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その先が玄関。 ここだけ見ると、なんか禅宗寺院のようだな。雲板ってフツーは結構高いところにあるもんだけど、これ鰐口??しかし、鰐口だってこんな低い位置には吊らない。貼り紙には「御用の方は銅鑼を鳴らしてお知らせください」てなことが書いてあるけど、叩くものが置いてないぞ。手で叩くのかな(笑)。玄関の向かいにあるのが薬医門↓。 これだって本瓦葺の立派な門なんだけど、豪華で重厚感のある勅使門を見たあとだとやけにつましく見える・・・こちらの留蓋は う~ん・・・ハスの葉っぱとつぼみ、かな?可憐なハスの花が咲いたのでも良かった気がするけど、大輪の花にしないところが日本人ぽいとも言える(笑)。上の写真にも写ってますが、薬医門の大棟周辺は 菊・きく・キク・・・・・メインの境内の西端にあるのが庫裏↓。 建物群はひとまず以上ですが、まだ終わりじゃありません。白いテントのお姉さんの説明によると、メイン部分を出て少し行ったところにわたくしのもうひとつのお目当てがあるということだったので、そのまま道なりにここを出ます↓。 道路に出て北へ少し向かったところにお目当てがあるということだったけど、まず右手に墓地があるのが目に入った。ふっ・・・そうです、次のお目当ては墓地でございます。 う~ん・・・かなり古そうな墓石もあるけど、シンプルだからこれじゃなさそうだな。でもとりあえず入ってみた。上の写真の右手に写ってるのがここに眠る方々を記した墓碑で、 大僧正とか法印とか天台座主とか探題とかいう文字が刻まれてるけど、スタートが昭和21年でラストが平成11年だから、最近の歴代門跡のようだな。んでも、明らかに昭和のものじゃない古い墓石が気になるので奥から写真を撮ってきました。 無縫塔は一番奥のこれだけで、あとは といった感じのシンプルなスタイルに変わる。うん、やっぱりここじゃなかったな。墓地を出てまた少し進むと、左手にお目当てを見つけた。 はいい~、輪王寺宮の墓地でございます2枚目の写真の手前にはシンプルな現代風の扉が取り付けられてますが、カギがかかってて中には入れません。でも寛永寺にある宮の墓所はガードが固くて中の様子は一切覗けないし、日光にある墓所はおそらくほとんどが供養塔だろうけど、場所がわかりづらくてまだわたくしは行ってない・・・でも、現在では日光の墓所も拝観できないんじゃないかな。てことで、宮のゆかりの品々に引き続き、中に入れないながらも宮にゆかりの深い寺の中ではもっとも手軽に輪王寺宮の墓所に参拝できるのがここ毘沙門堂でございます。寛永寺シリーズでも書きましたが、輪王寺宮は僧侶でありながらも「輪王寺宮家」の当主でもあるので、皇族である宮の墓所は宮内庁の管轄のようです。白いテントのお姉さんに聞いた耳寄りな話というのは、宮の墓所には宮内庁の職員が定期的にお掃除に来るというもの。実はこの旅から帰って寛永寺の両大師に行った時に、売店コーナーで両大師にある宮の墓所についても聞いてみました。両大師の売店コーナーにはたいてい若いお坊さんがいるんだけど、この時は職員のおじさんで、良源さんグッズを買ったついでに両大師の墓所にも宮内庁からお掃除隊がやって来るのか聞いてみたら、やっぱり来るんだとのこと。月イチぐらいかと思ったら、確か2週に1回のペースで来ると言っていた気がする。教えてもらったわたくしは「おお、やっぱりそうか~」と喜んだものの、そんなことを聞く人間はやはりおらんらしく相当不審者に思われたようで、「なんでですか?何かあるんですか?」と思いっきりけげんな顔をしておじさんに聞き返された。おじさん、毘沙門堂の墓所のこと知ってるかな・・・でもいちおう、「少し前に京都の毘沙門堂に行って、そこでそういう話を聞いたものですから」と言ってみたけど、おじさんの「うろんな奴」という表情は変わらなかった。まあさ、歴史ファンなんて変わり者が多いから(私だけか?)中には宮に食いつく人間もおるのだよ、おじさん。しかし、そうなると宮内庁ってのも結構大変だな。陵(みささぎ)にはそんなに沢山行った訳じゃないけど、わたくしが見たのはどこも綺麗になってたもんな。奈良や京都なんて古い都には沢山陵があるし、その上皇族の墓所まで管理するとなったらそれだけでかなりの人件費がかかってるってことだよな。さて、毘沙門堂の宮の墓所を紹介する前に、1人の輪王寺宮に仕えた男の手記を紹介します。これが本シリーズの当初から予告していた「イベント」で、最近諸事情により更新頻度が落ちてるせいもあって本シリーズの完結まではまだ先が長いのでもう書くのをやめようかとも思いましたが、こんな史料を紹介する人間もそうおらんだろうし、せっかく史料を入手したのでやはり書いておくことにしました。ここ以外では書く機会もないだろうからね。男の名は、薗田秀延(そのだ・ひでのぶ:1676-1748)。本ブログでもおなじみの、寛永寺門主第5世にして輪王寺宮第3世である公弁法親王に仕えた方です。輪王寺宮は僧侶としての側面と宮家の当主としての側面との2つを合わせ持っていた。そういう高貴なお方だから側近も当然沢山いて、僧侶としての宮に仕える人達を「院家」(いんげ)、宮家の当主としての宮に仕える人達を「坊官」(ぼうかん)といったそうな。院家は僧侶だけど坊官は輪王寺宮家の家臣であり、身分は武士。公弁法親王より7歳年下の薗田秀延は坊官の1人だった。寛永寺の僧侶であり寛永寺研究の第一人者と思われる浦井正明氏の解説によると秀延は坊官の中でも結構上位にあったようで、14歳の時からずっと宮に仕えていた秀延の宮への深い愛がつづられた文章を今回紹介する訳ですが、本文は次回から始めるとして少し史料紹介をします。秀延の遺稿集は『玉川子園田君遺稿』というもので、宮以外のことを書いた文章も収められている。これは現在は横浜市港北区にある金蔵寺に伝わるもので、金蔵寺の所蔵文書を整理した横浜市歴史博物館が秀延の遺稿集に着目して博物館の関連組織「横浜古文書を読む会」に解読を依頼して活字化して一般に紹介してくれたものをわたくしが手に入れた訳です。そのあたりの経緯なども本文とあわせて『横浜市歴史博物館紀要 VOL.9』に紹介されてますが、ま、いくら秀延が宮に仕えた坊官の上席者といっても歴史の中ではマイナーもいいとこなので、まず秀延が何者なのか突き止めるにも色々大変だったらしい。歴史の研究ってのはこうした地味な作業を積み重ねて出来上がるものなんだなとつくづく思いました。わたくしがこの史料の存在を知ったのは寛永寺シリーズでさんざんお世話になった『上野寛永寺 将軍家の葬儀』(浦井正明著/吉川弘文館)で、『遺稿』には5代将軍・綱吉の葬儀に関する手記もあって、浦井氏によると幕府の公的な記録とはまた別の角度から見た記録ということで貴重なものだそうだけど、宮に関する手記もまた貴重なものらしい。宮に関する秀延の手記は「手むけ山」(たむけやま)と題したもので、秀延がこよなく愛する公弁法親王の死から始まっている。 【なお、こうした現実に即した宮の死に関する記録は、現在のところ他にその例を見ない もので、将軍の死時の記録との比較という一点から考えても、また葬送儀礼の研究から 見ても、きわめて貴重な史料なのである。】 (『上野寛永寺 将軍家の葬儀』より)そういう貴重な史料だけども、ネットで検索しても歴史ファンでこの史料を紹介している人はいないらしい。幸い、『上野寛永寺 将軍家の葬儀』にはかいつまんでの解説が載っているので、浦井氏の解説を参考にしつつ秀延になりきってわたくしの感性で書いてみようと思います。ただ、訳文としては当然正確性に欠けるので、詳しく知りたい方は『横浜市歴史博物館紀要 VOL.9』(横浜市歴史博物館発行)をご覧になってください。にほんブログ村
2015年07月28日

宸殿から渡り廊下へ戻る手前の廊下あたりにも、毘沙門堂の所有するお宝の展示がある。えっと、当時のメモを見返すと毘沙門堂建立の際に土中から発掘された平瓶土器が・・・あ、これは入った方の展示品だったような気がするけど、てことは、毘沙門堂が現在地に復興される以前にもここに何かあったってことか。こちら側には結構大きなお品が並んでおり、・公弁法親王が愛用された文庫・徳川家寄進の葵の紋入り華皿 ・大名火鉢(高貴な方々に供する手あぶり火鉢)・輪王寺宮がご使用になった菊紋入りの烟草盆 ・後西院天皇(後西天皇)から下賜された螺鈿細工の化粧武具などなどがある。ほお、宮はタバコを吸っておったのか。螺鈿で美しく装飾された化粧武具は上洛などのお行列で用いられたそうで、ほかに宮印の山かすがいと菊紋の入った先箱やのぼりなどもあった。平時では御三家に並ぶ格式を持つ輪王寺宮の華やかなお行列をつい想像したくなる、立派なお道具類がここに展示されてました。寛永寺は江戸から明治に移る時期の苦労があったから、あまり宮のお道具類は残ってないのかもしれない。日光の方にはそれなりにありそうな気もするけど、今のところわたくしは宮にゆかりの深い寛永寺と日光でこういうお道具類が展示されているのを見たことがない。湯たんぽなんかは日光にあるけど、確かあれは図録の写真で見たような・・・ので、毘沙門堂が現在の展示スタイルを変えない限りは現段階では毘沙門堂がもっとも手軽に輪王寺宮のお品を間近に見られると言えるんじゃないかな。やあ、こういうお宝が展示されてるなんてことは事前の調べではつかんでいなかったので、思いがけず大満足が得られて実にシアワセでございましたま、一般はもちろん、歴史ファンでも宮に食いつく人ってそういないもんね。だからあまり紹介されないんだろうな。さて、満足して有料エリアを出ようとした時、入口にいるお姉さんと少し話をした。入口には拝観受付とは別に白いテントが張られていて、お姉さんはそこで何かの受付でもしているようだった。最初はたぶん、「寒いですね~」みたいなたわいもない話から始まったと思うんだけど、毘沙門堂にはもうひとつわたくしにとって重要なお目当てがあったので、ついでにその場所について聞いたところ、「珍しい人ですね」みたいなリアクションだった。「そういうことを聞かれたのは初めてです」て言われたかもしれない。(↑もはや記憶が定かではない)わたくしも一風変わった嗜好の持ち主だという自覚はあるものの、そういうお姉さんは声明(しょうみょう)が大好きなんだという。わたくしはナマの声明は聞いたことがないので声明のお話には付き合えなかったけど、でも好きなものに入れ込む気持ちはよくわかる。その上、お姉さんは耳寄りな話も聞かせてくれた。親切なお姉さんに「気をつけて。また来てくださいね~」と送り出されて唐門の外へ出る。手水舎の奥にあるのは庫裏かと思ってたけど、境内図を見ると「休憩所」とあった。その隣にある「経蔵」がたぶんこれだと思う↓。 ただ、経蔵といっても外には とある。おお、一切経か~!!ここには撮影禁止とは書かれていなかったので、中を覗いてついでに撮影。 さすがといった感じの仏像群の周囲には おお、あるある、経箱だあ。向かって右手には「大般若経」と書かれた箱もあった↓。 ここでも大般若経の転読をやるんだろうな。ここにあるお経はどの版なんだろうか。ここは境内の東端にあたり、ここから西側へとずっと歩いていきます。境内図を一部拡大したのがこちら↓。 手水舎の反対側には藤棚とベンチがある。ついでにトイレもこの辺にあって借りた気がするけど、ベンチの奥にあるのが鐘楼↓。 小ぶりだけど袴腰付きのいい感じの建物。ここで一旦壁に突き当たるので北へ向きを変えると、そこにあるのが山王社。毘沙門堂はもちろん天台宗だからね。 山王社のあたりからは、しばし本堂を囲む透塀に沿って歩く↓。 透塀の中にいた時は近すぎて本堂の破風まで見えなかったけど、ここからはよく見える↓。 華やかだけど部材が黒を基調としているので、さすがの貫録といったカンジ。その奥には御霊殿の上部だけ見える↓。 あら、あれも桟瓦だわ。あれも改修されてるんじゃないかな。このあたりで通路は西へ向きを変えますが、宸殿の外観は前回紹介しているので飛ばして、宸殿の向かいにある勅使門を紹介します↓。 