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安和の変から半年ほど経った安和2年(969)9月、冷泉天皇は譲位し弟の守平親王が10歳で即位、円融天皇となった。幼少の頃からの冷泉天皇の奇異な振る舞いはもののけのせいとされた。怨霊は冷泉天皇と師輔に帝位を奪われた藤原元方だけじゃなく、恒算(かんさん)という天台僧も取り憑いていたともされるが、『大鏡』では恒算ではなく賀静の怨霊だとも言っている。第18世天台座主には賀静さんがなってもおかしくはなかったんだから、良源&師輔ペアに座主を奪われたことを恨みに思い、師輔の九条家に祟ったともいわれる。ここでは元方や賀静が実際に祟ったのかということは問題ではなく、当時の人はそう考えたってことなので混同しないようにね。まあ、賀静さんもどうせ取り憑くなら良源さんに祟れば?と思うけど、良源さんが強すぎる人だったから弱っちい方に祟ったんだろうな。師輔には霊感があったようなことを示すエピソードが多いことを前に書いてますが、『大鏡』には面白い話が載っている。もののけのせいで奇矯な振る舞いの多かった冷泉天皇だったが、それでも即位はした。して、おそばの者は行幸などしても大丈夫なんだろうかと心配していたものの、大嘗会の時には端正に座って振る舞いも立派だったという。が、それは故・師輔の霊が一緒に輿に乗り込んで後ろから冷泉天皇を抱えていたからで、その師輔の姿は周囲の者にもはっきりと見えるほどだったそうな。師輔は生前から常人とは違う雰囲気があったので、死後は冷泉天皇の守護霊となったと『大鏡』の語り手のジジイは言う。「なら、師輔公の霊が怨霊も追い払いそうなもんですけど・・・」とジジイの話を聞いていた侍がもっともなツッコミを入れると、「いや、それはそれ。天皇はそうなるべき前世の因縁があったのでしょう」と突っ込まれたジジイがかわすしかし、師輔の守護や良源さんの祈祷によっても効果ははかばかしくなかったとみえ、わずか2年ほどで冷泉天皇は弟に位を譲る。円融天皇はまだ10歳で子はおらず、皇太子には冷泉天皇の第1皇子である師貞(もろさだ)親王が立てられた。これがのちの花山天皇。ふっ、系図はひとつで間に合わせようと思って最初の系図を頑張って作ったのに、結局次から次へと作るハメに・・・しかし、このサイドストーリーもあと少しです。円融天皇の即位時点で、母・安子も外祖父・師輔もともにこの世の人ではなく、天皇の大伯父にあたる実頼が摂政となって幼い天皇を補佐した。天禄元年(970)に実頼が亡くなると、妻・尊子の祖父であり実の伯父でもある伊尹(これただ)が摂政を引き継ぐが、これまた2年後に死亡。師輔の長男・伊尹が死んだことで一連のサバイバルもピークに近づく。師輔の次男・兼通は弟である兼家より昇進が遅れており、また一時期出仕を怠っていた時期もあったようで、円融天皇からは好ましく思われていなかったという。そういう状況の中での伊尹の死だったので、その後継者には兼家が有力視された。実際には伊尹は死の前に辞表を提出してそれが受理されてるんだけど、『大鏡』によると「次のドンはオレだ」と勇んで兼通が参内したところ、円融天皇は「鬼の間」にいた。兼通はさっそく天皇へ上奏しようとするが、天皇は兼通の姿を認めると奥へ入ろうとした。急いで兼通が近寄って「お話があります」と言ったので、天皇が仕方なく戻ったところへ兼通が例の安子の書き付け(前回参照)を見せた。紫の薄様に書かれたそれをしげしげと眺めていた天皇は母の筆跡であることを認め、その書き付けを持ったまま感慨深く奥へと入られたという。その後、兼通は首尾よく関白となり、さらに太政大臣にもなる。藤原氏の氏長者は実頼から伊尹へ移り、その後実頼の子の頼忠へ移っていたが、兼通の昇進を受けて兼通が藤氏長者となった。兼通に好意を持たない円融天皇だったが、その弟の兼家もどうも好きでなかったらしく、はじめは兼通の娘の媓子(系図では「こう子」)を中宮とし、媓子が亡くなると今度は頼忠の娘・遵子(じゅんし)を中宮に立てた。兼家の娘・詮子は円融天皇に入内した女性の中で唯一男子を産んでいるにもかかわらず、彼女が中宮に立てられることはなかった。当然、兼家は面白くない。そのほかのいざこざもあり、円融天皇と兼家の間はあまりおよろしくなかったらしい。『大鏡』によると兼通はかなりのイケメンだったらしいが、異常なほどの冷酷さを持つ面もあり、その多くは弟に向けられた。兼通が実権を握ると事実上兼家の昇進はストップ。兼家が娘の詮子を入内させようとした際には妨害したともいい、兼家が先帝には娘を入内させていたのに自分の元には娘を送らないと誤解した円融天皇は兼家に不信感を持ったという話もある。また、兼家の娘の超子が冷泉院の子を産むと兼通の機嫌はますます悪くなり、円融天皇に兼家の悪口を言う始末だったという。円融天皇が兼家をよく思わなかった背景にはこうしたことも影響しているのかもしれない。して貞元2年(977)、兼通は重い病に伏した。兼通の子の中にはそこそこの年齢の男子もいたが、兼通は自分の子ではなく、もちろん大っ嫌いな兼家でもなく、自分のいとこであり仲の良かった小野宮家の頼忠を後継者とした。『大鏡』ではこれについて「世間ではずいぶんと非難したもんですよ~」と語り手のジジイに言わせているが、それを聞いていた侍は「いや、それはね、もっともな事情があったんですよ。私の祖父が兼通公に長年お仕えしていたもので、その辺の事情を私は詳しくうかがっていますよ」と言って、その「事情」を語り始める。『大鏡』の作者が侍に言わせた事情というのは、兼通が危篤に陥った時、兼通の邸の東の方から先払いの声が聞こえた。看病をしている者たちが「誰だろう」と思っていると、「兼家公のお出ましです」と申し上げる者がいた。それを聞いた兼通は、「ここ数年来、あいつとはまずい間柄のままだったが、私が危篤と聞いてさすがのあいつも見舞いに来てくれたのだろう」と思って病室を片づけさせ、寝床もきちんと整えて兼家を迎え入れる準備も万端にして待っていると兼家は屋敷を素通りして内裏の方へ向かったという知らせが入った。な、なんだと・・・これだけ準備させておいて、周囲も私をばかだと思っただろう。もし見舞いに来れば関白を譲ることも話そうかと思っていたのに!こーゆー奴だから、私はあいつが大ッ嫌いなんだ。うちを素通りして内裏へ向かったとは、私の後釜を狙う気だろう。そうは問屋がおろさんぞ・・・はらわたが煮えくりかえるほど怒り狂った兼通は、危篤の身であるにも関わらず「さあ、抱え起こしてくれ。車の用意を。出かけるぞ。」と言って、周囲の者がもののけにでも取り憑かれておかしくなったのかとあっけに取られて見ていると、冠をかぶって装束をまとい、内裏へ向かった。内裏に入ってからは息子の肩にもたれながら天皇を探すと、ちょうど天皇と兼家が話をしているところだった。兼家の方ではとっくに兼通が死んだと聞いていたので、次の関白のお願いをしている最中だったが、その兼通が目を丸くしてやって来るので2人は驚いた。そして兼家が隣の部屋に退くと、「最後の除目を行うために参内いたしました」と言って頼忠を関白に任じただけでなく、兼家の右大将の地位を取り上げて他の者に与え、兼家の地位を落とすということまでした。「てな訳でね、必ずしも兼通公の異常なお心ということでもないんですよ~。まあつらつら考えると、御自分の妹に兄弟の順を守れということを書かせたのも、最期に思うままのことをして亡くなったのも兼通公がご聡明で意思の強い方だったからですよ~」ま、物は言いよう・・・この時点では醍醐天皇の皇子で臣籍降下していた源兼明(かねあきら)が兼通に次ぐ左大臣の地位におり、頼忠はその下の右大臣だった。が、頼忠を次の関白にしたかった兼通は源兼明をわざわざ皇族に復帰させ、兼明を排除した上で頼忠を関白にするというムリクリなことをした。円融天皇の方でも臣籍降下していた自分の腹違いの兄弟を皇族に復帰させたい思いがあり、それと引き換えにこの人事を認めたという話がある。裏取引によって勝手に皇籍に復帰させられた兼明親王は怒った。言ってみれば兼明親王は兼通・兼家の兄弟ゲンカのとばっちりを受けたようなもの。そして裏取引の当事者たちや頼忠を非難したという。頼忠だって兄弟ゲンカのあおりをくらってるんだけどね。そもそも長兄の伊尹が死去した時点で頼忠は兼通より上の地位にいたんだから、頼忠が伊尹の跡を継いでもおかしくはなかった。それを安子の書き付けで兼通が一発大逆転を図ったんだから、「いや、兼通公もうまいことやりましたなあ~」と『大鏡』のジジイは言う。さて、兼通の執念によって小野宮家の頼忠が関白となったが、やはりここでも繁殖力がモノを言う。頼忠の父であり師輔の兄でもある実頼は冷泉~円融の2代にわたってトップの地位に就いたが、外戚ではなかった。頼忠は娘を嫁がせて中宮になったが、あいにく子はできなかった。兼通の娘もしかり。しぜん、円融天皇の唯一の男子を産んだ詮子の父である兼家の存在が重くなる。で兼通の死の翌年、太政大臣となった頼忠は兼家を右大臣に復帰させる。藤原氏の内輪もめに疲れたのか、円融天皇は在位15年で譲位する。して皇太子が即位して花山天皇となった。花山天皇の皇太子には、円融天皇の子が立てられた。これは円融天皇が譲位する条件でもあったという。その翌年の永観3年(985)、良源さんが死去。禅師の君が第19世天台座主となる。にほんブログ村
2015年04月29日

安和の変の黒幕については古くから色々推測されてきたらしいが、その中に源満仲が高明を裏切ったというものがある。もともと高明とつながりがあった満仲は、はじめ謀反の一味に加わっていたもののそれを裏切って密告したというのだ。もしそれが事実だったのなら、なんで満仲は高明を裏切ったのか・・・ここでは、高明が実際に謀反を企てていたのかは問題じゃありません。「高明派」と表現した方がいいかもしれません。前々回、「ミウチ政治」について引用して紹介しましたが、「ミウチ」はなにも摂関家に限ったことじゃない。源平などの軍事貴族は天皇家から枝分かれした由緒ある家系であるものの、代が下って天皇家との血縁関係が薄くなるにつれ社会的地位も低下する傾向にあった。清和源氏の出である満仲の家も例外ではなく、妻の父の姉妹は村上天皇の第1皇子を産んだものの、北家に敗れて元方は悶死した。もう1人の妻の姻戚では高明に期待が持てたが、為平親王は立太子できずこれまた前途が閉ざされた。しかし、高明を介して北家とのつながりもあった。このあたりの経緯から、まんじゅうは高明を見限って次の権力の担い手である九条家へ接近したのではないかと元木泰雄氏は見る。わたくしもそんなところだろうと思う。藤原秀郷の子・千晴は、父と違い上洛している。その詳しい時期はわかっていないものの、村上天皇の死(967)の頃には千晴は京にいたらしい。前回の安和の変の流れでタレ込みの直後に固関(こげん:三関を封鎖すること)がありましたが、政変や天皇の死などの非常時には都が攻められたり、その逆で謀反人などが逃亡するのを防ぐために関を封鎖する措置が取られた。「関」の制度自体は延暦8年(789)に桓武が廃止してるけど(桓武当時の三関は鈴鹿・不破・愛発)、固関はまだあったんだな。で、村上天皇の死にあたって伊勢の固関使に千晴が任じられたという記録があるそうな。伊勢だから鈴鹿ってことかな。非常時における関の封鎖だから軍事貴族が中心になって固関にあたったものとみえ、千晴だけでなくまんじゅうも固関使の指令を受けた。ところが、千晴・まんじゅう共にこれを辞退したものの、病気を理由にしたまんじゅうは辞退を認められ、千晴は認められなかったという。天皇の死はイコール新帝の誕生でもあり、新帝の誕生はすなわち新しい皇太子が立つ時でもある。村上天皇の死亡日が5月25日。ウィキペディアによる冷泉天皇の在位は同年の10月11日からとなっているけど、先帝の死の翌月には除目(じもく)が行われているので、すでに新体制はスタートしていたのだろう。そして守平親王が立太子するのが同年の9月1日。誰がどう見ても自然ななりゆきの立太子ではなかったのだから、5月25日から9月1日までの間は水面下での両陣営の激しいバトルが交わされていたと思われる。 【したがって、対立の真っ只中ともいうべきこの時期、両陣営の爪牙ともいうべき 満仲・千晴は、ともに京を離れることを忌避したのであろう。満仲のみが辞退を 認められたことは、すでに満仲が藤原北家側に立ち、その保護を受けていたことを 物語るのではないだろうか。】 (『源満仲・頼光』より)安和の変というと、一般的には藤原北家にとって目の上のたんこぶだった高明が排除されたという面がクローズアップされるけど、その一方で密告の直後にまんじゅうの弟・満季によって千晴らが逮捕されているので、【明らかに千晴一族は当初から狙われていたことになる】と元木氏は語る。高明にどこまで野望があったのか、高明派は本当に軍事行動を起こすつもりだったのか、まんじゅうはなぜ高明派から北家派へ寝返ったのか、わからないことは沢山ある。が、事実として残った結果は高明と千晴を手際よく追い落とすという、北家とまんじゅうの鮮やかな勝利だった。高明はその後許され、帰京する。が、政権に復帰することはなかった。千晴のその後はわかっていないようだけど、秀郷流が滅亡した訳でもないらしい。ただ、まんじゅうには大きく水を開けられることになった。安和の変について勉強している時、高明って人は「平安の長屋王」みたいなもんだよな~と思ったんだけど、高明一族は長屋王のように滅亡させられた訳じゃない。どころか、系図の通り高明の娘たちは北家に嫁いでいる。この娘たちがいつ頃嫁いだのかはわからないけど、たとえば道長は安和の変の時点でまだ3ちゃい。だから当然、高明の没落以後にわざわざ迎え入れたってことだろう。ここから、高明自身にはさほど野心というものはなかったんじゃないかって個人的には思うんだけど、高明最大の悲劇はやはり師輔が早く死んでしまったことにある。ただ、逆に師輔が冷泉天皇の即位まで生きていたら果たして別の結果になっていたのかという疑問もある。師輔がもう少し長生きしていたら、天皇の外祖父になっていた。どれほど高明を信頼していようと、果たして高明が次の外戚となることを師輔が許しただろうか・・・意味のない妄想とはいえ、ちょっと興味深い点ですね。意味のない妄想といえば、師輔の子の兼通と兼家が政界のドンの座をめぐって泥仕合をした際、兼通が切り札として使った安子の書き付け。「もし関白になることがあれば、兄弟の順を守りなさい」というあれは、『大鏡』によると兼通が安子にわざわざ書かせてそれをお守り袋に入れて肌身離さず持っていたというもので、もしわたくしが皇太子争いのさなかにワープできたら兼通の胸元から安子の書き付けをひったくって「この書き付けが目に入らぬかあ~!兄弟の順を守れえ~!ひかよろお~~~!!」とやってみたくもあるま、まんじゅうに物影から狙撃されて終わりかな・・・江戸期に大坂で作られたかるたの「た」は「ただのまんじゅう 武士のはじまり」だったという。藤原北家に食い込んだまんじゅうは、その後も一門の命運を左右する事件などで暗躍し、そのあたりをもって「武士の祖」とまで言われるようになったのだと思われる。安和の変の翌年、「天禄」へ改元。この年は良源さんが天台座主となって4年めで、7月には「二十六ヵ条制式」を布告している。して、その翌月にはまんじゅうが本拠地へ新築した法華三昧堂の供養に良源さんが赴いたという話がある。 【『多田院文書』に載せる「摂州河辺郡多田院縁起」によれば、八月のことであり、 法華八講の読師に良源の弟子源信があたり、当院の別当に満仲の三男源賢が就任 していることにふれている。源信と満仲とは師弟の契りがあり、その関係から 源信の師良源が招かれたとする説がある。】 (『人物叢書 良源』より)「源信」は『往生要集』で名高い恵心僧都・源信のこと。元木氏は満仲と多田との関係を示す最初の史料として『帝王編年紀』を持ち出し、同じまんじゅうの法要について触れているが、 【しかし、同書はかなり後世の編纂史料でもあり、記述の信憑性には問題がある。 だいたい、当時まだ五位に過ぎない満仲が、果して私的な寺院の落慶法要に 天台座主まで招聘できたのか。】 (『源満仲・頼光』より)と疑問を呈する。が、良源さんサイドの事情を考えればこれはあながち誇大広告とも言えないような気がする。 【この満仲が自らの後生と子孫の繁栄を祈願しようとする時、藤原氏の信任厚い 天台座主良源につてを求めるのはきわめて自然であろう。良源の方にも、「世ニ 並ビナキ兵ニテアリ」「数(あまた)ノ子孫アリケリ、皆兵ノ道達(いた)レリ」 (『今昔物語集』十九-四)という満仲の武力を頼みとするところはなかったで あろうか。良源が全山に布告した二十六ヵ条制式の違反者に、断固たる処置で望める 威嚇があることになる。満仲三男源賢は『今昔物語集』によればはじめ尋禅の弟子で あったらしく、源賢と源信との関係から良源が招かれたとするより、藤原氏・尋禅等を 介して良源と満仲が結び付いた方がはるかに自然ではあるまいか。 もっとも『僧綱補任』(彰考館二冊本)によれば、二年後の天禄三年十月三日良源の もとで登壇受戒しており、満仲と良源との接触は源賢を介さない方が正しいと思われる。 いずれにしても良源と満仲は互に相手を必要としていたのである。】 (『人物叢書 良源』より)山内を闊歩する無頼の裹頭の輩を取り締まるために「僧兵」を再編成したとはいえ、まだ座主となって間もない頃だし、そもそも二十六ヵ条制式にある禁止事項の逆が現実だったからこそ制式を発布した訳で、山内で用意した座主直属の武力が初めから順調に機能していたかも疑わしい。「僧兵」には色々な段階があり、はじめは傭兵なども用いられたという記録があるので、まんじゅうの兵が叡山でどうしたとかいう直接的な記録はなくても、確かに平林氏の言われるようにまんじゅうの武力を恃みとしたって方が説得力がある。であれば、良源さんは師輔やまんじゅうなどの外部の力をうまく利用しながら山内で足固めをしていったという風にも言える。にほんブログ村
2015年04月27日

中宮・安子の次男であり、年齢的にも長幼の順からいっても冷泉天皇の皇太弟となるにふさわしいハズの為平親王が立太子できなかったのはなぜか。それは彼の嫁に原因がある。前回の系図とは少し違います。今回のは源高明(たかあきら)を中心とした系図です。青字が天皇で、長幼の順は無視してます。こうして見てみると、禅師の君(尋禅)ってのはすげえポジションにいたんだな~とあらためて思いますが、まずは左半分の系図をご覧ください。源高明は醍醐天皇の第10皇子で、村上天皇とは腹違いの兄弟。6歳で臣籍降下して源氏を名乗りますが、藤原忠平の長男・実頼の娘を娶り、次男・師輔の三女も娶り、その三女に先立たれると師輔の五女であり自分の姪でもある愛宮を娶るという北家と深いつながりを持った方です。師輔にとっては女婿となる訳ですが、師輔と高明は5歳違いで年も近く、頭はいいわ故事にも通じてるわで師輔から篤く信頼された方です。それを如実に示すのが、天暦8年(954)の師輔の横川入り。京から近江の坂本へ回って本坂から東塔へ入った師輔は、途中で京側から登ってきた高明と合流した。もともと大人数のお出かけでもなかったようだけど、東塔での法要などを終えて横川へ入った一行のうち、公卿だったのは師輔とその長男・伊尹(これただ)と高明の3人だけ。伊尹が同行するのは当然だけど、他の子供もいるのに高明を選んで連れて行った。師輔が身内として高明に篤い信頼を寄せていたエピソードと申せましょう。師輔だけでなく、師輔の娘の安子からも信頼を寄せられたといい、順調に昇進を重ねていった高明だったが、その2人が若くして亡くなったことが高明の人生にかげりを落とす。2人が生きてるうちはよかったが、2人が死ぬと彼等の援護射撃で高い位置に就いていたことが逆にアダとなった。村上天皇が薨去し、冷泉天皇が即位したのが康保4年(967)。この時、師輔の兄の実頼が関白へ、師輔の弟の師尹が右大臣となったことを前回書きましたが、同時に高明は左大臣となっている。冷泉天皇が精神疾患だったということは個人的には半信半疑なのですが、安子の長男がそういう子だったためか 【村上天皇は為平を愛し、その婚礼には自分が安子と婚礼した際の例にならって 宮中の昭陽舎で実施させるなど、将来の皇位継承候補としての待遇を受けている。 父は安子の実家である九条流(藤原師輔の一門)と賜姓皇族の筆頭である高明を 為平の後見とすることで将来の安泰をはかったと考えられている。】 (ウィキペディアより)という。師輔の死(960年)によって九条家もかなり動揺をしていただろうから、このウィキの説もどうかという部分もあるものの、ともかく冷泉天皇の即位の2年前に高明が烏帽子親となって為平親王を元服させ、さらに自分の娘を嫁がせた。為平親王の父がよかれと思ってしたことか、はたまた幼少の頃から問題行動の多かった冷泉天皇の御代が長くないと踏んで次の外戚を狙って高明が打った手だったのか、それはわからない。ただ、師輔の兄弟や子供達にとって高明の存在は脅威となった。師輔と安子が死んだとはいえ、高明は皇子という出自であり、自分の実力で高い地位を築いてもいる。その上、天皇の外戚なんてことにでもなったら・・・『大鏡』ではこのへん、世の人々は当然次男である為平親王が立つとばかり思っていたのが、外戚の地位を奪われてなるものかと考えた親王の叔父たちが思慮深く弟宮(守平親王)に兄宮を追い越させようとひそかに策略をめぐらし、急に兼家公が守平親王の身なりを整えさせお車に載せて参内させたと聞きましたよ・・・と語る。為平親王自身に兄のような問題があったという話も聞かないし、誰がどう見ても不自然な守平親王の立太子なので、ここはもう北家が一丸となって外戚・高明の誕生を阻止したというのが妥当なセンだろう。『大鏡』によると、為平親王は皇太弟の地位を奪われただけではなく、弟の守平親王が即位する際には、ほかに兄弟である親王は大勢いたのに、よりにもよって兄である為平親王が一大イベントに威儀を添える役割の「威儀の親王」をさせられたんだそうな。それを見ていた人たちはお気の毒でならなかった、と語っている。余談ですが、為平親王はちょっとお気の毒な方で、のちに娘を冷泉天皇の子の花山天皇へ女御として入内させている。せめてその娘が男子でももうけたならその後の栄達もアリだったかもしれないのに、花山天皇はわずかな期間で退位してしまった。女御の職を失った娘が再嫁したのが、藤原実資・・・あの『小右記』を書いた小野宮右大臣実資だそうな。この女御には他の貴族からも引きがあったのに、それでも実資に嫁いだってんだから実資もやるじゃねえのさてね、ここまでもいい話ではないけど、これだけだったのなら「たいそう聞きぐるしい、ひどい事件がいろいろ」というほどでもない。が、冷泉天皇の即位から2年後の安和2年(969)3月25日、謀反のタレ込みがあった。密告者は源満仲と前武蔵介・藤原善時。『大鏡』では高明が「讒言によるご謀反」をしたといい、『源平盛衰記』では高明が東国で乱を起こし、為平親王を即位させようとしたとするが、実際の密告の内容はわかっていないらしい。ここで、最初の系図の右半分をご覧ください。密告者・源満仲(みつなか)は清和源氏の家に生まれたが、のちの多田庄を所有し開拓したことで多田源氏の祖となり、「ただのまんじゅう」とも言われる。満仲を祀る摂津の多田神社は去年(2014年)、「ただのまんじゅう」という饅頭の登録商標を出願したらしいあと、多田神社および満仲は「三ツ矢サイダー」の三ツ矢の名の由来ともなったらしいんだけど、詳しいことを知りたい方は三ツ矢サイダーのホームページなどでご覧ください。じゃなくて、満仲には数人の妻がいたが、藤原南家の娘を娶る一方で嵯峨源氏の娘も妻としていた。そちらの姻戚では舅・俊の妹は醍醐天皇に入内した周子で、師輔に降嫁した内親王たちのほか、高明を産んでいる。また、満仲の妻のいとこは高明に嫁いでもいる。こういうことから、元々満仲と高明にはつながりがあったと思われる。して、タレ込みを受けた朝廷の対応は素早かった。藤原師尹以下が武器庫などを守備し、三関(鈴鹿・不破・逢坂の関)を封鎖、太政大臣の藤原実頼にも事の次第が報告された。密告の対象となった犯人たちは捕らえられ、罪状を認めた。その一方で、源満仲の弟の満季が藤原千晴親子を捕らえ監禁した。翌26日には謀反の罪で高明へ捜査の手が及び、高明は左大臣・左大将の地位を剥奪された。高明は子とともに出家して処罰を逃れようとしたが、結局太宰府への配流が決まった。27日には論功行賞が行われ、右大臣だった師尹が左大臣へ昇格。満仲も恩賞を受けて正五位下となった。29日、高明の家人であった伊勢神宮の宮司が謀反の成功を祈った罪で除名。4月1日、右京四条にあった高明の豪華な西宮邸が焼失。4月3日、五畿七道に謀反人の追討を命じる命令が出され、また藤原秀郷流一族に対して教諭するよう下野国に命じている。そして4月中には謀反人たちはそれぞれの配流先へ流れていった・・・これが「安和の変」の大まかな流れですが、一般的には高明は無実だとされる。無実だとしたら、誰がこの筋書きを書いたのか。そもそも密告の内容すらもわかってないんだけど、「得をした者を疑え」ってルールにのっとって考えると、やはり一番アヤシイのは藤原北家。ただ、北家にも色々いる。実頼の娘に子はいなかったから、外戚レースで直接の恩恵を受ける訳じゃない。師尹の娘のかわらけの美女・芳子は2人の皇子を産んだが、長男は夭折し次男は「御かたちなどは清げにおはしけれど、 御心きはめたる白物とぞ、聞きたてまつりし」「さこそ人がらあやしくしれたまへれど」(by 大鏡)・・・つまり、見てくれはイケメンだったけど、とんでもない「白痴」だったという。期待の星がこれじゃあ、さすがの師尹も外戚の夢は諦めたかもしれない。となると、残るは師輔の子供たち・・・トクをした者はもう1名いる。それが、安和の変のそもそもの発端を引き起こしたただのまんじゅう・満仲。「藤原千晴」ってダレ?なんで4月1日に秀郷流の子孫を諭してるの?って思った方もおられるでしょう。「俵藤太」藤原秀郷は過去の記事で大ムカデ退治の伝承を紹介してますが、現実的には平将門の追討が有名。千晴はこの秀郷の子なのだ。高明が中納言で検非違使別当だった天暦元年(947)、本拠・下野にいた秀郷から平将門の兄弟を断罪とすべきことなどの申請が高明を通じて朝廷へ申請されている。秀郷に上洛の形跡はないらしく、在地のままでは複数の中央の有力貴族と親密な関係を築くことは難しい。ので、この取り次ぎなどを通して秀郷流が高明との主従関係を結ぶようになったのではないかと『源満仲・頼光』の著者・元木泰雄氏はいう。にほんブログ村
2015年04月26日

