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展望台から子供たちについて降りていくと、やっぱり登りの時に休憩したところに出た。さてと、これからどうしよう・・・与次兵衛さんのところまで戻れば確実だけど、次に行くところまではかなり大回りになっちゃうし・・・手持ちの地図を見ると、通行止めの道を下っていけそうなんだけど、本当に抜けられるかどうかわからないしなあ・・・とりあえず行ってみて、ダメそうだったら早めに引き返そうと思って、通行止めの車道を降りていくことにした。歩いてみると普通の道で、なんで通行止めになってるんだろう?と思ったけど、とりあえず確実に車は来ないハズなので、地図で現在地を確認しつつ、のんびり下る。車道が切れたところは進んでいいのか怪しまれる道だったけど、なんとか進めるみたい。ここにある大きな建物はトンネルの換気の設備らしく、辺りには誰もいなかったけど、門の隙間から建物を覗いた目に入ったのは、 て表札だった。ここは古城山だから、単に地名を付けただけなんでしょうけど、城好きには「かっちょええ名前じゃの~」って映るから不思議(笑)。この建物の正面に階段があって、ここを降りると住宅地に出る(現在地はここ)。よしよしっこの辺の自作の地図はかなり詳細だから、このまま行けそうだ。しかしこの辺、古い町だけあってかなり細い道。人んちの玄関先をビクビクしながら歩いていくと、だんだん道が広くなってきた。ここにあったふたはこんなの。 これもどんぐり柄だけど、和布刈神社の近くで見たのとはビミョーにデザインが違う。次に目指すのは、甲宗八幡神社。地図を見ると近い距離に2つあって、なんだかよくわからない。とりあえず一旦大通りへ出て、地図を見ながら進む・・・けど、脇から入る形になっちゃった。いちおう参道って書いてあるしな、まあいっか~と入ろうとして古城山を見上げると、パゴダが遠くに見えた。 ああ、あれかあ~。パゴダは昭和32年に、ビルマ政府仏教会と旧門司市の合意により、戦没者の供養と世界平和を祈念して建てられた、とあって、めかり山荘の八大龍王神の先を行くとあるみたいなんだけど、ちょっと遠そうだったから寄るのやめたんだよね。ミャンマーのお坊さんがいる、日本で唯一の寺院らしい。で、甲宗八幡神社の境内へ。思ってたより立派な神社。 この社殿の向かい、撮影位置より後ろに石段があるんだけど、石段の両脇に立つ灯籠を見て、思わず吸い寄せられるように近寄った。 これ、胴の部分が木だ・・・こんなの、見たことない(たぶん)。そして参拝。の後、拝殿の中をじろじろ覗きこむのもお約束。 ここのご祭神は・応神天皇・神功皇后など。下関と門司の神社には、このお三方を祀った神社が多い。時に仲哀天皇が入ってないケースもあるけど。八幡様は応神天皇のことだから、ここの主祭神が応神天皇なのは当たり前の話。貞観2(860)年の創建といわれているが、社伝によれば、奈良中期に京都の石清水八幡宮建立のため宇佐八幡宮から神霊を神輿に奉じて移すとき、この丘の上に安置したのに始まるという。あ、これって亀山八幡宮の由来と同じだ・・・てことは、宇佐の八幡様は、目的地に辿り着くまでの間も精力的に分社をお作りになられてたってことか。港々に女を作る船乗りみたいだな(不謹慎?)。ただ、亀山八幡宮の方の創建は859年ていうから、絶対門司→下関ルートを通ってるでしょ?ってことを考えると、「んん!?」って疑問がわく。他に、宇佐神宮にあった、神功皇后が着用した甲(かぶと)をご神体として、西門鎮護の要である門司港に近い筆立山の麓に祀ったのに始まるという説もある。なんにしても、ご神体は兜。この兜は公開される・・・が、50年に1度の大祭の日のみ。前回の公開は2008年だったそうだから、次のお目見えは2058年。・・・無理だな(笑)。壇ノ浦の合戦では八幡宮も被害をこうむったらしく、戦後に源範頼・義経の兄弟が修繕したとある。大内・毛利・細川・小笠原など時の支配者の崇敬も篤く、祈願社でもあった。社宝として、ご神体の兜、上記武将や足利尊氏らの書状(=甲宗八幡神社文書)などがある。この甲宗八幡神社文書の中には、門司八幡宮(甲宗八幡神社の旧名)の大宮司が神社や社領の由緒を記した証文を提出し、以後も大宮司でいられるよう申請したことに対し、身分を安堵した大内義興の書状がある。書状の出された永正17(1520)年は、寺社の領地や免田の確定をするために大内氏による豊前国内の寺社の調査が行われていた年。今でこの風格だから、当時はもっとすごかったんじゃないかと思うんだけど、それでもこういった申請書が必要だったなんてね。大内氏に限らず、領地を保証した安堵状はあちこちに沢山残されてるけど、支配者が変わるって、大変なことなんだなあ~って改めて思った。「甲宗八幡神社文書」については、神社の入口にも解説があった。 【甲宗八幡神社に伝来した中世文書です。これらの文書から中世における 同社の社領、納物などの内容を知ることができ、また当時この地を支配していた 大内氏の崇敬被護を受けていたことを読み取ることができます。 なかでも「門司関六ヶ郷総田数注文写」は文永9年(1272)に作成された 土地台帳で、鎌倉時代の公田「門司六ヶ郷の規模とその構成を 明らかにするものです。 また「足利尊氏寄進状」は建武3年(1336)3月多々良浜の戦いに勝ち、 北部九州を制圧した尊氏が東上の途中、義兵成就、子孫長久などを祈願して、 同社に土地を寄進したことを記すものです。後に室町幕府を開くことになる 尊氏の戦いにかけた期待をうかがうことができます。 この文書は、中世後期の北九州の動向を具体的に明らかにする貴重な資料です。】 (現地案内板より)先の戦争では、門司も空襲を受けている。甲宗八幡神社の社殿も焼失したらしく、現在の社殿は昭和37年の再建によるもの。戦火をくぐり抜けた文書たちは、現在では市の指定有形文化財となっている。にほんブログ村
2012年02月29日

※「門司城(3)」の続きです。周回道路に戻って、左へ曲がる。この辺もいちおう歩道はあるけど、ちょっと狭くなってきたな~。 途中の木々の間からはこんな風景が見えた。 イマイチ方向がわからないけど、たぶん田野浦の方だ。壇ノ浦で、戦闘開始前、平氏が船を並べたかもしれないところだ。 あ~、田野浦も最初は行く予定だったんだけどな~。田野浦は北前船の寄港地として栄えた港町だったけど、幕末には長州藩と小倉藩との戦いがあった場所なんだと。といっても、そのために行く訳ではなく、「太刀の池」という平家ゆかりのスポットがあるからだったのだ。結局、ここもカットしたんですが。由来だけ紹介しておきますと、源平合戦の際にこの井戸(池)に安徳天皇の太刀を沈めて戦勝祈願を祈ったという伝承があり、ここから「太刀浦」という地名になったと。あるいは、平家の武将が血のついた太刀をこの池で洗ったという伝承から来ているともいう。この井戸はどんな旱魃の時にも水が枯れることはないそうで、現在も大切に使われているらしい。他にも田野浦より南の方にいくつか平家ゆかりのスポットがあって、そこを回るつもりでしたが、ほとんどカットする羽目になりました。私の大好きな大内さんちのおかげで(笑)。さて、周回道路に沿ってぐるっと降りていくと、展望台に出る。途中、干珠と満珠が見えないかな~と思ったけど、ちょっと展望悪くて見えなかった。この展望台は展望の他にも目玉があって、観光案内でも紹介されている。逃げる義経と追う教経様。 源氏方に引き上げられる建礼門院。 安徳天皇と二位の尼。 この壁画「源平壇ノ浦合戦絵巻」は赤間神宮の社宝「安徳天皇縁起図」を参考に描いたもので、高さ3m、長さ44m、1400枚もの有田焼の陶板が使われている。 「安徳天皇縁起図」は、「赤間ヶ関編(17)」で書いた、参詣の庶民に絵説きをしたって、アレね。ここの展望台の隅っこに、このページの2枚目の写真、合戦想定図がある。時間の経過を追ってわかりやすい図だったので、「赤間ヶ関編(27)」 でもここの写真を拝借しました。展望台からの眺望はこんな。 ええ眺めじゃあ~!!ちょうどこの時、中学生くらいの子たちがランニングをしてて、車道に沿ってヘアピンカーブを右方向へ行かず、合戦想定図の写真を撮りまくる私の横を過ぎて真っ直ぐ階段を降りていった。「なんでそっちへ行くかな~」って先生らしきおじさんがぶつくさ言いながら呼び戻していくのを見ていて、「あ、この階段、行きに展望台の案内板が出てたところに出られるかも」って思ったので、そのまま降りちゃった。ヘアピンカーブの先の山腹には、数少ない門司城の遺構(城門跡)があったみたいなのに(笑)。疲れて、すっかり忘れちゃってたんだよね~。ハハハ・・・にほんブログ村にほんブログ村
2012年02月28日

今日は「もんめ」について、ツイートした。「文目」、はお金の単位。「匁」、は重さの単位。昔のね。「もんめ」と聞いて「花いちもんめ」を思い浮かべる人は多いと思うけど、「花・一匁」か「花・一文目」ってことだよね。これは花を娘に見立て、文目はお金のことだから、実は遊女の人身売買の歌だって説があるのを、つい何日か前に知った。え~っ、そうなの~!?で、さっきお風呂で何気に「花いちもんめ」を全部歌ってみて、まさに「アハ体験」をした。もしかして一部欠けてるかもしれないし、地方によっては違うだろうけど、私が子供の頃歌って遊んだのはこんなの。 ♪勝~って嬉しい花いちもんめ 負け~て悔しい花いちもんめ 隣のおばさんちょっと来ておくれ 鬼~がこわくて行かれない! お布団かぶってちょっと来ておくれ お布団ビリビリ行かれない! お釜かぶってちょっと来ておくれ お釜底抜け行かれない! あの子が欲っしい あの子じゃわからん! この子が欲っしい この子じゃわからん! 相談しよう そうしよう おお!ホントだ!布団はビリビリ、釜は底抜け・・・これって、貧乏哀話じゃん!!いや、これじゃ娘売るしかないわ・・・や~、子供の頃はホントに、こーゆーので毎日バカみたいに暗くなるまで遊んでたけどね~。意味なんて考えたことなかったしな~。気をつけて歌ってみると、結構わらべ歌って生活感にあふれてるってゆーか、妙にリアルってゆーか、こんなの子供に歌わせていいのか!?みたいなのが多いよな~。「あんたがたどこさ」なんかもそうだ。 ♪あんたがたどっこさ 肥後さ 肥後どっこさ 熊本さ 熊本どっこさ センバさ センバ山にはたぬきがおってさ それを猟師が鉄砲で撃ってさ 煮てさ 焼いてさ 食ってさ それを木の葉でちょいとか~ぶ~せ!うわあ・・・木の葉を何にかぶせるの?たぬきのホネえ~!?あ~コワッ!!!にほんブログ村
2012年02月27日

では、山頂へ。上がるとまず、ど真ん中にある異様なコンクリ製のものが目をひく。なんじゃ、こりゃ!? 奥の方には門司城跡の石碑。ふう~、やっと着いた。 海に面した方にはベンチがあったので、パンを食べながら休憩。いんや~、さすがに見はらしいいわあ~ 対面は本州の先っぽにあたるところだけど、その向こうに何やら大きな島が見える。なんだろ、あれ・・・自分の行くところ以外、地形はあまり頭に入ってないからなあ・・・ で後で地図を見たらば、この島は六連島というそうです。さて、パンを食べながら、時間軸を400年前に合わせて妄想に入る。舞台は登山口入口の解説にあった、永禄の門司城合戦。大内氏の城であった門司城は、大寧寺の変で実質的に大内氏が滅んだ後、毛利氏と大友氏の不可侵条約の条件として豊前国は大友領となり、門司城も大友氏の城となった。ところが元就は天文23(1554)年に小早川隆景を大将として門司城を攻撃。城を奪取し、仁保隆慰を城代とした。大友宗麟は当然怒った。貿易で儲けている大友氏にとって、赤間ヶ関の制海権は生命線。そして永禄4(1561)年春、ソーリンは立花道雪に1万5千の大軍をつけて派遣。でも城は落ちない。業を煮やしたソーリンは、貿易上とか宗教上のコネクションをフルに活用し、なんと博多に停泊中だったポルトガル船に出動を要請。これを受けて、8月1日、海からの砲撃が始まった。日本の軍事史上、初の艦砲射撃とも言われるこの攻撃に、今度は元就があせった。で、またもや「隆景ちゃん、お願いっ!!」てことで、8月21日、再び隆景を救援に向かわせた。どうにか守りきったものの、ソーリンはこれだけでは終わらせない。門司城に入った隆景を待っていたのは、内通者発覚のニュース。内通者を処分し未然に防いだ隆景は、これを逆手に取った作戦に出る。10月10日、のろしを上げて内通が成功したように見せかけ、それを信じた大友軍が城に迫ってきたところで城外に撃って出て、さらに海上に待機していた兵が一気に上陸して大友軍を挟みうち~。でも道雪も諦めない。10月26日にも激戦が繰り広げられるが、大勢の挽回ならず、ついに11月5日、大友軍撤退開始・・・もうちょっと長い目で見ると、結局毛利は九州から撤退することになるんだけど、門司城だけは毛利の城として存続した、と。来歴からしていちおう平家関連のスポットではあるけど、やっぱり戦国萌え~しちゃうよね(笑)。隆景が・・・道雪が・・・!!さて、腹ごしらえも済んだところで、休憩終わりっ!立ちあがって、真ん中の物体の上に立つ。 ふむ・・・これ、砲台の跡だ。やっぱり昨日の亀山八幡宮の砲台跡の石も、砲台の跡だったんじゃね?しかし、大きさは比べ物にならない。すごいな~。ここから下に続く階段があったので、そのまま降りていく。 昔はこの周りに、建物とかあったんだろうな~。階段が切れるとそのまま細い道へとつながっていて、どうやら倉庫前のところへ出られそう。満足して降り始めると、一般の観光の夫婦が上がってきた。ここで会ったのは、この人たちと単独行のおじさんだけ。静かでよかったな~歩き出して少しすると、左手にわずかに石段が見えた。これって、わずかに残る遺構かな?と思って、上がっていく。ところどころ崩れかけてはいるけど、ちゃんとした石段。 ふうふう言って上がりきると、さっきまでいたピークに出ちゃった。事前に写真で見てた遺構には看板が設置されているっぽかったから、この階段の道は門司城の遺構と認められているものではなかったのかもしれない。頂上にはさっきの夫婦がまだいたし、帰ろうかな~と足元を見たら、 ・・・なんか、礎石っぽい。その周りにも礎石になりそうな石があったし、地形的にここに門とかがあってもおかしくはないので、いつのものかわからないけど、何か建物があったのかもしれない。※「赤間ヶ関編(35)」へと続きます。にほんブログ村にほんブログ村
2012年02月27日