すげ~門。檜皮だよ・・・やっぱりここは、こうでなくっちゃこれは後西天皇より拝領した門だそうで、その名の通り天皇の行幸かまたは勅使の来山の時のみ使われた門で、現在では毘沙門堂門跡が就任する儀式の「晋山式」の時のみ開けられるんだそうな。デカい門の脇の塀にうっすらラインが写ってますが、もちろん5本。ここの歴史を考えればそりゃ当然です。これまであちこちで塀のラインの観察もしてきましたが、これにも固有の名称があるはずだよな、と思ってネットで調べてみたところ、やっぱりちゃんとした名称があった。上の写真ではちょうどこういう造りになってるためか築地塀(ついじべい:土を突き固めて造った塀)だとわかりやすいけど、築地塀に定規筋(じょうぎすじ)と呼ばれる横の白いラインを引いたものは「筋塀」(すじべい)というんだそうな。ラインの数で格式を表わすのは、以前の記事にも書いた通りです。ここの筋塀は本瓦葺。その屋根に載る留蓋は 勅使門の近くには、1本の桜の木がある↓。 去年の桜のシーズンにNHKの「おはよう日本」で映ってたのはこのしだれ桜です。TVで見ててもそれは見事な咲きっぷりでしたよ。普通の桜より、しだれ桜の方が毘沙門堂には似合うと思ったものです。白いテントのお姉さんによると、桜の時期には花見客でにぎわうとのこと。そりゃそうだろうな。だって木のそばには ともあるし これの他にももうひとつ立て看板があって解説らしきものが書いてあるけど、ほとんど消えかかっててまともに読めない。が、かろうじて残ってる文字からすると毘沙門堂が現在地で復興されてから境内には桜がずっとあったらしく、現在の桜は5代目らしい。こちらが宸殿と渡り廊下の接続部分↓。 こういう建物のつなぎ部分てすごく複雑で、わたくしなんかは見ててホントに飽きないですね。あ、そういえば最近、全然建築の勉強しとらんな・・・にほんブログ村
2015年07月26日

内部拝観の最後が宸殿。 【御院帝の旧殿を拝領し、禄1700石を賜り、元禄6年(1693)に完成した 近世門跡宸殿の典型を示す建物である。狩野洞雲は家光の寵愛を受けた。】 (宸殿内部の解説より) 【宸殿は、17世紀末の造営になる六間取方丈型平面の建物で、西面に使者の間と玄関が 接続する。各室は金碧障壁画(京都市指定・登録有形文化財)で飾られ、なかでも 北東隅の帝鑑の間は上段となって背面には2間の床と1間の棚を備え、南の四愛の間を 次の間としている。一部改造されているものの、近世門跡宸殿の典型を示すものである。】 (境内の解説板より)外にある解説板では、 【寛文5年(1665)には公海が現在地を寺地として幕府より賜わり、さらに元禄・ 宝永年間には公弁が寺地の整備を行い、今日のような寺観に整えられた。】とある。ふむ、霊殿はまず徳川家がスポンサーだろうし、宸殿は輪王寺宮・公弁法親王が父帝から賜わったものだから朝廷と幕府の援助を得て毘沙門堂を今の形に完成させたってことか。一部改造とあるけど、たとえば宸殿の屋根↓。 これはもとは檜皮葺だったんだそうな。確かにな、帝の旧殿ならここは檜皮葺の方がふさわしい。それを瓦葺に改めたようなんだけど、はじっこの部分に丸瓦が残ってるから、おそらく当初は本瓦葺だったんじゃないのかな。今はご覧の通りの桟(さん)瓦葺だけどね。檜皮に戻してくれなんてゼイタク言わないけど、せめて本瓦葺にしてほしい・・・で、たぶん霊殿から宸殿に入ったあたりの場所だと思うんだけど、廊下にちょっとした展示コーナーがあってね。大変アットホームで地味な展示なんだけど、宮萌え~で行ってるので何があるのかと覗きこんでみたら、ここがすごかった。当時のきったない字のメモを見返すと、・天海の書・天海の御影・公海の真影・公海が使った法具・円仁が入唐の際に将来した仏具・歴代法親王が使用した錫杖などの各種法具などなどこういう展示は建物の反対側にもあったので、一部そちらと混ざってるかもしれませんが、毘沙門堂ならではのお宝が惜しげもなくおおらかに展示されている。うおお、すげえ~!!とメモを取りながらしばらくこの場に貼りついてましたが、ここでの展示の中で一番わたくしの目をひいたのが『久遠壽院准三宮伝』の版木。「久遠壽院准三宮」は現在の毘沙門堂の実質的な開祖であり、寛永寺第二世と日光を継いだ天海の弟子・公海のこと。天海と初代輪王寺宮・守澄(しゅちょう)法親王の間にあって一般にはちょっと影が薄いお気の毒な方だけど、ここまでを読んできて下さった方には藤原道長の4代目の子孫であり、公海の生家である花山院家はあの花山天皇が退位後に邸宅とした「花山第」を所有して住んでいたおうち、と言えば親近感もわくでしょうか。え~え~、出家してもお茶目な花山院が門前で石を投げさせていたのは、おそらくこの花山第のことでしょうね。延宝期に描かれた寛永寺の配置図に「毘沙門堂 御門跡」とあるのを寛永寺シリーズで書いてますが、あれはまんず公海が住んでいたところのことで、天海の遺志を継いで毘沙門堂をみごと復興させたゆえに公海が「毘沙門堂御門跡」と呼ばれていたんじゃないかと思う。さてその公海も師匠ほどではないけど長生きをした方で(享年87歳)、元禄まで生きた。元禄といえば綱吉の代であり、公弁法親王の代だと即座に連想する方が増えたかもしれませんが、公海がどの程度毘沙門堂に在住していたのかはわからないものの、公弁法親王は公海の弟子として毘沙門堂に入ったんだという。廻り合わせとは不思議なもので、江戸っ子の2つの自慢、将軍様と上野の宮様が同時期に亡くなるということが何度かあった。4代将軍・家綱の死の時もそうで、家綱の死去から葬儀までは結構日が開いていて、その間は連日のように法会が営まれるんだけど、本来であれば初代輪王寺宮・守澄法親王が導師を務めるべきところが、宮は病気で伏せっていたので、天海の伝記(通称「胤海伝」)を書いた胤海が宮に代わって導師を務めていたが、家綱の葬儀の大導師を務めるために公海が寛永寺に戻ってきたそうな。あいにく、どこから戻ってきたのかまでは手持ちの資料ではわからないんだけど、あるいは公海は寛永寺と日光の山主を守澄法親王に譲ったあと、毘沙門堂で過ごす時間が長かったのかもしれない。とは言っても寛永寺の絵図に「毘沙門堂御門跡」が書かれているので山科に行ったっきりって訳でもなかっただろうけど、家綱の薨去より6年前に公弁法親王が毘沙門堂へ入っているので、将来の輪王寺宮となる公弁法親王を育てるためにこの頃は山科にいる時間が長かったということも考えられる。家綱の死去の直後、寛永寺第三世であり初代輪王寺宮の守澄法親王も亡くなった。そのため、公海が家綱の葬儀から埋葬までの大事な場面での大導師を務め、葬儀以降もしばらくの間家綱のために営まれた各種法要の期間中、天真法親王が輪王寺宮第二世に就任したようで、それ以後は宮も法要に出席しているものの、公海も引き続き宮とともに法会に出席している。一連の法会のあとで幕府から各関係者へ謝礼が下賜されたようなんだけど、当然のことながら宮への謝礼が群を抜いている。そして、公海も宮と同じだけの謝礼をいただいているのだ。各法会では寛永寺の他の僧も導師を務めているのでそうした方々へも謝礼が下賜されているものの、その内容は宮と公海の2人とは比べ物にならない。別に金額で価値を計ろうってんじゃないけど、公海の存在の重さを物語るひとつのいい例じゃないかとも思う。三山のトップ・・・ひいては日本の仏教界をしょって立つ後継者の育成に励み、輪王寺宮に代わって将軍葬儀の大導師を務めるためにわざわざ(推定)山科から江戸へ戻ってきた・・・徳川2代将軍・秀忠がきっちり地固めをして徳川政権の盤石な基礎を築いたように、寛永寺第2世・公海も天海亡きあとの寛永寺で重きをなし、その後の門跡寺院としての寛永寺の発展の基礎を築いた方だったんだな、と思う。歴代輪王寺宮は「公ナントカ」って法名の方がほとんどなんだけど、公弁法親王の場合は公海から一字をもらったものかもしれないな。それと、「久遠壽院准三宮」という公海の呼び名ね。「准三宮」(じゅさんぐう)は「准后」(じゅごう)または「准三后」(じゅさんごう)ともいい、「三后」(三宮)は太皇太后・皇太后・皇后をさす。准三宮はその三后に准じる待遇を与えられた者、という意味の称号で、長い歴史の中では准三宮を与えられた者は僧侶や臣下に沢山いる。輪王寺宮は皆様一品(いっぽん)の位は与えられているけど、准三宮の方は全員がなっている訳じゃない。ま、時代によって選定のトレンドなどもあるかもしれないけど、皇族である輪王寺宮でさえ准三宮になっている方とそうでない方がいるのに、臣下の出である公海が准三宮という高い待遇を与えられていることはなかなか興味深い。ま、臣下の出と言っても貴族出身だからというのもあるかもしれないけど。それで、『久遠壽院准三宮伝』というのは公弁法親王が元禄8年12月に公弁法親王が書き留めた公海の伝記なんだそうな。公海の死が同年の10月16日だから、師の追悼に宮がまとめたってカンジだろうか。公海の伝記なんてものがあることをここで初めて知ったので、うおお、これ読みてえ~!としばらく版木をいじましく眺めておりました。毎度のことながら、監視カメラで誰かが見ていたとしたら相当アヤシイ奴に思われただろうな。宸殿は宮の居住空間にあたるようで、色々面白いものや見事なものもあったけど、歴史重視派のわたくしとしては廊下に地味に展示されているものの方が見ていてよっぽど面白い。ので、どうせ内部の写真もないしあとは簡単な紹介にとどめます。こちらが宸殿の裏手側にあるお庭だったかな↓。 【晩翠園(ばんすいえん) 谷側の水を引いて滝を造った江戸初期の回遊式庭園で、雄大な裏文字を形取る「心字」の 池に豊かな水を湛え、亀石・千鳥石を眺めながらの坐禅石、しかも山裾せまる木立の 枝間は暗く、さながら夜目に翠(みどり)を思わせるところから、「晩翠園」と 名付けられた。】 (庭園解説板より)結構デカくて立派な池なので、心字池だと言われてもわかりませぬ(笑)。これが霊殿とつなぐ渡り廊下の部分かな↓。 毘沙門堂に使われる瓦には色んな紋がある。これだけバリエーションがあるのも逆に珍しいんじゃ・・・にほんブログ村
2015年07月23日

現地ではまず中へ入っていったのですが、ここでは本堂の外観から紹介しましょう。 本堂の方も、どうやらごく最近になって化粧直しをしたらしいな。わたくしがこの写真を撮り始めた時、ご住職らしき人が小グループに説明をしていて、それを聞きながら撮ってたんだけど、修理にあたって扁額を解体したところ、パーツが40いくつあったと言っていた。たぶんこの扁額のことだと思うんだけど、四方にある飾りはかなり細かいものだから、確かにそれぐらいのパーツで構成されててもおかしくはない。それで、当時のメモを見ると「鳳凰のしっぽが部屋に転がっていた」と書いてあるから、修理前の扁額はかなりおいたわしいことになっていたのだろう。それじゃ、写真をガンガンいきますよ~。 ふっ・・・この写真だけ見ると、ここは日光か?はたまた寛永寺か?ってカンジですが、それもそのはず、ご住職の説明では東照宮と同じ業者が・・・みたいな話をしていた気がするけど、そんな説明聞かなくってもデザインを見れば幕府直営の日光や寛永寺と同じ系統にあるってことがすぐにわかる。さてそれでは中へ。内部は撮影禁止ですので、写真はありません。 【本堂 本堂は将軍家綱が大壇越となり、紀伊と尾張の徳川家から材木が寄進されて、 寛文6年(1667)に竣工した。全体に漆塗や彩色彫刻が施されて豊かな装飾に 特色が見られる。本堂の前方に建つ唐門・仁王門は共に本堂と同時期のもので、 和様と禅様が混合した特徴的な手法で一貫し、日光東照宮の諸建築に通じる 雰囲気をもっており、畿内では他に例があまりない。仁王門西方の鐘楼は、様式上 17世紀後半のものと考えられる。】 (本堂内部の解説より。漢数字は戦国ジジイが変換)再建がどーのとか書かれてないから、毘沙門堂が現在地に移転して復興された当時からの建物ってことかな。唐門・仁王門についてもこう書かれてるってことは、毘沙門堂では大きな火災がなかったってことだろうか。