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六の平櫓の向かいにある土塀は、雁木付き。 土塀の奥が、八の平櫓跡。 写真だと木に覆われてて分かりづらいけど、ここから下を覗くと結構な高さ。 この八の平櫓は天守のすぐ脇にあり、かつては八の平櫓から現在の天守入口に通じる渡り廊下があってそこから入るようになっていた。水谷氏の時代に幕府に提出された正保城絵図には、まだ出来ていなかったのか、あまりこまごまと沢山の櫓は描き込まれてないけど、天守に連結された八の平櫓ははっきりと描かれている。さて、天守。 今さらですが、現存十二天守のうちの一つであり、重要文化財。大和高取城・美濃岩村城と並び日本三大山城と称されるが、その中で現存天守を擁するのは、この備中松山城のみ。同時に、全国の山城で現存する唯一の天守。天守自体は、毛利領の時代から小堀氏が入城する頃までにはすでに存在していたと考えられているらしい。三村氏の時代までは、主郭は大松山だったしね。一般的には、現在の天守は水谷氏によるものとされているが、小堀親子が建てたものを水谷氏の2代目が改修したともいわれている。高さ12m、2重2階で小ぶりだけど何気に複雑な外観。本来は廊下部分だった付櫓もあるし。 【備中松山城の天守は二層二階ですが、絵図や記録によっては「三重櫓」と表現された ものも少なくありません。天守を西側面から見ると、八の平櫓から続く渡り廊下の 屋根が重なって三層に見えます。】 (天守内部の解説板より)あと、最上部の破風がどうも目を引く。なんか変わってる気がするんだけど・・・城に限らず、寺院などの古建築の意匠まで見るようになったのはごく最近のことなので、あまり他との比較ができないのだが、なんか違う。でも何が?だいぶ後になって、その理由がわかった。屋根が合わさる部分に付ける飾りは懸魚(けぎょ)という。妻壁については岡山城で簡単に書いたので、おさらいしたい人はこちらをどうぞ。松山城の破風はこうなってる↓。 妻壁は塗籠、奥行がなく妻飾りもない。そして懸魚。黒くて模様がよく見えないので、最初はこれが斬新な形をしてるのかと思った。でもよ~く見ると、形式はたぶんスタンダードな「三花蕪(みつばなかぶら)懸魚」。じゃあ、何が違うんじゃい・・・と思って本を見てて、ふと気がついた。妻壁が塗籠の場合、懸魚ってたいていどこも白いんだわ。ここのは黒いし、木でできてる。そっか、そーゆーことかあ~!!パーツごとに色々格式もあるので、破風全体を見た場合のトータルでの格の高さとかまではよくわからないけど、松山城は妻壁に奥行がない分、妻壁の白に懸魚の黒がより映えて美しい。私は好きだね、ここの破風それから、下見板張。 【天守の外装を白と黒のコントラストで彩る漆喰と腰板。備中松山城の腰板は、 「竪板張り」と呼ばれ、縦方向に板が張られています。通常、城郭建築の腰板は、 「下見板張り」と呼ばれる横方向に張られたものが多く、現存する天守の中では 備中松山城のほか高知城天守が知られています。】 (天守内部の解説板より)え~、下見板張って、よく見たことないけど縦かと思ってた。高知城はむか~し行ったけど、ただの観光だから覚えてないし。でも調べてみると確かに、城郭建築だけじゃなく普通の建築とかでも横張りのが一般的みたいだね。知らなかったあ~・・・天守の規模については、内部にこんな解説があった。 【備中松山城の天守が他の城の天守と比べて小さいのは、備中松山城の天守が 権威の象徴としての役割しかもたず、城主の居館や政庁としての役割は山麓の 「御根小屋」(現高梁高校)が担っていたことによります。 言い換えれば、備中松山城の天守は、御根小屋と一体となってはじめて通常の 天守として機能しているということになります。 絵図や記録の中には、現在の大手門までを本丸として捉えているものや、 御根小屋のすぐ東側を流れる小高下谷川を内堀、伊賀谷川(紺屋川)を中堀、 高梁川から下谷川を外堀として、御根小屋までを「丸の内」と捉えているものも あります。】他に、こんな解説も・・・ 【秋冥菊(しゅうめいぎく) 天守台の周辺を中心に群生し、毎年秋になると花が咲き乱れます。ここの秋冥菊は 赤いものしか咲きません。備中兵乱をはじめとする戦で散った歴代城主の怨念という 伝説もあります。】私が行った9月は、まだ咲いてなかった。今度はもう少し遅い時期に来てみようかな・・・菊になった元親に会いに。それでは、中へ入りましょう。天守へ至る花道が、かつての渡り廊下部分。 入口はこんな。 入るといきなり、木の板に書かれた解説が置いてある。 【接続(つなぎ)廊下 この天守は二重二階であり、ここは一階ではなく、八の櫓と天守をつなぐ 廊下である。】入ってすぐに小さな階段があるんだけど、天守内部にある沢山の解説の中にはこんな写真もあった。 写真が光っちゃってて、ごめんなさいね。この他にも、柱がアリの被害にあったりとか、漆喰が剥がれたりとか、石垣がたわんだりとか維持管理に苦労してるんだよ~って写真が展示されてた。 付櫓から内部へ。 ああ、天守ってカンジ~。あれこれ意匠を凝らした外観と内部が激しく違うのが、ホント面白いよな。入った脇には、石落としがある。 【石落し 一階の床の一部を石垣上に張り出して設け、敵兵の攻撃に石を落とす。外観は丁度 魚の「えら」に似ていることから鰓形窓(えらがたまど)とも言う。】こうして内側から見ると、結構幅あるよな・・・1階には色々解説板とか展示品とかあるけど、先に2階から見ようかな。にほんブログ村
2012年04月30日

鉄門の石垣の上に立って、ありし日の櫓門を想像したりシミュレーションしたりして一人で静かに遊んでたら、後から上がってきたお姉ちゃんが鉄門に着くなりデカい声で「あ~!お城が建ってるう~!!」と叫んだので、大爆笑をこらえるのが大変だった。城に来て、「城が建ってる」とはこれいかに。この鉄門の脇には、松山城の沿革を記した解説板がある。備中兵乱のところまでは大体書いたので、関ヶ原以降の部分だけ引用しようかな。 【関ヶ原の合戦後、全国の実権をほぼ掌握した徳川家康は、毛利領の中で最も東にある 備中松山城に国奉行として小堀正次・政一(遠州)父子を赴かせた。 小堀氏は頼久寺において政務を執っていたが、政一は慶長10年(1606)に御根小屋と 備中松山城の修築を行っている。その後、政一は所管常陸下館から成羽を経て、 寛永19年(1642)、水谷勝隆が入城する。 水谷氏は、勝隆、勝宗、勝美の三代が備中松山藩を治めている。初代の勝隆により 玉島新田の開拓や高瀬舟による高梁川水路の開発など、主に経済基盤が整備され、 県下三大祭りとして有名な「備中松山踊り」もこの頃に始まっている。 さらに2代の勝宗は、天和元年(1681)から3年にかけて備中松山城の大改修を 行い、現存する天守や二重櫓、その他の櫓、大手門、二の丸櫓門、搦手門など 全容が完成している。 しかし、3代の勝美が若くして急逝、跡継ぎがなかったため水谷氏は改易と なっている。 元禄6年(1693)水谷氏断絶後、播州赤穂藩主浅野内匠頭長矩が城の受け取りに あたり、城代家老大石内蔵助良雄は1年近く在番として備中松山城にとどまっている。 その後安藤重博・同信友次いで正徳元年(1711)に石川総慶が城主となり、 延享元年(1744)に石川氏に代わって伊勢国亀山(現三重県亀山市)から 板倉勝澄が入城する。板倉氏はその後、勝武・勝従・勝政・勝おき・勝職・勝静・ 勝弼と7代続き廃藩置県を迎える。】※板倉「かつおき」さんは、漢字が環境依存文字(←楽天ブログでは使えない)なので 漢字で表記できませんでした。 明治の廃城令の際には、「壊すにはカネもかかるし、どうせ山の中じゃからわからんじゃろう」と壊したって報告だけはしといて、山上の城郭は放置されて荒れ放題・・・猿の城にまでなっていたなんて話もある。本丸には、天守と二重櫓だけがかろうじて残っているような状況だったと。手元にある昭和初期の天守の写真を見ると、白黒だし木に覆われててはっきりとはわからないが、まさに廃屋。よくこれで残ったもんだ、って思うね。昭和3年になって二重櫓・土塀の修理からスタートし、その後、松山城保存会が生まれ、昭和12年二重櫓・土塀の一部が修復された。松山城復興のムードはさらに高まり、昭和14年には当時の高梁町長が町財政の大半を投入して、天守の解体修理や二重櫓・土塀の補修にまで漕ぎつけたという。今ののん気な時代からすると、「よくやった、町長!」って気軽に言いたくなるけど、昭和14年って1939年・・・第二次世界大戦の勃発した年ですよ。結構、これって大変な事だったんじゃないのかな~。時代が下って、平成6年には本丸跡の本格的な復元工事が始められ、五と六の平櫓、土塀、南御門などが復元されて現在の姿に整えられたという。二の丸から本丸へは、手前側の石段を上がっていく。五の平櫓に設けられた石落としから狙われないように気をつけて、っと(笑)。 狭い石段を上がっていくと、そこが受付。これより有料。受付のすぐ前は、五の平櫓と六の平櫓の間にある本丸南御門。古写真や発掘調査の結果を元に復元されたもの。もらった「備中松山城」ってリーフレットには、南御門について 【木造本瓦葺き、棟門、開き戸。復元された五の平櫓と六の平櫓の間にあり、 本丸の正面玄関にあたる。大手門についで格式が高かったといわれる。】って書いてあるんだけど・・・どうもこれ、納得がいかない。棟門(むねもん)ってのは城門の形式の一種ね。通常、ちゃんとした門には下の写真のように、門の基礎となる柱(鏡柱)の他に、背面にもう1本支えの柱(控柱)を立てて、安定性を高める工夫がされてる。(下の写真でいうと、手前側の柱が控柱になります) (膳所藩の藩校・遵義堂の移築門)ところが、棟門ってのは2本の立った鏡柱に冠木を通して、その上にポンと屋根を置いただけの簡素な造り。支えがなくて不安定だから、石垣に挟まれた狭い通路などにしか使われない門だった。それが、大手門に次いで格式が高い?大手を引き合いに出してるってことは、本丸に限定された話でもないみたいだし、門の形式だけでいうなら、櫓門が一番格が高いって勉強したけど。なら、二の櫓門の方が格が高いんじゃ・・・「本丸の正門」としての部分を評価したのかもしれないけど、なんかしっくりこないんだよなあ。まあ、そうは言っても徳川政権が安定してからの天守なんてどうせ贅沢な空き家だったんだし、まして山上と山麓に城の機能が分かれていた松山城に「略式の門で格が高いって、おかしくね?」な~んて突っ込んでみたところで、大した意味もないものだとはわかってるけどささて、本丸入口は見ての通り、階段は細いし、南御門前は超ミニマムなスペース。寄せ手は一度に大勢は上がれない。狭すぎて、大筒も使えそうにないしな・・・それでは、南御門をくぐって、本丸へ侵入~ 五の平櫓(向かって右)と六の平櫓(同左)は、いずれも復元されたもの。六の平櫓の内部はちょっとした資料館になっている。ビデオコーナーがあったけど、椅子が埋まってたので終わるまで内部や展示品をじろじろ見て回る。こんな絵図もあるし。 う~ん、いつの時代のかわからないけど、小松山部分だけ描かれた絵みたいだな。手前の山麓に描かれてるのが、御根小屋ね。三村氏もここに居館を置いていたといわれているが、具体的な構造などについてはわかっていない。六の平櫓はそう広くはないけど、内部は結構きちんと造ってある。 人がいなくなったところで休憩がてらビデオを見て、外に出たらこんなものがあった。 へ~え、備中宇治茶・・・せっかくなので、ありがたく頂く。細やかな気配りが嬉しいのぉ・・・六の平櫓を出ると、向かって左側へと続く土塀が目に入る。 土塀沿いに一段下がった隅っちょが、七の平櫓跡。復元図とか復元模型とかを見ると、六の平櫓と七の平櫓は渡り廊下か多門櫓かでつながってるように描かれてるものもあるから、昔はつながってたのかもしれない。今は下の写真の通り、七の平櫓は「跡」だけだから、建物部分は六の平櫓で切れちゃってるけど。 にほんブログ村
2012年04月29日

ひとしきり防御ごっこを楽しんだ後で、厩曲輪から出ようとしたらこんなのが目に入った。 「びっちゅうまつやまじょう にじゅうやぐら」?二重櫓って、もっと上の方じゃん。こんなとこに立てかけてあったら、知らない人は厩曲輪に二重櫓があったのかと勘違いしちゃうかもよ。一体、誰がこんなものをこんなとこに置いたのか・・・厩曲輪から、通路を渡ってお向かいの曲輪へ向かう。この図で言うと、まだ左下の部分。(図は「備中松山城 国指定重要文化財」のリーフレットからです) ここには城郭にふさわしい外観の、和風なトイレがある。 なんでも、観光客の減少を憂えた高梁市は、24年度予算に観光のインフラ整備事業を組み込んで色々頑張るみたいだけど、ここのトイレもその対象になっとるらしい。トイレ用に157万円の予算を計上してあるんだって(笑)。半年経って、使い心地が特に良かったとも悪かったとも記憶してないから、まあ普通のトイレだったと思うんだけどね。てゆーか、登山とかだとトイレがあるだけでありがたいし、なくても散々山の中で用事は済ませてきた経験があるから、私はその辺は全然こだわらないし・・・しかし、それはあくまで自然の中に分け入っていく登山者の感覚で、重要文化財、しかも現存十二天守を擁する歴史的観光地としては、やはりトイレの格式などにもこだわらねばならんのだろうな・・・維持・管理も大変だよね。ホント。ところで、このトイレが建つ曲輪は「御膳棚曲輪」。「御膳棚」って、たぶん名前のまんまだよねえ・・・よりによってこの曲輪にトイレを建てんでも・・・ んで、このトイレの裏の石垣は二の丸の石垣なんだけど、ここの積み方がすっごい変なの。 写真じゃちょっとわかりにくいかな・・・真ん中から左側の部分と、下の部分。たぶん、最近補強か何かしたものだとは思うんだけど、もうちょっと何とかならなかったのかなあ ちょっとこの積み方はあんまりじゃな~い?今回は臥牛山全体を踏破した訳じゃないので自分で確かめてはいないけど、この先には公衆トイレはないって言ってる人がいる。ので、奥までずずずい~っと進まれる方は、ここでスッキリさせておいた方がいいみたいですね。ええ、もちろん私もありがたく使わせて頂きましたよ。奥までは行かないけど、まだ当分時間がかかるのは目に見えてるし(笑)。さてと、上を目指そう。 黒門から二の櫓門(上から2つめの図では鉄門跡)へ至るゆるやかな直線は、平成の世に生きる私達が登城する分には、なんか空も開けてきてそろそろ上が近そう・・・とテンションが上がってくる道。しかし、本来は大手を制してしぶとく城内へと入りこんできた寄せ手を、ここでバッタバッタと討ち取らねばならない場所。鉄(くろがね)門は名前の通りの構造だろうし、黒門もおそらく名前からして鉄板張あたりの造りになってて、ガード堅そうな門が2重に待ち構えてる・・・しかも、道と平行して石垣があるため、二の丸手前における第1のダンジョン(黒門)から第2のダンジョン(鉄門)は常に攻撃を受ける危険にさらされており、寄せ手にとってはまさに死の階段・・・死の階段を上がりきって左に曲がると、そこが二の櫓門(鉄門)跡。 結構大きな石も使われてて、櫓門の石垣は立派。ここにある標識には、 【ふるさと村 1.9km 大松山 0.6km】って書いてあるように見えるんだけど、ちょっと距離おかしくね?この先に行った人の記録を読むと、もっと距離ありそうなんだけど。もっと遠いことを示す看板がこの先にあるって書いてあるんだけど。まあ、今回はどのみち行かれないし、いっか~。ここには、門の礎石もありますですよん。 さて、今はなき門をくぐるとそこが二の丸。写真で見たまんまの光景が眼前に広がる。 二の丸も、そんなに広くはない。曲輪の隅は、台風などの影響なのか危ないから近寄ってくれるなとロープが張ってあった。あ、待って、こっちは東側だから、こないだの台風で崩落した石垣が下にあったのかも。安全のためにロープを張ったってニュースを読んだもんな。 おきゃやま辺りって、あんまり台風直撃とか聞かない気がするけど、近世城郭部分の築城から少なくとも300年以上経ってるんだし、長い歴史の中には何度も自然災害にも遭ったでしょう。そんな中を、理由はどうであれこれだけの遺構が残ったってことに、まず感動。今回は、その自然災害の煽りをくらって行動も制約されたけど、災害の爪跡を目にしながら登城したおかげで「こうした中を生き抜いてきた貴重な史跡なんだな~」と実感することもできたので、これはこれで良かったと思ってる。行かれなかったところは、また後日再訪するつもりだし。↓ランキング参加ちうで~す。ぽちしてね。にほんブログ村
2012年04月28日

二の平櫓跡から進行方向を見る。 左側の土塀は「三の平櫓東土塀」。重文に指定されているが、一部は復元されたもの。奥へ進む前に、もう一度大手を振り返ると、やっぱりすごい。 太田金山城の大手も結構感動モノだったけど、ここのは高度感が違う。建物が残っていれば、それはそれで素晴らしかったでしょうけど、遮るものがなくこうやって石垣の美しさを眺められるのも、また良いものじゃ1枚目の写真の右側の石垣、この上にはかつて足軽番所があった。その奥は三の丸。三の丸の上にも素敵な石垣が続いてるけど、まだちょっと上がるのはガマン。ちなみに、下の段の石垣は厩曲輪の石垣ね。 現在、三の丸には何もないが、かつては奥に上番所があった。 三の丸の通路を挟んだ向かいには、三の平櫓跡。 通路に戻って上を目指す。石垣の群れに、もう鼻血が出そう・・・ この石段の上はほぼ90°に曲がって、さらに上へと続く。ここが黒門跡。 曲がる前に後ろを振り返ってみると、何気に上がってきたらしい。脇にそびえる石垣を見上げながらちんたら上がってきたので、気がつかなかった(笑)。 黒門の左手が、四の平櫓跡。 黒門の右手に「厩曲輪」と書いてあったので、まずそちらへ行ってみる。 ここは黒門から二の櫓門へと上がる石段と平行する、細長い曲輪。奥に、土塀が見えるし。行ってみよう 現地でもらった資料には、この厩曲輪の土塀は一部現存ってあるように見えるんだけど・・・どれがそうかわからない写真じゃイマイチわからないかもしれないけど、この厩曲輪は結構高い位置にあってね、奥まで行っちゃって大丈夫かな~とこわごわ土塀のところまで行ってみた。穴があれば覗きたくなるのは、人間の習性。で、狭間から覗いた眼に映ったのは・・・ ・・・あっ、ああっっ!!大手じゃん!! うっひゃあ~、ここからも狙えるんだ~!!すげえ~・・・・・・・結局、この厩曲輪の土塀は、大手で下から見上げた時に最上部に位置した場所なんだってことがわかった。(上から2枚目の写真の一番上の土塀)あの、崩落の危険のある岩盤の上にあるやつね。あちこちの曲輪や櫓跡をうねうね回りながら歩いてきたので、すっかり方向感覚もなくなってたけど、まさかこの銃眼からこの景色が見えるものだとは思いもしなかったので、しばし呆然・・・まあ、実際はこの下の三の丸に上番所とかの建物もあったので、当時もこんなに見とおせたのかはわからないけど。カンドーして銃眼から覗いてるうち、ちらほらと人が大手に入ってきたので、城兵になってこの厩曲輪の銃眼から何発か侵入者にエアーの火縄銃を撃ち込んで、防御のシミュレーションをしてしばらく遊んでたのは言うまでもない(笑)。いっつも、本人の預かり知らぬところで、侵入者に見立てられて私の防御シミュレーションの的になるのは、一般の善良な観光客・・・にほんブログ村
2012年04月27日