座主時代の禅師の君の詳しいことについては不勉強ゆえあまり把握しておりませぬ。が、ひとまずわたくしの知っていることだけ書くと、まず良源さんの死後、禅師の君の住房の妙香房は妙香院と名を変え、公家の奏上により国家鎮護のための一条天皇の御願寺とし、そのあとは弟子の尋光・・・この方は禅師の君のすぐ上の同母兄の子のようだけど、その方が継いで師輔一門による体制を作る。 【この点については、延暦寺の世俗化・門閥化の典型としてマイナスの評価を下される ことが多い。】 (『僧兵=祈りと暴力の力』より)まあ、横川の発展の歴史からいえば当然の流れだとは思うけどね。あともうひとつあるんですが、そこに至るまでの経緯を書くと(また)長くなるが、良源さんと禅師の君の時代に中央政界でどんなことが起こっていたのかついでに知っておくのも無駄ではないでしょう。3日目の旅日記もロクに書いていないうちにもう140話を越えちゃって、3日目の分が終わる頃には200話近くいってるんじゃないかと思い始めましたが、これでも毎日毎日、とっとと本シリーズを終わらせたいと思ってるんです。マジで。ただ、本シリーズでの予定外の話というのは実に得るものが多かったので、書く気になったものは諦めて書きます(笑)。過去の記事に登場した方たちにからむ話でもあるしね。で、ここからの話の最終目的地は禅師の君ですが、主役は良源さんが世に出始めた頃から花山天皇までの天皇たちとその周辺になります。『小右記』を原典とする『殴り合う貴族たち』(繁田信一/柏書房)から法興院摂政藤原兼家の子弟たちのアラクレ伝説を紹介した記事は、近ごろツイッターで外界との接触を持たないわたくしにしては珍しくフォロワーさん以外からもリツイートされたりお気に入りに登録されたりしてなかなか好評だったようですが、中でも人気があったのが花山院の記事。まあ、面白いもんね。あの人。花山院はこのあともちょろっと顔を出す予定なので、この際だからきちんと勉強ノート(←ブログ)に書いておくのもいいかなと。同時に、寄生虫・フジワラムシの本領発揮ともいえる内容でもあります。まずはこちらの系図をご覧ください↓。もお、すごいっしょ~、これ!!これ作るのにかなり時間がかかりました。これでもまだ完全じゃありません。でもこれ以上はもうムリ。青字は天皇で数字は即位の順番、相変わらず長幼の順は無視してます。「なにやってんだ、コイツら」とぶつくさ言いながら作ったものの、具体的にこうしてまとめてみると当時の政界で権力を握るには政治力もさることながら、政治家にもっとも必要とされたファクターは生殖能力だったんじゃないかと思えます。子を産めない女性はいつの時代もつらい立場だったでしょうが、生殖能力が権力の動向を左右する当時では子種のない貴族男性はもう致命的だな。養子縁組もあるにはあるけど、まだこの時代は後世ほど養子制度は有効に活用されていない。で、わんさと子を作った精力旺盛なフジワラムシたちは、実の子を駒にして権力の座を狙ってうごめきます。ただ、フジワラムシは闇雲に天皇家および国家を食い物にしていた訳でもないらしい。『源満仲・頼光』(元木泰雄/ミネルヴァ書房)によると、 【摂関政治の基盤を説明する上で、最も説得力がある考え方にミウチの共同政治(以下略して ミウチ政治と称する)というものがある。摂関政治はけっして摂関の独裁ではない。 むしろ、天皇のミウチ、すなわち父方の父院・皇親・源氏たち、そして母方の母后や外戚、 摂関以下の藤原氏一門が、天皇を中心に相互に依存しながら政務を運営する。そして、 政治的地位を決めるのは、天皇との血縁・姻戚を介したミウチ政治であった。 (中略)こうしたミウチ政治のあり方は、氏単位で政治的地位が固定していた奈良時代 以前、イエが成立して父から子に政治的地位が継承された院政期以後のように、ミウチ関係 と無関係に政治的地位が決定された段階と大きく異なっているのである。ミウチ政治が 典型的に機能したのは、天皇の外戚として摂政・関白を務めた藤原忠平、彼の妹で朱雀・ 村上両天皇の国母として大きな影響力をふるった穏子らが中心となって活躍した十世紀 前半である。天皇・外戚・国母。この三者が提携してミウチ政治の中心は形成され、 政界は安定するのである。】だそうな。政権を維持するタームが短くなった分、ある意味奈良時代よりも厳しいサバイバルの時代とも言える訳だな。別の言い方をすると、権力の座にいた者にとっては次世代でもそれを維持する努力が必要となり、これまで中枢に食い込めなかった側では運と先見の明があれば一発大ホームランがかませるということにもなる。 【娘が得られ、彼女が天皇の寵愛を受け、そして皇子を出産する。さらに天皇即位までの 長寿を保てる。幾つもの幸運にめぐまれなければ実現しない外祖父の摂政は、当然 大きな権威を有していた。】 (前掲書より)んじゃ、順々にサバイバルを見ていきましょうかね。貞信公・藤原忠平の長男は実頼。良源さんと親密な関係を築いた師輔は次男だったが、兄をもしのぐ実力者。これは村上天皇の中宮となった安子の功績が大きい。忠平の5男・師尹(もろただ)の娘が安子にかわらけを投げられたって美人ね。安子と村上天皇の間に生れた第2皇子は、少し前に生まれた第1皇子をさしおいて生後まもなく立太子した。忠平の系統は藤原北家だけど、第1皇子は南家の娘から生まれた子だったので、北家の実頼&師輔兄弟による画策だといわれる。第1皇子の外祖父である南家の藤原元方は学者政治家として活躍し、父の官途を越えて大納言にまで出世した人で、その上娘が村上天皇の第1皇子を産んだのだから期待するなって方が無理ってものだけど、あえなく北家に敗れ、第2皇子の立太子から3年もたたないうちに悶死したといわれる。ここに至るまでに師輔は良源さんをはじめ色々な僧侶に祈祷を依頼し、これがひとつのきっかけになって横川の発展の基礎ができた。師輔の兄弟も娘を村上天皇に嫁がせているが、兄・実頼の娘の述子は子をなせず、ごく若いうちに亡くなった。弟・師尹の娘のかわらけの美女・芳子は男子を2人もうけたが、芳子の最初の子は第2皇子の出生より6年あとのことなので、当然立太子レースに参加するどころじゃない。ここまではよかった。師輔の父・忠平と伯母・穏子がタッグを組んだように、師輔とその娘・安子が先代の後を受け継いで藤原北家および国家の中心となれるハズだった。ところが、政界の中心者たちが相次いで亡くなったことにより、サバイバルゲームもにわかに活発化する。天徳4年(960)5月、師輔が死去。応和4年(964)4月、中宮安子が死去。康保4年(967)5月、村上天皇が死去。村上天皇の死後、第2皇子は即位して冷泉天皇となった。冷泉天皇には数々の奇行のエピソードがあるが、一般的には精神を病んでいたと噂されている。東宮護持僧であった良源さんは気の病を治めるためにたびたび修法をしただろう。師輔・安子が相次いで亡くなったことや冷泉天皇の気の病はさきに悶死した藤原元方の祟りだとも噂されたそうな。即位時点での冷泉天皇は17歳で、すでに子はいたがまだ男子はいなかった。そこで冷泉天皇の弟たちの中から皇太弟を選ぶことになる。安子と村上天皇の間には男子は3人生まれた。ウィキペディアによると第1皇子の誕生より前に安子は男子を産んでいたらしいが、夭折したようでこの子はカウントされていない。安子腹の弟たちは、天暦6年(952)生:為平親王天徳3年(959)生:守平親王の2人。冷泉天皇の即位時点で為平親王は15歳、守平親王は8歳。師輔の弟・師尹は野心家だといわれ、すでに兄の師輔はこの世の人じゃなかったから娘・芳子の産んだ子を立てようとする思惑も持ったかもしれないけど、長兄であり氏長者でもある実頼がまだ健在だったので、さすがに中宮にのぼった安子の産んだ子を差し置いて自分の孫を立太子させることはできなかっただろう。それに芳子の子は病弱だったとされ、芳子の最初の子は冷泉天皇の即位時点ですでに夭折しており、次の子はまだ2歳だった。もちろん村上天皇には安子とは別腹から生まれた皇子もいたが、安子は中宮であり、冷泉天皇の即位にともない天皇の大叔父の実頼は関白へ進み、同じく大叔父の師尹は右大臣となっている。ので、強力なバックを持つ安子の子は誰が天皇になってもいいハズで、順当にいけば安子の次男である為平親王が皇太弟となるべきもの・・・ところが、為平親王を飛び越えて三男である守平親王が立ってこれがのちに円融天皇となる。『大鏡』では円融天皇に関して 【この天皇が皇太子にお立ちになるときには、たいそう聞きぐるしい、ひどい事件が いろいろございましたなあ。】 (日本古典文学全集/橘健二氏の訳によるもの)と言っている。その聞き苦しい出来事とは何か・・・『大鏡』ではもう皆知ってることだし、話も長くなるからここではあえて言いませんけどね、として具体的なことを書いてはいないものの、これはフジワラムシの権力闘争に左右されたゴタゴタを指していると思われる。にほんブログ村
2015年04月24日

今度は禅師の君(尋禅)を中心としたその後の流れに移ります。良源さんの上奏により一身阿闍梨となったのちの天延2年(974)の年末、宮中で修法を行った良源さんに従って禅師の君も参加し、良源さんは権大僧都へ、禅師の君は権少僧都となった。 【尋禅については、通常僧綱入りの最初の位である律師を飛び越えたもので、さきの 一身阿闍梨といい、破格の扱いで、権門の子息が優遇される初例として注目される ものであった。両人の喜ぶさまを「喜懼ノ到リ、手足ノ度ヲ失シ、各モツテ退去ス」 と平親信は日記に書き留めている(『親信卿記』)。】 (『人物叢書 良源』より)藤原師輔の目的を達成すべく、2人で歩んではや16年・・・多少の強引さはあっても、良源さんは変わらず禅師の君を大切に扱い、その成長と昇進に心を砕き、一緒にさまざまな荒波を乗り越えてきた。天禄3年(972)時点で書いた遺言ですでに禅師の君が自分の正統な後継者であることを良源さんは明言しているので、権力の座にいるのが禅師の君の兄弟であったということだけではなく、良源さんの意思も後押ししての一足飛びの昇進だったかもしれない。ただ、実際は遺言を書いたあとも良源さんは13年生きたので、禅師の君はその13年を次代の座主として過ごしたとも言える。貞元元年(976)には禅師の君は33歳という驚異的な若さであの法性寺の座主となっている。これももちろん、良源さんのバックアップがあってのことだろう。良源さん自身は異例ずくめの大抜擢で法性寺の座主を経ずに天台座主となったが、愛弟子には(異例の若さでも)順当なコースを歩ませたかったのだろうか。天元4年(981)には円融天皇の病気回復の祈祷が宮中で行われ、良源さんは大僧正に、禅師の君は権僧正に昇進した。この2人のほかに真言宗の寛朝という僧が僧正に補任されており、とくに大僧正は行基様が東大寺の大仏建立の功によって任じられて以来の実に235年ぶりの補任だったという。235年ぶりだからその間は僧正と権僧正しかいなかった訳で、当時生きていた人達は誰も三僧正を見たことがない。しかも大僧正と権僧正は師弟ということで、世の人々は驚くとともに大変にありがたがったそうな。順調な成り行きに、良源さんもさぞ満足したことだろう。ここまでの段階で、藤原師輔の長男・伊尹は世を去り、次男の兼通が関白・太政大臣へと進んだが、兼通も貞元2年(977)に死去。兼通は次の弟の兼家を激しく嫌っていたとされ、死に際の力を振り絞って兼家ではなくいとこの頼忠へ関白を譲ってしまった。法興院摂政兼家が策を弄して権力を握るカウントダウンがすでに始まっていたが、中央政界の動向とは別に兼通は自分の子を良源さんの弟子として送り、兼家もまた横川へ堂宇を寄進するなど禅師の君の兄弟である師輔一門との密な関係は続いていた。 永観3年(985)1月3日、良源さんは72歳で死去した。その頃までには禅師の君は良源さんの住房である定心院を出て妙香房に移り住んでいたらしい。師輔から援助された堂宇や主要法具や印などは禅師の君に委譲された。 【機を見るに敏で政治力や行動力のある人物は、ふつう自己中心的であり、背信的な 性格が多いようであるが、良源の場合は全くこれに反する。思いやりと約束を 履行する律義さが窺われるといえよう。】 (『人物叢書 良源』より)同年2月27日、良源さんの49日を過ぎてから禅師の君が第19世天台座主となる。禅師の君はこの時43歳。歴代座主の中でもっとも若くして就任した初代の義真(46歳)を追い抜いての史上最年少座主の誕生となった。 【現代の視点から(良源さんの:ジジイ註)遺告を読みなおすと、師輔への遠慮と尋禅への 厚遇が目立ちすぎ、そのため良源が天台宗を摂関貴族に売り渡した元凶のように、 現代の歴史家たちから喧伝されている。しかし、当時の人たちにとってそれがたとえ 知識人であろうとも、この遺告の文章は、きわめて自然なものとして受け入れられた。 横川の今日を経済的に支えて呉れた師輔に礼をつくすことと、その師輔、良源のあいだに 交わされた尋禅重用の黙契に、横川の弟子たちは誰も不平をいわなかった。一家の長が、 一族郎党を一堂に集めて、本家の若当主へ、忠誠を誓わせるようなものである。】 (『女人成仏への開眼』より)後藤氏が言われるほど、禅師の君の相続が横川で好意的に受けとめられたのかはわからない。が、このバトンタッチに際して横川の良源派の中で何か問題が起こったという話はわたくしは知らないし、早くから禅師の君の立場を明確にして13年間も良源さんが大御所のような立場で過ごしてきた訳だから、身近な弟子たちもそういうもんだと受け止めていた可能性は充分にある。寛和3年(987)2月16日、禅師の君の上奏によって朝廷から良源さんへ「慈恵(慧)」の諡号が贈られる。さて、良源さんは若くして座主となったために19年という長い期間で色々な事績を遺したのだから、もっと若くして座主となった禅師の君も長い時間をかけて師に及ばずともそれなりの功績を遺していけるはずだった。しかし、永祚元年(989)9月8日、天台座主と権僧正の辞表を提出。朝廷からも山内からも再三にわたる慰留が試みられたが、印などを預けてそのまま飯室谷へ隠棲してしまう。そしてその翌年の2月17日、47歳の若さで息を引き取った。辞意を表明した時点ですでに体調は思わしくなかったのかもしれない。座主としての任期は5年に満たない。ので華々しい事績を遺せなかったのも無理はないと思う。人によっては良源さんの印象が強すぎて、コネで栄達をつかんだだけで法器は大したことなかったと見るかもしれない。衣川仁氏は著書の中で、 【尋禅時代の門流仏法が教義やその実践面で停滞していたのは事実だが、門流の 世俗的要素にのみ目を向けて否定的な評価を下すことは適当ではなかろう。】 (『僧兵=祈りと暴力の力』より)とする。わたくしは、禅師の君が凡庸だったとは思わない。権門の子弟が山内で高位につくパイオニアとして頑張ったんじゃないかと思う。ただ、座主になった時期は悪かった。貞元元年(976)に禅師の君が法性寺の座主となった時、1年足らずで座主をやめて戻ってきた。門弟3千ともいわれる良源さんの弟子の中で、「四哲」と呼ばれる高弟がいる。禅師の君はその四哲の中の一人であり、しかも法性寺は禅師の君のジイ様の藤原忠平が創建した寺。若すぎるきらいはあるにせよ、禅師の君が座主となるに不足はない。それなのに、早々に引き揚げてきた。禅師の君が法性寺を出てきた理由はわかっていない。が、良源さんが康保2年(965)に僧綱入りした時、ほかに僧綱入りした僧は2人おり、このうちの1人は天台僧の賀静(がしょう)さんという人で、長年内供奉禅師を務め、かつ法性寺の座主だった。そういう立場の人だったから、第17世・喜慶が没した時、賀静が心の準備をした可能性は充分に考えられる。しかし、成り上がりの良源さんにアブラゲをさらわれるという結果となり、良源さんが天台座主となってから半年もたたないうちに悶死してしまう。賀静の怨霊は師輔一門に祟ったといわれるが、その後も良源さんは長く座主の位置にあったので、賀静のあとの法性寺座主2人も天台座主となるチャンスがめぐってくることはなかった。そういうところへ禅師の君が入ったものの1年で出てきたので、律師の長勇という人が次の法性寺座主となったが、一部の門徒が長勇さんに従わず、ささいなことをきっかけに朝廷に長勇さんの更迭を願い出る。結局、長勇さんは病気を理由にして座主を辞職するが、ほどなくして亡くなってしまったそうな。だから、良源さんへの恨みが3代続いた法性寺は良源の愛弟子である禅師の君にとって居心地はよくなかったのかもしれない。長勇のあと法性寺座主は3年ほど空位のままだったが、円仁派が座主につくという従来の慣例を破って円珍派の余慶さんが次の座主に任命された。そしてこの時、叡山で初の強訴が行われる(「101)」参照)。余慶さん周辺のゴタゴタについては山王院のところで書いてますが、並べるとこういう流れになります。 貞元元年(976)禅師の君が法性寺の座主となる。 天元4年(981)余慶が法性寺座主となり、延暦寺初の強訴が行われる。 永観3年(985)1月3日、良源死去。2月27日、禅師の君が天台座主となる。 永祚元年(989)9月8日、禅師の君が天台座主と権僧正の辞表を提出。 9月29日、余慶が天台座主となる(永祚宣命事件)。 永祚2年(990)2月17日、禅師の君が死去。 正暦4年(993)7月、赤山禅院が攻撃される。⇒完全分裂へ結局、余慶が第20世天台座主となる訳だけど、各所での余慶の人事をめぐって円仁派の攻撃も激しくなり、円珍派も負けじとやり返すといった具合で、良源さんの最晩年の頃から両派の争いはピークを迎え、混乱の様相を呈していた。良源さんでさえ抑えられなかった(あるいは故意に見過ごしたか)状況にある中で座主となった禅師の君はさぞ心労も重なっただろう。ただ、禅師の君の父・師輔の享年は51歳、異母兄の伊尹は48歳、兼通は52歳と師輔の家は50歳前後で亡くなってる方が多いんだよな・・・早死にの家系という言葉も一瞬浮かんだけど、今の50歳と当時の50歳では違うか。そういう中、法興院摂政兼家が61歳まで粘っているのがちと笑えますが。にほんブログ村
2015年04月20日