登り始めるとすぐに右手にお宮がある。その名も「山ノ神」。 これから少しの間、お邪魔させていただく訳だから、きちんとご挨拶しないと。しかし、ちょうど陽が山の影になってて薄暗いせいか、なんだかすごい迫力がある。霊感とかは一切ないけど、ちょっとここ、すごい・・・俗っぽく言えば、パワースポットかもしんない。 注連縄をくぐり、宮へと近づく。怖いくらいすごいんだけど、ホレ、拝観料納めないと 真ん前まで行ってよく見ると、ここのお宮は後ろの大岩に作りつけられたものだった。やっぱり、山の神様だけあって、後ろの岩がご神体なんだね。ちなみに、宮のお隣には「山神祇之尊龍権現碑」という碑が立ってる。山の神様に龍?よくわからないけど・・・それよりも、なんかここすごすぎて、写真撮っちゃヤバいかも~。でも、撮らずにはいられないよな~。てずっとビクビクしてました。境内を出て頭を下げたあと、上を見ると あ~、なんていうんだっけ、こーゆー石積むの・・・安土城のあの山門の石も、これと通じるものがあるんじゃないかな~てゆーか、これってもはや民俗学のジャンルだし!!てもんもんとしながらまた歩き出す。上までの道は、ずっとこんな風に舗装された道。 山頂直下の平坦地に出て、まず目に入るのがこれ。 明治25年、ここに大日本帝国海軍の下関要塞が築かれたので、その関連施設と思われる。倉庫なのかな?中には入れないけど、得意の覗き見で(笑)。 ただこの建物、外壁が表に露出している訳ではなく、尾根の岩盤をくり抜いたみたいなんだよね。そうすると、元は山頂と尾根続きでこの倉庫の前面はちょうど断ち切られたような形になってるから、これってもしかして堀切なのか?とか思った。誰もそんなこと書いてないけど。でも、ここの山は結構岩山っぽいから、古い時代に岩盤を削るなんて、そこまでしないか。ここの尾根は北東に突き出たような形で、倉庫の周りを一周できる。 道沿いにぐるっと囲んである石垣をよくよく見てみると、どうもちゃんと石を組んで作った石垣の隙間を塗りこめて補強したように私には見える。 旧海軍が要塞を設置した際、門司城の遺構はほとんど潰されたって読んだけど、ここの石垣もそれなりに古いものをリフォームしたものじゃないのかなあ・・・それとも、明治以降に組んだのかなあ・・・現在の古城山は「瀬戸内海国立公園和布刈地区」のめかり公園内にあるんだけど、戦前までは軍事要塞だったため、一般人は立入禁止だった。要塞がなかったら遺構ももう少し残ってたかもしれないけど、これも歴史だしね。それほど、長い歴史を通してこの一帯が重要だったって証だよな。倉庫付近には、江戸時代の瓦が落ちてるってどなたかの訪城記で読んだけど、私は見つけられなかった。結構、落ち葉も深かったし。ちょっと石垣の方へ寄ると、ぐにゃりと土が軟らかかったから、あんまり歩く人もいないのかもしれない(笑)。にほんブログ村
2012年02月26日

門司城<福岡県北九州市門司区大字門司字古城山>(住所をクリックするとMapfanにリンクします)※「赤間ヶ関編(34)」からの続きです。めかり山荘前の駐車場から見た古城山のピークはこんな感じ。 下から見上げると高く見えるし、げんなりもするけど、この位の高さならすぐ登れそうだな。先人の訪城記を読むと、だいたいこの場所から10分くらいってあったし。めかり山荘前の道を道なりに進んで、右に曲がる道の正面にちゃんと案内が立ってる。 【門司城(門司関山城・亀城) 門司城は、最初平知盛が源氏との戦にそなえて、長門国目代紀井通資に 築城させたといい伝えられている。 寛元2(1244)年、下総前司親房が平家残党鎮圧の下知奉行として、 鎌倉幕府より豊前国代官職に任ぜられて下向。 のち門司6ヶ郷と筑前国香椎院内などを拝領した。親房の子孫は地名により 門司氏を称し、門司城を本城に領内に足立・吉志・若王子・三角山・金山の 5支城を構えてそれぞれ一族が配置された。門司氏はその後およそ350年にわたって 北九州の地に続いた。 その間、南北朝時代には門司氏も両派に分かれ、当城には北朝武家方の 吉志系門司左近将監親尚が拠り、一方南朝方の伊川系門司若狭守親頼は 猿喰城に籠り、骨肉の争いとなった。 室町時代末になると、門司半島は豊後大友氏と大内氏、大内氏滅亡後はかわって 毛利氏が争奪することろとなり、当城はその渦中に置かれた。 ことに大友・毛利両氏による永禄の門司城合戦は壮絶をきわめ、 ちなみに『後太平記』には、「昔、源平両家此処にて軍せしも、時こそ替れ 是にけよも勝らし」とその戦況を記している。 その後の門司城は、城主も入れかわりながら続いたが、細川忠興の豊後入国後の 元和元年(1615)年、一国一城の令により、およそ400年におよぶその歴史をとじた。】 (北九州市教育委員会による石碑より)文字色の変わっているところは、あとあと話が出てくるキーワードです。下総親房(しもうさ・ちかふさ)がこの地に任じられて門司氏のスタート、と解説にあるが、西国との関わりは親房のじいちゃんである中原親能による。中原親能(なかはらのちかよし)は公家の出とも言われる人で、頼朝の代官として貴族との交渉にあたるなど、源家の信任が篤かった。親房の父も、九条兼実などメジャーな公家との太いパイプを持っていたので、義経が初めて上洛した際には、都人は無名な義経などには目もくれず、親能が源氏軍の総大将だと思っていたなんて面白いエピソードがある。この親能が1195年に鎮西奉行となったのが、この地とのお付き合いのはじめ。余談になりますが、親能の弟といわれるのが大江広元。この大江広元さんは毛利氏の祖といわれている人なので、門司氏と毛利氏は遠い先祖が兄弟だったってことになるんですね~。しかし、古い名家で、良い場所に本拠地を構えた門司氏の不運は、どうも立地条件が良すぎたことにあるようですね。物事には二面性があるってのは、いつの時代も同じじゃな~。日本地図を見てもらえばわかると思いますが、この門司はまさに赤間ヶ関の喉元にあたる重要な地。「あそこを是非とも押さえたい」って周囲がちょっかい出しまくりで、ために常に争乱に巻き込まれ疲弊を早めたんじゃないかと言われている。それから、上の解説にもある「骨肉の争い」ね。門司氏はなにやら複雑で、そこへさらに南北朝スパイスがかかってるもんだから、ちょっと説明は困難です(←なげやり)。猿喰城が出てきたから、その辺だけちょっと・・・猿喰(さるばみ)城は、門司城よりもっと南にある山城。その近くに柳城。いずれも門司城の出城として築かれた城で、ともに南朝方だった。門司城主は大内弘世と組んで、北朝方。ここからは門司さんちの通し字「親」があふれてきて読みづらいと思うので、 猿喰城方/南朝=(猿) 柳城方/南朝=(柳) 門司城方/北朝=(門)と省略させていただきますね(笑)。1363年、(門)と大内さんちのひろよんは、柳城攻めを開始。(柳)は頑張ったので、ひろよん負傷。ひろよんの子・大内満弘は(柳)の寝返り工作を始める。その結果、(柳)は陥落。今度は(柳)が(門)と大内軍を手引きして、猿喰城へ攻め入る。(猿)の城主以下73名全員が討ち死に、猿喰城は落城。これにより、大内氏は豊前進出の足がかりをつかむ。猿喰城登山口近くの七ツ石峠というところには、七ツ石と呼ばれる7つの墓石が立っているが、そこで7人の武士が亡くなったといわれ、7人の霊を慰めるために建てられたとのいわれがあるそうな。猿喰城ね、ホントは行くはずだったんだ。一旦、それで予定組んだの。ところが、確かプロローグあたりにも書いたと思いますが、土壇場になってどーしても外せないスポットが出てきてしまったので、大幅に予定変えたんだよな~。まあ、猿喰城の兵たちはみんな恨みを抱いて死んでいったとも言うし、結構山の中みたいだから、できれば連れがいた方が望ましいとも思ってたしね。とまあ、こんな一族での争いも、ヒトとカネの消費が大きく、その後の発展の障害となったと見られている。ただ、どこの家だって事情はみんな似たようなもんなんだから、それでもそこを生きぬいて戦国大名にまでのし上がった家系ってのは、やっぱりしぶとい・・・あやや、すごいものなんだなあと改めて思うけどね。それでも門司氏は滅亡した訳じゃない。大内→毛利と主家を変え、また門司氏の支流は立花・宗氏・宇都宮・宗像などに仕え、家系を存続させていった。また余談になりますが、和布刈神社にあった宗祇の句碑は、門司での第一夜のもの。その翌日も門司さんちで世話になり、 戸さしせぬ 関に関もる もみぢかなという句を残している。2日目の門司さんちは、能秀(よしひで)さんのおうちだったんだけど、この能秀さんは大内家でも重要な政務にあたっていた人らしく、また歌道の達人でもあったと。連歌が当時の教養だったって言ってもねえ~、この頃の人って、ホントにマルチな人が多いよね。ま、中には愛すべきぶきっちょさんもいたでしょうけど・・・ただ、あまりなぶきっちょさんは、名を遺すチャンスに乏しかったと思われるけど。シビアな世界じゃなあ~。にほんブログ村にほんブログ村
2012年02月26日

与次兵衛さんの塔から元の道に戻って、登山再開。結構キツい登りだけど、幸い人も車も少ないので、ゆっくりマイペースで歩ける。ちゃんと歩道も確保されてるし。古城山を巡る周回道路は一方通行。途中の木々の間からは、門司の町が見下ろせる。 ああ、午後はあの辺の山に登るんだな~。しばらく登ると、展望台への案内板が現れた(現在地の地図はこちら)。展望台?そんなハズないけど・・・小さな、別の展望台かもしれないしな、ちゃんと把握できてる道を行こう。右手には下る道が延びているけど、車両通行止めになってて、どうやら現在はこの道は使われてない様子。ここで休憩しながら、上着を脱いでカバンに詰め込む。汗かいちゃったんですけど~!目指す「めかり山荘」まではもう少しのはず。城が私を待っている。再び歩きだし、最後は遊歩道みたいなところを上がっていくと、ようやくめかり山荘の建つ台地に出た。与次兵衛さんのところから、ゆっくり歩いて大体20分くらい。この辺まで上がってくると、さすがに見はらしがいい。 飲み物を補充して、トイレを借りたいな~と山荘の入り口を覗くけど、借りられそうな感じのところじゃなかった。ここにあったふたはこんなの。 どんぐり柄だ~!山荘の脇の一段低いところに何かあったので、寄ってみる。 【龍王神由来 昭和33年春に開かれた門司トンネル博に総ベッ甲細工の龍王神が出品された。 この龍には73年間の才月と80余頭のベッ甲亀が使用され時価3億6000万といわれ 関門トンネルを最初に通り博覧會の成功にもあづかって力があった。 これは龍王神の記念碑である。 昭和33年9月】 (石碑より。漢数字は戦国ジジイが変換)たぶん、文章は読み間違えてないと思うんだけど・・・なんか、わかりにくいよね。てか、何のことだかさっぱりわかんないよね(笑)。で、あとでちょっと調べてみたら、「門司トンネル博」ってのは関門海底国道トンネルの開通を記念して老松・めかり公園一帯で開催された、大イベントのことなんだと。正式には、「世界貿易産業大博覧会」。高松宮妃殿下のテープカットで始まり、会期中の入場者は112万人。昭和天皇・皇后両陛下もいらしたんだと。門司トンネル博は、「関門海底国道トンネルの開通を記念し、わが国の貿易交通ならびに産業の振興と文化の発展を図る」を目的とした大博覧会で、ロープウェーなんかもできちゃったし、相当な賑わいだったみたい。・・・しかし、交通の便が良くなるとありがちな話がここにも生じ、トンネルの開通によって、門司は通過するだけの町となってしまい、往時の賑わいも昔の話・・・とかいう昭和の門司の歴史は調べられたんだけど、肝心の3億6000万の龍王様はちょっと見つけられなかったんだな~(笑)。写真くらい見たかったんだけど。今もどこかにあるのかな?めかり山荘にあるのは、写真の通り石造りですからね~。私がこの龍王様に興味を持ったのは、台座の下がこんな風になってたからなのだ。 塩盛って、結界張ってるよ・・・なんでこんな、ものものしいんだ?って思ったんだよね。本当は、こーゆーのは写真に撮っちゃいけないのかもしれないけど、撮らなきゃ撮らないで、後でやっぱり撮っておけばよかった~!って後悔することが多いので、今回は撮った。最近、忘れっぽくなったしさて、めかり山荘のあるところは小広い平坦地になってるんだけど、城跡はさらに上。途中にある公衆トイレで用事を済ませてから、入口目指して歩き始めると、こんなのがあった。 あ~そうですか、出るんですか~。しかし、朝から歩き通しで疲れも出てきてるしなあ、出られても、軽快に身をかわすことは無理かな~って一人でぶつぶつ言いながら、平坦地の奥まで歩く。ここが門司城への登り口。※「門司城(1)」へと続きます。にほんブログ村にほんブログ村
2012年02月25日

和布刈神社を見終えて次へと向かう。ここからちょっとハードになってくるぞ~。海を渡って行政区が変わったので、新たなふたを求め、下を見つつ地図を見つつ、ああ忙しいバナナ柄ないかな~、バナナ柄・・・バナナ柄は見つからないけど、草むらの中にこんなのがあった。ちょっと見づらいかな・・・ へ~え、水準点のふた!ふたに着目するようになって2年以上経つけど、水準点のを見るのは初めてじゃないかな。日本地図なんだ・・・このあたりにあった普通のふたは、こんなのだった。 何だろう、これ・・・まわりのは、ワラみたいに見えるけど。笹かな?和布刈神社の前の道を南に進むと、道なりに左へ90°くらい曲がるカーブがあるんだけど、カーブの手前の道を左に入る。これより、古城山の山道へ入るでござる。私のブログは、城だけはカテゴリーを別にしてあるんだけど、ホントに城だけを見に行くってことはあまりないし、城に向かう途中にもあれこれ見たりするので、どこから文章を分けるべきかってのは案外難しい。ここも、城の近辺に色々あるので、とりあえず直前のところまでは旅日記として含めておきますので、ご了承ください。さて、山道と言っても、ほとんどは舗装された道。昨日、下関から何度もこの山を見たけど、「結構高いな~。あれに登るのかあ~」ってのが正直な感想だった。天気もいいしな~、暑くなりそうだ・・・ここから歩いて登るって人もあんまりいないだろうから、実際どの程度時間がかかるのかわからない。ちょっと弱気な思いもかかえながら登り始めると、左手にまずここでの最初のスポット、「明石与次兵衛塔」の案内板が現れるので、石段を上がっていく。 エリンギだ・・・(笑)いやいや、笑っちゃいかん。この塔は、哀しい歴史を秘めているのだ。文禄の役で太閤殿下が名護屋城に陣を置いたことは一般の間でもそれなりに知られていると思うけど、出征開始から3ヶ月後、殿下の元に大政所危篤の報せが届いた。母思いで有名な殿下のこと、早く帰らなきゃ!てことで細川忠興の用意した御座船で急ぎ大坂へ向かう。この船の船長が明石与次兵衛(あかし・よじべえ)さん。で海路を行くが、赤間ヶ関で「篠瀬」(しのせ)という大きな岩礁に行く手を阻まれる。この篠瀬は干潮の時は姿を現すが、満潮になると海面下に隠れてしまう、赤間ヶ関最大の難所といわれる場所。与次兵衛さんは懸命に頑張った。・・・頑張ったけど、結局座礁して船は大破、殿下は海へ投げ出される。幸い、毛利水軍によって助けられたらしく、柳ヶ浦の浜、または大里の浜に上陸し、最悪の事態は免れた。が、与次兵衛さんは事故の責任を取って大里で切腹。後に豊前の国主となった細川忠興は与次兵衛さんの死を悼み、篠瀬に慰霊碑を建立し、あわせて付近を航行する船のための目印とした。ので、江戸時代には篠瀬は「与次兵衛ヶ瀬」と呼ばれるようになった。この碑を、あのシーボルトさんがスケッチしておってな。「NIPPON」の中に、『与次兵衛ヶ瀬の碑』として収録されておる。また「江戸参府紀行」には、 【記念碑は2メートル50センチ。四角い柱で四面からなるピラミッド型の 飾り屋根があり碑文はない。】との説明文が記されている。この記念碑は、暴風雨や船がぶつかったりして何度も倒れたが、その都度再建された。そんな風に大事に守られてきたのに、明治に入り、旧逓信省が昼夜灯建設のため撤去、あっさり海中に投棄されてしまう。篠瀬の岩礁は、船島(いわゆる巌流島)のすぐ脇にあったもので、大正年間に航行の障害となるため爆破されたそうで、現在は埋め立てられて船島の一部となっている。この大正の工事の際に、捨てられた塔が発見され、内務省下関土木出張所の裏庭に再建されるものの、先の大戦で防空壕を掘るためにまたもや撤去され、海中に投棄(笑)。いちおう「仮置き」ってことになってるらしいけど、碑に構ってる場合じゃなかったんだから、実質投棄だと思うけどね。戦後になって門司郷土会らの有志に引き揚げられ、海難の守護神として昭和30年に和布刈公園内に再建するが、今度は関門橋の建設により現在地にお引っ越し。数奇すぎる運命を経て、ようやく安住の地を得た、と。どうです、この歴史!笑っちゃいけないけど、面白すぎる~!! 現地解説板には、さらに 【なお、塔の側の「明石の石」(硬砂岩)は、与次兵衛の出身地である 明石市大久保町の秀吉ゆかりの光触寺から贈られたものである。】と書いてある。与次兵衛さんの塔から見える光景はこんなの。 若干木にさえぎられて見えないけど、左の奥の方に篠瀬を望む小高い場所に、与次兵衛さんの塔は建っている。「大里」の地名はまた後でも出てくるから、覚えておいてね。にほんブログ村にほんブログ村
2012年02月25日

