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大内氏館<山口市大殿大路119番地>(住所をクリックするとMapfanにリンクします)※「山口編(19)」からの続きです。今八幡宮を出て、急いで大内氏館へと向かう。すぐ近くだし、昨日の帰りもこの辺を歩いてるので、山口の町にも少し慣れてきたな。目的地付近まで来ると目に入るのは・・・ おおお~っ、なんかスゴイ!!今日は、大内氏館跡での池泉庭園の開園式があるのだ。もうギリギリっちゃギリギリなんだけど、ちょっと位ならこの辺見られるかな・・・と足を踏み入れて、まずあったのがこれ。 【石組かまど 池泉庭園と同時期につくられたかまどで、東側から薪などの燃料をくべるつくりになって います。U字形に石を組んだ燃焼部が2つあり、北側のものは南北約0.8m、 東西約1.2m、南側のものは南北約1m、東西約1.3mの大きさがあります。 かまど周辺からは調理具などの日用雑器が多く見つかったことから、この場所は台所と 考えられます。】 (現地解説板より)へえ~、台所!あ、たれ幕のところにも何かある・・・ 【?列(せんれつ)建物 池泉庭園と同時期につくられた建物で、地面には?を埋め込んでいます。?とは焼成した 煉瓦のことで、この建物には、縦約30m、横約30m、厚さ2mの?が使われています。 建物の大きさは南北長約4.6m、東西幅は建物がさらに西に広がるため不明です。 中世の遺跡で検出される?列建物の多くは蔵であることから、この建物も大内氏館に つくられた蔵の一つと考えられます。】 (現地解説板より)ん~、ちょっとたれ幕が空間をふさいでいるので、なんかピンとこないんだけど・・・さて、解説板にある地図を見ると、赤丸のところが現在地で、こちら側からは入ってはいけなさそうだな。 入り口を求めて敷地沿いに歩いていくと、道路から池が見えた。おお、これが今日の主役かあ~? 敷地沿いには、土塁が続きます。低いけどね。 ぐるりと回り込んで、山門らしきものが見えてきた時、きょろきょろしてる女の人が目に入った。あ、あれはもしかして・・・と思ったらあちらから声をかけてくれて、やっぱり山口観光コンベンション協会のA様だった。お待たせしちゃって、すいませ~ん・・・ブログでも何度か書いてきたけど、そもそも人ごみが嫌いな私は、必然的にイベントも好きじゃない。ましてそれが、初めて行く神社仏閣や史跡だったりすると、非常に機嫌が悪くなる。何でかって?普段の姿を見たいからですよ~。お祭りの当事者の人達には申し訳ないけど、イベント用にいくつかの施設が占領されてて見ることもできなかったり、ひどい時には本殿への参拝ですらかなり肩身の狭い思いをしたことがある。そんな感じなので、事前にイベントの情報をつかんでれば、まず行かない。日程が許せば、日をずらす。今回の開園式については、事前に知ってた。だから最初は日をずらそうと思ってたけど、A様とのやり取りの中でふと「式典って、一般でも見られますか?座って見られるようなら、せっかくだから参加してみようかな・・・」って流れになり、数は少ないけど一般用の席も用意されてるんじゃないかって事だったので、そんなら・・・と思って予定に入れたのだ。「アンタってホント椅子にこだわるよね~」って丈夫な人は笑うでしょうけど、これまで電車とかで何度も貧血起こしてる私にとってはすごく重要な問題。真夏に屋外でじ~っと1時間とか、ホント立ってられないんだって!!まあ、大内氏絡みだからちょっと気が変わっただけで、他のイベントだったら絶対行かな~い。それでも過去に何度か史跡でイベントに参加したことはあるけど、「行ったらイベントやってた」ってパターンばっかりだったしな・・・A様とははっきり「○時に山門前で」とかって約束してた訳じゃないけど、待っててくれた。そして急いで2人で向かった会場には関係者様がみんな揃ってて、もう始まる直前・・・わあ、失敗しちゃったな。こんなに本格的な式典だとは思ってなかった。実は会場に行ってみたら一般用の席は用意されてなかったんだけど、そこはゴニョゴニョ・・・とにかく、見せて頂けることになったで、資料をもらって席につく。 【史跡大内氏館跡池泉庭園開園式 日時 平成23年8月22日(月) 午前11時 場所 史跡「大内氏館跡」(山口市大殿大路) 一、 開式の言葉 一、 式辞 一、 祝辞 一、 来賓紹介 一、 整備事業者紹介 一、 閉式の言葉 テープカット 】 (式次第より)大体100人くらいの参加者の中で私は一番後ろに座ってたんだけど、もらった資料の中には配席表もあって、どの人がなに関係なのかがすぐわかる。市会議員席が一番多くて、その他教育委員会・文化財関係・地元関係・事業者などが列席しているらしい。みんなきちんとした服装をしていて、平服で参加してるのは私と私の隣に座っていた兄ちゃんだけ(笑)。時々小雨が降ってたから屋外に張られたテントの中で式が進行していったんだけど、とにかく暑い。「この暑い中、議員様たちも大変だよな~。仕事とはいえ・・・」「いや待てよ、後ろから見てると普通のおっちゃんおばちゃんだけど、地元を愛する気持ち、貴重な文化遺産である大内氏の史跡に対する思いは人一倍強いのかもしれん・・・」って議員席を見ながら思ったり、「事業者」席や「地元関係」席を眺めては、「事業って、なんの事業だろう?このおっちゃんはどんな事で工事に携わったんだろう?」とかってあれこれ想像したりした。スピーチ聞きながら(笑)。で、そのうち事業者様の簡単な紹介が始まったんだけど、今回は池泉庭園だから、土木関係者様がほとんどだったかな。でも、こういうきちんとした式典に出るのって初めてだったし、「あっ、そうか~!そんな業者まで関係してくるのか~!!」っていう事を知って、世間一般から見たらすごく広大という訳でもない池をひとつ復元しただけの事だけど、その裏にはどれだけの史跡を守り伝えていこうとする人の熱い思いや、現場の工事に携わる人の苦労とかがあるのかってことを感じることができて、よかった。だって、史跡の復元なんて今まで色々見てきたけど、完成に至るまでの関係者様の苦労とか考えたこともないし、時には考証がなってない復元史跡だと、歴史ファンからボロクソに叩かれてる場合なんかもある。でも、どんなものであれ、史跡の復元なんて「おい、やろうぜ!」「うん、やろうやろう!!」って軽いノリだけで果たせるものじゃない。歴史を伝えるために整備してくれた史跡に対して、私達はもっと敬意を払わなきゃいけないよな~って考えさせられた式典でした。だから、わざわざ式次第までここに掲載したんだよにほんブログ村
2012年07月31日

ちょっとここで、今八幡宮の歴史や大内氏との関わりについて。前回掲載した現地解説板には、義興さんが朝倉八幡宮から遷座させたとあったけど、今八幡宮のホームページでは、義興さんのパパ・政弘がこの地に朝倉八幡宮を合祀してその後、義興さんが社殿を造替したとなっている。まあ、何にしても現在の社殿は義興さんが文亀3年(1503)に建立したものって事だよな(←いつも大ざっぱ)。その長く格式のある歴史を、今八幡宮のホームページではこう伝える。 【当宮は大内氏の居館(大内館)北東の鬼門除けにあたる守護であり産土神で あることから、山口町の総氏神として「山口総鎮守」の尊称を賜り、歴代当主の 崇敬は極めて篤く、そのことは『大内氏壁書』の文明10年(1478)条に 大内政弘より布達された「今八幡宮条々」において当時の広大な神域を 維持・保護するため種々の触書が出されたほか、常に当主の参拝や寄進が行われた。 大内義隆はその財力を誇示する巨大な鰐口を寄進しているほか、神道に強い関心を 寄せて都から吉田兼右を招聘し、宮司共々神道伝授を受けている。(後略)】義隆っつったら、貴族趣味で公家文化に浸って大内家を滅ぼした・・・ってイメージが一般的だと思うけど、大内家の盛衰とか戦国大名としての資質だとかの評価についてはちょっと置いといて、文化面で義隆を見れば、伝統を尊重し、巨大な財力を背景に高い教養を持つ、戦国時代屈指の文化人だった。「文化」とか「教養」って言われて思いつくのは、和歌とか連歌とか漢詩文くらいだけど、義隆の世界はそんなもんじゃなかった。上に挙げた3つに加え、能楽・儒学・仏学・神道・有職(ゆうそく)学と幅広い分野に及ぶ。あまりの勉強熱心さに、通信手段の少ない当時において、義隆のウワサはなんと海を越え、時の朝鮮国王・中宗が義隆を褒めたなんて文書が「中宗国書」(重文)として現在も残っている。ちなみに、今八幡宮と仁壁(にかべ)神社は「両社」と呼ばれ格式の高い神社だったが、義隆がこの両社の祭礼に参列する際には、網代車を用意させたという。貴族趣味な義隆らしいエピソードだけど、牛車を進めるためには泥んこ道じゃ当然目的地まで辿り着けない。ここから、牛車が通れるような道が整ってたんじゃないかとも推測されている。まあ、牛車のためにインフラを整えたってのは義隆だけじゃなく、ひろよん(弘世)も『陰徳太平記』の中で同じエピソードを語られてるけど。今八幡宮の社殿が建立された文亀3年は、ちょうど「山口編(17)」で書いた、足利義尹が山口に居候してた時期にあたる。ただ、『大内氏實録』によると社殿建立前の文亀元年のエピソードが書いてあるから、やっぱり文亀3年以前から今八幡宮はあったと考えていいのかな・・・今八幡宮の近くに住んでいた義尹は、毎日家臣を参詣させて、八幡様に将軍職復帰を祈願したという。そんなに離れてないんだから、本気でリベンジを果たしたかったんなら自分で来ればいいのに・・・とか思っちゃうんだけど、身分柄、そうもいかなかったのかな?義尹が山口にやって来た翌年の文亀元年(1501)、義尹の代参で今八幡宮に参詣に来た家臣が、車寄の脇にある榎に1流の旗がかかっていたのを見つけ、宮司坊にいたお坊さんに渡した。坊様の親戚の坊様が義興さんのところにその旗を持っていくと、 【義興これを見るに胡文字にて神号をかき、其下に尊氏将軍、建武3年豊前宇佐八幡宮に 奉納の由を識したる物なれば、取あへず将軍に進呈】 (『大内氏實録』より)したそうな。なんで神社にある旗を勝手に持ってきちゃうのかとか(風に飛ばされて引っかかってたのか?)、細かい経緯がよくわからんのだけど、義興さんと義尹の2人はどうもこれを瑞兆だと受け取ったらしく、その後 【将軍剣馬を今八幡宮に寄進す。義興は重代の菊銘の太刀、親子と号くる刀及び 馬一疋を献る。4日、旗の摸本を造り、相良正良に裏書を命じて今八幡宮に納む。】 (『大内氏實録』より)とある。そして新社殿完成の5年後には見事将軍に返り咲くんだから、今八幡宮サマサマ、大内家サマサマ・・・どこにも書いてないけど、リベンジのために上洛した際には、この旗が義尹のそばではためいていたかもしれないね。毛利氏の防長計略後も、今八幡宮は毛利氏によって篤く庇護されたという。幕末にはいわゆる正義派の支援に回り、都落ちした七卿の財政支援だとか、久坂玄瑞らの密談の場として社務所を提供して、「八幡隊」が結成された。じゃ、そんな歴史ある今八幡宮の外観に戻りましょうか。つっても、ホントにばたばたと写真だけ撮った感じだから、イマイチなんだけど・・・ 蛙股の上にある彫刻がすっごい変わってるんだよな~。何だろう、あれ・・・・アンモナイト?(笑)ここの意匠は、宝珠とか天体をモチーフにした珍しいものもあるんだけど、写りが良くなかった。次回は綺麗に撮るよう、鋭意努力いたしまする。境内にはたくさんの摂社があるんだけど、今回は見てられませんでした。この写真を撮っただけ ↑この木鼻は、ゾウと獅子・・・かな?種族の違うのが同居してるってのは、私はまだ見たことないかな・・・これも写りがイマイチだけど、顔が面白い(笑)。あと、これは手水舎だったかな?亀がいたんだよ、亀 あ~、もうダメだ・・・ここでタイムアップ!!急いでイベント会場へと向かう。イベントが終わったら、もっかい来ようかな・・・※「大内氏館(1)」へと続きます。にほんブログ村
2012年07月30日

今度は神福寺のすぐ南にある、今八幡宮へ(場所はこちら)。 【国指定重要文化財 今八幡宮本殿・拝殿・楼門 この社の創建年代は不明であるが、鎌倉時代に大内氏19代弘成の娘に今八幡殿と 呼ばれた人名があり、山口に大内氏が移る以前からあったことがわかる。 文亀3年(1503)大内氏30代義興が下宇野令の朝倉八幡宮を今八幡宮の地に移し 2社を合併して造建したのが現在の社殿であると伝えられている。 楼門は左右に切妻造りの翼廊を付し、正面に一間の向拝がある。拝殿は桁行三間、 梁間一間の切妻造りで、その後方に本殿がある。社殿は楼門・拝殿・本殿が一直線に 配置されている。 このように楼門を拝殿に兼ねた造り方は山口地方独特な形式であって、山口近郊には 同形式のものが多くみられる。 本殿に外陣の海老紅梁や楼門柱下の礎盤など禅宗様の建築様式が見られる。 なお、当社には大内義隆が寄進した銅製の鰐口があり、国の重要文化財に指定 されている。】 (現地解説板より)解説にある鰐口は、「山口編(2)」で書いたアレです。現在は歴史民俗資料館に委託展示されてるので、実物を見たい方はそちらへ行ってね。色々と大内氏にゆかりの深い神社だし、境内は面白かったのでゆっくりしたいところだったけど、かなり時間も押してきたので、駆け足で写真だけ撮ったまずは、馬。 神馬のいる厩舎の束(つか)はこんなの。 おお、なんか変わってる~。素敵変わったものは、もうひとつ。こちらは神馬の頭の上にあるものです。 右側に蹄鉄。左はちょっと見にくいかもしれないけど、「猿」って書いてある(笑)。実は古くから猿は馬の守り神(厩神:うまやがみ)とされており、室町時代頃までは本物の生きた猿を厩に繋いでいたそうな。あるいは厩の柱の上に厩神の祠を設けて、そこに猿の頭蓋骨、もしくは猿の手足をご神体として納めていたという。前沢牛で有名な前沢町で見つかった猿の頭蓋骨の写真が、「牛のはくぶつかん」様のサイトで公開されてますので、見たい方はそちらをどうぞ(リンクはこちら)。上記「牛のはくぶつかん」様のリンク先には、写真だけじゃなく厩神信仰についてのかなり興味深い解説もついてます。生身や骨よりももっと簡便な方法としては、猿の絵馬や護符を飾ったという。日光東照宮で、「眠り猫」と並んで有名な「見ざる言わざる聞かざる」の彫刻、あれも神厩にあるものだしね。当然、厩神信仰から来てるものだよな。厩神信仰の始まりについては、いくつかの説があるみたいだけど、インドから中国を経て日本に伝えられたと考えられており、陰陽五行説から来ているというのがそのひとつ。五行とはすなわち、木・火・土・金・水。これを十二支に当てはめると、馬は火、猿は水となり、大切な労働力であり足でもあった馬を猿が守るという論理だそうな。そして境内には神馬がもう一頭おわす。 ・・・なんか、髪型といい、顔立ちといい、「クレオパトラ」と命名したくなるんだけど・・・(笑)で、重文のお社はこちらです。 まずは参拝を・・・と思って楼拝殿に近寄ったら、ここにある絵馬はこんなのだった。 う~ん、誰がどう見たって、なすのよいち・・・ 何で与一?ここ、立派な馬の像が2つもあるし、この絵馬だし、なんか馬と深い関わりがあるのかな~。(後から境内図を見たら、実は奥の方にもうひとつ厩舎があった)余談ですが、源平合戦のラスト、壇ノ浦の時には、周防国衙からは数十艘の船が義経に献上された。直接の手配は舟船奉行だけど、在庁官人のトップ・権介(ごんのすけ)であった大内氏も当然了承の上のことと思われる。八幡様は武家、特に源氏の守護神だし、弓矢の神様でもあるから単に与一の絵柄にしただけかもしれないけど、馬もいるし、何か気になるな・・・この辺の地名は「八幡馬場」だから、それと関係があるのかな・・・しかしこの社殿、ホントに変わった造りだわ~。面白いな。 楼門に向拝を付けて床板を張ったこの前面部分は「楼拝殿」と呼ばれる。ここから本殿までが一直線に並ぶスタイルは、解説の通り山口地方独特のもので、この近辺にはこの形式の神社がいくつか現存する。これについて、今八幡宮様のホームページでは、 【この様式は、概して広くない限られた土地を有効に活用する必然から生じた 合理的な工夫である】と説明する。社殿の裏へ回り込むと、本殿はこんな感じ。なんかすごい古風な感じ~。・・・って、この形式の社殿の中では、今八幡宮のものが最も古いと言われてるんだったっけ。 おっと人がいるぞ。ガードマンだな。 反対側には、この人もいた。 面白~い 時間がなくてゆっくり見られないのが、ホントに残念・・・↓ぽちっとお願いしま~す。にほんブログ村
2012年07月29日

毛利氏ゆかりの神社を出て、東へ。次は神福寺(場所はこちら)。 【重要文化財 木像十一面観音立像 この像は、寺伝によれば大内氏の祖である琳聖太子が百済国から来朝したときに 請来されたものと伝えられている。中国唐代の作と考えられる。一木造り、素地で、 材は楠とも桜ともいわれはっきりしない。後には大内政弘の念持仏として、宮野の 泊瀬観音堂の本尊になっていたが、堂の荒廃にともなって神福寺に移され祀られて いる。 秘仏のためふだんは公開されていない。蓮華座の上に立つ高さ49.5cmの小像で あるが、製作年代が古いことと作りがすぐれていることにより、指定されている。 十一面観音の特徴は、頭上に十一面の化仏を載せていることで、祈念すれば現世利益 十種と来世の果報四種の功徳があるといわれている。 本像は化仏の多くが脱落しており、五面しか残っていない。また、両手の指先、鼻頭や 口唇に破損している所があるのは惜しいことである。】 (現地解説板より)という文化財を所持しているお寺ですが、残念ながら見られなかった。 山口県内では最も製作年代が古いとされているものだそうです。旅の最中に買い漁った資料の中には写真が載ってるんだけど、確かにお顔が・・・鼻が、ない・・・さて、私がここに来たのは、見られない仏像のためではありませぬ。「山口編(12)」と(13)で、足利義尹の御成に対して大内義興さんが中世最大級のもてなしをしたことを書きましたが、その足利義尹が滞在したといわれているのが、この神福寺。もとは神宮寺といい、仁壁・祇園・今八幡の三社別当職を務め、大内氏の尊崇が篤いお寺だった。足利義尹は、最初は義材(よしき)といった。足利義政・日野富子夫妻の擁立により室町10代将軍に就任するが、後に富子や細川政元と対立し、ついには畠山討伐で京を留守にしている間にクーデター(明応の政変)を起こされて将軍の地位を追われる。義尹は石庭で有名な京・龍安寺に幽閉されたが、この時毒を盛られたなんて話もある。その後、京を脱出した義尹は、越中からスタートして放浪生活を送るが、明応9年(1500)大内氏を頼って山口へとやって来た。上のリンク先の地図を見てもらえばわかるけど、神福寺と大殿御殿(大内氏館)とはそんなに離れてない。義尹の山口滞在中の詳しいことはわかってないけど、御成のもてなしぶりを見れば、義興さんは義尹を大切に扱ったであろうと推測される。何せ、重要なカードだからね。ただの義侠心や親切心で義興さんはずっと保護してた訳じゃない。実際、明応9年3月5日の御成の後には 【将軍内書を中西国九州の諸族に賜ふ。義興これに添書して将軍家に忠勤のことを申達す】 (『大内氏實録』より)と早速アッピールを始めてるし。義尹の御滞在地については、前出の『大内氏實録』では、 【当時は今八幡宮鎮座の亀山の右側の地に在りて、其後面の地宮野下村の内にかけて 字を御屋敷と云ふ。義尹卿の館址なりと云ひ伝ふ。 按るに当時神光寺大地なりといへども、将軍の居館には猶狭小なりしかば、 地つゞきに建築しそへし故にこの名あるらん。】と伝えている。Mapfanの地図で見ても、もう現在では「御屋敷」という地名は表記されてないけど、リンク先の中心部が神福寺、その上の山を回り込んだ北の方が「宮野下」だから、はっきりとした場所はわかってないものの、大体現在の神福寺から宮野下にかけてのどこかに「元」将軍がおわしたんでしょう。そうしてこの地で待つこと7年。永正4年(1507)にいわゆる「永正の錯乱」で細川政元が暗殺されて混乱が続いたのを見て「チャ~ンス」とばかりに同年11月25日、義尹を連れて・・・いえ、奉じて上洛の途につく。その後の話については、来月にゆかりの地へ行くので、その時に簡単に書くかも。ちなみに、京を目指して山口を出立したその年に、大内義隆が生まれている。ということで、ここ神福寺は大内氏歴代が長い年月をかけて育ててきた大輪の花が、次代の義隆にかけてまさにこれから完全に開ききるような、絶頂を迎える時期へと突入していく、そのひとつのエポックとなる場所でありました。7年待った義尹の思い、義興さんの活躍、そしてその後に続く大内氏の滅亡・・・そんな感慨に身を浸しながらも、時間は気になる(笑)。神福寺の境内には、十一面観音以外は特に寺の縁起とかの解説板はなかった・・・たぶん。なので、鐘楼に鐘が掛かってない理由もわからない。 たぶんここも先の戦争での供出だと思うけどね・・・こちらの蛙股はこんなの。 中から見た境内はこんな。 写真の右側にあるのは、ソテツ・・・?ソテツといえば、やっぱり義興さんを思い出すよな長享2年(1488)、義興さんは時の将軍・足利義尚より「義興」の二字を与えられた。同年、相国寺塔頭・鹿苑院蔭涼軒主の亀泉集証(きせんしゅうしょう)が山口へとやって来た時のこと。大内さんちの庭にあるソテツをあまりに物珍しげに見ているので、「高麗から取り寄せたソテツって言うんですよお~。公方様のお庭に植えるんなら、よかったら差し上げますけどお~」って言ってあげたところ、「ソ、ソテツくらい知っておる!あ、あまりに立派なので見ていただけじゃ!!」と献上を断った。が、蔭涼軒主の公用日記である「蔭涼軒日録」(後半の記述を亀泉集証が担当)には、くだくだとソテツに書いているので、実は相当気になってたらしい。もしかしたら、亀泉集証はソテツをこの時初めて見たのかも・・・ソテツ自体は日本(九州南部以南)にも自生してるので、舶来の植物という訳ではないのだけど、文献に見られるソテツでは「蔭涼軒日録」が最も古い記録かもしれないってことなので、この当時は都では知られていなかったのかもしれない。だとしたら、義興さんが都にソテツを紹介したって事にもなるよな。なんでか知らないけど、ソテツって戦国武将に愛されたらしく、信長様も家康もソテツにまつわる妙なエピソードを持っている。秀吉は、加藤清正が朝鮮から持ち帰って献上されたソテツを広沢寺(唐津市)に手植えしたという。これら三英傑にゆかりのあるソテツは、みんな国の天然記念物になってます。なんで、ソテツなんだろうね?(笑)にほんブログ村
2012年07月28日