「戦国大名」の定義は確定してないみたいだけど、三村氏については戦国大名としている人もいれば、そうでない人もいる。私は、戦国大名とは見ないかな・・・もちろん、庄氏も上野氏も。そうすると、ついに備中から地元産の戦国大名は立たなかったことになる。大国の狭間で幾多の戦いを繰り広げながら、戦国大名を出せなかった備中の歴史・・・備中兵乱までは、毛利氏は備中に対して間接支配の形を取ってきたけど、三村氏滅亡後は諸城に元清(穂田氏の養子となった)はじめ、配下を入れたので乱後は完全に支配下に置くことに成功した。隆景ちゃんのとこに家出した、三村元親の叔父・三村親成は「元親を押さえられんかったなぁ、われの責任だー」と言われ、減封。かつての所領の半分以下になったともいわれている。ただし、成羽城は安堵された。この親成さんは、毛利家から三村家あてに書状を出す際には、当主である家親だけでなく親成にも見せるように元就が言ったという話が残っている。かなり、信頼されてたみたいだね。こんな毛利と三村の仲の良さを引き裂いたのが、宇喜多直家。三村氏の不幸は、なんといってもタチの悪い隣人がすぐそばにいたことに尽きるよな「あいつ、嫌じゃから引っ越そう」って訳にいかないもんね~。備中兵乱の直接の引き金となった(と思われる)当の宇喜多さんは、いちおう三村討伐に参加してたみたいです。毛利と同盟国だしね。けど、そんなに大規模な出兵もしていなかったらしく、具体的にどこでどーゆー働きをしたのかはよくわからない。ただ、乱の終息後は備中の南の一部が宇喜多氏に与えられたという。しかしそのわずか4年後、宇喜多直家は毛利氏との同盟を破棄して羽柴秀吉に応じてしまう。こんなことは同盟を結ぶ以前から充分に想定できたので、「それみんさいやー」※それみなさい、の意と元春ちゃんが鼻を鳴らしながら言ったであろうことは想像に難くない。さて、備中兵乱後、三村親成さんは成羽城に元親の妹などを引き取って、面倒を見ていた。その頃転がり込んできたのが、水野勝成。この人も面白い人で、徳川家康のいとこにあたるそうだが、ちょっと自由な人だったので家を出て諸国を放浪。実父から奉公構をされていたため、あちこちを転々とするが、親成さんはこの居候を丁寧に扱い、元親の姉妹であり自分の姪である娘を養女にして、この自由人に嫁にやった。自由な人ゆえに、この居候期間に侍女との間に子まで作っちゃったらしい。結局、親成さんのところも飛び出しちゃうのだが、後に父親と和解して家督を継いだ自由人は、関ヶ原・大坂の陣で大活躍して福山城を建て、備後福山藩の初代藩主となる。一方の親成さんの関ヶ原での具体的な動向はわからないが、毛利家の減封に伴い、成羽城を出るハメになった。備前児島で細々と暮らしていた親成さんを家老として迎えたのが、先程の自由人・水野勝成。人生って、わからないもんだね(笑)。居候の嫁に出された三村家親の娘・於柵はいちおう正室の扱いになってはいるが、水野家に家親の血を残したのかどうかはちょっとわからない。ちなみに、侍女に産ませちゃった子は、後に福山藩二代藩主となる。備中兵乱で三村の直系は絶えたけど、上田氏に養子にいった実親の血は残ったらしい。(実親は、「備中松山城(5)」の系図をご覧ください)その子孫の中から、二松学舎の創設者・三島中洲が出た。親成さんの方の家系は3代後までは水野家の家老職を継いでいたが、水野家改易に伴い福山に土着した。現在でも、福山を中心に親成系三村氏の子孫は多く残っているという。備中兵乱後、毛利氏は松山城に城番を置き、主郭をそれまでの大松山から小松山へと移した。関ヶ原後は幕府の直轄領となり、小堀正次が代官として松山城に入った。正次さんは備中松山藩初代藩主となるのですが、この人も2度還俗したりしてて、みんな面白すぎる~正次さんは松山城に入って4年後に亡くなるんだけど、この人と磯野員昌の娘との間にできた子が後を継いだ。それが小堀政一。一般的に「小堀遠州」の名で有名な方です。築城家としても名高い政一さんは、臥牛山の麓にあった三村氏の居館跡に陣屋を築き、下屋敷である御根(おね)小屋を作った。慶長11年(1606)頃から山上の城の改修を始めたが、途中で転勤になっちゃったので、改修は小松山まででストップ。池田氏の後は水野勝成の預かりとなって城番を置いたみたいだけど、この時は三村親成が入った訳じゃないみたいだね。 その後に入った水谷(みずのや)氏、この2代目が大規模な改修を行って現在の姿に整えられたという。現在「備中松山城」と呼ばれる近世城郭部分はこんな感じであったらしい。(図は二の丸にある看板の復古図です) 大手の手前には、かつて犬走りがあった。 【犬走り口 犬走りは表門を迂回して裏門へ至る横道であり、犬走り口はその虎口(出入口)に 当たる。備中松山城の場合、土塀の痕跡がとぎれる大手門下の現在地にあたり、 ここから天守裏の搦手門に通じる犬走りが続いている。】 (現地解説板より)そして、大手の解説。 【大手門跡 備中松山城は、自然の地形を巧みに利用して築かれているが、なかでも大手門はその 典型。山麓から続く登城道に対し、大手門が東を向いて構えているので、進入が 矩(かね)折りとなり、内部は踏面(ふみづら)の長い石段と高い石垣でまわりが 囲まれ、半ば枡形構造(門の内側もしくは外側に、敵の直進を防ぐことを目的に 設けた四角形の空間)となっている。 城内へ押し寄せる軍勢等の勢力をそぐためにとられた工夫で、備中松山城の大手門は 実戦向きに築かれている。 攻撃あるいは防禦にあたっての重要な軍事施設であると同時に、大手門は城下に威を 奮う統治上の象徴的施設でもある。そのため城内に6つある門のうち、最も複雑な 進入形態をとるとともに、最大の規模を有している。】 (現地解説板より)大手の向かって右側、崩落の危険のある岩盤の手前は上がれるようになっている。 上がるとこれ。 おお、櫓門か~。わかりやすい進行方向は、左側・・・いっきなり銃眼から狙われてるカンジ 土塀の左側が、二の平櫓跡。かつては大きな大手櫓門のすぐ隣に、この櫓が建っていた。 にほんブログ村
2012年04月26日

天正2年(1574)、11月10日までに備中笠岡に集結するよう諸将に申し渡し、毛利輝元自ら出陣。その数、8万。隆景ちゃんは出陣したが、元春ちゃんはエネルギッシュな山中幸盛の対応に追われてて、行かれなかった。ただし、元春は最後まで「わしが元親に直接おぉて説得する。必ず連れ戻すけぇ、討伐はいけんのんでぇー(※)」(※)討伐はいかんぞ、の意。と本格的な討伐には粘り強く反対したらしい。かつての覇者・三村氏も、明善寺合戦以降は勢力に陰りが見え始め、備中勢から討伐軍への参加もあった。その中には、清水宗治の姿もあったという。だから、この時点で宗治はすでに独立してたんだね。もと主家(石川家)の、さらに主家だよ・・・戦国時代って、過酷じゃのぉ・・・三村さん一家は大体こんな感じらしい。 長男・元祐とか石川久式(ひさのり)の名はこれまでに何度か出てきているので、覚えて頂いた方もおられるでしょうか・・・この他にも、三村の一族が支城を守っていた。三村軍は総勢2万。しかし、12月18日頃までには佐井田城・有漢城・矢蔵畦城・庄田山城・野山城などが松山城に退却。12月23日、毛利軍が国吉城の近くに布陣。毛利陣営では、一気に松山城攻略を唱える者と、支城を落としてからメインに取り掛かるべきとする者とで意見が分かれたが、輝元は後者を採用し作戦が決定。残った三村の支城の中で最も西に位置する国吉城が、最初のターゲットとなった。国吉城を守るのは、三村一族の三村政親(元親のおじさんかも)。指揮に当たった小早川隆景は、三村政親からの降伏申し出を受け入れず、ガンガン攻め立てた。驚いたのは、三村政親。強大な毛利氏に謀反を起こしたんだから、甘く考えてもいなかったでしょうが、たぶん、三村軍はこの時点で毛利軍の本気を感じ取ったのではなかろーか。ここでの戦いは、三村軍でも名だたる武将を揃えた城方が頑張ったので、両軍から死傷者が出るばかりでなかなか城が落ちない。イラついた隆景は三方から大砲を撃ち込ませた。結局、政親はわずかな供回りだけを引き連れて、松山城へ逃亡。国吉城に入った毛利軍は、城に残った300あまりの城兵を皆殺しにしたという。これが翌天正4年1月1日のこと。正月早々、隆景ちゃんたら、何てことを・・・1月2日 毛利軍、成羽(なりわ)城に移動。 ここがわからないんだけど、大きな戦闘があったとは書いてないんだよな・・・ 元は家出した親成の城だったから、空き家だったのかな? まさかね・・・1月8日 隆景が2万の軍を率いて楪(ゆずりは)城攻撃。 元親の弟・元範は討死。この間、毛利軍が猿掛城などを落とす。もし庄(穂田)元祐がこの時点で生きてたら、多分奮戦してこの戦いで名前が出てくると思うんだけど、出てこないから、これ以前に亡くなってたのかな・・・この時、猿掛城主は三村兵部とされている。1月17日 毛利軍、荒平山城攻撃。 城主・川西之秀(ゆきひで)の守るこの城は守備が固く、 他を先に攻めることにして一旦撤退。1月20日 美袋城落城。 城将の三村民部丞忠秀は児島へ流される。1月23日 鬼身(きのみ)城攻撃。1月29日 鬼身城落城。 上田家に養子入りしてた元親の弟・実親は城兵の助命と引き換えに自刃。 これには別の説もあって、助命を条件に実親の自刃を申し出たのは 養父だったが、 「若い実親を犠牲にして、ヨイヨイの自分が生き延びようとするたぁ何事か! わしゃぁ認めないぞ!!」 と輝元が憤慨して攻撃を続けさせようとしたが、討伐を迅速に完了させようと する重臣達に説得されて、しぶしぶ降伏を受け入れたともいう。 実親は20歳の若さだった。 1月下旬 荒平山城再攻撃。 城主・川西之秀は地元の豪族の人で、備中兵乱で三村氏に味方した。 川西之秀の身の処し方については諸説ある。 ・鬼身城落城を知り戦意喪失したのか、逃亡 ・城兵の助命と引きかえに讃岐へ流される ・三村元親および中島元行(毛利方)の親類にあたる関係で、 毛利氏が中島元行を通じて説得 いずれにせよ、ここで荒平山城も脱落。この頃、毛利輝元は体調を崩し、一旦山を降りて小田にて休養。おいおい・・・またこの頃、石川久式が妻子郎党300名を引き連れて幸山城から松山城へ合流。幸山城は家臣の友野石見守が守備した。2月に入り、元親の妹婿・上野隆徳の守る常山城を毛利軍が包囲し、常山城から松山城への応援を妨害。3月1日 毛利輝元が成羽城に復帰。 休養、長くね・・・(笑)。 いちおう、作戦会議とかはしてたみたいだけど。3月16日 松山城にほど近い鶏足山に陣を置いた小早川隆景はソッコー松山城下に押し寄せ、 両軍激突。 日没を迎えたため、双方兵を引く。4月24日 既に周辺諸城は陥落し、孤立無援となった松山城だが、 元親が手塩にかけて要塞化したこの城を、隆景は力押しにせず持久戦に 持ちこむことにした。 そこで、この頃までに備中・美作国境付近までの広範囲の麦の刈り入れを した上で、一旦成羽城に戻る。さて、ここで織田家との同盟に反対していた者の中から内通者が出た。5月20日 寝返り連中が、石川久式の隙を狙って久式の妻子を人質に取り、 天神の丸を占拠。 つまり、元親の妹ってことだよな・・・たぶん。5月21日 毛利軍、あせびの丸占拠。5月22日 三村元親は討死を覚悟したが、家臣に説得され再起を図ることにして 松山城を脱出。6月2日 逃亡中、家臣とはぐれた上に鞘から抜けた刀でうっかり足を負傷、 歩けなくなった元親は隆景に切腹を願い出る。 そしてかつての同僚である毛利家臣・粟屋元方の見守る中、松連寺にて自刃。 人といふ 名をかる程や 末の露 きえてぞかへる もとの雫に の他、辞世数首を残した。 うち一首は、細川藤孝にあてたものだったという。 なんでいきなり藤孝!?と思ったら、当時の戦国武将は文化人との交流も多く (ジャンル的には藤孝は武将に入るけど)、元親は詩歌に精通するなど 教養人でもあったらしい。 今回の一連の戦いのさ中にも、藤孝は元親に『八雲集』を届けたという。 他にも、元親の叔父の親成なんかは、2度の遣明使経験を通じて大内氏とも ゆかりの深かった策彦周良(さくげんしゅうりょう)から墨蹟をもらったり と、案外三村氏の交友関係は広かった模様。ちなみにこの墨蹟は、 京都国立博物館に収蔵されているそうな。 元親の生年はわかっていないため、享年も不明。6月7日 最後に残った常山城を、6,000程の毛利勢が包囲。 別れの酒宴ののち、上野隆徳の継母が自害したのを皮切りに、一族の凄惨な 自害の場面が続く。涙なしには読めません、ホント・・・ そんな中、上野隆徳の妻で三村元親の妹である鶴姫は気丈にも侍女33人を 引き連れ、一矢報いるべく乃美宗勝に挑むが、最後は父・家親から譲り受けた という国平の大刀を置いて城内にて自刃。 城主・上野隆徳も妻の後に自刃。 6月23日 石川久式と松山城から脱出していた元親の子・勝法師丸が捕えられ、斬首。 わずか8歳であったという。 石川久式は阿波へ落ちのびようとしたが、毛利軍に包囲され、自刃。 密告によるものともいわれる。足かけ半年、ここにおいて三村氏および備中石川氏は滅亡した。石川氏の幸山城も同時に陥落、乱後は清水宗治が幸山城に入ったという説があるが、その真偽は定かでない。※支城の推移については、ここに書いた以外にも諸説あります。にほんブログ村
2012年04月25日

さて、三村氏と宇喜多直家の絡みについては、途中まで「撫川城」(2)と(3)に書きましたがその続きを。宇喜多直家による備中侵攻は、以下のように続く。 永禄10年(1567) 明善寺合戦 撫川芝揚城 落城 永禄11年(1568) 金川城主・松田元成を射殺 佐井田城・植木秀長落城 猿掛城・穂田実親落城 元亀元年(1570) 幸山城・石川久智落城 丸山城 落城 山王山城 落城 鴨山(加茂)城 落城ここで、「備中、やばいのぉ・・・」と感じた毛利元就が、庶子の元清を派遣。1571年、元清と三村元親の連合軍が猿掛城・松山城を奪還し、庄高資は討ち死に、首級は猿掛城に送られたという。この時、佐井田城とかは落ちなかったみたいだけど、九州から帰ってきた毛利軍と翌年に和睦し、城の開け渡しが行われたらしい。名実ともに松山城主となった三村元親は、松山城を大幅に改修。「砦二十一丸」とよばれる出丸を臥牛山全体に配備して要塞化にいそしんだといわれているが、実際どこにどういう砦があったのかはわからない。この頃の三村氏をめぐるアバウトな関係は、こんな感じ。 実際にはちょこまかと色んな動きがあるんだけど、三村氏滅亡に至る前段階としてこんな感じって思って頂ければ幸いです。で、上の相関図にたった一人入るだけで状況はガラリと変わる。 とゆー訳で、織田信長さんの乱入です。織田~毛利間に「とりあえずばかしあい」と書いたのは、表面上、白々しい手紙を頻繁に送ったりして、まだ表立って敵対をしていなかったからです。特に信長さんは、裏で大友氏や尼子の残党などに手を回して、毛利氏の東上を阻んでるくせに、一方では毛利の対織田外交フロントだった小早川隆景あてに色んな書状を送ってて、隆景ちゃんでなくても「なんなん、この人!?」って言いたくなるような感じの悪さ。正直言って、最近、信長様ファンやめたくなってきたよ・・・いやいや、それより驚いたのは、三村の元親君ですよ。「毛利と宇喜多が同盟?そがあなバカな話あるか!」と相当な衝撃を受けたと思われる。何しろ、親父を殺され、勇んで出かけた明善寺合戦では大敗・・・その後もしつこくちょっかい出してくる。これ以前に、養子に行った元親の兄・元祐が宇喜多軍との戦いで討ち死にしたから恨みはもっと深かったとする見方もあるけど、元祐の死については諸説あり、なんとも言えない。「毛利の殿だって、うちの事情は充分わかってるはずだし、これまであっちこっち付いてって戦して、毛利家のために尽くしてきたのに・・・!!」そもそも、この同盟については毛利家中でも意見が分かれた。「宇喜多なんて信用でけん奴と手を組むなんて!家親以来、忠誠を尽くしてきた三村をないがしろにするんか。そがぁな義から外れた行いを承諾するこたぁできん!!」と元春ちゃんは猛反対したが(こんな広島弁だったかは不明です)、元春は山陰、隆景は山陽と分担が分かれていたので、結局隆景がゴリ押しして同盟と相成った。そして、三村家中でもまた意見が分かれていた。織田からの誘いに乗ろうとする元親を、「まだ時期が早い。ちびっと様子を見るべきじゃー」と叔父にあたる親成(ちかしげ)が諌めたが、逆に元親は様子見派代表の親成親子を誅殺しようとしたとの話がある。それの真偽は不明だが、結果として元親は毛利から離反して織田と手を組み、親成親子は隆景の元に家出して事の顛末を隆景に報告した。報告を聞いた隆景ちゃんが、「まさか三村が・・・なんちゅうーことじゃ!、許すこたぁできん。しゃぁない、討伐しよう。」と言ったのか、あるいはにたりと笑って「そりゃぁほんまか?うまいしこー(※)に謀反を起こしてくれたもんじゃ。よし、ほいじゃぁ備中ゲットじゃー!」(※)うまい具合にと言ったかはわかりませんが、限りなく後者に近いんじゃないでしょうか・・・三村の裏切りは、充分想定の範囲内だったはず。その後の展開を見ると、どうも隆景はこれをいい機会と捉えたように思えるんだもの・・・この元親の離反については、一般的に言われるのは親の仇の宇喜多と結んだ毛利輝元に不満を募らせた、というものだけど、一説には「織田家が中国制覇した暁には、元親に備中と備後を与える」という密約が結ばれていたともいう。まあ、親の仇と言っても、宇喜多直家みたいにしれっと主家に戻ってじい様の仇をじっくりと殺していったような人もいるし、元親にガマンが足りなかったといえばそれまでだけど、何ともねえ・・・何にしても、ここで三村氏の滅亡フラグが立ってしまった。ここからが、松山城を中心とした戦い「天正備中兵乱(ひょうらん)」の始まりです。にほんブログ村
2012年04月24日

