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前回は、三原要害について。ここからは、正真正銘(笑)三原城の歴史に入ります。永禄10年 三原城築城開始。本丸・二の丸・三の丸・船入ができる。天正3年 三原城の存在が文献で確認できる。天正4年 足利義昭が勝手に備後・鞆に押しかける。 木津川口の戦い(第一次)。天正5年 義昭がらみの出陣。隆景は備中笠岡へ、元春は月山富田城から山陰道を 東へ。輝元は三原城へ本営を置く。天正6年 木津川口の戦い(第二次)。天正8年 三木城落城。本願寺が信長と講和を結ぶ。 秀吉が中国攻めの拠点として、姫路城の築城を開始。 隆景、三原城の修築を命じる。天正10年 4月、隆景が三原城の修築を命じる。 備中高松城の戦い。本能寺の変おこる。 秀吉と講和締結直後の6月17日付、堀普請を中心とする三原城の 修築を命じる。天正11年 隆景、三原城下の整備を進める。重臣3名に城下の整備状況を 監督させるため、5日に1度の見回りを命じる。天正14年 隆景、伊予に封じられる。天正15年 九州攻めで秀吉が三原城に2日お泊り。家康は宗光寺に宿泊。 隆景、筑前・築後に封じられ、居城を名島城に移す。文禄元年 肥前名護屋への往復で、それぞれ秀吉が三原城にお泊り。文禄4年 隆景隠居。慶長元年 隆景、三原城の大規模な修築・再建を始める。これにより、ほぼ 三原城と城下町の原型が整う。 慶長2年 隆景死去。 以後、三原は毛利家の直轄領となる。以上は、一般的に言われる毛利家絡みの出来事と三原城の概略です。毛利元就って人は、何度か引退宣言をしては息子や孫に泣きつかれてその都度取りやめにしてるんだけど、弘治3年(1557)に防長経略を完了した後にも一応本気で「ワシ、普通のおじいさんに戻るんじゃ」と言ったのに、嫡男・隆元がこれに猛反対。最後は「わしが死ねば、おとんも引退を諦めるじゃろう」とまで言い放って、元就はすごすごと引退宣言を取り消した毛利家の戦いは、それまではどちらかといえば内々での戦いだったのが、これ以降は、大友と尼子を相手にしたスケールの大きな戦いへと突入し、いわゆる「中国の覇者」への道を歩み出す。本家当主である長男の隆元を中心として、次男・元春、三男・隆景の3本の矢がまとまって大軍を動かすという、これまでとは質の違う戦いが始まることになった。これが永禄以降。さて、三原要害に在番を置くようになって以降、隆景は三原要害から作戦の指揮を取ることが段々と多くなっていったが、「海の隆景」が始動した三原要害の在番申し付けから14年後の永禄10年、三原で本格的な城の構築に着手する。今の地形で考えれば、沼田川を遡った内陸にある新高山城より、そりゃ~三原の方がいいだろう、と思っちゃうけど、「三原編(6)」に書いた通り、当時は今と地形が全く違っていた。「三原編(6)」で『三原城のスタートを考えた時にどうも私にはイマイチ合点のいかない事があるので』と書いたのは、ここの点なんです。つまり、新高山城の近くまでも海が迫っていたのなら、水軍の拠点として別に不都合はなかったんじゃないのかな・・・?て思っちゃうんだよね。室町期には、三原は「三原浦」と呼ばれ、付近の住民には朝鮮と交易する者もいたという。また、三原やその周辺で造られた塩を畿内へと運ぶ船が、港として利用しており、さらに山陽道も通る。そうした港としての実績を踏まえ、さらに自らお試ししてみて、使い勝手が良かったのかもしれない。海陸の交通の要衝でもある訳だし。あるいは、ほぼ瀬戸の海を押さえるまでに水軍の力が大きくなり、砦では何かと不都合を感じるようになったのかもしれない。あと、よくいわれる理由として、世の中が大きく目まぐるしく変わる中で、一刻も早い情報収集・分析が必要だったというのがある。しかしそれらは、三原城を単品として見た場合の推測。私にはこの築城もまた、毛利本家の動向と無縁とは思われない。 永禄9年(1566)11月21日、月山富田城落城。かつての主家であり長年の宿敵であった尼子氏を倒し、翌年2月には、元就が吉田郡山へ引き上げる。帰ってから元就は再び引退宣言をしたものの、孫の泣き落としにあい、今度は輝元の後見となる。ただし、富田城の戦いを最後に、元就は最前線に出なくなる。タフな元就さんは、出陣はまだするんだけどね(笑)。山陰は元春、山陽は隆景という分担が確立するのもこの頃。つまり、若殿・輝元を中心とした、いわゆる両川体制が本格化した時期といえる。ニュー「三本の矢」の誕生だあ~ここで三原城を築いたことは、とても象徴的、かつ重要な出来事だと私は思う。しかもその城は、わずかな期間で何百もの城が姿を消したという、一国一城令の大試練をも乗り越えた。施設や縄張、そして立地の重要性などが総合的に評価された上での生き残りなんだろうから、それだけの城を造り上げた隆景ちゃんて・・・要するに、山陽道守将であり、瀬戸内海の統轄者として新たなステージへ進んだ隆景にふさわしい威容を整えた新しい城、それが三原城だった。と、ここまで背景を考え合わせてみて、三原城というのがなんだったのか、ようやくわかった。海の支配に乗り出した三原要害。瀬戸内海を掌握し、日本最大の水軍の統轄者となって築いた三原城。ああ、そうか・・・前身の要害時代を含め、三原城ってのは隆景ちゃん自身を表してるんだ・・・って、ここで初めて自分なりに消化するに至った。 その後も、刻々と変化する情勢と、隆景個人の立場が変化するにつれて、隆景そのものである三原城もまた、その姿を変えてゆく。天正元年頃には、常駐に近い形で隆景が三原に在城していたといい、ここに水軍を呼び集め、ここから出撃させ、次第に本城的な役割を持つようになる。後に始まる対織田との全面戦争においては、小早川水軍が三原城から木津川口へ向けて出撃もしている。また、天正5年には毛利家当主・輝元が三原城に本営を置いたが、秀吉の中国攻めが本格化する前(おそらく天正8年)には、城を堅固に修築するよう申し付けているので、再び三原城に輝元の本営を置く心づもりがあったのかもしれない。備中高松城の戦いで講和が成った直後にも、先行きが全く見えない中で慎重な隆景ちゃんは大規模な修築に着手して、新しい時代の動きに対応しようとした。こうした様々な変遷を経て、段階的に整備・修築がなされていった結果、城郭兼軍港としての形が整った。城下町の整備は一般的に天正年間の中頃といわれるけど、法常寺のところで書いたように、元亀2年には「引っ越しのススメ」を出しているので、寺町の形成についてはもっと早い時期にプランが出来ていたものと思われる。寺町のプランが出来てたんなら、その時点ですでに本拠を移すつもりだったろうと思うんだけど、実際に新高山城から三原城へ本拠を移したのが何年なのかはわかっていない。秀吉の城割令に伴い、天正14年頃には事実上、新高山城は破城同然だったろうと見る向きもあれば、佛通寺の住持記および附紙では、『隆景公舟木新高山ニ住ルコト五十年、則慶長元年迄也』『同(慶長元年)秋新高山之城三原江御引キニ付』(カッコ内は戦国ジジイが追加)と伝えている。三原城の遺構は少なく、文献資料なども少ないそうで、名城とうたわれる割には思ったほど研究が進んでないらしい。特に、隆景時代の絵図などは残っていないため、隆景の三原城の詳しい実態についてはわかっていない。後世の記録によると、三原城の規模は東西約900m、南北約700m、本丸・二之丸・三之丸を配し、二層三層の隅櫓が32、城門が14あったとされる。天正年間以前の記述では、修築や強化に関するものばかりなので、現在絵図に伝わるような大規模な近世城郭のスタイルを整えたのは、おそらく慶長の大工事の時と思われる。ただ、隆景が慶長2年に亡くなっているので、その時点で32も櫓があったかというと、ちょっと疑わしい。福島正則が芸備に入封した際、本城である広島城に12基の櫓を新設していることから、三原城海側の10基の櫓についても、福島家による増設と見る人もいる。まあ、櫓だけじゃなくそれ以外にも手は加えられてるでしょうけど。福島家以後には浅野家が入り、あとは明治の廃城まで浅野家が預かるんだけど、この期間は時期が時期だけに、堀をさらう申請だとか、石垣の修築の申請くらいしか出してない。という事は、隆景ちゃんがおおむね造り上げたものに、福島氏がさらに化粧を厚塗りしたものが完成形・・・みたいな感じと捉えていいのかな~。今後の調査・研究が進んで、より多くのことが解明されることを祈るばかりですにほんブログ村
2012年10月31日

さて、前回のような調子で書き続けていくと永遠に終わらなそうなので(笑)、前回のおさらいも含めて、ざっと時系列で関連する大きな出来事を書いてみました。天文15年 元就隠居、隆元が家督相続。 吉川家でクーデター。元春の養子縁組の話が舞い込む。天文16年 隆景元服。元春の養子縁組が成立する。天文17年頃 元就が沼田小早川家臣・乃美氏から継室(乃美大方)を迎える。 天文18年 元就が隠居報告のため、山口を訪れる。天文19年 元春、吉川家本拠の日野山城へ入城。 隆景、沼田小早川当主・繁平の妹を娶り、小早川本家を相続する。 元就、井上一族の粛清に踏み切る。天文20年 隆景、沼田小早川本拠・高山城に入城。 「大寧寺の変」おこる。大内義隆自刃。天文21年 隆景、新高山城を築き本拠を移動。能島村上武吉に協力を求める 書状を送る。 尼子晴久、備後守護に任命される。山口を離れられない陶隆房は、 備後の鎮圧を元就に命じる。 陶隆房が厳島で独自に、通行料の徴収を始める。天文22年 隆景、三原要害の在番を申しつける。 陶隆房が村上武吉に、駄別料の徴収を禁止する書状を出す。 津和野城主・吉見正頼が陶隆房に反旗を翻す。天文23年 元就、5月12日の佐東銀山城攻撃により、「防芸引分」正式表明。(1554)弘治元年 厳島の戦い。(1555)天文18年の元就の山口訪問の件については、「大内氏館(4)」に書いてますので、忘れた方や読んでない方はそちらもあわせてご覧下さい。毛利家が弱小国人領主から這い上がっていく過程を見てると、どこまでが先見の明でどこまでが幸運な偶然なのか、わからなくなってくるんだよね~基本的に元就は「丁か、半か!どうとでもきやがれ!!」ってバクチは打たない人。ただ、よく「神様は後頭部がハゲている」って言われるけど、仮に後頭部だけじゃなく頭全体で髪の毛が1本しかなかったとしても、元就は掴んで離さないだろうとは思う。いや、1本もなかったとしても、神様の頭に爪をたててしぶとく掴まってるカモ・・・井上一族の粛清についてはいずれ書くと思いますが、ともかく元就が陶隆房と協力して行った大寧寺の変の前年までには、元春と隆景の養子先での地盤はほぼ固めていたし、家中の大掃除も済んで新たな毛利家の体制が動き出していた。2人の子の養子縁組自体については、大寧寺の変とは直接の関係はないと思うけど、縁組決定以降の体制固め、特に天文19年に諸々の総仕上げに入っている事については、大寧寺の変と無関係と見る方がむしろ不自然でしょう。もちろん、これまでの通説の通り、毛利家が積極的に大寧寺の変に加担していなかったと信じるのであれば、この解釈は根底から崩れていきますが。義隆を死に追いやった後、大きな果実を手に入れた毛利一族だったが、その翌年には陶隆房との関係に亀裂が入る。すなわち天文21年、尼子晴久から備後を取り返すべくその鎮圧を隆房から命じられた元就は、まず滝山城を陥落させ、続いて旗返(はたかえし)城を攻撃。ここに案外手こずって、半年かかってやっと落とした。これだけ頑張ったのだから、旗返城を管理させてよねって陶隆房にお願いしたところ、隆房はこれを認めなかった。仕方がないのでぐっとガマンの子でいたところ、翌天文22年には隆房に不満を持つ石見の津和野城主・吉見正頼が堂々と挙兵した。元就のところには、吉見・陶の両者から応援を要請する書状が届いた。情勢を鑑みて、元就自身は陶側に付くことを決断したが、嫡男・隆元がこれにモーレツに抵抗した。隆元だって別にイケイケなタイプじゃないんだけどね。とにかく異常なほどの頑張りを見せて、翌天文23年に元就を「防芸引分」・・・ぼうげいひきわけ、つまり隆房との決裂まで導いた。そして、その翌年の弘治元年には、厳島の決戦に至る。さて、この一連の大きな流れの中での隆景ちゃんの行動はといえば、先を見据えていたのか、ハマりすぎててコワいただ、高山城入城の翌年に、新高山城を築いたことが相変わらず理解できないんだけど。小早川氏代々の居城(高山城)と沼田川を隔てただけの対岸に、何でわざわざ新しい城を築く!?しかも、新しい城を造ったその翌年に三原要害に目を付けている・・・いえ、とりあえず個人的な疑問については置いておきましょう。竹原家は元々大内氏寄りだったし、元就の姪が嫁いでいた関係もあって、毛利家とは誼があった。一方の沼田家では、上述の通り、重臣の乃美宗勝のいとこ(あるいはその娘)が元就に嫁いでおり(=乃美大方)、これまた乃美と毛利の間で近しい関係を築いていた。尼子が備後にちょっかい出して、神辺城(現・福山市)が尼子方に寝返ってからは、沼田家の領地が大内と尼子の最前線となった。沼田家当主・繁平はまだ幼く、この頃には失明していたとされていて、先行きに危惧を抱いた宗勝ら家臣は、隆景を本家に迎えるべく力を尽くしたという。もちろん、ここに元就の意思が絡まないハズはないと思うけどね。神辺城の攻略には時間がかかり、隆景も参戦しているが、この戦いに因島村上氏の協力を仰ぎ、さらに乃美宗勝の妹を因島村上吉充(よしみつ)に嫁がせて、隆景はまず因島村上家と縁戚関係を結んだ。次に、能島村上家当主・武吉の叔父であり、備中笠岡を握っていた村上隆繁を取り込んだ。その上で、これまで認められてきた駄別料(要するにショバ代)の特権を陶隆房に一方的に禁止されて不満を募らせていた村上武吉に、「以後よろぴく~」との手紙を送った。これが天文21年11月のこと。旅日記の方でも書いたように、小早川の庶家は次第に海へも進出して、水軍を持つようになっていった。だけど、陶隆房率いる大内家の水軍力とは比べ物にならない。因島・能島・来島の村上3家の中で頭領格であったとされるのが、能島村上家。その当主の武吉は、能島村上家の全盛期を築き、フロイスに「日本最大の海賊」と称されたほどの人物。天文21年までの段階で、隆景が「防芸引分」をどれだけ見据えていたかはわからないけど、厳島の戦いにおいて村上水軍が勝利の大きな決め手となった事実は見過ごせない。もしかしたら、「そがぁなん、全然考えてんかった~」かもしれない(んなハズないけど)。あるいは、山国の小領主であった毛利家は、元々自前の水軍なんかは持っておらず、せいぜい旧武田家の川ノ内警固衆を引継いだくらい。大内義隆の死と引き換えに、毛利家が南へ勢力を伸ばし広島湾岸にまで達した時期でもある事を考えると、水軍の強化に関してパパの内命があったかもしれない。が、それを示唆する資料は今のところ見つかっていない。いずれにせよ、沼田本家を継いだ当初から隆景が水軍力を強化するビジョンを持っていたことは明らかであり、元から水軍の砦としてあった三原要害に在番をあらためて置くなど、その後の瀬戸内を統括する人生を予感させる動きを早くから始めている。そして、水軍の強化に着手したわずか数年後には、厳島の戦いにおいて見事な花を開かせ、さらに海からの強力なバックアップでもって、その後の毛利家の発展にも大きく貢献した。実に、お見事隆景の生家である毛利家では、厳島の戦い、防長経略などを経て勢力が飛躍的に拡大していくにつれて、毛利家譜代の家臣だけでは手が足りなくなってきた。そこで、他家を継いだ元春と隆景にも毛利家の運営に参画させることになったが、領国の維持発展に制海権の掌握が不可欠であるとの認識を持っていた元就は、隆景と輝元の連携を特に重視したという。兄である隆元の死後、隆景はより毛利本家を守る意識が強くなっていくが、甥である輝元に対しては厳しくしつけ、時には(いちおう、人目につかない所で)折檻なんかしちゃったというエピソードは有名のちに秀吉が隆景を重用したのは、もちろん隆景自身の才能を評価したからでもあるけど、瀬戸内海を掌握する小早川水軍の力を必要とし、また隆景の輝元に対する影響力を取り込みたかったから。別に、元春ちゃんが隆景ちゃんより劣ってた訳じゃない。実際、四国攻めに始まり、九州攻め、そして海外遠征と隆景はその持てる水軍力をいかんなく発揮した・・・城好きが書いた三原城の訪城記は数多くあるけど、三原要害を重視している人はあまり・・・というか、皆無に近い。けれど、「海の支配者・小早川隆景」は三原城じゃなく、その前身である三原要害からスタートしていたのだ。にほんブログ村
2012年10月30日

三原城<広島県三原市館町1>(住所をクリックするとMapfanにリンクします)私のブログでは、記事としては1つの旅の中でも便宜上、旅日記と城の記事のカテゴリーを分けていますが、通常は旅日記と時系列順に城の記事を交えてます。が、今回は4日にわたってちょいちょいと城関連の場所を訪れてますので、いつも通りの記述にするとどうにもまとまりがつかないため、三原城については時間の流れを無視して書きますのでご了承ください。歴代長編シリーズの中でも、過去最高の話数を誇る「三原編」の旅日記を辛抱強く読んで下さっている方にはおわかりでしょうが、旅日記の方でも結局は城下町を歩いてますので、ホントは両方読んでほしい。現在残る城の遺構だけが「三原城」ではないということが、わかって頂けるのではないかと思います。まあ、ひとまずここでは城の遺構やそれに準ずるものを旅日記の方から抜き出して書いてます。それではまず、やっぱり天守台から始めましょうか。三原城天守台は、日本で一番駅に近い。だって、天守台の南側が三原駅と合体してるから。なので、天守台に上がるには、三原駅の構内にあるこの扉を通ります。 ここから階段を上がると、現在では綺麗な公園に整備されている天守台の光景が広がるんだけど、まずは右手に天守台より一段下がったところがあったので、そこへ寄ってみた。 ここからは、天守石垣が間近に見える。写真を撮るには柵がジャマだけど、これがないと堀へ落ちる不注意者がおるかもしれんしな・・・本丸近辺の現在の地図と、江戸期に書かれた備後國三原城繪圖(オレンジの部分)を重ね合わせたものがこちら。 (駅の看板より)「現在地」ってあるのが、天守台への入り口のドアだから、今私がいるのが「現在地」よりもうちょっと右上の部分。この場所を、天守台の方から見るとこうなる↓。 堀の対岸は、二の丸の石垣。写真真ん中の堀のどんづまりの部分で本丸と二の丸がくっついて、そのまま三原駅のずっと向こう側まで南東に延びていた。城跡の上に線路がどーんと乗っかっているのがよくわかるんじゃないかと思います。ちなみに、この場所を堀のどんづまりの場所から見上げるとこうなる↓。 なかなかいいっしょ上の本丸に戻りまして、天守台東側の水堀。 さて、天守台に上がります。 【三原城は、瀬戸内海の水軍を掌握していた小早川隆景が、永禄10年(1567) 沼田川河口の三原湾に浮かぶ大島・小島をつないで、天正10年(1582) 前後と、慶長元年(1596)のころ偉容を整えたといわれる。 城は、海に向って船入りを開き、城郭兼軍港としての機能をそなえた名城で、 満潮時にはあたかも海に浮んだように見えるところから浮城とも呼ばれた。 小早川氏のあと福島氏、浅野氏の支城となり、明治維新後、一時海軍鎮守府用地と なったが、沼田川の堆積作用などを理由に変更され、建物・樹木などが競売に 付された。その後、鉄道が本丸を貫き、明治27年(1894)6月には、 三原駅が開業した。 今では、市街化がすすみ、天守台とそれをめぐる濠、船入跡、船入櫓跡及び 本丸中門跡を残すのみである。】 (現地解説板より)施工主である隆景ちゃんは、この城を「みはらじょう」でなく「みわらじょう」と呼んでいたであろうことは、「三原編(6)」に書いた通りです。さて・・・歴史重視派の私としては、三原城の概略についてご紹介しておかないと話が進めにくいので、ここからちょっと歴史の話に入ります。一部、法常寺での記事と重複しますが、ご了承ください。三原城の築城は、一般的に上の解説の通り、永禄10年といわれている。が、前段階として隆景が天文22年(1553)3月に、「三原要害」の在番を八幡六郎右衛門に申しつけた記録がある。この三原要害は、天守台の北側の桜山にあったといわれる。桜山には、詳細は不明なるも文応年間から文永年間(1260年~1274年頃)、山名氏によって築かれたとされる桜山城があったから、この施設を砦として使っていたのかもしれないな。当時は、桜山まで海が迫ってたからね。あるいは、海上にある島に要害を置いたともいわれる。ぶっちゃけ、大抵の人は三原城(三原要害含む)を単品でしか考えない。普通の城だったら、まあそれでもいい。だけど、吉川元春や小早川隆景に関しては、どうしても毛利本家の動きを抜きにしては語れない。キーマンである毛利元就の行動と連動して隆景の城を紹介している人はほとんどいないので、元就についてやっと少し勉強し始めたばかりの私にとっては、実は非常に荷が重く、また頭の痛い話題なのだま、とりあえず自分でわかる範囲でしか書けませんけどね、当然至らないところだらけなので、機会があれば是非私に色々教えてください。でっ、この天文22年はどんな年だったかというと、当時もし新聞があったとしたら、絶対号外が出るだろうというような、2つの戦国史上のビッグニュースの狭間の時期にあたる。まずは天文22年からさかのぼること3年前の、天文19年(1550)。この年は、隆景ちゃんのハッピーウェディング・・・いえ、思いっきし政略結婚ですが。竹原小早川家当主・隆景が、沼田(ぬた)小早川家のお姫様(問田の大方)と結婚して、小早川本家を継いだ年です。また、同じ年の2月には、吉川家の養子となった兄・元春が吉川氏の本拠・日野山城に入城している。隆景が竹原家に養子に入る際も、竹原家の申出から隆景の入城まで、元就は3年かけてるんだけど、元春の養子縁組が成立してから実際に入城するまでも3年。この3年の間に、元就は念入りな下ごしらえを施し、元春ちゃんのために万全の態勢を敷いてやっている。元春の養子契約が正式に整ったのは3年前だけど、交渉はその前年から始まっていた。交渉が始まった天文15年(1546)、元就が大内義隆へ赦免を乞い監督下に置いていた吉川家当主・興経(おきつね)が、新たな本拠・日野山城を勝手に構築して元就をイラッとさせる。吉川家から迎えた妻・妙玖が生きてた頃は、妻の実家に対し好意的だった元就も、天文14年に妙玖が亡くなってからは態度を変えた。そして吉川家乗っ取り作戦がスタートした天文15年はまた、元就が50歳にして隠居して、24歳の嫡男・隆元に家督を譲った年でもあった。何が言いたいかというと、毛利家は段階を踏んで色んな顔を持っているけど、この天文15年から新たな段階へ踏みだした訳なんです。「毛利元就成り上がり街道」の、半分よりちょっと手前の位置くらいでしょうかねえ・・・にほんブログ村
2012年10月29日

