、バカみたいな妄想力を必要としますが(笑)。行きのバスで両高山の撮影に失敗したので、今度は逃してなるものかとカメラを構えながら車窓からギラギラした目で外を眺め、撮ったのがこの写真。 よ~し、今度はあそこだぞ。待っててよ、隆景ちゃん これにて三原の旅ログは終了です。長らくのご愛顧、ありがとうございました~にほんブログ村
2012年11月15日

こちらが本殿。 佛通寺から帰るバスに乗り込んだ途端降り出した雨は、その後も降ったりやんだり。この時は結構降ってたので、雨が写りこんじゃってる。本殿の懸魚のヒレもお花でかわいらしい。 本殿の脇には、まずこの摂社たち。 ↓こんなちっこいのも。なごむなあ。 これの奥には、無残な姿の木が・・・ 宝物館の前に積まれてた木は、これの残骸なのかな?まだ摂社はある。 ↑これは、本殿の向って左側かな・・・いちいち摂社まで撮る人間もそういないかもしれないけど、一部だけ撮って、撮らなかった神様にヤキモチ焼かれても困るから、私の場合摂社を撮る時は100かゼロかどっちかだな(←小心者)。で、こちらが本殿の正面。 う~ん、垂木も支輪も美しい・・・ やっぱ、寺社建築は素木に限るよな。して、こちら↓が最後の摂社。ちょっと大きめで立派。 ちょっと写真じゃわかりづらいかもしれないけど、この宮の前には盛土があった。 なんだろ、コレ・・・土俵?常設の?で、この奥に木が写ってますが、これがまたすごいんです。↓横から見たもの。 ↓前から見たもの。 ↓幹の下の部分。 も~、とにかくデカいの。かなり離れないと、全景を写せない。これだけの木ですので、ちゃんと解説がある。 【三原市天然記念物 糸碕神社のクスノキ 植樹の年代は不明であるが、樹齢は約500年といわれている。 胸高幹囲約13メートル、樹高約30メートルで、枝の展開も大きく、 樹勢は今もなお盛んである。ことに地上2メートル余におよぶ根本の肥大は いちじるしい。(後略)】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)うむ、500年・・・なら、隆景ちゃんもこの木を目にしたかもしれんな。私が糸碕神社に着いた時、地元のご婦人が境内で孫と遊んでたんだけど、あれこれ写真を撮ってたら、声をかけられた。「すごいですねえ、この木。こんなの見たことない」って言ったら、「そうですかあ~?」ってすごく嬉しそうにして、しばらく話した後で「ゆっくり見ていってください」って言ってくれたので、地元の人にとってはご自慢の木なのかもしれないな・・・って思った。でもホント、神門も良かったし、なかなかお目にかかれない立派な木なので、一見の価値はあります。 クスノキの根元には、こんな歌碑もあった。 地元の歌人の奉納かな?この木のように、すくすくと伸びやかなご成長を願う気持ちが感じられて、じ~んときた。さて、拝殿の向かい側には、糸碕神社のもうひとつの目玉があります。 【御調井(みつぎい) 昔、神功皇后この長井の浦に御舟を繋がれし時、村長木梨真人この井の水を汲み 献上した、との口碑により御調の井という。 この井戸は、直径120センチメートル、深さ360センチメートル、 自然石にて築造され、水は常に清く澄みさわやかで、どんな高潮の時でも 塩分はない。 皇船に水を献上した故事にならって、神社大祭に神饌を奉る際の用水にしている。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)え・え・え~!今も使えるんですかあ~!?まあ、サビてるけどバケツが置いてあるしな(笑)。三原と尾道にまたがる一帯は、かつては「御調郡」だった。現在では合併でこの2市に吸収されてるけど、この地名も明らかにこの故事から来てるよね。この井戸の裏手には、こんなものが・・・ 右の黒い石には、「厄割石」と書かれてる。かわらけ投げみたいなもんかな?あいにく、社務所は閉まってるっぽかったので、ちょっとわからなかったけど。にほんブログ村
2012年11月13日

糸崎へは、三原駅からバスで10分くらい。「糸碕神社」で降りると、すぐ前にある(場所はこちら)。まず現れるのは、狛犬。 ま~たデカい毬かかえて・・・無邪気にボール遊びをしてる犬にしか見えないんだけどなんで三原の子(←狛犬)って、デカいボールが好きなんだろう。三原駅からは近いけど、ここから三原駅へ戻るバスは1時間に1本くらいしかない。次のバスは、約10分後。う~ん、私が10分で神社を見きれるだろうか・・・とりあえず境内の様子を見てから、10分で済ますか1時間かけるか決めることにした。狛犬の先の道路を渡ると鳥居があり、ここから境内。 鳥居の奥にあるのが、神門。こちらは三原城からの移築門なので、「三原城(13)」で紹介しています。想像してたのより移築門が素晴らしかったのと、境内をちょっと覗いてみて「やっぱり私には10分じゃムリ・・・」とすぐわかったので(笑)、1時間後のバスに乗ることにした。 【神功皇后が西征の帰途、船を寄せられた際に水を献じたという故事によって、 この地を井戸崎(後に糸崎)といい、郡を水調(後に御調)と称した縁により 天平元年(729年)創建されました。 境内には、神功皇后が軍船をつないだという「船つぎの松」の記念碑と、 樹齢約500年といわれる市天然記念物のクスノキがあります。 糸碕神社は、美しい景色と多くの文化財に恵まれた古い歴史をもつ神社で、 正月の初詣などでなじみ深い神社です。】 (三原観光協会「海・山・空 夢ひらくまち」より)ここは、地名としては「糸崎」だけど、神社名は「糸碕」で字が違うんだよね。入るとすぐに、これがあった。 ワ~イ、神社だけどソテツがあるう~神門をくぐると、正面にそれは立派な拝殿があります。 ここの灯籠、面白い・・・ 賽銭箱には、でーんと小早川紋が・・・ あっ、ここにも小早川紋がいっぱい・・・いいなあ、この神社(←単純)でも、賽銭箱は右三つ巴、拝殿の幕は左三つ巴でチャンポンになってるよ(笑)。拝殿の左側に奉納されてたのは ・・・ミワラだもん、やっぱりコレだよね(三原銘酒・酔心については「三原編(46)」をご覧ください)ここの蟇股は↓こんな感じのが多かった。 でも、懸魚(けぎょ)のヒレは瀟洒なお花柄。 さすが、歴史のある神社だけあって風格があるなあ。さて、神社仏閣は可能な限り裏まで回るのが戦国ジジイ流。もちろんここでも行きました。どうやら、↓この奥が本殿エリアらしい。 階段を上がるとすぐ右手にこの建物。どうやらここにお宝を収めている模様。 【三原市重要文化財 ・当世具足 一領 付具足櫃(ぐそくびつ) 三原城主浅野忠義着用のもので、着用物の内訳は(1)頭形黒漆塗兜 (2)頬当 (3)黒唐草菱縫胴 (4)籠手 (5)下散(げさん、草摺) (6)佩盾 (7)脚当 (8)具足櫃 (9)具足櫃覆(浅野家定紋付)である。 ・刀 無名 一口 長さ60.5センチメートル、刀紋丁字、地肌板目柾ごころあり、目くぎ穴2ケ、 浅野長門守(忠真)の奉納である。】このほか、糸碕神社文書11通とあり、その中には小早川氏奉行人の制札や福島正則と浅野長晟の扶持方等給与状、などがある。また色男の忠真さんが出てきたよ(笑)。 それでなくても月姫様の件でインパクトあるから、ここまで旅日記を読んで下さった方々もいい加減覚えちゃったよねちょっと無名だってところがミソだけど。この向かいには、こんなものがあった。 随分立派な木みたいだけど・・・伐採したのかな?わざわざ?しかも、何でこんなとこに放置・・・?ぼんやり木を眺めてたら、このすぐ裏を電車が走りぬけていった。お~、びっくりしたあ~!!由緒ある神社のすぐ裏を、電車が遠慮なく走っていく光景・・・ちょっとどうなの、コレ・・・現代社会は味気ないのう・・・ にほんブログ村
