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雨の中、上宮目指して歩く。簡単な雨対策はしてきたし、山の中に入れば木が雨を遮ってくれるだろうから、まあ大丈夫だろう。歩いていくと、結構民家があることに驚いた。 うっわ~、ここ、思いっきりかつての興隆寺の境内だよ。こんなとこに住めるなんて、羨ましいな・・・私もここにお家、欲しいな~。そしたら毎日、妙見社のお掃除でも何でもしちゃうのに・・・とかあらぬ妄想に浸りながら歩いてくと、森の入り口に着いた。ここから山道。結構降りだしてきたので、山用のスパッツを出して装着。雨をしのげるような場所は付近にはなかったので、傘をさしながら装着するのはなかなか大変だった。足ごしらえが済んだところで、いざ、上宮へ!!と勇んで歩きだしたら、ハチに思いっきり遮られた。入り口の道でこれじゃあ、この先もちょっとヤバイかも。山登りをしてた頃、基本的な知識としてハチのことも勉強したし、一人の時、こーゆー場面では特に無理はしない事にしているので、仕方なく上宮は諦めた。初日のマムちゃんといい、山口は自然が多くていい所だけど、お楽しみをこうして奪われるのはちょっとね・・・まあ、元々上宮は神聖な場所だったし、気安く来んな!!って神様の思し召しなのかも。そう自分に言い聞かせながら、森の入り口から走って逃げて、離れたところで苦労してつけたばかりのスパッツを外す。あ~あ、せっかくつけたのに・・・!つけるの大変だったのに・・・!!がっかりしながら、ずんずん興隆寺の境内を出てしまったので、だいぶ後になってから、興隆寺の住職様にお礼を言ってくるのを忘れたことに気がついた。住職様からは名刺を戴いてたので、宿に帰ってから電話でお礼を言ったら、またまた優しく応対して頂いてとっても嬉しくなった。まあ、今回上宮には行かれなかったけど、いずれ義興さんの墓参りのリベンジに冬に来るつもりだから、その時にまた興隆寺にも来よう。それより、大内氏にゆかりの深い興隆寺でとってもいい思いをさせてもらったから、なんだか大内の殿様方にごほーびを戴いたカンジ色々と番狂わせも多かった今回の旅だけど、興隆寺に来て良かったなあ。さて、せっかくここまで来たのだから、もうひとつ大内氏にゆかりの深い寺へ行っちゃおう。墓参りもしたいしなてんで、山を回り込んで西に歩き出す。宿を出てからずっとトイレに行ってなかったので、うう、トイレどうしよう・・・コンビニもないしな・・・と思いながらガマンして歩いてたら、途中の公園にトイレがあった。この時ほど、公衆便所をありがたいと思ったことはない(笑)。スッキリしたところで再び歩き出し、着いたのは乗福寺(場所はこちら)。 え~と、なんか木が茂ってて入り口がわかりにくいけど、このまま奥へ進んでいけばいいのかな? あ・・・石垣と土塀が見えて・・・アレ?何か変・・・ はわわわ・・・!!どべ、どべ、土塀があ~!!!あまりの光景にしばし呆然となるも、土塀の中身なんて滅多に見られないし、この衝撃をツイートしなくちゃ・・・!!ってケータイを取りだしたところで、手を滑らせて角から思いっきりガコーン!!とケータイが落っこちていった。 ・・・と、とりあえず壊れはしなかったけど、まだ機種変更して何カ月も経ってないのに、すごい傷付けちゃったよ~!!ちょっと動機が不純だったか・・・いやしかし、これは確かな現実で、別に画像を捏造した訳じゃない。寺院の維持管理ってのも大変だよな~ってしみじみ思ったね。崩れた土塀の間にある山門を抜けると、正面にすぐ本堂。 【乗福寺の由来 山号を南明山といい臨済の古刹である。本尊は観世音菩薩、開山は盧峰和尚、開基は 大内重弘である。元応2年(1320)3月重弘を当寺に葬った。延元元年(1336) 北朝が本寺を勅願寺とした。 貞和元年(1345)足利氏が諸国に安国寺利生塔を定めたとき、当寺をもって周防国の それにあてた。しかしその後火災にかかり荒れてしまったが、享録年間(1530頃) 大内義隆がこれを復興した。 寺伝によれば塔頭26、末寺88箇所もあったというが、大内氏滅亡後衰微した。 毛利氏の時代になり、本寺は解かれて博多に移築された。そして寺跡には小庵を建て わずかにその名を存していたが、寛文8年(1668)焼失した。そこで塔頭の正寿院を 転じて乗福寺とし、今に及んでいる。 幕末、坂本龍馬が当本に於て長藩士と薩長連合の相談をしたことは有名である。 寺の後方に大内氏の始祖琳聖太子の墓、開基重弘の墓、山口開府の恩人 大内弘世の墓 などがあり、また最近整備された学都山口の祖 上田鳳陽や服部東陽の墓がある。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)大内重弘(?~1320)は、以前「山口編(4)」に載せた系図には載ってませんが、ひろよん(弘世)の爺様にあたる方です。上の解説には非常に控え目なことしか書いてませんが、ここも大内氏とゆかりのふかぁ~い寺です。だって、まず琳聖太子の墓があるんだもん。ここまで地道に山口編を読んできて下さった方には、この1点だけでも「おお、なかなかのポストにある寺なのか?」って想像はつくんじゃないでしょうか。平安時代後期・後白河法皇の院政時代、周防は法皇の知行国。平家滅亡の後は、東大寺大仏殿の再興のために法皇から東大寺へ寄進される。東大寺の造営が完了すると、また○○寺の○○造営のため、それが終わると××寺の××造営のため・・・といった風に、所有者が転々と変わっていった。1230年頃になると、再び東大寺が「ヘイ!カムバック、スオー!!」とばかりに周防獲得運動を起こし、半ば強引に我がものとしたそうな。在地の有力者と、中央から派遣された管理者との衝突は色々あったが、重弘は特に東大寺の国務と激しく対立したという。結局、東大寺から派遣された人の罷免に成功しちゃうんだから、ひろよんまでの時代は周防国衙の在庁官人だったとは言っても、トップが色々移り変わるスキを狙って、着々と勢力を蓄えていったってカンジかな。↓また「ぽち」をよろしくね~。にほんブログ村
2012年08月31日

大内氏が出版事業も行っていたことは大内文化のところで書いたけど、これらの本は「大内版」あるいは「大内本」と呼ばれた。興隆寺でも法華経全8巻が開板されたが、この板木は現在でも完存しており、山口県文書館の所蔵となっている。これは桜材の板木59枚の両面に妙法蓮華経(法華経)の全文が彫られたもので、完成までに7年かかったという。実際に印刷に使用されたものなので、一部欠損してたり、表面が黒っぽくなったりはしてるけど、大内文庫とともにもはやその全貌がわからなくなってしまっている大内本の確かな証として貴重な歴史の証人であることに変わりはない。さて、興隆寺・妙見社と大内氏のかかわりについていくつか書いてきましたが、唯一にして最大の大檀那・大内氏が滅ぶと、興隆寺も当然の事ながら、衰退を余議なくされてしまう。しかし、毛利氏の庇護はいちおう受けられたので、幸い廃寺になることは免れた。そんな歴史を感じさせるようなグッズが、妙見社の外に見ることができる。↓これは社の蟇蛙ね。「一文字三つ星」の毛利家家紋は有名ですわね。 ↓だから、お願いだから、大内菱の瓦を無造作に下に置かないで欲しいんだけど~つい出来心で、無意識のうちに持って帰ってしまいそう・・・ 妙見社の裏手、本殿はこんな感じだった。 それから、お狐様もおわす。 摂社の管理ってのは、神社によってまちまちだけど、ここは綺麗に祀られてるな。さっすが、興隆寺さて、建物関係はこれで終了。いよいよアレじゃ、ア・レ 【国指定重要文化財 興隆寺の梵鐘 この梵鐘は、室町時代周防長門など七か国の守護であった大内義隆が享録5年(1533)に 大内氏の氏寺興隆寺に寄進したものである。 総高が189センチ、口径が111.8センチの巨鐘で、朝鮮鐘の影響を多く受け、 乳の間四区の間に四天王、草の間に雲龍紋様を鋳出すなど、随所に装飾がにぎやかに つき、大内文化を代表する工芸品である。 銘文から筑前葦屋(福岡県遠賀郡芦屋町)の大江宣秀の作であることがわかる。 興隆寺は大内氏の氏寺で、大内氏全盛の時は非常に栄えたが、大内氏滅亡後は衰え、 明治になり堂塔もなくなった。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)この旅の計画を建てた頃は、ホントに自分でも笑っちゃうくらい大内氏に関するロクな知識もない頃でね。ただ、最初の頃に書いたように、山口市は大内家関連の史跡とか歴史に関するサイトが充実してるので、そこから行き先をピックアップしていって、その後で個別に調べたりしながらちょっとずつ覚えていった感じだったかな。なので、そもそもここ興隆寺を予定に組み込んだのは、「義隆の梵鐘がある!」ってその一点にかかってた。その鐘が、眼の前にある。鐘についての知識はないけど、確かにこの鐘を見た後で他の和様の鐘を見ると、「やっぱ義隆の方がいい・・・」って思いにはなるよな。まあ、もちろん好みの問題ではあるけど。で、解説にもありますが、この鐘、デカイんです。こんなデカイのを吊り下げるのも大変だよな~。これでビジュアル・大きさと鐘の良いところが2つ並びましたが、鐘は本来、音を鳴らす法具。んで、義隆の鐘はどうかといいますと・・・菜香亭で買ったDVDに、この鐘の解説がありましてね、鐘を鋳造する時に、内側と外側の型がずれないようにするために使われた金属を「型持(かたもち)」というそうで、鐘の内側に磁石を聴診器みたいに当てて、型持の位置を調べる様子が映されてた。それによると、義隆の梵鐘に使われた型持は16箇所。デカイせいもあるんでしょうけど、それだけじゃなく、 厚さを均一にして、良い音色を出そうとする職人のこだわりと、 技術の高さがうかがえるとしている。大江宣秀さんについては「山口編(2)」で簡単に書いてますが、今をときめくお金持ち・・・いえ、権力者と、人気の鋳物師の夢のコラボにより生まれた重要文化財のこの鐘、一般の参詣者が撞けるんです。しかもタダで(笑)。まさか撞いていいとは思ってなかったので、ちょっとびっくりしたね~。ただし、「強く撞かないでください」と書いてあるので、ありがたく、控え目に撞かせていただきました。いや、もう完全に鐘がトラウマになっちゃってるよ・・・以前は、鐘撞こうとか思わなかったもんねひとまず、境内はこれで全部見た。・・・見たけど、そうあっさりとその場を離れることもできず、しばらくぼんやりと過ごした後で、興隆寺でもう一つ楽しみにしてた場所へ向かうことにした。妙見社と現在の興隆寺の間の道路は、ずっと山の方へ続いてる。 かつて大内氏の庇護を受けていた頃は、氷上山すべてが境内だった。入り口にある法界門には政弘が後土御門天皇からゲットした・・・いえ、下賜された「氷上山」の勅額が掲げられ、法界門から1キロほども続く道の両脇には、100あまりの堂宇が立ち並び、500人もの僧侶が日々のおつとめに励んでいたという。そして、これから向かうのは、その氷上山の中でも最も神聖とされ、大内家当主と「亀童丸」の名を受け継いだ跡継ぎのみが立入を許された場所、上宮。上宮(じょうぐう)については、大体上のように説明されるけど、実は亀童丸(きどうまる)の名前の歴史は新しく、大内家の系図を見ると、当主、あるいは当主たるべき嫡子の幼名には「孫太郎」というのが多い。ただ、以前書いたように、大内家でも家督が変わるたびに血縁間での争いが繰り広げられたから、歴代当主みんなが「孫太郎」だった訳じゃない。例えば、盛見なんかは「六郎」。その名の通り6男だからね、普通だったら家督を継ぐ立場じゃなかった。そーゆー当主は、盛見の他にもいる。そして「亀童丸」の名前が現れるのは、政弘の時。政弘のパパは、教弘。この2人の名前は、築山館とか大内文化のところで何度も出てきましたが、大内家の歴史を妊娠に例えれば、教弘・政弘時代は安定期に入った頃にあたる(笑)。経済・文化のみならず、内政にも力を入れ始めた頃で、それはすなわち当主の権威・権限の強化を意味する。血族間での争いの歴史を持つ大内家では、「亀童丸」の幼名の新設により、誰が跡継ぎなのかを明確にし、これまで繰り返し起こってきた跡継ぎ争いを未然に防ごうとしたのではないかという推測がなされている。こういった訳なので、「亀童丸」の名を持つ当主は政弘・義興・義隆の3人のみ。このうち、義興さんと義隆は元服前の「亀童丸」の時代に氷上山上宮へ参拝した記録が残っている。政弘も11歳の時にパパと一緒に参詣してるけど、この時「亀童丸」だったのかはちょっとわからない。「いや~、世が世なら、とても私なんかが入れる場所じゃないのにな~。ホントに入っちゃっていいのかな~。でも、今の時代に生まれて良かったな~。」とか思いながら、小雨の中歩き出すと、看板が出てた。 この中でいっちばん遠いじゃん・・・しかも、アップダウン付きの550mだからな・・・にほんブログ村
2012年08月30日
この世に生まれてから死ぬまで、すべての人は平等に、年を取っていく。1年に、1つずつ。老化の程度やスピードにはかなり個人差があるけど、一定のラインを越えると身体の衰えはまさに坂道を転げ落ちるかのようにぐんぐん進んでいくように感じる。ジジイを自称するわたくしももちろん、季節が変わるたび「ワシも年とったのぉ~」と感じることが多くなった。そんな体中の細胞の中で、変わらず活発で若々しいと感じるのが、メラニン色素(笑)。まあ、要するに日焼けしやすい訳です。といっても、皮がむけたことは数えるほどしかない。皮はむけないけど、しっかりとこんがり色素が定着するタイプ。地黒ともいうわね。子供のころは、夏休みといえばそれこそ朝から日没まで外で遊んでた。宿題そっちのけで(笑)。日焼けしやすい子が外で遊びまくればどうなるか?そこで忘れられない思い出がひとつ・・・小学校4~5年の頃、2学期が始まって健康的に日焼けした可愛い生徒たちを見て、担任の先生が「黒んぼコンテスト」をしようと言いだした。そしてクラスの中から見事に日焼けした子を選んでいき、最後に残ったのは私とある男子の2人。これが決勝戦。ボクシングとかの、判定のシーンを思い浮かべてください。真ん中のレフェリー(先生)が両脇の選手(私と男子)の手をつかみ、高々と差し上げたのは、私の腕・・・そう、私は黒んぼチャンピオンになっちったのですよ小学生とはいえ、乙女ゴコロが傷ついたあの夏・・・さて、本日わたくし旅から帰って参りました。直射日光を浴びるのと浴びないのでは、身体への負担もかなり違ってくるので、ずっと日傘をさしてたし、日焼け止めも塗ってたけど、やっぱ結構焼けたわ~。まあ、あの暑さの中、ずっと外を歩いてて倒れなかっただけいいよな~。一応、去年の苦い経験があるので(大津編をご覧ください)、無理のないようにはしたけどね。けどやっぱり、それなりに無理はしたけどね(笑)。明日にでも残りの山口編から再開したいと思ってますが、忘れないうちに今回の写真の名前付けをしておかないといかん。まだカメラをPCにつないでないので、正確な枚数はわかりませんが、1200枚はゆうに超えてる・・・一体、何をそんなに撮ったのか?山口編が終われば、すぐに今回のをアップすると思いますので、しばしお待ちくだされ。これだけの枚数ですので、歴史についてつらつら書く部分を除けば、写真満載のシリーズになるのではないでしょおか・・・史跡めぐりは準備も大変だけど、後始末も大変ああ、写真の枚数を確認するのがコワイ・・・
2012年08月28日
最近まで、あまり飛行機には縁がなかったなあ。あ、いや、それまでも乗ってはいたんだけどね、連れが大勢いたからただ乗ってただけとゆー…けど、ひとりだと周りを色々見るようになるから、一人旅を始めてからヒコーキの良さを知ったっていうか。まず、ある程度の遠方になると、早割さえ取れればフリープランよりもずっと安くあげられる。それから、一つの交通機関での拘束時間が短い方が良い私にとっては、ばびゅ~ん!と遠くまで一気に連れてってくれるヒコーキは身体に合ってる。まあ、昔ヒコーキに乗り遅れそうになってからは、かなり早目に空港に行くようにしてるので、家から目的地までの所要時間はそれなりにかかるんだけどね。ヒコーキで好きなのが、空港のトイレ(笑)。綺麗だし、あちこちにあるからすぐ行けるし。・・・あ、でもそれは羽田の話か。地方空港とはやっぱり規模が違うからな。あと、離陸前の空港関係者様の儀式が好き機体がズルズル引っ張られて移動してく時、整備?の人とかが、深々とお辞儀をしたり手を振ってくれるでしょ。あれがじ~んと来るんだよね。見えないとこで、こんなに沢山の人に支えられてるんだ・・・!って実感する瞬間。ただ、めんどくさい事もある。私の耳は気圧調整機能があまり上手く働かないので、手動で空気抜きをしなきゃならん=з手動の方法?そりゃアナタ、鼻をつまんで「ふんっ!」って空気を抜くアレですよ(笑)。も~、1回のフライトで一体何回鼻をつまむことか…昔、どこだったか海外で小型機に乗った時、着陸するのに急降下して空気抜きが追いつかなかった事があってね。その後も空気が抜けないままで、半日だか1日だかしばらくの間、頭が割れんばかりのひどい頭痛に悩まされた経験があるのだ。怖いもんだな~と思ったね。大事な山口編の本編を放り出して、唐突にヒコーキの話?カンのいい方は「もしかして…」って気付いたかもしれませんが、要するに、今はヒコーキで某所へ来てる訳ですいや~、今回は山の上にある空港だったんだけど、山の空港って初めてだからちょっと恐かったね。あの墜落した日航機に運悪く乗り合わせた乗客・乗員の方達もさぞ恐かっただろうな・・・なんて思っちゃったとゆー訳で只今旅を満喫しておりますので、本編の再開は今しばしお待ちくだされ。
2012年08月26日
暑い日が続きますが、皆様お元気でしょうか。山口編がまだ完結してませんが、都合により再開は月末頃になるかと思いますので、ご了承ください。「おいジジイ、更新まだかよ?」って覗きに来て下さる皆様、申し訳ありません職場では夏休みで出かけた同僚からあちこちのお土産をいただきましたが、その中に私の大好きな「博多通りもん」が…! 義理の兄が豊後人なもので、帰省して買ってきてくれる土産の中で楽しみにしてるのが、この「博多通りもん」と「陣太鼓」今日、(仕事中に)久々に食べた「博多通りもん」は五臓六腑にしみ渡るウマさだった…いただきものといえばインパクトのあったのは、やっぱ「切腹最中」かな~。だいぶ前に、偶然見つけた友達が買ってきてくれたんだけど。丸い最中の皮から、あんこがむにゅっとはみ出してるんだけどね、他のネーミングなら絶対気にならないところなのに、なんせ「切腹最中」だからさ・・・はみ出してるあんこがつい内臓に見えてきちゃって、「なんで最中に切腹させるかな~」ってあまりいい気分じゃなかったよな。だってホラ、戦国武将って丹羽様とか壮絶な切腹のエピソード持ってる人がいっぱいいるじゃない?変なとこで想像力豊かな私は、なんかリアルに想像しちゃうんだよね~ところで、切腹にはひとつ思い出がある。学生の頃は三島由紀夫が好きで、沢山ある著作も結構読んでたんだけど、ある短編を電車の中で読んでた時のこと。タイトルは忘れました。ええ、何せ大昔の事なので・・・(笑)三島由紀夫の最期は有名だけど、やっぱり作者の関心がそのまま作品に投影されるのは当然のことで、彼の晩年の作には最期を暗示する内容が多い。で、その短編も時代モノって訳じゃないんだけど、青年将校が切腹するシーンが物語のハイライト。その割腹の描写がちょ~おリアルで、得意の想像力を働かせつつ作品に入り込んで読んでたんだけど、とにかく真に迫ってたので、一瞬意識がなくなって、気がついたら電車の車内で座り込んでる自分がいました。・・・失神しちゃったんだよ。あまりにもリアルですぐ立ちあがったけど、そんなに混んでない車内で「なんだコイツ」って周りから白い目で見られたことは言うまでもありませぬ・・・
2012年08月22日