ついでだから、ちょっと上野氏のことについて書いておこうかな。上野氏は足利氏の傍流の出身。つまり源氏。大内義興さんが華々しく付き添ってやった足利義稙が、永正6年(1509)備中の押さえとして鬼邑山城(きむらさんじょう)に上野信孝を封じたのが最初の縁。後に上野信孝は一門の上野高直に鬼邑山城を、上野頼久には松山城を任せた。頼久さんは、信孝さんの子とも一門ともいう。それで、頼久さんは子の頼氏に松山城を譲り、頼氏の弟の上野右衛門尉を小松山に入れて地盤の強化を図った。上野氏は大内さんちの傘下にあったが、天文2年(1533)尼子氏をバックにした庄為資が上野領に侵攻。頼氏は弟とともに討ち死に、備中松山上野氏は滅亡した。まあ、近くにはまだ他の上野さんもいるんだけど、この人達はもうしばらく残ってます。「備中松山城(2)」の歴代城主の年表を見ると、上野氏の後の庄氏の時代が長いように見えるけど、これは見かけだけ。庄氏ラストの高資は、年代ははっきりしないけど途中から三村氏の監視下に置かれてたからね(「撫川城(2)」を参照下さい)。まあこの庄高資ちゃんも困った人で、備中国人物語1にも書いたように、対立相手の穂田(三村)元祐の元に転がり込んでみたり、永禄11年に毛利氏が九州の立花鑑載の調略に成功して備中衆お誘い合わせの上出陣した時には、その隙を狙って佐井田城の植木秀長とともに宇喜多直家に寝返って、宇喜多軍の先鋒やってみたり・・・ちなみにこの毛利元就の九州出兵は、備中の混乱に加えて山中鹿之助が尼子の蘇生に成功したり、大内義隆のいとこの輝弘が大内の残党を集めて山口を奪ったりと大変な事になっちゃったので、やむなく大友氏と和睦。謀反を起こした立花鑑載は自刃したので、後に戸次鑑連(べっき・あきつら)がバージョンアップして立花道雪誕生・・・と、複雑だけど、おお~、そうつながっていくのか~!!って感じで面白い激しく脱線しましたね2011年に戻りましょう。再び小松山を目指して歩きだす。 現存天守だからそれなりの人出は覚悟してたけど、これだけの高所ともなると、平城よりは一般の観光客も少ない。やはり、静かなのが一番ですよ・・・その先には、こんな看板もあった。 あ~、サルね~。ここのは天然記念物だってふいご峠に書いてあったよなあ。私の周りには誰もいないので、オヤジ狩り猿バージョンの被害にあう可能性もなくはないけど、まあ、普通の山城よりは人も多いし、大丈夫でしょう(←特に根拠はない)松山城よりも、問題は宇佐山城(滋賀県)だよ・・・宇佐山城は、「森蘭丸」として有名な森長定のパパが討ち死にした山城でね~、是非行きたい城のひとつではあるんだけど、猿で怖い思いをした人とかいるみたいでね~、私はたぶん、一人で行くだろうからやっぱり危険だし、どうするかちょっと困ってるんだよね~。友達を誘ったところで、女2人じゃあんまり迫力ないし。「あのね、2人とも、中身はオヤジだから!こう見えても、怖いんだぞ~!!」 って脅してみたところで通じないだろうしな・・・途中の道は、結構雨で土が流されたような跡があって、台風の影響の大きさを感じさせる。 それで、上がった先には・・・!! もう、言葉はいりませんよね。ただただ、口を開けて見上げるばかりだったし。それで、大手の3枚目の写真はそそり立つ岩盤の上にさらに石垣が組んであるんだけど、これがまたすごいんですわ。ちょっと長いけど、こうやって大切な史跡が守られてるんだよって声を大にして言いたいところなので、解説板から全文引用しますね。 【備中松山城跡・岩盤変動監視システム 高くそびえる岩の上に立つ備中松山城。自然景観と人工建造物がマッチした偉容は、 山城である備中松山城の見所のひとつです。 近年、岩の上に築かれた石垣に変形がみられ、崩落の危険性が生じてきました。 調査の結果、この石垣を支える自然岩盤に亀裂が見つかると共に、わずかに動いている 事が判明、岩盤自体も崩壊の危険性(図1)にさらされていることがわかりました。 このため、高梁市教育委員会では京都大学防災研究所と共同で、岩盤斜面の「動き」 を調査・観測しています。この調査は備中松山城の基礎となっている岩盤の変形を 調査し、将来的に懸念される崩壊のメカニズムを解析、事前に被害を防止するための 工法を検討するためのものです。 岩盤斜面の変動を観測するために、図2のように各種センサーを設置しています。 図3のような雨にも雷にも強い高精度な岩盤伸縮計や、図4のような0.01ミリの 精度を持つ割れ目の変位を測定するクラック変位計装置を使って、開き具合や 斜面全体の変動の様子を観測しています。 その他、雨量計や温度計などもセンサーで監視を続けています。データはすべて 岩盤斜面上部の塀の中に設置したデータロガーに接続して20分間隔で記録しています。 備中松山城跡は、わが国における山上にある文化遺産の監視・保護技術開発のための 貴重な試験地となっています。ここでの調査・観測と技術開発が、日本だけでなく 世界各地の文化遺産(城、神社、仏閣、伝統的建造物など)の地すべりや 崩落などによる破壊・埋没を事前に防ぐ対策法を確立するための先駆けとして 注目されています。 設置した機器類が景観の妨げとなっていますが、ご理解・ご協力をお願い致します。】図1てのは、たぶんこれ。 で、図2がこれ。 その実物がこれ。 いやいや、技術の進歩ってホントにすごいわ。ここでの成果が、世界中の文化遺産の保護につながるかもしれないってのも、なんとも感慨深いものがあるよな~。にほんブログ村
2012年04月23日

少し上がると、石垣が出てくる。 う~ん、松山ジョーに来たってカンジぃ~上の写真のグレーのものは看板だったので、回り込んで見に行った。そしたら、いきなり解説が始まった。おお、看板がしゃべったあ~!!面白いな、ここ・・・ 【中太鼓の丸跡 古文書や絵図などの記録によっては「上太鼓の丸」と記されたものもあり、 小松山から南へ延びる緩やかな尾根上にあたる。眼下に見える前山山頂の 「下太鼓の丸」と「大手門跡」のほぼ中間で、戦略上の重要な拠点でもある。 「曲輪」と呼ばれる2段の平坦面からなり、その側面には強固な石積みが築かれている。 上段の曲輪の南端には、「中太鼓櫓」と呼ばれる櫓が建っていたことが記録や絵図に 残っており、現在も跡をとどめる。 城主の登城の際や有事の際に山麓の後根小屋と天守とを太鼓の音などで連絡する 中継所のひとつで、防備上の拠点であると同時に通信網の要衝。 下太鼓の丸跡(前山山頂) 眼下に見える臥牛山の支峰「前山」山頂にあり、山麓の御根小屋と天守とのほぼ 中間地点にあたる。西南に延びる尾根に沿って、4つの曲輪(4段の平坦面)から 構成されている。 自然の岩盤を巧みに利用し、部分的に石積みを施して築かれた強固な出丸。 北方以外の三方向に視界が開け、中でも南方向は市街を一望することができる。 中太鼓の丸とともに防禦あるいは城下俯瞰の要衝であると同時に 太鼓の音などを中継する通信所のひとつ。】 (現地解説板より)上から2枚目の写真と、次の写真が中太鼓の丸上段の石垣。 いっきなりコレだもんねえ~。先が楽しみだよな~看板のある下段には前山方面にベンチがあって、確か親切に吸い殻入れがあったような・・・で、御厚意に甘えて、展望を楽しみながら一服したんじゃないかな(↑よく覚えていない)普通、こーゆーとこってたき火・タバコの類は禁止だと思うんだけどね。先程のしゃべる看板は、案外に感度がいいらしくて、ベンチから立ってちょっと近づくとすぐにしゃべり始める。ので、4回くらい同じ事しゃべらせた気がする・・・(笑)。軽く休憩してから上段へ。 あ・・・草の中に見える石段の上が、解説にあった中太鼓櫓跡かな?上がってみると、ちょっと樹木に遮られてた下段よりもいくらか見晴らしが良かった。 高梁川沿いに山間部をず~っと北に行くと、伯耆・・・ここは山陰と山陽を結ぶ伯備往来のほぼ中央に位置し、東西の主要街道も交差する交通の要衝であったという。しかし、この「伯備往来」ってのが、ちょっとネットで調べたくらいじゃ具体的なことが全然わからないんだけど。違う名前で呼ばれてたのかな。まあ、「伯」と「備」だから、伯耆と前・中・後の備国のどれかをつなぐんだよな~って大ざっぱな想像に留めておくしかないな。そういえば、昔出雲に行った時、帰りは岡山で新幹線に乗り換えたんだっけか。覚えてないし、当時はどこを通るとかって事に興味もなかったけど、たぶんここを通ってきたんだ。中国地方って、大内さんちを好きになるまでは全然縁がなかったから土地勘もないし、今広域の地図を見てても山ばっかりで山陰と山陽ってどこでつなぎを取るんだ?みたいな感覚なんだけど、知らないうちにこの歴史ある道を通ってたんだ~(電車でだけど)。あ、それで交通の要衝。どうも昔って、松山城が備中制覇のステータスだったみたいで、松山城に入ると「備中の覇者となった」的に表現されることが多い。庄氏しかり、三村氏しかり。戦国時代は、その時代性から城主が変わるってのもわかるんだけど、江戸期を通じても実に目まぐるしく城主が変わる。まあ、江戸時代もところによっては転封の嵐だったからね・・・どのくらい変わったかって? 1240~1330 秋庭氏 1331~1355 高橋氏 1355~1362 高氏 1362~1509 秋庭氏 1509~1533 上野氏 1533~1571 庄氏 1571~1575 三村氏 1575~1600 天野・桂氏(城代) 1600~1617 小堀氏(国奉行) 1617~1641 池田氏 1641~1642 水野氏(在番) 1642~1693 水谷氏 1694~1695 浅野氏(在番) 1695~1711 安藤氏 1711~1744 石川氏 1744~1868 板倉氏 1868~1869 池田氏 1869~1871 板倉氏 1873 廃城 最初の施工主の秋庭(秋葉)さんは、源家の御家人・三浦一族の人。大松山に居城を構え、簡単な砦くらいのものだったらしい。その後入った高橋さんは備後三好氏の人で、城域を小松山まで拡張し、城の名前も高梁城から松山城へ変えたといわれている。築城から廃城まで実に600年もの歴史を有する城だけど、ま、私は戦国ジジイですので、ここで書くのは上野氏~三村氏までね 松山城主が庄氏から三村氏に遷ったあたりについては、「撫川城(2)備中国人物語1」に簡単に書いてますので、そちらを読んでね。 にほんブログ村
2012年04月22日

備中松山城<岡山県高梁市内山下>(住所をクリックするとMapfanにリンクします)※「吉備路編(3)」からの続きです。松山城へのアクセスはいくつかある。早めに切り上げたいとは言っても、どうせ山内ではまったりしちゃうんだろうから、時間短縮のために行きはタクシーを使った。バスでもタクシーでもマイカーでも、車で上がれるのは8合目にある「ふいご峠」まで。ここからは自分の足で歩く。駐車場に立つ看板には、臥牛山の全体図が載っている。 【鞴(ふいご)峠 (現在地 標高290メートル) 臥牛(がぎゅう)山 古くは「松山」呼ばれていたが、江戸時代に入り、牛が伏せた姿に似ていることから 「臥牛山」と呼ばれている。北から大松山・天神の丸・小松山・前山の4つの 峰からなり、東北の一部が連なるほかは、そそり立つ断崖を擁した天然の要害。 明治維新後、ただちに国有林に編入されたため、ほとんどが自然林として残り、 多種多様な植物相を呈している。岡山県の中部高等植物は、全部で133科927種類が 確認されている。 動物も豊かな餌植物により多種多様なものが混在し、古くからニホンザルの生育が 知られる。古い記録には猿谷(ましらや)の地名も残り、概ね全山が 「臥牛山のサル生息地」として天然記念物生息地の指定を受けている。 昆虫類も豊富で、158科1,695種類が確認されている。(後略)】 (現地解説板より)大体、解説板の文章とかは内容が重複しない限りおおむね全文引用してきたけど、広い臥牛山の中で今回行くのはほんの一部だし、結構長文の解説なんかもあったりするので、松山城シリーズに限っては若干割愛するかと思います。あらかじめご承知おきください。で、上の図の中で主要なものについては解説がある。 【大松山城跡(大松山山頂 標高約470メートル) 臥牛山の主峰「大松山」山頂。延応2年(1240)有漢郷の地頭 秋葉三郎重信が 臥牛山のうち、この大松山に砦を築いたのが備中松山城の創始と伝えられる。 現在も随所にその跡をとどめる。 天神の丸跡(天神の丸山頂 標高約480メートル) 臥牛山の支峰「天神の丸」山頂。中世~戦国時代には大松山の出丸として積極的に 利用されていたことが知られているが、近世になって「天神社」が営まれ、 信仰の対象となっている。現在もその社殿の跡と手水鉢が残る。 相畑城戸(あいはたきど)跡(標高約440メートル) 天神の丸から小松山へ続く尾根上にあたる。天正2年~3年(1574~1575)に起こった 松山合戦(備中兵乱)の古戦場で土塁など残るが、近世になって積極的に利用されて おり、近世城郭(小松山城)に関わる堀切や井戸、番所などが築かれた跡が残る。 小松山城(備中松山城 小松山山頂 標高約430メートル) 小松山の山頂を中心に築かれた近世城郭。一般に、「備中松山城」と呼ばれるのは、 この小松山城を指し、天守の現存する山城として随一の高さを誇る。 城内には天守・二重櫓・土塀の一部が現存しており、昭和16年に国宝(昭和25年 文化財保護法の制定により重要文化財)指定を受けている。 平成6年度から、重要文化財を中心に本丸が復元整備され、本丸南御門をはじめ 東御門、腕木御門、路地門、五の平櫓、六の平櫓、土塀などが史実に基づいて 復元されている。】山道へ入る手前には、こんな貼り紙があった。 ええ~、大丈夫なの?と思ったけど、どうやらこれは平成22年の被害の事を言ってたらしい。岡山を直撃した平成23年9月の台風12号では、二の丸東側の石垣が崩落したとの発表があった。とりあえず、今回は小松山までしか行かないので影響はないハズ・・・ちなみに、この貼り紙の被害については平成24年3月に復旧し、大松山まで行かれるようになったとのこと。ちょっと小雨がパラついてきたけど、ここから山道だし傘もささなくて大丈夫そうだな。歩き始めるとすぐ、楽しい看板が目に入る。 左手に見える石段は、下へ続いてる。うん、帰りはこれを降りてけばいいワケね看板は、その先もちょいちょい出てくる。 ちょっと小姑っぽいのもあるけど、城主様がこう言ってるんだから、ちゃんと守らないとね(笑)。にほんブログ村
2012年04月21日

備中高松駅の近くにはコープがあったので、食料と土産物を求めて入ってみた。せっかくのフルーツの国だから、マスカットとか桃とか買って送りたかったんだもん。でもやっぱり高いんだわ~値段だけじゃなく、私が求めていた組み合わせのものはなかったので、散々悩んだ挙句、ここでは土産は買わなかった。でも贈答用じゃない普通の家庭用のマスカットを買ってみた。足守川へ出て、来る時に使った自転車道を目指す。昼前からすっかり晴れて暑かったので、今日はペットボトルを何本も買ってがぶ飲みしてた。天気予報ではおきゃやま滞在中はずっと雨マークがついてたので、帽子もサングラスも置いてきちゃったからな~。まあ、雨が降るよりはいいけど。矢部橋の先から、自転車道に入って再び農道を走る。見渡す限り青い田んぼの中を走っていて、池田光政君のことを思い出した。光政君は倹約の人で、それにまつわるエピソードも多い。庶民にはゼイタク禁止令を出し、神輿やだんじりを用いた派手な祭礼も禁止した。で、酒については元日・祭礼・祝宴以外ではダメよ、って事にしちゃったので、備前は米どころであるのに銘酒が育たなかったといわれているそうな。米どころねえ~。確かに、今日はどんだけ青い稲を見た事か(笑)。吉備の中山に近づくと、吉備津神社の特徴ある社殿が見えてきた。 ああ、行きたかったけど、もう時間ないし疲れたし無理~さらに中山に近づくと、これがあった。 『有木山 青蓮寺』碑はあるけど、すぐに境内って訳じゃない。中山沿いに少し南下しなきゃならない。ここも、できれば行きたかったんだよな~。なんでって?ここは岡山県指定史跡・藤原成親(なりちか)遺跡があるんですよ。成親さんは~、院の近臣の一家に生まれ、父は鳥羽院の、成親は後白河院の信任が篤かった。それが、平家打倒を目指したいわゆる鹿ヶ谷の陰謀に加わり、ここ「有木の別所」に流された。それで、流されて間もなく亡くなるんだけど、死因については「愚管抄」では食事を与えられずに殺された、「平家物語」では毒を盛られ崖から突き落とされて串刺し・・・どっちにしても、ムゴイちなみに、「撫川城(1)」で出てきた瀬尾兼康は、鹿ヶ谷事件では成親の拷問役を務めたという。で、青蓮寺の福田海(ふくでんかい)に成親の供養塔があるらしい。墓はたぶん、山上にあるんだと思う。余談ですが、福田海には「鼻ぐり塚」ってのがあって、全国の屠殺場から送られてきた牛の鼻ぐり(鼻輪)が山と積まれて供養されておるそうな。その数、およそ700万アナタが食べた牛の鼻ぐりも、ここに積まれているかもしれませぬ・・・で、有木の別所も諦めて備前一宮を目指す。ギリギリだけど、なんとか時間には間に合いそう。途中、中山を眺めながら農道を走ってたら、山の中腹に妙な建物が見えた。あの派手な色遣い、古代ロマンの漂う中山には似つかわしくないセンスのない建物、どう見てもモーテルだよな、ありゃ・・・昔は中山全体が神域だったって聞いた気がするんだけど、あんなもの作っていいのか!?駅に着いたら、朝のジイちゃんがまだ店番をしてた。「遅いから総社とかに乗り捨てたかと思った」って言われたけど、ちゃんと帰ってくるって言ったじゃん、ワシ!!岡山駅に戻って、翌日の食料やら土産やら物色。ここの駅地下はすんげ~広くて、新参者は2度と同じところに辿り着けない。最初に新幹線から降りた時、「ピオーネ大福」なんて美味しそうなお店があって後で寄ろうと思ってたけど、結局最後まで見つからなかった部屋に帰ってから、高松のコープで買った「岡山シャインマスカット」を食べた。 種なしで皮ごと食べられる。疲れた体にしみわたるウマサだった<3日目> '11/9/19(月)くもり後晴れああ、今日も朝から蒸し暑い・・・電車がちょっと遅れてたみたいで、岡山駅のホームで座って待ってたら、目の前に入ってきた電車が三原行きだった。三原って、あの三原あ~!?行き先を変更して三原行き電車に飛び乗りたい衝動を押さえ、特急「やくも」を待つ。 乗り込んだ車内は空いてた。朝早いしね。私の座ったシートの前はひとつぽっかりあいてて、シングル席になってた。 なんでこんななんだ?面白いなあ~。JR伯備線は、倉敷を経由して米子とか出雲まで行く。途中、庭瀬のあたりを通った時、線路沿いに結構水路があるのが見えた。これ、堀だ・・・こんなに残ってるんだ電車が山間部に入ってくると、結構ガケすれすれを通ってるのに驚く。奥多摩へ行く青梅線とかだって、こんなにすれすれじゃなかったような・・・で~え、車窓を眺めてたら、さびしげな山の中にラブホがあるのが目に入った。オマエ、これまでにブログでラブホのこと何回書いたよ?どこ見てんだよ!!とか言わないでよ。目に入ってきちゃうんだもん(笑)。あ~んな山の中にあって、経営成り立つのか~?とか思っちゃうけど、人目をしのぶ場合なんかはいいのかな・・・どんな所にもしぶとく人の生活を感じさせるものがあって、これまた面白かった。総社を過ぎて少しすると、電車は高梁川沿いを走る。まだ台風の影響か水量は多いけど、結構好きなタイプの川だなで、川を眺めてたら、こんな風景が目に入った。 写真は帰りに撮ったものだけどね。土砂崩れ・・・だよな。やっぱり、台風の影響・・・かな。おきゃやま直撃だったもんな~。これから行く備中松山城も今回の台風で被害が出たらしく、場合によっては諦めなきゃいかんかな~と思って事前に観光協会に問い合わせたんだけど、本丸には上がれるから是非お越し下さいって回答だったんだよな~。でもこんなの見ちゃうと、ちょっと不安になる。さて、岡山から特急で約30分、降り立ったのは曇りの備中高梁駅。今日は午後から少し降るかも、って予報だったので、なるべく早めに行動を切り上げたい(←あくまで目標)。駅の近くにある案内所はまだ閉まってる。トイレに行ったりして時間をつぶしてたら、派手なハッピを着た宮川大輔似の兄ちゃんがいそいそと案内所を開けてくれた。ここで地図をもらって、あとで自転車を借りるつもりなので色々確認してから、いざ、スタート!!※「備中松山城(1)」へと続きます。にほんブログ村
2012年04月20日