境内全体を写した写真はあいにくないんだけど、こちらが豊栄(とよさか)神社だったかな・・・なにしろ、よく似た造りの神社が2つぴっちり並んでるもんだから・・・ 【豊栄神社 御祭神は毛利氏中興の祖毛利元就です。 元就は安芸国の吉田の出身で、戦国時代に中国地方8ヵ国を治めた大名で、吉田で 亡くなり墓もそこにあります。 毛利輝元が萩城に移った時、城の内に社を建てて元就の霊を祀っていましたが、 明治2年山口に移されました。この年に朝廷から元就の神霊に対し「豊栄」の神号を 賜りました。社宝として、重要文化財毛利元就画像があります。】 (現地解説板より)明治に入って朝廷から神号を賜ったのは、元就が正親町(おおぎまち)天皇の即位に貢献した経歴があるから。第106代正親町天皇は、弘治3年(1557年)父・後奈良天皇の後を継いで即位はしたものの、本人も周りもみんなビンボー。このため、元就からの献上金が入るまでは、3年もの間即位の礼が上げられなかったという。豊栄神社は明治2年当時から現在の社殿だった訳ではなく、一旦は仮殿に祀られた。この間に岩倉具視が勅使としてやって来て、剣1口を奉納したという。野田神社の方はそうでもなかったけど、豊栄神社はちょっと傷みが激しかったかな。なんだか痛ましくて、豊栄神社の拝殿は撮らなかった(笑)。文化財保護もお金がかかるから、大変だよね・・・ちなみに、この2つの神社は境内は無人です。社務所は、ちょっと離れたところにあるんじゃないかな。さらに、私がいる間は誰も来ませんでした。静かで風格のある社殿が並ぶ、厳粛な空間・・・ただし、蚊がしつこくて豊栄神社幣殿の向かいには、こんなものがあった。 【百万一心 「百万一心」と大きく文字を彫った石が、かつての毛利氏の居城郡山古城跡姫丸壇の 石垣にあり、文化13年(1816)にそれを実際に見た藩士武田泰信が、この石を 御城守護の心柱であったであろうと紙に写し取って、明治15年に豊栄神社に 奉納した。その礎石の所在はいまや不明である。 百の字は特に一画を省いて一日とし、万の字は略字によって一力とし、一日一力一心 とも解され、「日を一にし力を一にし心を一にす」という衆人協同の意であると される。】 (現地解説板より)「百万一心」てのは、吉田郡山城の工事の折に、人柱の代わりとして立てられた石碑に刻まれていたという言葉。紙に写し取ったってことは、拓本だよな・・・この拓本は絵馬殿に飾られてるらしいけど、この時はわからなかった。ここも、次回の宿題だな・・・(何しろ、今回は大内氏の旅なもので、ここはさらっとしか調べてなかった)あと、こんなのもあった。 「藝州郡山城趾松」?この時はこんなのがあるなんて知らなかったから、後ろにあるのがそうなのかな~と思って写真を撮ったけど、 後から調べてみたら、これじゃなかったらしい。なんでも、明治19年に郡山城から松が移植されたらしいんだけど、初代は虫害に遭い、続く2代目・3代目も同じ運命を辿って今はないんだって。近々、また植樹される予定らしいけど・・・こちらは豊栄神社の入り口。なかなか風格あるでしょ。 野田神社と豊栄神社は、現在では別の宗教法人になるらしいけど、両社の関係も深いし、どこからどこまでがどっちなのかは全然わからない(笑)。そんで、こちらは野田神社の能楽堂だそうです。 【野田神社能楽堂 この能楽堂は、昭和11年に明治維新70年記念事業として長州藩主の末 毛利元昭公により野田26番地の11(野田神社境内)に建立されたもので、 その設計・監理は社寺建築設計・小林建築事務所(東京)の手によるものである。 総檜造りで、橋掛、鏡の間および楽屋、控の間を構え、建築面積約238平方メートル、 規模の点からしても本格的な能楽堂である。 全国的にみても能楽堂の建築は数が少なく、とりわけ西日本に関してみれば10棟を 越えないものと思われ、その中でも当能楽堂は、規模、質の点で一流の能楽堂であると 思われる。 当初の建築場所は現在地より西の野田学園運動場内にあったが、平成3年に現在地に 移築され、補修が行われた。】 (現地解説板より)へえ、能楽堂って、そんなに少ないの?いくつか見てる気がするけど・・・まあ、私はここの建物、好きだけどねにほんブログ村
2012年07月27日

一の坂川沿いには、いくつか句碑もあった・・・たぶん。私はこれしか見てないから、覚えてないけど(笑)。 【「大内盛見詠草」 蛍 とふほたる をもひのみこそ しるへとや み草かくれに よるはもゆらむ 真っ暗な闇を恐がりもせず飛ぶ蛍は、自らの思いだけを道しるべがわりに飛ぶと言う。 自分は、み草の陰に隠れて一晩中飛ばない蛍のようであり、そのうち、夜は燃え尽き、 朝が来てしまう。小さな虫に負けないように、先行きの読めない困難な時代を 乗りきってゆかなくては・・・。 国宝・瑠璃光寺(当時は香積寺)五重塔を建立したことで知られる大内氏26代・ 盛見公は、小さな蛍から大きな励ましを得ておられたのだと分かる。】 (現地解説板より)おお、盛見の歌だよ~。こんなところに!盛見はね、一般的にマイナーな大内氏の中でも、さらにマイナーな部類に入ると思うけど、大内氏の歴史の中でも重要な役割を果たしてる人なんですよ。まあ、真田家でいうなら、信幸(信之)兄さんみたいなカンジ。これで大体想像、つく?盛見の兄・義弘については 「山口編(7)」 でかいつまんで書きましたが、義弘は幕府軍と戦って、討死を遂げた。義弘に従って堺にいた弟の弘茂は、降伏した。幸い大内家そのものがぶっ潰されることはなかったけど、処罰として大内家所領のうち豊前・石見・和泉・紀伊の没収、さらに弘茂が足利義満に臣従することを条件に、弘茂の家督相続と防長2国を安堵するという処置が下された。盛見は堺には同行せず、義弘に言いつけられて本国を守っていたが、この処置に抵抗したため、足利義満は弘茂に盛見の討伐を命じて、ここに弘茂と盛見の兄弟間で家督争いが起こった。結局弘茂は盛見に敗れ、弘茂の後釜として擁立されたもう一人の弟も盛見に討たれちゃったので、仕方なく幕府は盛見の家督相続を認めるに至った。室町時代の守護は、京にあって将軍の側に仕えるのが原則だったので、盛見も上洛して幕政に参加し、家督相続時点では防長2国の守護だったのが、豊後・筑前の守護を回復するまでになった。豊前一宮の宇佐神宮を再興した際には、文化保護的側面だけじゃなく、工事に現地の豊前国人を動員することで豊前国内の掌握を図ったりもした。また、禅への関心が高く、長い在京期間中には京都五山の僧と交流して文化人としても名を遺している。その他にも、一切経の輸入など貿易も積極的に行なったりと、マルチな活躍をした。そんな人だったので、筑前で盛見が討死した際には、室町時代の皇族の日記である『看聞御記』に「名将討死」と記されたほど。真田家を残した信幸兄さんも大変だったと思うけど、盛見も大変だったんだよ~。その大変さが、このちょっと暗めの歌ににじみ出てる気がする・・・宿の近くの商店街まで歩いて、スーパーで食糧を調達。スーパーに貼られていたポスターには、こんな絵が描かれていた。 「山口の元気はケンシンから」と題した検診のススメのポスターなんだけど・・・このマスコットキャラって、あのケンシンだよね(笑)。友情出演?おっと、そーいえば今日は越後では謙信公祭が開かれてる日だ。去年の謙信公役は上越市長がやったけど、今年はまたガックン(ガクト)が返り咲いたんだよね山口は今日は蒸し暑かったけど、あちらの天気はどうだったんだろう。ヅラかぶって甲冑着込んでじゃ、さぞ暑かろう。ああ謙信様、ガックンが熱中症になりませんように・・・3日目<2011/8/22(月)くもり一時豪雨のち晴れ>今朝は薄日が差してる。そして、蒸し暑い。今日はイベントに参加するので、それまでの時間でお目当てをサカサカと見なくちゃまずは歩いて菜香亭まで。一の坂川には、こんな鳥がいた。 なんだろう、これ?大きな鳥なんて、うちの方じゃ見ないからわからないな・・・今日は昨日の続きから。最初は菜香亭の隣にある神社へ(場所はこちら)。 ここは神社が2つ仲良く並んでます。まずは手前にある、野田神社から。 【野田神社 御祭神は毛利敬親および毛利元徳です。 敬親は毛利藩13代の当主で幕末維新の時に藩士を指揮して近代国家の成立に努力し、 明治4年に山口で亡くなりました。 元徳は敬親の養子で幕末維新の時には父敬親を補佐し、明治29年に亡くなりました。 社宝として、重要文化財の太刀(銘助友)のほか毛利家伝来の能衣装、甲冑など 貴重なものがたくさんあります。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換) 野田神社の地には、豊栄(とよさか)神社があった。敬親が亡くなった2年後の明治6年、有志が敬親を祀る社を豊栄神社の境内に建てた。当初は、敬親の諡号「忠正」から忠正神社としていたが、翌7年に野田神社に改称。元徳の方はやっぱり死の2年後(明治31年)、野田神社の境内に摂社として「芳宜園神社」に祀られたが、昭和11年になって本殿に合祀された。上の写真もそうですが、当然の事ながらここにも「一文字三つ星」があふれてる。ちょっとこの写真じゃ、わかりづらいかな・・・ 拝殿には広く回廊が巡らされていて、その奥に本殿。拝殿から先へは入れない。 にほんブログ村
2012年07月26日

あ~、企画展、満足したあ!特に、御饗応の品が見られると思ってなかったから、ホントラッキーだったな。A様、ありがとう展示室を出て、大広間へ。 ここには著名人の扁額が沢山かかってる。伊藤博文・山県有朋・井上馨などの幕末の長州人から、佐藤栄作・岸信介・田中角栄・竹下登・安部晋三などの現代人まで。あと、私は見なかったけど、2Fには佐々木高行・後籐象二郎の土佐人の扁額もあったらしい。「写真撮っていいですよ」って天女のお姉さんが言ってくれたけど、なにしろ沢山あるので、とりあえずこれ1枚だけ撮った。 「清如水平如衡」(きよきことみずのごとく たいらかなることはかりのごとし)これは桂小五郎、教科書では木戸孝允と習う長州人の書です。宋史の清廉で公平な役人を褒めた言葉を引用したんだってさ。そしてこちらが、佐藤栄作氏も愛したという中庭。 数々の政治の舞台となった菜香亭だけど、現在では市民の催し物などにも部屋を貸し出している。この日も2Fで何かあったらしく、ダン!ダンッ!!ダンッッッ!!!ってすごい足踏みみたいな音が上から聞こえてきて、うるさかった。歴史ある貴重な建物なんだから、もっと大切に扱ってよ・・・最後に事務所の前にある、小さな売店を物色。ここで大内氏についてのDVDを発見!まとめて買って、「勉強家ですねえ~」って事務所の人に感心されたけど、帰ってから見てみたら、なんだかすごい事をさらりさらりと流している大変ためになる内容だったので、買ってよかったやっぱ地元はスゲエなあ~。そういえば、ここにはコンベンション協会のA様の同級生だっていう人がいて、「大内氏についてはかなり詳しいので、何でも聞いちゃっていいですよ~。私が許可します!」って言ってくれたんだけど、この時は不在で残念ながら会えなかったんだな。さて、疲れたのでバスがあれば乗っていきたいな~と思ってお姉さんが時刻表を調べてくれたら、ギリギリ間に合いそうなバスがあった。ので、お礼もそこそこにバス停まで急ぐ。教えてもらったバス停に着いて少し待ってたけど、そのうち時間が違ってたか何かでバスで帰れないことがわかった。疲れたけど、仕方ない、歩くか・・・ところでバス停のある現在地は、この辺。(←Mapfanにリンクします)バス通りにある野田学園とその付近については、菜香亭にこんな解説があった。 【まちのにぎわい 戦国の時代にあって、山口は日本でも有数の大都市でした。宣教師のサビエルが 書いた手紙には、「日本でもっとも有名な町」で、一万人以上もの人々が住んでいたと あります。 今回の発掘調査では、屋敷地を仕切るために掘られた溝や、柱を立てた穴、いらなく なった生活物資を埋めた穴などが見つかりました。 当時の山口を支配していたのは、守護大名から戦国大名となった大内氏でした。 その頃の山口を描いたといわれる「山口古図」を見てみると、野田学園のあたりには 大内氏の役所があったとされています。また、野田学園のすぐ西側には、大内氏の 別邸「築山館」がありました。 今回の発掘調査では、役所の跡であったことを示す確証は得られませんでしたが、 溝や柱穴の軸線が築山館の軸線とそろっているため、同じ都市軸の上に築かれたことが わかりました。この都市軸は現在まで引き継がれており、山口のまちの原点が 大内氏の時代であったことを物語っています。 また、プール建設時の調査で大内氏の家紋である大内菱をスタンプした土製品が 見つかるなど、大内氏にゆかりの地であったことがうかがえます。】役所の跡は、「山口古図」にはこんな感じで描かれている。 青でマルしたところが、役所。その左隣の「大内御殿」が、築山館。築山館の下の「大殿御殿」が大内氏館で、この二つの御殿は現在も史跡かつ寺社として遺されているけど、それ以外は普通の現代の街並みになってる。「山口古図」と現代の地図を見比べても、結構往時の通りがそのまま現役の道になってるし、この辺り一帯がまさに大内氏の中心部だったんだな~とぼんやり考えながら、てろてろ歩いてく。今日はもう時間切れでおしまいだけど、せっかくここまで来てるんだから、ちょっとでも目の保養になるものを見られる道を通っていこうっとで、これを見ながら歩く。 あの土塁の向こう側が、大内氏館。ハア、ちょっとでも寄っていきたいところだけど、それは明日のお楽しみじゃ道なりに東へ歩いていって、大内ひろよんが京の鴨川に見立てたという一の坂川沿いに南下。一の坂川沿いの道は、毛利氏が萩へ移ってからは萩街道と定められた道でもある。この通りには、いくつかのバージョンのふたがあった。 おお、いろんなカラーのがあって楽しいな どのふたにも共通して描かれているのは、ホタル。一の坂川は、今でも豊かな自然を残している川でね、初夏にはゲンジボタルが乱舞するという。ゲンジボタル(源氏蛍)って、最近まで知らなかったんだけど、一説には源頼政の亡霊がホタルになったってとこから来てる名前らしいね。だから、一の坂川沿いのふたはみ~んな頼政柄・・・(笑)。皆様、一の坂川沿いを散策する時は、頼政(のふた)をうっかり踏まないようにお願いしますねにほんブログ村
2012年07月25日

さて、明応9年3月5日の足利義尹への饗応は・・・まず、太刀・馬・鎧・弓などの豪華グッズの献上から始まる。ちょっと細かく覚えてないけど、確か食事の合間合間にも豪華なお品の献上式が続いたんじゃなかったかな。で、お食事。前回書いた「式三献」からスタートして、全部で二五献。途中に「供御(くご)」と「御台(おんだい)」という膳が付いて、あ~んどスイーツ。てな訳で、膳は全部で33。品数はしめて111ただし、いくつか重複してる品もあるし、「御湯」(白湯)なんて料理か?みたいなものもあるんだけど、そういったものを除いても100種類近くはある。食材は、魚介系が圧倒的に多い。肉がいくつかあって、野菜類はもっと少ない。変わりダネとしては、イルカ・コウノトリ・エイ・鶴・雁なんて食材もある。この時代は、結構いろんなものを食べてるんだよね。義興さんの子・義隆は、かわうそを食べたらしいし。記録に残る中世一般の動物系食材では、兎・鹿・狸・むじな・かもしか・猪・熊などが食べられていた。そのうち、最も多いのは狸で、売買もされてたみたい。宮中や宮家、公家達の間では狸汁などにして食べられていたんだって~。ちょっと意外~おっと、話がそれちゃったな。この時代、宴会で使われた「かわらけ」は使い捨てが基本で、大内氏館やその周辺の遺跡から見つかったかわらけにこびりついた食材の分析や、発掘された生ゴミを調査した結果では、タイが一番多く見つかっているらしい。それも、頭から尾にかけての骨が見つかっていることから、どうも尾頭付(おかしらつき)で出されていた様子。足利義尹への饗応でもタイのお頭付の焼き物が一品あるし、刺身ではタイ・ぶり・こち(ってなんだ?)・はまち、あとイクラなんかもある。 【椹野川(ふしのがわ)の河口から10km以上も内陸に位置する大内氏館一帯において、 海産の魚介類が多く出土することを意外に思われるかもしれません。しかし、 魚介類を刺身として食べていることからも、内陸部への輸送手段が整備されていた ことが窺えます。 また、『四条流包丁書』などの料理秘伝書によると、当時、食材には格付けがあり、 海のものが上、川のものが中、山のものが下とされていました。大内氏館で出土する 食材の構成も、こうした格付けに沿ったものといえるかもしれません。】 (「明応九年三月五日将軍御成献立」パンフレットより)料理から見る歴史ってのも、こうしてみるとホント面白いよね~。あ、余談になりますが、食材のランク付けで「海のものが上」とあって基本ルールは確かにそうなんだけど、すべての魚の中で最高位とされたのは、コイなんだって。タイよりコイのが上。これは、黄河の急流にある竜門と呼ばれる滝を多くの魚が登ろうと試みたけど、コイだけが登り切って竜になることができたという中国の故事にちなんでコイが祝魚とされたんだと。 「登竜門」という言葉や、「こいのぼり」もこの故事から来ている。御成ってのはその性格上、京で行われるものがほとんどだけど、義興さん主催の明応9年の御成は山口で行われてるから、これも異色。いや、ホントは山口でのは御成とは言わないものなんだけどさ・・・そして、御成の献立の詳細が記録されているものの中では、この明応9年のが最も豪華なんだと。献立数だけで言っても、足利義稙が畠山邸に行った時が20献、足利義輝が三好邸に行った時が17献、足利義昭が朝倉邸に行った時が同じく17献、でやっぱり義興さんの25献が群を抜いている。もらったパンフレット、「明応九年三月五日将軍御成献立」の山口市教育委員様による解説のページでは、 【五百十年前の戦国時代、 中世最大級の宴会が山口で行われた!】って書き出しになってるけど、まさに、まさにィィィ~ってカンジ。もちろんこれは、貿易で得た巨大な財力を背景にしたもので饗応にも相当の金をかけただろうけど、つぎ込んだだけの価値はあった。さっすが義興さん「流れ公方」なんて呼ばれて、(いちおう)室町幕府の最高権力者の位置から一転、各地で亡命生活を送ってきた末に本州の西の果て、山口へと辿り着いた足利義尹は、このもてなしにさぞ感激したことだろう。さて、御饗応についてはこれ位にして、今回の企画展のメインである大内塗について。 【大内塗がいつ頃から作られていたかはわかりませんが、室町時代、山口での 料金の基準などを決めている、大内氏の掟書(文明17年、1485年)の中に、 刀の柄(つか;握るところ)、鞘(さや)を塗る代金の記録があります。 そして朝鮮で李朝の続いた1393年から1863年までの間の出来事を記した 「李朝実録」には、室町時代における大内氏との交易の様子が書かれており、 大内氏が、漆製品を重要な輸出品の一つとしていたとあります。これらの資料により、 少なくとも15世紀には山口において漆工芸が盛んに行われていたことがわかります。】 (企画展資料『伝統工芸「大内漆」』より)大内盛見が応永14年(1408)に一切経を求める際に朝鮮に献上した品を「大津編(17)」に書いたけど、このうち硯には、蒔絵の箱もセットで付いていたという。それから、解説にある「大内氏の掟書」(大内壁書)については、 【刀の柄・鞘の塗り物代が定められ、職人は受け取る代金に相応して 厳重に努力するよう厳命される。】と展示されてた年表に書いてある。まあ、当然っちゃ当然のことだけど、厳重に努力って・・・キビシイのお(笑)。大内塗にも椀とか盆とか菓子鉢とか色々種類があるけど、一番有名なのはやっぱり大内人形じゃないかな。大内人形は、「赤間ヶ関編(41)」に写真を載せてます。まあ、この写真のはボーリングの玉だけどね(笑)。上記資料『伝統工芸「大内漆」』には、大内人形についてこんなメルヘンな話を載せている。 【山口の地に居を構えた24代大内弘世は、都(京都)から多くの人を山口に招き、 都と同じような街づくりを行い、やがて都から美しい花嫁を迎えました。しかし、 花嫁は遠く華やかな都を恋しがり、毎日さびしがっておりました。 心の優しい弘世は、かわいそうに思い、都からたくさんの人形職人を呼び寄せ、 人形で屋敷じゅうを飾りました。花嫁はたいそう喜び、それからは幸せに 暮らしました。 街の人々はそんな弘世の家を「人形御殿」と呼ぶようになり、うわさは遠く 都まで届きました。長い戦乱にあきあきしていた都の貴族、文化人、芸術家、 僧侶たちが次々に山口に移り住み、華やかな大内文化が生まれることになり、 山口は「西の京」と呼ばれるようになりました。】う~ん、火のないところに煙は立たないっていうし、なんにしても、ひろよんは嫁さんを大切にしたんだろうな「赤間ヶ関編(41)」の写真の通り、大内人形は男女ペアの人形で、ひろよんのエピソードもあってか、夫婦円満の守護神とされているそうな。大内時代に造られたと推定されている大内塗で現在残っているのは、毛利博物館所蔵のと個人蔵の2つのみ。江戸時代にはかなりの数が作られたみたいだけど、一旦は衰退した。それを復興させたのが、雪舟の雲谷庵を復元した郷土史家の近藤清石。努力が実って、平成元年には国の伝統工芸品の指定を受けている。企画展では漆塗りの製作工程を段階的に展示しながら色々説明が書いてあった。その中で面白いと思ったのが漆塗りに使う刷毛の解説で、 【毛は若い海女さんで一度もパーマをかけた事のない人の 髪の毛が最高級品とされ、現在では非常に入手難と なっております】だって。そもそも海女さんて現在では少ないだろうし、「若い」って期限付きだからね~。そりゃ、入手も難しいかもね~・・・いやいや、笑っちゃいかん。伝統を守るってのは、大変なことなのだ。にほんブログ村
2012年07月24日

