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さて、浄土院から離れがたいものの、3日目の明日は西塔に寄るのは無理だし、4日目は予備日的なスケジュールにしているとはいえ、山麓の坂本にも行きたい場所はあるし、今日のうちに西塔をこなしておくにこしたことはない。ので、浄土院の塀に沿って西塔への道を歩き始める。 谷を切り拓いて建てられた浄土院の小道を挟んだ向かいは結構急な斜面。この斜面が崩れたり、斜面の木が倒れてきたりしたら山内随一の聖域も大なり小なりの被害を受けてしまうだろう・・・ ↑塀ごしに見た、(推定)侍真さんのお住まいの建物の破風。木連格子の大きな破風は実に立派なもの。西塔への道にも灯篭が並ぶ↓。 手前の灯篭には【川越中院六十七世仁平信海 中院開基千百五十年記念献燈】とある。天海の喜多院と同じ星野山(せいやさん)のお仲間だった中院だな。今は喜多院と中院は別法人であり、2人の「お大師さん」の関係もあって一般的な観光スポットとしては喜多院の方がメジャーだけど、もともとは中院が中心であり、円仁が創建したという由緒のあるお寺。かつ、関東天台の中心でもあった。 門跡寺院でこそないものの、格式は高いお寺でございます。 しばらく歩くと、そこが西塔(さいとう)の入口。 奥に写ってる小屋が西塔の料金所です。これを書いてる時点で延暦寺のホームページを見ると、西塔の1月の閉堂時間は16時となっている。が、私が行った時の閉堂時間はたしか15:30だったような気がする。勘違いだったかもしれないけど、少なくとも現地では15:30までと思い込んでいたので残り時間は少ない。仕方ないよな、だって浄土院がすごく良かったんだもん。西塔にもいくつかのお目当てがあるので、できるだけこなしておこうと誓って西塔の入口へ歩いていくと、料金所の手前に最初のお目当てがあったので右の小道を入る。そこにあるのが、椿堂。 【椿堂 昔、聖徳太子が比叡山に登られた時に使われた椿の杖を此の地にさして置かれた ところ、その椿が芽を出して大きく育ったという因縁から、此のお堂が椿堂と 名づけられました。お堂の傍に、それに因んだ椿の大木があります。御本尊には 千手観音菩薩をお祀りしています。】 (現地解説板より)浄土院で舞い始めた風花は、この頃には本格的な雪へと変わり始めていた。ので、多少写りも悪いです。お堂の入口にも、椿堂の由来を語る木札がかけられている↓。 『比叡山 その歴史と文化を訪ねて』には、弟子を連れて叡山に登った聖徳太子が山の一角に光る霊地を見つけたのでそこへ行き、太子の守り本尊である如意輪観音菩薩像を安置したというエピソードがつづられている。「聖徳太子が叡山に登ったなんて・・・」とツッコミを入れたくなる方も多いでしょうが、伝説ですので笑っちゃいけませぬ。 彫り物つきの蟇股も撮ったけど、ボケちゃって載せられませんお堂の脇には、小さいながらも鐘楼があった↓。 さ~、時間もないので急がなければ。西塔の料金所の手前には鳥居があり、その奥に箕淵(みのふち)弁才天社がある↓。 こちらの弁天様の詳しいことはわからないんだけど、比叡山三弁才天の一つであるそうな。で、ウィキペディアには「聖光院跡」とある。手持ちの堂宇解説の史料のどれにも聖光院のことは載っていなかったので、あまり主だった僧院ではなかったのかもしれない。ただ、結構広い場所に弁才天社がぽつんとあって不思議な感じだし、お社の奥には一段高くなった場所もあるので、ただ弁才天社だけがあったというよりは僧院があったという方がふさわしい気はする。料金所で拝観料を払って、参道を奥へと進む。 左の石垣の上には、石碑があった。 この頃には本格的に雪が降っていたので、雪が写り込んじゃってるのはご勘弁ください。で、確かこの2つの碑は近接した場所にあった気がするんだけど、青蓮院の慈円のもとで得度した親鸞は聖光院で修行したともいうし、ちょっとよくわからない。真盛(しんせい)さんの碑の方には解説が付けられていた。 【真盛上人修学之地 ここは、西塔南谷南上坊(後の真蔵院)跡です。伊勢大仰郷でご誕生の真盛上人 (1443~1495)は、7歳、川口光明寺盛源律師に師事、14歳、光明寺で 剃髪出家得度、真盛と号され、16歳、尾張密蔵院に遊学、19歳、比叡山西塔南谷 南上坊慶秀和尚の室に入られ、山を出ず、爾来20年間ここで修学された。時あたかも、 25歳から10年間応仁文明の大乱が起こり、41歳、上人が社会浄化のために黒谷隠棲 へと決意されることになったのである。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)ということで、この石垣の上には南上坊、のちには真蔵院がでーんと建っていたようです。現在ではこの先にある堂宇まで何の建物もありませんが、聖光院や真蔵院の建物が残っていたらさぞ壮観な参道だったでしょう。さて、この道を奥まで進むと、西塔を紹介する写真でよく見られる光景が広がった↓。 2枚目の写真は日光の「史跡探勝路9」でも載せているので、これが何なのかすぐにわかった方もおられるかもしれませんね。はい、日光や寛永寺の記事で何度も顔を出した「にない堂」のオリジナルがこれです。日光輪王寺のにない堂の渡り廊下は地面に着いてるし、寛永寺のはもう現存してませんので、2つの堂をつなぐ廊下が宙に浮いて「担う」スタイルで現存してるのは、三山の中ではここだけ。真ん中の廊下の床をもう少し高くして、両脇をもっと長く広げたにない堂が、上野公園の大噴水付近にあったんです。しかも、御三家の筆頭、尾張義直による寄進だからね。廊下が宙に浮くにない堂の実物を初めてこの目で見て、まずわたくしは寛永寺の華麗なにない堂を頭の中で思い描いてしばらく「萌え~」してました。ではまず、向かって左の常行堂から。 【重要文化財建造物 延暦寺常行堂 一棟 常行堂は、桁行5間、梁間5間、一重、宝形造、栩葺(とちぶき)の建物で、 正面に1間の向拝をつけています。隣の法華堂とは桁行4間、梁間1間、唐破風造の 廊下でつながれ、2つの同形式の堂と廊下の姿から「にない堂」と呼ばれています。 阿弥陀如来を本尊とする常行堂は、常行三昧を修する堂で、外観は蔀戸と板唐戸を 用いた和洋のすぐれた建築で、文禄4年(1595)に建てられたものです。内部も 柱を立てるところには、すべて柱を立てるという珍しい形をとっています。 昭和30年(1955)6月に法華堂と共に国の重要文化財に指定されました。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)『山門堂舎記』には、寛平5年(893)宇多天皇の時に円仁が行法を行ったとあるが、その一方で同じ年に静観が建立し、顕祚が荘厳したという由来も書かれている。が、円仁の没年は 貞観6年(864)寛平6年(940)に不断念仏が始められ、延長5年(927)には堂内の四面の柱に極楽浄土の絵が描かれたらしいが、久壽(1154)に焼失。堂内の五尊の救出はならず、建物と共に火に焼かれてしまったそうな。で、仮のお堂を建てて行法は続け、翌年新堂宇が完成。しかしこれもまた文永8年(1271)に焼失。その後については書かれてないけど、久壽の火災で仮のお堂を造ったぐらいだから、現在のお堂が文禄4年(1595)に建てられるまで、数回の焼失と再建を繰り返しているのかもしれない。にほんブログ村
2015年02月28日

浄土院を出て一旦正門前まで戻り、最初にスカートの姉ちゃんが進んだ浄土院の脇の道へ入る。ここはあまり道らしい道でもないので、正門の前に石碑がなければちょっと気付かないかもしれない。脇の道から見えた浄土院拝殿の妻↓。 少し歩くと右手に分岐が出たので、ここを上がっていく。 目指すスポットは目立たない場所にあるので、あまり歩く人もいないらしい。綺麗に生えているコケをなるべく踏まないようにしながら、こんな道を奥へと歩く↓。 たいして歩かないうちに、次のお目当てに着いた。 これが別当大師・光定(こうじょう)さんのお墓です。ここも東塔西谷にあたると思うんだけど、この場所にはこの廟がぽつんとあるだけ。お堂の造りも実にシンプルなもので、ぐるりと一周してみたけど扉のようなものはないようだった。「大師号」は勅賜として朝廷から高僧へ賜わるもので、延暦寺の僧、および延暦寺出身者から多くの大師が出ている。最初の大師号は貞観8年(866)、円仁の死から2年後のことで、天台宗から円仁(慈覚大師)と最澄(伝教大師)がダブル受賞した。最澄の死からは44年が経っていた。で、光定さんは一般に「別当大師」と呼ばれるものの、これは正式な大師号じゃない。ので、まあ言うなれば天台宗内での私称みたいなものになるのかもしれないけど、勅許による大師号を受けていない光定さんがなぜ別当大師と呼ばれるかというと、彼の功績が大きかったからに他ならない。光定さんは宝亀10年(779)、伊予に生まれた。最澄より13歳年下。初代座主・義真よりは2歳年上で、2代座主・円澄よりは7歳年下。郷里における光定の経歴についてはあまり詳しいことはわかっていないらしいが、早いうちに両親を亡くし、出家して山岳修行をしていたらしい。四国霊場第60番札所の横峰寺では開山第2世を光定としているらしいので、石鎚山系あたりで修行に励んでいたともいう。そんな彼が都での勉強を勧められ、上京して師を探していたところ最澄の噂を聞いて29歳の時叡山に登った。そこで天台の勉強を始めるものの、なぜか天台大師・智ギの『摩訶止観』を持って奈良の大安寺の勤操(ごんぞう)の元へ法華経を学びに向かったそうな。勤操は最澄の歴バナの終わりの方で何度か顔を出していますが、三論宗の雄。ただ、多くの渡来僧がそうであったように当時は諸宗兼学といって色々な学派を学んでいたようだし、勤操は最澄の高雄講会よりも早い時期に法華八講を催したりしているので、法華を学ぶなら勤操の方がいいと思ったのかもしれない。しかし、勤操が言ったのは「あちこちで学びちらかすよりも、すぐ最澄たんの元に帰って一心に努力しなさい」というものだった。その後は叡山において修行に励み、最澄たちが空海に潅頂を受けた際、光定も一緒に受けるなどしている。最澄は叡山に九院を造るという構想や、その他大きな夢を持っていた。その夢に向かって朝廷へあれこれ働きかけたのが光定。最澄からの信頼も篤かったらしいが、最澄が一旦は後継者に円澄を指名したのにその後義真に変更した時などは、「ええ~、前に円澄に決めたじゃないですかあ~!どっちに従えばいいんですか!?」と最澄の真意を聞き返し、「ええ~、そうだけどさ・・・義真の方が先に受戒してるから、やっぱ義真にしようよ」と言われてそれに従ったというエピソードがある。初代座主・義真の死は突然だったようで、その後の後継者問題は以前の記事でも少し書いてますが、義真の弟子の円修が後継者として振る舞っていた。光定はこれに異を唱え、円澄を2代座主にしたいと朝廷に進言した。結局、円修一派は山を降り、円澄が第2世座主におさまって一旦は落ち着いたものの、わずか3年ほどで円澄はこの世を去る。この頃、光定は内供奉十禅師に選ばれている。円澄の死後、長いこと座主は空位のままだった。円仁が唐から帰って第3世座主となるまでの間、光定は伝燈大法師位となり、授戒の戒和上にもなり、光定が授戒を行っていたという。ここから、この頃は最澄の直弟子の中でも特に光定が重きをなしていたことがわかる。仁寿4年(854)、文徳天皇の勅によって延暦寺別当に任じられる。「別当大師」というのはここから来ているらしい。光定は文徳天皇の父で先帝の仁明天皇からもずいぶん目をかけられたそうで、ある時仁明天皇がからかって「天台は真言の引き立て役みたいなもんだよね」と言ったところ、怒った光定はすぐさま帰ってしまったという。また、ある時叡山に稲が少ないことを光定が奏上すると、仁明天皇は「光定乞食袋」と書いた袋を与え、中には食料が詰まっていたなんてエピソードもある。これをモチーフにしたものなのか、大黒さんよろしく背に大袋をかついだ「光定大師立像」(延暦寺所蔵:重要文化財)という像もある。延暦寺別当になった仁寿4年(854)、文徳天皇の国家鎮護の発願により九院のひとつ、四王院を建立する。ただ、叡山の史料では四王院の創建は天長5年(828)に文徳天皇の御願によるとしているので創建の時期は定かではないものの、東塔の一院でありながら天皇の御願寺という高い格式を持っていたらしい。文徳天皇からも信任を得た光定は、天安2年(858)7月、80歳(実年齢は79歳)の祝いとして朝廷から度者や布・米などを賜る。その翌月、八部院にて79歳の生涯を閉じた。光定の叡山での奔走の経歴を見ると、光定が第3世の座主になっても何の不思議もない。第2世・円澄から第3世・円仁の就任までは18年もの月日が流れているから、光定がその気になれば第3世に就くことも可能だったんじゃないのか。だけど、彼は座主にはならなかった。おそらく本人にその気がなかったのだろう。座主にもならず、大師号を受けることもなく、光定の名は現在では一般にはほとんど知られていない。が、最澄の死後、最澄の高弟たちの中でも特に延暦寺の継続・発展に文字通り奔走した「幻の大師」ともいうべき光定の功績を称えて「別当大師」と尊称されているのかもしれない。