2012年11月11日

三原城最終回は、移築門を2つご紹介しましょう。まずは、順勝寺(場所はこちら)。 【三原市重要文化財 順勝寺山門 三原城内にあった御作事奉行所門を、明治10年(1877)に順勝寺に移した ものである。 築城当時の建築物が、当時の状況を保存して現存するものは非常に少なく 貴重な遺構で、永禄から天正年間の作と推定される。 構造形式 四脚門、切妻造り、本瓦葺き、 梁間2.37メートル、桁行6.0メートル、軒高3.2メートル】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)奉行所の門だから、飾り気もなくてかなりシンプルな造り。こちらの内部は、実はこうなってます。 門の築造から全く手が加えられてないハズはないけど、この傷み具合・・・おそらく、ほぼ隆景時代のものと見ていいんでしょうから、400年の時の流れをビジュアルで実感できる瞬間(笑)。さらにはこれ、ね。 おいたわしや~っ!!まあ、華奢な戸だから、こうなるのが自然だよな。もうひとつ、市内の糸碕神社に移築門があります(場所はこちら)。 【三原市重要文化財 糸崎神社神門 糸崎神社神門は、三原城内にあった侍屋敷門の一つで、明治8年(1875) 生駒氏により当社に寄進され、現在の位置に移築されたものである。 三原城城築当時の建築物のうち、現在するものは非常に少なく、貴重な遺構である。 構造及び形式は、二脚門で桁行5.75メートル、軒高3.67メートルの 切妻造りである。 このほか、三原城関係の遺構に、順勝寺山門(西町)、鐘撞堂(本町)、 安楽寺山門(鷺浦町)などがある。】 (現地解説板より原文のまま。漢数字は戦国ジジイが変換)順勝寺山門は、三原城14の城門のうちの1つって話もあって、そりゃウソでしょ~って感じだけど、ここは侍屋敷!?これもウソでしょ~って思うんだよね。逆ならわかるけど。 だって、風格がすごいもの。さすがに宗光寺の山門にはかなわないけど、城門として充分通用するレベルだと思うけどな。戸も、結構しっかりした造り。 けど、八双のところのトゲトゲは何だ? 犬のオシッコよけ・・・いやいや、そんなハズは ただの侍屋敷の門に、こんなの付けるか?そして蟇股。↓こんなシンプルな板蟇股もありますが、 彫刻つきの本蟇股もあります。肘木にも彫刻なんか入ってるし。 蟇股の時代判定ってのも難しいようなので、一概には言えませんが、一般的に後世のものほど目もぼんやりするし、股(足)ものっぺりと開いてくる傾向にある。 (蟇股の各部名称については、「三原編(22)」をご参照ください)解説には糸崎神社の門の築造時期については触れられていないけど、蟇股のアウトラインと彫刻の感じからすると、比較的古い時代のものかな・・・って感じがする。せいぜい、天正中期くらいまでには造られたものかな~。あ、でも私はプロじゃありませんのでね。あくまで蟇股から推測した、シロートの見立てですので誤解のなきよう。けど、この蟇股だし、この重厚さだし、 やっぱこっちが城門じゃないのかな~。まあ、蟇股なんかはだいぶ後になってから付け替えられてる可能性もあるけど。このほか、一時期三原城内にあったといわれる門が極楽寺に移築されてますが、あれは元は新高山城のものだったと伝えられているものなので、三原城シリーズではなく、旅日記の方で紹介しています。(極楽寺の移築門はこちら)それから、糸崎神社の解説の中に「安楽寺山門」とありますが、順調に予定がこなせたら行こうと思ってました。・・・しかし、安楽寺は佐木島という小島にあり、船で約30分。2日目に頑張りすぎたせいで3日目はへろへろになり、ペースダウン。佐木島に渡ると半日は使うし、ちょうど九州で台風が猛威を奮ってた時だったので、30分程度の航路といえど見送った方が無難かもしれん・・・と、総合的に判断し今回は諦めました。三原城シリーズの最初にも書きましたが、遺構とか石碑だけじゃなく、三原市内にはところどころ城下町の面影を残す所が結構あります。城下町ったって、「小江戸情緒」とかチャラい意味のじゃなく、戦略的城下町だけどね。その気になってあちこち歩けば、かなり城下の雰囲気を楽しめる町だと思いますので、是非ご自分の足で歩いてみる事をお勧めします。にほんブログ村
2012年11月10日

和久原川から西へ向かうと、三原城の数少ない遺構としてメジャーなスポット、東船入櫓跡があります(場所はこちら)。 あ、刻印見っけ~(↓写真のど真ん中) 古図では、この場所にあたります。 【石垣の高さは4間(約7.2m)で船入の入口幅は12間(約21.6m) 船入の広さ20間(約36m)あって深さは1丈(約3m)で 北の方へのびています。 この船入櫓石垣の築き方は、粗雑にできているようにもみられますが、 干潮・満潮に堪えるようにと工夫されています。】 (三原観光協会「海・山・空 夢ひらくまち」より)海に突き出た南東の部分の石垣の下部には自然石が残っていて、築城当初の名残だと言われております。 大体ここまでの城町公園に面した部分が、一般的に東船入櫓跡として写真が紹介されてる。が、私はこの近くにまだ見たいものがあったので、東側の道路に出て北へ向けて歩き出した。そしたら、船入櫓の東面にも立派な石垣が残されてるじゃ~あ~りませんか! そりゃもう、ふらふらと吸い込まれるように広島銀行の駐車場へ侵入・・・ 古図では、この辺はこうなってる。 図と写真を見比べてもらうとわかると思いますが、現在では堀の幅はだいぶ縮められております。なので、広島銀行は半分くらいは堀の中だった訳ですね。あ、矢穴見っけ~ この先は、こうなってる↓。 ちょっと形は変えられてるけど、だいたいこの位が昔の堀幅だったんだろうな。ほれぼれと石垣を眺めてたら、上の方に門らしきものがあるのが見えた。 ナニアレ・・・あんなのがあるなんて、聞いてないんだけどもしかして、上がれるのかな?ちょうど堀伝いに歩いていくつもりだったので、入り口も探してみることにした。堀の奥もいちおう石垣だったけど、これは残念ながら近代に積まれたものだな。 入り口を探しながら歩いてみたものの、見つけられないまま、お目当ての石碑へ辿り着いた。 ・・・単なる入口の碑なんだけどね。しかしこれが、結果的にはアタリだった。これに従って小道を入っていったらば、上に上がる道を見つけたのだ おお、ナマイキに時間制限があるのか(笑)。これを上がると、さっき下から見えた門があった。 華奢な棟門だけど。かつてはこのあたりに、大きな建物があった。入るとすぐに、井戸らしきものがある。 「備後國三原城繪圖」にはここの曲輪に井戸は描かれてはいるんだけど、もう少し西の方だから、往時からあったものではないかも。で、こちら↓が全景。 海に細長く突きだしてる部分には、建物は描かれていない。船入櫓(五番櫓)があるだけ。その先端部から南西の方は、現在ではこんな光景が広がる。 ・・・が、昔はこれ全部、海でした。海。「普通の町の光景でつまんない」とか言わないで。大きな海を思い描いて、五番櫓から睨みをきかす城兵になった気分で上の写真をご堪能ください ここには、結構大きな石がごろごろとあちこちに散らばってる。 かつての石垣の石を保存でもしてるのかな~。ところでこの場所には、昭和天皇もおられました。昭和22年、昭和天皇が三原を行幸。工場の視察が行われ、その記念に浮城会館が建てられたそうですが、現在は取り壊されて存在しないとのこと。で、その際に船入櫓の上に建てられている浮城寮に宿泊されたんだと。その浮城寮ってのがいつ建てられたのかはわからないし、現在では写真の通りもう残ってもいない。昭和22年だもんね。そんな早い時期から各地を行幸されてたなんて、そっちの方がびっくりなんだけどにほんブログ村