中興堂の中におわすのは、釈迦如来様。 【山口市指定有形文化財 木造釈迦如来坐像 この仏像は大内氏の氏寺として栄えた興隆寺の本尊である。檜材の寄木造りで、 像の高さは112.2センチで、その下に121センチの蓮華座がある。面長な顔の輪郭、 引き締まった顔の肉取り、ややつり上がった瞼の切れ込み、衲衣と裳の強い襞の表現には 仏師の慶派の伝統的な技法が認められる。作風などから南北朝時代の作と思われる。 興隆寺は寺伝によると613年大内氏の祖琳聖太子が創建したと伝えられる古寺である。 興国2年(1341)に放火によって興隆寺は焼失したが、大内弘幸が8年後の 正平4年(1349)再建した。この釈迦如来坐像はこの時造られたものと思われる。】 (現地解説板より) この解説板の設置年月日が書いてないけど、あまり最近のものではないみたい。というのも、平成12年にこの釈迦如来様の精査がなされた際、墨書から永正元年(1504)に義興さんが京都の仏師に造らせて奉納したことが判明してるのだ。この時の調査の様子を菜香亭で買ったDVDで観たんだけど、ファイバースコープを使って墨書が映し出されてて、「義興」の文字がはっきり読めた。永正元年といえば、前将軍・足利義尹(よしただ)が山口に転がり込んで5年目、ちょうど山口滞在の折り返し地点にあたる。たとえばその3年前には、義興さんは九州退治の祈願をして妙見社に重代の剣・鳶切を奉納したという記録などもあるので、もしかしたら釈迦如来様も義材がらみの奉納かもしれないね。ご本尊様ですので、かつては当然本堂におわした。現在は、龍福寺の本堂となっているのがそれ「大内氏館(5)」を見てね)。そもそも妙見社とは、「山口編(21)」に引用した解説の通り、北極星を神とした天帝思想に由来する信仰。 そこに道教・密教・陰陽道などが混ざり合い、妙見菩薩はお釈迦様の化身として位置づけられていたそうな。釈迦如来様の脇侍(わきじ)はおおむね普賢菩薩・文殊菩薩と決まっており、興隆寺ではさらに四天王も従えていたので、かつて本堂では三間あったというが、現在の須弥壇は一間。向かって左側には、木像がある。 どなたとは書いてなかった気がするんだけど、場所的に興隆寺の中興上人・行海和尚様かな?この木像もそうだけど、内部はこんな風に↓白くなってる部分とか多くて、ピカピカのキラキラではなかったんだけど、意匠は独特。例のごとく、上ばかり見てしばらく呆けてたのは言うまでもない(笑)。この白いのって、カビ? 江戸期のものってよりは、室町って言った方がしっくりくるようなデザインだけどな・・・一部彩色が残ってるけど、かつてはかなり華やかなお堂だったんでしょうね。さて、あまり長居しても悪いので、中興堂を出て妙見社の方へ。 妙見様は北極星、北極星は北にある。北の方角は四神でいうと、玄武。玄武は亀に蛇が巻きついてたり、亀の尾が蛇になってる姿で描かれる。妙見様への信仰が篤かった大内氏では、政弘の時代、文明19年7月20日付の大内家壁書ですっぽんと亀と蛇は、飼っている鷹のエサにしてはならないとお触れを出している。面白いよな~この旅から帰ってしばらくしてから、いい加減郷土史もやらなきゃ・・・と少し相馬氏のことを勉強し始めたんだけど、相馬氏も妙見様を崇拝してたことがわかったので、以後は私も妙見様を信仰することにしました(←動機が不純)。 現在の興隆寺では、16世紀頃の作とみられている絹本着色の「妙見菩薩像」を所蔵してるんだけど、この絵に描かれた妙見様は、ふくよかで生え際のラインもかなり上までいっちゃってる、オジサマのお姿・・・けど、私には妙見様といったら、もうこの姿しか思い浮かばないよ~(笑)。ちなみに、「妙見菩薩像」は雪舟の弟子の作と伝えられている。妙見様は大内家の氏神様だから、当然っちゃ当然だけど、歴代当主と妙見社との関わりは深い。たとえば、和泉守護だった25代・義弘は、和泉に妙見社を勧請。大鎧の左袖に「妙見大菩薩」と書かれた札を付けた義弘の騎馬画像が残る。政弘は応仁の乱の最中、陣中に妙見社を勧請。その9ヶ月後、乱はめでたく終結したと。霊験あらたかじゃのう・・・その他、誰々が参詣しただの、誰々が何かを奉納しただの、って記録は沢山ある。そんな妙見社で行われる二月会は、大内家の年中行事の中でも最大級のイベントで、かなり盛大に行われたらしい。(「山口編(21)」の解説板もあわせてご覧下さい)大内氏の栄えた頃には、パンピーは妙見社には参拝できなかったそうだけど、この日は一般公開された。通常入ることのできなかった女性も、この日だけはオッケー二月会の時には、山内で木を切ったり石築地に上がることが禁止されている。また築地か山口の民は、皆そんなに築地に上がってたのか?(笑)いやいや、それだけ皆、このイベントを楽しみにしてたんだよな。二月会の責任者であり世話役の大頭・脇頭・三頭は、イベントの費用を負担する決まりだった。大内家の家臣ももちろんこの大切なお役目を仰せつかったが、永正12年(1515)などは筑前と豊前の国人が大頭・脇頭・三頭のすべてに指名されており、外様の金で本国の大事なお祭りが行われた年もあった様子。二月会の中での目玉が、歩射(ぶしゃ)と童舞(わらわまい)。歩射は、6人が神前で大的を射る神事。二月会じゃないけど、明治初期に描かれた「山口名称旧蹟図絵」には築山神社での歩射の絵があり、バックには大内菱と一文字三星(毛利家家紋)の幕がかかっている。毛利家でも興隆寺の保護をしており、二月会はそのまま引き継がれたらしい。そして二月会のクライマックスが、童舞。8人で舞を踊るそうなんだけど、盛見がこの童舞の衣装を京に注文した記録が残っており、8人分でお代は200貫文。現在の額に換算すると、約2,000万円に相当するというからすごいえ~、単純計算で一人250万の衣装か・・・さすが、おかねもちの大内氏さぞかし当時は華やかなものだったでしょうね。民衆に人気があるのも、道理だよな・・・にほんブログ村
2012年08月18日

趙秩(ちょうちつ)さんの碑を見ていたら、男の人がやって来た。この雨の中・・・観光かな?それとも、地元の方かな?と思いながらも、自分の世界に没頭していたら、「こんにちは」と声を掛けられた。こちらも挨拶を返すと、「タクシーが止まったのが見えたので・・・」と言われた。なんとこの方は、興隆寺の住職様だった。雨の中、わざわざ私のために出てきてくださったのか~住職様は、妙見社の中へと案内してくれた。うわあ、なんてラッキー!!緊張しながらも、後をついてく。 妙見社の中は、そう広くはない。中には色々置いてあって、↓こんな昔の絵図とか使いながら興隆寺の歴史をあれこれ説明してくれた。 ひとしきり説明して下さった後で、私は内部をゆっくり見させてもらうことにして住職様は戻っていった。 素木の格天井・・・むき出しの梁とか、見てるだけでシアワセ 神前には、大内菱の幕がかかってる。お古でいいから、一枚欲しいな~(笑)。妙見様にひとり静かに手を合わせたあとで、まわりにある品々をじっくり物色。「大内文化探訪会」様発行の刊行物などもあったので、いくつかゲット。他に、新聞記事だとか色々展示してある。面白いのは、旧大内小学校の校歌の楽譜が展示されてた。歌詞は残念ながら大内氏を歌ったものではなく(当たり前か)、勤皇の志士のものだったんだけど、この校歌、作詞:児玉安積、作曲:弘中策とあって、場所が場所だけに、児玉・弘中って毛利家家臣の?とか思っちゃう。あ、弘中さんは元々、大内家に忠義を尽くした家系だけどね。そんなで展示物を見たり、建築を眺めながら一人でまったりしてたら、突然人の気配がした。驚いて振り向くと、住職様が雨の中立ってた。どうしたのかと思ったら、「昨日、TVに出てた方ですか?」って言われてびっくりした。うわあ・・・本人でさえ、もう忘れてたのに・・・!!地元の放送局で地域の催し物とかやると、一般人のインタビューが夕方・夜・朝のニュースとかで何度も流されて、「あ、またこの人出てる~」ってのよくあるでしょ。ほんの何秒とかだけど、同じ映像が流されると「またか」って認識できるけど、その本人に会ったところで、普通は「あ、あの映像の人だ」なんてわからないよね~。まあ、住職様とは「千葉から来ました」みたいな会話はしたと思うから、そこもヒントにはなったかもしれないけど、それにしたってすごい。私だったら、絶対わからないと思う。すぐ忘れちゃうよ~、あんな短い映像。やっぱり、池泉庭園のニュースは大内家に関心のある人にとっては、かなり興味深いものだったのかもしれない。特にここは、大内氏の氏寺・興隆寺だし。今は大きな建築物とか残ってないから、山口の観光サイトとかでも興隆寺はあまりスポットとしては紹介されないけど、「大内氏のゆかり」なんて言葉じゃ済まされないほど、すごいお寺だったんだよ~!!まあ、広くはない妙見社の中でこれだけだらだらする人間もそういないだろうから、住職様も様子を見に来て下さったのかもしれない(笑)。そして、隣にあるお堂も見ていいと言って下さったので、一緒についていった。 ここは中興堂というお堂で、興隆寺で頂いた資料には 【中興堂とは、江戸時代に興隆寺を再興した行海和尚が元禄7年没し、 その中興をたたえ、元禄8年(1695)に辧海和尚が建立したものである。】とある。行海和尚さんは、「山口編(21)」で掲載した解説の中にある、中興上人と呼ばれている方のことだな。うむ、よくぞ再興してくださった・・・!!大内氏にとって大事なお寺が残っているというだけでも、嬉しいことよ・・・ けどまあ、中興堂自体は毛利時代のものってことだけどね。中興堂の扉は最初から開いてたけど、ネットが張られている。確か、猫よけとか言ってたような・・・(笑) だから、普通の人は中に入ろうと思わないよね。入り口からでも充分見られるし。住職様は、しばらくセキュリティを解除するので、このネットを外して中に入っていいと言ってくださった。「ホ、ホントにいいんですか!?写真も撮っていいですか?」と図々しく聞いて、OKをもらった。住職様がセコム(かはわからないけど)を解除しに戻って行ったので、しばらく外の写真を撮ったりして間合いを取る。 龍だ・・・目がカワイイ うふふ、前髪くるくる・・・こちらも目が可愛い。手もなんだか可愛い(笑)。屋根には大内菱の鬼板が載る。雨の中だったので、画像が暗くてすいません。 そろそろいいかな・・・ってんで、ありがたく中興堂の中へ。にほんブログ村
2012年08月16日

