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で、この辺に殿下ゆかりのモノがあるはずなんだけど・・・きょろきょろ探しながら歩くけど、それらしいものはないまま、石山門のところまで出てしまったので、その1ブロックあたりを探してみようかと小道に入ってみる。けど、ない・・・ここらも石垣がちょこちょこある。 上の写真は林原美術館の裏手にあたるので、これも二の丸内郭の石垣じゃないかな~。 石垣前に置く、ゴミステーション・・・城下町ならではの、ゼイタクな光景だな(笑)。途中、おきゃやまのふたを発見! おきゃやまのふたがももちゃん柄だってのは、ふた好きの友達から聞いて知ってたんだけど、実物はやっぱりカワイイわ~しかし、小道でもお目当ては見つからず、絶対この辺にあるはずなんだけど、仕方ないので1ブロック回り込んで烏城みちに戻った。諦めるしかないかな~と歩を進めてたら、なんと烏城みち沿いにあった。 【太閤(豊臣秀吉)の腰掛石 1582年、豊臣秀吉は備中高松城を攻めるために岡山城に入り、上之町にあった 本陣(松浦家)に泊まりました。中庭にあった石に腰を掛けて軍議をしたと 伝えられています。 現在、榎家(松浦家の子孫)の太閤石として、イガラシ写真館の玄関前にあります。】 (「城下町見て歩きマップ」より)解説の通り、ホントに玄関前なの。由来を記す立看板なんかもあったけど、ちょっと奥まってるので、気をつけないと見落としちゃう。上之町は、たぶんここからもう少し北西に行ったところにあった町。さて、烏城みちは石山みちとぶつかる。その角に建つのが、山陽放送。 古い町は景観保存も大変だとは思うけど、これだけ石垣風なのがあると、何が何やらわからなくなってくるその先の交差点にあるのが、石山門跡。 【岡山城石山門跡 石山門は、廃城となった富山城(矢板山)の大手門を移築したものと伝えられ、 西の丸の石垣と南側の方形の石垣の上に渡り櫓を構えた櫓門で、石垣の間が通路に なっていました。 岡山城廃城の後も残り、天守閣と共に国宝に指定されていましたが、昭和20年 (1945年)6月29日の岡山大空襲により焼失してしまいました。石垣に残る 赤茶けた焼け跡が空襲の激しさを今に伝えています。】 (現地解説板より)この石山門は、どうやら金吾(小早川秀秋)の手によるものらしい。岡山城入城後、金吾は領内の支城を破却して門や櫓を移築したと。大納戸櫓も石山門も、この時の一連の工事で建物を移築して造られたという事になるのか。石山門は、南の二の丸と、北の二の丸内郭(西の郭)をつなぐ門。往時はこんな立派な門だった(→こちら)。(The Lit City Museum/岡山市デジタルミュージアム様のサイトへリンクします)空襲の爪跡はこんな感じ。 写真じゃイマイチかもしれないけど、現物はかなり赤かった。あの立派な門が燃え上がる様を想像すると、胸が痛む。下は、二の丸側の石垣。 交差点から小道を入っていくと、ずっと西の丸の石垣が続く。 交差点に戻って、北上。ここは「石山みち」というらしい。 山陽放送の入口にも石垣が・・・でもこれは後世の作だよな~。 山陽放送の北、岡山市民会館を入るとこれがある(場所はこちら)。 【石山 室町時代末に、金光宗高がこの岡に小城を構え、のちに宇喜多直家が沼城から移り、 城を拡げ居城としました。江戸時代には、岡山城西之丸や藩主池田家の祖先を まつる廟がありました。】南国風レイアウトの上にこのあっさりした解説がちょっと泣けるけど、ここが元の岡山城の場所でした。岡山城ってゆーか、石山にあったから石山城なんだけどね。石山城は、東西に広がる連郭式だったと推定されている。う~ん、直家がここにおったのかあ・・・ビジュアル的に、近世城郭の感が強いので、どうもイメージしにくい・・・・ここに来た頃の直家は、バリバリギラギラと勢力を拡張してた頃だな。当時、北の方にあった西国街道を城下へと付け替えて城下町を整備。さらに商人を呼び寄せ、経済の振興にあたったという。謀将として有名な直家だけど、小さい頃は苦労してるしね、経済に目を付けたあたり、幼少期に商人の庇護を受けたことが影響しているとも見られている。石山城の石垣も、あるにはあるみたいなんだけど、見ることはできないとかって話だったので、この石碑だけでガマン。直家の子のひでくんは、父の城を取り込みつつ城の中心部を東の岡山に移し、城を大規模に拡張した。もしひでくんが岡山に移さなかったら、今頃私がいるのは岡山県岡山市じゃなく、石山県石山市だったかもしれない・・・とか考えると、おかしくなるにほんブログ村
2012年03月30日

烏城みちは中堀に沿って県庁前の道に行き当たる。通りの向こうを見ると、あっちにも石垣が・・・ ここは昔はもっとず~っと蛇行する旭川のところまで中堀が続き、両脇に二の丸内郭と二の丸があった。から、この角度で石垣があるはずはないんだけど・・・廃城になった後でできたものかもしれないけど、赤く焼けてるような感じもあるし、先の戦争で空襲を受ける以前にはあったものなのかもしれない。 何にしても立派な石垣だったので、写真、写真・・・と思ってカメラで撮った後、ツイート用にケータイでも撮ろうとしたら、思いっきり落とした。しかも、裏ブタが外れるくらい、ばっこんと・・・前月の山口でも落として角がハゲちゃったし、も~、まだ機種変更して何カ月も経ってないのに・・・!幸い、ケータイは壊れなかったので、通りを渡って烏城みちに戻る。途中、こんなタイルもあった。 本丸の内下馬橋を通り過ぎ、こんなミニ石垣のある幼稚園の前などを歩いてって、 道なりに突きあたりまでいくと、林原美術館がある。ここはかつての二の丸内郭(東南郭)の対面所にあたる場所。明治維新後の城内整理で対面所の建物は壊されたが、岡山藩の支藩・生坂藩の武家屋敷などが移築された。しかし、岡山空襲により長屋門と土蔵以外は焼失。長屋門は現在、美術館の入口となっている。この美術館は実業家・林原一郎氏の死去に伴い、刀剣を中心とした氏のコレクションを収蔵・展示している。「赤間ヶ関編」の赤間神宮の宝物館で、ここのことをちょっと書いたんですが、覚えてますか?平家物語カレンダーの通販のチラシが宝物館に置いてあったのだ。なんで林原美術館?と思って後で調べたら、なんとここは国内で現存を確認されている平家物語の唯一の完本を所蔵してるんだってさ~!他にも、主に刀剣類で重文の貴重な品を数多く収蔵している。史跡巡りを始めた最初の頃は、武将様方の遺物を見るのがメインの目的だったので博物館とかにも行ったけど、だんだん石碑とかを見ながら萌え~するのが楽しくなってきたので、最近ではあまり史跡巡りの際には美術館とか博物館は行かない。けど、今回は駅の観光案内所でこんなチラシをもらってたので、もう16:00をとうに回ってたけど、入ってみる気になった。 館内は撮影禁止。あまりゆっくり見てる時間もなかったし、そもそもあんまり池田さんち好きじゃないし、正直言って軽く見て出るつもりだった。ところが・・・!池田家伝来の素晴らしい品々がわんさか。いやもう、写真を撮ってお見せできないのが本当に残念です。蝶の紋(池田家家紋)のバカでかい陣幕なんかが壁にばーん!!と飾ってあったり、陣中道具なども各種いろいろ・・・あ、馬グッズなんかもあってね、馬鎧とか、馬面とか馬柄杓(ひしゃく)とか。こーゆーのは初めて見たので、面白かったなあ池田光政所用の黒漆塗の鞍もあった。あと、胴服や陣羽織が何着かあった。胴服のうち2着は池田利隆(輝政の子)所用、1着は池田光政(利隆の子)の所用。池田家に伝わる品も多く所蔵しているところなので、蒔絵の綺麗な箱とかもあったんだけどね、そんな一般ウケするものよりも、ひたすらデカい陣幕とか、色あせて傷みの出てる胴服とかの方に胸躍らせる自分に気がついて、「変わったな~、オマエ」と自分に思わず語りかけてニヤついちゃった(笑)。重いからここでは図録は買わなかったんだけど、やっぱり買っておけば良かったな~。企画展のテーマにもよるかもしれないけど、ここは本当に素晴らしかった。機会があれば、また是非寄りたいと思ってる。ここはオススメで、美術館内部で満足してしまったので、帰りに撮ろうと思っていた入口の長屋門の撮影を忘れました・・・林原美術館を出て左へ行くと、行き当たって左に折れる。このあたりが、二の丸内郭の西の郭と東南の郭をつなぐ桜門があったところ。(現在地はこちら)曲がるとすぐ、駐車場越しに石垣が見える。 たぶん、西の郭の石垣じゃないかな、あれ・・・↓ランキング参加ちう~!たまには言っておかないとね(笑)。にほんブログ村
2012年03月29日

下の段へ降りたところの石垣。 【不明門下の石垣 右隅は宇喜多秀家期の石垣に被せて造られており、関ヶ原合戦後の小早川秀秋期か 前池田期に築かれたものとみられる。上部は不明門を建てた時に積み足され、 中ほどの一部は天保9年(1838)に崩れて修理を受けている。】 (現地解説板より)ここを回ると、本段南東の石垣。 慶長2年(1597)頃までにひでくんが築いたとされる石垣。1600-1615の築城ラッシュの中で石積みの技術も飛躍的に発展したから、それ以前の石垣ということになる。高いところでは15mを超すほどで、関ヶ原以前に築かれた高石垣の中では全国屈指の高さを誇るという。しかし、それより私は隅の部分が気になった。 ・・・これ、たわんでない?6月に日光に行った時、山内にある石垣が震災の影響でゆるんじゃって、危ないから近づくなってロープを張った箇所があったんだけど、それとそっくりに見える・・・大丈夫なのかな~、これさらに回り込むと、本段東面の石垣。 この辺には、ひでくんの石垣に金吾(小早川秀秋)が継ぎ足した部分があるとかって話で~・・・それ、見たんだっけか(笑)。その奥まで回り込むと天守石垣が見られたと思うけど、雨も降ってるし、ここで鉄門下の方まで戻ることにした。暑くて、体力的にもかなりきてましたし・・・最後に大納戸櫓下を見て、大手へ。ここにあるのが、内下馬門跡。 【大石の使用 岡山城の建設当時には、大名が勢威を誇る目的で石垣に巨石を集めて、 築くことが流行していた。岡山城の大石はこの辺りに多く使われている。また、 石垣の石はその多くを犬島から運び込んでいる。】 (現地解説板より)この門は外に高麗門、内に城内で最大の櫓門があり、枡形を形成していた。写真の石垣は、櫓門が載ってた方。最大の石は高さ4.1m、幅3.4m。発掘調査によって、池田氏が関ヶ原の直後に築いたものであるという可能性が高まったという。なら、代替わりしてすぐに造ったってことか。この辺に建つ烏城公園碑を見て、これにて本丸は終了~。内堀にかかるのは内下馬橋。現在は土橋に造り替えられている。本丸を取り囲む内堀には白鳥さんがいて、優雅に泳ぎながら楚々と近寄ってきた。 めんこいの~と喜びたいところだけど、どーせエサ目当てなんだ。ふん・・・山口城で学習したもんね。 上の写真が東側、下のが西側。立派な堀じゃの~。さてと、岡山城探訪はまだ続く。橋を渡って、左へ。この辺から林原美術館へ続く道は、「烏城みち」と呼ばれる。 ・・・思いっきりボケてますね。暑くてヘロヘロだったので、体調の良し悪しに大きく左右される私はこんな時、写真はめちゃくちゃぞんざいになります(笑)。道は変な風に右にカーブを描き、県立図書館へ。 これこれっ!これを見に来たんだよ~内側からはこんな。 これはですね、外下馬門の石垣です。烏城みちがあり、今私がいるのは二の丸内郭。二の丸内郭には西と東南と2つあって、東南の郭のほう。※城郭図を見たい方は こちら(The Lit City Museum/岡山市デジタルミュージアム様のサイトへリンクします)東南の郭は本丸に次ぐ重要な郭で、藩の対面所と藩内で最高石高を有する家老の屋敷が置かれていたとある。この石垣の上にかかる外下馬橋を渡ると、二の丸。二の丸から内郭に入るには、この外下馬門か北にある石山門を通るかの2つしかなかった。にほんブログ村
2012年03月28日

では、天守の中へ。内部は現在は博物館となっている。写真が1枚もないから、たぶん写真撮影禁止だったんだと思う。今は内部は昔と全く違うけど、古写真を見ると天井を張ってないとか天守らしい独特の構造だったので、城を知らない人が昔のままの天守に入ったとしたら、外観と内部の差に唖然としたと思う(笑)。建物は復元されたものではあるけれど、そこは歴史のある城なので、色んな展示物があった。印象的だったのは、ひでくんの書状。八丈島に流されたひでくんは、「死ぬまでにコメの飯が食いたい・・・」と切に希望し、それに応じて米を手配してくれた旧臣と伊豆の代官に対し、長男・次男との連名で礼状を送っている。この頃は佑筆なんか置ける立場じゃなかったでしょうから、ひでくんの自筆かもしれない。高貴なお方が、おいたわしい・・・八丈島に行ってからのひでくんは、身分柄、他の流人よりも厚遇されていたという説もあり、時には「八丈島では釣りざお片手に、悠々自適の生活を送った」みたいに書かれたりもする。実際、正室の豪ちゃんの実家である前田家や旧臣の花房正成の援助を、初期にはナイショで、後には1年おきに70俵を得ることを幕府から公的に許されたというけど、さすがに悠々自適ってことはないでしょ~!福島正則の家臣が将軍家に献上の酒を輸送する途中、嵐にあい、漂着した八丈島でひでくんに会った時には、「久しく三原の酒を飲んでいないので、つい呼びとめてしまった・・・」とさりげなく酒をおねだりして、譲ってもらったなんて逸話もあるし。あと、豪ちゃんの小袖下の布切れだとか、前田利家自筆の書状なんてのもあったなあ。豪ちゃんは利家の娘だからね。それから、「岡山城物語」と題した約7分のビデオがあった。ここにはイスがあったので、座ってゆっくり観賞。だって雨降ってたから、ここまで全然座れなかったし~。題名からして、フツーに岡山城の歴史を解説してくれるのかと思ったら、ひでくんのママがナレーターを務める、「宇喜多秀家物語」だった(笑)。あ~、あの、女好きの殿下も目をつけたっていう、美人のママね~。他に、池田忠雄とか光政の書状なんかもあったけど、全体的に宇喜多カラーが強かったなあ。意外に。これもご時世ですかね・・・まあ、私はその方が嬉しいけど。上階からは、中の段も見下ろせる。 中の段か本段かちょっとわからないけど、御殿の再建計画が過去に持ちあがったものの着手に至っていないとどっかで読んだなあ。でも、中の段の平面復元も充分楽しめたよ。私はね。内部をひとしきり見て回ったあと、喫茶コーナーで休憩。「晴れの国」おきゃやまは、フルーツが名物。その地元のフルーツを使ったパフェが市内の各所にあるんだけど、かなり時間も押してたし、ここで頂くことにした。 城内ですので、「お城パフェ」。え~と、白桃とマスカットのヨーグルトパフェだったかな。さっぱりしてて、美味しかったよパフェなんか、何年ぶりだろう・・・パフェを頬張りつつ地図とか見てたら、後から入ってきてお城パフェを注文しようとした人が、「今日は終わっちゃいました~」ってお姉さんに断られてた。どうやら私のが最後だったらしい。ラッキー!!そういえば、こんなチラシもあった。 確か、ひでくんでも豪ちゃんでも応募に性別は問わないとか書いてあって・・・(笑)。面白いなあ。でも、使える宝は有効に使わないとね。知名度が上がれば、経済効果も期待できる(かもしれない)し、供養にもなる(と思ってる)。天守を出たら、土砂降りの雨だった。岡山城天守には、塩蔵という付櫓があるので写真を撮りたかったが、なぜかこの1日雨の中、傘を持たない2名の観光客が塩蔵で雨宿りして動きそうになかったので、撮れなかった・・・しくしく。いや、撮ってもよかったんだけどね、あまりに正面にいるものだから「人と櫓とどっちを撮ったんですか?」って写真になりかねないので・・・ので、とりあえず脇の廊下門へ続く道だけ撮った。 この辺の石はちょっと赤いかなあ・・・この近くにはベンチと灰皿があって、灰皿はこんなのだった。 石垣柄だよ・・・(笑)心憎い演出じゃ~あ~りませんか。不明門を通って、すぐ左手にある道を曲がるとこれがある。『岡山城本丸図』 では「C]のところ。 【鉄(くろがね)門跡 下の段の南側から表書院へ通じる櫓門。木部の全体を鉄板でおおった いかめしい門があった。】(現地解説板より)ここが表向御殿の正門。ここから城の心臓部に入るからね、がっちりした門で防備を固めていたと。その先の階段で下の段へ降りる。 にほんブログ村
2012年03月27日