2012年11月09日

西築出の酉門跡まで戻って、現在では跡形もない浮世川堀を渡ると、そこが西大手門跡(場所はこちら)。 古図での位置はここ。 手前の電柱のあたりに、立派な大手門があると妄想を働かせて下の写真を見て下さいね ここから西国街道を西にしばらく進むと、西惣門跡碑があります。(場所はこのへん) 碑の側面の写真を撮ってないので、イマイチ記憶が定かじゃないけど、この碑も確か隆景400回忌記念てあったような気がする・・・ここから先は、城外です。 城外ですが、西惣門からちょっとだけ西に行ったところには、西の出城といわれる法常寺があります。(「三原編(11)」~「三原編(15)」も参照ください)西国街道に沿ってさらに西に行くと、県立広島大の近くには芸備国境碑があります(「三原編(8)」をご覧ください)。再び西大手門へ戻りましょう。ここからは、天守台も見えます。 西国街道に沿って門を一つくぐると、天守台に平行して延びる曲輪に入ります。現在の隆景広場がある、侍屋敷の区画です。その辺りにも石垣があります(場所はこちら)。 ここは、2日目の怒涛の寺社巡りを終えて、でろでろになって成就寺から帰る時に見つけました。古図でいうと、たぶんこのピンクのあたりでしょう。 三原城下の細かい史跡を巡るのに、「城下町みはら散策マップ」は大変参考になったけど、さすがのマップにもここの事は載ってなかった。けど、古図の櫓付近の地形はおおむね現在のそれと一致するし、石垣の中には矢穴のある石もあったので、これもかすかな遺構なんじゃないのかな。ここから北の方は少し地形が変わってるし、当時の石垣が巻きこみになってるハズはないから、まあほとんどが後世の石積みだとは思うけど。 西国街道に戻りまして、東へ向かいます。こちらが、東大手門跡の碑(場所はこちら)。 古図では、この場所。 この場所を、門の外側から見ると現在はこんな感じ。 この写真で左右に延びてる道は、かつては東築出堀という堀でした。その名の通り、三原城東築出を取り囲む堀な訳ですが、この堀のすぐ東側には、堀と並行して和久原(わくはら)川が流れております。つまり、二重の堀な訳ですね。古図だと、こうなってる↓。 黄色が東築出堀。水色が和久原川。図を見ればすぐにわかるでしょうが、これは自然の流れじゃなく、南の方は流水路が付け替えられてます。岡山城の旭川とよく似てるでしょ。流れに無理があるので、水量が多い時にはそれなりのリスクがある。そのための装置が現在も残っておりまして、それがこちら↓。 矢印と赤丸でマーキングした部分、これは「刎(はね)」といって、川の流れを弱めて城の石垣を守る役目と、川の流れを変える役目をもったものなんだそうな。この場所にある「はね」はちゃんと古図にも書かれている(上の古図の赤丸の部分)。いい仕事してますねえ~。ここの他にも「はね」は残ってるそうなんだけど、とりあえず上の写真の「はね」は東大手門跡を望む神明大橋から見られます。洪水対策は、実は「はね」だけじゃない。和久原川の堤防は、東西で1mくらい高さが変えられている。もちろん、城側の方が高い。だから、水かさが増すと川の水があふれるのはきまって城外の町屋側だったそうで、ちょっと可哀想・・・けど、いくら海城だからって、城内に水を引き入れる訳にはいかないしねここから南西に行ったところの和久原川はこんな。 この時はほとんど干上がってました(笑)。和久原川は三原城域の最東部。確か、ここまで拡げたのは福島時代だと何かで読んだような・・・地図を見てたら、この近くに不自然な形の水路があったので、寄ってみました(場所はこちら)。 水路の奥は左側に折れていて、そんな形のものは古図には描かれてないので、残念ながら昔のまんまのものではないみたい。けど、ちょうどこの辺りは東築出堀のあった場所だと思うので、もしかしたら堀の名残なのかもしれない。保護色で背景の石とほとんど同化しちゃってるけど、ここにはちっちゃなお魚さんがいた(写真の真ん中へん)。 にほんブログ村
2012年11月08日

さて、辛抱強く歴史の長話にお付き合いいただいた皆様、お疲れ様でした(笑)。再び、遺構の紹介に戻ります。え~と、天守台から本丸へ来たから、中門へ行こうかな(場所はこちら)。 クルマが邪魔だけど、なかなかどいてくれなかったので・・・ここには解説もありましたが、か~な~り一般的な説明だったので、割愛します(すいません)。けど、ここにあった三原城の絵図はたぶん「備後國三原城繪圖」を元にしたもので、城内の位置を説明するのに使い勝手がいいので、本丸のところでも使ったし、ここからの説明にも使わせていただきます。で、本丸中門はかつては城内のこの場所にあったもの(★の部分)。 二の丸は、本丸の南と東を取り巻いてるけど、中門を出て堀を渡ったところにある馬出のような小さな区画も、二の丸の一部。 堀は一部復元だそうです。ただ、この堀をずっと北に行くと、 って天守台西側の堀へと本来は続くものなんだけど、ご覧の通り堀幅が全然違う。一部っていうより、ほぼ復元だろうと思うけど。手前の石垣も、最近積まれたものっぽいしね。そして、現代ではこんな風に鳥さんたちが憩ったりもします。この時、暑かったからね 北寄りの石垣は、遺構とみていいのかな。このあたりの石垣は風格がある。 中門跡碑のすぐ南には、「臨海一番櫓跡」がある。 この辺の石垣は大変フレッシュな顔ぶれでした(笑)。 中門・臨海一番櫓跡から西へ向かうと、西築出の酉門跡碑があります。(場所はこちら) 古図でいうと、この辺。 中門を出て、出島・・・というか馬出になってる二の丸の小さな区画に入り、西ノ門を抜けて西築出に入りました。この近くにちょっと見たいものがあったので、西築出を歩いてみましょう。酉門碑からすぐ南の小道が「おさくじ通り」。 ほらね↓。 こーゆー地名は、是非とも残してほしいよな。この先が、港町公園。 「備後國三原城繪圖」にはちょうどこの公園の辺りに役所が描かれてるから、これが作事奉行所とかだったのかもしれない。酉門のすぐ近くには材木置場も描かれてるし。このまま道なりに進んで、この道を南に入ります(場所はこちら)。これが「西浜がんぎ通り」。 ここは、古図でいうとたぶん矢印の石垣に沿った道だと思う。 西築出を出ちゃいましたね(笑)。「備後國三原城繪圖」にはさすがに雁木までは描かれてないけど、この通りの名前からして、おそらく雁木があったんでしょう。この通りには、古い家がいくつかある。 その間の道は、相変わらず細い道(笑)。(三原名物の細道は、旅日記「三原編」の方をご覧ください) で、見たかったのはこれ。 【敷石記念碑】これのことは、「城下町みはら散策マップ」で知ったんだけど、それには【”もやい柱”風記念碑。このあたりは海だった証だ】とある。ただ、記念碑の由来についてはわからないんだけど(笑)。けど、ここにはこんな絵があった。 西築出付近の埋め立ての経緯を色別に示した、西浜変遷図。 グリーン・・・明治中期埋立 ピンク・・・・・明治末期~大正埋立 オレンジ・・・昭和9年以降埋立 水色・・・・・・現水路とある。ピンクに囲まれた白い部分が、元の西築出。現在の三原港の西側がごっそり埋立地だってのが、よくわかる。おお~、これはいい図だぞ。やっぱりここに来て良かったなそして、この看板の柱には アハハハ・・・西之宮壱里塚と同じく、没後400年を経て、又四郎様ってばここでも城下整備に一役買ってるのか。おつとめ、ご苦労さんにござんすにほんブログ村