世間では琳聖(りんしょう)太子の実在が危ぶまれていようとも、興隆寺の貴重な寺宝の中には、琳聖太子のものと伝えられる宝剣と拵がある。 【大内氏が琳聖太子後胤説を創出した理由としては、大内氏が朝鮮国に対し 同族意識や墓参などを口実に渡海し、貿易活動を有利に展開しようとした、とされる。 一方、朝鮮国との密接な関係を日本国内に喧伝することによって、 国内において朝鮮貿易を主導する立場を確立する目的による、といわれる。 そして琳聖太子後胤説が発展する画期は大内盛見と大内政弘の時である。 両者に共通するのは、いずれも大内氏権力が分裂・動揺した後に、 当主が領国支配を再整備するべく、家臣団の集結点として興隆寺が活用された。 つまり、盛見と政弘にとっての琳聖太子後胤説は領国支配に、 そして日本国内を意識して創出されたものであった。】 (『大内文化と北九州』/北九州市立自然史・歴史博物館より)ふ~む、なるほどね・・・琳聖太子の実在うんぬんについてはまあ置いておいても、百済滅亡の際にはかなりの数の朝鮮人が日本に来たっていうから、地理的な関係で周防に移住した人もそれなりにいたかもしれないし、大内氏がその帰化人の血をひいているというのは、あながち無い話でもないみたいなんだけどね。妙見社の入り口にある解説板にも、 【この地域は古くから大陸系の文化を持った人々が住んでいたことが、 古墳の発掘調査でも明らかで】とあるし。琳聖太子には、妙見社に関連する伝説がもうひとつある。 【妙見社は、興隆寺の鎮守として、古くから興隆寺の境内に祀られていた。 大内氏の始祖琳聖太子が日本に来訪される二年前、周防都濃郡の青柳浦 (現在の下松市)の大松樹に大星が降り、七昼夜にわたって輝いたので、 里人は占ってもらったところ、異邦の太子が来朝するので、その星を 妙見尊星王大菩薩として祭、社を鷲頭山に建て浦の地を下松と改めたといわれている。 この氷上山妙見社は、興隆寺が大内氏の氏寺であったため、 妙見社は後には国中の総妙見の如く栄えたといわれる。】 (妙見社で頂いた資料より)推古5年(597)、来日した琳聖太子はなんと聖徳太子にお目見え。自分が来ることを予言した不思議な星の話を聞いた琳聖太子は青柳浦に寄って、北辰尊星妙見大菩薩を祀る社を桂木山に建立し、日本で初めての星祭りを行った。以後、青柳浦は星が松に下った聖地として下松と呼ばれるようになった、という。現在の山口県下松市では、この伝説から「星ふるまち」のキャッチフレーズで売り込みちう・・・(笑)。ただし、「下松」の名の由来には別の説もあって、百済の国への風待ちの港だったことから「百済待」、あるいは「百済津」と呼ばれていたのがなまって「くだまつ」となり、「下松」の字をあてたともいう。いずれにせよ、どちらも百済とゆかりのあるエピソードなので、古くから大陸と深い関わりのあるお土地柄ではあったということか。この星の伝説は、大内政弘が「興隆寺を勅願寺に!」運動をした時に書かれた「大内譜牒」という書物の中にある話で、琳聖太子の来日からは900年も経ってる・・・(笑)。政弘が応仁の乱から戻って以降、「大内譜牒」ができるちょっと前までの間には政弘自ら九州退治に出かけたりなど、確かに色々あった。しかし、琳聖太子を祖とする系図も完成して「大内譜牒」の中に収められ、今まで以上に百済の皇子の子孫を世間様に大々的にアッピールしたその年(文明18年、1486年)は、興隆寺が勅願寺の栄誉を賜り、大内家の繁栄を象徴するめでたい出来事が重なった年でもあった。そして、同じ年、山口にいた雪舟は政弘から製作の依頼を受けた。齢67の雪舟が仕上げた作品が、現在国宝となっている大作「四季山水図」。そ~、あの絵には、大内氏繁栄への雪舟の祝いが塗りこめられておるのです。そんな訳ですので、皆様、「四季山水図」を観賞する際には、かつての大内氏の繁栄を思い描きながらご覧くださいねさて、琳聖太子の話はこれくらいにして・・・妙見社の境内はそう広くはないので、色んなものが目について早く見たいけど、まずは入り口にある碑に刻まれたこの漢詩から。 「氷上滌暑(氷上に暑を滌く)」 光凝山罅銀千疊 (光は山罅-さんか-に凝れり、銀千畳) 寒色清人絶欝蒸 (寒色は人を清やかにして、欝蒸-うつじょう-を絶つ) 異國更無河朔飮 (異国には、更に無し、河朔-かさく-の飲-いん-) 煩襟毎憶玉稜層 (煩襟-はんきん-には、毎-つね-に憶ふ、玉稜層-ぎょくりょうそう- ) ≪夏の陽光は山ありの氷上の地に差して動かず、 見るまにあたりの千畳敷の広さが銀色に輝く。 この寒さすら感じさせる光景は 人に清涼感を与えて蒸し暑さを絶つ。 しかしここは日本なので、中国の河北地方で行われる 暑気払いの酒を酌む風習などまったくない。 わたしの胸のうちには、ふるさと中国の 山々の姿が去来するばかりである。≫ (訳は現地解説板より)これは、明の人・趙秩(ちょうちつ)の作・「山口十境」の中で氷上の地を詠んだものだそうな。趙秩さんは、ちょっと、おたくの倭寇、なんとかしてよ!!って依頼に来た明からの使者。 異国人の創った元を倒し、あらたに明を建国した洪武帝(朱元璋)は、建国当初から国家レベルの問題となっていた倭寇対策として、何度か使者を日本によこしている。趙秩さんもどうやら2回来日したらしく、1回目は色よい返事をもらって帰国して洪武帝に褒められた。しかし、日本では南北朝時代。趙秩さんが交渉に行ったのは、博多にいる南朝だった。とは言っても、趙秩さんの前任者が南朝の宮将軍に会った際にはけんもほろろに追い返されちゃったので、今度は北朝へ頼みに行こうとしてたところをとっ捕まって博多へ連行されたという話もあるけど。いやいや、使者も命がけじゃ・・・ともかく、なんとか話をまとめて初回は無事任務終了。ただし、南朝の方では倭寇を取り締まる気なんかさらさらなかったみたいそして2回目の来日。この時期が悪かった。趙秩の帰国後、大内義弘を従えた九州探題・今川了俊が九州入りして南朝方は熊本へ撤退してしまってたのだ~。そうとは知らなかったのか、また博多へやって来た趙秩は北朝方に抑留されてしまう。いや、ホントに使者も大変だわ~。捕われの身の趙秩さんを山口に招いたのが、時の当主・ひろよん(大内弘世)。ただ、ひろよんは博多には出陣してなかったんじゃないかと思うので、子の義弘が応安5年(1372)、全軍四千の兵を引き上げて帰る際に、ひろよんの命を受けて義弘が連れ帰ったのかもしれない。山口に引っ越していたひろよんは、その衛門を長春城、西庁を日新軒と称しており、日新軒の方に趙秩を招いたといわれる。約9ヵ月の山口滞在中に、趙秩は山口の10箇所の景勝を詠んだ「山口十境」を遺したとされ、山口市では現在、各スポットに石碑を建てて大内文化のひとつとして紹介している。守護大名となって山口で新しい町づくりをして意気揚々とするひろよんと、明の官吏・趙秩。確かに、一見華やかな大内文化の一端のようにも思えるけど、現実はそう綺麗なものでもないのカモ・・・そもそも、「山口十境」の成立についてははっきりわかってはいないらしい。ひとまず、そのことは置いておくとしても、趙秩さんが山口に来たのは、「山口古図」から推定されるひろよんの山口への引っ越しからまだ10年くらいしか経っていない頃。繁栄してる都市へ来たとは、ちょっと言い難い。単に文化的交流のためだけに、ひろよんは趙秩を招いたのか?これについて、金本利雄氏は『山口十境詩余話 鰐渓の詩』の中で 【折角倭寇の鎮圧を頼みに来た相手の南朝方は太宰府を退却して 頼みの綱は切れたので、この上は、北朝側の足利幕府へ頼もうと、 大内氏を頼ったのであろうが、しかし、大内弘世はそれに応じなかった。 少くとも、趙秩らを京都に送ることはしなかった。(中略) 趙秩、朱本を山口に留め置いたには、それなりの政治的打算がなかったとは 云えない。(例えば対明貿易への野心とか……。)】と述べておられる。同文の中では、同時代の高僧・春屋妙葩(しゅんおくみょうは)が弟子を趙秩の元に遣わして交流を持ったことを紹介し、 【趙秩は、これにも(使者の役目を果たすための)望みをかけていたと 思われるが、妙葩の一時政界引退というこの時期は彼にチャンスを與えなかった ということであろう。】(カッコ内は戦国ジジイが追加)と続ける。そういう背景を思ってあらためて上の漢詩を見てみると、やたら古郷を恋しがる趙秩さんの鬱屈した思いが伝わるようにも感じられる。しっかし、昔の中国では暑気払いに酒をあおったのか・・・暑い時に酒なんか飲んだら、体温上がって余計暑くなるんじゃ?(笑)にほんブログ村
2012年08月15日

4日目<2011/8/23(火)雨ときどきくもり> あああ~、山口はああ~、今日もお、あ~め~だあったああ~ ふう、連日の雨・雨・雨・・・5日もいれば、そりゃ雨の日も何日かはあるでしょうけどさ、こう毎日だとね・・・しかも、昨日の今日でまた雨に濡れたくないし、朝から雨ってだけで気が萎えるホントだったら、今頃義隆の墓めがけてバスに揺られてたハズなんだけどな~。あ~あ、私、大内の殿様方に嫌われてんのかな~。今日は天候が許せば、レンタサイクル借りて線路の向こうの古寺を中心に回ろうと予定を組み直してた。でも、それもダメだ・・・とりあえずは、外せないあのスポットへ行こう。後は、天候と体力と気分で考えよう・・・て事で、バスを確認しに駅まで出てみたものの、ちょうどいいのがなかったので、タクシーに乗りこんだ。確か「興隆寺まで」って言ったと思うんだけど、おじちゃんは最初わからないみたいだった。地図を見せたら、「あ~、妙見さんね~」って言われたんだっけか・・・ううっ、かつてはすごいお寺だったのに・・・タクシーの車内では、震災の話題になった。なんでもおじちゃんの言うところによると、山口は地震がほとんどないんだそうな。そういえば、以前富山から転勤してきた人なんかも、微震があるたびにすごく恐がってたなあ。地震に免疫がないと、ちょっとの揺れでも恐いみたいだね。関東は地震が多いから、羨ましいのう・・・「千葉じゃあ、相当揺れたでしょ~!恐かったでしょ~!」「そりゃもう、恐かったですう~!!死ぬかと思いましたもん、マジで!」「私なんか、慣れてないから恐くってダメだね~!」「いや、あんなもの、もう2度と経験したくないですよ・・・!!」てな会話をしてるうちに、目的地に着いた。うん、おじちゃんもいい人だった。山口の人はホントに親切だそして着いたのが、氷上山興隆寺(場所はこちら)。まずは解説板の説明から。かなり長いですが、ここは大内氏にとって重要な場所なので、全文掲載しますね。 【氷上山興隆寺と北辰妙見社 興隆寺は、推古天皇21年(613)、大内氏祖琳聖太子の建立と伝える名刹で 大内氏の氏寺である。本尊は釈迦如来、脇士は普賢・文殊菩薩と四天王である。のちに 比叡山延暦寺の直轄となり天台宗顕密兼学の道場として栄えた。 天長4年(827)、11代大内茂村は隆松妙見社を勧請して、上・下宮を建立して 大内氏の氏神として篤く崇敬した。妙見とは北辰、すなわち北極星を神とした 中国の天帝思想に由来する外来神であって、密教と習合して天台宗では北辰妙見尊星王、 真言宗では北辰妙見大菩薩と称する。大内政弘は氷上の北辰妙見の使者 「鼈亀(べっき)と蛇」を北辰玄武の象徴として、その殺生を禁じた。 境内には、北の山腹に北辰妙見社上宮、その麓に下宮をはじめ、本堂、東西二塔、 鐘楼、輪蔵、経庫、長日護摩堂、不断如法堂、八幡社、三十番神、山王七社、牛王所、 仁王堂や法界門などがあって、十町の参道両側には多数の僧坊が建っていた。 妙見の大祭である二月会は東大寺の修二会を擬した盛大なもので、童舞(わらわまい)や 歩射(ぶしゃ)が行われた。この費用を支弁するために大頭役が定められ、更に脇頭、 三役の両郡をあてたが、大嘗会の悠紀・主紀(ゆき・すき)の国に擬したのであった。 文中2年(1373)明使趙秩(ちょうちつ)が24代大内弘世の招きで滞山して、 山口十境の詩のうち「氷上滌暑(ひかみにしょをさく)」を当地で詠んでいる。 26代盛見は応永16年(1409)朝鮮から唐本「一切経」を求め輪蔵に納め、 28代教弘は宝徳元年(1449)「大蔵経」を寄進した。 文明18年(1486)29代政弘の時、興隆寺は後土御門天皇の勅願寺となり 「氷上山」の勅願と宣旨を賜った。また政弘は延徳2年(1490)、法華経28巻の 版木を完成させるなどの文化事業が盛んに行われた。天文元年(1532)31代義隆は 梵鐘を鋳造し施入した。この間、火災や転載で失われた塔頭(たっちゅう)は、 歴代当主によりその都度、再建修復された。 大内氏滅亡後も毛利氏も又、興隆寺、北辰妙見社を厚く尊崇して、大内氏同様、伽藍の 再建修復を行った。二月会には能を奉納するなど聖域の維持に努めた。 中興上人といわれる行海和尚は江戸期に衰微した、寺運を復興して再び興隆をもたらした。 しかし、明治2年の神仏分離令、廃仏毀釈運動によって漸次衰微して、 本堂は大殿龍福寺へ、東照宮は八坂神社境内の築山神社として、また、護摩堂は、 神福寺十一面観音堂へと移築されて昔日の面影はなくなった。 現在は大内義隆寄進の梵鐘と毛利氏再建の北辰妙見社、中興堂に安置されている 釈迦三尊像に往時の繁栄を偲ぶのみであるが、北辰北斗は宙天に変わりなく輝き 静かに歴史の変遷を見つめている。】いや~最後なんか、美文だねえ~。興隆寺と大内氏の歴史を思うと、しみじみしちゃうよ、ホント・・・しかし浸ってると記事が進まない(笑)。上の解説には、興隆寺のエッセンスが凝縮されてるので、多少順序は逆転するかもしれないけど、大体青字の部分に沿って書いていこうかと思います。タクシーを見送った後で周りを見渡してみると、道路をはさんで2つ建物がある。地図を見ると、進行方向に向かって左側が興隆寺、右が妙見社とある。興隆寺の方は田んぼの向こうにあってちょっと歩きそうなので、先に妙見社に行ってみた。 今は興隆寺と妙見社で分かれてるけど、もとはひとつの寺院だったので、歴史の話をする時は両方を含めて「興隆寺」と表現しますので、ご了承ください。「氷上山由来書」によると、山号の「氷上山」は、山中に湧く霊水に北辰後輪の瑞光が映えて氷のように見えるところに由来し、寺号の「興隆寺」は、仏教興隆の義にちなむとされている。興隆寺の創建は、解説には百済の皇子・琳聖(りんしょう)太子の建立とされてるけど、「山口編(7)」で書いたように、大内氏が琳聖太子の後裔を称するのは義弘の時代から。ただし、文献などで琳聖太子の実在を確認することはできないし、現在では大内氏の出自は在庁官人から発展したもの(「山口編(6)」を参照)とされているので、興隆寺のはっきりした創建はわからないのかもしれない。ただ、ここの地名は「大内御堀(おおうちみほり)」といって、ひろよんが華麗なる転身を果たして現在の山口市中心部に引っ越すまでの代々大内氏の居住地だったといわれている場所。解説にも【天長4年(827)、11代大内茂村は隆松妙見社を勧請して、上・下宮を建立して大内氏の氏神として篤く崇敬した】とあることから、少なくとも9世紀初めには大内氏はこの辺り一帯に勢力を張っていたものと思われる。にほんブログ村
2012年08月14日