別当大師廟を出て少ししたところから西の方を見ると、 最澄の眠る浄土院の御霊屋は目と鼻の先。死後もなお、光定さんは最澄たんに寄り添う場所にいる。この別当大師廟がいつここに建立されたのかはわからないけど、もし初めからこの場所にあったのなら、やはり最澄も最初から浄土院の場所に埋葬されたんじゃないかという気がする。最澄が浄土院の場所に眠っていたからこそ、光定の廟もここに造られたんじゃないのかと思った。そして再び浄土院の正門前へ戻る。もう14時を回っちゃったけど、浄土院で大満足したから夕方までここにいたいな・・・そう思って門前でまったりしていたら、空は晴れてるのに突然風花が舞った。他の場所でも同じように急に風花が舞ったことがあったけど、こういう時、不思議となんだか歓迎されているような感覚を覚える。本坂を歩いていた時も思ったけど、昔だったら女人禁制の叡山に登ることはできなかった。でも、今はこうして登山道を歩いたり、最澄廟に詣でることもできる。いい時代に生まれたもんだ~と素直に喜んだ。ところで、かつての女人禁制の山も現代はほとんど開かれているものの、いまだ女性にあまり開かれていない信仰の山もある。これについて「女性蔑視だ!」と息巻くつもりもありませんが、「にほんブログ村」の同じサブカテゴリーのメンバーさんで山伏の若狭坊様のブログに興味深い記事を見つけました。若狭坊様のお説は斬新というか、読んだ時目からウロコが落ちましたが、実際に山で修験者として活動されている方の文章には説得力もあり、言葉に深みがあります。まあ、どちらかというと修験者として、というよりはフェミニストな若狭坊様の優しい性格が多分に現れている内容だという気がしますが(笑)。今回、わたくしも「聖なる魔の山」の2つのルートを歩きまして、登山にしようと思ったきっかけは単純な萌え~だったものの、実際に歩いてみると、「やはり叡山は自分の足で歩いてこそ」だと思った。長い華々しい歴史を物語る主要堂宇群も、叡山のひとつの顔ではある。けど、信仰の山として始まった叡山の原初的側面は、山道を歩いて静かに叡山に向き合わなければ感じることはできない。山内に散らばる各堂宇も歴史があっていいものですが、建築好きのわたくしがロクに堂宇を見ず、それでも今回の旅に大満足したのは、山道を歩くことがとても気に入ったからです。今回は2つのルートしか歩けなかったけど、また叡山に行く機会があれば別のルートを歩いてみたい。叡山が開かれていることへの感謝の思いを抱きながら。若狭坊様のブログ、オススメです。リンクの許可を快く頂いたので、皆さまもぜひご覧になってみて下さい。(「若狭坊のまちづくり日記」/「女性を崇める」へのリンクはこちら。)にほんブログ村
2015年02月27日

門の前にいると御霊屋(みたまや)はロクに見えないので、門から離れて少し進んだところから廟を観察。 アラ、壁板にあんな隙間がある↓。 「あおによし」風な廟堂の内部が一体どんな風になっているのか、ここからでは見当がつかない。が、延暦寺会館で買った貴重な写真満載の小冊子には侍真さんが最澄たんの御真影にお給仕する写真が載っていた。やはりここでもほっかむりをして布の先を着物の襟にたくし込んで肌を露出しない最澄たんの画像が懸けられている。その御真影に向かって、マスクをした侍真さんが膳をうやうやしく捧げるシーンが写真に収められている。よくこの写真を載せたなと思いますが、興味のある方は『比叡山』というガイド本を探して見てみてください。『比叡山 その歴史と文化を訪ねて』とは別の本なので気をつけてねで、こちらが廟の向かって左側に立つ灯篭たち↓。 廟の前を奥へと進むと、この建物がある↓。 屋根の上にいるのは おお~、すげえな。カメラをズームして初めてわかったんだけど、この鳥さんの首には鎖が巻かれていて、落ちないようにつながれている。 素木の、いかにもわたくし好みのお堂・・・ここの扉の上には扁額の代わりにこんなものが掲げられていた↓。 慈摂(じしょう)大師・真盛さんは叡山の出身。「慈摂大師二十五霊場」のうち、山内から坂本側の山麓にかけて1番から6番までの札所がある。浄土院はそのうちの3番目ということらしい。彫り物付きの蟇股があったのでカメラをズームしてみたら、 あっ、うさぴょん!!他にも蟇股があったのでお堂の近くに寄りたいと思ったものの、ここからお堂までの間は と隔てられているので、お堂に近寄ることはできない。浄土院境内の道らしい道は正門から拝殿までの四半敷の参道、および拝殿裏手から御霊屋までの短い道のみ。参拝者用入口から正門までは塀沿いのわずかな土の部分を歩き、拝殿からここまでは拝殿のへりと上の写真に写ってるような細長い石を平均台を歩くようにつたっていくしかない。ので、ここでも綺麗に掃き清められた砂地に入り込まないように細い石の上に立って蟇股の撮影を試みる。 こちらにも灯篭が立っていた↓。 この辺からは、石をつたってお堂の脇へ行かれなくもない↓。 が、あまり無遠慮に奥へ進むのもどうかと思われたので、ここで蟇股撮影は諦めて廟の正面へ戻る。 廟を取り囲む玉垣の中にある灯篭は変わっている↓。こういうのは灯篭とは言わないかな? 拝殿の裏手には、正面側と同じような意匠が凝らされていた↓。 なんか、見たことないタイプだよな。江戸期の再建なら東照宮と同じ流れを汲んでいてもよさそうなのに、あれとはカラーが全然違う。 満足して拝殿の正面側に戻ったところから見た浄土院境内↓。 現在の叡山では、籠山僧や修行僧をのぞいて山上で生活する僧はほとんどいないらしい。最澄の定めた12年の籠山というのは、たぶん私達が想像するよりはるかに厳しいものじゃないかと思うんだけど、ウィキペディアによると、現在の叡山で山内の院や坊の住職となるためには3年の籠山修行をしなければならないんだそうな。現代事情に合わせて少し簡略化された籠山修行が生まれたってところなのかな。3年籠山の1年目は、ここ浄土院で侍真の助手を務めるそうな。なので、侍真さんは12年間1人っきりで浄土院にこもるという訳でもない。でも、助手がたまにいるからといって結構境内は広いし、境内の周辺もまめまめしくお掃除をするそうだから、大変だろうな~と素直に思った。アヤシイ一団が去ってからは、もう誰も来なかった。ので、静寂そのもの。聖域と呼ぶにふさわしい凛とした空気にいつまでも身を浸していたかったけど、そろそろ2時が近い。これから行く予定の西塔は、この時期は閉堂の時間が早いので、予定通り西塔へ行くのであればもういい加減浄土院をおいとましなければならない。てろてろと出口へ戻り始める途中で撮った、参拝者用入口のすぐ近くにある建物↓。 たぶんここが、侍真さんの住まいになるんだろうな。 ↑これがちゃぷちゃぷ立てる水音を聞きながら、また塀伝いに入口へ戻って侍真さんの住まう建物をしばし観察。 ↑入口には名札のようなものが掛かっていたから、ここが侍真さんのお住まいだと思うんだけど、入口に行くまでの地面もやっぱり綺麗に線が付けられている。きっと、侍真さんも塀の脇の石をつたって自分の住まいへ入っていくんだろうな。神経使う生活も大変だな~と思った。にほんブログ村
2015年02月26日

前回の灯篭と参道を挟んだ反対側にも、もう1本銅灯篭がある↓。 参道からはかろうじて前回の銅灯篭と同じ名前が刻まれているのが見えた。2本の灯篭はよく似ているので、ペアで造られたものだろう。前回の銘の「建」の部分は写真がちょうど切れていたので「建立」とあったのかなと思いましたが、こちらの銘では「建」一文字だった。奉納者の銘があるのは、胴のつなぎの下の部分。が、胴は大きく色が変わっている箇所があり、つなぎより上の色の変わっている部分には、かすかに銘の跡のようなものが残っている。・・・やっぱり、元あった銘をつぶしたような気がするんだけどね。的外れな想像だったらごめんなさい、寛永寺様灯篭を見ているうち、ガイジンの姉ちゃんはいなくなった。ので再びお堂の正面の撮影に戻る。 写真を撮りまくってる時、さっき門前で浄土院をスルーしていった長いスカートの姉ちゃんが入ってきて、お堂の脇を奥へ歩いていった。ガイジンの姉ちゃんの前に来たかもしれない(←忘れた)。今わたくしが撮っているこの建物、これは廟ではありません。それはわかっていたけど、ここしか見られそうにないのでここを撮ったら出るつもりでいたのですが、妙齢の姉ちゃんが奥へ進んでいくのを見てなるほど、ああやって脇をたどっていけばいいのか~、あとで行ってみようと思っていました。写真を撮っているうちに姉ちゃんが奥へ入ってから結構経ったけど、彼女は戻ってこない。う~ん?あれってもしかして叡山の職員さんだったのかな。だからあんな無防備なカッコをしてたのだろうか・・・と想像した。して、正面の写真をひとしきり撮ってから奥へ行ってみようとお堂に沿って脇を進む。 ああ、奥にお堂が見える・・・あれが最澄たんの廟だな。実はわたくし、美味しいものは最後までとっておくタイプです。ので、ガスガスと廟へ直行するのがもったいなくて廟を目前にしてお堂の脇を眺めたり写真を撮ったりしてました。 そうしてボケ~と脇にたたずんでたら、なにやらアヤシイ一団が浄土院へ入ってきた。彼等はわたくしがお堂の脇にいるのを見つけて、奥へも行かれるのか~と団体で細道へ割り込んできた。この一団は7~8人のグループで、平均年齢は若いのですが、スーツを着てる男性もいるし、ちょっと街宣車に乗ってるような右っぽい人達のようにも見える。この時、お堂の脇なんかで萌え~してたことを激しく後悔しました。わたくしがここにいなかったら、彼等は奥へ進もうとは思わなかったに違いない。わたくしが呼び水になってこんなアヤシイ一団を奥へ引き入れてしまったことを、心の中で最澄たんに謝りました 彼らに混ざって拝廟するなんて選択肢はわたくしには当然ありません。どうせちらっと見たらすぐ戻ってくるだろうから、しばらくここで待っていよう・・・そう考えていた時、例の姉ちゃんが戻ってきた。あれっ?職員さんじゃなかったのかな?不思議だらけの不思議ちゃんの背中を見送って、まだ戻ってこない一団を追い出すためにわたくしも奥へと向かう。霊廟の前には石塔が並んでいた。 法華塔↓。 これには「寶篋印塔」と刻まれている↓。 これには色々文字が刻まれているけど、【寄進 比叡山】【御廟前 六月四日】ぐらいしか読めない↓。 先陣の一団は廟の前でウロウロしていたが、わたくしが来たのを見てようやく引き上げていった。この後行った寺で、本職のお坊さんが私服でいるのを見ましたが、最初893さんかと思ったので、彼らももしかしてお坊さんを交えた一団だったのかとも思いましたが、もしお坊さんだったらもっと丁寧に霊廟を拝するだろうから、やっぱ違うな。彼らが去って再び静寂を取り戻したお廟↓。 まずは御霊前に進んで、最澄たんにご挨拶~。 香炉にあるのは、天台宗の菊輪宝(きくりんぽう)。 香炉の中では、香時計が静かに時を刻む↓。 ま、ぶっちゃけ現地ではただのお香かと思ってたので、なんかすげえ~、カッコイイ~、灰が綺麗にならされてるな~、侍真さんが綺麗にしたんだろうな~ぐらいのレベルでただ感動してたんですけどね。これが何なのか知ったのは、少し前に偶然観たTV。これは香時計といい、常香磐などともいうようで、一定の時間でお香が燃えていくため、時間を計れるものなんだそうな。霊廟の門の蟇股↓。 門の前から、見える範囲で廟堂を撮りました。 あまり修理に手を入れてないのか、少々くたびれ感はあるけど、ピカピカよりこの方がいい。誰も来ないので最澄たん独り占めでしばらく門や廟を見てから一息ついた時、香炉の脇に何かあるのに気がついた↓。 ・・・・・・・・・あいつだ!あのスカートの女!!!わたくしが考える著名人のお墓参りのマナーについて、以前「三原編(31)」で書いたことがありますが、なにもお供え自体が悪いと言ってる訳じゃありません。ただ、お墓を管理する人と後からお参りする人のために何も残さず綺麗に持ち帰れってだけの話です。ましてここは、掃除地獄の浄土院。侍真さんが精魂込めて綺麗にしている境内にこんなもの置いていくなんて、無神経もいいとこです。つまりあの姉ちゃんはいわゆる「歴女」に属する人種だったんだなとここで初めてわかった訳ですが、たとえ最澄萌え~がメインであったとしても、歴史ファンなら事前の下調べぐらいしてくるでしょうし、ちょっと調べれば侍真制のことぐらいは把握できたはずです。侍真さんのお手をわずらわすのもお気の毒だから、侍真さんに代わってわたくしがこれを撤去してやろうかとも思いましたが、人がお供えしたものを勝手に持ち去るのもどうかと思うし、絵馬だとかの人の念が入っているものにはタッチするなとセキュリティよしおから注意されているので、こみ上げる怒りをこらえてこのお供え物はそのままにしておきました。前々回、掃除地獄の記事で「侍真さんへの配慮をお願いします」とあえて書いたのは、こういう現実を目の当たりにしたからです。こーゆー人が増えて困惑した浄土院が拝観者の境内への立ち入りを禁止したらどうします?わずかな人の無神経な行為が、みんなに迷惑をかけるんですよ。心のこもったお供えはひとときにして、あとは綺麗に持ち帰りましょう。にほんブログ村
