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福島正之の墓のすぐ隣には、こちらのお墓がある。 【三原市史跡 浅野忠長の墓 一基 墓は石造五輪塔で、高さ3m、石柵のなかに置かれている。 忠長(1592~1660)は、三原城主の二代で甲斐守ともいう。 初代忠吉にはあととりがなかったので、忠吉の次女の子(忠長)が 養子に迎えられてあとを継いだ。 忠長は、慶長19年(1614)大坂冬の陣、元和元年(1615) 大坂夏の陣に父忠吉とともに従軍している。また、中央や地方でいろいろな 事業にたずさわり、多くの功績があった。 元和8年(1622)には、頼兼新開を、また、正保元年(1644)には 横山新開を拓き、寛永6年(1629)と同14年(1637)には 糸崎八幡宮を修理している、三原城もたびたび修理改造し、承応元年(1652) には三原において初めて関船「八幡丸」を建造している。 万治3年(1660)広島で死去。年69歳。 法号「実相院殿逃外周逋大居士」。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)法名がちょっと変わってるよな・・・「逃」なんて字、使うんだ この脇にも、立派なお墓が並ぶ。たぶん、一族のお墓なんでしょう。 墓地を出て境内に戻る途中、こんな瓦が置いてあった。 「いち」?引両じゃないよな・・・もしかして、一株院の瓦だったとか。以上で宗光寺は終了。最後にまた山門で名残を惜しむ。山門から境内の方を眺めると、墓所の向こうに立派な石垣が見えた。 やっぱ、格が違うよな~。隆景時代には、どんなにすごいお寺だったんだろうか・・・山門から外の風景はこんな感じ。 埋め立てが多い三原の中でも、このあたりは小高いのでいくらか平地もあり、割に古くから町が形成されていた場所だという。元々あった万福寺(「三原編(21)」を参照ください)を移転させてこの地に宗光寺を持ってきたのは、以前に書いた通り。参道がまっつぐ延びて、見晴らしがいい。三原城からもそう遠くないし、この立地、この造り、西の出城といわれるだけのことはある。寺域のすぐ外側は、ちょっと外枡形ふう。昔はどうだったかはわからないけどね。 宗光寺を後にして、南西に延びる参道を下る。途中の道には、結構古い民家があった。 この先にあるのが、明真寺(場所はこちら)。 【浄華山宝池院明真寺は、寛永15年頃(1639年頃)、 宗光寺の塔頭のひとつである多福軒の跡に創立されたもので、 当時の面影がうかがわれます。 】 (三原観光協会「海・山・空 夢ひらくまち」より)ここに宗光寺の塔頭があったってことは、7つの塔頭を抱えていた小早川時代には、西国街道から北あたりの広い一帯にわたって宗光寺の寺域だったんだろうな。現在ここに建つ明真寺は、本瓦葺の薬医門で黄色い壁が個性的。壁の向こうには井戸が見えた。 中に入ってみると、境内は広くない。正面にはこんな建物が建つ。 ???よく、わかり、ませぬ・・・ここはどうやら幼稚園も経営してるみたいだから、その建物なのか。この向かって左側には町屋風の庫裏らしいものがあるんだけど、本堂っぽいのはざっと見たところ見当たらないので、この建物がそうなのか・・・?一旦、西国街道まで下りて、東へ次の寺を目指す。こちらの通りも、古い家が残る。 途中のお店には、こんなのぼりがあった。 あ~、ちょうちんじゃなくて、文具に大内菱入れて欲しいんですけど~。おおうちびし~。あ~、疲れたよ~。疲れきっててろてろ歩いた先に、次の寺への入り口が見えた。 この道、ここを訪れた方の旅行記を見てた時は「随分細い道だな・・・わかりにくそう。大丈夫かな~」と思っていたけど、寺町に入って以降、ず~っとこんな道ばっかり歩いてきたので、現地ではすぐにわかった。慣れって恐ろしい・・・(笑)。にほんブログ村
2012年09月30日

さ~て、休憩もしたし、ぼちぼち墓地の方へ行くかな~。 【三原市史跡 福島正之の墓 一基 室町時代後期の様式を完全に備えている貴重な石造宝篋印塔で、 高さは1.77mである。 正之(1579~1601)は、福島正則の養子で、刑部小輔ともいう。 正則は、幼少の頃から秀吉に仕えて大名になった一人で、加藤清正とともに 武将派の重鎮である。 慶長5年(1600)関が原の戦後、功によって毛利氏のあとをうけて 芸備49万8千200石に封ぜられ広島へ入国した。このとき、正之を 三原城に置き備後支配の要とした。 宗光寺過去帳によると、慶長6年5月5日に没し、法号「宗光寺殿天英光公大居士」 とある。】 (現地解説板より原文のまま。漢数字は戦国ジジイが変換)前回の記事で、山号と隆景の戒名の関係について途中まで書いたけど、改宗=改称かと思ったら、改宗してしばらく後になってから、隆景の戒名から山号を「泰雲山」とし、正之の戒名から寺号を「宗光寺」としたんだそうな。芸備に入封した福島正則は、厳島神社の平家納経を修復させるなど、寺社の保護に熱心だったといわれる。が、三原では寺領の没収などが相次ぎ、どこも存続に苦慮したらしい。法常寺誌にもそう書いてあったし。宗光寺では、小早川時代には寺領1000石で塔頭も7つあったのが、福島時代には、寺領100石、扶持米100石の支給となり、浅野時代の元禄頃には塔頭は3つになったという。さて、この墓の主・正之さんは、悲劇の人。正則の嫡男が夭折したため、正則の姉の子である正之を養子にしたとされる。慶長4年(1599年)に徳川家康の養女・満天姫(まてひめ。家康の姪)と結婚。正之15歳、満天姫10歳。この時は、まだ清州城。秀吉は大名同士の勝手な縁組を禁じていたから、この婚姻も石田三成の非難の対象になった訳だよね。正之は関ヶ原にも出陣し、竹ヶ鼻や岐阜城で戦功を挙げる。三原城に入った若殿・正之の評判はよかったらしい。正則はキリシタンに対して寛容だったといわれるが、修道士も正之に対して好意的な評価を残しているので、養父の宗教政策ラインを引き継いでいたのかもしれない。ただ、ご存知の通り、イエズス会の評価ってのは結局、自分達に対する扱いで人物評がガラリと変わるから、もちろんその辺りを割り引いて考える必要はあるんだけど。正之の人生が暗転するのは、三原入城の数年後。慶長12年(1607)、なんと養父である正則から、正之の乱行について幕府への訴えがなされ、幽閉の身となる。これについては色々と説があり、まず、正之を養子とした後に正則に実子が生まれていたため、実子に跡を継がせるために正之がジャマになった正則がウソの申し立てをしたとする説。いやいや、ウソじゃなく「慶長見聞録」に道行く人や人家に向けて訳もなく鉄砲を撃ちかけたって書いてあるよ~、とする説。はたまた、正之にキリシタンの嫌疑がかけられたので、正則はやむなく正之を幽閉したとする説もある。そして幽閉の翌年、24歳の若さで死亡。飢死したとも、こっそり家臣が差し入れをしていたものの割腹して果てたともいわれる。一般的にいわれる正之の死亡した年は、慶長13年。ところが、上の解説の通り宗光寺では慶長6年の死亡と伝える。都合のよろしくない部分をごっそりカットしたような印象が、なきにしもあらず・・・一方の正室・満天姫。こちらの人生もなかなかすごい。正之が亡くなった時点で、満天姫は身籠っていたが、関宿城に出戻りの身となる。正之にしろ、満天姫にしろ、色んな説があるんだけど、満天姫が実家に帰るまでのひとつの話として、こんなのもある。徳川家から迎えた満天姫を正室とした正之を、正則は簡単に廃嫡する訳にもいかず、正則の実子・忠勝の成長を待ってから正之を殺して、徳川家との大切なつなぎ・満天姫をまだ9歳の忠勝の妻とした。下手に介入して福島家が再び豊臣家とよりを戻すことを恐れた幕府はとりあえず見逃したが、時が進むにつれ豊臣恩雇の大名家の世代交代が進んでくると、次第に幕府も強硬政策を取るようになり、満天姫を離縁させて子とともに福島家から引き離した・・・でもね、正則自身だって家康の養女を継室に迎えてるんだから、満天姫をキープする必要があったかな~って気もするけどね。何にせよ、実家に戻った満天姫は今度は津軽信枚(のぶひら)に再嫁。弘前藩2代藩主・信枚は、江戸に伺候した際にあの南光坊天海に弟子入りしたといわれ、江戸初期の津軽家での様々な出来事に、天海の姿が見え隠れする。満天姫の嫁入りについても、天海の進言があったといわれる。満天姫が嫁入りする前、信枚にはすでに正室がいた。それが、石田三成の娘・辰姫。この辰姫を側室に降格して津軽家の飛び領である上州へ移し、満天姫は正室として迎えられた。正之との間に生まれた子も一緒に。子供だけじゃなく、正之の姿が描かれた「関ヶ原合戦図屏風」も一緒に嫁入りした。これは家康が土佐派に描かせたもので、駿府城に飾られていたが、満天姫がおねだりして右隻をゲットしたものだそうで、現在は国の重要文化財となっている。辰姫は側室に格下げされて遠くに移されたものの、参勤交代のたびに信枚がマメに通ったため、長男を生み、これが後の第3代藩主となる。さて、正之と満天姫の間に生まれた男の子は、弘前藩家老の家に養子に出され、大道寺直秀と名乗った。大道寺?と思った方もおられるでしょうが、はい、後北条家家臣の大道寺政繁の養子の、そのまた養子になった訳です。直秀は津軽信枚の弟分として、準一門の扱いを受けた。いくら母の再婚相手が藩主だとはいえ、信枚には辰姫との間に長男が生まれていたし、満天姫との間に儲けた次男もいる。他にも沢山の男子がいた。直秀が津軽家の跡目を継ぐにはだいぶ分が悪いよな~と思うんだけど、長男が家督相続した件については、どうも不満があったらしい。「自分は家康の義理の孫」というプライドもあったのかもしれない。そして、寛永元年(1624)に既に改易されていた福島家の再興を次第に考えるようになっていった。母である満天姫はそんな直秀を諌めていたが、とうとう直秀は「江戸に行って、福島家の再興をお願いしてくるね」ってとこまで盛りあがってしまった。そして寛永13年(1636)、江戸への出立に先立って母の元へ挨拶に来た直秀は、杯を飲み干した途端に苦しみ出し、そのまま絶命したという。満天姫、あるいは養父の大道寺直英に毒を盛られたというウワサがある。もし満天姫の犯行だったとしたら、婚家を守るために実の子を殺したってことになる。なんて壮絶なんだ・・・正之の死も、直秀の死も、真相は歴史の闇の中。満天姫に関連しては、もうひとつこんな話が残る。元和5年(1619)、幕府はとある転封の内示を出した。すなわち、 福島正則 : 広島⇒津軽 津軽信枚 : 津軽⇒越後というもので、福島家は広島城無断修復問題に絡む国替だから、津軽への移封は確定していたようだけど、代わりに出ていかなきゃならない津軽家としては、引っ越し費用だってバカにならないし、父祖の地を取り上げられる訳だから、嬉しい話じゃない。けど、信枚は家臣とその家族、陪臣、有力な寺社など、百姓以外の希望者はすべて越後への同行を許すと発表したところ、83人の下級武士がすぐさまこれに希望した。そして家中に引っ越しについての詳細な指示を出しつつ、隣人の佐竹義宣に判金100枚(金10両に相当)の引っ越し費用を借りるなど、粛々と準備を進めていた。佐竹義宣は義宣で、津軽の人々が自領を通過する際には便宜を図るよう手配してやってもいたが、内心、借金が踏み倒されないか、また津軽領内で国替に反対して一揆などが起こらないか、ちょっとビクビクしていたらしい(笑)。しかし、内示から1ヵ月もたたないうちに津軽家の移封は取り消され、福島正則は川中島へ減封となった。取り消しの理由としては、津軽家家臣の反対運動が功を奏したとか、満天姫が尽力したとか、津軽信枚が天海のコネを頼ったとか、正則自身が津軽行きを拒否したとか、色んな説がある。どの話にしても結局真相はわからないけど、あちこちに満天姫が顔を出すあたり、ただ手をこまねいて傍観する深窓の姫君というよりは、婚家の危機に積極的に対処したという話が生まれるようななかなか強い意志を持った女性だったのかな~と思う。もしも正之が生きながらえて満天姫も三原城にいたとしたら、あるいは婚家である福島家のその後も、もしかしたらちょっと変わっていたのかも・・・なんて想像が頭をかすめた。にほんブログ村
2012年09月29日

もう山門だけでお腹いっぱい胸いっぱいになる程満足したけど、ここまで頑張って歩いてきたのだから、奥へと進む。ここでのお目当ては、まだ他にもあるのだ。 中もすごいわ・・・この雰囲気、ちょっと坂本の西教寺を思い出すな。こちらの方がもっと城郭風な造りだけど。庫裏、玄関と続いて本堂(とアレ)がある。 はい、こちらの本堂も錣葺ですね。さて、ここまで立派すぎる移築門と、これまた立派な建築群を見てきましたが、宗光寺はこういうお寺です。 【泰雲山宗光寺は天正5年(1577年)小早川隆景が親の毛利元就夫婦を 弔うため高山城内に建てたものですが、(雲門山匡真寺) 三原城築城の際、城下の西側を守る砦も兼ね、この地に移されました。】 (三原観光協会「海・山・空 夢ひらくまち」より)これじゃちょっと簡単すぎるので、補足をば(笑)。天正5年は、父・元就の7回忌、母・妙玖の33回忌にあたる。隆景・・・いえ、幼名で寿徳丸が12歳で竹原家を継いで毛利家を出た翌年、妙玖が47歳の若さで死亡。元就の嘆きは深く、子供達へも妙玖の供養はゆめゆめ怠らぬようにと申しつけた。これはいわゆる「三矢教訓状」の中の一文で、その返書として隆元・元春・隆景の連名で絶対に母への追悼を祖略にはしないと誓っている。(他の小言はスルーしてるけどね)長男・隆元は「毎朝、母上のために念仏100回唱えてま~す」との手紙も書いてるし、元春・隆景も吉田郡山へ赴いた際には、必ず母の墓へお参りをしたという。中でも末っ子の隆景は追善に熱心だったようで、匡真寺の建築にあたっては、畿内の宮大工を招聘してそれは豪華なものを建てたんだそうな。なんでも、この年の前年には木津川口の合戦(第一次)に勝ったので、石山本願寺のコネを使って宮大工を集めたとかなんとか(笑)。そして、100人の僧を招いて盛大な法要を行ったと伝えられる。元は臨済宗だったが、福島正則が入国した後に、曹洞宗に改められた。あれ、泰雲山って、隆景の戒名・・・?隆景の戒名は、 黄梅院泰雲紹閑 隆景寺殿前黄門泰雲紹閑大居士と2つあるけど、どちらも「泰雲」が入ってる。そっか、泰雲山から来てるのか!って一瞬思ったけど、宗光寺への改称は隆景の死後だしな・・・こちらの御本尊様は、定朝(じょうちょう)作とされる釈迦牟尼仏。法常寺と同じ定朝さんだけど、大善寺にも京の匠のものかもしれない仏像もあるし、こちらの歴史を考えたら、これもアリかもしれないな。それから、宗光寺には、米山寺と同じ文禄3年(1594)作成の隆景寿像があるそうな。 【(米山寺のと宗光寺の)両者には同一原画を写し取って描いたか, あるいは,一方が他方を模写したなどのかなり近い関係が推測され】 (三原市教育委員会のホームページより。カッコ内は戦国ジジイが追加)るとあり、現在は三原市の重要文化財に指定されている。確かに、目はちょっと違うけど、鼻とか耳とか生え際とかはよく似てるよなあ・・・こちらは一般公開はされてないそうですが、三原市教育委員会のサイトには顔の部分の画像が添付されてますので、見たい方はリンクからどうぞ。(三原市教育委員会のホームページへのリンクはこちら)。本堂の奥にはさらにお堂が続く。 ここの屋根に載ってるのが、 なにアレ、変わってるう~・・・と思ったら、反対側を見たら普通のシャチだった。なんだ、ヒレの部分が取れちゃっただけか なんか、尻尾の部分がちょっと色が違うし、もっこりしてる感じだから、骨付きの鳥のもも肉に持ち手として巻き付けたアルミホイルみたいだ・・・(笑)。いえいえ、真面目に観賞してるんですよ、これでもだって、こんなに立派なお寺だし。今度は一連の建物群の向かいへ。こちらが鐘楼。 これも立派だなあ~。拡大した写真は撮ってませんが、ここの軒丸瓦はちゃんと小早川紋撮影地点の後ろ側には、これがある。 【三原市重要文化財 宗光寺塔婆(七層石塔婆) 高さ250.3センチメートル、花崗岩製。 相輪を欠失しているほかは、各部を完備しているが、背面が火にかかった ために基礎や塔身の剥離がひどく、相輪が揃っていれば、総高約300 センチメートルの十尺塔であろう。 年代は鎌倉時代後期の前半の永仁(1293-99)ごろで、大工心阿の 作である。 銘文は塔身のキリークの面の月輪左右の空間に配しているが、向って右側は 剥脱して痕跡もとどめず、左側に陰刻された二行が遺っている。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)背面が火にかかって欠損? 塔の裏っかわは、沢山の石仏だか無縁仏だかがいるので真後ろには回れず、脇から覗いた。 あ~、ホントだ・・・焼けて赤くなってるって感じではなかったけどね。この時、うっかりカメラのレンズに触っちゃったので、鐘楼の石段に腰かけて休憩がてらレンズのお掃除。も~、恥ずかしげもなくこんなとこに座っちゃってすいません(笑)。しかし、さすがにだいぶ疲れてきたな・・・にほんブログ村
2012年09月28日

一株院の碑の後ろにあるコンクリ製の味気ない建物は何ぞや?と思ったら、「三原新四国 第六十六番」だった。あれ、ここもそうか~。で、中を除くと、 おお、これだけいると迫力あるな大須賀神社のと同じような紋が使われてたので、これ、何ていうんだろう・・・って調べてみたら、やっぱり三鈷杵(さんこしょ)を十字に組み合わせた密教の法具で、「羯磨金剛」(かつまこんごう)というらしい。ただ、真言宗で使われる羯磨金剛紋とはちょっと細部が違うから、正式名称は何ていうのかまではわからないけど。さて・・・それでは中へ。宗光寺は素敵なアプローチを持ってるけど、土塀の外側はちょっとばかり変色してまして・・・(笑)。 漆喰の美しさを保つには、10年に1度くらいは化粧直しが必要だっていうからねえ。古い建造物を維持するには、お金も手間もかかって大変だよね。しかし、この内側はこんなに立派な参道です。 この重厚さ・・・寺じゃないよね、もはや。それに、写真だとあまり距離ないように見えるかもしれないけど、結構あるの。けど、山門がまたデカいから、遠近感も狂うんだな。 ここまでで、すでに圧倒されてるワタシさすが、特別な寺だけあるわ。やっぱり、米山寺にも移転のお誘い行ってるハズだよな~。拒否ったとしか思えん・・・何か文書残ってないかな。 ↑この写真じゃ、なんだかよくわかりませんね(笑)。しかし、これが門の全体を写すのにギリギリの地点なんです。というのも、石段を上がりきったところにはそれなりのスペースはあるものの、とにかく門がデカくて、その位置からじゃ全っ然画面に収まってくれないんですよどのくらいデカいのかって?ふっふっ、このデカさを伝えたいと思って、500mlのペットボトルを置いて撮影した用意のいいあたくし ・・・こんな感じ。ただの寺の山門というにはあまりにも重厚すぎるこの門、実はこういった由来があります。 【国重要文化財 宗光寺山門 一宇 宗光寺山門は、小早川隆景の居城であった豊田郡本郷町の新高山城の城門で、 隆景によって当寺に移築されたものと伝えられている。 四足門も切妻造本瓦ぶきで、桃山文化の趣を伝えるすぐれた蟇股の彫刻類、 木彫りの未確立のとき建てられているなど、桃山時代の特色をもつ建築物である。 中世に沼田庄の経営にあたっていた小早川氏は、毛利元就の三男隆景を 養子に迎え、瀬戸内海の水軍を手中に収め、毛利氏の一翼をになって中国統一に 乗り出したが、本郷の地は海岸より離れているので、水陸交通の要にあたる 三原の地に三原城を築城した。(後略)】 (現地解説板より)ちょっと大味なこの解説、多少の違和感を覚えるけど、仕方ないな、教育委員会の設置した看板だし、これが一般論だ。今回はめいっぱいこの山門をご紹介しましょう。 も~、とにかく柱も太いし、すごいの一言!!城門にふさわしい重厚感・・・どこの門とまでは書いてないけど、新高山城の築城年代(天文21年、1552)を考えれば、大手門といってもおかしくない位の風格。大手ではなかったとしても、これだけの門だから、おそらく隆景ちゃんもこの門をくぐったことがあるに違いない。 蟇股も沢山あった。どれにも「はらわた」はあったけど、解説にあるような『桃山文化の趣を伝えるすぐれた蟇股の彫刻類』というよりは、桃山時代の到来を予感させるような、ちょっと武骨さを残しつつも、山城の城門にこれだけの彫刻を取り入れたチャレンジ精神がうかがえる過渡期のもの、と表現するね。私なら。結構隆景ちゃんて新しモノ好きだったみたいで、例えば茶の湯と武将って言ったら、まず大抵の人が信長様を思い浮かべるだろうし、彼がステータスのひとつとして利用したから爆発的に広まった・・・てな印象が一般的にあるんじゃないかと思う。しかし、永禄4年(1561)に毛利元就と隆元親子が新高山城に遠足に来た際の記述に、「常の茶の間」というのが出てくる。「常の」だから、茶室または茶亭が常備されてたって事だよね。バリバリの山城の、新高山城内にね。一方の信長様の永禄4年といえば、前年に桶狭間に勝って美濃侵攻を始めたばかり。まだ松平元康(のちの徳川家康)と清州同盟を結んでもいない。また、隆景ちゃんて凝り性だったらしいし、「春風にたなびく楊柳」なんて風にも言われるけど、若い頃なんかは結構激しいところもあるし、そういう時代背景とか、隆景ちゃんの性格とか考え合わせてこの城門を見上げると、なんかいろんな想像とか湧いてきて笑いすらこみあげてくる(笑)。 これらは大体が股の中が透けてる本蟇股なんだけど、通常、彫物は表と裏で柄が違う。けど、ここのはどう見ても、そのまんま裏でしょ、コレ!!ってのがあって、面白い。この辺も、まだ過渡期のものって感じがするんだよなあ。 ・・・あんまり、何かのデザインって感じじゃないでしょ?例えばこれが顔のデザインだったとしたら、表は顔の彫物になってて、裏は後頭部の彫物、みたいな(笑)。そうは言っても、この門はホントに素晴らしかった。なんたって、四脚門としては最大級の規模を誇るものなんだそうですよ。三原へ足を運んだら、是非この新高山城の遺構も見てってください。自信を持ってオススメします※追記’13/1/1に新高山城へ行って、現地で宗光寺山門と脳内合成した結果、新高山城からの移築の通説に対し、思いもよらない結論へと至りました。リンクはこちら⇒「新高山城(29)移築門の真偽」にほんブログ村
2012年09月27日