良源さんは応和の宗論でも、座主となってからの論議にも余慶などの円珍派僧侶を採用しており、彼自身は初めっから円珍派排除の考えを持っていたとも思えない。ただ、座主となってからも一向に協力しようとしない同派の僧もいたし、円珍派にはもっと手を焼いただろう。加えて、禅師の君の存在がある。慈忍和尚廟のところで禅師の君が第19世天台座主となったことを先に書いてますが、最後まで藤原師輔との約束を律義に守ろうとした良源さんは、毛利元就が愛する息子たちに他家を継がせる際に万全の準備をしたように、禅師の君のためにしっかりした基盤を築いておく必要性があるとも考えたんじゃなかろうか。もっとも、禅師の君のことがなくても、一山を率いる座主としては叡山をきっちり管理していく必要がある。そこで、天元2年(979)の地主三聖祭の時のような強硬な手段も用いられた。その一方で、余慶さんの法性寺座主問題の時には取り立てて仲裁をしたなどの記録はない。 【山外のいわゆる巷間の寺院のおおくは、智証門徒に掌握されていた。長等山の三井寺を はじめ、岩倉の普門寺、さきに挙げた観音院や解脱寺、一乗寺など。山上の房舎より 華麗な堂宇。そのうえ寺領までついている。座主良源がいくら山上で御制戒をきびしく 守らせようとしても、山内の規律は保てない。叡山を追われても麓に降りれば、食に ありつけたのである。時と必要に応じて、また山に帰ってきた。】 (『女人成仏への開眼』より)うん、分裂までの流れで円珍派がお山を下りてはまた戻ってくるを繰り返していたのはこういう背景があったからなんだな。色々ある中で、延暦寺トップの良源さんは「ダメだ、コイツら」と思ったかもしれない。円珍派が完全に山を追い出されたのは良源さんの死後のことで、積極的に良源さんがそこへ導いていったという記録こそないものの、全体の流れからすると「分裂もやむなし」と思っていたんじゃないかと個人的には思う。少なくとも禅師の君へはしっかりした形でバトンタッチをしたいと思っていただろうし、もし強い意思と行動力を持つ良源さんが本気で円珍派と仲良くしたいと思ったならなんらかの記録は残っているだろうと思うのだ。ただ、両派の争いは深刻だったし、円仁派の良源さんが長くリーダーシップを取っていたので、何か手を打ったところで結果は同じだったかもしれないけど。良源さん自身の思惑については色々な解釈があるものの、長い治山の中で円仁派の勢力が強くなり、強気になった円仁派大衆がより過激な行動に出ることになったという本人が意識しない面での影響は確かにあっただろうとは思う。以上がごく大ざっぱな良源さんの事跡ですが、こうしてまとめてみるとその後の叡山に長く受け継がれることになった内容が実に多い。その中には世俗の身分社会を叡山に持ち込んだというマイナスの評価を受けるものもあるけど、実のところ貴人による寄進や武力による自衛などは良源さん以前からあった訳だから、彼1人を「叡山を堕落させた張本人」と攻めるのも酷な気がする。9世紀後半頃になると、古代寺院の中で衰退するものがあったという。日本天台宗の公認から良源さんの死までの期間でまだ200年にも満たない叡山は当時の仏教界からすれば新参者もいいとこだったけど、古い新しいに関わらず、時代の波に乗れなかった寺院が次第に姿を消していく時期でもあったのだろう。そう考えれば、転換期に良源さんという座主を戴いたことは(多少の問題は含んでいたとしても)結果的にはラッキーだったともいえる。だって、良源さんが変えたことや新しく始めたことがその後も長く・・・モノによっては現在まで引き継がれていくんだからね。こうした事績をもって良源さんは「中興の祖」とされ、「三聖二師」のラストに食い込むこととなった。さて、良源さんの残りの話については横川の紹介とからめながら書くことにしますが、良源さんの話をまとめている最中、ここまでの話にはちいとも顔を出さないある男の存在が脳裏にチラつくようになりました。その男の名は、天海。もともと今回の旅は天海と輪王寺宮の追っかけ的な発想で企画したものだったけど、実際に叡山に来ると高僧やらお祖師やらが多すぎて、初日の初めに東塔南谷の天海の僧坊跡碑を見たあとはぶっちゃけ天海のことを思い出すヒマもないほどでした。天海はあくまできっかけに過ぎなかったしね。それが、ふと良源さんの歴バナを書くわたくしの前に現れるようになった。(別に天海のユーレイを見た訳ではありません)天海が良源さんを崇拝していたことは寛永寺シリーズでも書いてますが、たとえば『女人成仏への開眼』の最後で著者の後藤宏行氏は天海の夢に現れた良源さんの導きによっておみくじが広がった話を持ち出し、 【天海は百三十四歳まで生きながらえた怪僧。死後慈眼大師の諡名と号を贈られる。 日本仏教史上、空海と双璧をなす怪僧である。それほどの天海がなぜ、良源の カリスマ性を利用しなければならなかったのか。 戦国の動乱を収拾する力、武門の棟梁としての家康の才能と識見に天海は賭けた。 しかし、近世武士に要求された資質は、冷徹な合理的判断と、人に抜きんでた決断力。 かなり近代的な理性人のタイプにちかい個人像であった。 大衆的な信仰を凝縮させるカリスマ性は、民族的な常識と呪術性、それにとらえどころの ない神秘性が必要であろう。神秘性はながい庶民のあいだで語りつがれてきた伝承のなかで 醗酵する。良源生前の行跡は、まさにそうした庶民のあいだで語りこまれていく性質の 親近性と神秘性をもったものとして綴られていたのである。】とする。天海も色々な面を持っているので何を考えていたのかわかりにくいし、とらえどころのないジジイというのは確かですが、特に怪僧というほどのことはない。それより、たとえ「怪僧」という特殊な土俵であろうと天海と空海たんを並べるのはちょっと乱暴なんじゃ・・・いやいや、ツッコミ入れるためにわざわざ引用した訳じゃありまへん。今回のシリーズにあたって良源さん関係でわたくしが読んで基本資料としたのは『人物叢書 良源』と『女人成仏への開眼』の2冊だけなので、その他の研究者様がどういう解釈をしておられるのかは存じませんが、わたくしが感じたのは「コイツら、よく似てるな~。てか、似てることしてるな~。天海は良源さんの行動をパクったんじゃないか!?」ってことだった。たとえば、叡山の諸堂宇の復興。権力者と近く、その資財を引き出してあれこれ行ったこと。論議で名を挙げ、論議の新しいスタイルを作りだしたこと。身ひとつでのし上がったこと。現実的な考え方の持ち主であったこと。あるいは、これらの共通点は「たまたま」かもしれない。ロクな名声も立場もない「凡僧」「田舎之老」の天海がイエアスの信頼を勝ち取るまでに天海の積極的な意思があったのかもわからないし。『類聚伝記大日本史』(雄山閣)という本の第7巻は仏教関係の内容で、各宗派の法統の系図が載っている。天台宗は天台の教学と密教の2コースに分かれているので系図もそれぞれのものがあったのですが、天台教義(止観業)の系図を見ていてなるほど、こーゆー流れだったのか~!と納得したので、必要部分だけを抜粋した系図を作ってみました↓。 緑の字は過去の記事に登場した方たちです。この系図で一目瞭然。天海は慈覚門徒の端につらなる者であり、良源さんの法統を受け継ぐ者だったんです。ああ、まあ系図を見なくっても円珍派でないことはわかってますけどね。でも円仁さんにも大勢の弟子がいたし、門流は円仁派と円珍派だけじゃない。こういう法統を目にすると、門流の祖と言って差し支えないような立場であり時代の転換期にあって大改革をなしとげた良源さんを尊敬し、良源さんを見習って事を進めたいと考えたとしてもそれはある意味当然のことでもあるし、天海が日光にこだわったのは良源さんよりさらにさかのぼった祖の円仁さんの旧跡だったからかもしれない、なんて想像も浮かんできます。寛永寺シリーズでさんざんお世話になった浦井正明氏は、内藤正敏氏との対談の中でこんなことを言っておられる。 浦井:(前略)分布は詳しくは調べてないのですが、ざっと見ますと、江戸でやってる 論議は全部関東の坊さんで済んでるのです。ところが京都や駿府でやるときには 関東の坊さんが行って関西の坊さんと合流してやってる。 宮田:関東から行ってやるのですか? 浦井:ええ。天海のころ、家康在世中の比叡山というのは、織田信長の焼き討ちで相当の ダメージを受けていて、「関東天台」という言葉がありますが、学者の主だった人が かなり関東に流れてきていた。そうじゃないと、関東で独自にそれだけの学者を 生みだすというのは、かなり難しい。 ですから、天海という人が関東を中心に天台の勢力を拡大していく背景には、やはり 叡山から流れていった天台の優秀な坊さんの存在があった。その人たちを糾合して いったのじゃないかなと思います。 そう考えないと、ちょっとあれだけの論議を自前で張っていくというのは、とても江戸 だけではできない。当時の天台僧の分布を見ますと、非常におもしろい。 (『魔都江戸の都市計画』内藤正敏/洋泉社より) 叡山にいつ頃から僧侶が戻り始めたのかは知らないけど、秀吉は園城寺から金堂を移してるんだから、その頃には復興は始まっていたのだろう。ただ、浦井氏の言われるように叡山から避難してきた僧たちがそのまま関東へ居付いたのなら、本格的な復興は天海の手入れを待たなければならない。関東の質が上がったのはいいけど、本山の僧たちのプライドは高かったハズで、年の功で経験豊富な天海もまとめ上げるのにはそれなりに苦慮したかもしれない。関東は最澄や円仁の縁などもあり古くから天台が強かった地域であるにせよ、弱体化した叡山に替わって「東の叡山」を作り上げようとしていた天海には、文字通りのカリスマ性と現実的手腕が求められただろう。そこで、カリスマ性を補う存在として利用しつつ、現実的な面でも叡山を立て直した偉大なる諸先輩をかなり意識したんじゃないか、そんな風にも感じました。にほんブログ村
2015年04月19日

前回の続き。 何をもって「堕落」とするかは人によって見解の相違があると思いますが、半僧半俗の者が多く山内に入り込むことによる秩序の混乱は確かにあっただろう。 【(前略)正規僧の一部の質的低下と、私度僧の横行が社会問題化し、その改善が 望まれる事態となっていたのが、(三好:ジジイ註)清行の指摘に現れている。 浮浪人が容易に僧侶の形をとり、本職の僧侶たちと連絡をとり、在地の様々な トラブルを処理することになれば、自然本山との往来が頻繁となる。僧籍を 持たない彼らは顔を隠して人相の弁別を避け、これに悪僧も加わることとなり、 山内でも意に添わなければ乱暴狼藉を働いた。良源が座主となる前後に、 裹頭妨法の者たちが、夕闇にまぎれて出没したのはこうした状況であり、その 取締りに腐心したのである。】 (『人物叢書 良源』より)しかし、私度僧が増えればそれがただちに「堕落」や僧兵に代表されるような暴力へつながるのか?と衣川仁氏は疑問を呈する。最澄の歴バナでも私度僧の取り締まりを目的とした勅などがあったけど、私度僧の増加がそのまま武力へとつながるのであれば、僧兵は奈良後期~平安初期頃にはとっくに登場していただろうというのだ。 【しかし、現実はそうではなかった。寺院の暴力が恒常的な社会問題として注目される のは、早くても十世紀後半のことである。(中略)堕落が暴力につながるのだと することで、現実にある暴力の要因をその行使主体の堕落のせいにしてしまい、 暴力を生みだす構造の解明や暴力克服への努力を阻害する危険性すら生じてくる。 そうではなく、こうした人間を何の規制もせずに受けいれた寺院の側にこそ、 積極的な動機があったとみるべきであろう。それは十世紀の社会変動であり、それを うけた寺院の中世化の過程においてこそ、武力の導入は選択された。】 (『僧兵=祈りと暴力の力』衣川仁/講談社より)ふむ、なるほど。私度にもいろんな人がいるからね。ただ、自衛の必要に迫られたからであれ、より積極的な意図があったんであれ、寺院によって導入された武力はしだいに力を増し、コントロールしにくい状況になっていったんじゃないかと思う。それには、門流の問題も絡んでくる。門流はいってみれば山内におけるプチ自治体みたいなもので、叡山では円仁派と円珍派が最も有名。前回の最後で貴人から土地の施入があったことを紹介してますが、門流では法脈の他に宗教的財産や個別に施入された土地などの私財も師から弟子へと受け継がれていった。良源さんの時代は円仁派と円珍派の抗争がエスカレートしていった時期にもあたり、叡山という大きな自治体の自衛のためのはずだった武力は各門流に属する裹頭の私度僧によってライバルの門流へも向けられるようになる。加えて、本職の僧侶たちもかなり世俗化していたらしく、良源さんはあれやこれや含めた綱紀の粛正に乗り出すことになる。して、天台座主となってから4年めの天禄元年(970)、「二十六ヶ条制式」を全山に発布する。これはタイトル通り26コもの項目があってちと長いので、ここまでの話にからむ内容だけを簡単に抜き出すと、まず「堕落」をうかがわせるものとしては ○舎利会・六月会・霜月会などの重要法会での役僧が贈答品のやり取りをしたり、 接待することの禁止。 ○籠山僧が結界の外に出ることの禁止。 ○伝法・講経のイベントへは必ず参加すること。また読経を怠る者は請用を停止する。 ○年分度者は資質のある者を選ぶこと。 ○若年僧の規定外の色の衣服の着用の禁止。 ○山僧へ弁当を贈ることの禁止。イベントにことよせての付け届けや接待が行われていたってのが俗っぽくて笑えるけど、特別な何かがなくても上層部ではそういうやり取りもそこそこ頻繁に行われていたようで、そういうものも禁じている。してさらに ○役僧は互いに礼儀を守るべしなんてのもある。これってどういうことだろ・・・少なくとも良源さんは礼儀が守られていないと感じていた訳だよな。暴力にからむ項目は、 ○靴のまま法会の堂に上がることの禁止。 ○裹頭の禁止。 ○兵杖を持って僧坊へ出入りし、山上をうろつく者は捕らえて公家へ突き出す。 ○山院内で勝手に刑罰を行うことの禁止。 ○結界内に放し飼いになっている牛馬は捕らえて馬寮へ届けること。となっており、こういうことが現実にあったのだと教えてくれる。綱紀の粛正は戒を堅持せよということにもつながる。良源さんは制式の中で戒も重視しており、受戒後にはもろもろの作法を練習しろとか、戒に関する行法を怠る者は処分するとかの項目もある。 【これらのうちの多くは、最澄・仁忠・円仁等が折にふれて弟子たちに要求してきた ことであった。良源自身制定したのはこのうちの十二ヵ条である。この制定を 下した意図は、良源が最澄・円仁の正統的継承者であり、天台座主として比叡山を 統括し支配するものであることを、比叡山大衆に宣言することであった。】 (『人物叢書 良源』より)制式の発布に良源さん個人の必要性による政治的意図が含まれていたかは別として、武力を保持した各門流がいつまでも勝手なことをしていたのでは困る。余談ですが、先日の選挙演説で共産党の応援にかけつけたおばさんが「私たちはあ~、権力に屈せず主義主張を貫いてきましたあ~」と自慢げに演説してるのを聞いて、「それって結局、国家の決定に従わないってことじゃん。多数決の意見に従うってルールに反してないか?」とツッコミ入れて笑ってました。昨日の時事ニュースでは南の島の知事が首相と会談して、「知事のあらゆる権限を行使して基地移設を阻止する」とふんぞり返っているのを見て、知事の権限が首相の権限を上回るワケなかろ・・・とこれまたツッコミ入れてたんですが、叡山の門流もきっとあんな感じだったんだろうと思いました 初期の頃を除き、これまでの座主は在任期間が短かったこともあって門流の上に立つことはできなかった。先輩たちができなかった、あるいはやろうと考えもしなかったことを身ひとつで傍系から出発した成り上がりの良源さんがやろうとした。ノンキャリアからのスタートを考えるとこれはすごいことだと思うけど、そうしなければならないと思わせるほど山内の秩序は乱れていたのかもしれない。そして、武力に対しては武力をもって制するという方針を打ち出した。「僧兵の創始者」という言葉には批判的な意が多分に込められていると思うけど、綱紀の粛正や座主直属の武力による統制を敷かなかったらその後の叡山はどうなっていただろうとも思う。霊的な考え方に強く支配される時代のことだからさすがに闕所にはならなかったかもしれないけど、暴走に歯止めがかからない状況が長く続けばあるいは早くに衰退したかもしれないし、のちの鎌倉新仏教の成立にも少なからぬ影響を与えていたかもしれない。わたくしが盲目的に良源さんを好きだからといって彼の行動のすべてを是としている訳でもないんですが、良源さんの時代はもろもろの事の転換期に当たっており、時代の変化に則していかなければならない時期でもあった。まったく環境の違う後世の人間がそれぞれの価値感で是非を論じても意味がない。時代が良源さんという強烈な個性を持つ人間を生みだしたんじゃないかと思えるほど、現実的かつ周到な考えによって良源さんは叡山の次代の繁栄の基盤を整えていった。さて最後、第8としては円仁派と円珍派の抗争がある。(分裂までの両派の争いの概略は「(99)」~「(101)」、「(103)」~「(104)」までを参照)両派の争いや分裂に関して良源さんが直接的に手を下した訳ではないので、良源さんの事績に含めるべきかは人によって判断の分かれるところでしょうが、分裂の直前が良源さんの治山の時期でもあり、良源さん自身がバリバリの存在感を持つ人であったので、この問題と切り離すことはできないとわたくしは考えます。5世・円珍さん以降良源さんまでの歴代座主は円珍派と円仁派が占めており、『天台座主記』によると以下のようになります。(名前は割愛、「仁」は円仁派、「珍」は円珍派。年月は座主在位期間) 6(珍) :892年5月~893年2月 7(珍) :893年3月~894年8月 8(珍) :894年9月~899年2月 9(仁) :899年10月~906年7月 10(珍):906年10月~921年8月 ←良源生まれる 11(珍):922年8月~923年3月 ←叡山西塔へ入門 12(珍):923年7月~926年2月 13(珍):926年5月~940年2月 ←受戒 14(仁):940年3月~946年5月 15(仁):946年12月~964年1月 ←横川へ移る。東宮護持僧。応和の宗論。 16(仁):964年3月~964年10月 17(仁):965年2月~966年7月 ←僧綱入り「叡山攻め(77)」で書いたように、延暦25年(806)に取り決められた新たな年分度者の枠組みの中で天台宗へ与えられた2人の年分度者のうち、1人には天台を、もう1人には密教を学ばせることが定められた。その後、円仁(慈覚大師)と円珍(智証大師)が本場から密教を持ち帰ってきて台密を完成させた訳だけど、1人をのぞいて6世から13世までの座主を円珍派が独占したのは 【慈覚門徒とは異なり、密教の優位性を積極的に認めた智證門徒が、貴族社会の多大なる 帰依を獲得していたからである。したがって、密教盛行の時流にのっとって勢力を拡大した 智證門徒への敵愾心が、良源時代における慈覚門徒の飛躍を準備することになったと いえるのかもしれない。】 (『僧兵=祈りと暴力の力』より)そういう円珍派全盛の時期に良源さんは入山し、青年期を過ごした。円仁派座主の時代になっても、門流も一枚岩ではなく、良源さんは傍系でしかなかった。それが次第にのし上がっていき、山内よりも山外での名声が高まって主流も注目せざるを得なくなり、もとノンキャリア組の良源さんとしても円仁の後継者であることをアピールする必要性があった。そして19年の長きにわたって強力な指導力を発揮したことで、それまでよりも円仁派の結束も強まっていったかもしれない。にほんブログ村
2015年04月18日

俗っぽいと揶揄されようと、良源さんは根っからの俗人じゃない。当然のことながら、僧侶としての素養も充分にあった。俗世間におもねって天台座主になれるほど人生は甘くない。そういう僧侶本来の側面が3つめの業績。叡山では最澄の一周忌からその命日(6月4日)を含む期間に六月会(六月法華会)が行われていた。座主就任直後に朝廷に提出した10ヵ条の改革案のうちのひとつがこの六月会に広学竪義(こうがくりゅうぎ)者1名を設置するというもので、大火が起こった同年の末にそれが認められた。最澄の行った七大寺バージョン法華十講は11月に行われたためか、のち「霜月会」として引き継がれていたものが、6月にも行われるようになったそうな。 【この由緒ある講会を単なる法華経の奥義を開陳喧伝するだけに終らせることなく、 論議の優劣を判定して習学僧の顕彰の場としようというのが、広学竪義者一名の 設置であった。天台教理の奥義を究めるため、広く内外の典籍にわたって勉学する ことが広学であり、その蘊蓄を傾けて設問に対して義を立てる役が竪義である。 こうした名誉職を設置したことのねらいは、叡山全体の習学意欲の向上を図ったもの (後略)】 (『人物叢書 良源』より)だそうで、勅許が下りた翌年から横川の良源さんの住房では春と秋の2回広学竪義の練習が行われることとなったが、横川での広学竪義に出場するための資格にはかなり高いハードルが設けられたらしい。そしてその費用には良源さんが管理している禅師の君の領地の収入が当てられたが、財源の畑を荒らす者があれば自分の遺骸を掘り起こして畑を荒らした不届き者の家の門にくくれと良源さんが言ったというエピソードがあるから、いかに良源さんが叡山の勉学向上に思いを込めていたかがわかる。六月会での定員枠1名の広学竪義者となるために横川ではこうしたしっかりした準備をしたのに対し、他の二塔ではそうした気配がないという。横川での広学竪義の主催者からして論議の名手と呼ばれ己の才能と努力と計画性で成りあがってきた人だから、そういう人(しかも座主)のもとで厳しい条件の資格を得てリハーサルに臨む横川の僧達の質が上がらないハズがなく、年々盛大になっていく横川の広学竪義で研鑽を積んだ僧たちによって横川は飛躍的に発展していった。広学竪義は現在の叡山でも続けられ、天台大師・智ギの法恩会や5年に1度の一大イベント・法華大会などの重要な法会でも行われている。その基礎を築いたのはもちろん宗祖である最澄だけど、広学竪義という形に整え後世に引き継がれるようにしたのが良源さんだと言えるのだろう。『比叡山 その歴史と文化を訪ねて』によると、平安期までは広学竪義者は山洛だけに限られていたのが、鎌倉以降になると諸国でも可能となったそうな。 【そして東国の談義所には竪義逐業を念願する学徒が集まって研鑽した。】 (『比叡山 その歴史と文化を訪ねて』より)というから、これが関東天台への発展へとつながり、江戸期へと続いていくんだな。そういう横川へは向学心のある僧たちが集まり、天禄3年(973)には横川の住僧が200人に達したので独立したいと良源さんが代表となって延暦寺執行部へ上申書が提出され、裁可された。 【住僧わずか2-3人の荒廃した横川を、二百人という一大集団に仕立てあげたのは 良源であり、良源は、東・西両塔の意思に左右されない独立区画横川を持ったことに なる。横川はこうして良源の指導を受け、研学面での開花の場所となり、多くの俊鋭が 育っていったのである。】 (『人物叢書 良源』より)横川の独立により現在の三塔スタイルが整った。これが4つめ。ここからは色んな背景によって事績が相互に絡み合って、中には批判の対象となったものも含まれてきますが、5つめとしては権門と結んだこと。これは藤原師輔一門とタッグを組んだことが大きなファクターで、師輔が死んだ後も師輔との約束を果たすため良源さんなりの創意工夫が続けられた。それは禅師の君を立派な僧侶に育てることであり、自分の跡を継がせることだった。天台座主は一山の管理のほか、朝廷と国家の安泰を祈ることが本来業務であり、これはいわばルーティンワークなので良源さんの事跡としてここではあえて取り上げませんが、良源さんが華々しい法会に参加するかたわらにはいつも禅師の君の姿があり、重要な役目も任されていった。ここまでの記事で数回良源さんの遺言について触れてますが、これは死の床にあって書いたものではなく、天禄3年(972)1月に横川が独立し、4月に主要堂宇の復興記念イベントを行った後の5月、病にかかって2週間ほど寝込んだ時に、いつか来る死のことを考えて自筆で書き遺したものだった。良源さんはタフでありながらまめやかな人で、遺言の中では色々と細かい指示を与えているものの、もっとも重要な事柄は禅師の君の立場を明確にしたことだろうと思う(「叡山攻め(135)」も参照)。そのための準備も着々と整えていった。遺言を書いた2年前には 【また梵照はこの年、尋禅が良源から灌頂を受け、阿闍梨職の実質的な資格を獲得したが、 良源は一身(いっしん)阿闍梨という特別な資格を考え出したことにふれている。 定員以外に、良家出身という特別な身分の者に限り、その人一代だけ特別な阿闍梨と するということである。尋禅の受法に立会い、あわせて良源の六十の賀を祝うために 登山した尋禅の兄弟たちは当然この考えに賛意を示したことであろう。】 (前掲書より)梵照さんは個人的な良源さんの伝記を書いた方ね。そして上申書を提出し、天禄4年(973)禅師の君を一身阿闍梨とする許可が下りた。この一身阿闍梨については一般にもよく取り上げられるところで、なんで話題になるかとゆーと 【特例として楞厳院の定員外阿闍梨職に補されたもので、尋禅が死去すればこの員数は なくなるものであった。関白藤原兼通等の後援があったことは疑いあるまい。この 処置はまったく特例であったが、以後名流の子弟で僧界に入るものが多く、しだいに 一身阿闍梨の制は通例となった。設置のいきさつはともかく、権門の子弟を僧界で 優遇する悪例を作った張本人としての非難は正しいといえよう。】 (前掲書より)ということで、権門と結び世俗の身分を叡山にも取り込んだ俗っぽい人、という批判の対象となっているからです。「関白藤原兼通」は師輔の次男で、すぐ下の弟があの法興院摂政兼家。師輔の長男・伊尹、次男・兼通、三男・兼家は中宮安子と同母兄弟であり、ために師輔の子供たちの中では権力に近い立場であったが、兼通は弟を激しく嫌っており、そのため兼家が権力を握るまでには少し時間がかかった。禅師の君が一身阿闍梨となる前年の天禄3年、師輔の跡を継いでいた長男の伊尹(これただ)が48歳で死去。伊尹が危篤となった段階から兼通と兼家の間で後釜争いが起こったが、中宮安子が存命中に「もし将来摂関となることがあれば、兄弟の順番を守りなさい」と書いたものを兼通が持っていたので、安子の息子である円融天皇にそれを見せて伊尹の死後に兼通が関白になったといういきさつがある。兼通は関白になる少し前の天禄元年に、俗界にあって叡山を監督する「延暦寺検校」になっている。師輔一門との強い結び付きは相変わらずだった。「遁世僧」については仏バナの「叡山攻め(25)」で軽く触れてますが、僧界に身分社会を持ちこんだことで第2の世俗がお山に誕生し、『沙石集』を書いた無住のような遁世僧が出現するもとともなった。わたくしが良源さんを好きなのは特に理由はなく、別にサクセスストーリーに血湧き肉躍った訳でもないし、聖人君子だと盲目的に信じている訳でもありません。盲目的に好きではあるけどゆえに良源さんを批判する文を読んでもへっちゃらだし、時にはその批判を受け入れることもあります。ま、権門と結んだことについてはそれがなければのし上がることは確実に不可能だったし、1000年以上に及ぶ元三大師信仰を生み出したほどの事跡を積んだのだから結果オーライじゃ~んて思ったりもする訳ですが、ひとつ興味深い話があります。大飛躍の元となった応和の宗論が行われた同じ日、パンピーの浄財を集めつつ13年かけて完成した写経の供養会が京の賀茂川の岸辺で行われたそうです。主催者は「市の聖」空也。空也は天暦2年(948)に叡山で受戒して正式な僧となってますが、その後も民間での布教を続け、この大々的な供養会へこぎつけたようです。異色の才能を持つ2人の高僧が、奇しくも同じ日にそれぞれにとって大事なイベントを行っている。しかも良源さんは天皇の御前、空也の方はパンピーがギャラリーの大半を占めていただろうという、実に対照的な内容。たまたま同じ日になっただけとはいっても、歴史の妙だなと思いました。さてここからは第6の事跡「僧兵の誕生」、第7の事跡「綱紀の粛正」へ移りますが、これも権門との結びつきとの関連がある。(僧兵については「(101)」~「(102)」を参照ください)もともと寺が武力を持ち始めたのは国家の庇護を受けられなくなったことによる経済的自立のためであり、当時の経済は土地への依存度が高かった。国家から支給を受けていた頃の叡山の収入は近江・美濃の税が主だったが、それを山内で自由に割り振ってよかった訳ではなく、ちゃんと割り振りも決められていた。そうした正式な収入のほかに、貴人から土地の寄進を受けるようになりこういう収入が次第に増えていった。土地の問題ってのは現代でもトラブルになりがちだけど、施入された土地が増えるにつれ土地をめぐる問題も持ち上がり、その最悪の解決法が武力によるものであったから、寺院が武力を持ったのは時代の必然だともいえる。これは良源さんが生まれる前から起こっていた流れだった。延喜14年(914)、醍醐天皇の時代に三好善行という人は「意見十二箇条」の中で、1年のうちで得度する者は2~300人、そのうち半分以上が「邪濫の輩」であり、俗世にあっては納税を免れるため百姓たちが私度僧となる数が年々増え、近頃では天下の人民の3分の2はこのテの私度僧だ、としている。3分の2が私度僧って、そんなワケねーだろ!とツッコミ入れたくなりますが、そういう半僧半俗の者たちの一部が武力を持ち、大規模寺院の経営を支えてきたという現実がある。にほんブログ村
2015年04月16日

