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ハッピー・ハロウィン・・・なんて、わたくしが言う訳ないでしょう。年を追うごとにハロウィン関連のバカ騒ぎが増えていくので、毎年この時期はとっとと11月になってしまえ~!と思うジジイでございます。だいたい、ハロウィンを喜ぶ日本人の1割もハロウィンを正しく語れないに違いない。日本人はカボチャの煮付けでも食ってりゃいいのささて、前回の道路元標のすぐ後ろに立つのがこれ↓。 これにも「東京市道路元標」とあるので、前回の解説にあった昭和47年に元標がプレートに変更される以前の元・元標なんだろうな。道路元標が新しく作られたのに、新旧の元標がそろって橋の北詰に並んでるのもおかしな気がしますが、実はプレートの方の元標はコピーで、本物の元標は橋の中央部の道路に設置されているらしい。ま、橋は交通量が多くとても本物を見ることはできないので、こういうのがここにあるよってことでコピーを道路脇に置いたんだろうな。進行方向に向かってここから橋を南に渡りますが、まずこれ↓。 この台座部分にあるのが これが徳川最後の将軍・ケイキさん(慶喜)の揮毫によるもので、日本橋に江戸時代の面影を残そうと当時の東京市長・尾崎行雄氏がケイキさんに依頼をしたものだそうな。綺麗な字だなあ~。日本橋がかかるのは、日本橋川。橋を渡りながら川をのぞくと、ちょうど船が通りかかるところだった↓。 船を見て、わたくしの機嫌はとたんに悪くなった。なぜって、わたくしもあれに乗るハズだったからです。と言っても、別にこの日に乗るつもりだった訳ではなく、本所編を書いた後ぐらいだったかな、日本橋川クルーズなるものがあることを知って、いくつかコースもあるようなので、日本橋川を東に下って大川(隅田川)へ抜ける船に乗る予定を立てていたことがあるのだ。あいにくその時は天候不良だかで行くのをやめたんだけど、ここで船頭さんの解説を聞きながら嬉しそうに乗ってる乗客を見た時にチッ!と思った(←要するに嫉妬)。いいもん、私だってそのうち乗るんだもん。で、日本橋川↓。 現在ではあまりそういうイメージを抱かない人が多いかもしれないけど、実は江戸は水の都。かつては特に東側を中心に江戸市中に水路が張り巡らされていた。現在ではその多くが埋立てられたとはいえ、まだまだかつての水の都の雰囲気を残すエリアもある。学生の頃、深川近くの門前仲町までバイトに行ってた時があって、日の長い時期や気が向いた時などは永代橋を渡って茅場町までひと駅分歩いたりもしたもんだけど、ちょっと歩くとすぐ水辺ってカンジだったもんな。ま、かつての江戸の大きな水路は現在ではほとんど上に首都高が通っていて見通しが遮られているので、景観の点ひとつ取ってもあまり江戸の川は存在感を主張できていないのが現状。「名橋『日本橋』保存会」では日本橋の上を通る高架の撤去を最大の目標としておられるようで、つまりは首都高を地下に埋め込むということらしいんだけど、莫大な予算もかかるし地下鉄が通っているのでホントにそれが実現可能なのかとは思うものの、せめて名橋・日本橋ぐらいは高架に遮られない空を取り戻したいというのはわたくしだけではなく多くの人が賛同するところだろう。さてと、ここで少し歴史の話に移ります。江戸の記事はこれまでにも上げてきたけど、ピンポイントでの歴史に触れることはあってもなかなか全体の歴史まで書く機会はなかったのでね。けど、江戸だけに絞ると古い時代は内容が限られてくるし、近世に入って江戸の町が大々的にクローズアップされるまでは元気いっぱいの武者たちが広く駆け抜けたエリアの一部分でしかないので、江戸の属する武蔵国、およびその周辺の南関東あたりも絡めながらざっと流れを見ていきます。全体的にはおおざっぱな流れですが、いよいよ関東の歴史に本格的に足を踏み入れようとしているわたくしのブログでは、概論から踏み込んだ詳細なそれぞれの歴史に触れる記事も今後多くなるでしょう。ので、今後の予習的な意味合いもあります。で、時計の針をぐっと戻して先土器時代。1万年以上前から武蔵にも人が住みついていたようで、調布や杉並・板橋などに細石器などの遺跡が残っている。7~8000年前の縄文時代になると土器が発達し集落も増え始める。6~7000年前頃になると「縄文海進」といって今よりも海面が2~3m上昇して陸地に海が侵入してきた。その影響で、その頃の武蔵から下総あたりは今とは相当地形が違っていた。その頃、本所は海の中だったことを「本所Wデビュー編(20)」で書いてますが、正確な境はよくわからないものの、だいたい西は大川付近、東は市川あたりかな~。そこから海が入り込んで、ずずっと北の川越あたりまで海だったというからオドロキ。千葉県も、今でこそ「房総半島」として本州に垂れ下がる形になってるけど、当時は鹿島あたりから海が入り込んでずっと西まで内海が広がり、皮一枚でつながってるような状態だった。いや、ものによっては分断されて完全に島のようになってる地図もある。相模も海岸線が今よりも北になっていた。当時は気温も少し上がったようで、現在でも温暖化による氷河の減少が地球規模での環境問題となってますが、縄文海進の原因は確かに氷河期でできたヨーロッパや北アメリカの膨大な氷床が溶けだしたことによる海面の上昇が主なもので、7000年前頃がもっとも海面が高かったそうなんだけど、氷床が溶けだしたのは日射量の増加によるものらしい。が、長い時間をかけてそのうち海水は引いていった。これは別にまた寒くなってどこぞに氷河ができて海の体積が減ったという単純な理由ではなく、海水がべらぼ~に増えたことによって海底にある地表そのものが海の重さで沈んでいったというメカニズムだそうな。規模がデカすぎる話だけど、面白いなあ。4000万年前頃になると、都内の海岸に貝塚ができ始める。もっとも有名なのが、大森貝塚(大田区・品川区)ですかね。弥生時代になると関東にもその文化が及んで稲作も始まり、5世紀頃になると都内にも大型の前方後円墳が現れる。行田にあるさきたま古墳群もこの頃できたものなのかな。先土器時代からここまで、都内には色々と各時代の遺跡が残っている。さて「武蔵」。畿内ではヤマト政権が誕生し、比較的早い時期に関東まで勢力範囲が及んでいたようで、日本書紀に「ムサシ」の名が登場する。 武蔵国造の乱 (第二十七代/安閑天皇) 武蔵の笠原直使主(かさはらのあたいおみ)と同族の小杵(おき)は武蔵国造の地位を 長年争っていた。小杵は激しい性格で、素直ではなくタカビーであり、ひそかに上毛野君 小熊(かみつけぬのきみおくま)に助力を求めて使主を殺そうとした。 これを察知した使主は逃げ出して都へ向かい、朝廷に報告した。朝廷では使主を国造として 小杵の討伐へ向かった。晴れて国造となった使主は感激し、横渟(よこね)・橘花 (たちばな)・多氷(おおい)・倉樔(くるす)の四ヵ所の屯倉を設けて帝へ献上した。 これは即位元年の534年のことである。これが史実なのかも不明だし、使主と小杵の争いも南北の武蔵での争いなのか、北武蔵の内での争いなのかなど色々な推測がされているらしい。ただ、先に回想したさきたま古墳群の付近は武蔵国造の本拠と見られているようで、いずれにせよその頃には今でいう埼玉の北武蔵が武蔵国の中心であったらしい。とはいっても、初めから「武蔵」と表記されていた訳でもなく、「无邪志」とか「胸刺」といった表記が見られるという。ウィキペディアによると、【同じ頃の継体天皇21年(527年?)には筑紫君磐井がヤマト王権に打倒されている】そうで、当初からムサシがヤマト政権に従属していたというよりも、各地方での乱などを足がかりにして次第にヤマト政権が影響力を強めていったということかもしれない。にほんブログ村
2015年10月31日

東山御物はそれぞれのお宝自身に相当の価値があったことはもちろんだけど、単独での絶対的価値のみで特別な評価を受けている訳じゃない。たとえば絵画などは輸入してそのままの形で鑑賞された訳ではなく、時には大胆に絵を切断したりして室町時代人の好みに合うスタイルに変更されたし、その他の各工芸品も後世へ影響を与えた。独自の美の発展の基となったことがまず1点。それから、6代・義教に仕えた同朋衆の能阿弥以降の座敷の飾り方を能阿弥の孫の相阿弥がまとめたとされるのが『君台観左右帳記』で、その飾り方の方法は後世にも指南書として引き継がれ、諸大名がさかんにこれを書写して江戸の初期にはすでに原本とは構成の違った写本があるそうで、さらにそれをお手本とした大名家の中で個別の発展を遂げていく。レイアウトが長く武家社会の模範として生き続けたことが2点め。そして、御物そのものの価値プラス、将軍家が所有していたという事実によって由緒にハクが付いたことが3点め。3点めはかなり重要なファクターで、室町幕府崩壊後、安土桃山から江戸期にかけては室町将軍家の価値感や様式が取り入れられたそうで、あらためて足利将軍家御物の価値が見直されて収集され、のちの世になって「東山(殿)御物」という表現が誕生した。ただ、何でもかんでもありがたがられたという訳でもないらしく、たとえば葉茶壺と抹茶壺。 【葉茶壺は葉茶を蓄える茶壺であり、抹茶壺は茶入で、いうまでもなくいずれも唐物 である。しかし『君台観左右帳記』のなかでの両者の扱いは極めて軽く、葉茶壺は 将軍家の御物にもあるが、今は飾らないという。また抹茶壺に至っては十九種の 茶入の器形が図示され、およそ覚えている分を記したとある。】 (『東山御物の美』図録掲載/「足利将軍家の調度と茶具」赤沼多佳より)ところが、この後の茶の湯ブームを受けて茶壺の価値も急上昇したことは有名ですね。前回紹介した後花園天皇の行幸の際にレイアウトされた御物の数といったら相当のもの。10コや20コじゃないんですよ。めんどくさいので数えてませんが(笑)。天皇をお迎えするのに並べられた選りすぐりの品がこれだけあるのなら、ピーク時の御物の総数というのは一体どのくらいあったのだろうかと思いますね。が、東山御物として現在伝わっている調度品や茶道具というのは、絵画に比べて大変少ないんだそうな。その中でも茶道具は茶の湯の世界に伝わったものだというんだけど、模範としながらも利休のワビサビの世界とはマッチしないものもあっただろうし、時代のトレンドを勘案しながら取捨選択が行われたこともあったかもしれない。さて、少なくとも8代・義政の頃から下々へ少しずつ流れていった御物は、最終的に幕府崩壊とともに世間へ出回ることになったと思われる。往時の膨大なコレクションからすれば、現在確定している御物は悲しいほど少ないけど、それでも現存の品でどんな大名が所持したかがわかっているものもある。おそらくその多くは徳川将軍家から下賜などされたんじゃないかと思うけど、図録に紹介されている名をピックアップすると、 ・尾張徳川家 ・紀州徳川家 ・芸州浅野家 ・井伊家 ・黒田家 ・足守木下家 ・若狭酒井家 ・津軽家 ・前田利家 ・久松松平家 ・吉川家 ・小堀遠州などおなじみの大名家が並び、もちろん秀吉や豊臣秀次の名もある。さかのぼっては平重盛(清盛の子)なんて名前もあって、この場合はもちろん重盛の所有品が御物に加えられたということになるけど、御物を手にしたのはなにも高貴な方ばかりではなく、 ・津田宗及 ・茜屋宗佐なんて堺の会合衆(えごうしゅう)の名なんかもある。中には名物らしい華々しい由緒を持つものもあり、たとえば ●唐物肩衝茶入 銘遅桜 足利義政⇒篠原宗久⇒藤堂高虎⇒蒲生忠郷(氏郷の孫でイエアスの外孫)⇒徳川将軍家 ⇒松平忠明(奥平信昌の子でイエアスの外孫)⇒徳川将軍家⇒甲府・松平徳松⇒ 徳川将軍家⇒徳川宗家⇒室町三井家 ●遠浦帰帆図 村田珠光⇒織田信長⇒荒木村重⇒徳川家康⇒松平正綱(知恵伊豆の義父)⇒徳川家光 ⇒戸田家⇒田沼意次⇒松平治郷(不昧)⇒吉川家なんて実にゴーカな顔ぶれ。そんな名だたる有名人たちも賞玩した東山御物が一堂に会したこの特別展は実にシアワセなひとときを提供してくれました。三井記念美術館にはよいシステムがあって、会期中にリピートすると料金が割引になるらしい。結構じっくり観た方だけど、また来ちゃおうかな~とマジで思いました。ま、結局体調不良が長く続いていたのと、高野山の企画展にも行ったのでリピートはできなかったんだけど。東山御物が集まる機会というのもそうないかもしれないけど、もしあれば是非ご覧になることをオススメします。特別展には2時間ほどいたのかな・・・一通り最後まで見てから、堆朱などの気に入ったものをもう一度観に戻ったりしてたからな。三井記念美術館を出たのは12:30ころ。ここからはもうひとつの「将軍たちの宝」を観に日本橋の街を歩いていきます。三井記念美術館があるのはここ。前々回、室町3丁目交差点の写真を載せましたが、その近くに江戸で最初に設置された石町(こくちょう)の時の鐘がありました。現在、小伝馬町の十思公園にある情けの鐘ね。だから、かつては三井記念美術館のあたりは時の鐘が大きく鳴り響いていたでしょう。で、中央通りを南へ向かいますが、すぐ先にあるのが三越本店↓。 この辺りを歩いていた時、通りの向こう側にどこぞの県のアンテナショップがあるのが見えた。地図を見ると三越の向かいには「奈良まほろば館」が描かれているけど、わたくしが見たのは確か島根だか鳥取だかのショップだったような・・・そうか、都内ならアンテナショップも展開してるから、広島のショップがあればわざわざ現地まで行かなくてもはっさく大福が食べられるかもしれないんだな・・・とか考えてました。ま、はっさく大福のリンク先の記事で「お取り寄せしたいんだけど」と言っていた同期は後日、お店に電話してホントにお取り寄せしてたので、買おうと思えばいつでも買えるんだけどさ。三越に背を向けて進行方向へ向き直るとそこにあるのが「日本橋」。 【国指定重要文化財 日本橋 日本橋がはじめて架けられたのは徳川家康が幕府を開いた慶長8年(1603)と 伝えられています。幕府は東海道をはじめとする五街道の起点を日本橋とし、重要な 水路であった日本橋川と交差する点として江戸経済の中心となっていました。橋詰には 高札場があり、魚河岸があったことでも有名です。幕末の様子は、安藤広重の錦絵でも 知られています。 現在の日本橋は東京市により、石造二連アーチの道路橋として明治44年に完成しました。 橋銘は第15代将軍徳川慶喜の筆によるもので、青銅の照明灯装飾品の麒麟は東京市の 繁栄を、獅子は守護を表しています。橋の中央にある日本国道路元標は、昭和42年に 都電の廃止に伴い道路整備が行われたのを契機に、同47年に柱からプレートに変更 されました。プレートの文字は当時の総理大臣佐藤栄作の筆によるものです。 平成10年に照明灯装飾品の修復が行われ、同11年5月には国の重要文化財に指定 されました。装飾品の旧部品の一部は中央区が寄贈を受け、大切に保管しています。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)これが時代劇でもおなじみの日本橋。上の写真を撮った場所は橋の北詰の西側のたもとで、魚河岸は北詰の東側にあり、問屋が軒を連ねていたという。三井記念美術館の入っている三井本館の西隣には日本銀行の本店がある。当初、日銀にも寄る予定だったんだけど、特別展でまったりしてしまったので、今回は時間の都合でカットした。日銀に何の用事があるのかって?別に銀行強盗しようってんじゃ~ありません。日銀のある場所はかつて「金座」があった場所なんですよ。江戸期、この界隈は経済の中心地であり、「花のお江戸」にふさわしい賑わいを呈していたことでしょう。当時の日本橋はもちろん木製で、現在の橋は20代目にあたるそうな。橋の名称ははじめから「日本橋」と命名されていた訳ではなく、日本の中心の江戸のそのまた中心の橋ということで、いつしか日本橋と呼ばれるようになったらしい。歴史ある日本橋を後世に永く伝えようという地元の取り組みは様々あるようで、そういう保存会の方達を中心に昭和46年から毎年7月に「橋洗い」というお掃除イベントもあるそうな。さて、北詰西側にはいろんなものがある↓。 奥側に写ってるのがこれ↓。 これが解説にある道路元標(どうろげんぴょう)。ウィキペディアによると、もとは明治6年の太政官達第413号によって東京は日本橋に、京都は三条橋に起点が置かれたそうなんだけど、 【1952年(昭和27年)施行の現行道路法では、第2条第2項第3号で道路元標は 道路の附属物とされているだけで、設置場所や道路元標を路線の起終点にするなどの 特段の規定はなく、道路の起終点は道路元標と無関係に定められている。】とある。柏を走る国道6号線は西進すればそのまま都内へ入るんだけど、国道沿いには「日本橋まで○○Km」という標識が立っている。ウィキの解説によると法律上はもう道路元標に縛られてはいないみたいだけど、一口に日本橋と言っても結構広いので、6号に表示されている「日本橋」は地名としての日本橋ではなく、たぶんここの「日本橋」まで何キロって意味なんだろうな。にほんブログ村
2015年10月27日