2012年11月07日

ここまでかなりの部分を歴史の紹介に費やしてきましたが、もうついでなので(笑)、三原城の最後についてもご紹介しましょう。明治2年、廃藩置県。上級武士は多くが広島に移り、その他は教員や官吏となって身を立てる者が多かった。三原に残った少数の士族は城内に、また下士は城外に住み、城跡の空き地を耕して桑を植えて養蚕を営んだり、堀で魚の養殖などをして生計を立てていたという。城地は廃藩置県とともに一旦は陸軍省の管轄となったが、この時期に建物・樹木などが競売に付されたらしい。明治9年には三原に海軍鎮守府が置かれる話が持ち上がり、海軍様がお買い上げ。ところが、明治16年に海軍鎮守府が呉に置かれることが最終決定を見たので、用なしになった三原城地は国有財産に戻される。行き場のない旧士族たちは、それまで長らく三原城を職場としてきたように、廃藩置県後も三原城地を生活の糧にしようとしていたので、県知事や内務大臣に払い下げの嘆願を出して頑張って運動した。結局、運動の甲斐なく鉄道や専売公社の用地となり、一部は競売にかけられて民間人へ払い下げられた。運動が成功しなかった理由として、旧士族側の資金不足といわれているが、その他にも理由があったらしい。政府は、旧士族の生活支援のために「授産所」という組織を立ち上げていたが、三原城の払い下げに関しては、広島の旧藩主の授産所総監に取り次がせていて、こことの連携がうまくいかなかったというのがそれ。もしこれが首尾よく運んでいたならば、一時期三原城本丸付近は大規模な畑と化していたのだろう(笑)。ただ、不首尾に終わったとはいえ、養蚕のために植えた桑畑や野菜の畑は健在だった。また城内には松も多く繁っていたので、三原駅付近にはその当時、キツネやタヌキが出たという城地が個人の所有になると、旧士族たちは諦めてやむなく三原を離れていったそうな。維新直後には城内にはまだ沢山の建物があったというが、競売に付されたり、取り壊されたりして段々と姿を消していった。このため、32あったといわれる櫓も、残念ながら1つも現存していない。他の建物物の遺構としては、かろうじて山門がいくつか移築されて現存している。明治13年、本丸御殿の表広間(金の間)・遠士の間・玄関の間・大広間・唐厩舎を使用して三原小学校がオープン。御殿内で最も格の高い金の間は、教員室に使われたこの頃に撮影された記念写真が残ってるんだけど、子供たちが並ぶ後ろに本丸御殿が写ってる。おそらく本丸御殿表向に続く区画の東面を背景にして撮った写真だと思うけど、この写真を見てると、何とも言えない複雑な気分になってくる。世が世なら、ここはパンピーは決して立ち入れない場所だった。だって、太閤殿下が(たぶん)いた場所なんだから。しかし、この写真がなかったら、本丸御殿の写真は存在しなかったかもしれないしな・・・ところでこの古写真にはメモが付いてるんだけど、これがまた興味をそそられる。 【明治十三年九月寫子 柞原城中】ほっほっ、「柞原」の文字は、ずっと近代まで使われてたのか!ま、昔って今ほど漢字の使い分けが厳密じゃなかったしね。泣かせてくれる当て字なんかいっぱいあるし。いや、記録って大事だよなあ。また、本丸御殿の金一ノ間の杉戸には、狩野安信作といわれる猛虎の絵が描かれていた。この杉戸絵はどうなったのかはわからないけど、幸いにして写真が残っている。・・・もう、こうなってくると何が良くて何が悪いとか言えなくなってくるよね。時代の流れもあるんだしさ。明治22年、元奉行所付近に新しい三原小学校の校舎ができたので、それまで校舎として使われていた本丸御殿は取り壊され、校舎新築の費用の一部に充てるため、売却されたという。あ~、ドナドナド~ナ、ド~ナぁぁぁぁ・・・・「備後國三原城繪圖」には城内に多く木が描かれているが、昭和に入っても松の大木は結構残っていたという。その最後の木が伐られたのは、昭和56年。三原駅の再開発に伴う伐採だった。最後の1本は「方衛(なみえ)の松」と名付けられていて、健在だった頃の写真も残っている。方衛の松は伐られた後に、「旭陽会」の会長に払い下げられた。旭陽会というのは、旧三原家臣のメンバーで作られた会だそうな。旭陽会会長の勝原敬之氏は、方衛の松でもって記念品数百点を造り、希望者に配布。記念品には、会長のお言葉を記した添え書きが付いていた。 【三原城の松。三原駅前に松の大木があった。 これは旧三原城郭内で最後まで残った唯一本の松である。 昭和56年2月27日伐採されたが地上高17米30糎(17m30cm)、 根元直径78糎(78cm)あった。年輪により樹齢190年余と判明、 鈴木方衛没後190年で巷間云い伝えられた方衛がこの松に登ったという話は 事実無根である。惜しまれつゝ消えていったこの松で記念品を製作 往時を偲ぶ縁としたい。】 (漢数字は戦国ジジイが変換、カッコ内もワシが追加)鈴木方衛さんは、実は旅日記の方で一度、名前だけ顔を出してます。(「三原編(23)」をご参照ください) 【江戸時代、三原には過ぎたるものが三つあると他藩から羨ましがられました。 それは三万石にはふさわしからぬ大きな城、葵の紋所大段幕、 そしてすぎたる智者鈴木方衛という家来がいたことでした。(中略) 鈴木方衛は江戸幕府より日光東照宮の修復が各藩に命ぜられたとき、 誰にも出来なかった難工事を10日間で仕上げ、将軍を感嘆させたという智者で、 この(大善寺)境内へ特別に葬られています。】 (三原観光協会「海・山・空 夢ひらくまち」より。カッコ内は戦国ジジイが追加) 一体どんな難工事だったのか気になるところだけど、手持ちの資料では詳しいことはわからない。どうやら方衛さんが登ったという伝承から方衛の松と呼ばれたみたいだけど、没後190年も経ってからそんな伝承が生まれるなんて、郷土の誇りだったってことかな。他の近世城郭の最後については詳しくは知らないけど、廃藩置県まで残った城の土地・建物や旧士族の身の処し方は、たぶんどこも似たような感じなんでしょうね。三原城跡の土地利用については、なまじ天守台付近の遺構が残ってるだけに、「三原市の神経を疑う」とか、城好きの中にはかなり厳しい意見を吐く人もいる。が、時代が大きく変わる時の世の中の混乱や大変さを私達は知らないし、今さら過去を責めても元に戻る訳じゃない。廃城になった城のその後を辿るのは切ない作業ではあるけれど、だからこそ、こうした時代の流れを乗り越えてなお現存している各城の遺構を、大切に伝えていかなければいけないんだな~とあらためて思った。それと同時に、目には見えない歴史もね。城は、人が造ったもの。城の歴史は、人の歴史でもある。名城と言われる割には、遺構が少ないためか三原城の人気はイマイチな気がする。けど、ここまで色々書いてきたように、三原城はその築城の時点から中国地方の壮大な歴史を抱えてきた。旅日記とあわせ、このシリーズで三原および三原城の本当の良さを少しでも感じて頂けたなら、とても嬉しく思います。にほんブログ村
2012年11月06日