良源さんはよく俗っぽい人だと言われる。谷崎潤一郎も『乳野物語』の中でそういう意味のことを何度も言ってはばからない。良源さんが僧綱入りした康保2年(965)、母の80歳の祝いを盛大に行っている。なんでも、母の住む苗鹿に建てた仮小屋に極楽絵図を掲げ3日にわたる経供養や声明(しょうみょう)の法要を行い、琵琶湖には竜頭鷁首(りゅうとうげきしゅ)の舟を浮かべ音楽を演奏させたそうな。後藤宏行氏は【派手で賑やかなお祭り好き】と評するが、こういう派手なイベントにも良源さんには良源さんなりの考えはあったらしい。そしてその年の年末近くに僧綱入り。この大抜擢について後藤氏は 【もちろん、比叡山内部でも良源に対する期待の反映が、僧綱召の選考に影響した こともあろう。しかし、それ以上に廟堂周辺でもかれの論議上手としての稟質と、 大衆宗教家としての才能<タレント>に期待する、時代的風潮が漲っていたと 解釈できよう。】 (『女人成仏への開眼』より)とする。確かにそういう面もあったのかもしれない。が、そうであったのなら応和の宗論ではもちっと天台から上役の僧を出してもよさそうにも思う。久々の天台と法相の相反する主義主張がぶつかり合う場、しかも帝の御前で行われた論議としては参加者があまりにアンバランス。円仁派といっても傍系の、それもまだ若い成り上がりの良源さんに対し少なくとも応和の宗論の段階では上層部は冷ややかな目で見ていたんじゃないだろうか。して、宗論に参加した天台側の僧たちはヒラの凡僧といってもそれは立場上のことで、地位も権力も学識もある申し分ない高僧こそいなかったものの、別に才能まで凡庸だった訳じゃない。実は良源さんは最初、別のメンバーを選抜していた。が、そのうちの2人がこれを辞退。そのため新たに2人選び直して10人そろえた訳だけど、断った2人はいずれも優秀な人だった。2人のうちの1人は良源さんの弟子の増賀(ぞうが)という人で、どこまでホントかわからなような様々な奇行で知られてはいるものの、論議に長けていたという。その増賀が師の誘いを断った。どころか宗論の1ヶ月ほど前に横川を出て、衝動的出家をした禅師の君の兄・高光のいる多武峯へ移ってしまった。このあたり、平林氏は 【増賀に替って指命された覚慶が法蔵と論戦、覚慶よりバトンタッチされた良源が 名声を博した弁舌をふるったのである。増賀が辞退しなければ宗論の口火は増賀の 役となる。増賀はこの宗論の真の目的を、良源から指示されたか、そうでなくとも 功利的・打算的良源の目的を察して横川を去っていったのであろう。(中略) 良源自身「外ハ衒名(げんめい)ノ人ニ似」るといっているほどなので、反骨の弟子 増賀は師匠の明らさまな行動に堪えられなかったのであろう。ただ、良源はこうした 行為も究極的に「弘法ノ思」と表裏一体をなすと考えていたから、こうした批判に 一顧もしなかった。】 (『人物叢書 良源』より)とする。平林氏の推測のすべてが正しくなかったとしても、「仏道に入って30数年、これまでただただみ仏に仕え、静かに仏の道を歩んできました。それがひょんなことから法相と対峙することになり、宗祖の遺志を世間に知らしめるよい機会だと思って宗論の場では力を尽くしました。それが、気がついてみれば内供奉十禅師を賜り、さらに僧綱にまで加えられることになっちゃって、いやもう私が一番驚いてますよ~。まさかこんなことになるなんてね~」というにはあまりにもあんまりな大出世。むしろウラがないと考える方が不自然なくらいに思えます。増賀は才能がありながら栄達を嫌った人だとされるので、良源さんのギンギラな出世主義とソリが合わなかったという可能性は充分にある。急速に存在感を増していく中で周囲との摩擦も増え始めるが、それにかまわず良源さんは歩み続ける。僧綱入りした翌年の康保3年(966)7月17日、第17世天台座主・喜慶が78歳で死去。8月27日、勅により良源さんが第18世天台座主に指名される。実年齢で54歳、仏道に入って39年目の時だった。『天台座主記』には歴代座主の簡単な経歴等が書いてあるものの、メジャーでない方々は詳しい生年などはわからないためこの史料に書かれる年齢はすべて数えだろうけど、とりあえずこれに従って見ていくと、第18世までの座主で就任した年齢が一番若いのは初代・義真の46歳。ただ、2世・円澄まではまだ山内での私称だったからね。3世・円仁の代から座主職は勅による公的な地位となり、それ以降の座主で見ると50歳代で座主となったのは5世・円珍さんのみ。代を経るに従って就任年齢は高くなる傾向にあり、当然出家してからの年数も長い。この頃の座主職が長年の功労に対する冥土の土産的なものだったと書いたのは平林氏だったっけか喜慶が亡くなった時、立場や年齢・経験から次の座主は自分カモ、と思った先輩は少なくとも2人はいた。そのうちの1人については「叡山攻め(103)」で簡単に紹介してますが、この2人は良源さんの座主就任からほどなくして亡くなっている。通常であればこの2人のどちらかが第18世となっていたかもしれない。が、山内よりも山外で良源さんの名声が高まっていたため、山外からの波に押されて良源さんがゴールのテープを切った。実はこれは3度目の推挙で、15世(応和4年1月没)と16世(康保元年3月没)が死去した際にもそれぞれ座主に推挙されたが、良源さんは辞退したという。これはちょっと個人的にはマユツバだと思うけど、ともかく康保3年には座主を拝命した。天台座主となるには色々条件があったらしい。が、あまりにも若く、かつ急激な昇進のため就任時点で良源さんはその条件を満たしていなかった。法性寺の座主というのは必ずしも座主になる条件ではなかったようだけど、それすら良源さんは経験していない。そこで、座主になる際に延暦寺の阿闍梨の資格と北京三大会の講師を歴任したという資格を与えられているそうな。39歳の時には元慶寺の覚恵から阿闍梨の位を譲られているものの、寺格によるものか叡山の阿闍梨よりはワンランク下だったため、こういう措置が取られた。単に若いだけじゃなく、どんだけ異例の大抜擢だったのかここでもわかる。勅が下りた2日後、朝廷からの勅使が叡山に登った。本来、叡山へ騎馬で上がることは受け入れられていない。藤原道長さんが石を投げられたこともあるくらいだしね。しかしこの時の勅使は足腰が弱いことを理由に騎馬で登ったそうな。え~、当初良源さんの歴バナは3分割ぐらいにして、天台座主となったところで第2部を終えようかと考えてましたが、後の記事の都合もありこのまま最後まで続けます。以後の話は一部先行して紹介しているので、リンク先とあわせてご覧ください。で、ここからは時系列の経歴ではなく事績をいくつかに分けて紹介していきます。めでたく座主となった良源さんは、早くも9月10日には行動を開始する。具体的なすべての内容はわかっていないものの、10ヵ条の改革案を上奏したという。9月13日には天変のため宮中を訪れ、記録に残る限りでの天台座主として初の7日間の勤行を行った。この修法の最終日には村上天皇から親しく諮問され、順調な船出のように見えた。が、座主となってから2ヶ月後(閏8月があるため)の9月26日、母が死去。さらにその1ヶ月後には叡山東塔を中心とした大火が起こる。この復興については「叡山攻め(117)」で書きましたが、当時はまだ円珍派も山内にいたし、成り上がって大抜擢の直後でもあったのでフツーの人なら相当ヘコむかうろたえるところでしょうが、ま~良源さんてば逆境に強いタイプとゆーか、強い意思でこの大惨事を乗り越えマイナスをプラスに変えてしまった。もちろん、この復興には禅師の君の財産を管理しているという強みが効いている。東塔総持院での滞りない舎利会の開催にこだわったのは、山内の満場一致を得て座主になったからじゃなかったかもしれないな。円仁派として、円仁の業績を継いでいくことで周囲の理解と賛同を得ようとする狙いもあったのかもしれない。大火からの復興に努める一方で、自ら仕切る横川の整備もあわせて行った。こうした堂宇の建立や山上の大規模な整備がまず一つめの業績。たとえば根本中堂などは最澄の時代には小さなお堂を3つ並べたスタイルだったのが、円仁の代になって3つをあわせてひとつとし、それをさらに広げた現在のスタイルが良源さんが整えたもの。二つめは大衆宗教家としての側面。メインエリアの復興が終わった時、主要堂宇の落慶法要を盛大に行った。この時は勅使をはじめ僧綱・公卿・殿上人などを山上に招いて法要の後で終日舞楽が奉納されたそうな。この舞楽には楽人150人が招かれ、唄い手には奈良から名手を呼び寄せ、舞人には良家の子弟を選び、その演目も一流の人達に作らせ、楽器や装束なども新調して山麓でリハーサルまで行うという力の入れよう。当日は実に華やかなイベントとなったらしい。この点について『人物叢書 良源』では、復興の原動力が公家の経済力に負うところが大きかったことをよく知っていたので、その完成披露は公家好みの華麗なものに仕上げたと思われる、としている。のち貞元2年(977)に山上で舎利会を行ったが、これもまた派手なものだった。これは門流の祖・円仁さんがかつて宋でド派手な舎利会を見て「これをウチでもやりた~い!!」と持ち帰ってきた舎利を総持院に納めていたものだった。舎利会自体は総持院を復興させた段階から行っているはずだけど、円仁が夢みた規模での開催ではなかったらしく、ゆえに円仁の遺志を果たすと意気込んで行われた貞元の舎利会は大層派手になった。その翌月、同じ舎利会を洛東で行っている。円仁の宿願を果たすための大規模かつ大事な法会ゆえに多くの俗人の参加を望んだ良源さんだったが、当時の叡山は女人禁制だったので、山外で同じものを行うことで女人の参加も可能にした。こういう数々の派手なイベントが俗っぽいと言われるゆえんでもあるけど、 【しかし近くに法会の場所があっても説法を聞きに行く者は少なく、歓楽にはいかに 遠方であっても出かけて行く現状である。法会に華麗な歌舞を添える。その事はたんに 近ごろ流行の考えなしの贅沢行事ではない。事はみ仏の周囲をこれによって飾ることで あり、その一部はこれによって人を仏道に導く方便なのである。(中略)歌舞による 方便論は良源の持論であろう。】 (『人物叢書 良源』より)ということだったようです。わかりやすくとっつきやすい法会。その賛否は色々あるでしょうが、大胆なイベント執行はよほどの度胸と行動力がなければできないものだったんじゃないかとも思います。にほんブログ村
2015年04月15日

藤原師輔の一周忌法要の1週間ほど前、良源さんは宮中に参内して村上天皇に拝謁したという。最澄の歴バナで南都六宗のうち法相宗がかなり優位にあったことを書きましたが、良源さんの頃でもいぜん法相宗は優位を占めており、そうした状況への不満を述べたそうな。そして華厳宗と三論宗へ手紙を出す。主旨は、「それぞれの宗派は説き方が違っているだけでそこに優劣はないはずなのに、法相だけが優れたものとして優位にあるのはおかしい。帝にもそのことを申しあげたところ、感じるところがおありのようだった。だから、三宗で語らってそれぞれの教義の深浅を判釈していただくよう上奏しませんか?」というものだった。それで天台・華厳・三論の三宗から奏状が提出され、翌応和2年(962)の3月に各宗派から意見書を提出せよとの宣旨が下される。が、その期日を迎える前にあらたな宣旨が出され、応和3年(963)6月19日に村上天皇が書写した法華経の供養法会が行われるので、その時に教義の判釈を行うことになった。その後予定は2回延期され、8月21日に開催された。「応和の宗論」と呼ばれるこの論議は、人によって解釈の違いもあるようですが良源さんの経歴の中では重要な出来事です。この時、51歳。法会は5日間。南都と北嶺からそれぞれ10人ずつが選抜され、1日のうちで朝と夕の2回論議が行われて5日間で計10回。1人が導師として質問をし、1人が問者として答えるというもので、いちおうメインは村上天皇書写の法華経の供養であったから、論議も法華経についての内容で「法華十講」だったようです。初めは天台・華厳・三論の三宗の教義の判釈という提案だったのが、テーマが天台の根本経典である法華経となり、気が付けば南都から10人、北嶺(叡山)から10人の南都VS.北嶺に変貌を遂げている・・・しかも南都からの参加者は華厳1人、三論1人、法相8人のいずれも僧綱位か、僧綱入り目前の立場にある方ばかり。対する北嶺の参加者は良源さんを含めすべてがヒラの凡僧だった。ちなみに、天台側の参加者の中には円珍派の僧も含まれており、余慶さんも交じってます。3回目の論議までは穏やかに進行したものの、2日目の夕座で興福寺法相宗の法蔵が得意の論説を張ったところからにわかに活発化する。これはどうも、最澄たんと徳一たんが大バトルをかわした「誰でも悟ることができるかできないか」という議題だったようですが、天台側の覚慶は良源さんの弟子でのちに天台座主になったほどの方であるもこの時は経験豊富で油ののった法蔵に抗しきれず、翌3日目の朝座に出るはずだった良源さんが急遽予定の役を入れ替えて引き続き法蔵に当たった。お互いの論争は白熱し、午後2時に始まった夕座は夜8時過ぎまで続いてギャラリーの疲れもはなはだしいのでそこで一旦打ち止め。3日目の朝座にも法蔵が出張って論戦は2日に及んだが、最後は法蔵が「あなたの弁は富楼那のようだ」と言って口を閉ざした。周囲は良源さんの弁舌に感動したという。富楼那(ふるな)というのはお釈迦様の十大弟子の一人。十大弟子はそれぞれきわだった才能をお持ちの方々で、「ナントカ第一」という尊称がある。たとえば般若心経に出てくる舎利子(舎利佛)は「智恵第一」で、富楼那は「説法第一」。つまり富楼那のように弁が立つ人だ、と法蔵が言ったというんですが、なぜ法蔵が黙ってしまったのかについては色々解釈があるようなので、とりあえずここは先へ進めましょう。次の回からはまた静かな討論に戻った(つか、参加者もかなり疲れていた)ものの、最終日の朝座で興福寺法相宗の仲算(ちゅうさん)が話を蒸し返して良源さんの論にかみついた。南都側では碩学を揃えていて仲算も優秀な人であったらしく、仲算の弁を村上天皇が大変気に入って夕座も引き続き仲算が出るようにとの仰せがあり、朝に続いて良源さんの論に逐一反駁を加えていったらしいが、この時反論をくらっている当の良源さんは目を見開いたまま黙っていたという。法蔵と良源さんのやり取りで法蔵が黙ってしまった際には良源さんに称賛を浴びせた列席の公卿たちも、仲算の攻撃に対し良源さんが黙っていた段になると今度は仲算に称賛を浴びせた。その夜、仲算は村上天皇から杯を賜った。これにて5日におよぶ論議は終了。結果的に中心の議題となった点については最澄たんの時代から現代に至るまで決着のついてない内容でもあるらしいので、客観的に見てどちらが勝ったと言えないようだけど、それぞれが「こちらの勝ちだ」としている。このイベントの途中、南都側の形勢が不利に見えた時に公卿である藤原氏の一人がイベントを抜け出して奈良へ向かい、自身の氏神である春日の神へ勝利を祈願した。その夜、春日神からお告げを受けたので宮中に戻って仲算へそのことを伝えた。それにより仲算はラストで大活躍をすることができた。イベント終了後、やれウチの神様にかなう者はいないとほくそ笑んでフジワラムシたちが退出しようとした時、門前につながれていた良源さんの牛車の牛がヨダレを流していた。そのヨダレは芳香を放ち、流れ流れて地面に一首の歌を現わした。「草も木も仏に成ると聞く時は こころある身のたのもしきかな」法相宗側が「定性二乗不成仏義」を唱えたのに対し、良源さんは「一切衆生皆成仏」という立場を取った。天台宗では「草木国土悉皆成仏」とも言うので、このヨダレは春日神がしゃしゃり出てきたことに対し叡山の守護神である日吉山王も黙って見ておれず、この歌を現わした、というエピソードがある。応和の宗論の翌年春、師輔の娘の中宮安子が産後の肥立ちが悪く37歳で死去。痛手ではあるものの禅師の君は良源さんのもとで修行中だし既定の路線はゆるがない。夏、村上天皇の息災を祈る御修法に良源さんも参加し、内供奉十禅師となる。その翌年の康保2年(965)12月、僧綱入り。新しく僧綱入りした僧は3名おり、1人は天台の法性寺座主(78歳)、もう1人は興福寺維摩会など三大勅会の講師などを歴任した薬師寺の高僧(69歳)。法性寺座主を経験することは天台座主へのひとつのコースだし、興福寺維摩会なども由緒ある勅会で、この2人は年齢・経験ともに申し分ない。それに比べてわたくしの良源さんは、ぶっちゃけ公式行事でのロクな功労はないし、しかも53歳という若さ。『人物叢書 良源』によると、50代での僧綱入りというのは前例がないんだそうな。内供奉十禅師を拝命したのは師輔の長男・伊尹(これただ)を通じてだったが、伊尹自身はまだ父ほどの勢力を築くまでには成長しておらず、師輔も中宮安子もすでにこの世の人ではない。つまりは内供奉十禅師⇒僧綱入りと一足飛びの昇進を後押ししてくれる強大な勢力はない。なら、なぜとんとん拍子に昇進することができたのか・・・これはもう、応和の宗論での活躍しかないだろうと平林盛得氏は言うんです。そこで応和の宗論に戻りますが、そもそも「ウチと華厳と三論でがっちりタッグを組んで偉そうにのさばってる法相に対抗しましょうよ~」って話だったのが、フタを開けてみれば南都VS.北嶺・・・実質的には法相VS.天台の対立構造になっていた。しかも天台側には高い地位にある碩学などはいない。少し長くなりますが、良源さんの計画性、あるいは計算高さを物語る大事な部分なので『人物叢書 良源』から引用して紹介します。 【法論を挑んでいる天台宗が何故こうした劣位の僧たちを選んだのであろうか。それは 一にかかって天台宗の発起者が叡山三塔の最末横川(この時期まだ横川は山上で独立した 位置ではない)の主、良源であったからである。(中略)南都の小乗仏教的性格に対して 天台宗の大乗仏教的性格の正当性を主張したのは開祖最澄で、すでに法相宗徳一と激烈な 論争を行っている。それからほぼ一世紀の間、天台宗の高僧で積極的にこの問題に 取り組もうとした者はいなかった。(中略)良源はこの点に着目した。良源自身この問題で 法相宗と対論して勝利を得る自信があった。 そしてこの問題では、積極的な賛成を得られないまでも、天台の高僧達からの妨害はない。 さらに法相宗が諸宗の上にある形の点から、法相宗以外の諸宗に呼びかけ、その賛成を得る 根回しをしている。こうした見通しと、周到な行動がさきの宗論となるのである。天台宗 では当然良源がその責任を負う形で人選が進められることになる。惨敗しても天台宗全体の 問題ではない。したがって、良源の動員できる、天台執行部ではない、いわば僧位から いえば低位の僧達が指命され、他宗とはいちじるしくバランスを欠いたものとなった。 講経の場において諸宗の深浅を審議するといっても、具体的には良源一派が法相宗に挑戦 するということであった。(中略) ところで良源はこの宗論で、法相宗を徹底的に論破して宗祖最澄以来の決着をつけようと したのであろうか。どうもそうではないらしい。それは仲算の反論に対して、一切再論して いない態度である。(中略)仲算の弁説に恐れをなしたとは思えない。すでに良源は自分の 目的を達していたのである。それはこの宗論に活躍することによって王朝公家の信頼を得る ということである。(中略)法相宗を完膚なきまでに論破することを目的としたものでは なく、いわば名を挙げればよいのである。仲算の活躍を容認することにより列席の公卿達 に、良源の才能の優越性と深追いしない融通性をも印象付けたとすれば、良源の意図は 完全に達せられたことになる。】研究者レベルになると様々な解釈があるものの、一般的には応和の宗論で活躍したことが良源さんの名を上げ、その後の活躍につながるとされる。ま、活躍したことに違いはないけどね。でも何も目的としないただの純粋な活躍というよりは、結果を見据えてより高く飛躍するための踏み台を用意周到に準備したという平林氏の解説の方が妥当な気がします。にほんブログ村
2015年04月13日

