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やれやれ・・・結局まる1日三井寺に費やして、帰りが遅くなってしまった。昨日探せなかったものを、今日こそは探さないとな・・・そして、大津駅を出て左側の草むらの中に、その看板はあった。 【山吹地蔵 大正10年8月 大津駅がここに建設されるまで、この地一帯は秋岸寺という 古いお寺でありました。 その昔、木曽義仲が粟津が原で鎌倉軍勢と戦って敗れ、今井兼平等多数の部下とともに 戦死した時、愛妾山吹御前は、京洛から義仲を慕ってはるばる逢坂山を越えて ここまで来ましたが、逢うことができず秋岸寺境内の竹藪の中で敵刃に倒れたので あります。 後世有志が薄幸の山吹を弔うために境内に地蔵尊を刻んでお祀りしていましたが、 駅の新設と同時に寺は移転し、地蔵尊は鉄道宿舎の主婦達の手によって祀られて きたのであります。 昭和50年駅舎改築を機にりっぱな祠を建ててここに祀ることになり、誰いうともなく 山吹地蔵と呼ばれております。】え~っと、地蔵様の写真がないんだけど、確か見るには見たような・・・ちょっとこの辺、木があって暗いし、座ってまったりしてるジイさんとかもいたからなんか撮りにくかったんだよな・・・まあ、そんな訳で大津駅周辺は山吹さん終焉の地であり、プチ古戦場とも言える。ここまで来た時には、山吹さんは身ごもっていたといわれている。が、別の説ではここでは殺されず、無事に義仲の子を産んだともいう。 身重の体で戦時中に逢坂山越え・・・すさまじいパワーだもとは山吹塚もここにあったが、義仲寺に移されたという。昼すぎに友達から入ったメールでは、ちょっとは具合良くなってきたみたいだったけど、まあ当然明日も1人だよな・・・と思ってたら、明日は一緒に行くってメールが夜になって入った。風邪とかひいても、回復力の早さはうらやましいほどの人だけど、今回はいくら何でも無理でしょ~!ってことでもちろん断固却下した。けど、行くと言ってきかないので、結局一緒に行くことになった。無理すんなっつってんのに・・・この日は、12,053歩。長居はしたけど、結構三井寺ではちょこちょこベンチに座って休んでたからな。3日目<'11/7/18(月)雨時々くもり>病み上がりの友達と待ち合わせをして、JR奈良線で宇治駅へ。結構、京都駅から遠いのね(笑)。宇治に着いたら、どしゃ降り。まずは駅のすぐ隣にある観光案内所へ・・・と思ったら、駅前にはこんなポストがあった。 ♪茶壷に追われてとっぴんしゃん♪さすが茶どころ、宇治。案内所でパンフレットをもらって、友達が千社札製造マシンでステッカーを作ってる間、私は100円のグリーンティーを飲みながら地図や資料をチェック。 これ、てっきり渋いお抹茶かと思ったら、砂糖が入ってて甘いの。でもおいしかった 少し雨も小降りになってきたので、行動開始。今日は昼すぎの新幹線で帰るから、そんなに余裕はない。まあ、でも普通には見られるでしょ、と思っていた。駅から大通りをまたいで商店街へ入ると、頭上ではカップルが人目もはばからずラブストーリーを演じている。そんな高いところにいたら危ないぞ、おい・・・(笑)。 源氏物語にちなんでのものだと思うけどね。はっきり言って、私、宇治十帖ってキライなんだよね~。もう、イライラしちゃうの途中にあった宇治のふたはこんなの。 おお、宇治橋じゃ~ん!やっぱ、こーゆー柄の方が楽しいよね他に、こんなのもあった。 全体的にジミーだけど、真ん中の花が可愛らしい。宇治のふただと思うから、余計そう見えるのかも(←単純)。宇治橋の手前を左に折れて、平等院の参道へ。宇治橋は、あとで寄りたいんだ~。入口までの間には、沢山の飲食店やらお茶屋さんやらが立ち並んでて、ちょっとびっくり。まあ、世界遺産ですしね。お昼はここで済まそうと思ってるので、メニューなどをチェックしながらまずは今日のメインへ。 この頃には雨もほとんど上がってたけど、湿度がすごくて暑い。入口でお金を払って中へ。 【平等院は永承7年(1052)、関白藤原頼通によって開創され、鳳凰堂はその翌年の 天喜元年(1053)、阿弥陀如来(国宝)を安置する阿弥陀堂(国宝)として建立 されました。庭園は浄土式の借景庭園として史跡名勝庭園に指定され、現在、鳳凰堂 周辺の洲浜や平橋・反橋、小島などが整備されています。 その他にも、平等院には、大和絵風九品来迎図(国宝)、梵鐘(国宝)、鳳凰一対 (国宝)など平安時代の文化財が多数残っています。特に11世紀の仏像群としては 唯一残る、雲中供養菩薩像52体(国宝)は、いずれも雲に乗り、様々な楽器を奏で 舞うなど、伸び伸びと繊細に彫り上げられています。】 (「平等院」リーフレットより)仮にも世界遺産なんだから、もうちょっと丁寧な説明をして欲しいところだけど、まあ、ほとんどが一般の観光客だからね。藤原頼通さんによる開創までには、もうちょっと経緯がある。もともと宇治は、平安時代の初期から貴族の別荘地であり、平等院のある場所には源融(みなもとのとおる。822-895)の別荘があった。「源氏物語」の主人公・光君のモデルについては色んな人が挙げられてるけど、その中で最も有力視されているのが、この源融。で、それが宇多天皇に渡り、その孫・源重信(みなもとのしげのぶ)に譲られ、長徳4年(998年)に藤原道長の手に渡り「宇治殿」と呼ばれた。道長さんの子が、宇治殿を寺院にあらため平等院とした。これが藤原頼通。平等院の開山は、小野道風の孫である、明尊(みょうそん)。この人は2回天台座主になってるんだけど、2回とも内部のドタバタで辞職に追い込まれてる。2回目の時なんかは、山門と寺門の抗争により、3日で退任したんだとか。お気の毒に・・・そしてこの方は、園城寺(三井寺)の長吏の経験も持つ方です。前の記事でさんざん三井寺について書いてきましたが、実は三井寺の話はまだ終わってません。ここでも、数々のドラマがあったんです。にほんブログ村
2012年06月30日

こちらが第7のお目当てとなります。 【国宝 建造物 園城寺光浄院客殿 一棟 この客殿は、桁行七間、梁間六間、一重、入母屋造、柿(こけら)葺の建物で、 中門がつきます。 光浄院は、室町時代に山岡資広が園城寺の十円坊の跡に建立したのがはじまりで、 現在の建物は慶長6年(1601)の建築になります。 平面形式は、南北二列に別れ、南側の上座の間には、正面に床と違棚、北面には 帳台構をもうけ、南側の広縁に突出して二畳の上段の間があり、ここには更に 床と書院が付けられています。 江戸時代初頭の水割書「匠明」に載せられた「武家造主殿之図」に類似しており、 桃山時代の標準的な住宅建築として貴重なものです。 昭和27年(1952)11月国宝となりました。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換) こちらも勧学院と同様、3名様以上で事前に予約をすれば特別拝観が可能です。ので、わたくしは入れません門がぴっちり閉められてて、門ギリギリまで近づけないようになってるので、客殿の外観すら写真に撮れないのが残念だけど。でも日本建築って便利なもので、1行目の文だけである程度の規模がわかる。さらにその後の内部の説明で、ここは書院造なんだってこともわかる。光浄院創始者の山岡資広は、瀬田城および瀬田の唐橋で何回か登場した山岡景隆さんの8代前のご先祖様になります。交通の要衝・瀬田を守る山岡氏はかねてより三井寺・石山寺や室町幕府との縁が深く、光浄院の住持は代々山岡家の者が務めていたそうな。現在の建物も、文禄の復興の際の景隆の弟によるもの。この弟が山岡道阿弥。かつて光浄院の住持で暹慶(せんけい)と名乗り、32歳の時に還俗して山岡景友と名を改め、山城半国の守護となる。信長包囲網下では足利義昭につくが、近江石山城開城後は織田家に入り、その後、豊臣→徳川へとらばーゆ。「瀬田城」で景隆が瀬田城を追われたことは書いたけど、その後は兄に代わって山岡氏の総領の座についたという経歴を持つ。景隆・景友兄弟の母は、和田惟政(これまさ)の娘なんだってさ~。光浄院を再建したことからもわかるように、道阿弥さんは弟とともに闕所からの復興に力を尽くした。以前、山岡景隆の妻(水原長)について、「大河ドラマ 江 ~姫たちの戦国~ 滋賀県推進協議会」様のサイトのリンクを貼ったけど、道阿弥さんは関ヶ原の戦いにおいても何だかすごい役割を果たしたらしく、詳しく知りたい方は上記サイトの「関ヶ原合戦と山岡一族」の項をご覧ください。(リンクはこちら。前と同じページだけど、もう一度貼っておくね)その他、ここはかつて1491年に六角高頼征伐に出向いた足利義材が陣を置き、信長様も陣を置いたことのある場所。まあ、今の光浄院は1601年の再建だから、信長様や義材が見たのとは違う建物だけどね。門は薬医門で、風格のある門。意匠も素敵だし。 塀が高いので、外から見える客殿は↓これだけ。 仕方ないから、破風だけ拡大して撮っておくか(笑)。 ここの妻飾りは木連格子(きつれごうし)。格子を縦横等間隔に組んで、裏板を張ったもので狐格子ともいう。左下に頭だけ見えてるのは、唐破風っぽいな。唐破風付きの玄関って感じかな?頑張れば門の格子の隙間からちょっと外観だけでも撮れるかもしれないから、今度チャレンジしてみようかな(笑)。よし、これで三井寺でのお目当てはすべて終了~。仁王門の近くにあるレストランでかなり遅い昼食。レストランの奥にはお土産コーナーがあったので、しばし物色。場所柄、仏具とかもあって、ここで私好みの数珠を見つけた。 旅行用に通販で買った小ぶりの数珠は持ち歩いてるけど、これ、気に入っちゃった~て事で、数珠衝動買い・・・(笑)。これは紫檀で玉も大きいけど、安かったし明日は大事な墓参りがあるから、早速使っちゃおうかな~。表に出たら、近江名物鮒ずしを売ってるおじさんがいた。前から興味はあったんだけど、これまでの近江の旅では買ったことなかったんだよな~。おじさんに匂いをかがせてもらったら、まあなんとか食べられそうだけど、母親に「鮒ずしはいらないから」ってクギを刺されてるからな・・・迷ったあげく、今回も断念。名物だから、いっぺん食べてみたいとは思ってるんだけど・・・これで三井寺とはお別れ。大事を取って昼には宿に戻る予定だったけど、三井寺だけで結局6時間近くいたよ~(笑)。でも、素敵なところでまったりできて最高に幸せだった。三井寺から少し北に向かうと、大津市歴史博物館がある。せっかくだから、ちょっとだけでも見て行こう。ここには膳所城の模型があるのだ。けど、内部は撮影禁止だから写真はありましぇ~ん。ちょっとがっかり。坂本城についての推定復元図とかもあったな。あと、檜皮葺の葺き方を復元で解説してるのもあって、これは興味深かった。京阪別所駅へ向かう途中の大通りには、大津絵をプリントしたタイルが色々あった。 【『瓢箪鯰』 「憎らしい人の心も鯰かな」 瓢箪でぬらりくらりと鯰を押えられないように、 人の心のつかみどころがない様を風刺した図】 【『鬼と柊』 魔除けに年越しの時用いる柊の葉をくわえた鼠が鬼を追いかけている図。 怖い鬼にも弱点がある。鬼は外にも通ずる図。】 ↑あっ、これは解説を撮ってないやたぶん、「長刀弁慶」ってやつじゃないかな。 【『雷と奴』 「かみなりにうたるるつみはのがるとも わがなすつみはのがれはやする」 江戸期盛んだった心学の教訓絵の一つである。】他にも色々あったんだけど、全部は撮らなかった。さすがに疲れたし、早く帰りたいモードに入っていたので・・・(笑)。でも、大津絵って初めて見るけど、お茶目でかわいらしい。江戸期には、大津宿の名物だったそうな。もともと庶民のための絵で、比較的お値段もお手頃らしいので、気に入ったのがあったら欲しいな。いや、今のお値段は知らないけど・・・にほんブログ村
2012年06月29日

今回は鐘にまつわる話などいくつか。乳の話が出たので、それから行こうか。ちょっと長いので、もらった冊子「三井寺の鐘」からの全文引用はやめておきますが、簡単に言うと「鶴の恩返し 三井寺バージョン」みたいなもの。いわゆる、異類婚姻譚(いるいこんいんたん)です。 いじめられてた蛇を助けた若者のところに、その晩美しい娘がやってきた。 娘はそのまま居座り、二人は夫婦となり子ができた。 出産の時を迎え、小屋に籠った娘が厳命したのはお決まりの 「のぞいちゃ、イヤよ」 もちろん若者は覗きます。当然です。 若者の目に入ったのは、赤ん坊を取り巻く大蛇の姿。 「見~た~な~」 と大蛇は姿を消してしまいますが、残された赤ちゃんの手には玉が握りしめられて おりました。 赤ちゃんは玉をしゃぶってすくすく成長しますが、その噂を聞きつけた領主は いじこく玉を没収。 琵琶湖の湖畔で若者が途方に暮れていると、湖から蛇が現れ、 「私はあの日浜辺で助けていただいた蛇です。あの玉はわが子が無事に育つようにと 私の眼玉を与えたものです。まだ片方の眼玉がありますから差し上げましょう。 ただ、私は盲目となってしまいますので、わが子の姿を見ることができなくなります。 どうか三井寺の鐘を毎日撞いて子供の無事を知らせて下さい。歳の暮れには 一年が過ぎたことがわかるように多くの鐘を撞いて下さい。お返しに人々に 幸運を授けましょう」 と頼んだという。(最後のセリフだけは「三井寺の鐘」を引用)そして冊子は語る。 【以来、三井寺では除夜の鐘に際しては、龍神を慰めるため多くの灯明を献じ、 龍の目玉にちなんだ目玉餅を供え、百八に限らずできるだけ多くの人に できるだけ多く鐘を撞いてもらう特別の儀式が行われています。】はい・・・三井寺では、除夜の鐘も一般人が撞けるんです。しかし、お値段が違います。通常300円のところ、特別御奉仕で2,000円このお値段を知った時、108回全部を参拝客が撞いたとして108×2,000円かあ~とか、世知辛い計算をしたものだけど、これを読むと108に限定しないんだ・・・ってまたまた電卓を叩きたくなるな(笑)。実際、どれくらいの人が鐘撞きに訪れるのかわからないけどね。私に撞き方を教えてくれたおじさんも、大晦日はチョー忙しかろう。中には、私よりヘタクソな人だっているハズ・・・(←ちょっとトラウマ)この2代目の鋳造は、慶長7年(1602)。折しも闕所からの復興に沸くさ中、時の長吏・道澄さんによって造られたもの。初代君は現存してるのにあらたに鋳造したのは、まぼろしの2代目の存在があったからかもしれない。初代君には沢山の不思議な話が伝えられていて、こちらも「三井寺の鐘」からの引用となります。 【この鐘には、寺に変事があるとき、その前兆として不可思議な現象が生じたと いいます。 良くないことがあるときには鐘が汗をかき、撞いても鳴らず、また良いことが あるときには自然に鳴るといい、『園城寺古記』という戦国時代の記録には、 文禄5年(1592)7月に鐘が鳴らなくなってしまい寺に何か悪いことが起こるのでは ないかと心配した僧侶たちは、様々な祈祷をおこなったところ翌8月になって ようやく音が出るようになった。 この話を聞いた太閤豊臣秀吉は、これを奇特として鐘楼を新たに造るように 当時の大津城主であった新庄直頼に命じた話が伝えられています。 しかしながら、この鐘楼はついに完成することなく、3年後の文禄4年には 秀吉から当寺は闕所の憂き目にあうことになります。】それで、現在の2代目君には道澄さんの刻銘があるっていうんだけど・・・この冊子、後から読んだからな(笑)。冊子には銘文の全文も載ってるから、今度行ったらよく見てみよう。その他、 【建武の争乱時には、略奪を恐れ鐘を地中に埋めたところ、自ら鳴り響き、 これによって足利尊氏軍が勝利を得たといわれるなど、まさに霊鐘というに ふさわしい様々な不思議なことがらを今日に伝えています。】 (「三井寺の鐘」より)なんて伝説もある。初代君の鋳造は奈良時代とされる。先の大戦では、国内の実に9割の梵鐘が供出されたというから、初代・2代目ともその時点で文化財に指定されてたのかな。幸運にも供出を免れた梵鐘のうち、奈良時代のものはたったの16。皆様も古い梵鐘を見かけたら、そういう時代もあったんだって事を是非思い出してくださいね。これも忘れてはいけない、我が国の歴史です。さて、三井の晩鐘が有名なのは「近江八景」のひとつだからでもある。 【近江八景は、一説には『江陽日記』の伝える明応9年(1500)8月13日に、 近衛政家、尚通父子が佐々木高頼の招聘によって近江に滞在中、政家が八景歌を 詠まれたのがはじまりとされていますが、現在では、近衛家17代当主、三藐院 信尹(さんみゃくいん・のぶただ。1565-1614)が、慶長年間頃に 中国瀟湘八景にならい琵琶湖周辺の地を撰んで近江八景を発案したとする説が 有力です。】 (「三井寺の鐘」より)えええ~、信尹!!そうなんだ、知らなかったよ~!!近衛信尹さんは、戦国ファンなら大抵の人がご存知でしょうが、五摂家のひとつ、近衛家の出身で公家。信尹の「信」は信長様の偏諱を受けたもの。この人も奔放で、面白いんだよね~。さてと、次のお目当てへ。金堂の脇を下りていくと、仁王門(重文)がある。この門は現・湖南市の常楽寺にあった門を伏見城に移し、それをさらに徳川家康が移築したというもの。・・・なんだけど、この時は工事中で覆いがかけられていたので全然見ることはできなかった。次のところへ行く道がよくわからなくてしばらくウロウロした後、金堂エリアに沿った道を金堂の裏手側へ回り込んでいく。 こちらも全然人が来ない。静かでいいとこだなあ~。暑いけど↓ランキング参加ちう。あなたの愛の「ぽち」を(笑)。にほんブログ村
2012年06月28日

【重要文化財 建造物 園城寺鐘楼 一棟 「三井の晩鐘」で有名な梵鐘のかけられている鐘楼で、桁行二間、梁間一間、一重、 切妻造、桧皮葺の建物です。 建築年代は、梵鐘の「慶長七歳云々」とある刻銘文や、建築様式などから桃山時代と 認められ、金堂再建に近い頃に建造されたものと考えられています。破風の懸魚などに その時代の特色がでています。 また、一般の鐘楼のように四本柱、或いは袴腰付きのものではなく、やや異った 様式を持っています。 昭和42年6月に国の指定文化財になっています。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)この鐘、撞けるの。有料だけど(笑)。ひと撞き、300円也。鐘楼の隣に小屋があったので、申し込みに入ってみた。そしたら、絵葉書とかグッズが置いてあったので、金堂にいらしたイケメンがいないかと目を皿のようにして探してたら、店番のおじさんに「なに探してるの?」って聞かれたので、「金堂にいるイケメンの写真、ないですかあ~?」って素直に答えた。残念ながら金堂の仏像の品はなかったけど、300円を払ったら鐘の由緒を書いた冊子をくれて、一緒に外に出て撞き方を教えてくれた後でおじさんは小屋に戻っていった。観音堂に続いて2回目の鐘撞きだけど、今度は教えてもらった手前、脇で聞いていられると思うと緊張するな・・・しかもこれ、「音の三井寺」として三名鐘のひとつだし。あ、ほかの二つは、「姿の平等院」と「銘の神護寺」ね。鐘本来の存在価値である音を評されたモノだからな、その評価にふさわしい音を出さなきゃならん・・・プレッシャーにさいなまれながらも、おじさんに教わった通りに鐘木を振ってみた・・・けど思ったより重くて、何回か振ってたら「あ」と思ってるうちに鐘木が鐘に触れて、ご~~~ん!と貧弱な音が出てしまった。あ~、なんか不完全燃焼・・・と思ってたらおじさんがソッコー小屋から出てきて、「アンタ、へったくそやな~!」と言わんばかりに再度撞き方を講義された。これは、もう1回撞いてみろって事なのかな・・・?と戸惑ってたら、次のチャレンジャーがやってきたので、場を譲った。次の人は体格のいいオッサンで、ご~~~ん!!!といい音を鳴らしていた。あのオッサンと私じゃウェイト差がありすぎるし、腕力も違うもん私にはあんな音は出せないよ・・・へこんでても仕方ないので、解説に沿ってビジュアルをチェックしてみよっと。え~と、鐘楼は言われてみれば、大抵は↓こんな風に4本柱か (近江坂本・盛安寺)観音堂のとこみたいに(「大津編(13)」を見てね)袴腰付きだよな~。確かにちょっと変わってるカモ・・・懸魚(けぎょ)が、何ですって?と思って見てみたら、こ・・・これ、猪目だ!!いのめ!(猪目の存在を知ってから)初めて見た~!!懸魚については、「備中松山城(10)」でも軽く触れたけど、屋根の合わさる三角部分(「拝み」という)から下がる意匠のことをいいます。これも妻飾りの一種。ただの装飾の部材じゃなく、破風の下にある棟木や桁などを風雨から守る役目を果たしている。元は火難除けのおまじないも兼ねて魚の形をしたものを下げていたらしいが、現在見られるもので魚の形をしてるのはあまりない。魚は水と関わりが深いから、魚を屋根に懸ける=水をかけるという意味合いらしい。で、この鐘楼の懸魚は「猪目懸魚(いのめけぎょ)」というタイプ。猪目・・・その名の通り、イノシシの目、だそうです。三井寺のは綺麗に写真が撮れてなかったので、別の寺のを掲載しますが、 (柏・長全寺)下の左右のハートの形が猪目。真ん中のは、ハートを二つに重ねたもの。なんでも、下の左右のハートが目、全体をイノシシの頭と顔に見立てたものだとかいうんだけど・・・無理!!どう頑張ったって、イノシシになんか見えない。この写真のだと顔に見えなくはないけど、イノさんじゃなくてお茶目な仙人みたいに見える(笑)。大体、なんでイノシシの目がハートなんだ?理解に苦しむのは私だけではあるまい・・・・けど、ハートって近代になってから西欧から入ってきたものかと思ってたけど、日本にも昔からあったんだな~。知ってみると、意外な事実に驚く。まあ、形が同じなだけで今でいうハートとは意味合いが違うけどね。だって日本古来からのは、あくまでイノシシの目だからこの猪目懸魚は、おおよそ鎌倉~室町の古い建物に多い。ただ、時代的なものだけじゃなく、和様(わよう)の形式の場合はほとんどこれが使われてるらしいから、今まで訪れた寺院の中にも猪目懸魚はあったはずだけど、懸魚なんて見ようと思わなければ見ないもんね~。日本建築には色々決まりごとも多くて、素人が独学で勉強するにはかなり難しいところがあるけど、知ってみると古建築を見る目も変わって楽しいよってことで、繊細な建築美を楽しんでくれる人が増えると嬉しいので、ブログの中でもぽちぽち紹介していこうと思ってます。わかる範囲でね。所詮、素人ですからんじゃ、次は鐘。 【近江八景 三井の晩鐘 近江八景のひとつ、三井の晩鐘で有名なこの鐘は、音の三井寺として日本三銘鐘の ひとつにも数えられ、また平成8年7月には環境庁より「日本の音風景百選」にも 認定されている。 この鐘は慶長7年(1602)、古鐘・弁慶の引摺り鐘の跡継ぎとして 鋳造されたもので、鐘楼(国の重要文化財)と共に県の文化財に指定されている。 目方は600貫(2250キログラム)。除夜の鐘の百八煩悩に因んで、 鐘の上部には乳といわれる108箇の突起がある。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)ここからは、おじさんにもらった冊子を参考にしていきます。108コの乳は、『百八煩悩に因んで江戸時代に流行する百八乳をもつ鐘の最古の作例となっています』とある。この鐘は、実は2代目。初代は「大津編(6)」で書いた、藤原秀郷が龍王様からもらった10コのごほーび・・・その中のひとつが鐘で、それを秀郷が奉納したといういい伝えがあるものでした。秀郷ゆかりの初代君も、境内の中にあるにはあるんだけど、この時私はすっ飛ばしたので(笑)、ちょっと写真はありません。けど、近々また行くかもしれないので、その話はまた後日としましょう。といっても、後に譲るのは写真を載せた方がいいと思われる部分だけね。何せ、鐘にまつわる不思議な話はいっぱいあるのだ。にほんブログ村
2012年06月27日