外側はペカペカにお色直しされてたけど、中は畳も古いし(笑)いかにも長い歳月を経た雰囲気。ま、畳が古いと言っても内部はさすがに見事なもので、入口に近い側の外陣の天井は格天井(ごうてんじょう)で格子の中のそれぞれには絵が描かれている。内陣の天井は細格子。正面におわすのが御本尊で、毘沙門堂のホームページに掲載されている写真そのままの御厨子とお前立がいらした。この御本尊は秘仏で、最澄自刻の毘沙門天だと毘沙門堂サイドでは紹介しているけど、わたくしにはちょっと違和感がある。だって、ここの兄弟分が日光輪王寺の秘仏・鎮将夜叉(ちんじょうやしゃ)像だと思われるのに、日光では「鎮将夜叉」といい、毘沙門堂では「毘沙門天」だという。毘沙門堂のウリは、葛原親王が最澄から授けられた鎮将夜叉法を伝えるというものなんだから、鎮将夜叉法の御本尊は当然鎮将夜叉様じゃないのかって気がするんだけど、どうなんだろ?輪王寺宝物館の解説では鎮将夜叉像の「尊容(おすがた)は、七福神の毘沙門天に相似する」としているから確かにビジュアルは似てるんだろうけど、「天」と「夜叉」じゃずいぶん違うしな・・・御本尊の向かって右側には、イエアスの坐像がある。若くてきりりとした容貌で、衣冠束帯で笏を持って坐っている木像で、イエアスを荘厳(しょうごん)する瓔珞(ようらく)なども実に素晴らしい。向かって左側にはお不動様のコレクションがある。どれも変わったビジュアルのものばかりだった。本堂では香時計が静かに時を刻み、他に誰も拝観者がいないので菊や葵がちりばめられた意匠やハイレベルの美術工芸品をしばらく眺めていた。さすがに格式の高い毘沙門堂だな・・・外部とは扉一枚隔てただけなのに、内部は時間が静かに流れる別空間。毘沙門堂へ来たら、ぜひ内部も拝観することをお勧めします。本堂と廊下でつながった奥にあるのが、御霊殿。有料エリアの建物内はどこも撮影禁止だけど、外の部分なら許されるだろうと数枚写真を撮ってますが、確か本堂から御霊殿へ向かう途中の光景がこれだったと思う↓。 え~、位置関係からすると左に写ってるのが霊殿で、その奥が「高台弁才天」。毘沙門堂でもらったリーフレットによると、豊臣秀吉の正室・おねが大坂城内に祀っていたものを移築したものだという。大坂城内?どの時点での移築だろ・・・毘沙門堂は最澄ゆかりの古くからの名刹とはいえ、秀吉が健在の頃なら江戸期ほどの格式はまだ持っていなかっただろうし、その頃毘沙門堂の前身である出雲寺はかなり荒廃していたはずだから、秀吉が生きていた頃はもとより、大坂の陣以前の移築はちょっと考えにくい。流れ的には大坂の陣以降、天海以下の寛永寺の面々に手を貸した徳川家がらみで移築したと考える方が自然な気がするけど、あの大規模な大坂城攻めで弁天堂が残れたのか?って疑問も湧く。ま、とにかくこの弁天堂は別名を「不老弁才天」ともいうそうで、多くの庶民の信仰を集めているんだそうな。上の写真にも写ってますが、霊殿は 亀腹だあ廊下を伝って歩いているので、あいにく霊殿全体の写真はありませんが。 【御霊殿 御霊殿の造立は元禄6年(1693)で外陣の天井画の黒画丸龍図はその 西北隅に狩野永叔主信(1675~1724)の落款がある。永叔は狩野安信の 嫡孫弟で、中橋狩野家の当主として活躍した。】 (霊殿内部の解説より。漢数字は戦国ジジイが変換)御霊殿は元禄6年(1693)公弁法親王の建立だそうな。ま、公弁法親王とはいっても、もちろんカネは幕府から出てるでしょうけどね。5代将軍・綱吉は寛永寺の堂塔伽藍も一挙に建立して、綱吉&公弁法親王の代で寛永寺の主要堂宇がほぼ出揃っているけど、毘沙門堂まで援助してたってことか。解説の通りここには天井に龍がおり、御本尊である阿弥陀様の両脇には厨子に入った小さな坐像が数体と、はじに位牌がある。わたくしは現地では位牌までは覗きこまなかったけど、これはどうやら徳川将軍たちのものだったらしい。おそらく、表には出ていなくてもここには輪王寺宮のお位牌もあると思うけどね。この旅より後に行った旅では、いくつかの寺で徳川将軍の位牌を祀っているのを見た。中には、悪いけどええ、何でここに位牌があるか!?って寺もあったぐらいなので、朝廷と幕府をつなぐ輪王寺宮のふるさととも言える毘沙門堂で徳川将軍の位牌を祀っているのは何の不思議もない。霊殿内陣のふすまなども見事な障壁画。本堂に続き、さすがは毘沙門堂といったカンジです。霊殿から廊下を伝って入るのが宸殿(しんでん)。霊殿あたりから見た宸殿↓。 たぶん渡り廊下付近にあったものだと思うけど、閼伽井(あかい)↓。 閼伽井の上屋の瓦は れんかちゃん(蓮花-れんげ-紋)だあしかし、鬼板のところはなんだろ?見事に破損しておるぞ。自然な劣化なのか、それとも意図的に破壊したか?意図的らしきものは寛永寺で沢山見てるけど、もっと綺麗にぽっかりしてたぞ。なら、自然発生的なものか。にほんブログ村
2015年07月19日

唐門の前には両サイドに銅灯篭がある。向かって右手の銅灯篭の並びには石灯篭もあったけど↓ ここはもちろん、銅灯篭へ食いつくでしょう。素材もさることながら、全体的なデザインはわたくしがよく見慣れたものだからね。まずは外観からね。 寛永寺(つか、現在の上野東照宮)の銅灯篭はまだ全制覇してませんが、徳川家と大名のとではデザインが違う。※上野東照宮の御三家の銅灯篭は「上野第二編(69)」~「(70)」、大名家の銅灯篭は「上野第二編(39)」~「(43)」参照。まあ、御三家の銅灯篭もそれなりにバリエーションはあるけど、共通する意匠があるので大名家の奉納品か徳川家のかは大ざっぱに見分けがつく。日本全国に腐るほどある寺の総数からいえばわたくしが訪問した寺の数なんてのはごくひとにぎりにも満たないもので、しかもまともに観るようになったのはここ数年のことだから、経験値はかなり低いのだけど、それでも個人的な印象からすると銅灯篭なんてものは限られた場所にしかないと思われる。今はいくつかの寺に分散しているけど、おそらくかつては5本の指で足りるぐらいの数の寺にしかなかったものじゃないかと思う。その、現在に残る銅灯篭のうちで個人的なスタンダードは寛永寺の根本中堂や両大師にあるもの。この2つの境内にある銅灯篭の銘は、今はない。たぶん、銘がつぶされたんじゃないかと思う。(銘を再確認した記事は「寛永寺にほとけが集結してます(1)」)大名の奉納品は色んなバリエーションがあって、将軍霊廟への奉納だから皆様気張って造ったのか、それぞれのデザインの違いを楽しむことができる。そういう点では大名の銅灯篭の方が観ていて楽しいとも言えるけど、毘沙門堂のは割にスタンダードに近いような・・・でも、よく見ると違う部分もあるしそれにこれ↓ 笠に龍が付いてるのは徳川家のによくあるパターンだけど、火袋の部分からこんな風に突き出してるのは今のところ観た記憶がない。とすると、大名家系に分類した方が適切かな?そりゃね、シロートがデザインだけ見てどなたの奉納かなんてわかる訳ありません。でも、銘を見て納得できるようであれば、わたくしだっていちいちこんなこと考えたりしません。つまりは浄土院のように銘に納得していないってことですが、向かって右手の灯篭は 【毘沙門堂御寶前 前天台座主一品公寛親王御寄附 享保六年辛丑三月吉祥日】向かって左側は足場のようなものの中に埋没していて左右どちらとも観察はしにくいのですが、日付と毘沙門堂あてなのは向かって右のと同じ。ただ、「毘沙門堂御寶前」と日付との間になにやら文字があって 輪王寺宮の墓は数えるほどしかお目にかかってないのですが、「○○院殿」としている銘は見たことがない。この銘の不自然なところは、「毘沙門堂御寶前」と日付はかぼそい字なのにはっきり読める。なのに、上の写真で白くなってる「ナントカ院殿」の部分ははっきりした彫り方のハズなのに、文字がかなり不明瞭。その上、通常銘が刻まれる部分の地は汚い。わたくしが何を考えているか、もうおわかりですね。ここの灯篭も元の銘がつぶされたような気がするんですよ。だって宮が銅灯篭を寄進するなんてのもなんか変だし。「ナントカ院殿」の部分がもうちょっとはっきり読めたらな・・・けど、全体的な文字のカンジからすると、わたくしには「大猷院殿」に見えてしかたがない。まあ、わたくしの知識なんて乏しいものだから、歴代輪王寺宮にゆかりの深い毘沙門堂に公寛法親王が灯篭を寄進したとしても別におかしくはないのかもしれない。それにしてもなんだかな・・・享保6年(1721)?吉宗の時代か・・・と、ここでその頃に家光(大猷院)の上野霊廟が焼失したことを思い出した。で、寛永寺シリーズを読み返してみたところ、家光の上野霊廟が焼失したのは享保5年(1720)だった。家光の墓は日光にあり、霊廟としての「大猷院」ももちろん日光にある。でも寛永寺にも家光の霊廟が造られ、ちょうど焼失した時期の将軍が倹約令で有名な8代・吉宗の時代だったため、家光の上野霊廟は再建されなかった。そして、家光の上野霊廟の勅額門とされるものは現在4代・家綱の霊廟を守る門として現存している(「上野第一編(2)」参照)。家光の上野霊廟にもそこそこの数の灯篭が奉納されていたハズで、再建せず規模を縮小のうえ家綱と合祀したのであれば、置き場所に困った灯篭のいくつかをお下げ渡しにしたとしても流れ的にはおかしくはない。もちろん、浄土院の灯篭のように近代に入ってから毘沙門堂へ移されたって可能性もなくはないけど、たぶんそれだったら奉納当時の僧侶の名前が刻まれるだろうし、わざわざ公寛法親王の名を持ち出す必要なんかない。ので、結論としてはもともと寛永寺の上野霊廟へ奉納されたものが霊廟の焼失によって多少整理する必要に迫られたこともあり、輪王寺宮・公寛法親王の名をあらたに刻んで公寛法親王から毘沙門堂へ贈られたものじゃないかと推測いたしました。他の可能性としては江戸城内にあった紅葉山の霊廟へ奉納されたものもあるけど、紅葉山のなら江戸期よりは明治に入ってから移される可能性が高い気もするし、毘沙門堂への奉納と家光の上野霊廟の焼失時期がちょうど重なることから、寛永寺にあった灯篭という可能性の方が高い気がする。寛永寺シリーズで書いたように、歴代輪王寺宮は天台座主も務めているものの、輪王寺宮としての任期と天台座主としての任期は必ずしもイコールではなく、公寛法親王は196世と199世の2回天台座主を務めているようで、1回目は享保3年6月13日からで、2回目が享保16年5月27日からだから、1回目の座主を務めたあとにこの灯篭が奉納されたものと思われます。もしこのつぶれてる銘がホントに大猷院殿だったなら日光にあった灯篭という可能性もなくはないですが、日光から流出するとは考えにくいので、やはり寛永寺の可能性が高いと思います。実は毘沙門堂の灯篭について論文を書いておられる方がいるらしいんだけど、おしくもそれが入手できなかったので、もし入手できたらまた報告するかもしれません。どういうことが書かれているのか非常に興味がありますが、手に入らなかったものは仕方ありません。国会図書館まで行けば手に入るでしょうが、今はなかなかその時間も取れそうにないしんで、これが残りの唐門の写真↓。 ↑これは蟇股を裏側から見たところだったかな。蟇股の後ろにさりげなく菊の御紋が・・・菊と葵、この2つが毘沙門堂の格式を表わす象徴とも言えるでしょう。して、門のところにはこんなものも↓。 いちまんえんか・・・気軽に出せるお値段じゃないな。そういえば、寛永寺両大師ののぼりも一万円だったっけ。これが相場なのかな(笑)。さてこちらが唐門をくぐってすぐのところにある本殿↓。 ここまではタダですが、内部拝観は有料。この時はオフシーズンの平日にもかかわらず、さすがに山科の名所だけあってぱらぱらと拝観者はいたものの、内部まで入る人はあまりいなかった。わたくしはもちろん入りますよ。事前の調べでは、ご住職などがお手すきであれば説明に付いてくれるみたいなことだったんだけど、受付でお金を払ってもおじさんは何も言わなかった。説明について聞いてみようかとも思ったけど、一般の拝観者と食いつきどころの相違が多いわたくしは自分のペースで観たいという思いもあり、まして今回は宮萌え~で行ってるので一人で静かにまったりしたくもあり、説明はお願いしなかった。受付のおじさんは、観る順路と見どころなどを教えてくれた。それを聞いてリーフレットをもらってから、いざ中へ。にほんブログ村