2015年02月24日

浄土院の参拝者用入口にある解説↓。 【宗祖伝教大師ノ創建ニシテ御自作ノ阿弥陀佛ヲ安置ス故ニ浄土院ト称ス 弘仁十三年六月四日大師入滅ノ後御遺骸ヲ此処ニ葬リ廟堂ヲ建立ス萬治 四年徳川家光公之ヲ改造セラル】元亀の法難で堂宇などはすべて織田軍に焼かれ、「唯一残った建物」というのが山内にある。けど、浄土院まで焼くかなあ。ただ、家光の時代に新しい廟堂が建てられたという部分は事実なんだろう。もちろん、天海が建て直したってことだろうけど。さて、門をくぐるとこういう光景が広がります↓。 おおお~、砂の部分にはきれいに筋目が付けられ、むろん落ち葉もゴミも落ちてない。門をくぐった直後から感じる清浄な空気に加え、心をこめて「地獄」の掃除に取り組む侍真さんのことを考えて身が引き締まる思いがする。わたくしが入った時には誰もいなくて、写真の右端に一部写っている噴水のようなものだけがちゃぷちゃぷ水音をたてている。その水音でさえ別の世界の音のような、音は聞こえているのに完全な静寂の中にいるような、「清浄」という言葉しかあてられないような厳粛な空間。塀沿いの細い道をたどってまずは正門へ向かう。 素木の美しさに見とれながら振り返ると、そこが拝殿へ向かう四半敷の参道↓。 ほっ、日本建築というのはなぜにこんなに美しいのだろう・・・ 輪宝紋、輪宝紋・・・ 正面の扉にも。 大棟にも↓。 扉の上↓。 嬉々として写真を撮りまくっていると、人の気配がした。振り向くとカメラを持ったガイジンの姉ちゃんが立っていた。ので彼女に道を譲ってお堂の周辺を先に撮ることにした。お堂の前には銅灯篭がある↓。 浄土院はさすがの貫録だけど、門からここまでのトータルのバランスを考えると、ここにこーゆー灯篭があるのはちょっとそぐわない気がする。しかも銅灯篭でこの造り・・・寛永寺(上野東照宮を含む)でさんざんこのテの灯篭を見てきたので、誰にでもこんな灯篭が造れるものじゃないってことは、灯篭オタクのわたくしにはわかる。これってもしや・・・と敷石から出ないように注意しながら灯篭を覗き込むと、 やっぱり!!タダ者じゃないというわたくしの読みは当たった。ちょっと待ってよ、これ誰の奉納だ!?「掃除地獄」において敷石から外れて全方位から観察する訳にはいかないんだけど、幸いこの灯篭は参道から見える部分に奉納者の銘があった。 右から 【明王院住持兼功徳院尚志 東叡山執職 建× 見明院住持権住心院●●】東叡山・・・やっぱり寛永寺だああ~!!●は難しい漢字で字そのものがわからないもの。「兼」も難しい漢字で推測しただけですが、前後の銘から考えてたぶん「兼」で合ってると思います。で、×は写真が切れてて写ってない部分。おそらく「建立」とあるんじゃないかと思いますが、たとえば天海は家光をスポンサーにして山内の堂宇を復興させたし、輪王寺宮の関連で江戸期に徳川家から灯篭が奉納されたとしても不思議はない。でも、ここにある銘は輪王寺宮のものじゃない。輪王寺宮が誕生する以前の寛永寺住職の天海・公海でもない。「執職」とあるから必ずしも寛永寺のトップとも言い切れないけど、もし輪王寺宮がおわす時代だったら宮の名前を刻んでしかるべきだろう。ので、確実に江戸期の奉納じゃない。だけど、笠には葵の紋が付いてるぞ・・・それに、明治以降の寛永寺にこれだけのものを奉納する余力があったのか?ちょっとここで、イヤな想像が頭をかすめた。葵の紋が付いてるからといって、葵紋入りの灯篭のすべてが徳川家、あるいは松平家からの奉納という訳じゃない。上野東照宮にある数々の大名家からの奉納の灯篭にも葵の紋が付いてるものがあった。そして、当初あった銘にプラスして新しい銘を刻んだと思われる灯篭も天海の毛髪塔にあった。ここから、どこぞの大名家からの奉納銅灯篭の銘を消して寛永寺の名を新たに刻んでここに寄進したんじゃないかという世知辛い推測が浮かんだ。銅灯篭は御三家も寄進しているけど、笠の一部分に共通する特徴がある。ここのはその特徴と合致していないので、御三家よりは大名家の寄進の灯篭に近いタイプだという気がする。こんなこと書いたら寛永寺サイドから名誉棄損だ!と怒られちゃうかもしれないけど、これまであちこちの灯篭を観察してきたシロートの素朴な妄想です。実際は寛永寺が奮発して新しく造ったものかもしれないし、全方位から観察できた訳でもないので、ホントのところはわかりません。この記事を書いた数日前、ちょっと近場でお出かけをしてきました。寺へも行ったもので、つい習慣で灯篭観察もしてきたのですが、あっ、あれすごい!あれはタダ者じゃない!!と思って銘を見たら、なんと寛永寺から放出された灯篭でした。寛永寺だけじゃありません。増上寺のもありました。そんな情報は事前につかんでいなかっただけに、これはオドロキでした。 わたくしの灯篭観察の出発点は寛永寺だったがために、日光や叡山のような歴史ある寺にある灯篭がシンプルだったのが意外でしたが、寛永寺でさんざんお殿様たちからの灯篭を見ているうち、そういうハイクラスの灯篭を見分けられる目が養われたようです。あ、ここでいう日光は霊廟部分を除いた日光って意味ね。もうね、ホントに格が違うんですよ。いかにも金かけてるな~ってカンジで先日見つけた放出灯篭はどれも石造りでしたが、遠目から見てもすぐにわかりました。まして、銅灯篭ともなればどんだけ金をかけてるかわかったもんじゃない。そういう最高級品を、しかも明治期以降の寛永寺が葵の紋を付けて造るってのはちょっとわたくしには考えられない。だから、浄土院の銅灯篭も「寄進」という形で放出されたものなんじゃないかな~って想像をしてみました。もし本当に大名灯篭からの転用品であれば貴重な寛永寺の遺物ってことになるけど、だとしたら銘を抹殺された大名はどちらのお殿様だったのだろう・・・にほんブログ村
2015年02月23日

叡山の七不思議や「魔所」についてはここまでの記事で折にふれ紹介してきましたが、叡山には「地獄」もあると以前書いたのを覚えておられるでしょうか。「魔所」がその名にふさわしい霊的な場所を指すのに対し、「地獄」はそんなおどろおどろしいものではなく、あくまで観念的な意味でのもの。ま、見方によっては現実的な「地獄」の方が「魔所」より怖いのかもしれませんが。で、「最も澄む男」が眠る、山内で最も聖なる場所とされる浄土院は、実は「叡山三大地獄」のひとつでもあります。その話の前に、まずは前回の解説にも出てきた最澄の廟堂を守る「侍真」(じしん)について紹介しましょう。「最澄の真影に侍す」というところからくる役の侍真は、現在では12年という長いお勤め期間が設定されている。が、12年の籠山修行はもともと最澄が決めたもので、侍真のためのルールという訳ではなかったし、浄土院ができた当初から侍真が現在のような形でお勤めに励んでいた訳でもない。長い叡山の歴史の中では持戒がゆるくなっていった時期もあったようだけど、江戸中期、一部の僧から戒律復興運動が起こった。その頃には12年籠山修行が絶えてからかなり長い期間が経過していたようで、復興運動の一環として12年籠山制の復活も試みられた。その時、浄土院にはちょうど侍真がいなかったそうなので、12年籠山制と侍真制の2つをドッキングさせて、現在のような侍真=12年籠山スタイルが出来上がったんだそうな。侍真には誰でもなれるものじゃない。仮にわたくしが最澄萌え~で今すぐ頭をマルコメ君にして「最澄様に12年お仕えしま~す!」と宣言したところで、無理です。『比叡山 その歴史と文化を訪ねて』によると、まず侍真になるには浄土院で毎日3千回の五体投地での礼拝を続けなければならない。それを何十日か行っている間に『梵網経』に説かれる「好相」をゲットし、そのことを現職の侍真に認めてもらうのが最初のダンジョン。そして戒壇院において自誓受戒をして、ようやく侍真の資格を得る。同時に、この時から12年の侍真生活が始まる。「好相を感得する」と一口に言っても一種のさとりのようなものだろうし、当然個人差があるものと思われる。『伝教大師最澄の寺を歩く』(比叡山延暦寺監修/JTBパブリッシング)で紹介される平成19年時点での現職の侍真さんは感得するまでに10年かかったそうな。感得すればそのまま受戒を経て12年籠山に突入するから、実際は12年ではなく好相を感得するまでをプラスした期間が侍真関連での修行期間となる。晴れて各ダンジョンをクリアして侍真になれたとして、当然そこがゴールじゃない。ここからがラスボス・・・いへ、最澄たんに文字通り侍る生活の始まり。12年浄土院にこもるってどんなでしょう・・・生まれたばかりの赤ちゃんが小学校を卒業するまでの期間ですよ。 【比叡山での暮らしの厳しさは、論・湿・寒・貧という言葉で表わされる。 論は論議の厳しさであり、山深い谷あいの毎日は、じめじめとして寒さも ひとしおであり、暮らし向きはあくまで質素、ということだが、浄土院のある 東塔西谷は、夏の日中でもあまり陽がささないうえに、周囲には湧水地も多く、 朝夕は霧が立ち込めるなど、その寒さ、湿気の多さは、僧侶の健康を苛む ほどだという。】 (『伝教大師最澄の寺を歩く』より)今回、3日間山内を歩いた中で主要堂宇はロクに観ませんでしたが、観光客が集まる主要堂宇以外の場所に2つ、大のお気に入りがありました。2つのうちの1つがこの浄土院で、もう1つは魔所・・・地獄と魔所が山内きっての個人的お気に入りだなんて、後から考えて自分でも笑いましたが、何ていうのかな、魂が無性に惹かれるというか、身体の力が抜けて動きたくなくなるような、とにかく理屈や言葉では説明できない感覚。これまでの旅でも新高山城とか、京の相国寺の法堂(はっとう)だとか「ここから動きたくない」という場所はあるにはありましたが、そこまで惹かれる場所というのは数えるほどしかない。それが、叡山には2つもそういう場所があったんです。今回はあまり時間がなくて山内の一部しか歩いてませんが、探せばもっと見つかるかもしれない。まあ、浄土院は山中のへんぴな場所というほどでもないし、さすがに伝教大師の廟というだけあって来る人もそれなりにはいるものの、塔の中心部ほど人は来ない。それにオフシーズンだしね。で、人がほとんど来ない静寂の中でまったりして、これから西塔を見て回る予定だとゆーのにかなり長居をした訳ですが、隣のスポットとあわせて1時間ほどいるうち、身体はかなり冷えた。人生初の叡山訪問も真冬の寒い中だったので、叡山の寒さを覚えていたわたくしは登山での運動量と山内での寒さを考慮したウェアを選んだ。だからこそ、門前で脇を通り過ぎていったバサバサのスカートの不思議なお姉さんに違和感を感じたんだけどね。叡山の寒さを知らないのんきな観光客かな~と思って見ていたのだ。「三塔十六谷」の「谷」についての延暦寺の説明については「叡山攻め(82)」で紹介してますが、東塔西谷でも浄土院のあるこの場所は文字通りの「谷」にある。低い場所には冷気も湿気もたまるし、確かに侍真は寒・湿に耐えなければならないな~と現地で思った。さて、侍真の1日のスケジュールは、まず午前3時半に起床。拝殿の扉を開くところから1日が始まる。真言宗では「空海たんは高野山奥の院で今も生きている」とされているのは有名な話ですが、浄土院でも最澄たんは生きているとされ、午前5時と午前10時に最澄たんのために侍真が一汁一菜のお食事を供する。その30分後にはお食事を下げて、侍真がおこぼれをいただく。侍真の食事はこれだけ。え~、なんだったかでこれについて「奥ゆかしい風習」みたいに書いてるのを読んだんだけど、「午後に食事をしない」というのはインド仏教からの伝統で、これは暑い国のインドならではのルールだと思う。日中は1日3回の勤行。午後5時に拝殿の戸を閉めて、夜9時に就寝。休みは1日もない。1日の間で休むヒマもない。で浄土院の「地獄」ですが、これは日中の「おさんどん」や勤行の合間に行われるお掃除のことを指す。門内の境内エリアから周辺一帯までてってーてきに掃除に努めるので、「掃除地獄」と呼ばれるそうな。浄土院はわたくしのオススメのスポットですが、もしこれから浄土院に行かれる方がいたら、「掃除地獄」のことはぜひ頭にとどめておいて、現地では地獄に奉仕する侍真さんへの配慮をお願いします。それでは、現地紹介に戻ります。正面の門は開かれてはいるものの、柵が置いてあって中には入れない。この柵は最澄たんの命日である6月4日に行われる「長講会」の時だけ開かれる。自分の大きな夢が叶うところを見ずに死んだ最澄たんだったが、弟子たちの懸命の奔走により死後にその願いは叶えられる。それで、最澄たんの一周忌の命日に弟子たちが法要を行ったのが長講会の始まりだそうな。特別な長講会の日、浄土院はいつも以上に掃き清められて正面の門から御供物が運び入れられる。長講会に参加するのは天台座主および各門跡寺院の大寺の高僧たち20人。これらの僧が廟堂へ入るに先だって、霊前への献茶が行われる。日本に茶を広めたのは栄西さんだというイメージが強いけど、最澄たんが留学先の唐から茶の実を持ち帰って日本で植えたのが日本で初の茶の栽培だそうな。山麓にはその茶の歴史を持つ日吉茶園があり、長講会の時にはこの茶園の一番茶が大津市の代表によって献じられるならわしだという。お茶の後には正装に身を包んだ天台の高僧たちが入堂し、声明・論議・座主の「おしらべ」と続いて約3時間の法要が終わる。「法要」というと読経がメインのイベントのようにも思うけど、もともと最澄が始めた「法華十講」を引き継いだものであり、さらに学僧の勉学の向上のために良源さんが論議をも取り入れたものらしい。が、長講会の重要なのはこれだけじゃなくて、一旦控え所へ下がって衣装を改めた出仕者がふたたび廟堂へ入ると、天台座主から重要な発表が行われる。それが、その年に行われる「戸津説法」の説法者の発表。戸津説法は最澄たんに代わって説法するという重要な役どころでもあり、天台座主への通過点でもある。この発表が浄土院の廟堂で行われるということは、天台の大寺をあずかる高僧への通達である一方、最澄たんへの報告も兼ねているということだろう。長い歴史を引き継ぐ叡山らしい、数々の伝統の詰まったイベントのようです。しかしだね、現地に立つわたくしは困った。これじゃ中に入れないじゃん・・・門は開いてるからいちおう中の様子は覗けるけど、ここから見るだけえ~!?う~ん、入れないなら仕方ないけど、ここ楽しみにしてたのにな・・・残念無念でいっぱいで進行方向の道の方を眺めると、 ・・・なんか、奥の小さな扉が開いてる気がする。 ので先へ進んでみると、 うおっしゃあああああ~!!(←ガッツポーズ取った)ありがとう、ひろのんにほんブログ村