一切経蔵に永遠にいたい気持ちをぐっとこらえて(それでもトータルで1時間くらいいた)、池のある入口へ戻る。ここまで来ると、第5のお目当てがもう正面にばーんと・・・ 【国宝 建造物 園城寺金堂 一棟 この金堂は桁行七間、梁間一重入母屋造 檜皮葺の大建築で落ち着いた美しい 建物です。 園城寺の中心をなす金堂は、幾多の変遷を経ましたが、現在の建物は慶長4年(1599) に豊臣秀吉の夫人北政所によって建てられたものです。桃山時代の特色が向拝の 手挟(たばさみ)や蟇股などにみられるほか、内外陣を格子戸や扉で仕切り、 外陣・後陣・脇陣を板敷(床張り)に、内陣を土間にするなど天台密教寺院における 仏堂の特色をよくあらわしています。 また、内陣に安置されている厨子も様式からみて同時代の作とされています。 桃山時代の代表的なすぐれた建造物で、昭和28年3月に国宝に指定されました。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)ということで、こちらは北政所・おねのゆかりとなります。毛利輝元の協力についてはこれまで色々書いてきたけど、ここ金堂の再建にあたっては、山口から300人の職人を引き連れて応援に駆けつけたという話があります。好きずきあると思うけど、ここも重厚で実に美しい建物です。完成後の慶長4年5月には、おねが参詣に訪れたそうな。ん?女人禁制じゃ・・・この頃はすでに落飾してたかな?尼様だったらいいのかな?それとも、高貴な方ならオッケー?解説にある手挟は、これ。 大変華麗な彫刻が施されてます。 蟇股もいろんなのがあったんだけど、私のカメラではあまり綺麗に撮れなかったので、撮ってません。しくしく過去の記事にもいくつか園城寺の苦難の歴史を書きましたが、1443年にも衆徒が金堂に拠り強訴するなど、幾多の戦乱の歴史を秘めている場所です。まあ、昔は「僧兵」だからね。坊様が戦なんて、なんかギラギラしてやな感じだけど、ここ三井寺の僧兵には面白くて魅力的な坊様の逸話が残ってます。その話は、もうちょっと後でね。で、金堂の正面には、「堂前灯籠」というのがあった。 解説の立札もあったんだけど、下の方がハゲてて全文読めない・・・でもどうやら、大化の改新で蘇我氏一族を滅ぼした天智天皇が、その罪ほろぼしのために自らの左の薬指を切り落として、この灯籠の下に納めたという伝説があるってことらしい。薬指は別名「無名指」ともいうので、この灯籠の別名は無名指灯籠であるそうな。天皇が指つめ・・・なんで薬指なんだろう?その選択の主旨をワタシは問いたい。三井寺の起源については、 【天智・弘文・天武天皇の勅願により、弘文天皇の皇子・大友与多王が田園城邑を 投じて建立され、天武天皇より「園城」の勅額を賜わり、「長等山園城寺」と 称したのにはじまります。】 (三井寺のリーフレットより)といわれているが、この金堂付近からは実際に奈良時代前期に遡る古瓦が出土しており、大友氏との関連もあながちただの伝説ではなさそうだと推測されているそうな。では中へ。内部は撮影禁止。御本尊様のおられる内陣を取り囲む外陣をぐるりと巡るようになっている。ここには沢山の仏像があるんだけど、あまり見たことがないタイプのもあって、仏像の知識が全くない私でもかなり楽しめた。一切経蔵で見つかった円空仏も、ここにおわします。木造・善女龍王像。龍王様だから、つまりは火除けのおまじないだったってことか。ここにね~、すっごいイケメンの仏像があって、どこかにお名前をメモしたはずなんだけど、見あたらない・・・三井寺のホームページにも、写真載ってないし・・・しくしく。で、中にはショップがあって、妙に小洒落たグッズが置いてあった。買おうか迷ったものもあったけど、ここでは買わなかったんだな・・・しかしここの仏像、ホントに面白い・・・いえ、すごい。写真を撮れないのが実に残念。仏像の図録も確か置いてなかったような?いや、あったけど、イケメンの写真が載ってなかったからスルーしたのかもしれない(笑)。大津駅の観光案内所でもらったパンフレットの中に、「湖国の仏像めぐり」みたいのもあったけど、三井寺の素晴らしい仏像を見ると、歴史ある近江なら仏像めぐりもアリだよな~って思った。ここは建物群も素晴らしいですが、仏像もイケてます。三井寺を訪れたことのない方は、是非一度足を運んで、実物をご覧ください。マジでオススメ珍しく仏像をしげしげと眺めて奥で長居したあと、正面へ戻った。金堂の正面は、3人くらいずつ座って拝礼するようになっている。ちょうど私が行った時は、チャラいカッコした兄ちゃん達が何人か来てきゃいきゃいしてたので、「ウザイな~。早くしてくれよ・・・」と思いながら順番を待った。そんで兄ちゃん達を見てたら、並べられたおザブに一人一人ちんまりと座って、一生懸命お祈りをしてる。その姿は、生まれたまま・・・って言ったらなんかいやらしい表現みたいだけど、見栄とか飾りとかのない、実に素直で無防備な背中。やっぱり、神様とか仏様とか、人間を超越した存在ってのは必要だよな・・・とかって思った。こうやってきちんと神仏にお参りができるのなら、まだまだ日本の若者も捨てたもんじゃないいろんな意味で満足して外へ。金堂の奥から一切経蔵の方へ回れば、一般の観光客ならまず立ち寄るであろう「閼伽井屋(あかいや)」と「霊鐘堂(弁慶の引き摺り鐘)」がある。けど、ここまででかなり満足していたので奥まで行くのがめんどくさくなって、もう行くのやめた(笑)。まだいくつかお目当てもあるし。とゆー訳で、金堂の向かって右側にある第6のお目当てへ。↓ら~んきんぐ~への入り口~♪にほんブログ村
2012年06月26日

一切経蔵から歩いていくと、橋に出た。あ・・・これって、さっき三重塔を下から見てた時にお掃除のおばちゃん達が通っていった橋だ。な~んだ、こーゆー構造になってたのかなので、さっきは少し遠いところからしか見られなかった三重塔を、今度は間近で見ることができる。 そしてここにも解説が。 【重要文化財 建造物 園城寺塔婆(三重塔) 一基 この三重塔は、もと大和国(奈良県)の比曽寺(現在の世尊寺)にあった東塔を 慶長6年(1601)に移したもので、大和地方における中世の塔の風格をもっており、 鎌倉時代和様の様式を伝える南北朝時代頃の建築とされています。 塔は、三間三重の塔婆の形式で、本瓦葺の屋根をもち、各重の落ちも大きく、 初重目に縁をつけています。また、二重目、三重目に菱格子を用いているのは 珍しいものです。 明治39年4月に国の指定文化財になっています。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)「落ちが大きい」とか言われても、素人にはさっぱりわからないんだけど、それにしても素晴らしい・・・ここにもしばらく立ちつくして上ばかり眺めていたので、首にだいぶ疲労が溜まってきた(笑)。三重塔からは唐院エリア。いくつかの建物がある。まずはこちらが、潅頂堂(重文)。 【潅頂堂 唐院と名附け貞観2年清和天皇の勅創、仁壽殿を賜わり此に移遷し傳法潅頂の道場と した。現在の建物は慶長3年の再建である。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)飾り気はあまりないけど、シンプルな中にもやはり重厚感があり、美しい。 この奥にあるのが、大師堂(重文)。 そもそも唐院ってのは、 【当時の開祖・智証大師円珍和尚(814-891)の廟所として最も神聖な場所。 唐院の名は智証大師が入唐求法の旅で持ち帰った経典類を納めたことに由来する。】 (もらったリーフレットより)というもので、最も神聖なんていうから、入れないところかと思ってたんだよね~。勧学院のあと、唐院の門まで行きながらすぐに元の道に引き返してきたのはそのため。入っちゃいけないんだと思ってたんだもん(笑)。智証大師円珍様については、リーフレットにはこう書いてある。 【開祖智証大師円珍和尚は、弘仁5年讃岐国に生まれました。母は弘法大師の姪に 当ります。 比叡山での12年籠山修行中、大師一生の信仰を決定づける黄不動尊を感得されました。 これこそ今日も秘仏として伝わる国宝・黄不動尊(金色不動明王)画像です。 貞観元年(859)、園城寺初代長吏となり、貞観10年には第5代の天台座主として 24年の長きにわたり、日本仏教の発展に尽くされました。 寛平3年(891)10月29日、78歳をもって入寂され、後に後醍醐天皇より「智証」の 大師号が贈られました。】へええ~、弘法大師様の血縁者なんだ~。知らなかったなあ。長吏ってのは、三井寺のトップのこと。文禄の復興の時には、道澄さんが長吏だった。で、そんな感じで初めから遠慮があったので、大師堂という名前からしてここが廟所なのかな~と思って、あまり近寄らず遠巻きに撮影した敬虔なワタシ・・・(笑)ちなみに、大師堂に祀られている「智証大師坐像」は二体とも国宝に指定されているそうな。潅頂堂の隣にあるのが、長日護摩堂。 【滋賀県指定文化財 建造物 園城寺長日護摩堂 一棟 この護摩堂は、桁行三間、梁間三間、一重宝形造、本瓦葺の小堂で、潅頂堂と渡廊下 によってつながっています。 全体として簡素な建物で、正面は桟唐戸、両脇を連子窓、両側面の正面よりを舞良戸 (まいらど)、他は背面を含めて横羽目板壁としています。 建立年代については、明確な資料はありませんが、寺伝によると後水尾天皇(1611- 1629)の祈願により建てられたものといわれています。大師堂、潅頂堂よりは少し 遅れて建てられたものと考えられています。 昭和35年(1960)1月に滋賀県の有形文化財になりました。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)一切経蔵もそうだったけど、三井寺ってもっと観光客が多いかと思ってたら、ほとんど人が来ない。ここまでで一番人がいたのは、観音堂かな。夏だから、琵琶湖のレジャーの方に行っちゃうのかな。まあ、静かでいいんだけど。唐院をひととおり見てから、ふたたび一切経蔵へ(笑)。また木陰のベンチに座って、休憩がてら萌え・・・来月は、これの礎石を見に行くんだもんね。くっふっふ坂本へ行かれなかったのは残念だったけど、来てみるとあまりに素晴らしい建物ばかりだから、三井寺をさらっと見るなんて、どだい私には無理なプランだったな・・・今日はここだけで帰る予定だから、時間に縛られないで気に入ったところでただボケ~ッとしてるのは最高の贅沢。お昼には宿に戻ろうと予定していて、もう昼は過ぎてるけど、体調も悪くないし、もうちょっとだけ・・・(笑)一切経蔵のすぐ先には、三井寺の中でも一般的に有名なスポットがあるんだけど、ひとまず後にしよう。にほんブログ村
2012年06月25日

ひとしきり経蔵を見た後も、すぐにはここを立ち去りがたく、近くのベンチに座ってしばし大内萌え・・・(笑)。滋賀県にいながら、遠い山口県に想いを馳せる。すでに何度か書いた通り、一切経蔵は慶長7年(1602)年、毛利輝元によって移築された。なんで輝元がこの貴重な経蔵を三井寺に寄進したかの真相は、タイムスクープハンターの沢嶋雄一氏にでも出向いてもらって輝元に直撃インタビューしてもらう他ありませんが(笑)、単純に考えて ・山口は大内氏が開いた町で、統治期間も約200年と長かった。 大内氏を滅ぼして周防をゲットした毛利氏が、前領主の遺物を移して 大内色を払拭しようとした。 ・貴重である事を認識していたからこそ、大寺院である三井寺に寄進した。とかいくつかの理由が浮かぶ。しかし、ここはやはり寄進した時期が問題でしょう。慶長5年(1600)9月15日、関ヶ原において東軍が勝利をおさめる。吉川広家の嘆願などを経て、10月10日、毛利家の処遇が正式に確定した。結果は皆さまご存知の通り、8ヵ国120万石から防長37万石への大減封。父祖伝来の地である安芸吉田も取り上げられ、前年に全ての工事が完了したばかりのピカピカの広島城も福島正則に譲る羽目となった傷心の輝元は出家して嫡男に家督を譲るが、実権は握ったまま。収入が大幅にダウンした訳だから、「備中高松城(5)」にもちょろりと書いたように、家中にはリストラの嵐が吹き荒れ、当初の経営は特に、相当苦しかったと思われる。引っ越ししたから、新居も造らなきゃならないし。そんな中で、多額の費用のかかる、経蔵の移築?感情論とかじゃなく、もっとドライな政治的ウラ事情があったと見る方が自然だよな~。園城寺の復興にあたっては、輝元は関ヶ原前年の慶長4年から援助をしていた。勧学院の建立に着手したのは、慶長5年4月。勧学院完成の日付まではわからないけど、関ヶ原後も広家ちゃんの尽力などで毛利本家の存続が認められたので、引き続き三井寺の復興に尽力したと思われる。その後の慶長8年(1603)、防長に新しい居城を築くにあたって、「山口の高嶺、防府の桑山、萩の指月山のどれかにしようと思うんですけどお~、どこがいいッスかね?」と幕府にお伺いをたてた。山口は長年、大内氏が華やかな独自の文化を保ってきた中世でも屈指の都市。周防の中心部でもある。防府は三田尻という天然の良港を有し、山陽道も通る。なのに、幕府から返ってきた答えは、「萩だよね。萩にしよ」「え・・・っっっ!!」←by てるこの頃の萩は、阿武川が造った三角州に茅が生い茂るだけのわびしい寒村。そこをあえて指定してきた幕府の嫌がらせに、輝元がグチったという話も残っている。そうした状況の中での一切経蔵の移築。築城の件だけじゃなく、幕府との関係修復のために「大津編(15)」で登場した道澄さんのコネなどもフルに活用しようとしたというのが、やはり妥当な線じゃないでしょうか・・・つまり、プレゼント大作戦てカンジ?輝元の意に反して、おあとはよろしくなかったけど。てゆーか、何で萩なんか候補に挙げたんだ~?カモフラージュ?交通の発達した現代でさえ、関東からだと行くのに不便なんですケド・・・・ぶつぶつ大内氏の遺産がよそへ移されたのは、一切経蔵だけじゃない。広島市にある不動院金堂(国宝)、あれも大内氏のものを安国寺恵瓊(えけい)が移したといわれている。その他の寺院なども、萩移転の際に用材として移されたという。大内ファンや山口市民にとっては、元のままで残っていて欲しかったと当然思うところだけど、それでも今こうして残っててくれてるんだし、一切経蔵があるのは一般的にもメジャーな観光スポットである三井寺だからね。山口にあるよりは確実に多くの人の目に触れるよな・・・とかって考えると、どちらがいいとは言えなくなってくるよな~。な~んて、木陰のベンチで涼みながら考えたりもした(←現実主義者)。まあ、より多くの人が見たからって、これが大内氏の遺産だなんて記憶に留める人は皆無に近いんでしょうけど。ふん・・・それにしても、園城寺の焼き討ちの長い歴史を考えると、タイミングがよかったよな~とホント思う。なんのタイミングかって?天下統一がなされる前に一切経蔵が移築されてたら、場合によってはまた山門(叡山)に焼かれちゃってたかもしれないじゃ~ん!!その意味では、天下統一の恩恵を受けた建物といえるかもしれないな。 ※そもそも秀吉の天下統一がなかったら、園城寺が闕所になることもなく、 したがって一切経蔵を移築する必要もなかったのでは?とか イジワルな突っ込みは入れないでね)天下統一ってのは、刀狩令・海上賊船禁止令・喧嘩停止令・惣無事令などの私闘や紛争の抑制を目的とした一連の法令、いわゆる豊臣平和令に裏打ちされて支えられたものだからね。天正16年(1588)の刀狩令は教科書で習うけど、それに先立つ天正13年には、秀吉は高野山に対して武装解除を命じている。刀狩の実際は、武士と農民との身分差別をはっきりさせるためで、刀狩令の後もかなり長いこと農村には武器が残っていたとか色々言われてるけど、ここではそんな細かい事が問題なんじゃなくて、明らかに世の中の流れが変わってきた時期だったんだよ、って言いたいわけですよ。つまり、山門も寺門も、それまでのように気ままに焼き討ちができなくなっちゃった(笑)。この豊臣平和令の基本ラインは徳川政権も引き継いだから、天正年間以後の三井寺の大ざっぱな年表を見ても、もう「焼き討ち」の文字は出てこない。まあ、小競り合いくらいはあったかもしれないけど。ただ、幕府も厳しかったからね~。また闕所にでもなったらかなわん・・・って事で、以後はお互いに鉾をおさめたんじゃないかって気がするけど。あれこれ考えたりしてるうち、人がやって来た。ここまで来た道へわざわざ戻らなくても、経蔵からそのまま唐院へ行けるみたいだったので、一旦戻って唐院を覗きに行くことにした。↓ランキング参加中だっぺ♪にほんブログ村
2012年06月24日