こちらが香積寺の本堂と・・・言わなくてもわかるよね(笑)。現本堂は正徳4年(1714)の再建だそうな。 【桂谷山香積寺は明応3年(1494年)小早川14代興平氏の 誕生祈願により、高山城北側の麓に建てられ、文禄2年(1593年) 三原城築城に伴いこの地に移されました。 その時、本尊の十一面観音菩薩を持ち運ぼうとすると石のように重くなり、 どうしても動かすことができませんでした。そこで仕方なく本尊のみ 残してきました。それが本郷町にある同名の寺、香積寺です。】 旅のプランを立てていて、最初に地図上でこの寺の名前を見つけた時、え、大内義弘、もしくは大内家と何ぞ関わりが!?って思っちゃったんだよね~。(義弘の香積寺については、「山口編(7)」をご覧ください) しかし、全然違ったみたい解説の通りここも移転組であり、かつ小早川家にゆかりの深いお寺であったようです。興平の誕生祈願、てことは、その父・扶平(すけひら)の発願と見ていいのかな。沼田小早川扶平は、「三原編(3)」でちょっとだけ(つか、墓の写真だけ)紹介したのを覚えておられるでしょうか・・・大ざっぱに言って、竹原家は大内氏と親密な時期が長かったのに対し、沼田本家はそうじゃなかった。室町時代は幕府に近い立場を取ったし、扶平が三原の代官職を得たのも、管領・細川政元のお膳立てによるもの。ところが、「永正の錯乱」で政元が暗殺されると、状況は一変する。「流れ公方」足利義尹(よしただ)を長く山口で保護してきた大内義興さんが、「うおっしゃああ~!!」と義尹を連れて・・・いえ、奉じて上洛した際、竹原家を始め安芸国人の多くは上洛軍に参加した。しかし、沼田家ではこれまでの経緯から、「お供しますぜ、ダンナ」ってホイホイついていく訳にもいかず、扶平はどちらに付くかで苦悩する。そして、結論を出せないまま、24歳の若さで突然死去する。心労によるものだったとも言われる。・・・幸い、香積寺の霊験によって嫡男・興平が誕生していたので、家督相続について大内家の横槍が入るなど多少の悶着はあったものの、「三原編(15)」にも少し書いたように、竹原家の弘平が一族の融和を図ったこともあって、沼田本家は興平が継いだ。結局は興平も若死にしちゃうんだけど、興平の子が正平、正平の子が繁平と問田の大方・・・ってことで、隆景ちゃんへとつながっていきます。さて、本堂の外観に戻りますと、2階建てのように見えるけど、下の屋根は裳階(もこし)だな。しかもこの裳階、途中で一旦段差になってるでしょ。これは瓦の葺き方の一種で、錣葺(しころぶき)っていうんだそうな。錣は武具の一般知識のある方なら知ってるでしょうけど、兜の横と後ろにくっ付いて、首を保護するための部分。ここまでのお寺の中にも錣葺っぽいのはあるにはあった。ただ、上の写真のように棟に正対して見ればすぐにわかるけど、妻の方から見ると、シロートにはちょっとわかりにくい。錣葺の何たるかを知ってから、はっきり「これがそうだ」って確実な実物を見るのは、これが初めてだったし。ともかく、錣葺は広島方面に多い葺き方なんだそうです。本堂の向かって左手には、近代的な建物の庫裏。右側には幼稚園が併設されてた。以上で香積寺は終了~。次のスポットへ向けて、一旦南へ降りる。途中の横道は、相変わらずの細すぎる道。 歩いてる道沿いには、昔風の立派な民家もある。 ↓ここの道の先は、クランクになってる。曲がった先は、袋小路かな・・・ この先には、「城下町みはら散策マップ」に【笑うブロック塀 香積寺小路の角に「アハハ」と笑う塀がある】と書いてある場所があったので、笑う塀?センサーで人が通ると「アハハ」という声でも出るのかな?と思っていた。・・・が、その正体はコレだった。 ・・・声、出ないし。ちょっと期待しすぎちゃったかなして、この塀のところを東へ入っていく。 写真じゃわかりづらいと思うけど、ここもクランクになってるの。「城下町みはら散策マップ」には、「鍵型小路」って書いてある。【敵方が刀が抜けない片側壁】とも書いてあるけど、ちょっとそれはピンと来なかったな。ただ、この辺りの道は写真の通り細い道があちこちにあって、かなり攻めにくく造られてるってのはよくわかった。そしてこの先が~、ここまでも何度か名前の出てきている、宗光寺(場所はこちら)。ここ、すごい楽しみにしてたんだよね~。うっへっへ え~っと、早く中へ入りたいけど、まずはこの入り口が歴史のある場所で・・・あれ?何かある。 【徳川家康 宿泊所 一株院跡】わあ、こんなの建ってたなんて知らなかった!最近できたのかな・・・この碑の側面には、 【小早川隆景公義兄 元平菩提寺】とも彫ってある。小早川元平は問田の大方様の兄上様。ただし、一般的には「小早川繁平」の方が名が通ってる。 【文禄元年(1592年)城主隆景は、秀吉の五大老として隆景とともに 実力を二分していた徳川家康が、約3万の軍勢を引き連れ朝鮮に向かう途中、 城中などが一望でき、戦略上重要な地にある宗光寺を開放して 宿舎にあてました。 この隆景の歓迎に対して家康は、「城中より高い所に泊まるのは失礼にあたる」 と、境内下にあった小早川16代繁平の菩提所、一株院に泊まったと いわれています。】 (三原観光協会「海・山・空 夢ひらくまち」より)ま、ここだって三原城より明らかに高い位置にあるんだけどね(笑)。繁平さんについては、高山城で書くのがふさわしいかと思うので、簡単な説明に留めますが、幼くして家督を継いだものの、病弱な上に目を患ったため、繁平の妹と隆景を結婚させて沼田本家を相続させた・・・というのが一般論。隆景に家督を譲った後は、剃髪して仏門に入り、天正2年(1574)に33歳で亡くなった、とされる。まあ、殺されなかっただけまだ・・・ムニャムニャ繁平の墓は、沼田小早川16代当主として米山寺にあります。法名は、「一株(いっちゅう)院文室元緒」。一株院は、たぶん宗光寺の塔頭のひとつだと思う。かつては山門の左側にあったらしいが、現存していない。剃髪後の繁平は、高山城下の教真寺に入ったといわれているけど、宗光寺の創建(1577年)前に亡くなってるし、けど法名は一株院だし、そもそも高山城下付近の寺って巨真山寺(=米山寺)だとか匡真寺(=宗光寺)だとか似たような名前の寺が多いので、取り違えてるんじゃないかって気もするし、なんだかよくわからない高山城下の一株院で亡くなって(あるいは死後に建てられて)、宗光寺の引っ越しと共に三原へやって来たって感じかなあ・・・↓ランキング参加ちう~。「ぽち」っとよろしくねにほんブログ村
2012年09月26日

門をくぐると、まず袴腰の鐘楼。上部には花頭窓が並ぶ。屋根の反りが大きいな・・・ その奥に、庫裏。 庫裏に唐破風ってあまり付けないような・・・ここの妻の下に金の瀟洒な飾りがあったので、 写真を撮って帰ってから拡大してみた。そしたら何てことない(すみません)、松皮菱じゃん!! 三原八幡宮の井桁といい、地味な紋様も連続してチロリアンテープみたいにして遠くから見ると、また随分と印象が変わるもんだな~。しかも、ここのは金だしね。あんまりこーゆー場所に、金って使わないけどね・・・こちらが本堂↓。 ・・・ここのお寺は、唐破風が好きなんだな。その破風の上に載るのは、 井桁に橘・・・と単純に思ったら、これは「日蓮宗橘」といって、日蓮宗の寺紋なんだそうな。なんでも、日蓮さんが井伊一族(=橘紋)出身とされるところから来ているんだと。私程度の知識だと、橘といえばまず井伊家(←直政好き)を思い浮かべちゃうんだけど、まさかホントにそこから来てるとはね~!で、本堂の向かって左にあるコレを見て安心してから(笑)、 ちょっくら墓地へ~。前回、門前にある丹羽精蔵の碑の写真を掲載しましたが、そのお墓を探しに参ります。ところがねえ、ここも案内みたいのは見つけられなくて、墓碑名をひとつひとつ確認するなんて事まではしないので、ここも挫折した。見つからないものはしようがないよな・・・と帰ろうとして、庫裏の方まで戻ったら、奥に何かある。 あああ、あったあ~!別管理だったのか・・・裏には、碑文がびっしり。 【従一位公爵浅野長勲題字】から始まって、【男爵 浅野忠允撰】で終わるこの碑文は、残念ながら真後ろに木があって全文を写真に収められなかったのですが、主家が家臣を称えて建てたものっぽい。公爵と男爵なら、本家と三原浅野家あたりかな?で、この碑の奥に墓があった。 名前が読めないんだけど、たぶんこれでしょう。丹羽精蔵君は、三原出身のいわゆる勤皇の志士。志半ばにして、新撰組、あるいは会津藩士に殺害されたという。この人のことはほとんど知らないけど、名前だけは知ってた。だから、寄ってみた。志半ばに、って言ったら聞こえはいいけど、ぶっちゃけ活躍する前に斃れた、って事だからね(すみません)。こんな風に若い命を散らしていった人が、幕末にどれほどいたことか。過去の歴史においても、関ヶ原だとか、世の中が大きく変わる時には実に大量の血が流されるものだけど、ホントにあんなに沢山の人が死ななきゃならなかったんだろうか・・・と、幕末の志士たちを思うたび、心が重くなる。時代が近いせいもあるのかもしれないけどね。でも、死んでいった中には、有能な若い人達も多かったからね。ホントにね・・・・・さて、寿徳寺を出て、かつての極楽橋の所を渡ると、そこが香積寺(場所はこちら)。 ま、ちょっと石垣を積み直してる風なところはあるけど、やっぱり恵下谷川沿いって街道が通ってた重要な場所だったみたいだから、往時から立派な石垣を備えていたものと思われる。山門の脇には、いくつか石仏が並んでたんだけど、その中のひとつ(左下の小さいの)が 『三原新四国 第六十七番』。あ~、大善寺のが69番だったから、この近くに68番があるんだろうな・・・段々気になってきちゃうじゃないか(笑)。↓こちらが山門。 ここの鬼さん、笑ってるう~。右隣にも、お決まりのアレがいるう~(笑)。 山門はご覧の通り、くぐれないようになってるので、脇の坂道を上がろうとしたら、前方に延びている細い道が目に入った。 順勝寺以降、ずっとこんな道を歩いてきてるのでかなり目は慣れたけど、それにしても細い。ここから先の行程もこうした道が多いと聞いているので、楽しみにしてるんだよね こちらも四脚門で、板蟇股・・・アレ?そういえば、ここまで高麗門って見てないな。市街戦になった場合を想定したら、高麗門の方がいいんじゃ・・・って考えて、気がついた。「膳所城(3)」に書いたように、高麗門は文禄・慶長以降に発展したといわれている。ここまで見てきた移転組の寺社は、ほとんどが天正年間に移ってきたものだから、まだ高麗門が普及する前の話だ~。まあ、全部が全部、移転当時の門て訳でもないでしょうけど、これはこれで歴史的に正しいのか・・・なるほどねと一人勝手に納得した。なら、高麗門登場以降で、重要な位置にある寺なら全部高麗門にするかって言ったら、それはどうだかわかりませんけどね(笑)。格の問題とかもあるでしょうし。にほんブログ村
2012年09月25日

さて、ここからがお楽しみ・・・と思ったら、なんか石碑がある。 極楽橋?ナニコレ、知らな~い。ここは結構広い通りなんだけど、北へ向けて上り坂になってる。 地図を見ると、ここよりもうちょっと北に恵下谷(えげだに)川という川が描いてあって、途中でぷっつり途切れた後は、南の方はこの通りの真ん中に薄い水色の線が描いてあるのみ。だから、途中で途切れたところから暗渠みたいな感じになってるんでしょうね。とすると、昔はこの道いっぱいに川が流れてたのかもしれないし、北の上流から流れ落ちる水がもうもうと勢いよく通過していった場所なのかもしれない。いや、それだったら「地獄橋」の方がふさわしいか(笑)。さて、大善寺の敷地に沿ってここから北へ向かう道には、お目当ての石垣がある。 わ~いっ、石垣だあ~て眺めながら歩きだしたら、大善寺の入り口があった。 あ、アレ?こっちが正門?いや、車で乗り入れるならってことだよな・・・ 一部、後から手を入れたようなところも見受けられるけど、おおむね古い形態を残していそうな感じだな。この入り口には、こんなものが置かれていた。 大善寺の「大」、だろうな、たぶん。今回、マルダイ印の瓦を見た覚えはないけど、昔は本堂とか鐘楼にもマルダイがあふれてたのかもしれない。鉄の意志を持った姫様の嫁入りで、葵に取って替わられちゃったのかもな。この付近の石垣には、刻銘のある石がいくつかあった。 現地では、読めなかった。写真なら読めるかな~と思ったけど、やっぱり摩耗してるので無理だった。残念。 重厚な石垣の終点に、さっき大善寺の墓場から見えた寿徳寺がある(場所はこちら)。 立派な門の脇の塀には、 ・・・またか(笑)。あ~、あそこにも。 門の中にも。 何なんだ~!!誰か、「三原のハト」の由来を知ってる人がいたら教えてくらさい・・・ 【妙栄山寿徳寺は、長禄元年(1457年)高山城古城の麓に日親上人によって、 創建されました。後に小早川隆景によって天正年間(1573年) この地に移され、特に家臣によって整備されました。境内には京都において 新撰組に暗殺された勤王志士丹羽精蔵の墓や槍術佐分利流宗家の墓地などが あります。】 (三原観光協会「海・山・空 夢ひらくまち」より)という寺歴はもちろん行く前に調べておいた。しかし、正直言ってここはそんなに重要視はしてなかった(すみません)。ところが、門前にこの碑を見て、「えっ、そうだったの!?」と驚いた。 なべかむり!知ってるぅ~!!ちゃんとね、「日親上人によって創建」て書いてあるのに、きちんと調べないからこーゆー事になる・・・(笑)。だって、日親さんの名前、忘れちゃってたんだもん。個性派揃いの鎌倉新仏教の宗祖たちの中でも、ひときわ異色なのが、日蓮宗の日蓮。日蓮宗といえば、太鼓をどんつくしながらナムミョ~ホ~レンゲ~キョ~ってイメージだけど、ちょ~お簡単に日蓮宗を説明すると、数ある経典の中から法華経「のみ」を正しい教えとするもの。法華経は日蓮の独創じゃなく、元々あった経典で、叡山でも法華経を最高位に置いている。けど、法華経のみが正しいとなると話は全く別で、それ以外の宗派は認めないことになる。もはや一神教の域だよな。そして日蓮宗徒をさらに過激にさせるのが、意訳で「法華経を広めようとする者は、それを理解しない悪人に迫害されるだろう」という法華経の中にある予言。これを「法難」という。自分は正しい⇒他の宗教はすべて間違い⇒他宗を非難・折伏(しゃくぶく)⇒反発くらって迫害を受ける⇒法華経に「迫害を受けるだろう」と書いてある⇒法華経は正しい⇒法華経だけを信じる自分は正しい・・・と振り出しに戻って、永遠の法華経ループを展開するのが日蓮宗。他の鎌倉新仏教の宗祖たちも、結構原理主義者なんだけど、中でも日蓮は過激で、他宗をめたくそ攻撃したので、命を狙われたことも1度や2度じゃない。で、室町時代の人・日親さんは、足利義教に法華経への改宗を説いて義教を怒らせ、後に投獄されてしまう。狭い牢に沢山の囚人とともに押し込められ、外へ引き出されたと思ったら拷問を受けた。この時、灼熱の鍋を頭からかぶせられて、舌の端を切られて日蓮宗の棄教を迫られた。それでも、鍋をかぶったまま説法を続けたとか、その後鍋が取れなくなっちゃったとか、舌を切り取られたから子供のような話し方しかできなくなっちゃったとか、いやいやいや、ちょっと待ってよ~!!ってツッコミどころ満載の数々の伝説をお持ちの方が、日親さんです。まあ、足利義教といえば、将軍就任の際のエピソードからその死に至るまで、漫然と続いた室町歴代将軍の中でも、結構知られてる人だと思うけど、その死についても日親さんの伝承があるそうな。嘉吉元年(1441年)6月24日、「嘉吉の乱」で赤松満祐によって足利義教、死亡。なんでも、この年の3月、「100日後、アナタに何かが起こる・・・」と日親さんが予言してたそうなんだな。日蓮宗で予言ったら、日蓮の元寇が有名だけど、日親の方は予言て言うより、恨みだよな日蓮宗徒なら、鍋をかぶって「おお、俺は正しいんだあ~!!」って燃え上がるべきところかと思うんだけど、やはりちょっと過酷すぎた体験だったか・・・あ、別に日蓮宗をバカにしてる訳じゃないですよ。日蓮は、好き嫌いのはっきり分かれる人だと思うけど、山中幸盛ばりの彼のあくなきバイタリティーはホント読んでて笑える・・・いえ、感銘を受けます。興味のある方は、ぜひ日蓮さんの本とか読んでみてくださいね。面白いからにほんブログ村
2012年09月24日

本堂の向かいに建つのは、釈迦堂。 【奉修宗祖法然上人八百年大遠忌上酬慈恩】堂の前にある木の塔みたいのに、こう書いてある。800年忌なら、2012年のことだと思うけど、堂がそんなに新しい訳ないよな・・・この木の塔を今年建てました~ってことなのかな?さて・・・ここへ来たのは、もちろん問田の大方様ゆかりだからなんだけど、調べてるうち、別のゆかりもあるお寺だと知ったので、もうひとつ目的が加わった。それを探しに、これより墓地へ向かいまする。たぶん、解説板とか誰の墓だとかを示すものがあるかと思うので、それを探しながらしばらくウロウロ・・・あ、見っけ!! 『四代城主忠義の母也』墓の前には、立札の形をしたものが立ってはいたんだけど、もう完全にサビちゃってて、文字なんかは見えない。ので、いつもお世話になっている三原観光協会様のサイト「海・山・空 夢ひらくまち」より引用しますと、 【江戸時代、三原には過ぎたるものが三つあると他藩から羨ましがられました。 それは三万石にはふさわしからぬ大きな城、葵の紋所大段幕、 そしてすぎたる智者鈴木方衛という家来がいたことでした。 その後の三つが、この寺に関係あるのです。 境内墓地の西南にひときわ大きい宝篋印塔が目にとまります。 これは三原城主4代浅野忠義の母「月渓院殿心誉栄讃珠光大法尼」であります。 又、鈴木方衛は江戸幕府より日光東照宮の修復が各藩に命ぜられたとき、 誰にも出来なかった難工事を10日間で仕上げ、将軍を感嘆させたという智者で、 この境内へ特別に葬られています。(後略)】元和元年(1615)の一国一城令で、本来であれば三原城も廃城の憂き目にあうところだったが、幸運にもそれを逃れた三原城には、広島藩筆頭家老・浅野忠長が入った。忠長の子が、忠真。この忠真さんに江戸城で一目惚れしたというのが、徳川家光のご落胤とされる月姫(のちの月渓院)。福島正則の後に入った浅野家広島藩初代藩主の浅野長晟(浅野長政の次男)は徳川家康の三女を妻としたので、宗家には将軍家との血縁はある。けど、忠真さんは一門の出ではあっても浅野家の家老職であり、すでに妻がいた。ところが、 【当然周りは大反対ではあったが、月姫本人の意思が猛烈に固く、 幕府も仕方なく下賜という形で月姫を忠真に授けた。 これには三原浅野家はもちろんのこと、主家であり、本藩の広島藩も 大変扱いに苦慮した記録がある一方、このような幕府からの特別な配慮は 他藩には大変羨ましがられ、「五千三万石」と呼ばれ財政的にも潤い、 三原の城下は大発展したという。】 (ウィキペディアより)猛烈な意思で(笑)念願叶って忠真の側室となった月姫は、子を生み、これが次の城主となる。そして大善寺は、姫の祈願所として幕府より5000石の御化粧料を下賜されて、将軍家の菩提寺・増上寺から名を賜り、増上山大善寺となり、葵の御紋の使用も許された、という歴史を持つ。という事で、先に見てきた葵の瓦は、この月姫様に由来するものなのでした。なんで認知しなかったのか、認知しなかった子に対して下賜の形を取り、化粧料まで与えるってどーゆーこと!?って疑問が湧くんだけど、おかげで問田の大方様の影が薄れてしまったんだろーな・・・さて、せっかく墓地に入ったのだから、楢崎正員さんのお墓にも寄っていこうかな。墓地は山肌に沿うように建てられているので、あちこち歩き回って上の段まで登った時、立派なお堂が目に入った。 あ・・・あれが、大善寺の奥にある、寿徳寺だな。随分立派だけど、唐破風のところ、なんか変わってる・・・なんだろ、アレ。で、結局楢崎さんのお墓はわからなかった仕方なく墓地を出て、ふたたび境内へ。本堂の向かって右側にある庫裏↓。 ここも、破風、でけぇ~・・・妻にある蟇股はただの雲と流水のデザインかもしれないけど、なんだか私には魚が2匹向かい合ってちゅ~してるように見えた(笑)。 庫裏の奥には簡易便所みたいのがあったので、本当はお墓参りに来た人とかのためのものだとは思うけど、外にトイレが置いてあるお寺ってあまりないし、ちょうど行きたかった頃なので(笑)、ありがたく使わせていただいた。私みたいな歩き方をする人間にとっては、トイレが結構重要な問題なんだよね~。マジで。スッキリしたところで、ふたたび境内散策。庫裏の向かいには、宝形造のお堂がある。 何のお堂だかはわからないけど、ここの屋根にさ・・・ 右側の矢印のは、鬼瓦が一部欠損したものだとは思うんだけど、なんか鬼っていうよりサカナ顔に見えちゃって(笑)。あと、左側のね、宝珠の類だとは思うんだけど、ぼんやりした2段重ねのせいか、ここにふさわしくないものをつい連想してしまって・・・て楽しんだところで、大善寺はおしまい。おトイレ、ありがとうございましたぁ~入ってきたのと同じ門から出て、道なりに東へ向かう。ここからの道は、楽しみにしてたんだ~。まずは、大善寺の南側の石垣&土塀。 この先を、大きな道に行き当たったところには、これがある(場所はこちら)。 ・・・思ってたより、小さなお堂だな。戸がちょっと開いていたので、中を覗くと、 おお、地味だけど、大事に祀られてるってカンジ。一畑薬師ってアレだよね、眼の薬師様だよね。目が悪い私は、ここでもちろんお参り。お堂の周りも覗いてみたら、大善寺の石垣ギリギリに建てられてるお堂だった。すごいわ・・・(笑)。 つか、こんなとこまで覗くのなんて、私ぐらいだろーな・・・にほんブログ村
2012年09月23日