長い三原城の歴史の中には、様々な出来事がありました。今回は、ウワサを含め、三原城で起こったことについて新聞記事風にいくつかご紹介しましょう。新聞記事というより、週刊誌風な感がなきにしもあらずだけど・・・≪華燭の典、あでやかに≫-----文禄3年(1594)11月13日 太閤・豊臣秀吉殿下の一族で養子の金吾将軍(豊臣秀俊卿、のち秀秋と改名)が 小早川隆景公との養子縁組のため、三原へ到着された。 養子縁組と同時に婚儀も行われ、華やかな行事が11日間にわたって繰り広げられた。 丹波亀山城城主・秀俊卿は太閤殿下によって整えられた華麗な行列で三原入りした。 馬乗りは150騎、つき従う中間もすべて正装。 道具類の先頭には、猩々緋をまとった鉄砲20丁が並び、続いて弓・靫(うつぼ)・ 手槍・薙刀がそれぞれ20丁。さらには唐織物の絹を身に付けた馬10頭、 犬3匹、鷹10羽も行列に華を添えた。 養家となる小早川家では、本家の毛利家からも当主・輝元公をはじめとする 一族郎党・その家臣が一堂に集まり、出迎えの人数は実に5千人を越えた。 3日後の16日には、安芸吉田の郡山城から供衆2,000人、人夫1,500人を 従えて、秀俊卿の花嫁が三原城に到着。 翌17日の早朝4時から婚礼が執り行われた。 花嫁は、毛利家当主・輝元公の義理の姪にあたり、毛利元就公のひ孫でもあるが、 このほど輝元公の養女となって婚礼の日を迎えた。 毛利一族では、新しい小早川家の跡継ぎをこぞってもてなした。 秀俊公のために催された結婚おめでとうイベントは、船遊び・鷹狩り・能楽など。 11月21日の能興行では、三原に集まった毛利・吉川・小早川の三家の方々が 一堂に会し、盛大な興行となった。 一番目の演目「難波」では、輝元公自ら小鼓を打ち、続く二番目には 秀俊卿が小姓衆とともに舞って、5,500人ものギャラリーから拍手喝采を浴びた。 秀俊卿の三原滞在は、11日に及んだ。 卿の帰京にあたっては、毛利輝元・小早川隆景・吉川広家(故吉川元春・次男)ら 毛利家の主要メンバーの諸氏が船で同行。途中糸崎で送別の宴を開き、 さらに尾道まで見送って、一連の祝賀行事は幕を閉じた。≪血染めのオープニングイベント≫---元亀元年(1570)4月 三原城完成を祝って開かれた祝宴で、痛ましい斬殺事件が発生した。城下の人々は 小早川の繁栄は長くはあるまいとしきりに噂している。 被害者は、古志清左衛門豊長さん(年齢不詳、備後本郷城主。のちの研究では、 諱は「豊長」ではなく「元綱」とされる)。 古志さんは、身の丈六尺三寸、大力にして驍勇無双といわれた豪の者。毛利麾下で 数々の武功を立て、ある戦いでは味方の不利を見てとった古志さんが槍を持って 大音声をあげ、瞬時に敵数人を突き倒したというほどの武勇の持ち主だった。 それほどの古志さんが、一体なぜ祝宴の席で殺されたのだろうか。 宴たけなわとなり、酔って寝込んでしまった古志さんの首を、小早川家の家臣が あっさり打ち落とした。胴から切り離された首は、目を見開いたまま血を噴いて 転がり、また首のない胴は刀を抜いて立ち上がり、数歩歩いた後に倒れたとの事である。 古志さんに続き、供衆もことごとく斬殺されたが、その中で井上大炊介という家臣が 脱出に成功。井上大炊介は急ぎ備後本郷城へ戻り、15歳になる古志さんの嫡男へ 事の顛末を知らせた。 驚いた古志さんの嫡男はすぐさま三原城へ出向き、古志さんの亡骸をもらい受けて 城下の寺へ埋葬した。父を弔うために、墓前で念仏を唱えていたところを、 小早川家からの追手が殺害した。 当紙では、この事件の真相に迫るべく、三原城主・小早川隆景公に 単独インタビューを試みた。公によると、 「だって、古志君が謀反するって 有地元盛君から聞いたけぇさ」 との事だったが、一般には謀反の噂は讒言であると囁かれている。 智謀に優れると評判の公が、噂を簡単に信じたのであろうか。 当紙では、別の説も入手したのでご紹介しよう。 公の実家である毛利家では同時期、国人の国替えを行っており、 国人の取り潰しなどにかなり手荒い手段を取っている。 そうした動きが自らの身辺にも及んだ古志さんが、中央へ通報しようとしたところを 逆に「古志つぶし」の格好の材料として毛利家に利用され、上述のような 痛ましい事件を引き起こしたという。 なお、古志さんが殺害されたのは、三原城ではなく 吉田郡山城だったとの説もある。≪悲壮!備中国人衆の誓い≫----天正10年(1582)正月下旬 織田軍の中国方面総司令官・羽柴秀吉氏による本格的な備中攻めを前に、 対織田との最前線となる「境目七城」の守将らが三原城に集結し、全力で戦う覚悟を 表明した。 この日集まったのは、著名な清水宗治氏(備中高松城主)をはじめとする、 備中の城主たち。 まず小早川隆景公が口火を切った。 「織田信長の命で、初夏頃にゃぁ羽柴のサルが うちを攻めてくるっちゅう噂をしきりに耳にする。 こうゆう時期じゃけぇ、織田家へ通じるんもえかろう。 古来よりそうした例はおゆぅあることじゃ。 うちじゃぁ別に、寝返ったけぇゆぅて ネチネチ恨むつもりもないから、 そうした考えのある者は急いで織田軍に通じて、 自家の栄達を図るとえかろう。」 ※おゆぅ・・・たくさん これに対し、集まった諸将らは 「なんちうことを言われるのか! そがあなフニャフニャな奴に大事な境目の守備を任せようと 仰せじゃろうか。我らは決してそのような事は考えておらん。 100%の忠義を尽くし、この命を捨てても城を守るんじゃ!!」 隆景公はいたく感動し、さらに軍議を重ねたうえで諸将らを饗応でもてなした。 また、それぞれに剣を下賜してモチベーションを上げるのに努めた。 そして、清水宗治氏は最後に、ただこの一戦にかけ、かなわない時には城を枕に 討死するとの決意を表明した。 備中・備後の国人衆は三原城に人質を出していたので、巷では 「人質取られてちゃ~、 そうゆうしかありゃぁせんよな~」 との口さがない評価がされる事もあるが、読者諸氏はどうお考えだろうか。以上、小早川時代の三原城における出来事をピックアップして戦国ジジイがお届けしました。三原城全体の歴史の中では、他にも月姫様の御輿入れだとか様々なニュースがあったでしょうが、なにぶん、小早川隆景をこよなく愛する戦国ジジイなもので、時代の幅が狭いのはどうかご容赦くだされ<記者補記>2番目の記事の古志氏の件については、近年の研究では古志豊長が訴えようとした相手は、秀吉らしい。そうなると、少なくとも天正年間に入ってからの出来事と思われますが、ここでは元亀元年としていますので、ご了承の上お読みください。↓ランキング参加ちう~。よかったら、「ぽち」をお願いします。にほんブログ村
2012年11月05日

今回は、本丸御殿について。ますはこちら↓が御殿を上から見た図。こちらの絵図も、前回同様、本丸中門跡にあった看板の図を拡大して拝借しています。 御本門、あるいは唐門(裏御門)から入って中御門を抜けると、正面に玄関があります。ピンクの矢印に沿って、御殿内へ入る訳です。トイレに行きたい方は、先に中御門脇の雪隠で用を済ませておいてくださいね(笑)。図の紫で色づけした部分が、いわゆる表向(おもてむき)の区画。「上段金ノ間」「金一ノ間」の部屋が奥にあり、さらに二ノ間~五ノ間が続く。三原城本丸御殿の見取り図は2種類あって、いずれも複写されたもので、製作年代などの詳しいことについてはわかっていない。が、どちらも江戸後期の御殿を描いたものと推測されている。本丸御殿の築造時期についてはまだ明らかになっていないが、初代城主・隆景によるものだという説もある。長い歴史の中では当然御殿の改修も行われたと思われるので、この表向の大広間を当初の姿に復元することで築造時期に迫ろうとしたものが、佐藤大規氏による「三原城本丸大広間についての考察」。私も「三原城本丸建物図」の大きなものを持っているので、見取り図と見比べながらこの考察を読んだけど、シロートにはなかなか難しい。が、まとめると大体こんな感じになる。 ・表向主座敷は後世の改造がある。 ・主座敷にあるすべての座敷飾は、定型化された左勝手の配置だった。 ・中奥にある主人の座所には、二畳敷の上々段が設けられていた。表向の主座敷 以外に上々段を設ける例はない。 ・中奥の主人の座所には帳台構があったと考えられる。