さて、この外観。 なんといっても特徴的なのが、黒の下見板張。天守の外壁は防火の観点から土壁であり、柱まで土壁で覆い隠すほど分厚い「大壁造(おおかべづくり)」。この土壁の仕上げの処理には大きく言って2種類ある。 ・塗籠(ぬりごめ)・・漆喰を塗って白く化粧したもの ・下見板張(したみいたばり)・・下塗の上に黒塗りの板を張ったもの漆喰は雨で剥がれ落ちてしまうので、10年に1度くらいの間隔で漆喰を塗り直す作業が必要となる。白くて綺麗だけど、維持管理に手間がかかるって事だね。そこで、土壁の保護のために板を張るのが下見板張。耐久性に優れ、経済的。ただし、見栄えの点では塗籠に劣る。まあ、見栄えは好みの問題でもあるけど。しかし劣るとは言っても、それは松煙などのススと柿渋から造った墨を板に塗った通常の下見板張の話で、安土城天主や秀吉の大坂城天守では、下見板は高級な黒漆塗だった。こうなるとゴージャスでラグジュアリーなのは、黒漆塗の下見板張の方になってくる。秀吉に可愛がられて、その派手好きも受け継いだひでくんの岡山城天主も、この黒漆塗。ちなみに、黒漆塗よりももっと高級なのは、徳川家光の銅板張の江戸城天守。最強なのは、鉄板を張った福山城天守。と、下見板に何を使うかで随分と違ってくる。もっとも、銅板張や鉄板張を下見板張とは言わないけど。フツー。黒づくめの岡山城天守は、「烏城(うじょう)」とも、また金箔瓦が使われていたので「金烏城(きんうじょう)」とも呼ばれる。屋根は本瓦葺。古来より、本瓦葺は寺院建築にのみ使われたもので、神社建築や寝殿造などの住宅建築には檜皮葺・こけら葺・茅葺など、植物を利用したものが使用された。しかし、本瓦葺の防火性・耐久性などが天守の屋根に求められる条件を満たしたため、慣例を打ち破って天守の屋根に採用された。タフなだけじゃなく、格式も添えられたしね。普通の天守の瓦は土製で素焼きのシンプルな瓦を使ってたけど、安土城天主や秀吉の大坂城天守などでは、金箔を張った軒丸瓦などが使われた。うむ、天下人ともなると、派手じゃの。岡山城天守も、すでに何箇所かで書いた通り、金箔瓦が使われた。ひでくんはあいにく天下人じゃないけど、秀吉の猶子であり、外様でありながら秀吉さんちの一門扱い。そして五大老の一人、と高貴な身分のおぼっちゃまだったからね。次に、天守の意匠についてちょっとだけ見ていきましょうか。 枠内の部分が破風(屋根の端っこ)。破風にも色々あるけど、これは千鳥破風。天守にはこんなのがあちこちに付いてるのがほとんどだから、城好きの方は見慣れてると思うけど、日本人って昔から破風大好きな民族だったらしく、そこから生まれた言葉が現在でも使われてるんですよ。奈良時代、破風のある建物のことを「真屋(まや)」と呼び、破風のない建物をさげすんでいた。そして破風のない建物のことは「東屋(あずまや)」といい、田舎屋の意味で使っていたらしい。そーゆー嗜好の民族なので、天守にも破風が採用された。なんでも、破風のない天守はひとつもないらしい。で、この破風の中にできる三角の部分を妻壁(つまかべ)といい、ここの意匠を妻飾(つまかざり)という。上の写真では(1)のところ。この真ん中に短い棒を立て、両側から斜めに真ん中の棒に立てかけた意匠を「豕扠首(いのこさす)」といい、古くから多くの寺院に用いられてきた伝統的で格式の高い妻飾がここに使われている。城郭建築ってのは、社寺建築の流れを汲むものが多いので、それこそ切っても切り離せない関係にあるけど、望楼型全盛期に築造された初期の天守には特に社寺建築の影響が強く見られるそうな。これまでに何度かリンクを載せている岡山市デジタルミュージアム様のサイトでも、岡山城は同時期に作られたいくつかの天守のうちでも「古式な様式で造られ、意匠を凝らした」天守であると書かれている。写真の(2)、屋根の下に付いてる四角い棒っきれは、「垂木(たるき)」。垂木の中で一番格式が高いのは、素木のままのもの。でも軒は火がつきやすいため、天守では漆喰を塗るのが不可欠。漆喰の塗り方も正式なのと略式と2種類あって、ここのは正統派。岡山城天守は、その築造時期から、安土城や秀吉の大坂城との比較や類似点がよく引きあいに出される。安土城を摸したともいわれるし。で、この垂木なんですが、写真では下見板張以外のところは白漆喰で塗られているから、白い垂木は周りとマッチングしてる。ところが、安土城や秀吉の大坂城とかは、黒漆塗の垂木だったという可能性が指摘されてるんだって。安土城天守の復元図は色々あるけど、ものによっては確かに屋根の下の部分とか妻壁のところも黒塗にしてるので、バックの壁が黒なら、垂木が白じゃ確かにおかしいよな~とも思うんだよね。安土城郭資料館にある天守の模型には、残念ながら黒い垂木は付いてないけどね。 (安土城郭資料館)現存天守には黒い垂木は例がない。例がないから見たことないし、見たことないから見てみたい。単純に、「黒い垂木なんて、なんかカッコよくな~い?」ってミーハー心なんだけど。岡山城天守は古写真を元にしてるんだから、安土城とかと同じ時期とはいっても、白い垂木ってのは確定だよな・・・と思いながらあらためて古写真を見てたら、「実は垂木の胴の部分は黒だったんじゃないの!?」とか思えてきた。あ、別に今のスタイルにケチを付ける訳じゃないですよ。天守復元にあたっては、旧藩士の方々がまず中心となり、それを岡山市が引き継いで現在に至るって話だしね、それもすごい話だよな~と感銘を受けました。ただ・・・安土城だとかの失われた名城とダブらせて眼の前にある岡山城天守を見てると、「こうだったのかな~」 とか「こうだったらいいな~」 って妄想は尽きない。岡山城を楽しみつつ、岡山城以外の城も思い描きながら楽しめる。しかも、ここまでのところタダだし(笑)、岡山城、オイシイわ~にほんブログ村
2012年03月26日

さて、ここまでの解説板であまり全体の概略について述べてるのはなかったので、ちょっとだけ岡山城の歴史について。南北朝の時代、正平年間(1346-70)に上神太郎兵衛尉高直が石山に城を構えたのが文献に現れる最初という。時代が下って、大永年間(1521-28)に金光備前が在城するが、その子・宗高の代になって、宇喜多直家に滅ぼされる。直家は石山の城を大々的にリフォーム。直家の子・秀家は、父の城・石山城を取り込んで西方の岡山に居城を移し、秀吉直伝の派手さをもって、延べ7年かけて大規模な城を築く。関ヶ原で西軍の主力となった宇喜多家は戦後に改易、ひでくんは配流の身となり、八丈島での公式史上最初の流人となる。代わって関ヶ原で大活躍の裏切りをした小早川秀秋が岡山城主となり、改築。が、秀秋は関ヶ原からわずか2年で早世。子がなかったため、小早川家は改易。これは徳川政権で初の無嗣改易だった。岡山城には、「はじめて物語」がつきまとうなあ(笑)。その後は池田輝政の子が2代続けて入り、あとはずっと廃城まで池田家が城主を務めた。池田さんちも色々ごちゃごちゃあるけど、後に書く機会もあるので今は割愛。さて、天守。 前の記事と同じ写真で恐縮ですが、上の写真が南からの撮影、下の写真が西の中の段からの撮影。見る角度によって、幅が全然違う。そう、岡山城天守は東西に平ぺったい構造なんです。そもそも天守とは、時代のパイオニア、信長様が室町末期に出た3階や4階の大型の櫓を書院造の豪華な建築に造り替え、皆びっくりの高層建築を出現させて「天主」と命名したことに始まる。天守の構造には2種類あって、入母屋屋根の上に別の建物をちょんと載せる望楼型、1階の平面を維持したまま一定の逓減率で上に行くほど小さくなる層塔型に分かれる。建物の構造が単純なのは層塔型なのに、層塔型が世に現れるのは遅かった。なんでか?「1階の平面を維持したまま」と書いたけど、それが理由。つまり、層塔型の天守を建てるには、正確な矩形(くけい。長方形や正方形)の天守台を築く技術が必要だった。天守は防衛上、天守台をめいっぱい使って建てるのが望ましいとされたので、天守台の歪みはそのまま天守の一階平面に反映される。その歪みを上階に持ち越すと、大変不格好な天守が出来上がるというワケ。ちょっと歪んでるくらいならいいけどね、例えば平ぺったい岡山城で層塔型天守を造ったら、最上階は薄く切ったカステラみたいな形になっちゃう(笑)。しかも大きく歪んでるから、カステラだったら、「もっと上手く切れよ、オイ!!」みたいな・・・しかし望楼型であれば、入母屋の上に載せる建物部分で修正すればいいので、天守台そのものにそれほど高度な技術は必要としない。ので、安土城から慶長13年(1608)年の姫路城完成に到るまでの約30年間に建てられた天守は、すべて望楼型。岡山城天守もこの望楼型全盛期の築造。史上初の層塔型天守は、築城名人・藤堂高虎の今治城とされる(1608年頃)。2年後の丹波亀山城の築城にあたって、高虎は天守を徳川に献上、これを移築。この丹波亀山城は天下普請だったため、動員された諸大名は初めて見る層塔型天守を自らの居城にも応用した。外観上は望楼型よりも層塔型の方がすっきりはしているけど、層塔型でも格式を高めるために、天守には様々な意匠を凝らした。ところがこの献上された今治城の復元立面図を見ると、それがほとんどない。天守の意匠といえば、まず破風(屋根の端部)が一番目立つけど、今治城は正面から見ると、この破風が一番上にひとつあるだけ。当時、最上重には必ず破風を飾ったので、「とりあえず、慣例に従って上に破風だけはつけましたけど~」って高虎のセリフが聞こえてきそうな位、今治城天守には飾りがない。ただでさえ新式の構造なのにこの外観だから、初めて見た大名達の目には、層塔型だけに相当斬新に映ったのではなかろーか。・・・すみません、オヤジ出ちゃいました層塔型は石垣は大変だけど、建物部分は旧来の望楼型天守に比べて構造が単純であり、部材の規格化が容易・工期が短縮できるなどの工事上のメリットもあったので、急速に全国に普及し、折しも慶長の築城ラッシュのさ中。以後は層塔型が主流となっていった。さて、岡山城天守は歪んだ五角形の天守台の上に建つ。望楼型で、上階にいくにつれ少しずつ歪みを修正して四角形にしているので、1階から6階まですべての階が違った平面を持つ。四角形以外の天守台は安土城(八角形)とここだけで、さらに五角形の天守台はこの岡山城天守だけという。天守の基本的な平面は、中央に身舎(もや。母屋とも書き、部屋のこと)を置き、その周囲に入側(いりがわ。武者走りともいい、通路状の部分)を廻らせたもの。だから、ここでいう「平面」は部屋と廊下を合わせた部分のことだとお含みおき下さい。で、岡山城天守の平面は、 1・2階はほぼ同じ間取り。72畳。 3階は十字の形。85畳。 4階でようやく平面が正しい長方形となる。56畳。 5階は正方形の身舎(もや)に南北出窓が付いて、「エ」の形。17畳。 6階は正方形、17畳。※天守内部の平面図を見たい方はこちら(The Lit City Museum/岡山市デジタルミュージアム様のサイトへリンクします。 図の「天主閣○階」のところをクリックすると、各階の平面図が見られます。)1階平面は上にも書いた通り、そのまま天守台の形なので歪んだ五角形だけど、身舎はこのフロアから四角形。その分、入側で調整している。広さについては、岡山市デジタルミュージアム様のサイトを参考にしているけど、図面を見比べてみても1・2階と3階の広さがどうもおかしい。たぶん、1・2階が85畳で3階が72畳の間違いなんじゃないかと思う。上がるにつれ、次第に身舎の形は修正されていくが、屋根はどの階も複雑で、身舎に比べて図面上は変な形となっている。ところでこの図面は、上記リンクにもあるように、当時早稲田大学の学生だった仁科氏が学友の協力のもとに実測し、昭和2年に卒論として提出したものだそうな。それが唯一の岡山城天守の実測図となったっていうんだから、何がどうなるかわからないもんだね。この実測図と古写真を元に、外観はほぼ旧状通りに復元された。築城から廃城までの間に、城全体としてはあちこち改修などが加えられ、天守も延享3年(1746)に修理が行われ外観の一部が変更されたが、天守の構造自体はひでくんの頃のままを廃城まで維持していたので、オリジナルではないけど、ひでくんが満足して見上げたであろう天守とおおむね同じ外観のものを、400年経った今でも見ることができる。にほんブログ村
2012年03月25日

あ~中の段、楽しかったっそれではいよいよ、天守のある本段へ。 中の段から本段へは、現在はここを通って上がる。『岡山城本丸図』 では、「D」のところ。 【不明門 表書院(藩庁)の南端から本段(城主居館)へ上る石段の入口に設けた渡櫓門、 天守閣のある本段全体の入口を固めた大形の城門であるが、平素の出入は 北端の渡り廊下を使用し、この門はほとんど閉ざされていたことから、「不明門」と 呼ばれた。明治の廃城後取り壊されたが昭和41年、鉄筋コンクリートで再建された。】 (現地解説板より、原文のまま)ご覧の通り大きな石が使われてて、見ごたえあるッス。 この門の先に、石段。 上がってすぐのところに、三階櫓・干飯(ほしいい)櫓・長屋続(つつき)櫓と3基櫓があった。かつてはね。石段の先を左に折れるとすぐ、これがある。 【天守閣の礎石 天守閣は昭和20年6月の戦災で焼失し、昭和41年に元の位置に鉄筋コンクリートで 再建されたため礎石のみをここに移し、元の通りに配置している。】 (現地解説板より)あの重い天守を支えてた石たちですよ。ま、この時は雨も降ってたし、とにかく蒸し暑かったので、礎石の間を萌え~でうろつく事はしませんでしたが・・・(笑)。(↑中の段で散々うろついて、消耗した)だから、赤く焼けた痕跡とかはあまり見られなかった。安土城の時は、それこそ礎石の1コ1コまで見て回ったけどね(笑)。この場所には、かつては本段御殿の物置とか、下男部屋があった。天守礎石群の先には、再建された門。『岡山城本丸図』では「E」の場所にある。 【六十一雁木上門 本段から川手に通じる石段道の上にある門で、段が61段あったことから こう呼ばれた。】(現地解説板より)旭川に望む川手(水の手)から直接本段に通じる石段は「六十一雁木」と呼ばれ、本段の御殿に勤める武士以外の者が使っていた。表向の役人は、通常奥向には入れませんからね。いわゆる、お勝手口。この石段の上に建つのが、写真の上門。要害門ともいう。さらに石段の下には櫓門形式の下門が建ち、二重に防備を固めていた。再建されたのは上の門だけで、しかも当時とは形式が違う。今あるのは薬医門だけど、昔は高麗門だった。ので、ここで萌え~する方は、注意が必要ですよ(笑)。ビジュアルに惑わされず、ちゃんと高麗門をイメージしてね。 本段全体の写真はあいにくないんだけど、写真の通り天守の手前は今は庭園風の空間。昔はここに、びっちり奥向の御殿があった。奥向、すなわち本段御殿は藩主の私邸。側室もここに住まうので、下男以外の男性は基本的に立入禁止。そのため、奥向では藩主の身の周りの世話はもちろんのこと、警護まで奥勤めの女性陣が担っていた。現在、御殿のあった場所はぽっかりした空間なのでちょっとイメージしにくいが、本段御殿の見取り図を見ると、六十一雁木がお勝手だったってのがよくわかる。※本段御殿の見取り図はこちら (The Lit City Museum/岡山市デジタルミュージアム様のサイトにリンクします) ここも中の段と同じように玄関は南向き。藩主は廊下門を通って下に行くし、奥勤めは六十一雁木を使うし、不明門を通って中の段から藩士が上がってくることはまずないし、一体どんな時にこの玄関を使ったんだろ?玄関から入って右1/3は、台所とか女中の住まう長局が並ぶ。残りの左側のスペースは、手前に藩主の御座所、その奥の天守側に側室の住居と続く。御正室様の部屋はありませんよ。江戸時代はみんな、正室は江戸住まいですからね。江戸時代の正室は、自分の夫の国許を見ることもなかった人も大勢いるらしいけどね。今の自由な時代からすると、窮屈で大変な時代だな~とか思っちゃうよな・・・にほんブログ村
2012年03月24日