四脚門の内部は割とシンプル。けど、結構風格はある。 蟇股は、外側はかすれかかってるけど、なにか彫物があったみたい。 けど、内側には彫物の後は見えない。 蟇股(かえるまた)って、今までさんざん写真を載せてきた割には説明を書いた記憶がないけど、今さらながら簡単に説明しますと、上の荷重を受ける部材。上の写真のように、全部板になってるものが「板蟇股」(いたかえるまた)。板をくり抜いて透けてるものが「本蟇股」(ほんかえるまた)。蟇股の各部には、それぞれ名前がある。 で、股の中の彫刻(○で囲った部分)のことは、大工用語で「はらわた」というそうな他の部材と同じく、蟇股も時代が下るごとに派手になっていって、本来の用途よりは装飾的な意味合いが強くなっていく。後期になると、「はらわた」が股からはみ出してくるものも現れる(笑)。一般的に、板蟇股は比較的古い時代の建築に多いけど、そうでない場合もあるので、蟇股だけで時代判定をするのは難しい。さてと、境内には色々あるけど、まずは左側へ。入ってすぐのところには、美童の像が。 『旅立ちの法然さま』法然様は、三原出身の方ではありません。ならなんでここにおられるかというと、前回の御本尊様の解説を読んで宗派がわかった方も多いでしょうが、ここは浄土宗のお寺なんです。時々、いろんな上人様の像を置いてる寺があるけど、私が見たのは大抵この法然様のような美童か、若くて精悍なイケメン・・・晩年の像はまだ見たことないなあ~。いや、「見たいのか?」って言われるとちょっとビミョーだけど(笑)。「旅立ちの」とは言っても、こんな幼いうちから各地を行脚して布教に努めたって訳じゃないので、この像は、さしあたってこれから叡山へ勉学に向かう時ってカンジかな。まだ髪の毛あるし。「法然さま」というより、幼名の「勢至丸さま」と言った方がよさそうな感じだけど、それじゃ「誰、これ?」ってほとんどの人が思うだろうしな法然様の奥には、瓦が沢山並ぶ。 【大善寺鬼瓦 当鬼瓦は、文政10年再建の際、甲山において、製作されたもので、 平成14年の総葺き替えまで約200年間、寺を護り続けた鬼瓦であります。】 (大善寺立札より。漢数字は戦国ジジイが変換)へ~え、200年!!なんか、まだまだいけそうな外観だけど・・・で、その200年ものの鬼さんとかシャチにまぎれて、こんな瓦も置いてある。 三つ葉のクローバー・・・じゃありませんよ(笑)。なんでこの紋がここにあるのかは、もうちょっと後にしましょうかね。 法然様と向き合うのが、まだ新しい鐘楼。 本瓦葺の軒丸瓦は・・・ 余談だけど、徳川氏って葵紋を使う前は銀杏紋を使ってたって説があるんだってね。先祖が加茂神社(神紋は葵)の氏子だったことがあったので、それで使い始めたとかなんとか。一方では、先祖の第3代・松平信光の墓に剣銀杏の紋が付けられていること、日光東照宮にも銀杏紋が使われていることなどから、銀杏紋を使ってたのかも、って推測されてるとつい最近知った。へ~、東照宮かあ。今度気をつけて見てみよう。何しろ、日光山内へは年に最低1回は行くものの、東照宮にはあまり行かないもので(笑)。家光の大猷院へは、必ず行くんだけどね。大猷院、好きなんだもん鐘楼の脇には、小さなお堂が。 『三原新四国 第六十九番』?あれ・・・どっかにも、こんなのあったよな・・・帰ってから調べてみたら、「広島新四国」ってのは探せた。88箇所の霊場のうち、三原にもひとつあるみたいなんだけど、どうもそれとは違うみたい。69まであるってことは、三原にも独自に88箇所あるのかな?本堂へ行く前に、手水場があったのでお清めしようかな~と近寄った。そしたら、銘が彫ってある。 【楢崎氏正重 寄附之 寶永六巳丑仲春日】実は、大善寺にはこういうものもある。 【広島県史跡 楢崎正員(まさかず)の墓および関係遺跡 正員は、元和6年(1620)三原西町のそろばん製造業(のち薬種業)の 楢崎家に生まれ、家業に専念したのち、延宝元年(1673)54歳のとき 京都に赴き、山崎闇斎(あんさい)の門に学び、三原城主浅野忠義の知遇をえた。 彼は、晩年の10年間を須波に隠居したが、この地の東風が強いのをみかね、 私財をもって波止を築き、海運の便をはかり、元禄9年(1696) 77歳で没した。 関係遺跡としては他に、須波波止(須波町)と須波屋敷跡がある。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)なので、まず間違いなく正員さんの子孫の方の寄進なんでしょうね。姓が楢崎で薬種業って、龍馬の妻・おりょうと何ぞ関わりが・・・とか一瞬思ったけど、あれは武家の出だしな。で、こちらが本堂。 問田の大方様の菩提所だった割には、ここで小早川紋を見た覚えがない。なんでだろ・・・にほんブログ村
2012年09月23日

釜山寺から先の道も、引き続き細い道。 この先を左に入っていくと、万福寺(場所はこちら)。 ここのシャチは、金目 本堂、とソテツ(笑)。 【医王山薬師院万福寺は、市街地においては古い寺で、 現在の宗光寺の地にあったものを三原城築城時、宗光寺を移すために この地に移されました。 古くは西宮八幡の別当職を兼ねていました。 境内には、酒の神である松尾明神が祭ってあります。なお、釜山寺より さらに高台にあるため、一段とすばらしい景色が眺められます。】 (三原観光協会「海・山・空 夢ひらくまち」より)ここもいちおう移転組といっていいかな。西宮八幡て、三原八幡宮のことかな?宗光寺はこの後で行きますが、小早川・・・というより隆景にゆかりの深い寺。つまりは重要な寺ってことで、わざわざ既存の万福寺を移転させたって事は、それなりの理由があってのことだと思うので、宗光寺ではそのあたりも注意して見ようと思ってます。まあ、移転させられちゃったのはお気の毒様だけど、ここだっていい加減な位置にある訳じゃない。山門へ上るまでの狭くて長い石段は、守り手の方が有利だろうし。で、薄い酒だけど一応毎晩晩酌してる私としては、境内にあるというお酒の神様にお参りしていきたかったんだけど、なんか見当たらない。本堂の前に、ひとつお宮はあるにはあるんだけど、 「四海安寧 福利増進」?なんか違うっぽいし・・・だいぶ疲れてきたけど、ベンチなぞはないので、資料や地図を確認しつつ、本堂の石段に座り込んでちょっと休憩。多少の遠慮はまだ残ってるけど、もはや恥ずかしいなどという感情はほとんどない・・・それより、体調管理の方が大事だ(←完全な開き直り)。で、結局松尾明神様はわからないまま、万福寺を後にする。万福寺から東に行くと、武家屋敷のある通りに出るって書いてあったんだけど、ちょっとわからなかった少し南の方へ下ればあったかもしれないけど、はっきり場所がわからない所を求めてあちこちウロウロするほどの体力の余裕はないし。だって、こんな細い道があちこちにある街並みなんだもん。 これ、今は側溝にふたをして道幅をキープしてるけど、昔はもっと細かったんじゃないかと思う。土地勘のない攻め手がわーーーっ!!と押し寄せても、迷路みたいな道に惑わされるのは必定・・・そもそも、大人数は通れないし。で、そのまま次の目的地目指して北へ向かう。 右は寺、その先にも寺。右側の浄念寺は、天正年間に別の場所に建てられて元禄になって現在地へ来たそうだけど、洪水で寺の記録が失われたとのことで、詳しいことはわからない。けど、隆景の城下整備の時にはここにはなかった事になるので、そのまま先へ進む。浄念寺の先が、正明寺。 薬医門の立派な門。けど、本堂は近代的。 こちらは文禄年間に別の場所に建てられた後、文久に入って現在地に移ってきた。ので、ここも隆景ちゃんの時代にはいなかった。けど、こちらの本堂は三原初の近代建築寺院なんだって。この道の突き当たりが、次のお目当て、大善寺(場所はこちら)。 【増上山広度院大善寺は、沼田の新高山城の麓にあって、小早川隆景室 (慈光院月渓永知大姉)の菩提所でしたが、三原城築城に伴い天正8年 (1580年)この地に移されました。】 (三原観光協会「海・山・空 夢ひらくまち」より)隆景ちゃんの御正室様は、沼田(ぬた)小早川宗家のお姫様。ここでは結婚当時のことは書きませんが、隆景の死後も20年ちょい生きたので、毛利家の防長移封に伴い、周防の問田へ移り住んだことから「問田の大方(といたのおおかた)」と呼ばれた。この辺りのかつての街道とかの詳しいことはちょっとわからないんだけど、たぶん昔から北部の久井や甲山へ延びる道が通ってたんじゃないかな。地図にリンクしてもらえばわかるけど、寺でびっちり固めてるから。こちらの御本尊様は内仏として庫裏にあるらしいので拝めないけど、解説がある。 【広島県重要文化財 木造阿弥陀如来立像 一躯 像高77.5cm、寄木造り。 衣を通肩に懸け、袈裟の環は金具で作られている。衣文は流麗ななかにも 鋭さがみられ、いわゆる安阿弥(あんなみ)流と称せられる容姿を思わせる。 袈裟には金泥で繊細な卍クズシの紋様と唐草文が施されている。螺髪は 右旋回に刻まれ、肉髻・白豪はともに水精様を入れもとのまま、目は 半眼の玉眼である。 保存は良好で左の足柄に「巧匠□□□」と墨痕を残す。その他は柄が欠失 しているため作者の比定はできないが、慶派の作であると考えられている。 京都遣迎院の快慶作とほとんど同様である。】 (現地解説板より)断定はできないものの、名のある仏師の作カモ・・って匂わせてる。大善寺にはいつからあったのかまでは書いてないけど、問田の大方様もご覧になられたのであろーか・・・にほんブログ村
2012年09月22日

本堂の向かって右前には、おきまりの・・・ もう、ソテツはいいよ~!!って声が聞こえてきそうだけど、あちこちの寺を見てるうち、レギュラーへと昇進しちゃったんだもんでもホラ、このうねり方がそれぞれ違うから、結構個性があるっていうか(笑)。 この奥には、目を見張るものが・・・ 龍宮造の鐘楼じゃん・・・ナニコレこんな場所でこんなデザインにした由来を知りたいと思ったけど、解説もないし。 「昭和30年9月」と銘があるから、一旦供出して、また復活させたって感じかな? 以上で、法要でわさわさしてる順勝寺はおしまい。この先は、一気に攻め続けたい奥地へ入っていくので、どこかでクールダウンするならここで一旦中断すべきなんだけど、三原八幡宮で結構しっかり食べたし、めんどくさいからいいや、行っちゃえ~!!て事で、次へ。次の寺は場所的にはそう離れてないんだけど、道がイマイチ・・・大丈夫かな~。順勝寺からちょっとだけ東に戻って、小道を北へ向かう。↓こちらは順勝寺東側の土塀。 多少の手は加えてあるみたいだけど、さすがに立派な塀だわ~。しかし、道細っ!!この先で2回ほど曲がっても、こんな狭い道。 車は通れないんじゃないかな~。右側が昔はどうなってたかわからないけど、おそらく道幅はほぼ城下整備頃のままだと思う。この幅じゃ、刀は派手には振り回せないし、槍はまず無理だね。話には聞いてたけど、ホントにこんなに狭いなんてこの道の先にあるのが、次のスポット、釜山寺(場所はこちら)。 ここも(短いけど)参道が曲げられてる。山腹にある寺だから、地形上の関係でこうした造りにしただけの可能性もあるけど、ここまでの道の感じとあわせてみると、やっぱり戦略的要素の強い構成な気がするな。そう、古建築が好きな私なので、ただの寺めぐりかと思ってた方もおられるでしょうが、場所を考えて?ここは、三原城下なんです。それも、このあたりの寺はほとんどが城下整備の際に移転してきたものばかり。ちゃんとしたビジョンを持って、造られた町なんですよ。場合によっては、江戸時代に入って新しい城や砦を築けなくなったから、その代替として寺にその機能を持たせたってところもあるけど、ここは三原城の草創期に隆景ちゃんが「アンタんとこにはこれだけ土地を用意したから、三原へ移って来なさ~い」って指示を出して造り上げた町。だから、城下・・・主に寺町の構成についても、歩きながら自分の目と足で検証するという目的もあるんです。まあ、検証ったって、そんな大げさなものじゃないけどね。しかし、「現地で体感!!」は史跡めぐりの基本だし、神社仏閣大好きな私にとっては、まさに一石二鳥。最初、このプランが出来上がった時、「うわっっ、地味すぎ!!」て我ながら苦笑しちゃったんだけど、有名どころだけを見て回るより、自分が満足するプランじゃなきゃ意味がないしな・・・と開き直って敢行することにいたしました。・・・てここまで自分のスタンスをだらだら書いたのは、あまりにも城下を歩く人が少ないから。三原の旅は、私にとってはすごく楽しいものだったけど、一方では不満も相当出てきた。この続きは、三原城のところで書くことにしよう・・・ま、そんな訳で、三原城の訪城記を公開してる方達の内容というのは、ほとんど皆様同じような記述になってますが、通常紹介されている場所以外でも、地味に城下町の名残を留めているところは結構あります。それをこれから紹介していくかと思いますので、「また寺かよ~!!」って言わないでね。隆景ちゃんの造った町を歩いてくんだからで、こちらが山門。 ん~ん、何だか面白い造りになってるぞ~。手前のは何だろ?後付けの控柱みたいな・・・でも控柱だったら、門の内部に置くはずだしな。屋根も、にぎやか。 この真ん中のね、ヒレがあるから、シャチだよね。けど、普通ここにシャチって置かないよね。しかも、棟の方を向いてるから、下からはお腹しか見えないし。変わってるな~。境内は、そんなに広くない。まあ、平地にあるお寺じゃないからね。 【新宮山普門院釜山寺は、仁治2年(1241年)以前から、 沼田地方にあった熊野神社の本宮と新宮にそれぞれあった別当寺のひとつで、 古くから沼田東町釜山にあり、三原城築城に伴い今の地に移されました。 境内からの眺望はすばらしく、布刈瀬戸が遠望でき、三原八景の一つとして 数多くの文人が訪れ、歌を詠んでいます。 「又たくひ 波路を遠く 行く舟の ほのかに見えて 霞む海原」栂井一堂作】 (三原観光協会「海・山・空 夢ひらくまち」より)御本尊は弘法大師坐像。こちらの所蔵の不動明王画像は弘法大師様の筆によるものと伝えられているそうな。真言宗なので、境内にはこんなものも・・・ 「こうやくん」・・・脱力↓たしか本堂の蟇股。 龍・・・かなあ?龍って真っ正面から描かれることってあまりないから、イマイチよくわからない。拡大してみると、違うようにも見えるし。軒丸瓦はこんなの。 ・・・これ、漢字?「釜山寺」の「釜」の略字とか?何ていうんだろう、これ・・・三原八景はこんな感じ。 「布刈瀬戸」は因島と向島の間を流れる海域のことをいうらしいんだけど、ちょ~っとビルがあって海はキビシイな。真ん中へんに見える入母屋の大きな屋根は、順勝寺の本堂だな。まあ、海は見えないけど、ちょっと上がっただけなのになかなか眺めはいい。写真では結構雲が出てるけど、ちょうどこの時、沖縄を超大型台風が襲ってたのでね、そのせいもあってか、高台へ上るといい風が吹いてきて、気持ち良かった。にほんブログ村
2012年09月21日

前回の記事の、最後の摂社の脇にもさらに小さい宮がある。 こんなちっこいのも含めたら、八幡宮の境内に一体宮はいくつあるんだろう・・・結構あったよな~。でっ、その隣で最後の摂社になるんだけど、これがまた素敵だった。 ヤ~ン、檜皮じゃない、コレ!? (←檜皮好き)すごいカッコいい~!素敵~!!惚れた~!!!こーゆー小さい宮で檜皮葺って、滅多にないんだけどね。装飾も細かく、ちゃあんと造ってありまする この時も、すごい近寄って撮影してたらまたピンポーン・・・て聞こえた。要するに、セキュリティーなのか!?ある一線を越えると、鳴る仕組みだったのかもしれない。いいじゃん、近寄って撮影するぐらい・・・水神様の宮からさらに奥には、こんなものがあった。 これが能相撲のかな?そもそも、能相撲ってのがどんなものかわからないしな~そのまま奥の境内の端まで行くと、三原市街が見下ろせた。 おお~、城下だ~!下には、西国街道も見える。三原八幡宮の前は三原城の西惣門のあった場所なので、この見晴らしで、さらに奥に法常寺が控えるって構成か・・・まさに西の要って感じだな。しかし、ランチ込みでここだけでまったり1時間かかっちゃった。やっぱり今日は、あんまりこなせないかもな~。石段を下りてたら、来た時には気付かなかったものを見つけた。 む?何じゃ、こりゃ?どっからどこまでをカウントしてるんだろう。面白いな・・・八幡宮を出て、西国街道へ復帰。写真の真ん中へんが三原城西惣門跡の碑が建つところ。 ふう、芸備国境からここまで、やっと来たあ~。これより城下へ入ります 西国街道を東へ進んで、通り沿いにまず現れるのが順勝寺(場所はこちら)。ここの山門は移築門なんだけど、それについては三原城のところで書きますので、今はひとまず中へ。 移築門の奥にある中門は、なかなか手が込んでる。 彫物の感じからすると、そんなに古くはない・・・少なくとも江戸以前て感じじゃないよな。 藤紋て、一条と九条がよく似てるんだけど、これは一条藤の方かな。 門の全体もなかなか立派だったんだけど、実はこのお寺、この門の内側にまで車を入れられるようになっていて、しかもこの日は檀家さんの法事があった。ので、写真を撮るにも車がちょこちょこ出入りして、そんなに広くはない境内の中で切り返しだのなんだのするから、落ち着いて拝観も撮影もできなかった。法事は仕方ないけどね、本堂の前まで車を乗り入れるのは勘弁してほしいよな~。門の先すぐには、宝形(ほうぎょう)造の蔵みたいのがある。経蔵かな? おお、「順勝寺」の「順」だあ~! 結構お寺さんには、普通の柄の紋の他に、寺の名前の文字の瓦を葺いてるところも多い。法常寺の字は、恥ずかしながら読めなかったんだけど、あれも「法」の旧字とかなんじゃないのかな・・・ こちらが本堂。 三原の寺は全体的に、色んなものがゴテゴテと(失礼!)載ってて派手だなあ~って感じだったけど、ここはかなりシンプルだよな。順勝寺の歴史は、古い。 【高隆山順勝寺は古くは天台宗として高山城の麓にありましたが、 小早川家の家老田坂善慶の弟善應が出家し、一時禅宗に変わっていたのを、 文明3年(1471年)蓮如上人に教えを受け浄土真宗に変わり 三原城築城に伴いこの地に移されました。 この寺は市内の真宗寺の代表格であり、天正15年(1587年)豊臣秀吉が 九州に陣をかまえていたとき、准如上人が見舞いに行く途中当寺で一泊されるなど 両上人の御数珠など真宗にとって貴重な品物が多数あります。】 (三原観光協会「海・山・空 夢ひらくまち」より)ふ~む、准如はこんなとこまで来ておったのか・・・『小早川家の家老田坂善慶』は別のシリーズで書く予定ですが、一言でいえば、隆景ちゃんの沼田本家相続に反対して粛清されたといわれている人です。円満な相続じゃなかったからね、アレ。境内には寺の歴史を書いた看板とかはなかったけど、小早川ファンなら、ううむ・・・とちょっとしみじみしちゃうような歴史を秘めたお寺です。にほんブログ村
2012年09月20日

本殿エリアの石段を下りると、「まわり道」って立札があった。拝殿と奥の本殿をつなぐ渡り廊下の下をくぐれるようになってるんだけど、何かある・・・ わあ、なんか迫力~。なんで真ん中のところ、赤く塗ってるの・・・ちょっとコワいくらいなんだけどパンパンした後でそのまま拝殿の右側へ回り込むと、摂社がひとつ。 確か、何も書いてなかったと思うけど・・・宮の名前くらい書いておいてほしいかな~。他にも、灯籠や小さな祠は沢山建つ。 拝殿の正面へ戻ろうとしたら、もうひとつ摂社があった。 「天神社」とある。あ、連歌が行われていたっていう、天神社かな?まあ、見るからにその当時の建物ではないけど。拝殿の正面に戻ると、さっきは気付かなかったモノに目がいった。 石造りで、白いペンキが塗ってある真ん中のモノ。何だと思う?最初はわからなかった。でも、反対側にもあるのを見て、あっっ、塩かあ~!!とひらめいた。神社だしね、お清めの塩でしょ、コレ。しかも、雨にも風にもびくともしない三原、面白すぎ~!!さて、社殿エリアはこれでおしまい。下の段へ向かう。まずは神楽殿。 お神楽・・・ここで?中の様子が気になるけど、御覧の通り閉まってるので覗けない。その先にはこんなものが・・・ う~ん、何だろう、コレ・・・三原の観光情報サイトには、古くから能相撲が行われた相撲場があるって書いてあったから、これかな?てか、能相撲ってナニ!? 世の中には、わからないことが多すぎる謎のお堂の奥には、句碑。 旅人と我名よばれむ初しぐれ「笈の小文」に収められている、芭蕉おじさんの句だそうです。たぶん、前回の解説にあった雄略天皇の「しぐれ松」にちなんでのものだと思うけど。その先には、摂社が立ち並ぶ。 神社によっては、摂社がみんな同じ造りをしてるものもあるけど、ここのはそれぞれ違う。摂社って、由来とかがいちいち紹介されてないのがほとんどだけど、小さな宮でも結構丁寧な作りをしているものもあって、見るの好きなんだよね、私こんな蟇股とか。 次の宮は、まだ新しくて綺麗だった。ん~っ、ここも細かいけど、ちゃんと造られてる。 覗いてるうち、これは組物の説明をする素材として使えそーだ!!と思って思いっきり近寄って撮影してたら、後ろの方でピンポーン・・・と鳴った。クリーニング屋さんに入った時鳴るような感じの。ピンポンが聞こえるような距離には建物がないから、おっかしいな~と思ったけど、誰が来る訳でもないし、とりあえず続行。 わかりやすいように色分けしましたが、屋根の軒下や建物内部でも天井付近によくあるこんな部材を、斗組(とぐみ、ますぐみ)・組物・升形(ますがた)といいます。上の写真のは「平三斗」(ひらみつと)といって、実際には幾つかの部材がすでに組まれてるものなんだけど、細かすぎる説明は書く方も読む方も大変なので(笑)、ちょ~お大ざっぱに説明しますね。平三斗は上の部分が3つに分かれてるけど、こうやって荷重を分散して、重い屋根を支えます。 左右に平ぺったいから「平三斗」。しかし、これを組み合わせることで奥行が出て、空間に広がりを持たせることができます。それが、2枚目の写真。組み方は違うんだけど、こんな感じでタテ・ヨコ・タテ・ヨコ・・・と前に出して組み合わせていけば、↓こちらの写真のように、上の階や軒の深い屋根なんかをしっかりと支え、かつ美しさと華やかさが添えられる訳です。 (大津・三井寺の鐘楼)木造建築って、ホントにすごいよね~。と、非常に簡単ではありますが、せっかく古いお寺とかに行くのであれば、建築のことも知ってるとより楽しめますので、ぜひ関心を持っていただければ・・・との願いもこめてちょっぴり解説させていただきました。にほんブログ村
2012年09月19日