2015年07月18日

【毘沙門堂 護法山と号する天台宗の門跡寺院で、春の枝垂(しだれ)桜と秋の紅葉が美しい 山科の名刹として知られている。 寺伝によれば、大宝3年(703)に上京区の相国寺の北に創建された出雲寺が 起こりと伝えられ、延暦年間(782~805)に最澄(伝教大師)が自ら作った 毘沙門天を安置したことから、毘沙門堂と呼ばれるようになったという。 平安末期以降、度重なる戦乱で荒廃したが、天台宗の僧・天海とその遺志を継いだ 弟子の公海により、江戸時代の寛文5年(1665)に現在地に再建された。 その後、後西天皇の皇子・公弁法親王が入寺し、以来、皇族や摂関家の子弟が 門主を務める「門跡寺院」となった。正面の本堂に本尊の毘沙門天が祀られている。 左奥の宸殿は後西天皇の旧殿を賜ったもので、狩野益信の筆による、見る角度に よって目や顔の向きが変わる「天井の龍」や、逆遠近法で描かれた「九老之図」などの 襖絵が有名である。その奥には、晩翠園と名付けられた池泉回遊式庭園がある。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)ん~、ほとんど過去の記事で書いた内容だけどね。過去の記事をおさらいしたい方はこちら↓。「上野第二編(23)」 「叡山攻め(76)」 「輪王寺7」 「輪王寺13」など。少し前に別件で京都市内の地図を見ていたところ、信長様の墓のある阿弥陀寺を含む寺町のあたりの地名が「出雲路ナントカ」となっているのに気がついた。(阿弥陀寺のリンクを貼ろうとして、記事を公開してないことを思い出した)阿弥陀寺なんかは相国寺の真東にあたるけど、相国寺より北の位置にも「出雲路」を冠する地名があるので、出雲寺は賀茂川付近にあったのかもしれない。それでは、極楽橋を渡って境内に入ります。 付近にあった境内図↓。 おお、門がいくつもあるぞ~。さすが、格式ある寺は違うな。あと、こんな標識もあった↓。 ここから山道を歩いていくのかな?山道を歩いて蹴上まで2時間程度で着けるのか?ホントに?境内域に入ると、なにやらカラフルなのぼりが・・・ ・・・なんかちょっと、想像してたのと雰囲気違うんだけど上の写真の右手に白壁の塀が写ってますが、 ああ、うん、維持管理もホント大変だよな~この塀には小さな門が付けられてるんだけど↓ 門の前に出る道は通行止め↓。 一段上がると奥へも道が続いていてつい行きたくもなるけど、 ここはまず手前の階段を上がって中心部へ。 ああ、う~ん、なんだか・・・参道をまっつぐ上がる手前の右手にはなにやら色々ある↓。 奥にある赤いお堂が地蔵堂で、ちょっとだけ立ち寄ってから参道へ復帰。 結構段数あるな重い身体をどうにかマイ足で上まで運び上げると、そこが仁王門。 あ~あ~、なんだかずいぶんと庶民的になっちゃって・・・格式のあるお寺なんだから、こんな風にしなくてもいいのに。フツーの寺ではない歴史を知っているだけに、個人的には気に入らない。が、人様の経営方針にケチをつけちゃいかんな。仁王門ですから、もちろん両脇には仁王様がおわします。 ふむ、なかなか。毘沙門堂のホームページによると、この仁王様は寛文5年(1665)の造立だそうな。 朱がまぶしいぜ・・・比較的近年の修繕ぽいな。えっと、これも仁王門だったかな↓。 仁王門をくぐって中へ入ると、右手には手水舎とその奥は庫裏かな? 手水舎は華奢な細い柱と重そうな屋根のバランスがイマイチだけど、妻のあたりは結構古そうに見える↓。 水盤に水を供給しているのはお決まりの すごい形相だなお口をずっと開けてると疲れませんか?で、こちらが仁王門を入ったところの正面↓。 あいにく、工事中だったようで(2014年1月現在)。仁王門と同じく朱のまぶしい唐門に近寄ってみると 日光と寛永寺に通ったわたくしには大変見慣れた系統の意匠があちこちにちりばめられていた。しかも、飾りの中にはさりげなく葵が施されていたりして、徳川将軍家の肝煎りで復興して繁栄した寺だという歴史を静かに物語っている。宮萌え~で行ったのに、仁王門までがあまりに庶民的でイメージが違っていたので正直テンションがかなり下がっていましたが、ここでまた復活しました。しかも、遠目には組まれた足場や看板に埋没してて気が付かなかったけど、唐門まで来てふと脇を見ると あっ、銅灯篭!!灯篭なんか誰も観ないと思ってか、上の写真の通りあろうことかこの銅灯篭に看板なんかもたせかけちゃって大変ジャマですができる限り観察しました。にほんブログ村
2015年07月14日

さて、法然の話は前回までで一旦終わりとして、旅日記の続きに入ります。<4日目>2014年1月28日(火) 晴れ坂本にはまだ観たいところがあった。この日は半日ぐらいは坂本観光に回すこともできたんだけど、前日和順会館に着いたのが遅かったこともあって、必然的に寝るのが遅くなった。疲労もピークにきていたので起きるのは少し遅かった。前日までに山科駅の地下道を歩いていた時、古い町だけあって壁には付近の名所や歴史を解説したものが色々貼られているのを見て、あっ、そうか、山科ってこれがあったな!と思い出したものもあったので、当初の予定を大幅に変更して坂本へ行くのはやめてこの日のメインのあとで地下道で思い出した山科の名所を軽く見ることにした。いちおう8:30過ぎには出かける支度はできたんだけど、今日ってそういえば平日だよな・・・通勤ラッシュに遭遇するのもイヤだから少し出るのをずらそうとタバコでエネルギーチャージを始めたんだけど、あまりに疲れていたのでだらだらしているうち、あっとゆー間に9:30ぐらいになってしまったああ、もう今日は出かけたくない・・・しかし、この日のメインも相当楽しみにしていたし、ここまで来て1日だらだらしている訳にもいかない。のでようやく重い腰を上げて電車に乗って、山科に着いた時はもう10:00だった。史跡めぐりの旅で10時スタートなんて遅い時間になったことはいまだかつてない。それほど、この時は疲れが溜まってました。で、山科駅前には山科人の宣言を掲げた看板があった。 【いい郷土(くに)つくろう 天智・中臣の里(山階)山科 国難に際して、自ら立ち向かった尊い天智天皇と中臣鎌足の遺徳。 私ども山科人が綿々と受け継いで来ているこれら大化の改新から始まる 栄光の歴史の復活を私は提言します(noblesse oblige)。 ご先祖を敬うことは人間の基本的な行為であり、そのものが親を敬い子をいつくしむ 関係となす。民主的な社会基盤とは人間を尊重することにはじまり、隣人を愛する ことで結ばれる。 NPO法人 自由人権国民会議 理事長】 (現地解説板より)天智&鎌足のコンビを掲げながら標語が鎌倉幕府創設のゴロ合わせ<いい国(1192)作ろう鎌倉幕府>になっちゃってるところが少々笑いを誘いますが、山科には天智天皇陵があるのでね。ウィキペディアでは天智天皇は大津宮で病死したとあるけど、『扶桑略記』には天皇が馬で山科に出かけたが戻ってこないので探しに行ったところ、天皇の沓(くつ)が落ちていた。そこで、沓の落ちていた場所を陵とした・・・などという記述もあり、井沢元彦氏などはこの記述を重視して暗殺説を展開している。ま~ま~、それはともかく、「いい郷土つくろう」の看板の隣には本日のメインへの案内がデカデカとあった↓。 前シリーズの内容を覚えておられる方には、「ああ、そう来たか~」とピンと来るかもしれませんね。もともとこの旅のきっかけは天海と輪王寺宮の追っかけ的なもので、ぶっちゃけ叡山ではほとんど天海のことなど思い出しもしませんでしたが、毘沙門堂は思いっきし宮とのゆかりの深い寺であり、どんなに疲れていようとも、ここを外す訳にはいきませんでした。毘沙門堂の看板の隣には「山科聖天」の案内もあり、これは毘沙門堂のすぐ近くにあるお寺のようですが、「天台宗 双林院」とある。良源さんも山科に拠点を持ってたし、山科は歴史的に天台カラーが強いお土地柄のようです。山科聖天の看板の隣にある「山科両別院」もお寺ですが、これは別の宗派。この看板に従って線路沿いを東へ歩いていくと、また大きな看板があった↓。 ここで進路を変えると、あとはもうただひたすら北上するだけ。 地図を見るとこの道はほぼ一直線ですが、実際に歩いてみるとより一直線だと感じるので、ああ、ここは古くからの参道なんだと実感します。ただまあ、古い道というのはえてして道が細いですが(笑)。この道に入れば迷うことももうないので、のんびりと毘沙門堂への参道を歩く。しばらくすると、疏水が現われた↓。 これは第一疏水。琵琶湖からスタートして南禅寺のある蹴上(けあげ)まで続く。あ~、これをたどっていけば園城寺(三井寺)まで行かれるんだな・・・なんてことを考えながらてくてく。途中にも古い道標がある↓。 その近くには どうやらこの道を東へ入っていったところにある2つのお寺のことらしいけど、ずいぶんアピールするなあこれも古い道標なんだろうか。道はさらに細くなる↓。 この道の先に、小さなお寺があった。 途中にあるお寺のことなんか調べてはいなかったけど、門前に解説の立て札があったので由緒のある寺かと思って看板を覗いてみた。 【瑞光院(ずいこういん) 紫雲山と号し、臨済宗大徳寺派に属する。 赤穂義士の遺髪が埋葬されている、「忠臣蔵」ゆかりの寺院である。 慶長18年(1613)に因幡国)現在の鳥取県)若桜(わかさ)城主・山崎家盛が 大徳寺の琢甫(たくほ)和尚を開山に講じて一寺を建立したが、家盛の没後、その 法号にちなんで瑞光院と称したのが当寺の起こりである。もと上京区の堀川鞍馬口に あったが、昭和37年(1962)11月にこの地に移った。 元禄初期には、当院第三世陽甫和尚が播州(現在の兵庫県)赤穂城主・浅野内匠頭長矩 夫人瑤泉院と族縁に当たることから、浅野家の祈願寺となった。元禄14年(1701)、 長矩が江戸城で吉良上野介に忍傷に及んで切腹した年、当院内に供養塔が建てられ、 また元禄16年(1703)、上野介を討った大石良雄らが切腹した際、その遺髪が 寺内に葬られた。境内には長矩の墓や、良雄ら四十六義士の遺髪塔のほか、良雄が 生前愛したという梅の古木がある。12月14日の義士討入りの日には、義士ゆかりの 寺として参詣する人が多い。】 (現地解説板より。漢数字のみジジイが変換、ほかは原文のまま)は?ギシ?なんだよ、こんなとこでまで・・・そういえば山科って大石良雄が隠棲したところで、討ち入りの日だかなにかにはギシ関係のイベントがあるとかセキュリティよしおが言っておったな。大石良雄の住居跡はここからもっと南の方らしいけどね。求めていないのに、なぜにわたくしの旅にはギシがつきまとうのだろう。憮然としながら道をさらに進むとどん詰まりまで来た。ここが本日のメイン、毘沙門堂の入口です↓。(場所はこちら) どん詰まりといってもさらに細い道が右手に続き、これをたどると山科聖天へ行かれるらしい。でもここは当然、正面の道へ進みます。境内に入る手前には小さな橋がある↓。 この橋は小さなせせらぎの上を渡されているのだけど 橋の手前には「下乗」の碑があり↓ 【極楽橋 人皇百十一代後西天皇がこの地に行幸せられ橋より上はさながら極楽浄土の様な 清浄華麗な霊域であると感嘆せられ極楽えの橋「極楽橋」との勅号を賜はつたもので、 明治以前までは如何なる高位の人といえどもこの処で下乗され参拝されたのである。】 (現地碑文より原文のまま)極楽浄土か・・・当時はもっと風情があったんでしょう(笑)。後西天皇がここへ来たのはただの参詣だったのか?個人的には息子がらみのような気もするんだけどな。毘沙門堂については寛永寺シリーズや日光写真館で触れてきていますが、かいつまんだ歴史を語る解説板が境内にあったので、次回は解説板から紹介していきましょう。にほんブログ村
2015年07月12日