雲谷庵から南へ。国道9号線を越えると、今日最後のスポット、菜香亭(さいこうてい)がある(場所はこちら)。ここは幕末関連の史跡というべき場所なので、最初は行く予定じゃなかった。ところが、コンベンション協会のA様が「今、大内氏の企画展やってますよ~」って教えてくれたので、あわてて予定に組み込んだ(笑)。菜香亭の入り口はこんな。 【菜香亭は、幕末の文久3年藩庁が萩から山口に移された際に、一緒に山口に 移り住んだ萩藩の膳部職(ぜんぶしき:支配人)であった齊藤幸兵衛が、 明治10年頃、現在の山口市上堅小路、八坂神社境内の一角に料亭を開業したのが 始まりで、その料亭をひいきにしていた井上馨により「菜香亭」と命名されました。 主人齊藤幸兵衛の名前「齊」と「幸」にちなんだものです。 その後、菜香亭は増改築をくり返しながら時代時代の政財界人を迎え山口市の歴史の 舞台に登場します。 明治期には、伊藤博文を迎えて毛利敬親の法要(明治24年)や、菜香亭の名付け親 である井上馨還暦祝賀会が催されています。(中略) 料亭としての菜香亭は政治の場としての顔も持っています。政治家らが数多く 出入りし、とりわけ「佐藤派の根城」として有名でした。現在、北客間と呼ばれる 部屋は佐藤栄作元首相が好んで使用した部屋で、この部屋から眺める大広間の屋根瓦の 連なりと中庭は絶景だったそうです。その佐藤栄作首相のノーベル平和受賞祝賀会が 開かれたのもやはりここ、菜香亭でした。(後略)】 (リーフレット「山口市 菜香亭」より) 平成8年に料亭としての幕を閉じ、平成12年に保存運動が始まり、元の場所からここに移築されて現在は市民の交流の場として存続しているという。中に入ったら、人が少なかったせいか、お姉さんが菜香亭について少し説明をしてくれた。その後で、大内氏の企画展の部屋へ。タイトルは『山口の町の漆器展』。小部屋の一室だけの展示だったけど、貴重な品が並ぶ。撮影OKってことだったので、遠慮なく写真を撮ったけど、なるべくフラッシュはたかないようにしたので、ブレた写真が多い(笑)。でも例えば、こんなの。 【初瀬遺跡出土漆器椀 樹種はクリ。素地は横木取り。下地は不明。上塗りは内外面とも黒色漆を塗ったあとに 接地面~高台内を除いて、赤色漆を塗っている。一乗谷の朝倉氏遺跡の出土品に、 相当するものがある。高台内中央に、赤色漆で「明」と書かれている。】 (企画展解説より)この他にもいくつか塗りの椀があったけど、ここにある初瀬遺跡の出土品はすべて初公開とのこと。いや~、A様に教えてもらわなかったら、見逃すところだったな~ラッキー初瀬遺跡ってのは、 【ため池の初瀬堤が住宅地になるさいに発掘が行われた。室町時代後期の寺院関連 遺構が発見された遺跡。 当地区には大内盛見の女が開基した広徳院の記録があり、その寺の溝、塀、門、 門内外の建物5棟とおもわれる(※史料に記載のない寺の可能性もある。)遺跡の 大半は16世紀のものであった。大永4年と書かれた笹塔婆、理超と墨書された土師皿、 京都系の厚手の土師皿、「町野内安三河守」と書かれた木札が出土している。】 (企画展解説より)とのこと。ほう、盛見の娘か・・・何しろ、大内さんちのろくな知識もないままに、勢いだけで来ちゃってるからな~。これからちゃんと勉強しないとな~・・・その他、大内義興さんが足利義尹(よしただ。のちの義稙)を山口に迎えて、義尹をもてなしたという料理を再現したものがレシピ付きで展示されてた。 これは過去の菜香亭での企画展でのものだそうで、「パンフレットとか残ってたら、有料でいいから是非分けて頂きたいんですけど・・・」ってダメ元でお姉さんに聞いてみたら、探しに行ってくれた。しばらくして戻ってきたお姉さんが渡してくれたのは、一冊のパンフレット。狂喜しながら「あの、お代は・・・」って聞いてみたら 「貴女のように喜んでくれる方に持っていただいた方がいいので、構いません」って言ってくれた。山口の人は、ホントにいい人だ~。この時のお姉さんが天女様のように見えたのは、言うまでもない(笑)。 もらったパンフレットの表紙には、「明応九年三月五日将軍御成献立」とある。あ、やっぱりそうだ、アレだ。これについて、以前に少し読んだことがある。まず「御成(おなり)」ってのは、宮家や五摂家、将軍家が家臣の家を訪問することをいう。御成の中でも、特に正月二日に行われる将軍の管領邸への御成は主従関係を確認する大切な儀式だった。また、管領邸以外に有力な守護大名への御成も一月中に行われていたので、実際には結構な頻度で御成があったらしい。ちなみに、足利4代将軍・義持は35回も御成を行なった年があるんだと(笑)。足利義尹については別のところで書きますが、正確にはこの時、将軍じゃなくて「元」将軍だった。将軍じゃないから「御成」とは言わないはずなんだけど、義興さんは将軍として遇したってことだよな。実際の饗応の中身も、御成と呼ぶにふさわしい豪華なもの。ちょっとここで前置きが入りますが、今に残る日本の伝統文化ってのは、室町時代に確立されたものが多い。料理については、平安時代の饗宴の料理「饗応膳料理」を取り入れた「式正料理(本膳料理)」が成立し、食べ方はもちろんのこと、配膳や素材の切り方などの作法も確立した。このおもてなし料理である式正料理は、まず肴3品と酒を乗せた膳を3回に分け、計9杯の酒を勧める「式三献」から始まる。肴が3品載ったひとつの膳を「献(こん)」といい、一献ごとに盃に酒が3回注がれる。これを3回繰り返すので、三献(さんこん)。酒は3杯×3回で9杯・・・そう、これは三三九度のルーツでもあります。合戦に先立って大将が行う大切な儀式、「三献の儀」もここから来てるんだろうな。式正料理は、正式な儀式の料理だから。「式三献」の後、3回・5回・7回もしくはそれ以上に分けて主菜・副菜がそれぞれ膳に載せて運ばれる。ひとつの膳には、3~7品。さらにスイーツが付く。じゃ、ホスト・義興さんが元将軍のために用意した饗応の宴は・・・と思ったら、そろそろ日記の文字数が限度に近くなったので、次回をお楽しみに(笑)。にほんブログ村
2012年07月23日

香山公園から東へ。一の坂川を越えて住宅地を抜けていくと、地味に次のスポットへの入り口が現れる(場所はこちら)。 上がったところには、これ。 【雲谷庵跡 ここは、室町時代の画聖雪舟のアトリエ「雲谷庵」の跡です。 雪舟は、1420年に備中の赤浜(現在の岡山県総社市)の生まれで、若くして僧籍に 入り、後に京都にでて、禅を学ぶかたわら絵を学んだ。 雪舟は40才頃にはすでに第一流の画家として名声も高く、さらに大きい希望をもって 絵を勉強するために当時中国・朝鮮から新しい文化が入ってきていた山口に住むように なりました。 その後、応仁元年(1467)に遣明船に乗って中国に渡り3年間中国に滞在しました。 日本へ帰った後も山口に住み、アトリエ「天開図画楼」を開いて画禅一致の生活を しました。雪舟67才の時生涯最大の力作国宝「四季山水図」も此処で描いたものです。 雪舟の没年や場所には諸説がありますが、永正3年(1506)87才の時この雲谷庵で 没したといわれています。 雪舟死後庵は荒廃しましたが、大内氏の跡をついだ毛利氏が雪舟画脈の廃絶を惜しみ 雲谷宗家にこの地を与えましたが、明治になって廃絶しました。そこで郷土史家の 近藤清石等が中心になって有志と図り、明治17年(1884)に大内時代の古材を集めて 一宇を再建しました。現在の庵がそれです。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)画聖・雪舟(1420-1506?)は、華やかな大内文化を彩った数々の文人墨客の中でも、まずトップに紹介されてきます。絵画の世界はほとんど知らないけど、雪舟さんレベルになると「なんでも鑑定団」などで名前が出てくるので(笑)、すごい経歴の有名な人なんだと思ってた。ところが、画聖も結構苦労してるみたいだね。京では相国寺に入り、約20年ここで修行。当然の事ながら本業は坊様な訳ですが、僧侶としての相国寺での立場は「知客(しかく)」という接待役で、寺内では低い位置にあったそうな。その頃の日本の画檀は、宋や元など古い中国の絵画の模倣にとどまっていたため、直接明で本場の山水画を学びたいと思うようになった雪舟さんは、1457年頃に山口入りしたと考えられているらしい。当時の遣明船は明側から色々と規制を受けていて、「十年一貢」もそのひとつだった。遣明船は「勘合貿易」ともいわれるけど、いちおう日本が明に朝貢する形式になっていたため、盟主・明からは「ちょこちょこ来んな!10年に1回以上は来ちゃダメだからね~!!」って言われてたらしい。どうも古い時代の遣明船は、朝貢に伴って行われる貿易での利益に味をしめた日本側が、頻繁に使節を送ってたみたいでね。受け入れる側の明の負担もバカにならないから、こんな風に規制されるようになっちゃったみたいなんだけど前回から遣明船に参加した大内さんのところにいれば、次のお船で明に渡れるかもしれない!とヤマを張った雪舟さんは山口で暮らすことおよそ10年。そして、上の解説の通り、応仁元年の船にめでたく乗って渡海を果たした。ここまでの山口での10年の期間は、雲谷庵で暮らした訳ではないみたい。明に入った雪舟さんは、日がな1日絵を描いてた訳じゃない。本業の修行のために、寧波・天童山景徳禅寺に入って頑張った結果、第一座(首座-しゅそ-)に登りつめた。これは、かつて中国に入って修行した禅の先人・栄西(臨済宗)や道元(曹洞宗)でさえも得られなかったステータスであるという。しかし、そんな社会的栄誉を携えて帰国した雪舟さんに対し、古巣である相国寺や京ではあくまで元の身分「知客」としてしか扱わなかったという・・・帰国した雪舟さんは、約15年間、美濃・越中などの東国をはじめ、北九州などを各地を遍歴した。ふたたび山口へ戻ったのは、65才(1485)の頃。時の大内家当主・政弘さんが漂泊の身の雪舟をあわれんで雲谷庵を与えたと、了庵桂悟(りょうあんけいご)が書き残している。以後は雲谷庵にこもって、絵に専念した。この頃の大内氏は、応仁の乱で西軍の主軸として畿内を転戦していた当主・政弘も帰国し、領国経営に力を注いでいた時期にあたる。朝鮮との交易も活発で、連歌師・宗祇もこの時期に何度か山口を訪れていた。大内家の歴史を花に例えれば、大きなつぼみが6~7分くらいまで開いたってところかな。そんな大内氏の安定した時代に、当主・政弘から生活の保護を受けて製作に打ち込んだ雪舟さんは、彼の作品の中で国宝に指定されている6点をはじめ、重要な絵画のほとんどを、ここ雲谷庵で生み出したという。さて、雲谷庵の中はこんな。 上の解説にもあるように、これは復興された建物です。再建に尽力した近藤清石(きよし)さんは、萩藩で佑筆をつとめ、古記録などを調査した経歴を生かし「防長風土誌」「大内氏実録」などを著した郷土史家。大内時代の古材って、どうやって集めたんだろう・・・?雪舟さんが絵を描く時は、酒を飲み~の尺八を吹き~の詩歌を吟じ~ののながら尽くしで、ガーーーッッ!!と絵を仕上げたって江戸時代に狩野永納が伝えている。禅僧っつっても、やっぱり豪快なアーティストなんだなあ(笑)。雲谷庵の扉には、出入り自由だけど、猫が入るからちゃんと閉めてねって貼り紙があったので素直に閉めた。・・・したら、上の写真の次の間への扉も閉まってて当然電球などはないので、次の扉を開けるまで真っ暗になっちゃった。いくら静かに史跡を楽しみたいとは言っても、ここ、山のふもとで全然人も来ないし、悪い人や獣や霊に襲われても誰も助けに来てくれないよな~とちょっと怖くなって、写真を撮ってすぐに外に出た雲谷庵の縁側に座って、おやつを食べながら静かな時間を楽しむ。明るいところなら、別に怖さも感じなかったし(←単純)。今日寄るところは、あとひとつ。朝はどうなる事かと思ったけど、もう完全に雨も上がったし、それなりに予定をこなせて良かったな~まったりしてたら、おじさんがやって来た。ので、庭の一角にある小高いところから五重塔か何かが見えるって事だったので、そこに立とうとした・・・けど、見事な蜘蛛の巣がかかってたので、やめた。クモ、大っ嫌いなんだもん。で、雲谷庵を後にして南へ。後から知ったんだけど、雲谷庵はデートスポットに選ばれているらしい。大内義興さんの眠る凌雲寺跡もデートスポットとして紹介されてるし、ちょっとこの感性、よくわからない・・・まあ、史跡に多くの人が足を運ぶのはいい事だとは思うけどさ・・・↓ランキング参加ちうですの。にほんブログ村
2012年07月22日

池の右側には、こんなのもある。 【杓底一残水(しゃくていいちさんすい)=杓の底に残ったわずかな水= 柄杓に水を汲み取り、使った後、杓の底に残ったわずかな水でも、元に戻すという行為 それは一杓の水も決して粗末には扱わないという宗風をよく表しています。 たかが水一杯でも大切にする心こそ、佛心です。常に水を大切に、そして物を 大切にすることが肝心なのです。 合掌】 (石碑より)その先には、お地蔵様もおわす。 【身切り地蔵の由来(身代り地蔵) 此の地蔵様は三百年の昔よりすべての悪い因縁・病気・縁談・不幸等に見切りを 付けたいと願う人々のために身代りとなって下さる霊験あきらかな地蔵様で あります。 御覧のように身体を二ヶ所横に切ってお救い下さるので身切り地蔵と申して居ります。】身切り地蔵様の写真は撮ってません。悪いものを断ち切ろうとする人々の念のこもった300年ものを写真に収めるのはいかがなものかと思ったもので・・・幸い今のところは、お地蔵様に身を切ってもらうほどの悪縁はないので見るだけにしたけど、何かでお困りの方は瑠璃光寺へどうぞ。この他にも、仏足石とか色々あったんだけど、この辺で挫折したんだな。だって、なかなか奥へ進めないんだも~んとは言いつつも、奥のお堂にある蛙股はこんなの↓だったので、なかなかカメラを手放せず・・・ わ~お・・・頭の上が盛り上がってるから、仏様かな?結構、インパクトあるよね。インパクトと言うなら、こちら↓もなかなか。 【人間の生老病死の苦しみをお救い給う瑠璃光如来 県下一大きい杓子(しゃもじ)と擂粉木(すりこぎ) ここ瑠璃光寺のご本尊はお薬師様で一名瑠璃光如来と申します。これは一信者が 平素のご加護を感謝して奉納したものです。】 (現地解説板より)瑠璃光如来?と立ち止まった方もおられるでしょうか。薬師如来様は、薬師瑠璃光如来様ともいい、如来と仏はまあ同義語なので(たぶん)、仏様です。前回の記事で阿弥陀様のことを書きましたが、薬師如来様も仏様なので、ご自分の領国(=浄土)を持っておられます。それが、瑠璃光浄土。浄土の名を冠したここ瑠璃光寺は、いくつか紹介したように救いのためのアイテムなども色々置かれていて、現世に現れた浄土と呼ぶにふさわしい・・・な~んて思ったりもした。でもまあ、瑠璃光寺そのものの歴史を見るに、寺名は陶弘房の戒名から来てるみたいだけどね。まだ他にも色々あるんだけど、資料館を早く見たかったのでこの辺で境内は打ち止めにして、すぐ隣にある資料館へ。この資料館は五重塔のあれこれを紹介していて、五重塔のことならほぼここで知ることができます、なんてことだったので、すごく楽しみにしてたんだ~。大きくはない建物だけど、中にはなんと全国にある55基の五重塔の模型がずら~と並んでる。撮影禁止ではなかったけど、55基全部の写真を撮ってたら先へ進めないので、今回はガマンした。ただ、瑠璃光寺五重塔の細かい図面だとか、沢山ある解説とかはバシバシ撮った。解説のひとつ、『国宝 瑠璃光寺五重塔の見方』にはタイトルの通り、色んな説明が書いてあるんだけど、その中にこんな文が・・・ 【塔を建てた大内盛見の本当の墓は福岡県粕屋町の泉蔵寺にあります。】ぎゃあああ、マジでえ~!あっちが本墓なんですかあ~!!行かなきゃ・・・大内さんちは九州北部とも縁が深いから、いずれ行く気ではいたけどさ・・・展示物の中には、ひとつの巻斗(まきと。屋根を支える組物の部材の一つ)があった。これは大正4年の五重塔解体修理の際に、五層目の北側の組物の中から見つかったもので、 嘉吉二年二月六日、此のふでぬし廿七、年みつえいぬと書かれている。これを納めた箱のふたには 【瑠璃光寺塔大修理ハ大正四年二月二日着手シ 翌五年七月竣工ス 而シテ該塔ハ 建設記録ノ確然タルモノ無之為メ 建設年号詳ナラザルニ 修理解体ノ結果 五層目ノ斗?ノ内ニ 建設年号ヲ記シタル桝ヲ発見ス 即チ是ナリ 依テ?ニ概要ヲ記ス】と裏書されている。つまり、この大正の大修理の時までは、五重塔の建築年代を明らかにする文献だとかの確実な史料がなかったってことじゃな。だからこれは、大発見だった訳さ。ところで、重要な史料となった、巻斗に書かれた文ってなんか変でしょ?どうやらこの文は、当時建築に携わった大工さんの落書きらしいんだよねイチ大工が出来心で書いたイタズラ書きが、塔の成立を明らかにする貴重な史料となるなんて、歴史の妙だよな~。ガラスケースに入った全国の五重塔のミニチュアが並ぶさまはまさに壮観だったけど、中にはこんな塔もあった。 アハハハ、面白~いこんなの、よく考えるよな~。私が中にいる間、他に一人か二人しか来なかった。ので、静かな中で内部を堪能して・・・まあ、本腰入れて堪能しようと思ったら、私の場合余裕で半日はかかるけどね(笑)。資料館の売店コーナーには、いろんな種類の小冊子が置かれていた。ここで相当買ったな。昨日行った歴史民俗資料館の過去の企画展『毛利元就』の薄い図録なんかもあって、そんなのまで買った(笑)。ここで思いがけず貴重なお品をゲット。それがこれ。 瑠璃光寺五重塔の屋根に葺かれていた、檜皮(ひわだ)!!平成10年の葺き替えの際に出た檜皮が売られてたの~面白いっしょ当然、数量に限りのある限定品だしね。そんなでこまごまと沢山買ったら、おじさんはサービスしてくれた。山口の人はいい人だ(←単純)。さて、これで香山公園内は終わり。公園内にはほかに、幕末の史跡もあるんだけど、今回は大内さんの旅だし、次に行くところもあるし。公園の出口には、画聖・雪舟さんがいた。 雪舟さんも山口と縁の深い人なんだけど、それはこの後で。公園を出て、近くのお店で少し遅い昼食。 山口にいて、なんで神戸名物「そばめし」を食ってるのかは自分でもわかりませぬ。暑さで消耗したので、ケーキまで食べてしっかり腹ごしらえ。ここの近くのお土産やさんで必要な土産を買って、配送の手配も済ませたのでひと安心 さっ、次行こ、次!!にほんブログ村
2012年07月20日