2015年02月22日

無惨に分解したままの寛永寺奉納の灯篭を過ぎると、もう石段も残り少ない。 一番下に建つ灯篭は、【星野山喜多院亮●】。天海の喜多院からの奉納です。いちばん下から石段を振り返ったところ↓。 いちばん下の石垣はこんなんなってて↓ かつてはここに建物があったっぽいな。石垣の前あたりには道標がある↓。ここはあとで行こう。 え~と、降りきったところでの正面からの写真がありませんが、まず門の外にあった解説版から。 【浄土院(伝教大師の御廟) ここは比叡山の開祖、伝教大師最澄上人のご廟所で、比叡山中で最も清浄な聖域です。 大師は一生を大乗戒坦院の独立に捧げられ、弘仁13年6月4日(822)中道院に 於て、56歳で入寂されました。弟子の慈覚大師円仁が、仁寿4年7月(854) この地に中国五合山竹林院を模してご廟所を建立し、大師の御遺骸を祀り、以来 ご廟を護る僧侶を侍眞といい、一生山を降りない覚悟で昼夜を分かたず、厳しい 戒律のもとに身心を清浄にして、生身の大師に仕えるように、今も霊前のお給仕に 明け暮れしています。 またご廟前玉垣の辺りには、沙羅双樹と菩提樹が植えられ、極楽浄土の雰囲気が かもし出されています。侍眞は、早暁より薄暮まで勤行と掃除勉学修行に励んで、 12年間山を降りない籠山修行の内規に則って、生活しています。】 (現地解説板より原文のまま。漢数字は戦国ジジイが変換)門前で解説を見ている時、誰か石段を降りてきた。振り返るとあまり若くなさそうな妙齢の女性だったけど、結構薄着だし、バサバサした長いスカートをはいていてちょっと真冬の叡山に来るカッコじゃない。でもまあ観光客かと思っていたら、お姉さんは浄土院の方を見に来るでもなく、その脇の道を歩いていった。なんだろう、あの人・・・まあいいや、わたくしの静かな萌え~タイムを邪魔されずに済んだで、浄土院へ入る前にまず最澄たんの晩年を簡単に。シリーズをまたいで空海たんと別の道を歩むところまで書きましたので、その続きになります。空海たんが全国各地に腐るほどの「空海来たる」の伝説をお持ちなのに比べて、最澄たんが畿内を出て地方巡業をしたことは一般にはあまり知られていないかもしれないけど、九州と関東へ伝道の旅に出ている。九州の旅には賀春の神へのお礼参りも含まれている。弘仁8年(817)には関東へ向けて旅立った。この時は東海道じゃなく、東山道の山越えルートを取ったといわれ、最大の難所であった神坂峠を挟んだ2つの場所に旅人のための無料宿泊所を建てたという。東国では下野あたりを拠点とし、下野・上野(こうずけ)の寺に写経した法華経を納める。下野をベースとしたのは、最澄の強力なサポーターであった道忠やその弟子がいたからだと思われる。下野の寺では5万人、上野の寺では9万人もの人を教化したとされるが、やっぱりこれも道忠一派の支援があってこそだろう。ただ、東国には法相宗の徳一もいた。徳一さんは藤原仲麻呂の子だというマユツバな伝承もあるけど、東国への最初の仏教伝道者だとも言われている。この頃から、徳一さんとの大バトルが始まった。2人の論争は「三一権実(さんいつごんじつ)論争」と呼ばれるが、直接対峙してツバを飛ばしながらケンケンガクガクの言い合いをした訳ではなく、著作の応酬で闘うという形だった。2人の論点のポイントを、井沢元彦氏が『逆説の日本史6』で簡単な例をひいて解説してくれているので、アレンジして紹介しましょう。わたくしは歩くのも遅いですが、走るのも遅いです。子供の頃からかけっこで一等賞を取ったことはないし、長距離も大ッ嫌いです。そんなわたくしが、世間に名だたるコーチを2人雇いました。最澄コーチは、「りりちゃん、走るの苦手なんだって?でもダイジョーブ、人間はね、努力すればなんだってできるものなんだよ。だから、ボクと一生懸命練習して、オリンピックで金メダル取って皆をあっと言わせちゃおうよ!ね?がんばろがんばろ~」それを聞いていた徳一コーチは、「ハア?何言ってんの最澄たん。人間には持って生まれた才能というものがある。いいか、りり。お前には才能がない。ダメ人間だって言ってる訳じゃないんだぞ。走る才能がお前にないと言ってるだけだ。努力すれば金メダルを取れるなんて最澄たんの言葉を真に受けて、走って金メダルを取ろうなんて思うだけムダだ」これは仏教論争なので、「走る」を「悟る」に置き換えて読んでください。誰でも悟ることができるか、できないか。インド人の驚異的な発明「方便」をどう解釈するか、そういう論争がメインだったようです。最終的にはこの論争に決着が着く前に2人ともこの世を去ったので、それぞれの派が「勝った」と宣言して打ち切りになったそうなんだけどね。そのバトルと並行して、最澄たんは大きな夢に向かって邁進していた。その活動の中で書いた著作で、山内の修行ルールなどを取り決めている。この中に、12年の籠山修行も含まれる。弘仁3年(812)、46歳の時には一度遺言を書いてるけど、なかなか自分の夢は叶わないし、南都仏教界はいちいちうるさいし、泰範は帰ってこないし・・・などのストレスも多かったので、これ以降はあまり元気モリモリではなかったかもしれない。弘仁13年(822)3月になると床に就くようになる。この時はかなり良くなかったようで、弟子たちはなんとか夢を叶えてやりたいと奔走するものの、なかなか事は進まず、4月には弟子たちを集めて自分の死後について訓示する。修行僧の事細かな生活指導から、自分のために造仏や写経をするより自分の志を述べてくれ、怨みに怨みで応酬するな、毎日大乗経を読んで精進せよ、童子を打つな、といった内容が並ぶ。5月には義真に後事を託す。『最澄心形久しく労して、一生此に窮まる』・・・「パトラッシュ、僕、もう疲れたよ・・・」て某名作アニメの泣かせるシーンをつい重ねてしまうのですが、華々しかった以前にくらべ、さびしげな心情がにじみ出ているように思える。6月4日午前8~9時頃、最澄は息を引き取った。享年56歳。ついに自分の夢が叶うところを見ることなく、お釈迦様にならって右脇を下にして死んだ。上の解説には「中道院」で死去とあり、『伝教大師伝』にも【於比叡山中道院。】とあるものの、この「中道院」がどこにあったのかわからない。手元にある山内の主要堂宇を解説した史料を見ても、「中道院」については書かれていない。ものによっては「仁寿4年7月(854)に円仁が現在地に遺骸を移した」と書かれていて、それなら最初は別の場所に葬られていたのかという気もするけど、『九院仏閣抄』などで浄土院の項を見ると、 【右院伝教大師所定置矣。遷化後大師遺骸所埋也。天安二年七月十六日。 慈覚大師移五台山竹林寺風。始修廟供云々。示云。當時廟供ト云ハ。 冬ナライ行候也。】 (原文では「埋」の文字は「うずめる」の難しい漢字)とあるので、初めから浄土院の地に埋葬されていたのを、円仁が帰国後に五台山(上の解説では「五合山」になっている)の竹林院にならって唐風の「廟供」をしたという風にも読める。まあ、「中道院」は別の場所だったかもしれないけど、埋葬はこの場所だったんじゃないかと個人的には思うんだよね。そう思う理由は、浄土院とは別のスポットにある。にほんブログ村
2015年02月21日

かんべ~とはんべ~は2人あわせて「二兵衛」だし、吉川と小早川はまとめて「両川」なのに、円仁と円珍は「円」でまとめて「二円」とは呼ばないんだな、とバカなことを考えたわたくし・・・さて、山内における円仁派VS.円珍派の争いもクライマックスを迎えます。正暦4年(993)7月、円珍派の成算(せいさん)が集団を派遣し、山麓にある円仁派の赤山禅院を襲撃するという事件が起こる。赤山禅院から報告を受けた円仁派はそりゃ怒った。そして成算をボロクソ非難し、彼の師の勝算に成算の身柄を引き渡すよう要求する。余慶さんの高弟だった勝算は円仁派の要求をガン無視し、山麓にある円珍派の寺に兵を置いて、山上に送られる荷物を奪うという行動に出た。こうした事態を受けて、8月に入った頃には円仁派が山内の円珍派の寺や僧坊を広範囲にわたって焼き討ち、あるいは破壊し円珍派の山内の拠点はほぼ壊滅状態に陥った。勝算などは赤山禅院を攻撃した時点ですでに山麓に避難していたようだけど、まだ山内に残っていた円珍派僧侶もいたのか、8月の攻撃の後、まとめてごっそり下山することになる。ここで下山した円珍派が入ったのが園城寺。前回の余慶さんの法性寺座主問題の時は、余慶さんたちは京側の山麓の寺に分散して入った。この後で無人になった山王院の経典類を保護せよと朝廷から通達が出ているので、余慶さん周辺の円珍派は一旦は山を下りたものの、山王院の中身はそのまま・・・円珍さんの木像もおそらく山王院に残されていたと思われる。次の余慶さんの天台座主問題の時もまた京側の山麓に下りたんじゃないかとも思うけど、円珍派がまとめて園城寺に入ったというのは、赤山禅院の事件後にしか今のところわたくしは知らない。ので、赤山禅院事件後に円珍さんの木像を背負って園城寺へ向かったんじゃないかな。これ以降、円仁派と円珍派は完全に袂を分かち、山門と寺門に分かれて数百年の間、ドンパチを繰り返す。それまでの山内の円珍派にとっては、円珍さんの住房であった山王院が聖域のようなものだったでしょうから、「二円」の抗争の歴史は山王院から巻き起こったと言っても過言ではないように思える。ざっとこういう流れのようですが、完全分裂は良源さんの死後の出来事だけど、良源さんが分裂へのレールを敷いたようにも見える。ただ、良源さんが座主になって以降、余慶さんの法性寺座主問題が起こるまでの間にとある論議の3人の探題全員に円珍派の僧侶を選ぶなど、良源さんの施策はいつだって円珍派排除の方向に向かっていたという訳でもない。基本的に良源さんは円珍派の排除や分裂を狙っていた訳じゃなく、一山を統轄する身としては当然のことながら、両派の融和を図ろうとしていたんじゃないかという気がする。けど、最澄たんの頃に比べて良源さんの頃の叡山はとてつもない大所帯になっていた。人が増えれば色々な摩擦も出てくるし、色んな人間もいる。そしてちょうど自衛の手段として寺社でも武力を持ち始めた時期でもあるので、なかなかコントロールしきれるものでもない。それからもうひとつ重要なこととして、良源さんには自分の愛弟子に跡を引き継がせる必要性があった。円珍派と仲良くしておきたいのはヤマヤマだけど、自分の跡目については譲れないので、円仁派による山上支配は確保しておかなければならない。そういう中で硬軟取り混ぜた対応を試みたものの、結局両派は相容れないエンディングを迎えることになったのかな、と思った。もうこれは、誰がいいとか悪いとか、そういう問題じゃない。ま、円珍さんの事跡とカリスマ性がハンパなかった上に「武力」がクローズアップされてきた時期と重なったのが要因かなとも思うけど、やはり最澄たんが意見を翻さなかったらここまで大きな分裂は呼び込まなかったんじゃないかという気もするし、もし泰範が最澄たんのもとに留まっていたら、あるいは後継者は泰範一本に絞られて円珍派は今も叡山のイチ門流として残っていたかもしれない。けど、もし寺門が独立しなかったらあるいは大内氏の一切経蔵は今頃地上から消滅してたかもしれないよな・・・とか、妄想はつきません。さて、それじゃ重要な歴史の証人である山王院堂へ戻りましょう。 中には入れませんが、入口付近にはちっさい石像がちょこんと置かれていた↓。 密教法具を持ってる・・・こーゆー椅子に座るのは高僧の像に多いから、仏像じゃないよな。もしかして、円珍さんのつもり? 飾り気はほとんどないけど、素木が美しい。比較的新しい建物みたいだな。 ↑たぶんこの灯篭だったと思うけど、「寛政二年庚戌十月●● ●●院権僧正●鎮寄附」とあるように見える。1790年、江戸中期の奉納です。円珍派が山内にいた頃は、ここにもいくつかの建物があったのかもしれないけど、今はお堂が一つ建つだけ。