社殿の左側には、稲荷の赤い鳥居。ここは「早鞆稲荷」かあ~。 鳥居の脇にはごちゃごちゃと色んなものがある。 和布刈砲台については、ろくなことはわからなかった。遺構もほとんどないみたいだし。ただし、現在の社殿が18世紀のものだから、「子供さん危険です」のフェンスの奥の敷地に、砲台が設置されてたのかもしれない。他に、松本清張文学碑、猿田彦大神、高浜虚子の句碑などがある。それから、戦国ファンにはおなじみ、飯尾宗祇の句碑。 舟みえて霧も追門(せと)こすあらしかな はい、亀山八幡宮に続いての宗祇さんですね~。文明12(1480)年9月、滞在中の周防の大内政弘のところから大宰府へと向け海を渡った。この時、齢60。大宰府は連歌の守護神とされていたそうでね。九州に渡っての最初の夜、宗祇は門司一族と早速句会を開いたそうな。そして門司から太宰府~博多~宗像~芦屋と旅を続けたと。今の中高年もアクティブだけど、芭蕉おじさんといい、昔の人って精力的だよな~(笑)。てちょいと戦国の香りを嗅ぎながら稲荷の鳥居をくぐると、岩に囲まれてちんまりと稲荷の社があった。 恵美須神社という小さな社もあったけど(上の写真の左端にちょっとだけ写ってる)、中には何も置いてなかった。で、参拝して戻ろうと周りを見渡すと、和布刈神社の本殿がすぐ脇に見えた。 ラッキー!正面からじゃ全然見えなかった本殿が、こんなところでこんな間近に見られるなんて!早鞆稲荷様、ありがとう♪写真じゃあまり鮮明に写ってないけど、拝殿と同じくこちらも美しい彫刻が施してあって、素晴らしい。日光東照宮に代表されるような、キラキラの塗りもまあすごいとは思うけど、個人的には素木の方が好み。いや~、ええもん見させてもらったわ~。稲荷の千本鳥居をくぐって戻り、今度は拝殿の正面、海に面した鳥居を・・・と思ったら、ちょうど兄ちゃんが釣りの準備を始めたところだった。 うっわ~・・・さっきまでここには誰もいなかったのに、てか、アナタのその釣りは、この場所じゃなきゃダメなんですか!?知らない他人なんか写真に入れたくないし、今は肖像権がどーのとか色々うるさいから、ちょっと様子を見てたけど、自分がジャマになってるとは露ほども想像しないらしく、悠々と釣りの準備を進めているので、構わず撮影することにした。それで鳥居の両脇の灯籠、これは細川忠興の寄進と言われているものなんです。 なんか、長いこと海に浸かってたんじゃないかってくらい、風化してぼろぼろ。海っていっても、潮風特有のべたべた感とかはないんだけどねえ・・・え~と、そして和布刈神事の時にはこの鳥居をくぐって石段を降り、神職が海に降りて行くんだそうです。鳥居の先には、またもや灯籠が。これは対馬藩主・宗氏の寄進によるものとのこと。 和布刈神事については、前々回ちょろっと書いた通りですが、早朝の3時頃開始。神事は大潮の干潮時に行われるので、この海中灯籠の先まで潮が引いているらしい。暗い中を、松明の明かりだけを頼りにわかめを刈る・・・ってのは昔の話で、今はTVの撮影もあるし、一般にも公開されてるので、写真を見ると結構明るい中でやってるみたいだけどね(笑)。実は和布刈神事ってのは、和布刈神社だけの行事ではないんだと。対岸にある長門一の宮、住吉神社でも同じ神事が行われる。しかし、和布刈神社が大々的に一般・マスコミにまで公開してるのに対し、住吉神社は今だに秘祭。戦前までは、和布刈神社も非公開だったらしいけど。秘祭っつっても、やることは一緒だけどね(笑)。ただ、住吉神社はちょっと海から離れており、歩くと片道2時間位かかったそうだけど、神事の火を見てはいかん、見ると目がつぶれるぞ~!と言われておったので、神事の火が通る際には街道筋の家々は雨戸を立てて決して覗くことはなかったんだと。現在は交通量が増えて危ないので、移動に車を使うそうだけど、神事そのものが公開されてないのは現在も同じ。どちらも同じ時間の暗い中、篝火を使って同じことをしているので、対岸の篝火が確認できるらしい。なんか、これもロマンだよねま、しかしロマンだけじゃ食っていかれんのは世の常。このワカメは上つ方の人気も高かったらしく、住吉神社には”殿様が国許におられる時は、神事で刈ったワカメはお城まで持ってくるように”といった意味の手紙が残されている。また、幕府からの書状には”前田村の関係者以外の者でワカメを勝手に採る者は、処罰する”てな事が書かれているらしく、神様・朝廷の他に、幕府や毛利の殿様にも賞味された縁起の良いワカメだということがわかる。住吉神社の方のワカメは、当日頒布するものの他に、地方発送もあるみたいだけどね。和布刈神社の乾燥中の松明と同じく、秘祭で採れたものを通販で売ってしまうという、このアンバランスさが面白いよな~。にほんブログ村
2012年02月24日

和布刈神社の社殿は、入ってそのままが正面じゃない。海に向かって、左を向いている。前回書き忘れたけど、現在の社殿は明和4(1767)年、小倉藩主小笠原忠物(忠総か?)の再建によるもの。拝殿のあれこれを堪能した後、振り返って早鞆の瀬戸を眺める。このすぐ左脇には鳥居があるんだけど、それは最後にとっておいて。 この海峡には神功皇后の伝説があるという。神功皇后は第14代仲哀天皇のお后様。仲哀天皇は日本武尊のお子さんとされているから、ヤマトタケルから見れば息子の嫁だ~、って、なんで私が書くと神話の世界が所帯じみてくるんだろ(笑)。九州の熊襲(くまそ)が謀反を起こした折、仲哀天皇と神功皇后は九州へ平定のためやってきた。この頃の早鞆の瀬戸は「穴門(あなと)」と呼ばれ、下関と門司は陸続きだった。海水もちょっとは流れていたけど、潮の干満でわずかなもの。それが、神功皇后の舟がここを通る際に山が一夜にして分かれ海峡となったという。日本のモーゼだ一説には仲哀天皇が5年余りの歳月をかけて、自軍の舟が通過できるように海峡の開鑿(かいさく)工事を行ったとも言われている。そしてお2人は香椎宮へと赴くんだけど、日本書紀によると、神がかった神功皇后が「熊襲より新羅を攻めちゃえ!お宝ざっくざくだしい~♪」って神託を伝えるんだけど、仲哀天皇は「冗談でしょ?」ってシカトして熊襲征伐に取り掛かった。したところ、仲哀天皇が急死してしまったので、「だから言ったのにい~!」って皇后はじめ皆は嘆いたそうな。その後、神功皇后はお腹に応神天皇を身ごもったまま海を渡り、男前な伝説を残す。いわゆる「三韓征伐」ね。一方、仲哀天皇の遺骸は海路で穴門、すなわち早鞆の瀬戸を通って豊浦宮で「殯(もがり)」されたとある。長府にある忌宮神社は、熊襲平定の際に仲哀天皇が滞在した豊浦宮の跡地という伝承を持つし、仲哀天皇・神功皇后・応神天皇を祀っているので、長府で殯が行われたのかもしれない。九州に行く時には、神功皇后だけじゃなく仲哀天皇もいたんだから、日本のモーゼは仲哀天皇だったとして伝説が残ってもよかったんじゃね?とか思うんだけど、やはり生き残った者が強いってことなのか(笑)。てな感じで、時間軸をずらして早鞆の瀬戸を見てみると、急に古代神話の世界に染まってくるから不思議。関東にはたぶんここまで古い伝承ってのはあまりないと思うけど、畿内から九州にかけては色々あるもんね~。話の流れでついでに言いますと、和布刈神社の鳥居の横には門司関碑があります。646年、都と大宰府を結ぶ要衝として、赤間ヶ関を渡る人や船を調べるために設けられた関所が門司関。大宰府は外国との窓口であり、また西海道(=九州)を治める国府が置かれ、「遠の朝廷(とおのみかど)」「西の都」と呼ばれるほどだった。その大宰府と官道は大路として特に重要視されていたので、九州の玄関口にあたる門司に早くから関所が置かれていたのはしごく当然のことといえる。交通の手段が限られていた昔は、今よりもはるかに海上の交通・輸送が重要だったって言うからね。門司関は太宰府の直轄下におかれ、平安時代後期には平家が、北条時頼の時代(1244年)には後に門司氏の祖となる下総親房が下向し治めていた。関所自体は、鎌倉の頃にはなくなってたというけど、「門を司る」の地名は残った。門司の地名の由来については他にも説があるみたいだけど、九州の門を守ってきた歴史を考えると、こちらの説の方がロマンがあるよな~。大河でもそのうち出てくる、後白河法皇が残した「梁塵秘抄」にも年老いた関守を詠んだものがある。 筑紫の門司の関 関の関守 老いにけり 鬢白し 何とて据ゑたる関の関屋の関守なれば 年の行くをば留めざるらん関はなくなっても、大内氏や毛利氏などの歴代の統治者も、この門司を交通の要衝として支配下に置いた。和布刈神社との縁も深く、社宝に毛利元就の礼状・藩主小笠原氏の書状などがあるという。さて、ひとしきりロマンに浸ったあと、社殿の左側に行こうとした私の目にこんなものが目に入った。 この先はフェンスで行かれないようになってるんだけど、子供さん以外なら危険じゃないのか?大人さんは乗り越えてってもいいのか?とか一人でツッコミ入れながら、笑いをこらえて写真撮影。あげ足取るような真似するようになったら、人生おしまいだよな・・・年は取りたくないもんだにほんブログ村にほんブログ村
2012年02月23日

金目の狛犬の小さな石段を上がると、神社にはよくある寄進の碑があったんだけど・・・ いっ・・・せんまん・・・はっきり言って、ここの神社はそう広くないんだけど、なにしろ古いしね~。維持管理にもかなりかかるんでしょうね~(←リアリスト)。一千万の奥には大きな自然石があった。 何の解説がある訳でもなし、ここのご神体が何かはわからないけど、注連縄をかけるだけの何かいわれがあるんでしょうね。気になるな・・・今いるのは、拝殿の脇。ここにはこんなものがあった。 【この神社には古くから和布刈神事が伝えられていますが、李部王記によれば、 和銅3年(710)年に和布刈神事のわかめを朝廷に献上したとの記録があり、 奈良時代から行われていたものです。 神事は、毎年旧暦大晦日の深夜から元旦にかけての干潮時に行われます。 三人の神職がそれぞれ松明、手桶、鎌を持って海に入り、わかめを刈り採って、 神前に供えます。 わかめは、万物に先んじて、芽をだし自然に繁茂するため、幸福を招くといわれ、 新年の予祝行事として昔から重んじられてきたものです。】 (現地解説板より)また、その隣の謡曲と神事について解説した看板には、 【神前へ御供えの後最も早い方法で朝廷へ奉じられた】とある。ワカメがそんなおめでたい食べ物だったなんて、知らなかったよ~。神事だけあって、準備には時間をかける。 ・冬至・・・和布繁茂の祈念祭。ここからスタート。 ・12/1・・・採取した竹を割って松明を作り、境内の棚の上で乾燥させる。 ・12/25・・・神事にたずさわる神職は潔斎に入る。料理は別にきり出した 火を使い、酒肉を絶つ。穢れたものには触らない。 ・大晦日・・・神饌に熟饌(じゅくせん。調理して神前に供えるもの)が準備される。 日付はすべて旧暦です。この時は「へえええ~」ってじろじろ見ただけだったけど、後でよく考えたら、この日、2012年1月8日は旧暦の12/15にあたるため、第2段階で用意された松明を乾燥させてる最中だったんだ!神事に使う本物だったんだ~(たぶん)!!やあ、何か入念に準備する割にはふっつ~に境内に置かれてて、大らかだなあ(笑)。拝殿を見上げると、ところどころにある彫刻はどれも大変に美しくて、格の高さを感じさせる。 では拝殿の正面に回って、お参り。 社殿は決して大きくはない。けれど、瀟洒でどっしりと重厚感がある。拝殿の中はこんな。 参拝を済ませて上を見上げると、こちら側にも素敵な彫り物が沢山。神社って、参拝の時に鳴らす鈴とかぶら下がってるところがあるでしょ。そのぶら下げてる木には大抵、象とか龍の彫り物が多くて、和布刈神社のは龍なんだけど、この龍を下から見上げてたまげた。 うわ!爪も歯もびっしり揃ってる~!お腹も肉感的~!!(笑)保存状態とかにもよるだろうけど、ここまでリアルに造り込んでるのはあまり見たことないような気がする。想像上の生き物だから、リアルってのもおかしな表現かもしれないけど。広くない拝殿の前で、ほげ~と彫刻や組み物を堪能してて、一般の参拝者の邪魔になるのはいつものこと(笑)。てゆーか、こんなにすごいんだから、皆ちゃんと見てってよ!!て時にはひそかに逆ギレしたりもする。 にほんブログ村にほんブログ村
2012年02月21日