いやいや、長々と五重塔の歴史ばっかり書いちゃって、すんませんでした~これだけの歴史がある塔だし、私の好きな盛見が建てた塔だし、例によってここにも立ちつくして、雨の中しげしげと見ていた訳ですが・・・ 下から初重を見上げると、確かに軒の出が深い。組み物は、二手先(ふたてさき)かな?よくこれで、屋根を支えられるな・・・近くで見たいのはヤマヤマだけど、そうするとてっぺんまで見えない。裏側の少し離れたところならいくらか全体が見えるけど、そうすると細部がよく見えない。うう~ん・・・ジレンマ・・・三重塔と五重塔なら、五重塔の方が雰囲気的にカッコいい感じだけど、間近で建築を見るなら、三重塔の方がいい感じだな~なんて前月の三井寺の三重塔を思い浮かべながら考えた。首も疲れるし。単眼鏡、持ってくればよかったな・・・扉は開いていて、格子越しに中が見える。内部にあるのは、円形の須弥壇。こういったスタイルのものは珍しいんだそうな。この須弥壇の上には、かつて義弘の位牌と阿弥陀如来様の木像が安置されていた。義弘の木像も内部に祀られていたらしいが、これは現在洞春寺の預かりとなっている。また、瑠璃光寺の資料館で買った冊子によると、像の後方三方は経蔵になっていて、それに一切経2,500冊が納められていたという。覗いた限りではわからなかったような・・・ひとしきり眺めて、お参りもした後で瑠璃光寺の境内へ。門の手前にも何かある。 【瑠璃光寺 鎮守石殿 瑠璃光寺は古く吉敷郡仁保の地にありましたが、江戸時代元禄3年(1690)に この地に移ってきました。この石殿は瑠璃光寺が仁保にあった頃、当山16世の 重堂専宗大和尚が、寺の鎮守として慶安3年(1650)に造立したもので、 そのことは刻銘によってわかります。 今まで仁保の旧地に残っていましたが、このたび瑠璃光寺の鎮守として此処に移し 祀った次第です。山口県には江戸時代初期の年号のある石殿は少なく、これは 貴重な石造文化財と言えます。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)石殿?ってなに?花が供えてあるから、こちらが正面かと思ったんだけど、もしかして反対側に扉でも付いてたのかな・・・この石殿の向こう側にかき氷とか飲み物を売ってる売店があって、「冷やし甘酒」なるものがあったので、チャレンジしてみた。山門の入り口には床几があって、そこでお待ちくださいと言われ、しばらくしてからおじさんが運んできてくれた。この時も、さりげなくおじさんに優しくしてもらったんだよなあ、私。山口の人はいい人だ。 初めて飲んだけど、やっぱり甘酒だった。でも冷たいのも美味しかったよ山門の蛙股も綺麗だったんだけど、写りがイマイチ・・・↓これは、猿かな? さて、中へ。境内はそんなに広くはないんだけど、入ってすぐのところにはなんか色々ある。まず右手に石造りの五重塔。義弘の五重塔のミニチュア版だ。アハハ・・・ その奥には鐘楼。 これには回廊が付いてる。境内図をよく見てみると、なんか通れるみたい・・・鐘楼門なのかな?今度行ったら、よく見てみよう(←五重塔を見てすでに終わった気になってたヒト)。 前方には放生池という池が広がってて、【放生池は慈悲をあらわす】と書いてある。あ、亀ちゃんが憩ってる・・・ 池にかかる橋には、閻魔様がおわす。 【後生車(ごしょうぐるま) 生前の罪過を懺悔し、世の為、人の為、善行を尽くすことを約束し「後生ですから、 ”極楽浄土”の道へお導き下さい」と「南無釈迦牟尼佛・南無釈迦牟尼佛・南無釈迦 牟尼佛」と唱えながら、後生車を回し、閻魔大王にお願いして下さい。一回回す毎に 罪過が浄化されると言われます。この懺悔善行が、できるお方は、「極楽行き切符 (お守り)」をどうぞ。(資料館売店にて) 合掌】 (石碑より)善行・・・うわ~、これはハードル高い(笑)。善行は難しいのでしばし躊躇しましたが、とりあえず回しました。ゴロゴロと。結構重かったッス。山ほどある、罪過の重さでしょうか・・・でもさ、最近ちょっと鎌倉新仏教の歴史をかいつまんで勉強したんだけど、今の宗教にうとい日本人一般には浄土といえば「極楽浄土」がオンリーワンみたいに思われてるけど、実は仏(悟りを開いた人)の数だけ浄土があるってことみたい。その中で、阿弥陀如来様の浄土を「極楽浄土」と呼ぶ。法蔵菩薩が悟りを開く前、48もの誓願を立てた。誓願って、まあ今でいうマニフェストみたいな感じ。で、48のうちの18番目の誓願が、「阿弥陀仏を信じる者は、浄土に生まれ変わるために10回念仏すればヨシ!」というもの。念仏はもちろん、「南無阿弥陀仏」ですよ。仏様は色々おられるけど、阿弥陀様以外は浄土に行く具体的な方法を明示してくれてないし、何しろ10回念仏すればいいという手軽さ。これが広く民衆にウケて、阿弥陀様が何たるものか知らない現代人でも、「ナムアミダブツ」の念仏は知ってるという驚異的な浸透力(笑)。前シリーズの大津編を読んで下さった方は、平等院での源頼政の最期を思い出してほしいんですが、頼政は自刃する前に、西を向いて念仏を10回唱えた。阿弥陀様の極楽浄土は西にあるからそちらを向いたわけで、つまり頼政は阿弥陀様のお力により、極楽浄土へ生まれ変わったことになります。ちなみに我が家は浄土宗、そして私個人の守り本尊も阿弥陀様、とご縁がアリアリなので、念仏を10回唱えて極楽浄土への切符をゲットして、あちらで頼政に会うつもりでおります その前に、閻魔様のキビシイお裁きが待ってるかもしれないけど・・・でも、後生車も回したしな・・・「南無」は「帰依する」の意味で、「南無阿弥陀仏」と言えば「阿弥陀様に帰依します」ってカミングアウトしてるような感じかな。でも今の瑠璃光寺は曹洞宗だから、後生車を回す時にはなんまいだ~じゃなくて「南無釈迦尼仏」と唱える。厳密に言うと、「お釈迦様に帰依します」と唱えて極楽浄土に行ける訳じゃないと思うんだけど(お釈迦様の国土は霊山浄土、あるいは無勝荘厳国)、特定の宗教を持たない一般の日本人には浄土=極楽って図式が出来上がっちゃってるから、読んだ人に単純に理解してもらうにはこういう解説にならざるを得ないんでしょうね。ああ、宗教ってムズカシイ・・・にほんブログ村
2012年07月19日

さて、現在の香山公園の第1ステップ・香積寺と義弘については大体前回書いた通りなので、今回はその続きを。簡単な歴史が解説板に書いてあったので、まずはそちらをご覧ください。 【大本山 永平寺(福井) 曹洞宗保寧山瑠璃光寺 總持寺(横浜) 瑠璃光寺は、陶弘房の菩提寺で、本尊は陶弘房念持佛の薬師如来である。 陶氏は大内家筆頭家老で、代々周防国の守護代をつとめた名門の家柄である。 この寺は文明3年(1471)山口市の奥地仁保の地に創建されたものです。 当寺は中国三山の一つと言われ、長門の大寧寺、周防の龍文寺と共に江戸末期迄、 西日本の僧録司(そうろくす。禅寺の統括、人事)の責務を果たした名古刹で 修行僧も沢山いた。また代々名僧を輩出し、九州佐賀藩主の菩提寺高傳寺を初めとして 県内外に30余ヶ寺の末寺を有していた。 この地には大内義弘の菩提寺香積寺があったが解体されて、萩に移ったため、 その跡地に元禄3年瑠璃光寺が移り今日に至り、日本一古い正法眼蔵や各種の寺宝を 残している。 本堂の前には大きな「杓子(しゃもじ)」「?木(すりこぎ)」があるが、これは 「我が身を摩り減らし、人を救う」という佛心を象徴するものである。また出雲の 一畑薬師(目の佛様)、山口分院、四国の金毘羅様(道中安全)と我が身を切って その人の身代りとなられる身切地蔵様等がある。】唐突に陶(すえ)氏の話から始まってますが、陶氏は大内家の分家。代々大内家への忠誠は篤かったのに、この陶さんちで一番有名なのが陶隆房(のちの晴賢)なんだから、何たる運命の皮肉・・・んで、陶弘房さんてのは、隆房のひいじいちゃんにあたる方です。応仁元年(1467)、大内政弘に従って応仁の乱に参加した陶弘房は、激戦といわれた京都・相国寺の戦いにおいて討死を遂げる。残された妻・妙栄が夫の菩提を弔うために、現在の山口市中心部より北東の仁保・小高野に造ったのが安養寺。弘房25回忌の明応元年になって、弘房の次男が安養寺を廃してかわりに近くに新しい寺を建立。弘房の戒名(瑠璃光寺殿文月道周大禅定門)から瑠璃光寺と名付けた。たいてい、戒名と菩提寺って一致してるもんだけどね、安養寺ができたのは、弘房の死後数年経ってだからかなって気もするけど、ならなんで初めから寺名を「瑠璃光寺」としなかったのかな~とか素朴な疑問がわく(笑)。明応8年(1499)には火事で瑠璃光寺の伽藍が焼失してしまったため、山口の南東へ引っ越した。そして、次の引っ越し(元禄3年)までその地にあった。現在の瑠璃光寺には資料館もあって、そこでもらったリーフレットに記載の瑠璃光寺の沿革の中に、興味深い文章があった。 【(前略)天正14年(1586)吉川元春が小倉で逝去したとき、瑠璃光寺の華翁和尚が その導師となり、この寺を位牌所とし、海翁正恵大居士の法号により、寺号を 海翁寺と改めた。しかし瑠璃光寺は中国地方に門末170ヵ所ある名刹であったので、 吉川家に乞い、もとの瑠璃光寺に復した。(後略)】ほっほっ、元春ちゃん!!じゃあ、もしここで言いたいことをぐっとこらえてガマンしてたら、今頃この国宝は「瑠璃光寺五重塔」じゃなくて「海翁寺五重塔」って呼ばれてたかもしれないんだ~!!ちょっと面白い・・・てか、一旦は海翁寺と呼ばれたんなら、元春ちゃんの墓のある海応寺(跡)も、もしかして瑠璃光寺の末寺のひとつだったのかな~?なんて思ったりもした。いや、単に名称が似てるからふと思っただけ・・・さて一方の香積寺。関ヶ原後に萩を本拠とすることが決められてから、山口からたくさんのモノが萩へと運ばれた。香積寺もその例に漏れず、解体されて用材として移送された。五重塔も一緒に壊されるところだったが、ここで山口の町民が立ちあがった。「五重塔破壊、はんたーい!!」「山口から五重塔を奪うなー!!」と筵旗を立てて激しいデモを行った。この時、町民が町奉行に出した嘆願書の写しが今も残っていて、瑠璃光寺の資料館で見られる。 【御願上候 此度天花香積寺萩表ヘ引移相成儀ニ付 五重塔ノ儀ハ大内義弘公之御墓所之印ト 申伝承候間 右塔之儀ハ其侭御残可被下山口触次中ヨリ御願申出候 宜敷御聞召被御沙汰可被下候以上 山口 町管中 元和元年辰六月】この決死の嘆願に対し、御取次役・榎本中太郎氏は 願之通リ可差置候と回答をしている。う~ん、この頃のデモに対する標準的な処遇とかは知らないけど、結構勇気のいる事だったんじゃないのかね。それでなくても、関ヶ原で輝元が舵取りを失敗してからは転落の一途で、毛利家には精神的にも経済的にも余裕なんか全然なかった頃だろうと思うのに、よく譲歩したよな~。それだけ、デモ隊が鬼気迫る様相だったのか、はたまた長らく大内氏の本拠地だっただけに、こじらすと色々と厄介だと思って早々に折れたのか・・・なんにしても、ここでも大内家への愛着と「西の京」のプライドがいかんなく発揮されて、五重塔は破壊を免れた。・・・・免れたのはいいんだけど、周りの伽藍はそっくり萩へ行っちゃった。ただ、五重塔以外の全部が萩へ行った訳ではなく、金堂は安国寺恵瓊(えけい)が広島の不動院へ持ってった。こちらは今も広島に現存し、国宝になってます。金堂は義弘の創建とは時期を異にし、義隆が父・義興の13回忌に建てたものとされている。廃墟と化した香積寺の跡地には、五重塔だけがひとりぽつねんと建っていた。元禄3年(1690)に瑠璃光寺が引っ越して来るまでは。そうして、大内氏が建てた塔を陶氏の寺が守るという一種感慨深い状況になってから現在までが約320年。昭和38年に山口国体が開かれた際には、塔の付近も整備され、前面に池などが造られて景観が整えられた。 あっ、遅ればせですが、こちら、京都・醍醐寺、奈良・法隆寺の塔と並び、日本三名塔といわれております。塔の優劣なんかは素人にはわかりっこござんせんが、「大内文化の最高傑作」とまで称されます。 観光都市としてはちょっとマイナーな山口市ですが、山口を訪れた観光客は、まずこの美しい塔を見に来るといっても過言ではないでしょう。なんたって、国宝だし。「日本三名塔?へえ~」で軽く終わらせちゃってもいいけど、そこに秘められた数々の歴史を知れば、見た時の感慨もまた味わい深いものになるのではないでしょうか・・・なんか、毛利家が憎まれ役みたいになっちゃってるけど、誤解のないよう申し添えておきますと、現実的に塔を保護してきたのは毛利家ですよ。万治4年(1661)、長州第2代藩主・毛利綱広(輝元の孫)が、柱は朽ちて雨漏りのする五重塔を見て、大檀那となり、浄財を集めて大掛かりな修理を行った。以後は大体平均して25~30年くらいの間隔で、屋根の葺き替えだとかを定期的に行ってる。570年もほったらかしで木造建築が残る訳ないもんね。直近での修理は、平成10年。前々回、昭和56年の時は屋根の葺き替えに2,990万かかったそうな。維持管理も大変だね~。↓ランキング参加なう。にほんブログ村
2012年07月18日

ひろよんにご挨拶を済ませてから、瑠璃光寺の門前を一旦通過してまずこれを見に行く。 ちょっと雨に煙っちゃってて、ごめんあそばせ。 また降りだしてきちゃったんだよね~。いろんな角度からバシバシ写真を撮ったんだけど、ほとんどの写真に雨粒が写りこんじゃってて、ろくな写真ない・・・いや、そんなことより、こちらが山口が世界に誇る「瑠璃光寺五重塔」ですよ~!! 【国指定 建造物 国宝 瑠璃光寺五重塔 この塔は、嘉吉2年(1442)に建立されたもので、室町時代中期におけるすぐれた 建築の一つであるとともに大内氏隆盛時の文化を示す遺構として意義深いものである。 高さは31.2メートルで桧皮葺独特の軽快さを見せており、軒の出は深くなっている。 塔の身部は上層にゆくにつれて思い切って間をつめているので、塔の胴部が細く見えて すっきりした感じである。これに対して初重の丈が高く、柱が太く二重目には 縁勾欄があるので安定感が強い。 鎌倉時代から和様、禅宗様、大仏様建築様式が行われているが、この塔は、大体和様を 主体としていて、わずか一部に禅宗様の手法が見られる。室町時代のものとしては、 装飾の少ない雄健なものである。 この塔は大内義弘の菩提をとむらうため、その弟の盛見がこの地にあった香積寺の 境内に建立したものであるが、江戸時代の初めに香積寺は萩に移り、その跡に 瑠璃光寺が移ってきた。その後、「瑠璃光寺五重塔」と呼ばれている。】 (現地解説板より)え~・・・毛利氏が大内氏を滅ぼして(この表現には何かと異論もあるでしょうが、私はあえてこう書きます)以後、毛利氏は何気に山口の町に手を入れてますんでね、特に寺社なんかは命令されたら従うしかないですし~、そんな訳で山口の寺社には複雑な経歴を持つところが 少なくないです。ここも毛利氏がちょっと絡んでくる。まず、この地には大内家第25代当主・義弘(1356-1400)が自分の菩提寺として立てた香積寺(こうしゃくじ)があった。香積寺の創建年代は不明。義弘は九州探題・今川了俊に協力して九州平定に貢献し、豊前守護職を与えられた。父・ひろよんの死後、家督を継いだ義弘は周防・長門・石見守護も兼任し、都合4ヵ国の守護大名へ。時の将軍・足利義満への忠誠を誓い、各地を転戦。南北朝の合一にも尽力したという。また「六分の一殿」山名氏を「明徳の乱」で追い落とした際には、当主自ら体を張っての働きなども認められ、山名氏からぶん取った和泉・紀伊を与えられて6ヵ国の守護へと大躍進を遂げる。義満が出家した際には、お供して自分も剃髪してるんだよ。ちゃんと恭順の意を示してるの。しかし、義満との甘い関係にもやがて破綻の時が来る。将軍権力の強化を目指す義満が今川了俊の九州探題の任を解いた後(この解任劇自体、義弘が仕組んだという説もある)、義弘は残念ながら探題にはなれなかったけど、応永2年(1395)には朝鮮に使節を送り、交易をスタートさせた。前の記事で、義弘の父・ひろよんが京で海外ブランド品などをばらまいたと書いたけど、当時はまだ交易のスタートする前。て事は、正規のルートで手に入れたものじゃなかった可能性がある。「鏡よ鏡よ鏡さん、正規のルートじゃないなら、なんなの?」「お妃様、それは倭寇ってやつじゃあねえですかい」・・・・・・・・・。当時、朝鮮や明にとっては、倭寇はかなり頭の痛い問題だったらしくてね。両国から幕府へ倭寇の鎮圧要請も来てたけど、大内氏は倭寇への影響力が大きいと認識されていたため、朝鮮から個別に使者が訪れたりもした。その期待に応え、倭寇の討伐にあたって朝鮮の信頼を得た義弘は朝鮮との交易を開始させることに成功する。「ウチの御先祖様は、百済の王子なんですよお~」って義弘が言い始めるのも、この頃。その話を信じたかどうかはわからないけど、信頼の他に、もしかしたら遠い親戚かもなんて言い出す大内さんに、朝鮮王朝は親近感を持っていたふしがある。そんな独自の交易ルートを切り開いた大内氏が、ちょうど港として栄え始めた堺を擁する和泉の守護になった。したら、どうなる?すでに赤間ヶ関(関門海峡)は押さえてる。瀬戸内の海上ルートを掌握した大内氏の朝鮮貿易は順調に発展し、大内氏の経済力も増していった。着々と勢力を伸ばす大内氏は、義満からすれば「俺様だけが、絶対者として君臨するのじゃ~!」って権力的側面と、「対明貿易って儲かるみたいだね・・・・朝鮮と信頼関係を築いて交易してる義弘、ちょっと目ざわりライバルは早いとこ潰すに限るぜ~!!」って経済面の両面から邪魔者扱いされ、次のスケープゴートとなるに至った。この後の流れについては後日に譲るとしますが、結論だけ言っちゃうと、義弘は幕府軍に敗れ、堺で壮絶な討死を遂げました。そんな悲劇のヒーローの兄を弔うために盛見が香積寺内に着工したのが、五重塔。塔はもともと、お釈迦様の土饅頭から発展して卒塔婆・塔へとなったもので、お釈迦様の骨を安置するものだった。その意味から考えると、この五重塔そのものが義弘の墓といってもいいのかもしれない。盛見が工事に着手した年月日はわかっていないが、完成したのが嘉吉2年。工事の依頼主・盛見は筑前で討死してすでにこの世の人でなく、盛見の後を継いだ持世がまた運の悪い人で、赤松満佑が足利6代将軍・義教を弑逆した「嘉吉の乱」で巻き添え食って重傷を負い、後日死亡。大内家当主は、盛見の子の教弘の代になっていた。(系図を見たい方は、「山口編(4)」へどうぞ)足かけ3代、義弘のためのデカイ墓碑はこうして完成をみた。墓もいちおう、別にあります。いくつか。私、堺で亡くなってるから、堺のが本墓かと思ってたんだよね。でも、『大内氏實録』には香積寺で葬儀が行われたとあり、『防長風土注進案』には 【義弘朝臣石屏和尚の墳塋瑠璃光寺方丈の後山にあり、年を経るまま五輪もいつしか 崩れ倒るともこれを起こす人もなし、義弘朝臣は泉州堺の津に戦死ありしかも その墳塋は香積寺に築きしなるべし】てあるので、ここに葬られたのかもしれない・・・といっても、瑠璃光寺の墓はわからなくなってるみたいだけど供養塔は瑠璃光寺にあるって何かで見た気がするけど、今回の旅ではわからなかったにゃ。にほんブログ村
2012年07月17日