再び泉水まで戻って、続きをば。 この辺りには的場があり、その脇に伊部(いんべ)櫓、ずーっと南側まで行くと大納戸櫓があり、さっき見た北側の数寄方櫓からすべて多門櫓でつながっていた。あ、ちゃんと解説もあった。 【多門櫓 石塁の上に建てられた長屋を多門櫓といいます。大納戸櫓と伊部櫓の間には 長さ37m、幅4mの平屋の多門櫓が建っていました。壁には下見板が張られ、 格子窓や石落としが設けられていました。】(現地解説板より)ここの石塁の上からは、大納戸櫓の石垣も見える。 大納戸櫓は岡山城最大の三階櫓。南北に20メートル、3階建てで沼城の天守を移築したともいわれている。この付近の石垣は、下部が解体修理されているらしい。大納戸櫓の近くには、また展示施設が・・・今度はなんだろ~と思って階段を降りていくと、また!! 【<この石垣はどこまで続く> 北へは、展示施設の壁を越えてあと25mほど真っ直ぐ延び、そこで103度の角度で 北東に折れ、中の段北東で露出展示している石垣に繋がります。 また、南は石垣としては残っていませんが、施設の壁から10mほどの所で 鉤(かぎ)折れし、さらに10mほどの所で東に大きく向きを変えたとみられます。 中の段では宇喜多秀家が築いた石垣のすべてが覆い隠されるまでに拡張工事が 行われていたのです。 そうしたことを含め、安土桃山時代から江戸時代前期の間に中の段が 改造されていった過程が、発掘調査でわかりました。 <岡山城の史跡整備のみどころ> 中の段の北西隅には月見櫓(国指定重要文化財)が建物の実物として残っています。 また、史跡としての整備は、この場所にあった表書院(藩の政治の場や藩主公邸) の建物の間取りの表示と、小庭園の泉水の復元を一つの柱としています。 これは現在の地表面に明治維新を迎えた時の様子を表示したものです。 いっぽう、発見された埋没石垣は、築城期の実物です。 このように、岡山城の史跡整備は、実物と復元物を取り混ぜ、対象時期が二時期に わたる立体的なものとなっています。】(現地解説板より)そして、中の段の歴史を表した図もある(左から古い順)。 「北に拡げた」って文章を読んでもピンとこないけど、図だとわかりやすい。なるほどね、こーゆーことなのか~!そしてさらに、ここにはもう一つ、すごいものがある。 【石垣を埋め立てた四〇〇年前の造成土 この場所にあった土層の断面をそのまま剥ぎ取って展示しています】 (現地解説板より)すげえ!目で見る、土の400年!!さらに解説。 【宇喜多秀家が築いた中の段の西辺石垣 <南側に石垣がないのは> もともと、石垣は南に続いていましたが、城を改造する時に石を抜かれたからです。 石は新たに築かれた外側で現役の石垣に転用されたと考えられます。また、 北側が石垣の形を保つのは、南を崩すだけで石の量が足りたか、石垣の上に建っていた 長屋状の櫓(多門櫓)を中の段内部の建物として残したからでしょう。 <石垣の特徴は> 石垣の本来の高さは10mほどあり、下の段から積まれています。 頂部は壊れていますが上方の高さ約3m分を露出展示しています。石は主に花崗岩で、 加工を施さない自然石を横向きに積んでいます。石垣の傾斜は58度で、城の石垣 としてはずいぶんと緩やかです。また、上方ほど傾斜が急となる「反り」の 技法をとらず直線に立ち上がり、古い時期の特徴を持っています。 <ここから金箔瓦が出土> 石垣を埋め込んだ造成土からは、金箔をおした桐の文様の瓦が出土しました。 平成8年のことです。桐は宇喜多秀家が豊臣秀吉から家紋として 与えられたものです。 この石垣の上、つまり秀家期の中の段には、こうした瓦を葺いた華麗な建物が あったのです。】(現地解説板より)金箔瓦が出土した位置は、上の造成土の写真で上から3つめの札のところ。解説板には出土した瓦の写真もあり、大型の金箔瓦は直径26cmとある。直径26cmの金瓦・・・キラキラやんけ4つめの札には、 【城の周囲の地山であるマサ土や川砂を採ってきて、入念に盛った様子がわかります。 瓦や陶磁器の破片も混ざっていました。】とある。あいにく、土のことはわからないけど、こうしたものから色んなことがわかるんだね。しかし、結構な厚さだったよ~。地表から金箔瓦のところまでで、1mちょっとあったもんね。当然、工事はすべて人力だから、かなり大掛かりな工事だったでしょうね。地面の下でひでくんの頃に想いを馳せながら、満足して展示施設を出る。ここから少し本段側に行ったところが、表書院の玄関。中の段では、南にあたる位置。「君主は南面する」という中国の思想から、南向きの敷地が好まれたというから、これもそういった流れからきてるのかもね。ちなみに、君主が南面、すなわち南を向いて座れば、それに向き合う臣下は当然北を向いて座ることになる。つまり、臣下は北面する。ここから「北面の武士」という言葉ができたそうな。歴史って、知れば知るほど面白い。にほんブログ村
2012年03月23日

第二の穴蔵の奥には、こんなのが。 【泉水(せんすい) 表書院の中庭にあった泉水を復元しています。発掘調査で出土した遺構は 地下に保存されています。水が漏らないように底に漆喰を貼り、北東の井戸から 備前焼の土管で給水する仕組みで、中の島に湧水口を設けていました。】 (現地解説板より)そんなに大きな池じゃないけどね・・・ところでこの写真の奥、石塁の上の茶色い柵が見えますか?これにも看板があって、 【中の段西側高石垣上端の安全柵(南半) 中の段西側の石塁上に設けたフェンスは、西側の高石垣から見学者や石材の転落を 防止するための安全設備です。歴史的環境整備に伴う城郭建築物の表示物では ありませんが、この場所に建っていた櫓の黒い下見板をイメージして焦げ茶色と しています。また内側には板材で櫓の柱の位置を示して、柱間の様相の表示と しています。】 (現地解説板より)城跡の管理も大変だよね~。こーゆー配慮とかがあって初めて私達が安心して見られるんだよ、ってことを知って欲しかったので、あえて載せましたよ。実際、この中の段はこんな高い石垣の上にある。 右下に写ってる茶色いのが、この安全柵ね。泉水を見た後、表向御殿の平面復元の誘惑を断ち切れず、またフラフラ・・・本段へ向かう通路の近くには、表書院の解説板があった。 【岡山藩の政治が行われた建物で、数棟からなり、大小60を越える部屋がありました。 登城してきた家臣らは南東の玄関から入り、広い廊下を通って奥へ進み、 それぞれ所定の部屋に詰めていました。廊下に面した徒(かち)番所は 城内の警備や雑用にあたる家臣の詰所でした。 藩主は、住居である本段の御殿から渡り廊下を通って北西の招雲閣に入り、 南座敷で政務を執っていました。泉水を備えた中庭には、数寄屋(茶室)が建って いました。北東部には台所があり、藩主の食事や儀式用の料理を作っていました。 発掘調査で出土した建物の礎石や雨落ち溝などの遺構は地下に保存し、地表には 建物の位置や間取り、泉水などを表示しています。】 (現地解説板より)そして、御殿の全体図もある。 上が南。私は北の搦手から入ったから、この図では、下から来てぐるぐる見たことになる。赤で「現在地」と表示されてるのが今いるところで、ここまででまだ中の段の北側半分しか見ていません・・・しっかし、部屋数60ねえ・・・伊部櫓とそれに連結する多門櫓付近(図の右部分)は、わずかに建物のないエリアになってるけど、それ以外は、中の段はかなりの部分を御殿が占めている。デカい御殿がば~ん!とあって、それをびっちり多門櫓が取り囲んでる風景を想像するだけで、息苦しくなりそーだ(笑)。それはともかく、これだけの規模の木造建築ともなると、やっぱり火災が怖いよな。それでなくとも、御殿はいくつもの棟を廊下でつなぐ構造であり、一般的に燃えやすい「こけら」で屋根が葺かれている。落雷などの自然災害は仕方ないとしても、うっかりによる失火から御殿全焼なんて例も少なくない。ちょうどホラ、「三国志」でもそんなのあったよね?え~と、何だっけ・・・周瑜だっけ、曹操だっけ、そのへんが船を繋いだら孔明に火攻めにされちゃって・・・とかそんなイメージじゃない?ま、とにかく延焼を防ぐには、破壊消火が最も効果的だった。時代劇で、め組のサブちゃん達がやるよーに、周囲の建物を破壊して、火の行き場をなくして鎮火させるやり方。アレ?時代劇じゃ、破壊消火ってあんまりやらないかな?でもこれが、正しくかつ効果のある消火活動。だって当時は、消防車も給水ポンプも消火器もないし!!まあでも、被害は最小限に食い止めた方がいいに決まってる。そこで重要なのが、初期消火。そのために備え付けられた消火グッズが、「天水桶(てんすいおけ)」。読んで字のごとく、雨水を溜めておく桶。これが昔は御殿の屋根の上に載ってた。もし御殿の古写真を見る機会があったら、屋根を見てみて~。桶が写ってるかもしれないから。岡山城の古写真はちょっと探せなかったけど、ここの屋根にも桶が載ってたのかも。想像すると、ちょっと笑える。上の写真の左の真ん中らへん(現在地のあたり)には、茶色い区画がいくつかある。この茶色の部分とその隣の2部屋が台所。御殿の床面積の中で、結構な割合を占めてるよね。なぜに、こんなに広いのか?御殿の台所ってのは、通常は台所としては使われない。儀式の際に登城した藩士に食事が振舞われる時くらい。時に、広い台所の一角に殿様のお食事を整える「上御膳所」が設けられる場合もあったけど、別棟に設置されたりもした。でも、殿様のための台所は奥向にもあるし、奥向に勤める女性陣の食事は、各局(つぼね)に設置された個人用台所で各自が自炊してた。御殿に出勤する藩士たちは、愛妻弁当持参だし。ま、これは城の本来の機能を考えれば、すぐわかることだけどね。そう、籠城のためのものなんです。他にも、出仕した主人を待つお供の人達のためのスペース、「供腰掛」(上に細長く出っ張ったところの茶色い区画)とかいろいろ書き込んであって、御殿建築を少しでも知ってれば、これだけでも結構楽しめる(と、思う。ただし、それなりの妄想力を必要とします)。腰掛では、お供連中がここで主人の仕事が終わるのをずーっっと待ってたんだってよ~。広島藩には、この腰掛の落書きがキタナイから塗りつぶすようにとのお達しがあったと、藩の公式記録に残されている。1日中待ってればね、落書きもしたくなるよな。この岡山城・中の段の腰掛では、どんなおしゃべりが繰り広げられたんだろう・・・とか想像するのも、また楽し妄想のため息をつきつつ振り返ると、本段の石垣が。 ここは赤く焼けたって感じじゃないけど・・・やっぱ、積み直してるかな?にほんブログ村
2012年03月22日

その隣にあるのが、月見櫓。 【国指定重要文化財 岡山城月見櫓 月見櫓は、岡山城本丸を構成する一二三(ひふみ)の段の二段目に当たる中の段の 北西角を固める隅櫓で、池田忠雄(ただかつ)が岡山城主であったときの 城郭整備に伴い、元和年間から寛永年間前半の時期(1620年代)の建築と 判断されています。 構造は、一部地下付きの塗籠造り本瓦葺き2階建てで、城外(北西)側から眺めると 2層の望楼型の様相を示し、城内(南東)側から眺めると3層の層塔型の景観を 呈しています。規模は、地階と1階が桁行(東西)32尺3寸(9.79メートル)・ 梁間(南北)26尺2寸(7.94メートル)・2階が方形で桁行・梁間とも16尺5寸9分 (5.03メートル)、棟高45尺4寸(13.67メートル)です。 地階は、1階床下の貯蔵場所であり、1階の床下が引上げ式の戸造りとなっていて、 有事の際に1階へ通じる作りとなっています。1階は、西面に石落とし(俯射装置) 付きの唐破風造りの出格子窓、北面に石落とし付の片流屋敷の出格子窓を設けて 城外側への臨戦の備えをなし、南面西寄りに入口を設けています。 2階は、西面の初層屋根の妻部に千鳥破風の格子窓、西壁に引き違い窓、 北面の踊場北窓に唐破風造りの武者窓、北壁に引き違い窓を設けて、1階同様に 城外側への備えを厳しくしています。 その一方で、2階の城内側の東面と南面には雨戸を立ての手摺付きの縁がめぐり、 内側に腰高明り障子を立てており、2階のたたずまいは、城内側が日常生活仕様と なっていて、平時にも月見を始めとした四季の眺望と小宴を催すのに格好の 構造となっています。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)この写真は城内側から撮ったから、南西面にあたる。当然の事ながら、櫓本来の防御装置は城外側、すなわちこの写真の対角に備え付けられているので、このこまごました解説はほとんどこちら側からは見られない。櫓下にもかすれて読みにくい解説板があるにはあったから、よく読んで写真撮っておけばよかったな・・・で~え、この南面の唐破風の上にある鬼瓦はこんなのです。 見にくいと思うけど、蝶!池田の家紋、止まり揚羽です。ここだけじゃなく、屋根の角にある瓦も蝶だった。いやいや、職人泣かせの家紋だねえ(笑)。かつての岡山城は、櫓35基、城門21棟を有する巨城だった。明治2年、国の所有となるも莫大な管理費をまかなえず、明治15年までに天守・月見櫓・西丸西手櫓・石山門の4棟を残し他はすべて整理されてしまう。そのわずかな建造物も、岡山空襲により天守と石山門が焼失。現在ではこの月見櫓と西丸西手櫓を残すのみ・・・しばらく浸った後、次を見ようと振り返って、地面になにかあるのに気がついた。 これ、表向御殿の間取りだ!!間取りを復元表示して、それぞれの部屋には名札がついてる!こんな風に。 厠の写真を撮るところが私らしいとゆーか・・・(笑)。他の部屋も色々あるんだよ、もちろん。こーゆーのも初めて見たので、「うわあ~、うわあ~!!」ってエアーで叫びながら(←なにせ、一人なので)御殿内部をぐるぐる。ほらほらっ、かまどもあるの! あ~、一人で黙ってるのがたまらなくツライここにツイッターでの城好き仲間が集まって皆でワイワイやったら楽しいだろうな~・・・と思って、「城好き集まれ~!お殿様ごっこしよーぜ!」って素直な感情をツイートしたら、ナゴヤ在住の城好きから「フン」って鼻で笑ってるのが聞こえるような冷たいツイートを返された自分だって、ちょっと前に岡山城に行ってるんだから、話に乗ってくれたってよさそうなもんなのに この中の段から本段に上がれば、すぐ天守。ほとんどが一般の観光客なので、この中の段に足を踏み入れる人がまず少ないし、さらにこの表御殿の平面復元図に足を止める人なんていやしない。一人でゆったり遊べるのは嬉しいけど、こんなに楽しいものがあるのに素通りされるのも無性に腹が立つ。「ねえねえ、お兄さ~ん、ちょっと寄ってかな~い」て客引きでもやってやろーかと思った。面白いのにな、ここ・・・名古屋城とかにあるような、精密な御殿の復元模型も好きだけど、何せこちらは実寸表示ですから。想像力を掻き立てられるどころの話じゃなくて、こちらの方が私向き(笑)。永遠に遊んでいたい衝動をこらえて、元の順路に戻る。 【数寄方(すきかた)櫓 白壁造りの3階建ての櫓ですが、伊部(いんべ)櫓と同じように石塁に寄せ掛けて 建っていたため、城外からは2階建てに見えました。表書院の数寄屋(茶室)で 使う茶道具類が保管されていたのではないかと思われます。】 (現地解説板より)あと、この手前にも穴蔵がある。 にほんブログ村
2012年03月21日

廊下門をくぐると、石段が現れる。 一般の観光客は、そのまままっすぐ奥へ進んで行くけど、私は観光に来たんじゃないんだから、右手に広がる中の段を当然見る。上がってすぐ、通路からさして離れてない場所に早速何やらあるし。 【発掘調査で発見された石垣の実物を展示しています。 <岡山城の歴史を体感し、先人に思いを> 岡山城は、岡山のまちの発展の直接の礎となった城です。豊臣秀吉のもとで 大大名となった宇喜多秀家が、天正19年(1591)から慶長2年(1597)まで 7年もの歳月をかけて築城しました。 その姿は中国地方の従来の城には見られなかった高石垣で囲まれ、 金箔おしの瓦を揚げた高層の天守が聳えたものでした。 これは空前の大建造物の出現であり、天下の名城でした。 やがて、江戸時代になると、城主達が進歩した城普請の技法で増改築を行い、 城構えが大幅に変貌しました。石垣は、そうした時代の変化の中で役割を終え、 城の改造工事によって埋め込まれたものです。 この施設は、石垣をまぢかに見据え、そうした城普請の時代的な発展の実感を 体感していただくために、立入ができるようにしています。 石垣に触れると、先人の偉大な知恵と技が伝わってきます。 この場で語り合い、国民共有の文化遺産であるこの城跡への理解を深め、 岡山のまちと人の成り立ちに思いをはせてみてください。】(現地解説板より)ああ、いい企画だ史跡の管理って、管轄の自治体の姿勢で相当差が出るんだよね。どことは言わないけど、過去に管理の姿勢にすごくがっかりした所があってさ、復元された天守はあったけど、もう見る気もなくなっちゃって、中の視聴覚コーナーでえんえん備え付けのDVD観てたことがある。そしてさらに解説板。 【地中に埋もれていた石垣 <なぜ、ここに石垣が> 江戸時代の初めに城を改造する時に、この石垣を埋め込んで「中の段」を北に大きく 広げたからです。平成5年度の発掘調査で見つかりました。石垣は展示施設の壁を 越えて続き、本来の裾は床下に埋もれています。拡張後の中の段には「表書院」の 御殿が建てられ、この場所の真上は台所になりました。 <いつ築かれたか> 今から400年あまり前、宇喜多秀家が岡山城を築いた時の石垣です。自然の石を ほとんど加工せずに用いるのが特徴で、30年ほど後に積まれた中の段北側の 現役の石垣が新式の割り石を使っているのと異なります。 <角が尖った珍しい石垣> 石垣の辺と辺がなす角度は70度です、これほど角が尖った石垣は全国的にみて 非常に珍しいものです。石垣の東は当時の「下の段」から「中の段」に上がる 道筋となり、廊下門の前身となる城門がありました。南西からの石垣は 裏に埋め込まれている自然の丘の形に沿って延びているのに対し、門前をきっちり 南北方向に切り通したため、特異な石垣の隅が生じたのでしょう。】 (現地解説板より)え~と、江戸時代の始めに中の段の敷地が増えて、表書院が建てられたのなら、つまりひでくんは廊下門は通らなかったワケね(笑)。その平面図がこちら。赤く「展示部分」て書いてあるところからもうちょっと上の緑の枠外に、私が入ってきた廊下門がある。 発掘調査時の写真がこちら。 んで、その実物がこちら。 おお~、これがひでくんも目にしたかもしれない石垣かあ~!この石垣は当時見つかった時のまま展示保存されてるので、階段を数段降りて拝む形になる。地中に埋め込まれてた訳だからね。この配慮も心憎い。やるなあ、おきゃやま。グッジョブ!広い中の段にはあちこちに案内板とかある。ひとまず、外郭に沿って順に見ていこうかな。『岡山城本丸図』の「9」、小納戸櫓のある場所にはこれが建つ。 でもこれは、小納戸櫓じゃない。廊下門の出口にあたるところなのかな~。かつては、廊下門の脇を固める小納戸櫓がこれの奥にあり、ここと多門櫓で連結されていたらしい。この左側にあるのはこれ。 【穴蔵 香川県豊島産の凝灰岩(豊島石)の切石で造られており、幅3.8m、奥行2.9m、 深さ2.3mあります。もとは屋根があり、非常用の食料を保存していたのではないかと 考えられています。】 (現地解説板より)この解説板に載ってる写真では、中が覗けるようになってるけど、私が見たのは埋め戻されたものだった。あと、近くには井戸。 ここの銃眼はこんなの。 岡山城のリーフレットには、 【この付近にある塀の土台石には、全国的にも珍しい、当時の最新式装置の銃眼石 (石狭間、狭間石ともいう)を並べている。】とある。確かに、こーゆースタイルの銃眼って、私は見たことないような気がするけど・・・珍しいんだ、これ。月見櫓下とか小納戸櫓下の石垣を築いたのは池田の時代。池田忠雄が造営工事に動員された徳川の大坂城にも同様の銃眼石があるらしい。豊臣じゃなくてね、徳川のね。にほんブログ村
2012年03月20日