名残惜しいけど、巨蟒橋(きょもうきょう)を渡って本寺域を出る。案内図には、そう離れてないところに「鎮守社」と描いてあったので、最後に探しに行った。仏通寺川に沿って奥へ進むと、すぐに案内の碑があった。 ちょっと写真がないんだけど、奥の谷から細い川が流れていて、ちと心細い橋を渡るようになっていた。ここから聖域なんだな。たぶん、この奥の谷にもかつては堂宇があって、そこに雪舟さんが居候したんじゃないかと思う。 いかにも人の来なさそうな神社だよな・・・ホント私って、こーゆーとこばっかりでも、社殿は思ってたより立派~。 おお、小早川の幕が懸かってるし 【御許(おもと)神社 当山鎮守社、応永11(1404)年、九州の一僧、豊前の国、宇佐八幡宮の 本山(もとやま。許山)に由来する八幡大菩薩の石像を持参。 開山禅師と小早川則平公 神廟を創建し、佛の権現としてこれを祀る。山中の 野鹿をもって神の使いとした。社殿を感夢殿と称す。祭日は8月15日。】 (現地解説板より)帰ってから「大本山佛通寺誌」を読んでたら、もう少し詳しい伝承が書かれていた。 【鎮守(御許権現) 応永11年異僧が豊前の御許山から石像を持参し開山禅師に呈して、 「この石像は八幡大菩薩陰地(因地、修業中)の時、自刻されたところの 本地弥陀の尊容で霊感により持参しました。どうぞ祀ってください」と申出て、 鎮守廟を建て御許山権現と号した。 遷宮の時に野鹿が群り鳴いたので、地方民は鹿をこの神の使いとしたという。 寺で飼っていたものを放つときは角にお経を書いたから、 猟師も決して捕らぬという。】う~ん、縄文時代じゃあるまいし、猟ってそんな接近戦じゃないから、果たして角にお経が書かれてるかどうかなんて、遠くから見わけがつくものだろうか・・・なんてツッコミをすかさず入れた後で、自分がイヤになりましたいやでも、鹿で人生が狂った人もいるしさ(笑)。(「三原編(6)」をご参照ください)佛通寺近辺では、鹿は獲らない方が無難だよね。中には小さな本殿がある。まだ新しくてキレイ。 小さな本殿の中にはさらに厨子があり、ご神体らしきものが鎮座していた。正面からじゃ撮れないので、脇からムリムリに撮ったんだけど、写真を見て「やっぱり撮っちゃいけないモノかもな・・・」と思い直して、すぐ削除した。そーゆーことって、あるでしょ?ちなみにここのは、石像というほどのものじゃなく、なんとな~く人っぽいかな~?って感じの、ちっちゃくて素朴なもの。素朴な造りだけに、なんだか迫力があった。さて、これで佛通寺はおしまい。含暉(がんき)には誰も来なかったし、本寺域でも2~3人くらいしか見なかったな~。ほとんど一人占め状態で、静かでとってもいい時間だった。雲水さんはイケメンだったし(←しつこい)バス停まで戻ったら、朝閉まってた売店が開いてた。なにか土産でも買うかな~と思って店先を覗いてたらバスが来たので、結局何も買わずに再びバスの人となる。朝のバスは三原駅から直行だったけど、帰りは西にある本郷駅を経由するルート。バスのおじちゃんに「おねーさんはどこまで行くのん?」って聞かれたので、「三原駅です」って答えたら、「ふ~~~~ん・・・」て反応だった。アレ?何か変?バスは走り出して、途中「真良」(しんら)ってバス停を通り過ぎた。真良?どっかで聞いたような・・・ああ!古代山陽道で駅が置かれたとこだ!!(↑「三原編(6)」をご参照ください)後から知ったんだけど、佛通寺への道も、古代山陽道だったらしい。なら、そんなに辺鄙な土地に造られたって訳でもなかったのかな。もしかしたら、(大内)盛見も同じ道を通って周及に会いに行ったのカモ・・・本郷駅では、しばらく時間合わせをした。なんか終点っぽかったから、もしかしたらここで一回料金を払わなきゃいけなかったのかな?いやでも、おじちゃんは私の行き先を知ってるんだし、そんならそうと教えてくれるだろう・・・とあれこれ考えてるうちに、三原駅へ向けて再びバスが走り出した。さてと・・・昨日、糸崎へ行けなかったから、バスを乗り継いで糸崎まで行かないとな~。バスの車内で時刻表を調べてたら、ちょうどいいバスがあった。けど、それに乗るとご飯が食べられないし、佛通寺線ほどじゃないけどバスの本数が少ないので、食べてると遅くなる。ので、とりあえずバスの中でシリアルバーだけ食べて飢えをしのいだ。ああ、またタコ料理が遠くなった・・・さて。文字数が余ったので(笑)、ちと三原駅をご紹介しましょう。まあ、私の「ご紹介」ってのはいつもロクなもんじゃないけど・・・ここには親切にも改札の外にトイレがあるのですが、こんな貼り紙が・・・ えええ~っ!今どき、紙なしィィィ~!?三原って、治安が悪いのかな・・・とぶつくさ言いながら個室に入ったらば、 「トイレ紙なく アンハッピー!!」に貼り替えたい気分だった。三原駅にはいくつか出口があるようですが、そのうち西口は、 ここを抜けると西口ロータリー、「隆景広場」です。 ロータリーの真ん中には、この広場に名義貸しをしたご本人様がいらっしゃいます。 この像の写真は何度も見たけどね、ちょっとビジュアルが気に入らない・・・豊臣五大老の一人であり、慎重な隆景ちゃんがSPも付けずに一人で無防備に座ってる訳がありません。彼の向かいには、ちゃんと櫓があるんです。 もし彼にイタズラでもしようものなら、この櫓からきっと矢玉が飛んでくるでしょうから、ご注意あそばせ。そして、櫓の隣の標識もクネクネしてるし・・・三原って、面白いものがいっぱいあるでしょう?ところで、三原にはやっさの他に、毎年11月の第2日曜日に駅周辺で行われる「浮城祭り」というのがあるそうな(今年は11/4)。小早川甲冑部隊の旧城下練歩きやら茶会やら神楽などが行われ、一昨年には53,000人もの人が訪れたという。で、この隆景広場では、法常寺の協力で隆景ちゃんの法要が営まれるんだって。今年は415年忌にあたるんだね。もしかしたら、法常寺の小祠でお祀りができなくなった事も関係してるのかな~なんて、ちょっと思った。代わりに広場での法要を始めたとかね。でも、よほど好きじゃないとわざわざ法常寺まで足を運ぶ人はいないだろうし、駅前の人目につく場所での法要であれば、沢山の人が参列できるし、私はいいと思うよその他、「古地図を手に浮城を歩く」なんて企画もあるらしいので、お近くの方は是非ご参加くださいませね。(イベント詳細はこちら)にほんブログ村
2012年10月28日

庫裏の先には「看門寮」があり、休憩できるようになっている。 ここで10時のおやつを食べながら、ちょっと休憩。よし、なんとか11時のバスに間に合いそうだ。看門寮は比較的最近の建物っぽいけど、戸の引き手なんかもさりげなく凝ってる。 いいなあ、こーゆーの。看門寮を抜けた左手には、小さなお稲荷さんが。 この奥が、東司・侍者寮・浴場となっている。こちらは立入禁止。 看門寮の向かいには風雅なトイレがあったので、 ありがたく使わせていただいた(今回、トイレの話が多いな)。 さて、もうちょっと時間があるし、境内をもう一度見よう。で、僧堂から庫裏の方へ戻る。 「ジジイ、木を撮ってんのか!?」みたいな写真ばっかだよね。緑が多くて結構な景観に文句を言う人間もそういないかもしれないけど、三原ではホント木に泣かされましたよ。建物を撮りたいんだよ、ワシは・・・ そういえば庫裏のところで書き忘れたけど、慶長の大改修の時には、新高山城の台所を持ってきて、その部材を元に再建したって記録が佛通寺の住持記にあるそうな。だから、庫裏を見るのを楽しみにしてたんだけど、ここに来てから初めて寛政の大火の事を知ったので、残念ながら新高山城にあったかもしれない部材を目にすることは叶わず・・・火事はコワイね。おっ!そういえば、仏殿でひとつお目当てを見るのを忘れた!とここでおもむろに思い出したので、仏殿へ向かった。それがこちら↓。 【天井の雲龍図は文化7年備中松山の画工、菅南山筆。龍は仏法の守護神であり、 また雲を呼び雨を降らせるところから火難除けの意もある。】 (佛通寺のホームページより)そういえば、京都・相国寺の法堂でも同じようなこと言ってたっけ・・・最初に仏殿を覗いた時の写真にも龍の一部は写ってたんだけど、何しろ建築ばっかり見てたもんで・・・手水舎の屋根には、おかめさん・・・いえ、大黒様がいらした。これも法常寺と同じだな~。 山門から外へ。山門の内側には障害物(=木)がなくて、ちゃんと撮れた。最初からこっちを掲載しておけば良かったかな(笑)。 そして、山門の留蓋は狛犬・・・ねえねえ、こんな顔の俳優さん、いたよね~(笑)。 山門の内側の蟇股も、表側と同様、小早川紋と浅野紋が仲良く並んで・・・アレ?小早川と浅野で左右が入れ替わってる。それに、ここも右三つ巴になっとる!あ、浅野紋も、鷹の羽が逆になっとる!! うわあ・・・透かし彫りって訳じゃないしな。遊びゴコロ?んじゃ、庫裏の右三つ巴も、うっかりなミステイクじゃなかったのかもな。今までこーゆーのは見たことなかったような・・・今度から、家紋の蟇股は気をつけて見てみよう。山門を出ると、脇に延びる土塀にラインが入ってるのに気がついた。 そういえば、土塀のラインは格を表してるってツイッターで見たことあるな。線が多いほど、格が高いんだって。ここは5本だから、かなり格が高いってことか・・・と思ってたら、「大本山佛通寺誌」に 【別派を認められた有力な理由の一に、佛通寺の経文の読み方が中国の金山 そのままで特別に違っていることが挙げられているが、開山以来当寺は 寺法も特別に異るものが多い。(中略)因に大本山にされた理由は読経音點の外、 土塀に皇室勅許の印たる5本の線があり(後略)】と書いてあった。ああ、そうか・・・将軍家の祈願所でもあるし、一時は京都五山上位の南禅寺と同格に遇されたほどの歴史を持つんだもんな。皇室勅許が5本なら、これが最高ランクってことだよな。なるほどなるほど。ちなみに、佛通寺が独立して大本山となった理由のもうひとつが、仏殿のところで書いたように、「屋根が二重なこと」なんだそうです。山門には、 【境内(参拝と修行の聖域)でカメラの三脚、写生のイーゼル、椅子の 使用は御遠慮下さい】との貼り紙がある。ん~ん?撮影や写生がダメとは言ってないんだな。地面に突き刺すような足のものは、使っちゃダメよってこと?平等院鳳凰堂では写生禁止とあって、これはきっと観光客が多いところで人の流れを妨げるからかな?って想像はつくけど、佛通寺の理論は私にはわからない。ミワラには変わったものが色々あって、面白いのう・・・にほんブログ村
2012年10月27日

玄関に続くのが、庫裏。 瓦、黒いわ・・・カッコい~い!!含暉(がんき)の山上に散らばってた黒い瓦を思い出した。イメージとしては、昔こんな感じの建物が含暉にあったのかもしれないな。輪違い紋の大棟には、マル佛印があった。 屋根には煙出(けむりだし・けむだし)。私はこれ見るの、初めてかも。桟瓦の波が美しい。 途中にはこれが掛かってた。 あ~あ~、これってアレでしょ?「ごはんですよ~」とかってお知らせに打ち鳴らすやつ。魚のは見たことあるけど、この形は知らないな・・・帰ってから調べてみたら、鎌倉時代に禅宗とともに伝わった法具で、雲の形をしてるから「雲板」(うんばん)というそうな。魚の形の方は、同じく法具で「魚板」(ぎょばん)。昼夜不眠とされた魚を用いることで、修行僧の怠惰を戒めようとしたんだと。 キビシイのう・・・ところで、佛通寺は西日本で唯一の参禅道場を持つ大本山とのこと。古来より「安芸の高野」と呼ばれていたという。「佛通寺物語」には、周及の生涯の他に色んな話が書かれていて、雲水さんの生活についても書かれている。やっぱ、食生活が大変みたいでね~。今は昔ほど厳しくはないのかもしれないけど。「大本山佛通寺誌」の方には、かつての細かいお寺の決まりごとが掲載されてたんだけど、その中に 【開山遠忌二夜三日当日二汁五菜余者一汁三菜之事】なんてわざわざ書かれてるから、おお、この日は御馳走だったんだな、佛通寺の厳粛なイベントではあるけど、雲水さんたちは内心、ひそかにこの日を楽しみにしてたんだろうな~って想像して、思わず笑っちゃった。右手にある仏殿の側面を眺めながら庫裏の脇を歩いていた時、さっきは気付かなかったモノに気がついた。 なにアレ・・・亀腹!?亀腹(かめばら)ってのは建物の基礎部分にあたり、よく「白いまんじゅうのような形」とかって表現されます。ほとんどは縁の下にあるもので、普通の人はあまり見ないだろうし、気にもしないものと思います。私なんかは、床が張ってある建物だと、大抵しゃがみ込んで下まで覗くけどね(笑)。目につく場所にある場合もあります。それは、多宝塔。ちょっと亀腹が綺麗に撮れてる写真がなかったので掲載はしませんが、多宝塔の上層と下層の間の部分に亀腹があるのです。多宝塔以外に、建物本体の部分で亀腹が使われてるのを見たのは初めて・・・なんなんだ、この造りおっと!ちっこいけど、あんな上にまで小早川紋が使われてるう。 さて、庫裏は応永12年 小早川則平が建立永享8年 火災により焼失文安4年 煕平(ひろひら。則平の子)が再建慶長2年 隆景が再建寛政8年 火災により焼失文化5年 浅野齊賢が再建とある。寛政の大火で、隆景ちゃんの庫裏が燃えてしまったのだな・・・浅野家による再建とはいっても、ここも巨蟒橋(きょもうきょう)などと同じく、小早川紋があしらわれている。 黒い瓦に白い左三つ巴が映えてカッコいいわ~・・・あ?あれ?右三つ巴になっとるぞ!!いや、でもたぶん、小早川家の紋として付けてるんだよな・・・だって浅野家は巴紋は使ってないみたいだし。「三原編(12)」に書いたように巴紋の左右の別は必ずしも呼び方と渦巻きの方向とは一致してないけど、デザインそのものは一つの家で例えば定紋を左巴、替紋を右巴、みたいにするはずはないから、これは単なるミステイクなのか・・・小早川紋として付けてるんだったら、「ごめ~ん、渦巻きの方向、間違えちゃった!テヘ」じゃ済まないよな・・・本来。しかし、寺の瓦を見てコーフンする歴史ファンは、私くらいかもな(笑)。史跡めぐりをする人は多いけど、あんまり建築細部を紹介してる人っていないから。こちら↓が庫裏の入り口。またの名を「喜悦堂」といい、「喜悦」の額が懸かる。 この入り口を左に回り込んだところに、売店コーナーがあった。これまで書いた佛通寺や周及の歴史などは主に「大本山佛通寺誌」」と「佛通寺物語」をベースとしてますが、それはここで買ったもの。他にもお守りとかお札とかがあった。あと、黄色とか黒とかの何色かの小ダルマがあったので、今回の旅でもあれこれ心配してメールで面倒見てくれた友達に土産として買おうと思って物色・・・御利益ごとに色わけされてるので、やっぱ商売繁盛系がぴったりかな~と思ったら、それは普通の赤ダルマだった。これだけ色んな色があるのに、フツーの赤なんて買えるか!!と思って、ビジュアルで選んでピンクにした。ここには人はいないので、用がある場合はピンポンを押すようになってる。あ、呼び鈴だったかな?買うものを決めてからピンポンしたら、出てきたのは若くてイケメンの雲水さんだった!!やだ~、化粧直しくらいしとけば良かった(笑)。しかも、土産のピンクダルマは「恋愛成就」の御利益を謳ってるもの。ああ、イケメンの雲水さんに、自分の恋愛祈願用に買ったと思われちゃったかな・・・ここには「もみじ・さくら募金」というのもあったので、イケメンの雲水さんに一口お願いした。べべ別に、雲水さんがカッコ良かったからって見栄を張った訳では・・・ 【もみじ・さくら募金のお願い 秋の紅葉、春の桜で名高い、佛通寺の風光も近年荒れてまいりました。 再び御来山の折には皆様の心が花と開き葉と繁り、綾綿と山を染めるようにと 「もみじ・さくら募金」を致しております。 美しい日本の景色を育てるため、皆様のおこころざし(一口金千円)を 御喜捨の程お願い申し上げます。 佛通寺保勝会】そして、『植樹した樹木等には漸次寄進者の御尊名を掲示いたします』とあるので、何年か後には、周及や隆景ちゃんが愛したこの山に、私の名前が入ったもみじか桜が彩りを添えるのかもしれない。にほんブログ村
2012年10月26日

本堂の斜め前にあるのが、観音堂。看板には宝蔵と書いてある。その前のお釜にも、小早川紋。 して、こちら↓が観音堂。 宝形造、桟瓦葺。防火もばっちりです。瓦の葺き方が、よく見るのと逆の気がするんだけど・・・ここにも小早川紋と、桃。 内部は、シンプル。 ここには親切にも、手書きの解説板があった。 【十一面観音菩薩化佛(変化面) すべての悩み苦しむ人々と心を共にして救い励ます 菩薩の本領を表現 左三面<威怒相・イドソウ> 悪人悪心を諌めて正しい道に進ませようとする怒りの表情 後頭部一面<笑怒相> 大笑いして邪悪なものを笑いとばしてしまう顔 中央頭頂部<阿弥陀如来> 正面三面<静寂相・ジョウジャクソウ> おだやかな菩薩の慈悲の心をあらわす 右三面<利牙上出相・リゲジョウシュツソウ> 歯をむき出して必死に頑張っている表情】へええ~、色んな意味があるんだね。笑いとばすって、発想が面白い。観音堂の脇には、沢山の羅漢達。 これは別に含暉の山内のを集めたんじゃなくて、最近寄進されたものっぽい。一つ一つ、施主の名前も刻んであるし。観音堂の裏手へ回り込んだところにも、羅漢用のひな段が。 お、こちらはまだ空席があるようです。皆様もおひとつ、いかがですか?真ん中にいるのは、観音様かな・・・これを正面から見ると、なんだか記念撮影のセットみたいに思えるんだな~。羅漢達と記念撮影!なんてね(笑)。 ここを抜けると、仏殿と長松院とをつなぐ廊下が延びる。長松院は公開されてない。しかし、これだけ長いと、屋根重そ~ 通路の向こう側は小方丈と「吹毛軒」がある。通路の屋根がジャマで、建物はよく見えなかったけど、大棟に小早川紋がついてるのだけはしっかり見た ここで一旦、仏殿の前まで戻る。 観音堂は仏殿の左側だけど、右手前には鐘楼がある。 比較的最近のものらしく、新しくてキレイだけど、袴腰の上の部分がやけに高いな・・・ 袴をもう少し長くして、上層を縮めた方がすっきりして見える気がするけど。鐘楼の手前の部分は、綺麗にお庭が整えられているので、仏殿から直接は行かれない。 ので、先に仏殿の奥にある大方丈へ。 この辺は踏んでも大丈夫そうだけど、綺麗な庭を見た後では、玉砂利をざくざく踏みしだくのも気がひける。なので、仏殿の脇に沿ってみみっちく奥へと進む(←小心者)。大方丈は本堂にあたり、儀式や説法が行われると佛通寺のホームページにある。別名、「降魔殿」。 くっ・・・!こんなとこにまで、千社札が・・・!!大方丈の正面は開いてたので、ありがたく覗かせていただいたけど、奥におわす観音様はあいにく全身は見えない。しゃがみ込んで撮影したけど、これ↓が精一杯。 こちらは御本尊の十一面観世音菩薩立像で、 【もともと開山堂前に建つ朱塗りの多宝塔の本尊として安座されていたが、 大方丈内に遷座された。童子の顔を写したというこの童子観音像は、 高村光雲工房の門派による作である】と佛通寺のホームページに紹介されている。写真を拡大してみると、肝心の十一面は見えないんだけど、本体はふっくらとした童形。そして仏壇には、小早川紋が沢山使われていた。ここから建物に沿って、時計回りに進む。廊下の奥には、「千年杉」と書かれた巨木の切り株が置いてあった。 廊下には御簾なんか掛かってて、古風で素敵 この先が玄関。そこにはでーんと、この方が・・・ 結構大きかったんでね、ちょっと迫力負けした(笑)。にほんブログ村
2012年10月25日

さて、愚中周及が佛通寺を創建するまでの事柄については「三原編(49)」にかいつまんで書きましたが、今回はその後についてご紹介しましょう。めでたく周及のスカウトに成功した沼田(ぬた)小早川当主・春平は、周及の気に入った場所に佛通寺を建立し、自ら周及の肖像画まで描いちゃった。周及が賛を加えたこの「絹本著色大通禅師像」は、国の重文に指定されている。高名な周及が、なんで安芸のイチ国人領主にすぎない春平の誘いを受けたのか・・・師・即休(しつきゅう)の教えを胸に刻んでいた周及は、「小早川レベルならいっか~」と思ったのか(笑)、あるいは春平は大変禅に理解が深かったというから、ウマがあったのか・・・天龍寺を離れて以後、佛通寺が出来るまでの間の周及のお気に入りは丹波・天寧寺と紀伊・禅頭寺だったそうで、佛通寺を開いてからもこの2つの寺に行ったりすることもあったらしいけど、基本は佛通寺を本拠としていた。新しい自分のお寺ができたからといって、「え~、らっしゃい、らっしゃい!!」と大勢の人を呼び込むような事はせず、あくまで即休の金山経営方針にならい、わずか10人程度の弟子を採って身近に教えるというスタイルを貫いた。お経の読み方も、金山の楊岐(ようぎ)派のまま。これはずっと後まで引き継がれ、その点も佛通寺が天龍寺から独立を果たした大きなポイントだったという。ちなみに即休のいた金山、実は現代に生きる私達にも馴染みがあります。「金山寺味噌」、あれの由来も色んな説があるらしいけど、一説に弘法大師が金山寺から持ち帰ったものだとか。しかし、人の口に戸は立てられぬもの。「周及、来たる!!」とのウワサは瞬く間に広がり、創建の翌年には各地から周及を慕う雲水たちがわらわらと集まり、入門を乞うようになった。が、少数経営のポリシーを持つ周及は受け入れない。断られても、雲水たちも引き下がらない。んでどうしたかっていうと、堂には入れてもらえないので、周辺の野山に陣取って、野宿して粘ったそうな。雲水達も頑張り屋さんが多かったらしく、青空座禅の衆は増える一方。「このまんま放置してたら、社会問題になる・・・」とまでは言ってないと思うけど(笑)、ともかくこれ以上放ってもおけない状況になり、別に向上庵(現在の瀬戸田町・向上寺)を設け、そこの道場で修行に専念させたという。応永14年(1407)になると、将軍・足利義持が小早川則平(春平の子)に対し、「周及師の法語が欲しいの・・・」と言ってきたので、周及は「勧発之文」というのを送ってやったそうな。これが義持のハートをわしづかみにしたようで、翌年には周及を京に迎えて自分の師にしたいと通達を出してきた。小早川家では、この申出に騒然となった。「師は、ワシらのもんじゃー!!」「状況を分かっとるんかね?師はもう、は、86歳じゃー!!」・・・結局、小早川家では丁重にお断りすることになった。が、義持に一度点いた火はもう消せない。火事は初期消火が大事なのだ。「んじゃあ~、領地を取り上げられてもいいんだね?お前んとこの命の保障もしないけど?」と脅しに出たので、周及はやむなく老体にムチ打って京へ向かった。向かったけど、権勢には近づかないとの師の教えがよぎったのか、素直には京へ入らない。そこで、義持は畠山・細川の重臣を伏見へやり、丁重にもてなさせた。「佛通寺物語」では、周及を誘ったのは義持ではなく義満となっており、伏見まで義満が出向いて数度周及の教えを聞いたとしている。すでにこの時、義満は将軍位を譲ってはいたけど実権は握ってたから、義満の方だったのかもしれないな。ともかく、これで満足した将軍家では、小早川家に対し領地を与え褒章したという。が、備後の田舎と違って人の多い都では、噂が広がるのも早い。高名な周及に一目なりとも会いたいと、伏見の宿坊に多くの人が押しかけるようになった。これに閉口した周及は、夜逃げ・・・いえ、夜中にこっそりと伏見を離れた。離京したものの、真っ直ぐUターンしては小早川家に迷惑がかかると思ったのか、佛通寺には帰らず、紀伊の禅頭寺へ入った。応永16年(1409)春、将軍家から紫の方袍を賜る。その後、丹波・紫金山天寧寺へ。8月15日、寺のイベントのために紫金山の東北にある山へと登る。その夜、一人の禅僧が夢を見た。「昨日さあ~、大きな殿堂の梁がくだけて、どお~ん!!て落ちる夢を見ちゃったんだけど。どう思う?」「それって、ヤバくない・・・!?」8月17日、はたして周及の体調が怪しくなってきた。24日には将軍が紫金山で佛事を行うスケジュールだったが、皆は心配して延期してはどうかと勧めてみた。が、当の本人が「いや、構わないよ。全然オッケー」というので、予定通り摂り行った。佛事を終えた周及は、自分の棺を用意させて銘を刻んだ。8月25日、一人の信者の差し入れを食したあと、棺を病床のすぐ下に置かせ、遺偈(ゆいげ)を残して座禅を組み、そのまま遷化した。死後も手足はゆったりとして自由に動かせたし、微笑したまま、普段と変わるところがなかったという。9月13日、後小松天皇より「佛徳大通禅師」の諡号が贈られる。嘉吉元年(1441)、佛通寺が足利家の祈願護国禅寺となる。この年は周及の33回忌にあたり、周及没後も則平が力を入れてこつこつと佛通寺を整備した結果、約50あまりの堂宇が立ち並び、ほぼ諸堂宇の完成をみた年でもある。周及の存命中は、小早川春平・則平親子はもちろん、大内盛見をはじめとする地方武士の崇敬を集めた・・・「出たな、大内盛見!!」とピンときたアナタは、私の良き理解者ですそう、そもそも私が最初に佛通寺を今回の旅に組み込んだのは、盛見が周及を慕ったという、ただその1点にかかっていたのです。盛見の名前を聞いて、来ない訳にはいかなかったんだよ~(笑)。ファンって、そういうもんでしょ?ま、どこでどういう接点があったのかまでの詳しい事は、手持ちの資料ではわからなかったんだけどね。小早川春平が佛通寺を開いたのには、純粋な信仰心の他に、春平のジイちゃんあたりの代から増えだした庶家の結束を強めるためだったとの見方もある。誰々が何々を造ったというような公の記録には、当然一門を代表する当主の名前しか出てこないけど、実際は庶家のほとんどが工事に参加していたという。周及の死後も、佛通寺を造った小早川家では堂宇の修繕・整備に努め、ある時は多額の寄進をし、またある時は一門から住持を出すなど、佛通寺と密接に関わってきた。歴代当主(佛通寺初期を除く)の中でも、とりわけ佛通寺の保護に熱心だったのが、隆景。隆景は堂宇の再建・修繕だけでなく、法華経の版木の寄進などもした。この版木は、現在でも一部現存している。それだけでなく、自ら佛通寺へと足を運んでもいる。例えば、父・元就が亡くなった翌月の元亀2年7月28日、「僧衆三百人之志隆景公御弔在之、頓寫拈香」と住持記にあるそうな。また、天正14年には、兄・元春と戦死者の追善供養を兼ねて佛通寺で施餓鬼を営んだとある。その他にも隆景の参詣の記録は数多く、住持記には「無数」とまで書かれていると「大本山佛通寺誌」にある。無数はさすがにオーバーな表現だとしても、後代の沼田小早川当主の中で、じかに関わった頻度が多かったのは疑いのないところだろう。まあ、隆景よりちょっと前までの情勢は、大国(←大内家)や幕府などの間で色々気苦労も多かったし、3代続けて当主が若死にするなど、参詣どころじゃなかったとは思うけどね。でも、忙しさで言えば隆景ちゃんだっておんなじ。エネルギッシュなパパに付き添って戦・戦・戦の連続だったし、毛利家が秀吉に臣従してからは五大老の一人として単身赴任してたし、ついには海外にまで行っちゃってたんだからね。なのに、マメな隆景ちゃんは佛通寺の整備について、「お寺サイドたぁ色々相談しての~」とか、「時々、3~5人のヤングが見回りした方がええよ~」とか、「ちぃと面倒じゃが、あとあとまで残るもんじゃけぇ、含暉院は地形をよう選んでちゃんと造っての~」とかって手紙を家臣に出してる。ま~細かい細かい。「やっぱ、あの父の息子・・・」と思うのは私だけだろうか。口だけじゃなく、時には現場監督まで務めたらしい。隆景が佛通寺に殊の外心を砕いていたのは確かだけど、こちらも春平と同様、信仰心や寺社の保護という目的だけじゃなく、現実的な側面をあわせ持っていた。それは、生活のために雑兵となっていた庶民への新しい職場の提供。つまりは、公共事業でもあった訳だね。お殿様ってのも、あれこれと実に大変じゃの~。にほんブログ村
2012年10月24日