【一切経蔵 慶長7年、毛利輝元公が山口県の洞春寺より移築したもので、輪蔵に収められた 一切経は、高麗版として名高い。 建物は室町時代の作、重層宝形(ほうぎょう)造りと称し、唐様建築で上部は 「鏡天井」、四方は「明層(めいそう)」と云い、高い所から光を取り入れる仕組み である。 輪蔵は八角八柱造り、八方に千鳥破風を作り、龕(がん)内に経論の守護である 中国の人、傅大士を安置する。】 (内部解説板より)今回は、この解説に沿って内部を簡単に見ていきましょうか。 まずは輪蔵ね。小さな箱が沢山収納されてますが、この中に大蔵経が収められてます。前回の解説に、「回転書架」とありましたが、これが回るんです。くるくると。・・・あ、私は回さなかったけどね(笑)。ってか、柵があって回せるほどには近づけませんので。大蔵経のすべてを読まなくっても、これをくるりと回すだけで読んだのと同じだけの御利益があると信じられていた、なんともすごい本棚です。今・・・はきっと、経典は別保管だよね。保存の点からも、セキュリティの点からも。だってここ、無人のお堂だし。この頃は古建築に興味を持ち始めた頃で、今回の大津編と次回の山口をきっかけに独学で勉強するようになった。やっぱり、良いものに触れると色々と知りたくなるからね。まだこの時は、各部の名称だとか構造なんかもあまりわかってなかったけど、屋根とその下の部分はかなりよく見るようになってた頃かな。で、輪蔵を前にして見とれることしばし・・・輪蔵の組物は、三手先かな?垂木(屋根を支える部材)なんか、すっごい細いの。こんな細かいもん、よく造ったよな~。 ↑屋根の上には、千鳥破風。これが八面にそれぞれついてる。小箱が入った書架の最上部には大きな花頭(かとう)窓。木鼻・尾垂木の形なども、いずれも禅宗様(ぜんしゅうよう。唐様とも)。輪蔵の上には龕(がん)という、仏像を収める厨子があったが、現地では見えなかった。今も載ってるのかわからないけど、下から見上げたんじゃ見えないと思う。上の解説では、この龕の中にいたのは傅大士(ふだいし)となってるけど、この傅大士さんは、中国は南北朝時代の梁の坊様で、輪蔵を始めた方といわれている。そこから輪蔵の守護神とされ、後には普建童子・普成童子の2人の子とあわせて三尊像として輪蔵に欠かせない存在となったそうな。で、昭和38年、この龕の中から7体の円空仏が見つかったという。造仏聖・円空(1632-1695)は三井寺とのゆかりがあったそうで、三井寺のホームページには 【その頃、円空は三井寺に足繁く訪れ、元禄二年(1689)時の長吏、尊栄大僧正から 血脈(けちみゃく:師から弟子に授ける法統)を受ける。また、美濃の国池尻にある 自坊、弥勒寺を三井寺の末寺として召し加えられ、戦乱の大火で消失した弥勒寺の 再興に努める。】とあるので、その縁で三井寺に7体もあるのかもしれないね。この円空仏には、現在は金堂で会うことができます。龕がいつのものかはわからないけど、傅大士さんと輪蔵の関係からすると、輪蔵とセットで造られたんじゃないかと想像するけど・・・なんで一切経蔵の龕なんかに、円空仏を収めたろう??さて、経蔵の天井は「鏡天井」。見ての通り、今でいう鏡で造られたものではなく、天上に板を張って鏡面のように仕上げたものをいう。これも禅宗様の特徴。天上には絵が描かれている。今はかすかにしか色が残ってないけど、大内時代にはどんなきらびやかな建物だったろうかと想像せずにはいられない。っつっても、実際に当時のものを見たら、極彩色できらびやかすぎて腰抜かすかもしれないけど(笑)。前回の一切経蔵の写真と解説をあわせて見て欲しいんですが、経蔵は外から見ると、二階建てに見える。 けど、実際は一階のように見える部分は裳階(もこし)といって、おおきな「ひさし」のようなもの。ので、内部はこんな風に吹き抜け。 輪蔵自体も結構大きいけど、台座の上に載ってるしね。それをすっぽり収める建物だから、これくらいの高さがないとね。上に見える明かり取りが、解説にある「明層」だな。きらきらした綺麗なものが好きな人には、色あせて古ぼけてて、全っ然つまらない建物かもしれない。でも私には、建築のビジュアル面だけでも見飽きない。それに、大内さんちの遺産だし。で、上ばっかりずっと見上げてたので、非常に首が疲れた(笑)。内部を堪能した後、一旦外へ。経蔵の外観も、これまで見たことがないような実に変わったものだった。↓これは、まばら垂木っていうのかな・・・ ↑蛙股も変わってる。欄間は「波形連子」っていうらしい。ここからも採光できるようになっている。まだまだ寺院建築についてはわからないことだらけだけど、それでも古い禅宗式の建物みたいだな~って事だけは何となくわかる。鎌倉なんかは、こんなタイプの寺院がいっぱいありそうだな・・・ちなみに、この一切経蔵は、三井寺の建築物の中でも唯一の純禅宗様式の建物なんだとか。にほんブログ村
2012年06月23日

【重要文化財 建造物 園城寺一切経蔵 一棟 一切経蔵は、仏教のすべての経典、つまり一切経(大蔵経ともいう)を納める 施設のことで、この経蔵には版木の一切経が収められています。 この経蔵は、桁行一間、梁間一間、一重、宝形(ほうぎょう)造、檜皮葺の 禅宗形式をもった建物ですが、裳階(もこし)を付けているため柱間が三間三間、 屋根が二重に見えます。 内部には一切経を納めた八角形の輪蔵(回転書架)を据えています。全体におだやかな 感じをもち、禅宗様経蔵の古い例として貴重なもので、室町時代中期を降らぬ 建物とされます。 なお、この経蔵は、もと山口県の国清寺にあったものを毛利輝元によって慶長7年 (1602)に移されたものといわれています。 明治39年(1906)4月に国の重要文化財になりました。】 (現地解説板より)はい・・・これこそ、私がこの三井寺で一番見たかったものなんです。輝元が移築したから?違いますよ~、これこそ、大内文化の遺産なんです!!「山口県の国清寺」とは、現・山口市の洞春寺の場所にあったお寺。 一般的にマイナーといわれる大内さんちの中でも、それなりに知られてるのは、応仁の乱で活躍した大内政弘、政弘の子で足利義尹(よしただ)を将軍に返り咲かせて管領代となった大内義興、それから義興の子で大内家最後の当主・大内義隆、このくらいでしょうかね。史実としての最後の当主は義長だけど、長門深川大寧寺で義隆が自刃した時点をもって、私の中では大内さんは終わってるからな・・・義長には悪いけど。もう少し古い時代を知ってる人なら、応永の変で足利義満とバトルして敗れた大内義弘もご存知かな。この義弘さんは、大内家を飛躍的に発展させた人です。そしてその弟が、国清寺を建てた大内盛見(もりみ。もりはる、とも)。義弘さんが自刃した後、盛見ともう一人の弟の間で家督争いが起こった。室町幕府もちょっかい出してきて厄介だったが、最終的に盛見が弟2人を殺して、家督を相続した。家督争いを制し、国人衆も押さえたところで盛見は山口の町に帰還。父母と非業の死を遂げた兄・義弘の菩提を弔うために、また祈願所として建てたのが香山国清寺。盛見が筑前で討死した後は、盛見の菩提寺として葬られた。その国清寺に、一切経蔵は建ってた。三井寺のホームページに、 「国清寺:山口市内にあった禅宗寺院。毛利氏との縁の深いお寺でした。」って書いてあるけど、ちょいと違うと思う。毛利家が関ヶ原後に所領を大幅に削られて防長に引っ越してきた際、国清寺に別の寺を移して、さらに現在の洞春寺になった訳だから、縁がないとは言えないけど、縁が深いというなら、ここは大内氏と書くべきところでしょう(三井寺からクレーム付けられちゃうかな)大体、大内さんちに関する現地の解説ってのは、マイナーなゆえなのか、ちょっとイマイチな時がある。とある教育委員会が設置した解説板にも、「これって、どの大内さんのことよ~!!」てのを見たことがあるし。何でそうなるんだろうな・・・西国一の大々名だったのに余談だけど、「大津編(14)」で出てきた天台智者大師様、この方は現在の中国浙江省に、「天台山国清寺」ってお寺を開いたらしいんだよね。お寺の名称には色々由緒があるんでしょうけど、なんか関係があるのかな~ってちょっと思った。まあ、国清寺って名前のお寺はここだけじゃないけどね。ホレ、「吉備路編(10)」と「吉備路編(11)」で書いた池田家ドロドロのお寺、あれも国清寺だったし。ただ、読み方は違う。岡山のは「こくせいじ」、盛見のは「こくしょうじ」。さて、大内さんちってのはちょっと変わったところがあって、たいがいの大名はそのルーツを源平藤橘などの国内の名門に求めたのに対し、義弘さんは百済の王の子孫であるとした。当時の朝鮮を悩ませていた倭寇の鎮圧に貢献した義弘さんは、その見返りに(自称)先祖伝来の土地である朝鮮に土地が欲しいと要求したりもしている。結果的にこの話はおじゃんになったんだけど、それでも朝鮮王朝からの信頼を得た大内氏は、その後の貿易においても優遇され続けた。そこで、大蔵経。当時の日本には大蔵経の版木はなく、朝鮮王国からの最大の輸入品が大蔵経だった。なんでも、韓国文化遺産研究院長の朴相国さんによると、『14~16世紀の韓日両国の関係は、善隣外交にして「大蔵経交流の歴史」だった』という。倭寇に連れてこられた朝鮮人を母国に送還してあげた時、そのお礼として大蔵経をもらった今川了俊は大層感激したそうな。その貴重な高麗版大蔵経を、大内氏は計20回近くも求め、足利将軍家に次いで2番目に多い輸入を成功させている。応永14年(1407)に盛見が大蔵経を求めた時には、 「環刀20把、関王刀10支、長鉾10支、扇子100柄、胡椒50斤、白檀50斤、 丹木500斤、屏風2張、泥金研函1、硯50枚、筆100?、果盆50口」を送ったと記録に残る。(「大内氏実録」より)品目の中には、え、これって、Made in Japan!?ってのもあるけど、現在の金額に換算したら相当なものなんだろうな~ってのは何となくわかる。そうして大枚はたいてゲットした大蔵経を、歴代当主は氏寺・興隆寺をはじめとする寺へ寄進した。盛見は禅などへの関心も高く、応永33年(1426)には大般若経理趣分千巻を刊行し、1巻ごとに100銭つけて諸国の貧僧に施与したとの記録もある。貧僧って・・・(笑)。ただ、国清寺を建立したのは盛見だけど、この一切経蔵の建築年代は残念ながらわかっていない。国清寺の創建から三井寺に一切経蔵が移されるまでが約200年。毛利氏の防長計略から一切経蔵の移築までが40年ちょっと。毛利時代に建てられた可能性もなくはないけど、建物のスタイルからしても、やっぱりかなり古い時代のものだと思う。それでは大変お待たせいたしました(笑)。その大蔵経を収めているのが、経蔵の中にあるこの八角形の輪蔵でございます。 いやもう、この美しさ・・・言葉もなく、ただ見上げるばかり。↓ぽちりとお願いしま~すにほんブログ村
2012年06月22日

次へ行く途中にあるのが、村雲橋。 【村雲橋 開祖智證大師がこの橋をお渡りになっている時、中国の青竜寺が焼けていることを おきとりになった。閼伽井(あかい)の水を以っておまきになると橋の下から 村雲が湧き起こり中国に向って飛び去ったが翌年、青竜寺から鎮火のお礼の 使者が来たという。】 (現地解説板より原文のまま。カッコ内は戦国ジジイが追加)中国?チャイナの中国・・・かな?智證大師とは、円珍様のことね。このすぐ先に、左へ入る小道がある。 入った先が、唐院。 ここの門には、桃が載ってる。 ・・・なんか、左と右で、軒丸瓦の紋が違うみたいだけど・・・ま、いっか(笑)。この辺りは色々小道があって、どれを通ったらいいのやら迷っちゃう。ちょっと唐院の中を覗いてから、ひとまず元の道に戻って奥へと進む。↓これは唐院の外の石垣。結構、立派だよね~。 ↓こちらは元の道の石垣。 ↓これは何か、模様積みっぽく見えるし。 闕所がどの程度まで行われたのかはわからないけど、少なくとも堂宇は移築、あるいは破壊された。まあ、聚楽第のてってーてきな破壊を考えたら、石垣(が当時あったとして)までそれなりに壊されたんだろうな。再興に着手するまでの約4年間、ここってどんな風になってたんだろう?訪れる人もない、廃墟かな・・・この先にある唐院の参道は、すごく立派。 両脇にある石灯籠は、三井寺のホームページによると歴代の探題によって奉納されたものとのこと。探題って、九州探題とか奥州探題とかそっちの方しか浮ばなかったけど、ウィキペディアには 【探題 仏教寺院に置かれた職。僧の資格を問う論議において、出題に対し出された答えに 判定を行う役の僧を言う。 鎌倉幕府・室町幕府に置かれた職。】とある。元々は仏教用語だって書いてあるから、この場合の探題は前者の方か。言われてみれば、読んで字の如しのお役目だったんだ~。ここに並ぶ灯籠は、「丸に三つ引」。三井寺の寺門はちょっとわからなかったんだけど、まあ寺の関係の紋なんでしょうね。この奥の道をちょっと登っていくと、第3のお目当てが間近に見える。 【三重塔 此の塔は、もと大和國比蘇寺に在ったものを豊臣秀吉が伏見城に移し、慶長6年 徳川家康が更に當寺に寄附して此に移す。塔内に安置する釈迦文殊普賢の三尊は 後陽成天皇第七回御國忌禁中御八講の本尊である。】 (現地解説板より)一口に伏見城って言っても皆さまご存知の通りいろいろあるけど、三井寺のホームページには1597年に移築したってあるから、なら秀吉の木幡山の伏見城、ってことか。観月橋下に移築されたそうな。てえ事は~、この塔は慶長伏見大地震を生き残ったわけ?伏見城は地震対策もちゃんとしてたって話だけど、その城は倒壊したのに、この塔は残ったんだ・・・まあ、五重塔は地震に強いって話だけど、それにしてもすごいな・・・ちなみに、関東大震災でも五重塔は無傷だったそうで、あの阪神淡路大震災でも、兵庫にある15の三重塔はほぼ無傷だったそうな。話題のスカイツリーをTVで見てると(←自分で登る気はない)、「ホントに倒れないのかな~、これ・・・」とか思っちゃうけど、こーゆーのを見るとちょっと安心元々の大和比蘇寺では東塔と西塔の双塔のスタイルだったようで、薬師寺式の伽藍配置だったそう。三井寺に移されたのは東塔の方で、西塔は焼失したという。ただし、どちらの塔も比蘇寺に礎石は残っている。東塔は比蘇寺の寺伝では聖徳太子の建立、鎌倉期の改築と伝えている。ふおお~ッ!て三重塔を見上げてたら、この道の上にかかる橋を掃除用具をかかえたおばちゃん達が歩いていった。あれって、関係者様専用通路なのかな・・・もっと近くで塔を見たいな。一旦、村雲橋の通りへ戻ってさらに先へと進む。この先が、第4にして今日一番のお目当て!! ああっ、ついに来た・・・!!石段の手前には池があって、鯉のえさが置いてあったので、はやる心を押さえつつ、まずはこのクソ暑い中、小さな池で頑張ってるコイさん達に激励の差し入れをば・・・ここのエサ入れは、釣鐘。さっすが、三井寺 エサは有料です。一日一善。↓激励の「ぽち」をお願いしますだ。にほんブログ村
2012年06月21日

微妙寺を出て、勧学院へ向かう途中で地図を見てたら、この近くにある社務所も書き込んであったんだけど、「天台寺門宗宗務本所」って書いてある・・・寺門宗かあ~。歴史は今も続いている・・・そして来たのが、第2のお目当て、「勧学院」。 ここには、入れません。要予約で3名様以上の場合にのみ、拝観が許されます。(平成24年度中は襖絵修理のため、拝観不可)入れないのに何で来たかってゆーと、ここは毛利輝元が建てたんですよ・・・それだけのことなの。アハハハ!建てたといっても、あたらしく「勧学院」というものを作った訳じゃない。元は、学問所として正和元年(1312)に創立されたという。余談だけど、「勧学院」ってのは、平安時代に藤原冬嗣が作った藤原氏の子弟のための、大学の寄宿舎の名前。オリジナルの勧学院は、鎌倉頃にはなくなったみたいだけど、勧学院の名称を自分のとこの僧侶養成機関名に拝借した大寺院なんかもあるようなので、ここ園城寺の勧学院も、同じように藤原さんちのものを頂いた名称かもしれない。それで、なんでいきなり輝元が出てくるのかといえば、これも園城寺の苦難の歴史と関わりがあります。文禄4年(1595)、太閤殿下が園城寺に突然闕所(けっしょ)を申し渡す。どうも殿下を怒らせちゃったみたいなんだけど、一体何に殿下がキレたのかは諸説あってよくわかりません。闕所は欠所とも書き、平たく言えば営業停止命令が出されたってこと。建物は移築され、御本尊や宝物の類もよそへ移された。この時、金堂(寺院の中心となる建物)は叡山に移されて、延暦寺転法輪堂として今も現存している。移築されなかった堂宇などは、ことごとく破壊されたという。園城寺の苦難は、実は「大津編(9)」に書いた山門からの攻撃、そしてこの文禄の闕所だけじゃない。建武3年(1336)、足利寄りだった園城寺は、新田義貞とまたまた叡山の僧兵によって、壊滅的な焼き討ちにあっている。「太平記」には、 【三井寺の衆徒ども、あるいは金堂に走り入って、猛火の中に腹を切つて伏し、 あるいは聖教を抱いて幽谷に倒れまろぶ・・・ されば半日ばかりの合戦に、大津、松本、三井寺の中に討ち倒れたる敵を数ふるに、 七千三百余人なり】との記述がある。それでもその都度寺を立て直し、復興した歴史を持つ園城寺は別名「不死鳥の寺」とも呼ばれる。で、この闕所にあたっても、不死鳥の名にふさわしく、寺の復興に奔走した人たちがいた。そのうちの一人が、山岡道阿弥。瀬田城と瀬田の唐橋の回で出てきた、山岡景隆さんの弟です。道阿弥さんについてはあとで触れる機会もあるかと思いますので、ひとまず置いといて・・・いまひとりが、准三宮道澄(じゅさんぐう・どうちょう)。この方は、あの近衞前久(さきひさ)さんの弟にあたります。寺が廃業となれば、当然坊様たちはプー太郎・・・いえ、失業の憂き目にあう。園城寺ともなればその数は相当なもので、道澄さんはこの人達を引き取ったんだそうな。やっぱり、実家のバックがあってのことでしょうかねえ・・・その上で、殿下に対して熱心に赦免運動を起こす。道澄さんて人は、豊臣政権が安定してからは政治・文化・宗教などの様々な面におけるサポート役として殿下に伺候してたみたいなんだよね。殿下の信頼もかなり篤かったようで、大坂の陣のきっかけの舞台になったといわれる方広寺、ここの初代住職に任命されたりもしている。闕所の命が下りた時には、すでに道澄さんは引退してたみたいなんだけど、園城寺の危機にいてもたってもいられなくなり、勇ましく立ちあがった頑張った甲斐があって、慶長3年(1598)8月には五大老の連名による再興の許可を勝ちとる。ついには殿下も折れ、死ぬ前日に北政所に園城寺再興を許可する遺言を残したという。一説には、自らの死期を悟った殿下が園城寺の祟りを恐れたためだとも・・・何であれ、許可は下りた。道澄さんは自らが中心となって寺の再興を進めた。「大津編(12)」の、1600年以降の寄進の数々を見て下さい。みんながあれこれ寄進して、寺の復興は順調に進んでいった。一度まっさらになった所に、色々持ち寄った結果、ここは戦国末期の建物群を擁する一大戦国パークへと生まれ変わった(笑)。いえ、実際にはもう少し古い建物も含まれてるんですが・・・そして、この時の貴重な建築物が、今も大切に引き継がれている。で、勧学院に戻りましょうか。入れないので、覗くだけね(笑)。 【国宝 建造物 園城寺勧学院客殿 一棟 勧学院客殿は、桁行七間、梁間七間、一重入母屋造、妻入で東正面に軒唐破風を付け、 また桁行一間、梁間一間、一重、切妻造の中門を設けた総柿(こけら)葺の建物で、 光浄院客殿と外観はほとんど同じですが、規模はやや大きく、内部は光浄院が二列から なるのに対して三列の九室からなっています。 この客殿は慶長5年(1600)に建てられたもので、主室の一の間には正面に大きな 床をとり、その北隣の室に床と附書院を設けています。 内部の壁や襖は華やかな障壁画によって彩られています。また、長押(なげし)や 扉に打たれた金具もよく時代的な特徴を持つなど、桃山時代の書院造として 貴重なものです。 昭和27年11月に国宝に指定されました。】 (現地解説板より。一部漢数字は戦国ジジイが変換)輝元のテルの字も出てきませんが(笑)、障壁画は狩野光信を中心とする狩野派の作品です。輝元が奉行に任命されたいきさつはよくわからないけど、元々毛利さんちと道澄さんは縁が深かった。道澄さんの兄・近衛前久さんは上杉謙信のところとか、あちこちに顔を出してますが、道澄さんも一緒にいたんだと。そして毛利さんちでは、尼子氏との調停において、道澄さんに色々お世話になったらしい。調停だけじゃなく、天正16年(1588)に輝元が上洛した折には、道澄さんに大層もてなされ、8月の聚楽第での歌会にも一緒に出席している。その後の10月に開かれた道澄さん主催の歌会にも、輝元は招かれて園城寺を案内されたと。そんな縁もあってか、勧学院だけじゃなく園城寺の復興に輝元は尽力した。個人的には、あまり喜べない部分もあるんだけど、それはまた後で。次へ向かう途中で見た、勧学院の石垣。 ↓ぽちっとお願いしま~す。にほんブログ村
2012年06月20日