山門の手前にいる狛犬。 これはまた、独特だな・・・ 歯が、コレ・・・全部犬歯だよな(笑)。目はギリシャとかローマの彫刻みたいだし、狛犬っていうよりシーサーみたいだ。山門をくぐるとすぐに手水舎があったので、神前へ詣でる前のお清め。・・・が、なんか見慣れないものがある。 すごい!!お手拭き用の紙と、紙くず入れまで付いてる!!ま~、正直言って、水盤の水がすごい汚ないとか、疲れてめんどくさい時なんかは、申し訳ないと思いつつ、お清めをパスさせていただくことなんかもある。しかし、ここまでされちゃ~な~。至れりつくせりのこの場所で、なおもお清めを省略する人間は、そうおらんだろ。この時は、境内には誰もいなかったんだけどね。だから、パスしても誰に責められる訳じゃないけど、神様はちゃんと見ておられるので、ありがたく備え付けの紙を使わせていただきました。こんな神社、初めてだよ・・・ 右手の方は広場のようになっていて、ちらほら建築物が見えるんだけど、まずは本殿へと向かう。この参道上の、右へ入る小道の先には、また手水舎があった。 なんでこの近い距離に、2つも?よくわからないけど、小早川紋がついてるから許そう(笑)。そしてこちらにも、お手拭き紙とくず入れがセットされてるし。そんなに派手ではないけど、結構立派な神社。灯籠もいくつもあるし・・・て、ちょっとこの灯籠、なんか変わってる・・・灯籠の傘の部分て、こんなだったっけ? 参道から一段上がったところに、宮は建つ。 あっ、これが茅の輪かあ~!これをぐるぐるくぐるといいらしいので、それは後回しにして、輪の横を通って神前へと進む。 三原八幡宮全体を通して、ほとんどが小早川紋だった。↓この写真の中だけでも、4つ紋があるし。 ところで、もう11時。夏の史跡めぐりはやはり、いかにして暑さと上手に付き合うかに尽きる。特に今日は、クーラーの効いてるようなところには行かない予定なので、ランチでどっか涼しいお店に入って、少しでもクールダウンをしておかないといかん、と思っていた。三原八幡宮からは、ちょっと歩いて町の方まで戻らないと食べ物屋さんはなさそう。でも、小腹は空いたし、疲れたし、何よりまだ境内を見終わってない。実は、八幡宮の山腹には公園があるって事だったので、そこでちょっと休憩をしようと思ってた。山門へ上る途中の石段の脇に、公園へ行く道は確かにあったんだけど、想像してたのとだいぶ違うし、そこへ降りていく道が草に覆われててすごい嫌な感じの道だったので、やめた。うう、せっかく冷たい缶コーヒー買ったのに、どうしよう境内にベンチとか座れる場所がなかったら、もう石段にでも座っちゃおうかな・・・ところが、茅の輪の前には、なんとベンチがあったんですね~。しかも、灰皿つき(笑)。こーゆー場所にはあまりベンチを置かない気がするけど、人もいないし、ありがたく座らせてもらっちゃおうついでに、ここを見終わるまで空腹をガマンできそうにないから、手持ちのパンを食べていっちゃおうてんで、おもむろに神前で軽いランチを取らせていただきました。あ、タバコは吸いませんでしたよ。外気温が高い中でタバコ吸うと、余計暑くなるからね。だって、火気ですから。 神社の境内って、木が多いよね。おまけに誰も来ないから静かだし、小早川紋のついた拝殿を眺めながらパンをかじるこの幸せ・・・(笑)。なんか、誂えたようなシチュエーションだな。軽い食事が済んだところで、輪くぐりをしようっと輪の上部には、「生命(いのち)の輪」と書いてある。これを8の字に3回くぐるといい事があると読んだので、一人で黙々と回った。ホントは、もう法常寺で相当ラッキーな体験をしたから、もうこれ以上いい事が起こらなくってもいいんだけどね(←貧乏性)。3回回ったところで、宮の周囲を時計回りに探索~。 社殿の向かって左側には、神饌殿。神饌殿と拝殿を、渡り廊下がつなぐ。 渡り廊下の先に見える石段の上には小さな門があって、閉められているのでその先の本殿の建つ聖域には入れない。ので、玉垣の上から写真だけ~。 木が多いのはいいけど、この場合、はっきり言って枝がジャマ中に建つ灯籠に刻銘が見えたので、撮ってみたら天保12年だって・・・ にほんブログ村
2012年09月18日

ルンルン気分で法常寺の坂を下りて、西国街道へ。次のスポット、三原八幡宮の前の道路には碑が立つ。 この碑の側面には、「小早川隆景公四百回忌記念」とある。400回忌記念なら、1997年の建立か・・・三原城は前回書いたように、かなり長い時間をかけて段階的に整備が続けられてきた城だけど、死後400年経ってなお、三原城下の史跡整備に駆り出される又四郎様・・・(笑)。そういえば、昔ここに立っていた松の木の切り株が残ってるとかいう話だったけど、気が付かなかったなあ・・・このすぐ近くに、もうひとつ石碑があるハズなんだけど、先に三原八幡宮へ行こう(場所はこちら)。 入り口には、狛犬。例によって、ここもボールがデカいので、下半身は直立してる(笑)。 三原はホント面白い・・・と石段を上がる。結構、段数あったけどね。↓こちらが、神社の山門。 随身門・・・わかりやすくていいな扁額の下の幕には小早川紋がいっぱいついてるし、風格あるな。三原八幡宮の歴史は、 【永正7年(1510年)に比大神・応神天皇・神功皇后をまつり、 西町・西野村一帯の総氏神として建てられたと伝えられておりますが、 天正3年(1575年)小早川隆景によってこの地に移され、浅野時代、 この南側に広がっている宮沖新開築造の際に新田が寄進されています。 (中略)広い境内には古くから能角力が行われていた相撲場や、かつて港の標識として 西港町において親しまれていた高さ5mの常夜燈がここに移され、古くから 桜の名所として親しまれたこの地を飾っています。 伝えによれば、雄略天皇がこの地におなりのとき、枝ぶりの美しさをめでられ、 そのさまが時雨のようであったところから「しぐれ松」として市民に親しまれた松が ありました。これにちなんだ芭蕉の句碑や、昔、連歌が行われていた天神社などが あります。】 (三原観光協会様の「海・山・空 夢ひらくまち」より)前回、三原城下整備と寺社の移転について書いたけど、築城に伴い移転した寺社の中で、その時期がはっきりしてて、かつ私が訪問した中では、ここが城下移転組の一番乗り。ただ、現在の地名と対応してるのであれば、地図で見る限り、八幡宮があった元の場所・西野はそんなに離れてないんだけどね。やっぱり、意図があって移転を計画したって感じだよな。この門ひとつでも結構見どころがあるんだけど、まずは下の方からいこうかな。え~っと、随身門というからには、左右には当然・・・あれ?なんかある・・・ 【昭和大改修記念品 旧拝殿役物瓦 鬼】ああ・・・先代の鬼さんなのか。鬼さんの後ろにいる随身さんが、こちら。 随身さんは、もともと平安以降に貴族のボディーガードをした近衛府所属の公務員のことで、転じて神社においては神を守る者として門の左右に配置されるそうな。神社を守るのなら、ぱっと見、仁王様の方が強そうに見えるから、仁王門の方がいいんじゃないのかな~なんてちょっと思っちゃう。随身さんて小ぶりなサイズのものが多いし。随身門てあんまり多くはないから、仁王様を見慣れてるってのもあるのかもしれない。けど、「随身」は「随神」とも書かれ、別名として矢大神・左大神、門守神(かどもりのかみ)、看督長(かどのおさ)なんてのもあるんだって。一見、人間ぽいけど、つまりは神様を守る神様ってことなのか。門の反対側も、同じように鬼と随身像がおわす。 ・・・鬼瓦の鬼と、正面から間近に同じ位置で視線を合わせるって、滅多にないシチュエーションなんでね。結構、迫力あるもんだな~・・・とちょっとひるんだ。さて、本瓦葺の山門の屋根は、大棟のところがちょっと独特。 大棟の瓦積もいくつかの種類があるんだけど、桃山時代頃からはやっぱりこの部分も派手になってきて、一般的に多いのは、輪違(わちがい)瓦。 (米山寺の本堂)ここのは派手じゃないけど、なんか可愛らしいな・・・花菱か何かかな・・・と思って、帰ってから写真を拡大してみたら、フツーの井桁だった。井桁の瓦を大棟に使うと、あんな感じになるのか~。ちょっと意外だったなして、屋根の上には、ハト!また!! 他の屋根の装飾はこんなの。 獅子口(手前の部分)についてるのは、丸に剣方喰(かたばみ)。これが神紋かな?屋根の上なんて、下からじゃ死角になっちゃって見えない部分も多いのに、実に細かく丁寧に造られてるよね~。日本人の美意識ってホントすごいよな~。にほんブログ村
2012年09月17日

さて、仏教のお寺では一般的に初代住職のことを「開山」というが、在家のビッグなスポンサーのことは「開基」という。小早川興景が曹洞宗に改めた理由はわからないけど、宗派と寺名を変えて新しいスタートを切ったことから、法常寺では興景を開基としている。現在の法常寺は引き続き曹洞宗だから、曹洞宗時代の、って意味なんでしょうね。 【天文20年(1551)隆景公高山城入城、翌21年(1552)城を 新高山城に移す。新高山城の祈願所として、法常寺を新庄より城の北側麓 船木の地に移された。永禄が6年、元亀で3年、天正20年の計29年間である。 (現在、船木に残る法常寺跡の伝承は2ヶ所あり。また、新庄より三原に直接 移転したという説もあり。)】 (「東日山 法常寺誌」より)隆景相続の経緯だとかその時期の諸々のことについては、ゆかりの地へ行った時にあらためて書こうと思ってるので、ここでは関連する事だけにとどめておこうと思います。で、まず私が疑問に思うのは、新高山城は法常寺が元あった場所からそんなに離れてるって訳でもないんだから、わざわざ移転させることもなかったんじゃない?ってこと。そもそも新高山城を築いた理由ってのがどうも私にはわからないんだけど、それは後に回すとして、まあ私の頭で考えられるのは同じ一族とはいっても前回書いた通り、竹原家が創設されてから300年あまり。数多くある小早川一族の中でも竹原家は本家に対する独立心が高く、隆景の本家相続によって両家が再び一つになるまでの長い間には、様々な確執もあった。地理的な関係などで、強力な支配者を持たなかった安芸では、個々の国人が時勢に応じて様々な強者と結んだ歴史があるけど、小早川一族でもそれぞれの属するバックが異なることは往々にしてあった。皇位継承問題や寺社・武家への介入を積極的に行ったことで有名な「くじ引き将軍」足利義教は、小早川家の相続についても口をはさみ、沼田家と竹原家の内紛を助長している。また、応仁の乱では沼田家は東軍に、竹原家は西軍につき、竹原家の兵が3年にわたり沼田家の高山城を包囲したりもしている。かと思うと、大内義興さんが「流れ公方」足利義尹を奉じて上洛した際には、沼田家はリベンジ軍に参加せず、後に政治的に孤立。論功行賞で沼田家の家督と所領が竹原家の弘平に与えられたのにも関わらず、弘平は窮地に陥った沼田本家を助け、本家の存続を図る。ちなみに、「三原編(2)」で『沼田本家の通し字は「平」、竹原家は「景」です。一部例外もあるけど、大概の人はこれで見分けがつきます。』と書いたけど、「一部例外」はこの竹原家の弘平さんのことです。そんな感じで300年過ごしてきた両家を統合した隆景には、当然強力なリーダーシップが求められたし、両家のバランスを取りながら統括していくことも重要課題だったのかな~・・・みたいな。まあ、隆景が高山城~新高山城~三原城へと移っていく過程においては、だんだんと毛利家家臣が小早川家に入り込んで、毛利家を支える強力なガーディアンへと大きく変貌を遂げていく訳だけど、隆景の死後も葬儀と埋葬を法常寺と米山寺で分担してるあたり、沼田衆と竹原衆の融和策は隆景の本家相続から死ぬまでず~っと続けられていたのかな~・・・とも思った。そして三原に法常寺が再び引っ越したことにより、法常寺では隆景を再開基とし、開基の興景とあわせて現在も祀られている。さて三原への移転ですが、これはもちろん三原城の城下整備に関連するもので、まだ三原城の記事を書いてない都合上リンクを張る訳にもいかず、ゆえに三原城の記事との重複もあるかと思いますが、そこはご容赦くだされ。初期の三原城の歴史を大ざっぱに書くと、こんな感じ。 天文22年 八幡六郎右衛門が三原要害の在番を申しつけられる。 永禄10年 三原城の整備が進められ、本丸・二の丸・三の丸・舟入りができる。 天正3年 三原城の存在が文献で確認できる。 天正11年 重臣3名に城下の整備状況を監督させるため、5日に1度の見回りを 命じる。 慶長元年 隆景の隠居に伴い、小早川氏による最後の構築が進められる。一般的には、三原城の築城は永禄10年(1567)、町の建設を含めた本格的な整備は、備中高松城の戦いから帰った後の天正10年(1582)~天正11年(1583)と言われる。これから巡る沢山の寺も、ほとんどが三原城築城に伴い移転してきたもので、移転の時期がはっきりわからない寺もあるものの、わかっている所ではみんな天正年間(1573~1593)に三原へ移転をしている。して、法常寺の移転については「東日山 法常寺誌」は次のように語る。 【(前略)三原築城は、永禄10年(1567)より天正10年(1582)の 間のようであるが、整備は隆景公の没年まで続いていた。<法常寺の>現在地は、 三原城の西の乾の方角(西の要の位置)にあり、山門を入ってすぐに参道が 曲げられている(搦め手)など、三原城の西の出城として建てられたようである。 本郷村庄屋土生家(現在絶家)文書によれば、引っ越しは天正20年(1592)と 記載されており、また、現在本堂入口上の壁に打付けられている文化4年(1807)の 棟板に「天正二十年隆景公により再興さる」(大工棟梁、長澤、品川両氏の署名あり) とあるので天正20年に現在地に移転したものと思われる。 法常寺の移転は、一部に元亀2年(1571)と言う説があるが、これは、三原志稿 (文政2年、1819)に書かれている元亀2年7月3日の小早川氏の奉行、代官連書の 本寺龍文寺宛の寺領報告で、三原へ引っ越しすればこれだけ支給するとの 公の支給指示予定書のものと思われる。】 (<>内は戦国ジジイが追加)隆景が新高山城から三原城へ本拠を移した時期については、わかっていない。三原要害ができてからは、三原から作戦の指揮を取ることが多くなったようだけど、永禄4年(1561)に毛利元就が長男・隆元と毛利家譜代の重臣たちを引き連れて隆景のところへ遠足に来た際には、新高山城で大事な御一行様を迎えているので、この時には本城は新高山城だったことがわかる。天正元年(1573)あたりになると、隆景は三原城に常駐して次第に本城としての機能を持つようになり、天正10年(1582)~天正11年(1583)の本格的な整備の際には、新高山城から石垣やら建物やら色んなものを移してきたという。けど「法常寺誌」の解説を見ると、元亀2年(1571)の段階ですでに各地の寺を移転させるプランは出来上がってたみたいだね。移転した年がわかっている寺社の中でも、早いものは天正3年(1575)てのがあるし。そうなると、思っていたよりも早い時期に三原城を本城とする構想が隆景ちゃんの中にあったのかあ~と大変興味深く「法常寺誌」を読ませていただきました。ちなみに、元亀2年7月3日付の寺領報告には、「三原の内法常寺分十三町半」と記載があるそうな。一方的に「城を移すから、お前らも来いよ!オラオラ~!!」ってんじゃなくて、きちんとした都市計画に基づいて、受け入れる側の体制も整ってたってことだよね。にほんブログ村
2012年09月16日

こちらが、庫裏の外観。 破風、でけえ~!!日本人の破風好きは以前に岡山城シリーズで少し書いたけど、江戸期頃になると破風はよりデカいものが好まれ、破風を大きく造ることのできる大工が有能とされたそうな。ちょっと側面の大棟側の写真がないからよくわからないけど、なんか錣葺(しころぶき)っぽい・・・ちなみに、日本建築は建物の向きによって呼び方が違います。建物の正面から見て、大棟が左右にわたってる場合が「平入り(ひらいり)」。例えば、米山寺の本堂。 これに対して、法常寺の庫裏は正面から見て棟が前後にわたってるでしょ。こちらを「妻入り(つまいり)」という。妻入りの場合は、やっぱり妻飾りに目がいくから、ここの装飾に力を入れるらしい。法常寺の庫裏の創建や改修についてはわからないけど、たぶんそれなりに古い建物だと思う。綺麗で新しく見えるけどね。境内であと残すのは、隆景の小祠。開山堂での余韻で幸せ一杯な気分で、一段下がった小祠へと向かう。 ああ・・・又四郎(隆景の別名)大明神様、幸せな時間をありがとうございますしょっぱなからこんなラッキーな体験をして、疲れたとか具合悪いとか言ってる場合じゃないよ。頑張らなくっちゃと俄然やる気が出た。しかし、何かすごい話ばっかりだったな~。三原に寺は数多くあれど、観光案内所に置いてあるパンフレットとかには、隆景の墓のある米山寺だとか、城の移築門のある寺社しかピックアップされてない。それ以外の表向き地味なスポットに行く場合、何と言っても実際に行った方の訪問記が重要になってくる。ところが、法常寺の訪問記は実に少ないのだ~。広大なインターネットの世界を隅から隅まで見た訳じゃないけど、とにかく少ない。隆景の葬儀と荼毘の場所と知ってて法常寺を訪れる歴史好きもほんの数人いたけど、それ以外は街道歩きか寺社巡りが目的の人。その3者をあわせても、実に少ない。檀家さんとか、寺主催のイベントに参加するような関係者を除き、純粋な拝観目的で法常寺を訪れる人の実数はわからないし、拝観者みんなが訪問記をネットで公開してる訳じゃないのはわかってるけど、訪問記はある程度は実数を反映するからね。比較するようで失礼だけど、例えば米山寺あたりと比べたら、実際に法常寺を訪れる人は相当少ないんだと思う。ゆえに、開山堂で奥様が語ってくれたような内容は、誰もネット上で公開していない。竹原小早川家の菩提寺だからこそ伝えられてきたような貴重な話を聞かせていただいたこの感動・・・ホントは、自分一人の胸にしまっておきたいな~ともちょっと思ったけど、それじゃ法常寺の紹介にならないからなさて、奥様にいただいた法常寺の沿革を記した資料、こちらにも興味深い事が色々書いてある。以下の引用はすべて『東日山 法常寺誌』からです。まず、創建については 【沼田の庄惣地頭職であった小早川家第四代茂平公が承久3年(1221) 都宇竹原地頭となり、この職を引継いだ四男景平公は、正嘉2年(1258)新庄木村城を 居城とし、以後代を重ね、十三代興景公に至る約3百年間地頭職を務めた間、 木村山城北方の山麓に位置する東日山法輪常転禅寺(天台宗)を菩提所として 歴代のお墓を安置したと伝えられている。】とある。竹原小早川興景は、隆景の先代。隆景以前の小早川家については、歴史好きでも安芸・備後あたりの国人衆に詳しい人とかでないとあんまり知ってる人はいないんじゃないかと思うけど、竹原家は隆景の一代前までで約300年。法輪常転禅寺の創建がはっきり何年とは書いてないけど、景平が竹原に移ってきた頃を創建時期とすれば、寺の歴史はトータルで大体750年くらいになる。長いな~。古いな~。 【中国路は防長の大内氏の庇護のもと、山口に石屋真梁を開山とする大寧寺・泰雲寺があり、 その法孫が次々と開山している。(中略) 石屋師の(中略)五代法孫で洞雲寺六世になる大休登懌師の時、竹原小早川家十三代 興景公が天台宗の法輪常転禅寺を曹洞宗に改宗(天文8年、1539)し、 師を開山に招いて寺名を法常寺とする。大休師は自分の師の天庵宗春師(洞雲寺五世)を 開山(勧請開山)とし、自分は二世(創業始祖)となる。】石屋真梁(せきおくしんりょう)および、その法孫たちが開山となった寺には、有名なものも多い。例えば、 ・大寧寺(長門市)・・大内義隆終焉の地。関東管領・上杉憲実もここで最期を迎える。 ・泰雲寺(山口市)・・もと闢雲(びゃくうん)禅寺といい、大内教弘の菩提寺。 のちに隆景夫妻の菩提寺となり、隆景の法名より寺号をあらためる。 ・洞雲寺(廿日市市)・・陶隆房・穂井田元清(元就四男)などの墓がある。 ・龍文寺(周南市)・・陶氏菩提寺。なんてね。禅の宗派にも色々あるけど、「臨済将軍曹洞土民」という言葉があるそうで、臨済宗が中央の権力と結びついて発展したのとは対照的に、曹洞宗は地方の武家や一般庶民などに広まった。西日本においては、大内氏と島津氏が特に有力なスポンサーだったという。そして中国から九州にかけて、上記のような主だった寺の末寺がものすごく沢山できたそうなんだけど、それらの多くは金属資源の生産地、流通の中継となる場所および港の近くに造られたという。教線を伸ばしたい寺と、その教えや僧を活用して飛躍したい地方武士とのタイアップって感じかな。ただ、大内氏の場合は歴代当主は臨済宗への崇敬が篤かったともいわれるけどね。まあ、義隆を除く歴代当主はみんな在京してたから、臨済と全く無関係って訳にもいかないでしょうし・・・個人的信仰(?)の臨済以外にも、政治的意図やら何やらで曹洞宗の保護も積極的にしていたって事なのかな。なんといっても当時の僧は、言葉とか幅広い知識などで、外交や貿易には欠かせない存在。遣明船の場合なんかは、正使はほとんどが僧侶だしね。だから、大内氏が勢力を張った地域で曹洞宗のお寺を見かけたら、往時の大内氏と曹洞宗のエネルギーを思い浮かべてくださいね(笑)。↓ランキング参加中につき、「ぽち」をお願いしま~すにほんブログ村
2012年09月16日