※「築山館(4)」からの続きです。あ~、疲れた・・・ダメだ、龍福寺の資料館で消耗した体力が回復しない・・・お昼はとうの昔に過ぎちゃってるけど、資料館の外で体を温めながら手持ちのおやつを食べただけだしなあ・・・まだ早い時間だけど、もう今日はおしまいにしようそういえば、池泉庭園の開園式でA様が紹介してくれたB様というお兄さんがこの近くにいるって話だったから、そこだけ寄って行こうかな~。途中にはこの解説板があった。 【歴史の道 萩往還 野村酒場跡 萩往還は、萩市から旭村、山口市をとおって防府市までをほぼ直線状に結ぶ 53キロメートル(十二里)の道をいいます。 この道は、江戸時代以前から部分的には利用されていましたが、江戸時代になって 徳川幕府の一国一城令によって、毛利氏は萩に城を築き参勤交代制度の開始により 萩と山陽道を結ぶ重要な道となり、幅約4メートル(二間)の道に整備され 萩往還と呼ばれるようになりました。 大内氏の時代には大内氏館や築山館のための大通りとして、また江戸時代には 中河原町に山口御茶屋屋敷が設けられたこともあり、この竪小路通りは 萩往還のなかでも人家も集中し、最も活気のある道筋でした。(後略)】 (現地解説板より)タイトルにある野村酒場跡は、現在は「山口ふるさと伝承総合センターまなび館」として存在している。けど、写真がないや(笑)。ホントに疲れてたんで、看板だけ撮ってちまちま歩き始めたんだろーな・・・大体の場所を聞いてはいたので、きょろきょろしながら歩いてたら、B様のいる事務所を見つけた。あんまりB様について詳しい事は聞いてなかったんだけど、NPOなのかな?入り口のところには、地元の方が作った伝統工芸をモチーフにしたグッズとかが売られてた。いくつか大内菱をあしらったものもあったので、大内グッズに飢えていた私はこれを買った。 世は戦国ブームだから、大内グッズも何かあるかもしれん・・・と期待してたけど、ここまでのところ何もなかったから、これは嬉しかったついでにB様に「大内グッズがあればいいですよね~。欲しいな~」ってチャ~ンス!とばかりにおねだりしてみた。「例えばどんなグッズが?」って聞かれたので、「え~~~~と・・・クリアファイルとかの文具とか、家紋シールとか・・・さりげなく、普段使いできるやつ・・・」って言いながら、(やっぱり売れないカモ・・・)って考えが頭をよぎった。そもそも4泊5日ぜんぶ大内氏の旅だと言ったら、B様は「県外で大内氏が好きな人なんて珍しいですね」って不思議そうな顔をしてたしや、やっぱ、地元じゃさすがに大内氏について詳しい人も多いし、静かに熱く大内ムードで盛り上がってる感じだけど、外部にはそんなにファンいないんだ・・・・「大内氏の中で、誰が好きですか?」と聞かれたので、「え~と、盛見と義興かな・・・」って答えたら、「シブイですね・・・」と笑われた。渋いかな、そうかな・・・確かに盛見はかなりマイナーかもしれないけど・・・ここの2階には、八坂神社の模型とかが置いてあって、この時はまだあまり建築の構造とかよくわかってなかったけど、今なら少しはわかるでしょうから、今度行ったらまた寄らせてもらお~っとあと、「山口古図」のこととか教えてもらってから、帰路につく。旅の後、菜香亭で買ったDVDを家で見てたら、「構成」としてスタッフの名前のところにB様の名前が出てきてた。やっぱ相当詳しい人だったんだ~。まあ、私の場合、特に意味もなくただ大内さんちが好きなだけで、せっかく詳しい人を紹介してもらっても、あれこれ質問したり対等に会話するなんて芸当はできないんだけどね(笑)。暑い中、疲労感いっぱいの体を引きずるように、宿まで歩く。途中、商店街に寄って食料を調達したんだけど、体質的に、寝不足だったり疲れたり機嫌が悪かったり、とにかく何かあると食に走るタイプなので、昼ヌキで滅茶苦茶疲れてたこの時の買い方は、我ながら実にひどかった。こーゆーことがあるから、ここまで疲れを溜めないようにしないといけないんだけど、ただでさえ旅行3日目で疲れが溜まり始めるとこなのに、この暑さと雨とクーラーで一気にきちゃったんだよな~。あ~・・・、やっぱりA様の夜のお誘いは無理だ・・・明日の予定もあるし。宿に戻って、山ほど買い込んだ食料にかじりつきながら、A様にお断りのメールを入れた。A様は当初、何だったら池泉庭園の開園式で解説をしていたお兄さんも呼ぼうか?とまで言ってくれてたんだけど、断りを快く承諾してくれた。あ~、ホントにいい人だな~。せっかく言ってくれたのに、何だか申し訳ないな・・・と思ってたら、今度はA様の方から昼間の取材の放送する番組名と時間帯を連絡してきた。うっわ~っ、そんなのすっかり忘れてたよ・・・!!ちょうど番組が始まるくらいの時間で、時間帯が長いからTVつけといて!って言われて、そんなもの見たくもないけど、どんな風に映るのかはやっぱり気になるし、どーしよどーしよ・・・って言いながらTVをつけておいたら、結構最初の方で出てきた。放送されたのはyab(山口朝日放送)って局だったけど、なんかNHKの地方局みたいな感じの、夕方のご当地ニュース番組のような感じだったような気がするけど・・・肝心の内容は、池泉庭園のオープンのニュースに絡んでちょこっとインタビューが流されたってだけのものなんだけど、 千葉から来た女性ってテロップが出てて、うわ~っ・・・これって、知らない人が見たら絶対、「このために千葉から来たのか」って思うよな~て一人でアセった別に、公共の電波に載せられるほど立派なコメントもしてないんだけど、たぶんA様の顔を立てて丸ごとカットはされなかったんでしょう・・・その後、ご飯食べつつメールしたりだらだらしててTVをつけっぱなしにしておいたら、最後の方でもまた私が映った。夜になって、別のニュース番組を見てたら、そこでも私が映った。て事で、結局3回くらい自分の顔をTVで見ました。もしかしたら、翌日の朝とかもやってたのかもしれないしかし、TVで天気予報を見ると、明日も雨・・・私が山口に来てから、毎日雨降ってるな~。時には、かなり強い雨だったし・・・明日は山口を出て、長門深川にある義隆の墓へお参りをしに行こうと思ってたのだ。けど、美祢線て去年(2010年7月)の台風の被害で全線不通のままだから、バスで行こうと思ってるんだよね。この雨で万が一道路が寸断される事態にでもなったら、美祢線が使えない分、帰路に相当制限がある訳だし、下手したら翌日の飛行機に乗れないなんて事もないとも言えない・・・そんな事も考えてしまうくらい、この3日間はかなり強い降りの時もあったのだ。たぶん、今日これだけ疲れてるってことは、明日も疲れが抜けないままですぐ体力の限界が来るだろうし、市内でまだ見てないところも幾つもあるから、今回は残念だけど義隆の墓参りは諦めようあ~あ、初日の義興さんに続き、義隆の墓参りまで断念とは・・・!!政弘の墓もまだ行ってないし・・・はう~この日の歩数は、13、463歩。しかし、歩数と疲労度が見合ってない・・・にほんブログ村
2012年08月13日

さて、そろそろ境内に戻りましょうか(笑)。八坂神社の隣にあるのが、築山神社。 台風とか何らかの被害を受けて一時的にこうなっていたのか、あるいは常時こうなのかはわからないけど、とにかく私が行った時はこんな悲しい状態になってた。ここも見られる限りぐるっと回って見たけど、保存状態は良くないものの、建築は古くて実に素晴らしい。 あんまり写真がないので、何が素晴らしかったかちょっと説明できないんだけど(笑)、次回はちゃんと写真撮ってきます・・・この時はとにかく疲れて、フラフラしてましたんで築山神社は、慶長10年(1605)に毛利輝元が大内義隆などの霊を祀るために創建したものという。主祭神は大内義隆。他に、二十八人相殿大内氏祖先・徳川家康・市川元教の各霊を配祀する。はて・・・家康?輝元め・・・築山神社は、もとは多賀社の境内にあったという。多賀社の場所がちょっとわからないんだけど、毛利元就を祀った豊栄神社(「山口編(16)」を見てね)が一時仮宮を置いたのと同じ場所だと思う。創建当時は宝現霊社と称していた。それが、龍福寺だとかへ何度か移転をして、明治2年に現在地へ落ち着いた。拝殿と本殿は寛保2年(1742)の建立。この建物自体は、大内氏の氏寺・興隆寺の東照宮を移したもの。あ・・・そっか、東照宮の建物だから、家康を合祀したような形になってるのかな?そして、東照宮の移転にあわせて築山神社と改称したらしい。写真は撮らなかったんだけど、龍福寺(大内氏館跡)の資料館には大内氏歴代を描いた板絵があってね。大内氏の祖といわれる琳聖太子からスタートして、計27名の肖像が一枚の板に描かれているもの。義興さんは26代とあるのに、なぜか次代の義隆は28代となっている。なにゆえ、27代が欠損してるのかこの扁額は左下に「宝現霊社」と書いてあるので、もとは宝現霊社にあったものらしい。一時は龍福寺に宮が引っ越したから、龍福寺に伝わっているのか・・・詳しい経緯はわからない。ちなみに、大内政弘の肖像画はこの扁額以外には見当たらないんだそうな。宝現霊社では毎月1日に神事を行い、義隆の命日である9月1日(旧暦)と元日には別途神事が行われていたという。あらたな防長の主となった毛利家では、代々大内家を祀り、義隆の追善供養が25回忌、33回忌、50回忌、150回忌と営まれ、その後は50年ごとに300回忌まで行われていたそうな。築山神社とは別に、築山館には昔、政弘が父・大内教弘を祀った神社があったという。政弘の個人和歌集である「拾塵和歌集」に、 【同じ(文明19年)4月3日亡父に築山大明神の宣旨を下され侍りければ 築山の廟に奉納し侍とて 敕なれば光ことなるつき山のあきらけき神ぞいともかしこき】とある(カッコ内は戦国ジジイが追加)。宣旨だから、朝廷から教弘に築山大明神の号が贈られたってことかな?築山大明神の成立には別の説もあって、教弘が築山館の敷地内に武器や甲冑などを埋め、大内家の守護として「築山大明神」を祀ったという。ただし、これはタテマエ。享徳元年(1452)教弘は竺源恵梵(じくげん・えぼん)という法泉寺の僧から和歌の書「李花集」を贈られた。竺源恵梵は後村上天皇の第五皇子で、南朝の皇族。落飾前は、師成(もろなり)親王といった。師成親王の終焉の地については周防説と伊勢説があるそうですが、ここでは周防説に従います。大内家の南北朝時代の過ごし方については、「山口編(6)」でごくごく、ご~く簡単に書いてますが、そもそもひろよんは南朝方として、北朝方の周防守護職・鷲頭(わしず)氏を討った後で南朝から周防の守護を授けられた。大内家の守護職デビューはこの時になる。その後でひろよんは北朝に転じる訳だけど、これは南朝方にとっては手痛い裏切り。大内家では、南朝方として勢力を拡大してきた手前、北朝についた後も南朝に後ろ髪を引かれていたらしい。その事が、ひろよんの子・義弘をして南北朝合一のための奔走に駆り立てることとなったのかもしれない。まあ、南北朝合体の義弘の尽力も、足利義満にとっては面白くないものだったともいうけど・・・そして義弘が足利幕府軍と戦った「応永の乱」では、師成親王も義弘と共に堺で戦ったという。て事は、大内家と南朝との間のわだかまりは、応永の乱の時には消えてたのかもね。義弘は堺で討死、師成親王は山口に逃れ、法泉寺に入ったという。歌人としても優れていた師成親王は教弘の和歌の師となり、自分の叔父(宗良親王)の遺した歌集「李花集」を自ら書写し、それを教弘が賜ったという内容が「李花集」の奥書に書かれている。そのまま周防で亡くなった師成親王を祀るために、教弘が築山館内に小さな社を建てたというのが、築山大明神の始まりに関するもう一つの説。なぜ教弘が小さい社にしたのかはわからないが、子の政弘へは「ワ・・・ワシが死んだら、お師匠様の社をでっかく立派にしてくれえ~・・・ゲホッ、ゲホホッ!!」と言ったかどうかはわからないけど、どうも社を立派に管理してくれるよう、遺言として依頼したらしい。オヤジに頼まれた政弘は、考えた。「ウチ、お金持ちだから立派な社なんていくらでも建てられるけど、南朝の師成親王を祀るものだからな・・・さすがに幕府(北朝)の手前、大々的に堂々と師成親王を祀ってますとはちょっと言いにくいよな~。う~ん・・・」その結果、「大内家の守護として、築山大明神を建立しましたあ~!ここに埋まってるのは、武器甲冑の類でえ~す!」ってことにしたってエピソードがある。築山大明神がいつ頃廃絶したのかはわからないが、江戸時代後期頃までは、焼け残った鳥居などが残っていたという。大内義隆の死後も、山口ではしばらく落ち着かない日々が続いていたが、永禄12年には大内輝弘(系図はこちら)が山口を襲った際、築山館跡に陣を置いたので、この時に焼けたのではないかと郷土史家の近藤清石氏は推測する。築山館自体は、弘治2年(1556)に大内家旧臣・杉重輔と内藤隆世の争いによって、山口の町とともに燃えてしまったみたいなんだけど・・・築山大明神は、後に国清寺鎮守社に合祀されて社名を残したという。国清寺は洞春寺のところで書いたように、色々な変遷を経ているので、今でいう常栄寺ってことだな。今回は残念ながら常栄寺には行かれそうにないけど、行った時には気を付けて見てみよう。築山館趾の処理については、「防長古城趾の研究」(御薗生翁甫著)に詳しい。 【天明23年頃恵海僧正の代に四方竹藪なりしを伐り払い、竹藪の土を以て池を埋め、 庭石は或いは砕き或いは他に運び、今は八坂神社玉垣の前に少数屹立し、 その他湯田の高田園の泉石に転用した。 なお月見松一名管弦松というのは、大内公遺愛の老樹とて名木であったが、 安政3年8月11日雷火の為焼けて枯れた。根より三丈計り上りて皮付きのところを 遺して中を丸く刳り、それを縁として額を造り、その松を画き由来を記して 今八幡宮に奉納した。絵は尾張の人湟宏、文は近藤芳樹にて、 左の和歌二首を添えた。 めぐりあふ秋はあらじと枯れにけり 月の名おへるふるさとの松 てる月も雲のよそよりなげくらむ 宿しなれにし木の間たずねて 】今回のシリーズでは、築山館を詠んだ句をいくつか載せたけど、大内氏全盛期の頃のものと、管弦松を詠んだ歌では、なんて趣きが違うのだろう・・・ああ無情・・・・※「山口編(20)」へと続きます。にほんブログ村
2012年08月12日