毛利家墓所から奥へ行く途中には、忠魂碑があった。 忠魂碑は、生きてる人達の思いの詰まった場所。亡くなった方と、生き残った方々への敬意を込めて手を合わせてから先へ進む。この先では、次のスポットが私を待っているのだそれが、瑠璃光寺(場所はこちら)。寺の入り口にはこの方。 山口の町を開いたと言われ、「山口中興の祖」とも呼ばれる大内家第24代当主、弘世(ひろよ)さんで~す 「大津編(17)」にちょろりと書いたように、大内氏は百済の王子・琳聖(りんしょう)太子の子孫を自称した。琳聖太子が来日して、周防国多々良浜に上陸したことから本姓を「多々良」とし、後に大内村に引っ越したことから大内を名字にしたという。なので、歴代当主の正式な文書には「多々良朝臣」と署名されている。出自における伝説の真偽は不明だが、文献上で確認できる大内氏は周防国衙(現在の防府市)に勤める在庁官人であったらしい。国衙(こくが)ってのは、朝廷が中央集権的な国づくりを進める中で、国司という役人を都から派遣して地方を治め、国司が政務を執った役所を国衙、国衙のある地域を国府といったもの。2000年の発掘調査で、周防国衙から「達良君(たたらのきみ)」と書かれた木簡が出土。8世紀頃のものと推定され、これが文献で確認できる大内氏の最古の記録。余談だけど、「防府(ほうふ)」の地名は、周防の「防」と国府の「府」からきてるんだってね。今でいう地方公務員だった大内さんちは、もとは現在の山口市中心部よりもう少し東南の大内村に代々住んでいた。国衙への通勤に良かったみたいでね。さて、南北朝時代に登場するのが、ひろよん(弘世)。最初はパパと一緒に北朝についてたが、後に南朝に転じて周防守護を授かった。家督を継いで、長門守護であった厚東(ことう)氏を倒してからは、長門守護にもなった。防長2国の守護となったひろよんは、それまでの大内村から山口に本拠を移したといわれる。地方公務員から守護大名への華麗なる転身・・・くわえて、栄転にあわせてのお引っ越し。もう、あくせく通勤する必要もないんだもんね引っ越しの時期だとか、当初の町づくりに関してはあまりはっきりとはわかってないんだけど、今のところは延文5年(1360)頃とされている。この延文5年ってのは、「山口古図」という絵図にそう書いてある事から持ってきてる。「山口古図」は、江戸時代に作成されたと思われる原図を明治時代に模写した絵図なんだけど、これ以外に町の成立を記した文献が見つかっていないのでとりあえずこれを信じるしかないよね~というのが現状らしい。 (山口古図)「山口古図」の原本は山口文書館の所蔵だけど、これの復刻版が売られていたので迷わず買ったものが上の写真。この左隅に色々文章が書きこんであるんだけど、字が読めない部分もある。けどまあ、京にならって町割りをしたとか、四神相応の地だとか、京の古例にならって東西南北の山麓に法華経を埋めて鎮護を祈ったとか、てカンジのことが書いてある。で、その後、防長守護の安堵を条件にふたたび北朝に戻ったひろよんは石見守護にも任じられるが、後年、安芸の毛利氏にちょっかい出して石見守護職は剥奪される。大ざっぱに言ってこんな経歴のひろよんは、その後の大内氏繁栄の基礎を築いた方であります。この旅では、現地の古本屋さんとかには寄らなかったけど、お目当てのスポットに大内氏関連の資料とかがあればほとんど手当たり次第といってもいい位に買った。その中の一冊に、ひろよんのことを「山口のスーパースター」って書いてる本があってちょっと笑っちゃったんだけど、でも確かにひろよんの代で大内さんちは大きなターニングポイントを迎えることになった。そして、瑠璃光寺の前に立つひろよんが見つめる先は・・・・ ううん、これじゃわからんな。でも、馬に乗れば草むらの向こうに大内氏館跡が見えるハズ・・・大内さんちが移ってくる前の山口は、一の坂川が造った扇状地の扇央部にあたり、荒い土砂が詰まってて水田や農耕などには適さない地で人の手が入らない未開の土地だったんだと。だから、先住民の生活を邪魔することなく新しい町を造り上げたんじゃないかと考えられ、その配慮は当時の他の武将には見られない大内氏の特徴であるという。京風の町づくりに関しては、「地形が京都に似ていることから京にならった」ともいわれるし、「そんなの全くのデタラメだ」とする人もいる。ただ、南朝から北朝に再度転じた翌年、ひろよんは大内氏歴代当主としては初めて上洛して、足利義詮(よしあきら・室町2代将軍)に拝謁している。この時の様子を、『太平記』は「数万貫の銭貨、新渡の唐物」を幕府要人から民衆まで大判振舞いして京での人気を得たとしているが、当時の武士は京へのあこがれが強く、その後の大内歴代の図抜けた京好きを見ても、やっぱりひろよんも相当好きだったんだろうな~って気はするよな。嫁さんも京からもらってるし。その他も、大路・小路など京の町を摸した通りを造ったり、祇園社や北野天神を京から勧請したり・・・『陰徳太平記』では、 ”道がぬかるんで車が通りにくいから、五里四方深さ五尺ばかりに 小石を埋め込んだ”とか ”一町ごとに京童を置いて、田舎言葉を正そうとした”とかってエピソードが書かれている。ま、これはあくまで伝説の域を出ませんが・・・ただ、ひとつ問題となるのが、大内氏館からの出土品に南北朝時代のものが発見されていないということ。今のところは15世紀以降のものばかりが見つかってて、南北朝の終結に大きな役割を果たしたのがひろよんの子・義弘だから、時期的に義弘までの山口での証跡が見つかっていない。なので、ひろよんと義弘は一体どこに住んでいたんだ?って話になってるらしい。今後の発掘調査に期待が持たれます。にほんブログ村
2012年07月16日

洞春寺でのお目当てをすべてゲットしたので、満足して本堂の方へ戻る。本堂の中は相変わらずの光景が繰り広げられてたので(笑)、外観だけ見てから次へ行こうかな・・・ 本堂は江戸時代の再建だっていうけど、でも古くて素敵本堂の瓦も「一文字三つ星」があふれてる。↓鬼瓦の上に乗ってるのもそうだし。 ↓本堂の入り口が重厚でまた素敵。しばらくここから離れられなかった。一人で上ばっかり見て写真撮りまくって、監視カメラがあったら(また)不審者に思われるカモ~ すごいよなあ、木造建築って、ほんとすごいよな~。 入り口の蛙股とかも素敵だったんだけど、綺麗に撮れてないのが残念でなりませぬ・・・ それで、↓これが入り口の懸魚。懸魚については、「大津編(22)」で簡単な解説をしてますので、知らない方はそちらを見てね。 懸魚の中でも、ここみたいな唐破風にくっつく懸魚は、特別に「兎毛通(うのけどおし)」と呼ぶ。どんな形の懸魚でも、み~んな兎毛通。懸魚の左右にヒラヒラとつく意匠を「鰭(ひれ)」っていうんだけど、ここの鰭は、龍・・・かな?見たことないな、こんなの・・・さて、これで洞春寺は終わり。お次はすぐ近くのはずだけど、イマイチ道がわからない・・・洞春寺を出たすぐのところに案内板があったので、それに従って進む。洞春寺のお隣一帯に広がるのが、香山公園。ここには大内さん時代から幕末までの史跡が色々あるんだけど、洞春寺側から入るとまず手前にあるのは、毛利家墓所。でも、その手前に小道があって、なんか奥にある・・・ 【勅撰銅碑 この碑は、明治天皇が毛利敬親の偉業を永久に伝えるために、碑の建立を命じ、 その命により建てられたものである。 毛利敬親は、長州藩13代の藩主で、明治維新の大業をなしとげた英主である。明治2年 正月に藩籍を奉還した後に家督を世子元徳に譲って隠居し、明治4年3月28日 山口で没した。 篆額は彰仁親王の書、文は川田剛が撰し、それを書いたのが野村素介である。素介は 山口市大内の出身で、維新の戦役にも参加した志士であるが、書家としても名高く、 日下部鳴鶴と共に明治の書家の双壁といわれている。 その素介が勅命に恐?して書いた楷書であるので、その文字の美しさは申し分なく 日本に数基ある勅撰銅碑の内もっとも美しいものとして有名である。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換) もっとも美しいって、どんだけ~!と思って近寄って見てみたら、書にうとい私でも、おお、確かに・・・!!って素直に見入ってしまうほど、美しい書体だったよ。楷書だから、見やすいし。拡大すると、こんな感じ。 ね?綺麗っしょ一旦元の道へ戻って、そのまま奥へ進むと、そこが毛利家歴代の香山墓所。 【史跡 萩藩主毛利家墓所 この墓所は、萩市に所在する旧天樹院・大照院・東光寺毛利家墓所とともに長州藩主 (毛利本家)の墓所である。萩市に所在の墓所が五輪塔・笠塔婆形であるのに比して、 この墓所は、土饅頭の前面に墓石を立てる形式である。 墓所には、7基の墓があり、中央の13代敬親公夫妻の墓は高さ約1.8メートル、経約 5.8メートルの円形の墓で、前面に墓石があり「贈従一位大江朝臣敬親卿墓」と 刻してある。そのほか14代元徳公夫妻、15代元昭公夫妻及び毛利本家歴代諸霊之墓が ある。 山林を背にして広大な地に整然と配置され、その規模の大きいことと荘厳さといい 近世墓所の代表的なものである。 ここの参道は歩くと音が反響するため、俗に「うぐいす張りの石畳」といわれている。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)で、こちらが敬親公の墓でござりまする。 ホントに土饅頭だわ・・・「大江朝臣」てあるのは、毛利氏の本姓が大江氏だから。真ん中に敬親夫妻、左に14代元徳夫妻、右に15代元昭夫妻の墓があり、一番右奥に歴代諸霊の墓がある。墓の数は多くはないけど、すべて玉垣で仕切られていて、確かに荘厳な雰囲気。誰もいないし。 敬親の墓に手を合わせて石段を下りると、一段下がったところにもたくさんの石灯籠が立ち並ぶ。 銘はいちいち見なかったけど、関係各者様から奉納されたものなんだろうな・・・この辺で、チャラい兄ちゃんたちが3人ばかりにぎやかにやって来た。そのまま真っ直ぐこちらへ来たので、解説を読みなおしたり周りを見て兄ちゃんたちが通り過ぎるのを待った(←静かな時間を邪魔されたくない人)。「うぐいす張りの石畳」の解説を見て、石段の下で兄ちゃんが豪快にパンッッ!!て手を叩いて、「おお~!!」とか言っていたのを横目に見て、兄ちゃんたちの姿が見えなくなってから私も石段の下で手を叩いてみた・・・ら、ぱん!って貧弱な音しか出なかったので、うぐいす張りの効果、確認デキズ・・・ こんな貧弱な拍手しかできないなんて、誰も見てない時でよかった・・・三井寺の晩鐘といい、どうも音に関することは弱いな・・・にほんブログ村
2012年07月15日

ボダイジュの後ろには、これがある。 【重要文化財 洞春寺観音堂 この観音堂は、永享2年(1430)大内持盛を開基とする滝の観音寺の仏殿として 創建されたものであるが、大正4年にこの洞春寺の境内に移されたものである。 桁行三間、梁間三間、一重もこし付き、入母屋造り、こけら葺(昭和25年の 解体修理の際、銅板葺に変更)の唐様の建物で、正面に桟唐戸、左右に花頭窓があり、 外部下層の?のない化粧板軒は、全国的にも例が少なく珍しいものである。 上層の化粧垂木は大疎?(おおまばらだるき)であるが、これは下層の板軒に対し、 上を軽く見せる工夫である。内部の構造は簡素であるが、細部の斗?(ときょう)や 絵様などに見るべきものがある。 床は唐様の四半敷瓦である。岩屋造り厨子は当時のままのもので、本尊は 聖観音菩薩である。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)ふ~む・・・いろんな面で、現在は三井寺にある一切経蔵と似た造りだな~と思ったね。 (三井寺・一切経蔵)もちろん、細部は違う点も沢山あるけどね。一切経蔵の建築年代がはっきりわかってないことは「大津編(17)」に書いた通りだけど、かなり特色があるので、やっぱりこの観音堂と近い年代に造られたものだと思う。解体修理で屋根は銅板葺に変えられたって書いてあるけど、一切経蔵の写真と並べてみると、もとの姿もイメージしやすいよな。まあ、一切経蔵は檜皮葺、観音堂はこけら葺って違いはあるけど、ぱっと見檜皮もこけらも似たようなもんだし(笑)。この辺で、いちおう大内さんちの主な系図を載せておきましょうかね。まだこれからも、色んな人の名前が出てくるし。山口に本拠を移動してからの分だけね。 モノによっては、若干の相違があるんだけど、大内家歴代としてはこれが一般的な系図。カッコ内の数字が当主の順番です。大内さんちってのは、当時の守護大名家の例にもれず、お家の内紛も多くってね。特に、家督を継ぐ段での争いが結構あったんだな。で、永享3年(1431)に盛見が筑前で討死した後も、やっぱり家督争いが起こった。対立したのは、義弘の遺児・持世と持盛。結局持盛は永享5年(1433)に敗死して持世が後を継ぐんだけど、この観音堂が建てられたのは永享2年(1430)だから、まだ盛見が生きてる時。観音堂のあった「滝の観音寺」は高嶺のあたりにあったお寺らしく(現在の山口市上宇野令付近)、京都南禅寺の住職なども務めた竜岡玄珠(りゅうこうげんしゅ)を迎えて持盛が開いたといわれている。持盛の死後は、持盛の菩提寺となったが、のちに観音寺は勝音寺と改められた。江戸時代に入り、勝音寺は毛利煕元(元就の曽祖父)の菩提所・大通院へと改められ、堂宇は毛利家の庇護を受けたが、明治に入って大通院は廃寺となり、荒れるにまかせていたのを、当時の洞春寺の御住職が呼びかけて寄附を募り、ここへ移築されるに至ったという。この時ね~、恥ずかしながら、あまり観音堂について詳しく調べてなかったそれで、写真の通りお堂の入り口が開けられてたので当然中を覗いたら、中にいくつか木像があったんだな、確か。でも中は薄暗かったし、なんか写真を撮っちゃいけないような気がして、内部は撮らなかった。ところが、後から知ったんだけど、どうやらこの観音堂は普段は閉まってるらしい。この時は偶然にも、山口国体のおかげで特別御開帳の時だったみたいでえ~・・・それを知ってたら、写真撮ったのに・・・ああ、大失敗事前の下調べがいかに重要かってのが、身に染みました。てことで、写真がないので1年近く経った今では記憶も定かではないけど、たぶん中にいたのは大内義弘・盛見・持盛とあと観音寺の開基・竜岡玄珠の木像。まあ、これらの像には北九州市での大内氏の企画展で会ってるけどさ(「赤間ヶ関編(40)」を見てね)。明るい展示室で、間近に見られたからいいんだけどさ。企画展示室は撮影禁止だったけどね観音堂の御開帳も知らなかったし、「大内文化と北九州」展を知ったのもホントに偶然だったし、そう考えると結構私ってツイてるよなってちょっと自分を慰めてみる。観音堂の調べがおろそかになったのは、ここでのメインが他にあったからなんです。ひとつは盛見の山門。あとふたつがまだ・・・ってんで、墓地の方へ。 【大内盛見の墓 大内盛見は義弘の弟で、義弘の死後大内氏26代の当主となった。周防・長門・豊前・ 筑前の4州の守護職となり、また、大陸とも交易を行い大陸色豊かな大内文化興隆の 素地をつくった。 応永11年(1404)盛見は今の洞春寺の地に国清寺を創建して、天下太平の祈願所と 先祖代々の菩提を弔うところとした。盛見は永享3年(1431)筑前で戦死したので、 この国清寺を菩提寺として、この地に葬った。 この墓は無縫塔(むほうとう)という形式の墓であるが、室町中期の特色がよく 残っていて貴重である。右側に並んでいるのは、国清寺透関慶頴(とうかんけいひん) の墓である。 なお、国清寺は毛利氏が防長に移封に伴い、毛利隆元の菩提寺として、常栄寺となり、 さらに明治初年毛利元就の菩提寺洞春寺になって、現在に及んでいる。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)これです、これ!盛見の墓~!!盛見の墓といわれているものは、現在の福岡県粕屋町にもあるので、どちらが本墓かはわからないけど、いちおう国清寺に葬られたことになってるみたい。そして盛見の墓の向かいには、もうひとつのお目当てが。 【国清寺一切経蔵の礎石 この礎石は、国清寺の経蔵の内部にあった八角輪蔵の中心柱の礎石です。安山岩の 自然石で、中央が深く盃状に削られ、穴の端から中央部に向けてY字形に溝が 刻まれています。 現在の洞春寺の境内には、もともと大内氏第26代当主大内盛見の菩提寺である 国清寺が建立されていました。この礎石があった場所にはその国清寺の経蔵が 建てられ、大内氏によって高麗版一切経が保管されていましたが、慶長7年(1602)に 毛利輝元により園城寺(滋賀県大津市の三井寺)に寄進されました。 礎石は昭和15年(1940)に、この地を開懇している時に発見されたもので、 発見場所が古くから経蔵跡と呼ばれていたことや、昭和4年(1929)に園城寺の経蔵の 天井裏板から発見された墨書から、この経蔵の輪蔵の礎石であると考えられます。 このようなことから、礎石は国清寺の経蔵がここに所在したことを物語る貴重な 歴史資料です。なお、滋賀県大津市の園城寺にある経蔵は、国指定重要文化財と なっています。】 (現地解説板より) はい~、三井寺でしつこく書いた一切経蔵、あの礎石がこれです(「大津編(17)」~(19)までを見てね)ここは今は、墓地になってます。解説にはただ「開懇」ってあるけど、墓地用地として整地してた時に・・・だったのかな?(笑)そうかあ、この場所にあったのかあ~ってまったり萌え~するにはちょっとはばかられる場所だけど・・・(でもした)洞春寺の本堂は、江戸時代に一度焼失しちゃってるらしいので、礎石のある場所は本堂のすぐ隣って訳でもないけど、運が悪かったらこの場所まで火が移ってたかもしれない。そう考えると、やっぱり天下統一後の三井寺に移されたことで破壊を免れた、幸運な建物なのかもしれないな~なんて思った。にほんブログ村
2012年07月14日