ので、山王院堂はこれでおしまい。かつてここを中心に大きな争いが起こったなんて思えないほどの静けさでした。お堂より一段下がったところには石造りのいろんなものが立っている。 左の石碑は古そうに見えるけど、明治期の建立。この先の歩道橋とはわたくしが渡ってきた橋を指しますが、わざわざ物を落とす人間なんかおるのか? 「元三大師霊場」「黒谷青龍寺」のいずれも確かにここから行かれますが、それぞれ距離は6丁、13丁とかなり距離がある。ろくな目印もない山道であればありがたい表示でもありますが、結構こういう遠くの場所を示す碑もあちこちにあるので注意が必要です。で、その奥がこちら↓。 灯篭はそれぞれ、千手観音ナントカ、山王権現ナントカと銘がある。笠の部分も変わってるけど、火袋は木の枠になっている。初めからこのスタイルだったとも思えないんだけど・・・そして最後がこの道標↓。 これは遠くを示すものではありません。山王院堂の先にこれがあり、今回叡山でわたくしがかなり楽しみにしていたスポットでもあります。何と言っても大物だからな・・・ふっふっ、墓マイラーの血が騒ぐして、そのお楽しみエリアの入り口がこちら↓。 長い石段の両脇には、この先の聖域を護るかのように灯篭が並んでいる。すべての灯篭を撮ってたら先へ進めないので今回は見るだけにとどめましたが、天台宗で一般にも有名な寺院からの奉納の灯篭ばかりだった。 石段からすでに厳粛かつ清浄な空気がそこはかとなく漂っていて、下りなので注意しつつ灯篭を見つつ下りていくと、灯篭群の最後の1本は無残なことになっていた↓。 オイオイ、廟堂に最も近い場所で、しかもこんな有名どころの寺の灯篭が並ぶ中で倒れたままにしておくなんていいのか~?どこの寺の灯篭だよと思いながら倒れた灯篭の銘を覗き込んだら、 【東叡山輪王寺門跡尚順】・・・ぎゃああああ、寛永寺じゃねーの!!なんでよりにもよって寛永寺のが倒れてるんじゃすべての灯篭の日付を見た訳ではありませんが、近代に入ってからの割と新しい灯篭ばかりだった。ので、この灯篭を奉納した寛永寺門跡ももう「輪王寺宮」の時代以降の方です。しっかし、見事に分解しとるぞ・・・こーゆーのは上野で見慣れてるけど、ここは観光客も通る参道だし、慣れてない人がこれを見たらさぞ驚くだろう。分解は自然発生的なものだろうからそれはいいとして、なぜこんな目立つ場所にある灯篭をいつまでもそのままにしておくんだろう。ましゃか、江戸期に寛永寺に実権を握られたことを根に持ってわざと放置してるってことないだろうな前日の大講堂での会話を思い出して、またブルーになった。にほんブログ村
2015年02月20日

え~、「僧兵」やら「強訴」やらは意外に単純なものではなかったということを勉強ノート(←ブログ)に書き留めたところで、前々回のはじめの余慶さんの法性寺座主就任問題に戻ります。余慶さん個人としては天皇のための五壇法の1人に選ばれるなど、法力にも優れた高僧だったのだろうと思われるけど、良源さんの数代前まではしばらく円珍派の座主が続いており、派閥自体の勢いもかなりあったのだろう。200人近くの円仁派僧侶たちが時の関白邸に押しかけて抗議したものの、朝廷側の回答は「これまで法性寺の座主が円仁派だったのはたまたまだし、寺を開いた藤原忠平公は別に座主を円仁派だけに決めた訳じゃないし~。ゆえに訴えは却下でおじゃる」というものだった。しかし、これに納得しない円仁派大衆たちは関白家で乱暴狼藉を働いたという。ま、実際どの程度暴れたのかはわからないんだけど、延暦寺初の示威行動でもあり、大して乱暴はしていなかったとしても、かなりの衝撃を与えたことだろう。それで詮議が行われ、デモ隊に参加していた僧綱・阿闍梨25人は公の行事への参加停止、ほかの参加者たちは解職ともいわれるかなり厳しい措置が取られた。前回と前々回の記事は「僧兵」や強訴に関する全体の概略だったから、のちには押せ押せの武力行使さえしなければ「お咎めなし」となったケースもあったのかもしれないけど、なんといってもこの時はお初の強訴。ウィキペディアの「強訴」のページにある一覧には、これ以前には興福寺が行った1回しか書かれていない。「お山のボーズどもが、なんということをするでおじゃるか~!!」という朝廷の驚きを反映しての厳しい裁定だったのかもしれない。それでも円仁派はしぶとく実力行使をした。余慶さんが法性寺の座主に任じられたのが天元4年(981)11月29日。しかし、円仁派の妨害によって座主の就任式を行うことができず、1ヶ月もたたない12月13日、余慶さんは辞表を提出した。良源さんが座主になる以前から、山内での高位の職をめぐって派閥間での争いはあった。『天台座主記』には、円珍さんが自分の死後に自分が唐から持ち帰った経典類や自分の著作を「悪比丘」に焼かれてしまうかもしれないから、よくこれを守護するようにとした遺言がある。それが事実かどうかはわからないけど、円仁派と円珍派の争いはしだいに暴力性を高めていくようになった。相手が朝廷のような部外者の場合は、前回紹介したように暴力性を抑えたものであっても、こと山内での争いの場合は対象者の僧坊を破壊したりするなど、結構容赦ない。そういう状況をふまえて、良源さんは綱紀粛正のためのルールを作った。そのうちのひとつが「武器を持って僧坊に出入りし、山内を往来する者は捕らえて朝廷に差し出す」としたものだった。全文引用すると長いので、簡潔にその内容をまとめると 『梵網経』では「怒りで怒りに応酬し、たとえ父母親類が殺されても 報復してはならない」「一切の武器を所有してはならない」とあるのに、 噂では武器を身につけて徒党を組む者があると聞くが、彼等は人を傷つけることを 厭わず、天台宗の恥である。 これは師が弟子を叱らず、弟子が師に従わないからである。今後は師弟とも 戒律を守るよう努力せよ。【もしこの規則に従わず、師の教えに背く者があれば、 「護法善神」がまず冥罰を加え、次に「惜道勇士」がその身を捕らえて速やかに 政所に送致し、太政官に差し出すこととする。】 (【】内は『僧兵=祈りと暴力の力』からの引用)ということのようですが、これによって良源さんは「僧兵の禁制者」という評価を得た一方で、後世の史料によって「僧兵の創始者」という正反対の評価が与えられてもいる。ただ、衣川仁氏によると後世の史料に頼らずとも上の文章から良源さんの本音を読みとることは可能だという。「護法善神」は梵天やら帝釈天やらのインドの神がお釈迦様に帰依して仏法を護るガーディアンにとらば~ゆしたもので、これにはアシュランなども含まれる。つまりは山内ルールに背いたら、まずは神罰が下されるよ、ということ。次の「惜道勇士」は現実的に違反者を捕らえる力(武力)を持ち、実際にそれを行使する者を指すんだそうな。「惜道」は仏の道や人の道を大切にするという意味であり、武力をもって違反者を捕らえるという現実的行為にも「あくまで法や道のため」=「護法」という宗教的正当性が込められており、「惜道勇士」の行為自体は規制の対象となっていないという。つまりは、 【結論的にいえば、良源は世俗権力が抱くあるべき僧侶像に合致するような 武力否定の姿勢を世に示すため、自らの手中には武力を正当なかたちで確保し、 他の武力を神の名のもとに不当なものとして禁止したということである。 (中略)事実上の寺院武力を確保しながら、それを宗教的な正当化によって 禁制の対象外に置きつつ、他の武力をおさえこむ。良源は、武力を公的な 秩序維持機能として寺院法の中で明確に宣言し、各門流内で教誡の役割を果たした 師の、さらに上に立った指導力を確立した。暴力による暴力の排除ということが、 良源に与えられた善悪正反対の評価の理由である。】 (『僧兵=祈りと暴力の力』より)だそうな。この点について良心的に解釈している本を読むと、解釈がかなり違っているので正直混乱する。けど、現実的に見てわたくしはこの衣川氏の分析が妥当だろうと思う。当時、法性寺の座主を経験した者は、天台座主になったという。ただ、天台座主となる資格が法性寺座主の経験ということではなかったと思うけど。円珍さんから良源さんまでの間の座主には、円珍派の座主もいたからね。だから、円仁派にとっては法性寺の座主のポストは重要な意味を持っていた訳だけど、実は良源さんは法性寺の座主になっていない。しかも、初代天台座主・義真から良源さんの先代までの17人の天台座主のうち、60歳以前に座主となったのは義真と5代・円珍さんのみ。そして円仁派も決して一枚岩という訳でもなく、円仁派でも傍流の、かつ若造の良源さんが天台座主に抜擢されたことは円仁派の中でも波紋を巻き起こした。良源さんが天台座主になった時、法性寺の座主は良源さんより年上の円仁派の先輩だった。それが、良源さんが異例の大抜擢を受けたことで翌年その先輩は悶死し、先輩の霊はしばしば祟りを引き起こしたというエピソードがある。同じ天台宗の中でも、別派のみならず同派にも胸に一物を抱くような者もいた。門流同士のいざこざも絶えない。山内であろうと山外であろうと、武力行使する僧や大衆への世間の目は厳しい。こういう一山を率いる良源さんはさぞ大変だったろうと思うけど、それでも厳しいルールを定めて一山の支配に乗り出すのだから、かなりの「やり手」でもあり、それ以上に強い意志を持った方だったのだろうと思う。さて、そういう良源さんですが、余慶さんの法性寺座主問題に関して、余慶さんの就任式を妨害した円仁派の処罰も、両派の調停もしていないらしい。これは宗内での派閥争いであり、「護法」の論理は適用できない。それなのに、残されている史料からは何らかの対策をした形跡が見られないという。結局、余慶さんは門弟たちを引き連れて山を下りた。余慶さんは北岩倉へ、その他は白河の修学院・石蔵の解脱寺・北白河の一乗寺へと分散。が、円珍派の一部の100人ほどが山内に残り、円珍さんの坊である山王院にこもったとされる。その後、「山王院の経蔵や山外の円珍派のこもる寺を焼き、余慶ら5人を殺害するという座主の命が下った」という噂が流れた。ここに至って朝廷が乗り出し、円珍の経蔵から経典などが奪われる恐れがあるため、三綱へ山王院の警護を命じた。この時の勅使が伝えた内容によると、山王院には誰もいなかったようなので、残っていた円珍派僧侶たちも噂を受けて山を下りていたのかもしれない。でもまだ完全分裂じゃない。山王院の警護を命じた一方で、良源さんの元には天皇から遺憾の意が伝えられていた。これに対する良源さんの弁明は、放火・殺人は仏法でも明確に戒められている大罪であり、それを犯してはならないことは重々承知している。今回のことは法性寺という古くからの一門の寺のことを考えて我が門徒が訴えているものであって、決して自らの利益のためではない。円珍派を攻撃しようなどという噂はデマでしかないので、早くその弁明をさせていただきたい・・・というものだった。少し時を進めて、良源さんの死後は愛弟子が座主の座を継いだ。しかし、彼は5年ほどで辞表を提出する。その後に座主に選ばれたのが余慶さん。一旦は山を下りたものの、一時避難的なものだったのか、山内での地位はキープしていたらしい。天台座主ははじめは山内で人選が行われた、いわば私的なものだったのが、3代・円仁さん以降は官符の補任による公的なものとなっていた。で、どの派閥からどう選ぶなどのルールはなく、年功序列的に座主が選ばれていた。ただ、山内の各門流の意向も当然あったので、お上の命令と山内多数派の意見が一致した場合はいいのだけど、一致しない場合は新たなトラブルの種にもなった。永祚元年(989)に余慶さんが選ばれた際も、円仁派の反対にあってまたモメた。天台座主は朝廷が任じるものだから、まず勅使が叡山に登って宣命を読み上げることからスタートする。ところが、良源さんが定めた西の結界「水飲」付近で円仁派が待ち構えており、勅使は追い返され、宣命は破り捨てられた。すぐさま宣命は再作成され、勅使は今度はボディーガードを用意して、無事宣命を読むことができた。その後は諸堂を廻る「拝堂」という儀式が待っていたが、過去の経緯を考えて余慶さんは多くの精兵を伴っていったという。して、案の定武装した「俗侶」らが余慶さん一行に対して弓矢で攻撃をしかけた。これだけの事件に対して、さすがに朝廷でも処罰についての会議があったらしいが、実際に処罰されたという記録は残っていないらしい。衣川氏はこの事件について5つの点を指摘しているが、【最大の特徴は、僧侶集団を統制すべき僧綱の姿がみえない、ということである】という。 【おそらく永観3(985)年の良源入滅によって、その強烈なコントロールを 失った延暦寺では、慈覚門徒という要素を基盤とした集団意志が、座主や僧侶の 主導ではなく大衆の自律というかたちで急速に表面化したのではないだろうか。 ここにいたって大衆は政治的に覚醒し、中世寺院の主体として行動しはじめる。】 (【】内はいずれも前掲書より)「永祚宣命事件」といわれるこの事件が、完全分裂の一歩手前の段階であり、僧兵・強訴の性質が変わり始めた時期ともいえるのだろう。にほんブログ村
2015年02月18日