さて、前回の終わりに出てきた大内家第29代当主・政弘(1446-1495)は大内家最大の歌人。大内家歴代当主は、どなたも和歌・連歌の才能に恵まれており、京での滞在中に文化人とも多く交わるなどして、さらにその才能を伸ばした。中でも政弘は抜きん出ており、個人歌集「拾塵和歌集」なんか遺しちゃっている。1人で2万もの歌を詠んだっていうんだから、どんだけ・・・連歌師・飯尾宗祇が山口に来たのは、政弘の時。この2人がタッグを組んで創り上げたものは、実は教科書でも習うんですよ。それが、准勅撰和歌集「新撰菟玖波集(しんせんつくばしゅう)」。完成は明応4年(1495)。約2,000首もの句を、政弘の発願により宗祇が中心となって編纂した。うち、政弘の句は75首も入っている。新撰菟玖波集の完成までの間、宗祇は政弘に経済的支援も受けていたので、ちょっとオマケした部分もあるかもしれないけど、いくらスポンサーだってただの「下手の横好き」じゃ~、さすがに准勅撰和歌集には入れられないでしょ~(笑)。宗祇もこの大役を果たすにあたっては、下関の住吉神社に願かけしてるし、晴れて完成の暁には、後土御門天皇・勝仁親王(後の後柏原天皇)・近衛政家・飛鳥井雅敏・三条西実隆など、著名な歌人・公卿30名の法楽和歌100首を短冊にしたものをお礼に奉納してるくらい力を入れたものだからね。大内歴代当主は古典などの書物の収集にも熱心で、山口殿中文庫(大内文庫)と呼ばれる膨大なコレクションを持っていたが、特に政弘は歌書の収集に力を入れていたという。ちょっとだけ、大内文庫をのぞいてみましょうか。たとえば、源氏物語。政弘は、当時書家として高名だった飛鳥井雅康に藤原定家校訂「源氏物語」(青表紙本系統)の写本をさせている。飛鳥井雅康の写本は「大島本」と呼ばれ、現在最も信頼のおけるものとしてほとんどの源氏物語の底本とされているそうな。政弘の当時、源氏物語ってマイナーな書物だったらしく、ブームの火付け役になったのが宗祇なんだって、菜香亭で買ったDVDが言ってた。その辺の詳しい経緯を知りたいよな・・・室町時代末期から江戸時代にかけての上流武家の部屋飾りは、男子は源平合戦、女子は源氏物語の屏風絵が人気だったというから、そうすると、宗祇が姫様方の部屋の飾りを変えたってことにもなるかな(笑)。この源氏物語は石見の吉見正頼へと渡ったが、その経緯は、義興さんの娘が石見へ嫁いだ際の嫁入り道具だったんじゃないかと推測されているそうな。源氏物語と一緒に鷺舞もこのお姫様を媒体として津和野へ伝わってるし、人の移動はそのまま文化の移動にもなるというのがよくわかる。その後、源氏物語は吉見氏から毛利元就へ渡ったという。大内文庫には他にも、一条兼良が書写した「河内本源氏物語」だの三条西実隆の書写による「新古今集及び仮名序」だの前関白近衛政家が政弘に書き与えた「金葉集」だの、とにかくビッグな顔ぶれに深いゆかりのある古典の書名が並ぶ。古典は、和歌の創作に必要とされる教養を得るためのものだからね。時には大内文庫から古書を借り出して書写したケースなどもあり、そういった写本には大内文庫の書写であることを示す奥書がみられる。レンタル業もやってたのか・・・(笑)。政弘は応仁の乱の時、長く在京していたが、その時期を境として、大内氏に様々な書物を寄贈するという動きが増え、そうして寄贈された本にも、これまたその由来が奥書に書かれている。古典の他には、例えば「騎射秘抄」という犬追物の作法書なんかもある。これは室町時代、小笠原氏が免許とともに与えていた家伝書で、文明16年(1484)に政弘が伝授されたもの。それから、唐物のコレクションと座敷飾りのマニュアル本である、「君台観左右帳記」。当時の会合では、客間や書院などでのレイアウトが重要視されて、道具類は宋や元の輸入品(唐物)が好まれたという。その道具の名称や飾り方などを解説した本。挿絵つき。「君台観左右帳記」は、政弘に贈られたものが最古の記録(文明6年、1474)だという。本来の使い方だけじゃなく、大内氏ったら貿易だから、輸入品の品定めにも使われたんじゃないかって事らしい。そんな当主に仕える家臣たちも、これまた書物への関心が高かった。陶弘詮(陶隆房の外祖父)は「吾妻鏡」を約20年かけて書写。これは現在、重要文化財に指定されており、吉川本として知られる。陶弘詮とその子・興就が三条西実隆に詞書を依頼した「源氏物語画帖」、こちらは現存最古の「源氏物語画帖」だそうな。今はアメリカにあるんだって。これらは、膨大な大内コレクションのほんの一部。ただ、今となっては焼失あるいは散逸してしまっているので、残念ながら大内文庫の全貌はわかっていない。もし残ってたら、金沢文庫や足利文庫と肩を並べるくらいの規模だったのかも・・・ 大内文庫についてはこれくらいにして、再び宗祇さんにご登場いただきましょう。築山館を詠んだ宗祇の句、「池はうみ こずゑは夏の 深山かな」は宗祇が山口デビューした時(文明12年、1480年)の連歌会の発句。この滞在の後、宗祇は北九州連歌ツアーへと出かけている。旅のコンシェルジュは政弘の腹臣・相良正任。約1ヵ月の旅行中、行く先々で大内家家臣の接待を受け、連歌会を催したりもしている。この時の旅日記にして歌日記、「筑紫道記(つくしみちのき)」はスポンサー・政弘の元に届けられた。筑前・豊前は宗祇の旅の2年前に、政弘自ら博多まで出陣して回復した土地。ゆえに、宗祇の見聞は自らの領地の国情の報告にもなっていたという。う~ん、やるなあ・・・・築山館は大内氏の迎賓館であり、ここで能興行・松囃興行・犬追物など様々な催し物が行われた。能の金春流の中興の祖といわれる金春禅竹(こんぱるぜんちく。世阿弥の娘婿)は教弘の時に山口にやって来た。政弘の時には宝生大夫が大内氏館におり、政弘の陣中には金春九郎が近侍していたという。こんな感じで、実に様々な文化・芸能のパトロンとして名を馳せていた大内氏・・・これ、誰か一人だけの話じゃないんだからね。歴代当主はみんな、戦やりーの和歌詠みーの能を観ーの政務執りーの・・・って、アンタら、寝る時間あんのか!!ってくらい、様々な方面に秀でていた。だって、和歌ひとつを取ってみたって、色んな教養やら決まりごとが頭に入ってないとできないから、やっぱり勉強だって相当したと思うんだよね。義隆を除いては、ほとんどの当主が在京してたし、気の利いた歌のひとつくらいさらっと読めなくっちゃ、ただの成金のイナカ大名で終わっちゃう(笑)。今の私は、勉強する時間がなくてヒイヒイ言ってるけど、大内様に負けてはいられないな~。もっと頑張らなくっちゃ築山館で興行が催される時には、民衆も詰めかけて一緒に楽しんでいたという。興行とはちょっと違うけど、祇園会の時には館を囲む築地の上に登って祭を見物する輩もいたらしく、延徳4年(1492)の大内家壁書では築地の上で祭を見ちゃダメ!築地の上に桟敷を構えるのもダメ!!これを破ったら、厳しくおしおきしちゃうからね~!!!というお触れを出している。なんたって、上辺7mの築地だからさ・・・桟敷なんかも余裕で置けたんだろうね(笑)。ちなみに、人質生活中の毛利隆元は、通りの2階に部屋を借りてお行儀よく祇園会を見物したらしいそんな家中や民衆に愛された興行も、天文20年8月27日だけは様子が違った。天文20年8月20日、陶隆房と毛利元就挙兵。「28日に山口が反乱軍に襲われる!」とのウワサがしきりに飛び交う。27日、大友義鎮(のちの宗麟)からの使者のために築山館で能興行を催し、接待する。さすがにこんな時期なので、民衆は誰一人見物には来なかったという。夜に入って能は終わり、宴もおひらきになった後の深夜、噂通り隆房の率いる軍勢が山口へと侵入してくる・・・・・隆房と大友義鎮の間ではすでにウラ取引が成立してたので、この時期の大友家からの使者ってのも、なんだかすごくアヤシイ。いちおう、義隆サイドでも大友家に書状を送ったり、それなりのクーデター対策は講じていたみたいなんだけど、それにしても、なんとも・・・暴徒に山口が襲われるって皆が戦々恐々としてる中、泰然と能の興行なんかしちゃってる義隆って、ホント戦国で5本の指に入る不思議ちゃんだと思う・・・・・にほんブログ村
2012年08月11日