表向の主座敷以外の部屋に 帳台構を設ける例としては、聚楽第大広間がある。などの特色を挙げた上で、 【(前略)大広間の建築年代について述べておく。まず矩折の上段をもつことから、 桃山時代の建築としてよいであろう。また、(中略)聚楽第大広間と共通点が 少なくないことが注目され、無関係とは考えられない。したがって聚楽第大広間を 参考にして建てられた可能性を否定できない。 ところで、三原城本丸大広間の部材と伝えられる小組格天井の小組の組子とその 裏板が残っている。(中略)小組格天井をもつ大広間は、格式が高く豪華な御殿で あったと言うことができる。 福島・浅野統治時代の三原城は広島城の支城にすぎず、本城である広島城の御殿と 同等もしくはそれを超えるような格式の高い御殿を造営する必要はない。 小早川隆景は天正16年(1588)に聚楽第を訪れており、それを模倣して 建てることが可能であり、御殿の格式からしても、(中略)大広間は小早川隆景が 造営したとしてよいであろう。したがって天正16年から隆景が死去する慶長2年 (1597)の間の建築とすることができる。】 (「三原城本丸大広間についての考察」/佐藤大規氏より。 漢数字は戦国ジジイが変換)としている。聚楽第ね・・・広島城の築城については、一般的には輝元が天正16年に隆景ちゃんと一緒に上洛して秀吉に初めて謁見。きらびやかな聚楽第にモーレツに刺激を受けて、翌17年に築城を開始。天正19年にはまだ未完だったが、とにかく入城、てな風に言われている。が、肥前名護屋から摂津までの道中を表した「秀吉上洛諸泊次第写」には、「ひろしまとまり」との記載があり、広島城址から金箔瓦や本丸下の古い石垣が検出されていること、また聚楽第との共通点などを理由に、広島城が毛利家の居城となったのは慶長頃であり、それ以前は大陸出兵する秀吉の宿所としての城だったのではないかとの説がある。「秀吉上洛諸泊次第写」には、広島⇒西条と寄った後、「ミ王(わ)らとまり」との記述があるので、三原城本丸御殿がかなり格式の高い建物だったという事も考えあわせると、隆景ちゃんの御殿は広島城の築城とも関連の深いものだと思われ、大変興味深い。だって、「金ノ間」だしね。金だよ、金!!(笑)現在では、表向のあった場所はこんな感じになってます。妄想スイッチを最大限にして、下の写真をご覧くださいね 桃山時代初期頃は建物様式も変化し始め、江戸期に書院造が確立するまでの移行期間にあたると見られているそうだが、その時期の建物図などはほとんど残っておらず、そうした面からも三原城の絵図は当時の書院造を知る上で貴重な史料なんだそうな。書院造についての考察なんかは私にはできないけど、前回も書いたように「三原城本丸建物図」は(私には)ホント面白いので、前回に引き続き、ちょっとだけ間取りをご紹介しましょう。三原城本丸御殿は書院造が確立する前の築造と思われるので、後代のものほどはっきり区画は分かれていない。が、金ノ間のあるのが表向、その北に左側に延びてるのが中奥、一番北側のエリア(上の写真でグリーンで色づけした部分)が奥向(おくむき)にあたると思われる。奥向の中で最も北西に位置するあたりに、「う~ん、これは城主のプライベートルームだよな」ってのがありまして、こんな風に↓なってます。 「奥御書院」と「縁側」は下の部分が切れちゃってます。そしてこの下と右にもいくつも部屋が続いてますので、奥向のほんの一角だとイメージして見てください。それと、「御湯殿」の下の部屋はちょっと字がつぶれてるので、「御揚場」じゃないかもしれません。配置からして、脱衣所とかかなと思うんだけど。「三原城本丸建物図」のすごいことは、建具まで描きこまれてること。これのおかげで、古建築の基礎知識さえあれば大体どんな感じの建物だったのか、頭の中で即座にCG化できる。もちろん、細部の意匠までは正確には再現できないけどね。御殿内全体で風呂場は幾つもあるものの、「御湯殿」と描かれてるのは上の見取り図の風呂しかない。城主はもちろん中奥にも御座所を持ってるけど、中奥には風呂場はない。てことは、やっぱりここが城主および家族のプライベート空間だよな。もしこの間取りが築造当時とほぼ変わっていないのなら、隆景ちゃんもここのトイレと風呂場を使ったのかもしれない。さらに、隆景の隠居頃には正室である問田の大方様も三原城に移ってたでしょうから、この10畳の御書院はあるいは問田の大方様が使ったのかもしれない(奥向だけで御書院は4部屋ある)。隆景存命中は、妻子を大坂に置く決まりはありませんからね(笑)。時代が下ると、三原城は広島城の支城となり、浅野家とはいっても家老職が入っていた。家老だから、きっと江戸時代も妻子を江戸に置く必要はなかったんだよねえ?とすると、築造から廃城までを通じて、奥方様が奥向に住んだ数少ない城でもあるかもしれないな。おお、奥方様っていえば、正室じゃないけど、月姫様も上のトイレを使ったかもしれないんだって、私ってホント生活臭い想像ばっかり(笑)。 そしておそらく、御殿内で隆景は亡くなった。慶長2年3月頃から体調を崩してはいたものの、新しく造る橋の橋板には、瀬戸の音戸に係留してある安宅船を解体してその木材をあてるよう、相変わらず細やかな指示を出したりしている。秀吉からの上洛要請には、「ちょっと具合が悪いんで・・・ゴホッ、ゴホッッ!!」としているものの、まあそんなに深刻な状況ではなかった感がある。が、6月12日、急逝。直前まで手紙を祐筆に書かせていたというから、中奥で倒れて、奥向へ運ばれたのかな。死因は、卒中といわれる。現在では、病名としては卒中って言い方はしないんだけどね。伝えられる症状や、発症から息を引き取るまでの時間の短さなど、確かに脳血管疾患の可能性を連想させる御最期であられた。享年65歳。にほんブログ村
2012年11月04日

天守台の東側にも、石垣が地味に残る(場所はこの辺)。 これについての案内板があるはずなので、この石垣に沿ってぐるりと回り込んでみた。 【鍛冶郭跡(館町) 三原刀を鍛えていたとされる曲輪。中に井戸二つ、鍛冶屋敷、武具役所の在った 場所。 三原刀は鎌倉時代より有名で、古三原といわれ、大振り豪壮にして、切れ味抜群。 正家正広(共に一代限りでない)正信と重美級の物多く、刀剣史上高い評価を 得ている。 作風は鎬(しのぎ)高く反あり、地は柾目多く白くる風あり。刀文は直刀も フグの目に逆足の交わりたるものあり。忠は棟角に横鑢ある。 室町中期より末期の間に三原刀工は左記のように備後一円に分布し、三原鍛冶と 呼ばれ刀工数は備前長船に匹敵すると推定される。最末期には対明貿易用の 数打ち物も造る。(以下略)】 (現地解説板より。カッコ内一部追加)戦国ファンとしては、武具全般についてもマスターしたいところだけど、私はまだ甲冑の一般知識に留まる程度で、武器までは手が回らない。が、私の相棒は数年前に唐突にカタナにハマってたので、やはり魅力のあるものなのだろう。「三原」という地名については「三原編(6)」に書いたけど、太刀銘の中で最初に三原の文字が出てくるのは、文和2年(1353年)の「備後國三原住兼光」というものだそうな。文献上で「三原」の地名が確認できる時期(1350)と同時期。文献史料でも、刀剣でも、これ以前に三原の文字を確認できるものは、現在のところ見つかっていない。三原鍛冶のルーツについては諸説あって、まだ意見の一致をみていないようなんだけど。対明貿易用に量産されたのなら、大内さんちが仕切った遣明船にも積まれていったのかもしれないな。竹原家でも朝鮮貿易を行っていたというから、こちらのお船にも載っていたのかもしれない。