御物には時には将軍の好みなども反映されたかもしれないけど、基本的には将軍の傍に仕える「同朋衆」が鑑定をしてコレクションの整備・充実にあたり、「ハレ」の舞台での室礼(しつらい)も同朋衆がセッティングをしたそうな。「ハレ」の最たるものが天皇の行幸で、3つの幕府のうち京に本拠を定めたのは室町幕府だけだから、足利家ならではのハレの舞台と言えるだろうけど、3代・義満の時にも、6代・義教の時にもそれぞれ天皇をお迎えしている。天皇への礼を尽くすという点でも、また自らの権威を見せつけるという点でも最高の場であり、何から何まで気合いを入れたものだっただろうけど、永享9年(1437)10月26日に後花園天皇が足利義教の室町殿へ行幸した歳の記録が「室町殿行幸御飾記」として残っていて、どういう御物で室礼(しつらい)をしたのかがわかって興味深い。なにしろ、将軍が天皇をお迎えするんだからね。狭い応接間の一室をいくつかの調度品で飾り立てるのとは訳が違う。「御飾記」に書かれているおもてなしのための御物は、書画・盆・香合・筆記具・風鈴・碁盤・花瓶・鉢・刀などあ~いかにもって感じのものがほとんどだけど、中には「耳の毛とり」なんてのもあって笑える。御物は鑑賞用でありながら将軍の日常に使われるものでもあり、天子様に見せられるほどの「耳の毛とり」もあったのなら、室町将軍の身の回りのお道具類に至るまで最高級品が取り揃えられていたことがうかがわれる。ま、もちろんすべての御物を身近な日常生活で使っていた訳でもないでしょうけど、この特別展に出品されているものは、特段の鑑賞眼を持たないわたくしでもうっとりと見惚れてしまうものが多かった。展示品はすべてが三井記念美術館の所蔵ではなく、各所蔵者からの出品を仰いだもので、その多くが国宝や重要文化財。そりゃ、いくらどシロートでも魂を揺さぶられるハズです。特にわたくしが気に入ったのが、漆の彫刻品。これは漆を厚く塗り重ねたものに細かい彫刻を施したものなんだけど、たぶんそれまでこのテの美術工芸品は観たことがなかったんじゃないかと思う。往時は細かく分類されていた漆彫の工芸品は、現在では「堆朱」(ついしゅ)とまとめられているようだけど、奈良の頃に流行った脱活乾漆像がゼイタクすぎる技法のため次第に造られなくなったことをアシュランのところで書いてますが、この時代でもやはり漆は貴重品で、その漆を贅沢に使って精緻な彫刻を施す堆朱はかなり日本人にウケたそうで、御物の中では堆朱製作の名人・張成の作とされる小さな香合が天目茶碗の最高級品である曜変(ようへん)と同等の価値と鑑定されているそうな。ま、その鑑定金額もちょっと疑わしい面もあるようなんだけど、いずれにせよ堆朱が室町期の数寄人に好まれたものであることに違いはない。 【室町時代の日本で、堆朱が高額に評価された理由を想像してみると、建盞のような 陶磁器は量産品であるが、彫漆とりわけ堆朱は黄金にも匹敵する高価な朱(辰砂)を 混ぜた貴重な漆を厚く塗り重ね、玉器のように彫刻して多くを切削屑として捨て去る 豪華でぜいたくな技法である。その価値は、十分に日本人には認識されていたからで あろう。おそらく当時の輸入価格も高価であったと思われるが、元時代や明時代の 陶磁器や絹織物が、中近東やアフリカ東岸にまで貿易品として輸出された時代に、 強固な購買意欲をもって彫漆の魅力と価値を認めて高額な支払いをしたのは日本のみで あり、最高の顧客だったからであろう。】 (『東山御物の美』図録掲載/「『君台観左右帳記』に見る唐物漆器の受容」小池富雄より)・・・要するに、世界のトレンドとかなり外れていたようなんだけど、そのおかげで中国漆器工芸の最高級品にお目にかかることができるのだからありがたい。とは言っても、超ゼイタク品だからどこででも好きに見られるってこともないだろうし、ゆえに工芸品に特別の興味を持たないわたくしがこれまで目にすることはなかったのだろう。そしてこれが日本における漆工芸にも影響を与えたという。ところで、御物であることはどうやって見分けるのか?書画などの場合、所有者を示す「鑑蔵印」(かんぞういん)というハンコが押される。まあ、図書館の本の天などに「柏市立図書館」のハンコが押されてるみたいな・・・義満なら「天山」(義満の道号)、「道有」(義満の法名)、義教なら「雑華室印」(義教の書斎号)という鑑蔵印が押され、そのほか義満の頃に善阿弥という人が管理していた幕府の蔵(善阿倉)の所蔵を示す「善阿」印などがあるそうな。ただこれ、紙製のものは「俺のだよ~ん」てハンコは押せても、工芸品となるとそういう訳にもいかないだろう。 【調度、茶道具の類は将軍家を離れて後、所在が不明になったものも多く、「東山御物」 として伝来したものは絵画に比べて極めて少ない。】 (図録解説より)というのも、そうしたことも影響しているのかもしれない。同図録によると、 【室町時代以降、「東山御物」は日本の中国絵画鑑賞界において頂点に君臨し続けたため、 海外に流出したものは決して多くない。】 (『東山御物の美』図録掲載「東山御物の美-中国絵画を中心に」/板倉聖哲より)そうで、絵画以外の工芸品の流出があったのかどうかまではわからないものの、その後の各工芸界にも多大な影響を与えたものと思われる。さて、そういう最高の芸術品たちは鑑賞に供されるほか、のちの時代にはいろいろな用途にも用いられるようになった。8代・義政がある時、父である6代・義教が後花園天皇に献上した曜変を見たいと朝廷に申し入れたことがあった。ところが、その曜変は三条実雅が質物として借り出してまだ返却されていなかったので、これから厳しく催促して返してもらうからちょっと待って欲しいという回答が来た。 【この時代、禁裏や将軍家の御物は、宮廷社会の一種の共有財産として機能しており、 質物として廷臣らに貸し出されることがあった。御物を借り受けて金融業者である 土倉に入質し、当面の出費を稼ぐのである。】 (『東山御物の美』図録掲載「応仁・文明の乱前夜の将軍家御物と同朋衆」/藤原重雄より)どうもこの時は個人的な金策というより、三条実雅が奉行になっていた御料所からの年貢がまだ代官である武家から納められていなかったようなんだけど、御物が質草になっていたという話は面白い。今回、わたくしがこの特別展を観に来たのには特別な理由もあった。御物は色んな人に見せびらかして権威を見せつけることもできたけど、そもそも希少価値が高く、格別に美しい選りすぐりの品ばかりだから、下賜されることもあった。義政の頃には財政難で幕府も苦しい時期だったから、御物を大名や寺へ下賜して代価としてなにがしかを受け取るという金策にも当てられたらしい。室町幕府は鎌倉幕府のような「滅亡」をした訳ではないので、室町幕府が崩壊した時に御物が簒奪されて一挙に散逸したのではなく、幕府崩壊以前から御物が少しずつ世間へ出回っていた。この企画展に行く直前、具体的にどんな品が出品されてるのかと美術館のホームページを見た時、とある地味な青磁の花生に目が釘付けになってわたくしのテンションは一気に富士山よりも高く空へ舞い上がった。この展開を予想していた方もおられるかもしれませんが、室町期といえばわたくしの愛してやまない大内氏の活躍時期と重なる。そう、大内氏も東山御物を所有していたんです。この花生は「青磁筒花生」という名称で、「銘 大内筒」と付く。これは何が何でも見なければ~!!と勇んで行ったのですが、いくつかある青磁の展示品のうち、もっとも地味で目を引かないものだったしかも、愚かなわたくしは花生の現物を見ても気が付かなかったのですが、他の展示品の中にも大内氏の所有だったとされる御物があったので、そういえば北九州での大内氏の企画展の時ってどんなのが出品されてたんだっけ?と図録を見返してみたところ、「青磁筒花生」もちゃんと載ってた。うっそおおぉぉぉぉ~~~・・・でもあの時って、すべての展示品が大内氏ゆかりのものだったからな。ほかに食いつくものが沢山あったので、この花生に目が留まらなかったのだろう、と自分に言い訳してみる「大内文化と北九州」展の図録には 【本品が納められた箱は後世のものであるが、蓋表に「東山殿所持/大内筒 花入/ 外替袋別箱入り」とあり、東山殿、すなわち足利義政(1436~90)が所持したと 伝えられる。】とあり、「東山御物の美」展の図録には 【小堀遠州の優美な箱書が添い】とあるので、小堀遠州が東山御物の証明をしてくれたらしい。この花生はぶっちゃけ悲しくなるほど地味なお品だったけど(でも重文)、生まれて初めて使った音声ガイドでほかにも大内氏に下賜された品があることを知った。展示の最初の方は確か絵画が多くて、御物は禅カラーの強いものも多かったけど、その中で惹かれる絵があった。ちょうど図録の表紙と裏表紙に載っているので、ご紹介しましょう。 「秋景冬景山水図」といわれるこれは、ぬわんと国宝です。現在は金地院の所蔵・・・金地院といえば真っ先に崇伝を思い浮かべてしまいますが、崇伝がらみじゃなく、策彦周良の縁らしい。大内義隆と大酒を酌みかわした、あの策彦です。「歴史の町山口を甦らせる会」様の「大内文化まちづくり」によると、流れ公方・足利義稙が大内政弘に下賜し、義隆が策彦に贈ったとある。策彦へは遣明船のごほーびってところかと思うけど、策彦は天竜寺明智院なのになんで金地院(南禅寺)?と思ったら、明智院から崇伝に渡ったらしい。もと御物をぽんと策彦にあげてしまうなんて、おかねもちの大内氏らしい実におおらかな話です。この絵は前回出てきた徽宗が描いたという伝がある。徽宗の絵で大内氏が所有していたという伝承のあるものがもうひとつあり、それが国宝「桃鳩図」。現存していない絵で御物の可能性が高いと思われるものもあるようだけど、これは義隆が滅ぼされた時か、大内氏が滅ぼされたあたりの混乱で失われてしまったらしい。てな訳で、室町将軍のお宝を見つつ、大内氏当主が目にしたものを見られるという、わたくしには1粒で2度美味しい超豪華なグリコのような展示でありました。にほんブログ村
2015年10月25日

少し前からわたくし大がかりな作業に取り掛かっておりまして、根を詰めて1週間ぐらいで終わるのであればしばらく記事をお休みしてそちらを先に終わらせるのもいいかと思ったのですが、なにせ平日に使える時間なんて微々たるものなので、10日ぐらい集中してもとても終わりそうにない・・・ので、そちらの作業は細々と続けることにして、次の日帰りお出かけ報告を始めます。<2014年10月18日(土) 晴れ>今回の目的地は日本橋。最初のスポットは初めていく場所なので地図とかを見てみたけど、どうもよくわからない・・・ま、とりあえず現地に行けばなんとかなるだろうとJR神田駅で降りる。神田で降りたのも初めて。よくわからなくて周辺で少しまごついたあと、目的地方面へ向かう中央通りを歩きだして最初の交差点を過ぎたところになにやら看板があったので何の気なしに寄ってみると 今川?名前が気になったので読んでみると 【今川橋が神田堀(別名神田八丁堀・龍閑川(りゅうかんがわ)に架設されたのは 天和年間(1681~83)との記録があります。橋名の由来は、当時の名主今川氏の 尽力により架けられたのでその名が残りました。この橋は日本橋から中山道に通ずる 重要な橋でもありました。神田堀は現在の千代田区神田・中央区日本橋地域の境を流れ、 その役割は非常に大きく当時の運輸手段の主流でもありました。 昭和25年(1950)龍閑川は埋立てられ、三百年近く馴れ親しんだ今川橋も撤去され、 現在はその面影もありません。左図の絵図は江戸時代末期頃の界隈風景です。この橋辺には 陶磁器をあきなう商家が立ち並び、大層賑わったといいます。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)名主の今川氏か・・・解説にある「左図の絵図」がこちら↓。 これは「江戸名所図会」からのものらしいけど、かつて江戸市中を流れていた多くの堀は現在ではほとんど埋め立てられているものの、水の流れはそのまま道路となって水筋を遺しているところも多い。わたくしが通り過ぎた交差点の名がちょうど「今川橋」だったので、じゃあ交差点を東西にまたがる通りが神田堀だったのかと思って、振り返って今川橋交差点方面の写真を撮った↓。 が、東京都下水道局のホームページによると、神田堀は今川橋交差点より少し南、ちょうどこの解説板があったあたりを流れていたらしい。めんどくさがりのわたくしは、今川橋交差点まで戻らず解説板のところから来た道を撮っただけで済ませたけど、ラッキーにもちょうど上の写真の手前あたりがかつての堀だったということになる。(今いるのはここ)神田堀に沿って少し東に行くと、小伝馬町の牢屋敷があります。上のリンク先の地図の中心点が現在地で、地図を少し左にずらすと「十思公園」がありますが、そこが牢屋敷跡です。写真を見ての通り、現在では堀があった形跡すらまったくありませんが、東京都下水道局のホームページにはもう少し詳しい歴史が書かれており、神田堀は幕末に埋め立てられたらしい。それを、明治に入ってもう一度掘り返して水を通したのが「龍閑川」で、解説にある昭和25年の埋め立てというのは神田堀ではなく、復活した龍閑川の方なのだろう。そのまましばらく進行方向へ進むと、室町3丁目交差点に出る↓。 写真を左右に横切るのが「江戸通り」で、まっつぐ奥へ向かっているのが「中央通り」。「日本橋」といっても実際は「日本橋ナントカ町」というのがいっぱいあって案外と広いエリアだけど、一般的に「日本橋」と言ってイメージされる華やかなエリアは写真の奥あたりから始まる。江戸期にはこのあたりは町方のエリアだった。さて、今回のわたくしの最初のお目当てはこちら↓。 この先には三越本店があり、その手前の三井本館の7Fに美術館があるってことなんだけど、入口がわからなくて少々苦労した。あとになって、もう少し我慢して三越の近くまで歩いていけば案内があったことに気がついたんだけど、なにぶん初めてなもので致し方ない。 三井本館の中に入っても歩き回って、ようやく美術館への専用エレベーターへの入口を見つけた↓。 この記事を書いている現在では三井記念美術館では『蔵王権現と修験の秘法』展をやっていて、会期の初めには山伏さんのお練りがあり、法会なども行われたと美術館のホームページに写真が載っているけど、ちょうど上の写真の場所で行われたようだから、ちょっと驚いた。階段を上がって専用エレベーターの前まで来ると、クラシックな雰囲気。 確かこの建物自体もなにかの文化財に指定されていると外に書いてあったような・・・三井記念美術館はその名の通り三井家のコレクションを収蔵した美術館で、この翌年(2015年)に発足10年目を迎えるというまだ新しい美術館。ただ、11ある三井家のすべての宝物を収蔵している訳ではない。企画展の図録によると、三井家の膨大なすべてのコレクションを把握するのは困難とあるから、どんだけ・・・で、ここからは写真はございません。会期中の展示会ならともかく、もう1年も前の企画展のことをつらつら書いても仕方ないので簡潔にまとめますが、この企画展のことを知ったのは結構前だった。確か、この前の企画展の内覧会の案内が来ていたのでホームページを見た時に知ったんじゃなかったっけかな。おお、いいのやるじゃね~か!と何ヶ月も前から楽しみにしていたのだ。「東山御物」(ひがしやまごもつ)は足利将軍家のお宝コレクションのことで、室町幕府8代将軍・足利義政が東山殿と呼ばれたあたりから来ている名称なので義政のコレクションだと誤解されている向きもあるらしい。現に、ウィキペディアの「東山御物」の項の書き出しは 【東山御物(ひがしやまぎょもつ/ひがしやまごもつ)とは、室町幕府8代将軍・ 足利義政によって収集された絵画・茶器・花器・文具などの称。】となっている。足利義政と言われてもピンとこない方も多いかもしれませんが、この方の奥さんはあの有名な日野富子であり、在職中には応仁の乱が勃発し、銀閣寺を建てた方だといえば少しはわかるでしょうか。以前に使った系図だとこんな関係↓。 室町幕府の地盤を強固なものとしたのが3代の俺様・義満で、足利家のコレクションは義満の時からすでに始まっていた。して、義満の子で6代の「くじ引き将軍」義教の代でコレクションはもっとも充実したという。それを義政が引き継いだ訳だけど、義政の当時から「東山御物」と呼ばれた訳ではない。企画展の図録によると、コレクションというものは当然入れ替えがあるし、一口にコレクションと言ってもたとえばAとBとCというものがあったとしても、必ずしも一時期にABCのすべてが揃っているという訳でもなく、そこがコレクション研究の難しいところでもあり面白いところでもあるそうなんだけど、東山御物にも同じことが言え、義満の頃から集めたものを義政の頃までがっちりキープしていたのではないらしい。ひとまずこの企画展では、サブタイトルが「足利将軍家の至宝」とある通り、足利将軍家に収蔵されていたお宝を集めたものとなっている。徳川家のお宝なら、関係機関にそこそこまとまって収蔵されてもいるだろうけど、すべてではないにせよ足利家のお宝が一堂に会する機会なんてそうそうないだろうと思って今回の企画展を楽しみにしていたのですが、桃山とも江戸ともまた違ってシブさが鈍く光を放つあでやかさ、といった感じのまさに「至宝」の山々でござりました。東山御物の特徴は、唐物(からもの)が中心であること。唐物といっても別に唐の時代のものということではなく、大陸からの輸入品を指す。この当時、大陸では明(みん)の時代。が、超大国である中国の文化をいちはやく取り入れたいとリアルタイムでの最新の芸術品を集めたのではなく、より古い宋や元の時代のものを好んで集めたらしい。これはちょっと不思議な気もするけど、北宋の徽宗(きそう)の影響が大きいという。 【徽宗は北宋王朝滅亡の要因を作った「亡国皇帝」であると同時に、中国美術史上 最大の書画コレクターであり、その巨大な書画文物コレクションは、南宋以後の 藝術を愛好する皇帝たちにとっても憧憬の的であった。「御物」として文物を収集した 将軍・同朋らの間で徽宗の存在が意識されてきたことも確かであろう。】 (『東山御物の美』図録掲載「東山御物の美-中国絵画を中心に」/板倉聖哲より)徽宗はコレクターというだけでなく、自身も超一流の画家であり、徽宗の絵も、伝・徽宗といわれる絵も東山御物の中に含まれている。そして、「名物」と言われる上物であってもそれが数多くあるようなら御物の中ではあまり高いランク付けがされず、より希少価値の高いものの方が御物としての価値が高かったらしい。にほんブログ村
2015年10月24日