この辺も、まだ稲は青い。田んぼの中には、ぽつんと史跡が立っている。 【史跡 ごうやぶ 清水宗治の切腹を前に、月清入道の馬の口取りの与十郎と、宗治の草履取の 七郎次郎が「私たちもおともする」と二人で刺し違えたという。 この刺し違えた場所が「ごうやぶ」といわれる。】 (「高松城水攻め 驚天動地の秘策」より)田んぼの中を入っていってみると、たったこれだけの区画。 宗治の切腹の前に、とあるけど、ここもその時は水が溜まっていたはず。舟で漕ぎだしたのかな?それとも、水が引いた後で・・・かな?田んぼの中にわざわざこれを残すなんて、それだけの理由があったんじゃないかな~とかつい思っちゃうんだけど、怖い話は苦手なので、考えるのはやめよう宗治自刃の地の供養塔は木に囲まれていてちょっと展望が悪いので、その脇から秀吉の本陣を眺める。 結構、近いな・・・ここから宗治がどんな思いであの山を見つめたのか。誰もいない田んぼの脇にたたずんで石井山を見ていると、すぐ前に殿下がいるようで、時空の狭間に引きこまれてしまいそう。(↑妄想しすぎ)関ヶ原の笹尾山(石田三成陣)とかでも思ったけど、現地に立って自分の目で見ることは、こんなにも迫力がある。この時からすでに半年経って、細かい事は結構忘れてるけど、ここから石井山を見上げた時の感覚は忘れることはないだろう。たぶん、これからもずっと。この場所から、宗治は秀吉を天下人に押し上げた。私はここでの戦いを、「もうひとつの本能寺」と呼んでるんだけど、その殿下も「なにわのことも 夢のまた夢」と詠んで思いっきり心を残しながら死んでいく・・・あ~~~~切ないっ!!宗治の法名は「高松院殿救溺祐君清鏡宗心大居士」。まんまじゃん・・・・とか思ってはいけない(笑)。結構、武将の法名も面白いんだよ。って、面白がっちゃいけないってば切腹の前日、宗治は次男に書状を残しており、現在も山口県光市の文化センターに残っているそうな。(次男・景治については「備中高松城(5)」をご覧ください) 【身持ちの事 恩を知り 慈悲正直にねがいなく 辛労気尽し 天に任せよ 朝起きや上意算用武具普請 人を遣ひてことをつゝしめ 談合や公事と書状と意義法度 酒と女房に心みたすな 六月三日 清鏡宗心 】 (写真は「備中高松城水攻史蹟」より)これ、宗治の自筆かな・・・さすがに本多作左の文章の短さにはかなわないけど、淡々と、歯切れのよい遺言だな。この大切な父からの書状を、景治はずっと肌身離さず持ち続け、景治の死後、守り袋の中から出てきたという。泣かせるなあ。景治は行政官としても優秀な人だったみたいでね、清水家がずっと厚遇されてきたのは、宗治の七光だけじゃなく、この人の実績にあずかるところも大きい。幕末の長州は激動の時代だったけど、その頃清水親知が家老となり、禁門の変の責任を取って萩で切腹した。そのすぐ後に、藩内は正義派(周布政之助以下、教科書でもおなじみの人達が属する)に統一され、「戦国の宗治」「幕末の清太郎(親知)」と清水家は主家を2度にわたって救ったと称されておるそうな。 ところで、「備中高松城水攻史蹟」のリーフレットにはこんな図が載っている。 ここは三の丸にあたり、かつては総門があった。郭の回りは、どこも沼・沼・・・さてと、これで今回高松城で予定してたところは全て見終えた。まだ見どころはあるんだけど、自転車を返す都合があるから、そうまったりしてもいられない。ここで、たぶん土産物か自販機か探しに、自転車をちょっと胴塚方面へ走らせたんじゃないかな・・・(←覚えてない)そしたら、偶然こんな碑を見つけた。 『史蹟 高松城阯水攻築堤阯』え、ナニコレ?こんな所にこんなのあるなんて、聞いてないよ!!この甘食程度の盛り上がりが築堤の跡なのかと一瞬思ったが、まさかね・・・たぶん、「高松城は水攻め史跡なんですよ~」って言いたいだけなんだと思うけど、ちょっとこれは紛らわしいよな・・・※「吉備路編(3)」へと続きます。↓ランキング参加ちう~!にほんブログ村
2012年04月19日

南の方の入り口から出て、道路を渡るとその辺りが三の丸。この一角には寺社がいくつかある。道を入って左手には妙見大菩薩。妙見様については、前月の山口で親切な住職様に色々教えてもらったからな~。それ以来、ちょっと親近感がある。 ぱっと見て、なんか変わった社殿だな~と思って近寄ってみたら、ここの瓦!軒丸瓦も、鬼瓦・・・っていうのかな、この場合も? 十字じゃん!ナニコレ!!妙見様って北極星・北斗七星のことだから、神紋なら星とかじゃないの?家紋用語でいうなら、これは「切り竹矢筈十字」ってのにあたるかと思うんだけど、これを使ってるのは能勢氏だとか、高松にあんまりゆかりのなさそうなおうちだし・・・世の中には、わからない事が多すぎる妙見様の隣には、星友寺。後に花房氏が高松城主になった事は書いたけど、宇喜多直家の法名をとり建てたお寺なんだと。て事は、宇喜多騒動で花房君が宇喜多家を去る前の建立ってことかな?って思ったら、 【もとは平山村にあったが、寛永年間(1624~44)花房氏が現在地に移し、 旧主君宇喜多直家の供養のため建立した。山号・寺号ともに直家の法号 恵雲星友にちなんでつけた。】 (岡山市ホームページより)なんだって。直家の法名は「涼雲星友」って言ってるところもあるんだけど?位牌もそうなってるし・・・よくわからん。どっちにしても、なおくんにしてはやけに・・・サワヤカだよねその奥にあるのが、妙玄寺。ここは花房氏の菩提寺。で、花房助兵衛君の墓がある・・・って事は後で知ったので、すけべえ・・・いえ、職秀君の墓参りはできなかった。ちっさて、妙玄寺の一角にはこれがある。 清水宗治自刃の地に建つ供養塔です。6月4日、宗治は 月清入道・・・清水宗知、宗治の兄 難波宗忠・・・宗治の弟 末近左衛門・・・清水宗治七将のひとりとともに小舟でここへ漕ぎ出し、 川船をとめて逢瀬の波枕、 浮世の夢を見習わしの、驚かぬ見ぞはかなきと歌い、辞世を詠んで切腹したという。宗治の切腹については、ウィキペディアには次のように書かれている。 【切腹の作法が変化する転機となったのは、この清水宗治の切腹からであった。 水上に舟を漕ぎ出し、そして切腹の前にひとさし舞ったのち、潔く腹を切り、 介錯人に首を刎ねられた清水宗治の作法は見事であるとして、 それを実際に見た武士達の賞賛を受けた。 秀吉は信長の敵討ちのために一刻も早く京へと戻りたいところであったが、 「名将・清水宗治の最期を見届けるまでは」と陣から一歩も動かなかったと いわれている。また、後に小早川隆景に会った秀吉は「宗治は武士の鑑であった」と 絶賛したという。】切腹に限らず、生活全般において戦国時代に流儀や作法が整えられた事は沢山ある。宗治の場合は、実数はどれ位かわからないけどギャラリーが相当数いたからね。大軍に挟まれた中で潔く果てた姿は、見つめる武将達の目に鮮烈に映っただろうし、あながち俗説でもないかもしれないな。さらに宗治の名を押し上げたのが、上にあるような殿下の評。潔い最期から武士の鑑と褒めるのはいいとして、「名将」とはこの時点で言わなかったと思うんだけどな・・・だって、独立してから小早川隆景に従ってあちこち転戦はしてるものの、名将と言われるほどの華々しい実績ないし(すいません)。一旦高松城を攻めたもののすぐには落とせず、水攻めに移行した訳だけど、それだってものすごい策略とかで羽柴軍を撃退したんじゃなく、高松城の立地条件に負うところが大きいんだし・・・(ごめんなさい)まあ、どんなに堅固な城だって凡将じゃもたなかっただろうけど。あと、備中攻めの前に信長様が宗治をヘッドハンティングしようとしたらしいんだけど、宗治個人を、というよりは国人衆の切り崩しにかかってたからだし(ホントにすいません)。アレだよ、後年の徳川家康のセリフ、「ボクが天下を取れたのは、武田信玄と石田三成のおかげ」ってのと通じるところがあるんじゃないの?宗治がさっさと切腹を承諾してくれたから、秀吉は後継者レースに間に合った。そういった総合的な宗治の貢献度を、後になって誇大に評価した結果(謝る言葉もございません)、こーゆー逸話が生まれたんじゃないかと思うけどな。だって、「城兵の命とひきかえに」なんてのは他にもあるし、年代も近くて条件もほぼ同じなのに、吉川経家(鳥取城)と宗治じゃ、ネームバリューに差がありすぎじゃん!!世の中ってのは、実に不公平にできている私の素朴な感想はどうであれ、確かに秀吉は宗治を高く評価していた。宗治の子は隆景の元に人質として出されていたが、高松城開城の際に毛利家からお暇を出され、高梁川の西の川辺という所をあてがわれたので、清水家の家族や家臣達はここへ移住してきた。この子は元服して、隆景と宗治から一字を取り景治と名乗った。後に秀吉は景治を大名にしようともちかけたが、景治はそれを断り、小早川家に就職したそうな。その後は隆景の養子となった秀秋にしぶしぶ仕えることになったが、いつの間にか秀秋の元を去り、毛利家に戻ったらしい。ご存じの通り、関ヶ原後に毛利家は所領を大幅に削られたので、家中ではリストラもあったそうだが、清水家は一門家老に次ぐ寄組士となり、萩に屋敷を構え、現在の山口県光市に所領を与えられた。宗治の首塚と胴塚は高松城にあるけど、墓は光市にあるのはこのため。以後は景治の系統が家系を存続させ、明治には男爵に列せられた・・・と。こんな風に、その後の清水家は秀吉からも毛利家からも厚遇された。景治は二男で、長男は関ヶ原の前哨戦となる安濃津城の戦いで戦死したらしいけど。そして、清水宗治の名は400年の時を経てなお、辞世の通り高松の苔に鮮やかに残っている。にほんブログ村
2012年04月18日

公園の北側の出口から出て、北西へ。この辺はかつては家中屋敷のあった所で、現在では民家が建っている。少し歩くと案内があり、小道を入っていくとこれがある。 【史蹟 胴塚の由来 時に天正10年(1582)6月4日、自決した高松城主、清水長左エ門宗治公の 首級なき胴体遺体は舟上のまゝ本丸に帰って来た。 迎える家臣、身内の者共、押え切れぬ涙に感極まって、一同の嗚咽がおこった。 やがて回向の声に包まれ、池の下丸、この地に手厚く葬られた。その墓穴に臨んだ 公の介錯人国府市祐は己が刀で己が首を切り、そのまま落ち込んで自刃し 亡き公の後を追った。 この主にしてこの臣あり、主を思う眞情躍如たるものがある。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)あ~~~~、切ない・・・この介錯人君は、宗治の首を検視役の堀尾茂助(吉晴)に渡して城に戻ってきたという。ちなみに高松城の城兵は、3,000とも5,000ともいわれる。城址公園には真ん中に長い沼が復元されており、ここまでで沼の片側しか歩いてないから、再び公園に入って沼の西側を歩いてみる。本丸と二の丸を結ぶ橋のあたりは蓮池という地名が残っており、シーズンには「宗治蓮」が花をつけるという。なんでも沼の復元をした後に地下に眠っていた蓮が再び芽を出して自然に生えてきたもので、これに宗治公の名を冠したんだとか。 公園内は本丸と二の丸をつないだものにちょっと長さを足した程度の、さほど広大とも言えない面積。人も少ない。ジリジリ照りつける日差しの中で、ぽっかりと西に広がる田んぼや空き地の空間を見つめながら、必然的に1582年に意識が飛んでいく・・・これまでの境目ツアーで何度か布陣図を載せてきた、吉備路観光ツアー実行委員会様発行のパンフレット「高松城水攻め 驚天動地の秘策」は私が言うのも失礼だけど、かなり良い資料。ここでもまた絵と写真と本文を引用させていただきます。 【従来の説では、『太閤記』『中国兵乱記』などの伝記に書かれている堤防の長さは 蛙ヶ鼻から約2.7km、規模は高さが約7m、幅の底部が約24m、 上部10m。 工事期間は12日で、周辺の百姓にお金や米と引き換えに土を運ばせたと いうものであった。 成功の要因は、自然の地形に恵まれていたここと雨期で大雨が降ったことが 挙げられる。1985年6月の洪水のとき、左上写真のように高松城跡の周辺は 水に浸かったことがある。このことからわかるように、この地域は大規模な 築堤をしなくても、水が溜まる地形なのである。 最近の説では、蛙ヶ鼻から備中高松駅付近までの約300m、高さ2mの堤防 だったのではという説が有力である。この規模の堤防なら、引き連れてきた武士だけの 動員で12日間程度の工期も現実味を帯びる。 岡山市教育委員会による蛙ヶ鼻付近の発掘調査でも、幅24mにわたる築堤の規模で、 杭の列や土俵積みの痕跡が確認されている。 ※備中高松城の水攻めについては様々な説があり、不明な点もたくさんあります。】解説にある、左上の写真てのはこれ。 下が普段の城址で、上が洪水で水びたしになった時の写真。現地ではパンフレットなどを集めはするものの、正直言ってあまりその場では丁寧に読まない。自分が用意した資料で、大体は用が足りるし。で、この時もここの部分は読んでなかったんだけど、帰ってからこれを読んだ時、「我が意を得たり!」と思ったね。高松城の水攻めは、一般的に「浅いすり鉢のような地形に目を付けた黒田官兵衛が水攻めを献策した」って言われてて、現地に来るまでは「そうなんだ~」と思ってた。ところが、現場に立ってみると「か~んべ~、どこがすり鉢?」って感じなんだもん。400年経ってるから多少の地形の変化はあるでしょうし、今は当然土壇なんかないからってのもあるかもしれないけど、あまり低い土地って感じはしない。まあ、縮尺が25,000分の1とかの詳細な地形図を見た訳でもないし、高い所から見るのとはまた違うのかもしれないけど。それで、毛利軍が足止めを食らうような足守川の氾濫があったとして、下流でそれだけの水流があったんなら、上流でそんなもの引き入れたら水攻めどころか即水没じゃないの?って思ったんだよね~。近年でも大雨で周辺が水びたしになったってのは知ってたし、梅雨時なら、元々沼沢地なんだし雨の流出口さえふさげば充分水は溜まるんじゃないのかな~ってのが素朴な感想。ちょっと水攻めというにはジミーになっちゃうけどね(笑)。それから、水攻めの献策をしたのは、かんべ~じゃなくこれまでに何度か登場した花房職秀君の一族の花房正成だという説もある。正成君は高松城南面から鼓山のふもとを流れる板倉川をせきとめることを考えたというのだ。板倉川ってのははっきりわからないんだけど、高松城の南だし、蛙ヶ鼻には間違いなく築堤の痕跡が残っていることから考えて、現在の宮西川(地図はこちら)をせき止めたって感じかなあ~? ちなみに正成君は後に高松城主となり、その時代に城郭整備工事を行っていたことが最近の発掘調査で判明したそうな。基礎工事用の捨石(すていし)が発見され、その中には石仏や五輪塔などもあったと。ただ、職秀君も関ヶ原で東軍として頑張って、戦後高松に知行所を与えられたというし、正成君と職秀君のどちらかはわからないけど、いずれにせよ花房氏をもって高松城は廃城となったらしい。話を元に戻して、水攻めの真相はどうであれ、高松城は水の中に孤立した。毛利の応援部隊を岩崎山に見ながら戦況が打開されないことに、宗治も城兵も歯がゆい思いと落胆を覚えたことだろう。それは恐らく、高松城をただ見つめるしかなかった両川も同じ。でも結構、備中侵攻も後の方になってくると各所で元春と隆景の意見の対立もあったみたいね。この時の救援に関しては、そもそもの出陣からひともめあった。隆景から元春への出陣要請に対し、元春側では「いっつも元春殿にばっか危ない橋渡らせて~。今度は隆景殿一人で行けばあ~?」って意見もあったのを、「隆景じゃあのサルには勝てん。ワシは一人でも行くぞ」って周囲を説得して出たものの(元春ちゃんカッコいい)、現地では作戦について意見が分かれ、「兄ちゃんみたいに力攻めだけじゃ、サルには勝てないんだよ!尼子とは違うんだよ!!」「戦いをわかってないのは、オマエの方だろーが!」なんてやり取りがあったとのエピソードもある。この頃の毛利は精彩を欠いていたって言われるけど、備中を奪われたらもう備後。毛利の本拠はすぐ先で、それこそ堀を埋められた大坂城みたいになっちゃう和議のタイミングを図りつつの出陣じゃなかったのかな~とも思うし、迷いとか色々あったんじゃないのかね。あと、毛利陣営に内通者がいるという噂が流れていたから動けなかったともいうし。ちょっとその辺は、本能寺の変との絡みもあるかもしれないから、何とも言えないけど。にほんブログ村
2012年04月17日