現在残る名作の中には重要文化財が4点あると、解説で省略した部分に書かれている。で、鍛冶曲輪のあったのは、この位置。 (絵図は本丸中門跡の看板にあったものを拝借)「備後國三原城繪圖」では、井戸が書き込まれており(赤の井の部分)、その下に「鍛冶屋敷」と書かれているので、赤丸で囲った長屋が鍛冶屋敷と思われる。たぶんこの井戸の事だと思うんだけど、刀工が刀の焼き入れで使用した井戸が近代まで残されていたそうな。が、新幹線敷設の際に撤去されたという。さて、最初の写真の石垣の裏側には、天守台側から見るよりも立派な石垣が残されていた。天守台に沿った道からは、最初の写真のようにしか見えないから、天守台だけを見に来た人は気付かないかもしれない。 ここでまた大きさ比較。この時飲んでいた500mlのファンタグレープが小さく見えます(笑)。 石垣の高さ自体はそう高くはないけど、なかなか立派な石垣でしょうこの石垣の上にも道路が載っていますが、ファンタグレープの写真から左に向けては、こんな風になってます。 3枚目の写真は、道路を越えていわゆるガード下にあたります。恐らくこの場所は、二の丸東面の櫓のあった辺りだろう。ちょっと新しい感もあるし、全部が往時のままの石垣ではないでしょうけど、まあ大体こんな感じだったんでしょう。そして、これらの石垣の東側にも、かつては堀が広がっていた。三原城の遺構が少ないのは確かに残念だけど、残そうとした努力をここでも私は評価したい。では、駅の南側へ・・・行く前に、駅の構内には三原城をCGで再現した映像(バーチャルウォークスルー)が見られます。これはYou Tubeでも一部公開されてますので、興味のある方は探して見てみてね。で、駅の南側の壁には、三原城から見た瀬戸内の陶版図がある。 本丸の南側と東側は二の丸が取り囲み、二の丸の先はもう海だった。こんな風な光景を、隆景ちゃんもご覧になったのであろう。こちら↓が駅前広場の東側。写真の奥の方には御本門があり、そこから本丸へ侵入・・・いえ、入るようになっていた。 御本門のすぐ東にある櫓台には横矢が描いてある。三原市の観光協会のサイトはなかなか良くできてたし、「城下町みはら散策マップ」もかなりお役立ちだけど、欲を言えば、せめて本丸エリアくらい重要な地点には石碑を建ててほしいかな・・・ってちょっと思う。 ま、それはともかく、現在では本丸はこんな感じに分断されてるのかな~。あんまり正確じゃないと思うけど。 ピンクの部分が、駅および高架。本丸御殿の少なくとも半分くらいは、駅に覆われてると思う。御本門はたぶん、その名の通り本丸の正門でしょう。御本門付近の図はこうなってる。 1が唐門。けど、「三原城本丸建物図」では「裏御門」と描かれている。普段はこっちを使ってたのかな。2が中御門。で、×を2つ付けたのが、せっち~ん 「三原城本丸建物図」は江戸期に描かれたものではあるけれど、かなり細かく本丸御殿の様子が描かれていて、実に面白い。雪隠もあちこちに描かれてるので、図面を眺めてあれこれ想像するだけで私なんかはホントに飽きない。その中でも、やっぱり目が行くのは雪隠だよね。過去にも、わたくしは備中松山城とか岡山城なんかで雪隠を取り上げた前科がありますし御殿内にも幾つも雪隠はあるんだけど、門を入ってすぐのところにまず用意されてるのが笑えた。お供の人用かな~。にほんブログ村
2012年11月03日

↓北西から見た天守石垣。 かつては天守台より一段下がって本丸があり、線路の奥の方まで続いていた。手前の空き地は、現在発掘中につき立入禁止区域。三原市では、9年計画で三原城の整備計画を進めてたんだけど、震災の影響で補助金が半減して、予定より整備が遅れることになったそうな。その第1段の調査区域がこの天守台北側と西側。調査後は2014年度までに武家屋敷の石垣や旧西国街道を再現した広場を整備する予定だったとある。震災の影響が、こんなところにまで・・・あ、ちなみに、三原城は国指定の史跡です。さて、この天守台。前回の記事の解説のように、永禄の築城当時は確かに天守の発想はなかったかもしれない。発想もさることながら、まず石垣の技術が必要とされるものだし。いくら隆景ちゃんが新しモノ好きだったとしても、こればっかりは段階ってものがあるからね~。しかし、三原城は築城からほぼその全容が整うまでに、かなりの時間をかけている。隆景による最後の手入れは慶長の隠居の時で、新高山城から石垣だとか色んなものを持ってきて三原城の用材とし、門や櫓などの大規模な工事を行っている。築城当時は造れなかった天守台も、この時期であれば可能だろう。あくまで個人的な推測だけど、福島正則なら「あぶり」は使わない気がするんだよね。ま、ここも江戸期に補修がなされているので、誰が造ったにせよ、全部が全部当初のままの姿ではないと思われる。で、天守台北側の石垣についてはちょっと興味深い記事を見つけた。まずは、こちら↓が北西の算木。 で、こちら↓が北東の算木。 【現存する天守台の石垣を見てみると北西隅は算木積を志向しつつも不完全で 古式であるが、北東隅は完成された算木積となっていて、築造時期に差がある。 隆景築造の天守台は築造途中であったか、規模が小さかったものを正則が完成 もしくは拡大したものと思われる。】 (「三原城本丸大広間についての考察」/佐藤大規氏より) う~ん、そう言われればそんなような・・・ちょっと、北西部の撮影の角度がマズかったよなだって、調査区域があるから近づけないし。北東の算木は、確かに美しい。で、こちら↓が北東から見た天守台。 下から見ると、やっぱり結構広い堀だよな。ところでこの天守台北面には、前回書いたように、絵図では東西のそれぞれに櫓が描かれている。今、私の手元には3種類の三原城の絵図と1枚の鳥瞰図があるんだけど、このうち「備後国之内三原城所」という正保年間(1644~48)に幕府に提出された絵図は、天守台北面の石垣が他の絵図とは違っている。どう違っているのかというと、櫓台の部分には何と横矢が掛かっているんですね~。 結構、びっくりなんだけど描き間違いかな・・・とか一瞬思ったけど、仮にも幕府の命で描かれた地図で、こんな間違い犯すか!?って気がするし、「備後国之内三原城所」は現在残っている三原城の絵図の中では最も古いものだと言われているので、もしかしたらその後の補修で形が変わったのかな~って気もする。けど、改修工事で横矢をつぶす事なんてあるのかな・・・石垣の破損がどの程度のものだったのかわからないし。ナゾだこの先には、こんな看板があった。 アハハハ、サカナぁ~?釣れんの?こんなとこで・・・看板の先には、地味に二の丸の石垣がある。 大体、三原城の訪城記っていうと、言葉は悪いけど天守台と東船入櫓と中門跡ぐらいの画一的な写真しか紹介されてないんだよね~。でも、結構残ってるんじゃん・・・ただ、内堀の石垣は近年になって一部復元されてるらしい。どこがそうなのかはちょっとわからないけど。ここまで、隆景広場の方からぐるっと時計回りに天守台を見てきましたが、終点はこうなってます。 これを入ると、三原駅の構内。ここまでの記事にも、三原駅が本丸の上に乗っかってることは書いたけど、三原城を見に来る人は、皆この現状を嘆く。嘆いて、興味を失ってしまうのか、細かい三原城の名残とかを紹介する人はあまりいない。「三原編(20)」で書いた不満ってのはまさにここの部分で、三原城シリーズでそれについての文句をつらつら書くつもりでした。でも、やめた。人の事をあれこれ言ってもしょうがないし、隆景ちゃんもそんな事はお望みではないだろう・・・まあ、私だって城下すべてを回れた訳じゃないしね。私の知らない城下の名残もまだ沢山あるだろうし。でも、自分の回ったところはいつもの通りだらだらご紹介していきますので、少しでも興味を持って頂ければ幸いです。で、この構内への入り口ね。こんな風になっちゃってて、私が怒るだろうと思ってた方もおられるかもしれないけど、私は逆に感動したね。ここまでして、よく残したよな~って。ちょっと先へ進めましょうか。上の写真の本丸石垣は、左手の方へもずっと続いてる。 で、これ↓が終点。 矢印の部分は、固めて補強されてる。こんなの、潔くつぶして工事した方が絶対ラクだったでしょうに。この場所に当時の山陽鉄道三原駅が造られたのは、明治27年。城の維持管理なんて費用がかかるし、城の存在意義が失われてからははっきり言ってお荷物なだけ。時代は西欧に追いつけ追い越せだったし。思い切りよく破壊されて、御殿の用材が風呂の焚き付けなんかにも使用されたなんて話に比べれば、この保存は奇跡的ともいえるんじゃないかと私なんかは思うけどね。皆さんは、どう思います? にほんブログ村