本当は、みもすそ川公園の後にすぐ近くの「みもすそ川別館」てとこに寄るはずだった。安徳天皇の像があるっていうから。でも、カメラ事件ですっかり忘れちゃった(笑)。後からよそのサイトの写真を見たら、私好みでない、ちょっとコワイ顔立ちだったのでまあいいか。じゃっ、海底へ行きましょう 人道トンネルはこの建物から入る。エレベーターで55m降りて、そこから歩き。 ここは右側通行。途中まではゆるやか~に下って、またゆるやか~に上る構造になっている。ただ通るだけじゃなくて、ジョギングやウォーキングしてる人もいる。人生いろいろって感じで、面白いなあ。トンネルの周りに800年前の骨が散らばってるかもしれないのに(←禁句)。途中の壁にはこんな貼り紙もあったりして、興味をそそられる。 触るとどーなるの?これだけの水圧に耐える壁なんだから、触ってどーのって話でもないでしょうに・・・とか考えるうち、真ん中に着いちゃった。 はい、ここのトンネルはですねえ、県境を有してるんですね。楽しい~!!これより福岡県になります。だいたい、歩いて15~20分くらい。門司側でも、エレベーターで60m上がって、地上へ。地上へ出たら、ちょうど団体さんがこれから降りるところだった。入れ違いでよかった~!トンネル内でわあわあされたら、うるさくてかなわんわ。ツイてるとほくそ笑みながら、門司での行動開始。まず目指すのは、和布刈(めかり)神社。早鞆の瀬戸にかかる関門橋の先にあるんだけど、橋の下は上を通る車の音がすごかった。 そしてこちらが和布刈神社。 「和布」は「にきめ」または「にぎめ」とも読む。この場合、「和布」は和訓(漢字に日本語の読み方を当てはめる読み方)で「め」と読み、「わかめ」を指す。「和布」+「刈る」でわかめを刈るの意。ここで行われる有名な神事にちなむもの。和布刈神社の創建は古い。社伝では、神功皇后が新羅から帰還(三韓征伐)の折に、阿曇磯良(あづみのいそら)の奇魂と幸魂を速門に鎮めたのが始まりとし、仲哀天皇9(200)年創建とされる。門司区で最も古い神社で、古くは「隼人(早鞆)社」「速戸社」とも呼ばれた。阿曇磯良については、ウィキペディアに次のような解説がある。 【『太平記』には、磯良(阿度部(あどべ)の磯良)の出現について 以下のように記している。 神功皇后は三韓出兵の際に諸神を招いたが、海底に住む阿度部の磯良だけは、 顔にアワビやカキがついていて醜いのでそれを恥じて現れなかった。 そこで住吉神は海中に舞台を構えて磯良が好む舞を奏して誘い出すと、 それに応じて磯良が現れた。 磯良は龍宮から潮を操る霊力を持つ潮盈珠・潮乾珠(日本神話の海幸山幸神話 にも登場する)を借り受けて皇后に献上し、そのおかげで皇后は 三韓出兵に成功したのだという。 志賀海神社の社伝でも、「神功皇后が三韓出兵の際に海路の安全を願って 阿曇磯良に協力を求め、磯良は熟考の上で承諾して皇后を庇護した」とある。】アハハ、顔にアワビって・・・まあ、海底に住んでるんだから、どのみち人間じゃないよな(だから神だって!)。いつ頃、誰が考えたのか知らないけど、日本神話って面白いよな~。 またここでは、壇ノ浦の戦いの前夜、平家一門が酒宴を開いたとも伝えられている。磯良を祀っているのとその場所柄、海峡の守護・西門の鎮護として崇敬を集め、 ・建武三年 足利尊氏神殿造営 ・至徳年中 大内氏神領寄進 ・應永年中 大内義弘神殿造営 ・文亀年中 大内義隆神殿造営 ・永禄年中 毛利氏神領寄進 ・天正年中 仁保常陸介神殿造営 ・元和六年 細川忠興神領寄進 ・寛永五年 細川氏拝殿以下数棟造営 ・明和四年 小笠原忠物神殿造営(和布刈神社ホームページより)と錚々たるメンツの庇護を受け、現在に至る。写真じゃちょっと見にくいかもしれないけど、ここの狛犬は金目なのだ。 上の写真の足元にいるのは子狛犬だしね。ここにも子持ちがおったあ~!にほんブログ村にほんブログ村
2012年02月20日

さて、ここからは予備のカードで撮った写真になります。長らく写真のない記事を読んで下さった皆様、ありがとうございますみもすそ川公園は埋め立てられた場所にあるらしいんだけど、上の写真の碑にあるように、昔はここに御裳(みもすそ)川があった。今もいちおう、細々とはあるのかな・・・彦島で安徳天皇の遺骸が引き上げられたという説は以前に書いたけど、御裳川で上がったという説もある。ここの地名は、二位の尼(平時子。清盛さんの継室)の時世の句によるものともいわれている。 今ぞ知る みもすそ川の 御ながれ 波の下にも みやこありとはそして、「安徳帝御入水之処」の碑が建っている。公園内には、御裳川を模したと思われる雅なものもある。 みもすそ川公園で一番有名なのが、これ。 上が源義経、下が平知盛。思いっきり逆光ですいませんね。何しろ、カメラ事件で頭がパニクってて、撮るものだけ撮って一刻も早くこの場所を離れたかったもので・・・この2人の像は向き合って置かれてるんだけど、ここに来る前に見た写真は大抵二人を一緒に撮ってるものだったから、バカな私は、攻める義経に対して知盛さんが碇を武器にして応戦してる像なのかと思ってた。 でも、本物を前にして、それは大いなる勘違いだとようやくわかった(笑)。義経は、八艘飛び。知盛さんは、入水の場面。それぞれの有名なエピソードをモチーフにしたものだったんだ。アハハハ!ここでの碇は随分小ぶりに作られてるけど、実際一人で持ち上げることなんてできるのか~?無理っしょ~!!それに、八艘飛びね。大鎧って、何キロあるんだったっけ?大の男が何人も乗ってる小さな和舟に、大鎧を着込んだ男が飛び込んできたら沈むだろでもね~、この時代の戦いって、何とも不思議なエピソードがいくつも残ってるしねえ・・・弁慶と義経の五条橋での出会い、あれも薙刀に乗ったとか言ってるけど、そんなものに乗ったのは、実は義経だけじゃないんだよね。源氏の挙兵に先立っての、以仁王(もちひとおう)の挙兵。以仁王の臣下の長谷部信連(はせべ・のぶつら)は以仁王を逃がして平氏の追手と戦うんだけど、この人もまた敵の薙刀に乗ろうとして失敗、大怪我をしてとっ捕まったなんて楽しい話がある。公園内では、ボランティアの方々が源平の合戦とか耳なし芳一の紙芝居を見せてくれるらしいんだけど、私が着いたのは開始時刻のはるか前。でも、機会があったらぜひ観てみたいよな~。そして、これ。 この場所は、長州藩が外国船に砲撃をした砲台跡でもある。長州藩で鋳造された当時の青銅製のカノン砲を、原寸大に復元。四国の連合艦隊による下関砲撃で全ての砲台は破壊され、長州藩の青銅砲は戦利品としてすべて外国に持ち去られた。それを1966年、下関在住の作家古川薫氏がパリ・アンヴァリッド軍事博物館で発見。1984年にレンタルしてお里帰り。下関東ロータリークラブ記念事業で、模造したものを下関市に寄贈したのがこれ。結構、迫力あったよ。「撃て撃て、撃ちまくれ~!!ガッハッハ!!」って晋作の高笑いが聞こえるようだ(笑)。海峡の狭いところだから、バンバン当っただろうな~と思うけど、相手からの距離も近い訳だからね、激しい戦いになったんじゃないかと思うけど・・・他にも名物になってるものはあるんだけど、私はここで見たいものはすべて見たので、国道を渡る。渡ったところにあるのが、関門国道トンネル(国道2号線)入口。このトンネルは2層になっていて、上が車道、下が人道。そう、関門海峡は歩いて渡れるんです。すごいっしょ~!しかも、人はタダ(笑)。自転車と原付も押して渡れるけど、この場合は20円。人と車の出入り口は違う場所にある。人道トンネルの距離は780m。私さあ~、こーゆーシチュエーション大好きなんだよね~。全然関係ないけど、津軽海峡も海底で下車できるって、知ってる? 青函トンネル内に確か駅は2つくらいあったと思うけど、普段は通過する。降りたって、海の中だしね。関係者以外は使わない駅でしょ。それが、夏休みだけの限定列車で、予約しておくと乗り降りできるんだよお~!中では、ツアー形式で青函トンネルの歴史とか色々説明してくれた。私が行った時には、ドラえもんのプチアミューズメントみたいなのもあって、親子連れがほとんどだったな。そんな訳で、ここを通るのを非常に楽しみにしておったのです♪にほんブログ村にほんブログ村
2012年02月19日

2日目('12/1/8) 晴れ 本州の西の果て、下関は関東よりも日の入りは遅いけど、日の出も遅い。今日はあちこち行くので、夜明け前に起きて支度を始める。最近、支度にやたら時間がかかっちゃってえ~。今回のお宿は、唐戸桟橋の真ん前。基本、古戦場の近くに宿は取らないことにしているので(←こわがり)一旦は下関駅の近くに宿を予約したけど、色々な紆余曲折を経て、ここになった。昨日の昼間も、赤間ヶ関は沢山のお船が通っていたけど、こんな真っ暗な中でも結構大きな船が沢山通ってる。なんでこんな暗い中を航行できるんだろうな~って思いながら支度をして、予定よりちょっと遅れて出発。まず目指すのは、壇ノ浦古戦場の碑の立つ「みもすそ川公園」。下関に行くと言ったら、「寒いからあったかくして行きなさいよ~」って何人かに言われたけど、海があるせいか夜間の冷え込みはなく、したがって関東よりも朝は暖かい。途中、ふたを見ながら歩くけど、どれもフグバージョンだった。今日は海を渡る。門司といえば、バナナのたたき売りだから、バナナ柄のふたなんかあったら楽しいのにな~とか思いながらてくてく歩く。宿からは国道9号線をひたすら東に進む。歩きながら海を眺めては、壇ノ浦の海戦に想いを馳せて、朝から萌え~で頭の中は忙しい。そんな風にただ萌えながらひたすら歩いてたので、途中にある「武蔵船出の地」の石碑に寄ってくのを忘れた(笑)。巌流島の決闘へ向けて、宮本武蔵が船出したという碑らしかったんだけど。海峡で最も狭くなっている「早鞆の瀬戸(はやとものせと)」にかかるのが、関門橋。橋が近くなってくると、国道の反対側に、急な斜面を上っていく稲荷の赤い鳥居が見えた。あ、ここ、昨日バスの中から見て、「すげえとこにあるなあ~」って驚いたところだ・・・その向かいの海の中には、大きな岩があって、注連縄をまとっていた。この時は、これが何なのか知らなくて、「一体どんな由来があるんだろう・・・」って思って、写真だけ撮って通り過ぎたけど、後で『赤間神宮』を読んでやっとわかった。鳥居の奥にあるのは、立石稲荷神社。海中に立つのは、烏帽子岩。立石稲荷神社は伏見稲荷の分霊で、平知盛がそれを授かって祀り、烏帽子岩は立石稲荷神社のご神体という伝承をもつらしい。そして『赤間神宮』は、次のような伝承も教えてくれた。 【約七十年位い前、珍らしい激浪のためにその大石が倒れ、それ以後、 大風・火災・疫病が続き町の人々を悩ませていたが、ある夜 老漁夫の夢枕にキツネが現れ、「あの大石を早く起さなければ 災難は次々に起こるであろう」と告げたので、早速町民を集めて立て直したところ、 その日から災害は起こらなくなった】(原文のまま)烏帽子岩の注連縄をかけ替える神事「しめなわ祭り」が毎年12月中旬に行われ、『赤間神宮』にはその写真も出てるのだが、なんだかすごい。神職が裸足で岩の上に立って、祭事を執り行っている。その後ろには、和船が5艘。烏帽子をかぶって笛を吹いてるような人も見えるし、船には「神宮御用」と「大漁満足」ののぼりも立ってる。赤間神宮にあった「大漁豊満」ののぼりといい、下関での漁関係の祈願の言葉はどうも笑えるものが多いけど、海を生活の糧とする人々にとっては、海の安全と大漁は大切なことだからね、笑っちゃいかんよな(でも笑うけど)。『赤間神宮』では、先程の伝承の紹介の後に、 【これはまさに怨霊鎮めの範疇に属する祭事であるということが出来よう】と続く。ここは地元の漁民が細々と祭っていたが、昭和26年に初めてしめなわの奉納を行い、以後盛大になったという。近年になって盛大になるってのも、ある意味すごいことだと思うけどね。という訳で、ここも平家関連の史跡だった。幕末の史跡も当然多いけど、やはり下関は平家色が強いように思う。関門橋を過ぎてさらに歩くと、そこがみもすそ川公園。ハア、結構歩いたな~。しかし、疲れたなんて言ってられない。海に向かったベンチに座って、休憩がてら萌え~ このあたりの海面は、よく見ると小さな渦がいくつかある。見えてる以上に流れは速くて、複雑なんだろうな~。壇ノ浦の合戦については、色んな説があるし、ここでこまこま述べるつもりはありませんが、現在では大正時代に黒板勝美氏が提唱した潮流説が割と一般的なのかな。赤間ヶ関では1日に4回潮の流れが変わることは以前にも書いた通りですが、その流れの変化が戦いを左右したって説ね。対岸の門司にあった解説を拝借して、合戦の経緯をダイジェストで見てみましょうか。 上の方にある干珠・満珠ってのは、義経が陣を置いたとされる島。壇ノ浦の戦いとはいうものの、実際はもう少し上の方が激戦地みたいな感じだよね~。潮流説については、どちらの舟も同時に流されている訳だから、戦いには影響しないとする反論もあるみたいだけど、それはあくまで机上の論理であって、心理的な影響も見過ごせないでしょう。相手との距離は同じでも、自分が押されているような位置にあってモチベーションの上がる人もそういないんじゃないかと思うんだよね~。中には、逆境に燃える人もいるでしょうけどさ・・・いずれにせよ、このあたりで平家の戦いがあり、そして一門は滅んでしまった・・・哀しいのうで、カメラを取り出した私の身にまで起こった哀しい出来事については、以前に書いた通りですので、読んでない方はそちらをどうぞ~。にほんブログ村にほんブログ村
2012年02月18日