ウシの危険地帯を過ぎるとそこは小高い場所で、たぶんここは例幣使街道から見ていた古墳の上にあたるんじゃないかと思う。 ここはかなり広いんだけど、案内に従って道を進んでいく といくつかのお堂がある場所に出る。まずはこちらが「いじめ除観音」↓。 こちらでは祈願も受け付けているそうで、千円の祈願料を納めると毎月3日に本堂で祈願してくださると書いてある。3日なら良源さんの命日で縁日にあたるから、ピンポイントで良源さんの御加護を祈願するってことだな。「時代は変わったもんじゃ」と良源さんは嘆くかもしれないけど、本人にとっては切実な問題だからね。解説板によると、関東で初めてのいじめ専門の観音様だそうな。このお堂は今は本堂の裏手にひっそりと建っているけど、薬師寺では立派な八角堂にリニューアルオープンさせようと目下鋭意募金中でございます。 いちまんえんからじゃちょっと高いな・・・もう少しハードルを下げてもらえると募金もしやすいのにと個人的には思っちゃうんだけど。それは別に薬師寺に限った話じゃありませんが。その隣がこちら↓。 【三面出世大黒天由来 當山御安置の三面大黒天は比叡山より請来したものである。 大黒・毘沙門・辯財の三大合形なる霊像にて帰依する時は、轉禍為福(てんかいふく)・ 商売繁盛に霊験あらたかであり、亦た、秀吉公も三面大黒さまに誓って出世の人と 為られたり。】 (現地解説板より)中を覗いた気はするんだけど、大黒様がおわしたかは記憶にないなあ・・・ただ、本堂にも厨子入りの三面大黒天の像があったけど、やっぱり叡山からの勧請なんだな。ちと余談ですが、わたくしの金光明最勝王経の暗記は残り17ページを数えるところまで来てあとひとふんばり寒くなってくるとわたくしの活動シーズンなので、色々予定を考えているのですが、弁才天女が身近になったので天女を祀るとある神社へ行ってみようかと考えて調べているうち、ふと表記が気になりました。そこでは「弁財天」としていて、薬師寺の解説にも「辯財」とある。でも、本来的には「弁才天」が正しいと思うんだよね。手持ちの金光明最勝王経の経本でも「弁才天」になってるし。この経本はリバーシブルの両面使いで、金光明最勝王経の裏表紙は「仏説辨財天経」となってるので、お経の中でも「弁財」と「弁才」が混同して使われてるのかと思って本文を見てみると、別に「仏説辨財天経」というお経が載っている訳ではなく、弁才天女がらみの短いお経などがいくつも載っていて、本文ではどれも「弁才天」と表記されている。これには「弘法大師作」とある「祭文」も載っているんだけど、その中では空海たんも「大辨才天」としている。金光明最勝王経に書かれる天女の功徳は、智恵だとかの方面に関してが主で特に弁舌の才に関する箇所がいくつかある。弁舌の才だから「弁才」なんじゃないかと思うけど、ウィキペディアによると日本では神仏習合などもあって独自に進化したようで、のちに財宝神という性格も加えられたため「弁財天」と表記が変化したような解説になっている。まあね、財産への願望は時代を越えるものだから「弁財天」とした方が庶民ウケが良かったのかもしれないけど、もともとは「弁才天」だってことだけ紹介しておきます。あと、いじめ観音の反対側の隣には水子地蔵尊があったんだけど、水子関係のものは撮る気にはなれませんので写真はありません。ただ、付近にあった看板によるとここははやり岡崎山古墳で、水子地蔵尊はその第2号石室内に安置されていると書かれている。三面出世大黒天の先にはどなたかいらっしゃる↓。 装束からして、奈良の古い時代の方のようだな・・・一体どなたなのかと台座を見てみると、「聖徳太子尊像」とある。太子の隣には大きな石碑↓。 「寺岡山薬師寺元三大師」のタイトルで始まるこの碑は、薬師寺の由緒を語るもの。ま、多少読みにくい箇所もあるし内容としてはここまでに書いた歴史と同じなので碑文については割愛します。ただ、もとは聖徳太子の命によって創建されたとの寺伝なので、ここに聖徳太子の尊像を安置したってことだろうな。よし、これで境内一周したかな。ここは本堂などの裏手で少し小高くなっており、山門が見下ろせる↓。 そのままメインエリアへ戻って山門を出たあたりだったかな、一部古そうな灯篭があった↓。 色が違ってるから火袋より下は後補だろうと思うけど、いつの奉納だろうと銘を見てみると天保7年(1836)8月とあった。境内を出て、来た道を例幣使街道まで戻る。途中から見た岡崎山古墳↓。 10分ほど西に歩くと、両毛線の富田駅に出る。登山をやっていた頃からイナカの怖さ(電車やバスの本数が異様に少ない)は身にしみていたけど、ここはいちおう関東だからまあ1時間に2本ぐらいはあるだろうと電車の時間を調べもせずにのんびり富田駅までの道を歩いていった。しかし、駅に着いて時刻表を見ると、電車は出たばっかりで次の電車まで50分ぐらい待たねばならないことが判明した。ウゾ・・・・・・・・両毛線てもしかしたら乗ったことがなかったかもしれないけど、時間帯によっては1時間に2本というのもあるけど、休日の真っ昼間だと1時間に1本というチョ~不便な路線だった。うっそ~、疲れて寒いし、早く帰りたいのに~!!ここからタクシーで佐野駅まで戻ることも考えたけど、駅前にタクシーもいないので、呼んだところでどのくらい時間がかかるのかもわからない。イライラしながらもとりあえず待つことに決めて、駅からの風景なぞ撮ってみた。 これはどっち方面だったっけ・・・北西の方角かな?上の写真だとかすんで全然わかりませんが、正面あたりの山をズームしてみると なんだ、あれ?大文字焼きみたいなことするのかな?あと、ホームからはこんなのも見えた↓。 ずいぶんレトロな建物だな・・・後から調べると、駅付近には造り酒屋さんがあるらしく、その建物なのかもしれない。今から考えると、待つ間にちょいと駅付近でも見て回ればよかったけど、この時はそんな気力も体力もなく・・・これも酒屋さんの建物なのかな↓。 立派な煙突が2本立ってますが、それよりもわたくしの眼は屋根に注がれる。あれも錣葺きみたいだよな・・・薬師寺へ入る手前にもあんな屋根の建物があったし、錣葺きといえば西国!みたいなイメージがあったけど、この辺てあのテの屋根が多いのだろうか。以上で今回の旅は終了。両毛線のひと駅分歩いたことになるので、行動時間は短いながらも結構歩いたんじゃないかと思うけど、あいにく歩数の記録が行方不明でただ、肌寒い中富田駅でじっと電車が来るのを待っていたので、カゼ気味になりました今後、両毛線を使う時は気をつけよう・・・さて、ちと余談ですが本日10月21日は本ブログの開設日であります。つまりは本日から5年目に突入する訳ですが、悠長に4年を振り返るだけの文字数は残ってないので一言だけ感想を述べると、人間は変わるものなんだな~ということ(笑)。このところずっと「戦国ジジイ」らしからぬシリーズが続いておりますが、巡り合わせというのは縁でもあるので、興味を持った時がチャンスを与えられた時だと思って勉強していれば、意外なところで意外な知識が役に立ったりするものなので、5年目もチャンスを無駄にせず、貪欲に自分の興味を掘り下げていきたいと思っています。5年目もどうぞ戦国ジジイをごひいきににほんブログ村
2015年10月21日

本堂はそれほど大きくはなかったけど、境内域は意外に広く、向かって右奥にも広がっている↓。 本堂の右隣にある真新しい建物が「足利水子供養道場」で、ここの亀腹はなんだかビミョ~なんだけど↓ 本堂と供養道場の間には何やら看板があり、その上に宝篋印塔があるのが見えた↓。 【足利市重要文化財(考古資料) 薬師寺の供養塔(開山塔)一基 石造 総高2メートル68センチ以上 江戸時代 横長の巨石を土台とし、基礎を二段に重ね、台座を積みその上に宝塔を立てる。塔身に 金剛界四仏の種字(ウン、クラーク、キリーク、アク)を、基礎に造立年代、願主名等 陰刻してある。本塔は九輪の一部を欠いているが、延享2年(1745)の造立である ことが解り、薬師寺の歴史を知る資料としても価値は大きい。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)その隣には五輪塔がある↓。 これには【法印 湛榮塔】とある。湛榮さんがどんな人かはわからないけど、法印なら高僧といえるよな。この先は色々あるので、順々に。まずはこちらが「夢観音」↓。 で、立派なトイレ↓(笑)。 十三重塔↓。 塔の下にあるのが ううむ・・・良源さん以外のグッズにも頼るようになったのかと思いきや、 【結縁石 昔から縁ある人とは、赤い糸で結ばれているという。 又、雛はたまごからかえるのである。 この結縁石は、それを表しております。どうぞ元三大師さまとのご縁により、全ての 良い縁が成就いたしますようにご祈願しております。 奉納 結縁石 一金壱阡円也 ※お名前を書いてご奉納ください。】 (現地解説板より)え~、ちょっとよくわからないんだけど、千円納めると祈願したタマゴをくれてそれを赤い石の下に積んでいくってことだろうか↓。 このあたり一帯は特に真新しいものが多くて↓ しかもこんな現代的なものがあったので正直言ってもう見る気が起こらず、前方に延びている道をたどって奥へ行こうとしたら ・・・・・へ!?突然のことに驚いてカメラをズームしてみると ・・・やっぱり、ウシだ。生きてるよな、アレ。明らかに「何だコイツ」って目をわたくしに向けてるし。しかも、牛がいるのは道のすぐそばで、さらにつながれている訳でもない。どうしよう・・・そばを通る時に突進でもされたら、「オ~レ!!」って華麗にかわせる自信がないぞ仕方ないのでスルーした場所に一旦戻って、まだ見てないものを見ることにする。 ・・・・・・・・たぶん、こうした現代にマッチしたサービスを提供することで境内を立派に整備できることにもなってるんだろうけど、個人的にはどうもなじめない。ま、もちろん良源さんをないがしろにするハズもなく、真新しい良源さんの本地仏もおわす↓。 そのデカい良源さんを取り囲むのが、ちっこい良源小僧たち↓。 なんでこれが良源さんなのかって、すべての小僧の台座には「豆大師」と書いてあるからです。つまり、ここには33体の豆大師がおわす訳です。33人の良源さんはそれぞれ違っている。どうせなら33人の美少年を置いてくれたら嬉しかったけど、ちょっと変わっているものをいくつか撮ってきたのでご紹介。 ↑これは古代エジプトの書記みたいだな。丸裸だけど こちらはほっかむりをかぶった最澄たん風↓。 ↑砲丸投げ?何も持っていなければ、左手の位置がビミョ~なので「しょんべん小僧」と名付けてしまいそうなポーズをしている。 着物を着ているのもあるけど、なぜか裸が多いのだ。 なぜこーゆービジュアルにしたんだろうかという疑問がふつふつと湧いてくるような豆大師たちでしたが、これでこの付近はあらかた見てしまった。あとはもう奥へ進むしかないんだけど、例のウシはまださっきの場所にいる。仕方ないので覚悟を決めて、刺激しないようにそろそろと進むと途中にはこんなのがあった↓。 一部陰になって読みにくい箇所もありますが、昭和9年11月11日に昭和天皇が栃木・群馬・埼玉の3県合同演習に行幸されて、ここから約30mの場所で野立をされたらしい。場所がよくわからないのでそこには行かなかったけど、碑でも立ってるのかな。↓ぽちりとよろしく~。にほんブログ村
2015年10月19日

メインエリアは一段高いところにあるけど、その石段の脇にあるのがこれ↓。 こちらでは夏に「萩祭り」が行われるらしい。出店なんかもあるみたいで、詳しいことはわからないけど、沖縄色の濃厚なお祭りらしい。上がるとすぐ手水舎がある。 薬師寺には菊の紋があちこちにちりばめられている。たぶん、前回書いたように公寛法親王のゆかりだからなのだろう。水盤に水を供給しているのはよくある龍だけど、ふと龍の背後へ回ってみた。 ポーズとしては「え~、らっしゃいらっしゃい!!」てカンジだけど、龍のすぐ前に横たわる道は下から上がってきて本堂へ直行する参道。だから、参拝者を品定めしているようにも見える。 で、こちらが本堂↓。 お堂の前には香炉が置かれており、 おや、この足・・・ たいがいこーゆーとこにいるのは邪鬼で、香炉だとか水盤だとかを重そうに持ち上げてるのをこれまでの寺で見てきたけど、これは変わってるな・・・最近行った別の寺でもこれと似た足を見たのでここだけという訳でもないけど、あまり見ないタイプには違いない。それではいよいよ良源さんにご挨拶ざます。 薬師寺のホームページによると、鰐口が3つ懸かっているのは元三大師の「三」にちなむものだそうな。 入口にはこれがある↓。 馨(けい)・・・いや、丸いから銅鑼(どら)か。 【鳴らす者には福来たる 鳴らそう幸福の鐘を】と脇に書いてあるから、珍しいことに自由に打っていいみたいだな。余談ですが、「ドラ息子」の「ドラ」の起源には諸説あり、その中でもよく言われるのがこの銅鑼で、撞いて音を鳴らす鐘であることから「鐘を撞く」が「金を尽く」に転じて親のスネをかじって金を使う放蕩息子を指すようになったんだとか、昔の遊郭の店先で「いらっしゃいませ~」とジャ~ンと鐘を鳴らしたところから放蕩者がじゃんじゃん金を使い、店では歓迎にじゃんじゃん銅鑼を鳴らしたところから来ているだとか、銅鑼がドラ息子の語源と関わりがあるとする説は色々あるようです。そして参拝作法も書いてある↓。 「ナントカ金剛」というのは、たぶん潅頂名じゃないかな。空海は遍照(へんじょう)金剛、最澄は福聚(ふくじゅ)金剛。良源さんの場合は常住金剛ということだろう。実は最近、とある有名大師堂の勤行式を手に入れましてね。大師堂での勤行式だから当然良源さん専用メニューになっていて、メインのお経は観音経(法華経の中の第25観世音菩薩普門品)なのですが、それ以外にも当然良源さんに帰依するといった内容の短い偈などがあり、その中では「慈慧大師」としている箇所もあれば、「慈慧大僧正」とする箇所も、「元三慈慧大僧正大師」としている箇所もある。おお、さすがにきっちり大僧正と正しい呼び方もしているな~と勤行式を見て思ったものですが、個人的にはどっちだってかまやしません。わたくしが薬師寺に入った時、境内には参拝客は誰もいなかった。お堂付近には撮影禁止とも書いてなかったので、ちと中を撮らせていただく。 こちらのご本尊は亀田則重が公寛法親王から餞別にいただいた公寛法親王直筆の良源さんの画像。もしこれがそれ以前に描いておいた画像を則重に与えたものではなく、則重の引退を受けて則重のために特別に公寛法親王が描いたものだとしたら、則重の長年の功をたたえて今後の則重の護りとなる願いをこめて宮が丁寧に大切に描いたものだろう。薬師寺のホームページによると、【日本に3幅しか現存しない元三慈恵大師尊影御真筆】といい、また薬師寺では檀家を持たずに祈願寺としてのみ歩んできたとある。本場の叡山をはじめ、良源さんの画像は沢山あるはずなので、「日本に3幅」が「公寛法親王の真筆になる画像が日本に3幅のみ」という意味なのか少々わかりかねますが、江戸期に檀家を持たなかったというのはすごい。つまりはそれだけ霊験があると当時から信じられて頼られていたということで、もちろん良源さんのお力もあるだろうけど、当時の仏教界のトップに立つ公寛法親王が則重の息災を願って気合いを入れて描いたものだからじゃないかという気もする。残念ながらこの画像は秘仏で、護摩壇の奥にある菊の御紋入りの御厨子の中におわす↓。 御厨子の前におわすのがお前立だな。考え込んでるから、如意輪観音様だろう。良源さんはお不動様の化身だとも観音様の化身だともいわれ、観音様の中でも如意輪観音と個別に指定されるケースもある。それにしても、 うつくしいのうご本尊の向かって左側には三面出世大黒天やうすさま(烏枢沙摩明王)の小さな御厨子がある。三面出世大黒天は叡山にもおるから、その流れだろうな。で、向かって右側にはこの方↓。 中が暗いので少々コワイ写真みたいになっちゃってますが、良源さんです。明るい写真になったところで顔がコワイのであまり変わらないかもしれませんが良源さんの木像で一般に最も有名な像の顔によく似ている。ま、叡山にはもっとフツーの顔をした良源さんの木像もあるけどね。ただ、根拠のない伝説であろうが良源さんは美男子だったという話もあるんだから、美男子の木像を置く寺があってもいいんじゃないかと思うのはわたくしだけだろうか・・・そして、本堂の向かって右手にある売店コーナーへ向かう。ここにいたのはお姉さんで、いかにも家族経営といった雰囲気だったけど、どれにしようか迷っていくつかゲットした。こちらには大きくてお高い良源さんの掛け軸もあったけど、さすがにそれはパスした。この頃、ひと家族が参拝にやって来た。わたくしが売店で迷っているところに割り込んできてウザかったけど、そのうち彼等は先導されて本堂へ入っていった。どうやら、これからお護摩が始まるらしい。今からすればどういう風にお護摩をするのか見ていけばよかったけど、この時のわたくしはできれば早く帰りたかったので、本堂を離れて境内の観察に向かう。まず手水舎の向かいにあるのが、前回解説文だけ紹介した亀田則重の碑↓。 それから宝篋印塔↓。こちらは「大乗妙典」の供養塔だとある。 にほんブログ村
2015年10月17日