【洞春寺 毛利元就公の菩提寺である。元就公は安芸郡山城において75歳で没し、墓は郡山に あり菩提寺も近くに建立された。しかし毛利氏の防長移封により萩城内に、さらに 山口に移された。 元就公が生前、敵味方の戦死者の供養のために行っていたという、法華経千部会は 現在も寺で行われていて、公の志を今に伝えている。寺宝として元就公画像の外、 多くの文書、絵画が蔵されている。】 (現地解説板より)ちょ・・・っとばかり、補足がいるかな。ここの変遷は何気に複雑なんです。簡単に図にすると、大体こんな感じ。大内盛見が父母と兄のために建てた国清寺は、盛見の死後、盛見の菩提寺となり、毛利時代に入って毛利隆元(元就長男)の菩提寺・常栄寺が移された。毛利輝元が祖父・元就のために建てた洞春寺は吉田郡山にあったが、広島⇒山口⇒萩と転々とした後、幕末に毛利敬親が山口に引っ越したため、常栄寺に持ってきた。常栄寺の移転先の妙喜寺・・・はちょっときりがないので、今度常栄寺に行った時にでも書きましょう。で、現在は元就の菩提寺。こんな経歴なので、国清寺の遺構は少ない。ま、実は前シリーズでひとつ、遺構を紹介してるんだけどね。そう、しつこく書いたあそこですよ、あそこ。ふふふ・・・盛見の山門をくぐると、奥にも門がある。 この門の右手には、鐘楼。 これが古めかしくて素敵だった(笑)。 【洞春寺鐘楼門は、下層は通り抜けの門、上層は鐘楼という「鐘楼門」とよばれる 造りをしている。製作者・製作年代ともに不明だが、蟇蛙の手法や材の摩耗・腐朽の 状態から、江戸時代中期の建築と思われる。】 (現地解説板より)ここの軒丸瓦は、毛利家家紋「一文字三つ星」。 あまり鮮明に写ってないけど、蛙股も一文字三つ星。 鐘楼門をくぐっても名残惜しくて振り返ったら、鬼板(破風の上にあるてっぺんの瓦)も一文字三つ星だった。ちょっと小さくて見えづらいかな・・・ 中に入ると、正面に大きな本堂。 アラ、写真が思いっきり曲がってるわ~(笑)。この頃には雨もやんで、薄日なんかも射してきたんだけど、雨上がりで湿度がすごくてマジ暑くてさ・・・(←いいわけ)ここがまた面白くってえ~。写真の通り正面が開いてたので、まずはお参りを・・・と思って近寄ったら、中で住職様がお経を読んでたんだけど、その近くにジャージ着た中学生くらいの子がゴロ寝してたの 他のお寺さんでは滅多に見られないあの光景、忘れられないね~。そうじゃなかったら、見えるとこだけでも本堂の中をじろじろ見たかったんだけど、なんかくつろいでるところを邪魔するのも悪いかな~と思って、覗くのは遠慮した(笑)。面白いのは、それだけじゃない。本堂の壁にはこんな貼り紙が・・・ なに?犬?歴史民俗資料館なら、昨日行ったとこじゃん・・・マル住職?が、噛む???一体どんな企画展なのか、想像もつかん・・・だいぶ後になってから、たまたまツイッターでマル住職の新聞記事を見た。なんでも、こちらに住んでいる紀州犬の「マル」ちゃんで、「マル住職」として人気だそうな・・・私が行った時は、マル住職様にはお目にかかれなかったけどね。「洞春寺展」も、来月だから残念ながら行かれないし。くすん・・・こんなお茶目な洞春寺さんですが、国清寺からスタートしてとにかく歴史があるので、実はすごいお寺なんですよ。ここでのお目当てはいくつかある。左側に行くと、木陰に仏様が・・・ 【ボダイジュ(菩提樹) ボダイジュは、中国原産のシナノキ科の落葉高木で、高さ10~15メートルに達する。 わが国には、1191年栄西禅師が宋から帰朝の折り、天台山から種子を持ち帰り、 筑前の香椎の宮に植えられたものから、全国各地に広まったと伝えられている。 この洞春寺のボダイジュは、昭和の始め当寺の前住職が、大江氏の菩提寺である 東京都八王子市の廣園寺のボダイジュを取り木し、この地に植栽されたものである。 6月ごろ、葉腋より長い花梗をもって垂下し、黄色の香り高い花を枝いっぱいに咲く。 果実は球形で、10月ごろ熟し、念珠として賞用される。仏家の三大霊樹のひとつで 釈迦がその木の下で悟りを開いたと言われる菩提樹はインドボダイジュで、クワ科に 属し、中国のボダイジュとは別の樹木である。 寺院の境内に多く植栽されるほか、公園の緑陰樹としても利用される。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)へえ~、ひとくちにボダイジュっていっても、色々あるんだ~。ん?大江氏の菩提寺・・・そうか、毛利氏は、大江広元の4男を祖とする家系で、本姓は大江だからな。後で調べてみたら、八王子の廣園寺ってのは大江広元の子孫が創建したお寺らしい。大江つながりで、木を戴いたってことなのかな。八王子に大江氏のお寺があるなんて、知らなかった・・・建築もよさそうだし、今度行ってみようかなにほんブログ村
2012年07月13日

※「山口城(2)」からの続きです。藩庁門を後にして西へ。山の方にはいくつか行きたいところもあるんだけど、もう夕方なのでひとまず今日は歴史民俗資料館へ行くことにする。展示室はすごく広いという訳じゃないけど、大内コーナーと幕末コーナー、あと市内の遺跡と昔の農具を紹介する4つのテーマに分かれてる。時間もそうないし、もちろん私は大内コーナーのみで沢山はないけど、結構濃い内容の展示だと思う。ここに来たのは、大内義隆が今八幡宮に寄進したという鰐口(わにぐち)があるから。ここは撮影禁止だったか覚えてないけど、内部の写真が1枚もないので、「鰐口ってなんじゃい」って方のために参考までに他所の写真を載せますと、 (足利市・ばんな寺)この丸くてゴーンて打ちつける法具が鰐口。天文3年(1534)4月上旬に義隆が奉納したもので、現在は歴史民俗資料館に委託展示されてる(重文)。製作者は、筑前芦屋金屋の大江宣秀。芦屋鋳物師によって造られた芦屋釜なんかは当時人気が高く、茶の湯の流行にともなって京の将軍家や貴族、寺院などへの献上品としても使われたという。 【大内氏と芦屋鋳物師との関係は芦屋を含む筑前が永享3年(1431)以来、 大内氏が同国守護となったことに始まる。大内氏とこの芦屋鋳物師の関係としては、 大内義隆と大江宣秀との繋がりがある。 大江宣秀は永正丁丑(1517)銘の松梅図真形釜の作者であるが、宣秀は義隆を 檀那として、大内氏菩提寺の興隆寺の梵鐘と鰐口、今八幡宮の鰐口を制作している。 このことから芦屋鋳物師の庇護者としての大内義隆の存在は大きなもので あったことがわかる。 芦屋鋳物師による仏具には文様が施されたものが非常に多く、この鰐口や 興隆寺の梵鐘もその例に漏れない。ただ一般的には鰐口や梵鐘には装飾的な 文様は表さない。 芦屋鋳物師制作の鰐口は史料から九点確認できる。】 (いのちのたび博物館「大内文化と北九州」展図録より)たった9点ね・・・そういった意味でも、貴重だよな。確かに、上のばんな寺の鰐口には真ん中には足利家の家紋、「丸に二引き両」はあるけど、他に文様はないし。それより何より、義隆の鰐口で目を引くのがその大きさ。面径85.8センチ、総厚30.0センチ。鰐口って通常、上からぶら下がってるものしか見ないから、平均的な大きさがどれくらいかって感覚的にわからないけど、とにかくデカい。なんたって国内最大級、全国で3番目くらいのデカさだってゆーんだから、すごい。昔の中国の宮廷とか役所とかで、「ジャーーーーン!!」って鳴らす銅鑼のような、あんな感じ(笑)。あまりにデカいので、一度では鋳造できず、鋳継いであるらしい。さすが大金持ちの大内氏、豪快だぜ義隆ちゃん。今度行った時、撮影OKだったらちゃんと撮ってくるからねあと、宴で使う「かわらけ」が室町~戦国当時は使い捨てだったって知ったのも、確かここじゃなかったかなあ・・・真面目で濃い展示のすみっこには、「花押を押してみよう!」ってコーナーがあって、ちゃんとお茶目なペーパーが用意してある。↓これは義隆のパパ・義興さんの安堵状。右の花押は私が押したもの。 ↓こっちが義隆の安堵状。 文中の空欄の部分に自分の名前を入れるようになってる。ワーイ、周防に領地もらっちった残ったわずかな時間で、視聴覚コーナーのビデオを見て、明日から行くところのお勉強。ここには大内氏館の発掘の報告書なんかも各種取り揃えてあって、沢山買うつもりだったけど、分厚い本が何冊もあるので迷ったあげく、とりあえず見送りにした・・・(軟弱者)さて、宿に戻ろう。途中、亀山にあるサビエル記念聖堂に寄っていこうと思ったけど、よく道がわからなかったので挫折した。亀山の麓には石垣風なのもあったけど、これは明らかに遺構じゃないよな・・・ この日は15,754歩。半日だったからね・・・明日からは忙しいぞ~。天気予報では、明日も雨ちっく。まあ、しょうがないよな・・・2日目<2011/8/21(日)雨のちくもり>夜通し激しく降っていた雨は、朝になっても相変わらず。とにかく降り方がハンパなかったので、外に出る気も失せた。こんなんじゃ、いくらも歩かないうちにびしょ濡れだよ~ごく手近なところだけ、半日くらいで切り上げて見てくるかな~。でもすごい雨だし、いっそ今日は部屋で大内政弘さんの詠んだ歌でも眺めながらごろごろするかな~。あれこれ考えてたら、急に雨が小降りになった。おっとぉ~、いっきなりチャンス到来!!ってんで急いで支度して、予定よりだいぶ遅れて宿を出発。バスに乗って、まず向かったのは洞春寺(とうしゅんじ)(場所はこちら)。 【国指定 重要文化財 洞春寺山門 四脚門 切妻造 桧皮葺 洞春寺は戦国時代に中国地方10ヵ国を治めた戦国大名毛利元就の菩提寺です。 この地には応永年間の初め(1400年頃)大内盛見が建立した国清寺がありました。 この山門はその国清寺の創建当時のものといわれ、全国的にも数少ない大変貴重な 四脚門です。(四脚門は奈良時代から建造され始め、もっとも格式の高い門でした。) 構造手法は雄大で、特に太い円柱(まるばしら)や彫刻のない大きな板蟇股 (かえるまた)、反りの大きい垂木などが当時の特徴を表しています。 なお、当寺には国指定重要文化財の洞春寺観音堂をはじめ、数多くの文化財が あります。】 (現地解説板より)雄大・・・かは経験不足でちょっとわからないけど、解説の通り、蛙股には彫刻がない。私はこのタイプ、見るの初めてかも。しかも、デカイ。 国清寺については、「大津編(17)」に書いた通り。盛見もきっと、この門を通ったに違いない。↓ランキング参加ちう~。にほんブログ村
2012年07月12日

新しい藩庁は、元治元年(1864)5月に着工、10月までにはおおむね完成した。藩庁が築かれたのは、一露山のふもと。御殿は萩から移築された。すぐ近くには、対毛利対策として大内義長が築造した高嶺城が山上にあり、ここを詰城としたって話だから、山麓の居館みたいな感じだったのかな。今は一般的に「山口城」って言われるけど、当の毛利氏は城とは言わず、あくまで「山口屋形」「山口政庁」と称していたそうな。藩庁の工事にあたっては、山口の民はもとより、近隣の村民などからも広く資材やら労力やらが提供され、すすんで地元から協力がなされたという。だから~、みんな嬉しかったんだよ。いや、世の中はそんな悠長な時代じゃないし、幕末の長州藩ったらとにかく過激で有名だからね。でも、長く不遇をかこっていた山口付近の一般市民にとっては、活気を取り戻したのが何より嬉しくって、協力を惜しまなかったんじゃないのかな~と私は思う。話は前後しますが、文久3年(1863)5月10日。この日は、14代将軍・徳川家茂が孝明天皇に攘夷の実行を約束させられた日だった。Xデーに先立って関門海峡を封鎖していた長州藩では、5月10日、律儀に外国船への砲撃を始めた。砲撃した砲台は、「赤間ヶ関編(4)」を、カノン砲は「赤間ヶ関編(28)」を見てね~。これで長州藩を始めとする尊王攘夷派はチョ~盛り上がったものの、その後のいわゆる文久3年8月18日の政変で会津・薩摩の両藩に追い落とされてからは、失速。都落ちした七卿のうち五卿は、山口の湯田に迎えられた。毛利藩主親子の赦免を求めた禁門の変が裏目に出て、朝敵とされてしまった長州藩では、保守派が立場を盛り返し、恭順の方向で藩論がまとまった。そして、第一次長州征討。朝敵・長州藩への征討軍の参謀・西郷(せご)どんが出した撤兵の条件は、 ・禁門の変の責任者(三家老)の切腹 ・都落ちしてた五卿の追放 ・山口城の破却出陣より少し前に、勝麟太郎(海舟)先生と会談した西郷どんは、長州への強硬手段は得策ではないと判断していた。その上、征討総督の徳川慶勝から長州の処遇を一任されていたからこれだけの処分で済んだみたいなんだけどね。これを受け入れて城の一部を破却し、一旦は敬親親子は萩へ戻った。この時点で新しい藩庁はほぼ出来上がっていたが、破却命令に対し、瓦3枚をはいだだけで「こわしたよ」ってエピソードがあるらしい・・・この後、亡命していた高杉晋作が帰藩、奇兵隊が下関に挙兵するなど正義派と呼ばれた革新派が再び政権を握ると、藩論は一気に倒幕へ。元治2年2月、藩庁も山口へ戻された。工事が中止されていた藩庁新館も完成し、慶応2年(1866)頃には敬親が新しい御殿に移り住んで政事堂で政務を執るようになった。慶応2年6月の第二次長州征討では、この日のために薩長同盟とかいろんな下準備をしていたこともあって、幕府軍を打ち破った。萩にいたまんまじゃ、ちょっと厳しかったかもしれないけどね。なんたって山口は、防長のど真ん中にあたる場所だから。慶応3年(1867)2月、敬親はあらためて山口を藩の本拠とすることを宣言。大政奉還・廃藩置県などを経て、山口は県都としての地位を保ったまま現在へと至る。オマエは一体何の話をしてるんだ?ってお叱りの声が聞こえてきそうだけど、西国の都としての山口と、近代に入って再び防長の中心となるまでの山口の歴史、これをつなぐのが山口城だった。私は城を見るにも、遺構だとかのビジュアルより歴史重視派だしさ。とくに山口城なんかは、普通に訪城記だとかを読むだけじゃ、ここが色んな意味でどんな役割を果たしたのかなんて全然見えてこない。ま、幕末の長州なんて激動の時代もいいとこだしね、私の知らない沢山の話ももっとあると思うけど、ひとまず山口城の歴史的意義の概略だけ書かせていただきました。日本史に関する薄い知識の中で、幕末は比較的馴染みがある方だけど、私の場合はあくまで龍馬さんを中心にした歴史。だから、幕末といっても長州についてはほとんど知らなかったし、「敬親?ああ、『そうせい候』ね~」ぐらいにしか思ってなかった(すいません)。知らない人のために一応書きますと、「そうせい候」ってのは毛利敬親のあだ名。家臣の意見に異を唱えることなく、「うん、そうせい」と返事してたのでこのあだ名がついたっていうんだけど・・・こうしてあらためて敬親のことを見てみると、結構すごい人じゃないてちょっと、いやだいぶ見直した。長山城跡(「長山城」を見てね)に敬親の銅像があるちゃんとした理由は知らないけど、都市としての機能を回復させてくれた敬親への感謝が根底にあるんじゃないかな~って私は思うんだよね。「山口の恩人、敬親様!!」みたいな。「山口中興の祖」って言ってもいいかもしんない(笑)。さて、外観に戻りましょうか。門前には石碑が立つ。 デコラティブな意匠なんかはほとんどなくて、武骨な印象は否めないけど脇門・土塀まで含めて本瓦葺の重厚な門。 ん・・・土塀の屋根に載ってる、アレは・・・ 打出の小槌じゃん!屋根のこーゆー場所に載るのは大抵、獅子とか花とか・・・先月の三井寺では、桃が載ってたな。これを選んだのは、それなりの理由がきっとあるんだよねえ~。そもそも、打出の小槌ってなんだっけ・・・一寸法師がデカくなったやつだっけ?う~ん・・・高杉晋作とか久坂玄瑞とかが「ジョ~イ、ジョ~イ(←攘夷)」って念じながら小槌を振ってる姿なんか想像してみたけど、正義派の指導者たちなら神仏に頼らず、自力でやり遂げるだろうしな・・・あ、でも100%自力って訳でもなく、藩では下関の亀山八幡宮に攘夷祈願をしてるし、その後はお礼に剣馬を奉納したりなんかもしてるけどね。※「山口編(2)」へと続きます。にほんブログ村
2012年07月11日

山口城<山口県山口市滝町>(住所をクリックするとMapfanにリンクします)※「長山城」からの続きです。亀山公園に入ったのと同じところから出て、お向かいの山口博物館に入ってみる。ここは、尼子経久・晴久の絹本著色画像を所蔵してるって事だったので、ちょっとだけでも戦国関連の展示があるのかな~と思って。でも、夏休み中のせいか、子供向けの展示になってて、期待したようなものは今回はなかった。ので、すぐに博物館を後にして、再びパークロードを北へ。国道9号線を渡れば、そこが山口城跡。堀が少しだけ残ってる。 写真を撮ってたら、堀にいる白鳥さんたちが近寄ってきた。 ヤ~ン、類は友を呼ぶのかしら・・・って喜んでたら、白鳥の他にコイさんたちも集まってることに気がついて、な~んだ、エサ目当てか・・・って急にがっかりした気を取り直して進むと、奥にはこれ。 【県指定有形文化財 旧山口藩庁門 一棟 この門は、元治元年(1864)時の藩主、毛利敬親が、藩政の本拠地を萩から山口へ 移すため建設した山口政事堂の表門として築造されたものと言われています。 築造当時は、幕末の動乱期にあたり、高杉晋作、桂小五郎、伊藤博文等の藩士が 足早にこの門を往来したことと思われます。 門の構造は、切妻造・本瓦葺の薬医門であり、主材はけやきと松を用い、木割は太く 豪快で、いかにも城門らしい風格を残しています。 明治4年(1871)の廃藩置県までは、藩庁門として使用され、その後は山口県庁正門 として、さらに、新県庁舎(現県政資料館・国指定重要文化財)が完成した大正5年 (1916)からは、西口の門として利用され、現在に至っています。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)関ヶ原後に、萩に本拠を構える段については「大津編(19)」に書いた通りですが、それまで長らく大内氏の本拠として西国の大都市だった山口の町は、この後山陽道と萩とを結ぶ中継点としての不遇の時代を送ることになる。萩から江戸へ向かうには、一旦山口へ出て、そこから三田尻(現在の防府)へ向かうルートを通った。これが「萩往還」。また、石見から山陽道へ出る「石州街道」も山口を通ったので、山口には藩主の泊まる「御茶屋」があり、他に津和野藩主などが使う山口本陣があった。でも、あくまで通過点。かつての華やかさは見る影もなく、わびしい田舎町に成り下がった。私、色んな本とか資料を読んでて思ったんだけど、山口の民ってたぶん、プライドが高かったんじゃないかな~。あ、別に悪い意味じゃなくてね。山口が「西の京」と呼ばれたのは、なにも町並が京のまねっこをしてたからってだけじゃない。貿易で巨大な富を築き、応仁の乱で京が荒廃してからは特に著名な文化人が山口に集まり、高度な文化の華開いた町だった。長らく西国の大大名・大内氏のお膝元として栄えた山口の民衆にとっては、藩の本拠地が萩へ移り、次第に山口の町がすたれていく現実は、受け入れがたいほどの屈辱さえ味わったんじゃないかと思うのだ。 なが~い江戸時代を田舎町として保ってきた山口にひとすじの光明が差し込んだのは、文化12年(1815)。萩藩士の子として現在の山口市大内氷上に生まれた上田鳳陽(ほうよう)が、山口に学問所を建てることを藩に願い出た。藩主・毛利斉煕(なりひろ)は鳳陽の志に感じ、資材や工事費などを援助し、山口講堂(のちに山口講習堂と改称)ができた。山口講堂には次第に学生も増え、近在の若者たちが多くここで学んだ。これにより、上田鳳陽は「学都山口の父」と呼ばれる。続く大きな転機が、文久3年(1863)4月16日。「ちょっと、日帰りで温泉行ってくるね~」と萩を出立した藩主・毛利敬親(たかちか)が向かった先は、山口。ペルリさん来航から10年、にわかに慌ただしくなった世情を背景に、山口へ着いた敬親は、まず御茶屋に住んでその一部を政庁とし、当面の政治をここで行った。幕末にあっても城の新築や修築には相変わらず幕府の目も厳しかったし、これまで長く萩を本拠としてきた歴史もある。政庁の移転ともなれば、当然藩内への動揺も大きいが、敬親はまず既成事実を作っちゃえ~てな実力行使に出た。藩主自ら動いたとなれば、藩士も動かないわけにいかない。日に日に人は増え、役所の機能も次第に移され、山口の町は久々に活気を取り戻していった。そして5月。「萩は交通も不便だし~、もし外国から攻撃されても連絡取りにくいし~、そうなったら、せっかく徳川様が決めた攘夷も果たせないじゃ~ん。その点、山口は指令が出しやすいんだよね移転っていっても、大きな城は造らないし、簡単な防塁だけにするから!家臣も、とりあえず手近に必要な分しか置かないから!だから、山口に引っ越してもいいでしょ。ね」って正式な移転の申請書を幕府に提出した。6月には、萩の民衆へ、移転を正式に布告。萩城の警備は、参勤交代で藩主が留守にしている時と同じとする事を定めた。7月、まだ移転に反対する家臣を山口に集めて事情を説明し、協力を要請。12月、萩の政事堂を廃止して、藩の機能を完全に山口に移す。これをもって、山口の町は実に260年ぶりに藩の中心の座に返り咲いた。にほんブログ村
2012年07月10日