んでは、寺社勢力が活用したもっとも明快でアグレッシブでポピュラーな手段、「強訴」について。ウィキペディアの「僧兵」のページのサイド欄には「僧兵の古写真」なる画像が載っていますが、これを見たときわたくしはオオ!びゅりほ~!!・・・と素直に思いました。なんたって、顔がほとんど隠れるしね。現代の働くおじさん達も、制服を着てるとカッコ良く見える。さらに帽子がついてれば(顔が隠れるから)イケメン度はアップするじゃなくて、現実的視点で見ると、これでどの程度防御力があるのだろう?とも思う。弁慶などの「僧兵」がかぶる頭巾は「裹頭」(かとう)と呼ばれるけど、裹頭の中に頭を保護する武具はあったのだろうか?そして、お決まりの高下駄・・・これも意外に安定性はいいとかいう話もあるけど、戦国時代の機能的で実戦的な武具を見慣れる人間にしてみれば、激しい戦いをこなせるようないでたちだとはあまり思えない・・・ただ、妙な色気はあるけどね。ここでも山折哲雄氏の服飾倒錯説が頭をかすめたわたくし・・・しかし、『僧兵=祈りと暴力の力』で強訴の実例などを読んでるうち、これはこれでいいんだとも思うようになりました。強訴などで武力も確かに使われたりはしたけども、合戦において槍1本でおのれの身を立てた戦国時代とは訳が違うんです。『僧兵=祈りと暴力の力』から、いくつかの実例を見てみましょう。長暦2年(1038)、天台座主の後任をめぐって円珍派と円仁派の争いがまた勃発した。時の関白が次の座主に円珍派の僧を推薦したことで円仁派が抗議したというものだった。過去の経緯からこうなることが予測できた朝廷としてはできればトラブルは回避したいところだったけど、関白の意志は固かった。10月26日、僧綱たちが下山し、あらかじめ訴訟の内容を報告した。これに対し、天皇は「三綱と寺務を司る政所だけが来て書面で訴えるのであればOK」と回答する。関白も、「来るのは構わないが大勢で来るのはどうかとも思うし、そもそも訴訟の内容で判断すべきものだから、数で脅されたって判断が変わることはないよ~」とコメントする。この時の数は2~3千人ともいう。その数字が実数かどうかはさておき、この頃にはかなりの数の大衆が強訴に参加するようになっていたらしい。10月27日、予告通り大衆たちが下山する。しかし、彼らはその日のうちに帰山した。これは円珍派を座主にはしないという内々の宣旨が下されたためだという情報が飛び交ったが、関係者が「ホントかよ?」と調べたところ、それはニセの宣旨であり、朝廷から事の収束を強く求められて板挟みになった僧綱たちが大衆を山へ帰すためにでっち上げた苦肉の策だということがわかった。この件には複雑な座主争いも絡んでいるのでここまでにしますが、衣川氏はここから 【(前略)誇張もあるにせよ「二三千人」の下山はやはり驚くべき事態であり、 それによる混乱はなんとしても避けなければならなかった。それゆえ、僧綱や 「諸司三綱」という朝廷からみて御しやすい者が間に立てられた。この方針は 強訴対応の基本となるが、大衆の側からみれば、僧綱クラスの高僧が寺院本位 ではなく朝廷にとりこまれて動いた格好になる。寺院が直面した諸問題に主体的に 立ち向かうようになった大衆と、俗権に近い僧綱との距離は遠くなっていく。 (中略)そして、座主や僧綱のコントロールを離れた大衆は、都鄙にわたって 強力に作用した神威をともない、強訴を行うようになる。】と解説する。承暦3年(1079)には祇園社の人事をめぐって叡山の僧徒「千余口」が祇園社に集結し、「訴えに対する回答がなければ天神参詣のためにそのまま入洛する」と迫った事件が起こる。で実際に参加した大衆はといえば、600人が大般若経を、200人が仁王経を、200人が武装し弓矢を携えるというものだった。 【ここで動員された武器と経巻の比率は一対四であり、少なくともこの時の強訴は 武力一辺倒ではなく、武装は一部に限定されていた。大衆は、むしろ経巻という シンボルによって、その宗教的なパワーによる効果を期待していたと考えられる。 (中略)ここから推測できるのは、一般に強訴時の武力的性格は制限されていたのでは ないか、ということである。】 (『僧兵=祈りと暴力の力』より)ウィキペディアの「強訴」のページには、織田軍による叡山焼討ちまでの強訴の一覧が載っている。が、これはおそらく実際に行動が起こされたものだけで、これ以外にも強訴の噂だけで未遂に終わったケースや、双方のにらみ合いだけで衝突までには至らなかったケースもあるらしい。元永元年(1118)のケースでは、強訴を阻止すべく検非違使や武士が鴨川に派遣されたが、その際の白河院の下知が興味深い。 【大衆を射てはならない。ただ阻止すればよいのだ。もし制止をしてもなお乱入する 者があったならば、確実にその身をからめとって連行せよ。】 (前掲書より。出典は『中右記』)この時の朝廷側の人数は千人を超すものだったという。それだけの武力を用意しながらも、白河院は攻撃はするなと命令し、その作戦が効を奏してこの時は武力衝突を回避することができた。衣川氏によると、朝廷側では相手が全面的な武力攻撃をしかけてくることはないとの読みを持っており、強訴側でもとにかく武力でことを解決しよう、とは思っていなかったのだという。朝廷が大量の武士を動員したのは、武力による応戦ではなく、あくまで阻止が目的だったというのだ。 【強訴の基本姿勢は政治的要求や訴訟の進行にあり、それは武力攻撃に依拠したもの ではなかった。また、大衆の中には逸脱して暴力に走る者は基本的にはなく、あったと しても少数であろうという朝廷側の認識もあって、すべての強訴が合戦に発展する ことはなかった。強訴とは、自らに有利な裁定を勝ちとるために神威を駆使して 遂行される訴訟であって、決して武力攻撃そのものではない。】 (前掲書より)ドラマなどの弁慶に代表されるような、むくつけき僧体に甲冑をまとった大男たちが日吉神社の神輿を「ワッショイ!ワッショイ!オラオラオラ、言うこと聞けよ~!!そ~れワッショイ!!」と威勢よくぶんぶん担ぎ上げてワアワアやって、とにかく手が付けられない暴れん坊たち・・・みたいな強訴のイメージとはずいぶん違う。のちには神輿の動座も常套手段になっていったかもしれないけど、武装しない僧侶たちがお経を持って大行進した時もあったなんて、ちょっと肩すかしのような気もした。とはいえ、脅しは脅しだし、全く武力衝突がなかった訳でもない。天永4年(1113)に清水寺の別当をめぐって延暦寺と興福寺の大衆が同時に入洛した際は、ちょっとしたハプニングがきっかけで興福寺大衆と検非違使の間で大きな戦闘となってしまい、双方から多数の死傷者が出た。この時に興福寺側から出された弁明は、本来は戦闘を回避しようと思っており、偶発的な出来事により戦闘が起こってしまったのは本意ではない、とするものだった。 【合戦となってしまった後でさえ、戦闘を回避しようとした大衆の姿勢を強調する この論法は、大衆がそこから逸脱しなければお咎めなしという世俗の寛容を 逆に照らしだすものであった。】 (前掲書より)強訴側が積極的に武力を行使しようとせず、まずは武力をちらつかせることで交渉を有利かつスムーズに運ぼうとした理由は、寺社が武力行使をすることによる世間の批判をかわそうとしたほか、本気で戦ったら「僧兵」は本職の武士にかなわない、という認識が寺社側にあったからだという。対する朝廷側でも、強訴は困ったものではあったけれども、その行動の基本はあくまで「訴訟」であることを認識していたからこそ、武力一辺倒で強訴を抑え込もうというつもりは毛頭なく、ゆえに「訴訟」の範囲を逸脱したものでなければ強訴のあとに厳罰を下すようなことも通常はなかったということらしい。「強訴」というと力づくでカタをつけるという印象だけど、強訴側でも朝廷側でも、意外に柔軟に事を進めていったようなんだよね。双方とも基本的にはじめから武力衝突をするつもりがなく、しかもお互いがそういう認識を持っていたのであれば、「どうせ今回も形だけだろ」と余裕を持って交渉に臨むこともできたんじゃないかという想像もできる。が、貴族たちは強訴を恐れた。当時の史料によると、強訴集団から奇異な大声が聞こえてきたという記述が多いらしい。ここから衣川氏が推測するのは、武力もさることながら神木や神輿を持ち出して奇っ怪な声を張り上げながら向かってくる、霊的なパワーを恐れたのだろうということ。それゆえ、貴族たちは自分よりも霊的に鈍感だろうと思っていた武士を当たらせたのだろうと推測しておられる。『殴り合う貴族たち』を読んだ時、「こいつらヒマで力を持て余してたんじゃないか~?」と思った。平和がいいと思いながらも、人間は心のどこかで戦いだとか、暴力的なものが好きなんじゃないかとも思った。貴族社会で身勝手な暴力が蔓延していた同じ時期、経済的自衛の必要性から寺社勢力が武力を持ち始めた。そしてまた同じ頃、武士も力をつけ始めた。平安貴族たちが住んでいた寝殿造では、部屋の一角に「穴」を開けてトイレとしていたらしいことが『今昔物語集』などからうかがわれるらしい。そういう固定式のトイレのほか、「おまる」も使っていたらしく、貴族のお出かけに随行する侍が腰に携帯トイレの「尿筒」をぶら下げて歩いたり、主人の「おまる」を抱えて歩く姿を描いた絵巻物がある。それ以外にも、貴族が病気になった際、主の足元に寝て付き添いして「下」の世話までしていたという侍が『宇治拾遺物語』に登場する。貴族の身の周りの世話をしていた「さぶらう者」が社会に増え始めた暴力・強訴などを糧に、ひそかに「おまる持ち」からファイターへの華麗なる転身を遂げつつあったというのもなかなか興味深い話だな、と思った。教科書に書かれる平安時代は、長い割にその前後の時代に比べてロクな話題がない。せいぜい荘園の発展、武士の台頭、院政の開始、保元・平治の乱ぐらい?が、時代はひそかに、そして確実に動いていたということを実感した。にほんブログ村
2015年02月16日
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東塔堂宇の拡張工事完成記念法要が行われた翌年の天元4年(981)、円融天皇が病にかかり数々の治療や加持祈祷が行われたが、効果ははかばかしくなかった。そこで良源さんら僧侶が招かれ、天皇の病気平癒に五壇法が行われることになった。これは五大明王(不動明王・降三世明王・大威徳明王・軍荼利明王・金剛夜叉明王)のそれぞれに個別に修法を行うもので、5人がひとつずつ修するそうな。その5人の中には、前回の東塔の法要でギリ役に就くことができた円珍派の余慶(よけい)もいた。余慶さんは天元2年(979)に園城寺長吏となっており、公家の帰依なども受けていたらしいが、五壇法は見事に天皇を奇跡的回復に導いた。この功により、良源さんは東大寺の大仏完成によってあの行基様が任じられて以来初めての、僧侶として最高の地位である大僧正に任じられ、ほかのごほーびも賜わった。ほかの五壇法の修法者もあわせて表彰され、余慶さんも権大僧都へ昇進した。同じ年の11月、余慶さんは法性寺(ほっしょうじ)の座主に任じられる。法性寺は藤原忠平の創建とされる寺で、京洛二十一ヶ寺の一とされる名刹だった。少し前の記事で『小右記』から法興院摂政兼家の子孫たちの事件簿を書きましたが、その兼家のジイ様が忠平。この寺は西塔の院主が座主となって以来、円仁派が座主を受け継いでいたのがここに来て円珍派の余慶さんが座主となったことで、円仁派からクレームが付けられた。円仁派の主だった者22人(良源さんはこの中にいない)が160余名もの円仁派僧侶らを引き連れ、関白・藤原頼忠の屋敷に押しかけた。これが記録の上での叡山の最初の強訴といわれる。え~、ここらでついでに、先日はパスした延暦寺名物の「僧兵」について触れねばなりますまい・・・少々参考文献からの引用が多くなるかもしれませんが、付け焼き刃で勉強しましたものでご了承ください。ここでの参考は『僧兵=祈りと暴力の力』(衣川仁/講談社選書メチエ)が中心です。 【楽天ブックスならいつでも送料無料】僧兵=祈りと暴力の力 [ 衣川仁 ]「僧兵」というと、多くの方がTVに出てくる武蔵坊弁慶のようなものを思い浮かべるかもしれませんが、そもそも僧兵という言葉自体が近世に造られたもの、かつ曖昧で 【僧が武装した姿をいうのか、僧のうち特定の武事専門の者をいうのか、武力を もてあそぶ不埒な僧をいうのか、寺院付属の軍事力すべてをいうのかはなはだ 明瞭でなく(後略)】 (『寺院勢力-もうひとつの中世社会-』黒田俊雄/岩波新書)というのが現実で、 【中世では「僧兵」という言葉はなく、人々は、「大衆」「衆徒」というものは 武装もし合戦もおこなうものと、理解していたのである。それを、この『閑際筆記』 の文にもあるようにはじめから悪い意味をもたせて「僧兵」という新造語で呼ぶ いい方には、武士だけが武器を帯びてひとを制圧する特権をもち、僧侶が武装するのは 不届で僭越だとする、江戸時代の武士の独善的特権意識と仏教への排斥・蔑視の 価値感がこめられているように、私にはおもわれる。】 (前掲書より)という見方もあるらしい。「武」の専門家・武士でなくとも、仏教本来の教義からいえば寺院が武力を行使するのは不届き千万・・・が、時代背景というものもあり、寺社が武力を持ったのにはそれなりの理由があった。