岡山城<岡山県岡山市丸の内> (住所をクリックするとMapfan Webにリンクします)※「吉備路編(1)」の続きです。虎のリヤカーの兄ちゃんと別れ、土手を降りると内堀の終点だった。その前にあるのが、月見櫓の石垣。 【月見櫓下の石垣 池田忠雄が1620年代に築いた石垣で、上には月見櫓が建っている。 隅部は表面を特に平らに整えた方形の割石を配し、その長辺を交互に振り分けた 算木積みとなっている。石材は白色度の強い花崗岩で、瀬戸内海に浮ぶ犬島 (岡山市犬島)で切り出されたものとみられる。】 (現地解説板より)おお~っっ!!いっきなりこんな素敵な石垣が出てきて、コーフン。なんか上に付いてるし。 排水口?昔からあったのかな・・・しばらくこの場から離れがたく、石垣にへばりつくよーにウロウロ・・・(笑)。 ここには、岡山城の歴史と保存に関する看板もあった。 【岡山城の歴史を今に 岡山の市街地の元となった岡山城は、宇喜多秀家が慶長2年(1597)に築城した後、 江戸時代には岡山藩の城府となり、明治維新により廃城となりました。 城跡は、大半が市街地となり、本丸も学校用地に転用されて、昭和20年の岡山空襲で 天守と石山門が焼失し、月見櫓と西手櫓が現存するだけとなりました。 この本丸跡は、昭和29年に学校が移転して、烏城公園として整備され、 昭和41年には天守閣が復元されて観光施設ともなっています。 さらに、昭和62年に史跡に指定されてからは、歴史に視点を置いた整備が 求められるようになりました。岡山市は平成4年度から本丸跡中の段で、発掘調査、 コンクリート建物の撤去、石段の解体復元修理、江戸時代末期の建物の表示、 築城期の石垣の露出展示などを行っています。 こうした事業は、中の段の次は天守のある本段、その後は下の段と進めて行く 予定です。 岡山市の歴史的シンボルであって市民共有の文化遺産である岡山城跡を、より良い 姿で構成に伝えていくため、事業へのご理解をお願い申しあげます。(後略)】 (現地解説板より)そう、ここも空襲を受けたんですよ。1945年6月29日。同じ日に、赤間ヶ関編でさんざん登場した門司も空襲を受けている。当時の岡山には、陸軍兵舎・兵器廠や倉敷の三菱航空機工場があったので、攻撃対象に挙がった180の都市のうち、31番めの候補となった。岡山空襲では警報が間に合わなかったため、無差別爆撃にさらされるがまま市街地の73%が焼け野原と化し、死者は1,737人にも及んだ。その一方で、北郊の津島にあった陸軍の拠点はほとんど無傷で残った、と・・・同じだね、下関と。「総務省 一般戦災ホームページ」には、焼け野原となった市街地の写真も載ってます。こうした歴史も、ぜひ知ってください(リンクはこちら)。さて、そんな中から、下関や他の都市と同じく、岡山も復興を遂げました。さらに、よりよい城跡の整備を進めてくれているのですから、歴史ファンにとってはありがたいことです。月見櫓下から入口とおぼしき方向へ歩いてくと、こんなのがあった。 宇喜多の家紋が入ってますね。「兒」文字は有名だと思うけど、他の剣方喰(右上)、太閤桐(左下)、いずれも宇喜多の紋です。右下の保安官のバッジみたいのは知りませんが。たぶん、真ん中には「岡山開府四百年記念 開祖宇喜多氏顕彰之碑」って書いてあるんだと思う。現在「岡山城」といわれて一般的な観光スポットとして親しまれているのは、かつての巨城の本丸部分のみ。下は岡山城のリーフレットに掲載の案内図です(以下『岡山城本丸図』とよびます)。本丸だけでも色々見どころがあるので、今後の参考にする方は、こちらとあわせてご覧下さい。 で、現在私がいるのは、この地図で「F」のところ。大手が「A」の「入口」って書いてあるところなので、搦手からになっちゃったけど、まあいいや。岡山城本丸は三段構成。一番高いのが、天守のある本段。一段下がって、表書院のあるのが中の段。この2つを取り巻くのが、下の段。これより中の段へ上がります。 【廊下門 表書院(中段)から本段(上段)に渡した長廊下の下手に設けられた門で 「廊下門」と呼ぶ。昭和41年に鉄筋コンクリートで再建された。】 (現地解説板より)本段はいわゆる奥向にあたり、城主の生活の場だったから、限られた人しか入ることはできなかった。その人達がこの門の上を行き来してたのか~。もちろん、殿様も政務を執りに表書院へ向かう時には、ここを渡られたのであろう。雨の日も傘、いらないし。ひでくん(宇喜多秀家)の時にもあったのかな~。これ。にほんブログ村
2012年03月19日

この旅は、本当は2011年の3月の連休に行くハズでした。しかし、3月11日の東日本大震災。その次の週の土日が連休だった。数日間は大きな余震も相当続いてたし、まともに電車も動いてなかった。仮に行けたところで家が心配だし、そんな気分にもなれなかったので、手配していたJTBに解約を申し込みに行った。直前のキャンセルだったから、解約手数料もかかるだろうな~と思ってたけど、震災による電車の影響という理由で、全額戻ってきた。ラッキー!!とりあえず、当分は旅行どころじゃないだろうし、行ったつもりになって、戻ってきたお金は被災地へ寄付。オフシーズンの割安なプランだったので、同じ時期じゃないと同じ値段で行かれないだろうな~って思ってたら、JTBの格安プランで同じ料金のものを見つけたので、迷わず行くことにした。「行ったつもり」に後悔や未練は全くなかったけど、実際に行った訳じゃないからね、そこはね・・・てことで、元々2泊3日で行くプランだったのを1日有休を足して、3泊4日でリベンジ!うふふ、やっと行けるぜ・・・1日目 <'11/9/17(土)雨時々くもり>9月とゆーのに、朝からクソ暑い。新幹線で大阪より西に行くなんて、何年ぶりだろう。新大坂までは喫煙車のある新幹線もあるけど、それより先まで行くやつは喫煙者の敵、のぞみ700系(←全席禁煙)しかない。今回は格安のプランだし、私にとっては長丁場の車内なので、比較的乗車率の低いであろうグリーンにした。帰りは疲れててゆっくりしたいので、大抵グリーンだけど、行きから使うのは初めて。隣に人が来ないのを願うが、残念ながら東京駅から兄ちゃんが一緒だった。スーツ来てお仕事風なので、大変だな~と思ってたら、どうやら添乗員さんだったらしい。途中から乗りこんで来るじじばばをまとめながら、合間に資料とかチェックしてるのを横目に見て、「あ~、こりゃ、本当に大変だわ~」と内心同情。まあ、こーゆー人がいてくれるから、慣れない人でも気楽に旅行ができるんだよね。私はツアーなんかまっぴらだけどさ。2011年9月、紀伊半島などに大きな被害をもたらした台風12号が通り過ぎてまだ間もない頃だったので、大阪から先の川などはまだ濁ってて水位も高く、被害の規模が窺われる。今回行く予定のところも、台風で被害があったとの情報だったので、ホントに大丈夫なのかな~とちょっと不安になる。いちおう、確認はしてきたけどね。隣の兄ちゃんがいない隙を狙って、時々喫煙ルームへ。グリーンの喫煙ルームってどんなだろうって期待してたのに、普通車のと同じでがっかり。さて、博多まで乗ってく兄ちゃんとお別れして、ようやく岡山駅到着。東京から約3時間半。遠いわ~、おきゃやま私が宿を選ぶ時は、まずキャッスルビューのところを探す。なければ、便利なとこ。いつもなら狭いエリアを丁寧に歩いて見て回るところだけど、今回は岡山駅を起点にして少々動き回るので、駅近の宿にした。ので、まずは宿に荷物を預ける。駅から直結と言っていいほどの近さなので、ホント助かる。コインロッカー代はこうしてなるべくケチるのがジジイ流(笑)。しかし、暑い・・・小雨が降ってるから、湿度も相当高くて、余計暑い。息苦しいくらい。ホテルのある一連の建物にはNHKも入ってて、こんなポスターがあった。 へええ~、面白そう♪いい企画やるな~。しかし、まだ会期前なので見れないそういえば、このデジタルミュージアムには岡山城の復元模型があるんだよな。とりあえず今は大物を控えてるので、あとで時間があったら来よう。宿に荷物を預けて身軽になって行動開始。まずは駅のマックで腹ごしらえ。おきゃやまには美味しそうなものが沢山あるみたいだけど、お店を探す時間が惜しい。お腹がいっぱいになったところで、駅前から路面電車に・・・あ、ももちゃんだ!! ♪おっこしにつっけた、きびだんご~♪♪ところでこのきびだんごって、吉備だんご? 黍だんご?路面電車は高知なんかで見たことあるけど、乗るのは初めてだあ~興味津々で車窓の風景を眺める。なんか、子供みたいだ・・・(笑)。路面電車を「城下」で降りる。ほとんど、バス感覚だな。そのまままっすぐ行くと石山公園。この辺には、こんな案内板があった。 その先に進んで公園に入ると、こんなのもある。 【岡山城築城に際し犬島の石が使用されていることから、築城400年を記念して 平成9年8月9日・10日の2日間、市民参加のもとに犬島石絵巻 「岡山城STONE HISTORY」が開催されました。 この石は史実に基づき、筏と修羅により犬島から運んだものです。】 (碑文より。漢数字は戦国ジジイが変換)ん~っ、つまり、市民を人夫にしたのか?(笑)結構大きな石だったけどね。参加した人は貴重な体験をしたの~。さて、その先にあるのが旭川。おお、やっと来たぞ・・・!台風12号のニュースでは、この旭川もどーのと言ってたから「おいおい、岡山ジョー大丈夫かあ~?」って心配してたんだよね。だって思いっきり川沿いに建ってるから・・・まあ、大きな被害はなかったみたいだけど、旭川はかなり濁ってた。 左が後楽園。日本三名園のひとつ。まあ、これも歴史に関わるスポットだけど、この類は私は大抵行かない。高松でも栗林公園はすっ飛ばして、超マイナーな城めぐりをしてた(笑)。旭川は、この先岡山城をとり囲んでぐるりと大きく蛇行する。一般に「岡山城」と呼ばれるものをひでくん(宇喜多秀家)が造る時に、それまでより西に川の流れを付け替えたので。この流路の変更と、上流での山の荒廃など複数の要因が重なって、戦国の頃の岡山城下はたびたび洪水に見舞われたという。旭川沿いを歩いてたら、前方から不思議なものが近づいてきて、もう目が釘付け(笑)。「写真撮っていいですか?」って聞いたら、「じゃあ、なにかおひとつどうぞ」と商売上手な兄ちゃんだったので、洋風モチを買った。兄ちゃんはサービスして、ポーズまで付けてくれた。兄ちゃん抜きの写真も撮ったはずだけど見当たらないので、こちらを掲載。 虎の頭を持った、移動販売車ですよ・・・毛がフサフサだったので、暑い日にはあまり見たくないけど、面白かったなあ~。※「岡山城(1)」へ続きます。にほんブログ村
2012年03月18日

この看板には、大里が浜辺だった頃の写真も載ってた。 おお、これが数々の歴史を見つめてきた、大里の浜かあ~。さてと、これで門司で予定してた所はすべて終了。せっかくだから、大里宿に残る石碑を見てから帰ろうかな。大里宿は、国道から内陸側に一本入った細い道。西生寺から小倉の方まで続く門司往還上にある宿場町。古くは「柳」とか「柳ヶ浦」と呼ばれていたが、安徳天皇の仮御所ができてから内裏=大里となった。この辺りは、赤間ヶ関の中でも早鞆の瀬戸に次いで本州と接近しており、かつ比較的流れも緩やかなことから、渡海に利用された浜でもあった。江戸時代に入り、小笠原家が寛永9年(1632)に小倉藩主として転封。街道の整備が進められ、やがて参勤交代の制度が始まると寛永20年(1643)頃から宿場が整備された。当時の歌に いやなお客は鍋島薩摩 いつも夜泊り七ツ立ちとあり、夜遅く着いて朝は早立ちして経費削減に努めたらしい。まあ、今で言う「お泊まり」じゃなくて、「御休憩」みたいなカンジ?(笑)久留米藩は領内に良港がないため、黒田藩に若松の港を借りて参勤交代用の船を繋ぎ止めていたそうだが、寛永20年に可哀想に即刻立退きを命じられちゃったので、大里の浜を小倉藩から借用して船屋敷を設置したという。色々あって、面白いね慶応2年(1866)、長州軍の上陸により大里の宿場は大火災となり焼失・・・という歴史を持つ。宿場町の真ん中ら辺から入って、一旦西生寺近くまで戻りつつ石碑を探す。 【↑この地に御高札と南郡屋が建っていた。御高札は幕府及藩の通達を掲示した。 隣接の南郡屋は藩役人が各村庄屋へ通達と打ち合わせを行ったところ】 【↑人馬継所は宿場の主要施設であって継立の人馬を常備してゐた。旅人は料金を 支払って人馬駕籠をたのみ、次の宿まで旅行した。】 途中、「あ、あれ見落とした!」とかあって、行きつ戻りつしてたので、疲れたから彦島を諦めたにもかかわらず、結局大里宿を歩きまわる。石碑探しも一段落してから、駅方面の宿場の出口へ向かう。 一般的には素敵に見えるであろうこんな建物があっても、私の心はその下にあるこっちの方にときめく(笑)。 フラフラになりながら歩いてきた道を、最後にもう一度振り返る。 約200年もの間、この通りでどれだけのドラマがあったことだろう・・・往時の賑わいを眼前に想像しながら、満足して駅へ。門司駅周辺は再開発中みたいだけど、門司港駅と比べてずいぶんひっそりしてるのが印象的だった。観光の中心は、門司港駅周辺だけなのか~。門司駅から電車で門司港駅まで戻って、お船で唐戸へ帰る。今回は天候に恵まれたので、赤間の海はいつも青かった。 ああ、この船に乗るのもこれが最後だ・・・使ってみると門司港まですぐだし、便利だったな~。ホテルの部屋は海側なので、唐戸桟橋がすぐ下に見える。部屋に戻ってベランダから外を見てたら、今回乗ったのとは外観が全く違う船が泊まってた。 あ~、これが船島へ行く船かあ・・・今年はいわゆる巌流島の対決から400年。色々イベントも用意されてるそうな。夜の唐戸桟橋はこんな感じになる。 一番上に見える光のラインが、対岸の門司の夜景。この日の歩数は17,256歩。疲れてた割には、まあまあ歩いたよな。4日目('12/1/10) 晴れ 6,748歩最終日は帰るだけ。朝の遅い下関でバス待ちしてる間、カラーのふぐのふたを探す。引接寺の方まで行けば、ひとつあったハズだけど、そこまでの時間はないので付近をウロウロ。1コあるにはあったんだけど、目がつぶれちゃってたよ~ 空港へ向かうバスの中でぼんやりシートを眺めてたら、こんなものがプリントされてた。 フグだ!!他にも、源平の船と赤間神宮、それから関門橋がプリントされてる。これって立派な「現代版下関名所図絵」だよな~とか思いながらニヤニヤ。山口宇部空港にあったポスターを見てたら、 【天然のフグだからおいしいと、評判です。 山口県周南市のすくも島でとれる天然フグは、養殖ものとはちょっと違います。 なにしろ天然のフグは自然のものを食べているので虫歯になりにくく、丈夫な歯を 持っていると言われています。そんな小話を思いつつ、天然フグならではの おいしさを、じっくり堪能してみてください。】なんてのを見つけた。フグも虫歯になるんだ。 あ~、今回の旅もおしまい・・・楽しかったなあ、赤間!!ここまで長々とあれこれ書いてきましたが、これは赤間の海を取り巻く歴史のほんの一部。皆様も、機会があったらぜひ!ぜひ赤間ヶ関へ、おいでませにほんブログ村
2012年03月16日