巨蟒橋を渡ると両脇に小道が延び、灯籠がずらりと並ぶ。 ここの灯籠も、そんなに古いものではなかったみたいだけどね。 この先にあるのが、山門。 木・・・木・・・!! 普通に風景として撮るには問題ないけど、しっかり建物を撮りたいんだってば、私は!!・・・怒っても仕方ない。この樹木が赤く染まる頃、枯れかかった葉っぱを見に、わざわざ大勢の人がやって来るのだ。あ、そういえば、そのシーズンには巨蟒橋から先は有料らしいですよ。開山堂も含む、とあるから、もしかしたらその時だけ開山堂は一般公開されるのかもしれない。これだけの木が一斉に色付いたらそりゃ見事だろうし、貴重な収入源でもありますから、皆様、是非その時期に佛通寺にお越しくださいね(笑)。今は夏だからタダ時々、ウォーキングしてる年配の夫婦とかが通り過ぎるくらいで、人も来ないし。本瓦葺四脚門の大棟についてるのも、小早川紋。 蟇股はこれ。 右が小早川紋、左の違い鷹の羽は浅野家の紋。これも寛政の大火で焼失し、再建の記録は「大本山佛通寺誌」には書かれていないものの、佛通寺のホームページでは文化年間に浅野家によって再建されたとしている。全部浅野紋にしなかったところが奥ゆかしい(笑)。しっかし、この千社札・・・以前は何とも思わなかったけど、建築を見るようになってからは、こうやってべたべた貼られている千社札が、この上なく汚らしいものに見えて仕方がない。ハシゴとお掃除グッズを貸してくれたら、無料奉仕でこの札全部はがして進ぜようほどに・・・↓山門の木鼻。 すごい、重厚・・・カッコいい↓山門の内部。 こちらもいいわ~。あ~千社札剥がしたいっっ!!門扉も大きくて、しっかりした造り。 山門をくぐり抜けると、境内が見渡せる。まず正面にあるのが仏殿で、こちらは法堂(はっとう)を兼ねている。 ほう・・・素晴らしい。思わずため息が出ちゃうこれは裳階っぽいけど、やけに下層が高く造られてるな。佛通寺は明治5年に寺領が国有となった後、明治9年に天龍寺の末寺となる。その後、明治38年に天龍寺と相談の上分離独立を果たし、再び大本山となった経緯を持つ。大本山を認められた理由のひとつが、【仏殿の屋根の二重なこと】だと「大本山佛通寺誌」に語られているんだけど、そういうものなんだ・・・?で、この仏殿は、 応永23年 小早川則平が建立 永享8年 火災にて焼失 永享12年 小早川煕平(則平の子)が再建 文安4年 煕平が再建 永禄元年 隆景が修繕 寛政8年 火災にて焼失 文化5年 浅野齊賢(なりかた)が再建・・・との歴史を持つ。なので、隆景ちゃんが目にしたのとは残念ながら違うけど、これだけの建物なので、意匠にはやはり見とれてしまう。 瓦には小早川紋もあるけど、佛通寺のロゴ入りもある。 して、こちら↓が仏殿の内部。 真新しいような柱も使われてるな。近年になって、修繕されたのかな。正面のキンキラよりも、やはり建物に目がいく。この重厚な組物・・・ ↓床は四半敷(しはんじき)。 写真のように、敷石や敷瓦を45°の角度で並べたものを四半敷といい、一般的に禅宗寺院で好んで用いられる。これに対して、斜めじゃなく平行に並べたものを布敷(ぬのじき)という。建築をひとしきり眺めた後で、釈迦三尊像を拝む。(↑ばちあたり。良い子はまずご本尊様にお参りをするように) 再び外観を眺めてウロウロ・・・ おや、ここは扇垂木(おうぎだるき)だ。ちょっと肝心な部分の写真が切れちゃってて説明には向かないので、いずれ良い素材が手に入ったら、扇垂木についてご説明しましょうね(笑)。にほんブログ村
2012年10月23日

山頭火の歌碑の先には、池が広がる。 これは「崑崗池」(こんこういけ)といって、雪舟さんの作と伝えられているもの。が、佛通寺のホームページでは、ホントに雪舟さんのかは定かではないとした上で【庭園研究の専門家によると、この池の構造はあまり原型をとどめていないという】とある。池の中央には、近年架けられたものだという石橋がある。 この構造で、ホントに私の体重を支えてくれるんかいな・・・とちょっとびくびくしながら橋を渡って、池の向こうで待つ観音様の元へと向かう。渡る時、左側に細い滝があるのが見えた。ああ、あれが「銀九瀑」かあ~。池のたもとにおわす観音様は「三安(みやす)観音」といい、山上の朱塗りの多宝塔を寄進した山口玄洞さん夫妻の奉納なんだと。佛通寺のホームページによると、「家・安かれ、身・安かれ、子・安かれ」で三安ということらしい。四天王コンプリートを諦めきれず、未練たらたらで「ああ、観音様、どうか最後のひとりを・・・!!」と祈願して観音様を仰いだ私の目に、石仏らしいのが映った。 あっ、あっ、アレエ~!!行けそうな道を探して池の裏を回り込んでみたら、斜面に上がる道を見つけた。いちおうロープは張ってないから、行っちゃダメってことはなさそうだよな・・・と恐る恐る登ってみると、この方がいらした。 「施主ナントカ・・・」って刻んである碑文はよく読めなかったけど、たしかこれに「増長天」ってあったと思う。やった、やったあ~!!四天王ゲットお~!!いやいや、順調な滑り出しから一転、ここまでやきもきしながら経過を見守って下さった皆様、ご心配をおかけしました。これでめでたく四天王コンプリート致しましたで、結局この方たちは一体何を守ってたんだろうね?4人すべてが含暉の山内にいた訳だから、やっぱり周及の4粒のホネかね?たぶんアレ、開山堂にあるんじゃないかと思うんだよね。祈願から達成までわずか数分。そのまますぐに、霊験あらたかな三安観音様にお礼参りをしたことは言うまでもない(笑)。さて、満足したところでいよいよ本寺域へ。仏通寺川の手前には、大きな木がある。 【広島県天然記念物 佛通寺のイヌマキ 本堂に渡る木橋 巨蟒橋(きょもうきょう)の手前左手にある大木で、 開山愚中周及禅師が植えたものと伝えられている。根周り周囲4.50m、 胸高幹囲3.52m、眼通り幹囲3.56m、樹高約20mで県内有数の 巨樹である。 雌雄異株で、この樹は雄株である。】 (現地解説板より)ん~、開山の手植えかあ・・・ロマンだなあ、と現地では思っていたけど、「大本山佛通寺誌」を読んで寛政の大火について知った今となっては、たとえ小規模でも、ほぼ山火事に近いような状態で、この木だけ無事なんてことあるか!?て思っちゃう。だってね、現存する建物に当てはめて寛政の大火を表すと、大体こんな感じ↓になると思うんだよね。 真ん中のピンクで囲ったのが、イヌマキ。赤くポチしたのが、大火で焼失した建物。でも、大火の後で再建されなかった建物も多くある訳だし、橋や門が多く被害に合ってることを考えると、仏通寺川沿いも火に包まれてたと思うんだよね。それどころか、対岸の含暉までボーボー燃えてたことを考えると、その真ん中に位置するイヌマキだけが無事だったなんて事は、到底考えられない。あるいは、ヤケドは負ったけど幸い致命傷には至らず、長い年月をかけて再生に成功いたしました、って感じかな。って、何で私こんなに火事にこだわるんだろちなみに、この木は戦時中に伐採されることが決まったものの、この通りの大木なので、伐るのも大変だし、運ぶのも大変だってことで取りやめになったそうな。年月の重みの勝利ですな。さて、これより仏通寺川を渡ります。川にかかるのが、巨蟒橋(きょもうきょう)。 【現在の地図には佛通寺川と記されているこの渓流は、往古より「活龍水」と 呼ばれ、佛通寺本寺の結界である。橋を渡る者は一切の俗塵を捨て去ることが 必要とされ不心得者が渡ろうとすると、どこからともなく蟒蛇(うわばみ。 大きな蛇をさす)が現れて威嚇したという。】 (佛通寺ホームページより。カッコ内は戦国ジジイが追加)との事なので、不心得者は渡る時に細心の注意が必要です。ええ、もちろんわたくしも、渡る時は緊張しましたよ(笑)。蛇と龍は別モノだけど、どちらにせよデカいものにひと呑みにされたらかなわんこんなジジイなんか呑んだって美味しくないけど。そういえば、「大本山佛通寺誌」には色んな伝承も書かれてたんだけど、結構ヘビに関するものが多い。大蛇がどうしたとかってね。ヘビの多いお土地柄だったのかしら。ここの瓦は重厚で美しい。 上は、ここも打出の小槌だな。下のは・・・もしかして、セットで松竹梅?法常寺にも同じようなのがあったな。そして鏡餅・・・じゃなくて、留蓋は桃、かな? 屋根付き橋だけど、スタイルとしてはいちおう唐門の部類に入るんじゃないかと思う。ここの兎毛通(うのけどおし)は、当然小早川紋。 ↓橋から眺める仏通寺川。 巨蟒橋の建立については不明。文禄3年(1595)、隆景が再建とある以外に再建・修繕の記録は「大本山佛通寺誌」には書いてない。まあ、小さな修繕くらいはあったでしょうけどね、ひとまずこの橋のアウトラインは隆景再建当時のものと思っていいのかな。完成の月日まではわからないけど、文禄3年の6月5日には隆景ちゃんが参詣したとの記録があるらしいから、あるいはできたてホヤホヤのこの橋を、満足げに見上げたかもしれない。にほんブログ村
2012年10月22日

地蔵堂の脇には、これがある。 おっ!小早川紋だ~山の中にあるから、きちんと山の神様をお祀りしなくちゃね。山神社の後ろには、いくつか石仏があったんだけど、その周辺にはなぜかこんなものが・・・ 写真じゃちょっとわかりづらいかもしれないけど、下の写真の瓦も黒いの。昔、含暉(がんき)院には黒い瓦で葺かれた建物があったのか?地蔵堂も中は覗けなかったので、建物の外側をぐるぐる回って建築を堪能してから、地蔵堂の向かって左手にあるエリアへ。ええと、まずはこれ。 面白い形してるよな~。最初はこれが含暉院を建てた松巌尼の塔かと思ってたんだけど、どうも開山堂の中にある宝篋印塔が松巌尼のみたいだから、違うっぽいな・・・解説もないし、わからないやこの奥の、ちょっと小高いところに建つのがこれ。 【国登録有形文化財 佛通寺多宝塔 昭和2年、尾道市出身の実業家山口玄洞氏が資金を提供し、元京都府古社寺 修理技手の安井楢次郎氏の設計・監理で建築。初重平面が方形。二重平面が円形の 二層塔で、間口、奥行きとも4,2メートル、建築面積18.23平方メートルの 木造三間多宝塔。 伝統的な意匠のなか、蟇股や木鼻など細部に流麗な彫刻を施し、近代的な感覚が 盛り込まれており、軒まわり部材に反りをもたせるなど整った塔婆をもつ 近代の多宝塔です。全国的にみても数少ない昭和初期の多宝塔です。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)その流麗な蟇股はこちら。 個人的に素木の方が好きだから、どうもな・・・股がのっぺりと開いて、その辺は確かに近代的ではある(笑)。この多宝塔は「大本山佛通寺誌」に【観世音を安置し、山嶺台閣の眺望は絶佳、視野は全境内に及ぶ】とあるものの、中には入れない。塔の下からの景色はこんな眺めだった。 アハハ、木ばっかりで眺望どころの話じゃ・・・でも結構高いところにあるでしょ?さて、旧含暉院域の建物群はこれでつらっと見たけど、気にかかるのはあと2人の四天王。参道を上がる時には眼を凝らして探したし、頂部にもいないとなると、どうしたものか・・・小高い多宝塔の下で境内全体を眺めていたら、向かいの盛りあがった部分の木の中に、石仏らしいのがあるのに気が付いた。(ピンクの○の部分) うおっち・・・あれはもしかして・・・!!谷に面した部分ではあるけど、足場も悪くなさそうだしなんとか行けそうだな。とにかく、四天王かどうかを見分けるポイントが足の下の天の邪鬼にかかっているので、遠目に、しかも下から見上げたんじゃ判別がつかない。て事で、道を覆う枝をかいくぐりながら上がった先には、この方がいた。 おっしゃあああああ~!!あとひとり~ところで、この方のおわすところの向かって左側は長松谷というそうで、【明治以前には数寺があった。このあたりは竹林で昼なお暗く、その中にあった篩月庵では画師雪舟が一冬を過している】と「大本山佛通寺誌」にある。一冬を過ごす長逗留なら、明から帰国した後あちこち行ってた頃の事だろうな。(雪舟さんの略歴については「山口編(11)」をご参照ください)そういう縁があるので、かつては佛通寺にも雪舟の作品が多くあったというが、寺宝の中には含まれていないことから、そのほとんどが散逸したものと思われる。あるいは、寛政の大火の際に焼失したものもあったかもしれない。「あっとひっとり」と歌いながら3人目にお別れを告げて、今度は侍者寮の奥の方へ行ってみた。こちらには石仏は一体もないし、先の方にはロープが張られていて通行止めになっている。う~ん、参道で見落としたかな~。でも、ここではこれ以上探しようがない。仕方なく下りようと石段へ向かったら、ここの塀の瓦は打出の小槌だった。 階段は、登りより下りが恐い。昨日の失敗もあるし、過去に何度か階段を下りる際にケガをしている私は、慎重に降りつつ、登った時よりもさらに目をギラギラさせながら残りのおひとり様を探す、探す、探す・・・結局、見つからないまま下まで降り着いた 見られるところは全部見たはずなんだけど。どこでも自由に立ち入れる訳じゃないから、行かれない奥地にいたのかな~。でも、4人の写真を撮ってる人がいたんだから、そんなハズないんだけどな~。見つからなかったものはしょうがない。諦めて奥へ進むと、すぐ先に経堂があった。 宝形造、桟瓦葺。禅宗様の美しい建物だけど、四天王コンプリートの夢破れ傷心を抱いたままの私は遠目に見て写真だけ撮って先へ進んだ。経堂のすぐ隣には灯籠がある。 面白い造りだな・・・ちょっとメルヘンの国のキノコみたい(笑)。その隣には、歌碑があった。 あけはなつや 満山のみどり 山頭火昭和14年に種田山頭火が佛通寺を訪れた時の作品だそうな。この時の様子を、旅の日記で『山声水声雨声、しづかにもしづかなるかな、幸にして山崎益州老師在院、お目にかかることが出来た。精進料理をいただきつつ、対談なんと六時間、隠寮はきよらかにしてあかるし』と記している。飛び込みで6時間の長話・・・一体、どんな話をしたんだろう。にほんブログ村
2012年10月21日

地蔵堂の軒丸瓦はこんなのだった。 おお、蓮華紋ぽ~い何しろ、古い建物だからな・・・と現地では喜んでたけど、後から「大本山佛通寺誌」を見ると、佛通寺内での【瓦葺は天正10年客殿の再興と翌11年上門の上葺をしたのが始めである】とあるから、天正10年以降のものってことか・・・元々茅葺だったんだから、旧態を忠実に再現したってものでもないしな。ちょっと残念。開山堂の向かって右側は、こうなってた。 ここにはかつて侍者寮(庫裏)があったそうな。「大本山佛通寺誌」に載ってる昭和24年当時の見取図には、開山堂と廊下でつながってる侍者寮の絵が描かれているから、結構最近まであったんだ~と思ったら、『佛通寺物語』に昭和45年に土砂崩れで倒壊したと書いてあった。おお、ヘタしたら開山堂も地蔵堂も巻き込まれてたかもしれないんだ。危ないところだったな~。さて、応永4年(1397)に周及が佛通寺を開いてから、今年で615年。長い長い歴史の中には、様々な苦難がありました。今回は「大本山佛通寺誌」をもとに、それらをざっとご紹介しましょう。まずは人為的被害。永正2年・5年の高山城の危機の際には、【敵方の武家に寺領を押領】されたとある。この時期、高山城がどうしたとかって話は見つけられないんだけど、沼田家の動向と時期を考えれば、「敵方」は大内義興さんにあたるんじゃないかな(笑)。大内方だった竹原家、もしくは近隣の国人との小競り合いでもあったのかもしれない。永正5年てのは、義興さんが足利義尹を連れて・・・いえ、奉じて上洛戦を開始した翌年であり、去就に悩みぬいた沼田家当主・扶平がポックリ若死にしてしまった年にあたる。(その辺の経緯は、「三原編(26)」をご参照ください)その後は、 天正15年 秀吉の九州平定後、「備前衆当寺破損」 慶長5年~8年 福島氏に寺領を没収される 明治5年 寺領没収上地になり国有となるとある。福島家の統治期間が短いこともあってか、これまで廻った寺に出てくる福島家に関する記述といえば、どこも「寺領没収」くらいしか出てこないんだよね(笑)。宗光寺を除いては。また、小早川扶平の代で山中に88ヵ寺、末寺が3000ヵ寺を数えたものの、中世の兵乱などにより廃絶した寺も多くあったという。お次は自然災害。 【宝暦7年(1757)7月26日大風で「本寺諸堂大破前橋屋根吹落ス 含暉院庭ノ五葉松倒ル山門打倒ス肯心谷大破損往還大木吹折往来普通」 となったが、幕府から宝暦5年以降7年間倹約で普請を停止されていて、 本寺含暉諸堂大漏のため開山の年忌も執行できず、28日迄延期した程で(後略)】 (カッコ内は戦国ジジイが追加)とある。小さな災害はもっと沢山あったはずだけど、たぶんこれが気象による災害の中で最も大きかったものなんじゃなかろうか。『肯心谷大破損』とあるけど、これは肯心院のことで、応永9年に小早川則平が周及の隠棲のために創建したものという。被害を受けながらも肯心院の建物は残ったようだけど、残念ながら明治の初めに焼失したそうな。肯心院自体は今もあるけどね。さらに、火災。大きなものは、永享8年(1436)と寛政8年(1796)。永享の時には、「大本山佛通寺誌」に書かれている限りでは本寺方丈・本寺庫裏・本寺仏殿が被害にあっている。ま、実際は小さな建物なんかも巻き添え食ってるんでしょうけど、おおむね本寺域を中心とした火事だった様子。しかし、寛政・・・これがマズかった。どんだけ寛政の大火が大きいものだったか? 【寛政8年4月9日 両足院炎上、本寺諸堂山門鐘楼、橋まで残らず 類焼したときには本尊脇侍、周及の真筆など多くの品も焼失した。 この大火で全山の堂宇の殆どは焼失したが、応永13年頃に松岩壽大姉が建てた 含暉院(開山堂)に隣接する地蔵堂だけが現存する最古の建物。】 (漢数字は戦国ジジイが変換)永享の時には含暉院を除く火災だったのが、寛政の大火では本寺域と仏通寺川を隔てた山上にある含暉院まで火にかかったっていうんだから、ほとんど山火事だよな。よく地蔵堂が残ったもんだ・・・この宝暦の大風と寛政の大火でおシャカとなり、「大本山佛通寺誌」の発行年である昭和24年に至るまで再建されなかったものに、含暉院の方丈・山門・選仏場・霊殿および祀堂・客殿・惣門・門前橋・浴室・中門・御成門・裏門・庫裏門・小門・毘沙門堂・涅槃堂・地蔵堂・六地蔵堂、がある。これらのうち、かなりのものに隆景が再建・修繕で関わっており、中でも含暉院の方丈は【新高山別所ヲ移シ客殿トス】とあるので、寛政の大火がなかったらどれだけの偉容を誇っていたのかと思うと、消火器を山ほどかかえてタイムマシンで寛政8年へ飛んでいきたい衝動に駆られる。おそらく、含暉院が今のような構成になったのは、この寛政の大火がきっかけなんじゃないかと想像する。ともかく幸いにも焼け残った含暉院の地蔵堂は、応永の貴重な建物として重文に指定された。指定の理由として、 【地蔵堂の棟札によると、厳島神社の千畳閣を造築した大工と同一人物であって、 それがため重文に指定された。作者は武田弾正、堂内の彩色は天下の巨匠 加納法眼元信の筆である。】と「大本山佛通寺誌」には書かれている。千畳閣!?って、アレって、殿下が建てたものじゃなかったでしたっけ・・・応永の創建とは、時代が全然違う。慶長元年(1596)に隆景が含暉院の仏殿(=地蔵堂)を修繕とあるから、その際の棟札なのかな?しかし、千畳閣を建てた大工さんなら、当時名の通った匠だよな。ちょっと、隆景が新高山城に匡真寺を建てる際、コネを使って宮大工を招聘した話を思い出した。結構、隆景ちゃんもミーハー・・・いやいや、一流の人を招くだけの財力と力を持ってたってことだよな(と、しておこう)。その他の災難として、こんなものもあったらしい。 元禄10年10月7日夜「盗賊推入含含暉奪財物」お寺に盗みに入るなんて、悪い人はいつの時代にもいるもんだね~。実際、どんなものが盗まれたのかまでは書いてないけど、 【室町時代には貿易に将軍・諸候・寺社も参加し幕府は天龍寺船を以て 国営的に行い、寺社や豪商も大名と共に荷物は一駄に付十二貫文、 人は二十貫文の運賃を支払って、天龍寺船に荷物を托送し又は渡航を したのであって、佛通寺の什物から考えても当時の舶来品と思えるものも 相当あったらしい。】ということなので、いわゆる金目のモノを所蔵しておったのだろう。「大本山佛通寺誌」発行の昭和24年現在で佛通寺の寺院は6ヵ寺、末寺は40ヵ寺ほどとなり、往時よりかなり規模は縮小したものの、これらの様々な苦難を乗り越えて、佛通寺の法統は周及から数えて実に205世(昭和24年時点)まで連綿と続き、貴重な歴史を今に伝えている。にほんブログ村
2012年10月20日