祝・1000記事何もわからず勢いで始めた当時はこれだけの話数を書くなんて想像もしませんでした。ブログを始めた3年半前はバリバリの戦国モードだったのが、建築にも興味を持つようになり、最近ではひょんなことから仏教にまで手を出し、少し前の記事で神社を「ちょっと薄っぺらい存在」と書いたせいか最近ではあちこちの神様から「ワシのところへ来てみろ!!」とお誘いを受けてまして、今年は神社へのお出かけが多くなるかもしれず、我ながらずいぶん興味の幅も広がったものです。でも神社仏閣も結局は人間が支えてきたものであり、人の歴史に変わりはないので、最初の頃より戦国モードが薄れつつあるとはいえ自分では全く後悔してませんし、もっともっと勉強して色んな歴史を知りたいと思ってます。最初に比べて歴バナの分量が増えたので未公開の写真が溜まりすぎて大変なことになってはいますが、ブログのためにお出かけしている訳ではないし、それなりの歴史もあわせて紹介していくのは当然のことだと思うので、当面はこのスタイルを変えるつもりはありません。先月末の人間ドックの後で諏訪神社に行って、その後図書館で史料を大量にコピーしてきましたが、平日の日中の参考図書室や勉強室は実に年齢層が高かった・・・わたくしも自称・ジジイですが、その時図書館にいたのはホンマもんのジジイばっかり。あ~、私も早く定年を迎えて心ゆくまで勉強したい・・・うららかな春の一日、図書館にたむろするジジイ連を見て心底そう思いました特に決めている訳ではないものの、わたくしが行くのはマイナーな所が多く、そういう場所も色々知ってほしいと思ってブログで紹介している訳ですが、それも結局は自分のため。本や史料を読んで自分の言葉で書いていくと、ただ読んでいるだけよりも自分の身につきます。時々自分の古い記事を読み返すとバカ丸出しの文章に苦笑することも多々ありますが、それでも読み続けて応援してくれる方がいるというのは嬉しいもので、色々コメントをくれたりブログ更新のお知らせツイートをリツイートして下さる方々にはいつも感謝しておりますし、毒を吐いたりしてもいちいち反応せず静かに読み続けて下さる方々にもこれまた感謝しております。1000件めの記事をわたくしの大好きな良源さんの歴バナで迎えられるのも嬉しいこと・・・が、実は今日車にひかれそうになってね。いや、もうダメかと思いましたよ~。わたくしにも相手方にも何事もなかったからよかったものの、1000記事達成を前にして死んだりしたらまるで深草少将みたいじゃないか~なんて思ったりして・・・冗談こいてる場合じゃありません。今日のは完全にわたくしが悪かったので、反省してます。皆様も交通事故にはくれぐれもご注意ください。さて感慨と反省はここまでにして、前回の続き。良源さんの「打算」の裏に一貫して流れるもの、それは藤原師輔への感謝であり師輔との約束を守るという律義さだった。師輔は死に際して、遺言で近江国岡屋庄の土地を横川法華堂に与え、また師輔の生前中に近江鞆結(ともゆい)庄の土地が在地領主から師輔を通じて法華堂に寄進されてもいる。そして、禅師の君も父から遺産を受け継いだ。山城国はもちろんのこと、西へ西へと分与の土地は広がって遠くは備後まで計11ヵ国に上る所領の土地を分配された。ただ、その当時禅師の君はまだ入山3年目でしかも若い修行の身。ゆえに所領の管理は叡山が、実質的には師である良源さんの管理するところとなり、良源さんはより潤沢な資金を得られることになった。禅師の君が受け継いだ遺産が現在の金額に換算してどの程度のものかはわからないものの、 【尋禅を手許に置きさえすれば、その師として尋禅に附託された莫大な所領を 管理することもできる。】 (『人物叢書 良源』より)悪意のある見方をすれば、「師輔は死んだけど、尋禅にはまだ利用価値は残っていた」という表現もできる。が、のちに良源さんが書いた自身の遺言にはあれこれの堂舎や房地を色々な弟子に譲るとしているものの、その中でも禅師の君への委譲は多く、特に自身の住房である定心房は禅師の君に譲るとし、これに従わない僧は一門から永久に追放すると厳命している。つまりは良源さんの正当な後継者は禅師の君だと宣言した訳で、藤原一門から出た僧が宗教面で師輔一族を守るという師輔のビジョンを最後まで遂行しようとしたことがうかがわれる。師輔の死により良源さんは確かな足がかりを増やした一方で、実力者・師輔の死は政界にも大きな影響を与えた。前にも書いたけど、師輔は次男で兄には左大臣もおり、弟の中にも出世欲を持つ者がいた。師輔の子の中では村上天皇中宮・安子とその同母兄弟の長男から3男までが比較的安定していたものの、師輔が死んだからといってその子がのほほんと政界の中心者におさまるほど世の中は甘くなく、藤原北家の中だけでも次の実力者になろうとする者たちの思惑が入り乱れた。そういう中、師輔の8男であり禅師の君と同じ雅子内親王から生まれた高光はそれまで順調な人生を歩んできたものの、父というバックを失い、妻の父は師輔の弟であるものの、その舅は野心がない人でもあったので高光の将来にも影が射すことになり、そういう状況に疲れたのか師輔の一周忌から7ヶ月後に高光が横川を訪れ、衝動的に剃髪するという事件が起こる。これは当時かなり話題になったようで、『多武峯少将物語』という書にもなっているんだけど、この中で高光が禅師の君に頭を剃れと言っても「などかくはのたまふ。御心がはりやし給へる」と禅師の君は泣いて断るので、「阿闍梨」に剃れと言っても「いとあさましきわざかな。御はらからの君たちも、おのれをこそ、のたまはめ」とこれまた泣くばかりで剃ってくれないので、高光はみずからもとどりを落としたとなっている。ここの解釈には先人たちもずいぶん頭を悩ませたようで、ゆえにわたくしもあえてセリフを現代語訳しませんでしたが、「阿闍梨」が誰かとは明記していないものの、平林氏はやはり良源だろうとした上で 【高光の兄弟、伊尹以下の思惑を気にしている様子は明らかで、出家希望者に 対する高僧の言葉とはとても思えないのである。高光の恣ままな出家に対して、 尋禅・良源側の困惑が如実に描写されている。】 (『人物叢書 良源』より)とする。つまり、禅師の君が良源さんの下で修行しているのは師輔と良源さん双方の目的の遂行のためであり、予定のコースだった。契約相手の師輔が死んでも禅師の君を大切にすることで良源さんは経済的なバックを得、円仁派を受け継ぐ後継者を育てることにもなり、師輔家では一門の繁栄を祈願してくれる僧侶を得ることになる。そして禅師の君と共に良源さんはこれから次なるステップへと進む時期でもあった。 【尋禅の兄高光の出家は、良源・尋禅の計画路線の中で、足手まといになるばかりで、 何の益することもないのである。たんに自らの安心立命のために、或は尋禅と 二人して藤原氏の繁栄を祈るという単純な発想で片づく状況ではないのである。】 (『人物叢書 良源』より) ここからも、禅師の君の入山は明確なビジョンに基づくものであったことがうかがわれる。高光さんにはお気の毒だけど、師輔の子なら誰でもよかったという訳じゃなかったみたいね。前回再掲した系図でおわかりのように、高光も禅師の君も醍醐天皇の外孫で時の村上天皇の甥にあたる。高光は子供の頃から秀才の誉れ高かった人で、この甥を愛した村上天皇は 都より雲の八雲たつ奥山の 横川の水はすみよかるらん(『新古今集』)という御歌を寄せられたというが、既定のラインを走る禅師の君と良源さんの結び付きは固く、結局高光は半年ほどで横川を去り多武峯(とうのみね)へ移っていくことになる。 高光の剃髪より少し前の夏、中宮安子は東宮護持僧である良源さんへ自分の子の皇太子の無病息災祈願を依頼している。 【良源は寛忠と共にこの祈祷の功労として度者一人を得ているが、ふつう東宮の 御修法には度者を賜らない定めとなっていたが、この度は例外であった。 師輔という後見を失った安子が、いかに皇太子憲平親王の成長に心を砕いて いるかが窺えよう。】 (『人物叢書 良源』より)安子さんという人は面白い人で、村上天皇へ入内した最初の妃であり子も多くもうけたことから存在感ばっちしの人だったのが、自分の従姉妹が同じ村上天皇から寵愛を受けた時には心穏やかでなく、天皇と従姉妹が一緒にいるところへたまたま立ち寄った安子は壁に穴をあけさせて隣室から覗き見したという。この従姉妹・藤原芳子は幼い時から妃となる教育を受けた人で、しかも絶世の美女。当時の美人の条件でもある長髪も豊かにたくわえており、芳子が牛車に乗って体は車の中に入っても髪はまだ部屋の中に残っているほどだったそうな。そういう芳子を見てムラムラ来た安子は、覗き穴からかわらけを投げつけた安子を重んじていた村上天皇もさすがにこれには呆れ、安子の兄弟に謹慎を命じたものの逆ギレした安子が天皇に直談判し謹慎命令を撤回させてしまったというからすごい。ちなみに、芳子さんは『源氏物語』の光君の母・桐壺の更衣のモデルだという説があるそうな。ライバルいじめが史実でなかったとしても気丈な女性ではあったようで、師輔亡きあと父に代わって一族をリードするが、皇太子に関する祈願は良源さんが東宮護持僧という立場である以上当然のことかもしれないけど、師輔の一周忌も横川で行ったりしているので、師輔の路線を引き継いだだけでなく、安子自身も良源さんへ篤い信頼を寄せていたものと思われる。にほんブログ村
2015年04月12日

「近道」との分岐から少し歩くと、道の真ん中に石が並んでいた↓。 なんだろ、これ・・・敷石のつもりかな?でもこの上を歩かなきゃならないほど、回りは悪い道でもない。視線を上に転じると おお、切り通しだあ~!!この上に僧兵とか隠れてないだろうな 伏兵にびくびくしながら切り通しを抜けると、上下2段に分かれた道が出た↓。 う~~~っと・・・どちらもしっかりした道だけど、この辺で一旦下るハズなので下の道を選んで進む。道を下っていくと、前方に橋が見えた↓。 おしゃ、ビンゴただあの橋、白いんだけど・・・ ぎゃあ、やっぱり~!ここだけうっすら雪が残ってるう~!雪の量はたいしたことないけど、これ鉄板だしこーゆー吹きっさらしのところは凍りやすいからな・・・落ちても死ぬほどの高さじゃないけど、鉄板の上で足を滑らせて尾てい骨を痛めでもしたら歩けなくなる(←骨折経験アリ)。両側の手すりは低い位置にあるので、腰をかがめて手すりにつかまりながら慎重に橋を渡る。ほっと顔を上げると、周囲の木々にも少し雪が残っていた↓。 ここからは石垣の道。この先にあった木製の道標によると、ここから坂本へ通じる道はまんま「坂本の道」というらしい。 ここはもう延暦寺三塔十六谷のうちのひとつ、飯室谷(いむろだに)で横川の所属になる。西教寺からここまでの山道が、奈良坂。飯室谷へ入るとすぐこれがある↓。 「慈忍和尚廟」。3日目のもっとも大きなお目当てかつ最終目的地はもちろん横川だけど、その途中にある飯室谷でのお目当てのひとつがこれだった。慈忍和尚(じにんかしょう)はこれまでの記事のいくつかとも関連がある方です。まずひとつめは東塔北谷の総持坊。死後、三つ目一本足のユーレイとなって夜な夜な山中を徘徊し、怠け者のバカ者・・・いへ、若者をこらしめたという延暦寺七不思議のひとつとなった伝承をお持ちの方です。ふたつめは比叡山三大魔所。ここは天梯権現社に続く第2の魔所でもあります。もうひとつ、わたくしにとっては重要な思い入れのある方でもあります。ので、ここからしばし「叡山攻め(128)」に続く良源さんの歴バナに入ります。慈忍和尚は第19世天台座主となった方で、法名を尋禅(じんぜん)という。父は藤原師輔、母は醍醐天皇の皇女・雅子内親王。良源さんの歴バナ第一段は師輔の子が良源さんの弟子になったところで止めてますが、この弟子となった師輔の子こそ尋禅その人です。つまりは師輔と良源さんの愛の架け橋みたいな・・・前に使った師輔の系図の中にも名を載せてます。 良源さんはその遺言の中で尋禅のことを、彼の住坊であった「妙香坊」とか「禅師君」(ぜんじのきみ)と呼んでおられる。禅師の君なんていかにも貴種にふさわしい呼び名なので、わたくしも良源さんにならって「禅師の君」と呼んでおります。 禅師の君は師輔の10男。師輔が先々のことを考えて子を良源さんの下に送り出す頃には9男まではすでに官途に就いていたので、尋禅が出家することになったと思われる。天徳2年(958)8月、禅師の君が叡山で受戒。禅師の君が入山した正確な時期はわかっていないようだけど、入ってすぐさま受戒という訳でもないでしょうから、前年の天徳元年(957)か天徳2年の初め頃には叡山入りしていただろう。天徳元年時点の禅師の君の実年齢は14歳。『小右記』から法興院摂政家の子弟たちのアラクレ伝説を紹介した記事では奴らは17歳とか18歳ですでに高位に就いていたようなので、通常であれば禅師の君も政界デビューのお年頃。ギリギリの年齢で白羽の矢が立ったと見れなくもないけど、天暦8年(954)に横川入りした翌年、師輔は良源さんへ横川隠棲の話を持ちかけているので、その頃から禅師の君を叡山へ送る心づもりもあったのかもしれない。出家した禅師の君は良源さんの住坊・定心坊へ入り、良源さんの弟子となって僧侶生活をスタートさせた。その2年後の天徳4年(960)、師輔が51歳で没する。師輔の父・忠平が亡くなった際、良源さんは途中で京を抜け出して初めて横川へ籠った。このお籠りの際には師輔の娘・安子の安産祈願も行っていたと思われるものの、一般的には忠平の冥福を祈るため、とされる(「叡山攻め(125)」参照)。ところが、師輔の死にあたっては同じようなことをした記録がないらしい。これについて『人物叢書 良源』(平林盛得/吉川弘文館)では、 【これは、かつての良源が藤原氏と強固な師檀関係を持たず、また叡山山上に確固たる 布教の足場を持たない、きわめて不安定な立場にあったことに起因する。どうしても 良源は忠平との関係を、忠平の遺族たちに強烈に印象づける必要があったのである。 それに反して師輔没後のいま、確固たる拠点を横川にもち、尋禅を紐帯として師輔の 一族と強固に結び付いているのである。ここでは三百日の大護摩のような荒行を試みる 必要はなく、静かに師輔の冥福を一族と共に祈ればよいのであろう。】とする。なるほど、忠平の死から師輔の死までの11年の間にこれだけ良源さんは自分の足場を固めていったってことね。でも大々的な何かをしたことがわかっていなくても、ただ記録が残っていないだけかもしれないし、のちに自ら記した遺言には自分より師輔のための回向を先にしてくれとある。師輔の死から約4ヶ月後には内裏が全焼、またこの頃は日照りが続き疫病も流行っており、しかも翌天徳5年(961)は辛酉の年にあたっていたため、革命を恐れた朝廷は天徳を応和(おうわ)に改元した。世情が不安定であれば、当然仏教界へのお仕事依頼も増える。して、勅命により叡山でも西塔の大日院で五壇法の祈祷が行われることとなり、このうち「大威徳法」を良源さんが仰せつかった。勅による修法なので中心は天台座主であり、その他の壇も天台の高僧ばかり。叡山あげての大祈祷会にはじめて選ばれた良源さんは、おもに師輔一族だけを相手にしていたこれまでから叡山の公式な高僧としてステップアップを図るチャンスを得たともいえるのに、なぜか辞退をしている。信仰の対象としての「元三大師」ではなく、実在の人物としての良源さんの経歴を知る人の多くは、彼に対し「打算的」という評価をすると思う。谷崎潤一郎ほどボロクソに書かなかったとしても、打算的と思わない人の方が少ないんじゃないだろうか。現に、良源さん大好きのわたくしでさえ打算的という評価を否定はしない。実際の良源さんの経歴を書くことで良源さんを嫌いになる人が増えるんじゃないかと内心ビクついております(笑)。ただ、自分の栄達だけを考えてすべてを計算づくめの打算だけで行動する人だったら五壇法拝命のチャンスは逃さないんじゃないかとも思う。良源さんが辞退した理由はわからない。もう一人辞退した僧がいるんだけど、この方はかなりの高齢だったようだから体調不良などが原因だったのかもしれない。出家して横川隠棲の意思を持っていた師輔のために、すでに横川で準備は進められていた。資材を調達している途中で当の師輔は死んでしまったが、娘の中宮安子がその意思を引き継いで援助し、真言堂を完成させた。良源さんが五壇法を辞退した1ヶ月半後、その横川真言堂で安子の命により師輔の一周忌の法要が行われた。これは真言堂ではなく楞厳院(りょうごんいん)で行われたとの記録もあるものの、いずれにせよ師輔一族による追悼の法会が横川で行われたことに違いはない。平林盛得氏は、五壇法を辞退したのは病か突発的な事故のためと考えるのが常識だとしながらも、 【しかし、真言堂の完成や追善法会の準備の直前に大日院の修法が当っていることは、 全く良源の意識の中で無縁とはいえないであろう。(中略)横川発展の大恩人の 追善を祈って、一年間公式行事を自らの意思で絶ったか、あるいは師輔追善行事の 準備で、他の行事どころではなかったか、いずれにしても師輔追善とのかかわりに おいて大日院の法会を辞退したと考えたいのである。少なくとも良源の行動は目先の 利を追うのではなく、長期の見通しと判断力に支えられたものなのである。】 (『人物叢書 良源』より)とする。うがった見方をすれば、これすらも師輔一族をつなぎ留めるパフォーマンスだと取れなくもない。でもそれだったら、ここから20年以上も経って「死」を意識して書いた遺言にまで師輔を登場させることはなかろ?だからわたくしも、ここは平林氏と同じく師輔の死にからむ辞退だったと考えたい。にほんブログ村
2015年04月11日

西教寺でのお目当てはあとひとつ。これも探し回って、一番奥の高いところにあるのを見つけました↓。 【前田利家の六女(豊臣秀吉の養女) 前田菊子の墓 前田菊姫は豊臣政権下の五大老の一人で加賀百万石の藩主前田利家の六女。名をきく (菊)と称した。 菊姫は天正6年(1578)に利家(39歳)の時、側室との間に生れた。幼時から 豊臣秀吉の養女となり、のち大津在信の金物問屋西川孫右衛門重兄のもとで養育されて いた。しかし7歳のときこの世を去り西教寺に埋葬された。法名は「金渓空玉童女」。 小さな五輪塔であるが明治17年(1884)金沢前田家によって墓碑が建てられた。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)これは事前の調べで知ったんだか、現地の配置図で見つけて前田の娘なら寄ろうと思ったのかはもう覚えてませんが、幼くして亡くなったのでぶっちゃけ特段の思い入れがあった訳でもありません。(ごめんね菊ちゃん)しかし、五輪塔って・・・つまりワシが撮ったこの写真は、墓碑だったのか現地でロクに解説を読まないからこーゆーことになります。まあ、当時は五輪塔のこともよくわかってなかったかもしれないな。さて、さかのぼりの記事が少々長引きましたが、西教寺はここまでで、これよりホントの再開になります。西教寺の門前からしばし車道に沿って北へ進み登山口へ向かう。途中には高々と うむ、念仏を重視した真盛さんは恵心僧都源信にも影響を受けてるハズだからな。叡山でももちろん遠忌のイベントは用意されてるけど、東塔にあった看板による叡山側のスケジュールは「一千年遠忌」として平成28年6月9日に東塔の大講堂で常行三昧が行われ、翌6月10日に横川で二十五三昧式が行われるとある。途中の道沿いには石塔群があって、いかにも古い町らしい↓。 付近には「中部北陸自然歩道」を示す標識も立っている↓。 叡山東塔にあった看板によると、中部北陸自然歩道とは 【この歩道は、群馬・新潟・富山・石川・福井・長野・岐阜及び滋賀の8県に またがる延長4029kmの歩道です。滋賀県のコースは県土の1/6を占める 琵琶湖とその周辺の美しい自然や歴史・文化財を結ぶ道です。】だそうな。へ~、群馬まで行っちゃうのか。関東人のわたくしには自然歩道といえば東海自然歩道がおなじみですが、あれは登山をやってた頃に見た記憶の中では結構山の中とか山麓とかのホントの自然歩道っぽい道が多いように思ったけど、東塔の看板の地図を見るとこの付近の道は舗装路が多いように見受けられる。西教寺から北へ向かう道は、すぐ先で北西へと大きく向きを変え、叡山へ向かって歩くような感じになる。前夜に降った雪は叡山に薄化粧を施していた↓。 厚化粧でなくてよかった・・・あのくらいなら、登山道に影響はないだろう。もちろん、ある程度の雪にも対応できる装備はしてきてるし。カメラを右に振ると 遠くに琵琶湖が見える。城攻めでもなんでも、山歩きをする場合には8時にはスタートしたいんだけど疲れも溜まり始めてたし、この頃には9時を回っていた。普段から人気のないところばかり歩いていて、しかも今回は少なからず山歩きが含まれているので、同僚からはよくよく気を付けるようにと何度も言われたし、少し前までペアを組んでいたもと上司からは旅のおともにと携帯しやすいオサレなゴディバのチョコの餞別までもらっていた。あ~、今頃みんな仕事を始めてるだろうな・・・報告がてら雪化粧の写真を同僚へメールで送ったら、雪景色に驚きつつも気をつけるようにと念を押された。ここから住宅地を抜けてぐるっと大きく回り込み、上の写真の左手に写ってる山の麓あたりにあると思われる登山口を目指す。 比叡山東麓の坂本から横川へ向かうにはいくつかのルートがある。本坂を登った2日目、比叡山高校の先で林道が分岐してたけど、地形図を見ると比較的アップダウンも少なそうだし、横川へ向かうルートの中ではおそらくあれが一番歩きいいと思う。ただし2014年1月現在は通行止め。あと、日吉神社の裏手から山を登っていくコースもある。わたくしが今回歩こうと思っているのは奈良坂と呼ばれるルートだけど、登山で愛用している2万5千分の1地形図を見ると、メジャーなルートの他にも道が色々描き込まれている。わたくしが今いる場所の付近からも山へ入る道が数本あって、入り口を間違えると途中寄る予定の飯室谷(いむろだに)へ行かれなくなってしまうので、先人の訪問記の写真と見比べながら慎重に登山口を探す。道に沿って山麓を回りこんでいくと、こんな碑が出た↓。 「飯室谷 松禅院参道近道」?今回用意した地図は2種類あって、そのうち登山地図にある登山口は位置的にここのことを指していると思われる。確かにここを登っても飯室谷へは行かれそうだけど、地図のほかに頼りにしていたのは写真入りで比較的詳しいルートの説明がある先人の訪問記で、それによるとここから登るのではないらしい。ただ、先人による登山口の写真は持っているものの、そこは2万5千分の一地形図にもルートが描かれていない場所なので、この先にあるだろうということぐらいしかわかっていない。確かこれが近道の入口の写真で↓ 踏み跡らしきものも付いてるので、まあまあの道っぽいな。地図と見比べて考えたあげく、少し先へ歩いていっても入り口がわからないようであればここから登ろうと思ってまた歩き出す。と、すぐ先に登山口を示す碑が出た↓。 「飯室奈良坂 春日社ヨリ不動堂」おっしゃ、これだな春日社ってなんだ?でもこれに間違いないハズだ。けどこの入り口、木が茂ってて先が見通せないし見える限りはヤブに覆われていて、碑がなければとてもこの先に道があるとは思えない。さっきの近道の方が歩きやすそうだなでも仕方ないのでここから入ってみることにする。木の枝に積もった雪は日射しを受けてぽたぽたと溶けだして周辺のヤブも雪解けの露に濡れていたので、スパッツを装備してからヤブを乗り越えて山道へ入る。ヤブと木々を抜けたすぐ先には、意外にも歩きやすそうな道が広がっていた↓。 よかった、これなら大丈夫そうだな。途中には石段の名残のような道もある↓。 最初の方は結構シダが多かった↓。これは意外だったな。 あたりは静寂そのもの。まだこの辺はゆるやかな登りで、山歩きというよりは森の中を歩く感じだった。でも季節柄なのか木洩れ陽も射し込んで明るい。 登山口からゆっくり歩いて10分ほどすると、分岐が出た↓。 うん、たぶんこれがさっきの「近道」から入ってきた場合の道だろうな。同じところへ出る道だったのか。でも地形図を見ると近道からの道の方がショートカットする分傾斜はきつそうだし、なだらかな尾根筋を上がっていく「飯室奈良坂」が正規の参詣道だろうからな。そうなんです。登山をやったことのない方は登山口といえば立派なものを思い浮かべるかもしれませんが、登山道は登山道でも飯室奈良坂は古くからの参詣道。昔の人がこの道を通って飯室谷経由で良源さんの横川まで歩いていった、信仰の道でもあります。宗祖・最澄をもしのぐほどの人気と信仰を集めた元三大師へお参りするために庶民がえっちらおっちら歩いていった道を、わたくしも歩いてみたいと思って横川まで歩いて登ることにしたんです。ま、ご存じの通りわたくしも良源さん大好き人間ですので、立場はこの道を歩いていった昔の人とおんなじ。登山でありながら、参詣です。この道の果てには、良源さんが待っている・・・それだけを思いながら、疲労と寝不足で重い体を一歩一歩運んでいく。良源さんの時代からここまで約1000年の間に、どれだけの人がわたくしと同じようにちまちまこの道を歩いていったことでしょう。にほんブログ村
2015年04月10日