入口でもらった境内図はこんなの。赤の書き込みが、入口のおばちゃんが色々説明してくれた跡(笑)。 私は左下から入って、観音堂を出たところ。次に目指すのは「勧学院」だけど、途中にある微妙寺で何やら特別公開をしてるって話だったので、寄ってくことにした。歩いてったら、微妙寺の外にどなたかいらした。 【天台智者大師 天台大師は西暦538年、中国荊州華容県に生れ、南岳、大賢山に修行し、18才にて 受戒、光州大蘇山の慧思禅師に師事し、法華三昧を体得された。その後、 金陵(南京)の瓦官寺で法華経と禅法を説き、38才、天台山に修禅し法華円頓 実相中道を証悟された。 陳皇帝に招かれて48才に、金陵で法華文句を説き、また玉泉寺に法華玄義摩訶止観を 説かれた。その後、西暦597年、石城寺に入滅さる。 智証大師入唐求法して天台山に修禅し、以って法華円教、この長等山に輝く。 天台大師1300年遠忌に際し、報恩謝徳の誠を捧ぐ。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)う~ん、つまりこの方は来日された訳じゃないのね・・・何だかよくわからないので、後で軽く調べてみたら、この方は天台大師智ギ(ちぎ。「ギ」の字が楽天ブログでは使えません。)という方で、天台宗の実質的な開祖といわれているそうな。天台宗を日本に持ち込んだのは、伝教大師最澄で、三井寺は天台宗だから、それでここに1300年忌にあたって像を建てたって事なのかな。このお堂にある蛙股は、 どれもこんな感じの草花系だった。四面全部の写真を撮ったけど、えらいボケてるので、残念ながら全部はお見せできませぬ この隣にあるのが、微妙寺。 【園城寺別所 微妙寺 微妙寺は、園城寺(三井寺)五別所の一つ。別所とは平安以降、広く衆生を救済 するため本寺(本境内)の周辺に設けられた園城寺の別院で、当寺のほかに水観寺、 近松寺、尾蔵寺、常在寺があり、総称して「園城寺五別所」と呼ばれている。 御本尊は、もと志賀寺の霊仏で天智天皇の御念持仏と伝えられる十一面観音(重要 文化財)で、『寺門伝記補録』には「霊験四表を輝す」と記され、特にその 霊験威徳の灼かなことは有名である。 往時には、十一面観音の誓願である除病、除難、滅罪の利益をもとめて都鄙遠近より 道俗の帰敬渇仰するところとなり、境内には参詣者が溢れ頭にかぶる笠が破れ、 脱げる程であったとその様子を伝え、俗に「はづれ笠の観音さま」「笠ぬげ観音」として 一般に親しまれ道俗の尊嵩をあつめてきた仏である。 この仏像は桧材の一木造で、数少ない10世紀の彩色壇像彫刻として天台系密教彫刻の なかでもすこぶる貴重なものとなっており、重要文化財に指定されている。 本堂は、江戸中期の再建にかかる桁行三間、梁間二間、入母屋造桟瓦葺の建物で、 同じく園城寺別所の一つ近松寺の本堂とすこぶる類似しており、当初は外陣の三方が 建具がなく解放で、そこまで土足のまま参拝できる札所の本堂の形式を伝え、 民衆の篤い観音信仰にささえられ受け継がれた園城寺別所の姿をよく示した 貴重なものとなっている。 なお、微妙寺の旧寺域は現在の長等公園の西山麓に広がり、かつては薬師堂、 千手観音堂(本尊天寿観音像は現存しており重要文化財に指定されている)、 明王堂の堂舎が建ちならんでいたようで、江戸時代には、近江を代表する学者 若林強斉の若き日の僑居の寺として知られている。 昭和54年、保存修理に際して現在の地に移したものである。】 (もらった解説より)かぶった笠が破れて脱げるって、どんだけ~!押し合いへし合いどころの騒ぎじゃないよな・・・しかし、ここの垂木(たるき)、変わってるわ~・・・ 屋根におる獅子のしっぽも、かわゆらしいし・・・(笑) 内部の写真はありませんが、十一面観音様の写真は三井寺のホームページから見られます(「名宝の紹介」→「仏像」→「十一面観音立像」)。結構特徴あるお姿・・・ 【重文・十一面観音菩薩 園城寺別所微妙寺に奉安いたしております十一面観音は10世紀ごろの製作であり、 重要文化財に指定されております。像高は82センチの小さなご尊像です。台座から 頭部まで桧の一本で彫刻されております。こういった小さな、しかも緻密な彫刻が なされている仏像は檀像風とよばれるもので、インドや中国において仏像を彫刻する 場合、香木つまり白檀や栴檀などを用いて彫刻するのが常でした。 高級な材質ですので、おのずと小型の彫刻になる訳です。我国ではそういった高級な 檀木の入手が困難であったため、?や桧を代用することになります。 現状では全身が古色に覆われていますが、唇や膝下の部分などには朱がかなり 鮮やかに残っており、裳の一部にも切金紋様がかすかに認められます。 頭部を大きく表すところをはじめ、極度に圧縮された体のつくりなど、一見して異様な 印象を受けますが、これも檀像の特色の一つと考えられています。 十一面観音を供養礼拝するものには、現世においては10種の果報を授かり、来世に おいては4種の善果に恵まれるとされております。かいつまんで申しますと、 生活に必要な物資に恵まれ、水難、火難から逃れ、無病息災で満足して仏を信仰する ことができ、死後は地獄に輪廻することなく、阿弥陀仏の浄土(極楽浄土)に往生 できるとされております。 十一面観音菩薩御真言 オンロケイ ジバラキリク ソワカ】 (もらった解説より。漢数字は戦国ジジイが変換。?はつぶれて読めない)ご利益いっぱいの、ありがたい観音様です。にほんブログ村
2012年06月19日

さて、観音堂へ。古くて大きな建物だけど、内部の右半分くらいはショップになってた。ここで私が買ったのが、これ。 ふっふっ、寛永通宝の六文銭です 【長寿のお守り 六文銭の由来 此の寛永通宝は、昔、使用されていた古銭で一文銭を六枚紐に通しています。 通称六文銭と言います。鋳造時代に依り大小の銅・鉄、其の他で日本の数ヵ所で 鋳造されたものです。 本来、金属と言うものは、古来より呪力をもち悪霊を払うと云い伝えられて、 太古の昔より人間は何等かの形で、金属を身に付けたり、又飾ったりして 信仰の対象として今日迄、このような、風習が伝えられてきたのであります。 そこで、当寺では信心深い皆様方に、この六文銭に長寿のご祈祷を捧げ 金属の呪力と共に不慮の災難、魔除けのお守りとして長生きできますようにと 祈願をこめた物であります。 生者必滅により天寿をまっとうされて、お迎えが参りました其の時には 蓮華の花咲く極楽浄土への旅路の路銀として大切に、お持ち頂けますよう、 おいづる、御蒐印帳などと一緒に、お仏壇の下に納めていただいたり又、お守り袋 などに入れておいて下さい。 合掌】 (箱の中に入っていた説明書より)この説明書には、さらに六文銭についての解説が続く。 【六文銭の説(地蔵菩薩) すべての衆生が生前の業因により、中有にあって生死を繰り返す六つの迷いの世界 すなわち六道(地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天上)一切の衆生の苦を除き 福利を与へる事を願いとし特に、地獄の衆生を教化し代受苦の受難を一身に受けられる 六道能化の地蔵菩薩様へのさい銭と云われ六道のちまたで使用したりするもので 一文銭が六枚必要と、云われています。(仏教大辞典古事類苑より)】ま、六文銭っつったら、言わずもがなの真田さんちでお馴染みですけどね。特に長寿は願ってないくせにこれを求めたのは、寛永通宝だったからですよ。古銭って、欲しかったんだよね~ 欲しいって言っても、詳しいことは全然わからないし、通販とかで高いお金を出して買うほどのものではなかった。でも、ここで会ったのが百年目!・・・じゃなくて、これも縁なのでありがたく買わせていただいたとゆーワケ。考えようによっては、古銭とかお金の類って、人の念とか染みついてそうでイヤだな・・・と思わないでもないけど、ちゃんと御祈祷済だし、しかも「真物(ホンモノ)」って書いてあるし、信頼のブランド、三井寺印の古銭なら大丈夫だろうと勝手に決めて、めでたく古銭でびゅ~ 紐から外してバラしてみたら、全部が同じものではないようなので、これはいつ、どこで造られたものなのか同定してみようかと思った。・・・が、寛永通宝って分類がとんでもなく多いようなので、全くの素人が写真で判別するなんてどだい無理だって事がすぐにわかって、やめた(笑)。現在、寛永通宝は100億枚ほども現存してるんだってね。三井寺から少し北上した坂本にも、寛永通宝の銭座があったらしい。ちょっと前に、香川県の観音寺市で寛永通宝が通貨として使えるってのをTVで見た時は笑えたな~。まあ、あくまで町おこしの一環としてなので、すべてのお店とかで使える訳じゃないみたいだけど。これを銭形の親分がじゃらじゃら下げて投げたのか~と思ったけど、すごく軽いから、どんなに腕力のある人でもこれを1枚投げたくらいじゃ、殺気をみなぎらせて刀を上段に振りかぶってる人の動きを止めさせるなんて無理ムリ~!!って笑っちゃった。観音堂には目的別の絵馬・・・じゃなくて札みたいのがあって、病気平癒のもあったので、今頃もまだ苦しんでいるであろう友達のために願かけをしてから外に出た。観音堂の脇には、鐘楼がある。 う~ん、素木の斗供(ときょう。軒を支える木組の部材)が美しい・・・ 【県指定有形文化財 鐘楼 鐘楼は園城寺南院札所伽藍の一つで建立年代は棟札により文化11年(1824)に 上棟したことが知られる。 正面三間、側面三間で袴腰付の立(たち)の高い本格的な鐘楼で屋根入母屋造り 檜皮葺である。組物は尾垂木(おたるき)を用いない三手先(みてさき)で、 中備えは蟇股または蓑束(みのづか)で飾る。腰組も三手先とし、簀縁(すのこえん) に高欄を廻す。 この鐘楼は総欅(けやき)造りでまとめ、正規の手法を用いた19世紀はじめの 鐘楼として見るところが多い。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)建築の専門用語がばしばし出てくるな・・・古建築の見どころについても、おいおい説明をしていきたいとは思ってますが、なにぶん良い例がないと難しいものでこの写真も鮮明に撮れてる訳じゃないので、ひとまずここでは遠目に斗供と組物と三手先についてだけ。 円で囲んだ部分が斗供(=組物)。これが3段外側に出っ張ってるのが、三手先。って、チョー簡単すぎて解説にもなってないけど、自分で絵を書くのは難しいし、良い写真があったらいずれね鐘楼の内部は入れるようになっていて、鐘も突こうと思えば撞けちゃう。でも、これじゃないけど有名な三井の晩鐘は有料だって聞いてたし、撞いていいものかわからなかったので、とりあえず見るだけにした。「ご自由に撞いてください」とも書いてなかったし。次のエリアへ行く前に、少し休もうと思ってまず売店の奥にある公衆便所に入った・・・ら、こんな貼り紙が。 いや・・・っ、これってどーゆーこと!?回収したフンを、ここに流す人がいるの?ってか、ここってペット持ち込み可!?もんもんとしながら用事を済ませ、売店にある喫茶コーナーでみつまめを注文。もうお昼前だけど、昨日のダメージのせいか珍しくお腹すいてないし。確かここ、タバコが吸えたんだよな~(←重要)。他にお客さんもいなかったので、売店のおばちゃんはわざわざ扇風機を移動させてくれたりして、親切にしてくれた。食べ終わった後、お土産を物色しながらおばちゃんとしばしおしゃべり。さっき見た鐘楼のことを聞いてみたら、自由に撞いていいって事だった。ので、外に出て早速ご~ん!と撞いてみた。鐘撞きって、もしかして生まれて初めての体験カモ・・・にほんブログ村
2012年06月18日

結果的に以仁王の挙兵は失敗に終わり、その後の処理では一旦は即時の寺社討伐は見送りとなった。が、興福寺と園城寺が再び不穏な動きを見せたため12月11日、史上初となる仏教寺院への武力攻撃が園城寺に対して行われた。この攻撃により、800人が殺害され、金堂以外の伽藍637宇に火を放たれ、一切経7000巻、仏像2000体が焼失したという。が、これは「平家物語」や「吾妻鏡」などの記述によるもので、「玉葉」などの日記系史料にはそのような記述はなく、堂宇などの宗教的な色合いの濃い建造物などについては手を付けないという条件付きの攻撃だったとされる。実際、金堂などに火が移った際には一旦戦闘を中止してまで鎮火に努めた(笑)なんて妙にリアルな記述もあるくらいだし。まあ、こうした被害状況などについては、立場によって全く違う発表になるのは往々にしてあることだからね。信長様の叡山焼き討ちなんかもそうだし。その後行われた興福寺への攻撃、いわゆる南都焼討では、結果論としてあの大仏様まで燃えちゃったけど。 (高松・平家物語歴史館)ただ、興福寺に対しても、とりあえず穏便に済まそうとして、まずは妹尾兼康さんを小部隊かつ軽装で送りだしたそうなんだよね。(妹尾兼康さんについては、「撫川城(1)」も見てね)とはいっても、ここ三井寺で初めての本格的な武力攻撃が行われたのは史実。現在では静かで荘厳な空間だから、あまりここを古戦場と認識して来る人も、平家萌え~する人もいないと思うけど・・・さて、平安末期についてはひとまずこのくらいにして、今度は室町~戦国時代に三井寺に来られた、あるいはゆかりの方々を御紹介いたしましょう。有名どころだけね。今さらですが、三井寺の正式名称は「長等山園城寺(ながらさん・おんじょうじ)」。7世紀に大友氏の氏寺として開創されたが、天智・天武・持統の3代にわたる天皇がこの地に湧く霊泉を産湯として育ったことから、「御井(みい)の寺」と呼ばれ、さらに三井寺に転じたとされる。できれば「三井寺」で統一して表記した方がわかりやすいんでしょうけど、昔の話をする時は「園城寺」の方がふさわしいかな~って思う時もあるし、ここまでですでに両方使っちゃってますので、あしからず。1338年 足利直義は北畠顕家対策として、園城寺に瀬田の唐橋の警固を依頼する。 これ以降、唐橋の警護をたびたび任される。1340年 足利直義の命により、唐橋の警備にあたる。1343年 また唐橋の警固を申しつけられる。この時の、康永2年8月10日付 足利直義の 書状が現在も山梨県都留市に残っている。 1352年~ しばらくの間、足利義詮の寄進が続く。 伊勢丹波・石見・安芸・越前・近江・美作国青柳庄など。 足利尊氏は経蔵のほか、京都・等持院から一切経を移して奉納。1468年 なんのためかよくわからないけど、足利義視が園城寺に入ったという 記録が残っている。1487年 第一次六角攻めで細川政元が陣を敷く。1491年 第二次六角攻めで足利義材が陣を置く。1568年 織田信長、上洛戦で園城寺光浄院に陣を置く。翌日、足利義昭も入る。 あるいは信長様が極楽院に着陣し、義昭は光浄院に宿泊したとも。1570年 足利義昭、二条義晴らとともに園城寺にお泊り。 信長様は浅井・朝倉勢と交渉の真っ最中。1582年 羽柴秀吉、明智光秀との交戦の際、園城寺に陣を置く。1600年 豊臣秀頼、毛利輝元を奉行に勧学院客殿の建立を始める。狩野光信が 襖絵を描く。 毛利輝元、経蔵を再建。 北政所は閼伽井屋を寄進。1601年 徳川家康、伏見城の楼門(仁王門、旧常楽寺楼門)、 三重塔(旧比蘇寺三重塔)を移して寄進。 山岡宮内郷法印道阿弥、光浄院客殿を再建。1602年 毛利輝元、周防から国清寺の経蔵を移して、高麗版一切経蔵を寄進。1623年 後水尾天皇、三重塔の本尊として禁中御八講本尊・釈迦如来を寄進。 清涼殿の一部を食堂(じきどう)として移築。一部、あえて抜いている部分もありますが、後で触れるかと思います。・・・てな感じで、実に色んな有名人が三井寺と関わりをもってます。それでは山内へ。長等神社の脇を進んでいくと、拝観受付がある。ここより有料。「三井寺、初めてなんですう~」って言ったら、受付のおばちゃんは順路とか特別公開中の場所とか色々教えてくれた。ついでに三尾神社のことも聞いてみたら、ちょっとここから歩いていくらしい。う~ん、帰りに寄れるかなあ・・・石段を頑張って上がっていくと、正面に大きな観音堂がある。 この向かいの売店に、早速三井寺名物「力餅」が売ってた。名物だし、ぜひ食べたいと思ってたけど、なんか見てるだけで胸が詰まりそう・・・夏にモチってのは、私はちょっとな・・・観音堂を拝観する前に、まず第一のお目当てへ。観音堂の広場の隅には、上に行かれる石段があって、その上には展望台がある。上がると色んな石碑が建ってるけど、ひときわ目を引くのがこのデカイの。 「大津そろばん顕彰碑」です。 なんでも、大津はそろばんの名産地だったそうなんですね~。「東海道名所図絵」などにも、大津の特産物として大津そろばんが紹介されてるんだって。ま、わたくし、珠算1級は保持しておりますけど(1級を取るまでそろばん塾をやめさせてもらえなかった)、これを見に来た訳じゃありませんよ。この記事の上の方で、三井寺の正式名称を書いたけど、「長等山」と聞いて「お~、長等山!」と思った方もおられるのではないでしょうか。慶長5年(1600)9月4日、大津城主・京極高次は籠城の準備に入った。西軍の本格的な総攻撃は、9月6日から。毛利元康(元就の8男)を総大将とする西軍が陣を置いたのが、大津城をよ~く見渡せる、ここ長等山。だけど、「長等山の中腹に陣を置いた」とするだけで、三井寺に入ったという話は聞いたことがない。まあ、長等山っていっても広いし、もう少し南の方にいたのかな。それとも、三井寺よりもう少し上の方かな・・・けど、あまり上まで行くと城から遠くなるし、それだったら途中にある三井寺にも入ったとかいう噂を聞いてもよさそうなもんだけど・・・直接攻撃を念頭に置くなら、ちょうど三井寺のあたりが位置的にベストかと思うんだけどな・・・ともかく、西軍は長等山から大津城へ、ばんばん大砲を打ち込んだ。砲撃のすさまじい音は洛中にまで届き、弁当と水筒を持って観戦にやってきた物見高い京の連中がいたなんてエピソードも残っている。どっから見てたんだよ、オイ・・・て感じだけど、つまりは私はここで大津城萌え~するのが目的だったのだ(笑)。大津城っていうよりは、西軍って言った方がいいかもしれないな。大津城攻めにあたったのは、約1万5千。もちろん、立花宗茂も、小早川秀包(ひでかね)もこの辺にいた。小早川秀包様は、毛利元就の9男。異母兄である小早川隆景に実子がいなかったため、小早川家の養子となる。養子になったのは、金吾(小早川秀秋)を養子に迎える前の話で、秀秋が来てからは廃嫡されて別家を立てた。うう・・・関ヶ原の上に毛利家の話まで持ち出すと記事が進まなくなるから、ここまでにしておこう。で、大砲を撃ち込んだのはこの場所じゃなくっても、秀包様や立花宗茂が見たような景色が見られると思って楽しみにしてたのに、大津城方面は木がボーボー生い茂ってて、展望がまるできかなかったもちろん、見えてたところで、今は大津城があるわけでなし、全く同じ景色が見られた訳じゃないけどさ。ただ、城との距離感とか、雰囲気を味わいたかったんだよね。私にとって肝心なところは全然見えなかったけど、他の方面はそれなりに見えた。仕方ない、見えるとこだけ写真に撮っておくか・・・で、こちらは比叡山方面。 う~ん、この近い距離でかつて叡山と園城寺の激しいバトルが繰り拡げられたのかあ・・・ちょっとカメラを右に振ると、琵琶湖が見える。 お目当ての景色は見えないけど、ちょうど誰もいないし、ベンチに座って根性で妄想スイッチをオンにして、しばし慶長年間(大津城攻め)に浸る・・・と、しばらくして人がやって来たので、意識を慶長から平成に戻して、展望台を下りた。↓ランキング参加ちう~。ぽちっとお願いしますにほんブログ村
2012年06月17日