それでは寺岡山施薬院薬師寺(←ホームページにそう書いてあるのを見つけた)・・・通称「寺岡山元三大師」境内の紹介に入ります。 良源さんを祀るお寺ですから、天台宗であることはこのブログの読者様にはとうにおわかりですね。こちらが山門↓。 留蓋はおなじみの狛犬ですが、フツー狛犬は正面の参拝者の方を向いてるのに、こちらは取り付け方がちと変わっていて、側面に向かって付けられているので、正面から撮ると ちょっとなまめかしい構図になってしまふただ、お腹から太ももにかけてのラインはふっくらおいしそうでも、顔はこんな↓。 ↑こちらの隅には【三千院門主 大僧正 光詮】とある。天台宗だから、これはもちろん京都~お~はら三千院の三千院でしょう。三千院のホームページを見ると、小堀光詮大僧正は現職の三千院門跡であるらしい。 今度は山門を内側から見たところ↓。 山門は比較的新しいようだけど、派手こい彫刻が楽しい。門をくぐった正面は 門を入る前から新しい造りの印象があって、中に入っても現在境内を整備中の新設のお寺のような雰囲気だけど、寺伝による創建は聖徳太子の命によるものだとしており、それが史実であればかなり古いお寺ということになる。ただ、薬師寺のホームページでも、境内にある解説板でも、聖徳太子の時代の創建のあとの寺の歴史は、一気に江戸中期まで飛ぶ。つまりはおそらく途中経過についてはよくわかっていないということで、仮に薬師寺がひとケタ世紀の頃から存在していたとしても、江戸中期頃まではほとんど寺としての機能を果たしていなかったんじゃないだろうか。で、江戸中期の寺の再興ですが、これは山門の扉に付いているこの紋↓と関係がある。 境内には「亀田庄左衛門則重翁之碑」というのがあり、その碑についての解説文を先にご紹介しましょう。 【氏は長兵衛翁の長男にて、性格剛直、神仏を敬い、縁ありて江戸、上野東叡山寛永寺に 数十年奉職、第六世門主、崇保院宮准三宮一品公寛法親王より、永年身命を賭しての 忠節が認められ、帰郷の折自筆の元三大師尊像壱幅を拝領し、自家に安置して礼拝恭敬を していた所、ある日夢の中に元三大師が現れ、「世の人々の為に尽くしたい。」との お告げを受け、また御前のご尊像を汚さぬ為に享保年間、寺岡山薬師寺に奉安した。 当時、薬師寺は無住職で極めて荒廃しておりましたが、元三大師のご信仰によって、 数十万の信徒の人々が参詣し、寺が復興した。現在にてもお大師様の信仰は連綿と 続いている。 尚、亀田家の現当主は寺岡町亀田家十二代目 亀田俊雄氏である。】 (現地解説板より) まず公寛法親王ですが、解説にある「第六世」は寛永寺貫主のカウントのことで、江戸期の寛永寺貫主で法親王であればイコール輪王寺宮であることはもう説明はいらないでしょうが、公寛法親王は輪王寺宮としては第4世にあたる。公寛法親王は「叡山攻め」でも何度かご登場いただいてましてね。おさらいしたい方はひとまず薗田秀延の上京イベント(「玉川子園田君遺稿」:「叡山攻め(210)」以降数話)をご覧ください。はい、公弁法親王の跡を継いで輪王寺宮となり、公弁法親王の急死を受けて泣き暮らす秀延を毘沙門堂へ送り出したのが公寛法親王です。で、亀田則重さんについてはわたくしは上の解説にある分しか知りませんが、寛永寺で長年公寛法親王に仕えたというのなら、薗田秀延と同じように宮の坊官だったってところだろうな。公寛法親王が第5世輪王寺宮を次代の公遵法親王に譲ったのは自らの死後のことのようで、公寛法親王の死亡日は元文3年(1738)3月15日。公寛法親王が公弁法親王から第4世輪王寺宮を譲り受けたのは正徳5年(1715)5月5日だから、23年間輪王寺宮を務めたことになる。薗田秀延は公弁法親王が亡くなったその年のうちに引退した。秀延の同僚の吉川養盛はその後もしばらく公寛法親王に仕えたので進退は人それぞれのようだけど、亀田則重はどのあたりで引退したのだろうかと考えてみると、享保年間に薬師寺へ良源さんの画像を奉納したというんだから、公寛法親王がまだ生きているうちに宮のおそばを辞して帰郷したことになる。享保は元文の前の元号なのでね。亀田則重が公寛法親王に仕え始めた時期も、引退した時期もわからないし、おまけに享保年間は21年もあるので一体どのくらいの期間則重が公寛法親王に仕えたのかも割り出しにくい。公寛法親王が輪王寺宮に就任した正徳5年の翌年には享保へと改元するので、単純に計算してみると則重が公寛法親王に仕えた期間は短くて1年、最大で21年ということになる。でもまあ、寺伝では長年の忠節が認められて餞別を戴いたことになってるのでそれなりの年数は勤めていたんだろうし、公寛法親王のおそばにどのくらいの数の坊官がいたのかはわからないけど、それなりの立場でそれなりに宮の側近く仕え、それなりに目をかけられていたということだろう。詳しいことがわからないので「それなり」を連発するしかないけど、この場合の「それなり」は推測できる最低限のラインで、あるいは秀延のように坊官の中でも高い位置にあったかもしれない。でもそうだとしたらなんで宮がまだ生きているうちに帰郷したのかという疑問も湧くけど、材料が少なすぎてこれ以上の推測は不可能ざます。ともかく、公寛法親王のお手になる良源さん(の画像)を連れて則重は帰ってきた。亀田家だけで良源さんのあり余るパワーの相手を務めるのはいかにも役不足で、「お前んちだけじゃワシ、暇すぎるよ~。ワシにはもっと多くの人々を救う力があるんだから、こんなとこに押し込めんなよ~」と則重の夢の中で良源さんが不満を訴えたことで、「寺岡山元三大師」としての本格的な歴史が始まる。え~ど~の昔より~祈願寺~厄除け開運商売繁盛なんでもござれの祈願寺~これは前回紹介した薬師寺のCMの歌ですが、亀田則重が良源さん(の画像)を薬師寺に奉納して世におひろめされた江戸中期から良源さんは下野の人々の信仰を集め、時には願いを叶え、時には心の支えとなり現代に至って境内が立派に整備されるところまで来た。その裏には10世紀を生きた良源さんのサクセスストーリーと苦労があり、良源さんの死後の叡山の混乱から生まれた元三大師信仰があり、天海が寛永寺を創建して輪王寺宮を誕生させた努力があり、亀田則重と公寛法親王の絆がある。歴史というのは、知れば知るほど考える幅も広がるので実に面白く、またいとおしい。にほんブログ村
2015年10月15日

旗川にかかる白旗橋からの北西の眺め↓。 方角的にはあれは足尾の方だけど、見えてるのはもっと手前の山かな・・・道はさらに細くなる。白旗橋の先で、ようやくお目当てへの分岐が出た↓(場所はこちら)。 右に写ってる民家は錣(しころ)葺きか?んで、正面の「田舎屋食堂」を曲がろうとしたら、店先になにやら看板があるのが目に入った。 【足利市重要文化財(考古資料) 日光例幣使(街)道道標 二基 左側の道場は安山岩製の四角柱型で高さ90cm、幅36cm、奥行38cmをはかる。 造立時には上部に尊像様のものがあったと考えられる。正面に「佐野道」右側面に 「足利道」左側面に「太田道」裏面に「元文五庚申十一月二十四日 下野国足利郡寺岡村 宿」の銘が刻まれている。 右側の道標は安山岩製の四角柱型高さ42cm、幅30.5cm、奥行30.5cmで ある。塔身には正面に「日光道」「道祖神」「佐野道」、左側面に「江戸道」「館林道」 「○主 山本兵蔵」、右側面に「善光寺道」「太田道」「足利道」、裏面に「寛政三辛亥年 ○月吉祥日」、また各面には「東」「西」「南」「北」の銘が刻まれている。 日光例幣使(街)道に関する市内の近世の資料は少なく近世の宿駅、交通路を伝えるもの として貴重である。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)で、「左側の道標」がこちら↓。 上部が少しくぼんでいるので、なにか像が置かれていたと推測されているんじゃないかと思われる。尊像つきの道標か・・・どんなのが上に乗ってたんだろう。「右側の道標」がこちら↓。 こちらはだいぶ損傷が激しい。でも文字はよく残ってる方だよな。ただこれ、田舎屋食堂さんの店先だから全方位から見るのはちょっと控えたけどね。殿町通りから県道67号線に出てここまで来るまでの間、一部例幣使街道を歩いてきたことを知ったのはこの解説板によるものだった。 例幣使誕生の経緯については「上野第二編(55)」で簡単に書いてますが、伊勢の例幣使を復活させるついでに家光が東照宮への例幣使をあらたに設置した。その例幣使・・・朝廷からの勅使が通ったのが、日光例幣使街道。江戸から日光へ行く場合、江戸城から千住・草加・越谷などを抜けて古河~宇都宮に出るまでほぼ真北へ向かって北上してから宇都宮の先でゆるやかに北西へ回り込んで日光に至る。これが日光道。将軍の日光社参の場合は、江戸城から幸手までは日光道の西にある日光御成道を通って、そこから先は日光道で北上する。が、日光例幣使街道は群馬県高崎市の倉賀野宿を起点とする。大ざっぱに図にするとこんな感じですかね~↓。 倉賀野からうねうね蛇行しながら西へ向かって佐野を通り、北へと向きを変えて楡木宿で壬生道に合流してそのまま壬生道を今市まで向かう。なんで倉賀野が起点なのかといえば、中山道から分岐してるからです。つまり、勅使は京を出発して中山道を通ってくる訳です。山越えして群馬県に入ると、中山道は高崎あたりからゆるやかなカーブを描いて南東へ下りていく。日光へ向かう勅使は南東へは下りずに、倉賀野から例幣使街道を取って東へ向かい、佐野の先からぐぐっと北上して日光へ向かう。勅使は3月末、または4月1日に京を出発してだいたい15日間の行程。天気が悪かろうが具合が悪かろうが、4月15日には日光に入らなければならない。もう、おわかりですね。イエアスの命日(4月17日)にあわせて行われる例祭に参加して、東照大権現様に幣帛を捧げるのが勅使のお勤めなのです。例幣使には色々面白い話もあるんだけど、それはまた別の機会に書くとして、例幣使街道は勅使だけではなく、西国の大名の社参にも使われたらしい。で、写真の道標は元からこの場所にあったのかは書いてないけど、位置と方角から考えておそらくこの場所にあったものと思われる。というのも、 これが田舎屋食堂さんのところを南に曲がる道ですが、勅使はまさにこの写真の奥からわたくしがいる場所まで来て、県道67号線を東に折れて白旗橋のあたりを渡っていったようなんです。いやあ~、街道は歴史ファンにとってはロマンだよな~。歩くのが苦にならないわたくしは、いつか例幣使街道を自分の足でたどるのもいいよな~と思って帰ってから調べてみましたが、途中杉並木などもあるようなので、あまりさびしい道だったらちょっとマズいかな(←今さら)と思って現在の状況について検索してみたところ、なんか途中には廃墟のホテルだかで「出る」ところがあるらしく、わたくしの大ッキライな○○スポットの記事ばっかり引っかかったので、例幣使街道踏破はしないかと思います・・・さて、白旗橋からここまでも例幣使街道を歩いてきたことになりますが、ここから南へ向けてもうしばらく例幣使街道をたどります。 きらびやかな勅使一行や大名行列が通ったとは思えないほどのどかな風景。少し歩くと前方にこんもりした丘が見える。あれが地図にある「岡崎山古墳群」かな↓。 古墳群の手前に道標らしきものが見えるので凝視しながら近づくと 出た出た!良源さんはもう近いぞ道標に従ってわたくしは左の道を入ったので、これで例幣使街道とはお別れ。だだっ広い田んぼの中なので風も一層強く吹き付けたけど、道沿いには次のお目当てを示す看板が続いているので、旗川沿いの道を歩いていく↓。 道なりにぐるっと回り込んでいくと、その先にあるのが第2の良源さんが待つお寺、「寺岡山元三大師」↓。 このお寺を知ったのはいつだったっけ・・・惣宗寺に行くならどことセットにしようかと考えてた時だっけ。それとも、関東近郊で良源さんを祀る寺などを調べていた時に知ったんだっけ。ま、ともかくつい最近知ったお寺であることに違いはない。寺岡山元三大師は正式には「寺岡山薬師寺」・・・だと思う。こちらのお寺ではホームページも開設してるんですが、なにしろとにかく良源さんをばば~んと前面に出してるもので、寺のホームページに寺名が書いてないという千葉では(たぶん)放映されませんが、薬師寺ではCMも作っているらしく、薬師寺のホームページでCMを観た時、申し訳ないですがぶっちゃけ爆笑しました。いや、とにかくインパクトのあるCMなので。CMに流れる歌も独特で面白いので、繰り返し観て歌を覚えましたが、一緒に歌ってるうち、庶民の願いを支えてきた寺の雰囲気をよく表現してると思うようになりました。慣れたせいもあるけど、わたくしはこの歌、好きですね。興味のある方はぜひホームページでCMをご覧になってみてください。にほんブログ村
2015年10月13日