法然自身は、栄養のバランスの取れた食事を続けて大きくなった。天台だけでも色々なメニューがあるのに、さらに他宗も学んだとされる。『絵伝』には、ある時他宗の高僧が法然の知識を試そうとして他宗の教義について質問をしたところ、法然はすらすらと答えた。高僧が帰って経典を調べてみると、ことごとく法然の答えた通りだったというエピソードがある。もちろん『絵伝』は顕彰のための絵巻物だからいくらか割り引く必要があるだろうけど、もし法然が本当に当時の日本仏教界の教義をおおむね学んだのだとしたら、学んだ上で称名念仏だけを最終的に選択したということにもなり、あからさまに他宗を批判はしなくても、やっぱりひろ氏の言われるように称名念仏以外は全面否定した、という見方もできるだろう。ただ、興福寺の訴状はすぐに後鳥羽の院には届けられなかった。訴状を取り次ぐ蔵人頭や摂政が法然に同情を寄せていたからだという。この時の摂政は九条兼実の子・良経だったからね。ちなみに良経さんの歌は百人一首にも入選してます。 きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに 衣かたしきひとりかも寝むが、興福寺からの訴えが起こされた翌年の建永元年(1206)、良経が37歳という若さでこの世を去る。そして同年の末、事件は起こった。法然の弟子の安楽・住蓮という僧はイケメンで、しかも声が良く人気があった。後鳥羽の院が熊野に行幸に出かけると、院に仕える女官が数名安楽と住蓮の鹿ケ谷の草庵に出かけていき、さらにその中の2人がそのまま出家してしまったという。『絵伝』には、安楽と住蓮の2人が鹿ケ谷で別時念仏を始めると、珍しくまた尊い仏事だというので京の町からも多くのギャラリーが押し寄せ、そのまま発心した人も多かったとある。それで、熊野から戻った院に近臣の1人がかなり悪しざまに事の次第を報告したというんだけど、世間一般では密通してたんじゃないかとも言われている。ま、事の真偽はどうであれ、院は激怒した。後鳥羽の院という人は文武ともにマルチな人として有名だけど、性格も激しいところがあったともいうので、まあ激怒したというのも理解できる。して、安楽と住蓮の2人は死罪となった。『絵伝』では安楽だけが死罪となったような書かれ方で、刑場となる六条河原には多くの信者が駆け付けた。安楽が引き出されると一斉にどよめきと念仏の声が上がり、安楽が日没の礼讃を望んだので縄が解かれ、安楽は西に向かって合掌し高声の念仏を始めた。もちろん駆け付けた衆も安楽に和してともに念仏を唱えた。そして全員での念仏が終わると大きく十念を唱える声が聞こえ、空には紫雲が広がった。集まった衆は一斉に感嘆の声を挙げた・・・・・2人が死罪になった後も院の怒りは治まらず、翌建永2年(1207)2月28日、法然に遠流の命が下った。配所は土佐。法然は名を「源元彦」(あるいは藤井元彦)と変えさせられた。つまり、還俗です。なんで還俗なんかさせるのか?院の怒りを買ったのは密通の疑惑がかけられたからだと一般に言われるけど、その疑惑の張本人である安楽と住蓮が僧籍を剥奪されるならまだわかる。でも、法然は別に女犯の戒を破った訳じゃない。僧侶としての問題行動があったのなら、仏教界を監督する僧綱に任せておけばいいのに、そうはならなかった。法然と共に還俗させられて流された弟子は数人いた。ひろ氏によると、この流罪となった弟子の顔ぶれから問題の核心がうかがえるという。まずは幸西(こうさい)、この方は「一念義」を主張していた。法然もただの一念で往生は可能だとしながらも、できるのなら数は多い方がいいとも言っていた。とはいっても、数字としての回数が問題なのではなく、むしろ自分が念仏しやすい環境を整えて念仏に励むということを大事にしていたんじゃないかと思う。『絵伝』では、沢山の信者が法然の庵に詰めかけたり、上つ方の招きなどを受けて法然が人と対話する場面が多く描かれているけど、説法をする時も、誰かんちへお邪魔した時も、誰かを自分の庵へ迎えた時も、流罪になる船の中でさえ『絵伝』の法然はいつも数珠をまさぐっている。こうやって常に念仏と共にあったということをアピールしたいのかもしれないけど、人と話しながら念仏を繰っている絵を見ると、「人の話、ちゃんと聞いてマスカ?」とついツッコミを入れたくなるぐらいいつも数珠を繰っている。あ、ブッチーのために付け加えておきますと、宗派によって形状や用途の違いもあるようだけど、数珠ってのは念仏などの回数をカウントする道具だからね。そうじゃないと、源信が20俱胝(くてい)の念仏を数えるなんてできないでしょ。もう1人、一念義を唱えた弟子に行空という人がいる。この人は法然が流罪となる前、興福寺から訴えがあった頃に法然に破門をされたらしいんだけど、それでも流罪となっている。 【さて、お気づきのように、この「一念義」は、法然の念仏理論のうちでも相当に 極端な理論である。ここでは、念仏という「行」が否定されてしまっている。 たった一回だけ称えればいいということは、何もしなくていいというに等しい。 その意味では、「仏教」の枠を毀す理論である。それ故、旧仏教側がいちばん 敵視するのは、この「一念義」である。】 (『仏教の歴史8』より)たったひとつの行・称名念仏だけでヨシとした法然の主張だけでも当時の伝統や考え方からすれば相当過激だったのに、弟子のうちでさらにそれを煮詰めて「念仏1回」でヨシとする者が現われた。法然の弟子で流罪となった者は7人いるとされ、一般的には「中心的な高弟」の7人だとされる。確かにその解釈の方が教団の責任が追及されたという説明をするには都合がいい。が、実際は少し違うようで、流罪になった中には法然の晩年に弟子となった者がいた。世間にも超メジャーな彼は、若い頃は相当な原理主義者であったらしく、ひろ氏の表現を借りれば彼の主張は「一念義」どころか「無念義」だった。法然が説く決定往生への道に必要とされるのは信心と称名念仏だけで、菩提心などは要件には入っていない。これではあまりに一面的すぎるし、菩提心がなければもはや仏教じゃないじゃん!と『選択本願念仏集』を読んだあとに法然を痛烈に批判した南都の高僧もいた。そのうえ、理論としてはただ一回の念仏さえもいらないだろ?と考える者まで現れれば、これはもう危険分子の最たる者とみなされるのも当然といえる。僧尼令では、僧の処分はあくまで仏教界内部で行われるものであり、国家(俗人)には手出しはできない。でも、僧籍を剥奪する権利は僧綱にはない。国家が危険分子を処断するために、僧籍を剥奪した・・・つまりこれは思想弾圧だとひろ氏は言う。さて、当の法然は流罪になって何と言ったかとゆーと、「え?土佐へ流罪?ああ、田舎にも念仏の功徳を伝えたいとかねがね思ってたんですよ~。よお~っし、新天地でも頑張っちゃおっと」と実におおらかな態度だったという。そして粛々と命を受け入れ、鳥羽から舟で淀川を下って摂津・播磨を経由して讃岐へ向かった。途中途中で立ち寄った場所にも民衆が法然の宿所へ押しかけ、播磨の高砂浦に泊まった時には地元の漁師夫婦がやって来て「おらたちは漁師なもんで、毎日沢山の魚を殺してますじゃ。こんな生業の者は地獄に堕ちるって聞いたんじゃが、なんとかお助けくだせえ~!」と言うので、漁師夫婦に往生への道を説いてやったと『絵伝』にある。また、遊女が法然に質問してきたのもこの護送中のことで、現実の生活と仏教の教えとの狭間にある悩める民衆の心の支えとなる教えを残しながら護送の旅は続いた。ただ、四国へは渡ったものの讃岐止まりだったらしい。これは九条兼実の嘆願が効を奏したともいわれ、九条家の領地などを拠点として10ヵ月ほどを過ごしたところで赦免された。法然この時74歳。赦免になる8ヶ月ほど前には、九条兼実が京で亡くなった。『絵伝』によると、死期を悟った兼実は中納言藤原光親を呼び、苦しい息の下でくれぐれも法然の赦免のことを頼むとしている。そして58歳で兼実は念仏のうちに往生した、とある。しかし、赦免にはなっても法然が京へ入ることは許されず、摂津の勝尾寺でなお2年と少しを過ごす。法然が自分の一切経を譲ったというのはこの勝尾寺のことです。して建暦元年(1211)、78歳でようやく帰京。もとの東山吉水に入った。一連の出来事を、「承元(じょうげん)の法難」または「建永の法難」という。にほんブログ村
2015年07月10日

本シリーズを書き始めてから、今日でとうとう1年。ま、間に短編を挟んだりしてるせいもあるけど、それにしたって・・・さて、前回の続き。縛りがゆるいということは、多くの解釈の余地を残す。法然のもとには多くの弟子や信者が集うようになったが、直接法然に侍る機会の多い弟子でさえ、色々な解釈をするようになった。念仏の回数などもそのひとつで、「一念」でいいと考える者、いやいや多ければ多いほどいいだろ~と考える者など様々だった。で、仏教界との軋轢ですが、まず法然を迎えて諸宗の面々が法然の言い分をとっくり聞いてやろうじゃないかという集まりが持たれた。ひろさちや氏は「念仏理論に関する一大シンポジウム」と表現しておられる。「大原談義」と呼ばれるこの集まりは、法然の名を上げたとも言われるけど、どうやって法然が最初のピンチを切り抜けたかというと、これまでの自力による修行はたしかに優れている。だが、こういう時代だから自分のような低レベルの者にはその道を歩むことはできない。だから私は弥陀の本願におすがりする浄土門をゆく・・・他はけなさない。あくまで自分を低い位置に置いて自分の選んだ道を静かに主張する。決して論争して調伏しようなんて態度じゃないので、集まった他宗の碩学たちも法然に理解を示し、最後にはギャラリーも含め全員で三日三晩の不断念仏を唱え、まるく治まった。ところがひろ氏によると、 【法然の理論は、わたしはわたしの道を行く、あなたがたはあなたがたの道を行けば いいではないか、というものであった。彼は、その道の優劣については触れない。 (中略)法然その人には、聖道門の仏教は無縁だから、比較のしようもないのであるが、 自己の愚かさを前面に出せば、相手のほうは自分のほうが優位にあると錯覚するだろう。 大原談義が無難に終わったのは、法然のそのような態度の故である。】 (『仏教の歴史8』/春秋社より)だそうで、「態度」が説得できるのは相手がその場にいた場合のことで、結局のところは何が変わった訳でもないから、その場にいなかった反対派までも説得することはできない。となると、 【わが道を行くと言うかぎり、その人はわが道をすばらしいと思っているのである。 しかも、相手の道に関心を示さないのだから、相手のほうは自分の道は全面否定 されたと感ずる。】 (前掲書より)ということになるそうな。法然の表面意識にはそこまでのものはなかったかもしれないけど、確かに裏を返せばそういうことにもなる。その上、弟子も在家の信者もどんどこ増えていった。法然に帰依した人には平重衝(平清盛の子)や熊谷直実(平敦盛を討ったことで有名)など歴史に名を残した人も多くいたが、中でも最も有名なのが九条兼実(かねざね)。「九条」の名でピンと来る方も多いでしょうが、藤原師輔の孫の道長の系統の出であり、師輔から数えて8代目の子孫になります。兼実は太政大臣まで上り詰め、同母弟には天台座主を4回務めた慈円がいる。その超セレブの兼実が大原談義のあと、法然に深く帰依した。ひろさちや氏は兼実のサポートがなかったら法然の教団はただのアウトロー集団に終わっていたかもしれないと言う。『絵伝』では法然はある時、ひきもきらない高貴な方のお誘いがウザくなって引きこもってしまったが、兼実からの再三のお誘いに負けて重い腰を上げた。ところが、そういう法然を見て弟子は心ひそかに「なんだ、やっぱり権力者にはへつらうんじゃん」となじった。その夜、その弟子の夢に法然が現われて「私と殿下とは、もともと深い因縁がある。ほかの人とは違うのだ」と弁明したエピソードがつづられている。ま、その話の真偽はどうであれ、貴族の帰依も多かった中で兼実は法然の代表的なシンパだった。実は多くの貴族が法然に求めていたのは受戒することだそうで、兼実ものちに法然から戒を受けている。専修念仏を掲げる法然に戒を求めるのもおかしな話の気もするけど、それだけ法然がフツーの天台僧としても充分なものを持っていると周囲から認識されていた証じゃないかとも思う。