今回、三井寺に来ようと思ったのは、古くて有名だから一度は行ってみたいと思ってたのもあるけど、直接の動機は私の好きな頼政がここに来たから。源頼政(みなもとの・よりまさ/1104-1180)。大抵の人は、好きな歴史上の人物について「義に厚いから」とかちゃんとした理由があるもんだと思うけど、私は本能の人なので(笑)、気が付いたらいつの間にか好きになってたってケースの方が多い。ってゆーか、ほとんどそんな感じ。それでも、何らかのきっかけになるような事はそれなりにあるもんだけど、頼政の場合は全く記憶にない。未だに、頼政に関するものとかを読んでいても、「何で私、こんなに頼政のことが好きなんだろう?」って自問自答するほど、理由が見当たらない。でも、好き。だからここに来た。そして明日も、行く。三井寺に行くと決めてから色々調べてみたら、ここも実に多くの歴史を秘めてることがわかった。戦国武将とのゆかりも深い。で、少しその歴史をかいつまんで書こうかと思います。まずは頼政の話から。頼政は、摂津源氏の出。「源頼光」の名は、大江山の酒呑童子退治で有名だと思うけど、この頼光の子孫にあたります。歌道に秀でながらも武人としても活躍し、ことに2度のヌエ退治で名を挙げた。ヌエなんてフィクションみたいな話以外にも、保元・平治の乱の現実的な場面でも勝利に貢献している。・・・なのに、可哀想になかなか出世できなかった。「平家物語」によると、我が身を嘆いた頼政が のぼるべきたよりなき身は木の下に 権(四位)をひろいて世をわたるかなと歌でボヤいたところ、それを聞きつけた清盛さんが「うっわ~、ごめん!思いっきり忘れてたよ~!!」って頼政が正四位に留まっていたことを初めて知って、従三位に昇進させたとなっている。が、現実としてはこの昇進はかなり破格の扱いだったらしく、頼政に同情した清盛さんが推薦したものだともいう。何であれ念願の昇進を果たして、晴れて公卿の仲間入りこの時、頼政74歳。公卿の位階は従三位以上であり、武家で初の公卿となったのは、平忠盛(清盛の父)。頼政は武家としては2番目で、源氏の中では初の快挙を成し遂げた。以後は「源三位(げんざんみ)頼政」と呼ばれるようになる。翌、治承3年(1179)に病気のため官位を辞して出家。ここまではいいんだけど、さらにその翌年、以仁王(もちひとおう。高倉宮とも)と謀って、平氏に反旗を翻す。以仁王は、後白河院の子。同母姉に、 玉の緒よ絶えなば絶えねながらえば 忍ぶることのよわりもぞするの百人一首で名の知られる、式子内親王がいます。以仁王も頭のいい人だったみたいだけど、親王宣下も受けられず、それでも三十路を迎えるまで皇位継承に望みをつないで頑張っていた。が、平滋子(清盛の妻の姉妹)の生んだ子が即位し(=高倉天皇)、さらに高倉天皇の子が立太子すると(=安徳天皇)、その願いも絶望的となった。その失意の以仁王の元に、夜這い・・・じゃなくて夜にこっそりやって来たのが、頼政。頼政は、宮こそが皇位を継ぐべきだとこんこんと諭して、初めは乗り気じゃなかった以仁王をその気にさせることに成功する。頼政の挙兵の理由としては、馬をめぐって頼政の子と平宗盛(清盛の三男)の間でトラブルがあり、それがきっかけとなって日頃の不満を爆発させたんだとされる。・・・ただし、これは「平家物語」の記述。現在では以仁王が頼政をそそのかしたという見方の方が有力らしい。「以仁王の令旨」はまあ有名だと思うけど、令旨を持ってお使いに出た源行家は精力的に各地を回り、これが後の頼朝の挙兵までつながっていく。治承4年(1180)4月9日、平家打倒の令旨を発行した以仁王だったが、その1ヵ月後には早くも敵方にバレた。5月15日、怒った平氏は以仁王を臣籍降下させ、名を「源以光」とさせた。さらに土佐への配流を決め、平時忠(清盛の義兄弟。「赤間ヶ関編(43)」もご参照ください)が300余騎を率いて以仁王邸へ逮捕に向かった。この時、時忠の隊に頼政の次男も加わっていたという。逮捕のニュースを聞いた以仁王は、女装して園城寺へ逃げた。「平家物語」では、この逃走中、女装してるのについ大きな溝を軽々と飛び越えて、「なんだあの女・・・みっともない!」って周囲に怪しがられたなんてエピソードがあるここで私のお気に入りなのが、以仁王の家臣・長谷部信連(はせべ・のぶつら)。御所に残った信連は、女性陣を避難させ、邸内のお掃除をしてる時に以仁王の忘れ物を見つけ、わざわざ届けてあげる。この忘れ物ってのが、王愛用の「小枝(こえだ)」という笛。「こえだ?敦盛の小枝(さえだ)と同じモノ?」と疑問に思ってちょっと調べてみたら、恵泉女学園の佐谷眞木人先生が、以仁王と敦盛の笛について、数ある平家物語の諸本の記述を比較検討しておられた。(平敦盛の小枝については、「赤間ヶ関編(16)」で軽く触れてますので、そちらもご覧下さい)それによると、以仁王の笛については各本ともほぼ同じらしいが、敦盛の方は笛の名称のブレもあるし、そもそも討たれた時の所持品も笛じゃなかったとする本もあるらしい。笛の由来などについても、以仁王のところに書いてあるのとよく似ているので、その他の記述ともあわせて考察した結果、 『笛の権威づけを図るという意図を、もとになった「平家物語」からよみとることも 可能ではないか、そのように考えると、前述の、巻第四の高倉宮の笛の名を 取り込んだ理由も理解し易いと思われる。「覚一本」をはじめとする当道系語り本の 巻第九「敦盛最期」は、敦盛の笛に対する信仰の高まりに影響されつつ形成された 可能性が高いのである。』 (『「平家物語」と笛 -巻第九「敦盛最期」の形成をめぐって』より)と佐谷先生は結ぶ。私は萌え~が楽しい派なので、勉強はするけど、自分で研究したりする気は今のところ、ない。でも、こーゆーのを読むと、「研究ってすごいな~。やっぱり大事なんだな~」とため息をつきながら思った。ともかく、このありがたい論文のおかげで、やたら有名な敦盛の「さえだ」よりは以仁王の「こえだ」の方が信憑性が高いことがうかがわれる。先生に感謝ちょっと話がそれちゃったけど、信連に戻りましょう。小枝を届けてもらった以仁王は、「われ死なば、此笛をば御棺にいれよ」ととっても喜んで、信連にもそのまま同行するように申しつけるが、「武士のくせに逃げた!って言われるのが、イヤ」と御所に戻って捕縛隊を待ち構え、勇敢に立ち向かう。何故か儀礼用の太刀を武器にしながら応戦し、太刀が曲がったら手や足で直しながら戦ったそうな(笑)。しかし太刀が折れちゃったので、自害しようと腰をさぐったら、お腰のものがない。仕方ないので、敵の長刀を飛び越えようとして失敗。腿に深手を負い、結局逮捕。なんなんだよ~、この話!!六波羅に連行された信連は、厳しい尋問にも堂々と反論し、その心意気に感じた清盛さんは斬首とせず、信連を伯耆へ流罪にした。晩年になって信連は頼朝の御家人となり、能登に所領を与えられたという。ちなみに、能登畠山氏の家臣で戦国武将の長綱連(ちょう・つなつら)は、この信連を祖とする家系の出身。「長」は「長谷部」の略で、「平家物語」には「長谷部信連」ではなく「長兵衛尉信連」と書かれている。長さんちは、信連以下、「連」を通し字にしてるみたいだね。信連の「連」だ5月16日、平氏は園城寺へ以仁王の引き渡しを求めるが、園城寺側はこれを拒否。以仁王は、興福寺と延暦寺へも協力を求めた。以仁王が寺社勢力を頼みとしたのは、これらの寺社にも前科があったからという。安徳天皇即位の直後、園城寺が中心となって興福寺・延暦寺とともに後白河院とその子・高倉院を誘拐して、朝廷に平家討伐やらその他の要求を認めさせようとしたという、とんでもない過去があった。おいおい、マジかよ・・・って感じだけど、まだこの頃は寺社への攻撃は禁忌とされていたそうなんだよね。実際、以仁王引き渡しの交渉決裂の後も、数日間は戦闘には至っていない。5月21日、教経様のお父上をはじめ、平家の錚々たるメンバーをもって、園城寺攻撃部隊が編成された。この中に、頼政もいた。そしてその夜、頼政は自邸に火をかけて園城寺へ向かい、以仁王と合流した。5月23日、園城寺側では六波羅に夜討ちを仕掛けようという作戦も出たが、平家寄りの者がいたためズルズルと決しないうちに、平家方による叡山の調略が成功してしまう。興福寺からの応援も、まだ来ない。5月25日、危険を感じた以仁王と頼政は興福寺を目指し脱出・・・この時、以仁王は信連が届けてくれた「小枝」と、あと「蝉折(せみおれ)」という笛を所持していた。が、それなりに覚悟を決めたのか、「蝉折」を三井寺の金堂の御本尊・弥勒菩薩様に奉納していったと「平家物語」にある。↓ランキング参加ちう~。ぽちっとお願いします。にほんブログ村
2012年06月16日

馬神社は、長等(ながら)神社の境内にある。こちらが長等神社の拝殿。 建物も立派だけど、お供えも各種並んでて立派。いかにも格式ありそう(←変わったお供えだと、何でも立派に見える)。創建は天智天皇の御世。都の鎮護として、須佐之御男大神を崇祀した。清和天皇の時代、日吉大神と合祀して園城寺の守護神として盛んになったが、山門と寺門の争いの巻き添えをくって、たびたび戦火にかかる。その後は足利尊氏の再興があり、あとは修理を繰り返してる・・・っていう歴史みたい。ここも関蝉丸神社(「大津編(2)」をご参照ください)と同じように、拝殿の回りに回廊が巡らされてて、歩けるようになってる。 あんまりこーゆー形式って今まで見たことないと思うんだけど、やっぱりこれが古いスタイルなのかな?回廊のおかげで、脇から神前をのぞくこともできる この社殿の隣には、稲荷の朱い鳥居がいくつか並んでる。こちらは、栄稲荷。 この隣は、「権平稲荷大明神 末春稲荷大明神」。なんか、夫婦岩みたいのがある。 さらにその隣が「駒竹稲荷大明神」。 稲荷の名前って、どうやって付けてるの?誰か私に教えてくらさい・・・振り返ると、大きな樹がある。ご神木かな? この木の奥に、門らしきものが見えたので行ってみた。どうやらこちらが、長等神社の正門らしい。 【大津市指定文化財 建造物 長等神社楼門 一棟 この楼門は、三間一戸、屋根入母屋造、檜皮葺の構造をもっています。 技師安藤時蔵、技術員池安太郎の設計のもとに明治37年5月起工され、同38年2月に 竣工しました。 この楼門は、比較的小型ながら、上・下の均整が美しく、左右の広がりも適度に、 また各部の曲線も美しくとられ、すぐれた姿をしています。 室町時代頃の様式にのっとった秀作で、明治時代の楼門の代表作とされています。 また、建築にかかわる棟札や図面などの資料もよく保存されています。 昭和47年7月1日大津市の指定文化財となりました。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)ここの蛙股はこんなの。基本的に素木の方が好きだけど、蛙股に注目するようになってからはあんまり見ないタイプだったので、思わずカメラを向けた。 門を守るのは、この方たち。中国人・・・? 三井寺参道脇の、長等神社エリアはこれでおしまい。次はいよいよ三井寺の山内へ。にほんブログ村
2012年06月15日

疏水沿いの道を真っ直ぐ来ると、山麓のT字路に行き当たる。三井寺へは右に行くみたいだけど、山内に入る前に行きたい神社があったので、左へ行ってみた。しばらく歩くと、出てきたのは「三井寺南別所 両願寺」。 古くて立派な建物だけど、人の気配はない。ここには、 「かたたげんべゑくびのてら」という碑が立っている。これは、堅田の漁師・源兵衛さんという人にまつわるものらしい。時は本願寺中興の祖といわれる蓮如さんの時代。中興の祖っていえば聞こえはいいけど、その時羽振りが良かったんなら「中興」にはならないからね。蓮如さんも、特に若い頃に相当苦労してます。蓮如さんの若い頃の本願寺は、ぶっちゃけかなり落ちぶれていた。延暦寺との摩擦も多く、一時は叡山から仏敵とみなされ、叡山門徒による御坊の破却などが繰り返される。当時のお坊さんって、エネルギッシュだからねえ・・・その後蓮如さんはあちこちを転々とするハメになるんだけど、大事な親鸞聖人の御真影については、園城寺(三井寺)に預けることにした。なんで園城寺?延暦寺と園城寺の門徒は、元は同じ釜のメシを食う仲間だった。それが、10世紀の終わり頃、内部分裂が決定的となり、一部の宗徒が山を下り、園城寺へと入った。それ以降は延暦寺を「山門」、園城寺を「寺門」と呼び分けるようになったが、その後も諍いは長く続いた。なんでも、平安中期から中世の中頃までの間に行われた山門→寺門への焼き討ちは、大きいもので10回、小さいものも含めると50回にも及ぶんだとか・・・この辺りでの焼き討ちっていえば、やたら信長様のだけが有名だけど、元々、焼き討ちの歴史も長い土地なんだねいえいえ、笑っちゃいけませんよね。そーゆー背景から、蓮如さんは叡山の対抗勢力である園城寺を選んだらしい。「本願寺」ってのはそもそも、移転する際に親鸞聖人の御真影を安置した寺のことを指すんだよね。だから他と違って流動的であり、極端に言えば、いつでもどこでも御真影さえあれば、そこが教団の中心であり「本願寺」(じゃないかな)。だから、本願寺にとっては、御真影はとっても大切なもの。蓮如さんは一時はここ両願寺の近くに、顕証寺というお寺を開いたみたいなんだけど、ひとまず源兵衛さんの話に戻ると、山科に本願寺ができたので(1480)、聖人様の御真影をお迎えに上がった。ところが園城寺側は何を思ったか、「人間の生首と引き換えだよ。ふた~つね」ってイジワルをして素直に返してくれない。「ハア、どないしょ・・・」ってもんもんと悩む蓮如さんの姿を見て、けなげにも自らの首を差し出そうと決意したのが、堅田の漁師・源右衛門と源兵衛の親子。息子・源兵衛の首を持って源右衛門が園城寺に届けたところ、「あっれ~、ふたつって言ったよねえ~。ひとつ、足りなくな~い~?」ときた。そこで、「いまひとつはワシの首じゃ!さっさと持って行きやがれ~!」ってのたまったところ、親子の信仰の篤さに心を打たれたイジメっ子たちは、すんなりと御真影と源兵衛の首を返してくれた・・・という、ちょっと不可解なお話だそうな。何にせよ、宗派同士の争いも、特に中世頃までは派手だったし、その中で命を落とした宗徒なんかも多かったんだろうな。まあ、前述の山門による焼き討ちなどを始めとして、結構この頃の争いってエグイから、どこまで「殉教」とするかは個人的には疑問が残る部分もあるけど・・・ただ、この源兵衛さんの首があるのは、どうやらここだけじゃないらしいんだな。この近くにある等正寺、それから源さん親子が住んでいた堅田にある光徳寺というお寺にも首があるって言い伝えがあるらしい。都合3ヵ所、首がみっつ・・・両願寺を過ぎてもう少し奥の方まで行ってみたけど、なんだかお目当てがありそうにない。そもそもはっきりした場所は分からなかったんだけど、まあ現地へ行けば何とかなると思ってたんだよな。でもあんまり長い時間をかけてえんえん探し回るつもりもなかったから、ほどほどのところで引き返してきた。探してたのは、三尾神社というところ。神紋がウサギだっていうんで、見てみたいな~と思ってさ。で、いよいよ三井寺へ。いくつかある入口のうち、一番南にある入口からの入場となった。入口の左側にはいくつかお宮がある。今日は三井寺しか見ないつもりだから、せっかくだからちょっと見て行こう。まず、参道のすぐ脇にあるのが「大津馬神社」。 なんか、狭い境内に興味をそそるものが色々あるんだけど・・・玉垣には、雑誌の記事みたいのが貼ってある。 【馬神神社 長等神社の境内にある神社です。今から400年ほど前に疫病が大流行してす。 そのときにたくさんの牛や馬が死んだんだそうです。それで疫病退散の祈祷を したことから創設された神社ですが、今では競馬関係者が多く訪れます。】 (原文のまま)へえ、いつの記事か知らないけど、戦国時代頃ってことか。で、競馬関係者が訪れるという紹介の通り、境内にはこんなのが沢山あった。 ウマはやりませんので、あいにく知らない名前ばっかりだったけど、変わってる神社だなあ~。上の切り抜きは競馬関係の雑誌っぽいので、競馬関係者の参詣が多いとしか書かれてないけど、古くは旅人が道中の馬の無事を祈願し、現代では乗馬をする人や愛好者、さらには馬(午)年生まれの人々もやってくるという。毎年10月17日には「馬神まつり」が行われ、馬小屋の護符や「大津東町馬神」と染め抜いた馬の腹掛が出るんだそうな。この腹掛を着けてると疫病よけになると言われ、江戸後期の浮世絵にも腹掛をした馬の姿が描かれているんだと。今と違って、昔は交通・運搬の大事な担い手だからね~、遠く関東や東北からもわざわざ参拝に来た人もいたらしい。にほんブログ村
2012年06月14日

※「瀬田城」からの続きです。京阪唐橋前駅から石山駅に出て、JRに乗り換え。石山駅には、芭蕉おじさんが立っていた。 おじさんには隠密説の他、忍者説もあるんだってねえ~。なんでも、服部半蔵のいとこの一族に若い頃仕えてたことがあるんだとか・・・あと、こんなふたがあった。 あんまりきれいじゃないけど、琵琶湖の花火と琵琶湖クルーズ、それとヨット・・・あとはわかんない。大津駅前ではちょっと探したいものがあったんだけど、今日はホント疲れたし、明日でいいや~。今日の歩数は27,656歩。結局こんなに歩いちゃったのかあ~(笑)。まあ、途中神社のブランコで休んだりしてたし、予定は2/3くらいしかこなせなかったけど、随分頑張ったな。部屋で夕食を取って、いつもの通り晩酌・・・が、なんか気分が悪い。アレ、何だろ・・・と思ってトイレに行ったら、吐いた。うっわ~、吐いたのなんて何年ぶりだろ・・・くそっ、食べたモノ全部戻しちゃったぜ・・・もったいない!と若干逆ギレしながらトイレから出たら、昼間同行してくれた友達からメールが入ってた。なんでも、変な汗が出て、下痢と吐き気が止まらないから明日は一緒に行かれないとのことだった。ソレ、熱中症の一種だよ!治まらなかったら早めに病院行った方がいいよ~!!ってメールを打ちながら、ふと我が身を振り返った。もしかして、ワシが吐いたのも同じ原因・・・?「吐いたら楽になる」ってタイプの人もいるけど、私の場合は吐く時の蠕動運動が体にこたえるらしく、吐いた後の体のダメージが大きい。幸いこの時はそんなに後も引かなかったけど、さすがに明日は今日と同じ行動をしたらマジでヤバイと思って、軽めのプランに練り直してみた。友達の方はかなりひどいみたいだったので、明日の行動はすべて取りやめて、ちょっとだけでも見舞いに行くって言ったのに、頑として拒絶された。大丈夫なのかな・・・ガンコ者め2日目<'11/7/17(日)ドぴ~かん>起きたら、そう気分は悪くなかった。友達の方は相変わらずみたいなので、せめて消化のいいものとか、ポカリスエットとか現実的な差し入れだけでも・・・と思ったけど、またもや拒絶されたので仕方なく一人で出かけることにした。出かけるっつっても、昨日の今日で無理をして救急車騒ぎにでもなったら大変なことになるので、今日行くのはひとつだけ。うちの親は基本的に、「女の一人旅なんて、危なくってダメダメ!」ってタイプなので、旅先で何かあったらもう一人で出してもらえなくなっちゃう。なので、「遠足は、帰るまでが遠足」と小学校で習った通り、何がなんでも無事に帰らなきゃならんのだ。今日は元々の予定では、三井寺をさらっと見た後、坂本までずーっと歩いてくはずだったんだけどな~・・・まあ、仕方ないよな・・・膳所駅で京阪に乗り換えて、三井寺駅へ。あ~、本日も晴天ナリ・・・ ここって、大津城外堀の西側にあたるところだよな・・・ちょうどこの駅前の道が、堀の中だったんだ。 (たしか浜大津の駅にあった大津城推定復元図から一部拡大)なら、ちょうど↓この写真のちょっと先あたりが「尾花川口」だ。 琵琶湖疏水(そすい)沿いに、西南へ。幅はだいぶ違うけど、疏水が大津城の外堀だと思えばかんかん照りの中もまた楽し でも、興奮すると熱を溜めやすくなるので、萌え~もほどほどに、そして静かに歩く(笑)。疏水沿いの柵は、とってもオシャレ。 昨日の膳所城跡公園のゴミ箱もオシャレだったけど、大津ってセンスいいよな~。ふたがもうちょっと派手だったら、なお良かったけど(笑)。途中には、疏水についての解説があった。 【琵琶湖疏水 琵琶湖疏水は、大津市三保が関で取水し、三井寺の山下を通り、京都市蹴上(けあげ) へと流れる人口の水路です。延長約9キロメートル、京都市の飲料水、発電、 物資輸送、農業用水など多目的利用のために立案されました。 第1疏水は明治18年(1885)、青年技師田邊朔郎の指導のもとに着工、同23年に 開通。第2疏水は明治45年(1912)に完成。工事が国家的レベルの事業であったことを 示すように、隧道の各洞門には伊藤博文を始めとする著名人が揮毫した扁額が 揚げられています。 桜シーズンに見られる水と桜による美しい風景が評判です。】青年技師・田邊くんは大学出たての21歳。工事費は、当時の京都市の予算の10倍だって・・・そりゃ、国家的レベルといっても過言じゃないわな。しばらく歩くと、水門が現れる。 篇額っぽいのは見えないけど、ここは隧道じゃないのかな?にほんブログ村
2012年06月13日