斜面を降りたところから少し歩くと、そこが引接寺(いんじょうじ)。李鴻章さんは、引接寺のすぐ近くで撃たれたらしい。昨日以前にも、実は引接寺の名前は一度出てきています。「赤間ヶ関編(24)」の朝鮮通信使の真ん中らへん。そう、ここは朝鮮通信使の客館にもなった、歴史あるお寺なのです。室町時代には50人位だった使節団は、江戸時代には300~500人規模へと膨れ上がり、阿弥陀寺(赤間神宮の前身)と引接寺に分宿した。阿弥陀寺には三使及び上官、引接寺には中官と下官が宿泊し、付き添いの対馬藩主は本陣伊藤家に、対馬藩士は数十件の商家へと分かれて滞在した。客館は通信使の来日のたびに修築されて、豪華な調度品が整えられたという。このことからも、阿弥陀寺と引接寺の格の高さがわかるでしょう?現在の引接寺は哀しいかな、何も知らない人はあっさり通り過ぎてしまうようなちょっと地味な風情だけど。引接寺はもとは、永禄3年(1560)に豊前から引っ越してきた寺院。それを、小早川隆景の霊を弔うために、小早川秀秋が慶長3年(1598)に現在地に建立したもの。隆景の遺言だったって話もあるけどね。ここも下関空襲の被害にあい、本堂は焼失。しかし、山門は残った。山門の天井にあるのが、左甚五郎の作といわれる見事な龍の彫刻。この龍については、こんな伝承がある。 【「山門の龍」 江戸時代末期、引接寺付近は山陽道の起終点でもあったことから、大繁華街でした。 その頃のある夜中、引接寺の石段下で通りがかりの旅人が何者かによって殺されます。 番所役人が何度となく調査しても、犯人が見つからないので苦慮しているところ、 次々と同じ場所で人が殺されます。 奇妙なことに、殺された旅人のふところにはお金が残っており、 これは強盗の仕業ではないとすると、鬼か大蛇ではないかとのうわさが広まります。 そんな中、ある勇敢な侍が「それでは拙者がその鬼とやらを退治してやろう」と 夜中に引接寺へ出かけます。侍は不意に襲い掛かった怪物を見事早業で切りつけ、 怪物はうめき声とともに消え去りました。 翌朝、侍が現場に行ってみると、黒々とした血筋がお寺のほうに向かって 流れています。その跡をたどって行くと、ちょうど三門の下で血筋が消えていました。 不思議に思った侍が上を見上げると、そこには真っ二つに割れた龍の彫刻が! 旅人達を襲った怪物は、この三門の龍だった、というお話です。】 (しものせき観光ホームページより)これをね、この龍を見たかった。もう17:00ギリギリなので、石段を駆け上がってとにかく写真だけあれこれ撮って、なんとかセーフ(笑)山門の天井はそう高くはないので、大きくて立体的な龍を見上げて割れた部分を見ようとしたけど、なにぶん夕暮れ時で、薄暗くて見えなかった。だから、後で写真で確認しようと思ってたのに・・・はい、ここの写真もだめになりまいた~。あまり長居して、お寺さんの迷惑になってたらいかんな、と思ってちょっとだけ見てすぐ帰ってきたけど、白木の迫力ある彫刻だったよ。もっとじっくり見たかったな・・・「しものせき観光ホームページ」さんには、こんな解説もある。 【そもそも「龍」は想像上の動物。 大陸ではご存知のとおり「守護神」「厄払い」的な意味を持つものとして 崇拝されています。その龍が三門に飾られてある寺院は、 その格式の高さを示しているのです。】へえ、龍と格式・・・それは知らなかったな~。引接寺には他に、こんな伝説もある。 【「引接寺口説(くどき)」 これも江戸時代の話であると伝えられています。 「お杉」という萬小間物屋の娘が引接寺の僧「浄然(じょうねん)」という僧に 一目ぼれしてしまいます。 お杉は恋文をしたためて浄然に渡しますが、浄然は、仏に仕える身ゆえ、 恋文などは受け取れないとそのまま返してしまいます。 恋文を返されるとお杉はますます浄然に会いたくなり、ある夜、男物の衣裳をつけて 引接寺へ出かけ、寺の塀を乗り越えて、浄然の寝所に忍び込み、告白します。 浄然も反論しますが、もし一緒になれないならこの場で死ぬといって 浄然を説き伏せてしまいます。 一方、お杉に熱い想いを寄せていた町奉行は二人のことを知ると、 無実の罪をきせて二人を処刑してしまう。とても悲しい、しかし当時非常に流行した ラブストーリーなのです。】(しものせき観光ホームページより)下関の伝統芸能である「平家踊り」の数ある口説の中で、引接寺口説は最も好まれたそうな。下関を訪れた多くの旅人たちが引接寺口説に触れ、全国に広まっていったとされ、最近では兵庫県滝野町で踊られていた「馬鹿音頭 お杉」のルーツが下関にあったことが判明したんだとか。歴史って、ホント面白いよな~。これで本日の行程はすべて終了。急いでカモンワーフに戻って、夕食用に「ふく焼き」をゲット♪ふく焼きは、たこ焼きのフグバージョン。フグそのものが淡泊だから、「おお、フグだ~!」って感じはしなかったけどね。でも、美味しかったよまだ年明け間もないカモンワーフには、正月バージョンでのしをまとったツリーがあって笑えた。 宿に入ってもらった部屋のキーも、下関名物、ふぐ。 「かっ・・・わいいですねえ~!」って思わず言ったら、「ありがとうございます」って、フロントのおじさんがはにかみながら答えた。下関は楽しいところだ。今日の歩数は13,672歩。まあ、半日だけだからね・・・にほんブログ村にほんブログ村
2012年02月16日

朝鮮通信使の上陸記念碑があるのは、赤間神宮の駐車場の右奥。正面の奥は小さな坂になっていて、海へ降りられる・・・けど、浜辺って訳じゃないから、どぷんどぷんと波が打ち寄せてきて、近づくと危ない(笑)赤間ヶ関(関門海峡)は潮の干満により、1日に4回潮流の向きが変わる。この日は大潮を翌日に控えた中潮にあたり、時間的に言ってちょうど流れが変わり始める頃だったのかな。それでも、相当流れは速い。海って言うより、川の流れみたいだ。その坂のすぐ脇に、海に面したベンチがあったので、風は冷たかったけどここに座ってしばし萌え~ 写真の橋のあたりが関で一番狭くなっている、「早鞆の瀬戸(はやとものせと)」と呼ばれる場所。狭い分、流れも速い。赤間ヶ関の流速は、鳴門海峡・来島海峡に続き国内で3番目の速さ。流れの速さもさることながら、船舶の通航量の多さ・航路の複雑さなどから、ここを通る船は水先案内人の同乗が義務付けられているそうな。殿下もここで座礁してるしね。その話はまた後の記事で書きますね。しっかし、こんな速い流れのところで海戦があったなんてね。陽が落ちるまでここでまったりしていたい気分だけど、最後に寄ってくところがあるので、重い腰を上げる。坂の手前には大きな碇(いかり)がある。場所的に、平知盛に関連してのオブジェかな~と思ったら、こんな立札があった。 【海峡守護「碇」の由来 安徳天皇を祀る赤間神宮は、関門海峡の鎮めの神と仰がれています。 今を去る800年の昔、源平壇ノ浦の戦いに平家の大将知盛は全てを見収め、 碇を背にして海中深く身を投げました。 その後「碇知盛」の名で能や歌舞伎に演じられ、勇将振りがたたえられています。 このいわれをもとに、海参道の入口を選び現代の碇を奉納し、ご祭神の御霊を鎮め、 海峡の平安を祈るものです。】源平800年祭を記念して、下関海洋少年団が寄進したとある。いちおう、最後の総帥は知盛じゃなくて、宗盛だけどね(笑)。知盛も宗盛も、どちらも清盛さんの子。知盛さんは、「見るべきほどのことは見つ・・・」というセリフで有名な方。ホントにそう言ったかどうかはわからないけど。総大将の宗盛さんに比べて、知盛さんの方が知名度が高いのは、やっぱりその最期の違いでしょうかねえ・・・でも、宗盛さんの人間っぽさは、私は嫌いじゃないけどね。そして、さらにこの立札。 【謡曲「碇潜(いかりかづき)」と壇の浦 謡曲「碇潜」は、平家一門の修羅の合戦の模様とその悲壮な最後を描いた曲である。 壇の浦の古戦場を弔いに来た旅僧が乗り合わせた渡し舟の漁翁に軍(いくさ)物語を 所望する。 漁翁(実は平知盛の幽霊)は能登守教経の奮戦と壮烈な最期を詳しく語り 跡の弔いを願う。 旅僧の回向に導かれるように勇将知盛の姿が現れ、安徳天皇を始め 一門悉く入水するまでの経過と、自らの修羅の戦いの有様や碇を頭上に戴いて 海中に飛び込んだ知盛の幻影を旅僧は見たのであった。という構成を持つ 「舟弁慶」の類曲である。 壇の浦は急流で知られる関門海峡の早鞆の瀬戸に面した一帯をいう。 平家滅亡の悲哀やその最後を美しくした総帥の面目と情趣に想いの馳せる 海岸である。】(謡曲史跡保存会の解説板より)そう、解説にあるように、知盛さんは碇を体に巻き付けて海に身を投げたと言われておるのです。ここにあるのは、下関海洋少年団の解説にもあるように、現代の碇。当時の碇ってのは、どんなもんだったんでしょうねえ・・・国道へ出て、赤間神宮のお隣、春帆楼へ。春帆楼の入り口は急な坂になってて、その脇には駐車場みたいのがあった。駐車場の奥に、「本陣 伊藤邸跡」って大きな看板があるのは見たんだけどね、この近くにあるのかな~とか思ってた。ところが、後でパンフレットとか見てたら、この伊藤邸ってのは、まさに看板のあった場所で、龍馬さんがお龍と新婚生活を送った場だった。いちおう私、龍馬ファンなんだけど~!てゆーか、ここまで地道にブログを読んで下さった方はわかると思うけど、下関ってのはホントに色んな歴史を抱えてるところだからさ、ここに幕末の史跡まで含めるととんでもない事になるので、幕末関係のは全然調べてなかったんだよね~。ので、ファンであるにも関わらず、この新婚さんの地を素通りしてしまった私・・・(笑)で、陸奥君の写真を撮った時に確認しておいた「李鴻章(りこうしょう)通」へ向かう。余談ですが、この春帆楼は、フグ解禁のきっかけとなった場所でもある。ここで伊藤博文がフグを食べて絶賛したことに由来するそうな。さて、明治28年に日清戦争の講和会議がここで開かれたことは「赤間ヶ関編(8)」にちょろりと書いた通りですが、清国側の全権大使が李鴻章。李鴻章さんの宿舎は、ここから少し歩いたところにある引接寺(いんじょうじ)。会議場である春帆楼へと通うにあたって、危険を避けるために通ったと言われている道が「李鴻章通」。でも、その配慮も空しく、李鴻章さんは小山豊太郎という人に狙撃されてケガしちゃったらしいんだけど。小山豊太郎はその後、無期徒刑の判決を受けたと。私がこれから向かう、今日最後のスポットは引接寺なので、ちょうど会議を終えて引接寺へお帰りになる李鴻章さんと同じ道を通っていくというワケ。うっふっふ♪春帆楼の左手には、ちゃんと「李鴻章通」の看板が建ってる。で、ちょっとワクワクしながら足を踏み入れてみると・・・最初は小道程度の、まあ普通の道なんだけど、先を曲がるとめちゃくちゃ狭い道になる。しかも、急な山肌に取り付けられた道で、「ええ?これって、人んちの私道じゃないの!?」ってすぐに不安になって、入口まで戻ってもう一度確認した(←小心者)。ううむ・・・確かに「李鴻章通」って書いてあるしなあ・・・どうしよう・・・この時点で16:50近く。引接寺も歴史のあるお寺なんだけど、観光寺院っぽくないし、冬季だから、17:00には山門を閉めちゃうかもしれない。迷っているヒマはない。ええい、ままよ!と再び細い道を歩き出す。引接寺の手前には、「藤原義江記念館」てのがあって、道沿いに「この先引接寺」みたいな案内はないんだけど、「藤原義江記念館」の看板はあるから、たぶん大丈夫・・・だろう。しかしこの道、チョー狭い。ホントに狭い。ハンパなく狭い。向かいから人が歩いてきたら、普通に正面を向いたままじゃすれ違えないだろ~ってくらい、狭い。そのうち民家も出てきて、このまま人んちの庭に入りこんじゃうんじゃないかとビクビクしながらしばらく歩くと、藤原義江記念館への道が現れた。ここで記念館とは反対方向へ向かい、斜面を降りてこの心細い道ともお別れ。目的地はもうすぐだ~。にほんブログ村にほんブログ村
2012年02月15日

さてさて、江戸時代に入って、徳川家康や対馬藩の尽力により両国関係は修復され、慶長12年(1607)から再び朝鮮通信使が来日、江戸時代を通して12回の派遣を数えた。一般的に「朝鮮通信使」と呼ばれるのは、この江戸期のこと。まあ、修復って一言で言うけど、色々大変だったみたいでね。それを実現させたのが、対馬藩の涙ぐましい努力。なんで対馬か?立地的に、対馬藩の盛衰が朝鮮との貿易にかかっていたから。国交が断絶したことは、対馬藩にとっては非常に困る問題で、何が何でも朝鮮の役以前の状態に戻したかった。ゆえに、宗義智は、朝鮮との国交回復を徳川家康に嘆願しつつ、みずからも朝鮮の捕虜を返したり、 朝鮮に使者を送るなどの努力を重ねていった。それがめでたく実ったのが、慶長12年。この時の朝鮮通信使は、秀忠の将軍襲職の祝賀が目的だったが、徳川新政権に対する初めての修好使であり、その意義は大きかった。まだこの時点では、豊臣家は存続している。けれど、着々と新政権を整えつつある段階で外国の使節を迎えるということは、政権を担う幕府にとっては威厳を加えるものであり、また朝鮮側にとっても、清国の興隆によって大陸での勢力の変化が現れ始めた関係上、自国防衛の観点からも早期の国交回復が望まれていた時期でもあった。そして、 2回目・・・元和3年(1617)、徳川家の天下統一の祝賀 3回目・・・寛永元年 (1624)、家光の将軍襲職の祝賀と続き、4回目からは正式に朝鮮通信使として来日するようになった。3回目まではね、上記の目的もあったんだけど、その他に家康の書に対する回答と、朝鮮の役の際に拉致された朝鮮人の返還を兼ねていたので、「回答兼刷還使(かいとうけんさっかんし)」という名称だったらしいんだな。で、どんな風に使節がやって来たかというと、まずソウルから釜山までは陸路。釜山の永嘉台から船出し、対馬の佐須奈浦(上県町)に入港する。その後府中(厳原町)に上り、ここで島主である宗氏と一定の儀礼を交わす。これに10日ほどかかる。今度は対馬から、対馬藩や各地域の藩の船とあわせた、約800~1,000隻もの大船団となって、要所要所の港で潮待ち・風待ちをしながら大坂へ。大坂からは幕府が用意した御座船で淀川をのぼり、淀へ。京から江戸までは東海道を陸路で。ここでの行列は約3,000人にも上ったという・・・どんだけ(笑)江戸へ到着すると、幕府上使が朝鮮通信使の客館へ訪問して、その後将軍に拝謁したのち、ようやく慶賀の儀に入る。 すべての儀式が終了すると対馬に渡り、朝鮮への帰路に着く。この間およそ5~6か月。宗氏は終始、その先導をつとめる。いってみれば、これは宗氏の晴れ舞台・・・なんて気楽なものじゃなくて、外交の表舞台に立つ訳だから、両国のあいだにあっての気の遣いようは一通りのものではなかったという。しかし、対馬としては死活問題だから、両国に体面を失わせないよう、また平和的に朝鮮貿易を持続させるために、どのような苦労もいとわなかったと。接待には各地でも相当気を遣ったらしく、浅野藩でのもてなしは『安芸蒲刈御馳走一番』 と言われるものだったそうな。客館の修繕から調度品の入れ替え、さらには豪華な料理と続き、他に例を見ない、といった意味が含まれていたと。両国関係が安定すると、通信使は将軍の襲職のたびに派遣されるようになる。政治的な交流はもちろんのこと、文化的な交流も深まった。なにしろ、鎖国下にあって、李氏朝鮮は正式に国交のあった唯一の国。海外の文化に接する数少ない貴重な機会だった。そのため、使節団が来日すると、朝鮮通信使についての絵入りの本や屏風などが数多く描かれ、出版されたという。安土城総見寺にも、確かそんな絵があったのを見たな~。てことで、上陸記念碑の話に戻りますが、下関に着いた一行は、赤間神宮の前の海岸から上陸したとある。そして、客館である阿弥陀寺(赤間神宮の前身)と引接寺(いんじょうじ)に別れて滞在。往復ともにここに立ち寄ったそうな。通信使の中には、優れた学者や文化人が数多く含まれており、朝鮮王朝の先進的な儒学や医学を学ぶため、防長の文士や学者が押し寄せ、盛んに文化交流が行われた。また、その成果も出版されたと。江戸時代の海外の文化といえば、長崎とかをつい思い浮かべちゃうけど、下関でもそんな花が開いてたんだね。あまり知られてないと思うけどところで、1711年に来日した通信使が萩藩毛利家に贈った品が、県立山口博物館に所蔵されておるそうな。この時の使節は、徳川家宣の6代将軍就任を祝うためのもので、下関での藩主自らの饗応に対する返礼として、宗氏を介して江戸で贈られたものなんだと。毛利宗家の藩主自らが、萩から下関へねえ・・・ここからも、各地での接待ぶりも窺えようというもの。で、その目録に記載された進物は、 人参・黒麻布・黄毛筆・真墨・色紙・栢子(はくし=チョウセンゴヨウの種子)・ 硯石・扇子とある。人参を除いては、現在もほぼ当時のままの状態で保存されておると。じゃ、人参は?なんかね、使っちゃったみたいなんだよね当時もやはり、珍重されたらしくてね~。目録は他のところにも残ってるみたいなんだけど、目録とセットで現物が保存されているのは、ここだけらしい。物持ちええのお~(笑)正式名称は「正徳元年朝鮮通信使進物並進物目録」。進物と目録セットで重要文化財に指定されております。ただし、常設展示はしていない様子。県立山口博物館さんのサイトでは、進物の一部を写真で見ることができます。↓ランキング参加ちう~!にほんブログ村にほんブログ村
2012年02月14日