八坂神社の隣には、この碑がある。 碑の文字は、佐藤栄作さんによるものだそうな。解説が長いので、一部省略のうえ(笑)。 【(前略)天文年間(1522~54)のこと、山口の大内義隆卿は、 京から迎えた北の方を慰めるために、しばしば都の公卿殿上人や楽人などを招いて 詩歌管弦の遊びを催したが、ある時その席で七人の若い殿上人が一首ずつ歌を作り、 つぎつぎに筝で弾き歌いすることが行われた。 これが筝の組歌の起源であり、歌の組み合わせなので組歌と言う。これゆえ最初の 組歌の曲<ふき>の歌詞は七首になったが、やがて一人が早世したため 以後の曲では六首になった。 この話には疑点もあってすべてそのままには受け取れませんが、当時この地に花開いた 大内文化を考えますと、むげに否定し去れない面もあり、興味深い所伝です。 この「筝曲組歌発祥之地」の碑は、この所伝をよすがとして筝曲組歌の誕生期に 思いを馳せ、あわせて往時の大内文化の繁栄を偲ばんとする各地各界の多数の人々の 熱意と浄財によって、昭和40年11月、ここ大内氏ゆかりの地に建立された ものです。】 (現地解説板より)途中の「六首になった」ってところまでは、安永・天明の頃(1780年前後)の筝曲組歌の譜本『筝曲大意抄』という中に伝えられている話だそうな。義隆の正室は確かに京から公家の娘を迎えたけど、この方はなかなか勝気で利発な方であったらしく、結局2人の間に子はできないまま、京の実家へ戻っている。なので、ひろよんが京から来た嫁さんのために大内人形を作ったというほのぼのしたエピソード(「山口編(13)」を見てね~)みたいのは、ちょっと想像しにくいな・・・(笑)さて、上の解説にもあり、ここまでの山口編でも何度か使っている「大内文化」という言葉。「大内文化」ってつるんと言ってしまうと、感慨も何もないけど、実はこれってすごい言葉だと思うのだ。大内氏といえば、京都大好き、町造りも京を倣ったものといわれ、京から公家やら僧やら文化人やらがやってきて京文化を持ち込み、あくまで京の模倣だと言われたりもする。けど実際は、化粧に例えるなら、大好きな京の文化をベースに、交易によって流入してきた大陸文化で顔のパーツを造り上げ、さらにイエズス会によるポイントメイクで美々しく仕上げるといったような、実に国際色豊かなものだった。「大内文化」という言葉には、「華やかな」とか「花開いた」って言葉が実にぴったりくると思う。そんな文化が、京から遠く離れた周防の地にあったんだからね~。いや、離れていたからこそ、独自の文化をじっくりと育てることが可能だったのかもしれないけど・・・「大内文化」には、文芸面はもちろんのこと、出版事業なども含まれる。一切経を輸入しては、あちこちに寄進したことは以前書いた通りだしね。その他、貿易に力を注いでいた大内家らしく、「1543ないか鉄砲戦」の種子島伝来よりも早い時期に、明から火縄銃が伝来してたっていうんだからオドロキただ、これは当時大内家の関心が貿易のための輸出品の増産に向いていたため、まだこの段階では国内での量産につながらなかったという、これまた大内氏らしいオチがついてくる(笑)。あと、日本での最初のクリスマスは山口で祝われたっていうしね。戦国のクリスマスといえば松永弾正の話が有名だけど、それより14年も前にクリスマスパーティーが山口であったんだってさ~。あ、いえ、当時はもちろん、本来の敬虔な集まりだったでしょうけどなんたって、本場の宣教師が取り仕切るんだからね~。そんな国際色豊かな大内文化だけど、やっぱり京からのお客様の存在を抜きにしては語れない。大内文化をリードした文化人たちには、実に著名な方が多い。著名でない方々の他にも、いわゆる都落ちのような形で山口へと移住してきた都人もいた。有名・無名とりまぜて大内文化を形成したことは間違いないんだけど、物事には何でも裏と表があって、都人の流入は文化面で盛り上がった反面、古くからの大内家家臣との間に軋轢を生み、後の大寧寺の変へとつながっていく・・・大内氏滅亡の話はさておき、その大内文化のメインの舞台となったのが、築山館。築山館を築いたといわれる教弘(1420-1465)は、大内家第28代当主。異説はあるものの、盛見の子といわれる。(系図は「山口編(4)」に載せてあります。)この教弘の時代に、大内氏の対朝鮮貿易は全盛期を迎える。対朝鮮貿易も明と同じく、通信符による勘合貿易であり、対馬の宗氏を仲介として行われてきたのが、享徳2年(1453)には朝鮮から通信符の印を贈られて、めでたく朝鮮と直接貿易できる特権をゲットした。朝鮮貿易だけじゃなく、大内氏が遣明船の派遣に初めて成功(1453年)したのも教弘の時代の出来事。対外貿易による経済的発展を背景にして、築山館は造られた。ひろよんが周防守護からスタートして、様々なトラブルや抗争はあったものの、総じて順調に勢力を拡大してきた大内氏にとって、当初の館だけではもはや手狭になってきたという事情もあったのかもしれないという。だって、「大内氏館」とはいっても、個人のおうちと違うんだからね。何か国をも従える守護大名の居館であり、守護所だから。ちなみに教弘の時点では、周防・長門・筑前・豊前・肥前の5ヵ国の守護だった。じゃ~、教弘はどんな別邸を造ったのか?敷地面積は方八十間。え~と、坪数にして約6,398坪、東京ドームの半分よりちょっと小さい位の面積、って計算で合ってるかな周囲には幅三間(5mちょい)の堀を石垣で巡らせていたと。この石垣は、毛利敬親が山口に移ってきた時に藩庁に転用したという。また、 【西側の竪小路に面した部分には高い石垣があったのを、 香山通育児園の石垣に転用し】たと『防長古城趾の研究』(御薗生翁甫著)は伝える。館の周囲には築地がめぐらされ、昭和60年に一部が調査された際に築地の規模が判明した。それによると、底辺24m、上辺7m、高さ約6mの不等脚台形だという・・・これ、全国でも最大級の規模の土塁だっていうんだから、大内氏は何でもスケールがデカい。デカい築地の中はといいますと、広い敷地に広大な池を掘って、池を掘った土で築山を築いたので築山館といわれたらしい。んで、施工主兼オーナーの教弘は「築山殿」と呼ばれた。あるいは、教弘が築山殿と呼ばれていたことから、教弘の時代に建てられたと考えられてるともいう。前回の記事の解説に、宗祇の句「池はうみ こずゑは夏の 深山かな」が書いてあったけど、この句は 【西国にくたりしとき 大内京兆つき山にて一座興行の時 此処のさまをつかうまつるべきよし所望侍しに】(老葉集)の後に続くので、連歌会のホスト・政弘(教弘の子)にこう求められちゃ、多少のおべっかも入るかな~とか思っちゃうんだけど(笑)、別の連歌会では 若竹のをひのぼる末や千世の秋(宗祇) 秋にもこゆるなつ草の露(政弘) 夕風のすゞしき庭に月晴れて(宗祇の弟子・宗作)なんて歌も詠まれているので、お世辞だけじゃなく西国の大都市のど真ん中に雄大な自然をたたえた豪華な庭園があったであろうありし日の様子が窺える。だって、この庭には「瀑泉」もあったっていうんだからその瀑泉の右にあった亭には、かつて盛見が京の屋敷内の「飛泉亭」に掲げていた足利4代将軍・義持自筆の扁額「飛泉」が飾られていたという。庭には石畳が敷かれ、広い池と深山を思わせるような築山と花園。築山館を訪れた歌人たちは、その豪華な館を讃えつつ、あわせて大内氏の栄華を寿がずにはいられなかったのだろう・・・ロマンだなあにほんブログ村
2012年08月08日

築山館<山口県山口市上竪小路100>(住所をクリックするとMapfanにリンクします)※「大内氏館(7)」の続きです。 【史跡(大内氏遺跡附凌雲寺跡) 築山跡 ここは大内氏28代教弘が15世紀中頃に築いたといわれる築山館跡です。築山館は、 教弘以後歴代当主の居館となったところです。中世の連歌師宗祇は 「池はうみ こずゑは夏の 深山かな」 と詠んでおり、この句からかつて豪華であった庭の様子が偲ばれます。 築山館は大内氏滅亡後朽廃しましたが、園池の跡は残っていたといわれています。 しかし、この池も江戸時代中頃周囲の築地の土をもって埋めてしまい、現在のように なったといわれています。 江戸時代末の絵図によると、築地の外面は自然石の石垣であったことが伝えられて います。 現在指定地内の北西隅に、かぎの手に土塁築地が残っていますが往時の館の規模を 示す遺構として重要です。また、指定地内には八坂神社(本殿が国指定重要文化財) と築山神社があります。】 (現地解説板より)そして、現在の築山館跡はこのように土地利用されてます。 ここも、大内氏館同様、様々な歴史を持つ場所ですが、先に境内を見てみましょうか。まずはこちらが、八坂神社。今八幡宮と同じ、山口地方特有の楼拝殿造りとなっております。 【国指定重要文化財 八坂神社本殿 本社は、今から600余年前に大内弘世が京都から勧請したもので、素戔嗚尊、 稲田姫命、手名槌命、足名槌命を祭神としている。 はじめ社殿は上竪小路に建立されたが、さらに水の上に社地がかえられた。その後、 永正16年(1519)に大内義興が大神宮を高峰山麓に建立したとき、本社も その地に移し、社殿を新築した。江戸時代の末期毛利氏は社殿をこの地に 移したが、本殿は永正年間に建立されたままのものである。 本殿は三間社流造りで、屋根は檜皮葺である。本殿の周囲に配されている、13個の 変化に富んだ蟇蛙は、珍稀な図柄とともに室町時代の特色をよくあらわしている。 本社の祭礼は、7月20日の夜から7日間にわたって行われるが、 古来山口の祇園祭として有名である。大内氏の時代から伝わっている神事「鷺の舞」 (山口県指定無形文化財、昭和48.10.19指定)も、この祭りのとき 奉納される。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)解説に蟇蛙(かえるまた)の事が書かれてるけど、山口にはかなり古い時代の古建築が残されてて、事前の下調べの時に「蟇蛙に特徴がある」とかって解説文を幾つか読んで、何となく建築に興味を持ち始めたのが私の古建築好きのきっかけだったな~。何となく興味を持った段階で三井寺なんてすごいところに行っちゃったもんだから、三井寺と今回の旅で古建築好きに火がついたってカンジ。やはり、良いものってゆーのは、人を虜にするだけのものがあるんですよ・・・視点がひとつ増えた結果、元々ひとつのスポットを見るのに時間をかけてたのに、さらに見るのが遅くなった訳だけどまあ、さらさらと見て数だけこなせばいいってもんでもないしね~、私はひとつをじっくり見たい派だから、これも性分だと諦めるしかないよな~。で、こちらが本殿。 解説の通り、蟇蛙にはいろいろな彫り物がありました。・・・が、はっきり言って保存状態がかなり良くない。しかも、私のカメラも望遠にするとかなり写りが良くない。と、良くない×良くないの結果、お見せできるようなものはありませんでした次回は頑張りまっす。さて、解説にお祭りのことが書いてありますね。大内氏の京都好きについては、これまでも書いてきたけど、ひろよん(弘世)は八坂神社の他にも、北野大神を勧請してる。そしてここ八坂神社の祭礼は、祇園祭として実に600年近い伝統を誇り盛大に執り行われるらしい。で、この祭礼で奉納される神事「鷺舞」。鷺舞といえば、現在では津和野のものを指すという位有名なものだけど、これは大内義興さんの娘が津和野城主・吉見正頼に嫁いでから、その奥方の疫病除けに山口から導入したのが始まりらしい。津和野の鷺舞は一旦は廃絶したものの、正保年間に再び始められてからは400年間ずーっと続けられ、現在では国の重要無形民俗文化財に指定されている。んで、本家の京都ではどうしたかっていうと、華やかな山鉾などの陰に隠れて、すたれてしまった。それが復活したのが、昭和31年。復活にあたっては、津和野の鷺舞を学んだっていうんだから、逆輸入だよな・・・話が時系列じゃなくて申し訳ないですが、「赤間ヶ関編」の先帝祭のところで、官女の装束を近代になって下関から京都へ逆輸入したって話を書きました。その話といい、鷺舞のことといい、山口って有形・無形の随分古いものが残されてるんだな~ってちょっと感動。どお、山口のこと、少しは見直した?さて、京でその鷺舞を廃絶に追い込んだ曳き山ですが、博多の祇園祭でも出ますね。むかし、博多の祭では山笠は12本あったんだと。それを、大内義隆の時代になって山口の祇園祭に6本持ってっちゃったので、博多の山笠は6本になっちゃったという。戦後、山口の巡行は一時GHQに差し止めを言い渡されたって何かで読んだなあ・・・お祭りにも、実に様々な歴史がある・・・にほんブログ村
2012年08月07日

本堂の方に戻ってみると、さっき歩いた山門~本堂の道とは別の小道があったので行ってみた。 あ・・・こっちが寺務所なのね。おお、ここにも大内菱があるう~ 金箔瓦だし・・・入り口をちょっと覗いてみたけど、大内グッズとか資料系のものは置いてなかったので、境内の中はこれで終了とする。水没箇所を越えて外から見た山門はこんなだった。 山門を出て、今度は敷地沿いに南西の方へ。 館跡の周囲には、土塁が復元されてます。土塁の外側の、小石が敷きつめられてるのが堀跡。少し歩いていくと、まずこれがある。 【石組溝(いしぐみみぞ) 館跡の西辺の調査で石組の溝が見つかりました。溝底には水が流れた痕跡が 見られたことから、排水溝であったと考えられます。この溝はここから少し南で 西側に折れ曲がっています。溝は折れ曲がってしばらく西に行くと、西堀により 壊されているので、この溝が機能していた時期には館の敷地はさらに西側に 広がっていたものと考えられます。 この溝は1500年代前半につくられ、北にある西門がつくられる際(1500年代 中頃)に埋め戻されたようです。ここでは、発掘調査で見つかった石組溝そのものを 展示しています。】 (現地解説板より)おお~、現物の展示かあ~!!それは嬉しいな この先には、これがある。 【西門 館跡の西辺の調査で、小規模な門跡が見つかりました。この門は地面に穴を掘り、 柱を据え付けて、その両側を石で押さえ安定させるつくりで、地面には砂利が 敷かれていました。 この門は、屋敷地内における位置や大きさから考えて、正門ではなく、屋敷の中の 区画を区切る内門であったと考えられます。 発掘調査で発見されたのは、柱を据える穴と柱を両側から押さえる石と砂利敷き だけでしたが、江戸時代はじめの木割の秘伝書『匠明(しょうめい)』や、 この門とほぼ同時期の京都の風景を描いた『洛中洛外図屏風』などを参考にして 当時の姿を復元しました。】 (現地解説板より)おおっ、これだよ、これ!!この門の写真を見て、「山口行きてえ~」って思ったのが最初だったよな~。あれは、大内さんちを好きになる前の事だったっけか・・・かなり以前のことなんで、もう覚えてないや(笑)。解説板には写真も載ってて、この西門のある場所よりもう少し西側の竪小路のあたりまで館の敷地だったと推定されているらしい。さらに歩いていくと、庭園がある。 【枯山水庭園 この庭は水を使わずに石や砂で水の流れを表現する枯山水庭園で、滝から滝壺に 流れ落ちた水が建物の周囲を流れていく様子を表現したものです。 この庭は1500年代前半頃つくられ、1500年代中頃に火災で庭園としての 機能を失いました。火災の後に庭石のいくつかは動かされ、また西側の一部は 西堀の掘削により壊されました。 この庭がつくられた頃の当主は大内義隆と考えられ、大内氏の文化も最盛期を 迎えました。そのため、この庭は華やかな大内文化を今に伝えるものと言えます。 この庭は破壊を受けているものの、当時の姿を比較的良く残していることから、 露出して整備することとし、石が抜けた部分には石を補充し、遺構が全く 残っていない西部には土手状に盛土をして植物を植えました。】 (現地解説板より)解説板には、発掘調査当時の写真も載っている。 左側に写ってるのって・・・墓地だ。よく遺構が残ってたよな~「大内氏館(2)」に掲載した遺構の配置図だと、ここは「3号庭園」にあたる。式典でもらった資料の中では、 【大内氏館の最盛期にあたる16世紀前半~中頃には邸内の2箇所に様式、規模の 異なる庭園があったことになります。2号庭園(今回の復元庭園)は大勢で儀礼や 宴会などを行う公的なもの、3号庭園は少人数で楽しむ私的なものであったと 考えられます。】 (カッコ内は戦国ジジイが追加)と解説されている。庭が2つか・・・優雅じゃのう この先の土塁は、こんなの。これが昨日の帰りがけに見たやつだなここは結構高い。 大内氏館は、何しろ200年もの長きにあたって守護大名・大内氏の本拠だった訳なので、ここで実に多くのことがありました。大内ファンの私としては、まだまだ書きたいことは山ほどあるんだけど(笑)、また次の機会もあるでしょうから、今回はここまでにしておきます。館跡から外へ目を転じると、民家が立ち並ぶ間を細い道があちこち通っている。次に行く別邸はすぐ近くだし、場所はわかってるんだけど、この道、通っていいのかな・・・ってびくびくしながら私道みたいな道を抜けてくと、そこが別邸。※「築山館(1)」へと続きます。にほんブログ村
2012年08月06日