瀬田城<大津市瀬田>(住所をクリックするとMapfanにリンクします)※「大津編(7)」からの続きです。橋守地蔵から一旦唐橋の東端である「唐橋東詰」交差点へ戻って、そこから車道を南下。ヘロヘロになりながらも瀬田まで来たのは、もちろん唐橋を見たかったのもあるけど、この辺りに瀬田城があったからでもある。瀬田城の築城年代については、はっきりわかっていない。が、永享元年(1429)に甲賀の土豪である山岡氏が建てたという話が伝わっている。はい、「大津編」の(5)(6)に出てきた山岡景隆さんの山岡氏です。山岡氏がここに移ってきたのは、建武年間とも言われてるので、永享元年とは100年ほど前後するけど、いずれにせよ室町頃ってことかな。城の西側は瀬田川に面し、東西約140m、南北約150mにわたって深い堀が巡らされていたという。山岡景隆が織田家に入って、信長様の信頼を得るまでになったことは前に書いた通りだけど、唐橋の完成後も山岡さんが瀬田城主を務め、橋の守備にあたった。信長様が上洛する際には頻繁に瀬田城を訪れ、天正4年の内大臣任官の折の石山寺参詣の時も、山岡景隆兄弟が饗応役を務めた。そして天正7年(1579)には信長様のプライベートホテル、「瀬田橋御茶屋」がこの辺りに設けられたという。景隆は本能寺の変後、明智光秀の誘いを断って唐橋と瀬田城を焼いて山中に逃げたとされているが、その後も堀秀政らと組んで明智軍への妨害を試みていたらしい。また、景隆の妻の弟も、安土で明智秀満と交戦している。その後の具体的な動向についてはあまりはっきりしないけど、一旦は瀬田城に戻ったのかな。しかし、翌天正11年には柴田勝家に内通したという嫌疑をかけられ、秀吉に瀬田城と領地を召上げられてしまう。元の山岡氏の出身地といわれる甲賀の毛牧(もびら)に戻った景隆は、天正13年(1585)に61歳でその生涯を終えた、と。いやあ~、キビシイ時代だなあ、ほんと。で、景隆さんの後妻が水原長(みずはら・おさ)さんていう人なんだけど、割とその生涯が詳しく辿れるみたいで、戦国の世をたくましく生きぬいた女性がここにもいたあ~!って結構感動した次第で。長さんと山岡氏のその後についてちゃんと知りたい方は、「大河ドラマ 江 ~姫たちの戦国~ 滋賀県推進協議会」様のサイトにかなり詳しく書かれていますので、お時間と興味があれば是非そちらもご覧ください(リンクはこちら)。さて、車道を歩き始めたものの、お目当ての石碑の位置がいまいちはっきりしない。・・・まあ、たぶんこの道をしばらく行けばあるんだろうと思って歩くけど、交通量が多い上に、路側帯が狭くて・・・ドライバーからすれば、「こんな狭いところ歩いてんじゃねーよ!」って思うだろうけど、仕方ないじゃん・・・て開き直ってしばらく歩いたところに、お目当てがあった。 「瀬田城趾」の碑の後ろにある立看板は、文字がボケてかなり読めない。大きな碑の方も、前半は一部読めないんだけど、最後はこうかな。 【宝暦9年龍安寺西源院天寧和尚は、隠れたる忠誠の勢多城最後の城主、従五位下 山岡美作守景隆を偲び、膳所城主本多下総守康恒に進言す。康恒勢多城跡に 一宇を建て臨江庵と命名す。現在の臨江庵○なり。故に遠祖の功業を偲び 山岡氏一族の碑を建立す。 昭和40年10月17日】瀬田城の廃城の時期も定かではないが、おそらく膳所城ができたことでその役目を終えたと思われる。で、碑にある臨江庵が瀬田城跡だっていわれてるんだけど、この臨江庵も膳所藩主の別荘だとか、山岡氏の義に感動した膳所藩士が結んだ草庵だとか、どうもはっきりしない。その臨江庵の跡に近代になって料亭が建ち、現在ではデカいマンションが建つ。この付近には中世の石灯籠の一部なども残されているというが、場所もわからないし探す時間も体力もない。ので、今日はこれでおしまい~。途中、瀬田川に出られる脇道があったので、名残を惜しみながら川べりを歩く。 瀬田川の東側から見る瀬田の唐橋。信長様も「瀬田橋御茶屋」からこんな風景を眺めたのかな~ってぼんやり歩いてたら、後ろで大きな音がした。なんじゃい・・・と思って振り返ったら、瀬田川を新幹線が渡るところだった。ええええ~っ!!東海道新幹線って、こんなところを通ってるの?なら、新幹線の車内から唐橋が見えるってこと!?って衝撃を受けた。知らないってコワイよな・・・唐橋の近くには、俵藤太(藤原秀郷)の像が建ってるってことだったので見るつもりだったけど、すっかり忘れてしまった。でも、唐橋付近を十分堪能したから、まあいいや(笑)。※「大津編(8)」へと続きます。↓ランキング参加ちう~。にほんブログ村
2012年06月12日

前回の秀郷の話が、「三上山の大百足退治」のあらすじ。秀郷といえば、このムカデの話と平将門を討ったことが有名。将門討伐の際には、秀郷が将門の左目を射抜いたともいわれる。これは瀬田橋の龍神の御加護によるものである、というところからムカデ退治の伝説が生まれたと考える向きもあるそうな。ムカデも将門も、同じ左目でしょ?お話によっては、龍神じゃなくて乙姫様に頼まれた設定になってるので、そこから龍王宮秀郷社は秀郷と乙姫様を祀る神社ということになってるらしい。境内は小さかったけど、なんか雰囲気のある神社。あせあせと参拝を済ませて、そのお隣の雲住寺へ(場所はこちら)。この時、18:00ギリギリだったんです。お寺って門があって、大抵閉めちゃうでしょ?18:00くらいが門限かもな~と思ってたので・・・あと数分(かも)!! ちょっとわかりづらいかな・・・ここの軒丸瓦も、本多立葵だった。 門構えだけじゃなく、境内も立派。それもそのはず、ここは、秀郷から15代目の子孫である時の城主によって応永15年(1408)に建てられたお寺なんです。その城主とは、蒲生高秀。ええ、のちに賢秀さんとか氏郷さんを出した、あの蒲生さんちです。秀郷は、もともと下野出身の人。平将門の乱平定後は下野守に任じられ、武蔵守、鎮守府将軍も兼任したともいわれる。それ以後は確実な歴史の史料に顔を出すことはないようだけど、本拠地・下野を中心に足利氏・結城氏・比企氏・佐野氏・奥州藤原氏などの関東諸氏の武家の祖となった。そこまではいいんだけど、大きな戦功をあげた武門の名家として、西の方にも秀郷を祖とする名乗りの武家が実に多い。有名どころだけでも、蒲生氏の他、内藤氏(大内氏家臣)・大友氏・少弐氏・竜造寺氏・立花氏・・・これ以外にも、もっとあるんだよ。ちょっとびっくりだよね~ で、蒲生さんが建てたお寺だって事と、あとこれがあるからここに来たんだ 左側に『百足供養堂』って碑が建ってるでしょ?この六角堂が、その供養堂。百足はもちろん、秀郷に退治された三上山の大ムカデさんですよ。平成6年に建立されたんだって。すごくない、ソレ!!ぶっちゃけ、秀郷が大津に来たことがあるのかどうかもわからない。その上、お話の内容も『このお話はフィクションです』って言葉がぴったりなもので、しかも1,000年以上も前の話。それで、平成6年に供養堂を作っちゃうんだよ?・・・あ、誤解のないように言っておきますが、決してバカにしている訳じゃないですよ。なんか、今さらだけど、歴史ってとぎれることなくつながってるんだな~とか、人の思いって不思議だな~とか、一種の感慨がぼわ~んと浮んでくる訳です。こーゆー伝説とか民話が現代に息づいてるのって、ここだけじゃないもんね。「赤間ヶ関編(5)」のお亀明神だとかもそうだしさ・・・まあ、お寺そのものは応永年間の創建だけどね。そして、ここ雲住寺は瀬田の唐橋の守り寺でもあるんだと。交通の要衝である橋の安定経営のために、安全祈願とあわせてムカデを討った子孫の城主が鎮魂の寺を建てるというのは、理に適ってるって言ったらおかしいけど、ここにふさわしい縁起だな~と思う。現在では10月の第3日曜に秀郷とムカデの供養会が行われているが、なんでも和太鼓の演奏をすると雨が降るというジンクスがあるんだとか。龍神様に雨はつきものだから、太鼓の奉納を龍神様が喜ばれてのことかもしれない。もしかしたら、太鼓にあわせて龍神様が踊ってるのかも・・・(笑)。ここのお寺は、龍王宮秀郷社とは別の百足退治の版木だとか、秀郷ゆかりの武具などを色々所蔵していて、事前に連絡をしておけば内部の拝観もできるようなんだけど、私は時間にとらわれる史跡めぐりはしたくないタチなので、余程のことがない限り、旅先でそういった予約などはしない。だから今回も、外からちょっと見ただけ。でもまあ、閉門に間に合ってよかった・・・それで実は後から知ったことなんですが、雲住寺と龍王宮秀郷社との間に古い柱が立ってて、昔の唐橋の橋脚として使われてた柱なんだって。なんかそんなの見たような気も・・・でも、解説板とか一切なかったからわかんなかったよ~!!写真を見ると、注連縄が掛けられてて、龍神の霊として祀られてるんだって~。唐橋は本格的には大津宮遷都の時に架橋されたと考えられているそうだけど、その当時はここ龍王宮秀郷社と雲住寺のある辺りを東端としていたらしい。そんなこんなで、ここは唐橋にまつわる歴史が沢山詰まった場所なのであります。さて、一旦橋のたもとに戻ろうとしたら、お地蔵様がいらした。 【橋守地蔵縁起 御本尊は、昭和51年1月26日に、撤去工事中の唐橋の中央橋脚の基礎の地下から 出現された石仏でありまして、同時に真鍮製の花筒と御仏飯の器が揃って 出てきました。 高さ38糎(センチ)、彫りの深い立派な石仏で、専門家の鑑定によると、室町末期 (約四百数十年前)の作で、腕のよい石工が彫った珍らしい石仏だそうであります。 何時、誰が、何のために唐橋の下に安置したのか知る由もないが、400年以上も 川底で、唐橋を守りつづけて来られた石仏であります。 唐橋下より何か出現されると予言していた霊能者によると、この石仏は実は 霊験灼然(あらたか)な薬師如来である、橋守社のところへ唐橋の中央に向け 小堂を建て、祀ってあげるとよいというので、県当局にその旨を述べ、一般の人々に 解り易く親しみ易いよう通称を、橋守地蔵としてお祀りすることになりました。 依って有志相謀りこの地に地蔵堂を建立し、唐橋下より出現の26日を縁日として お祀り申し上げ、永く唐橋の安泰と瀬田川並びに唐橋上の交通安全を祈願し、 茲(ここ)にその縁起を記し揚げる次第であります。】 (現地解説板より。一部カッコ内は戦国ジジイが追加)霊能者・・・まあ、ずっと橋を守ってこられたお地蔵様をこうして見られることは、ありがたい事じゃ・・・とだけコメントしておこう。変な事言って、バチが当ったらかなわんからの※「瀬田城」へと続きます。にほんブログ村
2012年06月11日

さて、私が瀬田の唐橋へ来たかったのは、寿永の乱もあるけど、やはり天正年間の出来事が大きい。信長様が橋を架け替えたことは前回書いた通りだけど、その後、安土から京へ向かう際には唐橋を利用している。橋を守護するのは、瀬田城主・山岡景隆。唐橋の建築にもあたった山岡さんは、六角氏の被官だったが、織田家に投降してからは、初めは佐久間信盛のもとに、信盛追放の後は直属部隊へ編入されたという経歴だったよう。織田家家臣となってからも、最初のうちは六角氏や松永久秀への内通を疑われてたりもしたようだけど、一生懸命忠勤に励んだ結果、唐橋の構築頃までには信長様の信頼を勝ち得ることに成功したみたい。大事な橋の守備を任されたくらいだしね。そして天正10年(1582)6月2日。京都・本能寺において当初の目的を果たした明智光秀は、すぐさま山岡さんちへ使いを出した。 人質出し明智と同心仕候へそれに対する山岡さんの答えは、 信長公の御恩浅からず中同心申間敷の由候ときっぱり拒絶。唐橋を焼き払って山中へ逃げ込んだという。光秀は驚いた。山岡景隆の弟・景佐は光秀の与力となっている。弟の縁だけじゃなく、吉田兼見の『兼見卿記』にも、景隆さん自身と光秀は親しい関係にあったとの記述があるくらいなので、「え、マジで!?」って感じだったかもしれない。しかし、橋を落とされて手をこまねいてる訳にもいかないので、娘婿の秀満に橋の修復を急ぐよう命じ、3日後に完成した。何もない時に3日で修復を終えたのなら、「よく頑張ったね~。ナデナデ」ってとこだけど、この時は一刻も早く畿内を制圧して、サル・・・いえ、殿下の進軍に万全の態勢を整えておくべき大事な時だった。唐橋の他にも誤算の続いたその後の明智軍と天下の行方については、皆様よくご存知の通りです・・・その18年後。関ヶ原本戦での西軍の敗報を聞いた立花宗茂が大坂へ退去しようとした際、東軍の追手を食い止めるために唐橋を破壊しようとした者がいた。それを見て宗茂は、「この橋を落とした奴が勝った試しって、なくない~?皆が困るだけだしさ~、やめとこうよ」って説得して、壊すのをやめさせたという。あ、あと、戦じゃないけど、武田信玄が遺言で「瀬田の唐橋に我が軍旗を立てよ」って言ったとか言わないとか。上洛、したかったんだねえ・・・こんな感じで、ハンパないくらい歴史がてんこ盛りの場所なので、得意の萌え~もイマイチ焦点を合わせづらいのですが(笑)、やはりここは信長様の世界に浸って・・・しっかしこの橋、やたら焼かれたり外されたり壊されたり、それ以外にも木造だから式年遷宮ばりの定期的な架け替えなんかもあったりして、寛永7年(1630)から文久元年(1861)の間だけで、実に16回も架け替えられたそうな。他の歴史としては、「急がばまわれ」の語源となったことが有名。これは、 もののふの矢橋(やばせ)の船は速けれど 急がば回れ瀬田の長橋という、室町時代の連歌師・宗長の歌が元ネタ。当時、京へ向かうには草津宿と大津宿を結んだ「矢橋の渡し」(海路)を利用した方が近くて早かったけど、比叡山から吹き下ろす風(比叡おろし)のため危険な航路だった。だから、ちょっと遠回りだけど、安全な瀬田の唐橋を通って行こうね って室町時代の歌の言葉が、この平成の世でもふっつ~に使われているところが、楽しくもあり、違和感もあり・・・(笑)。橋を渡りきって右側に降りると、川岸が公園になっている。そこの柵にプリントされてた浮世絵↓。 歌川広重作、近江八景「瀬田夕照」だそうです。う~ん、風情がある・・・あ、あれ?この橋、お船は通過できるのかな・・・まあ、浮世絵はデフォルメが多いから、この絵じゃ参考にはならないか中ノ島の位置から察するに、石山寺あたりから見た設定の絵かな・・・ああ、時間があれば石山寺も行きたかったけど、どう頑張っても無理。瀬田川には、大学のボートクラブみたいな若者達が船漕ぎに汗を流してて、川べりだけやけに賑やか。「このクソ暑いのに、よ~やるわ~。若いの~」と暑さで散々消耗したジジイが心の中でぶつくさ言いながら歩いてった先は、龍王宮秀郷社。 秀郷とは、藤原秀郷(俵藤太)のこと。なんでここに秀郷を祀る神社があるかとゆーと、これも瀬田の唐橋と関係がある。お話によって若干のディテールの相違があるけど、大体こんなとこ。 承平元年(931)から5年までの間、秀郷は大津に住んでいた。 ある時、近江草津へ行こうとして唐橋まで来たら、 角をはやした大きな蛇(?)が橋の上で睨んでた。 「なんだコイツ・・・フン」 と、事もなげにまたいでスタスタ歩きだしたら、突然目の前に一人のジイさんが現れて、 「ワシは龍神じゃ!もう何千年もこの下に住んでおるが、 お前のような度胸のある奴は初めてじゃ~。 ついては、ワシのお願い、聞いてくれんかの?」 と言うので、 「なんだよ、イキナリ・・・まあいいか、話してみろよ」 って快諾したところ、龍神に水の中にある龍宮に連れ込まれて、 酒や御馳走で接待を受けた。 楽しくドンチャンやっていた所、夜中になって急に龍神が 「ホレ、ワシの仇が来たぞ!やっちゃっておくんなせえ!!」 って言うので、 「ホントにイキナリなジイさんだな・・・どいつが仇だって?」 って見てみたら、近江富士と呼ばれる山を7回と半分巻くほどの ばかでかいムカデだった。 しかしそこは剛の者、とりあえず持っていた弓矢を2本打ち込んでみた。 が、当りはするものの、矢が刺さらない。 「アイツはの~、唾を嫌うんじゃよ・・・」 との龍神の教えに従って、矢にぺぺっと唾を塗って射た3本目は ムカデの左目と眉間から喉に突き刺さって、1発で絶命。 「ワ~イ、やった、やったあ~!!お礼にこれ、あげるね」 って狂喜した龍神は、気前よく10コも宝物をくれた。 なんでも、龍神の娘の乙姫様という美しいお姫様がムカデに ストーカーされてて、気が気じゃなかったんだそうな。この宝物については、まだ続きがある。けど、その話はもうちょっと待ってね ↓ランキング参加ちう~。にほんブログ村
2012年06月10日

さて・・・ここから南にもいくつか見たいところはあったんだけど、時間的にもキビシイ。ので、篠津神社の近くの中ノ庄駅から京阪電鉄に乗って唐橋前駅まで。もう今井兼平の墓は諦めた私にはこれが京阪デビューとなる。 唐橋前駅から東に少し歩くと、「唐橋西詰」の交差点があり、その先が「瀬田の唐橋」。 対岸の川岸には、こんな絵が・・・ ちょっと薄くて、わかりづらいかな?大鎧に烏帽子をかぶった武者が、弓を持って川向こうを見てる。ここは数々の戦いの舞台でもあるんだけど、装束からいって木曽殿の寿永の乱あたりをモチーフにしたものかな。最初にこの橋が架けられた年代は定かではないが、かなり古い歴史を持つ。日本三名橋の一つであり、近江八景「瀬田の夕照(せきしょう)」で名高い名橋。瀬田川にかかる橋なので、古くは瀬田橋、勢多橋、瀬田の長橋といい、今よりはもう少し下流にあったという。昭和63年の発掘調査では、現在の唐橋より80mほど下流の川床から7世紀後半のものとされる橋脚の遺構が見つかった。その結果から、当時季節によって起こった大きな水位の変化にも対応できるだけの、かなり大きな橋だったんじゃないかと推測されている。この時の発掘では土器や陶磁器など幅広い年代にわたる遺物も発見されたが、その中には大量の古銭も含まれており、橋を作る際の祭祀で用いられたものではないかと考えられているそうな。さらに、その場所から東西に延びる古道があった可能性が指摘され、その道は古代の官道である東山道かもしれないんだって。で、唐橋を現在の位置に移したのが、信長様。天正3年(1575)、諸国の道路修理を命じ関税を免除するかたわら、瀬田城主・山岡景隆と木村次郎左ヱ右衛門を橋の構築の奉行に任命。琵琶湖西岸の朽木などから木材を調達し、長さ180間(約350m)、幅4間(約7m)の一本橋をわずか3ヶ月という突貫工事で架け替えさせたといわれてる・・・アハハ、せっかちな信長様らしいエピソードじゃ!木村次郎左ヱ右衛門さんは、安土城の普請奉行も務めたお方じゃな。信長様が変えたのは、橋の位置だけじゃない。中洲の中ノ島を挟んで、大小2つの橋のスタイルにしたのもこの時。秀吉が天下人となってからも橋の改修が行われた。ただし、当時は木造の橋だったため、約20年ごとに架け替えられたという。アハハ、式年遷宮だ。現在は鉄筋コンクリート製だが、緩やかな反りだとか擬宝珠などに往時の姿をとどめているという。ここまでは、橋の歴史。ここからは、人の歴史。唐橋のかかる瀬田川は、琵琶湖から流れ出る唯一の河川。東から来て京へ入るには、瀬田川を渡るか、琵琶湖を渡るしかなかった。「木之本~高島~坂本ってたどって、時計と反対回りに琵琶湖沿いに行けばいいじゃん」なんてヘソ曲がりさんはいないと思うけど、そういった場所柄、 唐橋を制するものは天下を制すとまで言われるほどの、交通の要衝だった。大事な場所は、時として当然争奪の的にもなり、悲しい伝説も残す。まずは4世紀、神話の時代。応神天皇の異母兄・忍熊王(おしくまおう)による謀反が起こる。「赤間ヶ関編(31)」で神功皇后にちょっと出演頂きましたが、三韓征伐から帰って筑紫で応神天皇を出産したばかりの皇后を、皇位継承を巡って忍熊王たちが迎え討とうとした。が、武内宿禰(たけうちのすくね)に逢坂で敗れる。この時、王と宿禰がばったり逢ったことから「逢坂」の地名が生まれたとか、冗談みたいな話も残ってるけど・・・で、忍熊王は瀬田川に投身。遺体は数日後に菟道(うじ)河から発見されたという。今度は壬申の乱(672年)。大津宮にいた大友皇子を、関ヶ原近くの不破関にいた大海人皇子が攻めた。この時、大友皇子は瀬田橋の西に陣を置き、橋の踏み板を外して、渡ろうとする敵があればその板を引いて敵を瀬田川に落としたという。その後は藤原仲麻呂の乱(764年)。藤原仲麻呂(恵美押勝)VS.孝謙天皇・弓削道鏡のバトルでも、唐橋が登場する。仲麻呂が奈良街道から近江に入り、唐橋を渡って東国へ落ち延びようとしたところ、先読みした吉備真備が橋を焼いてしまった。予定が狂った仲麻呂は、その後もしばらく頑張るが、結局近江高島で敗死する。平安時代に入って落ち着いたかといえばその反対で、相変わらずしょっちゅう戦火にかかっては、朝廷から毎年のように修理業者が遣わされたそうな。そしてその平安のラストは、木曽殿の寿永の乱(1183年)。木曽殿と今井兼平の最期は「大津編(3)」に書きましたが、この時は兼平が橋の西に陣取って、唐橋を破壊して範頼・義経兄弟の進軍を阻んだ。これにより、範頼は下流から渡ることを余議なくされる。戦いの歴史はまだある。今度は1221年、承久の乱。後鳥羽上皇VS.鎌倉幕府のこの戦いでは、京方の山田重忠が唐橋の橋板を外して、宇治と瀬田でラストバトルが繰り広げられた。その次は、1336年、建武の戦い。東から攻め寄せる足利尊氏に対し、名和長年ら3,000の兵が瀬田川の西に陣取り、また橋板を外した。・・・とまあ、戦国時代以前で主だったものだけでもこれだけある。古代には今より下流にあったけど、中世の頃には、今より少し上流にあったみたい。その頃は藤ヅルで絡めていたので、「搦橋(からみばし)」とも、あるいは柳のように流麗なフォルムから「青柳橋」とも呼ばれていたそうな。にほんブログ村
2012年06月09日