さてと、赤間神宮での目的をすべて果たしたので、神社を出ようとしたところで、宿へ戻るのはもう少し先になりそうだからとトイレに寄ってくことにした。で、境内の一番低いところ、この写真の前を横切っていたらば、すぐ右脇に、なにやらびっしり文字の書かれた石碑があるのに気がついた。 石碑の材質と文字の字体だの大きさだのがマッチしてなくて、とにかく大変読みにくい石碑だったんだけど、タイトルは「太閤石由来記」とあった。現地でも本当に読みにくくて、石碑ってのは歴史を伝えるかわら版みたいなものなんだから、読めなきゃ意味がないじゃ~ん!!とか思ったけどね。これから石碑を建てようとお考えの方がいたら(いるか、そんな人?)、はっきり文字が読めるようなデザインのものを作っていただくよう、お願いしますね(笑)。「太閤」と聞いて、おそらく9割くらいの人がまず1人の人物を連想すると思うんだけどね、その太閤殿下のことなのか!?と思って頑張って読んでみたらば、大ざっぱに言ってこんな内容らしい。 大坂城築城にあたり、肥前の国からいかだで大量の石が運ばれてきた。 ところが、赤間の急潮に阻まれ、月日を費やしているうちに大坂城が完成。 もはや用をなさなくなった石たちは、赤間の海へと捨てられてしまった。 昭和42年、なんとその石たちが海中から引き揚げられ、ここ赤間神宮へ奉納された。海を渡れずにモタモタしてるうちに城が完成しちゃったって、どんだけ難儀したの~!いやいや、笑っちゃいかんな。赤間ヶ関は、幅は狭いけど、ホントに流れは速いから。それで、何百年ぶりかに陽の目を見た石たちで水天門の下の石垣を築いたっていうんだけど・・・これって、いわゆる「残念石」に入るよね?残念石自体はあちこちにあるけど、残念石で石垣を組んだのって初めて聞いたし、初めて見た気がするけど!なんか、すごくない~!? 残念石ってのは、修羅(ソリ)からぽろりと落ちたとか、端が欠けちゃったりして、せっかくお城の一部を構成するために切り出されたのに、結局お城の一部になれなかった残念な石たちのこと。各地で長い間やっかい者扱いされてきた残念石に比べると、立派な石垣になっただけ、ここのはまだ幸せかな~とか思うけど・・・まあ、石に残念も幸せもないか(笑)人間の勝手な思い込みかな。この石碑には、天正15年3月に殿下がここに来て、安徳天皇の御影を拝し、献歌をしたと書いてある。へえ、亀山八幡宮の太閤ソテツに続いて、殿下のスポットは2ヵ所めだ。この他にも、直接的にではないけど、殿下のゆかりのスポットがいくつか出てきますのでね、それについては、おいおい・・・で、トイレに行ったんだけど、このトイレがまた、水天門とかと意匠をあわせたデザインでね。当然、写真を撮りましたが、これもダメになった。大体、トイレとか色んな貼り紙とか写して公開する人間なんていないべ~。そんな、誰も見向きもしないような地味に面白いものも私にとっては大切な旅の記録なので、あえて公開する。これが戦国ジジイ流・・・なんちってトイレでスッキリしたところで、今度は神社の正面から出て国道を渡り、赤間神宮の駐車場へと向かう。駐車場の隅っちょには、安徳天皇を抱いた・・・確か二位の尼の彫刻があったんだけど、正直言ってあんまり好きじゃない像だった・・・この駐車場の奥には、「朝鮮通信使上陸淹留(えんりゅう)之地」碑がある。朝鮮通信使ってのはあちこち見にいくと結構聞く名称だけど、朝鮮から来た人達ね、くらいにしか思ってなかった。ところが、今回の旅にあたって、「朝鮮通信使とは、何ぞや?」って今さらながら素朴な疑問が湧いてきて、あれこれ調べてみたら、これがまた面白いのだ。全部書いてると、それだけでまた5話くらい軽くいっちゃうから(笑)、かいつまんでの説明にとどめますが、興味のある方はぜひご自分でも調べてみてくだされ。さて、ここ下関は、その立地から朝鮮半島との交易・交流の歴史は古く、西暦561年の 「日本書紀」には、新羅の国使が当時の迎賓館であった「穴門館」に立ち寄ったという記事がある。朝鮮通信使の始まりは1404年の室町時代。当時、倭寇で困っていた朝鮮国が、倭寇を退治して安定を得るのではなく、国交を結び、貿易を正式に認めることで対応しようとしたもの。そして朝鮮国と日本が対等の外交関係を開き、使節が派遣されることとなったが、この使節は、 朝鮮側→「通信使」 日本側→「国王使」と呼ばれた。この「通信」って言葉は、「信(よしみ)を通わす」、つまり信義を通わせるという意味なんだと。室町時代には、朝鮮通信使は7回計画され6回実行されたものの、そのうち来日を果たした通信使は3回。主に、足利将軍家の将軍襲職の祝賀や日本の国情探索、それから倭寇の禁圧要請などを目的とした。下関は、朝鮮通信使が初めて接する日本の都会で、潮待ちや風待ちなどのため、必ず滞在する必要があった。そのため、最後の通信使を除く16度の通信使が下関に寄港している。特に、倭寇の禁圧要請が最大の使命となっていた室町時代の通信使は、倭寇に影響力を持つ大内氏とも信(よしみ)を通わす必要があったので、通信使はここ下関で必ず大内氏の当主と対面し、倭寇禁圧や海賊が横行する瀬戸内での通信使船の航行安全などを要請したと。という訳でこの時代、下関は通信使の成否を握る重要な地であったんだと。外国との貿易で莫大な利益を上げていた大内氏にとっても、通信使の成功は大切なものだったはずだしね。しかし、大内氏は滅び、時代が下ると豊臣秀吉の朝鮮出兵により両国関係は破綻。朝鮮側からは2度、和平のために朝鮮通信使を派遣したものの、殿下がこれを無視・・・さて、どうなる!?にほんブログ村にほんブログ村
2012年02月13日

普通の観光と違って、史跡巡りってのは、事前の下調べが特に重要ですのでね、ここまで書いた諸々の話も、『赤間神宮』からの引用などを除いては、おおむね準備の段階で調べた事ばかりなのですが、色々読んでて、「なんで平家の話ってこんなに多いんだろう?」とか「なんで怨霊話って平家が多いんだろう?」って思った。だって、壇ノ浦では源氏方として戦ったいくつもの家系が、平氏滅亡から何年も経たないうちに、滅ぼされてくじゃない?三浦・和田・畠山・梶原など、一族討ち死になんてボロボロあるのに。なのに、なんで平家だけがこんなにあれこれ語られるんだろう?怨霊の話ってのは、死んだ人のことを語るので、一見死者の話のようではあるけれど、その実、生者の心理の投影でもあるんだよね。「平家の怨霊話」というと、現代人はともすると 『平家が祟った話』ととらえがちだけど、そうじゃなくて、 『平家が祟ったと当時の人々が考えた話』だから、取り違えないでね。別に、平家好きだからといって「あんなに素晴らしい平家の方々が祟るハズない!」なんて事は言うつもりはありませんが。遠い昔の不思議な出来事について今さら科学的に検証するなんて無理な話だし、私の身に起こったカメラ事件についても、原因を追及する気はございませんじゃ~、どんな心理なのか?平安時代頃には、政争に敗れ失脚したり、非業の死を遂げた貴人が亡霊となって疫病を起こさせたり、天変地異をもたらしたりすると考えられるようになった。こうした亡霊を復位させたり、諡号や官位を追贈して神として祀れば、祟るどころか今度は「御霊(ごりょう)」という鎮護の神となって平安をもたらすとされた。これが御霊信仰といわれるもの。恨みを遺して死んだ(と思われる)人を勝手に祀り上げれば、マイナスのエネルギーがゼロになるんじゃなくて、ゼロをすっ飛ばしてプラスに転じると考えるあたりが宗教的に脳天気な日本人らしくて笑えるところだけど、御霊信仰って決して昔の話じゃないからね。日本人なら誰でも知ってる御霊の代表格といえば、菅原道真公。公を祀った天満宮は全国各地にあって崇敬をあつめてるし、2012年の初詣の参拝客ランキングでは堂々10位に入る人気。その他、日本史上の名だたる怨霊の方々を合祀した京都・上御霊神社には、現代においても皇室も特別の気の遣いよう。例えば、今上陛下が昭和27年に立太子した時には、報告の幣帛を捧げているし、昭和43年の本殿再建の際には、天皇家のみならず、各宮家からも寄進がなされたそうな。さらに、平成14年には皇太子殿下が訪れたと・・・ね、それとは気づかなくても、御霊信仰は現在も続いてるものなんですよ。ところで、慈円(1155-1225)は自らの著書『愚管抄』の中で、 ”怨霊というものは、現れるだけの理由があって現れるものであり、 それは意趣を返すためである”と論じている。というあたりから考えて、まず、栄耀栄華を極めた頃と最後のギャップがありすぎて、平家の最期は想像する以上に悲惨なものだった・・・とかね。あるいは、都から遠く離れたこの地で行われた戦闘と残党狩りは、純朴な民にとってはそれこそ目を覆いたくなるほどの光景だったのかもしれない・・・とか。それから、平家は西国に勢力を張っていたから、縁戚関係などで平家と協力関係を結んでいたり、恩恵を受けていた人も多かった。その人達がどの程度裏切ったり、あるいは静観していたかはわからないけど、平家の滅亡を前にして、複雑な思いだった人も相当数いたのではなかろうか。西国だけじゃないよ、京にだってそうした人々は沢山いたはず。平家の総帥・平宗盛をはじめ、捕虜となって京へ送られた平家の残党は多いけど、引き回される敗残兵の行列を眺めるギャラリーのすべてが、平家の滅亡を心から喜んだ人ではなかったと思う。平氏を追い詰めた後白河院でさえ、のちに平家一門の供養のために高野山に荘園を寄進したりしてるし、「平家物語」の中ではわざわざ大原の建礼門院の庵を訪れたことになっている位だからね。あ、建礼門院さんは、院から見れば「息子の嫁」ね。 (高松・平家物語歴史館) 後白河天皇は平家の娘(建春門院)を娶り、高倉天皇が生まれた。半分平家の血が入った息子のところに、またまた平家出身の嫁が来た。しかも、清盛さんの娘であったその嫁は、高倉天皇の中宮となった。そこから生まれた孫が、安徳天皇。浅からぬご縁でございましょ? 建礼門院は一門とともに西国へ落ちのび、壇ノ浦で入水した・・・が、源氏方に引き上げられてしまう。その後、髪をおろし、大原に庵を結んだのが上の写真。こんな風に、婚姻などによって平家と縁のあった人間は宮中にも沢山いた。だから、恐れとともに、後悔だとか憐憫だとか、色々な思いがあったんじゃないのかな~と思うのだ。ただの鎮魂や畏怖というには、ちょっと群を抜きすぎてるもの。そうは思いませんか?にほんブログ村にほんブログ村
2012年02月12日

平家の落人の里という伝承地については、遠いところならまあ納得できるよね。「ここまで行くの、大変だったでしょうに」とは思うけど。しかし、下関にも結構あるんだよな~。そんなに広いところじゃないし、昔は他所者って結構目立ったでしょうから、下関に潜伏するってのはホントに可能なのか!?という疑問がわく。先帝祭のところで書いた中島さんちもそうだし。火の山からほんの少し北に行った高畑部落というところは落人の里といわれており、そこにある数基の五輪塔(「平家塚」)は平家武者の墓といわれている。この周辺は「平家やぶ」と呼ばれ、かつてはここに一歩でも入ると祟りがあると恐れられてきたそうだが、現在では地元の方々によって供養がされている。壇ノ浦の合戦後の下関には、まずは源範頼(頼朝の弟)が知行として戦後処理にあたり、ついで土肥実平が惣追捕史(そうついぶし)として長府に居城を構えている。だから、当然のことながら、下関周辺の探索は結構厳しかったんじゃないかと思うんだけどね~。余談ですが、この土肥実平さんはあの小早川氏の祖といわれている人です。もとは平氏の流れを汲む家系なんだけど、頼朝の挙兵の際に馳せ参じ、実平の子・遠平が土肥郷の北部にある小早川(小田原あたり)に拠って小早川の名字を称したのが始まりと伝わる。つまりは、小早川さんちは平氏だったんだね。あれだけ大きな戦いのあった地なので、下関には源平に関連する伝承なども数多くあるが、面白いのは、そのほとんどが平氏に関するもの。勝者の源氏じゃなくてね。源氏関係もあるにはあるんだけどね。義経が戦勝祈願をしたといわれる大歳神社とか。でも、平氏の話に比べたら、実に少ない。対岸の門司にも色々あるけど、こちらも同じ。平氏の話といっても、いちおう敗者ですからね、ご想像の通り、ハッピーな話ではございませんが・・・例えば、こんなの。 ■きぬかけ岩 ある平家の武将とその妻が彦島まで逃げてきたが、矢傷でもはや助からないと 観念し、ともに海に身を投げた。 夫はそのまま海へと消えたが、妻は漁師に助けられて息を吹き返した。 助かりはしたものの、夫を恋い慕い、妻は毎日のように身を投げた岩へと 登り続けるうち、心身ともに衰弱していった。 ある嵐の日、いつものように岩へと登った妻は荒れ狂う海を見ていたが、 つと立ちあがって着物を脱ぎ、そのまま海へと身を投げてしまった。 今度は妻も海へと消えたが、妻の脱いだ着物は風にも飛ばされず、いつまでも 岩にかかっていたままだった。 それからはその岩のことを、「きぬかけ岩」「身投げ石」と呼ぶように なったそうな。 ■姫の水 合戦を逃れた4人の平家の官女が彦島に隠れ住んだが、苦しい生活に耐えかねて、 海に身を投げてしまった。 そのうちの1人は浜に打ち上げられて命は助かったものの、来る日も来る日も 泣き暮らして、やつれてしまった。 ある日、官女は忽然と姿を消してしまい、村人たちが探し回ったところ、 遠く離れた山中で喉を掻ききって自害した官女を見つけた。 村人は1本の杉の木を植え、彼女の墓を作って手厚く葬った。 その後、不思議なことに墓の下から冷たい水が湧き始め、杉は大木へと成長した。 村人はこの湧き水を「姫の水」とよび、付近を開拓して「杉田」と名付けたという。 明治頃まではこの墓はこの地に建っていたそうで、杉田の地名も今に残るが、 杉の大木は今は見られないそうな。いずれも哀しい話じゃのう・・・でも、火のないところに煙は立たないので、それなりの数の落人がいたんでしょうね。中には捕まってしまった人もいたでしょうけど、上の話にあるように、地元の村人から哀憐の情を寄せられるケースもあったでしょう。その思いがあったからこそ、800年を経てなお、こんな話がいくつも伝えられているのだ。にほんブログ村にほんブログ村
2012年02月11日