庫裏の入り口でピンポンを押したら、反応があった。よかった、ここは人がいた・・・出てきたのは、たぶん奥様だと思う。違ってたら失礼だけど、ここでは奥様とさせていただきます。「あの、縁起とか書いたものがあればいただきたいんですけど・・・」と言ってみたら、玄関に置いてあったものをくれた。「あの、外の看板に、隆景公の寄進の品があるとあったんですけど、拝観させてはいただけないですよねえ・・・あの、紫檀の唐物の・・・」とダメ元で聞いてみたら、「あ、ええ、それは・・・」と口ごもって、奥様はちょっと困った顔をされた。「ちょっと今日は住職がいないもので、私では・・・」「そ、そうですか・・・」というやり取りを少しした後、よく経緯は覚えてないけど、「本堂の方へ・・・」というセリフが出た。「本堂?本堂から回ればいいですか!?」「あ、ええ・・・じゃあ、本堂の方からお上がりください」無理にお願いするつもりも、したつもりもなかったけど(いや、ホントに)、なんか上がらせていただくことになった。本堂の正面から靴を脱いで上がると、資料を手にした奥様が待機していた。まずは、すぐ上にある鳳凰の彫物から見せていただく。(す、すいません、さっき勝手に見せてもらっちゃったんですぅ・・・)外側から見るとあの欄間は鳳凰だけど、裏から見ると柄が違う。確か、植物柄だったっけか・・・「これから法要があるので、今日はこんななんですけど・・・」うひゃあ・・・そんな時に案内してもらってるのか、私申し訳ありません・・・その後、奥へと案内された。本堂から渡り廊下みたいなところを通って奥へ奥へと行った先の建物の入り口で、奥様が鍵を外して中へ入れてくれた。「ここが開山堂です」開山堂・・・これが!?てっきり、米山寺の霊堂みたいに独立した建物が境内にあるのかと思っていた。こ、これじゃ外からも拝むことはできなかったわ・・・正面におわすのが、たぶん隆景寄進と伝えられる唐物の聖観音紫檀佛。その脇侍として、大元師と達磨師の木像。まさか中へ案内してもらえるなんて思わなかったので、この時は結構気が動転してて、あまり御本尊様は拝めなかった。奥様は忙しいのに、まったり見学する訳にもいかないし。で、向かって左側にはお位牌がずらりと並ぶ。もちろん、竹原小早川家歴代のお位牌。前後2列に並んだお位牌の中で、ひときわ大きなのが2つ。「こちらが隆景公のお位牌です。黄梅院殿とあるでしょう?」覗きこむと、確かに隆景の戒名「黄梅院殿三品泰雲紹閑大居士神儀」とある。米山寺の霊堂に並んでたお位牌は木造のものだったけど、法常寺にあるのは普通「位牌」といわれて私達が思い浮かべるタイプのもの。隆景の死後、葬儀は竹原家の菩提寺・法常寺で行われ、ここで荼毘に付された。その後で、沼田家の菩提寺・米山寺に葬られた。隆景によって沼田家と竹原家が統一されたといっても、やはりそれぞれの歴史があるから、葬儀から埋葬までを法常寺と米山寺で分担して受け持ったって感じなんだろうか。米山寺の位牌群の文字は読めなかったけど、おそらく米山寺の霊堂にも隆景の位牌はあると思う。けど、死後の手続を2つの寺で分担してやっていて、墓が米山寺にあるのなら、位牌は法常寺で持ちそうな気がする・・・京都大徳寺の黄梅院にも隆景の位牌はあるでしょうけど、それはもちろんメインのものではないでしょうしね。「これが本物のお位牌ですか?」なんて失礼な事は聞かなかったけど、たぶんそうなんじゃないのかな・・・まあ、別にメインのものでなくっても全然構わないんだけど。そんなことより、まさかお位牌を見せていただけるなんて~!!お位牌の置かれている3段の段の端には、1段目と2段目に小さな厨子が置かれていた。確か最初は2つとも扉が閉まってたと思うけど、「こちらが隆景公の木像です」と言った後で、さらりと厨子の扉を開けてくれた。えええええ~!!本当にいいんですかあ~!!!(←実際、叫んだ)上の段の隆景ちゃんは、そうだな・・・ちょっと小さめのお内裏様をご想像ください。それの、中納言正装隆景バージョンて感じ。下の段のは、さらに小さい。顔は2つとも違う面差しだけど、どちらもかすかに微笑んでおられる。「本堂に上がる途中の小祠に寄ってきましたか?この小さい方の像は、以前はあの祠の中にあったんですよ」「あ・・・小祠は後で行こうと思ってまして・・・じゃあ、看板に毎年7月にお祭りを続けているとありましたけど、こちらがそうなんですね」「それが、檀家さんの高齢化とか色々な事情がありまして、このところお祭りができていないんです。なので、外の小祠からここへ移してあるんですよ」うわっ、そんな話、聞いたことない・・・聞いてて鳥肌が立った。奥様のレアな話はまだ続く。「隆景公の荼毘は、本堂の正面で行われたと伝えられています。荼毘の時には下に大きな石を2つ敷いて、その石は後になってそれぞれ違う檀家さんにお譲りして、その方の墓石の土台になっているそうです。この間も郷土史家の方が来られて、あれとそれがそうだって指差してました。」「じゃ、じゃあ、今もその石はお寺の中にあるって事なんですね・・・」「住職がいればもっと色々なお話ができるんでしょうけど、私はよくわからないので・・・」と奥様はおっしゃったけど、とんでもない!!こんな話、聞いたことない!!「こういうお寺とかを回ってるんですか?どちらから?」とかって話をしてるうち、米山寺の話が出たので、「昨日はあいにくご不在だったようですけど・・・」ってしおりの件を報告したら、「予約とかしておけば、お話できたかもしれませんけどねえ・・・」って言われた。予約・・・ああ、そういうもんなのか。そうかもしれないな。忙しい中を御厚意でピンチヒッターを務めて下さった奥様に、こういう事を切り出すのは非常にためらわれたのだけど、あまりお時間を取らせるのも申し訳ないので、思い切って言ってみた。「あの、しゃ、写真を撮っても、いいですか・・・」奥様は一瞬たじろいだように見えたけど、「どうぞ」と言ってくださった。はああ、なんてラッキー!! あまりお待たせしてはいけないと思って、お位牌と木像の写真だけ撮って、入り口で待っている奥様の元へ駆け戻った。2人で戻る途中、奥様のお姉さんが千葉の市川市にいるという話なんかしながら歩いてたら、「学生さん?」っておもむろに聞かれた。ここで見栄張っても仕方ないので、「いえ、大昔にとうに卒業しました・・・」と正直に答えた。エッヘン今年はあんまりお出かけしてないからしばらくこのセリフを言われてなかったけど、史跡とか寺社の訪問者の平均年齢って高めだから、こういう所ではどうも実年齢より若く見えるみたいなんだよね~。お忙しい中案内して下さった奥様には、感謝の気持ちでいっぱい。心からのお礼を言って、本堂を出る。 まさにこの場所で、隆景ちゃんが荼毘に付されたのかあ・・・さっきお賽銭を入れた後にもここから境内を眺めたけど、知ってるのと知らないのでは全然違うよな・・・とぼんやりしながら歩いていって、ふと気が付いた。ああっ、隆景の荼毘の場所をつるんと歩いちゃったよ~!!・・・だって、敷石があるから、つい・・・奥様に撮影の許可は頂いたものの、応対して下さったのがご住職だったら、もしかしたら撮影は断られてたかもしれない。ので、開山堂で撮った写真は今回は公開しませんので御了承ください。にほんブログ村
2012年09月15日

前回は写真満載で境内の様子をご紹介しましたが、今回は法常寺の歴史について。 【法常寺 本尊 華厳釈迦如来(坐像) 曹洞宗 永平寺派 法常寺は、もと天台宗で東日山法輪常転禅寺といい、竹原市新庄木村城北にあった 竹原小早川家の菩提寺で、天文8年(1539)小早川興景公が大休登懌和尚を請じて 曹洞宗に改宗した。 毛利元就公の三男で、初め竹原小早川家の養子となり、続いて沼田小早川家を継いだ 小早川隆景公が、天文20年(1551)高山城に入城し、翌22年(1552) 新高山城に城を移し、その祈願所として本郷の船木に法常寺を移したと伝えられている。 その後三原城築城(1567)に伴って、西の出城を兼ねて現在地に移って来たことが、 「天正20年(1592)隆景公により再興さる」旨の棟板により窺うことができる。 隆景公が慶長2年(1597)6月12日三原城で逝去の際には、この寺で荼毘に付し 盛大な葬儀が営まれ(戒名・・黄梅院殿三品泰雲紹閑大居士)、遺骸は沼田小早川家の 菩提所の米山寺に葬られた。 当寺では、隆景公とその養父にあたる興景公(戒名・・法常寺殿体岩全公大居士)の 両人を開基として毎年7月お祭りを続けている。 開山堂には、竹原小早川家の位牌の全部が祀ってある。 ≪寺宝等≫ 華厳釈迦如来像 木造 定朝柞 鳳凰の彫物 (本堂 長押上) 小早川隆景公坐像 木造(中納言正装 大小二体) 大香箱(香合) 推黒鳳凰図(隆景公寄進) 聖観音紫檀仏 唐物(隆景公寄進) (後略) ◎詳しくは庫裏でお尋ね下さい。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)ここにはいくつかポイントがあるので、これから書くであろう話題については、青字にしてあります。まず、御本尊の定朝(じょうちょう)って、どっかで聞いたことあるなあ・・・あ、平等院の大仏様だ!!過去の平等院の記事では、この定朝さんのことも書こうと思ってたけど、長くなりそうで結局やめたんだ(笑)。平安時代後期の仏師・定朝さんは、大規模な工房を主宰し、かなり人気も高かった人らしい。定朝さんの作は沢山あると伝えられているらしいが、現在のところ、彼の真作とされているのは平等院の大仏様のみ。だけど、法常寺の創建は正嘉2年(1258)と伝えられており、かなり古いお寺だから、あながちない話ともいえないかもな・・・あるいは、彼の流れを汲む仏師の作とか。隆景ちゃんの木像があるのは知ってた。これは竹原家の位牌とともに開山堂にあるって事だったから、たぶん見られないだろうな・・・まあ、外からその建物を見るだけでもいいや・・・しかし、他にも隆景の寄進のモノがあるなんて知らなかったぞ。親切にも、「詳しくは庫裏でお尋ね下さい」って書いてくれてるし、お寺の縁起とかの資料があれば分けて欲しいから、ちょっと聞いてみようかな~。っと、その前に本堂にお参りとお賽銭・・・う、賽銭箱がない。神社なら大抵、オープンなとこに賽銭箱があるけど、お寺さんはねえ・・・外に出てるとこってあんまりないから、私みたいに拝観料代わりのなにがしかを納めたい人間にとっては、困るんだよねえ・・・本堂は閉まってたけど、ちょっと開けて覗いてみたらすぐ先に箱があったので、一歩だけ失礼してちゃりんお金を入れた時に中の様子も覗いてみたけど、ちょっと変わった雰囲気ですごい立派。で、顔を上げると長押(なげし)の上に・・・ おおっ、これかあ~、鳳凰の彫物!!解説にも寺宝として書いてあるけど、これは法常寺創建以来といわれている欄間だそうな。う~ん、立派・・・本堂の内部は遠慮して撮らなかったけど、これは撮らずにいられなかった。いや、見事・・・解説の始まりは、天文8年に小早川興景公が~、となってるけど、それは曹洞宗に改宗した時の話で、寺の創建はもう少し古い時代と伝えられる。「三原編(2)」で竹原家の創設期のことをちょろっと書いたけど、小早川宗家の茂平が新たに獲得した都宇・竹原両庄に封じたのは、四男・政景。都宇竹原の地頭となった政景は、木村城を居城とし、あわせて菩提所を法常寺の前身・法輪常転禅寺(天台宗)に定め、竹原家歴代の墓を安置したとされる。法常寺の歴代住職記によると、これが正嘉2年(1258)の事だから、寺伝の通りであれば、相当古いよな。保存状態が良かったのか、この欄間は綺麗だけどね。きっと、隆景ちゃんもこれを目にしたのであろう・・・本堂を出てすぐのところからは、こんな眺め。 沼田川を挟んだ向こう側の山並みが見える。誰も来ないし、静かな境内。ここで、隆景の葬儀と火葬があったのかあ・・・本堂の前にも、小早川紋。 好きなデザインじゃなかったハズなのに、歴史の重みと相まって、だんだんカッコよく見えてくるから不思議。すでに洗脳されかかっとる・・・(笑)。やっぱ米山寺も、小早川紋で統一してくれた方がよかったな~。ところで、小早川紋は一般的に「左三つ巴」といわれる。・・・が、家紋の本とかを見ると、時計回り(右回り)が右巴となっていて、これに従うと小早川紋も「右三つ巴」となる。けど、巴紋を使用している数多くの武家などでは必ずしも回転方向と左右の名称が一致してなくて、ややこしい。世間に巴紋が氾濫してる割には、巴の由来は確定しておらず、雷(いなずま)説、雲説、流水説、蕨手説、陰陽説、勾玉説など沢山あるらしい。神社でも巴を神紋としているところは多く、それらは勾玉からきており、子孫繁栄を意味する胎児の姿をあらわしているという。上記の説のうち、流水説は、渦巻きから流水へと変化したものであり、水を表すところから防火のまじないとして用いられるようになったそうな。現在、神社やお寺などでのスタンダードと言えるくらいに多く使われてる巴の軒丸瓦は、ここから来ている。もともとは懸魚(けぎょ)も防火のおまじないからスタートしてるけどね(懸魚については、「大津編(22)」もあわせてご覧ください)、やっぱ木造建築なら何より火事が恐いから、色々工夫をこらしてたんだね。おまじないに工夫も何も・・・とか思うかもしれないけど、それは現代の感覚であって、昔は呪術=科学だった。それも、戦国時代頃まで。「軍師」といえば、戦略を練ったり謀略を巡らすなどの参謀的なイメージがわくけど、戦国時代中頃までは、軍師の主なおつとめは、加持・祈祷・占卜(せんぼく)など。戦場では、天気予報士もしたし、出陣や首実検などの儀式の管理をするのが仕事だった。験(げん)をかつぐのって、兵の士気にも関わるし、大事な事だったんだよ~。ちなみに、高名な軍師を数多く輩出したことで知られるのが、有名な足利学校ね。基本的には禅僧のための学校だったけど、軍師の大役を果たすには、幅広い知識が必要とされたみたいだからね。まあ、戦国も後半になってくると、来たるべき天下統一へ向けて、よりシビアでハードな時代へと入っていくから、そのあたりで古い意味での「軍師」は姿を消していったらしいけど。おっと、話がそれちゃったな。それでは、庫裏へと向かいましょう。にほんブログ村
2012年09月14日

さて、次のところまでは結構歩く。すでに途中から腰が痛くなってきてて、早くも雲行きがアヤシイ。無理をしちゃいけないのはわかってるけど、まだ1つしか見てないし・・・次の目的地が見えるあたりまで来た頃、軽いめまいを覚えた。どんな症状が出ると貧血とか熱中症で意識がヤバくなる前なのか、経験上よくわかってるので、とにかくこれは一旦座って休まないといかん・・・と思って、目的地を川の対岸に見るバス停のベンチで休憩。 あ~、あのへんの山だろうな~。ちょっと今のこの状態は良くないけど、せめてあの山近辺にある2つのスポットだけは行こう。その後で、先のことを考えよう・・・途中寄ったコンビニで、トイレ代として買ったハード系のガムをカンフル剤代わりに咬みながら、とろとろ歩き出す。 西野川を渡って少し東に戻ると、次のスポットへの入り口がある。 結構、狭い道だな。しかしこの辺の寺社は、だいたいこんな感じの道にあると聞いてはいたので、気にせず坂道を登る。ここからが、今日の本番。 これが今日3つめのスポット、法常寺の山門(場所はこちら)。訳あって先を急ぎたいのだけど、はやる気をおさえてまずは山門の脇にある石垣から。 後世に補修はされてるようだけど、大体こんな感じだったんだろうな。 うん、立派だ。何せここは、由緒のあるお寺だから・・・本瓦葺の山門の軒丸瓦は、もちろんコレ。 や~、巴紋てありふれてるし、個人的には好きなデザインじゃないんだけど、小早川の本拠地でこうして巴紋を見ると、ちょっと風格っていうか、なかなかいいもんだな~なんて思ったりした(←現金)。山門の屋根にいるのは・・・ 獅子はよくいるけどね、ここも大須賀神社同様、ボールが大きいから腰を浮かせてる・・・しかもこのボール、ドット柄だし。三原の建築って面白いよな~と思いながら振り返ると、坂を上ってきた分、見晴らしがいい。 門をくぐるとすぐ右に折れて、さらにその先で左に折れるクランクの参道。門前は立派な枡型だし、この造りは普通の寺のそれじゃない。それもそのはず、三原城下の北には西と東の町に多くの寺社が立ち並ぶんだけど、その中で法常寺は西端にあたり、三原城の西の出城としての役目も担っていた。備中高梁の寺町でも、重要な寺はこうした構成になってたよな。(「吉備路編(6)」あたりをご覧ください)門を入って2回曲がると、やっと本堂へ上る道が出る。 手前にあるお堂にはお地蔵様がいらして、ここの瓦はこんなの。 おかめさん?それとも、大黒様?アハハハ、面白~いそのすぐ先には、 「小早川隆景公 小祠」おおっ、これかあ~!!本堂とどっちへ先に行こうか迷うが、ひとまず本堂へ行くことにした。自分ちのお墓参りなんかでもね、本来はまずお寺の御本尊様にお参りして、それから御先祖様のお墓へ行くべきだって言うからさ。って、最近知ったからさ(笑)。で、こちらが本堂。 一見2階建てのようだけど、下の屋根は裳階(もこし)。割と新しいように見えるけど、寛文3年(1663)および元禄期(1700年頃)改修とある。そして平成元年に屋根の大改修をしたそうな。正面の唐破風の上には、こんな素敵な瓦が載る。 おお~ッ!派手!!綺麗!!てか、これ、紋が2つ重なってる・・・?見たことないな、こんなの・・・ ↓本堂の兎の毛通し(うのけどおし:唐破風につく懸魚)。 文字が書いてあるなんて、ちょっと変わってる・・・この文字は、他の瓦にもある。 いや~、風格あるなあ。さっすが、竹原家の菩提寺だけど、本堂の向かって右前には、またソテツ(笑)。 にほんブログ村
2012年09月13日

国道2号線を東へ歩く。てっきり南の芸備国境の碑がこの辺にあると思ってたから、山と川に挟まれて狭くなってるこの辺りに実際の国境があったんだろうと想像してたんだけど、なんか違うみたいだな。ちなみに、南の方の石碑は大正期に建てられたものとのこと。かつての国境を示す碑かと思ってたけど、わざわざ2つも作るなんて、現役として使用するための石碑だったのかな。大正時代に、芸備国境?不思議な感じ・・・ま、なんにしてもここはすでに安芸だ~!ワ~イ、備後から安芸へ入っちゃった~(←単純) しっかし、次の信号まで遠いな・・・ここ、見通しいいし、ちょうど車来ないから渡っちゃいたいな~・・・と思ったら、まるで見透かしたように ・・・へいへい、渡りませんよ~。渡らなきゃいいんでしょ真面目に交通ルールを守ってちまちま歩くうち(当たり前です)、大きな交差点に出た。ここが今日2つ目のスポット(場所はこちら)。 橋ですね、フツーの。現代の。沼田(ぬた)川を挟んだ新倉町と明神町を結ぶこの橋、地元では「新倉橋」と呼ばれているそうですが、正式には「定屋大橋(じょうおく・おおはし)」といいます。名前の由来は、三原出身の僧侶・定屋和尚(1768-1851)。江戸時代の沼田川には橋はなく、先代の和尚さんは沼田川に橋をかけることを目標としていたが、果たせぬままあの世の方に。その先代の意思を継いだ定屋さんは、ついに天保5年(1834)、長さ170m、幅4mの板橋を架けることに成功。毎日、修業と托鉢をしたっていうから、善男善女の浄財でまかなったんでしょう。おそらく。大変だったね。しかし、定屋さんの橋は洪水で流されてしまったそうな。再び沼田川に橋が架けられたのは、嘉永3年(1850)。この時、定屋さんの功績を讃え「定屋橋」と名付けられた。そして、現在の橋は定屋さんの初代から数えて6代目になるという。6代目デビューの際には、名称を「新倉橋」に変えようという案もあったらしいが、歴史を伝えるという観点もあったのか、かろうじて定屋さんの名前は残された。・・・あぶないところだったね この辺りの沼田川は、結構川幅は広いけど、地図で見ても橋の長さは170mはありそうにない。この辺も、川沿いは埋め立てじゃないかと思うけどね。だって、芸備国境の位置って変じゃない?(リンクの中心部が芸備国境碑のある場所)いちおう、西国街道沿いではあるんだけど、なんか随分中途半端なとこにあるような・・・国境碑から南の平地部分は、ぐぐっと土地が低くなってるから、昔はもっと川幅が広かったんじゃないかと思うけどね。だから、橋も簡単には架けられなかったんじゃないのかな~。まあ、もちろん川幅=橋の長さってことにはならないけど。さて、そんな6代目定屋大橋、なにぶん新しいもので、ここにも踊る人が大勢います。 見づらいかもしれないけど、欄干にも。 橋の向こう側には、定屋さんの顕彰碑みたいのもあったらしいんだけど、見落としました。・・・てか、忘れてました。頭の回転がすこぶる悪いので、見落としがないように資料作成には色々工夫をしているんですが、それでもやっぱり落とします。仕方ないよね、にんげんだもの・・・さ、せっかく安芸に入ったものの、備後へ戻ろう。芸備国境へ戻ると、次のところへ行くのにちょっと回り道になるな・・・北側の碑は撮ったんだし、南側も自分の目で見てはいるんだから、このまま県立広島大の南側をぐるっと回っていこう。して、北東へ向けて歩き出した訳ですが、途中の道沿いにあるお家は立派なものが多い。 ええ~、個人のお家でこれエ~?皆おかねもちなのか、こーゆーお土地柄なのか・・・土塀の上にいるのは、大黒様だし・・・ 眺めながら歩いてたら、その先の塀に載ってたのは、コレだった。 ・・・ハト、だよな。どう見ても。反対側にもいるし。 城とか寺とかの屋根や土塀の上に色んなものが載ってるのは今まで沢山見てきたけど、ハトは初めてだあ~!!その先の、瓦類が赤系で統一されたお家も・・・ なんなんだ、ここ・・・どーゆー由来があるんだろう?そしてこの後も、三原滞在中に何十羽という動かないハトを見ることになるとは、この時は想像だにしないのであった・・・なんて大げさなものじゃないけど。しっかし、ホント、「ところ変われば」って感じで面白いな~。にほんブログ村
2012年09月12日