前回の山門の続き。 ↑これは天保5年冬、 【薩摩大隅日向三國前●●●琉球國 従四位上行左近衛権中将源朝臣齋宣●書】島津斉宣(薩摩藩第9代藩主)によるもののようで、斉宣の子のそのまた子が天璋院篤姫。つまり篤姫のジイちゃんのお手のようですが、なんでここにこれがあるのかは不明。元から惣宗寺にあるものだとしたら、日光社参の時にでも寄ったのかね。 彫刻類は一部欠損したままのもの、一部後世の補完が見られるものなど状態はさまざまですが、風格のある立派な門です。ここにはこんな看板もあって これのおかげで、目障りな千社札が少なくてよいです。(ただし、まったくない訳じゃない)で、門を出ると 天台宗で最も有名なキャッチコピー(最澄たん作)がそこにある。この看板の奥にあるラーメン屋さんが佐野名物「イモフライ」の出店を出していたので、あとで買って帰ろう。 山門を外側から見たところ↓。 惣宗寺の斜め向かいには中央公民館があり、1Fは観光物産会館になっていて、寺を出た人はみんなここに吸い寄せられていく。この先の行程ではみやげをゲットできそうな雰囲気じゃないので、わたくしも中に入ってみた。以前来た時ここに寄ったかは記憶にないけど、今回入ってみたらま~あるわあるわ、地元の名産が目白押し!!おそらくここに、市内で生み出される各種名産品が揃ってると思われるので、ここ1軒だけで買い物には十分すぎるほどだろう。こーゆーところがあると、がぜん楽しくなってくるし、旅の印象もよくなるというもの。それで、見るもの見るものどれも買いたくなるようなものばかりでしたが、とりあえずまだこの先もしばらく歩くので、重い調味料などは泣く泣く諦め。でもこれを見つけた時は、迷わずカゴに入れました↓。 なんと、良源さんのお名前がそのまま商品名になっているという、佐野ならではのおせんべです。 個包装のパッケージは角大師↓。 いやあ、楽しいなあここでのわたくしのオススメはこれ↓。 4コだか5コ詰めのシンプルなあんぱんですが、持ってみるとずっしりと重い。これはさぞ美味かろうと思って重いにもかかわらず買ったのですが、帰って食べたらマジ美味かった。 あとは当然、佐野ラーメンね。 何種類かあるのでどれにするか迷ったけど、これ美味しかった。 他いくつかのみやげを買って公民館を出る。セーブしたにも関わらず、みやげで荷物は膨れ上がって手荷物が2つになった。で、イモフライのお店に寄って佐野名物ゲット。名物っつっても、ぶっちゃけ衣を付けたイモのフライを3コ串刺しにしてソースに浸しただけのシンプルなもの。いちおうお持ち帰り用にしてもらったんだけど、本来であれば自分の分はあたたかいうちに食べたい・・・しかし、まだこの時は雨が降っていて外で坐って食べることもできないし、かと言って立ち食いも傘をさしているので食べにくい。ので、結局そのまま家まで持ち帰ったんだけど、当然しなしなになってましたやはり、フライはできたてを食べるのがよろしいでしょう。さて、これで惣宗寺は終わり。これから西へ、良源さんの待つ次なるお寺へ向かいます。殿町通りを南下してから、秋山川の手前までわたくしが歩いてきた大きな通りは県道67号線。同時にそれは、日光例幣使街道でもあった。惣宗寺は県道67号線から少し南に入ったところにあるので、また県道に戻ってから秋山川を越えて西に向かう。ところが、例幣使街道は結構うねうねとした道で、秋山川の先では県道を大きく北に迂回するルートを取っており、ここからしばらくは県道と例幣使街道はカブらない。ま、この付近を例幣使街道が通っているということはこの先の道で初めて知ったので、この時はひたすら県道を歩いていった。事前に知ってたら、街道をたどっていくのもよかったんだけどね。それで、県道を少し歩いたところにはこんなのがあった↓。 須永元(はじめ)氏は明治の人で、朝鮮の独立運動を支援した人だそうな。ウィキペディアによると、勝先生や田中正造などとも交流があったという。さらに歩くと大きな交差点があり↓ 標識を見ると 今わたくしは西へ向かってるので、まっつぐ行けば足利でその先が桐生。ここを北へ行けば「田沼」とあるけど、田沼っつったら意次(おきつぐ)で有名な田沼氏が浮かぶ・・・これは田沼氏の田沼なのか?と思って調べたら、田沼氏とは佐野氏の分流の佐野重綱が安蘇郡田沼村に住んで子孫が田沼氏を称したものらしい。ほお~、佐野氏の出だったのか!なら、阿曽沼氏と祖先が一緒ってことじゃないか。阿曽沼氏と田沼氏がつながりがあったなんて、なんか意外・・・「田沼」は秋山川を北上したところにある。佐野氏の総領家は秋山川の南、分家は北に位置していたと見られているようで、田沼氏が佐野氏の分家である点はいいとして、江戸期の意次についてはウィキペディアでは【老中田沼意次はこの系統の子孫と称している】とビミョーな表現をしている。うん、そうか・・・「佐野出身の田沼」であれば、俵藤太秀郷に行きつくもんな。過去の記事でも何度か書いた記憶がありますが、秀郷は「俺っちのご先祖様!」と祀られるのに大変人気があるお方。だから、意次の田沼家については家系詐称の疑いもあるってことなのかもしれないな。交差点を越えると、道はちょいと細くなる↓。 ま、歩道がついてるのが幸いだけど。歩いている途中で、雨がようやく上がった。ただ、風が強くて3月といってもまだ寒い。しばらく歩くと出るのが才川↓。 でも目的地はまだ先。さらに10分ほど歩くと、前方に山が見えてきた↓。 この辺から見える山ってなんだろ・・・その先が旗川で、ここから足利氏発祥の地・足利市に入る↓。バイバイ、佐野。 にほんブログ村
2015年10月12日

和鐘の大まかな構造は「三原編(42)」で紹介してますが、松寿寺の鐘には見当たらなかったので描かなかった部分があって、「草の間」と「駒の爪」の間には「下帯」(かたい)という文字通りの細い帯をめぐらす部分がある。その下帯の部分にあるのは金剛杵・・・これは三鈷杵かな↓。 あまり鐘に密教法具があしらわれるのは観たことないような?鐘座には輪宝↓。 で、こちらが前回の解説にあった竜頭ですが、 蒲牢(ほろう)って一体どんな風に想像されていた動物?と思ってウィキペディアを見てみたら、龍の子供(龍生九子)なので外見はほとんど龍と同じで、 【龍生九子の一、蒲牢は吼えることを好むという。蒲牢が吼えるのは鯨に襲われている時とも、 逆に襲っている時ともいわれ、または、蒲牢に襲われた鯨が吼えていて、それを蒲牢が好む、 ともされる。故に梵鐘などの釣鐘の鈕(釣鐘上部の、吊るすために綱などを通す部分)の 飾りとなり、鐘の音を大きく響かせるのを手伝っているという。この鈕の事を日本では 『竜頭』(りゅうず)と言う。腕時計の竜頭はこれに由来するとされる。鐘繋がりで時計の 装飾に蒲牢が施されていたのが、腕時計のゼンマイ巻きの装飾になり、簡素化されて龍の 装飾は無くなったが言葉だけが残った、とされる。】ほおお~、腕時計のでっぱりのリューズはこれが起源なのか。龍の子は龍じゃないのか?ま、フツー鐘って吊ってあるのがほとんどなので、高いところにある竜頭まであまり見えることもなく、ゆえに他との比較も難しいのですが、手持ちの写真で竜頭が見えてるのはこれぐらいかな↓。 (弥山・大聖院梵鐘)重文なのに写真撮影禁止ともなかったので遠慮なく撮らせていただきましたが、これなんかは龍っぽくはないよな。ただ、治承元年(1177)の作で明暦とはだいぶ年代の開きがあるけど、「慶長以前」には違いないので、これもおそらくは蒲牢なんだろうな。 植え込みの陰にひっそりと立つ宝篋印塔↓ の先には、異様なものが↓。 【パゴダ供養塔 -宝珠は深く仏を信じる魂- 藤原秀郷公が春日の神霊を旭ヶ岡姥ヶ城、現在の佐野城山公園に祭祀(朱雀天皇・承平7年 -937年-)されてから1050年の嘉辰(かしん)に当たり、これを記念して約5年の 才月をかけて建立された。三界萬霊有縁無縁の霊戦争災害死者、事故横難死者、水子霊等を 供養する功徳莫大な聖衆俱会楽(極楽で受ける十楽の第7極楽ではつねに無数の聖衆が一処に 会合して互いに語をまじえ法楽を得ること)の塔である。 4メートルの方形基壇に、6つの相輪と1つの塔身水煙をつけた宝珠からなり高さ8メートル を有する。相輪は六道輪廻を塔身上部は天をあらわし、そこに位置する宝珠は深く佛を信じる 魂そのものである。高さは力、そして希望であり、シンメトリー(左右対称)は安定と壮厳さ である。天に向うパゴダを8枚の蓮弁がしっかりと支えている。基壇においては古代インド サンチー遺跡のものをアレンジデザインしている。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)正直言って、あんまこの辺てなんか気分良くなかったんだよな・・・進行方向正面には本堂が見えてるけど、 まだ付近にはこまこましたものがあるのでそれらをだらだら見つつ、少しずつ良源さんとの間合いを詰めていく。 一見、お墓のようにも見えるこれは 【馬頭観音(梵名・ハヤグリーヴァ) 悪を破り仏法を護る明王、慈悲の方便として怒りや力の面も備えた観音の性格を 特に強調したもので、衆生の暗やみを照し苦悩を断念することを本願とする。】 (現地解説板より)だそうで、石碑には大きく「馬頭観世音」とある。その先には ああ、これは寺宝の紹介だな。その後ろに誰々いくらとの看板が立ってますが、商売繁盛で結構なことでおじゃるまする・・・しかし、ぶっちゃけわたくしにはありがたくない。これで本堂から離れたところにあるものはおおむね見てきたけど、この先は なにこれェェェ~~~ッ!!前に来た時は、こんなんじゃなかった。写真では大した人数は写ってませんが、この後しぶしぶお堂の方へ近寄ってみるとすごい人数が昇殿していて、お護摩を受けるようだった。惣宗寺の護摩祈願のシステムは知りませんが、この時は団参(団体参拝)でもあったのか、あるいは護摩の日が決まっていてそれで人が集中していたのか、とにかくお堂付近はわさわさしていてゆっくり参拝するどころじゃなかった。ま、そんな訳でお堂を前にして足取りはさらに重くなっていたのですが、祈願受付用特設テントの付近にはこんなのがあった↓。 【麗水(れいすい)観音 水は聖氏の海の水を意味する。即ち私達の迷いの日常を泥海にたとえたものです。 南無観世音菩薩と唱えて救いを求める時「善星皆来悪星退散」の極妙楽の世界が開け 「生きる力」を与えてくれる。】 (現地解説板より)これにはもうひとつ看板があり、 【奇跡 れいすい観音 平成24年1月9日未明、盗難に遭いましたが皆様の願いが通じ同年2月22日朝、 駐車場に雨の中1人でたたずんでおり、無事に帰ってきました。 奇跡「れいすい観音」と呼ばれております。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)その観音様がこちら↓。 一体何がしたかったんだかさっぱりわかりませぬが、お戻りになられてよござんした。で、この後お堂の方へ向かいましたが、たぶん「祈願受付」の正面のお堂は「護摩堂」とでもいうんだろうな。ここに大勢の善男善女が入っておりましたから。なまじ最初の訪問時の静かな印象が頭にあったものだから中の様子をちょっとだけ覗いて、あとは売店コーナーに移動したんだけど、この頃は買い物する気力も失せておりまして・・・それでも、いくつかの良源さんグッズをゲットしてお堂を離れるとこんなのが目に入った↓。 まあ、そう言われましてもなかなかね~。さて、お帰りは唐門とは別の門の方へ向かう。 これが惣宗寺の正式な山門。惣宗寺はもと春日岡(現・城山公園)にあったという経歴を持つ寺なので、城好きの間ではこれは佐野城からの移築門だとまことしやかに語られている。でもね、 スタイルからいっても、これはお下げ渡しの移築門じゃないと思うんだよね。現に、惣宗寺のホームページでも山門については 【当山が江戸初期(慶長八年)、現在の城山公園(両毛線北にある)より、現在地に移転する 際に、移されたもので、約十万石の格式をもつ大名の大門といわれており、総けやき造りの 堂々たる風格をほこる山門である。】と言っている。わたくしも、寺伝の通りの由緒だろうと思う。確かに城門に見立てたくなるような立派な門だけど、惣宗寺の後に城山に佐野城が建てられて、その場所から移された、というあたりから「城から移された」と混同した話が広まったってところじゃないかと思うけどね。ここに惣宗寺が移った当時はまだイエアスは生きていて、その頃の境内は今よりはもう少し広かったかもしれないけど、日光遷座の時にはイエアスの霊柩は惣宗寺へ入ってるんだから、この山門を天海とイエアス(←故人)がくぐっていったのかもしれないな。にほんブログ村
2015年10月11日

今年のノーベル賞生理学・医学賞の受賞が決まった大村智さんが実は多彩な顔を持つという記事をネットでなにげに読んでいた時、犬のフィラリア(犬糸状虫)がうんたらという記述があったので、うちの娘さんたちが飲んでいる薬を確認してみたところ、 箱を裏返してみると うおっち!TVで連日のように聞いている薬剤「イベルメクチン」の名がしっかり書かれているじゃ~あ~りませんか~!!愛犬家にとってフィラリアの予防薬は(高いけど)欠かせないものですが、おそらく他社の予防薬にもイベルメクチンが配合されているのだろう・・・全国の愛犬家諸君は、大村先生に感謝せねばなりませぬ。ちなみに、箱に大きく「ま」と「ほ」ときったなく書かれている字が目ざわりですが、わたくしの字じゃありませんよ体重によってイベルメクチンの配合を変えた薬を投与せねばならないので、間違えないように母上様が書いたものです。箱の裏にはちゃんと看護婦さんがどちらに飲ませる薬か書いてくれてるんだけど、一目でわかるようにデカデカとマジックで書いておるのです。それでは前回の続き。前回書いたような経緯で、本堂に近づきたくないわたくしは先に周辺から攻めることにした。で、これが東照宮の前あたりにある鐘楼↓。 この中に懸かる鐘は ぬわんと、オドロキの金造り。これには解説板がついていたのでご紹介しましょう。 【厄除元三慈恵大師一千年遠忌記念事業 一、金銅(きんづくり)大梵鐘について 厄除元三慈恵大師一千年御遠忌を記念して建立された金銅大梵鐘は、人間国宝香取正彦 先生によって謹製され、日本一大きな金の梵鐘(つりがね)で、直径1.15メートル 重量約2トン、黒塗りの切妻造りの鐘楼におさめられている。鐘身の片面中央(池の間) に円相(えんそう)をつくり、中に一切衆生の願望を満たし苦しみを救ってくれる、蓮台上に 坐る如意輪観世音菩薩(厄除大師の御本地)-立ひざをして、頬杖をつき、一つの手に 如意宝珠、またの手に法輪をもって人々にやさしく語りかけている-。 片面には同じく円相内に如意輪観音の種字子であるキリークをあらわす。そして撞座の 左右に男女の童形合掌像が配置されている。この金鐘をおさめる鐘楼は、日光の国宝修理の 権威者で、文化財建築の第一人者といわれている中里茂先生によって設計建築された。 昭和59年4月完成】 (漢数字は戦国ジジイが変換)えっと、昭和59年というと1984年か。良源さんが亡くなったのは永観3年(985)だから、翌年の御遠忌イベントに合わせて前年に完成させたってことだな。カネだとか汚物だとかのえげつない話の多い、高尚とはほど遠いわたくしのブログですが、現在の惣宗寺の繁盛は良源さんがあってこそのもの。もちろん、良源さんの恩恵にあずかる天台の寺は惣宗寺だけじゃないけど、「関東厄除け三大師」という場合は西新井大師・川崎大師・観福寺大師堂の弘法大師・空海さんを祀る寺・・・つまり真言宗の寺で、「関東三大師」という場合は惣宗寺(佐野厄除け大師)・青柳大師・川越大師の良源さんを祀る寺・・・こちらは当然天台宗。ただ、そういう分類には関心のないブッチーによく知られている関東の厄除け大師といえば、まあトップは川崎に譲るとしても、惣宗寺も川崎とほとんど肩を並べるくらいメジャーじゃないだろうか。それだからこそ、惣宗寺が気合いを入れて良源さんに日本一の金の鐘を奉納したことはしごく納得がいく。上屋である鐘楼を担当したのが日光で腕前を発揮している中里氏だというのも、天台つながりの縁なのかもしれないな。(もちろん、現在の東照宮は神仏分離によって天台宗じゃありませんが。)上の写真では少々見づらいですが、撞木が当たる部分(鐘座)の上には解説の通り如意輪観音様が優雅なお姿で円相の中に浮かんでおり、鐘座の脇には手を合わせる童子像がある。この反対側には これも解説の通り、円相の中の蓮台の上にキリーク(梵字)が浮かんでいる。そして鐘楼の内部の上方には おなじみ、角大師バージョンの良源さんがおわす。惣宗寺でもおふだを売ってるんだな・・・あとで売店でゲットしよう。 今は本堂を遠巻きにして境内を時計周りに歩いてますが、鐘楼付近から本堂を見たところ↓。 本来なら真っ先に行って愛する良源さんにご挨拶すべきところですが、あの植え込みの奥には実はかなりの人出があってまだ近寄りたくない。で、本堂と反対側の方向へ目を向けると、なにやら色々ある↓。 不思議なことに正面から撮った写真がありませんが、上の写真で看板の向こう側に写っている自然石が、足尾鉱毒事件で有名な田中正造の墓でございます。なんでまともな写真を撮らなかったのか記憶にありませんが、ひとまず解説板の方を紹介しておきます。 【田中正造翁の墓 田中正造翁(1841~1913)は佐野市小中町に生まれ、この惣宗寺を本拠地と して政治の道に進み、栃木県会議長を経て帝国議会代議士となり憲政史上に不朽の名を 留め、全生涯を正義の旗手として人権の尊重と自然保護のために捧げました。翁の没後、 当寺院で本葬が執行され、遺骨は、ゆかりの地5か所に分骨埋葬されました。なお、 翁に関する資料は、左記の博物館で収蔵・展示しております。】 【惣宗寺田中正造墓所 正造分骨地の1つである惣宗寺墓所は、正造翁が生前自然石を酷愛せる事万人の知悉せる ところにより、その心事を採酌し、大正9年6月11日、自然石を以て正造の精神を敬仰し、 その徳風を追慕し、又遺風を後世に永く伝えるため、渡良瀬川流域産出の用材により建設 された因縁なと、郷土の先覚者正造の重要な史跡である。】 (いずれも漢数字は戦国ジジイが変換)足尾鉱毒事件は小学校の頃に習った記憶があるけど、あらためて経緯を読んでみると、南は行徳(千葉県)、東は霞ケ浦(茨城県)までと被害はかなり広範囲にわたってたみたいね。ウィキペディアによると、 【財産はすべて鉱毒反対運動などに使い果たし、死去したときは無一文だったという。 死亡時の全財産は信玄袋1つで、中身は書きかけの原稿と新約聖書、鼻紙、川海苔、小石3個、 日記3冊、帝国憲法とマタイ伝の合本だけであった。なお、病死前の1月22日に、小中の 邸宅と田畑は地元の仮称旗川村小中農教会(現・小中農教倶楽部)に寄付していた。】だそうな。1つめの解説の方では5か所に分骨されたとあるけど、平成元年になって第6の墓が公表されたとのことなので、惣宗寺の解説板は平成元年以前に設置されたものかもしれない。この裏手が墓地になっており、こんな看板もあった↓。 わたくしも以前から記事に書いている通り、このお願いはごく当然のことです。お供え自体はいいんですよ。ただ、自分が帰る時にはきちんと撤収していきましょうってことです。ちょうどここらへんが境内の折り返し地点で、位置関係は今ひとつ記憶にありませんが、次にあるのがこれかな↓。 【銅鐘 口径 89.99cm 総高 146.04cm 重量 約1125kg 明暦4(1658)年、天明鋳工105人が合作して寄進した大鐘で、この竜頭は蒲牢 (想像上の動物)の首を現している。慶長以前にはこの種が多く、その後は竜首に変化 した。天明鋳物の中でも代表的作品であり、銘文に「蒲牢」「洪鐘」等の異名がある。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)この付近には天明宿があり、惣宗寺より少し北に天明の地名を残している。そして天明鋳物師たちが住んでいたエリアでもあることは「(3)」でもちょびっとだけ触れてますが、天明から阿曽沼氏発祥の地である浅沼までの間には金井上町・金屋下町・金吹町などの鋳物との関連をうかがわせる地名が残っている。筑前芦屋と並び称されたというその天明鋳物師たちの力を結集したのがこちら↓。 園城寺(三井寺)でトラウマになったこともあり、鐘は観るより撞く方が好きなわたくしですが、単品で鐘を観てもシロートにはどれも同じように見える・・・ただ、過去に紹介してきた写真などと比較すると結構違いがあるもので、この天明大鐘はすっきりとバランスが取れて美しい。にほんブログ村
2015年10月10日