ちなみに、兼実が法然に深く帰依していたこともあってか弟の慈円もおおむね法然には好意を示しており、慈円が天台座主を務めていた時には叡山から法然への攻撃はなかったんだそうな。さて、大原談義から20年ほど経つと、叡山で専修念仏の停止(ちょうじ)を求める声が上がり、天台座主へ決議が上申された。それに対して法然は「七箇条起請文」を作って天台座主へ提出した。起請文とある通り、私の方ではこういうことを弟子たちに禁じましたよ、という内容なんだけど、1、ロクなことも知らんくせに天台・真言を批判したり、 阿弥陀仏以外の仏や菩薩をそしったりしちゃイカン。2、真っ当に修行している人や別の道を歩んでいる人にケンカをふっかけたりしちゃイカン。3、違う見解を持つ人や別の修行をしている人に、その道を捨てさせようなんて ことはしちゃイカン。4、念仏門では戒を守る必要がないからと言って肉食や飲酒を勧めたり、 戒を守っている人を「雑行(ぞうぎょう)人」と呼んで卑しめることや、 弥陀の本願を頼む者は悪事をなしても怖れることはないなんてことを 言いふらしたりしちゃイカン。5、師の正しい教えではなく、勝手に個人的見解を述べてみだりに論争をふっかける ようなことはしちゃイカン。6、人に教えたがって勝手な邪説を無知な人々に教えこむようなことはしちゃイカン。7、勝手に邪法を説いておきながら、これが師の正しい教えだとウソついたりしちゃイカン。禁制というのはたいがい、現実に起こっていたことの裏返しなんだけど、この起請文は叡山への弁明でもあるのでいくぶん割り引いたとしても、少なくともこれに近いことは実際に起こっていたのだろう。して、これには門弟190人の連署が添えられている。つまりは正規の弟子と目される者が190人いたということで、190人が多いのか少ないのかは見解の分かれるところかもしれないけど、ひとつの目安として横川が独立した時点の僧の数に近い。「門弟3千人」ともいわれる良源さんの時には、3千のうちの200なら数としては大したことない。けど、その数をもって良源さんは横川独立に踏み切った。そもそも当時の天台座主が良源さんだから、どう転んでも最終的には横川は独立できたのかもしれないけど、でも良源さんはきちんと叡山の上層部の承認も得ている。ということは、200人ぐらいいれば立派な一大勢力と見なされていたってことだよな。そして、法然の教団には多くの民衆や貴族も帰依している。だから、仏教界が無視できないほどの勢力に成長していて、なおかつ勝手なことをする弟子が増えていたのであればこれは攻撃をされても致し方ない。叡山の方は、起請文を提出したことでいちおうおさまったらしい。が、上の七箇条は「浄土宗からのお知らせ」なんてCMで不特定多数へ向けられたものじゃなかったので、翌年には南都の興福寺からクレームが付けられた。いわく、1、勅許も得てないのに、勝手に念仏宗をたてたじゃん!2、専修念仏のヤツだけが阿弥陀仏の光明を受けて天台・真言には及んでないなんて バカにしてるじゃん!3、釈尊を軽んじてるじゃん!4、聖道門の修行を否定して、大乗をそしってるじゃん!5、神祇を軽んじてるじゃん!6、専修念仏以外では往生できないなんて大間違いなことを言いふらしてるじゃん!7、念仏には観想だってあるのに、称名だけをヨシとしてるじゃん!8、賭博や女犯・肉食を認めて破戒しまくりじゃん!9、諸宗は力を合わせて国を守るべきなのに、他と協力しないじゃん!・・・と、浄土宗の非をあげつらった内容になっている。歴史の中で、既存の仏教界というのはいつも新参者イジメをする。最澄が大乗戒壇を設立しようとした時も南都の猛反発をくらったし、法然のあとに現れる鎌倉新仏教もそれぞれ迫害を受けている。その理由の中には、姑が嫁をイビるような感情的なものもあったかもしれないけど、こと鎌倉新仏教に関しては無理もないとも思う。 なぜって、前々回あたりのバイキングの話を思い出してください。宗派ごとに第一と掲げる中心の教義はあったものの、それまでは色んなものを食べて比較的栄養のバランスは良かった。それを、基本的にはたったひとつの行だけでヨシとする極端な論法を掲げる者が次から次へと現れてくれば、栄養満点の食事を続けてきた人達が「えっ、リンゴだけ?えっ、バナナだけ?オメーラ、何考えてるんだよ!!」って思うのは当然じゃないですか?どちらが正しいなんてことはいちがいには言えないけど、それまでの伝統や常識を覆す過激な思想が現われたことは確か。叡山は「総合大学」と言われ、学科に例えられるメニューが色々あった。日常の勤行については、「朝題目に夕念仏」ともいわれて節操がないみたいに言われたりもするけど、節操がないんじゃなくて伝統的なバランスのいい食事を取っているようなものだと思う。和順会館で買った『法然上人のお言葉』は、一見薄っぺらい小冊子のようで中身は結構盛りだくさん。ただ、それぞれのお言葉を「いつ」発信したのかが書かれてないのが難点だけど、ひろ氏によると年を取るごとに法然の思想は次第に過激な方へ変化していったらしい。『お言葉』の中でひとつわたくしが驚いたのが臨終に関する話で、 真実に往生の志があり、阿弥陀仏の本願を疑わず念仏を唱える人が臨終の際に 心が乱れるなどということはまったくありえない。なぜなら、仏が来迎するのは そもそも念仏の徒を臨終に正念させることなのだ。それを理解していない人は、 「自分が臨終に正念を保って念仏を唱える時にのみ、仏はお迎えになる」なんて 考えますが、これは仏の本願を信じず、経典の文言も理解していないからです。 経典には「阿弥陀仏は慈悲をもって臨終の人を助けてその心が乱れないように なさる」と書かれているので、普段からよくよく唱えておいた念仏によって 仏は必ず来迎なさり、その仏を見て念仏者が正念に留まるということなのです。もう、源信の頃から理論が180°転換しちゃってます。これはかなり後の考え方じゃないかと思うけど、それにしたって、100年ぐらい前にあれだけ皆が苦労したのは一体何だったんだ?ってことになっちゃうでしょ~!そりゃ、死ぬまでドキドキハラハラよりは法然の理論の方が安心感も得られて「救い」にはとても有効だろうけど、それにしたって・・・てわたくしなんぞは思っちゃいますけどね。興福寺のクレームの6番めはそういうことを含んでるんじゃないかと思います。だから、南都北嶺からのブーイングもやむなしだと思うんだよね。にほんブログ村
2015年07月08日
毎度ありがとうございます。戦国ジジイでございます。今朝方、事件が勃発しまして、しばらくの間は更新の頻度が落ちると思いますのでご了承ください。夏休みに入る前には本シリーズを終わらせたかったんだけど、ちょっとムリかもな・・・まあしょうがありませんまずは取り急ぎ、ご連絡まで。
2015年07月05日

200話め。200という数自体は想定の範囲内。ただし、旅日記はまだあと1日と半分残ってる本編を書き始めた頃、本シリーズではイベントを1つ用意していると書きましたが、まだそれは出てきていない。その場の勢いでつい色んなことを書いてきて200話に到達してしまったので、もうイベントを書くのやめようかとも思い始めた。けど、日本史に転向してからこれまで色々なことを勉強してきたけど、本シリーズほど勉強が楽しく、また身に付いた内容はない。さて、前回のバイキングの続きですが、源信の場合はメインのお盆に浄土風な料理を数多く載せた。ただ、晩年まで天台の学僧としての活動も平行して続けているので、別のお盆に最澄と同じような料理を載せてしこたま食べたってカンジかな。ついでに言うと、南都六宗の僧たちもそれぞれメインとなる料理はあったけど、いずれも別のお盆に様々な料理を載せて色んなものを食べた。最澄と空海以前の・・・いや、法然より前の僧たちはみんな複数のお盆を使ったり何度も席を立って別の料理をおかわりしに行って色々食べた。では、法然は?法然がお盆に載せたのは、「念仏」料理1コだけだった。まあ、信心とか多少の善行とかもいるようなことを言っているので、純粋な念仏料理1コだけとは言えないかもしれないけど、でも小鉢と言えるほどの分量でもない。念仏料理の皿にいくつか少量のピクルスやトマトを載せた程度のもんかな。料理としてはほぼ単品と変わりない。源信の浄土のお盆とあまり差がないように思うかもしれないけど、源信のお盆に載った料理は1つじゃない。至誠心、菩提心、観想念仏、称名念仏、善行、戒といった小鉢をいくつも並べて浄土風のお盆が出来上がった。源信の浄土の世界はいくつもの要素によって構成されているもので、どれか1つだけ食べればいいってものじゃないし、基本的にはどれが欠けてもいけない。法然も源信のお盆は見た。見たけど、源信と同じ数のものはお盆に載せずに、源信のお盆を参考にした上で称名念仏だけを取って載せた。これが法然の「選択」。建久9年(1198)、法然は関白・九条兼実の求めに応じて『選択本願念仏集』を著わす。選択は浄土宗では「せんちゃく」と読み、真宗では「せんじゃく」と読むそうな。お経に説かれていることをまとめれば、本来的には源信のようにいくつもの小鉢をそろえてしかるべきなのに、法然はそうしなかった。まさに、(称名)念仏「だけ」を選択したのだ。これは思い切った決断ですよ~。だって、日本には「学徳の一物」源信がまとめた往生ダイジェスト本、『往生要集』があるんだからね。しかも、源信は往生の行をこなしながら霊山院釈迦講なども行っており、二十五三昧会のメンバーも源信に賛同して多くが釈迦講に結縁した。これを踏まえた上でたった1つの称名念仏「だけ」を選択するというのは当時からすると実に驚天動地とも言えるほどの革命的な出来事だったんじゃないかと思う。実際、既存の仏教界からは「ハア?称名念仏だけ~!?オイオイ、何言っちゃってんだよ」と反発が起こった。井沢元彦氏(『逆説の日本史6』小学館)はここに「おまえたちの主張は極端すぎる」という言葉を当てているんだけど、メインはメインとしてありながらもお盆に沢山小鉢を載せたり、あるいはおかわりしに行ったりして色んなものを食べるのがセオリーだったのが、「おや法然さん、一品しかお盆に載ってないじゃないですか」「あ、私、これだけでいいんです」となればそりゃ皆あぜんとするだろう。しかも、阿弥陀ご一行様のご来迎を確信する信心は求められても、それ以外の菩提心だとかは必要としない。おそらく、法然自身はそれ以外のものを否定した訳じゃないと思うんだけど、言葉のアヤとでも言うのか、「これとこれとこれもいるよ」としてしまうとそれが絶対的な条件となってしまって沢山の要件に拘束されてしまう。だから、あえてそれらは取り上げず、最も必要なものだけを明確にしたんだと思う。死ぬまで法然が戒を棄てなかったのも、そうした考えのひとつの現れなんじゃないのかな。ほかを完全に否定しなかったのならそれは一種の教判と言えるかもしれないけど、当時の考え方、修行のしかたからすれば法然の主張は「過激」だった。なにか1つ「だけ」を「選択」するなんてのはそれまで誰もやらなかったことだから。そして、法然に続く鎌倉新仏教のお祖師たちのほとんどは法然と同じように「教判」じゃなく「選択」をしている。ランク付けをして体系化するのではなく、選び取っているのだ。ほかのお祖師たちが必ずしも法然のやり方を見て「こういう方法もあるのか~」と「選択」に走った訳でもないようだけど、法然への反発から出発している人もいる。法然に学んだのであれ、反発したのであれ法然以後1つの料理しか取らなかった人が続出したことは事実で、そういう意味でも法然の果たした役割は大きい。そしてその「選択」が主だった宗派となって、現代にまで続いている。上で引用した井沢氏の言葉の「おまえたち」は1つの料理しか取らなかった方達を指します。ここでは専門的な解説は省いているので(つか、できないし)、わたくしなりに料理に例えて説明を試みてみましたが、教判と選択の違いが今ひとつピンと来ないかもしれません。わたくし自身もシロートの独学なもので法然のやり方は教判ではなく選択だと思ってはいても、じゃあそれまでとはどう違うのかという上手な説明が付けられなかった。