大須賀神社の狛犬は、こんなの。 ・・・毬、でかくね?フツーはもっと、足をちょんて載せるくらいの可愛らしいサイズだよな。変わってるな~。正面には、これ。 能の奉納でもあるのかな?「ちんこんかん」もここで踊るのかな?んで、ここの屋根には・・・ ・・・これ、石造りだ。瓦もシャチも、石だ。へえ・・・何でだろ。拝殿兼舞台のようなものを回り込んで、奥の本殿へ。 え~っ、ナニコレ!!石積みの祠みたいになってる。変わった造りだな・・・正面から見ると、こんな感じ。 何かすごい、おごそか~。この脇には碑があって、どうやら昭和8年に沼田(ぬた)川を改修した際、ここに神社を移転したらしい。川をどう改修したんだろう?どちらかというと、埋め立てたって気がするけど・・・本殿にある小さい岩山の左隣には、小さな石の祠がある。 何らかの由緒のあるものなんでしょうけど、宮の名前すら書いてないからわからない。さらにその隣には、小さな石仏が何体か鎮座するお堂。 【第六十二番 宝寿寺 本尊 十一面観世音菩薩 真言 おんまかきゃろにきやそわか】 廃寺になったお寺かな。ご本尊様はこちら。 小さいけど、確かに頭の上に顔がいっぱい付いてる。このお堂の上には、こんなのが・・・ なんていうんだっけ、こーゆーの・・独鈷杵(とっこしょ)?密教で使う、法具だよね。なんか、カッコいいな。 して、このお堂の向かいには、牛がいる。 うし?天満宮じゃないしな、ここ・・・そうか、「牛神社」だから、これがその牛かな?わざわざ水だかエサだかを入れそうな桶も前に置いてあるしな。しかし、鎮魂のためなら、この鼻は可哀想じゃ・・・ これでぐるっと回ったことになるので、狛犬のところまで戻ったら、後ろ姿がなんかヘン。 おしり!!カワイイ~!! 普通、狛犬って腰を落としてるから、おしりを見ることはまずない。だから~、ボールがデカすぎるんだよ。身体とのバランスが悪いから、腰を上げざるを得ないんだよホラホラ、反対側も~。 しかし、かっわいいな、このおしり(笑)。嬉々としておしりの写真を撮ってる姿を他人が見たら、ヘンな人だと思われたかもしれない・・・しかし、幸い誰もいないので、一人でニヤニヤしながらおしりを眺める。さっき本殿に回り込む時にスルーした摂社に一旦戻る。 【八王子荒神神社 平成十年二月吉日 建立】協賛として「古治山トンネル開通記念」とある。大須賀神社の右手にある小山は、現在はまるごと県立広島大のキャンパスになってて、その下をトンネルが通ってるから、それの工事の時に勧請されたのかな?現代社会は、宗教とは無縁なようでいて、やっぱり日常の中に息づいてるんだよなあ・・・って感じる瞬間。「開通記念」とはあるものの、もちろん工事の安全を祈願して建てられたものでしょうし。おしりで浮付いてた気持ちが、ちょっと引き締まる。え~っと、大体こんなとこかな・・・と思って境内を見回したら、大きな灯籠があった。 なんか、ダイナミックだし、すごく大きい。自分の身長と比較して、2m50cmくらいあるように見えたかなあ。そういえば、ここよりもうちょっと東に行った本郷を中心とする地域には、尾道の石工の銘のあるお地蔵様や狛犬が多くいるって事だったな。これの由来とかはわからないけど、もしかしたらこれもそうなのかな・・・なんて思った。境内には、木造の公民館もあるんだけど、その前にはこんなのが建つ。 全体を通して、結構立派な神社だよな。しかし、ここの瓦は・・・ ・・・なんか、矢印のところが、タコに見えて仕方ないんだけど(笑)。ほんっと面白いよなあ、ここぶっちゃけ、ここには芸備国境のもうひとつの碑を探しに来てて、近くにある神社だから寄ってみようかな、ってことで組み込んだだけなんだけど、なんだかすごく楽しかった。土地との相性が良かったのかもな。それで、肝心の国境の碑は、見たところなさそう。おっかしいな~と思って、ふと気がついた。そういえば、明治期の碑の向かいに何かあったよな。文字っぽいのも見えたけど、磨耗してて読めなかったし、向かいに明治期のが見えたからスルーしてそっちに行っちゃったんだ・・・でも、位置的には、明治期のが道路を挟んで北側にあったから、じゃあスルーした方が南の碑だったのかあ~!!・・・ま、まあ、南北と言えなくもないけどねどうしよう、写真を撮らなかったから、戻ろうか・・・しかし、ここまで来たら、この近くに見たいものがある。まずは一旦、そちらへ向かうことにした。↓ぽちっとねにほんブログ村
2012年09月11日

2日目<2012/8/26(日)今日もどぴ~かん>部屋からの眺め。 「瀬戸内海に囲まれたお部屋」ってキャッチだったけど、工業地帯がジャマ・・・いやいや、そんなことを言っちゃいかんな。これらの企業が、近代の三原を支えてきたのだ。朝食は、昨日買ったメロンパン。 なんか、静岡のどこぞのサービスエリアでしか売ってなかったのが、ついに三原に上陸!!とか書いてあったもので、つい・・・相変わらず、土地柄を無視した食事をしてるワタシ(笑)。今日は予定が詰まってる。しかし、この暑さなので、無理はせず行けるとこまでほどほどに頑張ろう。まずは三原駅へ向かう。途中通る「マリンロード」には、三原名物、タコがおる。 よくよく見たら、顔まで描いてある。 もしかしたら、マリンロードに生息するタコはみんな顔が違うのかもしれないけど、いちいち撮ってる時間はない。途中には、やっさのカラーバージョンのふたがあった。 ・・・そういえば、城のふたがあるはずなんだよなあ・・・探さなきゃ・・・これが三原駅前。三原城のところでも書きますが、ここが本丸でした。 本丸にある公衆電話は、さりげなく城下町の雰囲気を出しております。 まずは、バスに乗って県立広島大学の三原キャンパスへ。ここは、かつての安芸と備後・・・芸備国境にあたります。これがその碑(場所はこちら)。 「従是東 備後国」「従是西 安芸国」とある。こちらは明治に建立されたものらしいです。いんや~、国境とか関とかって、なんか好きなんだよね~。てことで、今日は国境から三原城下へ向けて、えんえん歩いて行きます。芸備国境の碑は南北に2つあるって事で、これはたぶん北側のだから、広島大の南端にもうひとつ碑があるのかな~と思っていた。ので、ここから広島大の立つ小山の西麓沿いを南へ向けて歩き出す。歩き出してすぐ、神社の入り口のような場所に差しかかった。 ・・・「瘡神社前」?この奥にあるみたいだけど、手持ちの地図には神社は描かれていない。場所がわかってて、すぐ近くにあるんだったら寄っていきたかったけど、地図にもないし見える範囲にはそれらしいものはないので、行くのはやめた。もしかしたら、これから行く神社のことかもしれないしな・・・ふたたび歩き出すと、またやっさのふたがあった。 昨日から見てるのと柄は同じだけど、白い砂が入り込んでるから、柄が綺麗に浮き出てる。ちょっとカラーっぽくて、いいよな(笑)。想像してたのよりずっと細い道を歩いていく。途中にある民家のブロック塀はこんなだった。 おお~、化粧が施してあるぞ!!「はつり」(石垣の表面にノミで細かく点を打ちつけて仕上げる方法)とはちょっと違うけど、これも立派な化粧だよな。こーゆーのは、見たことないカモ・・・ そして着いたのが、大須賀神社(場所はこちら)。 そんなに広くもないし、建物は新しい感じではあるんだけど、なんか雰囲気がある。灯籠も、立派だし。 大須賀神社は、別名「牛神社」。もともとは、死んだ牛を祀るために天正年間(1532~1555)に建てられた神社らしいが、のちに雨乞いや虫よけの祈りもこめて信仰されるようになったとか。起源は結構古いんだな。しかし、なんで牛を祀るんだろう・・・疫病かな?で、8月16日の例祭には、広島県の無形民俗文化財に指定されている「ちんこんかん」という踊りが奉納されるんだそうな。この踊りは、赤い衣装に身を包み、鬼面をつけた鬼さん役が登場する。大鬼は小さな破魔弓、小鬼は六尺棒をそれぞれ持って、大太鼓・小太鼓・鉦にあわせて力強く踊るというもの。写真を見たけどね、ミノを羽織ってない赤いなまはげみたいな・・・(笑)って言ったら、怒られちゃうかな。にほんブログ村
2012年09月10日

ナウマンゾウから始まった展示は、時代を追って古代から中世へと入る。ここが一番肝心なところなのに、あいにく戦国期は準備中だったどうやら、市内の山城をパネルで紹介したいみたいなんだけど。あと、石造の建造物もいくつか紹介されてて、念心さんのことも書いてあった。(米山寺にある念心さんの宝篋印塔はこちら)「すぐれた技術をもつ石大工」とあって、彼の宝篋印塔は大山祇(おおやまづみ)神社にも現存してるらしい。へ~え、いつか行ったら探してみよう・・・次の小部屋は、三原城のコーナー。真ん中に、三原城の復元模型が展示されてた。製作者は、昭和51年度 三原高校3年2組の皆様。おお~、こんなのあるのかあ~!!うう、写真撮りてえ・・・そして、お目当ての三原城の古写真(1910年頃)もちゃんとありました。まあ、案外あちこちの資料とかに城が海に面してた頃の写真て載ってたけどね。あと、三原城跡からの出土品も展示されてた。瓦とか、瓦とか、瓦とか・・・(笑)刊行物とか、ここで売ってないかな。次の部屋が、江戸期以降の三原ゆかりの品々。駕籠とか、龍吐水(りゅうどすい)なんて大型の機械もあった。 【わが国における消防ポンプのあゆみは、龍吐水(りゅうどすい)に始まります。 この龍吐水は、放水する様子が、龍が水を吐くように見えたことから名付けられたと いわれています。 いつごろ発明されたのかはっきり分かりませんが、一説には、 享保年間(1716~36)にオランダから渡来したともいわれ、また、 宝暦4(1754)年に長崎で、オランダの技術者の指導で造られたとの説もあります。】 (「東京消防庁」様のホームページより)う~ん、時代劇じゃ機械を使った消火の場面て見たことないような気がするけど・・・・人力で火を消した方がムード出るからかな?(笑)大体、龍そのものが想像上の生き物なのに、それが水を吐く様子に似てるってどーゆーこと?個人的には、龍がかーーーっっ!!と水を吐いてる姿とか想像したくないんだけどさてさて、この部屋の一角には、酒のコーナーがあるでおじゃる。酒どころ・三原の歴史を彩る数々の三原酒たち。 【江戸時代を通じて三原酒を作った酒屋のうち最も有力だったのは、 慶長のはじめ福島正則に招かれて三原で酒造りを始めた川口屋助一郎と その一族でした。 のちに信州に流された政則に報恩の酒を送りつづけた川口屋の美談は、 三原酒の一頁をかざるものです。 三原酒のうち川口屋の「菊の水」や角屋「亀の鈴」は、とくに将軍家献上の 御前酒として江戸へ送られ、「三原大樽十」を贈られた徳川忠長の礼状が 浅野家文書に残っています。 このほか、江戸時代の文献も多く三原酒の名が記され、当時から有名な ものでした。】 (展示室解説より)徳川忠長さんはアレだよね、「長七郎江戸日記」で里見浩太郎のパパとされる人だよね(笑)。いや、実際には実子の存在は確認できてないらしいけど。忠長さんは江姫の子だから、大叔父にあたる信長様におもざしが似ていたとかいう話もあるらしい。・・・あ、忠長さんの話じゃなくて、三原酒だった(笑)。三原の統治者としてはやっぱり隆景ちゃんの印象がダントツで、その後の福島正則は統治期間が短かったこともあってか、ちょっと影が薄い。国主として、いい仕事はしてたみたいなんだけどね~。広島城の無断改築を主な理由として、政則が改易されたことは有名だけど、その後の酒の美談は知らなかったなあ~。三原酒といえば、真っ先に私が思い出すのは、やっぱひでくん(宇喜多秀家)だよな。酒のエピソードには事欠かない政則のこと、江戸でもこの三原の美酒を楽しもうとしたとか、あるいは献上のためだったとか言われてるけど、ともかくある時も三原酒を積んだ船が江戸へ向けて出発した。が、運悪く暴風雨にあい、南へ南へと流されて着いたのが八丈島。そこで家臣が出会った島人、これが関ヶ原で西軍の主力として大奮闘し、戦後罪人として八丈島へ流されたひでくんの変わり果てた姿だった。「久しく三原の酒を飲んでおらぬ・・・」と切なく語るひでくんの姿に心打たれた家臣は、酒樽をそのまま置いてきた。・・・置いてきたのはいいが、主君に無断での行為であり、政則に報告をする時はびくびくものだった。ところが、報告を受けた政則は「ようやったあ~!!ワシからも礼を言っちゃうよ」と涙を流して喜んだというお話。この話の正確な年はわからないが、政則の在任期間から考えてひでくんは30~40代のバリバリの男盛り。場合によっては、大坂の陣の後かもしれない。酒のおねだりだけじゃなく、時事の話などもしたんだろーか。あるいはもう、世捨て人の暮らしが板についちゃって意にも介さなかったんだろーか。なんにしても、おいたわしいことよ・・・さて、これで歴史民族資料館はおしまい。隣には図書館があって、ここには用もあるんだけど、もう閉館間近だから後にしよう。て事で、駅の方へ向かい、これより三原城攻め。城については別にカテゴリーを設けておりますので、そちらをご覧ください。歴史民族資料館から北へ向かうと、西野川にかかる曙橋に出る(場所はこちら)。 写真の真ん中へんが現在の三原港。橋を渡ってもう少し行ったところが、三原城の西築出。上の地図へのリンクをクリックしてもらえばわかるけど、曙橋より南は工業地帯になってて、港とはいっても川のような地形になってる。しかし、ここも埋め立て。かつては、曙橋も工業地帯もすべてが海だった。三原駅に隣接する観光案内所は、「うきしろロビー」内にある。ここで、2つの資料をゲットする予定だった。ひとつは『城下町みはら散策マップ』。これは石垣とか石碑の場所が描かれており、さらに三原のみどころなどもわかる城下町散策にはとてもいいらしいもの。もうひとつは三原市教育委員会発行『三原城下町を歩く』というもので、古図の『紙本著色備後三原絵図』が印刷されたものだという。・・・しかし、見回してみても、ない。受付のお姉さんに聞いてみたところ、散策マップの方は現在品切れ、『三原城下町を歩く』は存在すら知らないようだった。散策マップは三原観光協会のサイトからダウンロードできたので、書き込み用に拡大して印刷して持ってきてはいた。しかし、市内の見どころを紹介するマップが品切れってどーゆーこと印刷しといて良かったあ~。けど実はこのマップ、あちこちのお店とかにはちゃんと置いてあったので、後でめでたく原本はゲットできた城を見た後で三原港まで戻ると、港の近くには踊る人がいた。 ・・・やっさだ(笑)。「三原やっさ祭実行委員会」様のサイトには、親切にもレッスンビデオが付いてますので、これでアナタもやっさが踊れます(リンクはこちら)いくつかYou Tubeで動画を見たけど、明るい曲調の唄で祝い踊りにふさわしいもの。駅前のロータリーから出発していくみたいで、ロータリーはばっちし三原城本丸の場所だから、隆景ちゃんがこの様子を見たらそりゃびっくりするだろうけど、目を細めて喜ばれるのかな・・・なんて思った。しかし、やっさ祭の開催主旨は 【市民総参加で、心のふれ合いの場を作り一大祭り行事として、 心の豊かな街づくりを目指す、併せて観光資源とする。】 (「三原やっさ祭実行委員会」様のサイトより)とある。うわ~、職場の皆と踊れって言われたらやだな・・・なんて、自分の職場の人の顔を思い浮かべながら、同僚がやっさを踊ってる姿を想像しちゃった(笑)。踊る像の近くには、これがある。 「興安丸」の錨とある。解説もあるんだけど、光っちゃって読めないしかし、ホテル前の錨といい、港町ってカンジ~。この日の歩数は、16,273歩。半日の割には、まあまあ歩いたよな。にほんブログ村
2012年09月09日

続いて行ったのは、三原歴史民俗資料館(場所はこちら)。三原城に関する資料とか、展示とかないかな~と思って。それに、ここにはまだ三原城が海に面してた頃の古写真があるって事だったし。入場は無料だけど、写真撮影は禁止。2階の展示室に上がると、ナウマンゾウから始まる三原の歴史について解説があり、展示品が並べられていた。展示室は3室だったかな、そんなに広くはない。あ、ナウマンゾウは、干拓事業の際に歯とかが見つかったそうでね。へ~え、こんなとこにいたのかあ?ってちょっとびっくり。展示品の中で古建築好きの私の目をひくのは、やっぱり瓦とかの建築素材。軒丸瓦は家紋とか個別のデザインを採用してるところもあるけど、一般的には巴紋が多い。普通の人は、あんまり瓦の紋とか気にしないかもしれないけど。巴紋が普及するのは、平安時代以降。それ以前は、蓮花弁だった。奈良とか、特に古い歴史でこってりしてるような所以外では、普段蓮弁の軒丸瓦を目にすることはあまりない。そんな古いタイプの蓮華文軒丸瓦、それも白鳳期のものが数点展示されていた。うち1点は、佛通寺旧蔵の県内最古の瓦。佛通寺も、名前を覚えててくれると嬉しいな 【広島県域は、西部に安芸国が、東部に備後国が置かれ、国のもとには郡(こおり) 里(のち郷-さとごう-にあらためる)の行政単位が設けられ、三原地域は東部に 備後国御調(みつき)、柞原(みはら)郷が、西部に安芸国沼田郡沼田郷、船木郷、 安直(あちか)郷、真良(しんら)郷、梨葉(なしは)郷が設置されました。 (中略)古代山陽道には、約10km毎に駅家がおかれ、三原市域には真良駅と 梨葉駅が設けられました。 また瀬戸内海には航路がひらかれ、万葉集に記された長井浦(ながいのうら)は 三原市糸崎が有力視されています。】 (展示室解説より)三原の地名については、旅の前に資料を作っていた時にちょっと触れて、興味を持ってたんだ。歴史の好きな皆様ならよくご存知のことと思いますが、地名ってのはそれ単独で様々な歴史を教えてくれるからね。だから、市町村合併とかで古い地名がなくなってなんの愛着も湧かないような語呂だけ綺麗な地名が付けられてしまうのは、とても悲しいこと。では、「三原」にはどんな歴史が含まれているのでしょう?解説にある「柞原(みはら)」の地名、これは承平年間(931~938年)に編纂された「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」に現れるもの。この中では「みはら」と読んでいたみたいだけど、「柞」と「原」の字を合わせると、古語では本来「ははそ・はら」という読みになるんだと。「柞」は「ははそ」と読み、コナラやクヌギなどのブナ科の樹木を指す。それに「原」が付いて、「ははその生えた原」という意味になるらしい。「ははそ」の他に、「柞」の字は「いすのき」とも読み、マンサク科の樹木のことを指す。イスノキは梼(ゆす)の木ともいい、そちらを採用すると「柞原」は「ゆすはら」とか「ゆずはら」という読みもアリなのかも・・・どっちにしても、木の多く茂る原を示す地名が「柞原」。少し時代が下った13世紀末には、「みはら」じゃなく「みわら」と読んだ記録が残っている。さらに時代が下った南北朝時代の観応元年(1350)、「三原」の文字が文献上で初めて顔を出す。そして、明治以前までは「みわら」と読んでいたそうな。てことは~、今は「みはら」と言ってるけど、隆景ちゃんは「みわら」と言っていたのか!なら、居城も「みはらじょう」じゃなくて「みわらじょう」だよな・・・という流れから、「三原」と書いててもわたくしはひそかに「みわら」と古い呼び名で読んでおります。実際に「三原」の表記がいつからなのかはわかっていないけど、「三原」の地名の由来としては にし原、あく原、こもが原の三つの原に起源とす(室町末期の『三好下野入道口伝』) 湧原、駒ケ原、小西原の三つの原から出る川が海に注ぐ所とす(江戸末期の『三原志稿』)と書かれており、にし原は小西原、あく原は湧原、こもが原は駒ヶ原とそれぞれ対応し、3つの川の流れ出る場所にできた3つの原から「三原」としたという説がある。「原」って言われると、やっぱりススキとかマコモとかの生い茂る平地を想像するけどね、ただ、現在の三原市の市街地のかなりの部分は埋め立て。戦国期頃までは、今よりもず~っと内陸まで海が入り込んで、大きな入り江を形成していた。三原城は島をつないで造られたものというから、河口に島は確かにあったんでしょうけど、なんかあんまり「原」って感じじゃない。それよりは、山際まで海が迫っていた当時の地形から考えると、「ははそ」あるいは「いすのき」の茂る山のある場所、って言った方がしっくり来る気がするな。このあたりは、三原城のスタートを考えた時にどうも私にはイマイチ合点のいかない事があるので、前フリとしてちょっと書かせていただきました。続きは三原城のところでね。あと、書紀での沼田(ぬた)の記述についても紹介されてた。 『日本書紀 巻11 仁徳天皇38年7月条』より 天皇・皇后がお揃いで避暑に来ていた時のこと。 菟餓野(とがの)から毎晩鹿の声が聞こえてきた。 涼やかで美しいその声を遠くに聴いて、天皇は心を慰められ、 バカンスを思いっきり堪能していた。 そんな風に毎日を過ごしていたのだが、ある夜は聞きなれた鹿の声が聞こえない。 「今宵はあの声が聞こえないのう・・・ どうしたのであろうか・・・」 と淋しげに皇后に語りかけながら、その夜は静かにふけていった。 翌日。 猪名郡の県(あがた)の佐伯部がやって来て、 苞苴(おおにえ。土地のものの献上品のこと)を天皇に献上した。 「これは何じゃ?」 「はいっ、鹿の肉です」 「・・・どこの鹿、か?」 「はいっ、菟餓野ですっ!!」 「・・・・・・!!!」 (黙っていれば居場所も見つからずに済んだものを、 鳴くから探されて見つかって、このような肉の塊になってしまったのだ・・・ 仕方のないこととはいえ、佐伯部を恨めしく思う気持ちは 朕にもどうすることもできない・・・) もんもんとした挙句、ついに天皇は御無体な命を下す。 「以後、佐伯部は皇居に近づけぬよーに!!」 こうして哀れな佐伯部さんが左遷された先が、安芸の淳田(ぬた)。 これをもって淳田佐伯部の祖となった・・・チャンチャンいんや~、佐伯部さん、運悪すぎ仁徳天皇っていえば、あの陵(みささぎ)で名前だけは大抵の日本人が知ってるよな。「仁徳」の諡号(しごう)が表す通り、仁政を敷いたとされてはいるものの、一方では女好きで、奥さんとの間にドロドロなドラマもあった人らしい。上の話も、やたら人間臭いしね(笑)。ところで、有名な仁徳天皇陵は百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)という。これは、陵の工事中に鹿が飛び込んできてその場でばったり死んでしまった。死んだ鹿の耳の中からモズ(百舌鳥)が現れたという、冗談みたいなエピソードに由来するそうな。鹿の耳からモズって・・・手品かいという訳で、仁徳天皇は鹿のエピソードを2つお持ちの天皇様だそうです。なんか、面白い人だ・・・にほんブログ村
2012年09月08日