一方、清水氏は石川氏の家臣で清水城(現在の総社市)主を務めていたという。清水氏は、平維盛(平清盛の孫)の家系と伝えられているが、正確なところはわからない。清水宗治は、この清水氏の次男坊として生まれた。ちゃんと長男がいるのに、何で宗治が家を継いだのかもわからない。宗治については、高松城主となるまでのことは実はよくわかってないらしいんだよね。で、一般的にいわれるのが永禄8年(1565)に妻の父であった石川久孝の死去に伴い高松城主になったという事なんだけど・・・「石川久孝」=「石川久式」とした場合、久式は1573年の松山城の戦いで三村氏と命運を共にしているから、年代が合わない。かといって、久式の父・久智のことか?って考えてみても、久智は明善寺合戦(1567)までは生きてるから、これもおかしい。なら別に石川一族で久孝もいたんじゃないか?とも思うけど、要衝の地・高松城主だったにしては、あまりに久孝のことがわかっていない。ただ、後に長州へと移った清水家の家系図には「久孝」と記されているので、高松城に関連してあちこちにやたら久孝の名前だけは出てくるけど、じゃあどういう人だったのかということは一切書かれていない。とりあえずそこは考えないでおくとしても、宗治が高松城主になった経緯も実はわかっていない(笑)。高松城主である妻の父には男子がなく、よそから養子を迎えたが、この人も後継ぎのないまま早世。長谷川氏らの諸将はまた養子を迎えようとしたが、宗治がこれを反対。反対派を討ってみずからが高松城主の座についたという。ただしこの話も、江戸時代の創作とする説もあり、ホントにわからない。さらにこの後、宗治は独立して小早川隆景の麾下に入るんだけど、この時期も諸説あってわからない(笑)。わからない事だらけで、やんなっちゃうでしょ~!!それでもわかっていない事を書いたのは、宗治のラストの美談ばかりが先行していて、みんな清水宗治が、宗治が・・・って言うけど、宗治って実はこんなにわかってない人なんだって、知ってる?って思ってたから。いや、楽しみ方は人それぞれだし、別にいいっちゃいいんだけどさ・・・正直言って、なんか違和感を感じるんだよね。別に、宗治公のことをおとしめようとする気はさらさらないですよ。ただ、聖人って訳でもないし、やっぱり戦国の世を生きぬいた武将なんだなあって思うだけ。では、公園の中を廻りましょう。高松城址と現在の地形とは、こんな関係になっている。(「高松城水攻め 驚天動地の秘策」のリーフレットより) 今は駐車場から入って2の位置にいるので、ここから公園内を北へ向かう。橋を渡って現れるのが、ここでのハイライトのひとつ、清水宗治の首塚。 この脇には、宗治の辞世の句碑も建つ。 【現在の城跡は、当時の高松城本丸にあたる。本丸には宗治の首塚がある。 清水宗治の切腹の後、秀吉が家臣に供養塔をつくらせ、その供養塔が首塚。 当初は石井山にあったが、明治になって本丸に移された。 毎年6月の第一日曜に、首塚の前で地元保興会によって「宗治祭」が開催される。 首塚の横には、宗治の辞世の句『浮世をば 今こそ渡れ武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して』の碑が立っている。】 (「高松城水攻め 驚天動地の秘策」のリーフレットより)首塚を現在地へ移したのは、「備中高松城水攻史蹟」によると参拝者の便を図ったんだと。ん~、明治・・・じゃあ、その移設の際にあの首がめ(「備中高松城(1)」をご参照下さい)も見つかったって事なのか。現在、本丸は道路で2つに分断されてる形になっていて、道路沿いの方に看板が見えたので行ってみた。 おお、石井山から見た宗治切腹の場面か~!真ん中で背を向けてるのが、羽柴秀吉。光っちゃって見えにくいけど、城と石井山との間にある2艘の小舟、これに宗治とその兄弟が乗り込んでいる。うう・・・この辺については、後にしよう。本丸の隅には、こんな祠もひっそりと建っている。 写真に見える橋を渡ると、公園の北の端になる。その外れに、なんか墓だか碑だかよくわからないものが・・・ 高松城について書いてるブログやサイトはそれこそ腐るほどあるけど(笑)、こんな地味なのに触れてる人なんていやしない。う~ん、右側のは絵みたいのが彫られてるっぽいから、道祖神か庚申塚の類かなあ・・・左のはナントカ神って彫られてるような・・・解説もないし、城址公園の片隅にわざわざ置かれてるなんて、どーゆーいわれがあるんだろう?この公園の奥には、あずまやが建つ。地元の人らしい親子がのどかに遊んでて、ここが古戦場なんて事はみじんも感じさせない。 にほんブログ村
2012年04月16日

【国指定史跡 高松城跡 附水攻築堤跡 高松城は、備前国に通じる平野の中心しかも松山往来(板倉宿から備中松山城へ至る) 沿いの要衝の地にあり、天正10(1582)年の中国役の主戦場となった城跡として 有名である。 城は沼沢地に臨む平城(沼城)で、石垣を築かず土壇だけで築成された 「土城」である。城の周辺には、東沼、沼田などの地名に象徴されるように、沼沢が 天然の外堀をなしていたのが窺われる。縄張りは、方形(一辺約50m)の土壇(本丸) を中核にして、堀を隔てて同規模の二の丸が南に並び、さらに三の丸と家中屋敷とが、 コの字状に背後を囲む単純な形態である。 本丸跡は江戸時代初期にも陣屋として活用されていた。】 (現地解説板より)「庭瀬城(2)」で一瞬、「吉備の穴海」について触れたのを覚えてますかね?8,000年位前までは、吉備の穴海は高松のあたりまで広がっていて、「多賀間津(たかまつ)」という港があったんだそうな。ちょっとびっくりだよね。それでなくてもこの辺は川が多くて、今でいう岡山平野全体がかなり広範囲にわたるデルタ地帯で相当水っぽい土地だったってことが想像できる。ここまで見てきた庭瀬城・加茂城・日幡城のいずれも同じような地盤にあったし。中でも高松城は、深田などに取り囲まれ、水面との比高は4mという。うん、どうしても忍城を連想しちゃうな。現地の解説板には、高松城の想定図も載っていた。 上が全景図、下が本丸の想定図。土塁のところにフリンジみたいのがあるな~と思ったら、逆茂木(さかもぎ)か(笑)。逆茂木は、敵の侵入を防ぐための木のバリケードのことね。上のは公園の入り口にあった解説板で、このすぐ近くに辺り一帯の・・・何て言うんだ、こーゆーの?鳥瞰図の大きなのがあった。 真ん中の白い部分が水攻め後の高松城、左の上から下につながってる白いラインが足守川。高松城の図っていうと、必ずといっていいほど、すでに水の中なんだよねまあ、ここは附(つけたり)として水攻史蹟も込みだから仕方ないのかもしれないけど・・・ちょっとここでお断りしておきますが、高松城の記事の中では水攻めの経過などについてはあえて書きませんので、ご了承ください。書かない理由はいくつかある。まず、私のブログを読んでくれてる人はほとんどが戦国ファンだと思うので、今さら説明なんぞ必要ないでしょ、ってこと。ただでさえ話が長いのに、そこまで語ってたら大変なことになるし。それから、ここでの戦いと切り離せない本能寺の変、これについては私は大筋でマイナーな説を支持している。高松城と本能寺を起点にして大きく世が変わっていくんだし、やはり情報操作があっただろうと思うので、高松城攻めに関する通説をくだくだ書く気にはなれない。これだけの大きな戦いの中で、不思議なほどわかってない事も多いしね。そういう訳ですので、ここでの戦いの事を知らない方は、ご面倒ですが「備中高松城の戦い」で検索して下さい。ここよりも高尚なサイトが山ほどありますから(笑)。さて、ここ高松城址公園は 【昭和49年度に史蹟0.5haに周辺を含めた3.5haを計画決定し、昭和50年度から 歴史を学びながらうるおいと憩いのある歴史公園として市民に親しんでもらうべく 理念に基づき整備し、平成5年度に完成したものです。】 (「高松城址公園資料館」のリーフレットより)という。随分、最近整備されたものなんだ・・・400年の間、ここってどんな風になってたんだろう?地盤が弱いから住宅地にもあまり向かなそうだし、古戦場だし、やっぱり荒れ地かせいぜい田んぼとかかな。高松城の築城については、詳しいことはわかっていない。一般的に言われるのが、石川氏により永禄年間(1558~1570)に築城というもの。石川氏は、「撫川城(2)」で一瞬出てきました。元々石川さんちは吉備津神社の社務代で、守護・細川氏の守護代として勢力を伸ばしてきた。清和源氏の流れを汲むともいい、遠く祖先を辿ればあの石川数正とつながってくるかもしれない。それが乱世に入り三村氏と立場が逆転、石川氏は三村氏の傘下に入る。備中石川氏については、確かな家系図が残っていないらしく、あちこち読んでると情報が錯綜してて一体どーなってんじゃい!ってイライラしてくるが・・・ひとまず、永禄中ごろまでは高松城は石川氏が城主を務めていた。宇喜多VS三村の明善寺合戦で、石川久智は中軍を率いて出陣、この時の負傷が元で後に死亡。後を継いだのが石川久式(ひさのり)・・・ここが問題で、石川久智の子が久式であることは間違いなさそうなんだけど、清水宗治の前の高松城主は一般的に「石川久孝」といわれる。ウィキペディアでは、久式が正しくて、久孝は明らかな誤伝と言いきっている。まあ、そう考える方が自然かもしれないな・・・ってことで、ここでは「石川久式」=「石川久孝」として話を進めます、というか進めたいんですけど・・・無理かな・・・石川氏の本拠は幸山(こうざん)城。幸山城は庄氏が築いたものといわれているが、庄氏が猿掛城にうつったため代わって石川氏が幸山城に入ったという。<いろんな名前が出てきてわからない人は、「撫川城(2)」を見てね>そして、石川久式が三村氏の支城として高松城を築いたといわれている。にほんブログ村
2012年04月15日

備中高松城<岡山県岡山市高松>(住所をクリックするとMapfanにリンクします)※「岩崎山<吉川元春陣>(2)」からの続きです。うおっ、期限まで30分を切ってしまった。急がねば・・・!足守川を渡って、花房すけべえ・・・もとい、職秀君の陣のあった辺りを通りぬけて本日ラストの大舞台、高松城を目指す。たぶん、庄内小学校とか高松中学校のあたりに花房君と戸川君が陣を置いてたんじゃないかと思うんだよね。吉備路観光ツアー実行委員会様発行のパンフレット「高松城水攻め 驚天動地の秘策」による地図での、高松城の位置はここ。 まず最初に現れるのが舟橋。 【史跡舟橋 高松城は平城で三方を堀にかこまれていたが、この南手口には、具足の武士が ようやくすれちがう程の細い道があったが、開戦直前に八反堀を掘り外濠とした。 そこへ舟を並べて舟橋(長さ約64m)となし、城内より進攻の際はこれを利用し、 又退く時は舟を撤去出来る仕組で城の西北の押出式の橋と共に大きく 防備の役を果たしていた。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)ゆっくり見たいけど、あと10分しかない~!!ので、とりあえず先を目指す。現在は城跡はこんな風にのびやかな公園になっている。 何をさておいても、まずは資料館へ。15:00閉館なんて、早すぎるんだよ~!!どんなものがあるのかと期待してたけど、狭い部屋の中に色んなモノがごちゃまんと・・・(笑)。このあたりは古墳も多いし、土器なんかも置いてあった。城そのものに特別な興味を持たない人はホントにさらっとしか見ないだろ・・・っていうような、手作り感いっぱいの資料館だった。まあ、私は閉館ギリギリだったし、見るからに素晴らしいものばかりあったとしたら、それはそれで困っちゃうんだけど(笑)。あ、でもつまんなかったとかいうんじゃないから、誤解しないでね。資料館の中には清水宗治の像があった。撮影禁止とは書いてなかったと思うけど、店番のジイさんは気難しそうな顔をして座ってたので、撮るのやめた(←小心者)。さて、時間がないので面白そうなものを急いで探す。狭いとは言っても、じっくり見れば勉強になる資料の類は色々置いてある。もっと時間があれば、ゆっくり見たかったんだけど・・・私の目を引いたのは、古いアルバム。平成9年だかに備中高松城攻めの再現イベントがあったそうで(おそらく、”備中高松戦国挽歌「清水宗治物語」”)、その様子をアルバムにまとめたもの。色んな写真があったけどね、きっちりラストまでやったらしく、夜にかがり火たいて、宗治切腹の場面のもあった。宗治役は、誰だか知らないけど白塗りのイケメン。いやあ~、カッコ良かっただろうな~。このイベントの時かはわからないけど、毛利家のご当主夫妻が高松城を訪れた時の写真もあった。雨降ってたみたいなんだけど、お出迎えからお見送りまで、皇族の方でもいらしたんですか?みたいな超VIP扱いで、まあ迎える側も大変だったでしょうけど、お殿様ってのも今もってあちこちのこーゆー行事とかに参加しなきゃならないんだから、大変だよな~って思った。私は日光に最低年1回は行くんだけど、ある時たまたま流鏑馬の日に当たった。イベントの日だなんて全然知らなかったんだけど、せっかくだから見ていこうと思って待ってたら、徳川のお殿様がいらしたよ。私の立ってるすぐ前の来賓席に座ってて、その時も「あ~、こうやってあちこち行事に参加してるんだ・・・大変だな~」って思った記憶がある。それから、「備中高松城水攻史蹟」というリーフレットにはこんな写真が載ってて、ここの資料館で収蔵していると思われる。 【首がめ 50糎(センチ)程の首瓶に歯3本と短刀3片と土師器の盃があった。明治42年 掘り出したものをコンクリート造の室へ奉納して首塚へ祀った】誰の、とは書いてないけど、首塚へ祀ったとあるから、やっぱり宗治の・・・ だよね。現地で見た覚えないんだけど、展示されてなかったのかな。それとも、首がめごとあらためて祀り直したのかな。ふ~やれやれ、ここまで忙しかったけど、資料館を見終えてこれでゆっくりできる。資料館の脇の看板には、「水攻音頭」の歌詞が書いてあった。水攻音頭って・・・!! 【水攻音頭 作詞 生石高寿会 振付 会長 山本 精 曲 今様 一、時は天正のその昔 天下制覇の信長が 中国毛利を討つために 羽柴秀吉将となす 二、破竹の勢なる敵兵の 進路封ぜし高松城 智勇の誉れいや高き 清水宗治ここにあり 三、攻めあぐみたる秀吉が 謀るは水攻め降る雨に 二十六丁の土堤を築き 足守川の水を引く 四、増えゆく水の心なく 寄せくる水面波高し 城兵五千その頬に 降るは涙か五月雨か 五、今や武士(もののふ)道一つ などてこの身を長らえん 主家城兵の安泰と 散るや宗治いさぎよき 六、巡る歳月幾年か 松風さわぐ城跡に 武士の鑑と歌われて 吾が高松の華と咲く】(カッコ内は戦国ジジイが追加) 生石(おいし)って、加茂城に出てきたあの生石か・・・今様(いまよう)?へえ、見てみたいな・・・と思ったけど、ネットでは公開されてないらしい。残念。にほんブログ村
2012年04月14日

さて、タイトルにもあるように、ここ岩崎山(現在は庚申山)は吉川元春が陣を置いたところです。吉備路観光ツアー実行委員会様発行のパンフレット「高松城水攻め 驚天動地の秘策」の地図による岩崎山の位置はここ。 天正10年(1582)、 4月15日 織田軍が高松城周辺の城を一斉に攻撃 4月27日 織田軍が高松城を攻撃開始 5月8日 織田軍が高松城の水攻めを開始 5月21日 毛利軍が高松城付近に到着元春の岩崎山に1万、小早川隆景の日差山に2万、そして毛利輝元は1万の兵を率いて最前線よりもっと西の猿掛城に入った。猿掛城は~、「撫川城(2)」の相関図を見てください。穂田(穂井田)実近の養子になったのが、三村元佑。その元佑の養子になったのが、毛利元就の子の元清。この時は穂井田元清が猿掛城主でした。ので、輝元は猿掛城に入ったのですね。穂井田元清は桂広繁の救援に、みずから兵を率いて猿掛城から加茂城へ応援に行ったりもしている。5月8日に築堤を始めて12日間で完成したことになってるから、毛利軍が到着した頃にはすでに高松城は水の中にあったらしい。旧参謀本部編「日本戦史 中国役」にある布陣図を見ると、元春ちゃんの後方に楢崎十兵衛・木原兵部・井上伯耆守がいたと書いてあるけど、なんかこの人たちって隆景ちゃんの配下みたいなんだよな・・・あってるのかな、これ?上の布陣図にある通り、元春ちゃんの陣が高松城に最も近い位置にある。岩崎山(図では庚申山)と高松城の間に「花房助兵衛」とあるけど、これは明善寺城合戦後の撫川城攻めと、あと日幡城のところに出てきた花房職秀(もとひで・のち職之)のこと。「すけべえ」さんじゃなくて、「すけびょうえ」さんだからね、間違わないようにね(笑)。つまり、宇喜多軍じゃな。花房君とセットで出てきてた戸川君の名前が見当たらないけど、たぶん花房君と一緒にいたんでしょうね。日幡城の調略にも行動を共にしてたんだから。高松城の救援に来たものの、眼前の高松城は水浸し、その上梅雨時の大雨で足守川が氾濫して周囲の平地も水浸し、毛利軍は動くことができなかったという。・・・アレ?足守川が氾濫?上流で、別の事に川の水を引き入れてるのに?ま、この山の上で、元春ちゃんはさぞ歯がゆい思いをしたことであろう・・・山上には、いつのものかわからないけど、石垣が残る。 帝釈天のお堂の脇には、鐘楼がある。 ここの鬼瓦って、カッコいいの。拡大した写真だからあんまりクリアに見えないと思うけど、ちょっと変わってるでしょ? 現地の案内板の絵図を見ると、この鐘楼の脇の石段を上がったところには梵天・毘沙門天・鬼子母神・妙見様と明星様のお堂があるらしいが、私に残された時間はあとわずかなので、上には行かなかった。後で知ったんだけど、ここには立派な磨崖仏もあるということなので、上がったところにあったのかもしれない。さて、最後に長い石段の上に立つ山門へ(←楽しみは最後にとっておくタイプ)。ここは上がれるようになってるのだ。かなり古いので、重量オーバーで床が抜けたりしないかな~とかビクビクしながら、そっと上がってみる。現在の岩崎山はかなり木に覆われているので、地面に立ってると全然展望はきかないが、高いところからなら見えるのかもしれない。どれどれ、元春ちゃんが見た景色を・・・って、期待にない胸を膨らませて見たものは・・・ うおお~ッ、見えねえ~!!木が・・木がジャマすぎるう~!!!特に、左側の高い木!!これがないだけでも、高松城が見えたかもしれないのに・・・あ~、残念しかし、もう14:30だ。へこんでる場合じゃない。本日ラストの大舞台が、木に隠れた向こう側で私を待っている。※「備中高松城(1)」へと続きます。にほんブログ村
2012年04月13日

岩崎山<岡山県岡山市北区新庄上(庚申山)>(住所をクリックするとMapfanにリンクします)※「日幡城」からの続きです。予定では、この後日差山の隆景ちゃんの陣へ向かう事になっていた。それで、一旦はそちらへ向けて走り出したんじゃないかな。(半年前のことで、よく覚えていない)この頃にはだいぶ晴れてきて、かなり疲れていた。備前一宮を出てから、トイレも行ってないし~途中、「王墓の丘史跡公園」てところの隅っちょのグラウンドにベンチとトイレがあるのを見つけたので、ここで昼メシにすることにした。まずトイレに入って鏡を見てびっくり。汗で化粧がドロドロになってるし~!!いや、加茂城と日幡城にかなり手間取ったからな・・・必死に探してたから、そんなの気にしてる余裕もなかったし。誰もいないグラウンドのベンチでご飯を食べながら、この先の事を考えてみた。今日ラストのお目当ての資料館は15:00までで、すでに13:00回ってる。これはちょっとマズイな・・・資料館は絶対行きたいし、もうひとつ行きたいところもあるし。日差山へすんなり行けたとしても、山を上がるからちょっと時間かかりそう・・・って事で、今回は隆景ちゃんの陣は諦めたんじゃないかな。たぶん。そして予定を変更して、庚申山へ再スタート。ちょっと回り道になっちゃったけど、ひとまず足守川を目指そう。途中の道には、倉敷のふたがあった。 ちょっと斜めになってるのは、車道のど真ん中にあって車を気にしながら撮影したからです(笑)。足守川へ復帰したものの、その先の新黒住橋のところでうっかり道を間違えた。川沿いの道のはずなのに、途中から川がなくなっちゃっておっかしいな~と思いながら進んでいったら、山を越えてしまった。民家とかは全くなかったので住居表示の確認などもできず、山を降りた時には完全に「私はだれ?ここはどこ?」状態になっていた。ヤバイ・・・マジでヤバイぞ人も歩いてないし、そんなに広域の地図も持ってなかったし、戻ってまた山を越える気力もない。マジで泣きたくなったけど、とにかく現在地を確認できるものを探さなきゃ。ってんで少し進んでみたら、「造山古墳」への道を示す看板が目に入った。かろうじて手持ちの地図の中に造山古墳も入っていたので、ようやく現在地がわかった。ヨシ、このまま北上すればなんとか元春ちゃんのとこに行けそう・・・帰ってから、一体どこをさまよってたんだ?と地図を確認してみたら、日差山のふもとを通っていたらしい。わかってたら、ついでに行けちゃったかな~。惜しかったな~(笑)で、再び走り出す。なんか最初に足守川に着いてから、迷ってばっかし。恐るべし、吉備路。住宅地と田んぼの中ばっかり走ってたから、わかりにくかったんだよね~。庚申山もはっきり入り口がわからないんだけど、大丈夫かな~ピーカンの田んぼの中を走った後で、地図を確認しながら住宅地を入っていくと、登り口らしいのを見つけた。 たぶん、これだと思うんだけど・・・目の前には長い石段がそびえてて、汗だくだしもう登りたくなんかないんだけど、ここまで来てそんな訳にもいかない。道の端に自転車を停めて、根性入れて登り始めた。元春の陣じゃなかったら、「もういいや~」ってやめてたね、絶対(笑)。元春ちゃん、好きなもので これは真ん中より少し上のところで撮ったので、実際はこの倍の石段があると思って下さい。キツかったです、ホント・・・上がりきると山門がある。・・・て、写真ないし!ヘロヘロになると、写真を撮るのすらめんどくさくなるので、きっと後回しにしてそのまま忘れたんでしょう 【庚申山の由来 昔この山には、積善寺という多くの堂塔僧坊をもち、楼門を構えた大寺があったが 天正10年(1582)高松城水攻の時、毛利の勇将吉川元春がここを陣所としたため、 その兵火によってことごとく焼失したと伝えられている。 その後度々復興を企てられたが、元禄4年(1691)に至り本隆寺の住持日正が 新たに堂宇を建立し、大梵天王、帝釈天王、及び鬼子母神を奉祀して、 庚申祭を行った。それ以来、霊験あらたかな日本三大庚申の一として広く世に 知られるに至ったのである。 この山の眺望は眼下に全国第4位の造山古墳があり、東方には吉備津神社の鎮座する 吉備の中山が連なり、遠く児島の金甲山一帯が展望される。また、足守川を隔てて 高松城水攻の跡を俯瞰することができる。】 (現地解説板より)アラアラ、元春ちゃんたら焼いちゃダメじゃないの~ってニヤニヤしながら解説を読んでた私はバカです(笑)。この先には、お堂がある。 古くて立派だけどね、でも・・・三大庚申?私が行った時には、1人か2人くらいしかいなかった。静かで、萌え~には最適な環境にほんブログ村
2012年04月12日