安徳天皇陵は、建久2年(1191)に幼帝の皇怨霊を鎮慰のため、朝廷の勅によって建立された霊廟。明治13年に修理されて、安徳天皇阿弥陀寺陵として宮内庁の管轄となった。木彫りの安徳天皇の等身大像が本尊とされ、平家一門の10人の肖像画が取り囲んでいたとされるが、戦争によって焼失したと。安徳天皇の陵といわれているものは全国に数10箇所あるらしいが、赤間神宮で新たな社殿を造営するために御影堂が解体された際、本殿の床下から五輪塔が出てきたので、それが決め手となり、公式に阿弥陀寺陵(あみだじのみささぎ)とされたそうな。中の墳墓は、墳塋(ふんえい)と呼ばれる円墳で、土を盛った部分にはヒトツバが植え込まれ、中心部には神の依代として、2本のオガタマノキが植えられている。そのすそ周りを、高さ約80cmの御影石で八角形に囲み、さらに全体を玉垣で囲んで、木製の簡素な神明鳥居が建てられている、とある。陵の裏手は七盛塚に当たるので、七盛塚から少しだけ覗けるみたいなんだけど、一体どっから覗くんだ?ずかずかと塚の間に入り込む訳でもなかろうに・・・さてと、伝承地の話が出ましたね。安徳天皇は、母上(平徳子)、祖母上(平時子)と共に、水と子供の神様として全国の水天宮(久留米にあるのが総本社)に祀られておりますが、壇ノ浦から逃れたとする説も各地に存在している。 ・阿波国祖谷山(現・徳島県三好市)・・・平盛国(清盛さんの側近中の側近)が 連れてった ・薩摩国硫黄島(現・鹿児島県三島村)・・・平資盛(清盛さんの孫)と逃げた ・対馬・・・ここへ逃れて、宗氏の祖となった ・福岡県筑紫郡那珂川町・・・地元の武将が帝をお迎えした ・摂津国(大阪北東部)能勢の野間郷・・・「菅家の筑紫詣での帰路」と偽って逃れたなどなど、四国・九州を中心として、なんと全国に20ヶ所ほどもあるそうな。1つめの祖谷山(東祖谷村)には平家ゆかりの史跡も多く、9歳にして亡くなった安徳天皇の御火葬場といわれるものまである。盛国じゃなく、国盛(教経様)がついてったとする説もあるみたいだけど。祖谷の地で、教経様は名を幼名の「国盛」に改め、最終的にはそこに土着。その子孫は阿佐姓を名乗っているのだとか。また、2つめの硫黄島説については、ウィキペディアにこんな事が書かれている。 【硫黄島の伝説については、安徳天皇が先祖であるという確証はないものの、 昭和期に島民から代々「天皇さん」と呼ばれていた長浜豊彦なる人物がいた。 長浜家が「あかずの箱」というものを所持していたということも分かっている。 この「あかずの箱」というものは、中身未確認のまま島津氏に奪われたが、 この箱の中には、三種の神器のうち、壇ノ浦の戦いで海底に沈んだとされる 宝剣が入っていたのではないかと考えられる。】5つめの摂津野間郷の説は、1817年にある旧家の屋根を葺き替える際に、建保5年(1217年)の銘の入った文書が発見された。そこには、壇ノ浦から野間郷への逃避行の詳細が書かれていたそうな。当然真贋の物議をかもしたが、写本は今も現存しているという。野間郷に至るまでの途上にある、鳥取県の岡益の石堂や三朝町などには安徳天皇の陵墓参考地があるが、これらについては源氏の追及を惑わすための偽の墓とされていると。いやいや、すごいこと(笑)安徳天皇と限定せず、平家の落人の里ともなると、分布はますます広くなる。都道府県名だけでいえば、北から山形・福島・茨城・群馬・栃木・茨城・千葉・長野・新潟・富山・石川・福井・奈良・三重・和歌山・鳥取・岡山・広島・山口・・・さらに下って、徳島・愛媛・福岡・大分・長崎・熊本・宮崎・鹿児島、そして沖縄。47都道府県のうち、実に28もの県が平家の伝承地を有している。28の県って言ったって、1つの県に1つって訳じゃないからね。この他にも、高知・愛媛・徳島にまたがる山地などにも平家の伝承地がある。落人伝説とか隠れ里なんてのは他の武家にもあるけど、やっぱり平家関連がダントツに多いでしょうね。なんでだろうね?ところでこの旅に際して、平家の落武者が伝えたとされる食べ物の存在を知り、早速通販でゲットしました(↑自分で試してみないと気が済まないヒト)熊本の五家荘に伝わる、その名も「豆腐の味噌漬け」。 水切りした豆腐を味噌に漬け込んだ保存食。自作にチャレンジしたい方は、親切にもウィキペディアに作り方が載ってますので、こちらからどうぞ(笑)。レビューを読むと、”濃厚なチーズのような味わい”とかってあるけど、やっぱり味噌ですよ(笑)酒の香りの味噌チーズ風味、みたいなカンジ?保存食だけあって結構しょっぱいので、野菜とかに付けて食べたりするとおいしいかも。もろきゅうみたいに。にほんブログ村にほんブログ村
2012年02月09日

さて、上がりきったところには大連神社。 【御社殿の由来 大連神社の御社殿は、昭和のはじめ熱田神宮御造営奉賛の功績により 撤下御用材の備州桧を拝受された貝島太市翁が、渡辺長男氏謹作の 明治天皇御尊像を奉斎するために、下関市長府の自邸内に日の本神社として 建立鎮祭せられた御社殿を、御神縁を得て貝島家からの譲渡をいただき この地に移築されました。】この大連神社は、日本民族の産土神として明治40年に満州・大連市に建てられたもの。昭和20年8月の戦争終結に伴い、日本人の本土引き上げとともに御神体と神宝が昭和22年3月日本に帰国、福岡市・筥崎宮(はこざきぐう)に仮安置された。この引き上げに関しては、ウィキペディアに次のように書いてある。 【昭和20年(1945年)8月の第二次世界大戦の日本の敗戦の後、 ソ連軍が満州・関東州に進攻し、日本人の住居や商店などが襲われた。 大連神社にもソ連兵が上がり込んだが、神職が雅楽や舞楽を披露して それがソ連兵の間で評判となり、大連神社は全く被害を受けなかったという。】この時の混乱や被害は相当なものだったでしょうから、よく免れたよな~と正直複雑な感情が湧きあがってくるんだけど・・・それはともかく、大連神社の宮司であった水野久直宮司が赤間神宮に赴任した際に赤間神宮に小祠を建て、最終的に昭和55年に現在地に安置されることとなった。この水野久直宮司とは、水天門造営の由来に書いた、「戦後に着任された宮司さん」のことね。現在の赤間神宮の宮司さんのお父上だそうです。私がこの山上のエリアにいた間、ここを訪れたのはたった2組。そんな静寂の中にひっそりと佇む、ひとつの地味な社殿にも、実に数々のドラマがある。この社殿の隣にもなんか忠魂碑みたいのがあってね。確か乃木希典の後を追って自決したナントカさんと、さらにだいぶ経ってからナントカさんの後を追って自決した某さんの供養碑とか記念碑とかだったように思うけど・・・何しろ、ここも写真がなくなっちゃったのでえ~!しかし、乃木さんて長府の出身だったんだね。知らなかったな~。で、そのさらに右隣には、紅石稲荷神社がある。まあ、神社と言ってもねえ、玉垣などはないんだけど。紅石稲荷神社の御祭神は、宇迦之御魂大神。平家一門が安徳天皇を奉じて西走する際に、守り神として京都の伏見稲荷大明神を勧請して船に乗せた。壇之浦に到着すると、眺めのよい紅石山の地を選んで、神霊を安置して祀ったのが神社の由来とされている。しかし、昭和20年7月2日の空襲により、ここも社殿を焼失。壇ノ浦合戦800年となる昭和58年、この地を選んで神殿を造営し、昭和59年2月に竣工、遷座式と祝大祭が執り行われ、現在に至っている。新しいだけあってね、稲荷だから白と赤のコントラストがまぶしい社殿だったけど、お賽銭入れ用に開けられた戸の小さな隙間から中を覗いて写真を写したような(笑)写真撮影禁止と書いていなければ、結構隙間から写真を撮ることは多いので、写真がおシャカになったあと、「あそこでアレを写したのがマズかったかな~」とか思った場所がいくつかあった。ここもそのうちのひとつ(笑)ただ、特に「これはホントは撮るべきじゃないだろーな・・・」と思った場所が3ヶ所ほどあったけど、そこの写真は無事だったしね、何がいけなかったのか、わかりませんよ。ホントにここのエリアにも安徳天皇陵はなく、陵まで無事に辿り着けますよーに・・・と手を合わせる。社殿の脇には、稲荷の千本鳥居の中をくぐって降りていく石段があったけど、ここを降りても何もなさそうだし・・・海側のところにベンチがあったので、おやつを食べながら少し休憩。もう16時を回っちゃってるしな~。このまま見つからなかったら、どおしよう・・・て考えてたら、家族連れみたいなのが来て賑わしくなったので、赤間神宮の社殿の方へ戻ることにする。社殿の方にはやっぱりそれっぽいのはないので、もんもんとしながら石段を降りる。と、一段下がった手水舎の奥に、案内板を発見!ああ、こんなとこにあったあ~!!そういえば、来た時にはここにちょうど団体さんがいたので、そのまま社殿の方に上がっちゃったんだっけか。ともかく、見つかってよかった。陵といっても、がっちり門は閉ざされている。格子の隙間から中の様子を覗くけど、薄暗くてよく見えない。けど、見えた限りでは、普通の神社のように正面に大きな宮があるという感じではなく、大きな石が手前の正面に据えられていて、右側の少し回り込んだところに小さな建物みたいのがあったみたい。ここの軒丸瓦は当然、菊。 普段ならね~、メインな場所ではカメラとケータイで写真を撮って、その場で「○○なう!」って写真付きでケータイからツイートするんだけど、今回の旅はちょっと事情がありまして、全ての行動が終わるまでツイートは控えてましたので、ほとんどケータイでは撮らなかったんだよね~。軒丸瓦とかはケータイの方が綺麗に撮れるので、これはそんな数少ない写真のうちの1枚。にほんブログ村にほんブログ村
2012年02月08日

あと、「平家琵琶」が展示されてた。 【楽琵琶より小型になり、携帯しやすくできています。 銘「四辮江」、正徳年間の作品です。 平家物語琵琶譜も保存されています。】(宝物殿解説より)正徳年間は18世紀初め。正徳の出来事じゃないけど、大きな事件でいえば宝永火口が出来上がった時の富士山の大噴火とか、赤穂浪士の討ち入りとか、そのへん~。平家琵琶は、思ったほど大きなものじゃなかったね。でも綺麗なものだったよ。さて、そして最後に、宝物殿の真ん中に置いてある、安徳天皇の木彫りの御神像。享年8歳とよく言われるけど、数えかな?満年齢で7歳。この像は幼体なんだけど、直に向き合うと、やっぱり哀れを催すよな・・・ひとしきりダラダラした後、名残惜しいけどまだ後があるので、宝物殿を後にする。いや、堪能しましたあ~さてと、これで境内近辺は全部見た・・・・アレ?安徳天皇の陵(みささぎ)はどこにあるんだべ?拝殿付近を見渡すけど、どこにも案内は書いてない。水天供養塔の裏に、数段の木段があって、その先に上の方へと続くけもの道みたいのはあったけど、まさかこれってことはないでしょ~。拝殿からここまで書いたスポットはすべて向かって左側のエリアなので、右側の方に行ってみる。なんかのぼりとか立ってるし。のぼりのある場所は、展望台のようなところで何がある訳じゃなかった。おっかしいな~。展望台の山側の方に、上へと続く石段が見えたので行ってみることにする。途中にある公衆便所になんか面白い張り紙があって写真を撮ったのに、これもダメになった(泣)。(写真を撮ってる後ろで、ハッピを着た神社関係者のお兄ちゃんがタイミング悪く用足しに来て、変な目で見られた・・・当然か。)こちらの方へ来る人は皆無に近く、静か。石段を少し上がったところには、こんな説明があった。 【勅使殿之記 昭和60年5月2日 赤間神宮御祭神第81代安徳天皇800年の式年大祭に当り、 第124第天皇陛下には勅使小出英忠掌典を差し遣され、高松宮同妃両殿下の 台臨をも仰ぎ空前の盛典厳修せらる。折しも勅使をお迎えする御休所を修営す。 関門の風光を眺望する勅使殿これなり。】 (現地解説板より。漢数字は変換、句読点は戦国ジジイが追加)勅使殿は残ってたっけかな~。(←覚えてない)小広い平地に、小さな建物があったのは覚えてるんだけど・・・ともかく、勅使様をここにお迎えしたそうです。さらに上がったところには、はっきり言って古くて綺麗でない物置き場みたいのが・・・(笑)そのまま通り過ぎようとして、目の端に入ったのは、舟!その物置に地味に木の船が収納されていた。なんじゃ、こりゃ!?と思って眺めまわしていたら、解説があるのに気がついた。 【壇の浦漁釣船由来記 其のむかし寿永4年(1185)年3月、源平壇の浦合戦あり、平家は 安徳天皇とともに沈み、平家残党は亦此の地に再起を窺ふ裡に漁業に 身をまかすに至る。 是れ今に壇の浦漁師の始めなりと。 即ち早鞆(はやとも)の渦潮逆巻く中を巧みに操り、一本釣りに練達し、 舟中正座して崩さず、海底に沈み給へる御幼帝と平家一門を弔ふこと 久しき慣(なら)ひとぞ。 近年機械船の導入に依り、倭船も漸く姿を消す。今は此の一舟を遺すのみ。 舟主津田清、中山正夫此の由来を畄めむと此處に奉納、先祖の遺徳を称へむと するものなり、云々】(現地解説板より)そう、倭船ですよ。木の。これをね、この写真を、ここにばーんと貼りたかった。赤間神宮の訪問記を色々見たけど、みんな拝殿と七盛塚と安徳天皇廟の紹介だけで終わっちゃって、この倭船を紹介してるのは探した中でたった一人だけ。それだけ、境内の隅にひっそり目立たなく置かれた、マイナーな展示品てこと(笑)。もしこれから赤間神宮に行かれる方がいたら、貴重な舟だから是非見てって~。例の事件で写真がおシャカになって、一番残念だったのがこの写真赤間ヶ関(関門海峡)は狭くて流れが速いのだけど、中でも早鞆の瀬戸(はやとものせと)と呼ばれる、最も狭いところでは最速で19Km/時にも達するという。この流れをこの木舟で~!?って感じの舟だけど、昔の人ってホントすごいよな~って舐めまわすように見ながら思った。にほんブログ村にほんブログ村
2012年02月07日