宝物館には、がっちりと錠がかけられている。ここには、拝観料200円、ただし5人以上で開館てな事が書かれていて、これは承知の上だった。とある方は、なら5人分払えば1人でも開けてもらえるのか!?とチャレンジしたそうだが、あいにく不在だったので断念したと書いていた。まあ、お金の問題でもないでしょうし、たぶん1人で1000円払っても開けてはもらえないだろうと思ってはいたけど、私が先人の意思を継いで(笑)チャレンジしてみようと思っていた。本堂の戸にはしおりが貼ってあって、300円で分けてもらえるという事だったので、宝物館とあわせてお願いしようと思ってインターホンを押す。・・・なんか、音が聞こえない。壊れてるのかな?間を置いてまた押してみたけど、誰も出てこない。仕方ないので、ドアをノックして声を掛けてみたけど、反応がない。ううん、のど自慢は確かに見てたから、いるにはいると思うんだけどなあ・・・ただ、人はいても留守番のお年寄りとか子供かもしれないし、出てこないもんは仕方ないよな~。宝物館はだめでも、しおりは欲しかったんだけどなあ~。観光寺院て感じじゃないから、不在の時も当然あるでしょうけど、それなら「お金は賽銭箱へ入れてください」みたいにして、しおりは外へ置いておいて欲しかったなあ。まあ、本堂の方に貼ってあるのはほぼ全面を見られるようにしてくれてるみたいだし、しょうがないからこちらを撮らせてもらおう。なんか、あんまりいい気分じゃないけど、いつものように拝観料程度のお賽銭はおさめてきたし。しおり代以上のね。霊堂へ戻って、しばらく考える。ここは、上述の先人は「資料館」と紹介していて、中の写真も公開してた。たぶん、ここの事だと思うんだけどなあ・・・と思いながら扉に手をかけたら、開いた。あら、開いちゃったホントにダメなところなら、宝物館のように鍵をかけてるだろうから、入ってもいいのかな?写真撮影ダメとも書いてないしな?とにかく境内には誰もいないので、聞くこともできず、けど中に入ってる人も確実にいるので、おっかなびっくり入らせてもらう。 正面の向かって左側にはお位牌がずらりと。霊堂だから、沼田小早川歴代のお位牌かな?文字はほとんど消えかかってて、読めませんでした・・・ お位牌の前には、閻魔様。 しおりには閻魔様の解説もちょろっと書いてあったんだけど、窓ガラスが光っちゃってて一部読めない~!!【当寺閻魔・・・されていたものである。】としか読めないんだけど、昔閻魔堂とかあって、そこに安置されてたって感じかなあ。あ~ん、やっぱりしおりの現物が欲しかったな・・・閻魔様のお隣には、仁王様。 ああ、くび、お首があ~!!これもしおりには紹介されてて、【佛法守護の金剛神で密迹金剛、那羅金剛の二王をいい、寺門の両側に安置する】とある。で、この先が肝心なのに、窓にこびりついたサビのせいで読めない【・・・永6年5月吉祥の・・・運慶の墨書もみえ・・・】ってあるんだけど、応永?大永?いやいや、「運慶」がキーワードなら、寿永(1182-1184)か建永(1206-1207)って書いてあったのかもな。かつては、仁王門があったって事なんでしょう。ホントに運慶さんの作かはわからないけど、近くで見ると力強い躍動感が迫力ある。そそくさと拝観と撮影を済ませて霊堂から出ると、さっきまで思いっきり爆睡してた猫ちゃんがいた。「勝手に入んじゃねえよお~」って怒られるのかと思ったけど、やたら私の顔を見上げてはな~な~鳴いて近寄ってくる。猫派か犬派かと言われれば、私は100%犬派人間なので、猫の扱いは全っ然わからないんだけど、いかにも甘えたそうにしてるので、霊堂の石段に腰かけてしばらくお相手を務めさせていただいた。 真夏の炎天下、誰もいない沼田小早川家の静かな境内で、猫ちゃんと2人で座り込んでまったり・・・思考もとろけそうで、ずっとここに座っていたかったけど、ほどほどのところで重い腰を上げた。 門の外には、近年寄進されたものらしいお堂が建つ。 ここの蟇蛙はこんなの。 ところで米山寺の歴史は長いけど、なんでこのお寺はここにあるんだろう?この後の行程で沢山出てくるけど、三原城の築城に伴って、多くの寺が城下に移転してる。毛利氏の防長移封であらたに隆景の菩提寺は移封先に創設したけど、米山寺そのものの移転とかってのは聞いたことがないから、たぶんここはずっと、おおよそ現在地のままだと思うんだよね。城下に移転した寺のほとんどは、高山城か新高山城の近辺から来てるから、米山寺には移転のお誘いはなかったのかなあ?いや、でも竹原家の菩提寺も移ってるしなあ・・・あるいは、お誘いはあったけど、拒否ったかな?(笑)どうもよくわからない。そして最後にもう一度墓所に寄ってから、米山寺を後にする。お寺を出てちょっと行った道端には、小早川某さんの現代風のお墓があった。ゆかりの方のお墓かな?にほんブログ村
2012年09月07日

墓所を出て、境内へ。山の中の一軒家ってカンジ。 入り口は本瓦葺の鐘楼門。しおりによると、平成13年の再建。んで、この門の軒丸瓦とか、大棟にある家紋は・・・ う~~~んっ・・・毛利!?なんでじゃろ・・・新築じゃなくて再建だから、隆景100年忌以降に復興されたものをベースにしてるかとは思うんだけど、その当時は浅野時代。いつから米山寺に毛利紋がついてたんだろう?宗光寺が絡んでるからかなあ・・・(宗光寺は後で出てきますので、今しばらくお待ちください。)それとも、平成の再建で毛利氏の尽力があったとか?小早川惣領家の菩提寺でこの紋とは、ちょっと合点がいかないのは私だけだろうか・・・この門の妻飾りはこんなの。 アハハ、あんなとこにお茶目な顔が~。あれも大瓶束(たいへいづか。棟木を支える部材)って言うのかな。 門の真下。上に鐘があるので、穴があいてる。まだ真新しくて、キレイ。 門内から見ると、こんな感じ。 この左手の階段を上がると、天井の低い2階があるらしく、登った人もいるみたいなんだけど、ちょっと一人で登って鐘を撞くのは勇気がいるな。門の下にもヒモがぶら下がってたから、これを引っ張っても鳴らせたかもしれないけど。この時、庫裏(か住居)は網戸になってて、NHKののど自慢の音声が結構大きな音で聞こえてきた。・・・が、私が境内に入ってルートから外れて玉砂利の上を歩いた時に、その音で初めて私の存在に気付いたのか、TVのボリュームが下がった(笑)。別に気にならないから、いいんだけどね。で、こちらが本堂。 ここも、大棟には毛利紋が・・・ 本堂の右前には、ソテツ。うふふ、ソテツ・・・(ニヤニヤする理由は、「山口編(17)」をご参照ください) あれ?なんかいる・・・ んまあ、このクソ暑いのに、こんなとこで寝こけちゃって(笑)。本堂の左手前にはこの建物。 霊堂 小早川家歴代尊霊 仁王像(伝 運慶作) 閻魔王像って書いてある。あれ?仁王様がここにいるなら、これが資料館かな・・・ちょっとここは後回しにしよう。 この霊堂の蟇股は小早川紋。 ん、やっぱここには、こっちの方がふさわしいよな。 本堂と霊堂の間を奥に入ると、宝物館。 【重要文化財 絹本著色小早川隆景像 一幅 小早川隆景は、天文2年(1533)毛利元就の三男に生まれ、天文13年(1544) 安芸の豪族竹原小早川家に養子に入った。天文19年(1550)には沼田小早川家をつぎ、 兄の吉川元春とともに父元就を助けて毛利氏の中国統一を成就させた。 隆景は、天文21年(1552)に新高山城を修築し、永禄10年(1567)に 三原城を築城している。 この隆景像は、隆景が朝鮮半島に出兵して帰還した翌年の文禄3年(1594)、 京都大徳寺の塔頭、黄梅院の玉仲宗秀が寿像に賛をしたものである。中啓を持ち、 黒の袍をつけて座した衣冠の像である。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換、玉仲宗秀の「秀」はホントは 「王」の字の”おうへん”が付く。)寿像(じゅぞう)とは、本人の存命中に描かれた肖像画。戦国時代頃は、あまり寿像ってないんだよね。この肖像画は、隆景像の中で最も有名なものです。ツイッターで今の私のアイコンになってるのも、この絵をもとにしたものです(笑)。前回の記事の、菅茶山の漢詩もこの肖像画を見て作られたもの。この他にも、貴重な品が収蔵されている。 【三原市重要文化財 木造小早川隆景像一体 附厨子・蓮華座 (前略)慶長元年(1596)に小早川隆景が練供養の装束を米山寺に寄進している。 このときの目録の中にこの像の記述があり、像底に文禄5年(1596)の墨書銘が ある。この像は、一木造りで、像高23.1センチメートルである。 木造行道(ぎょうどう)面八面 附小道具八点 この行道面は、米山寺で行われた練供養に用いられた面で鎌倉時代の作である。 面は、菩薩面が六面、天童面が二面ある。面高は菩薩面が20~21.5センチメートルで 天童面が19センチメートルである。 木造狛犬二対 この狛犬は、米山寺の鎮守社であった王子宮に安置されていたもので、全体的に 小柄である。二対の像は、一木造り、像高31~21.5センチメートルで、 鎌倉時代末期の作である。 米山寺文書七通 この文書は、米山寺に伝来した文書で、戦国時代から江戸時代にかけてのものである。 そのほとんどが小早川隆景の時代の文書で、「小早川隆景自筆書状」「警護番帳」 などである。】木造小早川隆景像は、しおりに写真が載ってるんだけど、手のひらサイズで「お手々のシワとシワを合わせて~」のポーズを取った可愛らしいもの。文禄5年(1596)の墨書があるそうだけど、生前に自分の像を納めたってこと?ホントに? にほんブログ村
2012年09月06日

思いっきりページがまたがっちゃってすみません前回のしおりの解説とあわせてご覧ください。土肥實平の最期はわかってないみたいだけど、故郷・湯河原にも墓があるみたいだね。ただ、子の遠平と一緒に、遠平の妻のために三原に寺を創建した記録もあるというから、本墓の可能性もないとは言えないかな。その實平さんの墓はこちら。 後列、念心さんの宝篋印塔から1コか2コ置いた隣にある(←早くも忘れた)。子孫にあたる沼田小早川歴代当主の墓よりはちょっと小さくて、傾いてる。その隣が、子の遠平。 念心さんの宝篋印塔を含めて全部で20基、これ全部写真に収めるつもりでした(笑)。しか~し!前列のに隠れて後列はうまく撮れないのもあるし、石碑がなかったり摩耗して読めないのもある。ので、後列は實平・遠平と念心さんの宝篋印塔だけでガマンしました前列のは全部撮ったけど。ホホホ。だって、小早川氏歴代についてもそれなりに勉強して行ったんだもん一応、順番通りに並んではいるみたいだけどね。で、20基そろっての壮観な眺めがひとつの名物(?)である米山寺の墓所ですが、米山寺のしおりにはこう書いてあります。 【本来の墓所の姿は異っていたと考えられるが、隆景を敬慕する毛利氏が、 現在のように整然とした墓所に整備したものと思われる。 かつては、この墓域内に入って参拝出来るのは有縁の人に限られていた。】ふ~む、なるほどね・・・まあ、1600年以降、少なくとも堂宇すべてが焼失した1608年から隆景の100回忌(1697年頃か?)まではおそらく無人に近かったでしょうから、その間に墓所も荒れたでしょうしね。しかし、現代に生まれたおかげで隆景ちゃんの墓参りができる。て事で、お待たせしました。こちらが小早川隆景公のお墓になります。 宝篋印塔の前にある碑には、「小早川平隆景卿墓」と刻まれている。「平」と間に入るのは、小早川の本姓が平氏だから。隆景以外の歴代当主には「卿」の文字は入ってないんだけど、この碑はおそらく毛利氏によって整備された時にあわせて建てられたのでしょうから、一人だけ特別扱いってのも致し方ないよな。うう、やっと隆景ちゃんにお目見え・・・前回の解説にもあるように、毛利氏の移封にともなって防長にそれぞれ隆景のための寺を造ってはいるものの、墓を改築したとは書いてないんだよなあ・・・だから、おそらくずっとここに眠っておられたんだと思う。ま、多少の位置の入れ替えはあったんでしょうけど。まずは、三原へ来られたことに感謝して手を合わせる。今まで一体、どれほどの人がこの墓を訪れたことだろう・・・アクセスカウンターとか欲しいよな。「あなたは○○○○○○○人目の来訪者です!!」みたいな(笑)。隆景ちゃんの墓の前には、江戸時代後期の漢詩人・菅茶山の碑がある。 【一戦(文禄の役)の策略は一団となって任務をまっとうした。 君(小早川隆景)はひとり隊を立ち小飯の時を告げる。画中の冠と帯には 立派な徳がみなぎり、戦場での歳月によって頭には白髪が増えている。 隆景公を覇主としたことに過ちはなかっただろう。その予防策によって 毛利の藩をまもったのだから。当時の多くの武将らは勇猛であることを競ったが、 学校を興し学問による徳の尊さに誰か気づかなかったものか。残念なことである。】 (『黄葉夕陽村舎詩』より)この詩のタイトルは『米山寺拝謁小早川中納言肖像』。小早川家当主で中納言は2人いますが、もちろん小早川最後の当主・金吾中納言(秀秋)のことじゃないッスよ。そもそも、金吾の墓は岡山にある。沼田・・・というか、三原に来たことはあるけど、金吾はここには定住しなかった。養子に入った後も、金吾は領国に下向することはなかったし、小早川家の当主として彼が初めてお国入りしたのは筑前・名島城。名島城と家督を譲って三原に戻った隆景と共に、小早川家の一族譜代・いわゆる三原衆もごっそり三原へ引き揚げた。名島へ残ったのは、筑前にある隆景の隠居領地を管理する者と、隆景の命でしぶしぶ残った外様の家臣たち。この中には清水宗治の子・景治も含まれる(「備中高松城(5)」もご参照ください)。この家臣たちも、いつの間にか毛利家へ戻っちゃって、小早川家とは言いつつも、名島城の運営は、秀吉が金吾に付けた豊臣家臣団が仕切っていた。その後の金吾の大活躍(?)については、ここであらためて書くまでもありませんが、そういう経緯もあってか、小早川惣領家歴代の墓とは言っても、最後の当主だけはここにいない。墓の写真全部はアップしませんが、もう一人だけご紹介しておきましょうか。 ・・・ご紹介ったって、墓だけど(笑)。こちら、土肥實平から数えて沼田小早川家13代当主の、小早川扶平(すけひら)さんのお墓になります。この方が、永正元年に三原郷の代官職を得て、三原が小早川領に組み込まれた訳です。バックにいたのは、管領・細川政元。「永正」「政元」のキーワードで、わかる人にはすぐわかるでしょうが、扶平さんは大内義興さんと同時代の人になります。あ、なんか全然紹介になってないけど、この方は(たぶん)あとでちょろっと出てくると思うので、名前を覚えてて欲しいな~と思っただけ・・・さて、宝篋印塔群は全面玉垣に囲われてて、中には入れませんが、正面の左手にはこんな碑が立っております。 もう一面にも何か書かれてたかもしれないけど、ちょっと回りこめなかった。この正面の『大圓鏡智』の文字の下には、 爲源氏旗挙八百年忌 鎌倉三代将軍 諸精霊追善供養 土肥小早川家歴代と書かれてます。で、右面には「湯河原町 土肥会」、左面には本願主として城願寺山主・米山寺山主に並んで 東京 小早川元治 嗣子 隆治とあった。小早川宗家は金吾の代で断絶したけど、明治に入って毛利敬親の養子・元徳の子が小早川家を再興した。元治氏は再興してから3代目で、元徳の孫にあたるそうな。ちなみに、三条実美の外孫でもある。う~ん、800年忌かあ・・・源実朝と米山寺との関わりについて書いてあるのはあんまり見かけないんだけど、その言い伝えとも関連のある碑なのかな~。まあ、「三代将軍」は実朝一人を指すんじゃなく、頼朝・頼家・実朝の三代を指しているとも読めるけど。にほんブログ村
2012年09月05日

三原の名物は、タコ。けど、入ったお店にはタコメニューがなかったので、海鮮ちらしで腹ごしらえ。先に食べ終わったお客さんが、お持ち帰りを頼もうとしたら、「温かいシャリを握ってるのでねえ~、今はお持ち帰りはやってないんですよ~。保健所からの指導でねえ~」と断られてた。その指導ってのが、例えば気温が何度以上になったらダメとかなのか、そこまではわからなかったけど、ナマモノを扱うお店も大変だな~と思った。だって、ホントに今日暑いし。旅が近くなってきた頃から、三原の天気は毎日チェックしてたけど、だいたい柏より1~2℃高い印象だったもんな。なので、暑いのは覚悟してたけど、マジ暑い今日は最初のスポットでどの位かかるのか読めないから、漠然とした予定しか立ててないけど、あんまり無理しないでおこう・・・涼しい店内でぐだぐだしていたかったけど、ここまで来てそれはイカンよな、と自分を奮い立たせて店を出る。最初に向かったのは、米山寺(べいさんじ。場所はこちら)。お寺の斜め向かいに墓所があるので、どっちに先に行こうか迷ったけど、何はともあれまずはご挨拶 【国重要文化財 米山寺宝篋印塔 米山寺は、嘉禎元年(1235)、小早川茂平によって境内に不断念仏堂が建立され、 小早川氏の菩提寺となった。小早川氏歴代の墓など(石造宝篋印塔20基)が2列に 整然と並んでいる。 このうち、後列、むかって一番左の大型の塔が米山寺宝篋印塔で、高さ223.4 センチメートルで、この塔は、元応元年(1319)に供養塔として造られたもので、 形態は温雅の感があり美しく、鎌倉時代末期宝篋印塔の秀作である。 塔身に「大工念心 元応元年己未十一月 日、一結衆敬白」の刻銘がある。】 (現地解説板より。漢数字は一部戦国ジジイが変換)え~っと、まず、念心さんの宝篋印塔はこれです。 古い割には、綺麗に形が残ってる。解説板では日付の部分が空白になってるんだけど、摩耗してるのかな。誰のための供養塔だったんでしょう・・・でこの塔、かなりデカイのを想像してたんだけど、思ってたほどではなかった・・・とゆーか、この大きいのがさほど目立たなくなるくらい、真ん中の写真のように立派な宝篋印塔がずらりと並んでる。まあ、色んな人のサイトでこの宝篋印塔群の写真は見てたけど、確かになかなか迫力があるわね。彦根藩井伊家の歴代藩主の墓なんかもなかなか圧巻だったけど、あの時は井伊家の墓参りが目的じゃなかったから、写真も撮らずに真ん前を素通りしてったし(笑)、細かいことはもう覚えてないな~。さて、ひとまず解説に沿って話を進めましょうか。まずは、小早川家のごく簡単な紹介から。 前回のやっさ祭で触れたように、小早川氏は土肥實平を祖とする家系。實平は相模国土肥郷(現在の神奈川県湯河原町・真鶴町あたり)を本拠として土肥氏を称する。小早川氏の名前の由来で現在有力とされているのが、實平の子・遠平が有した相模国早河庄を流れる早川の名を取ったというもの。平氏でありながら頼朝についた實平は、追捕史としても活躍をしたので、平家没官領(もっかんりょう。平家滅亡後に朝廷に没収された平氏の所領)であった安芸国沼田(ぬた)庄を与えられた。もともと沼田庄は、京の蓮華王院(いわゆる三十三間堂)の領地であり、平家の家人・沼田氏が管理・・・というか実質的に所有していた土地だったが、沼田氏が平家一門に従ったため、没官領となったそうな。とは言っても、實平・遠平の時代には本拠を沼田に移した訳ではなかった。本格的に沼田に移ってきたのは遠平の養子・景平、またはその子の茂平の代。遠平には実子もあったが、清和源氏の家系で頼朝の信任の厚かった平賀義信の子・景平をもらい受けて、これに沼田庄を譲った。そして実子の維平には本拠の土肥郷を相続させる・・・が、維平はその後の和田義盛の乱に加勢して、維平および維平の長男・次男は討死、あるいは刑死してしまった。一族の滅亡こそ免れたものの、これにより小早川氏の関東でのかつての勢力は失われてしまう。しかし、沼田庄は景平に相続させていた事が幸いして、この所領は残された。こうした経緯を経て、土肥郷を本拠とし維平を嫡流としてきた土肥・小早川氏は沼田庄を本拠とする景平の系統を惣領とする時代に入っていく。平家だけど、実際は源氏の血をひく者が家系を存続させるってね、ちょっとややこしいけどね(笑)。他家と同様に、小早川氏でもそれぞれの代で庶子に分家を立てさせ、勢力を固めていった。茂平の代では、茂平の三男が惣領家を相続する。後鳥羽院が鎌倉幕府に対して挙兵した承久の変では、茂平は幕府方につき、その功を賞されて新たに沼田庄の南の地、都宇・竹原両庄(現在の竹原市あたり)の地頭職をゲットした。この地は京の下賀茂神社の所領だったが、源平の戦いおよび承久の変でいずれも幕府に反抗しているなどの理由でこれまた没官領となった所だった。この新たな領地に茂平は四男を封じ、竹原小早川家を新設した。小早川一族って、実際は沢山の家系があるんだけど、一般的に有名なのは、沼田本家とこの竹原家だよね。ちなみに、沼田本家の通し字は「平」、竹原家は「景」です。一部例外もあるけど、大概の人はこれで見分けがつきます。隆景ちゃんの場合は、先に竹原家を継いでいるので、大内義隆の「隆」とあわせて隆景。もし最初から沼田本家を継いでたら、「小早川隆平」だったカモ・・・なんてくだらない想像をしてみる時々誤解してる人がいるけど、隆景の元服時期は天文16年~17年頃なので、竹原家に入った後で幼名の徳寿丸から隆景へとバージョンアップしている。なので、「毛利隆景」を名乗ったことはありません。さて、小早川氏の経歴についてはひとまずここまでにして、次は米山寺との関わりについて。 【東廬山米山寺は寺伝によると、平安時代の仁平3年(1153)に誓願禅師によって 天台宗寺院として建立され、巨真山寺と称したが、のちに巨真山をコマヤマと読み、 これがなまってコメヤマとなり、さらに米山の字をあて、室町時代には、ベイサンジと 呼ぶようになった。また巨真寺とも称した。 天台12世覚仙の時、建保の初土肥実平法を受け、没するにおよび此処に葬ったという。 嘉禎元年(1235)に小早川氏4代の茂平が境内に不断念佛堂を建立し、また 伽藍を整備して歴代の牌子を安置し、小早川総領家の菩提寺とした。 嘉禎4年一条入道太政大臣(藤原公経)の御教書によって、塩入荒野を開き (沼田千町田)、佛餉灯油修理料田とした。延文年中小早川宣平の七男応庵和尚の時 臨済宗に改宗し、以後歴代住持は小早川総領家出身者が多く、中でも臨済3世 琴江令薫は8代春平の2男で、後に京都大本山東福寺管長をつとめた。 関ヶ原戦後の慶長5年(1600)毛利氏に従って防長に移封せられ、臨済最後の 住持正厳令周は、此処を去って周防に新巨真寺、長門に隆景寺を創めた。 無住になった慶長8年(1608)回録にあい、ことごとく建物は焼失した。 元禄の初隆景100年忌を迎えるにあたって、三原宗光寺慈雲和尚によって 堂宇が再建され、同寺の末寺として再興され曹洞宗に改宗し今日に至っている。 現本堂は、昭和50年、庫院は昭和54年、鐘楼門は平成13年それぞれ再建された。 往時境内には、日光坊など12坊があったが、江戸時代には日光坊(現日光寺) だけになり今日に至っている。】 (米山寺のしおりより)茂平がお堂を建立したのは、鎌倉3代将軍・実朝の菩提を弔うためともいわれているらしい。 にほんブログ村
2012年09月04日