それで『仏教の歴史』をぱらぱらと見返してみたんだけど、頭の悪いわたくしは仏教史関係の本を読んでも1度じゃまったく頭に入らない。読んでる時はいいんですよ。けど、読み終わると何も頭に残ってない。つまり、学生の時のような「勉強のための勉強」だと何も面白くもないし、たいがいはその場限りで終わってしまう。それが自分なりに考えたあとでまた戻って読み返すと、今度は面白いほど理解できる。自分の頭の悪さにはほとほと嫌気がさしますが、まあ勉強なんてのはそんなものでしょう。それで、『仏教の歴史9』の解説にしごく納得できる文章があったのでひろさちや氏の説明を参考にさせていただきますと、教相判釈というのは「内容」で価値・優劣などの判定をしたもので、天台大師・智ギの場合は段階的な流れの中で最終段階を「法華経」とし、最澄はその智ギの判定にのっとって「法華経」を最上としさらに独自のものも加えて日本天台宗を開いた。空海も、顕密の優劣の判定の上に密教を最上のものと位置付けた。南都六宗も同じことで、ここまでは「中身」を重視したもの。ところが、法然の場合は判断の基準が違う。前々回あたりに紹介したように、どの行も悟りへ行きつくものではあるけど、今は時代が悪い。末法の世には教・行・証のうち「教え」だけしか残ってないんだから、こういう時代にはもう念仏で弥陀の慈悲にすがるしかないのだ・・・つまりは「中身」じゃなく時代背景という「外的状況」によって念仏を「選択」した、ってことになるらしい。おお、さすがプロは違うな~と感嘆の声を上げましたが(当たり前です)、法然の選択はわかりやすくとっつきやすいものになったけど、いくつかの危険をはらんでいた。法然という人はいい意味でアバウトで、法然の念仏に対する考え方はとにかく念仏ができさえすればいい、念仏を妨げるものがあれば、できることなら排除すればよかろう、という程度のものだった。具体的には、こんな風に教えている。 同じ所に留まって念仏できないのであれば、行脚すればいい。 行脚してできないのであれば、一つ処に留まればいい。 出家して念仏できないのなら、在家になればいい。 在家で念仏できなければ、出家すればいい。 一人でこもって念仏できないのであれば、仲間と一緒に唱えればいい。 仲間と一緒じゃできないのであれば、一人でこもればいい。 生計が成り立たないから念仏できないのであれば、誰かに援助してもらえばいい。 他人に支えられて念仏できないのであれば、自活すればいい。妻子も一族も家来も領地も、自分の助けとなるものであり念仏の助けになるのであれば持っていても全然オッケーだけど、もし念仏の妨げとなるのであれば決して持つべきではない・・・法然が流罪になっている時、途中で舟に乗った遊女が近づいてきて春を売るような生業の者は地獄に堕ちるのかと聞いてきたことがあった。 もし貴女にほかの手段で生きられる道があるなら、遊女をやめなさい。 ほかに手段がなくても、命をかける決意があるならやっぱり遊女をやめなさい。 そのどちらもないのであれば、今のままでひたすら念仏を唱えなさい。 阿弥陀様は貴女のような罪人を救おうとして誓願をたてて、女性を救うことを 願っておられるのです。信心を起こせばいいのです。また、『七箇条の起請文』に言う。 「真実」というのは、様々な嘘偽りの心がないことをいい、「嘘偽り」というのは 貪りや憎しみなどの煩悩を起こして正しい念(おも)いを失うことをいう。 貪りにはつつましい貪りと強欲な貪りがあり、我らの浄土宗で禁じるのは 強欲な貪りの煩悩である。つつましければ貪りも差し障りはない。 憎しみの煩悩といっても、目上の人を敬い、目下の人をいたわる心を忘れずに 道理をわきまえる程度のことである。 また、愚かな心は賢くしなければならないが、まずはこの迷いの境遇を厭い、 浄土を欣(ねが)って家業よりも往生を大切に思って念仏に励むのなら、 愚痴の煩悩はないに等しい。少々の愚かさは往生の妨げにはならない。 この程度に理解しさえすれば、「嘘偽りの心」は消え失せて真実の心が容易に起こる。 これを浄土宗の「菩提心」という。縛りがゆるく、常識的でかつ現実的。途中に「厭離穢土 欣求浄土」が入ってるう~!と気付いた方は、いかに法然の言葉がわかりやすく身近なものに変換されているかもおわかりでしょう。行にせよ考え方にせよ、平易な内容が多くの民衆を惹き付ける要素となった。にほんブログ村
2015年07月04日

先日、記事を書き終えて歯を磨きに行ったら洗面所にゴキブリがいました。もちろんわたくしは果敢に挑みましたが、奴は洗濯機の下に逃げ込んで惜しくも取り逃がしました。翌朝、そのことを母親に話してから出勤。仕事中に母親からメールが入ったので何事かと思ったら、 「ゴキ男はお陀仏になってました」という報告だった。ああ、ブッチーの母上様、これ阿弥陀様から来てる言葉ですよ・・・対象がゴキブリなんだから、ただ「死んでたよ」とでも言えばいいのに、ちょうど浄土教のことを書いてるわたくしに向かってジャストミートな言葉を使うタイミングのよさに思わず頭を抱えましたが、そういえば類義語の「おシャカになる」ってのも釈尊から来てるんだな・・・仏教をかじると、日常生活にも食いつきどころが多くて疲れますさて、法然は日本が末法時代に突入した後に生まれた。そういう時代だからこそ、法然は『往生要集』に述べられる数多くの要件を思い切りよくばっさり切り捨ててただひたすら称名の念仏を唱える「専修念仏」を提示した訳だけど、大胆な方法論を編み出したのには他の理由もある。それが無智で愚鈍だという自己評価だけど、自分で言ってるからってうのみにしちゃいけません。法然という人は、善導の教えで開眼するまでの間に一切経を読破している。『絵伝』では5回も読んだと言っているのだ。のち、法然は土佐へ流される。許されて帰京する途中で3年ほど滞在した寺には一切経がなかった。それを知った法然は、自分の所持する一切経をごっそり寄進したと『絵伝』にいう。いやあ~、江戸時代に国内で開版されるまで、一切経なんて超貴重品だよ?しかも寄進したと言われるのは鎌倉初期。江戸初期でさえ、超貴重品だったのに。だから大内氏の一切経が流転の運命をたどることになったんだからね。(「本所Wデビュー(3)」以降数話を参照ください)法然が果たして本当に一切経を所持していたのかはちと疑問ですが、叡山にいればとりあえず読むことは可能だったろう。『絵伝』では法然が他宗の教義も修め、他宗の有名寺院の高僧が「二字を書いて捧げた」というシーンがいくつも出てくる。日本では古来から実名を避けており、そういう慣習はたとえば職場では名前よりも「社長」とか「課長」といった役職名で呼ぶなど現代にも一部引き継がれてもいるけど、その実名・・・つまり「二字」を書いて相手に差し出すというのは弟子の礼を取るという作法だったらしい。要するに、他宗からも師と仰がれるほどの学を具えていたらしいんだな。それから、黒谷での師の叡空からは戒を受け継ぎ、黒谷では厳しい持戒の生活をしたといわれる。往生には持戒の必要はないと言いながら、山を降りてからも法然自身は戒を破ることはなかった。そして密教。法然の密教のレベルはわからないけど、これも叡空からそれなりに受け継いだと思われ、のちのちまで法然の身辺には法然の念力によるとされる瑞相がつきまとう。阿弥陀様とラブラブの関係にあった永観が念仏三昧をしている時に阿弥陀様が現われて永観と一緒に歩いたというエピソードがありましたが、法然もほかの僧とともに須弥壇の周りをめぐる常行三昧ちっくなことをしている時、勢至菩薩が現われて一緒に歩いたことなども『絵伝』に描かれている。高い学徳、持戒、法力・・・これらを兼ね備えた法然は、無智で愚鈍な破戒僧どころか、超一流の天台僧だった。だいたい、浄土教の発展に貢献したとされる高僧たちは皆様揃いも揃ってエリートの学僧ばかり。源信についてはすでに紹介してますが、中国の曇鸞・道綽・善導などもそれぞれ高い学識を持った方たち。こういう、高い学を修めた方たちが勉強と修行の果てに浄土門へ行きついたというのはなかなか興味深いところでもありますね。源信の歴バナ以降「浄土教」という言葉をつるっと使ってきましたが、あくまで浄土・・・特に阿弥陀如来の西方極楽世界(極楽浄土)を信仰するもので、法然以前は特別の宗派という訳でもない。ところで「宗派」って何だと思いますか?なんで同じ仏教なのに、いくつもの宗派があるんだろう?と思ったことはありませんか。沢山ある宗派が仏教離れのはなはだしいブッチー(仏教オンチ)により「仏教、よくわかんない」感を与えてるような気がします。わたくしがやっているのは「仏教史」で、仏教そのものじゃありません。本気で仏教の教義に首を突っ込むとなれば、長い仏教の歴史の中で頭のいい方達が一生をかけてさんざん考え抜いてきた膨大な論もあるし実際は相当難しいものなんだろうとは思いますが、学僧や研究者にでもなろうっていうんじゃなければ、あまり難しく考える必要はないんじゃないかと思います。て、どシロートのわたくしが堂々と言うのもなんですが、生活レベルであれば「個人が自由に感じ取った仏教」でいいんじゃないかと色々勉強している中で思いました。先日の仏壇ショッピングの話ですが、それまでが比較的シンプルな仏壇だったので母親は色々飾りが付いてるのがいいと思っていたようで、その意見をベースに仏壇やさんで下見をしていたのですが、飾りといっても色々あるし、お値段も実にさまざま。主に金を出すのは母親で、しかも好みが色々あってうるさいので、後から文句を言われないように本人に決めさせるのがいいと思ってここというお店に連れていったのですが、イマイチ反応が悪い。デコラティブかつ割安な仏壇の種類の豊富なお店だったので、わたくしはてっきり彼女が喜ぶと思っていたのですが、彼女は他の店を見ていないので困惑したようです。ま、他の店と比べて置いてある仏壇の総数が多いとはいえ、サイズと値段で絞れば数はだいぶ限られてくる。その中から気に入ったデザインのものを選べばいいだけなのに、彼女は少し見てから「りりちゃん、決めてえ~」とわたくしに決断を迫ってきた。どれでもいいんだから、きちんと根性入れて見るようにと諭しても、何度も「わかんな~い」を連発する。何がわからないんだ、勝手に選べば後から文句言うに決まってるし、好きなのを選べばいいじゃん・・・と途中イラッともきましたがここで決められないとこの先何軒も廻らなければいけないのはわかっていたので、色々助言しながら2時間以上かけてようやく一式決めることができました。お店にいた時はわからなかったけど、後から考えると結局、ブッチーにとっては仏教というだけでなんだか格調高いような、あれこれ決まりごととかあるんじゃないか、という単純な誤解かつ引け目によって「どうやって選べばいいのかわからない」と言っていたのかと気がつきました。別にわたくしだって、「仏壇の基礎知識」なんてものがある訳じゃないですけどね。事前にそんなもの勉強した訳でもありません。でも、仏教関連のことをかじったおかげで「基本的なことさえ押さえておけばあとは何でもいい」ということが感覚的にわかっていたので、「仏壇の知識がないからわからない」なんて引け目を感じることもなく自由にのびのびと仏壇ショッピングをこなすことができました。そういう自分に気が付いた時、「あっ、勉強の成果がこんなとこにまで・・・」と逆に自分で驚いたものですが、立派な知識などがなくても基本的な知識だけで結構役に立つもんですよ。だって日本文化は仏教の上に成り立ってるものだから。・・・激しく話がそれた感もありますが、どシロートのわたくしのまとめがブッチーの皆さまの参考になればいいと思いながら宗派の話に戻ります。仏教界では、お釈迦様は相手のレベルに合わせて8万4千もの方法を説いたとされる。最終的な目的地である「悟り」に至るのに、8万4千の入口があると言うんです。まあ、頭のいい人ほど相手に合わせてわかりやすい文章が作れるものなので確かにお釈迦様も相手に合わせた説法をしたんだろうとは思うものの、実のところはインド人が後先考えずお経を大量生産した結果、その整合性を整えるために生まれた後付けの理論じゃないかと思うんだけどね。