あ~やれやれ、やっと西生寺でのノルマ達成した・・・と安堵感に包まれて山門を出ると、石碑があった。 【寛永16年(1639)、徳川幕府による宗門改めの政策によりキリスト教は 禁制となり、それに伴い踏絵が実施された。 豊前国企救郡における踏絵は、毎年3月3日頃、西生寺にて行われ幕末まで続いた。 明治の初め頃まで此処に『判行寺』と刻した石碑が建てられていた。】 (碑文より)踏絵って、毎年やるものだったんだ・・・。西生寺を出て、国道199号線へ出る。たぶん、この辺り一帯が「大里の浜」と呼ばれる場所なんだと思うので。 現在はこんな風にすべて埋め立てられていて、浜辺はない。少し歩いて、駐車場に座れる所を見つけたので休憩がてら海を眺めて萌え~(笑)。 対岸は彦島。知盛さんが城を築き、平家が陣取ったと言われるところ。写ってないけど、右手の奥には船島(巌流島)がある。写ってないけど、左手の海をずっと行けば、響灘を経て対馬、さらに朝鮮・中国へと続く。平家が船を浮かべ、大内氏はここから繁栄を築き上げ、龍馬が花火をぶっ放した赤間ヶ関。そして私が今いるところは、明石与次兵衛さんが切腹し、福間元明が討ち死にした場所。狙った訳じゃないけど、今回の旅の集大成の萌え~にふさわしい場所だった。まあ、船島へは行けなかったけど。・・・しかし、幸せな妄想の時は長くは続かない。海風が冷たくて(笑)。近くにはカモメが数羽飛んでたけど、普段目にする大きい鳥といえばカラスぐらい。やけにカモメがずんぐりむっくりに見える。何であんなに太ってて、空を飛べるんだろう?少し歩くと、なにやら解説板があった。 ほう、大里宿の絵図だあ・・・「安徳天皇 柳の御所 御上陸地」ってのも書き込んである。そのすぐそばには、 その向かいの海には、 へえええ~っ、象!!ここから乗っていったのかな~、それとも、門司港の方まで歩いてったのかな~。いずれにしても、この辺を象さんが歩いたのだ。門司の人達は驚いただろうな(笑)。帰ってからこの象さんの事をちょっと調べてみた。実は象の来日はこの時が初めてじゃないそうで、 初来日・・・応永15年(1408)足利義持の時代。 その後、幕府は朝鮮国王に贈呈した。 2回目・・・天正3(1575)年、明の船が博多に象と虎を持ち込み、 大友宗麟に贈った。 3回目・・・慶長2(1597)年、ルソン総督が豊臣秀吉に送る。 4回目・・・慶長7(1602)年、ベトナムから虎・孔雀とともに来日。 徳川家康に献上される。そして、5度目が、享保13(1728)年。当時国際貿易の窓口だった長崎の代官を務めていた高木家では、珍しい鳥獣が舶来するとそのたびに舶来生物のカタログを作成し、「ちわ~、こんなん入りましたけど」と、三河屋さんよろしく、江戸に送って御用伺いをしていたそうな。幕府はそのカタログを吟味して、欲しいものを取り寄せていたという。それまでに来日した象は献上品だったが、5回目は吉宗自らが注文したみたい。お取り寄せされた象は、清の商人によってベトナムからオス・メスが1728年6月に長崎港に到着。しかし女の子ちゃんは旅の苦労がたたってか、長崎で死亡。残されたオスの象は翌年3月、長崎を出発。途中の京では、4月に中御門天皇・霊元上皇に拝謁している。面白い事に、「無位無官の輩を主上に会わせるんどすか!?」って話になり、急遽御所内で「広南従四位白象」の官位を与えて参内させた。秀吉もまっつぁおのスピード出世。拝謁した象は前足を折って頭を下げる仕草をしたり、まんじゅうを食べて水まで飲んで帝を大喜びさせる。・・・やるな、おぬし。初めて象を見て感動した帝は、 時しあれは 人の国なるけたものも けふ九重に みるがうれしさとのお歌を遺したと。「けたもの(獣)」なんて言葉、和歌に入れていいんだ・・・(笑)。さらに東上して江戸を目指すが、5月には箱根で体調不良を起こす。しばし休養した後、江戸にて吉宗に拝謁。浜御殿で飼われる。江戸で書かれた象に関する書物『象志』によれば、この時7歳。ここからがひどい話で、翌年には幕府から「御用済み」を言い渡される。早っっ!!しかし買い手がつかず、結局そのまま浜御殿で13年。当然の事ながら飼育費もバカにならない。倹約のさ中だし。その後、1741年に多摩郡中野村(現在の東京都中野区)の百姓・源助にお下げ渡しとなり、本郷村成願寺裏手に作った象小屋で見世物に・・・この本郷村って、やっぱり赤い御門の大学のある、あの本郷だよね?源助は象の糞を原料にした丸薬「象洞」を作り、はしかに効くとの評判で、信濃や越後まで売られてったらしい。戦国時代には、糞尿を使った荒療治が色々あるけど、この時代まで糞はバリバリ現役だったのか・・・さて源助の元に移った翌年、ストレスが溜まったのか大暴れして騒動になる。その12月、還らぬ象となる。死因は餓死。享年21歳。死後に皮は幕府に納められ、頭の骨と2本の牙と鼻の皮は源助がもらい受けたが、これすら源助は見世物にしたらしい。その後は中野・宝仙寺の和尚が買い取って寺宝として保存されていたが、先の戦争で寺が焼け、現在では炭化した牙が1本残っている、とされている。この牙は一般公開はされていません。ああ、可哀想な象君。それまでに来日した象さん達も、たぶん似たような運命を辿ったんでしょうね。戦国の頃はプチ氷河期だったなんて説もあるから、南の国からやってきた象さんには、日本の寒さはこたえたに違いない。源助め・・・にほんブログ村
2012年03月15日

しつこく粘ってたら、道路沿いの塀の内側に解説板があるのを見つけた。 【鐘楼趾 万治2年(1659)小笠原長繁公は父、小笠原長俊公(小笠原小倉藩初代藩主忠真公の 弟)の菩提を弔う為に、柳村(現在の柳町4丁目)に寺院を建立し、天龍山静泰院と 号した。明和7年(1770)、高僧蘭山禅師が静泰院(臨済宗)の住職として入山 されると、禅師の学徳を慕って全国各地から修行僧が集まり、静泰院は北豊第一の 禅林として隆盛を極めた。 寛政8年(1796)、蘭山禅師は本山妙心寺から請われて、京都龍安寺の住職となり 上洛された。その後の静泰院は漸次衰微し、明治初年に堂宇は整理される事になり、 その折に鐘楼は西生寺境内の此処に移転された。 昭和16年、第2次世界大戦が起り、梵鐘は軍部に供出、鐘楼も平成2年に老朽化が 進んだ為に撤去された。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)今はぱっと見、普通のお寺さんだけど、西生寺のホームページには 【江戸時代に入ると徳川幕府の政策による参勤交代制度で、 さらに九州の諸大名(島津公、鍋島公等)が、宿をとる事が多くなった。 当寺も宿場町にあった関係上、諸侯の御休泊をお引請けすることが多かった。】とあるし、往時は大きくて由緒あるお寺だったんだね~。再び墓地に入って、きょろきょろ・・・と、あった!! 墓地の入口は2つあるんだけど、山門近くの入口から入ってすぐの所にあった。も~、こんなとこにあったよ~! 【福間松 中国地方の戦国大名、毛利家の家臣として数々の戦功を挙げた福間彦右衛門元明は、 天正14年(1586)、豊臣秀吉による島津征伐の際に大里の浜に於いて、 壮烈な最期を遂げた。 文化3年(1806)、元明の子孫にあたる福間政方はその武勲を表す為、元明戦死の 場所の松の傍に碑を建てた。その後、碑は転々として昭和15年頃、当寺境内に 移された。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)まあ、正直言って来たくて来た訳じゃないんだけどさ・・・福間元明は、毛利水軍の海将として木津川口海戦などで活躍。でもそれよりは、山中鹿之助を討ち取ったことで有名。よく「討ち取った」って書かれるけど、あの時は護送中だった訳だから、「殺害」のがふさわしいと思うけどね。山中鹿之助幸盛が殺された備中・阿井の渡しは現在はこんなところ。 ユッキー(幸盛)ファンの私としては、福間氏は仇にあたる訳で・・・まあ、ユッキーのあのあくなきバイタリティーは脅威だし、政治的判断としては、暗殺はやむを得ないものだったとは思うけど。元明の遺体は大里の浜に埋葬され、目印として松が植えられた。享年48歳。福間氏のために手をあわせて、残るは井戸だ。境内左の駐車場の手前には、なんか建物がある。 道路に近い方が蓮華堂、その向かいに毘沙門堂。あちこちに付いてる三階菱は小笠原氏の家紋。長時の弟の位牌についてはすっかり失念してたけど、西生寺に行くにあたって色々調べてた時、信濃を追われた長時さんのその後を知って結構驚いた。直後についてはあまり詳しいことはわかってないみたいだけど、一旦は三好長慶の元に身を寄せ、長慶の死後は越後の上杉謙信を頼った。謙信様の死後は、なんと織田家に迎えられたというではないですか!そしてあの信長様の京での馬揃えなんて大イベントにも参加してたっていうんだから、この人もしぶとい・・・いえ、激動の人生を送られたんだな~と妙に感動した(笑)。この写真を撮った後、もう一回駐車場の奥まで覗いたら、井戸のありかを示す案内板があったので、毘沙門堂の脇を通り過ぎようとした・・・ら、妙なものが目に入って足を止めた。 光っちゃって見づらいと思うけど、『タモンホール』って書いてある。なんか、ビジュアル的に不思議な名前だな~と首をかしげながらしばらく立って眺めてて、ふと気が付いた。ここ、毘沙門堂のお勝手口みたいな所で、毘沙門天って多門天のことだから、それで『タモン(多門)ホール』なのか~!!大声で笑い出しだいのを必死にこらえて、井戸へ向かう。駐車場から本堂の裏手に回り込んで、やっと見つけた。 【古井戸 この地は元々、細川小倉藩第二代藩主忠利公の浜御殿(お茶屋)であったが、 その当時の井戸と伝えられている。 世遷り、小笠原公の代に宿場町にあった西生寺は此処に移り、歴代藩主は 領内視察等の折、度々当寺へ立ち寄られた。その際にお側役で歌人でもあった 秋山光彪は、次のような歌を詠んでいる。 みほとけに くみてさゝぐる いさら井の あかぬは浦の みるめなりけり】 (現地解説板より)忠利さんは、細川忠興と明智玉(細川ガラシャ)さんの子供さんですよ。西生寺がこの地に移ってからの詳しい境内図は遺されていないらしいが、浜御殿跡をしのんで、現在では古井戸の側に茶室が建てられている。にほんブログ村
2012年03月14日

御所神社を出て次へ。今度は海の方を目指す。神社を出るとすぐ、「御所」があった!(笑)。 私、こーゆーお茶目な看板とか大好きなんだよね~。一人だと、話相手がいない分周囲をじっくり見るから、一人旅を始めてからは、旅の醍醐味のひとつになりつつある。さて、国道3号線へ出てしまえばわかりやすいかもしれないけど、排気ガスの中を歩くのもイヤなので、できる限り住宅地の中を進む。もうほとんど、彦島は諦めた。電車で下関へ出て、そこからレンタサイクルの予定だったから、腰が痛くてもまあこなせるかもしれないけど、あまりはっきりわかってない場所だし、モチベーションって大事だからね~。彦島は、平知盛さんが城(根緒城)を築いたという伝承もあるんだけど、その場所は今もって特定されてない。清盛塚周辺が有力視されてるらしいけど、何ともね。根緒城のことがもう少しわかってたら、頑張っちゃったかもしれないけど。大内氏の企画展で今回の2大萌えスポットは攻略したから、燃え尽きちゃったのかも(笑)。(注)↑ダジャレではありません。歩く道々、なにか面白いものないかな~とキョロキョロ。途中で見かけたおうちは、またもや結構古いものがいくつかあった。 国道渡って線路を渡って、もうすぐ目的地だ~とハアハアしながら歩いてたら、こんな建物が見えてきた。 カッコいいけど、これを見に来た訳じゃありませんよ。この手前の道を右に曲がると、目的地・・・だけど、曲がるといきなりこんなものがあった。 【江戸期凶作に苦しむ農民を救済のため私財を投じて門司小倉に新田門司六本松 猿喰小倉曽根百拾八町余を開作した郷土の誇りとする功績者である。】 (石碑側面の解説より)はい、ここの細い通りは、江戸時代に「大里宿」があったところなんですね~。大里宿については後述するとして、今は先へ進みます。で、着いたのが「西生寺」(場所はこちら)。 【西生寺は康正2年(1456)、等阿弥陀慧門大和尚によって創建された 阿弥陀如来を本尊とする浄土宗の寺院で、総本山光明寺(京都府長岡京市)の 末寺である。 この地は元々細川小倉藩第2代藩主であった忠利公の浜御殿(お茶屋)があったが、 寛文年間(1670年代頃)に小笠原小倉藩第2代藩主忠雄公の命により 大里宿場町内(現在の大里本町2丁目八坂神社前)にあった当寺をこの地に移転し、 その跡地に本陣がおかれた。 江戸時代、徳川幕府の宗門改めの政策により、当寺は企救郡における判行寺 (踏絵寺)として、毎年3月に踏絵が行われた。又本堂内には信濃国守護職であった 小笠原長時公の弟、小笠原信定公の霊牌が安置されており、小笠原小倉藩歴代藩主は 度々当寺へ参詣された。 その他境内には細川公の浜御殿当時の古井戸や、大里の浜で戦死した毛利家の家臣 福間元明の石碑が残されている。 当寺は慶応2年(1866)の豊長戦争で焼失し、現在の本堂は、明治16年に 再建されたものである。】 (現地解説板より)といった戦国関連のお寺だったので、やって参りました。そうは言ってもねえ、現地でのキーワードは『浜御殿跡・古井戸・福間碑』の3つのみで、小笠原長時の弟はすっかり抜け落ちてたんだよねえ(笑)。ちゃんと把握してたら、本堂の拝観が可能かとか聞いたかもしれないけど。境内に入ってぐるっと見渡してみたけど、目立つところに案内板とかはない。ひとまず右手の墓地に入って福間氏の碑を探すけど、それらしいものは見当たらない。境内の左奥は駐車場になってて、その奥は行けそうにない。困ったな・・・と思って、境内をぐるぐる歩いてみる。本堂の手前にある灯籠はなんか由緒ありそうだけど、何にも解説はないし、字は磨耗して読めないし。 墓地入口にあるこれも、綺麗だけど明らかに井戸じゃないし、石碑にも見えないし。 山門のところにあるこれも、井戸の跡には見えないし(笑)。 あ~困った困った・・・しかし、ここまで来てひとつも見ないで帰れるか!ってんで、しつこく境内をウロウロ・・・中から誰か見てたら、相当怪しい人に映ったと思う。にほんブログ村
2012年03月13日

鳥居をくぐってすぐの左手には、ここでのお目当てのひとつがあった。 ちょっと長いけど、大事なとこだから、解説板から全文引用します。 【キリメン様の石室 この石室には、文化2年(1805)9月立之、と刻されております。木舟社を キリメン様と呼び親しんでいた村人達が、御神像を保護するため、石室を建立 したものと思はれます。 平家物語、源平盛衰記に記された、柳御所の所在地を調査の為、旧柳村を訪れた 佐野経彦翁は、文化3年(1862)「柳御所考」を著し、次の様に記しています。 記 一、内裏跡地については、疫神社と木舟社の両説あるが、双方は非常に接近して いるので、昔は一体のものと見るべきであろう。 二、疫神社、木舟社と夫々天皇の大御称を隠しひそかに祭祀したのは、其頃は 源氏の世であつた為と思はれる。 三、木舟社の森の中程に、東面して建てられた一基の石室があり扉の奥には、 木像二体の御神像が安置されていた。 四、高さ七・八寸の、霊(タマ)を抱いて見える小児の御姿が安徳天皇像、 公卿の黒の衣冠をつけ、腕を組んだ座像が宗盛卿像である。 五、御神像の製作期は、大変古く考えられ恐らく文治・建久(1185~98)頃のものと 見える。 六、内裏跡の聖地が村人達に踏み汚されぬよう、跡地に樹を植えたため、後年には 疫神の森、木舟の森とも呼ばれていた。 現在、この石室にあった御神像は、戸上神社の御神宝として祭杞されております。】そう、ここには長いこと、ひそかに安徳天皇と平宗盛さんの像が祀られてたというのです。解説にある「疫神社」ってのは、どこにもはっきりと書かれてはいないのだけど、戸上神社が御所跡だとする説もあるし、現在の御所神社は戸上神社の御旅所だし、この御神像が今は戸上神社にあることから、戸上神社の事なんだと思う。それで、「木舟社」が御所神社のことなんでしょうね。文章から察するに。安徳天皇はいいとして、宗盛さんってのがひそかなオドロキなんだけど、(いちおう)最後の総帥だしね。石室のすぐ隣には、大里郷土資料館があった。入れるのかな?と思って扉に手をかけてみたけど、残念ながら閉まってた。資料館の壁には、こんなポスターが・・・ 鳥居の正面には、拝殿がある。 【明治天皇玉座の間 明治35年(1902)11月10日(復路12?月15日)明治天皇は熊本で行われた 陸軍特別大演習を御統覧のため大里に上陸なさいました。 このとき明治天皇は大里停車場構内に新築された休憩所にて熊本への往復とも しばらく御休憩になりました。 この休憩所の建物を安徳帝旧蹟の柳の御所拝殿として遺し、長く御聖徳を偲ぼうとの 声が起り当時の村長、村会議員の人達は九州鉄道株式会社と折衝を重ねた結果、 遂に寄贈が決り、翌年ここに移築造営されたものであります。 この拝殿には正面の屋根には「菊の御紋章」があがり内部左側には、「玉座の間」が あって当時の歴史?を偲ぶことができます。】 (拝殿貼紙より。?はよく読めないところ)いつもなら隙間から中を覗くところだけど、写真の通り玉垣で近づけないので、中は見られませんでした。明治天皇がわざわざ大里に立ち寄ったのは、安徳天皇の慰霊が目的だったともいわれている。柳の御所については、宇佐の柳ヶ浦も御所跡の候補地にあがっているというけど、御所跡としてはこちらの方が昔からメジャーだったのかもしれないね。拝殿の右側には、お稲荷様。こちらは、「御所丸稲荷 熊鷹稲荷」とある。 お狐様のしっぽが面白いだす~。 奥には、これまたずらりと。迫力あるなあ。 御所神社の境内に戻って、そろそろ出ようかと最後に眺め回したら、こんなのがあったのに気がついた。 何の解説があるでなし、ちらりと見て通り過ぎようとしてから、一瞬まぶたに映った3文字に呼び戻された。その3文字とは、この石碑の端っこに刻まれた小さな文字、 【伯爵 山科言綏書】 の山・科・言。言綏さん本人は知らないけど(何て読むのかさえわからないし)、もうこの3文字で、どのおうちの人かわかるよね。しかも、伯爵だって言うから、まずあの山科さんちでしょ~。はい、戦国ファンならまず知っている、「言継卿記」の著者、山科言継(ときつぐ)さんのお宅ですね。記憶力の衰えた脳ミソにとって、通し字ってのは名前を覚えるのに相当の障害になるものだけど、こーゆー時は便利だな~って思った(←現金なヤツ)。にほんブログ村
2012年03月12日