明智一族の墓の左には墓地が広がる。西教寺の主要なお目当ては移築門と明智一族の墓だったけど、墓マイラーであるわたくしは他の墓もお目当てにしていた。ここには戦国関係の方の墓も色々あってね。墓の配置図は墓地の入口に書いてあったけど、ちょっと現地ではよくわからなくて、まず建物を見に行ったらしい(←覚えてない)。デカい本堂は前回書いたような事情でまともな写真がありませんが、解説板の写真だけはしっかりあるので(笑)、ご紹介します。 【重要文化財 建造物 西教寺本堂一棟 大津市坂本5丁目 本堂は桁行七間、梁間六間、一重、入母屋造、本瓦葺の建物で、正面には三間の 向拝を付けています。棟札によると、元亀2年(1571)の織田信長の比叡山 焼打ちによる本堂焼失後、天正2年(1574)に本堂の再興棟上が行われたことが わかります。その後享保3年(1717)に第20世の真際(しんさい)上人が 再建に乗りだし、門末檀徒から浄財を集め。元文4年(1739)に落成したのが、 現在の本堂です。 正面の欄間や須弥壇は、すべて欅(けやき)の素木造りで豪華な彫刻を施し、それぞれ 江戸時代の特色をよく表しています。昭和61年5月24日に国の指定文化財と なりました。】いやん、ゴーカな彫刻だって。団体様のイベントが終わった後も撤収作業やらで本堂付近はわさわさしていたので、結局本堂には近寄ってないんだよな。でもたぶん、これは本堂の屋根だと思う↓。 すごい派手~(笑)。今のわたくしが西教寺に行ったらここだけで相当な枚数の写真を撮るだろうな。こちらが本堂の隣にある鐘楼↓。 袴腰がまぶしいぐらい白い。あまりに白いので写真を見て龍宮造かと思った。 【大津市指定文化財 建造物 西教寺鐘楼 一棟 この鐘楼は、重要文化財の本堂の東側に、棟を南北に向けて建てられています。構造は、 桁行三間、梁間二間、袴腰付、入母屋造、本瓦葺です。総檜造で、上層は軒の出が深く 重量感があり、それに呼応して下層の袴腰は裾が広く安定感があります。蟇股に配された 猿の彫刻や籠彫(かごぼり)の木鼻など、細部にわたって精巧な意匠が施されています。 内部に残された棟札や高欄の擬宝珠の刻銘から、本堂と同系の中島治良左衛門春道を 棟梁として、天保2(1831)年に建てられたことが知られます。】え~、意匠?現地ではたぶん気づいてないから撮ってないんだろうけど、写真を拡大して見ると確かに下層の組物の間の蟇股にサルっぽい彫刻がある。もしかして、鐘楼の蟇股は全部サルなのかな。で、鐘楼とは反対側の本堂の隣にあるのがこちら↓。 【重要文化財 建造物 西教寺客殿 一棟 この客殿は、桁行一二間、梁間八間、こけら葺の建築で、慶長3(1598)年、 伏見城の旧殿を大谷刑部少輔吉隆公管堂および山中山城守令室が檀越となり移した ものともいわれていますが、いずれにしても桃山様式をよく現わしています。 客殿は南北に長く、東面と南面には広縁及び落縁があります。東面は、狩野派によって 描かれた襖絵の絵柄によって、北から控の間、鶴の間、猿猴(えんこう)の間、 賢人の間及び花鳥の間に分かれており、西面はもっとも南に最上の室の上座の間が あって、北へ内仏、書庫、茶室、八畳の間と多くの室があります。特に上座の間の 床・棚は古式を遺して障壁画も完備した優秀な建築で、通称桃山御殿と呼ばれています。 明治35(1902)年7月に国の重要文化財に指定されました。】まあ、中には入れませんのでね~。ここからだと大きな破風ぐらいしか見えないけど、それでも相当風格のある建物だってことはわかる。「大谷吉隆」は「大谷吉継」の方が通りがいいけど、関ヶ原なんかでは「吉隆」の名で石碑などがあった。「管堂」って何だ?本堂の裏手にあるのが大本坊↓。 建築を見たい人間にとってははっきり言って幕はジャマですが、仕方ありませぬ。 【大本坊(昭和33年) 元亀2年(1571)織田信長の比叡山焼き討ちによって西教寺が全焼、本堂・丈室・ 鐘楼・僧厨などが焼失した。坂本城主となった明智光秀公が、西教寺を菩提寺にしようと して、復興には特に心を用い大壇越となって、坂本城の陣屋を寄進して大本坊を再建した。 昭和33年に大本坊を改築の際、「天正年中明智公所造之古木」と彫った古材が屋根裏から 出てきた。明智光秀公と妻煕子夫人の御木像が安置されている現大本坊は、昭和33年に 完成されたものである。 昭和の木造建築物では、滋賀県内最大の建造物と言われている。東西33.42米、 南北25.42米、面積257.5坪からなっている。 大本坊とは庫裏のことを言う。この建物の中には、宗政を司る天台真盛宗宗務所・寺務所が あり、全国門末寺院を統括している。また本坊庭園は、江戸時代の作庭で三尊石組の枯山水 の石庭である。】 (ここまですべて【】内は現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換。 「煕子」はさんずいが付くのが正当な字。)ほお、光秀はいいとして、煕子の木像まであるとはね。元亀の「叡山攻め」の際には、織田家家臣たちは反対したというのが一般的な説で光秀もその一人だけど、ウィキペディアには 【叡山焼き打ち10日前の9月2日付けの雄琴の土豪の『和田秀純あて光秀書状』で、叡山に 一番近い宇佐山城への入城を命じ「仰木の事は、是非ともなでぎりに仕るべく候」と 非協力な仰木(現大津市仰木町)の皆殺しを命じており、叡山焼き打ちの忠実な中心的な 実行者だと判明した。】とある。ここまでの記事で、元亀の「叡山攻め」で僧・民間人もろとも凄惨な大虐殺が行われたという説についてはわたくしは懐疑的だと何度か書いてますが、攻撃の範囲と程度が問題なのであって、山上・山麓ともにそれなりの攻撃があったことを否定している訳ではありません。そういう経緯を持つ坂本に要となる城を築いて治めることになった光秀の苦労はかなりのものがあっただろうとも思うし、戦国期に入って民衆の信仰を集めてきた西教寺を丁重に扱ったというのは当然の政治的配慮とも思えるのですが、「叡山攻め」ののちに大壇越となった光秀を顕彰する向きの解説はあっても、そもそも復興しなければならなくなった元凶のうちの一人が光秀であることには触れられていないんだな・・・まあ、正式な国交を結んで何十年も経つのにいまだに先の大戦の謝罪と反省をしつこく要求し、人んちの教科書にまで口を出すどこかの国なんかよりはよっぽどプラス思考でいいと思うものの、「お寺に寄付をすればこれだけいいことがあるよ」とした井沢元彦氏の言葉もちょっと頭をよぎる。まあま、それはともかく、大本坊と本堂は渡り廊下でつながれており↓ どっしりと風格のある実に立派な建物でした。して、墓場の方へ戻る。境内図を見ると客殿からさらに奥へと行ったところには真盛さんの廟があるらしいんだけど、当時は真盛さんについて特段の興味があった訳でもなく、そこまで行っておりませぬ。で、わかりにくい墓地の配置図を参考にしながら墓場をうろつく。愛用の頼政の数珠をぶら下げながら歩くことしばし。看板があったのでようやくお目当てを見つけることができた。 【豊臣秀吉の家臣 山中山城守 橘長後の墓 山中山城守は、敦賀城主大谷吉隆(刑部)と大壇越となって慶長3年(1598)に 京都の伏見城にあった秀吉の御殿の一部を西教寺に移築寄進された。現在「桃山御殿」 西教寺客殿と呼ばれている。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)え~・・・西教寺のこの墓へ来た方の多くが書いていることですが、この新しく綺麗な解説板は大変な間違いを犯してます。わたくしも、現地で「橘長後?誰じゃい、それ!?でも山城守だし、これでいいハズだよな・・・」と困惑しましたから。戦国のラストを飾る天正年間頃の華やかな時期に活躍をした武将の多くは色々と主君を替えた経歴をお持ちですが、この方も数回とらば~ゆしてます。わたくしがこの方のことを知ったのは、「真田太平記」だっけか。全巻オトナ買いしたにも関わらず、池波正太郎のクセのある文体が鼻について中身うんぬんより文章がキライで関ヶ原前夜で読むのをギブアップして、早々に売っぱらってしまったのでもう確認はできませんが、秀吉の祐筆でありながら甲賀の忍びの頭領というような設定で陰で色々暗躍した流れだった気がする。あと、小田原攻めの際には忍(おし)城主の成田氏長の豊臣方への内通にも暗躍したとされる方ですが、長後じゃなく長俊ね間違いは名前だけじゃない。境内にある他の看板との矛盾もあるのだ。墓地入口にあった配置図の長俊の説明には【伏見城の旧殿を西教寺へ移築した大壇越豊臣秀吉の家臣】とあり、大津市教育委員会設置の客殿の解説には【伏見城の旧殿を大谷刑部少輔吉隆公管堂および山中山城守令室が檀越となり移したものともいわれています】とある。墓碑は現地ではほとんど読めなかったけど、よそ様の訪問記によると「慈芳院殿華屋盛林大姉」とあり、これは山中長俊の奥様の戒名らしい。しかも、「慈芳院」は長俊が夫人のために建てたとも言われている寺で、そこに長俊の墓とされるものもあるらしい・・・「大姉」なら確実に女性の墓なワケで、これを目当てのひとつとして来たのに残念なことではありますが、これはたぶん長俊の奥様の墓なのでしょう。なんでこんなことになっているのかはわからないけど、ウィキペディアにも長俊の【墓は西教寺】とばっちり書いてあるし、これをお目当てに来る戦国ファンも多いハズ。でもこのままじゃお墓の主にもあまりにも失礼だから、大切な大壇越に礼を欠かぬように西教寺様には正しい情報を記載して頂きたいものです。にほんブログ村
2015年04月09日

「個人的日暮らしの門」唐門をくぐると、宗祖大師殿の立派な建物がある↓。 ここでは御朱印を受け付けてるみたいです。わたくしは御朱印集めに興味はありませんので内部を拝観してから左にある門へ向かう↓。 が、確か門の手前にこの方がいらした↓。 【宝珠丸(宗祖真盛上人幼形象) 宗祖真盛上人は紀貫之の末裔で生誕は嘉吉3年(1443)正月28日、幼名は宝珠丸、 母が地蔵菩薩から宝珠を授かったと夢みて上人をみごもったので、かく名づけたと 伝えられている。7歳のとき伊勢の川口郷の光明寺の盛源律師の弟子となってその寺に 移り、14歳で剃髪出家して名を真盛と改めた。この幼少の像は上人出家の時の幼形で、 晩年の真盛上人像から骨格を調査し京都教育大学山崎正義名誉教授が制作したもの。】 へえ、骨格からね・・・確かに、アゴのラインなんか真盛さんの絵姿に似てるな。お祖師の銅像はこれまでの旅でもいくつか見てきたけど、やはり若いほど清潔感があってよいですなあと、大師堂の近くだったと思うけど、こんな看板もあった。 【記念植樹 橘の木 (平成6年5月宗祖真盛上人500回忌大法会記念) 宗祖真盛上人の父は小泉左近尉藤能(ふじよし)と云い、小泉家は紀氏の末裔で 上人は紀貫之から数えて17世あるいは21世と言われている。その小泉家は 丸に橘の家紋であるところから橘の木が愛木とされている。今回真盛上人500遠忌 を記念して植樹された。】 大師堂エリアから出る門にも猿の親子がいた↓。 門を出て勅使門の脇にある石段を上がると西教寺の中心部。緑と石垣が美しい↓。 これを上がるとまず水屋↓。 ここには西教寺の「西」が載る↓。 水屋の奥に写ってるのが本堂なんだけど、全体を写した写真がない・・・本堂は普段誰でも参拝できるようではあるんだけど、この時は中で何かやっていて入らなかった。水屋の写真の左奥に小さくパイプ椅子が並べられてるのが写ってますが、この後本堂から大勢の人が出てきてパイプ椅子に座って本堂の前で記念撮影など始めたので、全景を撮れる雰囲気じゃなかったからな。 まあ、この時は別に参拝しに来た訳じゃなかったし。じゃ、何しに来たのかとゆーと、水屋の前を進んだ奥、本堂の前にはこれがあります↓。 【坂本城主明智日向守光秀とその一族の墓 織田信長が元亀2年(1571)9月、坂本、比叡山を中心に近江の国の寺院を始め 大半を焼き討ちした。西教寺も全山類焼の厄に遭った。すなわち元亀の平乱である。 その後、再興に尽力したのは信長の将、明智光秀で、浜坂本に坂本城を築城、坂本城主 として坂本一帯の復興に当たり、西教寺の大本坊(庫裡)を造築、刻名入りの棟木も 現存している。また天正2年(1574)仮本堂を完成し、現在の本尊(重文丈六の 阿弥陀如来)を迎えている。 それ以来、光秀の由縁はふかく、元亀4年(1573)2月、光秀が堅田城に拠った 本願寺光佐を討った時、戦死者18名の菩提のため、武者、中間のへだてなく供養米を 寄進したと言われている。また早逝した内室(煕子:ひろこ)の供養もされ、墓が 安置されている。 天正10年(1582)本能寺の変のあと、山崎の合戦に破れて非業の最後をとげた時、 光秀一族とともに当寺に葬られたと言われている。のちに坂本城の城門の一つも当寺に 移されたと伝えられている。爾来、当寺としては光秀の菩提為毎年6月14日に光秀忌を 営んでいる、この供養塔は左のように記されている。 秀岳宗光大禅定門 南無阿弥陀佛 天正十壬午年六月十三日】 (「煕子」の漢字以外は原文のまま)うん、移築門のことも書いてあるな。そうでしょうよ、山崎の合戦の後の移築って方が自然でしょうよ。さらにこれ↓。 【坂本城主・明智光秀の妻 煕子の墓(光秀の子女、玉子嬢、細川ガラシャの母) 天正4年(1567)11月7日寂 戒名 福月真祐大姉 作家の中島道子氏の「明智光秀の妻・煕子」という小説序文に次のように煕子夫人の ことが書かれている。 人生を旅と心得、旅を求めてやまなかった芭蕉は軍旅に敗死した武将への限りない哀惜を 詠んでいる。その中で唯一女性に対する句が異彩を放っている。明智光秀の妻である。 比較的近年まで光秀は逆臣、叛将とのみ言われてきたにもかかわらず封建体制下の江戸時代 にあって、光秀の妻を顕彰したのはまさに自由人芭蕉その人であった。明智が妻の句は 「奥の細道」の旅の途次、越前(福井県)は丸岡に足を止めた折耳にしたことを後、伊勢の 門弟山田又玄(ゆうげん)の妻に贈ったものである。 月さびよ 明智が妻の 咄せむ 芭蕉 まさにこの一句に人生感があらわれていると云えよう。】 (「煕子」は「煕」にさんずいが正しい字だけど楽天ブログでは使えず) そしてこれ↓。 供養碑には 濃州妻木十二代城主 妻木藤右衛門廣忠(明智光秀公妻 煕子の父) 濃州妻木(明智)一族供養塔と刻まれており、近くにある解説版には 【濃州妻木(明智)一族と西教寺 本能寺の変・山崎の合戦、坂本城の攻防等続く戦乱の中で、妻木城12代城主 妻木藤右衞門廣忠の兄弟3人が討死した。また、一族郎党も多数討死していると 言われている。 廣忠は天正10年(1582)6月14日坂本城落城後明智一族に殉死した人々を 西教寺に埋葬し供養した後、天正10年6月18日に煕子(廣忠の娘)墓前で自刃した と伝えられている。(寛政重修諾家譜巻第三百一) 當山、塔頭實成坊(じつじょうぼう)の過去帳によると、 天正2年5月15日 梅岩廣秀禅定門(濃州明智三郎四郎) 天正3年6月18日 圓光宗梅禅定門(明智殿幕下) 天正7年2月10日 宗普法師 天正7年11月12日 盛賢禅定門(濃州妻木) 天正7年11月12日 盛厳禅定門 天正10年6月14日 秀岳宗光大禅定門(明智十兵衛尉日向守光秀) 天正10年6月18日 一友宗心居士(濃州明智藤右衛門) 以上の方々が過去帳に記載されている。 山崎合戦後、明智(妻木)一族が坂本城を守る為に多数の兵士を引き連れ、琵琶湖畔 坂本城を守り続けたが、秀吉の軍勢と戦い、ついに坂本城炎上と共に一門は自害したと 言われている。 ここに妻木一族供養の為に岐阜県土岐市小島一晃氏が供養塔を寄進された。】 ということで明智一族の墓がここにあったから来た訳なんですが、逃げる光秀が殺された、あるいは自刃した場所も諸説あり、一般的には小栗栖(おぐるす)がメジャーだよな。で、首実検の後で首と胴をつないで粟田口にさらされたというけど、暑い時期のことでもあり顔の判別が難しかったなどという話もあり、だからこそ実は生き延びて「天海」となったなんて伝承もあるワケで、さらされた首は本人のものだったとしても、遺骸を引き取ることができたのだろうかという気もする。まあ、敗者の遺骸を引き取って丁重に寺で供養しているという例は他にもあるから、絶対ないだろ~!とまでは言えませんが、光秀の決断は世の中を一変させたからな。史跡めぐりを始めた最初の頃に光秀の死にからむスポットへも行ってまして、「叡山攻め」の旅でもそこの近くを通ったので、のちほどその写真を掲載します。ともあれ、明智一族および本能寺の変から山崎の戦いまでに亡くなった多くの人に合掌。清水宗治は別に死ななくてもよかったんじゃないかという思いもよぎるけど、ともかく合掌。最後に光秀の辞世の句でお別れです。 【明智光秀公辞世句 順逆無二門 大道徹心源 五十五年夢 覚来帰一元 これは江戸時代の元禄6年(1693)に書かれた「明智軍記」に因るもので、 山崎の合戦で敗れた光秀公が、この偈を従士の溝尾庄兵衛に托して自刃したと 伝えられている。歴史上の論議はありましょうが、公の「顕彰会」20周年を 卜(ぼく)して、菩提寺である当山の墓所に碑を建立するものであります。 大意は、修行の道には順縁と逆縁の二つがある。しかしこれは二つに非ず、 実は一つの門である。即ち、順境も逆境も実は一つで、窮極のところ、人間の 心の源に達する大道である。而してわが五十五年の人生の夢も醒めてみれば、 全て一元に帰するものだ。という意に解せられ、光秀公の深い教養と人生哲学を 表しています。】 (ここまで【】内はすべて現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)にほんブログ村
2015年04月08日

黒谷へ移ってからの真盛さんは、積極的に布教を始める。なんでも、どんな身分のある相手にも臆せずズバズバ物を言ったそうで、幅広い身分の人が真盛さんの教えに従い、時の8代将軍・足利義政やその妻の日野富子からも帰依を受けたという。室町時代といえば禅・禅・ゼ~ン!!ってイメージですが、『京都発見9』によると 【義政の臨終の席に数人の禅僧とともに、ただ一人、真盛が浄土念仏の僧として 侍っていた。】だそうな。そして文明18年(1486)に西教寺に入る。前回の寺伝では聖徳太子の開創ということになっていたけど、これはさすがに伝承の域を出ないだろう。真盛さんの弟子が書いた『真盛上人往生伝記』ではまず良源さんがここに草庵を結び、良源さんの弟子で日本の浄土教に大きな影響を与えた恵心僧都源信がそれを道場にしたという流れになっている。良源さんの経歴の方では、ここに草庵を結んだという話は出てこないけどね。ともかく、ここで10年、真盛さんは修行と布教に努めた。お寺サイドの解説には出てこなかったけど、西教寺は正しくは「天台真盛宗総本山戒光山兼法勝西教寺」という。長すぎる寺名を分割すると、天台真盛宗・総本山・戒光山・兼法勝西教寺、となる。「戒光山」まではいいよね。 最後の「兼法勝西教寺」というのは、真盛さんの死後、9世の代になって法勝寺の戒脈を受け継いだことに由来する。『京都発見9』によると、法勝寺というのは白河天皇の御願による台密の大寺で、岡崎の地にあったという。西教寺は一時、この法勝寺の末寺になっていたそうなんだけど、たびたびの火災によって法勝寺は次第に衰退し、戦国期になってついに断絶した。その法勝寺の戒脈を唯一受け継いだのが西教寺なので、「兼法勝」となっているらしい。法勝寺から受け継いだ戒により、西教寺では最初に戒を受けてから12年以上後に再び戒を受けるという。同じ念仏宗でも真逆のコースをたどっていった宗派もあるけど、西教寺では戒も重視し、梅原猛氏の言によると 【ここでは盛んに『法華経』の読経も行われ、西教寺はまさに最澄のいう天台・密教・ 禅・戒のうちの禅の代わりに、浄土をおいた四宗兼学の道場であるといってよいで あろう。】 (『京都発見9』より)だそうな。さて、それでは久々に戦国モードに切り替えて西教寺境内の紹介に入ります。坂本城は織田軍による「叡山攻め」の後に築城された城で、西教寺からは東南に少し下った場所にある。現在の城址の写真は数枚戸津説法の記事で載せてます。山門はデカい高麗門・・・かな?スタイルに矛盾はないし、実に立派な門ですが、前回の解説だと明智光秀が移築したことになっている。坂本城を築城したのは光秀だし、移築門だというのはいいとして、光秀が移築したってところはちょっと引っかかる。光秀が坂本城主だったのはわずか10年ほど。修復の手が入っているとはいえ、形はそのままにしたと解説にあったから大体往時の姿をとどめてると見ていいんだろうけど、これだけの立派な門を城主在任中に光秀が移築する理由があるだろうか。光秀の死後の再建時か、もしくは廃城になった際の移築ってんならわかるんだけどね。門の丸瓦には、推古天皇の時代に賜わったという大窪山の山号がある↓。 現在の西教寺は「戒光山」。けど、ここには伝説の大窪山を使っている。改修前からこのスタイルだったのかな?山号を戒光山に改めたのがいつの時期かはわからないんだけど、確かに大窪山を名乗っていた時期もあったってことだろうか・・・さて、門前にはこの立派な碑もございます↓。 【沢庵禅師の碑 この碑は江戸時代の禅僧沢庵禅師(1573~1645)が慶長19年(1614) 5月頃に42歳の時、近江を巡歴し「石山行記」という紀行文に書かれている文で、 沢庵禅師は京都を出発し石山寺、三井寺を参詣、琵琶湖を船で坂本へ渡り西教寺を 訪れている一節である。 西教古寺者真盛上人度生之古道場也、二六時中不断称名声覚待慈尊暁至此 阿畴又不感激乎率賦一偈々 西方行者卜斯山 不断称名日夜閑 水鳥樹林皆念仏 見来安養在人間 沢庵叟 西方行者(真盛上人)がこの山に居住されてから称名念仏が日夜絶えることなく 静かに続けられている。周囲の樹林や小鳥も皆な念仏を唱えているようだ。 この山に来てこの世の安住の地(極楽浄土)があるようにという詩である。 静寂地であり不断念仏道場でもある西教寺からうけた心情をそのままうたいあげて いる偈といえる。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)では中へ入ります。 まだ紅葉には早い時期で、この時わたくしが境内で会った観光客は数組。西教寺は日吉大社から歩いて10分ほどで観光客が集う場所からは少し離れているので、桜や紅葉のシーズンでもなければ観光客は少し少なめなのかもしれない。人気のない緑の中を静寂に包まれて歩く参道は、人ゴミ嫌いなわたくしにとっては至福の時。この静けさも西教寺を気に入ったひとつの理由です。で、確か参道の途中には僧坊か何かの建物があり、中へは入れなかったけど門の屋根にはこんなものがいました↓。 向かい合う3羽のスズメは西教寺の寺紋。現在では叡山の南の宇佐山城址は行った方の訪問記によると猿のパラダイスになってるそうだし、この辺は昔から猿が多かったらしく、日吉神社では「神猿」(まさる)として神の使いという扱いになっている。ただ、西教寺の留蓋に猿がいるのは真盛さん在世中の伝説によるものかと思われる。すなわち、明応2年(1493)に坂本で土一揆が起こった際、一揆の首謀者が真盛さんだという誤解を山門から受け、山門の僧兵が西教寺へ攻め入ったところ、境内には誰も人はいなかったが本堂から鉦を叩く音が聞こえた。「そこかあ~!!」と僧兵が本堂に踏み込んだところ、鉦を叩いていたのは真盛さんではなく手白の猿だった。山王の使いである猿までもが真盛さんに帰依して念仏を唱えていることに感銘した山門の僧兵は、そのまま静かに西教寺を後にしたという・・・これが西教寺に伝わる「身代わりの手白猿」の伝説だそうな。西教寺に行った2011年は夏に三井寺・山口と続いて歴史ある建物を色々見て建築への興味が芽生えてきた頃だったので、サルだサルだ~と嬉々として写真を撮った覚えがあります。・・・まあ、その当時は留蓋のことは何も知りませんでしたが(笑)。で、これがスズメのアップ↓。 手が込んでるなあ。長い参道のどん詰まりにあるのがこの門↓。 勅使門なので、パンピーは通れません。ここで向きを左に90°変えてさらに奥へ↓。 進んでまずあるのがこれ↓。 屋根がすごい。こんな重い屋根をよく6本の柱だけで支えられるよな~。まだこの頃は今ほど写真を撮りまくるということはなかったですが、この先にある唐門は実に素晴らしくて、この門の写真だけはやたら撮りました。 いやもうこの門、ホントに素晴らしいです。建築に興味を持ち始めたといってもまだロクな勉強をしていなかった時なのに、もう心臓をわしづかみにされたような・・・この門ひとつだけでここに来る価値はあると思いますね、わたくしは。にほんブログ村
2015年04月07日