長山城<山口県山口市亀山町8(亀山公園)>(住所をクリックするとMapfanにリンクします)※「山口編(1)」の続きです。長山城のある亀山公園には、いくつか入り口があるみたいだけど、パークロードからはちょっとわからなかった。ので、ぐるりと北側まで回り込んで、県立山口博物館の向かいから入った。長山城があった亀山は、小さな丘。亀山には、こんな伝説があるそうな。 【むかしむかし、その山は生きていました。 亀山の上に城があり、敵が攻めてきたときは山が高くなって城の防御を助け、 敵が退却するときは山が低くなって追撃を助けたといいます。 あるとき交通の便をよくするために城の人たちが首の部分を掘りました。 すると掘ったところから血が吹き出てきました。 かわいそうに亀山は七昼夜鳴きつづけたのち亡くなってしまいました。 それからというもの山は敵が攻めてきても動くことなく、 ほどなくして城は落ちました。】 (「蘇れ歴史空間 大内文化まちづくり」様のサイトより)亀山にあるのに、なんで亀山城じゃないのかな~とか思っちゃうんだけど、そもそもの築城年代はわかっていない。ただ、天正16年(1588)には毛利輝元から仁保元忠が城の守備を命じられたとあるので、毛利氏の防長計略後に建てられた城ではないかと推測されている。その後、慶長元年(1595)にこの地を与えられた毛利秀元が居城に定め、長山城の改修に取り掛かったっていうんだけど・・・毛利秀元の父・穂井田元清は元就の4男。だから、秀元は元就の孫であり、輝元のいとこにあたる。元清パパは「備中松山城」シリーズだとか備中の境目七城のあたりで何度か出演いただいてます。輝元に子がなかなかできなかったため、太閤殿下が毛利家の跡取り問題にまで出張ってきた。毛利家が豊臣の血縁者に乗っ取られそうになるのを、毛利家命の隆景ちゃんが見過ごすハズもなく、秀元を輝元の養子とすることで、とりあえずは難を逃れた。とりあえず、ね。秀元さんて人は色んな面で才能あふれる人だったらしく、元春ちゃんは「今、毛利家に男子はおゆぅ(たくさん)おるが、宮松丸に及ぶ者はおらん」といい、隆景ちゃんは「その眼差し・秘めたもんが元就によう似とり、毛利家を継ぐなぁ宮松丸しかおらん」と言ったという。宮松丸は、秀元の幼名ね。このすごい伯父2人にこのセリフを言わしめた宮松丸は、毛利本家の養子として大坂で人質生活を送るが、秀吉にも大層気に入られ、元服の際には「秀」の一字をもらい受けて秀元と名乗った。以後は順調に活躍し、華々しいエピソードなども残していったが、輝元に待望の実子が生まれたことで、家中での後継者問題は尾を引いたままだった。で、最終的に慶長4年(1599)に長門国・周防吉敷郡・元清遺領の17万7856石を与えられて別家を立てるんだけど、慶長元年に山口を与えられたってのは、私は見つけられないんだけどなあ・・・色んな長山城の訪城記を読んでも、みんな同じことを言うばっかりだし。まあ、少なくとも慶長4年には秀元の領地となった。ところが、翌年に関ヶ原の戦いが起こり、毛利本家は大減封。秀元も当然そのあおりを受けて、長府6万石に減封となり、櫛崎城を築いてお引っ越ししたので、ここ長山城は完成を見ることなく捨てられたという。遺構は、限りなくゼロに近い。そんなに大きくもない小山で、5年かかって完成しなかった城ってどんだけ~とか思っちゃうんだけど、山口に移ってきたのが慶長4年だとしたらそれも納得がいく。この頃は、輝元に代わって総大将として慶長の役に参戦したりもしてたけど、別に城主がいなければ工事が進まないって訳でもないでしょうし・・・現在の長山城跡は、こんな風に綺麗に整備されている。 山上におわすのは、毛利敬親(たかちか)公。 背中にはもちろん、「一文字三つ星」をしょってる。 長山城と敬親は(たぶん)直接の関係はないんだけど、山口市内に敬親の像が置かれているのにはそれなりの理由がある。それは、もうちょっと後の話かな・・・。あ、遺構は限りなくゼロに近いと書きましたが、亀山の南東の麓にある県立美術館、ここの池が長山城の堀の名残だとかいわれている・・・けど、どうもね・・・※「山口城」へと続きます。にほんブログ村
2012年07月09日

山口県山口市。ウィキペディアの「山口市」のページでは、本文はいきなり 【県庁所在地でありながら、県内における経済的な吸引力では港湾都市として栄えた 下関市、あるいは重化学工業で栄えた宇部市、周南市、岩国市などに劣り、 関門都市圏と広島都市圏に挟まれた谷間の地域ともいえる。】とちょっとへこむような書き出しで始まる。県庁所在地の人口でも、平成の大合併の中で近隣の県庁所在地の都市と最下位争いのデッドヒートを繰り返しているというわびしさしかし山口の町は大内氏が開いたと言われ、かつては様々な人やモノや文化が集まる、中世でも屈指の都市だった。今回、夏休みの旅に山口を選んだのは、もちろん大内氏を訪ねるためただ、壇ノ浦も行きたかったので、当初は下関と山口市を訪れるつもりだった。けど、基本的に私はメジャーなスポットだけつまみ食いするよりは、ある程度の狭いエリアで小さなところも見て歩きたい派なので、下関~山口間の移動の時間がもったいないと思うようになり、さらに色々調べてくうちに山口市内だけで見たいところが相当できたので、4泊5日まるごと山口市に滞在することにした。て言っても、最終日は帰るだけだし、1日はちょっと足を延ばそうと思うんだけど。山口県に行くのは、たぶん今回が初めてなんじゃないかと思う。もしかしたら修学旅行で秋吉台くらい行ってるかもしれないけど、覚えてない(笑)。さらに今回は、イベント嫌いな私にしては珍しい予定も組み込んだので、ちょっと楽しみ~。事前の資料請求だとかの段階から、山口観光コンベンション協会のA様にはとっても親切にしてもらって、その点でも行く前から好印象。それから、山口は観光案内が充実してる。山口市には現在、「大内文化まちづくり」という活動があって、その関連のサイトでは歴史面の紹介がすごい。全国津々浦々の観光サイトを見て比較した訳じゃないけど、ところによっては歴史面がおざなりにされる中で、山口のそれは、かなりハイレベル(マニアックともいう・・・)だと思う。そういった面でも、期待の持てる旅だった。A様には、「事前の期待はなるべく抑えて、あとは現地で・・・」って言われたけど、私に大内氏の旅で期待するなって方が無理だから1日目<2011年8月20日(土)くもり時々雨>山口宇部空港から、バスで市内へ入る。空港~山口間の路線は、つい最近開通したばかりみたいだったから、これもラッキーだったな山口駅のちょっと手前で降りて、まずは宿に荷物を預ける。山口の中心部には、あんまり宿がなくってね。県庁所在地なのに、これは意外だったな。山口のツアーなんかを見ると、「西の小京都」としていちおうコースに入ってるプランなんかも結構あるんだけど、一般的にメジャーなスポットだけだと、1日もかからずに通過しちゃうんでしょうね・・・宿から山口駅まで出て、駅前にある観光案内所で持ってないパンフレットを集める。ここの2FにA様がいるってことだったんだけど、この日は休みだったんだっけか・・・空模様はだいぶ怪しかったんだけど、もう少しは持ちそうに思えたので、最初のお目当て、凌雲寺跡へ予定通り行こうと思って、案内所のお姉さんにその話をしたら、「あそこは、夏はマムシが多いんですよ。その格好では、やめた方が・・・」と言われた。えええ~、マムちゃん!?聞いてないよ~、そんな話!!凌雲寺跡には、今は建物はない。でも、大内義興さんの墓があるので、私には外せないスポットだった。この時の格好は、別にオシャレしてた訳でもないけど足元はスニーカー。確かに重装備ではないけど・・・何とかならないか少し話を聞いてみたけど、来て早々、マムちゃんに咬まれでもしたら、今回の旅がすべて台無しになる。ので、泣く泣く義興さんの墓参りは諦めた・・・途中、周布政之助(幕末の長州藩士)自刃の地にも寄ろうと思ってたのに・・・うう、今度は冬に来よう出鼻をくじかれて、傷心のまま隣のうどん屋さんへ。小さいお店で、冷麺のメニューもなくて扇子であおぎながらアツアツの肉うどんを食べたけど、これがチョ~うまかったいつまでもへこんでても仕方ないし、うどんは美味しかったし、気持ちを切り替えて次へ行こう。ま、実際は次の日くらいまでちょっと引きずってたけど。だって、義興さん好きなんだもん駅から、市役所のあるあたりまでが「スカイロード」。ここにはこんなふたがあった。 写りが綺麗じゃなくて、ごめんあそばせ。これは、山口のお祭り、ちょうちん祭りのふたです。ちょうちん祭りとは、山口観光コンベンション協会様の「山口市観光情報サイト 西の京やまぐち」によると、 【日本三大火祭りの1つとして知られている山口七夕ちょうちんまつりは、 今から約600年前、大内盛見公が父母の冥福を祈り、七夕盆の夜に 笹竹の上に高灯籠を灯したことが由来とされ、 今日まで受けつがている 伝統的なお祭りです。】 というお祭り。盛見は、「大津編(17)」あたりの一切経蔵のところで出演してますので、覚えていただいた方もおられるでしょうか・・・なんか写真を見てると、祭り期間中にはそれこそちょうちんで埋め尽くされるくらいの数が出てるんじゃないかと思うほど。市役所のあたりからは、大通りは「パークロード」と名を変える。歩道は広いし、街路樹は多いし、雰囲気のいい通りではあるんだけど、この頃は小雨もパラついてきて、とにかく蒸し暑いあ~、歩くのヤダ・・・パークロード付近は官公庁街。県庁所在地の割に人が少ないけど、土曜日だから、だよね・・・※「長山城」へと続きます。↓新シリーズも、「ぽち」をよろしくね~。にほんブログ村
2012年07月08日

宇治川の中州にある宇治公園には、鳩さんたちがたくさん憩っていた。 雨、結構降ってたからね・・・しかし、草の中にじーっとうずくまってるから、最初は石ころかと思った(笑)。この公園には、こんな石碑がある。 【宇治川先陣の碑 古代より水陸交通の要衝であった宇治は、幾多の合戦の舞台となり、なかでも、 寿永3年(1184)の木曽義仲と朝廷から義仲追討の任を受けた源義経の戦いは 有名です。 天下の激流を挟んだ両軍の決戦は、義経軍の名馬「するすみ」に乗った梶原景季と 名馬「いけづき」に乗った佐々木高綱の「先陣争い」で幕を切って落としました。 先陣は策にたけた高綱がとり、義経軍が一斉に渡河して義仲軍を打ち破りました。 この碑は、その故事に因んで、昭和6年(1931)に建立されたものです。】 (現地解説板より)はい、もうひとつご紹介するのが、この碑の戦いです。宇治川は、一般的には頼政の戦いよりもこっちの方が有名だよな。どちらも同じ場所での戦いなので、頼政の方は「宇治の橋合戦」、義仲の方は「宇治川の戦い」とビミョーに言い分けられてます。木曽殿の最後の戦いは、義仲寺とか瀬田の唐橋のところでちょこちょこ書いてきましたが、これも同時進行の話。木曽殿は京にあって院御所を守り、瀬田には今井兼平、そして宇治には根井行親、楯親忠を配置した。義仲軍300騎に対し、義経軍は25,000。もう、結果は火を見るより明らかとゆーか・・・合戦の経緯についてはここでは書きません。書かないなら紹介になってないじゃん・・・とかツッコミ入れないで(笑)。ワシャ、馬の話がしたいんじゃ解説にある「するすみ」と「いけづき」は、どちらもそれぞれの乗り手が頼朝から賜ったという名馬。「するすみ」は「磨墨」。「いけづき」は「生食」とか「生喰」「生月」「池月」とか色んな書かれ方をする。磨墨と生食の出身地についてはいくつかの説があるみたいだけど、相馬御厨(みくりや)出身という話もある。生食は、下総国葛飾郡内の牧(のちに徳川幕府の直轄地となる「小金牧」の場所)に生まれ、「八幡様のお使いじゃ~!!」と地元で信仰を集めるほどの名馬であったという。生食の名前の由来も色々言われてるけど、生き物を食うほどに気性の荒い猛々しい馬だったともいう。日本の在来種は小柄だけど、昔は人を食う馬もいたとかって何かの文献にも確か書いてあったしな~。そーゆー訳で、どちらの馬も相馬御厨生まれだったら、千葉県柏市在住のわたくしとは、同郷という事になる訳です(笑)。だから馬の話相馬で千葉?福島じゃなくて?って不審に思った方もおられるかもしれないけど、相馬氏が分裂して、一部が現在の福島県相馬市あたりに引っ越す前の話だからね。もともと相馬氏は、相馬郡相馬御厨(現在の鎌ケ谷市・柏市・流山市・我孫子市・野田市の一帯。いずれも千葉県)に本拠を構える一族だった。御厨とは、皇室・伊勢神宮・下鴨神社に寄進された荘園のことで、伊勢神宮に寄進された現在の茨城県取手市・守谷市・千葉県柏市・流山市・我孫子市あたりにまたがる一帯を、相馬御厨と呼ぶ。このあたりは昔から馬の放牧に適しており、軍馬の生産が行われていた。時代が下って、幕府直轄の「牧」が北総台地(下総台地とも。主に千葉県北部)にいくつも置かれたのも、同じ理由による。そして、磨墨も生食も、頼朝に献上された。いや~、もしかしたらうちの地面の下に、磨墨や生食のウンチが埋もれてるかもしれないとかって想像してニヤニヤするバカは、私くらいだろうな・・・(笑)。さて、頼朝の腹臣・梶原景時の子、景季(かげすえ)は生食が欲しかった。でも、もらえなくて代わりに磨墨を賜った。で、磨墨に乗って宇治川の戦いに参加したら、そこにいたのは佐々木高綱を乗せた生食。モーレツに怒った景季は、佐々木高綱を殺して自分も死のうと決意する。(戦の最中だってば、おい・・・)しかしそこは、高綱の方が一枚上手だった。「もらったんじゃなくてぇ~、殿から盗んじゃったんだ!テヘ」って体よくごまかされて、再び戦モードになったものの、結局景季は先陣争いにも敗れた(笑)。宇治公園内には、先陣争いの様子を描いた絵もある。 ここで馬の話ばっかりするのは、同郷のよしみもあるけど、磨墨の墓に行ってるんだよね~、私。墓マイラーは種族さえも越えて墓参りをするんです(笑)。いや、磨墨の墓がメインだった訳じゃないんだけどさ。頼朝の死後、梶原一族は幕府の内紛などで討死を遂げた。景季の甥にあたる豊丸は、乳母であるお隅の方の生地の現・犬山市羽黒へと落ち延びた。で、磨墨も羽黒で死亡したとのことで、梶原家の菩提寺のすぐ近くに、お隅の方と並んで磨墨の墓があるのだ(場所はこちら)。 左がお隅の方、右が磨墨の墓。黒馬の置物なんか置いてあるし(笑)。このあたりの地名は「摺墨」。字が違うけど、読みも「するすみ」だから、まず磨墨に因んだものでしょう。景季は磨墨より生食の方を名馬と見てたみたいだけど、後世では生食よりも磨墨の方がゆかりの地とか話が多い。羽黒にある墓は公園の中にあるんだけど、まず公園の名称が「するすみ公園」。そしてこんな遊具が置いてある。 現代に生きる磨墨だよ~後ろから見ると、こんな感じ。 だから、かつての名馬も、今では誰でも気軽に乗れるんです。とはいっても、私は乗らなかったけどね。誰もいない公園で、いい年したジジイが1人で磨墨に乗ってはしゃいでたら、ちょっとアブナイ人みたいだしねこの木製の磨墨を見た時、「おお、愛されてるなあ~」って思ったね。磨墨の塚と言われてるものは、羽黒だけじゃなくあちこちにあるしね。てな訳で、今のところは生食よりも磨墨に親近感がある。生食の話ってのはあんまり見つけられないんだけど、柏付近には生食を由来とする神社などがあるそうだから、郷土の昔ばなしだとかで探してみるかな。 さて、今回の旅はこれで終了。参道に戻って茶そばのセットでランチ。おいしかったけど、とにかく急いでたのでゆっくり味わうどころじゃなかった 今回は初日から色々あったし最後までバタバタしちゃったけど、いいところが多かったな~。特に、三井寺と平等院はかなりお気に入りになった。平等院の方は駆け足になっちゃったから、今度はゆっくり来たいな・・・大津編を地道に読んで下さった方々、長いことお疲れ様でした(笑)。最後に↓ぽちっとしてくれたら、次の旅日記も頑張るからねにほんブログ村
2012年07月05日

明秀のやり方を見習って、頼政軍の兵たちが橋を渡り始めたので、宇治橋の上では激戦が繰り広げられた。平家方の侍大将・上総守忠清が「五月雨の時期で水かさも増して危ないので、ここはひとつ、回り道を・・」と進言したところ、若干17歳の若造・足利忠綱が「回り道なんかして、中国やインドの兵を集めて送るつもりげー!!」(←栃木弁)と生意気に猛反対。 この足利忠綱の10代前の先祖は、俵藤太秀郷。この後の名乗りを見る限り、無位無官だったらしい。何でそんな若輩者が、侍大将が大将軍に意見を窺う場でガンガン演説できたのかは謎だが、とにかく忠綱は利根川を馬筏で渡した例などを滔々と語った上で、自ら馬を川に乗り入れた。忠綱に続いた兵は、300騎。馬筏を渡す時の、忠綱のセリフが細々しててまたすごい。侍大将に意見した時のセリフも長かったけど、ここも長い(笑)。で、どんな風に渡したかっていうと、 「強い馬を上手(かみて)に立てよ。弱い馬を下手(しもて)にせよ。 馬の足の立つ間は、手綱をゆるめて歩かせよ。 馬が躍り上がったら手綱を操り(くり)引きしめて泳がせよ。 流されて列から下がるような者は、弓の筈に取りつかせろ。 手を取り組み、肩を並べて渡すようにしろ。 鞍壺にしっかり尻を落ち着けて、鐙(あぶみ)を強く踏め。 馬の頭が水中に沈んだら、引き上げてやれ。 強く引いて自分が馬の頭をひっかぶるようにするな。 深くなって水が浸ってきたら、馬の三頭(さんず)の上に乗りかかれ。 馬にはやさしく当たり、水には強く当たるようにしろ。 川の中で弓を引くな。 いつも甲(かぶと)の錣(しころ)を横に傾けろ。 だがあんまり傾けすぎて、甲のてっぺんを射られるな。 流れと直角に渡して押し流されるな。 水に逆らわないで渡せ、渡せ」 (現代語訳:小学館「日本古典文学全集 平家物語」より)・・・とまあ、実に細やかな指導の甲斐あって、1騎たりとも流されず、300騎は対岸へと渡った。平家と頼政の戦いなんて、どっちも大好きな私としてはどちらを応援するか悩むところだけど(笑)、とりあえずここでは頼政かな。て事で忠綱は敵になりますが、敵ながらあっぱれといったところでしょうか。ちなみに、この時の忠綱の装いは、赤革縅の鎧に鹿のツノのついた兜をかぶっていたとゆー描写なので、大坂の陣で家康をあと一歩のところまで追い詰めながら、惜しくも散っていった戦国きっての人気者のことをつい連想してしまいますね~(笑)。この様子を見ていた大将軍・平知盛は、「よっしゃあ~~~!!」と続けて大軍を渡し、「大津編(26)」の頼政一族の滅亡へとつながっていきます・・・でもね、すべて根絶やしって訳じゃなく、頼政の子孫に有名人っていっぱいいるの。まずは、太田道灌さん。これは頼政の末子・広綱の系統。だから当然、三楽斎資正も頼政の子孫にあたるんだよ~。それから、「知恵伊豆」松平伊豆守信綱さん。この人は兼綱の系統。ただ、兼綱は養子だったみたいだけど、頼政の弟の子でもあるので、頼政の甥の子孫ということになる。あ~と~、馬場信春!馬場氏は頼政のパパ・仲政を祖とする家系らしいんだけど、なら頼政の弟の系統ってことかな・・・まあ、馬場氏の出自については諸説あるみたいだけど。頼政の弟の系統ということで言うなら、池田恒興・輝政の池田氏もそうらしい。なんでも、頼政の弟の泰政の系統だって自称してるみたいなんだけど・・・でも輝政は美濃池田氏だからな~。頼政は摂津源氏の出だから、摂津池田氏ってんならまだわかるけどそして私が一番驚いたのは、下間(しもつま)氏はい~、本願寺顕如さんのもとで活躍した下間三家老などを出した、あの下間氏です。下間氏の祖は、頼政の孫の孫だと自称してるらしいんですね~。頼政の嫡子・仲綱の系統にあたるみたいだな。孫の孫だという源宗重は、一族で頼政の孫にあたる源頼茂が謀反の疑いをかけられて討たれた際、連座して処刑される事になってしまった。その時、通りすがりの親鸞が親切にも命乞いをしてくれたので、親鸞が宗重を出家させるという条件で助命されたという。出家した宗重は親鸞の弟子となり、本願寺に根を下ろしたとされている。まだ他にも頼政の子孫を名乗る家系はあるんだけど、ひとまず私が知ってる人だけ紹介しました。まあ、どなた様もあくまで自称だから、どこからどこまでが本当かわからないけどね。頼政の挙兵はあっけなく終わってしまったけど、これが流れを変えたことは確実だし、文武両道でヌエ退治の武勇伝も持ち、源氏で初めての公卿昇進とかってあたり、俵藤太秀郷と同じように、家系にハクを付けるのにふさわしい対象と見られてたってことかな。戦いののち、頼政の子の首はみんな探しだされたが、頼政の首だけは見つからなかった。そうしたことから、実は家臣が首を持って落ち延びたとかいう伝説があり、頼政の首を祀るとしている場所は平等院から離れた場所にいくつかあります。以仁王はどうなったかって?宮は、30騎ばかりの共と奈良へ落ちて行く途中で討ち取られました。お供も宮に殉じたんだけど、その中のひとり、宮の乳兄弟にあたる六条大夫宗信という人が怖くなって池の中に隠れていると、追手が戻ってくるのが見えた。平家方の兵士がかついでいた宮の首のない死体には、長谷部信連がわざわざ届けてあげた例の「小枝」が腰にささっていたという。宮の目的地、南都興福寺では武装して宮のお迎えに向かっていたところだったのに、あとちょっとって所で宮が討たれてしまったので、引き返したとある。以仁王の子のうち、若宮は出家させられた。そのうちの一人、長男の北陸宮(ほくろくのみや)は乳母の夫に連れられ、越前に逃れた。そしてのちに木曽義仲が北陸宮を奉じて上洛することになる。なんとも複雑な運命の糸よ・・・義仲のこの動きに対抗しようとした源頼朝が、以仁王は生きているという噂を流させたせいか、以仁王の生存伝説はいくつかある。頼政にもその後の伝説は色々あるんだけど、頼政の場合は生存説じゃなく、あくまで首にまつわる伝説。なんでやねん・・・で、ここ宇治川には、頼政の怨霊がホタルになって合戦を繰り広げるという伝説があるそうな。一方、馬筏を渡して一躍名を挙げた足利忠綱は、その後色々あった末に後年、政治的に孤立することになり、秀郷流足利氏は忠綱の代で滅亡を迎える。戦国時代も過酷だけど、この時代も大変だよね~。特に鎌倉の御家人なんか・・・余談ですが、「吾妻鏡」では忠綱のことを、 その歯一寸なりといっている。一寸て、大体3センチくらい?前歯が3センチもあったら、口閉じられなくない・・・にほんブログ村
2012年07月04日