大内義隆主従の供養塔の向かいには、鐘楼がある。 【しあわせのかね この梵鐘は大内義隆卿が享録5年(1533)に九州芦屋の名工大江宣秀に作らせた 国の重要文化財「興隆寺梵鐘」を縮小、複製したものです。鐘楼堂は総欅造り 入母屋本瓦葺きで、現代の名建築です。 平成5年春完成後は、毎日、「暁鐘」「日中鐘」「昏鐘」1日3回大内文化の 音を鳴らしております。ご参詣の皆様も世界の平和、地域の安穏、ご家庭の しあわせを願って自由に撞いて下さい。】 (現地解説板より)前月の三井寺以降、完全にトラウマとなっていた私は、ここでも撞きました。もちろん(笑)。鐘楼堂の瓦は、軒丸瓦も鬼板も、大内菱~一部、巴紋の瓦が混ざってるのがちょい気に入らないけど・・・ 「しあわせのかね」の斜め向かいには、こんな看板があった。 【豊後岩の由来 大内氏は歴代政庁をこの地に置き、西日本に覇をはっていたが、後には防・長・ 芸・備・后豊・筑の7か国の守護を兼ね、その富と権力は天下に並ぶべきものが なかった。 当時世の中は兵乱にあけくれていたが、山口の町は平和を保っていたので、 戦乱の都をさけて、この山口に来る公卿・文人が多くあり、いわゆる西の都の 繁栄があった。 大内氏はこれら来訪の客をもてなすため、邸前に宏大壮麗な築庭をした。 そこには流水があり、また当時珍しい蘇鉄が植えられたりしたが、使用した岩は 全部豊後の国から舟でもってきたものであった。 しかしこれらの岩は、豊後の国を恋しがって雨の夜は「豊後に帰りたい」といって 泣いたという。 そのような立派な庭も大内氏の滅亡後は荒廃して、わずか豊後岩だけがここに残って、 往時の栄の跡をしのばせている。】 どんな岩かって~?見てよ、この写真! さっきまでの大雨で、完全に水没してこのエリアには立ち入れなかったんだよ~手前の豊後岩の看板の後ろには、「宝現霊社」について説明があるけど、これもおかげで見られなかった。しっかし、何で雨の夜に泣くんだろう・・・豊後はロンドンみたいに雨が多いのか?まさか、豊後恋しさにさっきの大雨を降らせたんじゃなかろーな・・・これで山門から本堂にかけてのところは全部見た。水没箇所は見られなかったけど、これはもう仕方ないよし、次は開園したての池泉庭園を見に行こう。まずは井戸。 【石組井戸 石を組んでつくられた井戸で、内法(うちのり)の直径は約1.2m、深さは約4m あります。この井戸は池泉庭園と同時期につくられ、1500年代前半に 埋め戻されました。この井戸からは、外面に金箔をはった土師器皿が3枚出土 しました。】 (現地解説板より)井戸は埋められちゃってるけどね。そもそも、今回の整備は 【発掘された遺構を埋め戻した後に嵩上げをし、水をたたえた池として復元整備 しました。整備対象としたのは、1500年代前半~中頃の様子です。】と式典でもらった資料に書いてある。できれば遺構の実物を見たかったけど、保存の面とかで色々あるんでしょうから、仕方ないよな・・・井戸の先、南東の角っこにはこれがある。 これは「建物基壇」とある。 【南東岸で発見された石基礎建物は、池泉庭園の改修時に建てられており、 庭を観賞する施設のひとつだった可能性があります。】 (式典資料より) ここから見るひょうたん池はこんな感じ。 確か、「ここで月見の宴など催したのかもしれません」みたいな解説だったと思うけど・・・ 基壇の写真の奥と右側には、かつて板塀がめぐらされていた。↓これは導水路。 池の周囲は、ぐるっと歩いて巡れるようになっている。↓こちらは北側からの眺め。 【池泉庭園の意義 館跡は水はけの良いところに立地するため、邸外から水を引いて来るには 多くの労力が必要です。さらに、発掘調査の結果から、本庭園を作庭するために、 居館の敷地が約20m東に拡幅されたことがわかっています。これらのことから、 この庭園は大内氏の権力の大きさを示すものと言えます。大内氏館で行われた 儀礼や宴会、芸能、文芸等の中には、この庭園を背景に催されたものも あったことでしょう。(中略) 中世につくられた現存する庭園は、作庭されてから今日まで庭を管理する人の 手が加わっているため、当初の姿を留めている例は少ないと言えます。よって、 これら(大内氏館)の庭園は室町時代の庭園様式を今に伝える貴重な文化遺産と 言えます。】 (式典資料より。カッコは戦国ジジイが追加)館が焼失しないでそのまま現存してたら、池泉庭園の本来の姿もわからなかったかもしれないなんて運命の皮肉だけど、大内氏華やかなりし頃に私が生きてたとしても、パンピーには到底入れない場所だったからな・・・いや、感慨深い・・・てな事を池の北のこの場所でTVカメラに向かって言ったような気がする・・・にほんブログ村
2012年08月05日

資料館のクーラーは、最初は快適だったけど、だんだん苦痛になってきた。元々クーラーが苦手な体質に加え、先程の豪雨で下半身がほぼびしょ濡れ状態だったので、体が冷え切ってしまったのだ。クーラー除けに羽織る物も持ってるので引っかけたけど、とにかく下半身が乾かないとどうにもならない。途中、ちょこちょこと外に出て冷え切った体を外気で温めながら雨がおさまるのを待った。雨が小降りになるまでに1時間もかからなかったと思うけど、再び行動開始する頃には、クーラーのせいでどっぷり疲労感に苛まれていた。夜はA様が、大内文化に詳しい人を集めて食事でも・・・って誘ってくれたんだけど、なんかもう、それどころじゃ・・・龍福寺の本堂は現在修復工事中(2011年8月時点)。正面よりは資料館の脇からの方がよく見えた おお~、素木が美しいな 雨がどしゃ降りの時はさすがに工事の人達も作業を中断してたけど、もう始めてるわ・・・この暑い中、土木・建設関係者様ってホント大変だよね~。資料館の入り口には、こんなものも置いてあった。 お・お・大内菱の瓦じゃん・・・!こっそり懐に入れて持って帰りたくなっちゃうから、こんなとこにこんなモノを無造作に地べたに置かないでほしい・・・大内菱の瓦の誘惑と必死に戦っている間に、雨がやんだ。早くも薄日が差して、こうなってくると蒸し暑い。工事中の本堂の正面はこんな。 弘治3年(1557)に毛利隆元が建てた龍福寺は、禅堂と山門を残して明治14年に火災で焼失した。再建にあたり、大内氏の氏寺であった興隆寺の釈迦堂を移築したのが、現在の本堂。こちらも室町後期の建築といわれる。ちなみに重要文化財。ちょっと前までの龍福寺本堂の写真を見ると、桟瓦葺で戸は引き違いの障子戸。これを、今回の工事で可能な限り元の状態に復元するという趣旨のもと、写真の通り屋根は檜皮葺、障子戸は蔀(しとみ)戸に替えられるなど、かなり古風なものへとイメチェン中。でも、瓦葺より絶対こっちの方がいいよな・・・(←檜皮好き)本堂の正面には、山門がある。 うっわ~、さっきまでの大雨で、門前が完全に水没しとるわ・・・どないしょ・・・ とりあえず、まだ境内は全然見てないので、まずは色々見てから考えよう山門に向かって右側には、こんなエリアが。 【平成12年は龍福寺の開基大内義隆卿の450回大遠忌に当たります。 この勝縁にちなみ、大内義隆卿主従の供養塔を建立しました。正面の宝篋印塔は 長門市大寧寺にある義隆卿のお墓を原寸大に複製したものです。 また、左奥の十三重の塔は義隆卿に従って戦死した冷泉隆豊などの忠臣や 公家の諸精霊(しょしょうれい)の供養のために建立いたしました。】 (現地解説板より)で、こちらが義隆公のお墓、のレプリカ。 【天文20年(1551)重臣陶晴賢の謀反により大内氏31代義隆卿は 大内御殿から長門の大寧寺に逃れました。この時大寧寺住職異雪慶殊 (いせつけいしゅ)和尚の弟子となり金剛教の経文を引用した 「討つ人も 討たるゝ人も 諸ともに 如露亦如電応作如是観」 の辞世をよんで自刃されました。 その意味は、敵も味方も人の命は露のようにはかないという佛教の無常観を うたったものです。 時に45歳の生涯でした。】義隆の辞世は、その悲劇的な最期と相まって、大変有名です。後世の作だとする説もあるけど、それにしてもあまりにマッチしすぎている・・・龍福寺に義隆の供養塔があるなんて、知らなかったな。でも明日はその本墓に詣でる予定だから、ここでは手を合わせなくてもいいかな・・・で、義隆に殉死、あるいは変の巻き添えを食って亡くなった方達の供養の塔がこちら。 義隆と行動を共にした家臣たちは、当然主とともに大寧寺で討死してるのでその時に書こうかと思ってます。公家も准三宮関白左大臣とか結構なメンツが揃っておりますが、大寧寺に墓がある方が多いです。その中の一人が、三条公頼(さんじょう・きんより)さん。名前を聞いてすぐわかる方も多いでしょうが、武田信玄正室・三条夫人のパパですよ。こんなとこであえない御最期を遂げておられたんですね・・・公家の中には自害をした方もおられますが、大体は殺されてます。中には、相当むごい殺され方をした方もいます。お気の毒に・・・ところで、家臣でも公家でもないですが、この大寧寺の変からギリ逃れたチョ~有名人がいます。その名は、フランシスコ・サビエル。教科書では普通「ザビエル」と濁って習うけどね、山口では濁らず「サビエル」というんだよな。サビエルさんと山口との関わりについては、ゆかりのスポットへ行った時に書こうかと思ってますが、名前についてだけ書きますと、 【「Xavier」の発音の表記は十数種類ある。サビエルが生まれ育った、 スペイン・ナバラ州にある城は「ハビエル」、ポルトガル語では 「シャビエル」である。日本では現在、全国的には「ザビエル」であるが、 山口市では「サビエル」で通っている。(中略) そして、現在の「サビエル」となったのは、サビエル来山四百年を記念して 山口市亀山に聖堂が建立された昭和二十七年からである。これは当時の ドメンザイン神父が「サビエル」の方が言語の発音に近いとして決められた ものである。】 (『栄光と挫折の賦』 山本一成著/大内文化探訪会より)だそうな。サビエルさんが後事をトルレス神父とフェルナンデス修道士に託して豊後へ向かったのは、大寧寺の変のわずか10数日前。義隆の訃報を豊後で聞いたサビエルさんは、天に祈ったという。ちなみに残されたトルレス・フェルナンデスたちは、異教徒に対して好意的だった内藤家にかくまわれて難を逃れた。いや、危ないところだったね~。まあ、サビエルさんはその翌年、中国本土への上陸を目指したが果たせず、中国の島で亡くなったそうですが。享年46歳。義隆と同年代の人だったんだね。にほんブログ村
2012年08月04日