戸田一西さんの子の代からは、しばし藩主はめまぐるしく変わる。 戸田氏鉄(一西の子。摂津国尼崎藩に転封) 本多康俊(三河国西尾藩より入城) 本多俊次(康俊の子。三河国西尾藩へ転封) 菅沼定芳(伊勢国長島藩より入城。のち丹波国亀山藩に転封) 石川忠総(大久保忠隣の次男。下総国佐倉藩より入城) 石川憲之(忠総の子。伊勢国亀山藩に転封)この後は本多俊次さんが返り咲いて、以後はずっと本多氏が藩主を務めた。交通の要衝である瀬田の唐橋と、琵琶湖の湖上水運を押さえたこの城は、始めから終わりまで譜代の城だった。最大の石高は7万石。井伊家彦根藩・酒井家小浜藩に次ぐ畿内での譜代の大藩といわれる。本多俊次の時代、寛文2年(1662)に「近江・若狭地震(寛文近江地震)」が起こった。この地震は、北近畿地方における史上最大級の地震だったそうで、膳所城も建物が倒壊するなどの被害を受けた。幕府に俊次さんが提出した『膳所城修復願ヶ所絵図 』の覚書を見ると、字が読めなかったり欠けてたりして被害の全容はつかめないけど、崩れただの傾いただのの言葉がいっぱい書き込んである。それによると、天守は傾き、本丸と二の丸にある櫓のほとんどは倒壊して琵琶湖の湖底へと消えていった。石垣の破損もひどかったみたい。で、この地震を機に城は大幅にリフォームされた。したがって、幕府に提出された正保年間(1644-1668)の絵図と、改築後のそれとでは、縄張りがだいぶ違っている。高虎の初期のデザインは、陸地から東にまず二の丸、さらにその東に本丸がそれぞれ独立した島としてあり、それらを橋でつないでいた。が、改築後は本丸・出丸・二の丸を一緒にして本丸とし、元の三の丸を二の丸に改めた。膳所城に関するブログやホームページなどでは、高虎の縄張りを紹介してるものの方が多いみたいだね。日本三大湖城の一つに数えられ、さらに大津城・坂本城・瀬田城と並ぶ「琵琶湖の浮城」の一つであったこの名城も、廃城令により取り壊され、現在では埋め立てられて陸続きとなった本丸が公園として存在するのみ・・・ 公園内はこんな風に石垣風な演出なんかもあるけど、建築物の遺構は一切ない。 湖岸にはわずかに石垣が残るが、なんかその辺の写真が全然ないわ暑くてフラフラしてたせいもあるけど、まだこの頃は旅日記の公開は具体的に考えてなかったからね。いずれ、まとまったら・・・と思ってはいたけど、まだまだ先の予定だったので、写真を資料として撮ってない。ひたすら、興味のおもむくまま、体力と気分で漫然と写真を撮っていた。ので、特にこの時の旅では大事な写真がずっぽり抜けてたりして、自分でも結構びっくり(笑)。かと思うと、こんな写真なんかあるし。 ・・・これ、公園内にあったゴミ箱のデザインなの(笑)。なんてオシャレなゴミ箱なんだ~!と思って、のろのろと写真を撮った覚えがある。でも疲れてるから写真曲がってるし石垣が琵琶湖の波に洗われるさまは実に美しかったようだけど、現実はそう甘くない。年を経るごとに波による浸食で石垣の崩落が相次ぎ、藩の財政を圧迫したなんて話もある。さて、幕末の膳所は、徳川14代将軍・家茂の暗殺を図ったとして藩士11名が処刑されるなど、急進派に傾いていた。そういった内部事情から、膳所藩は他藩に先がけて版籍奉還を願い出て、廃城の太政官布告が出された翌日には、早くも天守以下の建物の解体・移築が行われたという。ただ、廃藩を急いだのは、前述の相次ぐ石垣の補修で財政がパンク寸前だったからなんて噂もあるみたいだけど、どうなんでしょう。膳所城跡公園を出て、再び南下。つぎは篠津(しのづ)神社(場所はこちら)。 【大津中庄鎮座 篠津神社 当社は古くは午頭天王と称し、膳所中庄の土産神です。創建は詳でないが康正2年の 棟札が現存している処から見ても、室町時代には己に鎮座になっていた。 大津圓満院門跡常尊法親王や、覚淳親王、有栖川宮家の御尊崇高く鳥居や額等種々 寄進されている。 膳所城主戸田、菅沼、石川諸氏並びに本多家の崇敬長く続き社領22石の外、 社殿の修復も本多家で時々行われた。現在重要文化財に指定されている表門は 膳所城北大手門で、旧藩主の信仰をしのぶよすがとなっている。 明治4年篠津神社と改称、旧社格は県社であった。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)で、これがその移築門。 【重要文化財 建造物 篠津神社表門 一棟 この表門は、旧膳所城の北大手門として建てられたもので、明治3年(1870)の 膳所城取り壊しの際に篠津神社に移され、翌々年に建てなおされたものです。 門は高麗門形式で屋根は本瓦葺となっており、旧膳所城主本多氏の立葵紋が みられます。扉は内開きで、竪格子、腰部横板張りとなっており、脇門を付けて います。 この高麗門という形式は、背面に特色があって、正面の主体部から両方に袖のように 直角に屋根が出ているものをいい、この形式は城門にも多く用いられています。 この門も桃山時代の城門の一つで、大正13年4月に国の指定文化財になりました。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)この門は、解体修理の際に、貞享4年(1687)に再建された北大手門だと判明した経緯がある。拝殿も立派。現在の社殿は本多俊次の時代、万治4年(1661)の造営とのこと。 ・・・が、参拝しようとして賽銭箱の紋に目がいった。 アレ、織田木瓜・・・?蔵にも、同じ木瓜紋があった。 木瓜紋は多いけど、五瓜って・・・帰って調べたら、八坂神社なんかも五瓜だっていうし、ここの神紋ってことなのかな。ここには、こんな貼り紙があった。 アハハハ・・・笑っちゃいけないけど、維持管理も大変だよな~。ここは住宅地の中にあるから、子供達が遊びに来るんでしょうね。※「大津編(5)」へと続きます。にほんブログ村
2012年06月08日

膳所神社は古いだけあって、立派な神社。・・・が、もう16:00回ってるし、ウルトラマンの体内電池ももう残り少ないので、お目当てだけさらっと見た。で、こちらが膳所城からの移築門で、現在は神社の南門としてある門。 表側からの写真がないけど、まあいいか。前回「膳所城(2)」の表門と比較してみて下さい。同じ内側からの写真でも、構造が違うでしょ?こちらは高麗門形式といいます。薬医門は屋根が大きい分、死角もあって敵に盾として利用されてしまうなどの欠点があった。その欠点を改良してできたのが、高麗門。内側の控柱の上に、本体とは別の小さい屋根をかけて、その分本体の屋根を小さくした。これにより見通しが格段によくなり、敵兵が門の中に隠れることができなくなった。文禄・慶長の役の頃に開発され、その後急速に普及していったという。あとは、北門も移築門なんだけど・・・アラ、ここも写真がないわ~北門も薬医門なんだけど、表門とはまた少し違ってて、格について説明するのにちょうどよかったのにな~。ま、ないものは仕方ない(←開き直り)。表門は初め、本丸と出丸の間の門として使われ、膳所城の改築後には二の丸の入り口の門としてあったそうな。北門は、本丸土橋の門。南門は、ちょっとわからない。膳所城築城の際には、大津城から門などを移築したといわれているので、そのうちのどれかが大津城の遺構だったらいいな~とか思うけど、移築の際に棟札とか見つかっていないのなら、現存する移築門たちは膳所のオリジナルブランドってことで確定なのかな・・・ちなみに、ここの南門は近年建て替えられたとのこと。膳所神社を出て、いよいよ膳所城跡へ。現在は城跡公園となってるんだけど、その手前にはまた現代城郭が建っていた(写真、撮らなかったみたい・・・) ここの交差点は「本丸町」。正面には大手門と堀が復元されている。 復元っていっても色々あるけど、この門は模擬らしい。けど、なかなかどうして、本瓦葺の立派な高麗門ですよ。細かな意匠などで格を高めてて、表門としてはグッド この門には、あちこちに本多立葵がいっぱい。 立葵っつっても、ちょうど今の時期咲きだすタチアオイとは別物だからね(笑)。膳所城主を長く務めた本多氏の紋です。さて、膳所城は関ヶ原の合戦の翌年、大津城を廃していわゆる天下普請の第1号として築かせた城。縄張りは藤堂高虎。築城には8人の奉行があたったといわれる。大津城の戦いで大津城は落ちなかったけど、守りの弱さを露呈した。新たな城の選定にあたっては、「ねえねえ、正信う~。ここの押さえはどうしよっか・・・逢坂の関を復活させる?それとも、大津城を建て直す~?」って家康の下問に対して、参謀の本多正信は「ちょ・・・そりゃマズイっしょ~!ちょっと待ってください、ワタシが考えますから」と答え、まずは瀬田の城跡・大江の窪江城跡・膳所崎(ぜぜがさき)の3ヶ所をピックアップ。これらの候補地にのぼりを立てて、地勢を判断した結果、膳所崎が最適であると進言したという話があるそうな。そうしてできた膳所城は、二の丸と本丸が湖上に突き出し、天守は4層4階。天守石垣が常に琵琶湖の小波に洗われる美しい景観は、東海道の名勝として屏風や絵図などにも描かれ、 瀬田の唐橋 唐金擬宝珠(からかねぎぼし) 水に映るは膳所の城と謳われたという。最初の城主は大津城最後の城主・戸田一西(かずあき)。ここまでで何度か名前だけは出てきてます。戸田っつっても、関ヶ原の本戦で大谷隊に属して散った戸田重政(勝成)君とは全く別口で(当たり前か)、一西さんの方は三河の譜代。一西さんは関ヶ原では秀忠に従って、上田城攻めに参加した。参加はしたけど、上田城に固執する秀忠に対して唯一反対を唱えたという。結果的に秀忠は家康に怒られ、一西さんは家康に褒められた。そしてその後、3万石を与えられ、膳所藩を立藩。初代膳所藩主となった一西さんが乗り出した事業のひとつが、しじみ。ええ、貝のしじみです。膳所城からもう少し南に行くと、琵琶湖から唯一流れ出る河川である瀬田川がある。この瀬田川にも元々しじみはいるにはいたんだけど、殻が黒くて時雨煮向き。お吸い物には向かなかったという。現代で売ってるしじみって、黒くなかったっけ?普通に味噌汁にして食べてるけど・・・とか思っちゃうんだけど、昔は色的に好まれなかったのかもしれない。ともかく一西さんは、しじみを使って村おこし・・・いえ、藩の経済基盤のひとつにしようと頑張った。まずは、一西さんの前任地・武蔵からベニシジミの種シジミを運んで・・・と思ったら、のっけからつまづいた。今と違って、陸路でしじみを運ぶってのは、当時は相当大変なことだったらしい。種となるしじみですからね、当然生きててくれないと役に立たない。輸送の途中でほとんどが死に絶えるといったトラブルを繰り返しながら、ついに一西さんはその困難を乗り越え、種を瀬田川へと放流した。これが成長して膳所はしじみの宝庫となり、新しい膳所の名物は一西さんの通称である「左門」の名を取って「左門しじみ」と呼ばれたそうな。なんでも、戦前までは京都に一泊すると朝食には必ずしじみ汁が出るということで「左門しじみ」が有名になったんだって。↓ランキング参加ちう~。一西さんの努力に敬意を表して、「ぽち」をお願いします(笑)。 にほんブログ村
2012年06月07日

で、墓地へ。ここには歴代藩主の墓の他、戸田一西(かずあき)の墓もある。・・・が、案内板などはなく、いくつか玉垣のある立派そうな墓がそれっぽいというのはわかるんだけど、いまひとつ特定できない。↓こんな感じのがいくつも並んでる。 墓の前に、小さな碑もあるんだけど、磨耗してて読めないし。あ、でも、戸田君の墓だけは確かわかったような気がする。写真がないけど実は、ここでの一番のお目当ては、本多俊次(本多氏膳所藩の2代目)の墓だったんだ。なんでか?俊次さんは、今井兼平がすごく好きだったみたいでねえ~。その当時、兼平の墓は墨黒谷という所に粗末な塚があるだけだったのを、俊次さんが墓石を建立したらしいんだな。さらにその子の代になって、東海道にほど近い現在地(石山駅の近く)に墓が移されたんだと。そんな訳で、俊次さんの墓のかたわらには、兼平の法号を刻んだ小さな墓があるってことだったので。俊次さん、どんだけ兼平好きやねん!って感じだけど、今日のこの調子だと兼平の墓へ行けるかどうかも危ぶまれたので、せめてここは見ておきたかった・・・が、残念ながらわからなかった。根性入れて探したいのはヤマヤマだったけど、暑さでヘロヘロだったし、墓地にはつきもののカラスさんが近くの塀に留まっててガーガーうるさかったので、ちょっと長居するのがはばかられたんだよね(笑)。さて、縁心寺の向かいは県立膳所高校。上の写真にも奥の方に写ってます。ここはかつて、膳所の藩校・遵義堂(じゅんぎどう)のあった場所。遵義堂のできる前は、侍屋敷が建ち並んでた。・・・なんですが、それだけじゃない。平成14年の夏、高校の改築にともなう膳所の城下町遺跡の発掘調査において、奈良時代の大型の建物跡が発見された。そもそもの発掘が遵義堂と周辺の武家屋敷の遺構の確認を主眼に置いていたので、この新たな発見は調査にあたった担当者をも驚かせたという。 見つかったのは、奈良時代の掘立柱建物3棟。8世紀前半のものが1つ、あと2つは8世紀後半のものでいずれも奈良時代。このうちいちばん大きな8世紀前半の建物は、宮殿クラスだという。 で、これが聖武天皇の行幸の際の禾津頓宮(あわづとんぐう)の跡じゃないかと推測されている。頓宮とは、仮の宮のこと。「禾津」は「あわづ」と読むから、現在の大津市粟津じゃないかと推定されてきたが、具体的な場所についてはわかっていなかった。しかし、この時の発掘を機に、これが頓宮の正殿じゃなかろーかと今では考えられているとのこと。こんな風に、ひとつの場所で複数の歴史を秘めているのが、滋賀のすごいとこ。1粒で2度おいしいグリコどころの話じゃない。この時の発掘と禾津頓宮について知りたい方は、「現説公開サイト」様のページへどうぞ(リンクはこちら)。簡潔に、わかりやすく説明が書いてあります。縁心寺の正面の道をまっつぐ南下すると、そこが膳所城中大手門跡(場所はこちら)。 この交差点にあるローソンで冷たい飲み物を補充してから、膳所神社へ。普段なら経費節約で500mlとかの大きめのペットボトルとかを買うんだけど、なにより体を冷やすことが大事なので、冷たさを持続させるために小さめのものを買って、少し飲んでは脇の下に挟んだり、頸動脈にあてたり・・・。そういえば、去年の真夏の岐阜でも小さいのを何本も買っては、同じようなことしてたなあ(笑)。でも、ここまで来たらせめて膳所城跡までは行きたい。まあ、今から考えるとムチャしたなあって思うけど 【膳所神社 社伝によると天智天皇が大津の宮に遷都の際、この地を御厨所と定められた。 天武天皇6年に大和の国から御食津神を奉遷して、大膳職の御厨神とされた。 慶長年間に至り大政所、豊臣秀頼、徳川家康などが当社を厚く尊信されて 種々の神器の寄進があり、東山天皇は膳所大明神の宣下をされました。 また、慶長6年膳所城創始以来、歴代の藩主本多候は崇敬が厚く、社領の寄進や 社殿の造営が、たびたび行われました。 現在の当社表門は、旧膳所城の城門で重要文化財に指定されています。】 (現地解説板より原文のまま、漢数字は戦国ジジイが変換) その表門がこちら。 これは裏から。 【膳所神社表門 一棟 この表門は、旧膳所城の二の丸より本丸への入り口にあった城門で、明治3年(1870) の膳所城取り壊しの際に移築されました。 門は、棟筋と扉筋とが同一の垂直面にない薬医門で城門として多く用いられています。 屋根瓦には旧膳所城主本多氏の立葵紋がみられ、桃山時代の建築として貴重な ものです。 脇には潜り戸を付け、頑丈な造りで、城門としての貫録を持っています。】この説明だとピンとこないかもしれないけど、薬医門ってのは大ざっぱにいって、鏡柱(正面側の軸になる太い柱)と控柱(内側に建てる支えの柱)をごっそりカバーする大きなお屋根の門だと思ってください。城郭建築に用いられる門は8種類に分けられ、そのうち最も格が高いのが櫓門。厳重で防備にも優れており、また天守に準じる格を持つ櫓門が城内の主要な門として用いられた。櫓門は2階建て。残る7種類はすべて平屋建ての門で、このうち、最も古い歴史を持ち、かつ最も格式が高かったのが薬医門。次で出てくる別の移築門と比較してもらうと、構造の違いがよくわかるかと思います。派手好きな人にはちょっと地味に見えるかもしれないけど、やっぱり薬医門は重厚感がある。にほんブログ村
2012年06月06日

膳所城<大津市丸の内町・本丸町>(住所をクリックするとMapfanにリンクします)※「大津編(4)」の続きです。コメダを出て、一旦義仲寺の前へ戻る。寺の前の道は、旧東海道。ここから東海道を道なりに、東南にある城跡を目指す。まず現れるのが、膳所城北総門跡の碑(たぶんこのへん)。 総門とは、街道が城下町に入る場所に設けられた門。城内側から見れば、城下町の先っぽってことになる。当然、日の出とともに開けられ、日の入りとともに閉まる。この碑のすぐ先はこんな風にクランクになっていて、城下町の名残を今にとどめている。 今ひとつ判然としないけど、膳所城の絵図を見ると、もしかしたらここは堀にかかる橋だったかもしれない。さらに東に歩いてくと、石座(いわい)神社といって、天智天皇と伊賀宅子媛の夫婦、さらにその子の大友皇子(弘文天皇)を祀っている神社がある。できれば寄りたかったけど、体調に余裕がないので今回は無理。で、次に来たのが和田神社(場所はこちら)。 裏からはこんな。 おおう、美しい・・・この門は、膳所藩校の遵義堂(じゅんぎどう)の表門を移築したものと伝えられている。和田神社のホームページによると、創建は白鳳4年、斉明天皇、天智天皇、天武天皇のいずれかの御世という。創建の年がわかってるのに、なんで時の帝が特定できないんだ?と思ったら、白鳳ってのは日本書紀に現れない「私年号」というもので、正式な暦に換算した場合、諸説あるらしい。寺社の縁起とか、地方史などにそーゆー年号がいくつかあるんだって。へえ~、知らなかったなあ。当初から和田神社という名称ではなく、八大龍王社や正霊天王社と名称が変わり、明治維新の頃に膳所藩主の命により、和田神社になったといわれている。境内はこんな。 神楽殿の奥に本殿があって、すごく立派なものだったんだけど、アラ写真がないわ・・・(笑)ここの本殿、重文なのにいや、また暑さでフラフラしてましたんでね、お目当て以外はほとんど写真を撮ってない。この時も、本殿に参拝した後、境内の隅っちょの日陰でしばらく腰を下ろして休んでたんだよな。そのうち、女性2人がやって来たので、「あ~、あれも歴女かあ~?」とか思いながら、見栄を張って腰を上げた。あ、私は歴女じゃありませんのでね、誤解のなきよう。この境内には、もうひとつお目当てがある。それがこれ。 【大津市指定文化財 天然記念物 和田神社のいちょう一株 このいちょう(公孫樹)は滋賀県下において他に例をみないほどの巨木で、 樹高約24メートル、目通り周囲約4.4メートルあります。 樹齢はおよそ約600年を経ていると推定され、多数の気根(きこん・地上の幹から出て 空気中に露出した根)を垂れています。樹勢もすこぶる盛んで枝葉が密生し、 樹形も均整のよくとれた美しい姿を保つなど貴重な名木です。 また、このいちょうは和田神社の神木として、さらに琵琶湖上から和田の浜の目標樹と なっていたと思われます。石田三成が関ヶ原合戦後、捕われて京へ護送される途中、 休止の際につながれた樹でもあると伝わっています。 昭和51年12月に大津市保護樹木に、昭和53年2月に大津市の指定文化財となりました。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)関ヶ原の本戦で西軍が総崩れとなった後の、三成の逃亡ルートや捕縛された場所などについては諸説ある。が、ひとまず9/21 捕縛9/24 田中吉政に連れられ中山道を辿り9/25 家康のいる大津陣営に入るといった行程だったよう。なので、このイチョウの木に繋がれたのは9/24か9/25あたりの出来事って事になるかな。捕縛の原因になったのはひどい下痢だったと広く言われているけど、田中吉政は三成クンを丁寧に扱ったらしい。御馳走でもてなそうとした吉政に対し、「ほら、ボク下痢してるから。ニラ雑炊がいいな」とおねだりをして、その後は大胆にもいびきをかいてぐっすり寝たなんて話もある。また、この護送中に形見にと田中吉政に正宗の脇差を渡したという。この和田神社から大津城までは、歩いて3~40分くらいかな?だから、目的地のすぐ近くまで来てるのに、こんなとこで休憩するかな~とか、仮に小休止だったとしても、丁重に扱ったって言われてるのに、わざわざ木につなぐかな~とか色々現実的な疑問が湧いてくるんだけど、もし寄らなかったにしても、高層建築がない当時のことだから、通過する際には三成クンもこのイチョウの木を目にしたかもしれない。って、暑さでハアハアしながらしばし三成萌え~(←いちおう三成ファン)に浸って、次の場所へ。今度は縁心寺(場所はこちら)。ここには移築門とかはないんだけど、膳所藩主本多氏の菩提寺なのだ。元は慶長7年(1602)本多康俊が父・忠次のために三河国西尾に建てた寺で、康俊の膳所への移封に伴ってこの地にやってきたというお寺。本多康俊の名は知らなくても、三河で忠次といえば「ん?」って思う方もおられるでしょう。はい、その通りです。康俊さんは、徳川四天王・酒井忠次の次男坊なんですな。母は松平清康の娘なので、徳川家康のいとこにあたる。この人は、織田家の人質として過ごした後、天正8年(1580)に本多忠次の養子となった経歴を持つ。本多さんちは多くてわかりづらいけど、平八郎忠勝の5代前で分かれた家系。だけど、忠勝よりは作左衛門重次の方がより血が近い。関ヶ原での戦功により、三河西尾に2万石を与えられる。その間に縁心寺を建てた・・・んだけど、よく考えたら実父も養父も同じ忠次じゃん・・・どっちだよ、オイ!!って言いたくなるけど、三河には現在も縁心寺があるらしく、そこの解説では酒井忠次のために、となってる。しかし、大津市の歴史博物館様のサイトを見ると、寺の創建は膳所初代藩主の戸田一西(かずあき)となっていて、元は栄泉寺といったらしいので、本多康俊が膳所に引っ越してから縁心寺を移したってことになるのかな。康俊は大坂冬の陣では膳所城を守備し、夏の陣でも頑張ったので3万石に加増の上、膳所に移封された。現在の縁心寺は、何も知らなければ普通に通り過ぎてしまうようなお寺さんだけど、ひっそりとすごい歴史を持ってるんだなあ・・・ちなみに、前述の大津市歴史博物館様のサイトには、 【もと栄泉寺といい、瓦寺とも通称された。 当時、膳所や大津には瓦葺の寺院がなかったなかで、唯一同寺が 瓦葺であったからという。】とも書いてある。瓦葺が、ない・・・?ホントかな(笑)。にほんブログ村
2012年06月05日