「戦国ジジイ」からスタートしたわたくしの日本史勉強は、寛永寺シリーズあたりから戦国の枠を飛び出してさまざまな時代へ関心が向かうようになりましたが、乏しい知識から受ける印象は時代の転換期には土地問題がなにげに重要なカギを握っているということ。そして、寺社による武力の保持もやはり土地が関係しているらしい。「奈良仏教は国家仏教」・・・この単純な認識にはだいぶ問題がありそうだと最澄の歴バナを書く中で思うようになりましたが、少なくとも本シリーズ前半で見てきた平安遷都直後頃まではやれ勝手に愚かな民衆に仏法を説くなとか、寺院がやたら所有地を拡大するんじゃねえとか、朝廷から寺院に向けてのお小言は確かに多かった。それが、10世紀中頃までには朝廷は「僧尼令」に代表されるような寺院の管理政策を放棄していたんだそうな。 【ただし、政策の放棄による規制からの解放は、寺院にとっては古代以来続いてきた 国家的な保護を削減されることと表裏一体でもあった。この厳しい現実を前に、 彼らは自らの手で生きのびることを迫られた。これこそが寺院の中世化の原動力 である。すなわちそれは、自立可能な基盤(寺領荘園という経済基盤、それを維持・ 運営するための組織や武力、それらを担う人員=僧侶集団の拡大)の発展を自らに 課すものであった。】 (『僧兵=祈りと暴力の力』より)あくまで、自衛の一環だったっていうんだよね。ただ、武力といっても皆が皆、弁慶のイメージに代表されるような「僧侶が武装して武力行使する」という画一的なものではなく、自立を余儀なくされた当初などは傭兵もいたそうだし、僧侶より「大衆」が大きな役割を果たしていたケースもあるようだし、自らは武事はしないけども、武装した者たちを率いる「学僧」が騒動の責任者と見なされたケースもあるし、『寺院勢力-もうひとつの中世社会-』の黒田氏は「言葉だけが一人歩きをする危険性があるから、自分はなるべく僧兵という言葉は使いたくない」という意味のことを書いておられるんだけど、実際自分でも文章を書いてみると、「僧兵」というのは確かに使いにくい言葉だなと思う。変に「僧兵」の言葉がメジャーなものだから、書き手の意図と読み手の印象が一致しない可能性がかなり高い気がするのだ。ので、わたくしもあえて「僧兵」の言葉は使わず「武力」とか「武装勢力」という言葉に置き換えると思います。中世における寺院勢力というのは、なにも中央だけに限定されていた訳じゃない。寺同士の末寺の奪い合いみたいなものもあったし、地方の荘園管理もある。中央の本寺から派遣された「悪僧」が下文を偽造して土地や権利をネコババしようとしたケースもあったし、利害関係がからめば寺院勢力の矛先は世俗へ及ぶこともあった。要するにあちこちでトラブルを起こしていたようなんだけど、国家の保護を失って消えていったり衰退する寺もあれば、生き残った寺もあった。生き残った寺を支えていたひとつには、地方の力もあったらしい。当時は当然現代のような高度情報化社会じゃないし、情報の伝達にはなんといっても「人」が大きな媒体だった。宗教面においても、都周辺と地方とでは宗教的格差というものが大きかったらしい。『今昔物語集』にある話では、ある僧侶が叡山に在籍していたが、特別優秀な何かを持っていた訳ではなかったので、本寺での出世を諦めて故郷に帰った。が、「叡山の僧」というステータスは地方の民衆にとっては魅力的なもので、その凡僧は故郷では仏事などを引き受けて生活していたという。法要の知識、教育・農業・医学など現実の生活において僧侶は指導者たりえたし、祈祷などの民衆の宗教的欲求を満たす存在としても有意義だった寺院は民衆からも求められる存在であり、そういう地方と密なつながりを持つことは寺院としてもその存続に大きな意義があった。宗教面でその存続を求めていたのは、地方に限らない。「目に見えない世界」に大きく支配されていた中世では、貴族社会からも病気平癒・安産・自家の発展・怨霊の調伏などなど、祈祷でさまざまな欲求を満たしてくれる寺院というのはなくてはならない存在でもあった。時として武力を行使する寺社勢力は、現実的な面で畏怖の対象だったけど、目に見えない世界に働きかける力を持つ(と信じられた)宗教面においても畏怖の対象だった。寺院の方でもそれを心得ていて、自分達に都合のいい「何か」・・・たとえば天変地異とか、奇異な出来事とか、そういうものがタイミング良く起こればそれらを積極的に活用して霊的な権威を身にまとうようになっていったそうな。そうなってくると、霊界に働きかける手段をもたない世俗はたとえ自分が寺社勢力から敵視・攻撃されるようなことがあってもうかつに手を出すことはできない。霊的な報復が怖いからね。とは言っても、いつでも皆が泣き寝入りをしていた訳でもない。良源さんの死から100年ほど後のこと、とある殺人事件がきっかけで強訴にまで発展したケースがあった。時の関白は藤原師通。この方はガンとして叡山の抗議を受け付けず、大衆たちが山を降りてくると武士を前面に出して矢を射かけさせ、ケガ人が出た。 【この点に関連して、十世紀の苛性上訴として表出しながら国司=受領によって ブロックされていた民衆の不満が、寺社という新たな突破口を得て強訴に結実 したという議論がある。しかしながら(中略)むしろ「鄙」で先に生まれていた 民衆の怒りが、中央寺社の強訴という柔軟な軌道に乗せられることによって、 手懐けられたと評価すべきではないだろうか。 しかし、師通はこうした強訴の社会的機能にはとりあわなかった。嘉保2 (1095)年の段階で、彼がこうした事態の背後にみたものは、全国的な神威の 広まりと定着であり、それが「王城」に侵入してくる危険性であり、その動向を 支えた民衆の姿ではなかったか。】 (『僧兵=祈りと暴力の力』より)師通さんという人は、当時としては異色のドライなリアリストだったようです。武力が通じないとみた大衆たちは、作戦を切り替えて「国家を呪詛」したという。が、この4年後に師通が亡くなっているので、呪詛の対象は国家ではなく師通個人へ向けられていたものだったらしい。師通のあとは、彼ほど強硬に強訴を抑え込もうという政治家は出なかった。むしろ、 【師通という強烈なブレーキによって生じた摩擦力が、大衆をしてより強力な強訴へと 向かわせた。】 (『僧兵=祈りと暴力の力』より)で師通の死後、バージョンアップした強訴はその数をも増やし、白河院を嘆かせる時代へと突入する。にほんブログ村
2015年02月15日

さて、「三聖二師」のひとり、第18世天台座主の良源さんは慈覚大師・円仁派。良源さんの在世中はまだ円珍派は叡山を降りてない。円珍派が山を降りることになった直接のきっかけは良源さんの死後に起こった事件だったけど、物事には段階というものがあり、長い時間をかけて山内での勢力争いが強まっていく中で円仁派の良源さんが行ったことは、見方によっては火に油をそそぎ完全分裂への道を作ったともいえるかもしれない。良源さんが入山した頃、叡山はまだ現在のような三塔スタイルではなく、東塔と西塔の二塔体制だった。横川(よかわ)は延暦寺域の北限にある山深いエリアで、かつて円仁さんがこもったことで開かれたとされるが、その頃はまだ少しの堂宇と僧坊があった程度で、円仁さんは自分の死後、横川が荒廃することを懸念してこれを守るよう言い残しているものの、ひところは僧2~3人程度がいるだけだったり、次第に荒れていったらしい。そういう中、西塔で修行を重ね己の実力で名を知られるようになっていった良源さんが横川へ入り、復興に着手する。当時の座主は円珍派だった。 【横川が叡山山上の最北端の遠隔地であり、円仁門徒に替って、叡山のもう一人の 理論家円珍の登場とその門流の発展のこともあって、次第に円仁派の名跡地が 放置されることになったのであろう。長吏が定められず、恐らく円仁との関係から 東塔前唐院の所管するところとなったと思われる。】 (『人物叢書 良源』平林盛得/吉川弘文館より)これより前、承平天慶の乱・・・いわゆる平将門の乱と藤原純友の乱がほぼ同時期に起こった際、叡山の僧侶・浄蔵(じょうぞう)が横川で将門調伏の祈祷を行っている。この浄蔵さんはさかのぼって都が菅原道真の怨霊におびえていた頃、怨霊を調伏しようとしたという伝承をお持ちの方で、かなり験力があると世間からも評判の方だったらしいが、そういう方が国家鎮護のための大事な祈祷の場に選んだのが横川だった。取り立てて有力な後見者をもたない良源さんが次第に頭角を現していったのは豊かな学識とそれを披露する巧みな弁舌によるものだったので、学僧としてハイレベルであったことは間違いがないけど、そのほか自分を仏道へと勧めたいわば恩師のような崇福寺の僧から台密の伝授を受け、後半生ではその法力が重要なカギとなり、死後はさらにその部分だけが大々的にクローズアップされ、神仏なみに崇められるようになって現在に至る。ので、後世には密教僧としてのイメージが強い良源さんが浄蔵と同じく祈祷にふさわしい霊地・横川を選んだことは一見自然な流れのようにも思えるのだけど、それ以外に円仁の旧跡を復活させようという慈覚門徒ならではの目的もあったんじゃないかという気がする。横川ではその後飛躍的に僧が増えたため、天台座主・良源さんは横川を独立させることに成功する。ここで現在の三塔体制が出来上がった。良源さんへの批判としては、「権勢家と結んで叡山を堕落させた」「僧兵の創始者」という2つが大きなところじゃないかと思いますが、権門と結びついたことに関しては、良源さんには良源さんなりの考えもあり、とりあえずここでは関連することだけにとどめまして、強力なバックを持ったことで潤沢な資金援助も得られた良源さんは東塔の中心堂宇をわずか3年で大改造し拡張させた。その完成供養は南都七大寺の高僧らも招いての盛大なものとなった。強力な信念に基づいた良源さんの数々の施策は、時として門弟からさえも誤解されることもあったようだけど、そうして良源さんの元を去ったらしいもと弟子でさえこの法要に参加していたという。法要はかなり大がかりで華々しいものだったようで、諸寺の僧をさまざまな役職に配しながら、円珍派に属する千光院派の僧侶は一人として役職に選ばれなかった。自分のもとを去った弟子でさえ参加してるのに、ですよ。これを不服とした千光院派が朝廷に訴えたことで、ようやく千光院の長・余慶が役に就いたというエピソードがある。さて、叡山の麓には鎮守の山王の神を祀る日吉大社がありますが、「山王」は最澄以降の呼び名のようで、日吉神社ではもともと大山咋神(おおやまくいのかみ)を祀っていたそうな。天智天皇が大津京へ遷都した際、大和の三輪山の大三輪神(おおみわのかみ)、イコール大物主神(おおものぬしのかみ)を勧請し、大山咋神と併せて祀ったのが最澄以前。延暦寺を開き結界を定めた最澄は、この2神を地主神=山王として延暦寺の守護神に位置付けた。天台山の国清寺が地主神として「山王弼真君」を祀っていたらしいので、これにならったものかもしれない。ちなみに、弘仁9年(818)に最澄が結界を定めた際には 仰願十方。一切諸佛。般若菩薩。金剛天等。 護法善神。大小比叡。王子眷属。天神地祇。 八大名神。七千夜叉。同心結界。皆来衛護。 (『九院仏閣抄』より)とありとあらゆる仏や善神たちに叡山の守護を恃みちらかしている(笑)。最澄は多くの堂宇建立のプランを持っていたらしいが、彼の生前はそのすべてを果たすことはできず、東塔だけにとどまった。その遺志を引き継いで西塔を開いたのが第2世・円澄で、東塔と肩を並べる独自の発展を遂げた西塔は東塔と同じように自分たちの鎮守の神を持つことを考え、大山咋神を「小比叡神」として小比叡峯に勧請し、西塔の「山王」とした。西塔の小比叡神に対し、東塔は大比叡神または比叡神と呼ばれるようになった。で、山王院。山王院堂は東塔の中心部と西塔の中心部の中間にあるが、所属としては東塔の西谷らしい。山王院の創建についてははっきりしていないものの、『叡岳要記』には3つの異なるエピソードが書かれている。まず一つめ。養老6年(722)に稽首勲(けいしゅくん)という仏師が千手観音像を造ったが、この像は天平宝字元年(755)12月18日に空を飛んでいってしまった。北東にある高い山に落雷があったので天皇が勅使に見に行かせたところ、空を飛んだ千手観音像が木の下にいたので、勅使はこれを持って帰ろうとした。ところが像はガンとして動こうとしなかったので、勅使は仕方なく手ぶらで帰り天皇に報告した。天皇は以後は誰も像を動かさないようにと言ったが、そこへ延暦4年(785)最澄が入り、草庵に千手観音像を安置した。その後、「山王院」という号の宣下を受けた。二つめはまだ延暦寺が開かれる前のこと。近江に1人の信心深い女がいた。彼女は衆生の利益のために6体の観音像を造ることを願っていたが、ある時比良山に光を放つ木があったのでその霊木を求めて山に入ったところ、老人がやってきて「お前さんの願い通り像をこしらえてやろう」と言い、琵琶湖まで木を曳いて仏像を彫ってくれた。老人の姿はもう見えなかったが、その6体観音の一つが山王院の観音像だという。三つめは最澄が大三輪神を勧請して信仰していたというものだけど、はたして最澄の生前から山王院があったのかは疑わしい。