ようやく「柳の御所」へ到着。現在は「御所神社」となっている。(場所はこちら) 時節柄か、盛り上げグッズが・・・今回の旅で、こーゆー系の初めて見たような気がするぞ。 【柳の御所 寿永二年(1183)木曽義仲に都を追われた平家一門は、安徳天皇を奉じて西に逃れ、 大宰府に落ちていった。しかし、ここでも、豊後の豪族・緒方三郎惟義が 攻め寄せると聞いて、さらに遠賀郡山鹿の城を経て、豊前国柳が浦にたどりついた。 この柳が浦が現在の大里のことで、古い記録に「内裏」と書かれているのは、 しばらくの間、仮の御所があったからである。 現在、戸上神社のお旅所となっているこの地がむかしの仮御所の跡であろうと 伝えられて「柳の御所」と呼ばれている。 境内の歌碑は栄華を極めた都の生活をしのんで平家の公達が詠じた歌である。】 (現地解説板より)はい、明石与次兵衛さんのところで出てきた「大里」がまた登場しました。「大里(だいり)」はすなわち、「内裏」のことだったんですね~。大里という地名は、南北朝あたりから使われていたらしい。正式に表記が変更されたのは、江戸時代に入ってからのことみたいだけど。解説にある歌碑は、 都なる九重(ここのえ)の内(おく)恋しくは 柳の御所を立ち寄りてみよ 薩摩守 忠度(ただのり) 君住まはここも雲井の月なるを なほ恋しきは都なりけり 大納言 時忠平忠度さんは、清盛さんの弟。文武に優れ、歌人としても秀でていた。都落ちの際には、和歌の師である藤原俊成のところへ行って、「一首なりと歌集に収めてほしい」と百首あまりの自らの歌を俊成に託している。忠度といい、前にちょっと書いた経正といい、戦に赴く前の覚悟を決めた身の処し方の話は、どれも切なく美しい。経正の場合は、下賜されていた琵琶の名器「青山(せいざん)」を仁和寺に返上している。一の谷で経正が討ち死にした後、仁和寺では経正の法要を営み、これが能「経正」の題材となっている。忠度の歌は願い通り「千載和歌集」に一首収められたが、世が世なので俊成は忠度の名を伏せ、「詠み人知らず」とした。ただ、「新勅撰和歌集」(1235年、藤原定家撰)以降はめでたく「薩摩守忠度」として掲載されている。ちなみに、忠度の官名「薩摩守」は、ダジャレで無賃乗車(=ただのり)の意として使われる場合なんかもあったらしいけど、よい子はそんな言葉使わないでね。 もう一人の詠み人、平時忠さんは清盛さんの継室・時子(二位の尼)の弟だから、清盛さんから見て義理の弟。「一門にあらざらん者はみな人非人なるべし」(現代語訳で「平家にあらずんば人に非ず」)という有名なセリフを残したのは、この人。一口に平氏といっても、実際にはかなりのバリエーションがあるんだけど、このうち有名なのが桓武天皇の流れをくむ桓武平氏。平将門を始め、清盛さんや盛国んちなど、一般的に平氏として有名なのは桓武天皇のひ孫、高望王から平氏を名乗った家系。大河にも出てくるでしょうけど、家貞・貞能親子や源氏挙兵後の最初の犠牲者・山木兼隆なんかも皆ここに含まれる。一方、時忠さんちは桓武天皇の孫、高棟王の時に平姓を賜っており、同じ平氏といってもかなり公家化した家系であったらしい。とはいっても、元々はこちらの高棟王流の方が京で文官として活躍しており、平氏が出た最初の頃は、数ある平氏の中で中心的存在だったという。この高棟王流の平家は明治維新の時まで存続してたらしいですよ。ともあれ、平氏が政権を牛耳った治承・寿永の時代には、まぎれもなく清盛さん周辺が一門の花。その清盛さんの義弟となり、さらには妹の滋子さんが後白河院に寵愛されたから、清盛さんと後白河院、ビッグ2の小舅(こじゅうと)になった時忠さんの得意の心中、推して知るべし。何だかんだで時忠さんは壇ノ浦の戦いの後も生き延びるんですが、結構平家にも個性的な人が多くて、人間模様が面白い。背中に平家の揚羽蝶をあしらった時忠さんの陣羽織は、今も現存してます。そしてさらに解説板。 【九月十三夜の歌読の事 寿永2年(1183)安徳帝を奉じた平家一門は柳が浦に上陸し柳御所を造営した。 9月13夜の歌宴を此処で催し次の歌を詠んでゐる。 打ち解けて寝られざりけり楫枕 今宵の月の行方清むまで 大臣殿 宗盛 月を見し去年の今宵の友のみや 都に我を思ひ出づらむ 薩摩守 忠度 恋しとよ去年の今宵の終夜 月みる友の思ひ出られて 修理大夫 経盛 】 【清経、柳が浦へ入海 重盛殿三男 左中将清経は柳御所より小舟に乗り沖に出て 「哀れはかなき世の中よ いつまで有るべき所とて」と静かに念佛して 海の底に沈んでいった。】悲しい歌に、哀しい最期・・・なのに、その歌碑の足元には何故かこんな物がある。 誰がこんなもんを置いたのか?とりあえず見なかった事にして、境内へ。 清盛さんは保元3年(1158)、太宰大弐に就任。九州管内に所領を獲得して、平氏繁栄の経済的基盤の一つとした。大宰府の直轄支配下に置かれていた門司関も、平氏の支配下に入った。さらにこの柳の御所。ここでの滞在は1週間~1ヶ月程度と推測されているらしいけど、門司と平家の関わりも結構深いものなんだな~、と今回の旅で初めて知った。にほんブログ村
2012年03月11日

再び電車に乗って、今度は門司駅へ。昨日歩いたところより、もう少し南。まず目指したのは、「風呂の井戸」(場所はこちら)。駅からそう遠くないと思ってたけど、疲労のせいでちんたら歩いてたので、結構時間がかかった。 【風呂の井戸 木曽義仲の乱入で京都を追はれた平家は、再起の地を大宰府に求めたが、緒方維義の 反逆にあい住吉、箱崎、香椎、宗像をふしおがみ、芦屋から海路この柳ヶ浦につき、 「内裏」を定めたのが寿永二年の秋であった。 旅の疲れをいやすための風呂の用水がこの「鏡ヶ池の玉水」で、以来この泉を 「安徳帝風呂の井戸」といゝ伝えられている。この周辺の字名は風呂となっているが 大正の末期に不老として町名にした。】これのすぐ隣にちっちゃい地蔵堂がある。 【風呂の地蔵 一度は西下した平家も空しく引揚げ一の谷で敗れ再び西下、壇の浦の藻屑と 消えたのが寿永四年であった。平家一門の霊を杞った風呂禅院西光山大専寺は 柳村に在ったが、慶長年間に改宗して街道筋に移され、地蔵堂だけは 風呂の一角に残されていた。今改めて小堂を建立し御幼帝の霊を弔う。合掌】藻屑とか言われちゃうと、チョー悲しいんですけど・・・ともあれ、地蔵堂の扉に開いてる賽銭用の穴から拝観料を・・・穴の真下に賽銭箱があるもんだと思ってストンと落としたら、扉の下の隙間から転がって戻ってきちゃった(笑)。3回くらい同じ事を繰り返して、最後は指に反動つけて奥へ放り投げた。なんかすごい怪しい人に見えただろーな・・・その小さな穴から見えるお地蔵様がこちら。 で、今度はその内裏へ向かいますよ。この時点で、もうホントにヘロヘロ。腰が痛くて足が前に出ない。この後、彦島へ渡って清盛さんとこへ行く予定だったけど、とりあえず門司での行動を終えた段階での時間と体力で考えよう・・・。進行方向よりちょっと右手に足を延ばせば、交通安全にご利益があるという戸上(とのえ)神社があるんだけど、もう無理~!その奥にある戸ノ上山は、唐帰りの弘法大師様が赤間ヶ関を渡る時にこのお山を見てピピッと感じて上陸し、修業をした上にお堂を建立したとの伝承がある。体力不足でヘタレた私は、この霊峰を下から仰ぎ見るだけ。 戸上神社は、ソーリンの門司城攻めの際、大友軍が乱入して堂宇僧坊がことごとく燃えてしまったと戸上神社のホームページにある。 戸ノ上山からさらに奥地に行くと、門司氏が骨肉の争いを繰り広げ、大内ひろよん(弘世)がケガした猿喰城、それから柳城がある。(その辺の話は、「門司城(1)」をご覧ください)歩いてると、こんなふたがあった。 ひまわりちゃん♪でも、相変わらずバナナ柄はなく・・・このあたりには、こんな古い塀が結構残ってる。 昨日、三角山周辺を歩いてる時もかなり古い建物とかあったけど、例の事情により、XDカードの残量が気になるところなので、あまり写真は撮らなかった。途中の家には、こんなものもあった。 ちょっとわかりにくいかな・・・茶色の柱の下に、亀がいるんだよ。カメ!!亀が柱を支えてるの。古い町って、面白いよね~。にほんブログ村にほんブログ村
2012年03月10日

あと、特に目をひいたのが、「今川了俊連歌懐紙」(大宰府天満宮所蔵)。永徳2年(1383)、九州探題の了俊によって大宰府天満宮で興行された千句連歌のうちの第5巻の懐紙。 【征西府の拠点でもあった大宰府を落とした了俊による連歌興行の意義は発句 「今日いくか我此花の御かき守」に集約されている。此花は天満宮を象徴する梅、 それを自分はしっかりと守っていくとの決意表明でもあった。 美麗な連歌懐紙の代表的作品。】 (「大内文化と北九州」図録より)なんで大内氏で了俊かって?大内義弘さんは、了俊の娘を娶ったといわれてるんですね。了俊に協力して、九州の南朝勢力の追討もしてるしね。後に了俊は九州探題を解任され、義弘に至っては足利義満に難癖つけられて幕府軍と戦い、討ち死にしている。了俊は色々苦労した割には96歳まで長生きしてるけど(笑)。この懐紙の冒頭には梅の花がプリントされてるんだけど、連歌会の様子とか想像すると、ときめいちゃいますね~(笑)。展示品のひとつに、重文の「真如堂縁起絵巻 上巻」(真正極楽寺所蔵)があってね、会期中に巻の入れ替えがあるんだけど、この絵巻を大きなCGの映像で紹介してて、これが面白かった。題して、 「遣明船の大きさを実感しよう!」。昔の船の右端に、坊様が一人ぽよ~んと立ってる姿をご想像下さい。真正極楽寺(通称・真如堂)は慈覚大師の作った阿弥陀如来様を祀ったことに始まるそうだから、たぶんこの坊様が慈覚大師様なんだわ。昔の絵ってのは、人物を大きく描いてるそうなので、この坊様を身長157センチ(昔の平均身長か?)に実寸表示。それを船のあちこちに移動させて、船の大きさを体感してみましょうって企画。慈覚大師で遣明船?時代が違うんじゃね?と思った物知りのアナタ!そうなんです。慈覚大師円仁様は、794年-864年。中国に渡ってはいますが、遣唐使なんです。明じゃありまへん。真如堂縁起絵巻の描かれたのは大永4年(1524)。テーマは平安時代でも、室町の船を参考にして描かれた。だから、室町の諸風俗を知る上での歴史資料として、貴重な絵巻なんだと。2回くらい見て一生懸命メモをとったんだけど(笑)、それによると船は高さ17m、長さ35m。中央に「御座船」を置き、それに使節が乗り込んだ。丸太を半分にくりぬいてつなげて船底を作り、側面に板を組み上げて船体を深く広くした、と。当時の門司は、造船所をメインとした貿易の基地として、多くの武士・職人・商人たちでにぎわっていた。明に渡航できるだけの大型船は、国内に12隻。うち4隻が門司船籍。この門司の船(和泉丸・宮丸・寺丸など)を借り上げて遣明船に仕立てたんだって。ただ、船は大きければいいってもんじゃなかったらしく、永享5年(1433)の時には、和泉丸という2,500石の大船はデカすぎて逆に使えず、寺丸という船にチェンジさせられたとか(笑)。船だけじゃなく、船頭なども門司の人が採用されたっていうから、経済効果抜群で、当時の門司にとっても遣明船サマサマだった訳だね。遣明船を始めるにあたっては、あの俺様坊主・・・いえ、足利義満公がまあ色々と面白い話を残してたりするけど、それだけの価値はあった。「大乗院寺社雑事記」による遣明船の収支は、1隻あたり、 収入 約40億円 経費 (人件費などの雑費)約1億8000万円 (輸出品代)約10億円 税金 約4億円 利益 約24億2000万円 ・・・24億の利益。1回に、1隻でね。遣明船の規模とかは時代によって違うみたいだけど、応仁の乱以降は3隻と決められたみたい。そして、最終的に大内氏がこれを独占するようになる。大内さんちに集まったのは、カネやモノだけじゃない。朝鮮から大蔵経の輸入を繰り返し、各地の寺社に奉納された。雪舟さんのように、異国の文化を学びとろうと多くの文化人も集まってきた。ありし日の、大内さんち周辺の様子を想像してみてください。荒廃した京に比べ、華やかな文化が花開いた赤間ヶ関や山口市の様子を。なのに何で、マイナー武将と馬鹿にされねばならんのか・・・ぷんすかさてと、展示品の紹介はこのくらいにして、大体2時間ちょっと観てたのかな。前日の疲労が腰に溜まってて、ずっと立ってられないので、ちょいちょい座って休憩しながらってのもあったけど、国立博物館とかみたいに何室もある訳じゃない企画展示室でこれだけ長居してたのは、私だけ。監視のお姉さんも、「アイツ、まだいるよ・・・」とか思っただろーな(笑)。展示室からショップに移動して、グッズを物色。ここ「いのちのたび博物館」はその名の通り、進化系の展示がメインらしく、恐竜グッズがいっぱいあった。企画展に関連しての土産物はそんなになかったので、図録と恐竜のクリアファイルなんぞ持ってレジへ・・・(←恐竜けっこう好き)途中、とんでもない物が目に入ったので、レジのお姉さんに「アレ、撮ってもいいですか?」って聞いてみたら、快く承諾してくれた。 写真じゃ大きさがわからないと思うけど、ボーリングの玉なんですって。これ。 【ボーリングが趣味のご主人、小笠原さんがあそび心で作りました。 普段は桑原大内塗の工房内に飾ってあります。】(解説より)大内塗とは、 【大内塗の歴史はたいへん古いものです・・・。 いまからおよそ600年ほど前、大内氏が周防と長門の国を治め、 山口は日本の文化の中心といえるほどの繁栄を築きました。大内氏周防・長門 統治の基礎を作った大内弘世は、正平年間(1346~68【室町時代】) の頃に、国を強固にしていきました。 大内塗の漆器や蒔絵(まきえ)が、明(中国)や朝鮮との重要な交易品と なっていました。 大内塗の代表的なものとして、器、盆などがあります。】 (桑原大内塗工房様のホームページより)大内さんの歴代当主は大変な京都好きで、ひろよん(弘世)も京から嫁さんをもらった。はるばる周防まで来たその嫁さんを慰めるために、雅な人形(大内人形)を作らせたなんて話もある。モノにもよるけど、伝統工芸ですしね、ぶっちゃけ高いですよ(笑)。その大内塗でボーリングの玉・・・笑ったね。いや、嫌いじゃないけどね、こーゆーセンス。さて・・・もうお昼。早く門司に戻りたいけど、知らない所で食べ物屋を探すのは時間がかかるかもしれないので、博物館の前にあるイオンで食ってくことにした。ところが・・・イオンってどこもそうだと思うけど、ま~広い広い!!腰が痛くてたまらないのに、飲食ブースまで散々に歩かされて、マジで腹が立った(←腹が減ると機嫌が悪くなるタイプ)。床面積をこれだけ広く取るんなら、高齢化社会なんだし、体の弱い人の事も考えて「動く歩道」とか作ってよね!!とかイライラしながら食事。子供の頃から腰が弱いので、一旦腰に疲れがたまるとちょっとやそっとじゃ回復しない。この後、予定通りこなせるかな・・・にほんブログ村
2012年03月08日