開山堂の内部には、これがあるという。 【三原市重要文化財 木造佛通禅師像 一軀 木造大通禅師像 一軀 佛通寺含暉(がんき)院開山堂の内陣の中央に安置してある。いずれも玉眼入りで 法衣を着け、両脚を前にたれ、台座に腰をかけている。向かって右が佛通禅師 (即休)、左が大通禅師(周及)で、肖像彫刻として特異な個性的表現があり、 面相の写真は特に優れており、室町時代の特色をよく表している。 坐高は、いずれも50cmで、寄木造りである。室町期の京都作で、福知山天寧寺の 像と同一である。(後略)】 【国重要美術品 石造宝篋印塔 佛通禅含暉院開山堂の内陣の片隅に、大通禅師と並んで建てられている。 堂内にあるため、風雨の被害を受けていないので保存は良好である。 塔身はやや細く月輪と蓮花を彫り、月輪中に梵字が彫り込まれている。 総高156,7cm、室町時代の作である。】 (いずれも現地解説板より)そして、「大本山佛通寺誌」にはこう書かれる。 【堂内左右には小早川、浅野両家の位牌があり、堂の中央には 佛通禅師と愚中禅師の木像が並べてあるのは天寧寺(愚中禅師入寂の寺で 丹波福知山にある)と同じで、春水の詩に、火を照して室に入り金龕を啓けば 碧眼活るが如く<中略>東(日本)西(支那)二祖の像を安す、 疲たるは是東祖(愚中)肥たるは是西(佛通)とある。 けれども國郡志御用に付下弾書によると、初めは中央に多宝塔仏舎利、 右側にその堂を建立した松巌壽大姉の碑(石浮圜)があったものとみえる。】現地では開山堂の中は覗けなかったけど、両大師の像の写真は「佛通寺物語」に載ってるし、佛通寺のホームページでも見られる。即休の像は「肥たる」とあるけど、別に太っているという訳ではない(笑)。けど、周及が人のよさそうな細身のおじいさん風なのに対して、即休の方は眼ヂカラがあって恰幅のよい像。「特異な個性的表現」とされるのも納得。「松巌壽大姉」については、今しばらくお待ちくだされ。まずは先に、開山堂の隣にある地蔵堂をご紹介しましょう。 くううっ、ここも木がジャマ・・・!! なに、この軒下・・・白いんだけど。組物も一部白いのが残ってるから、全面白塗りにしてたのかな。 【国重要文化財 佛通寺含暉院地蔵堂 一棟 付 須弥壇 一基 佛通寺は、応永4年(1397)、小早川春平が愚中周及を迎えて開いた 大寺である。その後、火災によって創建当時の建物は、今では禅師の塔頭 含暉院の堂だけである。 この地蔵堂は、応永13年(1406)の建築である(「佛通禅寺住持記」による)。 様式は折衷様で、けた行三間、はり間三間、一重、宝形造り、本瓦葺き (もとはかやぶき)で均整のとれた美しい室町時代の建物である。 含暉院地蔵堂の中央奥よりに縦2m、横2m、高さ1mの須弥壇(唐様)がある。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)元は茅葺なら、瓦に葺き替えた後に白く塗ったってことだよな。恐らくは、組物も。いや、堂本体も塗籠じゃなかったかも・・・「含暉院地蔵堂」ってあるから、含暉院は地蔵堂の別称なのかと思ってた。駐車場にも、佛通寺全体の目玉商品の解説を載せた案内板があったんだけど、そこにはこう書かれていた。 【含暉院は、応永13年(1406)に開山愚中周及禅師の塔頭として 松巌尼(しょうがんに)によって創設され、地蔵堂はその佛殿として同18年 (1411)に建立された。】そうか、含暉院は塔頭の名前だったのか。含暉院全体の歴史とか変遷についてまとめられたものは、佛通寺のホームページにも、庫裏で買った刊行物にも書かれていなかったので、自分でつなぎ合わせるしかない「大本山佛通寺誌」には色んな事が書かれていて大変参考にはなるけど、なにしろ昭和26年のもので、格調高い美文なのでぶっちゃけ読みにくいし、年号など記述に矛盾のある箇所もある。あとがきとして、「更なる平易化と研究が求められるところであるが後人の力を待ちたい」とある・・・いや、これだけの歴史のあるお寺なんだし、やはり佛通寺が中心になってそれを進めて欲しいな~とぶつくさ言いながらまとめた含暉院の歴史やら何やらは以下のようになります。含暉院の創建は、応永13年(1406)松巌尼によるもので、禅師の塔所としたとある。松巌尼は佛通寺の創建者・小早川春平の妻。春平の没年が応永9年だから、夫の死後落飾したんだろうね。ただ、創建に先立つ【応永4年、小早川春平、山頂ニ亭ヲ作リ、含暉亭ト名ケ豫メ愚中禅師ノ塔所トス】ともあるので、当初から含暉院の前身となる亭があったことが窺われる。その後の寺誌に残る開山堂(韜光窟)の変遷は、 慶長元年 隆景が再建 元和元年 諸堂大普請 寛永7年 浅野長晟が本尊修補 正保3年 浅野光晟が修繕以後、慶安2年、寛文3年、寛文6年、延宝8年、元禄4年、元禄16年、正徳2年、享保5年、享保12年、安永7年と修繕の記録が続く。「大本山佛通寺誌」には他の堂宇の修繕の概略も色々書いてはあるんだけど、含暉院に関する記録が一番多いように見受けられる。開山様と、その師をお祀りしているところだからね、ある意味、佛通寺内で最も重要かつ神聖な場所ともいえるだろうし、再建・修繕を重ねながら大切に守ってきた歴史が感じられる。寛政8年4月9日には、含暉院を含む諸堂・塔頭の大半が焼失、寛政12年春に含暉院宝蔵一宇が建立される。さらには文化5年8月朔日浅野齋賢が祠堂建添、明治9年4月に再建、と続く。 そして仏殿(紫雲殿。現在の地蔵堂)は、 応永18年 小早川則平(春平の子)が建立 慶長元年 隆景修繕 明治10年4月 修繕含暉院には庫裡(侍眞僚)もあったらしく、こちらは 応永34年 小早川則平創建 享徳元年 小早川敬平再建 慶長元年7月13日 隆景修繕再建 明治11年4月 修造とあるものの、庫裏は現存していません。慶応3年(1867)5月の時点で存在していた含暉院の建造物は、開山堂・仏殿・方丈・庫裏・本門・庫裏門・中門・仏殿傍門・勝手門・鐘楼・山神社・水劍社・六地蔵堂・木部屋・土蔵・・・とある。塔頭とはいっても、かなり立派な造りだったみたい。「大本山佛通寺誌」に書かれているのは大体上記の流れで、いつ何の理由によってどの建物が破損して、それが修繕・再建されたのかまでは書かれてないので、結局のところ、あまりよくわからない佛通寺のホームページには、開山堂について 【開山堂は、もとは地蔵堂の後にあったが、現在では含暉院のもとの書院の 中央部の奥に移され、書院が開山堂と改称された】とあって、頭が悪い私にはこれもまたよくわからない。おそらく、含暉院の構成を大きく変えるきっかけになったのはコレなんだろうなってのはあるんだけど、文字数の都合上、次回に回します(笑)。で、今度はホネの話題。 【開山舎利は平生切った爪や髪を僧尼が安奉して五色の舎利ができたという。 住持記に「舎利塔内数之事。大壺之内九十九仏舎利粒。小壺之内七粒。 愚中和尚舎利。角壺之内四十五粒。以上粒数三之内五十二粒也。」とあるが、 仏舎利(五粒)は開山禅師が育王山より伝来したものという。 夢窓国師舎利(一粒)もあったとの古記録があるが現存しない。】 (「大本山佛通寺誌」より)きちんと、粒の数まで数えるんだね。ちょいと合点のいかない部分もあるんだけど、まあいっか~(笑)。夢窓国師の一粒はどこへ行ったんだろう・・・「大本山佛通寺誌」には、こんなことも書いてある。 【遺命を以て荼毘にし霊骨を分って塔を佛通寺と天寧寺の両寺に建てたと 年譜にあるがその埋葬場所は知れない。年譜を見ると松巌尼が含暉を 興造したのは禅師の塔所とするのが目的で、応永13年84歳の時 落成日には請われて拈香説法をしているのであるから、 やはり堂内に埋られたものかもしれず、今の多宝塔あたりにあった 昔の塔に埋められているのか判然しない。】「粒」ってあったから、「アレ、火葬?」と思ったんだけど、やっぱりそうなんだ。きっと夢窓国師もそうなんでしょうね。て、ゆーか・・・つまりは、佛通寺内のどこに周及が埋葬されたか今もってわかってないってこと!?「大本山佛通寺誌」には「什器」として【仏舎利(五粒)、開山舎利(四粒)】とあるので、この4粒以外は、周及のホネは行方不明ってことなのか~?結構びっくりなんだけどにほんブログ村
2012年10月19日

永徳院から、バス停まで戻る。バス停の向かいには売店があった。 現在の佛通寺は高坂自然休養村の一部となっており、自然が豊かなところなので、紅葉のシーズンはやはり人出が多いらしい。なんでも、その時期だけで3万人くらい来るとか。で、この売店も紅葉の時期とか、たまに土日に開いてるくらいだと聞いていたので、食料と水分はしっかり持参してきた。今日は平日だし、やっぱり売店はお休みかな?ここから本堂の方を目指して歩く。 あ~、ホントにいいとこだ・・・少し歩くと、こんなのがあった。 【日支事変供養塔】この近くに、杉本中佐さんの碑もあった。杉本五郎中佐は広島の生まれで、4人の息子へ書き残した遺書がのちに同志によって「大義」という本にまとめられて当時の青少年の心をとらえ、軍神として名を遺したらしい。城山三郎にも多大な影響を与えた人物として取り上げられることも多い彼は、毎週土曜日に佛通寺へ参禅していたという。この先にもいくつか塔頭はあったけど、どれもぴっちり閉まってたので、非公開らしい。 ↓これは飛猿橋かな。ここも非公開。 さらに進むと、灯籠が沢山出てくる。おお、立派だな~、さすがだな~。 灯籠には寄進者の名前が刻まれてるので、横目で見ながら歩いたけど、割と最近のものっぽい。↓この大きいのは、常夜灯。かなり大きかったよ。 ここまで来ると、いよいよ佛通寺の中心部。付近にあった案内図を拝借すると、この辺の位置関係はこんな感じ。 やあ、どこから見て回ろうかな~。ジジイ迷っちゃう(笑)。まあ、あまり時間もない事だし、手前にある開山堂から行こうかな。で、こちら↓が開山堂への入口。 うむ、見るからに長そうな石段だ・・・1人で話し相手もいないので、1段目から段数を数えながら登り始めた。上がるとすぐに、この方が出迎えてくれた。 おっ!第1四天王はっけ~ん「大本山佛通寺誌」によると、この辺りは羅漢山というそうで、五百羅漢の像が点在しているとのこと。室町頃から羅漢像が置かれたらしく、昔は今よりもっと沢山あったが、廃佛運動やら何やらで捨てられたり盗まれたりしちゃったんだって。そして羅漢像にまぎれて四天王が山内におり、4人揃うことで効果を発揮し、佛通寺のあるものを守っている・・・という事を事前に調べていたので、「ウォーリーを探せ!」ばりに四天王コンプリートがここでのお楽しみのひとつだった。何を守ってるのかは結局わからなかったんだけどね(笑)。て事で、おひとり様ゲット~この方はどなたかわからないんだけど、参道のすぐ脇にいたからすぐわかったし、幸先いいな~。案外簡単にコンプリートできるカモ・・・さらに上がると、石垣と土塀が見えてきた。ああ、ゴールが近そう・・・ 四天王を見落とさないように、石段を数えながらも目をギラギラさせながら周りを見ていたので、この付近で2人目を発見した。 おお、カッコいい~。足元に天の邪鬼を踏みつけているから、間違いない。喜んで写真を撮ってよく周りを見ると、羅漢達が沢山いた。 夕方とか明け方とか、薄暗がりの中だとちょっと怖いかもしれないな・・・石段を上がりきると、下から見上げた羅漢達がもっと近くにいた。 その脇には、こんなものが・・・ 宝篋印塔の頭、だよな。どう見ても。何でこんなになっちゃったんだろう?いいのか?コレ・・・ここまで、しめて170段。ふ~、汗かいちゃった・・・して、こちらが開山堂です。 宝形造に近い寄棟造、桟(さん)瓦葺。小早川紋の大きな幕がかかってるカッコいい写真を見たけど、この時はかかってなかった↓桟唐戸(さんがらと)は一部欠損している箇所もあったけど、細かい彫物なども美しい。 ただし、正面がこのように閉まっているので、中は覗けなかった。にほんブログ村
2012年10月18日

【臨済宗佛通寺派大本山佛通寺 三原市史跡・名勝 佛通寺は、応永4年(1397)沼田(ぬた)庄の地頭小早川春平が愚中周及 (ぐちゅうしゅうきゅう、佛徳大通禅師)を迎えて開いた臨済宗の大寺である。 盛時には山中に88ヵ寺を擁し、末寺は九州から中部地方に及ぶ12ヵ国に 約3000ヵ寺があったという。 寺は春平の子則平のとき寺容を変え、近世には広島藩主福島氏・浅野氏の外護を うけた。一時、天龍寺の所属となるが、明治38年(1905)分離独立し、 佛通寺派大本山となる。創建当時の含暉(がんき)院地蔵堂・開山堂などにより 往時がしのばれ、境内の規模や堂宇跡の配置など貴重な文化遺産が数多くある。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)駐車場から一旦、仏通寺川に沿って少し下る。 人はいなくて静かだし、この石垣だし、も~うたまりません・・・(笑)。少し下りた所にあるのが、永徳院。 紅葉の時期は、見事だろうな。ここには雪舟さんの作と伝えられる庭があるっていうので来てみたんだけど、石段の下にばっちりロープが張られてるので、どうやら公開されてないみたい。建物ぐらい見たかったけど、まあしょうがないよな。永徳院のすぐ前を流れるのは、仏通寺川。 佛通寺を開いた愚中周及(1323-1409)は、美濃の人。伊勢の藤原氏の血を引く生まれだという。5歳の時、普門品(ふもんぼん。法華経第25品「観世音菩薩普門品」の略)を地元の和尚が読むのにくっついて読む。8歳の時、父親が難にあい下手すりゃ死刑・・・というピンチの中でひとり観音菩薩にじっと礼拝し祈念したところ、難を逃れた。という、神童とも呼べるようなエピソードが庫裏で買った『佛通寺物語』に綴られている。13歳の時、父親が家に招いた徳の高い僧が愚中少年の人相を見て、「この子は将来、高僧になるだろう」と言ったので、出家する気マンマンで両親にそう告げたところ、あっさり却下。憤慨した愚中少年は、ハンストを決行。さらに、睡眠まで絶つという抗議行動に出た。これにはさすがの両親も閉口し、天寧寺・夢窓国師の元で禅の修行をしている愚中少年の叔父の縁を頼って、可愛い息子を京へ送りだした。晴れて京へやって来た愚中少年。ところが、夢窓国師は弟子入りを簡単には許さない。泣いて懇願したりしてるうち、「骨格が面白いな、お前」といって気に入られ、周及という名を与えられて念願の仏門デビューを果たす。骨相が良かっただけでなく、背も高かったというので「高沙弥(こうしゃみ)」というあだ名まであったそうな。18歳の時、当時日本第一の禅道場とされていた建仁寺に入る。そこで長老にとある質問をしてみたが、どうにも釈然としない。「日本一でもダメなのか・・・こうなったら、やっぱ本場・中国だよな」と決意する。偉い人は、やっぱりどっか違うね(笑)。ちょうどその頃、夢窓国師が天龍寺をオープンさせたので、新しいお寺に必要なお経の買い出しに元までお使いを出すという話が持ちあがっていた。足利直義が元に向けて発したこの天龍寺船に周及も便乗。18歳にして、博多から大陸へ向けて旅立つ。少年よ、大志を抱け。荒波を乗り越えて憧れの元・明州へ着いたものの、明の太守は「海賊船は、入国お断りあるネ」と言って、頑として上陸させてくれない。年が明けてもまだ船の中。そのうち、水も尽きてきた。そこで周及は、同乗していた他の僧と雨乞いの祈祷を行った。と、にわかに大雨が降り、みんな命拾いをした。この不思議を聞いた明の太守はコロリと態度を変え、貿易もOK、周及も上陸することができた。・・・と、この雨乞いの話も『佛通寺物語』に書かれているんだけど、同じく庫裏で買った『大本山佛通寺誌』はちょっと違う。 【12月に明州(浙江省寧波)に到着したが上陸を許されず翌康永元年になっても 商人の貿易のみを許したので、一商人に托して小舟により夜陰に密行し 禅門に入り、元至正3年21歳で金山の即休和尚に師事することができた。】アハハハ、やっぱこっちでしょ~!すごいパワーだ。けど、大志を抱いてはるばる海を渡ったのに、すごすごと帰ってくるようなヘタレじゃ、やはり後世に名は残せないよな。ともかく、周及は元で禅の第一人者といわれている即休契了(しつきゅうけいりょう)に弟子入りした。そうして修行に励むこと7年、体調を崩した即休和尚がある日言うには、「今度の病はどうにもいけない・・・お前はワシが生きてる間に帰るがよい」「あ、そうですか。それじゃお世話になりました~」・・・なんて周及が帰るはずもない。ところが、即休和尚はまた数日後に周及を呼んで帰国を促す。そして思い返されたのが、「10年経ったら必ず帰るから」という、母との約束。ここで帰国を決意した周及に対し、即休和尚は「且つ喜び、且つ悲しむ」としつつ愛弟子を故国へと送り返した。別れに際して即休和尚が周及に与えた偈は、周及を龍に例え、また虎に例え今後の活躍を期待するものだったが、さらにこんなことも諭した。 汝帰郷国 不要出世 須是山林樹下得座披衣 専一做静地 工夫長養聖胎他時異日 向孤峰頂上発揮吾道去在【お前はなあ、日本へ帰ったならば何も禅宗坊主として出世をすることは いらないぞよ。どうか、都を遠く離れた山林樹下に腰を据えてのう、 ぽつぽつ地方の志ある人に法を説くがよかろう。静地の工夫をなすことが 一番大切じゃ。 焦らずに、500年、600年の先に眼をつけて、聖胎を長養してくれよ。 そしてお前、独特の見識をもって、大いに、この即休の道を発揮してくれよ。】 (「佛通寺物語」より)即休和尚はさらに印可書も与えた。印可書ってのは、師が弟子に対して与える証明書で、まあ卒業証書みたいなイメージ?この即休和尚真筆の印可書は、驚いたことに現在も残っておるそうです。「佛通寺物語」が発行されたのは即休和尚の600年忌にあたる昭和26年。その2年前に、おもむろに佛通寺に印可書が持ち込まれたそうで、その時の所有者が、五島慶太氏・・・はい、「酔心」をめぐって、横山大観と愉快なバトルをした、あの方です(笑)。こうして周及は元至正10年(1350)の年末に帰国の途に着く。愛弟子を送りだした即休和尚は、安心したのか翌年の1月19日に他界。さて、恩師の死を知らずに再び船中の人となった周及だったが、帰りは暴風雨に襲われて、祈りによって北野天神を呼び出し、またもや嵐を鎮めて無事帰国した。こうしたエピソードを持つためか、海難除けの霊験におすがりしようと、開山忌には多くの人が参詣に訪れたという。博多から赤間ヶ関を通って美濃へ帰った周及。かつての師・夢窓国師から招かれて天龍寺に入るが、ここで初めて即休和尚の訃報に接する。また同じ年の9月には夢窓国師が遷化。周及は3年の喪に服したという。「臨済将軍曹洞土民」という言葉の通り、臨済宗は公権力への接近を図ったが、周及は師のアドバイスに従ってか、以後は摂津・丹波・丹後・播磨・紀伊などを巡って教えを説いていた。そして応永4年(1397)九州へ行こうと(一説には、九州旅行の帰り)沼田の地を通りかかったところ、高名な周及に会いたいとアミを張っていた小早川春平によって捕獲・・・いえ、招かれ、佛通寺の開創と相成ったということだそうです。この時、周及75歳。恩師・即休和尚を勧請開山とし、即休の諡号・佛通禅師から名を取って佛通寺とした。周及が最も気に入った山水絶佳の地を選んで建てられたという佛通寺。永徳院の前に広がる風景は、かつて周及が若き日を過ごした中国の景勝を思わせる。 にほんブログ村
2012年10月17日