唐門のつづき。 彩色がだいぶハゲかけてる部分もあるし、彫刻の中には一部欠損しているようなものも見受けられるけど、東照宮系の意匠になじみのあるわたくしにとってはべつに大した問題じゃない。写真を撮りながら中へ入り、唐門のすぐ脇にある東照宮は一旦置いといてまずご本尊である良源さんへご挨拶しようと進行方向を見ると、 ?テントが立ってる・・・前はこんなものなかったよな。わたくしが初めてここへ来たのは、もう10年前ぐらいになるでしょうか・・・東武の運賃がタダになる乗車券を持っていたので、有名な佐野厄除け大師でも観に行こうかと相棒を誘ってきたのがお初。その時は6月ぐらいの初夏の気持ちいい陽気の頃だったんだけど、境内にはあまり人はおらず、初宮参り風な家族がいたのと境内が静かだったことだけ覚えている。けど、この日はなんだか設営からして当時とはずいぶん雰囲気が違っていた。と、とりあえず以前はブッチーの純粋な観光だったから境内なんぞロクにも見ていなかったので、とりあえず目の前に建つ水子地蔵尊の中を覗いてみる↓。 その先にはこんなのがあった↓。 【お掃除小僧さん 掃けば散り拂(はら)えば又も散り積もる 庭の落ち葉も人の心も 当山】そのまま進行方向に進むと本堂の前に出られるんだけど、奥へ行くにつれ人もいるし、商売がんばってまっせ~的な設営と雰囲気がわたくしの記憶にある惣宗寺とあまりにも違っていたので、なんだか奥へ進む気が起こらず、また戻って東照宮を先に観ることにした。境内には葵の紋がごろごろしている↓。 で、これが唐門のすぐ脇にある東照宮の入口↓。 入口にあるべき鳥居がないのでちょっと間延びした感じだけど、かつては鳥居があったハズ。神仏分離の際にでも撤去されたかな?今は両脇の木がちょうど鳥居の代わりのようになっている。ここも「ふるさと佐野100選」に選ばれているようで、佐野城址と同じモニュメントがあった↓。 入口の手前には、 おみくじ専用の両替機なんて初めて見たぞさすが、おみくじの創始者といわれる良源さんを祀る寺だけあっておみくじ用の小銭の配慮まで抜かりない。では東照宮の境内に入ります。 【栃木県指定 有形文化財(建造物)東照宮本殿 附建築図・棟札及び保管箱 本建物は、文政11年(1829)幕命により造営完成されたものである。 残されている古図(建築図)には、文政6年(1824)幕府の大棟梁の補職平内山城 藤原吉久が設計したことが示されており、工期は5年を要したことになる。この建物の 特徴は、江戸時代後期の精緻な技巧を施した装飾彫刻にある。なお建築図・棟札ともに 建立年代を知る上で、貴重な資料である。】ま、ご覧の通り小さなものなので、焦ることもない。入口のすぐ脇にあるのは葵の紋入りの手水鉢↓。ただし、中はカラですが。 あと、こんなのもあった↓。 正面に見えるのが拝殿で、これも栃木県指定の有形文化財。 【この拝殿は、本殿同様平内山城藤原吉久の作で、桁行3間・梁間2間の入母屋造りと なっている。江戸時代後期の建造物としては、総体のバランスもよく、装飾彫刻は 本殿より少な目に施されているが、よくまとめられている。】 (【】内はいずれも現地解説板より) 全体的に、唐門よりは状態がいい。ただ、現地の解説板によると本殿を囲む透塀は昭和37年に大修理を行ったそうなので、その時にあわせて拝殿にも手を入れたかな。でも、こちらにも一部欠損している箇所もあるので修理してないかもな。床下好きのわたくしは、ここでも下を覗きましたが、縁の下の部分にも彫刻が入っていたので驚いた↓。 拝殿の扉はちょっとだけ開いていたので覗き見↓。 うん、日光の大猷院にあるようなあのテの障壁画で内部は飾られているらしいな。拝殿の奥には本殿があり、本殿を取り囲むように透塀があるようなんだけど、ロープが張られていて立入禁止なので、どちらも観ることはできなかったで、おみくじをひいて東照宮を後にする。↓ぽちりとよろしく~。にほんブログ村
2015年10月08日

それでは、現地に戻って殿町通りをしばし南下します。途中の道沿いにあった小さなお宮↓。 フツー、こーゆーのって扉は閉まってるものだけど わたくしが開けた訳じゃないッスよ。留め金がゆるんでるのかな。しかしまあ、こんなに小さくても 細かくきちんと造られている。由緒ある通りを飾るのは 佐野市のブランドキャラクター・さのまる。手に肉球が見えるので種族はイヌじゃないかと思うけど、こう見えて侍なんだそうな。ヘルメット・・・じゃねえ、笠にかぶっているのは佐野名物・佐野ラーメンのお椀でお椀からはみ出た麺が前髪になっている。腰に差す大小はこれまた名物のいもフライ。2013年にゆるキャラの頂点に立ったそうで、町あげてさのまるを祝福しているらしい。まあ、カワイイもんね。わたくしもこの後寄ったお店でさのまるのメモ帳を買いまして、堂々と仕事に使ってます。で、出た通りが日光例幣使街道↓。 これをずずずい~と西に進みます。おっ、あんなものが店先に↓。 なんでも、「佐野商工会議所街づくり推進協議会」が中心となって街への来訪者を促すために家紋入りののれんを設置しているんだそうな。家紋を使ってアピールすることにしたのは、家紋の研究者である丹羽基二氏が佐野の出身だからなんだと。まあ、この時は肌寒い3月だったからのれんは見なかったけどね。さらに歩くと、こんなお店も↓。 味噌まんじうか・・・美味そうだな。でもこの時は店内に人がいたし、まだまだこの先も歩くのでここから荷物を増やすのもな・・・どうしようかな~と思いながら何となく通り過ぎてしまって結局買わなかったけど、 蔵を改造したお店なんだな、これ。その先には おお?どう見ても一般民家・・・つか、お店だけど。 うん?身体は確かに狛犬なんだけど、なんだこれ?この片割れは こちらは間違いなく狛犬。そうか、相棒の方はお顔が欠損しちゃってるんだな。そんなに古いようにも見えないけど、どこぞのすたれた神社などから引っ越しさせたのだろうか。あ、カラーの防火水槽はっけん↓。 え~、それでこれが秋山川にかかる大橋の1本手前の道を入ったところじゃないかと思うけど↓ この辺まで来るとな~んとなく見覚えもある。この通りにあるのが日限(ひぎり)地蔵尊↓。 ああ、うん、これも見覚えあるな。この頃には雨が結構本降りになっていて、予定よりも1時間ほど遅れていたので通り過ぎたんだけど、こういうものには目が行く↓。 そうそう、いくつか佐野ラーメンの店もあったよな。でも別にお腹がすいてた訳じゃなく、目が行ったのは店名のほう↓。 アハハ、秀吉か・・・以前来た時にも佐野ラーメンは食べたんだっけか。わりと細麺のあっさりしたラーメンのような記憶があるけど、土産に佐野ラーメン買って帰りたいな。そしてこの道の先をちょっと東に戻ったところにあるのが これが第1のお目当て、惣宗寺(そうしゅうじ:場所はこちら)。寺名を言ってもナニソレ?って方も多いでしょうが、「佐野厄除け大師」と言えば関東近郊の方にはすぐわかるでしょう。も~う、佐野といえばラーメンか厄除け大師かってぐらいのもんだからね。年末年始にはおなじみのCMも流れるしね。寺伝によると、惣宗寺の創建は奈良時代の天慶7年(944)。平将門がらみで藤原秀郷が春日岡に創建したのが始まりとされるが、天慶7年は将門の死の4年後だから、調伏のために建てられたって訳じゃないよな。鎮魂、もしくは戦勝のお礼?ま、その辺はよくわかりませんが、もとは法相宗系の寺だったのが平安末期に一旦衰える。それを、鎌倉期に入ってから藤原氏の出である叡山の僧・俊海が正応年間(1288-1293)に復興させ、以後は天台宗となったという。てことで、天台宗のお大師さんといえば言わずと知れた良源さんのことで、特異な信仰を集めた良源さんのお力にすがろうと祈願に訪れる庶民は多く、年末年始も参拝客で混雑する。「厄除け大師」の通称が世間で広まっていることもあって、諸祈願の中でも特に多いのが厄除けじゃないかと思うけど、恐らくご本尊の生前の名前を知った上で来ている人はあまりいないんじゃないかな。場合によっちゃ、佐野のお大師=空海なんて思いこんじゃってるブッチー(仏教オンチ)もいるかもしれない良源さんの知名度が低いのか高いのかは頭を悩ませるところですが、なんであれ良源さんを祀る寺の人気が高いのは嬉しいところ。ただ、人気が高いのは人も多いということで、人ゴミ嫌いのわたくしにとってはこれまた頭の痛いところでもありますが。え~、惣宗寺は過去の記事にも何度か登場してましてね。年代順に言うと、まず「佐野城(1)」。惣宗寺が創建された場所は春日岡・・・つまり、佐野城のあったところです。山城から平山城への移転を命じられた佐野信吉が、当時春日岡にあった惣宗寺を追い出して築城したのが佐野城。これで移転してきた先が現在惣宗寺がある場所で、城内に残された鎮守が大正になって山麓へ降りてきたのが孫太郎神社。そして元和3年(1617)、イエアスもここ惣宗寺を訪れた。ただし、本人はもう生きてはおらず、遺骸が寺に滞在した。つまり、久能山から日光への改葬の際に天海率いる華麗な行列がここへ入った。(「上野第二編(54)」参照)。そういう歴史を持つ寺なので、境内には東照宮がある。上に載せた入口の写真は正式な山門じゃなく、東照宮の唐門。 【栃木県指定 有形文化財(建造物)東照宮唐門1棟 江戸時代後期の作である。欄間・妻飾りなどにそれぞれ彫刻・彩色を施しており、 鬼板は●●の鬼を使用している。全体として唐門としての格好もよく、同時代の 特徴がよく表れている。】 (現地解説板より。●は柱に隠れて見えなかったところ)あいにく、わたくしが行った時は前面にガードがかかっててきちんとした姿を観ることはできませんでしたが、雨の中いそいそと写真を撮りましたのでどんどこ紹介しましょう。 にほんブログ村
2015年10月07日