平等院のミュージアム・鳳翔館は、内部の展示もかなり現代風。しかし、平等院所蔵の国宝の数々がここにあるので、通常だったら近くで見られない貴重な品々を近くで見ることができる。「鳳凰堂」の名称の由来になったともいわれる、鳳凰堂中堂の屋根にいる、一対の鳳凰もそのひとつ。それから、私が気に入ったのは、「雲中供養菩薩像」。これは鳳凰堂の内部に飛んでる52体の菩薩像のうち、26体のオリジナルを常時展示しているというもの。宙に浮いてるような展示方法も良かったけど、なにより一体一体の菩薩がどれも素晴らしい。残念ながら今回はもう時間がないので、一体ずつゆっくり見ることはできなかったんだけど、さらりと見る中で26人の中からお気に入りを探すってのもなかなか楽しい作業で・・・(笑)。ちなみに、この52体の菩薩様は、みんなそれぞれ楽器を持ってます。52人いたら立派なオーケストラだし、実際にジャンジャカ演奏しながら現れたら、荘厳っていうよりかなり賑やかだよな~とかリアルな想像をしてみたり鳳翔館を出て、近くのお堂をちらっと見てから、南門から出たんだったかな(←覚えてない)。いんや~、歴史だけでも十分楽しめるけど、ビジュアルも相当楽しめる。こんなにすごいところだとは思いもしなかったな。ここに連れてきてくれてありがとう、頼政ただ、私には時間が足りなすぎた。満足するまで見るには、まる1日あっても足りるかどうか・・・(マジな話)。今度はぜひ、たっぷり時間を取って、また来たいところ。そして平等院のすぐ東を流れる、宇治川へ。 橘橋から、宇治川の中州にある宇治公園へ渡る。こちら↓が上流。途中で宇治川は瀬田川へと名を変えるので、これをずーっとずーっと行けば瀬田の唐橋に着く(笑)。 こちら↓が下流。あれが宇治橋だな。あの橋の近くにある、「通圓」ってお茶屋さんに行きたかったんだけど、もう無理・・・ 通圓(つうえん)さんの創業は、なんと永暦元年(1160)。初代は頼政の家臣であり、隠居してから「通圓政久」と名乗った。そして頼政と共にここで討死を遂げて・・・アレ?確か、頼政の墓の近くに通圓政久の墓もあるってことだったけど、わからなかったな~。今度はよく探してみよう。さてと・・・宇治は瀬田と並び、京へ入る重要な場所。様々な戦いがありましたが、今日は平安モードに時間軸を合わせているので、2つの戦いをご紹介しましょう。まずは治承4年(1180)、頼政の戦いから。(「大津編(26)」と若干時間が前後します。)平等院で休息を取ることにした頼政は、宇治川にかかる宇治橋の橋板三間分を外して、敵の来襲に備えた。追手の平家の顔ぶれは、平知盛(清盛の4男)、平重衡(しげひら・清盛5男)、平行盛(清盛の孫)、平忠度(ただのり・清盛の弟)など錚々たるメンバー。ほかに、「景清の錣(しころ)引き」で有名な藤原景清も、追討軍に含まれておりました。平等院で追いついたものの、橋が渡れないので平家方の先頭はストップしたが、後陣勢が我先にとぐいぐい押したので、先陣200騎ばかりが川に落とされて流されてしまった。お気の毒に・・・(笑)。そして両軍とも橋のあちらとこちらで、まず矢合わせ。頼政はこの時、わざと兜を着けなかったと平家物語は語る。また、頼政の嫡男・仲綱も弓を強く引こうとする意図があり、父と同じく兜を着けなかったという。ここで登場するのが、三井寺の僧兵、五智院の但馬。このままでは埒があかないと、大長刀を構えて単身橋の上に躍り出た。平家方では、もちろん但馬を討ち取ろうと弓の上手がバシバシ矢を射かける。但馬は平然と、ある時は矢をくぐり、またある時は矢を飛び越え、正面からの矢は長刀で切って落とした。その見事さに、敵も味方もただほれぼれと見入るばかり。この活躍により、以後は「矢切りの但馬」と呼ばれるようになったという。但馬に続いたのが、同じく三井寺の僧兵、筒井の浄妙明秀(めいしゅう)。箙(えびら)に24本の矢を差し、太刀と大長刀を装備して橋の上に進み出た。そして自ら「一人当千の僧兵だぞ~!かかってこ~い!!」と名乗っちゃった上で連射を始めたが、その名乗りはダテじゃなかった。すぐさま、敵に死者12人、負傷者11人が出た。で、なんでか弓を1本残したままで箙と弓を捨てて、今度は裸足になって橋の桁をひょいひょい渡り、まず長刀で5人。長刀が折れたので、太刀に持ちかえてまた8人。この時の「平家物語」での描写が、 【くもで、かくなは、十文字、とんばうがへり、水車、八方すかさず きつたりけり】となっていて、「くもで」~「水車」までは、いずれも太刀の技の名前なんだと。どんな妙技なのか知りたい方は、脚注つきの「平家物語」で調べてくださいね長刀も折れちゃって、討死を覚悟した明秀は、最後の武器、腰刀で必死に戦った。明秀のピンチに登場したのが、これまた三井寺は乗円坊の一来(いちらい)法師。一来は明秀のすぐ後ろで戦っていたが、「浄妙坊、あぶな~い!!」と思っても、通る道は桁しかないので、追い越せない。そこで、明秀の兜の吹返(ほっぺたの横にある、矢よけのためのでっぱり)に手をかけて、なんと宙返りで明秀の頭上を飛び越え(重いってば・・・)前に出た。宇治の橋合戦を描いた絵では、たいがいこの宙返りする一来の場面が描かれてます。なのに、その後は「一来法師打死してんげり」としか書かれないの。ひどくない、この扱い・・・一来のおかげで死地を免れた明秀は、平等院の門前まで戻って鎧兜を脱いで、激戦を振り返った。鎧に付いた矢傷はなんと63ヵ所、うち5ヵ所が鎧の裏まで通っていた。幸い重傷ではなかったので、自分で灸をすえて傷の治療をした後で僧衣に着替え、弓を切って杖に仕立てて「南無阿弥陀仏」と唱えた後で戦場を去ったという・・・・・も~、この話、面白すぎるんだけど三井寺の境内に、浄妙坊を祀る祠があるって読んだけど、木津川市にも明秀の墓と伝えられてるものがあるらしい。なんでも、以仁王の陵墓とされているもののすぐ近くだっていうんだけど・・・ホンマかいなにほんブログ村
2012年07月03日

一旦、鳳凰堂の左手に回り込んだら、六角のあずまやがあった。 柱に貫(横材)を通した穴が開いてる・・・どこかの部材を転用したのかな。それとも、構造を変えたのかな。この辺からは、翼廊がより近くに見える。あ~スバラシイ・・・ 平等院のホームページには、 【華やかな藤原摂関時代をしのぶことのできるほとんど唯一の遺構として、 このうえなく貴重な建築です。】とまで書いてあるし。なんたって、お金の絵柄になってるくらいだもんね~。 実物は↓こちら。 平等院ができるまでの簡単な略歴は「大津編(25)」に書いたけど、藤原頼通が唐突に別荘を寺にしたのは、それなりの時代背景があってのことだった。平等院の開創は永承7年(1052)。お釈迦様の入滅から2,000年が過ぎたら、その後の1万年は「末法」の時代だよ~って言われていて、この治承7年が末法のスタートの年にあたると考えられていた。京都では飢饉などが起こり、平等院開創の前年には前九年の役が始まるという、いかにもアヤシゲな世相。そんな中、極楽浄土の主である阿弥陀様におすがりしようと貴族達はこぞって阿弥陀如来像を建立したという。藤原頼通もその例にもれず、平等院開創の翌年には阿弥陀堂を建立。これが現在「鳳凰堂」と呼ばれているもの。ただ、鳳凰堂という呼び名は江戸期からなんだそうな。阿弥陀堂は東を向いて立つ。参拝者は池を挟んでお堂の中の阿弥陀様を西に見る形になる。池のこちらは此岸(しがん。この世)、池の向こうは彼岸(あの世)。でも向こうにいるのは阿弥陀様だから、ただの彼岸じゃなくそこは極楽浄土。 暗くて見えづらいと思うけど、正面の屋根は一段高くなっていて、上部にかかる格子には丸窓が開けられている(四角で囲った部分)。この仕掛けにより、池のこちら側からでも阿弥陀様を見られる構造になっている。平安時代の歴史書「扶桑略記」には、 極楽不審久者宇治乃御寺乎礼へ (ごくらくいぶかしくば うじのみてらをうやまえ)と書かれている。現代風に言うと、極楽を知りたかったら、平等院へ行ったらいいよ~みたいな(笑)。まさにここは、極楽浄土の世界だった。治暦4年(1068年)に引退した頼通は、晩年を宇治で過ごす。実に82歳の長寿を全うしたのだから、恐るべき浄土パワー(笑)。とは言っても、最後の最後には財産もごっそり奪われ、ここ平等院しか手元に残らなかったともいうので、世の栄枯盛衰をイヤというほど味わった人でもある。 さて、ここでまた戻って、次の回の内部拝観に並ぶ。鳳凰堂の中は撮影禁止。かなりきちきちに参加者が入った後で、説明が始まる。中におわすのは、大きな阿弥陀如来様(国宝)。特別拝観では、阿弥陀様の額の白毫(びゃくごう)の話とか、色んな話が聞ける。壁には雲に乗った菩薩像が52体。これも国宝。扉10面、壁4面には絵が描かれており、これも国宝。描かれた絵自体も、絵画部門での国宝。国宝を沢山おさめた鳳凰堂自体も、これまた国宝。そんな説明を聞きながらも、建築そのものに興味津々できょろきょろ・・・沢山の説明があったあとで、次の回との入れ替え。お話はすごく良かったけど、自分のペースで心ゆくまで見られないのが残念・・・鳳凰堂の拝観の後で、今度は最勝院へ。 境内にはこれがある。 【春日型 石灯籠 一基 鎌倉時代・13世紀 総高2.5 台座幅90.0 石灯籠は、灯火器を仏教の伝来につれて発展させた我が国独自の灯明器で、春日型は 藤原家氏神として繁栄した春日大社参道に寄贈された一連のものをいう。 本作は、随所に平安王朝の美意識の残映をとどめ、姿は優美秀麗、全体のバランスに 破綻がない。擬宝珠には4枚の華を配す。灯籠の各部に欠失がなく、当初材が完存する 鎌倉時代初期唯一の遺品である。】 (現地解説板より)なんだか、すごいなあ・・・灯籠のことは全然わからないから、遠巻きにしか見なかったけど。その奥にあるのが、こちら。 【源三位頼政の墓 源三位頼政、平清盛の横暴を憤り 高倉宮以仁王の令旨を奉じ平家打倒の義兵を挙ぐ。 治承4年(西暦1180)5月26日 頼政三井寺の僧兵と共に宇治に在り。 平知盛 大軍を率いて宇治に迫る。頼政衆寡敵せず大敗す。頼政平等院境内において 自刃す。時に頼政76歳の老齢なり。】 (現地解説板より)はい、もうおわかりかと思いますが、今日は頼政のお墓参りに来たんですう~。ここで、昨日買った数珠をいそいそと取り出し、手にかけようとしたところ、ぽろりと落とした。ああっ、私の大事な紫檀の数珠が・・・!!墓の入り口にはチェーンが掛けられてるので、墓まで最大限近づくことはできない。ので、少し離れたところから手を合わせて頼政にごあいさつ。三井寺で買った数珠を頼政の墓でおろすってのも、両者の縁を考えればちょっと感慨深いものがあるよな~。さて、これで平等院でのお目当ては済んだ。あとは、梵鐘とかがあるミュージアムをさらっと見てと。ミュージアムは近代的な建物になっていて、だいぶ時間も押してきてたので歩きながらすら~と見るつもりだったけど・・・ここの展示物が、これまたすごかった。まず、梵鐘は「大津編(22)」に書いた通り、「姿の平等院」として日本三名鐘のひとつ。かなり細かく色んな紋様が施されてて、その名に違わぬ美しさ。こんなの、初めて見た~。保存の観点からオリジナルがミュージアムにあって外の鐘楼にはコピーがかけられてるって事だったけど、そのおかげで間近にこの名鐘を拝むことができる。平等院のホームページにはこの鐘の写真が載ってますので、見たことない方は是非ご覧ください。撞いたら紋様がダメになるだろって思わずツッコミを入れたくなるような、実に美しい鐘です。にほんブログ村
2012年07月02日

表門から入って道なりにまっすぐ行けば鳳凰堂だけど、今日ここに来たのは別の理由があってのことなので、入口の先から左の小道に入る。 【扇之芝(おうぎのしば) 治承4年(1180)5月26日、源頼政は高倉宮以仁王を奉じて平家打倒に立ち上がり、 平知盛の大軍を宇治川に迎え撃ちました。 しかし戦利なく、流れ矢に傷ついた頼政は軍扇を開き、 「埋もれ木の花咲くこともなかりしに 身のなる果てぞ哀れなりける」 と辞世の一首を残し、この地で自刃したと伝えられています。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)て事で、「大津編(11)」で頼政と以仁王が三井寺を脱出してからの続きとなります。治承4年(1180)5月25日夜、1,000騎程を引き連れて頼政は南都興福寺を目指したが、以仁王が疲れたらしく、平等院で休憩を取ることにした。「平家物語」では、前夜に眠れなかったため、以仁王は6度も落馬したとある。その間に追手がやってきてここで戦闘となるが、平家方の兵は数が多く、兵の入れ替えなどしてるスキを見て、頼政は以仁王を先に奈良へ向かわせた。 残った頼政の一族郎党で応戦するものの、数が違いすぎる。そのうちに頼政は左の膝口を射られる重傷を負ってしまう。「もはや、これまで・・・!」と自害のために平等院の中へ退いたところを、敵が襲いかかってきた。邪魔をさせまいと頼政の次男・兼綱が立ちふさがるが、最後は敵方14だか15人がわらわらと兼綱に折り重なって、討ち取られてしまう。14・5人が山となる光景って言われて、ラグビーを連想するのは私だけじゃあるまい・・・そして頼政は辞世を詠み、西に向って南無阿弥陀仏と10回唱えたあと、自害したといわれる。阿弥陀様は極楽の主であり、西方に領国(=浄土)を持っておられる方なので、頼政のこの作法は正しい。うんうん(笑)。で、自害したといわれるのが、現在扇の形に植えられた芝生のあるこの場所。扇の形になってるのは、謡曲「頼政」で自害の際に軍扇を敷いたとしていることに由来する。「平家物語」では、頼政の臣・渡辺党の唱(となう)が泣く泣く主君の首を落とし、石にくくりつけて宇治川に深く沈めたとされる。他にも、一族郎党が沢山ここで討死した。頼政の遺骸は御堂(あるいは釣殿)に隠されたとあり、重傷を負った頼政の長男・仲綱は父のそばで自害した。首級は家臣が取って、大床の下へ投げ入れたという(「平家物語」)。渡辺党の競(きおう)は、頼政の挙兵のきっかけになったかもしれない愛馬のトラブルにおいて、平家に痛烈な意趣返しをしたため、平家方では生け捕りにしようとやっきになっていた。が、競も充分それを承知していたため、致命傷を負うとすぐに自害して果てた。それから、頼政の養子・源仲家。この人は、帯刀先生義賢(たてわきせんじょう・よしかた)の嫡男であり、木曽義仲の異母兄にあたる。義賢が悪源太義平(頼朝の兄)に殺された際、父と共にいた義仲は木曽へと落ち延び(てか、連れてかれた。まだ2歳だから)、京に母といた仲家は頼政に保護された。頼政との仲は良かったらしく、「死ぬ時は、一緒ね」と日頃から約束していた通り、さんざんに戦ったあとで討死した。頼政軍の中には、園城寺や他の寺院からの助っ人もいた。その一人、円満院の源覚という人は、もう宮も遠くまで落ち延びたろうと頃合いを見計らって戦闘をやめ、大太刀・大長刀を両手に持って敵中を突破した後宇治川に飛び込み、底を泳いで川を渡りきり、高いところに登ってから「やーいや-い、ここまでおいで~!!」とわざわざ囃した後で園城寺へ戻ったという。この戦で描かれる園城寺の僧兵たちは、実に自由で生き生きとして魅力的で、ホントに面白い。まあ、源覚さんについては武器・武具とも離さず川を泳ぎきったというから、そりゃウソでしょ~!!って感じだけど(笑)。さて、扇の芝のすぐ奥にあるのが観音堂。 平等院創建当初は、この場所に本堂があったが焼失。鎌倉時代初期に本堂の跡地に観音堂が建てられたと推測されている。それでそのまま現在に至るってことで、つまりは鎌倉時代の建物らしいんだけど、まだ古建築の見方もあまり知らない頃だったから、さらっと見て通過しちゃった。今度行ったら、よく見てみよう。かつての本堂は宇治川に直接面し、回廊が釣殿へと続き、対岸から来た舟が釣殿に横付けできる構造になっていたともいう。観音堂のさらに奥には実に見事な藤棚があって、花は咲いてなかったけど、シーズンには蜂がすごかろう・・・とか想像しながら先へ進む。奥へ行くと目に入るのが・・・ 手前の橋は勝手に通れないようになっていて、別料金を払うと見られるらしい。1回50名様限定で、20分ごとに拝観案内が始まり、300円。もちろん、見るさ~。でも今は眼の前の素晴らしい建物に釘付け・・・ いやもう、すごいの一言。昔、修学旅行で来てるけど、感動が全然違う。ただね、ここって、すごく評価の分かれるところだよね。あ、評価っていっても建築のうんぬんとかいう話じゃなくて、一般の観光客が見た感想のことだけど。見ての通り、現在では彩色がほとんどハゲてるので、「写真のがよかった。がっかり~」っていう人もいれば、私のように「写真なんかじゃこの素晴らしさは伝わらない!!」ってのもいる。人間、色々ですわよね・・・ここには「飲食禁止」とかの立札があったんだけど、「写生禁止」ともあった。たぶん、人が多いからスケッチなんかしてたら循環を妨げるってことなんでしょうけど、それにしても変わってるな・・・しかし、ホントに素晴らしい・・・ここへはあくまで頼政萌え~に来てるので(笑)嬉しすぎる誤算。私はここ、一日中でもいられる。ただ、残念なのは鳳凰堂の近くに寄って正面からの写真が撮れないこと。お堂の前には写真の通り池があるし、内部拝観の時には靴を脱いで上がるので、下へ降りられない。ので、こんな風にズームで撮るしかない。 うわ~、中に入りきらなくて人があふれてるじゃん・・・1回50名様って、詰め込みすぎなんじゃ・・・↓ランキング参加ちうで~す。にほんブログ村
2012年07月01日
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