善教寺から西国街道に戻ってさらに西に進むと、和久原(わくはら)川に出る。その手前にあるのが、冨田酒店さん(場所はこちら)。 この瓦、石造りなんだよね~。石の瓦って、寒い所しかイメージできない・・・というか三原では必要性を感じないんだけど、なんで石なんだろ?山口宇部空港から下関へ向かうバスの中からも、結構石の瓦の民家を見たけどね。ここを過ぎると、和久原川。 川の中では、美しきハンターがお仕事中だった。 川沿いには、風情のある塀が立つ。 【三原は城下であるところから、昔、旅人はこの地に泊まることを避けていましたが、 不便なため善教寺の西隣にあった酒造りを業とする山科屋(現在の富田酒店付近) を本陣としました。 現在、わずかばかりの白壁と床下に人が忍びこめないように作られた密室が 当時の面影をとどめているのみです。】 (三原観光協会「海・山・空 夢ひらくまち」より)「旅人は」ってあるけど、本陣という名称からしてパンピーが泊まることはないからね。密室なんて興味あるけど、残念ながら公開されてはおりませぬ。川べりの塀に腰かけて、またちょっと一休み。ふ~、疲れた・・・本当なら、ここまでを半日で済ますハズだったのに~大して歩いてはいないと思うんだけどな。出発が遅れたせいもあるけど、やっぱりあちこちで座り込んでたからかな~(笑)。ここから糸崎まで移動するのは時間的にも体力的にも厳しくなってきたので、とりあえず今日はやめておこう。まだ1日あるし。さて、和久原川を越えるといよいよ三原城内。橋のたもとには、だるまさんがいた。 「城下町みはら散策マップ」には「石ダルマ」って描かれていたので何だろう?って思ってたけど、これのことか~。和久原川を渡ると、史跡とは関係ないお目当てがある。 電柱が下の方でむにゅっと曲がってるの、わかる?こんなのがこの道にはずっと続いてた。写真じゃちょっとわかりづらいかな・・・ 左側は、広島大附属幼稚園および小・中学校の敷地。ここはすでに三原城内で、現在の地名は「館町」。かつては侍町だった。それでここの道のこの細さ、これまで地道に三原編を読んできて下さった方はすでに慣れっこでしょうが(笑)、この道もおおむね昔の造りのままだと思う。和久原川の内側(城内側)には、かつては川に平行して「芦堀」ってのがあって、さらにそれに平行する形で通りが「備後國三原城繪図」に描かれている。ちょっとばかし向きが違う気もするけど、たぶんこの道がその通りにあたるんだと思う。字が潰れてて読みにくいんだけど、「泰雲寺丁」って描かれてるみたい。泰雲・・・隆景ちゃんと何か関連があるのかな?「繪図」には館町のあたりは、ちょろっと石垣が描きこまれてたりもするので、現在見られるこの石垣↓ 近代に入って新しく組まれたものっぽいけど、雰囲気としては昔もこんな感じだったんだろうな~って思った。さて、3日目の行程自体はまだ続きますが、この後は三原城関連なので、三原城の記事の公開までお待ちくだされ。三原駅のキオスクに寄ったら、タコがあった。(↓すでに1コ食べた後) あっ、「ウラベのたこ天」だ~!なにかのパンフレットで、これ見た!!一人の時は夕飯は外食しないので、まだ三原名物・タコを一口も食べていなかった私はとりあえずここでたこ天をゲットした。部屋でこのたこ天を食べたんだけど、完全に冷めてるのにやわらかくって、美味しかった~タコも大きいし。明日はなにかタコ料理食べられるかな・・・この日の歩数は14,815歩。大して歩いてないのに、滅茶苦茶疲れたわ~。4日目<2012/8/28(火)今日も晴れ>今日は楽しみにしていた佛通寺(ぶっつうじ)へ。三原駅からバスは出てるんだけど、おっそろしく本数が少ないので、気をつけないと。前の晩にケータイのアラームの動作確認もちゃんとしておいたおかげで、今日は寝坊することなく予定通りバスに乗れた。三原駅から、約40分のバス旅。市街地を離れると、バスは細い田舎道を走ってゆく・・・かなりのスピードで(笑)。さっすが、地元の運ちゃんは違うぜバスの窓から見える民家は結構立派なものが多くて、佛通寺へ着くまでの間に、またハトの留蓋を沢山見かけた。佛通寺って、すごい山奥にあるのかと思ってたんだけど、意外にバスはあっさり着いた。まあ、スピード出てたから・・・(笑)。400年前の道を自分の足で歩くとなったら、やっぱり大変な道のりだったかもしれないけど。して、大きな駐車場にはクルマはまだ1台も止まってなかった。 ここでバスを下りたのは私だけだし、マイカーが1台も止まってないってことは、この近くのキャンプ場に泊まってる人を除いては私が1番乗りだってことだよな。まあ朝早いし、世間ではいちおう平日だからね。さて、バスが着いたのが8:21。この後、三原へ帰れるバスは11:05か13:19。う~ん、見どころが色々あるし、私がこの歴史ある寺を2時間半で回れるかな~(←マジ)。かといって、その次だと約5時間あるから、さすがにそこまではかからないかも・・・とりあえず11時のバスに乗るつもりで頑張ってみよう。時間が足りなかったら、次ので帰ればいいや ここでの方針をきちんと決めて、駐車場にあるトイレを借りてからいざ、境内散策へ~ にほんブログ村
2012年10月16日

参道を通って、奥へ。 本瓦葺の四脚門。中から見るとこんな。 門をくぐると、すぐ本堂。こちらは江戸時代の再建とのこと。 ちゃんとソテツもある。ほっとするなあ(笑)。 【「備後古城記」(内海本)に天文23年(1554年)に沼田川河口の 小島城で戦いがあって、城主摂津守祐直が小早川隆景のために落城したことが しるされている。 この時、陶晴賢の方についていた祐直はついに戦死し、祐直の子息、若狭守は 郎従に守られて小島城を逃れ、妻の縁者を頼って但馬国の大田垣家の元に むかいました。 小島若狭守の三男行栄は、幼名を松千代といいました。父若狭守が大和国に 在住のころ誕生し、父と共に柴田勝家にしたがって、兵馬倥惣のあいだを馳駈し、 多くの武功をあげていましたが、有為転変の激しさに合い、人生のはかなさを 見るにつけ、自ずから深く悟ることがあり、永禄の末に播州亀山におもむき 本徳寺の上人に頼んで得度し、法名を行圓と号しました。 行圓は衆生にまぎれて懐かしい三原に帰り、山中川畔の先祖の故地に草庵を 営みました。 そして築城のとき、埋め立てしたばかりのこの地へ移りました。 当時、この浜之町では、善教寺が最初に建てられたといわれます。 この寺には 親鸞上人御筆の経文や蓮如上人自画、准如上人の手紙など 貴重なものが多数残っています。】 (三原観光協会「海・山・空 夢ひらくまち」より。誤字などは一部修正) 柴田勝家の家臣に「小島若狭守」って名前は出てくるんだけどね。家老だったとか、北庄城留守居役とか。けど、行圓は永禄の末に出家か・・・普通に調べて出てくる「小島若狭守」と行圓が親子なのかはちょっとわからないなあ・・・が、生口島にある万徳寺の縁起では、 【甲斐守行栄は播州亀山の本徳寺で得度し、行円と名乗り故郷でひそかに 小島家の再興を計っておりました。 時の本願寺・教如上人は、その志をのべる行栄の子らを時勢にあらぬ願望とさとされ、 僧籍に入ることを許されました。】と伝えられる。浄楽寺を開いた石川彦左衛門さんのように、世の無常をはかなんで出家してしまう人あり、あるいは行圓のように再興の夢破れる人あり・・・人生いろいろだなあ。 本堂の向拝には、なかなか躍動感のある彫物が。波、かな? 手挟(たばさみ)も波っぽい。 三原八幡宮のところで、組物について簡単に説明しましたが、手挟は斗栱(↓薄いグリーンの部分)と上の垂木の隙間を埋める部材です。 屋根が平ぺったければ、肘木などのちょっとした部材を乗せて垂木と組み合わせればいいんでしょうけど、この写真のように垂木が反ってると、ぽっかり空いちゃってヘンでしょ。ということで、手挟は鎌倉以降、垂木の勾配の出現に伴って現れたものであるらしい。これも屋根を支える部材に見えなくもないけど、荷重を受けるというよりは、「そのすきま、埋めて差し上げます」的な要素が強いみたい。彫刻を伴う他の部材と同様、ここも時代が下るにつれ、より装飾性の強い、派手こいものになっていきます。↓本堂に続く玄関と庫裏。 寺院建築なら、概要はあらかた解るようになってきたけど、それがそのまま住宅建築にまで適用できるかというと、これが案外難しい(笑)。寺院建築ほどルールもきつくないし、かなり自由奔放な造りなんだもんここの庫裏もなんか複雑だし、「なんでここはこうなってるんだ?」って考えながら見ると、私程度の知識だと、まだまだ解析に時間がかかる。まあこれは庫裏だから、一般の住宅建築とはまたちょっと違うけどね。ただ、ぱっと見普通の地味な民家でも、案外伝統にのっとってる家って多いから、例えば通勤とかの道でも普通の街中の家々を見ながら歩くのが楽しくなった。ちょっと知ってるだけで色んな事が楽しめるようになるんだから、勉強って大事・・・ して、境内にはこの方がおわす。 また親鸞様です。笠で顔が陰になっちゃってて、残念・・・そうそう、お寺の解説に戻ると、こちらでは蓮如とか准如ゆかりの品があるんだってね。ね、また准如が出てきたでしょお~。そして、『築城のとき、埋め立てしたばかりのこの地へ移りました』とあるから、やっぱりこの辺りも山際まで海がちゃぷちゃぷ迫ってたんだ(地図はこちら)。極楽寺とか観音寺のあるのが、米田山。その西に「桜山町」って書いてある山があって、これが桜山。三原城の築城については、法常寺のところで簡単に書いたけど、何しろ全容がほぼ整うまでのタームがえらい長いので、どの段階で埋め立てたのかはちょっとわからない。まあ、遅くとも天正10年~11年頃には東町の埋め立ては終わってたと思うけど。そして桜山の南麓にあった道場を、ピカピカの埋め立て地へ移したのが現在の善教寺という。にほんブログ村
2012年10月15日

専福寺を出て、ふたたび向かいの公園へ。ちょうど木陰にテーブルとイスがあるし、炎天下の公園には遊ぶ子供もいないから、ここで休憩していこう。もう14時だし、ついでに手持ちのパンで腹ごしらえしとこう。ああ、今日こそはどこぞのお店で涼みながら、きちんとご飯食べるハズだったのに・・・まあ、日陰にいればそれなりに暑さもしのげるし、通りの向かい側には精悍なイケメンの親鸞様がこちらに向って手を差し伸べておられるからな。立地的には、悪くないぞ(笑)。しかし、さっきからやけに腕が痛い・・・汗で塩ふいて、それが肌にしみてるのかな?普段、そんな事ってないんだけど・・・と思って痛い右腕を見てみたら、小さなすり傷が沢山できてた。・・・あっ!東舟入櫓前で植木に倒れ込んだ、アレかあ~!!肘から下が傷だらけになってて、血がにじんでるところもあった。これじゃ痛いハズだわ~。まあ、この程度で済んでホント良かったよな軽い昼食を済ませて公園から南下すると、西国街道に行き当たる。朝、太神宮のあたりから見たカーブの先が、ここにあたる。 ここからちょっとだけ東に戻ると胡神社が・・・ ・・・あった。中も覗けないし、次行こ・・・ ここからは、三原城内目指してこの道をまっすぐ西へ。途中の道でまず現れるのは、三原銘酒「酔心」の本店。 創業は、万延元年(1860)。この年に、初代の山根忠兵衛さんが尾道の山根本家から分家して、三原へやって来たそうな。醉心山根本店の創業自体は1860年と割と新しいけど、この地で300年以上続いていた蔵元・桜井家を買収した時を創業年としている。で、その桜井家はというと、創業は隆景の時代までに遡る。永禄10年(1567)の城下整備の際、東町と西町とに分割されたそうで、この時点で桜井家は酒蔵を営んでいたという。「酔心」の名を高めたのが、「我が主食は醉心」と言った横山大観の存在。酒豪・大観は、なんでも1日に2升3合の酒を飲んでいたとか・・・この大観と酔心の3代目がウマがあったらしく、大観の存命中は酔心からず~っとタダで酒が贈られていたそうな。そして大観は、美酒のお礼にと毎年作品を寄贈してたんだって。薬を飲むにも酔心が必要だったと言われるほど酒好きの大観だけど、昭和20年の東京大空襲の後には、酔心も簡単に手に入れられなくなる。そりゃあそうだよね~。生きるか死ぬかって時に、遠方の酒を飲みたいってのもどうかしてると思うけど・・・が、巨匠に常識は通用しない。ここで大観氏は、とっておきのコネを使う。時の運輸大臣・五島慶太に酔心の輸送を頼み込んだというのだ。これに応じる方もフツーじゃないけど、とにかく五島氏は東京駅長あての手荷物として、極秘に酔心を輸送する手配をした。念願叶って酔心を手に入れた大観氏。ところが、話はここで終わらない。輸送に尽力した五島氏が、手間賃として運んだ酔心の半分を要求してきた(笑)。「酔心はワシの主食なんだぞ!ぼったくりもえーかげんにせーや!!」「このご時世で、酔心を運ぶのにどんだけ苦労したと思ってるんだ!これでも安すぎるくらいじゃろーが!!」・・・この楽しいエピソードは、「地酒蔵元会」様のサイトからの抜粋です。酔心の歴史などについても細かく紹介されてますので、興味のある方はそちらをどうぞ。この通り沿いには、こんなのもある。 ナニコレ・・・武家屋敷?別に公開されてる訳でもないみたいだし、こんなのあるなんて聞いてない・・・そういえば、この辺りに「真田家」って書き込まれてる地図を何かで見たなあ。これがそうかな? 何だかよくわからなかったので、後からちょっと調べてみた。詳しいことはやっぱりわからなかったけど、どうやら御典医のおうちらしい。現在までもずっと医師を続けてきた家系らしく、今でも開業してるとのことだったけど、ここには看板も出てないし、別の場所に病院を持ってるのかな?さらに進むと、通りの反対側に公民館があった。 だるまだ・・・そういえば、「神明市」ってこの辺でやるんだよな。だからかな?この先に、東町エリアでの目的の寺の最後となる善教寺がある(場所はこちら)。 ここの入口には、大変ためになるお言葉が・・・ そして、こんな碑もある。 【文化年間 伊能忠敬 観測地】文化3年(1806)と文化6年(1809)に測量をしたとある。時期的に、第5次と第8次の測量がこれにあたるかな?彼の年表を見ると、よく歩いたよな~ってホント感心する。第8次なんか、甲府からスタートして小倉へ向かい、鹿児島~屋久島(!!)~種子島、九州の内陸を通って長崎~壱岐~対馬~五島、今度は中国の内陸部を通って京都~高山~飯山~川越。のべ913日間の大旅行(旅行ちゃうって・・・)しかもこの時、御歳67。次の第9次測量には、忠敬は行かなかったみたいだし、その後の第10次には近場だったから、大規模測量ツアーとしては最後の回で三原に立ち寄ったってことになるよな。いやいや、ワシもちょっと歩いたぐらいで疲れたなんて言ってちゃいけないよな~。てか、どっかで忠敬さんの爪のアカ、売ってませんかね?(笑)にほんブログ村
2012年10月14日

山門の蟇股は、内側は普通。 しかし、外側は・・・ わ~い、またうさぴょんだ~この反対側は、 おお、こちらもいいな見るからに新しい感じではあるけど、案外三原って板蟇股が多いなあ。江戸期以降の派手な彫刻の本蟇股もすごいと思うけど、個人的にはどっしりした板蟇股の方が好きだな。して、こちらが本堂。 ここにも、いるいる(笑)。 ↓本堂の蟇股。だよな・・・もはや、蟇股の形状をとどめておりませんが・・・ こちらの境内にも、ちゃんとソテツがあった。もはや、これがないと寂しくっていけませぬ・・・(笑)。 ↓本堂に続く玄関。 ・・・暑かったからね。できればちゃんと外観を見たかったけど、しょうがないよね。お寺の玄関って、普段は使うもんじゃないみたいだし。ところで、現代ではフツーに「玄関」という言葉を使っていますが、その語源を御存じでしょうか。元は『老子』の中の「玄の又玄なる衆の妙なる門」という語から来ており、立派な仏教用語。仏教の中でも、禅宗で用いられた言葉で、「玄」は奥が深い悟りの境地を意味し、「関」は入り口のこと。すなわち、「玄妙な真理に近づくための関門」を表すんだそうな。そういう意味なので、イコール仏門に入る入口のことでもあるんだと。以前、「あずまや」の由来なんかもちょっと書いたけど、日常的に使ってる言葉でも意外なところにルーツがあったりして、語源を調べるのも結構面白い。専福寺は他の三原の寺に比べて格段にハトの数が多く、玄妙な関門の両脇の留蓋にもおった。 たかがハト、されどハト・・・結構個性あるなあ(笑)。でもこの子は、ハトじゃないかな?玄関に付けられた雨樋はブロンズ色で、景観を保つのも大変だなあ~と妙に感動した。 境内の建物は大体こんな感じだけど、ここには大きなイチョウがある。 立派な木だなあ~と思って、真下まで行って見上げたら、実がものすごく沢山なってた。 へええ~、こんな風になるんだ~。イチョウの実がくさいというのは話には聞いていたけど、私自身はイチョウの実にお目にかかった事がなかったので、ぎんなんの事を言ってるのかと思ってた。確かにぎんなんは若干クセがあるけど、そんなにくさいか?ってずっとずっと思ってた。そんな世間知らずの私の鼻があの強烈な悪臭に猛攻撃を受けたのは、忘れもしない、大阪・三光神社でのこと。三光神社には「真田の抜け穴」といわれるものがあって、その前に建つこの真田信繁公↓にご対面した後で、 生まれて初めてイチョウの臭さを味わったものさ・・・フッ三光神社は熟した実がそこらじゅうに落ちてて、それがすごいニオイを放ってたんだけど、もう涙が出るほどくさかったさ・・・ここ専福寺の境内も、シーズンがくればきっとすごい事になるに違いない。こんなに見事に実がなってるんだもの。秋に来なくて良かった・・・(笑)。まあでも、ちゃんとお掃除してればさほど問題はないのか。そして境内には、この方もおわす。 おお~ッ、イケメン(に造ってある)じゃ~ん!!この方は、親鸞聖人様です。専福寺は真宗のお寺ですのでね・・・って、お寺の来歴をまだ紹介してなかった。 【龍雲山専福寺は、末近四郎三郎信賀ゆかりの寺として、御調町今津野津蟹に 臨済宗佛通寺派としてありましたが、広島県へ真宗が布教され北部を中心に 改宗する寺院が続出したとき、この寺も慶長2年(1597年)に祐教が 真宗に改宗して、堂宇を今の地に移しました。】 (三原観光協会「海・山・空 夢ひらくまち」より)隆景の没年が慶長2年だから、ギリギリかするかどうかって所だけど、これを見る限りでは、隆景の城下整備に伴う移転ではないみたいだな。佛通寺は、明日行きます。うふ末近信賀(せちか・のぶよし、あるいは、すえちか)は、備中高松城で名前だけ出てきてます。清水宗治七将のひとりって読んだからそう書いたんだけど、あらためて調べてみるとどうも違うみたいだな。備後羽倉城主・末近信賀は隆景ちゃんの家臣で、軍監として高松城にいたらしい。で、宗治およびその兄弟とともに切腹したと。 (備中高松城址・清水宗治の首塚)奥に見えてる五輪塔には前に一体、後ろに二体のお地蔵様が刻まれており、前面のは宗治、後面のは月清入道と末近信賀と伝えられておるそうな。五輪塔のある盛土の部分は生け垣があって入れなかったから、そのお地蔵様は見てないんだけど、月清入道(宗治の兄)と信賀だけ?一緒に、宗治の弟も自刃してると思うんだけど・・・(笑)。弟はどこへ行ってしまったのやら専福寺とどういう縁があるのかはわからない。毛利側からの軍艦として派遣されるくらいだから、それなりの武将ではあったかと思うんだけど、残念ながら末近氏についてはあまり詳しい事はわかってないみたい。 君がため名を高松にとめおきて 心はかえる古郷の方が信賀の辞世として伝えられる。合掌。にほんブログ村
2012年10月13日

観音寺から次の寺へ。 あ~トイレ行きたいっ宿を出てから、ずっと行ってないよな~。こうなったら、日赤(写真左上の白い建物)でトイレ借りちゃおうかな~・・・と、とりあえず次の寺がその手前にあるから、まずはそちらを見よう。で、浄楽寺へ(場所はこちら)。 山門は薬医門。昨日・今日と四脚門ばっかり見てたから、前面に控柱がないと、やけに屋根がデカく見える・・・屋根の上には、花が咲く。 屋根の上にあるこの飾り、気に入ったものとかはこれまでも写真を掲載してきましたが、何なんだろうってずっと思ってた。実はこれにも、ちゃんとした名前があるんです。(と、つい最近知りました。)名称は、「留蓋」(とめぶた)。あるいは「巴蓋」「隅蓋」。雨漏りを防ぐための瓦押さえなんだと。浄楽寺の山門でいえば、 ピンクの部分が実用部分。これまで、「鏡餅」と表現してきた部分がこれにあたるようです。アハハハ、だって知らなかったんだも~ん!!上は飾り。あるいは魔除け。建築の本を色々見てると、「えっ、こんなものにまで名前が付いてるの!!」って驚くけど、これにまで名前が付いてたとはね~。ともかく、疑問がひとつ解消されてスッキリしたぞ。膀胱はまだスッキリしてませんが(笑)。門の内側にはお決まりの・・・ あれっ?そういえば、今日他の寺でソテツ見たっけ!?あったかもしれないけど、目に入らなかったなあ。庭木にでも埋没してたのかもしれない。なんか、懐かしい友達に会ったような気分(笑)。だって、昨日の西町エリアでは「私たち、ソテツ完備してま~す」ってぐらいどこの寺にもあったもんな~。ホント、慣れって恐ろしい・・・で、こちらが本堂。 境内はそんなに広くないけど、このお寺も歴史がある。 【寶林山浄楽寺は、小早川隆景公侍臣 石川源左衛門の舎弟で、 同じく侍臣であった石川彦左衛門が戦に倒れる者や病に苦しむ者たちを見るにつけ、 世の無常を悟り出家し、専修念仏に入道。 本願寺第十二世准如上人より、法名玄恵をいただき慶長4年(1599年)に この地に草庵を建てたのがはじまりで、やがて宗徒・領民たちにより寛文2年 (1662年)本堂を再建、その後文久2年(1862年)まで3度の再建が されています。】 (三原観光協会「海・山・空 夢ひらくまち」より)ワンクッション置いた、隆景ちゃんのゆかり(←強引)。准如ですので、真宗の中でも本願寺派にあたる訳です。准如が三原に来た時に名前をもらったのかなあ。浄楽寺の開創までちょっと開きがあるけど。順勝寺も准如のゆかりだし、これから行く寺とも関係があるし、なにげに三原には准如の残り香がある。殿下のお見舞いの途中で寄った他にも、三原に来たことがあったのかもね。浄楽寺のすぐ近くに、もうひとつお目当てのお寺があるので、とりあえずトイレは先送り。で、行ったのが専福寺(場所はこちら)。・・・が、その向かいには公園があって、公衆便所はっけ~んやれやれ、日赤のを借りなくて済んだぞ・・・ところで、このトイレはなまこ壁風。 城下町だからそれはいいんだけど、こんな貼り紙があった。 えええ~っ!!明らかに近代的建物なのに、コレ必要!?まあ、白い壁にボールの跡とか付いちゃうのは確かにナンだけど・・・三原は面白いなあ。さて、スッキリしたところで専福寺へ。 山門の左側の建物は、経蔵か何かかな?屋根が中心からズレてて、なんか変わった造り。山門に近寄って見ると、早速ハトがお出迎え。 「世」?専福寺の「せ」? 反対側の留蓋にも、「世」に囲まれてハトがおった。なんかこの子、眉毛があるみたいでカワイイ 内側にも。 ハトのくちばしはこれで正しいか!?うちのポーちゃんはこんなクチバシしてないぞ。あ、野鳥は通常飼っちゃいけないんですけどね、カラスに襲われてたのがうちに持ち込まれて、それ以来我が家の住人なんです。今じゃすっかりゼイタク者になっちゃって、鳩のエサも選り好みするんですよ エサ入れから、自分の嫌いなものを選んで外に出してるの。ポツッ、ポツッて音が聞こえてくると、「選別作業が始まったよ・・・」って苦々しくも思うけど、小さい頃に保護したから、もうアイツは外の世界じゃ生きていけないし、しょうがない。すみません、脱線しました。門前には、こんな瓦があった。 輪宝(りんぽう)紋でもないし、懸魚(けぎょ)紋でもないし、法具っぽいような気もするんだけど、結局何なんだかわからなかった。紋じゃないのかな・・・デザインが気に入っちゃったんだけど。↓ランキング参加ちう~。よろしければ、ぜひ「ぽち」っとお願いします。にほんブログ村
2012年10月12日