<3日目>’12/1/9 晴れさあ、今日も忙しい。今日はなんたって、今回の2大萌えスポットのうちの1つに行くのだ。まず船で門司港へ渡る。朝早い時間なので、ガラ空き。今日もあまり揺れてる感じはしなかったけど、降りたら真っ直ぐ歩けなかったので、結構揺れてたのかも(笑)。レトロな門司港駅の駅舎の中に入ると、中も当然レトロ。私は先を急ぐので、駅舎の中はゆっくり見なかったけど、昔使われてた物とかが色々保存・展示されてるらしい。改札を入ると、目の前には「0マイル標」がある。 明治21年に九州鉄道会社(現在のJR九州)が設立され、その3年後には一番列車が門司駅(現在の門司港駅)を発車。このとき以来、門司は九州の鉄道の起点となったゆえ、九州の鉄道起点を示す0哩(マイル)標が置かれたんだと。今日はこれに乗って、小倉の先まで。 鹿児島本線の車内はこんな。 外も赤だけど、車内も赤。関東の方とも畿内あたりともまた違ってて、別の土地に来てるんだな~って感じる。どうせ小倉まで行くんだから、小倉城とか見に行っちゃおうかな~ともちょっと思ったけど、それじゃあんまりだから、今回はお目当てだけにしておく。これにひたすら乗ってれば、島津さんちにも着くんだよな~なんて思いも頭をよぎるけど。さて、降りたのは「スペースワールド駅」。駅を出ると、いきなりロケットが出迎えてくれる。友達に写メを送ろうとケータイで撮ったけど、写真消しちゃったみたいで残ってません。すいません。今日観に来たのはこれ。 そう、私の大好きな、大内さんちの企画展「今度戦国ものの企画やるんで、大内さんも参加しませんか?」じゃなくて、「大内さんの企画をやらせて頂きますので!!」なんだよ~!地元ならではの企画でしょ~ファンの私が言うのもなんだけど、東京じゃあり得ないもんね。集客数の関係で(笑)。西国一の大大名なのに、ちょっこし滅亡するのが早かったがために、マイナー武将と言われて幾星霜・・・後々アップしますが、去年の夏に山口市に行った時、さすがに「私達の殿様」って感じで大内氏に詳しい人はそれなりにいたけど、その人達にさえ、「県外で大内氏が好きな人なんて、珍しいですね」と言われたくらいだし博物館様のサイトには、会期前から展示品のリストが公開されてて、それはそれは(私にとっては)素晴らしい品の数々。これを観に行かない手はないってことで、一旦決まった計画を急遽練り直し、門司の山城と教経様の奥様の墓参りをカットしてねじ込んだ(笑)。まあ、図録の写真を転載する訳にもいかないし、ほとんどの人が知らないであろう品について感想をつらつら書いても仕方ないので(できるだけ)簡単な紹介だけにとどめますが。ほぼ開館と同時に入ったので、まだ人は少ない。今回の展示品は、全85点。うち19点が入れ替えのため、私が観たのは66点。企画展示室内は撮影禁止。この中に、重文16点、県指定文化財12点、市指定文化財5点が含まれる。国立・県立博物館の他、大内氏に詳しい人ならたぶん知ってるであろう、洞春寺・乗福寺・龍福寺・築山神社・興隆寺・長門住吉神社、それから毛利博物館などからの出品もあった。これらのお寺はほぼ全部行ったけど、所蔵してるからって観られる訳じゃないしね。中にはよそに寄託してる場合もあるし。そんな品々が一堂に会する、とても幸せな企画展でした。この企画展を知ったのは、ホントのホントにたまたまで、これのために下関行きを決めた訳じゃないし、マジでラッキーだったと思う。夏の山口市の時は、悪天候とかもあって行かれないところもいくつもあったんだけど、充分取り返したってカンジでは、貴重な品々の中からちょっとだけ展示品をご紹介。まず、洞春寺(山口市)所蔵の大内義弘坐像と大内盛見坐像があった。盛見さんは義弘さんの弟で、私の好きな武将なんだけど、やっと会えた~それから、和布刈神社と甲宗八幡神社に残る書状もここで見られた。会期も後の方になると、蒔絵の美しい箱なんかも展示されるんだけど、それよりは書状とかの方が私は観たいので、これもラッキーだったな。初公開の品もあった。大内氏は、義弘さん(1356-1400)の頃から百済の聖明王の第3王子である琳聖太子(りんしょうたいし)の後裔を称するようになった。琳聖太子が日本に渡り、周防の多々良(たたら)浜に着岸したことから「多々良」と名乗り、のち大内村に居住したことから大内を名字としたというもの。その琳聖太子像が今回初めての公開ということだった。像を所蔵する乗福寺(山口市)には、琳聖太子のお墓もある。 ちなみに乗福寺の土塀は現在はこんなんなっちゃってて、寺社経営も大変だよね 大内氏と海は切っても切り離せませんが、大内氏と直接的な関連はないものの、今回は特別公開として倭寇ものがあった。「倭寇図巻」は東京大学史料編纂所の所蔵で、倭寇のイメージを描いた唯一の資料とされているらしいけど、最近になって、中国国家博物館にもそれとよく似た「抗倭図巻」というものがあることが判明したそうな。 【画面構成がほぼ同様であるばかりでなく、図柄の趣向も類似点が多く、 互いに密接な関係にあると推定されたため、中国国家博物館と東京大学史料編纂所は 2010年、覚書を締結し、両絵巻についての共同研究を開始した。 この際、中国国家博物館から贈られたのが本複製である。】 (「大内文化と北九州」図録より)ということで、「倭寇図巻」と中国から贈られた「抗倭図巻」の複製が飾られてた。朝鮮通信使のところで少し宗氏について書いたけど、彼らも結構悪いことしてるみたいだし(笑)、倭寇も面白そうだな・・・ってちょっと興味が湧いてきた。にほんブログ村
2012年03月07日

門司港駅を通過して向かったのは、「門司港出征の碑」。 【ご存じですか、先の大戦中、ここ門司1号岸壁から200万人を超す将兵が、 はるか南方の戦線に、あるいは大陸の戦地へと赴いたことを・・・ そして半数の100万人の将兵は、生きて再び故国の地を踏むことが 出来なかったことも・・・ 門司港の山河を日本最期の風景としてその目に焼きつけ、 遠く離れた戦線に向かった多くの将兵を偲び、恒久平和を願う不戦の誓いを込めて、 ここに「門司港出征の碑」を建設しました。 近代日本黎明期から、門司港の発展にこの港湾が重要な役割を果たしてきましたが、 この碑が忘れてはならない歴史の語り部となりますように・・・】 (現地碑文より)そして、往時ここで見られた見送りの光景の写真も掲載されていた。 【門司港岸壁で出征兵士を送る光景 戦争が激化してくると輸送船団の出向は軍の機密事項となり、 このような光景は次第に見られなくなった。】(解説より)このすぐ近くにあるのが、「出征軍馬の水飲み場」。 【昭和6年の満州事変勃発から第二次世界大戦にかけて、日本全国の農村から 多くの農耕馬が軍馬として徴発され、この門司港から軍用船で戦地に渡りました。 その数、百万頭に及ぶといわれています。 そして、馬は、再び故国の地を踏むことはありませんでした。 このため、馬にとって最後のお別れの水を飲んだところとなってしまったのが この水飲み場です。当時は西海岸通り周辺に数ヵ所あったといわれていますが、 今は一つだけが残っています。 港町・門司の歴史を後世に伝えていくとともに、平和の尊さを忘れないよう、 ここに保有するものです。】 (現地解説板より)門司港駅周辺は「門司港レトロ」として街も人も華やかだけど、人が多く通る場所からそう離れていないのに、この2つの碑が立つ場所は静か。せいぜい、たまたま通りかかった観光客の一部が、「なあに、これ?」ってちょっと足を止める程度。私のように、わざわざこれを見に来る人もそういないでしょう。だけど、広く知られていなくても、これはまぎれもなくここであった出来事。それも、そう遠くない過去の。感想なんかは書けませんよ。ヘロヘロになりながらもここに来たという心情を汲んでくだされ。心情って言っても、ロマンに浸るとかじゃないからね。なにしろ、時代が近すぎて・・・私の大おじさんにあたる人も、沖縄で亡くなってるし。大おじさんが踏んだ本州最後の地ってどこだったんだろう・・・うしっ、これで本日の行動終了~!まあ、色々あったけど、頑張ったよなあ。帰りは、船で。赤間ヶ関を渡るには、いくつかのルートがある。早鞆の瀬戸にかかる関門橋(高速道路)、その下の海底に人道と車道に分かれてる国道トンネル。下関駅から電車で。フェリーもある。これから乗るのは、門司港と唐戸を結ぶ関門連絡船。 この小さな船で赤間の海に乗り出すのも、楽しみだったんだ~。流れの速い海で、どのくらい揺れるんだろう?って(←バカ)。ここの航路は古くから用いられているけど、室町の頃には多くの人や物が往来する中で、船賃をぼったくりする不届き者も現れ、時の支配者である大内氏のもとにはクレームが相次いだ。そこで当主・政弘さんが公式に定めた船賃が、「大内家壁書」として伝えられている。 【赤間関・小倉・門司・赤坂のわたりちん(渡賃)の事 一、せき(関)こくら(小倉)とのあひた(間) 三文 一、せきともし(門司)とのあひた 壱文 一、せきとあかさか(赤坂)とのあひた 弐文 一、よろいからひつ(鎧空櫃) 十五文 一、なかからひつ(長空櫃) おなし(同) 一、むま(馬)一ひき(匹) おなし(同) 一、こし(輿)一ちゃう(丁) おなし(同) 一、いぬ(犬)一ひき 十文 以上八ヶ条 文明19年(1487)4月20日】人が1~3文、馬が15文で犬が10文って、なんか価値観おかしくね?さて、現代の連絡船の定員は最大91名(客数は89)。へえ、ぱっと見大きくないのに、結構乗れるんだ~。待合室には結構人がいたので、初めてだったし全員乗れるのかな~と思ったけど、余裕だった。窓際に陣取って、ひたすら海を眺める。千葉に住んでるって言っても、うちは内陸の方だし、海とか船とか無縁の生活なので、船に乗るってだけで楽しい定刻を迎え、波しぶきを上げて船が進んでいく。思ったほど揺れるって感じではなかったけど、結構しぶきは上がってた。対岸の唐戸桟橋までは約5分。あっとゆー間に着いちゃう。今日もカモンワーフで食糧調達。今日は「ふくバーガー」。おいしかったけどね、やっぱり淡泊だから、何も知らないで食べれば、普通のフィッシュバーガー(笑)。本日の歩数は、なんと33,920歩。目を疑ったね。旅先で歩数を測り始めてから、歴代2位の記録。歩数も多いけど、今日はアップダウンがあったからな~。疲れるハズだわ・・・さて、今日も旅のツイートはしてないので、私が下関に来ているのを知ってるツイッターのフォロワーさんは、2~3人。いつもなら、夜はフォロワーさんへの返信とかに忙しかったりするんだけど、この日もごくわずかの人とのやりとりのみ。なんかな~、こーゆー静かな時間もいいけど、やっぱりさみしい。去年の年末頃から、何度もツイッターやめようかな~と腐ってばっかりだったけど、もう生活の一部になっちゃってるしな~。自由にツイートできない状況になってはじめてツイッターの良さをかみしめた、そんな夜でした。あ、と・・・それからこの日は、大河ドラマの初日。平家ゆかりの地で大河の初日を観るのをすごい楽しみにしてたのに、ツッコミどころが多すぎて疲れた(笑)。去年の「江」も、信長様のおひざもと、小牧で初日を迎えて、戦国ドラマだから楽しみにしてたのに、結局その次の回で挫折したし・・・今年もどうやら、見続けられそうにないにほんブログ村にほんブログ村
2012年03月06日

最初に迎えてくれたおじさんは、遠方からの来訪者が嬉しかったらしく、「どうぞ参拝してって下さい」と勧めてくれた。どこまでも善良そうなおじさんが案内してくれた、拝殿らしき建物の中には、イベント後の打ち上げで酒盛りしてハイになってる数人のおじさん達がいた。 うう、これじゃ酔っ払いに参拝することになってしまふ・・・と、さりげなくスルーして裏手の本殿へ回ってみる。 申し訳ないけど、ここから参拝させてもらおうかな~と思ってたら、本殿の脇の妙な物体に目が行った。 たしか、日露戦争の後に持って帰ってきたものだと説明してくれたような・・・詳しいことは氏子さん達も知らないらしく、この砲弾の台座の石には由来のようなものが刻まれてたので、後でじっくり読もうと思って写真だけ撮っておいた。けど、 【明治廿七八年戦役ニ於テ ○軍ノ為ニ破壊】この後は所々文字が磨耗して、もう読めない。ところが、これを全文読み下してる方がいるのを見つけた(笑)。マニア・・・いえ、ファンの方ってすごいわ。それによると、 【明治廿七八年戦役ニ於テ 我軍ノ為ニ破壊サレタル 威海衛砲塁団ニ設ケアリシ 廿四珊●米突海岸砲ニ使用セル砲弾ニシテ 紀念ノ為メ当地取寄セタルモノ也 門司町 清瀧中】って刻んであるらしい。で、砲弾に気を取られてる間に、拝殿からの参拝をまた勧められてしまった。あんなとこで参拝したくないんだけど、困ったな・・・しかし拝殿の戸をあけて、最初のおじさんが私を紹介してくれると、「おお、どーぞどーぞ!!」と言って酔っ払い・・・もとい、氏子さん達が心持ち場所を空けてくれたので、そこで参拝。境内の左側には、上に続く道があったのでのぞいてみたけど、最初のおじさんいわく、行き止まりとのこと。境内の手前の方には、礎石らしきものがあった。 なんでも昭和30何年だかに大雨による山崩れ(か、地滑り)があって、社殿も全部押し流されたとかって話で・・・アレ?確か30年代頃って言った気がするけど、もしかしたら知盛さんが筆立山を降りるきっかけになったのと同じ災害かな?なんてちょっと思った。だけど、大手と目される地形が残ってるって書いてあったけど、山崩れの後でも原型は留めてるのかな?私は気になったことは自分で試したりしないと気が済まないタチなので、境内付近の地形とかゆっくり見て回りたかった。けど、この日は色々見るにはちとタイミングが悪かった。たぶん、普段は誰もいない静かな神社なんでしょうけど・・・最初のおじさんは(あくまで善意から)私のことを放っておけないらしく、これ以上はもう見てられないな・・・と思ったので、そこで失礼させて頂くことにした。教えてもらった通り、清滝公園(場所はこちら)を目指す。疲れた体に急な登り道・・・きついけど、とにかく着ければ文句はない。清滝公園の先にある白龍大明神様にも、無事辿り着けますよーにと手をあわせて。 途中まで来て、どうも道に不安を覚えた。登山口には案内板はないらしいんだけど、そこの写真は持ってた。でも、歩けど歩けどその場所は出てこない。すでに16:30近いし、滅茶苦茶疲れたし、よくわかってないまま山道へ突入するのは危険だと判断し、三角山城も断念。まさか、2つ続けて失敗するなんて~!!帰る途中に撮った三角山はこんな↓。 眼の前に山があるのに登れないってのも、ツラいもんだ。宿に帰ってから、持ってくのを忘れた資料を確認したら、清滝公園よりさらに上にある「上清滝公園」から入るってちゃんと書いてあった!!資料さえちゃんと持ってっていたら、三角山城は行けたのだ・・・みなさん、お出かけの際は、くれぐれも忘れ物には注意しましょうね※「赤間ヶ関編(38)」の途中へと続きます。にほんブログ村
2012年03月05日