直弼が16歳の時、父の直中が亡くなり、城内の再編成が行われた。後継ぎでない直弼は城下の屋敷に移ることになり、埋木舎での暮らしが始まった。300俵の「捨扶持」を与えられて埋もれて暮らす直弼の不遇の時代の開始、というのが一般的な見方じゃないかと思うけど、『井伊直弼のこころ-百五十年目の真実-』では 【これは、千石から三百石の武役席の藩士、すなわち上級藩士に相当する生活を 保証されていたと考えられます。】と表現している。なるほど、そういう言い方もできるのか・・・「埋もれ木」に自分をたとえた事について直弼は、 ざつ事もうきも聞かじや埋木の うもれて深きこゝろある身ハ (世の中の雑事も憂い事も聞くまい。深く埋もれた埋もれ木で、風雅を愛し、 もののあわれを知る我が身であるのだから:訳は前掲書より)と人に説明してきたと言っている。兄である藩主にはすでに養子(これも直弼の兄)がいる。ただ、井伊家では5・6・9代の藩主が就任後早々に亡くなって存続の危機にさらされたことがあったそうで、世子の兄のさらなるスペアとして生きることになった直弼は、風にも雪にも折れない強くしなやかな柳に自分を重ね合わせてもいたそうで、埋木舎の玄関先に植えられた柳を見つめつつ、和歌・国学・居合・兵学・茶の湯などの文武諸芸に取り組み、柳のように強くしなやかに自分を鍛えていったという。お殿様って皆様書画などに親しんでかなりの腕前を持つ方も多いけど、直弼は一本気というか凝り性というか、居合でも茶でも一派を立てている。茶に関しては各種茶道具なども自作するという凝りようで、以前彦根城の番組を観ていた時、井伊のお姫様が登場してお茶の師範か何かをされているって話だったけど、直弼の遺したものは現在も子孫に大切に引き継がれている。直弼は諸芸の中でも特に精神性を重視したものを好んで探究していったようで、少年の頃から禅にも親しみ、それが根底にあるのではないかという。そういう日々を重ねた直弼に、ある時養子の話が舞い込む。ただ、直弼をご指名という訳ではなく、弟も同時に候補に上がっていた。縁組の相手は親戚にあたる延岡藩主の内藤家。ここで初めて19歳の直弼は弟と共に江戸に向かう。この縁組に直弼が期待をかけていたかはわからないけど、結局養子に選ばれたのは弟の方だった。しばしの江戸滞在ののち、彦根に帰って元の暮らしに戻った直弼だったが、24歳の時に扶持が300俵から500俵へ加増され、奥向が置かれることになった。家庭を持った2年後、直弼にまた転機が訪れそうになる。今度は井伊家とも関係の深い長浜の寺の住職になるという話だった。これは住職の座が空いたための話で、寺の方では直弼を住職に迎えたいという申請を藩に出したものの、結局認められることはなかったそうな。部屋住みのまま、ヘタしたら一生日陰の身かもしれない直弼に2回チャンスが訪れ、2回とも実を結ばずに終わった。その時点では直弼もガッカリしたかもしれないけど、もしどちらかの話がまとまっていたらそれこそ本当の「埋もれ木」になっていたかもしれないんだから、人生というのはわからない。埋木舎で妻を迎え、最初の子供は夭折したらしいが次子が生まれた弘化3年(1846)、31歳の直弼は突然江戸から呼び出された。世子として藩主である兄・直亮の養子となっていた、これまた兄の直元の急死によるものだった。江戸に着いたらすぐに幕府へ世継ぎの届け出が出され、将軍へ目通りして晴れて世継ぎとなった。31歳にして誕生した「若殿」直弼は、まさか自分がこのように藩の供を引き連れるようになるとは不思議なものだと思い、藩主・直亮のご高恩が身に余り、駕籠の中で落涙したと書状に記しているそうな。ちなみに、大名社会ではめんどくさい・・・いへ、厳格なしきたりが色々あったのでその手順にのっとって直弼の世子の手続きが取られたらしいんだけど、申請書を受理した月番の老中は福山の阿部正弘さん。時代はこの後、加速度的に大変なことになっていくし、押しの強い外様の英君はゴロゴロいるし、正弘さんはのちの直弼の処遇に頭を痛めたこともあるようなので、正弘が若くして急死したのは絶対心労だよな・・・とあらためて思ったりもした。いやさ、正弘じゃなくて直弼。直弼が兄・直亮の死をうけて藩主になるのは若殿就任の4年後だけど、それまで部屋住みの生活が長かったので、順当に殿様コースを歩んだ大名とは少し違う考え方をしていたらしい。その最たるものが現実主義であり現場主義なんじゃないかと思うけど、徳川四天王と呼ばれイエアスの天下取りに貢献した初代・直政が押し上げた井伊家を、子の赤牛・直孝が秀忠以降3代の将軍から信任を受けてゆるぎないものとした。その子孫たちからは大老を務めた者も出て、大老が出ていない時でも彦根藩主は譜代の重鎮グループの一員だった。また、その軍事力ゆえに万が一の時には京都を守護するという役割で、近江に大藩を与えられた。直弼が若殿になった頃、異国の船が江戸周辺の海に頻繁に出没するようになっており、若殿就任の翌年、井伊家は相模の三浦半島の海岸警備を命じられる。直弼という人は、家格だとかしきたりだとかに強いこだわりを持っていたようで、かつて京都守護を命じられた我が藩に海岸警備なんてふさわしくない!として藩主になると積極的に運動したらしいんだけど、ただ先祖の功績に乗っかって華々しいお役目にしてくれと言った訳ではなく、現時点での役目で実績を挙げれば当家の家格にふさわしい役目が得られるだろうとして自ら相州に足を運び、巡見などを行ったそうな。地元においてもその精神は発揮され、若殿になった際には心を許した家臣にあるべき藩主の姿についての提言を求め、藩主になると領内をくまなく巡った。もちろん、歴代藩主も巡見は行っているんだけど、それまでは街道を通って国境を視察するという程度だったそうな。ところが、直弼の意向は領内をすみずみまで回りたいというもので、実際に4年かけて9回に分けてすべての村を回ったという。供回りは軽装の最小限の人数で、ただ馬に乗ってカッポカッポ見物しただけではなく、孝行者がいれば褒賞し、難病人がいれば同行の医師に診察させ、ビンボー人がいればお救い米を分け与え、土地の産物を献上されれば代価を払い、寺社に参詣しては金品を奉納するなど、領民とじかに接した濃い内容のものだったらしい。自分を「木訥(ぼくとつ)者」だと言っていた直弼は茶会を多く開き、その記録も残されているようだけど、ゲストの多くは家臣や領内の僧侶で、大名や幕府の茶道役などを招いての茶会はそれほど多くないという。「一期一会」は千利休の言葉だというけど、直弼が書いた茶の書の序文にこの言葉が使われたことでより広まったという。わたくしが買い物で悩んだ時、「一期一会じゃ~!」と決断することも多いですが、もとは同じメンバーで何度茶会を開いたとしても、同じ茶会は2度とない。今日のこの茶会は一生に一度きりのものだと真剣な気持ちで茶をいただく心構えが必要だ、という意味で、同じ書の最終章で「独座観念」・・・客が帰ったあとに茶室に1人座って、もう2度と同じ茶会を行うことはできないんだなあとしみじみと今日の茶会を顧みるという、茶会後のホストのあるべき姿を示している。・・・シブいなあ。大名同士の派手な茶会ではなく、弟子や心を許せる人達との静かな茶会を好んだという姿や領内やお役目の現場を細やかに見て回ったという姿は幕政の中心にあって歴史に名を遺した人のギラギラしたイメージとはほど遠い。そんな意外な顔を持つ直弼が佐野を通ったのは嘉永6年(1853年)3月。日光東照宮への社参の帰路だったという。いやあ~、「いやござんなれ」の年じゃないか!ペルリ来航はこの年7月。海岸警備とかだってその前から始まってたのに、こんな時期に社参かよ?しかしまあ、この社参が将軍の代参なのか、あるいは個人的なものなのか直接の理由はわからないものの、直弼の人となりを知れば「領内巡見」も兼ねていたものなんじゃないかという気もする。帰りに寄ったということは、行きは古河・小山・宇都宮を経由する日光道中を通って、帰りは例幣使街道の一部を通ったってことなのかな。例幣使街道は佐野を通ってるからね。この社参の際、日光で手に入れた栗山桶に黒漆を塗って水指に見立てたものが直助自作の茶道具として現存しているので、行く先々で親しく店なども覗いたかもしれないし、本藩に比べたらさほど広くもない佐野では自国と同じように丁寧に村々を回ったことだろうから、名前は付いてなくとも領内の多くの道が「殿町通り」だったかもしれないよな。現在の殿町通りの少し西には、かつて天明(てんみょう)宿があり、多くの鋳物師が住んでいた。茶の湯の流行とともに天明釜はあの芦屋釜と並び称されたそうで、大名茶人として名高い直弼も天明の鋳物師たちを激励したかもしれないし、気に入った鋳物があればお買い上げしたかもしれない。して、桜田門外の変において水戸藩の脱藩者を中心とした一団に襲われ、45歳の若さで直弼が死亡。彦根藩の公式発表では直弼の死亡日は実際の命日より遅らされたようだけど、当然家中では大混乱があり、殿の仇・水戸を討つべしという声も上がって佐野領からも千人が江戸藩邸に駆け付けるなどの動きもあった。地図を見ると、江戸から水戸へ向かうより佐野から向かった方がいくぶん近い。そうしたこともあってか、『井伊家史料』によると佐野から水戸へ出撃するルートを検討した形跡があるようで、あわせて佐野では水戸藩についての情報収集も行われていたそうな。もちろん、幕府から両藩での戦いは禁じられていたので実際に藩同士での戦闘が行われることはなかったけど、場合によっては佐野も戦場になっていたかもしれない。佐野領が彦根藩に組み込まれた時の当主は直孝。直孝は佐野にも菩提寺を置き、菩提寺となった天応寺には直孝とその子の直澄の墓がある。直弼は江戸の豪徳寺へ葬られたが、直弼の遺髪を納めたとされる直弼の墓が天応寺にある。ちなみに昭和43年、彦根市は明治維新100年を契機に因縁のある水戸市と親善都市として提携を結ぶ。その翌年に旧藩領であった佐野市とも親善都市となり、佐野でのイベントにひこにゃんが出張することもあるらしい。にほんブログ村
2015年10月06日

阿曽沼氏でちと回り道をしましたが、戦国期には佐野阿曽沼氏は佐野氏の配下となっており、ゆえに佐野といえば佐野氏がメジャー。佐野氏の概略は「佐野城(1)」に書いた通りで、佐野氏が改易されたあと、佐野はどうなったんだろうと思ったら、没収されて天領となり、井伊家や堀田家、それから旗本などに分割統治されたらしい。彦根からはずいぶんと離れた飛び地領ってことになるけど、付近の館林や宇都宮を治めた江戸期の領主の顔ぶれを見れば北の守りとして佐野も重要な位置にあったといえるだろうし、譜代の筆頭である井伊家に一部の統治が任されたというのもうなずける。佐野領が井伊家彦根藩の領地に組み込まれたのは寛永10年(1633)。万治2年(1659)には佐野城からほど近い北東に陣屋(堀米陣屋)が置かれる。「彦根35万石」といわれるうち、5万石は幕府からの預かり米分でこの5万石という数字は最大クラスなんだそうな。預かり米といえば福山城を思い出すけど、初期の水野時代に預かった米は5千石で、佐野が井伊家の領地になった頃に、福山城では備中成羽からの5千石も預かったものの、合計しても1万石だもんな(「福山城(12)」参照)。1万石で領内の武士や町人が古米を食べていたなら、華麗なる彦根城 (彦根城天守)の城下では常に古米しか食っておらんかったのか?じゃなくて、実質30万石のうちおひざ元の近江で28万石。残り2万石は飛び地領の佐野と武蔵を合わせた数字らしい。武蔵の方は荏原郡に10村、多摩郡に9村というから、うちの母方の実家(大田区馬込)あたりも彦根領だったのか。それで、佐野の方は安蘇郡の15村というので地図と突き合わせて佐野市における井伊家の領地の範囲を探ってみましたが、地名が変わっているのか見当たらない村名もあるものの、おおむね当時の地名が現在も引き継がれている。こういうことがあるから、歴史の証人でもある地名というのは市町村合併などで変に小綺麗な名称に変えてほしくないなと思いましたが、佐野駅付近からわたくしが向かっている第1のお目当てあたりにかけてが井伊家領地の南端で、JR両毛線の線路より北に長く伸びているってカンジかな。西限がどのあたりかイマイチわからないんだけど、佐野駅周辺でいえば唐沢山城あたりが北限らしい。余談ですが、地図で領地の範囲を比定していた時、「こどもの国」の名を見つけました。こどもの国って、佐野にあったのか!小学校3~4年の頃、遠足に来たぞ。そうか、井伊領内に遠足に来ていた訳か・・・と妙なところで感動をしましたが、この15村を合計すると17,693石。飛び地の2万石からこれを引いた数字が武蔵での大体の収入ってことだな。井伊家に限らず、江戸期は各大名は結構飛び地領を持っていたようで、近江の井伊家が下野や武蔵に領地を持っていたように、他の大名が井伊家のある近江に領地を持っていたりもしたそうな。そんな入り組んだ状態だったものだから、廃藩置県の時には実はスムーズに現在の所管に収まったということでもないらしい。本藩の自国にある領地の場合はいいんだけど、飛び地領に関してはそのままというケースも多かったようで、井伊家のある近江の場合ははじめ7つの県(膳所・水口・西大路・山上・宮川・彦根・朝日山)ができ、率先して廃藩していた大津県もそこに加わるが、彦根藩の飛び地領はそのまま彦根県ということになったそうな。彦根県佐野だってよもちろん、その後さらに県は統合されて、あわせて飛び地も本来所属するべき県へ移管されて、現在のように「栃木県佐野市」となる訳だけどね。え~、それで、井伊の直弼さんですが、世間一般では井伊家で最もメジャーなお人でございましょう。幕末の難しい時期にあって、一般的にはどぎつい性格のイメージが強いかもしれませんが、『井伊直弼のこころ-百五十年目の真実-』(彦根城博物館発行)には直弼という人間を中心にさまざまなエピソードなどを交えてなかなか興味深い文章が綴られており、どぎつい印象とはまた別の顔を見せてくれているので、彼個人についてこの本から少し紹介しましょう。晩年の幕政については有名だし、賛否両論あるからそこはヌキにします。文化12年(1815)、直弼は彦根藩第11代藩主・井伊直中(なおなか)の子として生まれる。父・直中の代数については13代とか14代という数え方もあるようだけど、ここでは前掲書に従います。直中の子は夭折した子も含め総勢20名。直弼はその19番目の子だった。ウィキペディアによると、直中は藩校を創設したり、治水工事を行ったりのほか【佐和山に石田群霊碑を建立して石田三成の慰霊を行った】とあり、これはたぶん佐和山山麓の龍潭寺(りょうたんじ)のコレだと思うけど↓ それからわたくしの大好きな井伊神社↓を創建したとある。ただし、現地の解説板では直中の子で次代藩主の直亮(なおあき)が井伊神社の創建者になっていたけど。 わたくしが彦根に行ったのはもう5年も前のことで、その時神社の本殿は上の写真のようになっていたけど、この覆いの中にある本殿はそれは素晴らしく、 当時建築にまったく関心のなかったわたくしでさえ、おお、なんかすげえ~!!と感動した建物です。そういう直中ですが、直弼が生まれる3年前に46歳の若さで子の直亮に家督を譲っており、つまり直弼は直中の隠居後に生まれた子のようです。世に出るのが遅く、自らを「埋もれ木」にたとえて自ら名付けた埋木舎(うもれぎのや)↓で 青年時代を過ごした直弼の前半生は一般的に哀れなイメージが強いように思いますが、実のところはそれほど不幸だったとも言えないらしい。というのも、現役の藩主の子として生まれていたら、大勢の子の中の1人でもあり、藩主には江戸詰めの時もある訳だから父とはほとんど別々の生活を送ることになっていただろうけど、直中は彦根城二の丸の槻(けやき)御殿でお富という女性と共に暮らし、そこで直弼が生まれた。槻御殿は現在は玄宮楽々園として城内の観光スポットにもなっている庭園の中にあり、直弼生誕の地碑もそこにある↓。 直弼の生母・お富の方は江戸の町方の娘で、どうやら江戸の藩邸で直中に仕えてそこで見染められたようだけど、佐和山の麓の龍潭寺にはお富の墓がある↓。 【彦根御前(大老井伊直弼ご生母)の墓 戒名 要妙院殿瑞宝知誓大姉 俗名 君田富子 直弼公ご生母要妙院は、美貌の貴婦人として知られ、立ち居ふるまいは優雅で、絶世の 佳人であったといわれている。このようなご生母富子の方を、藩中の人々は「彦根御前」 と云う敬称で呼びはじめた。「御前」と云う尊称で呼ばれたのは、数多い井伊家側室の 中でも要妙院1人である。文政2年(1819)2月26日、35才を一期として 惜しまれて世を去った。時に鉄三郎(後の大老直弼)は5才であった。 天保12年(1841)要妙院の23回忌法要に直弼が生母の墓に詣でた時、墓碑の 後ろにあった松の木を見上げ、亡き母を偲んで詠んだ歌 そのかみの煙とともに消もせで つれなく立てる松ぞわびしき 残らずば誰をなげきの友と見む つれなき松もむつまじきかな】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)ま、ホントに美人だったかはともかく、すでに江戸で直中の子を生んでいたお富は直中と共に彦根にやって来て、槻御殿に直中と住むようになってからは「殿」の敬称を付けるよう直中にはからわれ、側室として遇されたそうな。お富が病気になった時、直中は京から医師を呼び寄せて手を尽くしたというから直中からずいぶん愛されていたようで、こういう両親の下で直弼は育った。9歳頃には父・直中と一緒に鼓の稽古をしていたという記録が残っているらしいので、父の側近くで育った直弼は大名としては異例の育ち方をしたといえる。当時、世子以外は他家に養子に出されたり、寺に僧侶として入ったりしていたが、直中の子たちは夭折した子以外は出家はせず、多くが養子に行っている。 直弼が生まれた当時、すでに家督を継いでいた兄の直亮は親子ほども年が離れており、直亮の世子には同じく兄の直元が立っていた。お富が若くして亡くなると、直弼の弟を生んだ女性や比較的年の近い兄弟3人とともに、引き続き槻御殿で直中と住んでいたそうな。父が隠居していたおかげで普通の家庭に近い環境で育った直弼は、幼くして母を亡くしたこと以外は、大名の子としては結構幸せな少年時代を過ごしたんじゃないだろうか。直弼自身、自分の側室や子に対してかなり細やかな愛情を注いでいたことからもそういう可能性がうかがわれる。にほんブログ村
2015年10月04日