三重塔から戻ると、自販機があるのを見つけた。境内に自販機なんて、珍しい・・・で、本堂の縁側に腰かけて缶コーヒーで一休み。今日、何回座り込んだだろ極楽寺の山門を出ると、目の前にはこんな光景が広がる。 外枡形・・・だめだ、自分が一体何を見てるのかわからなくなってくる山門の外側の塀にも、ハトがいた。 なんでこんなにハトが多いんだろう?三原以外でハトなんて見たことないんだけど。どの位のエリアに分布してるのかな~。石段を下りてく途中の石垣には、銘が彫ってあった。 よく読めないんだけど、明治27年に補修か何かしたみたいだな。ここから先は、どうも旧西国街道沿いには行けなさそうなので、一旦石段を下りきる。一番下からあらためて松寿寺を見上げると、長い石段が立派だった。 下りたところの道は、またも細い。 ここから少し北へ向かうと、観音寺がある(場所はこちら)。 この山門の軒丸瓦は、 折敷(おしき)に三角字。蟇股も。 もうひとつの蟇股はこんなのだった。 周りの部分はかなり華奢だから、ほとんど飾りだよな。真ん中の束(つか)で支えてるカンジ。あまり見ないタイプ・・・でも、上下の柱はかなり新しいみたいだから、蟇股の部分だけ古いものを転用してるのかもしれない。木鼻はゾウかと思ったら、違ったわ・・・(笑)。 こちら↓が本堂。 緑が多くていいんだけど、本堂の真ん前とかはホント勘弁してほしい・・・いい建物なのに。 【海南山道場院観音寺の本尊は、行基菩薩の作といわれる十一面観世音で、 この仏像は康平の頃(1058年頃)豊田郡高崎沖に出現したといわれるもので その後沼田に移し安置されていました。この仏像が弘安の頃 (1278年-1287年)諸国遊行をしていた一遍上人の目にとまり、 小坂町水無谷に道場を建立しこの仏像を本尊にして祀られ、 上人が開祖となりました。 慶長3年(1598年)城下のこの地に移されました。】 (三原観光協会「海・山・空 夢ひらくまち」より)慶長3年なら、隆景の死の翌年だな。隆景ちゃんの生前に移転は決まってたけど、実際のお引っ越しがずれ込んだとかかなあ・・・↓本堂正面の蟇股。 「はらわた」がはみ出してるというより、「はらわた」のみで構成されているようです(笑)。これは唐獅子かな?金目じゃん。向拝の木鼻は、躍動感がある。 ↓こちらが本堂の内部。最初から戸が開いてたので、遠慮なく見させて頂きました(笑)。 本堂の軒下。 先っぽだけ板が張ってあるのは、何なんだろう。それに、この写真の中で、「この補修ってアリかな~」って部分があるんだけど、シロートだから下手なつっこみはやめておこう境内を出て石段を下りる途中で振り返ると、ここにも石垣があった。ただし、ここのは新しそうだけど。 さて、極楽寺以降、松寿寺・観音寺と山腹の城を3つ見てきました。この辺りは、割に早くからお寺だとかがあったようだけど、隆景が三原城下を整備した際にも、もちろん手が入ってる。重要な街道沿いでもある訳だから、恐らくそれなりの構えをした構成になってたとは思うんだけど、極楽寺と松寿寺の寺歴を見るに、現在残る造りは浅野忠真さんがかなり手入れをした後のものって事になると思う。正保元年(1644)に幕府が提出させた城絵図によると、すでにその時点で西国街道は山腹から降りてるのがわかるので、もう街道沿いを固めるという意図ではないだろうな。とすると、城や砦の新築ができない状況下で、やっぱり砦の役目を持たせて寺町の強化を図ったのかな~って思った。観音寺の境内は、寺域がちょっとゆるいというか、山とかとの境界がぼんやりしてるというか、あんまりかっちりした感じじゃない。三原編でこれまでに、三原の寺を丁寧に巡っている先人の事を引き合いに出してきたけど、実はこの方はかっちりしてガードの固い寺よりも地元の住民などが気軽に出入りできるようなオープンな造りの方が好きならしく、3つの寺の中では観音寺が一番好印象だと書いておられた。実際、自分の足で歩いてみると、ある意味西町エリアよりも近代的な固さみたいのを感じたし、歩いた後でこの方の観音寺の記録を読み返した時、思わず笑ってしまった。「そりゃそうだよ~!城の防御機能の一つだもん!ガード固いはずだって!!」・・・あ、笑うって言っても、別にバカにした訳じゃなくてね。この方は、お寺は好きだけど城の知識はないらしく、城とか城下町の機能とかってものを念頭に置かずにあくまで「寺」として見てるから、城を中心に考える自分の印象との対比が、すごく面白かった。城の知識がない方でも、何とはなしに違和感を感じるような町の造り。それこそが、本来の意味での城下町なんだよ~って声を大にして言いたくなった。にほんブログ村
2012年10月11日

玄関に続くのは、本堂・・・アラ、写真がないわその前には、灯籠がある。 松寿寺には、「キリシタン灯籠」があるって聞いてたんだよね。由来はわからないんだけど。これがそうなのかな?それで、この欄間なんだけど・・・ もう覚えてないんだけど、賽銭箱を求めて本堂の戸をちょっと開けてみたような気がする。だから、中にあった欄間じゃないかな~と思うんだけど今でも少し色は残ってるけど、昔は相当華やかなものだったんでしょうね。で、お賽銭を納めたあとにそのまま本堂の階段に腰掛けて休んだんだ。また(笑)。しばし休んだ後で、左手に見える鐘楼へ移動。 今まで三原で見てきた鐘楼は、ほとんどが袴腰付で米山寺は鐘楼門、あと龍宮造の変わりダネがちらほら・・・だったので、4本柱の鐘楼がなんだかやけに新鮮に見える(笑)。中に懸かる梵鐘はこんなの。 これは和鐘かな。縦帯のところに『南無釈迦牟尼仏』とあるのは、曹洞宗だからだな。曹洞宗では、お釈迦様を本尊としているからね。 鐘の各部名称については、大体こんな感じ。 鐘楼の隣には、小さなお堂が3つあった。鎮守様かな? こんな小さなお堂まで、しっかり本瓦葺~。屋根、重そ~しかし、大棟をこんな間近で見る機会ってそうそうないからな。これは、丸瓦を上下に組んでるのかな?この紋は何の部類に入るんだろう・・・ その隣が↓コレ。まだ新しめ。 中はお狐様だった。 ここの兎毛通(うのけとおし)ふうなのに彫られてる紋が、 山、と何かかな?紋にも色々あるなあ~。この奥にあるのが、禅堂。 ここの蟇股が、 おお~、なんかすごい。てか、ここまで来ると、もはや蟇股って言っていいものやら・・・ 【禅堂 當寺の禅堂は禅三派(臨済・曹洞・黄檗)の様式を具備した全国でも珍しい 禅建築上貴重なものです。 安永9年(1781)の建立で、三原城主が妙正寺を建立する時廃寺にした 末寺福寿院の本尊十一面千手観音菩薩像を安置してあります。】 (現地解説板より)え~!それぞれの宗派で、建築様式まで違うんだ~!!黄檗は柱なんかに特徴があるのはわかるけど、それ以上のことはわからんなあ・・・で、「三原城主」とあって個人名がカットされてるけど、これは忠真さんのことだよね。でも妙正寺の創建(1674)とは建立年代が違うから、安永に再建されたってことかな?この奥は墓地だったから、外へ出ようとしてこんな碑があるのを見つけた。 「私は松である雨がふっても風がふいても松である一本の松である間 松である事に誇りを感じて最も松らしく生きようと思う私は松である」なんでも、武者小路実篤が松寿寺に逗留していた事があるそうで、庭の松の支柱に書いたものなんだとか。彼の自筆らしいです。 結局、雪舟さんの庭はわからなかったな・・・山門を出かかって、もうひとつお目当てがあった事を思い出した。あぶね~っ!!う~んと、たぶん高台にあると思うから、本堂の裏手の方かな。ってんで、墓地を抜けて裏へ回ると、あった。 由来も書いてあったんだけど、長いので割愛します(笑)。けど、元は多宝塔模造経堂で、明治20年に建立。昭和53年に不慮の火災で全焼、昭和63年に再建されたとある。塔の基壇にはこんな紋があった。 丸に三つ引き・・・んにゃ、違うな。丸に三の字だ。この高台にもわずかに墓地があって、ほとんど通路らしい通路もないところを端まで行って、これを見た。 ふっふっふ、お隣の極楽寺の本堂の背面です。この錣葺(しころぶき)が見たかったんだよね~ここからは幾分木がジャマだけど、高いだけあってなかなか眺めはよい。 同じ場所からの三重塔。 う~ん、ちょっとでっぷりさんかなあ・・・瑠璃光寺五重塔みたいに、高欄を外すだけでも随分すっきりすると思うけど・・・この塔の軒丸瓦はこんなのだった。 アラ、ここは「寿」じゃなくて「松」になってるわ~。足元に気をつけつつ墓の間から双眼鏡で塔の造りを見てたら、最上層にハチの巣があるのを見つけた。最下層じゃなくて良かった・・・こんな高いとこでハチに追い回されたら、石段から転げ落ちちゃうよ~にほんブログ村
2012年10月10日

お隣のお寺へ行く道にも、石垣はずっと続く。 まあま、新しく積んだ箇所なんかもあるみたいだけど、それは仕方ないわね。それより、道が細いから石垣ばっかり見てて道の下の民家に落下しないようにしないと・・・(笑)。この先にあるのが、松寿寺(場所はこちら)。 この山門の軒丸瓦は・・・ 松寿の「寿」だな。これくらいなら、私にだって読めるぞこの山門、見たとこだいぶ新しい感じだけど、三原城主の寄進によるものだという。蟇股はこんなのだった。 おお、蝶だあ~!!蝶紋もディテールの差で色々呼び名があるみたいだけど、どうもぴったりしたのが見つからないなあ・・・まあ、揚羽蝶の一種かな。蝶は板蟇股の内側だったんだけど、外側はこんなだった。 ワ~イ、うさぴょんだ~波に遊んでる感じかな。兎紋はあまりないから、たまに見かけると嬉しくなる。カワイイ紋だけど、 【兎紋は、「白兎は月の精で、その寿(じゅ)は千歳」という祥瑞から めでたい動物として紋章に用いられたのであろう。】 (「家紋大全」/梧桐書院より)なんだってさ。「松寿寺」という寺名との関連から、ここの「はらわた」にしたのかな?もう一方の蟇股の外側は、 うさぴょんの後で見ると、どうも地味に見える・・・(笑)。いえ、単に好みの問題ですが。この門は、仁王門。通常よりだいぶミニマムな仁王様がいた。 こんな小さい仁王様は逆に珍しいんじゃないか? 門をくぐると、建物側の屋根にはアレがいた。 ・・・あい、おはよ~。今日は君たちに一体何羽会うんだろうか・・・こちら↓が内側から見た山門。軒丸瓦以外にも、「寿」の瓦があふれてた。 中に入ると、左前に庫裏。 立派な建物だし、庭木も綺麗に手入れされてるんだけど、建物を撮りたい私としては、ちょっと泣きたくなるような構図・・・2日目の旅日記でも書いたけど、結構三原にはこういう所が多くてねしかしこの建物、1階の屋根の左側がなんかヘン。右側の屋根を見ないで、左半分だけ見たとしたらなんか望楼型みたいに見える。望楼型庫裏・・・アハハ、そんなバナナここも色々見どころがあるんだけど、まず庭園は雪舟の作との言い伝えがあるものらしい。庫裏の前のこれは違うよな・・・庫裏の向かって左側にも建物があって、そちらの方にもお庭はありそうだけど、明らかに住居だしな。画聖・雪舟さんの作と伝えられる庭園だとかはそれこそあちこちにありますが、この辺りは確かに雪舟さんは通っているようですよ。まあ、山口への行き帰りの途中だと思うけどね。(雪舟さんと山口の関係については「山口編(11)」あたりをご覧ください)ここからもう少し西に行った地点にも、雪舟さんの足跡が残されてるし。お庭はちょっとわからないので、ひとまず境内を回ろう。こちら↓が庫裏に続く玄関。 何か、気になるものが色々あるぅ~。まず、下にはこんなのが置いてあった。 鬼瓦、だよな。黒いんだけど。昔は黒い瓦を使ってたのかな?上を見上げると、扁額はこんなのだった。 これ、石造りだ・・・珍しくない?石の扁額なんて。落ちたらパリーンと割れそうでちょっと恐いけどこの玄関には、なにやら板書がある。 【松壽寺史略 當寺は貞治4年(1365)室町時代、足利義満代備後守護職、細川頼有が 京都建仁寺住職大方普光惟忠禅師を開山として三原西河原谷川に創建された。 臨済宗昌寿寺といった。 永正8年(1512)6世全隣智光和尚の時、現在地来迎寺跡に移す。 寛文9年(1669)時の住僧10世喜山和尚が三原宗光寺6世一雲椿道和尚に 帰依し、曹洞宗に転宗し今日に至る。 山号は往古珍藏山「昌寿寺」開山惟忠禅師が細川頼有公の延命昌運を祈って つけられたとか、延享2年(1745)8世元(?)州補道和尚の時、 曹洞宗中興の祖といわれた白卍山和尚の末錫するに及んで、境内の松の 見事さによって松寿寺と改めたという。 延宝元年(1674)三原城主3代浅野忠真候が末寺無量山福寿院を廃して 妙正寺を創建した時、禅堂(座禅堂)・山門・石垣改修寄進(現存)されたとある。 元文3年(1738)7世方山和尚代に本堂が建立される。】 (漢数字は戦国ジジイが変換。(?)は字が怪しいところ)おっと~、何気に大事な事が色々書いてあるぞ。こーゆー風に、お寺に伝わる歴史を公開してくれるのは、すごくありがたいよな。まず、宗光寺は1669年時点ですでに寺名と宗派は変わってたって事だね。それから、色男の忠真さんがまた出てきたぞ。ここの山門を寄進した「三原城主」ってのは、忠真さんの事だったのか~!「寄進」てあるから、福寿院の建物を移築したんじゃなくて、あらたに寄贈したって意味だよね?自分ちの菩提寺(妙正寺)だって新設するんだから、随分物入りだったなあ。忠真さんはそんなにおサイフに余裕が・・・あるか。月姫様の経済効果だ。そうに違いない~!!それに、『末寺無量山福寿院を廃して』って、松寿寺の末寺をつぶして妙正寺を創ったってこと~?んじゃ、そのお詫びの印に寄進したとか。うふふ、あれこれ想像すると、何か面白い・・・にほんブログ村
2012年10月09日

こちらが本堂。 【広島県重要文化財 極楽寺本堂 極楽寺本堂は、江戸時代中期の建造物で、向拝を設けない簡素な造りであり、 素朴な構成で統一されている。 浄土宗の本堂は内陣を結界で仕切るのが一般的であるが、その様式が残って いるものは少なく、極楽寺本堂は結界と建具が残っており、他に例を見ない ものである。この本堂は、古来の素朴な仏堂形式を受け継いだ可能性が高く、 県内の仏教建築史上注目される建造物である。 また、背面屋根は錣葺(しころぶき)で、広島県の近世寺社建築の 特徴の一つである。】 (現地解説板より) 【日照山無量寿院 極楽寺-浄土宗- 創建:嘉禎3年(1237)、開祖良忠上人(記主禅師) 縁起:浄土宗第三祖良忠上人が九州よりの帰途、豊田郡舟木村川西の極楽谷 (現本郷町)に開寺。(中略)城主浅野忠真公によって、寛文年中(1661 ~72)現在地に移寺された。 本尊:阿弥陀如来立像(お念仏を一心に唱えると尊体に汗をかかれると言うことから ”汗かきの弥陀”と申して江戸時代人々の信仰を得た。) 建立:平成元年、当山開寺750年を記念して、境内に鐘楼及び梵鐘、観音菩薩尊像、 法然旅立ち像、詩人坂村真民の石碑2つ等を建立する。 墓碑:本能寺の変で信長と共に討死した湯浅甚介の墓。文豪志賀直哉の暗夜行路の モデルのマツ婆さんらの墓がある。 寺宝:開祖良忠上人著書、浄土宗関係古書、福山藩主阿部家秘蔵の結び雛形4箱等 多数を蔵する。】 (現地解説板より。他の解説と重複する部分は一部省略。)本堂の建築年次は元文2年(1737)とある。解説にも色々書いてあるように、ここでのお目当ては山門以外にもいくつかある。まず、本堂の浄土宗の完全な結界ってどんなだ!?って興味はあるけど、これは結界という性格上、見られないだろうなと思っていた。ただ、三原観光協会様のサイトに 【本堂内陣正面に、京都の彫刻師中村頼祐作の「龍と波に遊ぶ兎」の 素晴らしい欄間があります。 】ってあったので、これは是非とも見てみたかった。けど、写真の通り本堂から少し離れた位置に柵があるので、近づくこともできない。拝観できるか聞いてみてもいいんだけど、内陣にあるんだったら、やっぱり見られないだろうな・・・と思って、諦めた柵の中にある灯籠は、 アハハ、2つ合わせて「極楽」だあ~!(笠の下の部分を見てね)この灯籠の隣には、法然様がおわす。 ん~っ、大善寺の「旅立ちの法然さま」とよく似てるなあ~。顔がビミョーに違う気もするけど、材質のせいかもしれない。そしてこちら↓が、本堂に続く玄関。 気をつけてるのに、何でいっつも写真が曲がってるんだろう心が曲がってるから?(笑)そしてこちら↓が、極楽寺の法然さまと同世代だという鐘楼。 境内には、小さなお堂もあった。 おっと!これは「三原新四国 第五十四番」だって。この隣のお堂の屋根には、こんなのが載ってた。 これも宝珠だろうな・・・また下に鏡餅みたいの敷いてるし(笑)。 さて、ここから墓地へ入って湯浅甚介さんの墓を探しに行った。ここも山肌に沿うように墓が並んでて、朝の失敗があったので、足元に十分注意しながら墓地をウロウロ・・・しかし、案内板のようなものはなく、残念ながら墓は見つけられなかった。湯浅甚介というのは通称で、湯浅直宗さんは紀伊で最大の武士団を率いた湯浅宗重の一族とされ、信長様の馬廻衆。本能寺の変の時には町中の宿に泊まっていたが、急報に接し、本能寺に駆けつけて討死した。直宗の子は織田信雄(信長次男)に仕えて、現在の愛知県一宮市に所領を得たという。本能寺で亡くなったのなら、まずここのは本墓ではないと思うけどね。本能寺とか阿弥陀寺にある合祀の供養塔にも、甚介さんの名前が刻まれてるのかな・・・三原行きが決定するまでは甚介さんの事は知らなかったものの、是非手を合わせていきたいと思ってたけど、見つからないものはしょうがないよな。さて、これで極楽寺はおしまい。あの鼻血モンのアプローチを下りて、次の寺へ旧西国街道を歩きだす。 と、すぐに石垣の継ぎ目が目に入った。 う~ん?何でこんなところ・・・?と思って見上げると、ちょうど山門の部分だった。 アプローチを付け替えたのかな?昔はもっと狭い石段だったとか。あるいは、山門のリフォームと何か関係があるのかな・・・このすぐ先にも、継ぎ目があった。 継いだ部分を取っ払うと、そのまんま「櫓台で~す」で通りそうな構造だよな。継ぎ目の先の土塀の造りもちょっと変だし。昔はもっと横矢がかかってたって事なのかな?元の石垣がいつ造られたものかはわからないけど、昨日の西町エリアに続き、やっぱりここもただ者じゃない・・・だって、寺の石垣を見てるだけなのに、自然と城郭を見る目にさせられちゃうような造りをしてるんだもん。あ、角のところの石は石塔か何かの転用だ。 石垣といえば当然刻印を探すけど、その他にも石塔・石仏の転用されたものとか、矢穴を探すのが好き。極楽寺の石垣にもそんなのをいくつか見つけた。 にほんブログ村
2012年10月08日

さて、極楽寺へ来たのは、第一にこの山門がお目当てだったから。 なんで冠木だけ白いんだろう・・・強調してるのかな。これ↓は内側から。 【三原市重要文化財 極楽寺山門 極楽寺山門は、明治11年に三原奉行所の門を現在の場所に移築したものである。 また、奉行所の門となる以前は新高山城(豊田郡本郷町)の城門であったと 伝えられている。 現在では、前後に支柱を付加され、四脚門となっているが、当初は一間の棟門で あったと考えられる。中央にある蟇股の彫刻は、唐獅子と鳳凰が彫られ、 垂木には反りがあり古い形式を残している。】 (現地解説板より)門の種類は大津編でも簡単に書いたけど、ここに関連するのだけピックアップしますと、まず棟門(むねもん)は左右に本柱を1本ずつ立て、その上に切妻の屋根を載せたシンプルなもの。古建築の説明なんかによく使われる図だとこんな感じ。 これは柱材を上から見た図で、建物のアウトラインがこれでわかる。棟門の前後に控柱を建てたものが、四脚門(しきゃくもん、よつあしもん)。本柱にそれぞれ2本ずつ柱が付くから、四脚門といっても、柱は6本あることになる。それから、「間」の表示が出てきたのでついでに説明しますと、2本の柱が造り出す空間を「1間」(いっけん)という。時々、建築物の解説で「桁行○間、梁間○間」ってのが出てくるんだけど、それは↓こーゆー事を言っている。 大棟に平行する向きが「桁行」(けたゆき)、垂直な向きが「梁間」(はりま)。つまり、上の図を言葉で表すと、「桁行三間、梁間二間」って事になる。この「間」とか庇部分を表す「面」とかって表現は、時代ごとに違ったりもするので注意が必要なんだけど、歴史的建造物にある解説板なんかだと大体上のような表記方法で説明してるから、覚えておいて損はないと思う。で、「間」の間隔は必ずしも一定していないので、「○間」と聞いたところで「横幅何メートル」って単純には換算できないんだけど、実物を見なくても、桁行と梁間を聞くだけである程度の構造と規模は推測できる。なかなか便利なものでしょ?解説の歴史に戻りますと、お下げ渡しになる前は三原城にあった訳だから、三原城の遺構とするかは悩むところだけど、新高山城の搦手門という出自を採用して、旅日記の方に掲載しました。しかし、この解説・・・最初は棟門!?新高山城から持ってきたんなら、おそらく隆景時代に三原に移築したって事だよな。とすると、構造的に棟門時代には側面の蟇股はなかったはずだから、ひとつの門に使われてる蟇股でも、年代がズレてくるのか。で、解説にある唐獅子と鳳凰の蟇股はこちら↓。 う~んっ・・・鳳凰はいいけど、唐獅子はわかりにくいたぶん、 こんな感じなんだと思うけどね。しかし、ちょっと朴訥な印象のあるこの彫刻、宗光寺にある新高山城の山門と通じるものがあるな(笑)。側面にある蟇股の内側は、彫刻のない板蟇股。 外側からの写真は、あいにくありませんでした・・・彫刻、あったんだっけか四脚門にリフォームした時期がわからないけど、早い段階で糸崎に移転したとしても、最低でも15年程度のズレはあるはず。移転前にリフォームすることは考えにくいので、場合によっては4~50年程度の開きがある可能性もある。けど、後から付け足したと思われるこの側面の蟇股はこの形式なので、「もっと小洒落た本蟇股にしたかったけど、バランスが取れないので形式を合わせました~」なのか、あるいは天正年間頃の割に早い時期の改築だったのか・・・興味は尽きない。屋根にはこんなのが載ってた。 左のは、鏡餅に枝付きの桃が載ってるみたいな・・・(笑)。右のはたぶん宝球の類だと思うんだけど、ころんとしてカワイイ~!ま、軒丸瓦から見て、屋根の上はだいぶ後の葺き替えだと思うけどね。当初は瓦葺じゃなかったかもしれないし。で、垂木の反りがどーのって書いてあるんだけど・・・ 垂木自体が反ってるようには、どうしても見えないんだけどね。そういう意味じゃないのかな。建築はホント難しい。目玉オヤジサイズの、建築物知り博士が欲しいな~と思う今日この頃・・・山門の隣には、この建物がある。 【青山コレクション達磨記念堂 当達磨記念堂は、青山昭美医学博士収集の達磨約六千体とその研究文献を 主として解説されたものです。現在、約七千体の各種達磨を納めた収蔵庫と なっています。 展示、公開を目的としたものでなく、達磨の収集・研究者に提供するもので、 展示方法等に不便をおかけしますが、ご理解ください。 平素は、特別展の他は非公開ですが、見学のご希望の際はご連絡ください。 (見学無料)】 (現地解説板より)研究者?この場合、「ボーディダルマ」という個人でなく、あくまで「だるまさん」の事だよな。この解説板の最後には、極楽寺と並んで「三原達磨保存会」「全日本だるま研究会」が名を連ねる。だるま研究会か・・・色んな世界があるもんだにほんブログ村
2012年10月07日