え~、地味な記事にもお付き合いいただいた皆様、ありがとうございました。ここから叡山編を再開します。何だかんだ言って、もう4月に入っちゃったよ。シリーズが終わる頃には確実に半袖の季節だなてか、このシリーズを書き始めたのが去年の7月8日だから、1年以内に終わるのか?って気もしてきた・・・<3日目>2014年1月27日(月) 晴れこの日から世間では平日・・・ふふふ、気分がいい。しかし、そういう気分の良さとは裏腹にわたくしの体は重かった。この日は宿替え。通常、わたくしは旅の途中で宿を替えることはせず、ひとつの所を拠点にしてそこからお目当てまで出勤する。が、今回は諸事情があって中日に宿を山科から東山へ移すことにしていた。そのことをすっかり忘れて前日は宿へ戻るのが遅くなったので、そこからご飯作って洗濯して荷物まとめて・・・とあれこれやっていて、必然的に寝るのが遅くなった。ただでさえ3日目ともなれば疲れは出てくるのに、今回は真冬の山歩きなども入っているので3日目の朝にはかなり疲労の色が濃かった。仕方ない、自分が悪いんだただ、救いは前日花摘堂であれだけ派手にすっ転んだのにほとんど後遺症がなかったこと。奇蹟だ・・・あの時わたくしは最澄たんのことしか頭になかったので広野様、ありがとうと最澄たんに感謝したもんだけど、後から考えればこの日は良源さんの本拠地へ行くのがメインだったので、良源さんのご加護だったのかもしれない。ともあれ、チェックアウトして荷物を預かってもらう。宿の近くの山科の大丸にはわたくしの好きな洋菓子店のマールブランシュが入ってたので、戻ってきて大丸で職場への土産を揃えてからここで発送してもらうつもりで、箱のこととか色々聞いておいた。して、すべての準備を整えてから電車に乗って叡山へ出勤。前日の夜は少し雪が降ったんだっけかな。でも朝にはすっかり晴れていた。時間と体力の節約のために、駅からタクシーに乗る。タクシーのおじちゃんは陽気な人で、話もはずんだ。冬の叡山は公共交通機関も限られるので、横川を見たらタクシーを呼ぼうと思っていた。そうおじちゃんに話すと、「え~、おじさん迎えに行ってあげるよ!」と軽快に言う。前日、日吉神社までタクシーで行った時、電話番号をもらっていたけどそれはおじちゃんとは別の会社だった。「あ~、○○なんてダメダメ!おじさんが行ってあげるよ。横川まで行けばいいのね?電話くれればすぐ行くからさ~。山歩きなんて大変だから、行きも飯室谷まで乗ってけばいいのに・・・」軽い冗談とはいえ、ライバル会社をダメと言ってしまうのはちょっと気に入らなかったけど、まあわたくしは別にどこの会社だっていいのだ。飯室谷(いむろだに)というのは今回のルートの途中にある叡山の谷のひとつで、そこまで車で行ってしまえば確かにラクには違いない。しかし、今回はぜひとも自分の足で横川まで歩いてみたかった。登山地図での歩行時間からすると、お昼すぎには横川を終えられると思っていたので大体の時間をおじちゃんに告げて、下ろしてもらったのは西教寺(場所はこちら)。ここから自分の足で横川まで歩く。西教寺(さいきょうじ)へは一度来ているし、今回は時間がないので寄らなかった。が、このお寺、初めて来た時に大変気に入ってオススメなので、2011年の旅から西教寺境内をご紹介します。2011年10月の旅は大津と京を歩いて、この旅の旅日記で応仁の乱のことを書くつもりでしたが、すでにまとめての報告は諦めております。過去の記事でも東南寺や両社神社など切り崩してさかのぼりの記事として部分的に紹介しておりまして、横川から下山したあともこの時の旅から坂本付近の寺などを紹介する予定でおります。これからご紹介する西教寺の写真はすべて2011年10月8日に撮影したものです。まずはこちらが山門↓。 門前にも色々ありますが、先に境内にあった看板から西教寺の歴史を紹介しましょう。 【西教寺は、聖徳太子が、仏法の師である慧慈・慧聰のために開創された寺で、推古天皇の 26年(618)に大窪山の号をたまわり、天智天皇の8年(669)に西教寺の号を 下賜されたと伝えられている。 寺記には天台座主慈恵大師良源大僧正・恵心僧都が念佛道場とした。その後、比叡山で 修行された真盛上人が文明18年(1486)入寺し、不断念佛の根本道場として、 西教寺を再興された。 明治11年(1878)明治政府によって別派独立が公許、「天台宗真盛派」の本山と なった。昭和16年(1941)に天台三派合同となったが、終戦とともに、昭和21年 (1946)に天台宗三派、延暦寺(山門)三井寺(寺門)西教寺(盛門)が分離、 天台宗真盛派を「天台真盛宗」と公称して独立、今日に至っている。(後略)】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)ということで、西塔の記事でも数回出てきた真盛(しんせい)さんのお寺でしかも良源さんとも関わりのあるお寺ですが、2011年当時は仏教に関心はなく、慈恵大師の存在は日光で知ってはいても良源さんのことなんて全く知らなかったし、仏教関係を目当てに西教寺へ来た訳ではありません。戦国モード全開だった当時のわたくしが西教寺へ来た理由は、 【西教寺の総門(坂本城遺構) 高サ 6.4メートル 幅 5.6メートル この総門は天正年間に坂本城主明智光秀が、坂本城門を移築したと伝えられている 城門で、昭和59年に老朽化が進み修理が加えられたが、形はそのまゝの姿で復元を したものである。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)であり、 であったからです。とはいえ、今は『叡山攻め』の連載中でもありますし、ここで真盛さんのことを書こうと思って西塔ではパスしたので、戦国モードに入る前に西教寺と真盛さんについて紹介しておきましょう。西塔入口付近にあった「真盛上人修学之地」碑の解説を要約して再掲すると、 1443年、伊勢大仰郷で誕生 7歳で川口光明寺盛源律師に師事 14歳で光明寺において剃髪出家得度、真盛と号す 16歳で尾張密蔵院に遊学 19歳で西塔南谷の南上坊慶秀和尚の室に入り20年間修学 25歳から10年間応仁文明の大乱が起こり、 41歳、社会浄化のために黒谷隠棲を決意という経歴であり、恵亮堂の前にある真盛さんの寿塔の解説では黒谷隠棲にあたって寿塔を建てたのは「決死の覚悟の表明」だったとあった。上の解説では黒谷隠棲は「社会浄化のため」とあるけど、『京都発見9 比叡山と本願寺』(梅原猛/新潮社)によると35歳で三部都法大阿闍梨法印大和尚位となり、40歳で権大僧都となるなど順調に出世を重ねていったらしい。ところが、40歳の時に母が亡くなり転機が訪れる。母の影響が大きい高僧というのは結構いるもんで、真盛さんもこれをきっかけに【自行を励まし、偏(ひとえ)に化他(けた)を先とす】(前掲書より)として自ら出世の道を外れ、黒谷へ隠棲したという。まあ、母の死だけではなく長く続いた応仁の乱の影響も確かにあったんでしょうけどね。手持ちの資料で真盛さんについてのものはロクにないので黒谷でどういう日々を過ごしたなどの詳しいことはわからないものの、この後の彼の活動から黒谷で過ごした期間が真盛さんに大きな影響を与えたであろうことは想像がつく。黒谷青龍寺は浄土宗を開いた法然(法然房源空)が修行した寺として有名で、法然が叡山で源光⇒皇円⇒叡空と師を替えたあたりは法然堂のところでも簡単に紹介してますが、その叡空さんがいたのが青龍寺で、叡空さんの師は融通念仏宗の開祖・良忍。法然はここで恵心僧都源信やその他中国における浄土教の先達たちの教えを心の糧としながら、その後の浄土宗を開く道を突っ走っていった。基本的に法然さんの教えは「ひたすら念仏を唱えよ」というものだったけど、決して戒をおろそかにしていた訳ではない。「叡山攻め(122)」に続く日本における戒の大きな流れについてはまた別のところで書く予定なのでここでは簡単にとどめますが、長い歴史の中で真摯に修行に励む僧の中には「戒」をどう取り扱い、どう消化するか色々と悩んだだろうという方達がいる。法然もおそらくその一人で、黒谷での師の叡空は恵心僧都源信の名著『往生要集』の講義に長け、また大乗戒と密教でも第一人者という高僧で、この方の下で戒を守る生活を送った。さらに大変な勉強家で優秀な僧であった法然さんは、『法然上人絵伝』によると華厳宗や三論宗などの奈良仏教界の高僧とも問答して相手が弟子の礼を取り、その相手から色々学んだとされ、その中の大和中川寺の実範(じっぱん)からは密教と四分律を受けたという。四分律ってアレですよ・・・鑑真さんが日本に持ち込んだ具足戒。念仏一本槍じゃなく、しっかりばっちり戒の基本も学んだ人だったんですね、法然さんは。もちろん、法然から真盛さんまでは時代の開きがあるので直接の影響とまでは言えなくても、そういう伝統が黒谷に息づいていた可能性はある。して、念仏と戒を両手に携えた真盛さんは黒谷から世に出ていく。にほんブログ村
2015年04月06日

あわしまさんの隣がこちら↓。 側面の銘は【明和四丁亥十月吉日】(1767年)。正面の真ん中には字のようなものがあるけど、最後の「神」しか読めない。肝心の正面はご覧の通りぽっかりと空いてるんだけど、下には 「ほぞ」を受ける「ほぞ穴」のようなものがある。ああ、たぶんここには石像が収まってたんだな。このほぞ穴に差し込んで像を立ててたんだろう。 なぜこんなことになってるのかは現地では考えもしなかったけど、あわしまさんのことを考えればここにもおそらく仏教系の神の像があって、それで撤去されたと考える方が自然な気がする。 屋根は結構しっかり造られている。大棟も付いてるし、破風の部分は模様のような感じに彫られてるぞ。小さいとはいえなかなか立派なもんだから、往時は村人の信仰を集めただろうに・・・いや、外枠が比較的綺麗に残ってるだけまだいいか。 その隣↓。 ここも床部分にほぞ穴のようなものがあり、ぽっかり空いた壁面には【神明宮】と薄く刻まれている。側面の銘は上の摂社と同じ【明和四丁亥十月吉日】で、こちらも明治維新をくぐりぬけている。 神明神社って伊勢神宮関係なんだってね。よそ様のサイトを見ると神明宮の神紋は三つ巴らしいから矛盾はないんだけど、初めから神明宮だったのなら中にあった「何か」を外すこともなかろうに・・・こちらの屋根も立派↓。 その隣↓。 これはかなりひどい。ここまでの石祠は向かって右側面に日付が彫られてたんだけど、ご覧の通り右が大きく欠損しているので完全にアウトです。左側面にはかろうじて【二捨】【世話人】【四郎】の文字が読めるぐらい。懸魚までちゃんと造られているのに↓、傷ましいことです。 その隣↓。 人形(ひとがた)のような跡が残っている・・・上部にはかすかに「菅」の字が見える。側面には【明治四十一年七月廿日】とあり、『柏市史』にはあわしまさんを合祀したのと同じ明治41年7月に菅原神社を合祀したとあるので、菅原道真公を祀る菅原神社だと思われる。でもこれね、たかだか100年ぐらいで自然に剥落するハズもなく、よしんば自然な劣化だったとしてもこんな風に人形の跡は残らないだろうと思うんだよね。これは無理な力が加わったからこういう風になってるんじゃないかって気がするよな。あわしまさんと違って、この祠の日付は『柏市史』の記述と一致してる。が、あわしまさんと同時に合祀したという点が気になる。明治以前に八坂神社内に菅原神社があったのなら、これは排斥の対象になってもおかしくない。石祠の日付は後付けのもので、あわしまさんと同じ運命をたどって明治41年に再び祀り直されたんじゃないかと個人的には思いますね。次がこれ↓。 向かって右の小さな碑は文字がほとんど読めず、最後に「神」とあるのだけ読める。文字が削られたのかまではわかりませんが、しっかり刻まれた文字がこんな風に摩耗するまでにはかなりの時間がかかるはず。大きな方の石祠には、【稲荷大明神】とある。これには壁面を削って新たに刻み直したなどの不自然な点は見受けられない。ただ、文字の彫りが浅いのがちょっと気になるけど。 お隣さんがもたれているので、向かって右側面の文字は読めない。が、この角度から見ると屋根と下の部分で色が違ってるな。状態も屋根と下とではだいぶ違うので、後から下を補ったのかもしれない。であれば、元からお稲荷様だったのかもアヤシイ。というのも、このお隣には お稲荷様があるんです。こちらが元々八坂神社にあったお稲荷様じゃないのかな。この大きく破損した稲荷碑の側面には【酒井根村 願主清左エ門】と奉納した村人の名が刻まれている。さらに奥↓。 【大杉大明神】とある。実際には「杉」の字は木へんに「久」の字だけど、楽天ブログでは使えず。「あんば様」か。向かって右側面の日付は【文化四年二月吉日】。1807年の建立にしては破損が著しい。江戸ではこの前年の享和3年(1803)に麻疹が流行ったらしい。それとの関連かはわからないけど、あんば様をわざわざお招きするだけの理由があったのだろう。ちなみにあんば様ってどんな神様?と大杉神社のホームページを見たところ、ぬわんと勝道さんが大和から日光へ向かう途中に江戸崎の地に寄って、疫病に悩まされていた民衆のためにデカい杉に祈ったところ、三輪の神様がやってきて病魔を追い払ったというじゃあ~りませんか~!江戸崎といえば~、蘆名義広とともに常陸に流れてきた天海が一時住んだというところ。その関係で、江戸期の大杉神社は輪王寺宮が兼帯していたという・・・ヨシ、今度ここ行こう そのお隣↓。 【山神宮】とある。「山神宮」で検索すると、Weblio辞書で「さんじんぐう」(山梨県)と「やまじんぐう」(島根県)がヒットした。距離から考えて、山梨の方だろうな。こちらの日付はあんば様と同じ【文化四年二月吉日】。正面から見ると状態はいいようだけど、側面から見ると 結構おいたわしいここも屋根と下で色が違うな。山神宮は修験とも関係がありそうだから、これは摂社じゃなかったかもしれない。講で建てた碑に壊された石祠の屋根をぽこんと載せただけのような気もする・・・というのもこのお隣は 台座に「講中」とあるから、講によって建てられた雷電神社の石祠のようです。雷電神社の総本宮は栃木らしいけど、わざわざ【雷電大神】の隣に【金村之冩】とあるから、ここのは栃木じゃなく茨城県つくば市の雷電神社の講だとわかる。雷電神社って知らなかったけど、ウィキペディアによると【「雷」の付く神社の鎮座地は、いずれも落雷多発地域】だそうで、栃木は山が多いから総本宮が栃木にあるのはしごく納得がいく。けど、柏はだだっ広い関東平野のど真ん中で、フツーに雷もあるけど特に多いというほどではない(と思う)。たまたま雷で付近に大きく罹災した場所でもあったかな、とも思ったけど、ウィキの金村別雷神社のページには 【荒魂としては、雷の威力によって降水をもたらすと同時に病害虫を駆除する農業神として 崇められた。和魂としては恵みの雨をもたらし、万物に生気を与える神である。 特に関東では雨乞いの神として崇敬者を集め、家内安全・無病息災が祈願された。 雷除けや疱瘡(ほうそう、天然痘のこと)治癒の神としても信仰されている。】という様々な霊験をお持ちの神様のようです。こちらの日付は【明治廿七甲午年七月四日】とある。 石祠は以上。今回参考にした『柏市史』は近代以降の分は借りてこなかったので柏でどういう廃仏毀釈の動きがあったのかはわかりませんが、千葉県全体ではそうひどい運動はなかったともいう。ネットで検索したところ、芝浦工大柏高校の先生が「首なし地蔵」についての考察をしておられる論文を見つけた。内容は首のない、あるいは首を修復された五百羅漢についての考察が多く、歴史ファンのブログなどでは首に損傷のある羅漢像は廃仏毀釈の影響としているものが多いらしく、本当にそうなのかという考察をしておられる。で、廃仏毀釈よりは関東大震災で倒れて首がもげたのもあるだろうということだった。なるほど、地震の影響ね。関東大震災だけじゃなく、東日本大震災もあったしな。先の震災では公式発表による柏の震度は5弱。5弱でも、先の震災では近所でブロック塀が崩れた家なんかもあった。関東大震災でも恐らく同じくらいの揺れがあったものと思われる。・・・中には地震で倒れて運悪く破損した石祠もあったかもしれないけどね。でも土の上に倒れたぐらいでそうそう割れるもんでもないと思うんだよね。それよりは、八坂神社にある石祠の多くは人為的なもののような気がした。そうでなければいいと願いながらも、疑いは残る。まあ、何であれこんな身近に江戸期の遺物があるのを知ったのは収穫でした。<撮影日:2013年11月3日>にほんブログ村
2015年04月05日

では社殿の方に移ります。こちらが社殿の前にある灯篭↓。 銘は【天保七丙申年六月吉日】とある。氏神様といえど、知識も関心もなかった頃のわたくしにとってはここは「ただの小さな神社」で、はっきり江戸期のものとわかる遺物がここにあったなんて知る由もなく、自然と史跡めぐりモードに入っていく。火袋の部分にこーゆーボタンホールみたいな意匠があしらわれてるのは、江戸の寺でもいくつか見たよな。(「プチ日暮里編(12)」など)社殿の向って右側には現代風な建物がある。前回紹介した社殿再建の記念碑の最後には宮司さんの名前もあったものの、実際には宮司さんが常駐している訳でもないので、これを社務所と呼ぶのかは疑問だけど、その前にも灯篭がある↓。 こちらも銘は社殿前の灯篭と同じ。この2つはよく似てるから、セットで奉納されたものかな。こちらが社殿↓。 一見味気ない現代風の建物だけど、「こんにちわ~」の御挨拶をしてから社殿の観察に入ると、 あれま、意外に立派でねえの~! 脇へ回って奥にある本殿を見に行く↓。 小早川紋がいっぱいで実に嬉しい限り・・・(※左三つ巴は八坂神社の紋です)社殿の向かって右側面はこうなっていた↓。 ただ朽ちていくのを待っているような、ほとんど忘れられたような石塔たち・・・以前のわたくしならこれに近寄ろうとは確実に思わなかったでしょうが、もちろんこの時は興味津々でひとつひとつ見ていきました。 【日枝●●】「日枝大神」とでもあったのかな。 本社はもちろん『叡山攻め』でも少し出てくる比叡山麓の日吉神社で、全国的にどの程度の分布があるのかは知らないけど、結構関東には日枝神社は多い。歴史的な観点からいえばおそらく天台宗寺院の発展とともに日吉山王信仰も広がっていったんだと思うけど、これの銘には【明治四十一年十月廿日】とあるから、近代に入ってからの勧請らしい。この場合は摂社といっていいんだよな。 【粟嶋大●●】「粟嶋大明神」てところかな。「あわしまさん」をわたくしが初めて知ったのはミワラの寺社めぐりの成就寺で、耳慣れない神様だったので西の方で強い神様なのかと思った。けど、関東でもそれなりにあるみたいね。これも摂社だろうけど、一度ぽっきり折れたものを修復してるな。『柏市史』によると、明治41年7月に【少名彦命を祀る淡嶋大神を合祀した】とある。が、側面の銘は【文化三年正月吉日】。文化3年は1806年。それほど古いものでもないのに、全体的に破損が著しい。この写真を撮ったのは一昨年のことで、その時は「まあ古いものだから」ぐらいにしか思わなかった。が、先日の諏訪神社の記事で庚申塔の写真を紹介した際、「にほんブログ村」の同じサブカテのメンバー様で「地誌のはざまに」という高度な歴史ブログを展開なさっているkanageohis1964様からコメントをいただきまして、神奈川あたりでは廃仏毀釈で破壊された痕跡のある庚申塔が多いんだそうな。身近な場所での廃仏毀釈のことなんて考えたこともなかったので、そのご教示によってひとつ新たな観点が増えた訳だけど、実は諏訪神社の社殿の裏手の石塔群の中にはぽっきり折れてるものもありましてね↓ これも廃仏毀釈の影響なのかはわかりませんが、八坂神社内のあわしまさんは上の写真の庚申塔よりももっと厚みがある。瓦1枚を割るのだって空手家が「はあああ~」と気合を込めるぐらいなのに、横綱が渾身の力を込めて石祠にぶつかったところで、こんな風に折れるもんじゃないだろうと思う。石祠ごと倒れるのがせいぜいのところじゃないか?ので、記事を書く段になって写真を眺めているうちにどうも作為的なものが感じられるように思われてきたのですが、それにしてもしっくりこない点はある。だって、あわしまさんて「神」でしょ?神社に神様があるのは別におかしくはないし、廃仏毀釈でターゲットになる必要性はないように思うんだけど・・・考えられるのは、もとは八坂神社内ではなく龍光寺の方にあったか。それだったらまだわかるけど、壊したものを修繕して八坂神社に移すぐらいなら初めっからあわしまさんを引っ越しさせておけばいいんじゃ・・・ここでちょっと仲良しのウィキペディアさんに相談してみました。したら、「淡島神」は 【和歌山県和歌山市加太の淡嶋神社を総本社とする全国の淡島神社や淡路神社の祭神で あるが、多くの神社では明治の神仏分離などにより少彦名神等に置き変えられている。】という。そもそもの「淡島神」についてもいくつかの説があるらしい。少彦名命(すくなひこなのみこと)は日本神話に登場する神で、過去の記事では大己貴命(おおなむちのみこと)とのウンコバトルを紹介してますが、スクナヒコナだったら別に問題はない。が、明治以降に多くのあわしまさんで祭神をスクナヒコナに置き換えたのなら、近世以前は別の神様として信仰されていた方が多かったのだろう。じゃ、ウィキペディアが教えてくれるスクナヒコナ以外の説はどんなかとゆーと ・日本神話に登場する「淡島」が淡島神であるとする説。 ・住吉明神の后神であるとする説で、淡島は天照大神の6番目の御子神。 ・婆利塞女(ばりさいじょ)説。2番目と3番目は女神ということになる。ウィキによると婆利塞女も結局は住吉明神に嫁いだということになっていて、女神はどちらも結婚後に婦人科の病気にかかり、婦人病の人を救うという誓いを立てたとか自ら形代(かたしろ)を作って病気を治したとかってエピソードがある。ミワラの成就寺であわしまさんを「女性の守り神」と解説していたのはここから来ていると思われる。ただね、婆利塞女は牛頭天王が親切な世話好きのハトさんに連れられてめでたくゲットできた、牛頭天王の妃だとも言うんだよね。リンク先の記事では「婆利采女」という表記になってますが。牛頭天王の妃を採用すれば、仏教系とも言える訳か・・・淡島神は「淡島明神」とも呼ばれるけど、「明神」は神だよな。吉田神道でも大明神号を使ってたんだしな。日本神話の神とはちょっと毛色が違うイメージがあるけど、でも神だよな・・・でまた、ウィキという名の友達に聞いてみると、まず最初にどーんと 【明神(みょうじん)は、日本の神仏習合における仏教的な神の称号の一つ。】とある。え、仏教的?さらに教えを請うと、 【本地垂迹説の勃興により、これら大明神が日本の民を救済するために現れた仏教の仏の 化身であると考えられるようになった。(中略)この認識は広まり、大明神号は仏教と 関連していると考えられるようになった。】という。そうか、神は神でも、本地垂迹の余地があるとNGなんだな。であれば、江戸期から八坂神社にあわしまさんがあったとしてもターゲットになった可能性は充分にあったってことだ。酒井根の村人たちがあわしまさんをどういう神様として捉えていたかはわからない。けど、おそらく他の例にもれずスクナヒコナ以外の神として崇めていたのだろう。『柏市史』に書かれた「明治41年7月に少名彦命を祀る淡嶋大神を合祀」という内容は、破壊されて打ち捨てられていた石祠を悼んだ村人たちによって祭神をスクナヒコナに変更して祠を修復して安置した歴史を言っているのかもしれないと思った。にほんブログ村
2015年04月04日