左側の壁際には、一ノ谷・屋島の合戦図屏風があった。 【室町時代末期から江戸時代を通じて源平合戦を描いた屏風の類が 盛んに愛用された。これは、上流武家の男子の部屋飾りとして、 女子のために源氏物語図屏風に対する好画題であったからである。】 (『赤間神宮』より)へええ~、平成の世から歴史を振り返れば、他にもいくつかの大きな戦いはあるけど、室町じゃねえ~。南北朝の争乱もあるけど、当時からは時代が近すぎるし、源平の方が対立構図が比較的はっきりしてるもんね。しかし、女の子は源氏物語か・・・あんな不健全な話、多感な少女に見せていいのかとか思っちゃうのは、私だけ?(笑)ここ赤間神宮の宝物殿では、土佐光起・海北友松・狩野元信の名だたる絵師による合戦絵図を数点所蔵しており、いずれも重要美術品。私が見たのは、狩野派によるものだったけど、これは毛利公が藩士の教育に用いたとされるものだそうな。しかし、合戦図屏風ってのはどれもそうだけど、絵が細かくてね~。ガラスに接吻するくらいまで顔を近づけて見るけど、最近また視力が落ちたせいかあまりよく見えない。鼻息でガラスを曇らせては位置を移動し、一生懸命観賞。あ~、やっぱり単眼鏡持ってくればよかった~。一旦はカバンに入れたものの、荷物になるからって置いてきちゃったんだよな~。とりあえず、鵯越の場面には、馬をかつぐ畠山重忠はいなかった(笑)。あ~、深谷にある重忠の像見に行きた~い。赤間神宮では、合戦絵図の他にも、土佐光信による「安徳天皇縁起絵図」(重文)を所蔵しててね。この絵図については『赤間神宮』に次のように解説されている。 【赤間神宮の前身は阿弥陀寺という寺院で、そこには安徳天皇御廟堂があり、 幼帝の御尊像を安置して、その周囲に平家一門の肖像画が掛けてあり、 さらに外陣の襖障子八面に安徳天皇後一代の事績を描いた金地襖絵があった。 江戸時代には、参詣の人々にこの絵を絵解きしており その台本『安徳天皇絵説』が長府図書館に蔵されている。】ここを訪れた一般庶民に絵説き・・・ああ、なんか想像するだけでまた自分の中の時間軸が揺らぎそう・・・どれだけの江戸の善男善女の涙を誘ったことだろう。その台本って、現在公開してるのかな~。ここまで見てる間に、3組ほど見学者が入ってきた。小さな部屋だし、どうせ普通の人はすら~っと見てさっさと出ていくので、その間、普通じゃない私は座って置いてあるパンフレットを眺めたりしていた。誰にも邪魔されないで、じっくり見てどっぷり浸りたかったんだもんその中には、翌日に大河の初日を控えてたので、やっぱりNHK制作のパンフレットが置かれていた。 中を見てみると、写真入りの人物相関図が書かれてるんだけど、衣装を着けた写真じゃなく、平服の写真が載ってて、ムードぶち壊し(笑)。だって、北条政子が風に髪をなびかせて妖艶に微笑んでるって、どうなの~それから、「赤間神宮崇敬会 入会のご案内」のチラシ。平成27年には御祭神830年式年祭というのが行われるので、この機に新規会員を募集してるんだと。 【会員の特典 一、先帝祭はじめ諸行事の御案内をさしあげます。 二、宝物殿の無料拝観、会館龍宮殿ご利用に際し優待があります。 三、歳末に赤間神宮御神札・社報「水天門」をお届けします。 年会費 正会員3,000円 理事 5,000円 参与10,000円】(チラシより)理事・参与の年会費まで載せてるところがちょっと笑えるけど・・・それから、「平家物語絵巻」をモチーフにしたカレンダーの通信販売のチラシが・・・ん?林原美術館?って、あの!?住所を見たら、間違いない。岡山市って書いてある。なんで林原美術館で?しかも、何でこんなとこに置いてあるんだ?林原美術館は、去年の9月に行ったばかりでしてね、収蔵品が素晴らしいところだったけど、私が行った時はそんなの置いてなかったなあ・・・9月だから、当たり前か(笑)何か、絵巻物でも収蔵してるのかもしれないね。にほんブログ村にほんブログ村
2012年02月06日

話を初日の赤間神宮に戻します。今度は平家ゆかりの品々などを公開しているという、宝物殿へ。小さいとは聞いてたけど、ホントに小さかった(笑)。ここは無人で、入口の箱に拝観料を入れるようになっている。中は写真撮影禁止ですのでね、写真はありませんが。仮に撮ってたとしても、ごっそりやられてたと思うし。うう・・・まず正面に、きらびやかな装束というか甲冑というか、キラキラしたものがでーんと置いてある。名称は「桂甲(かけよろい)」。昭和天皇ご即位の折の、武官の装束として使用されたものだそうな。装束自体も大変綺麗なものだったけど、私は「靴沓(かのくつ)」に目がいった。平安頃の衣冠束帯の靴って、今みたいにフィットしてる靴じゃないからさ~、デカイの。とにかく。目分量だけど、縦30センチはあったと思うよ。いくら男の人だって、分厚い靴下を何枚も重ねばきしなきゃ、これはパカパカだろ~。木靴だし。どーやって履くんだろう?靴沓を間近で見る機会なんてそうそうないので、興味津々でかがみこんでじろじろ眺めてた(笑)。この桂甲と背中あわせに「蘇芳縅(すおうおどし)の大鎧」がある。 【平家一門が入水したここ下関には、源平時代の甲冑が残されていません。 そこで国宝の甲冑を復元模造したのがこれです。】 (宝物殿解説より)大鎧を近くで見る機会もこれまたそうないので、こちらも脇から覗いたりして、脳ミソに残ってるわずかな大鎧の知識を総動員して鎧の構造を確かめる。近年の復元だから、綺麗だしね♪見てて飽きないわ~正面から入って右手の壁際には、大きな肖像画。教経様を始め、平知盛、平資盛、平教盛、治部卿局、大納言典侍など、いずれも最後まで安徳天皇につき従った、平家一門の方々の雅な肖像がずら~っと並んでいる。赤間神宮の前身・阿弥陀寺にあった御影堂には、室町頃にはこういった肖像画があったらしいけど、ここにあるのは、室町の末に御影堂が再建された後のものみたい。じゃあ、これは戦火を逃れたものって事なのかな?そしてこの肖像画たちは、往時は木彫りの安徳天皇像を取り囲むようにレイアウトされていたらしい。私は萌えてるから何も変に感じないけど、普通の観光客からすれば、やっぱりちょっと、一種異様な空間に思うかもしれないね。奥にも色々ある。備前在光の薙刀・・・はあったけど、ここは教経様の太刀(伝備前友成)を所蔵しているはずなのに、確か展示はなかったんだよなあ。あと、「小枝(さえだ)」のレプリカがあった!これは平忠盛(平敦盛の祖父。大河では中井貴一が演者)が鳥羽院より賜った笛で、それを笛の名手であった敦盛さんが譲り受けたというもの。「青葉の笛」ともいうらしいね。「青葉の笛」は一時、琵琶湖に浮かぶ竹生島に奉納されており、それを聞きつけた信長様が借り受けたなんて話もある。それについての書状も残っているのですよ。 【青葉の笛は到来した。まことに見事な名物である。 しばらく手元において見たのち返す。 この笛を当山へ寄進したのは誰で、その子細はどのようなことか、 これに添う小笛の由来についても知りたい。 また静所持という小鼓の胴は雷の蒔絵と聞く。ぜひ見たいものである。 磯野に申しておくのでよろしく頼む】 (「文化遺産オンライン」 様のサイトから)「磯野」ってのは、やっぱり員昌(かずまさ)さんのことでしょうかねえ?現在、「青葉の笛」はどうやら、彦根城博物館にあるみたい・・・だけど、「青葉の笛」の伝承は複数あるらしく、例えば頼朝さんの兄上の源(悪源太)義平の残したとされる「青葉の笛」が福井県大野市にあるっていうし、少なくとも信長様が笛をレンタルした時点では信長様は笛の由来をご存じでなかったってことで、竹生島にあった「青葉の笛」がイコール「小枝」なのかはわからない。ああ、信長様はどんな回答を受け取ったんだろ~脱線しまくりで何ですが、竹生島には琵琶の名手であった平経正(清盛さんの甥)が訪れて琵琶の演奏を奉納したという伝承もあってね。経正の奏でる琵琶の音のあまりの素晴らしさにカンドーした明神様が、白龍となって経正の袖の上に姿を現したという話が平家物語にある。結構あちこちに、平家ゆかりのスポットってあるもんでしょ?それから、平家物語の長門本(重文)が展示されていた。本といっても、「赤間ヶ関編(6)」に書いた通りの下関空襲によって少し焼けちゃってるんだけど。それをコピーしてつづられているもの。長門本ってのは、原作者の信濃前司行長が自筆の20巻本を安徳天皇の御廟に奉納したといわれているもので、数ある平家物語の中でもとりわけ多く写本されて、現在、全国各地に60本くらいの現存があるそうな。江戸時代もずっと御廟に奉納されたままだったので、有名な割にはその実態は確かめられないままで、近年になってようやく研究が進み、壇ノ浦の合戦後800年を記念して赤間神宮の長門本が複製され、一般にも手に入るようになったんだって。「平家物語」と一口に言っても、800年もの歴史があるからね、知ってるようで知らないことってのは、実に沢山あるよね。にほんブログ村にほんブログ村
2012年02月02日

ところで、七盛塚の後ろにある小さな五輪塔たちは、紅石山の土が雨に洗われるたびに少しずつ姿を現すと言われておるそうな・・・雨に土が流されれば、埋もれていたものが表に出てくるのは当然じゃん?とか思うんだけど、そんな自然現象も、ここ七盛塚では怪奇のように語られてしまう・・・前回紹介した徒然草の牛の話は、 ”怪異と認識しなければ、怪異は成り立たないんだよ~”って例のお父上のセリフで締めくくられている。まあ、あの時代、このお父上のようなドライなリアリストはごく少数派だったでしょうけどね。この七盛塚は、宝物館を回り込んで奥まったところにあるし、芳一堂と墓があると知っててここへ来る人はあまりいない。見たところ、参拝客のうちの2~3割ってとこかな。ま、とにかく私は教経様のお墓参りがしたかったので、お参りして写真を撮ってしげしげと眺めて・・・と一人で長居(笑)七盛塚に来た人の訪問記を読むと、大抵の人は口をそろえてここ、コワイ!!!と言う。確かに、塚の奥が林になっててちょっと薄暗かったりもするんだけどね。ただ、私の場合、萌え~がそういった感情をシャットアウトするので怖くは感じなかった。とは言っても、空模様は気にしてた。ツイッターで、ここを訪れた人が急に雨に降られたとか言ってたのを見て、「ああ、場所が場所だし、そういう事もあるかもね~」と思ってたし、週間予報ではずっと晴れマークだったのが、急に午後から雨の確率が上がっちゃったので、私も降られるカモ・・・って考えてたから。だけど、雨は降らなかった。なんで私、怖くないんだろう?ってちょっと考えてみて、「史跡めぐりの根っこ」に書いた事を思い出した。例えば、 「太郎さんという人がいました。太郎さんはこの場所で殺され、その後 この場所で様々な不幸なことが起こったので、人々は太郎さんの祟りだと 噂しました」って言い伝えがあったとするでしょ。この太郎さんが普通の人で知らない人だったら、初めから太郎さんを「死んだ人」として認識する。だから、怖い。でも、太郎さんが歴史上の人物とかだったら、「生きてた人」として見る。だから怖くない。そんな感じなのかな~って思った。だって、私の史跡めぐりは「人の生きた証をたどる」ことにあるんだから。別に、怖がりが治ったわけじゃないんだよね。さて・・・順不同になりますが、ここで翌日の朝に起こった事件について報告します・・・事件ってもまあ大したことじゃないんだけど。私には充分大事件ですけどね。赤間神宮の拝殿に参拝した頃から、現地の写真を載せなくなって、「アレ?」と思った方もおられるでしょう。墓マイラーだから、墓の写真を撮らないはずもないし?と。載せられない事情があったんですよ2日目の朝、宿から歩いてみもすそ川公園(壇ノ浦古戦場)へ。意気揚々と写真を撮りながら公園目指し歩いて行きました。結構歩いたし、ベンチで一休みしながら海を眺めて今日最初の萌え~(笑)で、写真を撮ろうと電源を入れたら、起動しない。「カメラの電源を切るか、XDカードをフォーマットするか2つに1つだよ~ん」ってカメラが言ってきやがった。ええ!?なんでなんで~!!!公園にも碑があるので、ついさっき写真撮ったばっかだし、カードの残数はあと2,000枚くらいあるはずだよ~!!電源を入れ直したり、カードや電池を入れ直したりしてみたけど、全然だめ。予備のカードを入れてみたら、こちらはとりあえず使えそうなので、ひとまずこっちを使うか・・・けど、この予備、データ容量が少ないので、はたしてこれで2日間もつかどうか・・・え~っと、でも3日目は半日写真を撮れないだろうから、なんとかなるかな・・・下関駅の近くには確かヤマダ電機があったから、ちょっと予定を入れ替えるか、もしくは予定通りこなした後で駅の方に寄ってもいいかな・・・とパニクる頭で一生懸命計算などをして、とりあえずは続行することにした。けど、今までそんな風になったことなかったし、大きな古戦場のど真ん中での出来事だったので、しばし呆然予備のカードに残っていた写真をすべて削除したら200枚分くらいは確保できたので、準備が済んだらそそくさと周りの写真を撮って、次の行動へと移った。だってこの後忙しいから、こんなとこで萎えてるワケにいかないんだよ~!!不吉なことは考えないようにして、カラ元気で歩いてくけど、イヤな考えがふと頭をよぎった。史跡の写真は大事なものだから、お出かけから帰るとまずPCに取り込んで、名前を付けてからディスクへ移す。それが終わってから、XDカードの写真を削除していく。何があるかわからないからね。ところが、ほんの1週間前の元日の写真は、今回の旅の準備で忙しかったこともあって、後回しにしてた。だから、今のところ、カードにしか入ってない状態。カメラは動くってことは、カードの方に異常があるってことで、下関1日目の写真どころか、元日の写真まで全滅してたらどうしよう~ああ、あんなに素晴らしかった杉山城の写真たちがあ~!!てもう、想像するだけで相当ヘコみましたね。で、帰ってドキドキしながらカメラをPCにつなぐけど、やっぱりダメ。次の日になって、「あ、カードを直接PCに挿入したらどうだろ?」って思いついてやってみたら、ちゃんと取り込めた。よかった、杉山城も菅谷館もちゃんと残ってる~それからは晴れ晴れした気持ちで日々を送れました。ところが、「いわく付きだから、早くディスクに保存しちゃおう」とあらためて写真を見返してみたら・・・ない!ない!!な・・・七盛塚の写真が、ないい~~~!!!教経様の(墓の)写真がないいい~~っっ!!・・・赤間神宮の拝殿以降、ずっぽり写真が抜けてました。七盛塚も、まるごと。ああ・・・やられた・・・!!やはり、平家の祟りか・・・てね、やっぱり思っちゃうよね。でもね、皆バシバシ撮ってブログとかに載せてるのに、一般の観光客なんかよりも熱い思いでわざわざ遠くから訪れた人間に対して、この仕打ちはないべ?とか勝手に逆ギレするものの、全滅じゃなかっただけ良かったと思わなきゃいけないよな~と自分を慰め。ただ、変な話、あちこちに七盛塚の写真は載ってるから、見ようと思えばいくらでも見られるんです。だけど、敷地内の小さな史跡とかまで写して公開してる人はホントに少ないから、その分私が「ここにはこんなのもあるんだよ~」って紹介したい写真があった。それを載せられないのが、残念で残念で↓人の不幸で楽しんだ後は、応援のぽちをお願いしま~す(笑)にほんブログ村にほんブログ村
2012年02月01日
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