旧西国街道の上にも、石段は続く。 石段の途中には、小さなお堂が建っていた。 壁に打ち付けてある板には、不動明王改築うんぬんって書いてあるから、どうやら中にはお不動様がおられるらしい。その斜向かいにも、お堂がある。 『三原新四国 第五十三番』あれっ?ここからそんなに離れてない古浜入川で第一番だったのに、もう53番!?一体、どーゆー分布になってるんだろう・・・さて、この上に上がったところがいよいよお楽しみの・・・ あ、あれ、これなんか、イメージと随分違うな・・・ 【籠恕(かごぬ)神社(熊野神社) 当籠恕神社は、熊野権現社と称され「権現さん」と呼び親しまれて参りました。 元和5年(1619)紀伊より浅野忠吉公が三原城主として入府された時 その水手(さきて)等が熊野新宮速球大社の御分霊を勧請しここに祝った慶安4年 (1651)の棟札を蔵す(広島県神社誌に記されてある)とあり、この旭町の 地に鎮座して380年余の歳月が流れた。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)これだけだとちょっとわかりづらいので、いつもの三原観光協会様のサイト「海・山・空 夢ひらくまち」より補足しますと、 【元和5年(1619年)10月、和歌山新宮城主浅野氏が 熊野灘の荒波にきたえられた熊野水軍をひきつれ三原城へ入城したとき、 熊野水軍が崇拝していた熊野新宮をこの地にまつったものです。 この人達は戦が起こったとき、水軍として参加できるように配慮され 米田山の麓に住みました。 毎年の6月9日15日にわたって行われる祭礼には、当時をしのばせる 特別な作法による勇壮なおみこしが見られます。】という事なんだそうです。熊野水軍はつまり、九鬼水軍てことだよな。この時点では、「元」が付くか。福島正則の転封後のことだから、隆景ちゃんとは直接の関係はないんだけど、なぜか私、ここを楽しみにしてた。素晴らしい建物の写真を見てた訳でも、浅野氏や九鬼水軍に思い入れがある訳でもないのに・・・なんでだろ?まあ、昔っから思い込みの人なので、意味もなく心引かれるとかいうのはよくある事です(笑)。こーゆー来歴の神社なので、拝殿の格子の隙間から覗いてこんな幕を見つけても、間違っても「小早川紋だ」なんて言わないよーに。 この場合は、九鬼氏・・・いえ、熊野水軍の紋というのが正解でしょう。ん?そういえば、小早川・浅野時代はそれぞれ水軍力を持っていた事になるけど、その間の福島時代って、瀬戸内の経営はどうなってたんだろ?福島正則の統治期間自体が短かったし、徳川幕府が開かれたとはいっても、全体の政情的にはまだまだ火種を抱えた中での安芸統治だから、そちらの方については色々な話があるけど、あんまり福島家の領国経営については大きな話題にならないよねえ。さて、拝殿を見て私が少なからず驚いたのは、ビジュアルが地味だったってのも勿論あるんだけど、その脇が結構すごい事になってたからなのです。 なんかもう、廃殿寸前!?って感じなんだけど・・・脇の道には板きれだの棒きれだのが至るところに散乱してるので、本殿の近くへ回り込むこともできない。仕方ない、すきまから望遠で撮るしかないな ちょっと舞台裏は刺激的な光景だったけど、誰も来ないし疲れたし、そこらにあった大きな石に腰かけて、チーかまを食べながらしばし休憩・・・休憩と休憩の間隔が、どんどん短くなっていってるな。「どっこいしょ」ってところ構わず腰掛けて休んでるバアちゃんみたいだ、私・・・ 境内には緑も多いし、静かな中にフルートの練習曲だけが響いてゆったりとした時間・・・あ、いつの間にか「ユモレスク」から「アルルの女」に替わってる。これ、小学校の時、給食の音楽だったんだよな~。アハハハ、そんなことだけはいつまでも忘れないって、おっかしいの少し休んだ後で、石段を下りて旧西国街道を北へ。さて、ここからまた寺めぐりだぞお~。トップバッターは極楽寺(場所はこちら)。 くうっ・・・!!いっきなり最初の寺でこの景観・・・コーフンして鼻血噴いて、白い壁を汚したらどうしようとか真剣に考えた。それでなくても、籠恕神社の境内は木々で薄暗かったので、石垣と白壁がやけにまぶしいぜしかも、この構成・・・来てよかった、むふふ 【日照山無量寿院極楽寺は嘉禎3年(1237年)本郷町船木字川西の極楽谷へ、 浄土宗第3祖良忠上人布教の際、阿弥陀仏を彫刻され開山されました。 それから約350年後の三原城築城の時、糸碕神社裏糸崎谷に移築され、 そして又、城下整備の一環として寛文年間(1661~72) 城主浅野家の家臣によって現在地に再度移されました。】 (三原観光協会「海・山・空 夢ひらくまち」より。漢数字は戦国ジジイが変換)というかなり古い歴史を持つお寺ですが、なんで最初は糸崎なんかに移したろう?山陽道の押さえということに変わりはないけど・・・山門の脇の塀には、サカナが立つ。 立ってる魚って、近江坂本城の近くでも見たことある。確か、あちらの方がもっとピーンと立ってたけど(笑)。にほんブログ村
2012年10月07日

楽天ブログは、開設日時が表示される。今日で351日目らしいから、あと2週間ばかりで1年だ最初の時にも確か書いたけど、旅日記の公開はもっと遅い時期を予定してた。全体をきちんと書きあげてから、分割して公開していこうかと思ってたからね。けど、ツイッターのフォロワーさんに触発されて勢いでブログ開設・・・最初はどの位の分量にすればいいのかとか、わからない事だらけだった。大抵の人はスポットごととかに分けて簡潔にしてるけど、私の場合は場所によって分量に差がありすぎるから、ちょっとそれは難しかったし。最初のシリーズを見ると、写真も妙に遠慮してて、サイズが小さい。今じゃ、そのまんま貼ってるけどね(笑)。お試しの名古屋編を皮切りに、赤間ヶ関編・岡山編・大津編・山口編・・・あと、日帰りで忍編と巣鴨編が1年の成果か。1周年を前に、どんなこと書いてきたんだっけかな~って過去のシリーズをちょっと読み返してみた。そしたら、ま~・・・「あれっ、こんなこと書いてる!!」ってのが結構多い(笑)。一応、全部自分で書いてきたんだけどね、話に寄り道も多いし、内容的に随分頑張ったな~って何度も思った。特に私の場合、一般的にメジャーな出来事とかは完全にすっ飛ばすけど、その分、マイナーであろう事については、「少しでも知ってほしい」って思いから、やたら書き込みたがるクセがある。下関の赤間神宮のあたりとか、備中の国人物語とか、池田家のドロドロ物語とか、PCのキーを打ちながら、「なんで私、こんなこと書いてんだろ?」って思ったことは数知れず・・・書けば書くほど熱が入ってきて、そーゆー時は「これは私が書いてるんじゃなくて、主役の方々に書かされているんだ」とも感じた。全体の構成がどーのとか言ってると永遠に公開できないので、夜のわずかな時間に毎日しこしこと書き下ろしてる訳だけど、まあ正直言って、大変ですわ・・・何せ、話が長いからね短く終わらせる方法もわかってるけど、それじゃ私の場合、公開する意味がない。なので、早く終わらせたいといつも焦りつつ、結局は欲望のままに、書かされるままに書きまくり・・・いや、あれでも、文章自体はコンパクトに分かりやすくを心がけてるんですよ。ただ、書きたい事が多すぎてね。真面目に読んでけば、それなりの内容にはなってるんじゃないかと思うけど、まず全体の分量が多いので、1シリーズが終わる頃には、シリーズの最初に書いたことなんか皆忘れてるんじゃないかという・・・そんな毎回長編モノの私のブログですが、地道に毎日読んで下さる方が沢山いて、これはホントに偉い人達だな~と、まるで人ごとのように感心してる次第です。ハイ。ツイッターのフォロワーさんはブログの感想とかをツイートしてくれるんだけど、褒められると嬉しくなる。おだてに弱いタチなので職場の人で私のツイッターのアカウントを知ってるのは1人だけで、この友達は歴史にほとんど興味がない人。何せ、あの丸亀城に行きながら、車から降りずに城好きの旦那様の帰りを駐車場で待ってたとゆー、ツワモノだから・・・そのツワモノでさえ、たまに読んでくれてしかも「わかりやすいよ」とかってこないだ褒めてくれたので、書き手としてはこれほど嬉しいことはない。しかし、行ったスポットの当事者様とか関係者様に読まれるなんて事は当初想像もしていなかったので、門司の西生寺の住職様からコメントを頂いた時は、マジで焦ったあまりストレートに書くのも問題だな~と穴があったら入りたくなるほど恥ずかしかったけど、面白いと思った事は自分の言葉で伝えたいしな・・・難しいところじゃけぇ。さて・・・今年は色々あって、連休のお出かけとかも当初の予定より大幅に削った。その分、ブログを頑張ろうと思って毎日やってる訳だけど、今年の分でさえ、このままだと来年に持ち越しになりそう。アウ出かける回数は少なくても、いや、少なくしたからこそ、思い入れの強い場所に出かける訳で、そーゆー場所についてはそれこそ色々書きたくなる訳で・・・と、一種の悪循環。でも旅日記は書いてて楽しいんだあれこれ調べた事や、覚えた事なんかもきちんとまとめておかないと、「あれって何だったっけ~」って時に大変だし。1つのシリーズを書いてる間は、そのテーマの時代や旅の記憶に没頭するので、現実の時間の感覚がおかしくなった。1年過ぎると、「あっとゆー間だね~」って人が多いけど、私の場合は、「あれっ、まだあれから1年しか経ってないの!?もっと昔の事のような・・・」て感じるようになった。自分ではあまり意識してないけど、それだけその世界に入り込んでるって事なんだろうな~。とまあ、1年を振り返ってつらつら書いてきましたが、つまるところ、いつも読んで下さる皆様にお礼が言いたかったんです。私は興味のない事はホントに興味がないタチなので、自分の興味のない事が多く出てくる内容だったら、まず読まない。しかも、こんな長いの(笑)。それでも、面白いと言って下さる方もいるし、マイナーな史跡とか歴史を紹介することでいつか誰かの役に立つかもしれないので、これからも自分のだらだらスタイルであれこれ書き続けていきたいと思います。ひとまず、現在連載中の三原編は間違いなく歴代1位の長編になると思いますので(笑)、以後もおよろしくねにほんブログ村
2012年10月06日

たこつぼのある古浜入川には、公園が隣接する。奥の方に石碑らしいものがあるし、ちょっと休んでいきたかったので公園へ入ろうとして、小さな建物の前を通り過ぎようとした。 漁業組合の建物か何かかと思ったら、「三原新四国 第一番」「三原新四国 第二番」って書いてあった。おっと!三原新四国はここからスタートなのか。ガラス越しに見ることは見れたんだけど、写真がないから閉まってたのかな。それとも、疲れて戸に手もかけなかったんだろうか(←早くも忘れた)。で、フラフラしながら公園にある碑まで歩いていったが、どうも郷土のナントカさんを称える碑ばっかりみたいだった。公園の隅にはベンチがあったので、ここで一休み・・・もうすぐ11時。ここへ来るまでに、三原城の遺構に寄ってたのもあるけど、まだ寺町に入ってもいないのにこんなに疲れてて、今日は予定をこなせるんだろうか・・・ 向こうには、これから行く米田山が見える。結構、大きい山だよな・・・しばし休んだ後で立ち上がったら、公園の隅に何かあるのが目に入った。 そういえば、この辺に灯籠がぽつんと立ってるって「城下町みはら散策マップ」に書いてあったっけ・・・これがそうかな?後から地図を見たら、これじゃなくて古浜入川沿いにあるのが正解らしかったんだけど(笑)、こんな公園の奥にひっそり建ってるのに気づく人もそういないだろうから、まあいっか大きくて立派な灯籠だったけどね。ベンチの近くにあった遊具のひとつは、こんなのだった。 なんだろ、これ・・・タコの足?でもこの4つのプツプツは、タコの吸盤っていうよりナウシカに出てくるオームの目みたいだ(笑)。さて、浮城東通りに戻って新幹線のガードをくぐると、そこが西国街道(山陽道)。 奥が南。奥からず~っと来て、 この道をしばらく辿っていくと、東大手門を経て三原城内へ入る。これからその道を行くんだけど、まずは寺を巡ってからね。して、西国街道沿いに建つのが、太神宮(場所はこちら)。 おお、小さいとは聞いてたけど、ホントに小さい(笑)。しかし、見かけに騙されちゃいけない。ここは歴史のあるお社なのだ。太神宮が祀るのは、伊勢神宮。小早川家では元々、伊勢神宮を信仰しており、伊勢から村山大夫という御師が来ていたそうな。そして、上の写真の西国街道の先では、現在も神明祭というお祭りがおこなわれている。 【「神明祭」とは、伊勢神宮を祀る祭りのことを言います。 この信仰が全国にひろまったのは、室町末期で、三原もその頃、 この地方の港町として栄えつつあり、当時、九つの町組が寄り合って始めたのが 祭りの起こりと言われております。 毎年2月の第2日曜日を含む前3日間、東町、館町、本町一帯で行われる 神明祭りは、往時には旧暦1月14日に、とんどをまき、神棚を飾り、 伊勢神宮の弊を観請し、あちらこちらの店先に翁人形やだるまを飾りつけ、 東町、館町一帯に数百の露店が立って、身動きならない程の人出で賑わいました。 三原城を築いた小早川隆景は、この祭りを大切なものとし、瓶子一対を寄進し、 近郷より繰り出す景気人出の模様を見て、その年の豊凶を考量されたと 言われています。 備後地域の春祭りのさきがけとして、その遺風は現在まで受け継がれています。】 (三原観光協会「海・山・空 夢ひらくまち」より)小早川家の伊勢信仰は、三原だけにとどまらず、実は山口県の柳井市にも飛び火している。 【阿月神明祭は「左義長」という宮中の行事が民間に伝えられた俗称「とんど」と、 神明信仰の習合した神明祭に、小早川家の軍神祭が習合した祭事といわれています。 旧阿月領主の祖浦宗勝とその子景継は小早川隆景に従って文禄元年(1592) 朝鮮半島へ出陣の折、伊勢神宮へ祈願をして大勝を得た事により、 以後小早川家の軍神祭として執り行なわれることになりました。 その後、正保元年(1644)浦就昌が阿月に移封され、阿月の東西両地区の 砂浜2ヶ所に、天照皇大神宮(東神明宮)並びに豊受神宮(西神明宮)を 奉祀しました。この時より神明祭は始まったとされています。 この祭りは、松・竹・椎・裏白・梅・橙・皇大神宮の大麻並びに扇等を以って、 天照皇大神をまつる御神体を作ることからはじまります。この御神体を阿月では、 神明或いは神明様と言って、浦氏の時代から今日まで連綿と守り継がれています。 (保存会資料による)】 (柳井市のホームページより)浦宗勝は、乃美宗勝のことね。隆景個人としては、厳島大明神も信仰してたみたいだけど、いずれにせよ、水主の家だなあ~って感じがするな。 この先で、西国街道は大きく西へカーブを描く。ついつい誘いこまれそうになるけど、まずはこちらへ。 奥の石段を上がっていると、近くの民家からフルートの音が聞こえてきた。ドレドレミソラソドシレドシレドラソソラソドラソミレ~・・・あ、ユモレスクだ。大人になってから覚えた歌詞だとかって、ちょっと歌わないとすぐ忘れるのに、子供の頃に覚えたモノって何十年たっても忘れないもんだよな~。脳ミソの不思議さにニヤニヤしながら上がったところで、あまり広くない道に出た。 イマイチ確信が持てないんだけど、たぶんこれが旧西国街道。三原城ができてから、西国街道を山腹から下に付け替えたみたいなんだよね。それまでは恐らく、山際近くまで海が迫ってたでしょうから。なので、米田山の山腹に沿ってぐるりと北に回り込む道だったみたい。陸路と海路を結ぶ重要な街道として、この辺りは古くから開けていたという。また、朝鮮の役に出陣する徳川家康がこの道を通っていったんだとか。大軍が通るような道じゃないんだけど、昔はみんなこんなもんだったのかな・・・ここを通って、家康は宗光寺に泊まったってことだな。て事は、文禄・慶長時代には、まだ西国街道は米田山腹にあったのか~。にほんブログ村
2012年10月06日

3日目<2012/8/27(月)引き続き晴れ>昨日、思いもかけず頑張りすぎたせいか、ゆんべはなかなか寝付けなかった。涼しいうちから行動を開始しておくと体がラクだから、今日も早起きするつもりだったのが、なぜかケータイのアラームが鳴らなくて予定より1時間ほど起きるのが遅くなった。最初から予定が狂ったもので、支度するのもなんだか億劫になり、だらだらと準備してたら、宿を出発するのがかなり遅くなった。まあ、昨日頑張ったから、今日は気持ち的にもスケジュール的にも余裕があるしな~。今日も朝からクソ暑い。でも九州にいる台風の影響か、昨日より風があるのでまだマシかな。ただ、宿を出てすぐの時点から腰が痛い。やっぱり昨日、騙しだましで行動してたから、疲れが抜けてないんだなまず向かったのは、城町公園にある三原城の東舟入櫓跡。これについては、三原城のところで一括して書きますので、ここでは割愛します。・・・しますが、ちょいとここで失敗談を・・・ ↑これが東船入櫓の石垣。石垣と堀の全体をいい位置で撮ろうとして、カメラを構えたまま後ろへ下がった。そしたら、通路と植え込みの間にある数センチの段差のところを変な風に踏んでしまって、バランスを崩してそのまま仰向けに植え込みに倒れこんじゃってさ~あれ、何の木だろう?枝が固い灌木だったのと、まだ刈り込んだばかりでしっかり枝先がそろってたので、ウン十キロの私の体重も余裕で支えてくれたんだけどね。つまりは、地面にまで落ちずに済んだんだけど、ちょうどバアちゃんが通りかかったのに、完全に無視された。ババアに手を貸してもらおうなんて思わないけど、普通、高齢者って「大丈夫?」くらい言わないか?って、恥ずかしさのあまり、通りすがりのバアちゃんにまでケチをつけたくなるほどだったけど、とにかく大きなケガはなかったみたいだしな・・・植え込みがなくて、そのまんま仰向いて倒れて、その場に運悪く石でもあったりしたら、ヘタしたら死んじゃうかもしれない。昨日の疲れが残ってて、いつも以上に頭がボケ~っとしてるみたいだから、これは今日は充分に気をつけた方がいいな。とちょっとフンドシを引き締めた。それで、足元に注意をしながら再度写真を撮って公園を出たところに、この像があった(場所はこちら)。 【聖トマス小崎少年について 「私のこともミゲル父上のこともご心配下さいますな。天国の全き幸福を 失わぬよう努力なさいますよう。人からいかなることを受けようと耐え、 すべての人に、大いなる慈悲をかけられますよう。 陰暦十二の月二日 安芸の国、三原城にて」 1597年、豊臣秀吉のキリシタン弾圧において長崎西坂の丘で処刑された殉教者 26人の中に、14才のトマス小崎がいた。京都から長崎へ護送される途中 三原にて伊勢の母マルタに書いた別れの手紙の一部である。 処刑後父ミゲルの襟元から発見され、その訳はローマに保管され日本26聖人の 1人として、世界の人々にあがめられている。 このけなげな少年の心を末永く伝えるために、城址に近いこの地に碑を建立した。 1993年1月17日 三原カトリック教会】秀吉のバテレン追放令の原因については色々と説があるけど、基本的に一神教ってのは、他の宗教との共存は無理だからな。まして昔の事だし。もしタイムマシンで戦国時代へトリップして、とりあえず信長様を本能寺の変から救うことができたなら、私だったらやっぱりキリシタンの排除を信長様に助言すると思うけどね。長い鎖国の時代に入って、日本は文明的に遅れたともいうけど、世界の情勢を見れば、キリスト教の受け入れはかなりのリスクを伴うもん。とはいっても、わずか14歳の少年がどんな思いでこの手紙を書いたのかって事とは、また別の問題だけどね。駅前に通じる大通りへ出て、東へ。昨日は西町エリアを攻めたけど、今日は東町エリアの制覇を目指す。でも西町ほど寺社は多くないので、昼すぎ位までには東町の寺社めぐりは終わるハズ・・・駅周辺のお店で涼みながらちゃんとしたご飯を食べて、午後は移動して糸碕神社へ行くんだ。と、今日は軽めのプランの予定。 ここは「浮城東通り」。浮城というと、どうも忍城(おしじょう)が頭に浮かんじゃって、三原城=浮城ってのにまだ馴染めないんだけど(笑)。 前方に見えてるのが、米田山かな。今日はあの山麓に建つ寺を回るんだ左側に見えてるのは、新幹線のガード。三原は新幹線停車駅だからね。いちおうね。ちんたら歩いて、出たのが和久原川(場所はこちら)。 あらら、ずいぶんと水量が・・・沼田川でもところどころ干からびてるような所があったので、雨が少ないのか聞いてみたけど、特にそんなこともないって話だったんだけど・・・慶応の「備後國三原城繪圖」では、写真の右手には曲輪があり、「網打場」と描かれている。そして川沿いには多門長屋が、その内側には「御船手多門」があった。地図にリンクしてもらえばわかるけど、和久原川は大きく蛇行する川。ちょうど、岡山城の旭川みたいだよね。ここも、川筋を付け替えたんだと思うけど。そしてこの和久原川が三原城の一番東の外堀にあたる。つまり、今私がいるのは、城内最後の地点てこと。して、三原城域の一番東に現在建つのは・・・ また、やっさだ(笑)。和久原川より東の地域は「古浜」といい、かつては塩田だったという。さて、城外へと歩き出すが、寺町へ向かう前にちょっと寄り道(場所はこちら)。 古浜入川沿いにある旭町は、江戸時代から続く漁師町。三原名物・タコに関連するモノが見られるらしいので、まだタコ料理を食っていないにも関わらず、痛む腰をおしてわざわざ寄ってみたんだけど・・・あれ・・・なんだか、見当たらない・・・?すぐわかるかと思ってたんだけど、ないなあ。せっかくここまで来たのに・・・と思って、未練がましく川沿いを歩き始めたら、あった!! た~こ~つ~ぼ~あっ、船の中にも!!ああやって漁場まで積んでいくのかあ~。 しゃがみこんでつぼの中を覗いてみたけど、何か特別な作りって訳でもない。へ~え、これでタコを獲るのかあ。ところで私、帰るまでにタコ料理にありつけるんじゃろうか?にほんブログ村
2012年10月06日