日幡城<倉敷市日畑>(住所をクリックするとMapfanにリンクします)※「加茂城」の続きです。足守川に戻って、川沿いに南へ。境目ツアー3つ目の日幡城を目指します。吉備路観光ツアー実行委員会様発行のパンフレット「高松城水攻め 驚天動地の秘策」による地図での日幡(ひばた)城の位置はここ。 同パンフレットによる日幡城の解説は、 【秀吉の懐柔工作によって城主の寝返りを勧めるなどして、一旦は落城したという。 城主の裏切りによる落城に怒った小早川隆景が猛攻をかけたため、秀吉側は 城を開けて引き揚げたといわれる。すぐ東に足守川があり、川を利用した 縄張りになっている。】とある。日幡城の築城についてはわかっていないが、代々日幡氏の居城という。日幡氏についても詳しくはわからないが、どうやら在郷の武士の家系らしい。永禄4年(1551)および永禄7年(1554)の備前竜ノ口城の戦いで、浦上軍と戦い武功を挙げたという記録が残っているそうな。で、天正10年当時の日幡城には 城主・・・日幡景親 城主の弟・・・大森蔵人 毛利の援将・・・上原元祐がいた。城兵は1,000に満たないくらい。上の解説に「城主の裏切り」とあるけど、はじめの一歩は上原元祐。この人は毛利元就の娘を娶っており、隆景にとっては義理の兄弟。この毛利の縁者が、あろうことか秀吉に内通した。寝返りを誘ったのは、花房職之・戸川秀安の「撫川城(3)」に出てきた、明善寺合戦後の撫川城攻めコンビ。上原元祐は、日幡景親の弟の大森蔵人も抱きこんだ上で、城主へ寝返りを勧めた。日幡景親は上原を改心させようと説得を試みるが上原は応じず、「なら、討ち果たすべし!」と本丸に向かったところを、逆に斬られて絶命。寝返り連は羽柴軍を城内に引き入れる。こーゆー経緯なんだそうです。そりゃ、隆景ちゃんが怒るのも無理ないっしょ~!んで、ソッコー家臣の楢崎忠正に城を奪い返させ、自分の姉妹である上原の妻は助けて毛利陣に入れたんだと。広島県世羅郡世羅町の「大田庄歴史館」には、秀吉が上原に宛てたと思われる密書が残されているそうな。さて、地図にはちゃんと「日幡城跡」と書いてあるものの、どこから入っていけばいいのかイマイチわからない。一旦土手沿いの道を降りて、目的地へ行けそうな道を探すけど、何しろここも田んぼと住宅地の細い道ばかりで・・・何となく道沿いに走ってきたら、変な神社に出ちゃった。ひいいっ、ここはどこお~!?ちょっと休憩がてら、よく地図を確認しようと思って神社に入ってみた。そしたら、なんか巨石がごろごろしてるすごい光景が目に入った。 あとで地図を確認したら、ここは岩倉神社という所だったらしい。境内は大きくはないけど、ここにある石はホントにすごかった。神社っていうより、石材屋さんの物置場みたいな(笑)。現地では自分がどこにいるのかわかってなかったけど、日幡城がこの近くにあるのは間違いないので、来た道を戻って城址へ通じる道を探す。この辺にはあちこちに用水路が流れてたんだけど、そのうちのどれかは日幡城の本丸と出丸の間の堀切といわれてるんだとか。(写真は撮ってません。すいません)岩倉神社から少し北に戻って、「ここは人んちの庭じゃないのか?」みたいな所を入っていくと、公民館があった。やれやれ、やっと入れた~。その隣に、日幡城の石碑が建つ。 石碑の裏側には 天文年中 初代 景教 築城 天正十年 三代 景親 落城と刻まれている。写真を見ると「道路沿いじゃん」て思うかもしれないけど、モラリストな私は石碑と反対の左側を走ってたので、全然気付かなかった。気付いたとしても、自転車じゃ降りられないし。とりあえず、よかった・・・この裏のこんもりした丘が城跡らしく、土塁が残ってるそうなんだけど、現在は竹林になっていてとても入っていけそうにない。まあ、仕方ないよね。ここは、一部古墳を利用した造りなんだそうな。石碑の脇の道路を挟んだ土手の下には、足守川。東西に平行する二郭からなり、東の丸が本丸で足守川に臨み、その西にある西の丸が出丸だったという。※「岩崎山<吉川元春陣>」へと続きます。にほんブログ村
2012年04月11日

加茂城<岡山市加茂>(住所をクリックするとMapfanにリンクします)※「吉備路編(2)」からの続きです。吉備路自転車専用道は、足守川に行き当たってから一旦北に向きを変え、総社まで続いていく。新黒住橋で自転車道と分かれ、次に目指すは加茂城(別名:鴨庄城)。本日の境目ツアーの2番目の城となります。吉備路観光ツアー実行委員会様によるリーフレット、「高松城水攻め 驚天動地の秘策」によると、加茂城は 【高松城から24キロメートルほど南にある。秀吉は宇喜多家の家臣を使って 加茂城の家臣を寝返らせ、宇喜多勢を引き入れるなどしたが反撃に遭い、 毛利勢から奪うことはできなかった。】とあり、同パンフレットの布陣図での加茂城は、赤で囲ったところ。 織田軍に、相当近い位置にあるな。城の中では、高松城に最も近い。天正10年(1582)4月4日に岡山城に着いた秀吉がこの境目の諸城に恭順を呼び掛ける書状を送ったのは、太閤石のところで書いた通り。高松城の北に位置する竜王山に到着した織田軍は、同年4月15日、降伏勧告に応じない周辺の城を一斉に攻撃した。高松城を除く城の中で、最も激戦となったのは竜王山に近い位置にある冠山城だといわれているが、位置的に加茂城も結構厳しかったんじゃないかな~と想像する。じゃ、ここ加茂城ではどんな戦いがあったのか?上の解説を補足すると、 「宇喜多家の家臣」・・・戸川秀安 「加茂城の家臣」・・・桂広繁・上山元忠・生石(おいし)治家戸川秀安は、「庭瀬城(2)」で書いた戸川達安のお父さんです。で、問題は下の3人なんですが、戸川君によって寝返ったのは誰なのか、情報が錯綜してる。まあ、桂広繁の寝返りはないと思うんだよね・・・あくまで個人的な想像ですが。で、上山・生石がセットで寝返ったとされたり、どちらか単独だったとされたり色々。ただ、生石氏は元は三村氏の被官だったともいわれているので、崩すとしたらこの辺が狙い目かも。築城時期については定かではないが、16世紀初めには土豪の岡本隼人が居城していたと伝えられている。この辺りも沼地に覆われ、わずかに高い土地を土壇に仕上げて郭に仕立て、周囲の湿地を堀として活用したという。ふむ、高松城とも庭瀬城とも似たような環境にあった訳だ。・・・て事は、この城も攻めにくかったのかな?現在では遺構はほとんど確認できないらしいが、本丸・西の丸・東の丸とに分かれており、それぞれを上の3人が分担して守備していた。(誰がどこを守っていたかも諸説ある)守備兵は約3,200。で、3人のうちの誰かが調略され、宇喜多勢を城内に引きいれた。 とりあえず落城はしなかったみたいだけど、この戦いで燃えたとか、あるいは和睦の後に廃城とされたとか、ここも諸説あり。なんかね、どうもスッキリしないよね。この重要な局面の、重要な位置の戦いが、こんなに分かってないもの?この一連の戦いは、その後の日本一有名な裏切り事件へと続き、さらに支配者が変わっていく訳だから、どうもなんかアヤしい気がするんだけど・・・さて、現実へと話を戻して、加茂城を目指します。かなりわかりにくそうな所にあるみたいだけど、周辺の写真も持ったし、どうにかなるでしょ(←割とイージーな性格)。加茂城周辺も田んぼと畑が広がってるけど、思ったより新興住宅地になってて、あちこちで建設中の家を見かけた。地図を見ながら大体の目ぼしい位置を目指していくけど、どうもお目当ての光景が見当たらない。人がいたら聞こうかと思ったけど、わずかに見かけるのはお仕事中の大工さんかいかにも最近越してきました風の若者だけ。あとは車が時折通り過ぎるだけで、聞けるような人もいない。こーゆーのは、年寄りに聞くのがいいと思ってたんだけどな。ここは違うんじゃないかな~ってところまでも頑張って足を延ばしてみたけど、どうにも見つからない。途中、こんなお店は見つけたけど(笑)。 ・・・いやっ、どんな寿司なのか興味はあったけど、この時はそれどころじゃなかったからな~。外観の写真だけ撮って通り過ぎたんだけど、今考えたら中でご飯食べて加茂城のことを聞いてみても良かったかな~。でも、この日寄るスポットは人里離れたところがほとんどだと予想してたので、パンとかの食料も持参してたしな。こんな暑い日に持ち歩いて夜まで食べなかったら、悪くなっちゃう。で、ふたたび加茂城を求めてウロウロしてみるけど、やっぱり見つからない。加茂城を訪れた方の記録によると、現在ではどうも案内板がある程度らしいし、案内板を見なければ登城したことにならない、とは私は考えないので、ほどほどのところで次へ向かうことにした。この近くに城があったことは間違いないのだから。それで、せめて周囲の写真くらいは撮ってたかと思ったけど、なかった。すいませんたぶん、私のカンと探し方が悪かったんでしょうけど、新しい家をバンバン建ててたから、すでに登城された方の記録や写真とは若干様子が異なっている可能性もありますので、これから行かれる方は注意をした方がいいかもしれません。さすがに、案内板はなくなりはしないと思うけど。※「日幡城」へと続きます。にほんブログ村
2012年04月10日

※「撫川城(3)」の続きです。庭瀬駅からJR山陽本線で一旦岡山へ戻り、吉備線に乗り換える。私が乗ったのは確か2両のワンマン列車で、ほとんど路面電車の風情。途中の車内のアナウンスでは、「運賃は運賃箱へ入れてください」とか言ってて、「吉備線って、電車じゃないの?電車のくせに、現金払い!?」って焦った。普通の電車だと思って庭瀬からICOCAで来ちゃったんだけどいやいや、地方独特のスタイルとかあって、旅はスリリングだね(笑)。降りたのは、備前一宮駅。ここからは、レンタサイクルで吉備路を走ります。庭瀬あたりに自転車屋さんがあれば、そのまま北上して境目ツアーができたんだけど、あいにく場所が限られてたので、電車で備前一宮まで来ました。駅を出てすぐのところに、レンタサイクルがある。一宮・国分寺・総社で相互乗り捨て可能で1日1,000円。店番のジイちゃんは、自転車専用道路がある事など色々教えてくれた・・・が、歩きだったら地図を見ながら進めるけど、自転車だとある程度道を頭に入れておかなきゃならない。全く知らないところを一人でチャリで走るなんて初めての経験なので、ちょっと遠回りになるけど、目的地の近くまでは国道を進むことに決めてた私は、軽く聞いてた(ごめんなさい)。今日は午後から少し降るかもなんて言ってたけど、今のところはすぐどうこうっていう天気じゃない。それより、暑いんだけど・・・ジイちゃんが教えてくれた自転車専用道路は、駅を出て右に曲がってくんだけど、私が目指す国道180号線は駅から左。別の方に曲がる私の背中を見てたかな~と少し心を痛めながら行きついた国道は、 歩道が分かれてない! 路側帯がほとんどない!! 交通量が多い上に、スゲー皆飛ばしてる!!!の三拍子揃った悪道だったので、諦めてジイちゃんの自転車専用道路を行くことにした。自転車専用道路には看板が設置されてるので、自分の地図と併用しながら進む。住宅地を抜けてまず現れるのは、吉備津彦神社。 吉備津彦神社は、駅名の通り備前国の一宮。そう、ここは備前なんです。写真の中山を越えるとそこは備中。昔は山のあちらとこちらで、別の国だったんですね~。この神社は戦国武将とのゆかりも深く、まず社殿は日蓮教徒である金川城主・松田元成に焼かれてる。宇喜多直家も崇敬し、高松城攻めの際には殿下が祈願したと伝えられている。あとは、池田さんちね。池田輝政の子・利隆や忠雄などにより本社や拝殿が造営され、光政の子の代になって元禄10年(1697)年に社殿が完成。池田利隆は子に恵まれず、ここに願かけしたところ、たちまち光政を授かったんだとか。しかもその子は「岡山城(13)」の通りの名君であったから、摂社の子安神社は縁結び、子授け、安産、育児の神様として現在でも熱心な参拝者がいるらしい。ただ、元々あった子安神社に利隆が祈願したともいうし、光政誕生のお礼に子安神社を造営したともいうし、どちらが正しいのかはちょっとわからない。あと、摂社の卜方神社には池田恒興と輝政の霊神が祀られているという。て色々な人とゆかりのある神社なので、ここはできれば後で寄りたいんだ~。で、自転車道。最初は割と大きな通り沿いでわかりやすかったけど、すぐに田んぼの中を走るようになって、吉備の中山を過ぎるあたりでは道がわからなくなって、しばらくウロウロしちゃった。少し走ってみてから、この自転車道は田んぼの中を実にくねくねと走る道で、通常の地図は全く役に立たず、ひたすら看板まかせに進むしかない事がわかった。旅先では当然知らない所ばっかり歩くし、道を聞けるような人も通らない場所も多いので、必ず手持ちの地図で現在地を確認しながら進むのが鉄則。これは登山も同じ。そーゆー歩き方ばっかりしてきた人間にとって、看板まかせってのは結構不安もあったけど、とにかく見落としさえなければ、看板が連れてってくれる。見落とさないためには、ゆっくり走ってあちらこちら見ること。本格的な農道に入る前の住宅地で自転車道のコツがつかめたので、あとはのんびり走ることにした。吉備の中山を回り込んでいくと、道路から立派な社殿の屋根が見えてきた。あ~、吉備津神社だ。名前が似てるけど、さっきのとは違う神社なんですよ。 備前・・・吉備津彦神社 備中・・・吉備津神社ここはすでに備中なので、吉備津神社の方です。元は中山をご神体とする、ひとつの神社だったみたいなんだけどね。ちょうど国境にあったのがマズかったんだね。かまどの下に埋められた、桃ちゃんに討たれた鬼(温羅)のドクロが吉兆を占ってくれるという「鳴釜神事」が行われているのは、こちら。「鳴釜神事」って、神事に立ち会う神官も阿曽女(巫女)も吉兆は教えてくれないんだって。温羅が鳴らす釜鳴りの音の高低とか、長短とかをもって依頼者が自分で判断するんだってね(笑)。どうせ自分で判断するんだったら、1000年以上も温羅をこきつかってないで、もう眠らせてあげれば~?とか思っちゃうんだけどここも、社殿は入口から近そうだし、できれば帰りに軽く参拝くらいしたいな・・・と思いつつ、通過。その先をしばらく行くと、見渡す限り広大な田んぼが続く農道へと入っていく。 正面に見える山は、天神山あたりじゃないかな・・・隆景ちゃんが兵を置いたところだ。ちょうど1年前の連休は安土にいたけど、安土の米はもう刈り時だった。でも、ここはまだまだ。 垂れるほど 実ってなかった 稲穂かなてアレンジした一句なんぞ出てくるけど、細い農道の両脇には深い側溝がぽっかり口を開けてるから、ぼんやり景色に見とれながら走ってると危ない。こんな人も通らない所で側溝や田んぼにはまって動けなくなったら、私が吉備路を走ってる事を知ってる人はほとんどいないし、夜になって宿に戻らなければホテルの人が警察に連絡してくれるかな・・・とか、自転車を今日中に帰さなければ、自転車のジイちゃんが捜索手配とかしてくれるかな・・・とか、不吉な妄想が頭をよぎる。まあ、少し気をつければいい訳だし、車は来ないし人もいないし、広い田んぼの中を地図から解放されての~んびり走るのは、実に快適だった。まだこの頃は、写真の通り雲が厚くて日差しはそんなになかったし。で、解放感いっぱいで気持ち良く自転車を走らせてたら、突然「ばっちーん!!」と何かが勢いよく口に当たった。一瞬の事で、何が当たったのか確認もできなかったけど、当たった感触とサイズと地理的条件を考えて、デカいイナゴかバッタかカマキリじゃなかろーかと思う。たぶん、イナゴだな。田んぼのど真ん中だもの。口開けてない時でよかった・・・・さて、のんびり走ってたら、足守川に出た。 おお、これが足守川か・・・!!足守川は~、非常に有名な戦いで一役買った川ですね。その話の前に、まずは近隣の城を回りましょう。※「加茂城」へと続きます。にほんブログ村
2012年04月09日