三角山城<福岡県北九州市門司区大字門司>(住所をクリックするとMapfan Webにリンクします)※「東明寺城」からの続きです。 こちらも東明寺城と同じく、攻略できませんでしたのでご了承の上お読み下さい。 【門司区清滝と丸山地区にまたがる三角山(みすみやま)山頂にあり。 東西三十二米南北三十二米の円形平地を本丸として北・東・南に帯曲輪を配し、 搦手に当る南側に出丸、北側大手に出丸とその麓に居屋敷(門司郷房在所か)を 配置する。 清滝の清年神社が大手と目される。三角山は民有地にして山上に毘沙門天を祀る。】 (『門司・小倉の古城史(改訂 企救郡古城址取調簿)』八木田謙/著より。 読み仮名は戦国ジジイが追加)文献には、「応永戦覧」や「門司文書」「後太平記」などに記載があるという。「応永戦覧」については、『門司・小倉の古城史』には次のような解説があった。 【「応永戦覧」は元禄10年(1697)小倉藩士 天野義重が編纂して藩主に奉献したもので ある。現在その資料としての信憑性に疑問が持たれているが、全面否定すべきでは ないと考える。】『門司・小倉の古城史』には、東明寺城も三角山城もそれぞれ数ページにわたって、どこの文献にどんな記述があるとか色々書いてあったんだけど、何しろコピーじゃなくて手書きで写してますのでね。もっと沢山写しておけばよかったと悔やまれるけど、そんなに時間もかけてられなかったし築城年代については、はっきりとはわかってないみたい。南北朝時代に築かれたとも言われているが、『門司・小倉の古城史』には 【応永六年(1399)年大友氏鑑の反乱を鎮圧した(大内)盛見は、門司弥三郎に 三角・金山の城を与えたとある<応永戦覧>】(カッコ内は戦国ジジイが追加)とあるので、少なくとも盛見の時代にはあったと考えていいのかな。盛見(もりみ。もりはる、とも)さんは大内義弘さんの弟で、足利義満の頃の方です。門司城の解説板には 【(下総)親房の子孫は地名により門司氏を称し、門司城を本城に 領内に足立・吉志・若王子・三角山・金山の5支城を構えてそれぞれ一族が 配置された。】と書いてあったから、後に門司氏の城となり門司城の支城として機能したという点ははっきりしてるみたいだけどね。例のソーリンと毛利との永禄の門司城バトルでは、大友軍が三角山城を包囲したものの、また内通者作戦を逆手に取られて敗走したという話もあれば、ここから大友軍が門司城に向けて攻撃したとする話もあるし、『門司・小倉の古城史』には 【永禄四年の門司合戦で毛利方が三角山城から攻撃していると考えられる】との記述もある。なんにせよ、ここも永禄のバトルの舞台だ~!(←またもや大ざっぱ)まあ、道雪がどこに陣をおいたかまではちょっとわからないけど、もし三角山に置いてたとしたら、1万5千の大軍でしょ~。門司城とはそんなに離れてないし、結構その辺りから北は、両軍の兵で埋め尽くされてたって感じだったのかな~。標高194mの9合目から山頂にかけて4段の郭が築かれ、主郭には帯郭がめぐる。その他、登山路の両側に3本の竪堀状の溝があるという。ここは、東明寺城より心配してなかったんだ。ところが、資料の該当ページをごっそり宿に置いてくるという、致命的なミスを犯した。しかも、東明寺城の失敗の後だったので、地図を見て登り口がありそうな場所を近い順に攻めていくことにした。 右側が三角山。その名の通り、綺麗な三角形。まず行ったのは丸山東公園(場所はこちら)。全然違って、公園内のふただけ撮って退散(笑)。公園内で遊んでる親子から見たら、ものすごい不審者に映ったと思う。 そういえば、清年神社がどーのって読んだよな・・・と思って、神社へ向かう(場所はこちら) なんか賑やかだな~と思ったら、「どんど焼き」の日だったらしい。「もうちょっと早く来てれば・・・」と迎えたおじさんが残念そうに言ってくれて、イベントに参加した子供達に配ったらしいお菓子をくれた。 「どんど焼き」は昨日からあちこちのポスターで見かけてたんだけど、あらためて「どんど焼きってなんですか?」って聞いてみたら、お正月のお飾りや注連縄、書き初めなどの一連の正月グッズを燃やして、その火で焼いた鏡餅を食べると1年健康に過ごせるということらしい。地元の年寄りなら知ってるかなと思って、「ここはお城の一部って聞いたんですけど・・・」って尋ねてみたけど、残念ながらおじさんは知らなかったらしい。けど、清滝神社の方から登ると教えてくれた。あ、よかった、なんとかなりそう・・・にほんブログ村
2012年03月04日

東明寺城<北九州市門司区東門司2丁目 >※「赤間ヶ関編(38)」からの続きです。はじめにお断りしておきますが、城跡へは辿りつけませんでした。しかし、とにかく事前にネットで得られる情報が少なかったので、次に行かれる方の参考になることがあるかもしれないし、これも旅の記録のひとつなので、あえて城の記事として書いておきます。東明寺城(とうみょうじじょう)は、永禄2年(1559)大友氏が門司城攻めの向城として築いたものといわれ、門司城攻略後はその出城となったという。またその一方で、大友氏の侵攻に対抗する為に門司城主・仁保帯刀の端城として大内氏が築いたという説もある。あまり詳しいことはわかってないみたいだけど、どっちにせよ、門司城のところで書いた、ソーリンの門司城攻めに絡んでの築城ってカンジ?(←大ざっぱ)門司図書館で調べた本には次のように書いてあった。 【旧門司小学校と旧左司小学校にまたがる東明寺山の山頂にあり。 東西十五米南北十八米あって周りに腰曲輪を配し、北に二の曲輪、三の曲輪と 梯郭式の縄張りで、中世の掻き上げ城の遺構をよく留めている。 この地は、旧門司小学校の林間公園と市の公園になっており、大手跡と思われる 公園入口から等妙寺の参道が山頂に通じ、参道横に僧坊跡と思われる 平地が残っている。】 (『門司・小倉の古城史(改訂 企救郡古城址取調簿)』八木田謙/著より) 掻き上げ(揚げ)城とは、文字通り土をかきあげてお手軽に作り上げた城。さて、ケータイのナビウォークに従って、まず目指したのは東明寺(地図はこちら)。 そんなに大きなお寺じゃない。山からもちょっと離れてるし、やっぱりここは違ったか・・・どの山が城跡かはわかってるんだけどね、登り口がはっきりわからないんだよな~。ところで東明寺さんのホームページには、次のように由緒が書いてある。 【その昔、当山は戦国時代から天台宗東明寺として広大なる境内地を有し、 大伽藍の完備した寺院があったという。古い文献にもその名前は登場し、 かなり大きな寺であったらしい。しかし、いつの頃か焼失遂には廃寺となり、 その名を留めるだけであった。 史料にも「東明ヶ丘」「東明寺城」等の名が見られる。(後略)】どうやら、往時の東明寺はこことは違う場所にあったらしい。先述の『門司・小倉の古城史』にも、 【正任記・・・文明10年(1478)応仁の乱から帰った(大内)政弘は豊前・筑前の 少弐勢を追討。門司等妙寺と門司宝寿寺は両国平定の祝儀を政弘に送っている。 東明寺は楠原系門司氏の菩提寺として存在したと考えられる。】 (カッコ内は戦国ジジイが追加)とある。等妙寺は東明寺のことだよね。門司氏の菩提寺の可能性もあるということだし、やっぱり大きな寺院だったんだ。門司氏が戦国大名として存続してたら、東明寺の運命ももう少し違っていたものだったかも・・・しかし、しみじみしてる場合じゃない。『門司・小倉の古城史』に小学校がどーのと書いてあったので、この近くの小学校(場所はこちら)に行ってみることにする。東明寺を出ると、お寺の外側にはこんなお地蔵様?と坊様の像があった。 あ~、いるよね~、こーゆー顔の人って・・・妙なリアルさに、思わず写真を撮ってしまうワタシ。小学校の先には上に上がっていく道があったので登ってみるけど、そのうち「李鴻章通」をもしのぐような細道になっていったので、不安になって途中で諦めた。 でも帰って他の地図を見てたら、もうちょっとで大手にあたる公園入口に辿りつけたみたい。惜しかったなあ~!※Mapionの地図に載ってる竜門町公園のリンクはこちら。主郭は頂部にあって、その西下に二の丸、二の丸の北下に三の丸。そして本丸の西側には二の丸に通じる道が残っているという。山頂には妙見堂があったが、戦時中に荒廃してしまったらしい。公園や市街地整備の際にかなりの遺構が破壊されてしまったようで、先人の記録を見るとほとんど遺構は残っていないといっていい位な感じかも。ひとまずまだ諦めない私は、山を1/4ほど回り込んだ地点まで移動。元々はこちらが本命だった。途中にあったお寺は「東明山大雄寺」(場所はこちら)。 いちおう中に入ってみるけど、山に通じそうな道はない。大雄寺を出て歩き出すと、こんな感じの山道。 上がりきったところにあるのが大師寺(場所は こちら )。 事前の段階で、なんとなくここから登るのかと思ってたのでウロウロしてみるけど、山に行く道はない。相当疲れたし、まだ次があるので、残念だけど仕方ない。東明寺城は今回は諦め!いや~、山登りしてた頃から「イナカを甘く見てはいかん」と思ってたのでそれなりに準備はしたつもりだったけど、やっぱり甘かったな。この後行く三角山城もそうだけど、今まで行った城の中で最も情報の少ない城だったので、地方の超マイナーな山城に行くのは考えものかな・・・とも思った。でも振り返ってみると、まだまだ準備に改善すべき点があることがわかった。登城に失敗したのは初めてだったけど、まあいい経験をしたと今は思います。※「三角山城」の記事へと続きます。にほんブログ村
2012年03月03日

さ~てと、問題はここからなのだ。ある程度のあたりはつけてるけど、なにしろ情報が少なくて・・・とりあえず、老松公園へ行って一旦休憩しようかな。大通りを歩いてると、正面に綺麗な形の山が見えた。たぶん、あれが今日最後の方で行くスポットじゃないかな・・・そろそろ昼時だし、今日は門司港名物、焼きカレーを食べたいんだけど。 焼きカレーを食べられそうなお店もないまま、老松公園に着く。座ってお菓子を食べながら資料を取りだすけど、これから行くところのページが一部欠けていた。やべ~!!たぶん、ここから入るんじゃないかって場所はあるんだけど、ちょっと不安になってきた。そこでケータイのナビウォークで検索してみたら、全然想定と違う場所がヒットした。えええ~?ここお~!?どうしようか迷うけど、老松公園からはそちらの方が近いので、そっちから攻めることにする。関係ないけど、老松公園にはこんな噴水があるんですよ。 1人隠れちゃって見えないけど、4人いるの。小僧が。1人じゃダメだったんですか~?(笑)しょんべん小僧には幼児虐待とかの疑いもあるけど、さすがに4人もいるとねえ・・・って、写真を撮る私も私か。公園内を抜けて行こうとしたら、奥に図書館があった。地元ならではの資料があるかもしれないな、と思って、ちょっと寄ってく。思った通り、『門司・小倉の古城史』なんて本があったので、必要な箇所だけ情報を頂いた。情報と言っても、古い真面目な本だし、アクセスなんかは書いてなかったけど。で、「東明寺城」「三角山城」へと続きます。城についてはカテゴリーを別にしてあるので、そちらをご覧ください(近日公開予定)。門司港駅めざして、下山開始。山の中には、ラブホがあった。 史跡の旅してて、「え~、ここに作っちゃう~!?」ってラブホは結構ある。ここのは海峡ビューがウリらしい。けど、ゆったりビューを楽しむ人っていないんじゃないかな・・・と一人笑いをこらえながら撮影。このあたりからはこんな眺め。 下っていくと清滝神社のところまで出たので、せっかくだから寄ってく。 そんなに大きな境内ってわけじゃない。ちょろっと見て別の方から出ようとしたら、こんな解説があった。 【水の落ちる二丈余、白糸を引くが如し。水勢少なけれど、いと清浄なり。 依りて清滝と云ふ。此の水に頭をうたすれば、頭痛、めまい立所に治るとて、 春秋の頃は参詣人多し。滝の下に小社あり。清滝神社と云ふ。(企救郡誌) 大むかし-かすかに塩たく煙に、やっと人の住むところかと、わかる- そんな門司の、ここは楠原村(現在の門司港地区)清滝です。巨木がうっそうと 繁茂する風師山のふもと、清浄なお滝が、年中糸をひいて落ちる。さとびとは お山、お滝を神として、しあわせを祈ってきました。 別名、滝の宮、この水で目を洗うと、効き目があるといわれ。「お滝のもらい水」 といって、竹筒に汲み帰る風習があり、長州や筑前の遠くからも詣る人も多かった。 さらに潮流の早い関門海峡、海の難所も前にしていることや、門司関を起点とする 大宰府街道の要路上にあることもあって、「滝の宮」に貴布祢社、稲荷社、 道祖神をお迎えして、身体健康、家内安全、海陸交通安全、商売繁昌、 五穀豊じょうを願って、おまつりが継承されている由緒あるお宮です。 門司倶楽部から区役所へ出る道は、旧「大宰府街道」 清滝公園は、北九州市の公立公園第一号(大正5年開園) 三角山は、門司本城の支城。この近くに「中屋敷」「馬之丞屋敷」などの 古い地名があります。】 (清滝貴布祢神社奉賛会の解説板より)門司倶楽部も区役所もこのすぐ近く。へええ~、大宰府街道かあ~。でもこの時は、そんな方へ回り道してる体力的余裕はなく水もね、いちおう境内を流れてはいたけど・・・解説がなければ、そんな歴史を持つ神社だなんてちょっとわからない(すいません)。けど、地名にはその名をとどめて、土地は歴史を記憶しているんだね。疲労感でいっぱいの体を引きずるように、門司港駅へ向かう。 大正3年旧門司駅として開業。左右対称の駅舎はネオ・ルネッサンス様式の木造建築で、昭和63年に鉄道駅舎では初の国の重要文化財に指定されたとある。駅の反対側からはミニSLなんか置いてあって、「鉄」の親子が楽しそうに遊んでいた。門司港駅周辺は、明治・大正頃の建物なんかもあって、一般の観光客には人気のスポット。オシャレなお店や小奇麗な若者も多い。そんな中を普通の観光客が立ち寄る場所には寄りもせず、今日最後のスポットへと向かう。一刻も早く帰りたいのだけど、明日はここは乗り継ぐだけだから、今日見ておくと後が楽だしな・・・で、駅前を通過しようとしたら、妙なオブジェみたいのが目に入ったので近づく。 レトロがウリの駅前に、またこんな前衛的な像を作っちゃってえ~!と思ったら、なんと和布刈神事の像だったので驚いた(笑)。ワカメを刈る人、手桶を持つ人、松明でかざす人、のセットだ!!まあまあ、早とちりしちゃってごめんなさいねえ~にほんブログ村にほんブログ村
2012年03月02日

社殿の両脇には、こんな立派な楼門もある。 上に鐘みたいのが透けて見えるから、こちらは鐘楼かな?う~ん、美しい・・・ むかって右側の鐘楼の下には、これまた小さな鳥居があった。 鳥居は2つ。この写真の方は、 【当神社御鎮座1150年大祭における境内整備事業に多大なる貢献を頂いた ○○氏が、老若男女問わず参拝者の方にこの鳥居をくぐり益々元気に なってもらいたいと奉納されました。】 で、もう1つは、 【当神社にて度々日本舞踊をご奉納頂いた○○○○様が御鎮座1150年大祭を記念して、 ご家族でご奉納されました。芸能の道を志す方に是非通って頂きたいものです。】と貼り紙に書いてある。鳥居を・・・通る!?この小さい中を?いやいや、無理だから~!!胎内くぐりどころじゃない小ささだから~!!面白いなあ、ホント。でもなあ、下にわざわざすのこが敷いてあるし、ホントに通る人もいるのかもしれないな。なんにしても、他人様のために鳥居を奉納しちゃうなんて、すごいことだ・・・さてと、私がこの神社に来たのは、大内氏とのゆかりもあるけど、もう1つ目的があったからなのだ。それが、これ。 今も対岸のみもすそ川公園でイカリをしょってる(笑)、平知盛さんの墓といわれるものです。真ん前までは行かれません。遠くから見るだけ。もとは筆立山の山中にあったそうなんだけど、昭和28年の大水害の時に拝殿の裏に落ちて・・・いや、降りてこられたらしい。筆立山はたぶん八幡宮の背後の山のことで、後から知ったんだけど、なんと門司城の筆立山(八幡)曲輪があったところらしく、山頂には3段の郭があり、神社側の斜面には多くの切岸があるんだとか。ああっ、先に知ってれば登ったのに・・・!!で、知盛さんは下山した後、一旦は社務所の裏手におられたらしいんだけど、最近になって社殿の脇の現在地に移された模様。なんで筆立山に墓があったのか、それはわかりません。たぶん、生存説によるものじゃないかと思うものの、ちょっと壇ノ浦から近すぎね!?って感じはするけどね~。知盛さんにも、生存説があるんですよ。平家随一の知将だしね。伊勢とか、久留米にも知盛さんのものといわれる墓がある。とある言い伝えによると、甲宗八幡宮の近くでは、お盆になるとちょうちんが山の上に登っていくんだって。これを「知盛ちょうちん」といい、知盛さんの霊が山へ水を汲みに行くと言われておるのだそうです。いつの頃の話なのかもわからないけどね。知盛さんの墓に遠くから手を合わせて、これにてここは終了~!今度は正面から降りる。正面はこんな立派だった。 写真には写ってないけど、鳥居の左側に大きな自然石があってね、ここにも注連縄がかかってた。ああ、なんかやたら注連縄が気になる・・・解説板を置いてくださ~い!!鳥居の右手には、甲宗八幡神社ゆかりの文化財の解説板があって、前回書いた甲宗八幡文書の解説もここにあったもの。この解説板には、こんな文書の写真も表示されている。 建武3年、源朝臣・・・義経の花押とは違うみたいだから、範頼のかな?<追記>この記事を公開した後に、範頼じゃなくて足利尊氏じゃないかと、ツイッターのフォロワーさんから教えていただきました。そうか、「建武」を「建久」と勘違いしてたんだ、私(笑)。なるほどね~!他に、市の指定無形民俗文化財「楠原踊(くすばるおどり)」についての解説があった。 【門司港地区に古くから伝わる雨乞い踊りであり、この地の産神として崇敬された 甲宗八幡神社に奉納されてきたものです。 この踊りは本来地謡(じうたい)と狂言を交互に行うという珍しいものですが、 明治時代に狂言は廃絶しています。16世紀初頭の永正年間、甲宗八幡神社の宮司が 時の守護大名大内氏に従って上洛したおりに公卿に教えを乞い、それを 雨乞い踊りに取り入れたものと伝えられます。踊りの所作は仕舞に似て 優雅で中世芸能のなごりをとどめており、市内の民俗芸能史のうえからも 貴重なものです。】 (北九州市教育委員会による解説板より)へ~え、見てみたいな・・・「くすはら」じゃなくて、「くすばる」なんだね。まあ、確かにここは九州だけどさ・・・昔はこのあたりは楠原郷と呼ばれていたそうで、そこからついた名前なんだって。記録では1862年に雨乞いで踊られたことが残っているらしいけど、江戸の末期かもしくは明治ころから途絶えちゃってた。それを、昭和31年に保存会が結成されて、昭和36年から保存会会員による甲宗八幡神社秋季大祭での奉納が行われるようになったと。古いものを復活させようとするには色々大変なこともあるでしょうに、すごいもんだな~と素直に思う。にほんブログ村にほんブログ村
2012年03月01日
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