2012年11月02日

天守台を奥へと進む。天守台北側から北を見た風景↓。 左側の山が、桜山。山名氏によって築かれたとされる桜山城があり、三原要害もあの山にあったと言われる。そして三原城が築かれてからは、「甲の丸」が置かれたとされる。ホントは桜山にも行きたかったけど、今は適期ではないので、今回は諦めた。三原城は元々三原湾に浮かぶ大小2つの島をつないで造られたという。そして、天守台のあるのは大島の位置だった。善教寺のところで書いたように、かつては桜山の麓まで海が迫っていたので、撮影地点から桜山までは、堀も含め全てが海だった。三原城の築城に伴い、山際までが埋め立てられて東町が形成されたんだそうな。三原要害は大島に築かれたとする説もあるけど、砦であるならやっぱり桜山の方が地理的に有利だと思うんだよね。三原城ができる以前は、山陽道も桜山の北側をぐるりと回り込んでたんだし。そして、九州へ向かう家康も、あの山の向こうを進んでいったのだ。↓同じ地点から見た北西方面。 こちらが西町エリア。今回の旅の2日目で歩き回った沢山の寺が、あちらの山の山麓や山腹に建ち並ぶ。その中に、西の出城の役目を負った寺も含まれているのは、旅日記の方で書いた通り。昔はもっと見晴らしが良かったでしょうから、寺町の様子がはっきり見えたかもしれない。宗光寺なんかも、今よりもずっと規模が大きかったんだし。(西町エリアの寺社は、「三原編(11)」~「三原編(35)」をご参照ください) 【日本一の規模をもつこの天主台は広島城の天守閣なら6つも入るという 広さを持つ。三原城が造られた1567年より約10年後に信長によって 安土城が造られ、初めて天主台に天守閣が聳えるようになり、以後全国に 流行しました。然しこの三原城築城の時はまだ天守閣を造る思想のない時代 だったと考えられます。山城から平城に移行する時代のごく初期の城築です。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)あれ?「天守」じゃなくて、ここは「天主」なんだ。どの絵図にも確かにそう描いてはあるな。まあ、どれも江戸時代の作画だからね・・・日本一の規模だって。漫然と歩いてるとそう広さは感じないけど、↓写真であらためて見ると、確かに広いよな。 天守台とはいうものの、三原城には天守は置かれなかった。一国一城令の後、鞆城の天守を移したという説もあるけど、各種絵図にはどれもそんなの描かれてないし、かなり疑わしい江戸期に描かれた三原城天守台にあるのは、どの絵も3つの櫓を多門櫓で連結したもの。うち2つは北面の東と西の隅にそれぞれ置かれていた。まあ、言うなれば北東隅櫓と北西隅櫓、みたいな。そしてもう1つの櫓が、ちょうど上の写真の撮影地点あたりにあった。ここから西側を見ると、こんな感じ↓。 正面に見えてるのが、隆景広場。 正保年間(1644~1648)に幕府に提出された「備後国之内三原城所」などでは、あのお向かいさんは南北に細長く延びる曲輪で、「侍町」と書かれている。 天守台および本丸を取り囲む内堀は、現在はモスグリーンのバスクリン(←ウソです)で満たされているが、絵図でははっきり確認はできないものの、かつては海水がここまで入り込んでいたのではなかろうか。では、天守台を下りて今度は下から天守台を拝見しましょう。天守台への入り口があるのは、三原駅の北側。北口のドアから少し先の西口の表示に従って構内を抜けて隆景広場へ行く手前に、石垣がある。 これは本丸石垣。一部近代の補修の跡があるし、この辺は積み直されたものだと思うけど、形状はおおむね残されてる。かつては天守石垣に続く石垣が、写真で言えば左の隅の方にあり、ここは石垣で囲まれた細い区画になっていた。慶応に描かれた「備後國三原城繪圖」では、ここには長屋みたいな建物が描かれていて・・・牢屋?傘屋?(笑)。字が小さくてちょっと読めましぇ~ん・・・さらに数歩進むと、天守石垣の美しい勾配が姿を現す。 実はこの写真のすぐ左側には、堀に面したベンチがひとつ置かれてるんだけど、このベンチがまた人気でねえ~(笑)。ここは何度も通ったんだけど、かなりの確率で誰かしら座ってた。新幹線ガード下で、天守石垣が拝めるベンチ・・・全国的にも、数少ない立地の良さ。競争率が高いのも仕方がないわな つっても、ここに座ってたほとんどの人は、石垣なんか興味のなさそうな地元の人っぽかったけど。↓天守石垣の南面と西面。 ↓隆景広場から見た、天守石垣の西面。 【(上の解説の続き)この裾を引いた扇の勾配の美しい姿は群を抜きます。 しかも余人は真似るべきではないといわれた「アブリ積み」という特殊の工法は、 古式の石積形式を400年経た今日まで立派に伝えております。 1707年の大地震では、城内を役夫2万5千人を動員して修理した。 しかし、破損個所は・・・「元のごとく成りがたかりしを、伝右衛門(竹原市下市) をして築かしめられけるに、遂に築きおさめければ・・・」とあるが、 これは東北陵面のことと推測します。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)アブリ積み?聞いたことないなあ・・・「アブリ積み」について調べてみてもロクな解説はなかったんだけど、かろうじて国土交通省河川局河川環境課様の資料の中に見つけた。それによると、 【石の控えの寸法よりも面の寸法を高くした積み方。表面的には石が 積まれているように見えるが、控えがなく不安定な積み方となる。】 (「河川の景観形成に関する石積み構造物の整備に関する資料」より)とある。石積みといえば穴太衆が有名だけど、現在も続く穴太衆粟田家の積み方は、 ・奥行を長く持ってくることで、重心が奥にかかるようにする ・石を横に寝かすことで、接点を増やすなんだと「天下の名城」という番組の中で粟田家のご当主が説明していた。これを図にすると、こんな感じかな。 控え(=奥行)よりも面(=表面)を高くするという事は、石を立てるってことだよね。粟田家では必ず石を寝かすと言っていたから、つまりはやっちゃいけないやり方な訳だな。横に寝かせて接地面を増やした方が、安定するに決まってるもんね。上の国土交通省の資料の中でも、この「あぶり」は【望ましくない積み方の代表例】として紹介されている。アハハハ、そうなんだ~ホントに今でも、この積み方が天守石垣の中に残ってるのかな~。当初は天守を置く予定だったとも言われているけど、やっぱり置かないで良かったんじゃ・・・(笑)。にほんブログ村
2012年11月01日
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