それでは、永禄10年(1567)、明善寺合戦をほんのちょっとだけ。1567年っつったら、アレですよ。信長様が稲葉山城を落とした年じゃありませんか(笑)。まずは三村軍が明善寺城へ対して夜襲をかけ、明善寺城は落ちた。三村元親は、兵150人を預けて根矢与七郎と薬師寺弥七郎にこれを守らせる。宇喜多直家は得意の謀計で、三村方である 岡山城主・金光宗高 中島城主・中島元行 舟山城主・須々木豊前守を寝返らせ、明善寺城の三村軍は敵中に孤立する事となった。直家は使者を明善寺城に送り降伏勧告をするが、三村方はこれを拒否。三村方では本国に救援要請の使者を送ることにする。そこで直家が考えたのが、三村軍本隊を自領に引きこんでの殲滅作戦。明善寺城を奪われた直家は、全軍で城を奪還すると表明。一方で寝返った金光宗高から「後詰めの本隊と明善寺城とで、宇喜多っちを挟撃しちゃうってのはどお?」と備中に使者を出させ、三村元親の出陣を誘った。三村方では、金光らの寝返りを信じておらず、また明善寺城からの使者も同様に後詰めを要請する内容を伝えたため出陣を決意した。三村元親の軍は、前軍に庄元祐(元親の兄)率いる7,000、中軍に石川久智5,000、そしてみずからは8,000の総勢20,000。迎える宇喜多軍は5,000。地の利とかあるって言っても、なかなか大胆な作戦だと思うけどね~。ただ、心強いのが寝返り陣の存在。実際、三村軍の作戦は筒抜けで、あれやこれやで数の上では圧倒的優位にあった三村軍は大敗。復讐に燃える三村元親も奮戦し、討ち死に覚悟で突撃しようとするが、これはさすがに周囲に諌められて撤退となった。この明善寺合戦は、宇喜多直家が生涯で唯一正攻法で敵と当たり、かつ最も華々しい勝利を収めた戦いであるといわれているんだと寝返り工作もあった訳だし、どこからどこまでを戦いとするかは議論の分かれるところかもしれないけど、ともかくもこの戦いにおいて、直家は最大のライバル・三村氏を備前西部から追い出し、鉄砲の鍛冶場として有数の福岡(岡山県瀬戸内市長船町福岡)を手にした事により、浦上家中での存在感を増した。対する三村氏は、これ以降失速していくことになる。何て言うかね~、この日記の冒頭で、同じ年に信長様が岐阜を手にしたって書いたけど、その翌年には皆さまご存じの通り、「足」の付くトラブルメーカーが転がり込んできて、上洛戦が始まるんだよね~。この時期は、備中や美濃だけじゃなく全国的に実に様々な武将達が戦いに明け暮れて国盗り合戦をしてた訳だから、敗者は静かに埋もれて忘れられていく・・・三村氏の興亡を見てると、世のはかなさを思ってついあれこれ想像しちゃうのだよ。例えば、信長様が美濃攻めの最中に落命してたら、 「今川義元を破った小せがれが調子に乗って美濃を攻めたが、やはり無謀であった」としか後世に紹介されなかったかもしれないし、それどころか桶狭間で負けてたら 「けなげにも少数の兵を率いて迎撃に出たが、多勢に無勢、”大うつけ”と呼んだ 周囲の評価は正しかった」なんて言われてたのかもしれない知略とか武力とかも大事だけど、一瞬の判断と、それから運。これで命をやり取りしていく。「何やってんの、あなたたち~!?」とか裏返った声で叫びたくなるくらい、戦、戦、また戦。過酷な時代だのう・・・ちなみに岡山市の田中神社には、明善寺合戦で亡くなった将兵の首塚が祀られている。三村元親の兄・元資はこの戦いで命を落としたと言われ、田中神社の縁起には元資とのゆかりが書かれているというが、後に毛利に仕えて転戦したという記録もあるので、本当に元資が明善寺合戦で討ち死にしたのかはわからない。さて、明禅寺合戦に勝利した宇喜多軍は、その勢いで備中へ侵攻、三村配下の撫川城攻めを家臣の戸川平右衛門に命じた。しかし、勢いで出たものの敵領にある城のためやっぱり慎重を期すことにし、宇喜多家の家臣・花房職秀を戸川平右衛門の元に派遣して、攻撃中止と撤退の命を伝えさせようとした。が、現地に到着した花房君が目にしたのは、宇喜多軍の圧倒的優位な戦況。このため独断で攻撃を続行させ、撫川城を陥落させた後に城を焼き払ったという。ここで一旦、2011年に戻りましょう。現在の撫川城址は、公園になっている。 入口だけじゃなく、奥の方にも土塁が残る。(決してポールを撮った訳じゃないからね。奥を見てね) 入って正面に神社が建つが、その手前に井戸跡がある。 井戸の奥にあるのが、三神社。 実は撫川城のちょっと手前から足に違和感を感じてた。数週間前から足の小指の爪が剥がれかけてて、できれば旅行前に取ってしまいたかったんだけど、無理してまた化膿すると大変なので、自然に取れるまで待つことにしてた経緯がある。なので、三神社に参拝してから、神様の前で失礼だけど靴を脱いで確認してみた。そしたら、めでたく古い爪が取れてた~!!あ~よかった、これでスッキリした痛みもないし、化膿もしてないし、もう大丈夫だな。安心してたらハチが飛んできたので、あわてて靴を履いてもう一度神様にお礼を言ってから撫川城を後にする。ここにいる間は、犬の散歩のおじさんが一人来ただけだった。かつてはここで激戦が交わされたなんて思えないほどに、実に静かだった・・・※「吉備路編(2)」へと続きます。にほんブログ村
2012年04月08日

さて、通説で撫川城の築城者となっているのが、三村家親。どっかで聞いたような?って思ってくれた方がいたら、うれしい。はい、庭瀬城の解説にあった、三村元親のお父上です。三村さんちについては、もっと後の方でまとめて書くつもりでした。しかし、備中からはどかーん!とインパクトのあるご大家が出た訳でもなく、世間一般ではマイナーな武将たちがこれでもかこれでもかとドンパチ繰り広げたところなので、マイナーすぎる事を一気に書きこんでも読んでる方が辛かろうと思って(笑)、分割して備中の戦国時代を簡単に紹介することにしました。この後行く城にもちょいちょい絡んでくるし、その中でも特に三村さんちは重要なポジションを占めているので、触れない訳にはいかないのだ。守護の起源については確定してないみたいだけど、鎌倉期の備中国の守護は、「赤間ヶ関編」で一瞬出てきた土肥実平に始まる。壇ノ浦後、追捕使として下関に来た人ね。その後、めまぐるしく守護が入れ替わり、14世紀末には管領・細川氏の庶流が守護職を継いでいった。守護の下には、 ・守護代・・・庄氏・石川氏 ・国人領主・・・三村氏・新見氏・多治見氏などがいた。室町時代の守護は、京にあって将軍の側に仕えるのが原則だったので、守護代が在地の支配にあたっていた。自国にいない訳だから、その間に国人などによる領地の横領などが行われるようになり、応仁の乱で世が下剋上ムードになってきた延徳3年(1491)、守護代・庄元資が守護に反旗を翻す。乱は鎮圧されたものの、守護・細川勝久の死後は守護は名ばかりの存在となり、代わって上記の守護代・有力国人らが台頭して、備中も群雄割拠の戦国時代へと突入する。永正4年(1507)年に大内義興が室町前将軍・足利義尹(もと義材、後の義稙)を奉じて上洛した際には、動員された武田・尼子・毛利ら中国・九州の兵に混じって三村宗親の姿もあり、三村氏の具体的な動向が確認できるのはこの時からという。三村宗親は、家親の父。宗親→家親→元親とつながるので、できれば覚えてね天文2年(1533)、庄元資が上野氏を攻めて松山城を落とし、備中最大の勢力となった。庄元資は松山城に拠点を移し、猿掛城には庄氏一族の穂田(穂井田)実近を城代として配した。尼子詮久(のちの晴久)が天文5年(1536)に備中に侵攻してくると、庄氏・三村氏・石川氏などは尼子氏の麾下に入った。しかし、尼子詮久が天文10年(1541)に毛利元就の吉田郡山城攻めに失敗し撤退すると、備中勢で尼子から毛利へ鞍替えする者が現れ、三村家親も毛利氏に臣従。家親は成羽に居館を築き、鶴首城を本拠とした。庄氏は依然尼子配下にあって、三村氏と覇を競っていたが、天文20年(1551)頃に猿掛城の穂田実近が三村領に侵攻。これを受けて三村家親は毛利氏に支援を依頼。ここから毛利の備中進出が始まる。まあ、備中侵攻の足がかりは掴んだものの、この頃の毛利元就は大内氏を牛耳っていた陶晴賢から、尼子に寝返った安芸の豪族の討伐を命じられてたりして、実は忙しかった。それでも天文22年(1553)、子の隆元・元春を従えて元就は備中に出陣。三村家親は先鋒として猿掛城を攻撃した・・・が、応援に来た庄為資(元資の子)に敗れる。しかし、庄為資は講和を結ぶことを選択。 ・三村家親の長男・元祐を猿掛城代・穂田実近の養子とする ・庄為資は、子・高資とともに松山城に居住と取り決めて、戦闘終了。この頃を大ざっぱに図にすると、こんな感じ。 永禄に入って庄為資が死去すると、尼子と結んだ庄高資は猿掛城の三村元祐と対立するようになった。しかし、尼子から応援の将・吉田左京亮がやってくると、庄高資はその圧迫に耐え切れず、猿掛城へ逃げ出した。 で、1~5の流れで事は進み、3から毛利元就が出張ってくるんだけど、5で庄高資の監視のために、三村家親も松山城に入れることにした。庄氏に代わって備中の覇者となった三村家親は、松山城を拠点に毛利氏とともに伯耆・美作・備前へと侵攻を重ねた。この家親の代で、三村氏は備中のほぼ全域と備前の一部を手中にしていたという。対外へも勢力を拡大していった三村家親は、永禄9年(1566)には宇喜多直家の本城である沼城にも迫る勢いを見せた。脅威を感じた直家は~、直家らしい方法で対処した。家親の顔を知っていた鉄砲の上手、遠藤兄弟をスナイパーとして送りこんだのである。重大任務を負わされた遠藤兄弟は、「失敗したら死ぬんでしょうから、家族のことをお頼み申します・・・」と悲壮な決意を直家に残し、出発。そして美作興善寺の陣で軍議中の三村家親に、夜だというのに火縄銃を命中させ、任務成功。これは要人狙撃事件としては最も早いものとされているらしい。(杉谷善住坊が信長様を狙ったのは1570年)しかし、三村陣中では家親の弟・親成が家親の死を隠して成羽に帰ったため、混乱は起きなかった。手応えを感じたのに、三村軍の静けさに「おっかしいな~」と思いながらも遠藤兄弟は直家に暗殺の成功を報告。まだその時は家親の死が公表されてなかったため、直家は最初信じなかったという。三村軍が成羽に帰陣して家親の死が公表されると、遠藤兄弟の兄・又次郎は浮田姓を与えられ、直家の偏諱まで受けて(浮田家久と改名)褒章された。一方の三村さんちは、当然このままでは気が済まない。家親の弟・親成が必死に家中を収めるべく説得にあたるが、一族の三村五郎兵衛らは100騎程度の軍勢を率いて、家親の弔い合戦に沼城に攻め込んでいったが、直家の返り討ちにあい五郎兵衛以下ことごとく討死した。 家親の長男の元祐は猿掛城に養子に行っていたので、二男の元親が三村の家督を継いだ。元親は親の仇・宇喜多直家を倒すべく、国内を固め備前の勢力にも根回しをし、準備を整えていった。直家もそんな事はもちろんわかってる。そこで、明禅寺山に出城を築いて沼城の前衛とし、来るべき三村氏との合戦に備えた。そして永禄10年(1567)三村軍が備前に出陣、明禅寺合戦が始まった。にほんブログ村
2012年04月07日

撫川城<岡山県岡山市北区撫川>(住所をクリックするとMapfanにリンクします)※「庭瀬城(4)」の続きです。一旦庭瀬城跡まで戻って、住宅地を西へ。撫川(なつかわ)城の近くには、「撫川うちわ」についての解説板があった。 【岡山市選定保存技術 撫川うちわ製作技術 撫川うちわは、江戸時代中期(元禄ごろ)に庭瀬藩や撫川知行所の武士達の内職として 始められたのがその端緒である。やや大ぶりな扇面に優雅な図柄を透し映すところに 特徴があり、その伝統技法に則って現在も製作されつづけている。 扇面には、雲形模様の下端に草書体で書かれた俳句が詠み込まれている。そこには 「歌継ぎ」と称される貼り継ぎ技法が駆使されており、高度な熟練が要求される。 また、俳句に関連する伝統的な花鳥風月などが、扇面を飾る透かし図柄に選ばれ 描写されており、その高尚優美な情趣がより効果的に表出されている。 この伝統的な製作技術の保存を図るため、撫川うちわ保存会「三杉堂」(会長 坂野定和)が、技術保持者として昭和60年4月に岡山市の選定保存技術に認定された。 また、平成7年4月には坂野定和氏が、岡山市の重要無形文化財(工芸技術)に 指定された。】まあね~、読んでるだけじゃ「ふーん」って感じだけど、目で見てみると、気の遠くなるような作業と技術だわ。だって、うちわが一人で立つんだから!(笑)岡山市デジタルミュージアム様のサイトでは、この製作過程がビデオで見られます。14分とちょっと長いけど、時間のある方は是非ご覧になって下さい(⇒こちら)。庭瀬城跡と撫川城跡もちょっとだけ映るし。私も、通る道沿いにあったらお店とかのぞきたいと思ってたけど、あいにく見つからなかったま、あってもまだ開いてる時間じゃなかったでしょうけど。さて、この解説板からちょっと歩くと、撫川城。まずは堀が出迎えてくれまする。 お~、すてきこれを渡ると、門がある。撫川陣屋の総門を移築したものと伝えられている。 門の両脇には、土塁。 「良いではないか、良いではないか~」なんてスケベな殿様みたいなセリフが自然と湧いてくる(笑)。「庭瀬城(3)」に掲載した寛文年間推定とされる絵図では、撫川城はこんな風に描かれてる。 左の小さく堀で四角く囲まれてる部分に「古城跡」とある。これが、庭瀬城に取り込まれた後の撫川城。 【撫川城は、泥沼の地に築かれた典型的な「沼城」です。 城の平面形状は、東西77メートル、南北57メートルの長方形を示し、 幅15メートルの濠がぐるりと巡っています。西半に高さ4メートル強の高石垣 (野面積み)と東半には土塁が現存しています。また北西隅には櫓台と思われる 石垣の張り出しが見られます。 この城は永禄2年(1559)に備中成羽城主・三村家親が、備前の宇喜多直家の 侵攻に備えて築城したといわれています。備中高松の役(天正10年(1580))には 毛利方の国境防備の城「境目七城」の一つとなり、当時の城主井上有景と 秀吉軍との間で激戦が交わされました。 その後は宇喜多の支配下になり廃城となりましたが、江戸時代に戸川氏の領する ところとなりました。 戸川氏は安風(4代目)で断絶しますが、その弟達富が撫川領分を継ぎ 「庭瀬城」の本丸・二の丸に知行所を設けました。撫川城跡と庭瀬城跡とに 呼び分けられていますが、もともとは一体の城だったのです。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)築城は解説にもこう書いてあるし、三村氏というのが有力みたいだけど、別の説もある。寛治年間(1087年~1094年)に藤井久任が築城したというのが1つ。この人はどうやら吉備津神社の神職で、薪を積んで念仏を唱えながら「火定(かじょう)」・・・つまり焼死したらしいんだけど。コワイ。他に、平家の武将、瀬尾(せのお。妹尾とも)兼康の築城という説もある。妹尾ってのは、撫川よりもう少し南に現在も地名が残ってる。この人は平家に忠誠を尽くした人として知られ、寿永2年(1183)に木曽義仲追討軍に加わって北陸へ遠征するも、義仲方の倉光成澄に捕まってしまう。が、木曽殿は兼康の武勇を惜しんで助命、倉光成澄の弟の成氏に預けた。同年、都落ちした平氏が勢いを盛り返してくると、木曽殿は山陽道に進軍。兼康は自らの本領である瀬尾村を案内すると偽って成氏を誘い出し、成氏を殺害。その後、兼康は笹迫(ささのせまり)の要衝に砦を構えて反旗を翻した。激怒した木曽殿に攻めて攻めて攻めまくられ、郎党2人とともに斬り死にという最期を迎えた・・・この地に残る、日本有数の歴史を有する「湛井(たたい)堰」という用水堰はこの人が開発したといわれており、湛井堰の守護神である井神社の境内には兼康を祭神とする兼康神社が祀られている。にほんブログ村
2012年04月06日

前頁の最後の絵図には、解説もついてる。 【法万寺川(農業用水路) この水路は法万寺川といい、この水は総社市にある高梁川合同堰から取水された 農業用水が、足守川を経由し流れてきています。江戸時代、法万寺川は庭瀬城の外濠 としての役割を持っていました。 また、この地区は、水路を水運として利用し、備中南部の舟物資集散地の要所として 栄えていました。 水路には雁木(舟着場)がもうけられ、荷物の積み替え等も行われていました。 現在でも水路は農業用水の配水のみではなく、洪水や生活雑排水の処理、水辺生物の 生息の場として、景観と調和を取りながら流れています。】 (現地解説板より)その堀がこれ。 この奥に常夜灯があると地図に書いてあるので、歩きだしたら道標があった。 「左 吉備津」「右 こんぴら」?どこのこんぴらさんだろ・・・こんなのもあった。 字も読めないし、土地勘がないのでさっぱりわかりましぇん・・でも、上にある手の彫り物は何か現代風(笑)。この堀は、常夜灯のところで行き止まりになってる。けど、寛文年間の絵図を見ると、ぐるりと侍屋敷や本丸を取り囲むようになってたみたい。で、これがその常夜灯。 うむ、見るからに新しいが・・・ 【旧庭瀬港(内港)と常夜灯 庭瀬は、近世まで足守川とその支流を利用した船運が盛んに行われており、地区内に 張り巡らされた堀・水路を水運等に利用し、水郷のまちとして発展してきた歴史を 有しています。さらに陣屋町を東西に貫く庭瀬往来(鴨方往来)は、近世山陽道とも 呼ばれていることから、陸路と水路の交わる交通の要地であったといえます。 1600年代中頃の寛文年間の左の絵図によれば、絵図の下方に描かれている足守川の 河岸には、瀬戸内海を航行する船が出入りし、足守藩の年貢米の積出港としても 重要な機能を有していました。この河岸で積荷を海船から小船に積替えて旧庭瀬港 (内港)に入ります。 そこには、港町が形成され、庭瀬藩の商業・交通の中心地として栄えました。 水路に面しては雁木(階段状の船着き場)が設けられ、入港する船のため 木造で大型の常夜灯が1700年代に建てられていました。 明治24年に山陽鉄道(現在JRの山陽本線)が開通して以降は、船の往来も減少し、 昭和30年代には水路も半分ほどの幅までに埋め立てられ、また常夜灯も昭和29年の 暴風により被害をこうむり、すべて取り壊されましたが、その基礎(地伏石)は 原位置で保存されていました。 庭瀬・撫川地区の堀や水路による町割り、城跡や家屋の町並の景観保全を目指す 住民運動は、これまで活発に行われており、その盛り上りを受けて、当時の古写真や 地元の方々の記憶をもとに、埋め立てられていた旧庭瀬港(内港)を部分的に 再現しました。 また当時の常夜灯の石積護岸の一部と約3メートル四方の基礎(地伏石)を使用して 常夜灯を再建し、当時の旧庭瀬港(内港)の景観を平成19年度に復元しました。】 (現地解説板より)ほっほ~う・・・足守は、庭瀬よりもっと北にあるところ。備中の奥地へは、ここを経由して行ったのか。ほんの何十年か前に壊されて埋め立てられたものを、つい最近になって復元したってことね。すごい熱意だ・・・道標もあるし、近世山陽道って何じゃい・・・と思って、帰ってから少し調べてみた。岡山城のところで出てきた池田光政の二男・政言が、光政の隠居の際、新田開発の地となった浅口郡に2万5千石を分封されて、支藩となる岡山新田(しんでん)藩を立藩。江戸時代には分家を造る際、元々の領地ではなく新たに開発した領地(=新田)を分与する「新田分知(しんでんぶんち)」という方法があったそうな。新たに開拓するんだから、本家の石高は減らないって寸法でね。大名家の場合、分家が1万石以上の石高がある場合には分家を「ナントカ新田藩」と呼ぶこともあったそうで、ここでは岡山藩から分かれたから岡山新田藩。明治元年に鴨方藩と改称。で、鴨方に陣屋が置かれたが、本藩との行き来のために街道が整備された。これが鴨方往来。ま、陣屋はあっても、藩主は岡山城に住んでたみたいなんだけど。他に、「庭瀬城(2) 」で少し当時の地形について書いたように、街道沿いが海岸線だったことから「備中浜街道」、上方に続く道として「上方道」、あるいは「鴨方往還」という別名も持つ。岡山藩では、岡山城を中心に放射状に延びる岡山藩六官道という街道網を整備しており、鴨方往来もその一つ。岡山城下の古地図を見ると、「庭瀬口門」って書いてあるところがあるから、その辺りから街道が延びてたのかもしれないな。そこまで詳しく調べてはいないけど※岡山城城郭図はこちら(The Lit City Museum/岡山市デジタルミュージアム様のサイトへリンクします)鴨方往来はここよりも内陸にある山陽道と並行しており、山陽道の代替路としても機能していたという。庭瀬までは「庭瀬往来」ともいい、また途中までは六官道のひとつ、「金毘羅往来」と重複していたと。ほうほう、じゃあ、さっきの道標が鴨方往来と金毘羅往来が重複してたって事を示してる訳なのかな?この金毘羅往来は、倉敷の下津井湊へ続き、その名の通り金毘羅参りの道なんだと~。今は静かな住宅地の中にあるけど、昔は色んな人が行き来した場所だったんだ・・・※「撫川城(1)」へと続きます。にほんブログ村
2012年04月05日