こばやかわ・たかかげ。前は毛利さんちって、あんまり好きじゃなかった。けど、たまたま何かで吉川元春の陣の見事な処し方を知って、「へえ~、こーゆー人なんだ・・・」って興味を持ったのがはじめの一歩。だから、両川のうち先に元春ちゃんを好きになった。隆景ちゃんが一般的に高い評価を得ているのは知ってたけど、自分で具体的に色々調べ始めたりしたのは、岡山に行った頃だったかなあ・・・まあ、最初は「三村氏を滅ぼさなくたって良かったんじゃないの!?」とか(「備中松山城」シリーズをご覧ください)「恐ろしい人だ・・・」とか反発の方が強かった気がするけど、気がついたら「う~ん、カッコいいな」に変わってた(笑)。きっかけとかは別になかったと思うけど、まあ、私が好きになるのって「気がついたら・・・」ってパターンが圧倒的に多いし去年の夏、大津での苦い経験があったので、今年は夏の史跡めぐりはやめようと思ってた。少なくとも7月の連休、ここはまだ本格的な暑さに身体が慣れてない頃なのでやめた。・・・これは正解だった。しかし、やっぱり夏休みほど長い休みが取れるチャンスはそうそうないので、誘惑に打ち勝てず・・・元春ちゃんのとこへも行きたかったけど、ちょっと行きにくい所なので後回しにして、先に隆景ちゃんの方へ行くことにした。時期的に山城はもちろん外して、「小早川ツアー」と題して三原・竹原を回ろうと思って色々調べているうち、三原だけでパンパンになってしまったので、仕方なく竹原も後回し・・・初回の三原の史跡めぐりでこーゆー回り方をする人もあまりいないんじゃないかと思うプランが出来上がったけど、まあいいや1日目<2012/8/25(土)どぴ~かん>羽田から空路で広島へ。途中、窓から南アルプスのたぶん赤石岳あたりが見えて気分がいい。思ったよりヒコーキって、直線の最短距離のルートを取るのね。修学旅行を除いては、広島入りするのは今回が初めて。広島空港を使うのも初めてだったけど、山の上にある空港ってこれまた初めてだったから、ちょっと恐かった・・・空港にはバスの切符の自販機があったので、よくわかんないけど切符を買ってバス停を見たら、長蛇の列。うわ~っ、ナニコレ・・・座れるかな~と焦りながら行ってみたら、それは広島行きのバス停だった。三原行きのバス停には一人しかいない。大丈夫かな、これ・・・これでいいんだよな・・・と不安になってたらバスが来て、降りてきたおじさんが「三原、三原、三原行きでえ~す!」と連呼してたのでやっと安心した。三原行きのバスに乗ったのは、結局4人。広島へ向かう沢山の人を見ながら、「やっぱ広島って都会なんだな~」って思った。私には、毛利氏の本拠という以外に、広島にはちょっと思うところがある。いずれ広島にも行くけど、オフシーズンならもうちょっと人出も減るかな・・・他のバスはどうか知らないけど、三原行きのバスはおつりが出ないらしい(笑)。そうか、だから空港に切符の自販機があったんだ・・・さて、数少ない乗客を乗せてバスはぐんぐんと山を下りていく。け、結構なスピードだけど、バスの運ちゃんてすげえなあ~このバスは、小早川家にゆかりの深い場所を通過していくハズなのでカメラを出して外を見ていたら、川が出てきた。「あっ、沼田(ぬた)川だ!!」 へ~え、これがそうか・・・護岸もされてないし、結構自然がいっぱいのところだな。んじゃあ、そろそろ・・・と思ってきょろきょろ見ていたら、ちゃんと看板が出てた。 『小早川隆景居城 新高山城跡』おお~、さすがだな。沼田川を挟んだ反対側に、小早川氏代々の居城・高山城があるんだけど、なにしろバスが早いので、新高山城を撮ってる間に高山城は後ろに行ってしまい、写真は撮れなかった(笑)。思ってたより、どちらも急な感じの山だな。特に高山城の方は、南側から見ると結構岩山っぽかったけど、あれ、どこから登るんだろう・・・比高にもよるけど、標高100mくらいの山ならちょちょいと登れなくもない。・・・が、それ以上の山はどんなに低山でも夏は登らないことにしているので(とゆーか、夏の低山ほど危険なものはない)、今回は初めから予定には入れてない。また冬に来るからね、隆景ちゃん山を下りると、バスは沼田川沿いに東へ。 途中の道路沿いには、「鳥獣供養塔」なんてものがあった。なんなんだろう、あれ・・・広島空港から三原へは30分くらいで着いちゃうんだけど、何しろここは、17歳で沼田(ぬた)本家を継いでからず~っと隆景ちゃんの領国だったところ。結構、山ばっかりなんだ~・・・バスの窓からきょろきょろ周りを見渡しているうちに、三原駅へ着いた。今回の宿は、天守台ビューのホテルにするか迷ったんだけど、居住性から海沿いの宿にしたので、終点の三原桟橋まで乗ってく。 海沿いの道を通って、宿まで荷物を預けに行く。海側から見る三原港はこんな感じ。 今回は時間が許せば、佐木島へ渡って三原城の遺構を見たいと思ってるんだけど、どうだろうな・・・宿の前には、こんなものがあった。 【大きい錨はSTOCK ANCHORといい、日本海軍が好んで使用したものです。 戦艦はすべてこの錨でした。この錨は戦艦陸奥と同形のものです。錨1トンに対して 船舶1万トンの係留能力があります。 小さい錨はSTOCKLESS ANCHORといい、現在世界で一番多く 使用されています。】1トンで1万トン・・・単位がデカすぎてちょっと想像もできないんだけど、これは1トンもありそうじゃないよな~。さてと、まずは腹ごしらえ。途中にあった三原のふたはこんなの。 【やっさ踊りは、この(三原城)築城完成を祝って老若男女を問わず、 三味線、太鼓、笛などを打ちならし、祝酒に酔って思い思いの歌を口ずさみながら 踊り出たのがはじまりと言われ、それ以来、大衆のなかに祝ごとは"やっさ"に始まり "やっさ"に終わる習わしになったと伝えられています。】 (カッコ内は戦国ジジイが追加)という、隆景ちゃんゆかりのやっさ祭柄で、やっさの歌詞にも 【見たかエー (ハ ヤッサ ヤッサ) 見たか聞いたか 三原の城はエー(ハ アラ ヨイヨイ ヨイヤナ ヨイヤナー) 地から湧いたか サーマヨ (ハ ヤッサ ヤッサ) 浮城かヨ (ヤッサ ヤッサ ヤッサモッサ ソッチャセー) 月はまんまる金波に銀波 やっさ踊りに夜がふける 見たか 三原の胡蝶の踊り 風に桜の花が散る 三原の港は 情の町よ 酒の出どころ恋どころ 踊りつかれて ねてみたものの 遠音ばやしが 気にかかる 三原はよいとこ 町のまん中に 昔 忍ばす 城の跡 夢の浮城 かすみに明けりゃ 昇る朝日の 桜山 何をかくやら 筆影山は 風の波間影うつす やっさ やっさと街から街へ 心うき城 足そぞろ やっさ踊りについみこまれて 嫁にせがまれ はずかしや 酒を飲むなら 三原の酒を 心うきうき踊りだすよ 】と三原城が歌われている(解説と歌詞は「三原やっさ祭実行委員会」様のサイトより)。このやっさは、湯河原・池袋(!)・竹原などでも祭が行われるらしいが、湯河原のは歌詞が小早川家の祖・土肥實平(どい・さねひら)にちなんだものになっている。それで、面白いのは湯河原の方では 【土肥郷(湯河原)の領主“土肥次郎實平”が領民の人身安定のために始めた 「實平踊り」が起源であるといわれています。鎌倉幕府成立後、その手腕を 高くかわれた實平は、瀬戸内海の治安確保のため、安芸国(広島県)に派遣され、 かの地でもまた数々の事績を残しました。 彼の没後、領民がその遺徳を偲んで生まれたのが現在の「三原やっさ」です。 湯河原の「實平踊り」は久しく途絶えていましたが、町民の間で高まる 實平敬慕の情からこの「三原やっさ」を取り入れ、「湯河原やっさ」として 復活しました。】 (「湯河原温泉局」様のサイトより)と紹介している。まあ、實平でも隆景でもどっちでもいいけどね(笑)。「おらが殿様」を大切にするのは、いい事だと思うから↓新シリーズも「ぽち」をよろしくね~。にほんブログ村
2012年09月03日

とぼとぼと西に向かって歩いてくと、川に出た(場所はこちら)。 【鰐石(わにいし)の重岩(かさねいわ) 山口の町の東南の入り口はこの鰐石であった。山口に出入りする旅客の歓送迎が ここで行われた。 河の中のこの重岩は古くから山口の名勝として有名で、大内時代山口に来た 中国明の趙秩は、山口十境の詩を作ったが、その一つにこの鰐石の景を詠じた ものがある。次のような詩である。 禹門に点額して竜とならず 玉立渓流激衝にまかす 自らこれ烟霧はぜを釣る処 幾重の苔蘚は白雲を封ず この重岩の御神体は恵比寿様で締縄の長さは13m50cmある。】 (現地解説板より) 重岩というのは、巨岩の上にさらに大岩が載ってるからこう呼ばれる。反対側からの写真の方がわかりやすいかな。 上の詩の訳は、 【禹門を登れない魚は龍となれず、額に傷をつけて帰る。 この鰐石の重ね岩は渓流の中に直立して流れのはげしさに任せている。 ここは霧が立ちこめて鼈(すっぽん)を釣るに適した処である。 岩に幾重にもついている苔、そして白い雲は封じられたように動かない。】 (「山口十境詩余話 鰐渓の詩」/金本利雄より)「禹」は古代中国・夏王朝を開いたとされる人で、「禹門」とは治水事業の際に黄河上流にある龍門山を切り開いてできた急流を指す。「禹門」の別名は、「龍門」。「登竜門」で実は現代でもおなじみの門のこと。上のリンクの地図を見てもらうとわかると思うけど、鰐石は仁保川・問田川と椹野川(ふしのがわ)が合流した先の河口にある。川の合流地点は「出合い」といい、土地が低いこともあって、昔は氾濫が多かったそうな。今は何てことない普通の土地だけど、低いところに川が何本も注ぎ込むこの一帯は、昔はそれぞれがもっと川幅も広く、水っぽい土地だったのかもしれない。仁保川・問田川をあわせて膨らんだ椹野川は、南西へと流れてやがて山口湾に注ぎ込む。山口の南の入り口でもある鰐石は交通の要衝であり、船に乗れば鰐石から海へと直行できるこの場所は、旅人が往来する船着場でもあった。そんな土地柄、ここでも旅人の数だけドラマがあった。そのうちの一人が、興隆寺のところに登場した趙秩(ちょうちつ)。忘れた方は、「山口編(22)」をおさらい下さいね。趙秩さんは山口滞在の間、殊に鰐石のあたりを愛し、この付近の光景を詩に詠み、別号を「鰐水」とするほどだったそうな。春屋妙葩(しゅんおくみょうは)が趙秩の元に遣わした弟子が応安6年(1373)10月に帰る際、趙秩一行は鰐石まで見送りに来て、別れの詩を送った。 鰐渓(がくけい)に柳を折りて 君帰るを送る 柳色依々(いい)として 露未だ晞(かわ)かず 料想(りょうそう)す堂頭の 相借問すれば 為言弊(いげんやぶ)れ尽す 黒貂(こくてん)の衣 (訳) 鰐渓で柳を曲げてあなたを送ります。 柳の色はなごりを惜しむかのように露もまだかわかない。 あなたがお帰りになって方丈(妙葩)さんから聞かれたら、こう云って下さい。 私はもう万策つきて黒貂の衣服も破れてしまった。と。 (読み下し文・訳文ともに「山口十境詩余話 鰐渓の詩」/金本利雄より)「黒貂の衣服」は黒テンの毛皮で作ったゴージャスな貴人の服だそうで、別れの歌のせいもあるけど、興隆寺での「氷上滌暑」と同様、明るい歌とは言い難い・・・この他にも、まだ暗い歌を送ってるんだけど、続けるとこっちまで気が滅入りそうだから、この辺でやめておこう(笑)。ただね、趙秩さんの当時と今とでは、当然この鰐石の重岩から見る光景は違っているのでしょうけど、まだこの辺りは自然が多く残ってるから、割と世界に入り込みやすい。妙葩の元へ帰る弟子を、自分の役目を果たすこともできない趙秩はどんな思いで送り、また鰐石の風景を眺めたんだろうか・・・ってね。も~、これって電気代のかからないRPGだよまあ、自然が残ってるといっても、すぐ近くにはこんな近代的な構造物もあるんだけどね。 この日の歩数は13、291歩。今回はホントに歩かないわ~。でも腰は痛いんだけど5日目<2011/8/24(水)雨ときどきくもり> 最終日の朝もこんな。まあ、どうせ今日は帰るだけだからいいけどさ・・・しっかし、5日間よく降ったこと。ただ、そうは言っても、大内氏館の池泉庭園の開園式の時を除いては日中の行動に支障が出ることはなかったしな。けど、予定してた中で行かれなかったところも実に多かった。もっと沢山墓参りするハズだったのに!!・・・仕方ない、今度はマムちゃんもハチもいない冬に・・・そしたら、今回は予定にすら入れてなかった山城にも行かれるしな。今回、あれこれお世話になったコンベンション協会のA様は、ボランティアガイドも務めておられるそうで、今度来る時にはプライベートで案内してあげると言ってくださった。A様の他にも、色んな人とのやり取りの中で、みんな地元を愛してるし、大内家を愛し、かつ誇りに思ってるんだな~ってのを感じることが多かった。もちろん、普通のやり取りと言うよりは大内氏をベースにした会話が多かったからってのも当然あると思うけど。大内氏って、あまり認めたくはないけど、一般的には超マイナーだよね。けど、地元では静かに熱く大内氏の研究がなされていて、旅の準備の段階から、正直言ってかなり驚いた。県庁所在地にしてはすごく栄えてるとは言い難い中で(ごめんなさい)、これだけ歴史を大事にして、こんなにレベルが高いとは思ってもみなかった。さすがは大内氏の民の子孫といったところか。もちろん、大内氏大好きな私の評価だから、大内氏の地元ってことでひいき目に見てる部分もあるとは思うけどね。こんな感じで、大内氏を大切にしてる町だからこそ、こちらが熱意を見せると親身になって応えてくれます。(いや、個人差あると思うけど、そういう人が多いです。)ですので、今回のシリーズで大内氏により興味を持ってくれた方がいたら、是非山口に足を運んでみてください。「大内氏は室町と共に現れ、室町と共に消えた」って意味のことを、菜香亭で買ったDVDの中で花園大学の福島教授が言っておられたんだけど、戦国よりもうちょっと古い時代に花開いた町の、歴史のかほりを嗅いでみませんか?ま、もちろんそれなりの妄想力は必要とするけどね(笑)。今度は今回行かれなかった所を中心に回りたいけど、ある程度大内氏めぐりが済んだら、毛利家関連の史跡も回りたいな。秀元様もこの辺に領地を持ってたしね。てか、もう山口に住んじゃいたいんだけど・・・これにて「山口編」は終了です。途中お休みもしましたが、最後まで読んで下さった方々、ありがとうございました。↓よかったら、最後にもぽちを・・・(笑)にほんブログ村
2012年09月02日

大内氏歴代は臨済宗を信奉していたらしいが、乗福寺は周防で最初の禅宗寺院といわれている。乗福寺の歴代住職には京都五山の高僧が多く入り、建武元年(1334)には後醍醐天皇の勅願寺の栄誉を賜る。さらに寺格は十刹に数えられるほど上がり、ひろよんの時には趙秩も訪れて「山口十境」の中で「南明の秋興」として乗福寺を詠むなど、文化・学問の中心地だった。また、ここ乗福寺では「滴水瓦(てきすいがわら)」という、水滴が垂れ下がったような逆三角形の瓦が出土している。この瓦には龍や鳳凰が浮き彫りにされており、国内で発見された滴水瓦の中では最も古い時代に属するものだという。滴水瓦は朝鮮系の瓦であることから、乗福寺が外交の拠点だった可能性もあり、あるいは朝鮮半島から技術者を招いて瓦を作らせたのかもしれないとの推測がなされている。興隆寺からもそう離れていないこの一帯は、大内氏の元の本拠地なんだけど、館がどこにあったのかまでは、現在のところ判明していない。・・・が、乗福寺あたりに館があった可能性もあるとのこと。なんか、琳聖太子後裔説が単なるハク付けの捏造だったとしても(とゆーか、たぶんそうだけど)、古くからこの地が大陸色の濃い生活・文化を築いてたことに間違いはないんだなあ・・・って考えると、なんだか不思議な気分。 現在の本堂は1980年に再建されたものだっていうけど、ちゃんと大内菱がある 前回掲載した解説に「毛利氏の時代になり、本寺は解かれて博多に移築された」とあるけど、これについて『栄光と挫折の賦-守護大名大内氏-』(山本一成著)は 【毛利氏時代に入って、乗福寺の塔頭は大内弘世の菩提所である正寿院を残して ことごとく博多(福岡市)の黒田氏に贈られ、黒田氏はこれでもって菩提寺の崇福寺を 建立したといわれる。】と語る。ふう・・・世の習いとはいえ、大内ファンにとっては切ないのう・・・しかし、そういう事なら、博多へ行ったら是非崇福寺へ行かなくちゃな。崇福寺には、名島城の遺構と伝えられるものもあるらしいし。黒田氏の菩提寺で、大内萌えあ~んど隆景萌え・・・ふふ・・・ふふふ・・・まあでも、ここも興隆寺と同じく、大内氏にゆかりの深い寺が残ってるってだけでもいいかな。大内家当主の菩提寺の中には、もう現存してない寺もあるからね。境内は無人かってくらい、静か。見学者は誰も来やしないし。う~ん、ここに龍馬さんも来たのかあ・・・密談の相手は誰じゃ?とか幕末に時間軸を合わせようとしたけど、やっぱ無理。今の私には、大内さんちにかなうものなどありはしない(笑)。・・・墓行こ、墓・・・本堂の右手を奥に進むと、それがある。 ああ、あの上に、ひろよんが・・・!!上がっていこうとして木段に近寄ったら、途中にロープが張ってあって近くまで行かれない。なんでさ~!!仕方ない、ロープの所から手をあわせて、望遠で写真を撮った。 真ん中に高々とそびえるのが、琳聖太子の供養塔。 【琳聖太子供養塔 大内氏の始祖琳聖太子は、百済国の王子で推古天皇の19年(611)周防国佐波郡 多々良の浜(現防府市)に着岸し、摂津国の四天王寺に上って聖徳太子に謁され、 周防国吉敷郡大内県(山口市大内)を賜い、その地に下向されました。 その子孫は中世山口を本拠として大いに栄え、西国7か国を領国とし、大内文化と呼ばれ 京都をしのぐほどの華やかな文化を形成しました。】 (現地解説板より)向かって右側が重弘の墓。・・・土塀に隠れて、ほとんど見えなかったけど。 【大内重弘公の墓 重弘公は大内氏22代の当主です。鎌倉時代に元からの来襲「弘安の役」に際し、 軍を率いて九州に渡り、元軍と戦ったといわれています。重弘公の代になると 周防国の国司をしのぐ程の勢力をもち、だんだん大内氏の基礎を固めていきました。 元応2年(1320)3月6日死亡し、乗福寺に葬られました。法名を 乗福寺殿道山浄恵大禅定門といいます。】 (現地解説板より)んで、向かって左側がひろよんの墓。こちらもろくに見えなかったので、写真は撮らなかった。 【大内弘世公の墓 弘世公は大内氏24代の当主で南北朝時代に足利尊氏に従い、南朝の守護として 周防の統一をなし遂げました。その後北朝方になり周防・長門の守護に 任じられるとともに石見にも勢力を伸ばし石見守護になりました。 正平15年(1360)頃 弘世公はそれまでの本拠地大内を離れ、居館を山口に 移しました。山口はその後200年間大内氏の政治・経済の中心地となり 大変栄えました。弘世公は天授2年(1380)11月15日に死亡、法名を 正寿院殿玄峯道階といい、乗福寺の塔頭正寿院に葬られました。】 (現地解説板より)おっとお~、11月15日!!(吉川)元春ちゃんと命日一緒じゃん!龍馬さんもこの日が命日なんだよね。と同時に、誕生日でもあるけど。さらに、この日はうちの母親の誕生日でもある。実に盛り沢山な1日じゃの・・・(笑)。ただ、わからないのが、ひろよんは本拠を山口に移したのに、なんで乗福寺に葬られたんだろう?ってこと。山口を開いたと言われてる年からひろよんが死ぬまで、大体20年くらいある。20年あれば、町もかなり整ってたでしょうし、本拠として定着してたはず。大内氏の場合、歴代当主の菩提寺みたいのはなくて、個々に墓が点在してるんだけど、それでも義弘以降はおおむね山口を中心とした地域に墓がある。「山口のスーパースター」ひろよんなら、山口に墓がある方が自然な気がしちゃうのは、私だけ?静かな境内でしばらくまったりした後、最後に「へ~え、土塀の中身ってこうなってるのかあ・・・面白いな」 ってしげしげと見つめた後で、乗福寺を後にする。ああ、何だかもう疲れちゃったな・・・まだ時間は早いけど、最後にひとつ寄りながら、今日はもう帰ろう・・・にほんブログ村
2012年09月01日
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