義仲寺の境内はこんな。そう広くはない。 何はともあれ、まずは木曽殿の墓へ・・・ このすぐ隣に、芭蕉おじさんの墓がある。 おじさんは51歳で大坂で亡くなった。結構若かったんだね。そういえば、以前、大阪・天王寺の淀殿ゆかりのお寺の近くで、通りすがりの親切なおじさんが芭蕉おじさんの事を色々解説してくれたっけ・・・実はその人は観光ガイドも務める人で、付近の歴史にやたら詳しかったんだけど、とにかく話がエンドレスで(笑)、あんまりその時は芭蕉おじさんに特別な興味もなかったんで、聞いてる時は「へえ~」って感心したけど、結局よく覚えてない。ちゃんと書き留めておけばよかったな~。10月12日の夕方に亡くなって、遺言に従いその日の夜に門人が遺骸を川船に乗せて淀川経由で伏見に入り、翌13日の午後、義仲寺に入った。14日に葬儀、その深夜にここに埋葬したという。昔にしちゃ、えらい早いスケジュールじゃない・・?(笑)芭蕉おじさんは随分木曽殿のことが好きだったらしくて、最初にここを訪れたのは、「奥の細道」の旅から帰った1689年だと言われている。その後はちょこちょこやって来て、宿舎としていたそうな。芭蕉おじさんが訪問した当時のここはどんな感じだったのか・・・前回「大津編(3)」で掲載した解説文は、入口にあった大津市教育委員会によるもの。室町時代末に六角氏が建立した、となっている。が、義仲寺でもらった縁起には、違うことが書いてある。一部抜粋させていただくと、 【その後、年あって、見目麗しい尼僧が、この公の御墓所のほとりに草庵を結び、 日々の供養ねんごろであった。里人がいぶかって問うと、「われは名もなき女性(にょしょう) と答えるのみである。この尼こそ、義仲公の側室巴御前の後身であった。 尼の没後、この庵は「無名庵」ととなえられ、あるいは巴寺といい、木曽塚、木曽寺、 また義仲寺とも呼ばれたことは、すでに鎌倉時代後期弘安ごろの文書にみられる。 時代は移り、戦国のころには、当寺も大いに荒廃した。時に近江国守佐々木候は、石山寺 参詣の途次、この地を見て、「源家大将軍の御墳墓荒るるにまかすべからず」と、 当寺を再建し寺領を進めた。そのころ当寺は石山寺に、近世に至って三井寺に属した。】とある。どの六角さんかはわからないけど、まあ定頼か義賢あたりでしょうかね。なので、少なくとも室町末には寺は存在していたものの、江戸時代中頃までは、木曽殿の塚と伝えられる塚に根を下ろした柿の木があるだけの小さなわびしいものだったみたい。木曽殿の死後、400年近くもその塚と伝えられるものが残ってたってのもすごいと思うけど、非業の死を遂げた訳だし、禁忌扱いされてたんでしょうね。ちなみに、今井兼平の墓はここから少し離れたところにあります。どうせなら、一緒に葬ってやれば良かったのに・・・兼平んとこは、この後で行く予定。さて、境内には巴の塚もあります。 【巴塚 木曽義仲の愛妾 巴は義仲と共に討死の覚悟で此処粟津野に来たが、 義仲が強いての言葉に最後の戦を行い敵将恩田八郎を討ち取り、涙ながらに 落ち延びた後、鎌倉幕府に捕えられた。 和田義盛の妻となり義盛戦死のあとは尼僧となり、各地を廻り当地に暫く止まり、 亡き義仲の菩提を弔っていたという。 それより何処ともなく立ち去り、信州木曽で92歳で生涯を閉じたと云う。】う~ん・・・わかってない事に解説を加えるのって、難しいことだとは思うんだけどね、なんか、こう書いていいのかな~って正直思っちゃうんだけど・・・巴といえば、”美しく男勝りで武芸にも優れ、戦場では常に義仲に付き従った”ってイメージが一般的だと思うけど、実のところ、巴についてはほっとんどわかってない。「今井兼平の妹であり、義仲の妻」としているのは『源平盛衰記』のみで、その出自もはっきりしていない。学研の『源平合戦人物伝』には、巴についてこんな風に書かれている。 【巴を讃える「美女」とは便女(びんじょ)=下女。本来は雑仕女、炊事婦の意味であり、 それが、容姿の「美女」に意味が転化していったものである。(中略) 巴は実在こそしていたが、我々がイメージする、戦働きをするような颯爽とした 女武者ではない。便女として義仲の身の回りの世話をしているうちに その惣明さを買われ、常に傍らに侍っていたというのが、実情に近いようである。】私は、こっちの説を支持するけどね~。戦場に出た女性がいなかった訳じゃないし、武芸の嗜み程度はあったかもしれないけど、現在もっともらしく言われている数々の勇ましいエピソードは、やっぱり後世の脚色が一人歩きした結果のような気がする。他に、境内には山吹御前の供養塚もある。 山吹さんも木曽殿の愛妾と言われてますが、こちらも便女だったかもしれない。巴と同じく、実在の人物ではあるものの、謎の多い女性。この人については、また後で触れる機会がありますので、今はこれまで・・・。境内の奥の方には、芭蕉おじさんにちなんで沢山の句碑がある。それらをぼんやり見てから、「史料観」へ。中には色んなものがあったけど、私の目を引いたのは、古い絵図。だだっ広くて何もないところに、柿の木がぽつんと描かれてる。実際は、長い間こんな感じだったんだろうな~。今でこそ、これまで「悪」とされてきた人達の再評価の風潮が高まってるけど、それもごく最近のことだもんねえ・・・それから、芭蕉おじさんの旅の友、杖が展示されてた。私は暑さでモーローとしてたけど、友達がはっきり覚えてるから間違いない(笑)。友達が史料観で買い物してる間、私は外にある床几に腰かけてぐったり・・・ここもかんかん陽が照りつけてるし、も~耐えられない、この暑さ出てきた友達が渡してくれたのは、お守りだった。 巴の勝ち守りだよ・・・(笑)一般に先行するイメージには疑問を抱いていても、なんだか巴の勝ち守りとゆーとすごく御利益がありそうに見えてくるから不思議・・・さて、友達は夕方から仕事があるので、義仲寺の前でお別れ。忙しいのに、付き合ってくれてありがとうで、そのまま東へ歩いてくはずだったが、あまりの暑さに近くのコメダ珈琲でちょっと休憩することにした。去年は滋賀・岐阜・滋賀・岐阜・・・と東海~近畿ばっかり来てて、コメダもあちこちで見てたけど、入ったことはなかった。関東や東北の人にはあんまり馴染みがないと思うけど、ドトールとかプロントとかみたいなお店だと思って下さい。義仲寺近くのコメダは、親切にも喫煙席があったので、普段ならまず頼まない大容量のアイスコーヒーを注文して席に着く。この2011年の夏は、震災で関東・東北では節電の嵐が吹き荒れてるのに、「節電ってなんですか~!?」ってくらいにガンガン冷房がきいてる。しばし、ここでクールダウンをば・・・ぐったりして座り込んでたら、モーローとした目に震えてる自分の手が映った。冷房のせいじゃない・・・なんてこった、こんなになるまで体に暑さが溜まってたのか~!!さすがにヤバイと思ったものの、まだ14:30だし、ここでホテルに戻るなんてあり得ないんだけど~!!店内はハンパなく冷房がきいてたので、とりあえずしばらくここで様子を見よう・・・と体が落ち着くまでコメダで休憩した。しばらくしてから、どうにか暑さも治まってきたので、ひとまず無理はしないように自分に言い聞かせながらのろのろと行動再開。※「膳所城」へと続きます。にほんブログ村
2012年06月04日

※「大津城」からの続きです。 琵琶湖を眺めながら、お昼。すんごい晴れてるでしょ~?暑かったんだよ、マジででも、去年2010年の岐阜の猛暑の中を1日中歩き通した経験があったので、まあ何とかなるだろうと思ってた。登山をしてた頃、熱中症についても独学で勉強して、それなりの知識はあったしね。腹ごしらえの後で、なぎさ通りを歩き出す。次のお目当てはこれ(場所はこのへん)。 ・・・ちょっと、フェンスの位置とゆーか、石碑の置く場所を考えて欲しかったよな。フェンスがジャマで、写真が綺麗に撮れないんだけど 【明智左馬之助 湖水渡りのところ 天正10年(1582)6月2日、明智光秀は主君織田信長を本能寺に攻めて自害させ、 天下を奪ったが、山崎の合戦で秀吉に敗れ、その野望は消え失せた。 光秀の弟左馬之助光春は、信長の居城安土城を攻めていたが、兄の死を聞いて急ぎ 坂本城へ引き返す途中打出浜より路を湖水に求め愛馬にまたがりびわ湖を渡り 坂本に帰った。 しかし時すでに遅く秀吉の軍勢に囲まれ、6月14日、光秀の妻女らとともに、城と 命運をともにした。 湖水渡りの勇姿は、今も講談などで語りつがれている。】 (現地解説板より)解説では光秀の弟・明智光春とあるけど、左馬之助っつったら、光秀の娘婿の明智秀満のことだと思うんだけどね。本能寺の変が6月2日、秀吉と明智軍が戦った山崎の合戦が6月13日。その深夜に光秀は京都山科の小栗栖で、あえない最期を遂げたとされている。秀満が安土城を出立したのは、この訃報を受け取ったからとも山崎の合戦の後詰としての出陣だったともいわれる。いずれにせよ、秀満は安土から陸路で西へ向かい、まず瀬田で山岡氏の妨害を受けたと思われる。大津に入った秀満を待ち受けていたのが、堀秀政。そしてここら一帯の打出浜が戦場となった。激戦の末、多くの兵を失った秀満が、馬にまたがって琵琶湖に乗り入れたという伝説があるのが、この場所。それで、秀満を乗せた馬が頑張って泳いでった先が唐崎のこのへん(現在のびわ湖大津館あたり)だって言われてるんだけどね。結構、遠いよ?ええええ~っっ!!って感じなんだけどしかしこれが全くのフィクションだったとして、なんでそんな話が生まれたものか・・・で、なんとか逃げ切って坂本城まで辿り着いた秀満さんのその後については、坂本城のところでいずれ書こうかな。さて、この打出の浜は、実は他の歴史もあわせ持つんです。旭将軍・木曽義仲が入京後に人望を失って滅ぼされたのは多くの人が知っていると思いますが、その最期の地がこの辺りなんですな。寿永3年(1184)1月19日、木曽殿の乳兄弟である今井兼平は源範頼・義経らの進軍を阻むため、800ほどの兵を率いて瀬田へと出陣する。翌日から合戦が始まるが、戦力の差は如何ともし難く、兼平軍は敗走する。一方の木曽殿も各地での敗報を聞きつけて出陣。義仲は兼平を、兼平は義仲を案じてそれぞれがお互いを探し求め、ようやく再び巡り合えたのがここ打出浜といわれる。木曽殿と兼平は、兄弟以上の乳兄弟なんていわれるくらい、深い主従関係を築いていた。この2人の最期は、美しい主従愛で彩られ、それだけになお一層物悲しい・・・この場面は涙が出ますよ、ホントそんな数々の悲しい歴史を秘めた打出浜には、現在ではこんな現代城郭が建つ。 滋賀県立琵琶湖文化館。三層五階の構造で、天下を目指す武将達が活躍した近江の象徴としてデザインされたらしい。ここはなかなかのお品を収蔵してるみたいなんだけど、残念ながら現在は休館中(2011年7月現在)。収蔵品たちは、今頃どうしているのだろうか・・・ここからなぎさ通りを道なりに東南へ。優秀な日傘を差してる上に、なるべく日陰を選んで歩くけど、マジで暑い。日傘もささずに帽子をかぶるだけの友達は、元気に日なたを歩いてるので、日陰に呼び込みつつ、次のスポットへ。暑さでヘロヘロになりながら着いたのは義仲寺(場所はこちら)。 【義仲寺(ぎちゅうじ)境内 義仲寺の名は、源義仲を葬った塚のあるところからきています。室町時代末に、 佐々木六角氏が建立したとの伝えがあります。 門を入ると左奥に、俳聖松尾芭蕉の墓と並んで、木曽義仲の供養塔が立っています。 「木曽殿と背中合わせの寒さかな」という著名な句は、芭蕉の門人又玄の作です。 境内にはこの句をはじめ、芭蕉の辞世の句「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」など 多くの句碑があります。また、巴御前を弔うために祭ったといわれる巴地蔵堂もあります。 昭和42年11月に国指定の史跡となりました。】 (現地解説板より)打出の浜で兼平と喜びの再開を果たしたのもつかの間、追討軍が迫ってきたのを見て兼平は、「自分一人を千騎とも思って下され。しばしの時を稼ぎますので、静かにご自害を・・・!」と木曽殿に促す。「お前に逢うためにここまで来たのだ。別々に死ぬより、一緒がいい・・・」と駄々をこねる主君の馬に取りすがって、兼平は涙を流して自害を決断させる。駆け去る木曽殿のために一人奮戦する兼平。しかし、木曽殿の馬が深田にはまってしまい、残した兼平の身を気遣って振り向いたところを矢が貫き、絶命。「義仲、討死!!」の大音声を聞いた兼平は、「これ見給へ、東国の殿ばら。日本一の剛の者の、自害する見本よ」と言って太刀の先を口に含み、馬からさかさまに飛び降りて自害した。その壮絶な死に様は、見ていた追討軍の度肝を抜いたという。この2人の最期は、教育唱歌の「近江八景」にも歌われている。 粟津の松にこととえば 答えがおなる風の声 朝日将軍義仲の ほろびし深田は何かたぞ 今もなお身にしむ 粟津野(あわづの)の秋風 いずかたぞ 昔の 兼平の石碑(いしぶみ) さて、まず入口の写真を撮ろうとしたら、修学旅行っぽい男の子逹がわいわい楽しげに記念撮影をしていた。「そんなに楽しい場所でもないんだけど、ホントにわかってんのかな~、コイツら・・・」とか思いながら撮影が終わるのを待つ。小さな門前いっぱいに広がってるので、中にも入れないしやっと終わったと思っても、しばらく門前にたむろしてたので、仕方ないから後で写真を撮ろうと思ってて、そのまま忘れた(笑)。最近とみに忘れっぽくなったので、そのせいもありますが、他の事情もありましたんでね・・・にほんブログ村
2012年06月03日

大津城<大津市浜大津>(住所をクリックするとMapfanにリンクします)※「大津編(2)」からの続きです。大津別院からさらに北上して、着いたのは大津祭曳山展示館(場所はこちら)。何かパンフレットとかあるかもしれないし、まずは建物の中へ入ってみた。狭い展示館を入るとすぐ、曳山が展示されててしばし曳山のからくり人形を観賞。細長い建物の中にはやたら観光客がいて、暑苦しい(笑)。奥まで行ってみたけど、目ぼしいものはなかったので、「じゃあ次へ行こっか」って友達に声をかけたら、「まだお目当てを見てないじゃん・・・」と突っ込まれて、「あ・・・ごめん、忘れてたわ」ってボケたら、友達は男泣きに泣いた(←ウソ泣き)。だって、もう人は多いしホントに暑くて、この場から早く逃れたかったんだもん・・・ここへ来たのは、これがあるからなんでした。 大津城外堀のものといわれている、石垣です。・・・何か、上にブロック塀とかあるし、疑わしい・・・高さは、人の身長と比較して大体こんな感じ。 良い子はマネをしないでね。いるんだよね~、登りたがる人(笑)。足利市にある足利学校でも、一人で黙々と登ってる人見たことあるまあ、もちろん友達は登る真似をしただけだけどね。 【大津城 豊臣秀吉は、坂本城を廃し大津城を築いた。 これは、秀吉の近江支配が安定したこと、京都や大阪が拠点となり、物資の中継港 としての大津の重要性が増したためとされている。 しかしながら、築城年代は明確でなく、京都の吉田神社の神官・吉田兼見の日記から、 遅くとも天正14年(1586)頃には城の機能が移されていたと考えられる。 初代藩主は坂本城であった浅野長吉(長政)、その後、増田長盛、新庄直頼を経て、 文禄4年(1595)京極高次が就任している。 高次の妻は、浅井三姉妹の次女「お初」で、慶長5年(1600)の天下分け目の関ヶ原の 戦いのときは、東軍についたため、西軍の大軍が押し寄せ、関ヶ原の合戦の当日、 開城した。高次は、その後、西軍の大軍を引き付け、関ヶ原の勝敗を左右したとして 小浜藩主に栄転している。 大津城は、合戦の翌年に解体、新たに膳所城が築かれている。なお、大津城の天主は、 彦根城に移された。 城が膳所に移された大津は、その後、東海道と北国海道の分岐点として商業都市と しての性格を強め、東海道五十三次の宿場町の中では屈指の人口を有する町として 繁栄する。】 (現地解説板より原文のまま)そんで、これが大津城の推定復元図(これも案内板より)。 大津城については、色々な面でわかっていない事が多い。そもそも築城の時期もはっきりしていない。一般的にはマイナーだけど、歴史ファンには有名なこの城が世に存在した時期は約15年と短かった。吉田兼見の「兼見卿記」によると、秀吉は天正14年(1586)2月に大津に頻繁に下向していたという記述があるので、この頃の築城だろうと推測されている。存在した期間が短かったせいなのか、あるいは時期的な関係なのか、当時の縄張図は残っていないため、正確な復元は困難とのこと。現在大津城の推定復元図として世間で見られるものは、ほとんどが明治以降に考証された3点の図を元に作成されている。上の写真の復元図もそうだわね。それによると、本丸はぽっかりと琵琶湖に突き出た形になっているが、現在では本丸のあった部分はまるっと埋め立てられている。で、ここ大津曳山展示館のある丸屋町アーケードは、おおむね三の丸の外側にあたり、もう少し西に行くと、外堀となる。 (丸屋町アーケード)て事は、この石垣は外堀の内側の石垣ってことか・・・?今ひとつ、しっくり来ないんだけどただ、大津城の遺構ってほとんどないからね~。ホントは、大津にはもっと以前に来るはずだったんだ~。なんだけど、戦国ファンにはあまりにも有名な城なのに、遺構が皆無に近い事を知って衝撃を受けたので、一旦見送りにしたんだよな。普段なら、遺構がなくても全然オッケーなんだけど、あれだけの大きな役割を果たしたのに遺構がまるでないって事がちょっと許せなくて・・・(笑)。まあ、ないと言っても今見られるものが、ってだけの話で、地中には埋まってる。過去の発掘調査では、本丸東側の石垣だとか礎石建物跡などが出土して、ほぼその範囲も復元できるらしい。ただ、調査は本丸周辺に限られているので、それ以外についてはまだまだわかっていない事だらけ。丸屋町から、浜大津駅へ。駅から琵琶湖方面の辺りに、かつては大津城の本丸があった。 この辺りに、大津城跡の石碑があるはずなんだけど・・・琵琶湖側の駅前は、再開発の途中なのか変にだだっ広くて、石碑が見つからない。碑のありそうな所を二人で目を凝らしながら歩くけど、結局わからないままだった。・・・まあ、いいや。石碑を見なければ登城した事にならないとは私は考えないし。どのみち、ここが琵琶湖に浮んだ本丸の跡地だった事に変わりはない。 大津城の名を上げた大津城の戦いについては、ここで書くつもりはありませんので、あしからず。有名だしね~。書きはしないけど、ここに立花宗茂が・・小早川秀包が・・・!あ、西軍は本丸には入ってませんけどね(笑)。も~、大津城なんかほっとけば良かったんだよ~!!と現地では思ってたけど、約1年経ってこの記事を書きながら、もしここで足止めをくらった西軍が本戦に間に合ってたら、どうなっただろう?って考えると、ちょっと複雑。もちろん、勝敗の行方も変わってたかもしれないけど、それでも東軍が勝ってたとしたら、毛利家の処遇はあんなものじゃ済まなかったハズ。1年前(この旅の2011年7月)までは、大坂城を動かなかった輝元と、本戦で味方の足止めをした弁当宰相殿(吉川広家)を恨んでたけど、毛利家に惹かれ始めた今(2012年6月現在)では考え方が全く変わってしまった。そんな自分に苦笑しつつ、一旦大津城に関してはここで終わりとしますが、旅日記の方でも少し大津城萌え~の記述が出てくるかと思いますので、以後の旅日記もよろしく※「大津編(3)」へと続きます。にほんブログ村
2012年06月02日
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