弁天社からさらに堀を渡っていくと、ここにも碑が建つ。 寛文年間(戸川時代)に描かれたという「庭瀬陣屋古絵図」では、ここは「庭瀬御屋敷」と書かれた場所にあたるんじゃないかな~。(真ん中の大きい水色の下の区画) 今は、立派なイチョウの木と社が建つ。 これが解説板にあった清山神社か・・・まだ朝も早いというのに、地元のおばさんが境内を掃除してる。神社と反対側の奥にはちょっとした遊具が置いてあって、公園風。静かな住宅地に囲まれた静かな境内で、ありし日の様子なんぞ想像してみる。それで~、ここにはこんな碑があるんだけど・・・ なんか、後陽成帝の宸翰って読めるんだけど・・・一番上の写真の、個性的な字の「庭瀬城跡」の碑かな?まさかね・・・(笑)だいたい、宸翰って篇額とかに多いから、清山神社の鳥居か社の篇額のことかなあ・・・それとも、実はこの碑の裏とかに刻んであったのかなあ・・・いや、まてよ。清山神社は1793年とあるから、時代的に合わないじゃんやっぱり篇額のハズがない。あ、後陽成天皇は、本能寺の変で二条邸において信忠様が明智軍に攻められた際、一旦戦闘を休止して逃がした、誠仁(さねひと)親王の子供さんです。ので、200年近く違う。庭瀬城の訪城記を読んでも、誰もこれについて触れてないし。あ~わかんない。もっとよく見ておけばよかったあ~!!一体どんな由来があるのか、すごく気になるんだけど。さて、弁天社の方へ戻る。弁天社の奥の堀にはハスがあって、これにも解説がある。 【大賀一郎博士と大賀ハス(二千年ハス) (前略)第八高等学校教授を経て南満州鉄道株式会社教育所に勤め普蘭店から 古代蓮の実を採集発芽に成功、理学博士となる。 帰国後、昭和27年(1952)千葉県検見川の泥炭層から約2000年前の古代蓮を発掘 その発芽に成功。 この蓮を大賀ハスと命名されました。岡山市後楽園に保存植栽されています。 時あたかも岡山城築城400年に当たり、庭瀬城址保存会・吉備地区地域活性化推進 実行委員会が連携し、この濠堀に大賀ハスを先生のふるさとに開花させることに しました。淡紅色の花ビラが緑の葉の間にゆらぎ訪れる人々の目を楽しませてくれる ことを願っております。】先生は吉備町名誉町民なんだとか。あいにく、花の季節じゃございませんでしたけど、色々な歴史をつないでいこうとする地元の方々の熱意がこもってるね。この後も予定がパツパツに詰まってるけど、せっかくだからさっきもらった地図に沿ってちょっとだけ北に足を延ばす。途中、こんなふたがあった。 ええと、うちわが放射状に並んで・・・あ、撫川(なつかわ)うちわだ!(撫川うちわについては、撫川城のところで解説板の文章を掲載します。)うちわの間に、うちわと天地を逆にして花みたいなのがあるけど、ハス・・・かな?大賀先生のハスかもしれないね。こうやって、名産とか名物をふたの柄にするのって、ホント楽しいよね~。で、ふたの写真を撮ってたら、さっきの893さんのオジサマがコンビニでお買物したらしく、ビニール袋をぶら下げて帰ってくるのに出くわした。あいさつをするべきか、内心ワタワタしながらオジサマが通り過ぎるのを待つ。よかった、今度は何事もなかった・・・ちょうど地面にカメラを向けて怪しい人してる時に来ちゃったから、「おんどりゃ~!何しとるんじゃい、ワレェ~~!!」って怒鳴られたらどうしようかと思った・・・安心して歩きだしたら、道路がこんなだった。 なにこのデカイ道路標示!!こんなの初めて見たよ~ で、この先の橋の手前がかつての庭瀬城の大手。大手から御屋敷までの間には侍屋敷が並んでるんだけど、家老さんちの隣人が20人扶持の鉄砲足軽さんちだったりして、なんか面白い。大きい藩だと、家格とかで居住区なんかも分けられてたでしょうけど、小さい藩だとこんな風にみんな一緒みたいな感じなのかな(笑)。寛文年間の推定とされる古絵図の、大手付近だけ拡大するとこんな感じ。 真ん中らへんの堀にかかる橋、この下に大手門が小さく描き込んである。この橋は現在はこんな。 左の石柱に「庭瀬往来」、右に「庭瀬港」とある。この橋を渡ると、反対側の橋の石柱には「庭瀬城」「大手門」とある。 この付近の看板にある絵図には大手門は下の写真のように描かれていて、橋を渡った私がいるのは右下の橋の手前だから、確かに堀の向こう側に門があったみたいなんだけど、現在地から見た先に大手門があったって意味なんでしょうね。表示って、難しいね(笑)。 にほんブログ村
2012年04月04日

その後庭瀬城に入ったのが、戸川達安(たつやす/みちやす)。前の記事での解説は「宇喜多家の重臣」とあるけど、「元」ね。この人は初陣で隆景と戦ってるし、その後も宇喜多軍の主力として数々の戦功を挙げた。1600年の1月までは。慶長4年(1599)末、「宇喜多騒動」が起こり、徳川家康の調停で宇喜多家を退去。徳川家臣となる。てことで当然、その年の9月に起こった関ヶ原では東軍として戦う訳だけど、戸川家の伝承によると、この達安があの島左近を討ち取ったとされているらしい。左近についてはマユツバだけど、ともかく関ヶ原での戦功により2万9千石を与えられ、庭瀬藩を立藩。この後行く撫川(なつかわ)城を西の丸として取り込み、城を拡張していった。しかし、戸川家は4代で無嗣改易。庭瀬藩は陣屋格の大名であったため、その後は陣屋として整備されたという。戸川家の後、久世氏→松平氏と藩主が変わり、元禄12年(1699)板倉重高が入ってのちは、明治まで板倉氏が続いた。堀をたどっていくと、神社が現れる。よし、あれだな! ここに着いたのは8時位で、犬連れとかジイさんがのんびり朝の散歩をしてる中、カメラと地図と資料を手に他所者が来たのが違和感あるのか、通る人はそんなにいないんだけど、やけにジロジロ見られた(気がする)。まあ、世間様はこれから活動を開始する時間だもんね・・・神社への入り口のところ、道路の反対側には小さな広場みたいのがあって、看板が建ってたので先に寄ってみた。 ほう、庭瀬城と撫川城付近の地図だ。図で見ると、結構堀がちらほら残ってるのがわかる。そして、付近の観光案内図もあった。 雨とかで濡れないように、ちゃんとフタ付きの箱に入れてある。事前の調べで、ここを訪れた人の記録を読んだけど、城址の中心部分にしか触れてない人の記録しか読まなかったから、あまり見るところはないのかと思ってた。だけど、城の名残を残すものは他にもあるってこの地図に書いてあるから、後で行ってみよう。案内図の内容を詳しく見たい方はこちら。(吉備学区電子町内会様のホームページへリンクします。)地味だけど、こーゆー配慮って本当にありがたいんだよね。私の場合、マイナーな史跡を多く巡るので、事前に色々調べていくのは当然のことなんだけど、ネットなどで得られる情報ってやっぱり限りがあって、現地に着いてからの情報収集も欠かせない。とくに、こうした地味だけど重要な案内図なんかがたまにあったりするので、観光案内所とかのチラシ類が並ぶところでは、結構目を凝らして役に立つ資料がないか探す。ので、ありがたく地図を頂いて、と・・・ 現在は岡山城も庭瀬のあたりも、海から少し離れたところにあるけど、昔は地形が今と違っていた。「岡山城」のところで書いた旭川は当時河口部分が複数に分かれており、広大なデルタ地帯を形成していた。それから旭川の東にある吉井川、この吉井川と旭川で岡山平野が造られたそうな。そして庭瀬のあたりの平地は、備中高梁から倉敷へと流れる高梁川が造ったとされている。岡山城(石山城)は、最初の頃は大州原と呼ばれる広大なデルタ地帯の中の丘に造られたといわれているので、地理的条件が同じな庭瀬城も、昔は川の中(みたいなところ)にあったのかもしれない。天正年間頃は、現在の児島半島は瀬戸内海に浮かぶ島(児島)であり、児島と本土との間には20余りの島が点在する「吉備の穴海」という浅い海が広がっていたという。それで、庭瀬城は大手を北側に配し、南に干潟を持ってたといわれているから、現在よりも相当内陸まで海が入りこんでたってことだよね~。※岡山の地形にうとい方は、こちらのMapfanをどうぞ。地図の中心が庭瀬、東に岡山城。右下の岡山港の下にぽこんと出ているのが、児島半島。さて、堀を渡ると、まず中之島に建つ弁天社がある。 今日も暑いし、ベンチでひと休みしたいな~とかって思ってきょろきょろしてたら、前方から、誰がどう見たって、正真正銘本物の893さんみたいなオジサマが歩いてきた。そうか、岡山って広島に近いもんな・・・(←広島が本場だと思い込んでる)ヤバイ、小さな神社の境内だし、逃げ場ないぞととと、とにかく目を合わさないようにしないと・・・!!何事にもない風を装って、神社をよく見てるフリをしてオジサマが通り過ぎるのを待つ。と、ちょうど私とすれ違う時に、あちらから「おはよ~ございます!!!」って超サワヤカな挨拶をされてしまった。「あ、おはようございます」って今気付いたようなフリで挨拶を返したけど、怖かったよ~!!本職さんかどうかもわからないのに、ビビってる風を見せてはイカンと思って人生最大のポーカーフェイスを作ってはみたけど、あちら様にどう映ったかはわかりませぬ。いや、それにしてもいい挨拶だったよ。高校球児でも、ヘタしたら負けちゃうかもくらいな。今時、あんな挨拶できる人なかなかいないね(笑)。にほんブログ村
2012年04月03日

庭瀬城<岡山県岡山市北区庭瀬 >(住所をクリックするとMapfanにリンクします)※「岡山城(13)」の続きです。2日目('11/9/18) 曇りのち晴れ予報では、岡山滞在期間中はずっと雨マークが付いていた。「晴れの国」なのに今日はかなり忙しいので、朝早く起きて宿を出る。幸い、今日になったら雨マークは外れてたけど、天候によっては若干予定変更になるかも。まずは、JR山陽本線に乗って庭瀬駅まで。駅舎にはこんなポスターがあった。 フルーツが名産の、おきゃやまならではのポスターだな。かわいいそういえば、昨夜のニュースで、大雨の影響で庭瀬駅の天井が崩落したとかって言ってたけど、特に気が付かなかったような・・・駅を出たら、なんかすごいコワイ顔した女の人が駅前にヤンキー座りしてて、あまりのコワさに目が覚めた住宅地を抜けていく途中、カラーのふたを発見! これ、探してたんだよ~!ラッキー!!ホントにかわいいな~駅からしばらく歩いて、今日最初の目的地、庭瀬城に到着。 おう、立派な堀だぜ・・・上の写真の左手にも、堀が広がっている。 さてと、今日はかなりテーマ性が強い1日になります。庭瀬城ってあんまり有名じゃないかもしれないけど、知ってる人は何がテーマかピンとくるはず。 上の布陣図は、吉備路観光ツアー実行委員会様発行のパンフレット、「高松城水攻め 驚天動地の秘策」によるものです。庭瀬城は、右下にある20番のところ。同パンフレットには、これらの城について次のような解説がある。 【備中七城 東から攻めてくる羽柴秀吉率いる織田軍勢に対し、毛利側の防衛ラインは 宇喜多家が織田家に味方したために備前と備中の国境まで後退した。 この防衛ラインになったのが、足守川沿いにほぼ南北に並ぶ「境目七城」と呼ばれる 七つ城。その中心が備中高松城であった。】7つの城とは、北から順に宮路山城・冠山城・高松城・加茂城・日幡城・庭瀬城・松島城。てことで、本日は織田と毛利の最後の最前線となった境目七城を中心に回ります。最大のメインはもちろん、あの大舞台に決まってますでしょ~ちなみに、日頃は信長様への愛を口にしてはばからない私ですが、この日ばかりは立ち位置は毛利方となります。だって、信長様はここまで出張ってきてないし、元春ちゃんと隆景ちゃんも好きだし、やっぱりメインの舞台でのかの英雄の存在も大きいし~。さて、織田軍が備中攻めのために岡山城に着いたのが、天正10年(1582)4月4日。まだこの頃は宇喜多の裏切りを警戒していたので、すぐには岡山城に入らなかったらしいですね。沼城から岡山城に移動して、「岡山城(12)」で書いたあの太閤石に腰掛けて、殿下は備中の土豪へ恭順を促す書状をあれこれ送りつけたらしい。対する毛利軍では、織田軍の備中入りに先立つこと5ヶ月前の天正9年11月、小早川隆景の居城である三原城にこの境目七城の城主達を招き、ねぎらいの言葉+御馳走+一振りの太刀の下賜という三段構えであらためて忠誠を誓わせ、奮戦を促した。高松城を除く6人の城主たちは必勝を誓ったが、清水の宗治君だけは織田軍の手ごわさを知っていたために「必勝」ではなく「必死」を誓ったとかいうエピソードもあるけど、ちょっと宗治に関しては、時に美化されすぎてるきらいもあるからな・・・前置きはこのくらいにして、庭瀬城の解説。 【室町時代の末ごろ(約400年前)備中松山の三村元親は、備前の固めとして この地に築城した。付近の地名から芝場(こうげ)城とも呼ばれた。 一帯は泥沼地でひじょうな難工事であった。その後、宇喜多の重臣戸川肥前守達安 がはいり、1602年古城を拡げ城下町を整えた。 元禄12年(1699)板倉氏の居城となり、明治を迎えた。自然石の石垣をめぐらした 堀もよく残り、沼城の典型を示している。 寛政5年(1793)板倉勝喜は、城内に清山神社を建て、板倉氏中興の祖重昌、重矩父子 を祭り、歴代の遺品を収蔵した(遺品は現在吉備公民館に収蔵)。】 (現地解説板より)三村の元親君については別のところで触れる予定です。織田と毛利のバトルの際には、城主の井上有景が800余人を率いて守備。上の布陣図を見てもわかる通り、庭瀬城はかなり外れた位置にある。庭瀬城から南西にある松島城なんて、実際攻められてもいないし。で、防衛ラインとして位置付けておいて勝手な話だと思うけど、「お前んとこ、孤立しちゃうからさっさと撤退してこいや~!」って元春と隆景に下命された・・・けど、有景はシカト。そして織田軍との激戦が始まった。城の周辺は高松城と同じ沼地で攻めにくかったらしく、どうにか持ちこたえ和睦の時まで在城したという。敗北したという説もあるけど。にほんブログ村
2012年04月02日

岡山市民会館の向かいは、西の丸。現在は学校になっている。 して、ここにあるのがこれ。 【池田光政公隠居所跡 旧内山下小学校の校地は、江戸時代には岡山城二の丸西丸であり、池田光政公が この場所を隠居所にしました。光政公は、寛永9年(1632)に国替えで鳥取藩主から 岡山藩主となり、行政組織の改革、法制規則の整備、新田開発、教育の普及と 学校整備、宗教施策の制定などの治績を残し、藩政を確立した名君と称されています。 光政公は岡山城本丸で治世にあたりましたが、寛文12年(1672)に隠居して 西丸を居所にしましたので、以後この場所が藩主の隠居所となりました。 西丸には御殿と関連施設が建ち並び、泉水のある小庭園や花壇も設けてあり、 本丸表向書院と同じたたずまいでした。 今日では、西手櫓とその東側の小池と周辺に、往時の面影の一部を残しています。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)はい、光政ちゃんが出てきましたね~。彼は少し戦国時代からズレるので、知らない人もいるかもしれないからちょっとだけ。ここでは、白光政ちゃんについてだけね。黒は後で出てくる予定です(笑)。父は、池田輝政の嫡子・利隆。母は、榊原康政の娘・鶴姫。嫁は、本多忠刻と千姫の娘。光政の「光」は、家光の偏諱。解説にある「教育の普及」ってのは、日本最古といわれる庶民のための学校を開いたりしていることによる。水戸の黄門様・保科正之と並び、江戸時代初期の三名君と称される。「宗教施策の制定」については、ちょっと色々複雑な事情があるようなので、名君の事績としてここに挙げていいのかは疑問に残る・・・黒光政のとこで少し書くかも。あれ?白の解説終わっちゃった(笑)。黒の話の方が多くなりそうだな・・・まあ、名君ったって、人間だもの♪でも、ものすごい親孝行だったとか、名君にふさわしいエピソードは沢山ありますよ。幕府に睨まれたりもしたけど、ところによっては藩主の転封がめまぐるしかったこの時代、廃城まで池田氏でもったのは光政の業績も大きく貢献したでしょうしね。そして、光政はこの西の丸で亡くなりました。享年74歳。この碑から少し北上すると、西の丸と三の丸をつなぐ北門。ここにも西の丸の石垣が残る。 そして城郭配置図。 【岡山城二の丸(西の丸)跡 丸の内地区に見られる古い石垣は、1590(天正18)年の宇喜多秀家の築城に始まり、 寛永年間前半(1630年頃)の池田忠雄の城普請まで、四代の城主によって完成を みた岡山城の城郭の跡です。 この地は武家の郭から町人の城下町の三の曲輪へ、内堀を渡って通じる要衝を なしていました。 この説明板の後の石垣は二の丸の北西部を固めた西の丸の北側にあたります。 石垣の西側に重層の北西隅櫓を構え、東側に渡櫓門造りの北門を備えていました。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換) 写真の図は、上が南。ちょっと見づらいかもしれないけど、西の丸の南は「二の丸侍屋敷」とある。余談になりますが、荒木又右衛門で有名な鍵屋の辻の決闘(伊賀越の仇討ちともいう)の河合又五郎(仇のほう)の屋敷は、石山門からちょっとだけ南西に行ったところにあったそうです。又五郎んちからさらに南に行ったところが、又右衛門に助勢を依頼した渡辺数馬の屋敷だそうな。鍵屋の辻はね~、新春の長編時代劇あるでしょ~。箱根駅伝の後に、だらだら見ちゃうやつ(笑)。最近は随分時間も短縮されたみたいだけど、あれ、誰が主人公だったんだろう・・・西田敏行演じる、土井利勝かな?それを見てて、初めて知ったんだよな~。あの時、荒木又右衛門は村上弘明がやってた。(↑そーゆーとこだけは、しっかり覚えてる)本筋とはあまり関係なさそうなのに、やけに仇討ちの話をダラダラとやってて、訳もわからず見てたんだけど、あの話って、蘇我兄弟・赤穂浪士と並んで日本三大仇討ちなんだってね~。どうりでね~。まあ、当時はそんなに関心なかったけど、観光案内所でもらった「城下町見て歩きマップ」に仇同士の屋敷の位置が書き込んであるのを見て、あらためて仇討ちの経緯とか読んでみたら、実はこの話って、驚いたことに長久手で池田恒興と元助の親子が討ち死にしたところから因縁が始まってるとかっていうのを知って、すごく驚いた。歴史って、ホント複雑・・・最後に西の丸西手櫓を見て、1日目は終了。暑くて、疲れた~!半日だったので、この日は14,697歩。腰も痛いし、腕も・・・2週間前、茨城の取手でとある城攻めの最中、名誉の負傷をしましてな(笑)。傷口がなかなか治らなかったんで、腕にホータイ巻いたままの遠征となった訳でござる。ホテルの部屋は、高層18階。震災後の節電の影響か、おきゃやまの夜景は控え目だった(笑)。部屋は良かったんだけど、風呂の壁がガラス張りで、一人なのに妙に緊張した※「庭瀬城(1)」へと続きます。にほんブログ村
2012年04月01日
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