近くにはもうひとつ石塔がある↓。 母親に聞いてみたら、やっぱり八坂神社には今は常駐する宮司さんはいないだろうと言っていた。八坂神社のすぐ近くには龍光寺というお寺があり、神社の裏手には龍光寺の墓地が飛び地であるので、立地から見て神仏分離以前は神社が寺の一施設だったか、あるいは寺が神社の神宮寺だったのだろうと思った。で、この二十三夜塔の台座には【當寺 龍光寺】とあり、その後に村人らしき人の名前がいくつか続く。うん、やっぱり龍光寺とセットだったんだな。「二十三夜」は月待信仰のひとつで、23日の夜に講員が集まって食事をしながら月を待つというものだそうで、『柏市史』では 【後世、神道では月読命、仏教では勢至菩薩の付会説が流布するが、もともとは神名や 菩薩名はなく、月そのものが崇拝の対象となっていた極めて原始的な信仰であった。】 とする。同書では柏での二十三夜様のイベントの様子について『柏の民族』から引用があるので一部ご紹介します。 【布施寺山地区のものは毎月二十三日に青年館により、月読大神の表具を下げ、お供えもの をして三夜様の真言「オンサンサン サンサクソワカ」と唱え、そのあと心経を上げ 終りとする。昔は旧暦二十三日の夜に集まり、月の出を待って拝みお月さまがヤッサヤッサ と上って来るのを見たものという。(中略)二十三夜塔について、逆井地区では病気に なった時、三夜さまの石を拝めといわれているし、歯の痛い時には三夜さまに頼めば 直してくれるといわれている。】かなり色んなものがチャンポンになってて、土着信仰ってのは実に面白い。ま、チャンポンという考え方をすること自体、神仏分離以後に生まれた人間ならではで、昔の人はこれがチャンポンだなんて思いもしなかっただろう。月待信仰の中では二十三夜講が全国的にもメジャーなようだけど、その他にも十五夜・十六夜など色々あり、二十三夜講で建てられる塔は主に勢至菩薩の像なんだと。上の『柏市史』の解説の中の「仏教では勢至菩薩の付会説が流布」というのはそういうことを指している。二十三夜以外の他の日の講の塔も市内には残っているということで十九夜塔の如意輪観音像の写真が『柏市史』に載ってるんだけど、なんかこれ、見たことある・・・そうだ、馬橋(松戸市)の香取稲荷神社で気に入ったアレだ。そこで馬橋の写真を拡大してあらためて銘を確認したところ、あの記事を書いた時と同じようにやっぱり「奉造三十九夜念佛講」と読める。おかしいな、絶対月待の塔のハズだけど、月齢39なんてあるワケないぞ・・・十九夜塔に刻まれる像は如意輪観音で、さらに十九夜塔に刻まれる文字は「十九夜念仏」とあるものが圧倒的に多いらしいので、わたくしが気に入った塔も如意輪観音だと思われるし「十九夜念仏」の部分も共通しているので目をこらして写真を見てみたところ、「奉造三十九夜念佛講」じゃなく「奉造主十九夜念佛講」だろうという結論に達しました。そうかそうか、あの時「三十九夜」で検索してもわからなかったハズだよな。てことで、あの手術の日から2年経った今になってようやくあの塔が何だったのか納得が行きました。ろくな知識がないゆえに物事の理解もなかなか進みませんが、ひとつひとつ地道に調べて覚えていくしかありません香取稲荷神社が出てきたのでついでに書きますと、諏訪神社の記事以降、折にふれ香取稲荷神社のことが思い出されました。何がどうって訳じゃないんだけど、なんか同じニオイがするなと思ってね。松戸市は柏市の隣で同じ下総なので、これが地域性ってものなんでしょうか・・・ただ、そう思うのもたぶん遠く離れた西国ばかり見てきたからよりローカル色を感じるんだろうな。え~、境内に戻ります。境内には鳥居の建立碑とはまた別の、社殿の建立碑もある。 【当八坂大神は往古より神徳極めて篤く、酒井根の鎮守として氏子一同は勿論、 近隣市町村からも五穀豊穣の神守として朝に夕に神威を仰ぎ、心のよりどころとして 祭祀されております。神社創建について現存の記録によると、享保18年先住民篤信者 挙つて遠く山城の地より御神体を奉載してまいり祭祀されたものと思われます。又境内 には稀にみる大樹鬱蒼として神域にふさわしき社でありましたが、老樹落雷等にて損傷 或は道路拡幅のため余儀なく伐木いたし、現在は数本を残すのみとなりました。 本殿に於ては建立以来再三の補修にもかゝわらず老朽化甚だしく、社殿の一部が崩れ落ちる 状態となり、神社としての尊厳を著しく損う様に立到ったため、氏子一同会議を起し、 神社基金並に崇敬者の浄財を仰ぎ再建することを決定。総工費500万円也を以て 本殿新築、参道に板石を敷設、境内整備等諸工事を完成。旧本殿を以て納札殿として 全て維れ一新することをみました。 本日遷座奉祝大祭を齊行することになり神徳の弥高を拝し洵に感悦に堪えません。茲に 氏子崇敬者相共に益々敬神祟祖の美風を作興し、神の道を誠の道と戴いて和を以て西東 相睦び家運長久子孫相継いで神徳を高揚し、神恩に報ゆることを祈誓して記念とします。 昭和47年11月5日 建之】 (碑文より。漢数字は変換、適宜句読点を挿入)『土村誌』という史料には、創建は弘安年間(1278-88)だという伝承が記載されているという。が、『柏市史』ではこれは伝承の域を出ないだろうとバッサリ切っている。で、碑文で創建の年としている享保18年(1733)は『土村誌』では牛頭天王を祀る社殿を再建したという記録になっているんだそうな。ま、享保18年には八坂神社は存在していたということだよな。八坂神社の祭神は素戔嗚尊で、さらに牛頭天王も祀っていた・・・祇園信仰やスサノオ・牛頭天王については福山の素盞嗚神社で食いついて書きましたが(「福山編(15)」~「19」参照)、スサノオも牛頭天王も共に疫病を司る神で日本では同一視された。素盞嗚神社の記事を書いた時は仏教の知識なんてまったくなかったから「牛頭天王って結局何なんじゃい?」どまりだったのが、『叡山攻め』などで仏教史に少し触れた今ならわかる。つまりはアシュランや梵天や帝釈天などと同じ護法善神ってことだな。牛頭天王はお釈迦様の在世中から存在した「天竺五精舎」のひとつ、祇園精舎を守護していたから京の八坂本社は「祇園さん」とも呼ばれるんだ。ふふふ、わたくしも成長したな・・・じゃなくて、そういう神をわざわざ京から勧請した。人間ドックの報告の記事で市内に3社以上ある神社を『柏市史』から紹介しましたが、八坂神社は香取神社に次いで2番目に多い。酒井根の八坂神社も含め、7社のそれぞれの詳しい由来は現時点では知らないんだけど、関東ではそこそこ有名な布施弁天のある布施地区にも八坂さんがあり、布施の八坂さんでは享保20年(1735)に牛頭天王を勧請して祀っているという記録があるそうな。それによると、享保20年に布施で疫病が流行したので村では色々と手を尽くして祈祷などに努めたものの、鎮静化の気配がなかったのでみんなで相談して牛頭天王を祀ることに決めた、という流れらしい。ので、その2年前に酒井根に牛頭天王が勧請された、もしくは神社が創建されたのも布施と同じ理由と考えるのが自然だろう。ここでちょっと『江戸東京年表』(小学館)の享保のあたりを見てみました。柏はもちろん江戸じゃないけど、江戸城開城の日、午前3時に寛永寺を出発した最後の将軍・ケイキさんは自分の足で歩いてその日のうちに松戸に入っているし、江戸期に柏から伊勢参りに向かった庶民は江戸観光はせずそのまま西へ向かっていて、これは歩いても約1日という近さでいつでも行けるからあえてスルーしたということのようで、そういう位置関係にある訳だからいくぶん参考になるかと思ってさ。で、享保12年(1727)には洪水で浅草や千住あたりで死者が出た。この後、来るな・・・と翌年に目を移すとやっぱり享保13年の初めには疱瘡が流行している。同じ年にもまた洪水。享保15年(1730)には「麻疹鍋冠」(はしかなべかぶり)という病気が流行っている。享保17年(1732)には夏にイナゴの被害が出て、年末に全国的な飢饉が起こり、ついでに疫病も流行っている。享保18年(1733)も疫病は続き、7月にはワラで作った疫神を海に流す「風神送り」が流行り、12月には町奉行から服薬の方法についての本が出版される。享保19年(1734)も疫病で多数の死者が出る。元文元年(1736)2月には疱瘡が流行し、幕府から「象洞」という薬が頒布される。『江戸東京年表』には象洞は「象涙を薬用に仕立てた」ものだとあるけど、ネットで検索すると象のフンから作った薬だともある。・・・これはフンが正解だろうなもちろん、これをそのまま柏の疫病史として適用はできないけど、人の移動が簡単であれば当然疫病だって持ち込まれやすいのでおおむね上の流れに連動すると思っていいだろう。ちなみに、享保13年は8代将軍吉宗が日光社参に出かけた年であり、享保14年は「天一坊」が処刑された年、享保18年は「享保の打ちこわし」があった年ね。吉宗が主人公のドラマでは必ず出てくるようなトピックスのあった時期に柏では祇園信仰が盛んになりつつあったってことだな。『柏市史』を読むまでわたくしは知らなかったのですが、市内の祭礼の中でも特に盛んだったのが「天王様」と「あんば様」の祭だそうで、「天王様」はもちろん牛頭天王のこと。「あんば様」は茨木の大杉大明神のことだそうで、こちらも悪疫に強い神様。市内に7社ある八坂神社は、それぞれの起源は違うものかもしれないけど、おそらくどれもが疫病の歴史を物語るものだろう。酒井根の近くにももうひとつ八坂神社があってそちらも享保18年創建と伝わるので、より江戸に近い柏市南西部のこの一帯では村人が疫病の流行に頭を悩ませていたものと思われます。にほんブログ村
2015年04月03日

地元第2段は八坂大神(柏市酒井根5-10-10。Mapfanはこちら)姉の家に行った帰りにここへ寄ってみたのですが、去年の夏頃かと思ってたら一昨年の秋だった人の記憶とはいいかげんなものです(私だけか?)。八坂神社といってもここはホントに小さな神社で、氏神様なので年越しの夜には夜道を歩いてここへ初詣に来たりしましたが、常駐する神主さんもいないので、その時だけ氏子さんが奉仕してお神酒を配ってくれたりする。犬の散歩などで過去にも明るい時間に来たことはありますが、その頃は特段の興味も持っていなかったので境内がどんな風になってるかまともに見たことはなかった。で、今回初めて境内をじっくり見てみたのですが、意外にも色々あって面白かった。ま、ジミーもいいとこなので面白いというのはあくまでわたくしの個人的な感想ですが。くれぐれも現在中断中の叡山などとは比較しないよーにまずは入口からね。 よくよく見ると、扁額の上には雨よけのひさしが付いている↓。面白いな、こんなの初めて見たぞ この鳥居は昭和44年7月20日の建立で、その記念碑が境内にある↓。 【八坂大神を酒井根の鎮守と奉斎し享保18年3月鳥居を奉献し更に文政4年9月 再建し氏子の繁栄と共にありしも茲に氏子の総意のもと酒井根の弥栄を祈念して 新たに建設せらる】 (石碑より。漢数字は戦国ジジイが変換)鳥居前の狛犬↓。 しっぽが寝てる・・・意外に古いタイプなのかもしれないな。で、その相棒は なんと子持ちだったんですよ~。こんな身近に子持ちの狛犬がおったとは。興味を持たないというのは実に損をしているな、と思いました。境内はとても広いとは言えず、しかも正面の社殿は見ての通り地味そのもの。 手水舎も地味↓。 その隣の小さなお堂もこれまたジミー・・・↓。 あれ、中になにかある・・・ あっ、こ、これは・・・!とカメラのレンズを隙間に突っ込んでみると お不動様じゃねえの~!!こんなとこにお不動様がいらしたなんて全っ然知りませんでした。知ろうともしなかったし。しかも、状態も出来もなかなかいいぞ台座をふと見ると、 ほおお、いいじゃねえの~!!何も書いてないから文化財の指定も何も受けてないんだろうけど、わたくしには充分イケてる石像に見えました。 屋根に乗るのは州浜(すはま)↓。 ちょっとこれは幸先いいぞ・・・境内探索、早くも盛り上がってきました。ええと、確かこの付近にあった碑だと思うけど、 阿夫利神社は『諏訪神社』の方で紹介しましたが、「石裂山大権現」てたぶん鹿沼(栃木県)の石裂(おざく)山のことだよな。山ヤさんをやってた頃の写真を引っ張り出してみましたが、石裂山の写真はなかったからどうやらわたくしは登ったことはないらしい。でも石裂山のことはよく知ってる。標高は高くないものの、「石裂」の名の示す通りの岩峰で、ハシゴや鎖場が連続するすごいルートらしい。石裂山も修験の盛んだったところで、麓にある加蘇山神社はあの勝道さんが開いたとされ、江戸期には輪王寺宮の庇護も受けたという日光とも縁の深い場所。神社にある主祭神の他の神様は全部摂社かと思っていたから諏訪神社の方の記事ではすべて摂社として石碑を紹介しましたが、字が読めなかったからスルーしたものの、碑には「講中」と彫られているものもあったし、ここの阿夫利神社の碑にも「講中安全」とある。うん、待てよ、これって摂社って訳じゃないのか?と、ここで伊勢の御師のことを思い出した。『柏市史』によると、時代が下って街道が整備されると庶民も比較的気軽に旅に出るようになり、遠くは今も昔も人気の伊勢詣でや中くらいだと日光や秩父や相模あたり、もっと近場だと成田山や筑波山などへプチ旅行に出たらしい。たとえば日光などへ行く場合でも、行きと帰りは違うルートを取って途中途中にある有名な寺社へ寄るなどして効率良く観光スポットをこなしていったという。庶民の場合は「講」を組んで積立したお金を貸し出して利息を稼いで費用を捻出したり、皆で出し合った費用で土地を買って畑とし、その畑の収穫物から得た資金を元手にしたりしたんだそうな。諏訪神社やここ八坂神社にある数々の碑は、摂社というよりその講中が現地にお参りした記念や講の安全を祈念した碑の類が多いのかもしれない。ただ、講も自然発生的にできたものよりは伊勢の御師のような営業マンが各地に出向いて積極的に信者を獲得していったものがほとんどだろう。もちろん、講ができて実際に現地へ詣でるという段になれば営業マンがツアコンへと変身して講員を現地へ導いていく。ウィキペディアによると、 【外部からの導入による講は、当初は山岳信仰に関するものであった。立山などの修験者が 霊山への登山を勧めて全国を廻り、各地に参拝講が作られた。それにならって各地の神社・ 寺院へ参拝するための数多くの講も作られるようになった。】だそうな。ほお、修験者が講のパイオニアだったのか~。確かに、諏訪神社にもここにも修験の盛んだった場所の石碑が多かったもんな。神社に摂社が勧請されるには色んなきっかけがあるものだろうけど、摂社じゃなくこのテの石碑の場合には、修験者が文字通り足で稼いだ営業のあかしとも言える訳か。そうなってくると、近場の神社が強いのは当然てことだな。阿夫利神社は下総でも順調に信者を獲得したようだな。ただ神社にぽつんとある石碑だけを見ても何とも思わないけど、この碑ができるまでに鹿沼や大山から営業マンがてくてく街道を歩いてきて、小さな民家や寺でのプレゼンで熱弁をふるい、あるいはちょっと修法なども見せたりして村人の関心を集め、純朴な村人たちがツアコンに率いられて物見遊山がてら遠方の山や神社へぞろぞろ旅行に行き、その安全を祈願して石碑を建てた・・・そういう生きた人間たちの数々のストーリーが詰まったものだと思うと、とたんに生き生きとしたものに見えてくるから不思議です。まあ庶民だったら節約を基本としながらも少しは美味しいものも食べただろうし、違う土地の珍しいものなども見ただろうし、場合によっては男どもはちょっと女遊びなんかもしたかもしれない。参詣の旅なら身を清くしていくのが原則だろうけど、ツアコンの目の届かないところで「ちょっとぐらいいいだろ?」とハメを外した輩もいたかもしれないよな妄想だけは得意なもので、あれこれ想像し始めるとも~う止まりません。特に地元であれば土地柄などもわかるし、よりリアルに妄想が働きますね。江戸後期の柏村の村人の友人が日光に行った時の記録によると、途中で石裂山にも寄っていて、 【石裂・古峯に関しては市域にも講中が組織され、地域によっては盛んに参拝が されていたようである。】 (『柏市史』より)だそうな。古峯(ふるみね)神社は石裂山よりもっと奥地にある神社で、前日光ともいうべき場所にある。古峯でも勝道さんが修行をしたという伝承があり、つまりは古峯も修験の山。古峯神社の碑はここにはなかったけど、この辺は石裂への参詣は盛んだった地域なのかもしれないな。↓ぽちりとよろしく~。にほんブログ村
2015年04月02日

社殿の裏側からスタートして順々に見ていくと、ほとんどが「青面金剛」と刻まれたもので10基おきに青面金剛様のお姿を彫った石塔があった。摩耗がひどいものも多かったし、さすがのわたくしも108基すべては撮るつもりはなく青面金剛像の石塔だけを写真に収めてきました。状態のいいものは少ないけど、それでも法輪やショケラを持っていたり忿怒相(ふんぬそう)や髪が逆立ってるなどの青面金剛様独特の彫りもそれなりに確認できます。 ↑これなんか、サリーちゃんのパパみたいな髪型してるな『柏市史』によると、青面金剛様がメインとなるのは17世紀後半頃で、市内に残る庚申塔の中には大日如来とか阿弥陀如来・地蔵菩薩の例もあるんだそうな。で、これで拝殿の側面まで来ました。振り返ると実に壮観↓。 ここで庚申塔は一旦途切れます。ちょっと盛られたところには摂社がある↓。 上から順に、八幡宮、阿夫利神社、三峰神社。いかにも関東らしいラインナップざあます。阿夫利(あふり)神社と三峰(みつみね)神社は西の方にはあまり知られてないかもしれませんが、まず阿夫利神社は相模の大山(だいせんじゃなくておおやま)にある神社で、相模の延喜式内社十三社の一というからかなり古い。大山には昔登山をやってた頃に登ったことがありますが、あれ、途中まで車道が通ってるしケーブルで上まで行かれるもんだから、ただでさえ人気の山なのにその上観光客が狭いところに割り込んできてウザくてねえ~。つまりはあまり大山にいい思い出はないんですが、「春の寛永寺」で天平の頃を書いたあとに何かを調べていて、わたくしの好きな良弁(ろうべん)さんが天平勝宝4年(752)に神宮寺として「大山寺」を創建したっていうのを知って思わずのけぞりました(笑)。しかも、Mapionの地図を見たら麓には「良弁滝」なんてのもあるじゃあ~りませんか~!!なんでも、良弁さんが入山して最初に水行をした滝なんだそうな。個人的には良弁さんの伝承はかなりマユツバだと思うものの、修験が盛んだった山であることに変わりはなく、歴史を全く知らずに登っていたことが悔やまれます。そのうち、良弁萌え~で阿夫利神社に行くかもしれません。つか、行きます。マユツバだとツッコミ入れておきながらわざわざ行くってのも矛盾してますが、人生なんて所詮矛盾だらけざあます三峰神社は奥秩父の山にある神社で、これも修験の盛んだったところ。八幡様は言わずと知れた源氏の守護神で、これら三社はいずれも坂東武者の崇敬の篤かった神社。三峰にも登山で行きましたが、かなり立派な神社です。やはり西国の摂社とは顔ぶれが違うので、西国へばっかり行っていたわたくしには、かなりローカル色が強いと感じますね。この奥にはもう少し庚申塔が並ぶ。 ↑これの日付は「享保十四酉十一月吉日」とあって、1729年だから天保から一気に年代が遡ったぞ。こちらは道祖神↓。色んなものが入り混じっていて、これぞ日本の宗教史!ってカンジ。 ↑これには「女人講」とある。女子会記念碑か(笑)。側面の石塔群最後はこちら↓。 お狐様です。これも前回見つけてからお気に入り。なぜって、 子持ちのお狐様だったんです。子ギツネが寝転んでママにじゃれてるでしょ?ママのお鼻はちょっともげちゃってるけどね。旧寛永寺境内の花園稲荷神社にも子持ちの狛キツネがいましたが、あの記事の中で書いた「柏の神社」ってのはここのこと。子持ちの狛犬はそれまでにも見たことはありましたが、キツネの親子を見たのは諏訪神社が初めてだったので、ちょっと感動しました。壁ぎわを離れたところにも摂社がある↓。 鹿島はまあ地元みたいなもんだからね。こんぴらさん(銘は文化4年:1807)が全国区なのは当然だよな。で、これが入口付近にある碑↓。 猿は庚申の使いとされ、ゆえにこの碑のように「見ざる言わざる聞かざる」が庚申塔に刻まれているのが多い。ので遠目に見ただけでも庚申塔とわかる訳ですが、境内にある石碑の中でこれが一番デカく、割と銘の保存状態もいい。 【元禄十二年卯十月吉日 奉庚申供養尊像一躰現世安穏後世安楽 柏堀之内同村女六人敬白】元禄12年(1699)か!今回銘をチェックした中では天保などの幕末が多かったので、境内の庚申塔でわかる範囲ではこれが一番古いかもしれんな。まだ吉良上野介義央が生きてる頃だ。 元禄にしては綺麗に残ってるよな。銘文も大きな文字というほどでもないのにしっかり読めるし。堅いいい石材を使ってるのかな。あ、これを入れると全部で109基だ。年代の不明なものも入れると市内にある庚申塔は651基を数え、そのうち諏訪神社のように沢山の石塔のある「百庚申」は市内に6ヵ所あるらしい。摂社といってもここのは石碑だけの簡素なタイプばかりですが、入口の右手には境内で唯一の摂社らしい建物がある↓。 ただ、ナニ神社とも書いてない。中が見えるかな、と蟇股の脇からムリムリに覗き込んでみると 石の祠の屋根だけが見えた。 あ、と拝殿の前の灯篭を載せるのを忘れてた。 確か銘は天保あたりだったような・・・にしても、笠から上がデカすぎてアンバランスでおもしれ~形 <撮影日:2015年3月27日>にほんブログ村
2015年04月01日
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