妙正寺の前の坂を下る。ここまで来ると三原駅もだいぶ近いので、坂の途中からは天守台も見えた。 元々妙正寺は、今よりもっと東の方にあった。 【ところが、当時の山陽道から墓が下に見えるという理由により、 わずか20年ばかりで現在の本町の地に移されました。 現在この地は、当時敵が占拠した場合戦略上不利になると反対があったほど 城と城下を眼下におさめられる要所で、筆影山・佐木島・小佐木島などの 島々から遠く四国連山まで見える眺望絶景の地です。】 (三原観光協会「海・山・空 夢ひらくまち」より)今はビルとかがあるから、展望は限られちゃってるけどね。けど、その昔は 【歴代城主は、晴れた日には四国の山まで見える高台からの景色を こよなく愛し、眺望を描いた絵を家臣に持たせて京都や大坂などの 文人・学者に見せては、詩を書かせた。 寺からの眺めは次第に評判となり、柴野栗山や菅茶山、尾藤二洲ら 多くの文人が詩を詠んだ。これらの詩は、現存する眺望の絵「妙正寺登覧画図」 (市重要文化財)とともに、寺に収められたという。】 (「備後 古寺を訪ねて」読売新聞より)ってくらい良かったらしい。隆景時代には、ここはどんな風になってたんだろう?すぐお隣の山に宗光寺はあるけど、南西に向いてるから(三原城は南東)、立地としてはこちらの方がいいような気もするんだけど。お次はこちら、成就寺(場所はこちら)。 うおおお~ッ、西町エリア最後だぜ!とうとうここまで歩いてきちゃったぜ!! 【成就寺 この寺は、小早川隆景の内室(問田御料人慈光院殿)の実父である15代 小早川正平の菩提所であり、本尊は小早川隆景の持念仏であった千手観音を 安置しています。そして備後西国三十三ヵ所巡拝の10番目の寺にあたります。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)沼田小早川のお殿様の菩提所ですから、もちろん高山城下にありました。て事で、こちらも移転組です。移転の年は、天正19年(1591)。15代正平の菩提所ではあるけど、8代貞平の菩提所でもあったみたい。創建年代は書いてないけど、貞平は永和元年(1375)没だから、14世紀中頃にはすでにあったって事かな。現在は臨済宗。おそらく改宗はなく、ずっと臨済のままだったんだろうな。沼田家が瀬戸内海に目を向け始めたのは貞平のジイちゃん、6代朝平の頃からといわれる。歴代みんながって訳じゃないけど、医療の発達してないこの時代に、貞平のパパ・7代宣平以降、結構子だくさんでね(笑)。庶家を沢山創設し、南北朝の混乱期に乗じて次第に海へ進出していったそうな。隆景の沼田本家相続に多大な貢献をした沼田家の重臣・乃美宗勝、あの人はホントは浦家に養子に行ってるから浦宗勝なんだけど、その浦家も貞平の弟を祖として作られている。ただ、庶家が沢山ある場合、うまくいってる時はいいんだけど、コントロールがきかなくなると厄介なものになる。折しも、貞平の時代は鎌倉幕府の滅亡から南北朝の分裂で大変な時期。不屈の後醍醐天皇による鎌倉倒幕運動・元弘の乱では、竹原家は足利高氏についたが、沼田の貞平は鎌倉方についた。すでに惣領家による庶家の統制がきかなくなっていた事が窺われる。足利高氏・佐々木道誉・赤松則村などにより京の六波羅が落とされると、探題・北条仲時以下、六波羅勢約400人は東国へ落ち延びようとするが、途中の近江番場蓮華寺で自刃。貞平も番場まで一緒だった。だったけど、その場から逃げ出して沼田へ帰った。わ~お、だいた~ん・・・(笑)。まさに土壇場で逃げたとはいえ、最後の最後まで鎌倉方だったことは確か。この動かせない事実が、沼田家の立場を非常に苦しいものとする。苦しいというより、相当ヤバかった。新政権によって沼田領は没収、竹原家へ与えられることが決まっちゃったから。ま、当然さね。これよりもう少し後の時代の沼田家の危機を「三原編(15)」に書いたけど、竹原の弘平が本家を救ったように、この時も竹原の2代目・景宗が赦免を嘆願したので、沼田家はギリ助かった。以後は竹原家とともに足利家へ仕えるようになる。「竹原さんち、いい人じゃ~ん」ってちょっと言いたくなるけど、これを機に竹原家はより独自性を強めるようになっていく。他の庶家でも、南北朝の時にはそれぞれが思い思いに南朝・北朝に分かれて戦うようになるし。さて、元弘の乱でカリスマ性の低下した沼田本家は、なんとか挽回しようと今度は室町幕府への接近を図る。しかし、時代が下ると今度はその方針が災いして、大内義興さんの上洛戦の時にはまた苦しい立場に追い込まれる・・・(笑)。助けたり勝手きまましたり、まあ時代が時代だから、どこの家も似たようなもんだとは思うけどね。ただ、普通だったらここぞとばかりに本家の乗っ取りを図るかな、って気がするけど、2度のチャンスを竹原家が見送ったのはやっぱりレアなケースかな。こんな感じの小早川一族が再び結束するには、又四郎様の出現まで待たねばならない。これら小早川の歴史とともに歩んできた成就寺は、三原城からかなり近い位置にある。問田の大方様の父上のゆかりだから、隆景ちゃんは城に近いこの場所を選んだのかな。もしかしたら、問田の大方様もここに来られたことがあったのかも・・・こちらが庫裏。 建物自体は最近のものみたいだけど、蟇股はこんなのだった。 この辺だけ、ちょっと古そう。前の庫裏の虹梁と蟇股を転用したのかな?鉄筋コンクリートの本堂の向かいには、お堂がある。ワ~イ、小早川紋だあ~ 【女性の守り神 淡島神社 淡島明神は女神です。成就寺の鎮守神であり、女性の病気や悩みに御利益が あるので昔から近所の方は勿論、遠方からも参拝客が多く訪れています。 淡島神社の祭礼は、三原の夏祭の初開きとして旧暦の6月2日の夜より行われ、 夜店がこの日より開かれるならわしになっていました。淡島様の日には、 スモモを売る店がたくさん出て、健康食の梅ぼし作りの人でにぎわいました。 又この日初めて浴衣を着て淡島様へ参ると昔の恋人に逢えるといわれています。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換。)6月2日・・・信長様と三村元親の命日じゃん。昔の恋人に逢って、どうするんだ?お互い老けちゃって、相手がわからなかったりして・・・(笑)。いや、そんなツッコミ入れてる場合じゃない。昔から婦人科にお世話になることが多い身なので、きちんとお参りしておかねばこの脇に、赤いのぼりが数本立ってたので行ってみたら、お授け地蔵なるものがあった。いや、このお地蔵様ってたぶんアレをモチーフにしてるよな・・・お授けだし。撮るか撮らないか迷ったあげく、撮った。けど、どうもイヤな感じがしたので、結局すぐ削除した。このお地蔵様は腰に赤いエプロンをしてたんだけど、それをめくった方の話によると、エプロンの下にはなんだかすごいモノがあるらしい。興味のある方は、是非ご自分の目で確かめてみてください(笑)。これで西町エリアは制覇したこの日は23,895歩。体調良くなかったのに、あり得ないくらい頑張っちゃったよな~、ワシ。しかし、頑張りもさる事ながら、あの細い道をあちこち歩いて今日は一度も迷わなかった。もちろん、地図をちゃんと用意してったのもあるとは思うけど、場所によっては体内の磁場が狂うっていうか、地図があってもどうも方向感覚がおかしくなる所もある。けど、今日は全っ然そんなことはなかったので、これはやはり又四郎大明神様が守って下さったのに違いない。又四郎様、ありがとうにほんブログ村
2012年10月05日

これは最上稲荷、かな?建物は撮ってないけど、額が立派だなあ~と思って(笑)。 それから、これ。 『日蓮大菩薩 百五十遠忌建立』って彫ってある。笠の部分が派手だなあ~。パピヨンと呼びたくなる・・・(笑)。150年遠忌なら、単純計算で1432年の建立ってことか。そんなに古いようには見えないけど・・・モノにもよるでしょうけど、やっぱり石造りは持ちがいいなあ~・・・って、木造建築と比べるなって?(笑)「日蓮大菩薩」の称号は、死後に追贈されたものらしいけど、日蓮さん自身も「我は菩薩である」って信じてたみたいね。その菩薩とは、「上行(じょうぎょう)菩薩」。法華経の中に、地面からおもむろに沢山の菩薩がわらわらと湧いて来る場面がある。その菩薩様達のリーダーが4人おり、さらにその4人の中のトップが上行菩薩。日本での普通の仏教は「戦国ジジイ宗」とか「白川りり宗」って宗祖の個人名は冠せないものだけど、日蓮宗が日蓮さんの名前を戴いているのは、(自称)日蓮=菩薩とするところによる。つまりは、日蓮を上行菩薩と認め、日蓮の法華経の解釈を正しいものと信じるから、「日蓮宗」。だそうな。アクが強いと感じるのも道理だよね~。でも、私は嫌いじゃないけどね、日蓮さん。真面目な信徒の方は怒るかもしれないけど、読んでてゲラゲラ笑える場面が色々あって・・・いや、ホントに怒られそうだからやめておこう こちらが本堂。 これも裳階(もこし)だな。上部の部分は随分綺麗だけど、最近修復されたのかな。前回掲載した本堂の解説とあわせて見てみると、享保の移築で規模が拡大されたってあるし、今は上部だけ塗籠になってるけど、恐らく昔は塗籠じゃなかったよな~って気がするので、上層部分を付け足したってことなのかな。 下の裳階部分の正面が盛り上がってるのは、唐破風(からはふ)。唐破風にも2種類あるんだけど、妙正寺のように屋根の本体の軒先の部分をむにょ~んって持ち上げてるのは、「軒唐破風」(のきからはふ)。屋根本体とは別立てとしてるのが、「向唐破風」(むかいからはふ)。唐破風に付ける懸魚(けぎょ)は一律「兎毛通」(うのけどおし)って呼ぶことは、前に書いたよね。んで、唐破風の中の蟇股は・・・ 杵、だな。外側に円がある訳じゃないから、これは「丸に一つ杵」とは言わないのかな・・・紋ってホントに面白いよな~。入り口部分も撮ってたから、ついでにもうちょっと解説しちゃおう。扁額の上の部分、短い柱のことを「支輪」(しりん)という。 一口で言って、高さの異なる2本の平行した柱に斜めにかかる柱材のこと。まあ、段違い平行棒の高い棒と低い棒に、湾曲した柱がかかっているようなもんだと思ってください(笑)。高さが違う部分にかかるので、よくこういう軒下とか、天井と壁の接続部分なんかに使われる。建物の外にあると、建築に興味ない人は見もしないかもしれないけど、屋内だったら何気に目にしているハズ。二条城とか日光東照宮とか、格式のある広間を見学したことのある方は、「折上格天井(おりあげごうてんじょう)」とか「二重折上格天井」って言葉を聞いた事があるんじゃないかと思うけど、天井が高くなってる部分には、この支輪が使われてる。今後、行く機会があったら是非注意して見てみてね。いろんな部材とか決まりごとがあって、初めてああいう素晴らしい建築物が出来上がるのだから。知らないってだけで見過ごしてしまうなんて、あまりにももったいない垂木は屋根を支える部材。御覧の通りスカスカなので、「疎垂木」(まだらたるき)という。部分的に板が張ってあるのは、何なんだろう・・・本堂と庫裏の間にあるのが、玄関。 なんだか、指のない足跡みたい(笑)。正面からはこんな↓。本瓦葺で、こちらも素敵 して、こちら↓が庫裏。立派なんだけど、木・・・木がぁ・・・ この向かいには、鐘楼がある。 ま~た龍宮造だよ・・・なんなんだ、三原・・・この中にかかる鐘はこんなの。 【三原市重要文化財 銅鐘 一口 かつては、坂の西側にある鐘撞堂につるされて、「時の鐘」として親しまれた 梵鐘である。 上端に懸垂用の竜頭と特殊な小筒のある朝鮮式の鐘で、三原鋳物師の鋳造作品 としては市内最古のものである。高さは1.10メートル、口径64センチメートル である。 この鐘は、天正4年(1576)に鋳造されたもので、江戸時代以降、三原鋳物師 として史上に名を残した竹原屋初代吉井信正の作である。 なお、つぎの銘がある。 日本第一唐 安芸州 小早川拾遺隆景公智臣 井上伯耆守藤原春忠 鋳之者也 噫 旹天正八年丙子花朝吉日 大工竹原屋吉井左衛門尉 信正 敬白】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)あんまり鐘のことはわからないんだけど、和鐘ってのはタテヨコにラインが入ってて、「間」を作り出してる。それに対して、妙正寺のは確かに朝鮮鐘の形式なんだけど、様式がどーのって以前に、随分となで肩でのっぺりしてるな・・・(笑)。大抵はもっと、肩の部分ががっしりしてるものなんだけど。 銘の中にある「旹」は、「じ」「とき」と読むらしい。天正4年の鋳造で、天正8年の奉納ってこと?オーナーの井上春忠は、隆景の臣。毛利元就による井上一族の粛清は、毛利ファン以外にはあまり知られていないかもしれないけど、春忠は粛清を逃れた生き残りの一人。粛清には隆景も参加してるんだけど、それについてはまた別のところで・・・でも、春忠の名前は知らなくても、有名なエピソードに関わりを持つ人です。安国寺恵瓊が信長様の死を予言したとされる有名な一文、『高ころびにあおのけにころばれ候ずると見え申候』はこの春忠ともう一人あてに恵瓊が出した書状に含まれるもの。毛利家中でいち早くこの文を目にした春忠は、何を思っただろうか・・・↓ランキング参加中につき、「ぽち」をお願いしま~すにほんブログ村
2012年10月04日

神社に摂社はつきもの。てことで、今回も境内に沢山ある摂社をご紹介~。 沢山あるっしょ。 いくつかは柱に神社の名前が書いてあるのもあったけど、それもまともに読めなかった 大島稲荷と同じように、三原城初期の小島にあった小島稲荷もここに移されてるってことだったし、あと隆景が信仰していた久井稲荷もここにあるって聞いてたんだけど、残念ながらどれがそうかわからなかった。まあ、摂社は全部写真に収めてきたから、どれかがそうなんだと思うけど。さて、境内をぐるりと回り込むと、最後にこんな建物があった。 何だか、色んなものがごたごたと・・・(笑)。おっと、これは先代の扁額と千木かな? 物置き場みたいだから、そのままスルーしようとして横を向いた目のはしに、人影が映った。 なに、この絵・・・一瞬、隆景ちゃんかと思った~よくよくこの内部を見まわしてみると、こんな絵が沢山飾ってあった。 わ~お・・・この建物といい、この絵といい、京都の今宮神社を思い出すな。(今宮神社は近日公開予定です・・・たぶん。三原編が早く終われば)中にはかなり色あせてるのもあったので、全部は撮らなかったけど、女の人もいた。かなり沢山あったので、一体何の絵なんだろうと思って目を凝らしてみたけど、知らない名前の人ばかりだったので結局わからなかった。でも、写真を見ると山部赤人か?壬生忠峯かな?てことは、やっぱり三十六歌仙か何かだったのかな・・・今宮神社でも思ったけど、なんでこーゆー絵を屋外に置いておくんだろう・・・よくわからん境内にベンチはなかったけど、マジで疲れてたので、拝殿の石段に腰掛けて(すみません)ちょっとおやつを食べながら休憩・・・早く帰りたいのはヤマヤマだけど、ここまで来たら西町エリアはあと2つ。もうちょっと頑張って、全クリアしたいな境内から見える風景はこんなの。 写真のちょうど真ん中へんが三原駅。写真じゃわかりにくいけど、いちおう天守台も見える。昔はいい眺めだったんだろうな~。大島神社を出て、お次は妙正寺(場所はこちら)。 今回は結構あちこちで、木に泣かされましてねえ・・・建物がきちんと撮れなかったところが多かったな。ここもそう。 【三原市重要文化財 妙正寺6棟 附棟札9枚 祈祷札1枚 妙正寺は、三原浅野氏の菩提寺として延宝2年(1674)に米田山麓に 創建され、享保8年(1723)から現在地に移された。 本堂は、『無量山妙正寺略記』によると、延宝2年に創建された堂を享保9年に 移築したものである。棟札によると、その時に規模を拡大し、屋根を二重とするなど、 現在の姿となった。内部に僅かながら延宝創建時の部材や享保移築時の改変の 痕跡が残るが、ほとんどの部材が享保移築時のものと考えられる。 正面や両側面の廻縁上に設けられた海老虹梁や向背の虹梁頭貫といった部材は、 享保頃の特徴をよく表している。 本堂のほか、庫裏・鐘桜堂・最上殿(番神社)・山門・墓所門といった 主要な建物がすべて残っており、棟札等により建立年代が正確に判明し、 享保年間(18世紀初期)で統一されていることが高く評価され、また 現存例の乏しい日蓮宗寺院の遺構としても貴重である。 なお、棟札は建立年代を知る上で重要な資料となるため、附けたりとして 指定されている。】 (現地解説板より原文のまま。漢数字は戦国ジジイが変換)他にも色々三原市の指定文化財を所蔵しているそうですが、その中にはこんなのもあります。 【紙本著色浅野忠真像 三原城主3代浅野忠真は、元和4年(1618)紀州に生まれ、元禄7年(1694) 77歳で広島で没した。 この画像は、僧形になっているので、忠真が天和3年(1683)剃髪し、 道仙と号した66歳のときの出世像と思われる。 妙正寺は忠真の創建になり、三原浅野家の菩提寺である。】この名前・・・覚えてますか?月姫様が江戸で一目ぼれしたっていう、あの忠真さんですよ(笑)。忘れた方は、「三原編(23)」でおさらいして下さいね。どんだけイケメンだったんだって興味津々だけど(笑)、三原市のホームページにも画像は載ってないしな。残念。まあ、66歳の、それも僧形じゃね・・・月姫様を虜にした面影も、果たして残っているのかどうか・・・って思いっきり失礼だな。すみませんえへへへ。にほんブログ村
2012年10月03日

前回の記事の最後に書いた正法寺門前の枡形、これの右に延びる道に入って次を目指す。 アハハハ・・・ちゃんと地図を持ってるから、道は間違いないんだけど、も~う、これってホントに公道デスカ・・・まあ、石垣の道だから嬉しいんだけどね。 けど、遠慮なく有効活用されちゃってる石垣なんだけどね(笑)。 ↓この道を、右に入る。攻め込みにくそうな道だと思わな~い? 脇に延びる道も、これまた細い。 目的地の入り口まで来たところで、こんなのを見つけた。 【NHK大河ドラマ 春日局が沖を眺めながら夫正成の無事を祈った「峠の地蔵」】 タイトルが書いてないから、たぶん大原麗子の『春日局』じゃないかと思うんだけどね。これ、三原でいくつか「春日局ゆかり」といわれてる場所があるんだけどね~、ホントかな~と思ってるので、今シリーズでは春日局について取り上げるつもりはない。けどまあ、なんで三原に春日局なのか簡単に説明しますと、春日局・・・当時はフクちゃんだな。お福の最初の夫は、小早川秀秋の家臣・稲葉正成。だから、小早川領である三原にいただろうって事だと思うんだけど・・・いないでしょ!!前にも書いたように、金吾(秀秋)はちょっと滞在程度ならあったけど、三原城主としては存在していない。最初に領国に入ったのは筑前名島だし、その時三原には御隠居様になった隆景がいた。隆景の死後は三原城は毛利家の預かりとなってるし、関ヶ原の大活躍(?)以降は金吾は岡山城に入ってる。つまり、小早川家当主とはいっても、三原の経営には金吾はほとんどタッチしてないと思うのだ。まあそれでも、秀吉系の家臣が少しは三原にいたかもしれないけど(それすらないと思うけど)、仮にそうだったとしても、稲葉正成は金吾を補佐する立場。三原になんか、いるワケがない。当然お福だって、名島→岡山へと転居しただろうと思うんだよね。ま、ホントのところはどうだかわかりませんけどね。詳しく調べた訳じゃないし、あくまで個人的な推測です。で、このお地蔵様のところを入っていく。 なにげに長い石段に建つ鳥居をくぐって上がっていくと、そこが大島神社(場所はこちら)。 おっと・・・正直言って、想像してたのと違うな(笑)。入り口におわすお狐様は、 ああ・・・なんか、犬のおもちゃのダンベルくわえてるみたいだ 【大島神社の由来 当神社は、小早川隆景公の三原城築城(永禄10年、1567年)以前、 海の中にあった大島に祀られていた稲荷神を、築城後、城の守護神として 祀られていた厳島神と合祀して、天守台に奉斎されていたのを、 福島公の時代にその他の稲荷神を習合勧請し、三原の里の安泰、繁栄の守護神 として、現在地に遷座奉斎されました。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換) という訳で、こちらは私が言う移転組とはちょっと違います。ただ、ここへ来たのは、大島稲荷が三原城の鎮守だったのと、隆景の信仰していた神様が合祀されていたから。大島稲荷は、元は今の三原城天守台の位置にあったらしい。んで、境内を見回してみるけど、メインの社はひとつしかない。あれ・・と思ったら、 あっ、そっかあ~!合祀って書いてあるもんね、一緒って事だよね。アハハハ・・・この厳島大明神てのは、隆景ちゃんが九州の陣中において毎日熱心に祈願していたものを、三原城の庭に移し、それをさらにこちらに移したんだそうな。 厳島信仰については、弘治3年(1557)11月25日のいわゆる三子教訓状の中で、厳島の神を信仰するようにとパパから勧められていた。父・元就の死後、当主である輝元あてに出した『申すも疎かに候といえども、御一人のほか、頼み奉る儀これなき身上に候・・・』という有名な起請文にも厳島大明神への誓いが入ってるし、パパの言いつけってだけじゃなく、やはり海を支配する小早川として厳島の神への崇拝の念が篤かったように見受けられる。で、こちらがその拝殿です。あれだけ写真撮っておいて(今回の旅で、約1200枚)なぜか正面からの写真がないんだけど、人生こんなもんでしょう(笑)。 裏に回って撮った本殿はこんな感じ。 にほんブログ村
2012年10月02日

お次は正法寺(場所はこちら)。 おお、ここも立派 【亀甲山延命尊院正法寺は、長谷町鶴ヶ巣に大規模な七堂伽藍があったと 伝えられていますが、天正年間築城に際し、館町に移されました。 ところが福島正則の代に城の鬼門にあたる中之町に移し、侍屋敷を増築して 東の街道を固め戦に備えました。 そして明治23年(1890年)末寺4ヶ寺を合併して大徳院跡であった 現在の地へ移転しました。この寺は城主の祈願所として、江戸時代 三原4ヶ寺のひとつとして、法燈継承しています。】 (三原観光協会「海・山・空 夢ひらくまち」より)館町は、三原駅の北側にあった町。現在でも地名が残る。その後でさらに東に移されて、明治になってからこの地へ来たという経歴を持つので、移転組には違いないけど、ちょっと注意が必要。真言宗である正法寺の御本尊様は、弘法大師様の像。そして、こちら↓の中には、重文が保管されている。 【重要文化財 紙本墨書大般若経 六百巻 折本 鎌倉時代 (前略)大般若経は、宋人の謝復生(しゃふくせい)が弘安7年(1284) から同10年の間に周防国柳井庄の上品寺において書写した一筆大般若経で、 現存する600巻のうち6巻が補写されています。 元和7年(1621)に備後国三原の八幡原元重によって、正法寺に寄進 されています。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)へ~え、宋の人がねえ・・・他には、こんな解説板があった。 【三原市重要文化財 木造延命地蔵菩薩立像 一軀 木造延命菩薩立像は、正法寺の末寺で糸碕神社の神宮寺(現廃寺)へ 移されたものです。 この像は、一木造で像高85.5センチメートルです。左手に宝珠、右手に 錫杖をもち、全体的にふくよかな形で豊満柔和な顔立ちをしています。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換) もう、本堂が覗けるかチャレンジしてみる気力もなかったので、残念ながら見ていませんが、「延命尊院正法寺」って名称はここから来てるのかな。本堂の前には、こんな石碑もあった。 一畑薬師?ここにも?中に薬師如来様がおられるのかな・・・境内には、小さなお堂が色々ある。正法寺はもちろんお寺だけど、なんだか神社の境内みたい。 そのうちの一つは、「三原新四国 第64番」だった。 本堂の隣にも、お堂。 このお堂と本堂をつなぐ廊下が、下をくぐれるように高くなってたんだけど、あまりの傾斜に、「こんな板の急傾斜、つるつる滑っちゃって永遠にこの廊下を渡れないんじゃ・・・」ってバカなことを考えながら近寄ってみたら、傾斜の部分はちゃんと階段になってた。そりゃそうだよな~ さて、正法寺にも墓地はあるが、こんな看板があった。 三原に福島原発の影響はもちろんないから、普通の環境問題だと思うんだけどね。墓マイラーの端くれとして、いっぺんブログで書いておきたかった事があるんだよね。戦国武将の墓をはじめとして、歴史上の有名人の墓前になにかお供え物をしたがる人がたまにいる。普通、お墓ってのは関係者だけの個人的な場所だけど、それが一般に公開されている著名人の墓ともなれば、そこはもはや公的な場所。偉業を成し遂げたり、あるいは非業の死を遂げたりした人を偲んで、全国各地から様々な人がやってくる。その人達皆が皆、お線香をあげたり花を供えたり、はたまた酒だの食べ物だの供えたら、どうなる?管理するお寺さんだってお掃除が大変だし、食べ物なんか供えたらカラスが食い散らかすかもしれないし、お掃除前に次の人がお参りにやって来たら、キツい言い方だけどそれはもはやただのゴミでしかない。だから私は、お墓に行っても何も供えない。お供えしたい気持ちはわかるし、それ自体が悪い訳じゃない。でも公共の場所だから、お供えをするのなら、次の人やお寺の迷惑にならないように、お線香なら燃え尽きるまで待って燃えカスを捨てるべきだし、お花を供えたいなら、ひとときだけ墓前に供えて持ち帰るべき。食べ物なら、懐紙にでも載せて供えた後に持ち帰るとかね。「何も引かない、何も足さない」がマナーだと思ってる。登山とおんなじ。「足さない」はわかるけど、何を引くんだ?って思うかもしれないけど、墓石をちょっと削っちゃうとか、甲子園での敗者みたいに、墓前の土を持ち帰ろうって不心得者がいるかもしれないじゃん・・・(笑)。「お墓にお供えしたいんだけど、どうしたらいいの?」って思ってる方がいたら、ちょっと再考して頂けると嬉しいです。さて、正法寺の石段を降りようとしたら、こんな光景が目に入った。 左側のバイクの後ろにも実は細い道がある。「よく地形がわからなかったけど、細い道を辿って来たら、虎口に入り込んじゃいました~」って敵方のセリフが聞こえてきそうじゃない?事前の調べで、お寺めぐりをしている方の訪問記を読んだんだけど、その方も境内よりここの方が印象に残ってると書いていた。城の知識がない方の目にも奇異に映るほどの立派な枡形、実に戦略的な城下の造りだその昔は正法寺はここにはなかったけど、正法寺の末寺である大徳院があった訳だから、おおむね当時のままの造りなんだと思うな。そして私がしばらくこの門前から枡形を見下ろして、頭の中で防御のシミュレーションをした事は言うまでもない(笑)。にほんブログ村
2012年10月01日
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