資料館には他にも色々ありますが、一番目をひくのはやっぱり奥にあるコレじゃないでしょうか・・・ 【大内義隆卿と毛利元就公・隆元公対面の場面 天文18年(1549)4月、毛利元就公は、大内義隆公から日頃多くの 厚意援助を受けている御礼として、山口の大内館を訪れ、長年月にわたる 恩過に対して深い謝意を表しました。 義隆公もたいへん喜ばれて、元就公を歓待した場面である。】 (資料館解説より)上が義隆君。下は奥が元就、手前が隆元。義隆の顔が光っちゃってるけど、ケータイで撮ったら暗いながらも顔ははっきり撮れた。 イケメン(に造ってある)じゃ~ん!!毛利さんちも美形揃いだってウワサだからか、この親子もイケメンに造ってあるよな。まつ毛が長いのよ・・・(笑)隆元は、人質として3年間を山口で過ごした。14歳から17歳までのピチピチした時期で(笑)義隆には大層かわいがられたそうな。隆元の弟・隆景ちゃんも12歳から人質として山口にいたともいわれるが、まずそれはないだろうと思う。隆景ちゃんの方は、『陰徳太平記』に 又四郎隆景は、容姿甚だ美なりしかば、 義隆卿 男色の寵愛浅からずしてとの記述などがあり、こちらも義隆に気に入られた様子。この2人の兄弟は、義隆から「隆」の字の偏諱を受けてます。元春ちゃんだけ仲間ハズレ・・・・・一部マニアの世界では希代の男色家として有名な義隆君ですが、この毛利兄弟の話なんかもそのテの嗜好の女性たちに好き勝手書かれたりしてるダントツ多いのは、もちろん陶隆房とのラブラブ話でしょうが。たぶんね。まともに読んだ事なんかないから、知らないけどさ・・・ま、それはともかくとして、隆元・隆景以外にも中国・九州の武将たちの多くが義隆の偏諱を受けている。龍造寺隆信なんかもそうだしね。強大な大内氏の勢力範囲がうかがえますな。しかし、その中でも隆元の扱いはハンパなかった。天文6年(1537)12月1日、大内家からの丁寧な出迎えを受け隆元山口入り。12月6日に別邸・築山館において義隆と対面。対面の後で義隆は自ら部屋の外まで見送って礼を尽くしたという。現・瑠璃光寺近くの隆元の宿所には大内家の重臣たちがかわるがわる訪れて、山海の幸を振舞ったりと大層なもてなしよう。12月19日には義隆が烏帽子親となり、隆元の元服式が挙げられた。「隆」の字をもらったのは、この時。滞在中はあちこち見物に連れてってもらったり、優雅な大内文化を堪能するという、人質ってなんだっけ?的な生活を送った。多感な時期を義隆の元でこのように過ごしたことは、まだイチ国人領主の子に過ぎなかった隆元に大きな影響を与えたらしく、のちに元就はこの総領息子に頭を悩ますことになる。まあ、環境は確かに重要だけど、やっぱり個人の資質ってのは大きいからね。あながち義隆のせいばかりとも言えないと思うけどな・・・吉田松陰先生も、隆元のことを「平重盛のように素行端正」と評しておられるし。「あっ、う~ん、重盛か、なるほどね」と思ったな。さすが松陰先生。ちょっとばかり「物は言いよう」って言葉も頭をかすめたけど・・・その他、義隆は隆元の結婚の世話もしてやった。隆元の正室・尾崎局(おざきのつぼね)は大内家随一の重臣・内藤興盛の三女で義隆の養女となり、天文十八年に隆元に嫁いだ。内藤家の長女は義隆の側室であり、次女は安芸の武将・宍戸元秀(毛利元就の外孫)に嫁いでいる。 【長女が先君の側室となり、その子が非業の死を遂げる。二女は地味だが 堅実な存在である。三女が次代の権力者の正室となり、その子が家督を継ぐ】というところから、内藤家の娘たちは浅井三姉妹を連想させると『目で見る大内文化』(大内文化研究会発行)の中で山本一成氏が述べておられて、面白い。ちなみにこの内藤家は、藤原秀郷の子孫であると称している。権力者が重臣や一族の娘を養女にして他家に嫁がせるってのはよくある話だけどね、義隆の場合は養女は尾崎局ただ一人。だから、相当隆元のことを気に入ってのことだったのかもしれない。さて、龍福寺資料館で大内・毛利の三者が対面している間には、実はこれが置いてある。 あ~あ~、皆こんなとこに小銭なんか捧げちゃって・・・てか、これってお賽銭?人形に?(笑)しっかし、このシチュエーションって・・・ 隆元:「ち・・・父上、大内様への献上は、 これっぽっちの小銭だけですか!?」 元就:「仕方なかろう、弱小毛利じゃけぇ~」 義隆:「・・・・・・・・・・」って勝手にセリフ付けて遊んでました、ハイ お遊びはともかく・・・上の写真の対面の場面である天文18年(1549)2月、元就は山口へやって来た。お世話になってる大内家へのお礼、それから元就の隠居の挨拶のために。表向きはね。お供はどうも元春ちゃんと隆景ちゃんみたいなんだけど、ここでは隆元になってるなあ・・・義隆はこれを歓迎し、3月、 五日、元就を饗す。 十二日、元就其旅館浄光寺に招飲す。 廿六日、薬湯を設け元就を招く。「薬湯」とあるのは、元就の具合が悪くなったからと思われる。3月以降も、 五月十五日、元就を招飲す。 十七日、元就の旅館に赴く。 十八日、発程帰国す。 (いずれも『大内氏實録』より)ともてなしている。しかし、義隆の好意とは裏腹に、陰ではキナ臭い話が進行していた。実は、元就を山口へと誘ったのは陶隆房だという。そして隆房の息子が夜な夜な、元就の宿所へ夜這い・・・じゃなくて、訪問しては文箱を持ち帰っていたという話がある。この天文18年というのは、「大寧寺の変」の2年前にあたる。陶隆房が大内義隆を滅ぼした「大寧寺の変」は、数ある裏切り事件の中でも、日本一有名な裏切り「本能寺の変」に次ぐビッグ裏切りと言っても過言ではない位の大事件。かつての寵臣であった隆房が決起に至った理由については色々と説があるが、この年は隆房がある国人と勝手に兄弟契約を結んだことで義隆の詰問を受けたりと、主従の関係はかなり雲行きが怪しくなってきていた。隆房が謀反を企てた時期は、天文17年(1548)から天文18年といわれ、現在残る書状から天文20年(1551)の変までの間に隆房が時間をかけて多数派工作を行っていたと推測されている。その多数派工作のうちのひとつが、元就を筆頭とする安芸国人衆の取り込みであり、元就の山口への招待だった。現に山口滞在中には、隆房と元春ちゃんの間で義兄弟の契りも交わされている。翌年の日付のある、安芸の天野隆綱や吉川元春の文書およびその後の経過から見るに、どうやら天野・吉川の両者は隆房に対し所領を要求していたようで、それは隆房へ加担することへの見返りじゃないのか?ここからも天文19年の時点ですでに毛利家は陶隆房のクーデターに加担していたことが窺われる、というのが近年の研究結果らしい。結局途中で病にかかった元就は、都合3ヶ月を山口で過ごすんだけど、これすら「時間を稼ぐための仮病じゃねーの?」と疑りたくもなってくる。そして帰国してからの元就は、来るべきXデーに向けて、毛利家中およびその周辺の大掃除を始める。う~ん、毛利元就ってのは、やっぱり恐ろしい男ですよ・・・戸次鑑連(立花道雪)なんかは、隆房の謀反そのものが元就の謀略によるものだって言ってるし。資料館にある人形を、建前通り「隠居の挨拶と日頃のお礼」の場面として見るのと、「表でいい顔しながら、毎晩目の前にいる主君を滅ぼす相談をしてたのかこのオヤジ・・・そして、クーデターの情報は掴んでたのにあえて何もしなかった義隆って・・・」ってウラを考えながら見るのとでは、印象が全く違う。何とも言えない複雑な感情と、もどかしい思いとを抱えながら誰もいない資料館でしばしリアル人形を眺め・・・・・・にほんブログ村
2012年08月03日

今回は、龍福寺本堂のすぐ隣にある資料館をご案内しましょう。いちおう、有料。良心に従って入口に置いてある料金箱へ入れるようになってる。この鷹揚さ、日本だなあ~って感じ(笑)。まあ、結構こーゆー所ってあるけどね。中に入ると、思っていたよりも小さかった。誰もいないし、クーラーは効いてるし、快適~ここに来るまでバタバタしちゃったし、雨がおさまるまでここでゆっくりしていこう。小さな資料館の内部には、貴重な品々が展示されてた。写真撮影禁止と書いてないのを確認してから、撮影にいそしむ。その中から、いくつか展示品をご紹介。 【大内氏館跡の庭園池の玉石 館跡発掘調査で発見された庭園遺構。池の汀(みぎわ)の部分にこのような 玉石が敷きつめられていたものと思われる。】 【土師器の器面に漆を塗り金箔を張りつけたものである。館跡の井戸から出土 したもので、井戸を埋める際の祭祀に使用したものと思われる。】 【土師器(はじき) 大内氏遺跡で出土する土師器には2種類ある。1つは製作時にロクロを使ったもので、 非常に薄く仕上げられている。もう1つはロクロを使わずに手で造ったもので、 全体に丸く厚みがある。前者は昔から山口で造られていたものであり、後者は 大内氏が京都から持ち込んだものと考えられる。】室町頃の宴会ではかわらけを使い捨てにしてたことはこれまでにも何度か書いたけど、大内氏館跡の発掘調査でも、敷地内の数ヵ所から大量のかわらけが見つかっている。多いものでは、1つの穴からなんと1500ものかわらけが発見されたんだって。当時はかわらけを使い捨てにすることが、最もゼイタクな事だとされてたんだってさ~。エコな私としては、ちょっと文句のひとつも言ってやりたいとこだけど・・・(笑)式典でもらった資料『史跡大内氏館跡池泉庭園』には、池泉庭園の推移を 作庭期:1400年代末~1500年代初頭 第一次改修:1500年代前半 第二次改修:1500年代中頃 廃絶期:1500年代中頃と4つの時期にわけて図を掲載している。その中で、第一次改修期のひょうたん池(今回復元した池)の南半分はこうなっている。 左下の部分には 【井戸に京都系金箔土師器皿を投棄】とあるので、上から2枚目の写真の器はここから出土したものかもしれない。また、廃絶期にも数ヵ所で見つかっている。 大内氏館の最後についてはまだ明らかになってないみたいだけど、義隆の死後に大内家当主として迎えられた大内義長は大内氏館に入ったというから、大寧寺の変の際に焼失したって訳ではなさそう・・・毛利隆元がこの地に龍福寺を創建したのが弘治3年(1557)。山口では弘治2年(1556)に大内家家臣の内藤・杉の二者で争乱が起こったりしてるので、大寧寺の変から弘治3年までの間に何らかの兵火にかかり、地中に埋まってたかわらけ達も火にかかったのかな・・・ところで、上の土師器の解説にかわらけの種類について書かれてるけど、義隆の頃には好んで京都風の手づくね(ロクロを使わない方)のかわらけを使っていたらしい。山口ではもともと、ロクロで造ったかわらけを使ってたのが、京風の手づくねかわらけを大内氏が持ちこんだことで、製法が定着したという。私の感覚では、薄い土師器の方が洗練されてて高級感あるように思うけど、「京都風」ってところがポイントなんだよね。なんせ、大内歴代当主はみんな、京の都が大好きだからさ・・・(笑)。あと、資料館の中には黄金のちっこい義興さんがおわす これは資料館の外にあった義興さんの像のミニゴールドバージョンだな。岐阜駅前にある信長様の立像もキンキラだし、それどころか黄金造りのミニ信長様は88,000円で売られてたし、なんでみんなゴールドにしたがるんだろう・・・エル・ドラドみたいだ資料館の外におられる義興さんはこんな像。 うう~ん、カッコいい・・・ それから、資料館にはこんなのも・・・ はああ、大内菱の瓦だ~!!あ~、素敵・・・ちなみに、この資料館の軒丸瓦も大内菱。ちょっと暗いし、ちっこくて見えないかな・・・ 今までは織田木瓜が世界で一番美しい紋だと思ってたけど、やっぱ大内菱の方がウツクシイかも・・・↓ランキング参加ちうで~す。ぽちっとお願いしますにほんブログ村
2012年08月02日

式次第通りに終わった後、みんなで池泉庭園の方へ移動して式典の締めくくり。境内を横切った時には一般の人が数人見てたけど、「午後から開放しますので、一般の方はそれまでお待ちください」って言われてた。ホントは私も、先に見られる立場じゃないんだけどな~ってちょっと申し訳ない気もしたけど、厳重に入場を管理してるって訳でもなかったしな(←堂々としてれば、絶対部外者だとバレない)。ま、これも縁ですし、引き続きありがたく参加させていただいて・・・ ちゃんと司会者もいるし、規模は大きくないけど、立派なイベントだあ~テープカットの後で、本格的な流水が始まる。それが落ち着いたところで、教育委員会の担当者様による池泉庭園についての解説が始まった。ま、現地説明会みたいなカンジ。ところが、説明が始まってすぐに大粒の雨が降り出して、ものすごい大雨へと変わった。傘をさして担当者様も頑張って説明したけど、この大雨はどうにもならず、大きく割愛して簡潔に説明が続けられた。あまりの雨にギャラリーもだいぶ減ったけど、せっかくだから私も頑張って説明を聞いてたら、A様が後ろから声を掛けてきた。なにかと思って振り返ったら、美人のお姉ちゃんとTVカメラがいた。「せっかくだから、ちょっと取材を・・・」ってA様がいきなり言い出したので、「ええええ~!い、いや勘弁してくださいよ~!!」って抵抗してみたけど、無駄だった。今まで出先でこんな風にTVのインタビューを受けたことが何回かあるんだけど、こーゆー時って、「取材?いいですよ」ってOKしてからじゃなく、取材交渉する前からカメラを回してるから、結局諦めて応じざるを得ないんだよね~。いきなりの事だったので、いくつか質問されて答えたけど、何を答えたのか覚えてない。だって、大内氏のことに浸ってる時だったし~・・・カメラから解放された時には、もう池泉庭園についての説明は終わってたしかしそこはさすがA様、仕事柄顔も広く、説明してたお兄さんに紹介してくれた。そういえば、式典の始まる前にも、大内文化に詳しいB様というお兄さんを紹介してくれたんだった。雨はますます勢いを増し、A様と2人で本堂の方へ逃げ帰ってきたけど、A様はまだ取材があるからとここで一旦別れることになった。この時は鐘楼で雨宿りしながらちょっとだけ話したんだけど、お互いの声もろくに聞きとれないくらい、雨足が強かった。A様を見送ってから、私は雨宿りがてら、資料館へ。資料館を紹介する前に、ちょっとここの史跡について書きましょうかな。 【史跡(大内氏遺跡附凌雲寺跡) 大内館跡 ここは、大内氏24代弘世が正平15年(1360)頃、それまでに館があった 大内御堀から山口に移り、館を定めたところです。 大内氏は弘世以後歴代がここで政務をとり、その領国は、中国・九州地方まで およんだため、山口は西日本の政治経済の中心地となりました。また、大内氏は 海外との交易によって富の蓄積と異国文化の移入、京の戦乱を避けて 公卿・僧侶などの文化人が、この館を訪れたことによって、当時の山口は 京都をしのぐほどの富と文化を誇ったといわれています。 天文20年(1551)大内氏31代義隆は重臣陶晴賢の叛乱により滅亡しました。 その後、陶氏を滅ぼした毛利氏は、弘治3年(1557)大内義隆の菩提を弔うため、 この館跡に龍福寺を建立しました。 館は、百間四方の堀と土塁に囲まれた中に造られていたと言われています。 現在はほとんどその面影を見ることは出来ませんが、山門の東側竹藪の中に 土塁の一部を見ることができます。】 (現地解説板より)これは大内氏館跡・・・現在の龍福寺にある解説。池泉庭園開園式でもらった資料には、大内氏館についてこう書いてある。 【(前略)大内氏が大殿大路に館を構えた時期は、江戸時代に描かれたとされる 『山口古図』によると延文5年(1360)とされていますが、同時代 (室町時代)の記録には館の設置年代を示すものはありません。 一方、館が廃絶した時期は、大内氏が滅亡する弘治3年(1557)と考えられます。 同年、館の跡地には毛利隆元により龍福寺が建立され、その後は基本的な部分は 龍福寺境内地として今日に至っています。(中略) 山口市教育委員会では、昭和53年から館跡の発掘調査を実施しています。これまでの 発掘調査で次のようなことがわかりました。 (1)館の遺構はさかのぼっても1300年代末~1400年代初頭であること (2)館が置かれた約150年のうちに少なくとも5度の改修がなされ、 館の屋敷地の広さも変化していること (3)館の機能している時期に、少なくとも3つの庭園がつくられたこと】 (資料『史跡大内氏館跡池泉庭園』より)う~ん、なるほど・・・これが最新の調査結果ってことだな。以前よりは館の建設推定時期がさかのぼったみたい。同資料による大内氏館の範囲はこんな感じ。 時代によって敷地にも若干の相違があるけど、青系の四角の範囲が後期のもの。 ちょっとずつ拡げていったみたい。平成2年度の発掘調査では、館の規模が判明した。それによると、東西160m、南北170m以上の大規模なもの。当時の守護大名の館の平均的な規模は1町(109m)四方だったというから、大内氏館は全国でも最大級の規模といわれる。この館はその名の通り、当主の居館だったが、北面に通路を挟んで別邸を構えており、2区画にまたがるのは室町将軍の花の御所(東西1町、南北2町)と同じ構成なんだと。ここからも、大内氏の経済力と勢力の強さが窺えるというもの。さて、上の写真で青丸で囲った部分が庭園跡。今回復元された池泉庭園は、右下の2号庭園にあたる。2号庭園の作庭は15世紀末から16世紀初頭。16世紀中ごろまで使われたというから、大内氏館と同時期に使われなくなったって感じかな。作庭の時期は、足利義尹の山口滞在時期とこれまたクロスする。ので、義尹のために造られたのかもしれない。池はひょうたん形で、南北約40m、東西約20m。もはや「ウチの庭に池造っちゃいました~」って規模じゃないよなにほんブログ村
2012年08月01日
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