※「佐野城(4)」の続きです。さて、ここからは旅日記に移ります。寛永寺シリーズ以降、特に直近の「叡山攻め」を読んだ方には、わたくしが雨の中ハシゴする「お大師さん」がどなたなのかとうにおわかりでしょうが、そのお方に会うのが今回の目的でございます。まず最初のお目当てはかなり以前に1度だけ来たことがあって、たぶんその時は大通りを歩いていったと思うのですが、今回は少々寄り道をしながら第1のお目当てを目指します。駅前の通りを少し西に進んで、小道を南に入る。途中にも佐野市の鳥・オシドリがいる↓。 で、まず向かったのが孫太郎神社↓(場所はこちら)。ここは佐野城の南西隅の外堀のすぐ外側にあたる。 【伊賀町鎮守 孫太郎神社縁起 通称「孫太郎様」として親しまれているこの神社は、今を去る1060有余年の昔に 創建されたといわれています。 天慶の乱(938-940)に平将門を討った田原藤太秀郷により、天命の春日ノ岡 (現在の城山公園)に建てられた寺の守護神として祀られました。しかし、寺も神社も 保元・平治の乱(1156-1159)に兵火に遭い、荒廃してしまいました。 その後、文永年間(1262~1272)に寺は俊海上人によって再興され、同じ時期に 神社もまた修復されましたが、その再建に力を尽くしたのが孫太郎と称していた秀郷 8代の子孫に当たる足利家綱でした。里人達は、それを大変に徳としまして、それから後 神社の名を「孫太郎明神」と誰いうとなく呼びならわし、いよいよ崇敬の念を篤くしたと されています。 尚、異説として鎌倉時代の武将・佐野孫太郎義綱が讒言(ざんげん)にあって、領地を すべて没収されるという悲運に遭いましたが、稲荷社に自身の無実が晴れることを懸命に 祈願したところ、その甲斐あって疑いが晴れ、無事に領地を取り戻すことが叶いました。 その謝意の念を込めてそれまで無名であった稲荷社を春日ノ岡に「孫太郎神社」として お祀りをしたのがゆえんであるという故事も伝わっています。 慶長7年(1602)唐沢山城主・佐野修理太夫信吉は春日ノ岡(現在の城山公園)に 新しく城を築くこととし、天命の街づくりに着手しました。このために従来あった寺は 安蘇川(今の秋山川)左岸に城下の防備を兼ねて移されました。この寺が厄除け大師で 知られる春日岡惣宗寺であります。しかし、稲荷社は新たな春日岡城(現在の城山公園) の守護神としてそのまま鎮座されました。その往時、神徳のあらたかな社として参詣者は 日々市をなすほどの賑わいをみせたと伝え残されています。 やがて時移り大正6年(1913)3月、関係者特に伊賀町有志の尽力により城山公園に 鎮座する孫太郎神社を現孫太郎公園内に遷座し、町内鎮守の神として尊崇されて参り ました。その後平成7年81995)10月駅南土地区画整理事業に伴い現在地に遷宮、 今に至っております。また春日岡城、唐沢山城の守護神であるとして北向きに構える 社であられることは、全国でも稀な存在として注目されています。 主祭神 豊受姫命(伊勢神宮外宮に祀られる穀物の神) 配神 宇賀魂神 猿田彦神 豊城入彦神 例祭日 4月第2日曜日・10月第2日曜日 ※分社 八坂神社 7月20日前後】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)見ての通り、もうぶっちゃけ社殿としては見るべきものはありませんよ。でも、当初からの流れをきちんと説明してくれる解説板があるところってそうないし、現実的な事情によって様々な変遷を辿りながらもここにこうして現存していることを考え合わせると、地元の有志に大切にされているんだな~って感じられて、とても好感が持てました。で、解説によるとこの神社はもとは佐野城の場所にあったということですが、もし寺と同じ場所に移転されていたら、あるいは神仏分離の際に廃社となっていたかもしれないってことだよな。ただ、なんで大正に入ってから城山を追い出されたのかがわからないんだけど。城山の公園化は明治22年だから、公園化に伴っての移転という訳でもなさそうだけど。まあ、理由はわからないけどどっかから公園にふさわしくないから出てってもらおうか、なんて声が上がって廃絶派と保存派のせめぎあいみたいのがあったのかな。個人的には城山公園内に残しておいた方が「佐野城の鎮守でした」って使えてよかったんじゃないかって気もするけど。創建の伝承はひとつではないようだけど、どちらの伝承にしても神社の創建はかなり古いことになる。そうした歴史をおもんばかってか、境内にはこんな貼り紙もあった↓。 つまりは無人の神社のようですが、御朱印をお求めの方は役員さんちまでどうぞ。境内には小さな古い石祠もある↓。 表札も何もないので何かわからないけど、どちらかが分社の八坂神社なのかな。ただ、向かって右の石祠の下には穴が空いてるので、これはもともとは仏教系の何かがおわしたのかもしれない。孫太郎神社を出て南に行くと道に突き当たるので、そこを西に折れて少し大きな通りに出る。あっ、オシドリのカラーバージョンはっけ~ん うんうん、旅の楽しみはやっぱコレだよな。さてこの通りは という、いかにも由緒ありげな名の通り。通りを少し先に行ったところに「殿町通り」の由来についての解説がありました。 【殿町通り 慶長7年(1602)年佐野信吉が唐沢山城を廃止し、城山に城を築きました。 城山の西を通る山中道は、殿町通りと呼ばれており嘉永6年(1853年)、佐野領の 領主であった井伊直弼公が通ったと記録にあります。以来殿町通りと呼ばれ親しまれて おります。現在この通りにある東石(とうせき)美術館には、日本画・洋画・彫刻などの 広範囲にわたるすばらしい作品が展示され、県内外の美術愛好家に好評を得ています。】 (現地解説板より)いやいや、美術館の宣伝より佐野領の歴史についての解説が欲しかったんだけど仕方ないのでなんで井伊直弼なのかたった今、自分でちょいと調べてみたところ、ちょっとびっくりな歴史を知りました。巡り合わせというのは実に不思議なものだとつくづく思いますが、少し前に用事があって高島屋に買い物に行ったところ、ちょうど東北の物産展をやってたのでついでに寄ってみました。物産展はついぼんぼん買ってしまうのでわたくしには大変危険なイベントですが、あまり買わないようにしようと肝に命じながら歩いていくと、入口付近に濃厚で美味しそうなどぶろくがあったので、ゲットしました。もちろん、酒に強くないわたくしはどぶろくを炭酸のジュースで割って飲むのですが、そこのお店は遠野にあるらしく、お兄さんは遠野のパンフレットも入れてくれた。ぱらぱらと見たら古そうな神社仏閣の写真も載っていたのでご飯でも食べながら見ようと思ってテーブルに置いたまましばらく放置していた。それを今朝、ご飯を食べながら何の気なしに見ていたところ、阿曽沼氏がうんたら、って記述があって驚いた。阿曽沼?って、安芸の?でも遠野って・・・いやいや、でも阿曽沼なんてそうゴロゴロある名前でもないだろ・・・それはそこで一旦終わったのですが、この記事を書くにあたって佐野の歴史を検索していたところ、佐野でも阿曽沼が出てきた。1日のうちで2度も、しかも思いがけないところで出てきたのでびっくらこいて阿曽沼氏を検索したところ、阿曽沼氏とは源氏じゃなくて藤原系の足利氏の一族の出で、足利有綱の四男・広綱を祖とし、広綱が領地である下野国安蘇郡阿曽沼(現・佐野市浅沼町)から阿曽沼を名乗ったところに始まるという。御家人となった広綱は奥州征伐の功により遠野の地頭職をゲットし、広綱の子・朝綱は弟の親綱の子に自分の跡を継がせ、その頃は阿曽沼城なるものもあったそうな。うわあ~、下野に阿曽沼城!?そういえば、安芸国人衆の変遷の図なんか前に記事に載せたことあるな・・・と思って探してみたら、「頭崎城(2)」にあり、ちゃんと「阿曽沼氏(下野)」って書いてあるそうかそうか、下野は下野でも佐野だったのね。ついでだから阿曽沼氏のその後についても書きますと、親綱は遠野を継いで子孫が土着。が、小田原征伐に参陣しなかったため転落して南部氏の配下となり、関ヶ原の時に上杉攻めに出陣していたところ、家中でクーデターが起きて帰城できなくなり、当主・広長は妻の実家の縁で伊達氏の支援を受けて逆転を図るも失敗。広長は伊達氏に身を寄せたまま亡くなり、遠野の阿曽沼は断絶。遠野阿曽沼氏の祖である親綱は承久の乱で安芸にも領地を得ており、その子孫が土着して安芸阿曽沼氏となった、とな。いやはや、阿曽沼氏の突然の登場で、東国の記事のハズなのに、なんだか一挙に西国モードへ・・・にほんブログ村
2015年10月03日

さてここからは童心に帰って堀底探検です。まずは二の丸と本丸の間の空堀から。 これは西に向かう方で、二の丸側は奥へ行くとだいぶ崩れてる感もあるけど 下から見上げるとなかなかの高さがある。奥まで進んでいくと、道路に降りられる階段がある↓。 階段を降りて見上げたとこう↓。 ここから道路を北へ向けて歩く。 落とし積み風なこの石垣は、一部は古そうな部分もあるけど、全体的に石が雑とゆーか綺麗でないとゆーか、たぶんほとんどがフェイクじゃないかな。 小さな丘の城を見上げながら歩いていくと奥に階段が出た↓。 階段を一段上がると、道は左右に分かれる。 ここは右の木段へ。上がったところが本丸と北出丸の間の堀切。 これをくぐって東側へ向かう。 通り抜けて下がったところから振り返ったところ↓。 降りきったところは「城東中学校」というまんまな名前の学校の敷地で、ここは通り抜けはできないらしい。 けど、なんか立て札があるので見てみたら ぬ?意味がわからず視線を奥にやると なるほど、この狭っこいところの奥から捨ててけってことか(笑)。さて、ここからはどうにも抜けられないのでまた橋の下をくぐってさっきの階段の分岐を今度は左に上がっていく↓。 これを上がったところが、前回の北出丸に入ってすぐのところに見た階段の入口。ふむ、これで2つの堀切を歩いた訳だな。北出丸に上がると、尾根の先端から北東に降りられる階段があったのでそこから降りる↓。 ここから城と城東中の間の道を南下すると、二の丸と三の丸の間の道路の東側にあったトイレの場所に出られるんだけど、途中東側を見ると 民家と駐車場があるだけの何の変哲もない光景ですが、ちょうど写真の奥らへんからは 【水掘 内堀と外堀の間に、東西へ延びる小規模な堀が発見されました。最大で幅2.9m・ 深さ2.2m、長さは25mに及びます。断面形はV字状で、いわゆる薬研堀と いわれる堀の形をしていました。堀の南壁面には、柱穴が3つ一間間隔に並んでおり、 中からは柱の一部が腐らずに出土しました。その柱根部には、墨書きで文字も記されて いました。】が発掘されている。城沿いの道をさらに南に進むと線路沿いの道路に行きあたり、駅に上がれる階段があるんだけど、その下あたりは↓ (ここまで、セピアの写真はすべて現地解説板より) 【性格不明施設跡 道を挟んで三の丸の東側からは、一端に排水施設を伴った大型の遺構が見つかりました。 この施設跡は、東西15m、南北10mにも及び、周辺に水抜き溝を巡らし、地表面を 大きく凹地状に掘り込んでいました。中からは、長軸に沿ってその中央部に、上面が 真平らな径1mもある大型石が、3m間隔で2つ並んで出土しました。】 (ここまで、【】内はすべて現地解説板より)というものも見つかっているそうな。線路の北側はここまで。いやあ、思ってたよりずっと良かったな~。駅のど真ん前にある「城山公園」なんて大して期待できんだろうと思ってたけど、いい意味で裏切られたわ。佐野氏のもともとの本拠地である唐沢山城は見どころ満載らしいから、今回は行かないけどいずれ行ってみたいよな~。そちらは少々アクセスも不便なようですが。で、駅の連絡通路を渡って今度は駅の南側に出る。駅前は綺麗なもんで、 正面から見るとほとんどハトのようですが、これは市の鳥のオシドリだと思います。脇の方には市のブランドキャラクターの「さのまる」もいる↓。 ↑ピンクリボンだよな、あれ・・・支援に力でも入れてるのかな?それと、 この場所は駅だから、「赤ちゃんの駅」なのかと思ったら、授乳やおむつ替えが気軽にできる施設のことなんだそうな。言葉としては「道の駅」と同じ用法ってことかな?で、この駅前のロータリーからもう少し南に行ったあたりまでが佐野城の堀の内。現在では駅の南側は城の面影すらありませんが。この駅前のコンビニの隣の本屋さんにお目当てにしていた本、『唐沢山城から佐野城へ』(茂木孝行/佐野ユネスコ協会)が置いてあるという情報を得ていたので寄ってみたところが、あいにく置いてなかったけど、後から入荷しているかもしれないので、興味のある方は探してみてください。にほんブログ村
2015年10月02日

現在は本丸を南北に貫く遊歩道が通されていて、本丸広場の道に面したあたりにもデカい石碑がある↓。 石碑の奥に写ってるのが綺麗なトイレで、その前にあるのが (現地解説板より) 【佐野城本丸の石畳と石垣 平成4年度の発掘調査で、佐野城本丸から石畳の通路と石垣が発見された。石畳は、 東西2.6メートル、南北5.6メートルほどの範囲で確認され、東部には水路と 思われる幅20センチ、深さ20センチの溝がある。石垣は、最も良く残っている 部分で、長さ6.4メートル、高さ1.4メートルで、いずれも細長い角礫を使用 している。この東斜面には井戸跡もあり、石畳と石垣は、ここへの通路の一部であった 可能性が高い。出土した石畳と石垣は、形状を損なうおそれがあり、保存のために 埋め戻しを行っている。現在、埋め戻した石垣と通路に沿って、この付近から出土した 石を並べている。】 てことで、ここに並んでいる石たちはかつての城の一部であるものの、このすぐ下は 言われなければなんてことないただの斜面。が、三の丸と二の丸の間に設置されていた看板には石畳の写真が載っていて なかなかいい状態で発見されたらしい。ちなみにそちらの解説だと 【石畳 本丸の東部からは、地表下1.5mほどの地点から、両側に石垣が築かれた通路が 発見されています。その通路には、石畳が丁寧に敷き詰められ、本丸の主殿へは階段が 続いていました。なお、石畳には側溝が伴っており、排水施設と考えられます。】 (ここまで、【】内は現地解説板より)となっている。石畳跡から二の丸方面へちょっと戻ったところには ?土まんじう?が、表に回ってみると ここ城山公園は明治22年から公園としての歴史がスタートし、栃木県内では初の公園だそうな。ただ、当時からこの呼称だった訳ではなく、明治34年からは「松翠園」と呼ばれていたとのことなので、その名残らしい。さて、通路に戻ってトイレを横に見ながらさらに奥へ。 トイレの先にはこんなのがあって↓ ベンチが面しているのは 本丸と佐野城最北端にある北出丸との間にまたがる堀切。ここにも橋がかかっていて オサレな橋だな~なんて脇見しつつも ん~、こっちは片側通行止めで完全通り抜けはできないかもしれないけど、まあ歩けるようにはなってるらしいな。どちらにも写真の奥に白い建物が写ってますが、片や中学校、片や税務署でございます。橋を渡りきったところが北出丸で、街灯の柱にもそう書いてあります↓。 で、渡ったところからの全景↓。 こんなに小綺麗に整備せんでもええじゃろうと個人的には思いますが、今や市民の憩いの場ですから仕方ありません。入ってすぐの左手には 下へ降りられる階段がある。右手にはベンチ↓。 まだここで誰にも会ってないけど、桜の時期なんかは多くの人がここに花見にやって来るんだろうな。この付近には石碑があり、 【北出丸 この場所は「北出丸」あるいは「鐘の丸」といわれ、本丸の北側を守る場所である。 江戸時代の記録には 東西約36メートル 南北約54メートル 本丸との間の堀幅約14メートル と記されているが、建造物等の詳細については不明であった。 平成元年に一部発掘調査が行われ、テラスが建設された場所には岩盤をくり抜いた 柱穴と思われる遺構が発見され、多量の瓦も出土し、「隅やぐら」(見張台)の跡とも 考えられる。また、西側の階段周辺には、「搦手」(城の裏口)があったと考えられ、 防御の点からも複雑な地形を構成しており、重要な場所であったことが確認された。】で、正面の「テラス」がこれ↓。 どうせなら櫓風の建物でも置いてくれたらとここを訪れた城好きはみんな思っただろうけど、内部は ああ、うん、これじゃ撤去する訳にもいかないな・・・見るからに~といった風情のこれの近くにはこういうのもあって↓ 【佐野市戦没者霊苑 この霊苑は日清日露の両戦役から大東亜戦争までの大戦において国のために 尊い一命を捧げられた人びとのみたまをおまつりしたものです。われわれ全市民は これら戦没された英霊を永く追悼するためひたすらな祈りをこめて本苑を建設 いたしました。】 (現地碑文より)とやっぱりな解説があったので、いちおう手を合わせたような・・・もはや記憶も定かではありませんが、ここからの展望は ↑たぶんこちらが北西方面で、こちら↓が北東方面、佐野氏のもと本拠地、唐沢山城がある方だと思う。 さてと、これで稜線上の郭部分は全部見た。まだ8:16でまあいい時間だな。で、本丸のあずまやに戻って持参した食料で本日2度めのお食事タイム。まだ小雨は降っていてあいにくの天気だったので、犬の散歩をするおばさんが1人通ったぐらいだったかな。あ、いや、食事中にバアさんが1人あずまやに割り込んできてちょっとイラッときたような・・・(笑)。だいたい、今まで全然人がいなかったのに、なんで食事時になってわざわざここでバッティングするかな~。ま、バアさんはそう長居はしなかったしわたくしも手早く食事を済ませたものの、寒い中にしばらくじっとしていたせいか急にお腹が痛くなって本丸のトイレに駆け込んだ。よかった、ここにトイレがあって・・・にほんブログ村
2015年10月01日
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