で、ひとケタ世紀以前の頃は膨大なお経のすべてが金口だと考えられていたので、これは段階を追ってお釈迦様が教えの内容を変えていったのだとしてどれがベストな教えなのか、色々と分類が試みられた。これが教相判釈(きょうそうはんじゃく:略して教判)と言われるもので、天台大師・智ギの教判などは「(67)」で紹介してますが、智ギは「法華涅槃時」を最高ランクに位置づけて法華経を根本経典としたものの、それ「だけ」を選び取った訳じゃない。あくまでランク付けをしただけ。四宗兼学の日本天台宗はよく「仏教の総合大学」と例えられる。奈良の昔、渡来してきた僧たちはみんな色んな教義を修めていた。奈良仏教については本シリーズが終わったらぼちぼち勉強を始めるつもりですが、その頃の僧たちというのは皆色々学んでいて、「この人は何宗なんだ?」と思うこともある。でもそれ、鎌倉新仏教が根付いた後に生まれたからそう思うのであって、もともと仏教というのはそうやって幅広く学ぶのが伝統的なスタイルなんじゃないかと最近になって思うようになった。最澄は智ギの説に基づいて日本天台宗を開いた。空海は密教を相承して真言宗第八祖となり、帰国して真言宗を開いた。「宗」というから何か一本やりってイメージも湧きがちだし、真言宗の場合は密教のみだから密教だけを選択したようにも見えるけど、何を優位に置くかという考え方の問題で、それ「だけ」を「選択」した訳じゃない。最澄も空海もあくまで教判に基づいている。前にバイキングのたとえ話をした時、各人の好みによる「傾向」がそのまま宗派の違いだとしましたが、もう少し細かく言うと最澄は一つのお盆に法華経・禅・戒・密教などの料理を載せた。一番分量を多く取ったのは法華経。空海はメインのお盆に密教ひとつを載せた。ただ、もうひとつのお盆には色んな小鉢を載せて持ってきた。栄養的にバランスの取れた料理、それが最澄・空海以前の日本仏教だと言っていいんじゃないかと思います。にほんブログ村
2015年07月02日

法然は、自分の言う「念仏」とは中国や日本の学徳の高い僧たちがあれこれと議論している観想のことではなく、また仏典を学び理解した上で唱えるものでもないと言う。どころか、観想はするなとまで言っている。なぜというに、すでに末法の世に入っているのだから観想したところでどうせロクなビジョンは得られない。こういう時代に生まれ、無智であることをきちんと自覚した上で間違いなく往生できると確信してただひたすら念仏を唱えること、この確信さえあれば往生の切符はもう手に入っている。48の誓願を立てた法蔵菩薩はすでに阿弥陀如来となっているのだから、誓願は必ず果たされる。悪人も、善人も。男女の別や身分の上下で選別されることもない。ただ、悪人の場合は心を改めて善人になった方がよりベター。世に様々ある修行のどれも悟りに至るステップではあるけれど、今は末法の世だからどう頑張っても修行者の力は及ばない。ゆえに、この末法の世では念仏がベスト。道綽は修行の方法を「聖道門」と「浄土門」とに分類した。聖道門(しょうどうもん)は自力の修行によって悟りに至るという伝統的なスタイル。一方の浄土門はほとけの力(他力)を頼みとする。自己の厳しい修行による聖道門は「難行道」とも呼ばれ、弥陀の強力なサポートによる浄土門は「易行道」とも呼ばれる。難行道は険しい道を徒歩で行くようなもので、易行道は海路を船に乗って滑るように進んでいくようなもの。この末法の世では聖道門はすべて望みを絶つべき。念仏は時、所、状況を選ばず、身と口との不浄を問わない。ゆえに易しい行による往生という。ただし、心を清くして唱える念仏は最上の行になる。善導の『往生礼賛』では「念仏を続けたまま命を終えることができた人は、十人いればそのまま十人が往生し、百人いればそのまま百人が往生する」としている。念仏すればすべての人が往生できるのにその他の修行ではまれにしか往生できないのは、弥陀および弥陀の教えを説くために世に現れた釈尊の御心に随わないからである。経典には、人間には1日に8億4千もの思いが湧き起こり、その思いの中でなすことはすべて地獄・餓鬼・畜生道へ堕ちる悪業だとある。そういう1日をこのあとどれほど積み重ねていくのだろうか。そうして人が死ねば、遺骸はあるいは広野に捨てられ、あるいは遠くの山に埋葬される。どれほど財産や家族があろうとも、遺骸が苔の下に埋もれる頃、死者はたった一人で死出の旅に出る。旅を共にするのはただ後悔の涙だけで、閻魔大王の前に行けば「お前は仏法が流布する世に生まれながら、なぜ何もせずここへやって来たのか」と問われる。その時、一体何と言って答えればいいのだろうか。釈尊の在世中に生まれなかったことは悲しむべきことではあるけど、その教えが伝わっている世に生まれたことは盲目の亀が大海に浮かぶ木の穴に偶然首を突っ込むようなもので、この上ない喜びである。だから、正しい念仏を修めて皆で往生しようぜい・・・法然の教えをまとめると、こんな感じでしょうか。『往生要集』と比べると、実にすっきりとしている。ただ、所々『往生要集』を踏襲した記述にもなっていて、たとえば「盲目の亀がうんたら」ってたとえなんかも源信がすでに『往生要集』に書いている。それでも法然の要点は実にシンプルで、しかも文章は平易。例の「畑シリーズ」だと、源信や慶滋保胤がまいた種が芽吹いたところへ「末法」という名の強力な肥料が加わり、永観・良忍・覚鑁らが水をやって育て100年かかって実を付けるところまで来た。でもその実はまだ小さくて味もイマイチだった。それを、法然が大胆に間引きして余計な葉っぱなども思い切りよくちょんちょん落として大きく味も良い、ハズレのない実を付けるまでになった。そんなカンジ。善導の教えに感銘を受けた法然は叡山を下りて現在の知恩院あたりに庵を結ぶ。あちこち出歩いて積極的な布教をした訳ではなく、静かに念仏の生活を送り、教えを請う者が来れば拒まず教えてやるというスタンスだったらしいが、口コミで評判が評判を呼び、法然の庵に通う者も次第に増えていった。決定往生への確実にして唯一の武器はただの称名念仏。難しい修行も勉強も何もいらない。源信が説いていた智恵も持戒も菩提心も慈悲も念仏の助けにはならないとして、法然は念仏を独立させた。二十五三昧会に結縁した僧の幾人かの足跡は西方へ向かっていたけど、果たして結縁した全員が往生できたのかどうか・・・源信の死後、源信の行き先を知りたくてずっと祈っていた弟子のことを「(177)」に少し書いてますが、実は2人のやりとりは結構長い。その中で弟子は「わ、私、往生できますかね?」と源信に聞いたところ、「そりゃムリだよ」という答えが返ってきた。「えっ、即答?なんでですか?私にどんな過ちがあるっていうんですか!?」「だってお前、怠慢なんだもん」「ええ~~~・・・・どうしてもムリなんですかね?」「まあ、お前は怠慢だけど、成仏したいという切なる願いは持っている。これはすごくいいことだ。生死に縛られていても、抜け出すことはできるだろ」「なら、成仏の願いさえ持ってたら往生できますかね?」「そりゃさ、願いだけあっても行が伴わなきゃ・・・」「じゃあじゃあ、過去の過ちを悔い改めて浄土の行に励んだら行けますかね?」「う~~~~~ん・・・・・やっぱムリかな~。だってお前、極楽に往生するってのはホントに大変なんだよ。だから私だって極楽で聖衆の一番外側にいるんだし。」こうですよ。これが源信当時の往生観。慶滋保胤の『日本往生極楽記』はもちろん源信以前に死んだ人の往生譚をまとめたものですが、本格的に往生を目指した行が始まったのは『往生要集』以降の話で、その頃は浄土門でありながらその実難行道とあまり変わるところがないんじゃないかってぐらいハードルが高い。しかも、どれだけ頑張っても生きてるうちは往生の確約は得られない。棒高跳びの棒を使っても越えられるかどうかってレベルの高さを子供でも跳べるようなゴム跳びレベルに引き下げたのが法然だと申せましょう。基本的に法然の提唱したものはただの称名念仏だけど、それなりに求められるものはある。特に大事なのが「心」で、念仏者に必要不可欠な「三心」というのは、 ・往生を願う心にウソ偽りがなく、取り繕うことのない点(至誠心) ・臨終の際には弥陀が迎えてくださると信じて疑わない心(深心) ・浄土へ生まれることを願い、善行の功徳は往生のために振り向けること(廻向心)本気で往生したいと思えば、この三心は自然と具わると言っている。ここらへんは『往生要集』と同じ。その他にも、常の念仏とは別に、時には別時の念仏を行うとよいなどという『往生要集』と同じ内容もあるにはあるけど、それは必ずしも必要な要件ではない。が、『往生要集』と比べれば求められるものは格段には少ないしわかりやすいのに、それでもレベルの低い民衆には細かい疑問がわき起こる。たとえば、 念仏を片時もやめなければ往生できるという解釈は時に「1回じゃ不確かだ」 という思いを起こさせるが、そういう思いが信心を妨げる。 念仏とは「一念で往生できる」と信じて生涯続けて励むべきものである。なんて解説もしている。ある人が「念仏の数が多いのは自力の修行だ」と批判していることに対しては、そんな批判は心得違いもいいとこで、数ではなく心構えが問題になる。数が少なくても自力の心構えの場合は自力の念仏となる。三心を起こした人がいかに多く唱えようとも、他力を頼みとして唱えるのだからそれは自力の念仏ではない、とも言っている。結局これも「心構え」が問題とされている訳だけど、もっともいけないのが「慢心」。自分が数多くの念仏を唱えるようになると、自分は優れているという勘違いを起こしがちで、ほかの信者を見下すようにもなったりするが、単に優れた他の人を知らないだけだし、思い上がりの心が起こっただけで心も行も必ず道を外れてしまうからくれぐれもそういった誤った思いは起こさないようにと戒めている。さて、そうして法然の教えは二十五三昧会のメンバーでさえ跳び越えることに苦労した「往生」という名のハードルを、名も学もない民衆が次から次へとひょいひょい跳び越えてやすやすと往生していく、往生者の大量生産を可能にした。『絵伝』に描かれる往生のシーンは妙なる雲だけで、ご来迎の聖衆は表わされてないけど、もうこの雲が何度出てくることか。ホントにすごいですよ。前時代の往生の厳しさを知れば、このすごさが本当にわかります。なんたって、戦場にまで現れるんだからね。武蔵国の御家人・甘糟太郎忠綱は法然に深く帰依していたが、ある時叡山の僧兵が日吉神社ににわか城を造って悪行を企てるという事件が起こり、忠綱も鎮圧に向かうことになった。忠綱は悩んだ。武門の家に生まれた以上、出陣の命には従わなければならないが、自分は念仏の徒でもある。往生を優先させて出陣しなければ臆病者と罵られて由緒ある家名を落とす。さりとて戦場に出れば罪を増やすだけ・・・これに対する法然の答えは、 「弥陀の本願は、きっかけの善悪、行の多少、身の浄・不浄、時と場所を選ばない。 弓矢の家に生まれる者、戦場に命を失うとも、念仏を申せばかならず来迎に あずかるべし」 (『法然上人絵伝 中』中央公論社より)そして法然は忠綱に袈裟を与え、甲冑の下にそれを着込んで忠綱は出陣した。乱戦の中、背に矢を受けた忠綱は覚悟を決めて膝を折り、兜を脱いで念仏を唱えた。忠綱の首が胴から離れる瞬間、一筋の光明が忠綱に射し込み、戦場に異香が漂った。忠綱の頭上にある紫雲は京の町からも見え、叡山のあたりに紫雲が漂っておりますと法然に知らせた者がいた。それを聞いて法然は、 「ああ、それは忠綱の往生を知らせるものだ」と言ったという。エリート集団の二十五三昧会でさえ、臨終にはあれだけの準備をしたんですよ。それを、矢の降りしきる戦場で心静かに念仏を唱えて往生するなんてちょっと考えられないでしょう。シンプルであるがゆえの往生への確信が、戦場でまでも結果を出すことになった。ここが、法然の教えのすごいところです。にほんブログ村
2015年07月01日
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