が、ともかく『叡岳要記』では山王院に祀られているのは千手観音像と聖観音像で、空を飛んだのは千手観音、近江の信女が造ったのが聖観音像としており、千手観音を安置していたことから千手堂と呼ばれていたのかもしれない。・・・しかし、『叡岳要記』には「山王院勧請智証大師御作之神躰也」ともある。智証大師・円珍に入唐を勧めたのは山王明神だという伝説がある。その山王明神を円珍が自分の住房に祀ったことで、円珍の房が山王院と呼ばれることになったんじゃないかと思うのだけど、東塔に属しながら東塔とはまた別の山王明神信仰が山王院に生まれた。たぶん、この時に円珍が御神体を自作したのだろう。ここでそれまでの東塔と西塔の山王信仰に円珍独自の山王明神が加えられ、3つの山王信仰が成立した。これを「両所三聖」と呼ぶそうな。ウィキペディアには 【なお、円珍にとっては、「両所三聖」の中でも山王(山王明神)は別格で、 「両所二聖」を超える存在、つまり、大比叡神・小比叡神を含んだ「比叡山」 そのものを象徴しており、最澄が祀った諸山王をひとつにまとめた、非常に 大きな信仰対象であったといわれる。】とあり、円珍さんとしては3つ目のスタイルを生み出したという感覚はなかったかもしれないけど、ともかく「両所三聖」が出来上がった。さ~て、良源さんが発展・独立させた横川では、かつての西塔がそうであったように独自の守護神を持ちたいと考えた。横川での信仰の対象とされたのは聖真子(しょうしんし)。これは豊前の宇佐八幡の聖真子権現を祀ったものとされるようでもあるけど、これをもって良源さんは大比叡神(東塔)・小比叡神(西塔)・聖真子(横川)の「地主三聖」という新たなスタイルを成立させた。まあ、西塔が独自の信仰を持った経緯を考えれば東塔に2つの山王信仰があるってのもちょっとヘンな話の気がするけど、視点を変えれば円珍の始めた信仰をすっぱりはじいたことになる。「両所三聖」を信仰してきた円珍派にとっては、当然面白くない。天元2年(979)、良源さんは琵琶湖畔の唐崎に神殿を建立し、地主三聖祭を盛大に行った。これは様々な趣向を凝らした、それはそれは華々しいイベントだったようだけど、イベントの一環として地主三聖のために金剛般若経の転読があり、良源さんは叡山の全僧侶の出席を求めた。当時は三塔あわせて2700人の僧侶が在籍していたようで、座主の求めに応じてイベントに出席したのは2000人。実に700人もの欠席者が出た訳で、これだけの人数が座主の命に従わなかったことになる。良源さんはこの700人全員の僧籍を剥奪したそうな。中には用事とか具合が悪いとかやむを得ない事情によって欠席した人もいるかもしれないけど、事前の届け出が認められていたのかはわからない。この処罰については一見もっともらしい説話もあるようだけど、 【この霊験譚の経緯よりも、その背景の、叡山山内に良源の命に服さない僧侶が かなり多くいたことを読み取ることが重要である。山上・山下に示した制札、 二十六ヵ条の制式など、度々の綱紀粛正は、叡山の規律がそれだけ乱れていた ことになる。そうした乱れを右のような機会の際に正すことはあり得ることで、 叡山僧の四分の一という大量の処断であったかどうかは別として、命令違反者の 厳罰は事実であろう。】 (『人物叢書 良源』より)という、あぶり出し作戦みたいな?この翌年にあったのが上に書いた東塔堂宇の完成供養で、ここでも良源さんは円珍派を初めは採用しようとしなかった。円仁派の勢いは日増しに強くなっていた。にほんブログ村
2015年02月14日

料金所の先にあるのがこちら↓。 叡山には20数箇所の泉があるそうで、これもそのひとつですが、ここのは最澄の伝承を持っている。唐から帰国したあと、最澄が打ち出した様々な事柄に対し、南都の古寺が猛反発して「最も澄む男」はファイターへと変身する。最澄の歴バナで「南都」という言葉をつるっと使ってきましたが、北の叡山(北嶺)に対する言葉が南都(南の平城京)です。で、最澄たんと最も激しい論争を繰り広げたとして一般にも有名なのが、法相宗の徳一(とくいつ)という僧。この方の詳しいことはあまりわかっていないようなんだけど、北関東を中心に活動していた時期がほとんどじゃないかと思う。それで、最澄たんがのちに東国行脚をした際に徳一さんが激しい論争を仕掛けてきたというのが一般の理解だろうと思うんだけど、その徳一さんが最澄たんと叡山に登った時のこと。「うお~、のど乾いた。おい最澄たん、この山には水はねーのかよ?」「ええ~、もう、しょうがないなあ。ちょっと待っててよ、徳一たん」と言って最澄が印を結んで真言を唱えると、道端の石の間からきれいな水が湧き出した。徳一が叡山に来たってのはホントかよ?ってカンジですが、ま、伝説です、伝説。で時代が下って、かの武蔵坊弁慶が叡山の西塔で修行していた頃。ここの水は夏でも涸れることがなく、弁慶はここの水を千日間汲んで千手堂に詣でていた。そこから千手水と名付けられ、また弁慶水とも呼ばれた、とな。弁慶水の上屋にはびっちり目の細かいフェンスが張られているので中の写真はさすがに撮れませんでしたが、中には確か岩があるのが見えたような・・・ここは現在でも東塔と延暦寺会館の重要な水源なんだそうな。この先の道は・・・ 溶けかかった雪が水分を含んで、しかも一部凍っているのでかなり始末が悪い。慎重に進みながら下を通るドライブウェイに目をやると おお、石垣だ。今回はこの写真の上に写ってる橋を渡って車道を越えますが、そのまま道はまっつぐ延びている↓。 阿弥陀堂からここまでの道は、京側の赤山禅院へ降りる回峰行者さんが歩く道でもあるというので、行者さんはこの道をまっつぐ歩いていくのだろう。きらら坂(雲母坂)は修学院離宮の脇から叡山へ上がっていくルートで、その道を歩いた方のブログを見ると結構ワイルドな道。「きらら」で思い出すのが2011年に坂本と京を歩いた時の旅で、修学院よりひとつ手前の一乗寺から勝軍山城に登った時、ふもとの漬物屋さんで買ったのが「きらら漬け」だった。勝軍山手前にある狸谷不動堂までも結構急な道で、そこから勝軍山城までは山道だったけど、地形が急だなという印象がある。近江側より京側から直登するルートの方が傾斜はきついかもしれない。では、橋を渡ります。 もうお昼だから日陰でもだいぶゆるんでたけど、早い時間だったら完全に凍ってたな。渡るとすぐに石段があり、その上にお堂があります。 【山王院堂 詳しくは法華鎮護山王院といい、第六祖智証大師圓珍の住房で後唐院ともいった。 千手観音を祀るので千手堂とか千手院の名でも知られるが、圓珍座主の滅後百年、 圓珍派と慈覚大師圓仁派の学僧の間に紛争が起こり、圓珍派はここから智証大師 圓珍の木像を背負うて大津三井寺(園城寺)へ移住したといわれる。このお堂は 歴史上きわめて重要なお堂です。】 (現地解説板より)ふむ、弁慶が水を汲んで千日お参りをした千手堂はここのことなんだな。さてと、ここらで少しまとめて叡山の歴史も書いておかねばなりません。とはいっても、円珍さんも超ビッグなお方なので、円仁さん同様今回のシリーズでは円珍さん個人についてはパスして、概略的な流れになります。細かく見ていくとかなり複雑そうなので、なるべく簡潔に。円仁派と円珍派の争いはのちに山門派(延暦寺)と寺門派(園城寺)の分裂へとつながり、さすがに両者の焼き討ち合戦は秀吉の時代をもって終わったけど、それぞれが山門派と寺門派の総本山として現在に至っている。ただ、円仁と円珍の2人が直接火花を散らした訳じゃない。元をただせば、最澄の迷いがそもそもの始まりだった。初代座主・義真の流れを汲むのが円珍。円仁は最澄の弟子でもあったけど、第2世座主・円澄から後事を託されたともされ、円澄の流れを汲むと言っても差し支えないと思われる。円仁はかなり優秀な人だったようで、叡山において初の大乗戒の授戒が行われた際、最澄の定めた12年の籠山を決意して取り掛かったものの、大衆(だいしゅ)の推挙によって下界で講義などをすることになり、籠山を中断せざるを得なかった。それだけ周囲からも認められていたものの、最澄の直弟子などの意向もあり、円仁は長いこと第3世の座主に就任することはなかった。3人寄って文殊の知恵が浮かべば万々歳だけど、人間は感情の動物でもあるし、世の中そう簡単に事は進まない。最澄の死から大して年数がたたないうちに、叡山には早くも分裂の兆しが現われていた。第3世・円仁と第5世・円珍が大陸から本場の最新の密教を持ち帰って、さらに第4世・安然が台密を理論体系化し、天台密教がここに完成する。唐から戻った円珍は朝廷から大伴氏の氏寺であった園城寺を預けられ、貞観8年(866)、園城寺は天台別院となる。天台座主の座は初代・義真のあとは円澄・円仁・安然と円澄派⇒円仁派ともいう流れが続いており、とくに円仁の功績は大きかったので安然までは円仁派がイケイケの雰囲気だった。そこへ義真派の新星・円珍が現われてこれまた大きな足跡を残したことで義真派⇒円珍派が盛り返し、第6世以降は1人をのぞいて第13世まで円珍派の座主が続く。第14世から第17世まではまた円仁派。座主だけでなく、ほかの関連の寺でもどちらの派がヌシになるかなどの問題があったと思われ、叡山の内外で時代が下るごとに派閥の争いが激しくなっていったんじゃないだろうか。第6世から第17世までは、『比叡山 その歴史と文化を訪ねて』には2人をのぞいて特筆すべき活躍はないとあり、ウィキペディアでもその間の座主は存在しないページの方が多い。そういう中、第18世に超大物が出た。これが良源さん(慈恵大師/元三大師)で、ま~思い返せば寛永寺シリーズ以降、わたくしが好きになった人といえば良源さん、良弁さん、崇伝と坊さんばっかり・・・中でも良源さんは今や元三大師グッズ集めに走るほどで、先日仕事の帰りに慈恵医大附属病院へ寄った際なぞは、建物の上にある看板を見て とっさに「じえいだい」と読んでしまいました。「慈恵」の字はもはやわたくしの脳内辞書では「じけい」じゃなく「じえ」に書き換えられております。じゃなくて~、天台には「三聖二師」というものがあるそうな。「三聖」は最澄・円仁・円珍の天台宗発展の原動力となったお三方で、「二師」の一人は第4世・安然。いまひとりが良源さん。天台ビッグ5のうち4人までは宗祖と第3世~第5世、で12人すっ飛ばして第18世の良源さんがビッグ5に名を連ねている。良源さんの基本的なことはあとでまとめて書くつもりですが、それだけの大きな事績を遺した方でもあった。ここで「功績」じゃなくあえて「事績」としたのは、良源さんの評価には色々あるからです。実際、具体的なことを読んでみると強力なリーダーシップを発揮して山内の引き締めや堂宇の復興などを手掛けた華々しい活躍の反面、結構強硬とゆーかエグイとゆーか、とにかく強い方だったんだなっていうのが率直な感想。次回からは少し、良源さんを中心に派閥の抗争なども含めた様々な出来事を見ていきたいと思います。にほんブログ村
2015年02月13日

え~、「法師ばら」が出てきたところでついでに比叡山名物・僧兵について書こうかと思いましたが、ちょっと今日は気力がないので現地に戻ります。覚運さんのお墓の裏手にもお墓らしきものがある↓。 あまり銘はよく読めないんだけど、ひとつの碑に数名の名が刻んである。叡山の僧のお墓かな。覚運廟の石段を降りたら、後続のパーティーの先頭の子とバッティングした。軽装だったので、地元の子供たちがハイキングに来たってカンジかな。でも本坂を歩くのは初めてだったらしく、わたくしが石段の上で何を見てきたのか興味津々のようだったので、「お墓だよ~」と言ってやった。さすがに彼はたじろいだものの、一緒に歩くハメにはならなかったので覚運さんのお墓に寄っていったらしい。よしよし、このスキに進んでおこう。 脇を見おろすと 急な斜面。叡山はこういう急な地形の場所が多いです。ただ、本坂はしっかりした道がほとんどなので、登山道をフツーに歩いてる分には危険な箇所はなく、叡山の中でも歩きやすい道といえるでしょう。少し歩くと、立派な石垣が見えてきた。 おお~、目の保養じゃけえ~あれ、ちょっと待てよ、なんかここ見覚えあるような・・・見覚えあるのは当然です。ここが前日、円仁廟へ行く前に寄った聖尊院堂です。ここまで来れば、東塔の中心部はもう目の前です。石段は2つあり、奥の石段は前日登ったので今日は手前のを登る。 石段はかなりミニマムで、昔のまま残されているのだろう。 石段を上がった頃、下の道を後続のパーティーが歩く声が聞こえた。あーゆーパーティー構成なら通常東谷のこーゆー場所へは寄らないハズなので、人界に入る前に身支度を整えつつ彼らをやり過ごそうと思って、昨日歩かなかった奥の方へ歩いていった。 ↑現地では把握してなかったけど、たぶんこの盛り上がりの上に叡山三大魔所のひとつ、天梯権現社があるのだろう。この盛り上がりを回り込むように進んでいくと、こんなものがあった↓。 え~、う~ん、お墓、だよな・・・どれも埋もれてたり欠損してたり、まともに当初の形状を保っているものはない。ずいぶん後になってからここにまとめられたものかな・・・ この先も、まだ進める雰囲気ではあった↓。 ・・・あったけど、奥がどうなっているのかもわからなかったし、あまりまったりしている時間もないので、ここで引き返した。けど、もしかしたらこの奥からも天梯権現社へ行かれたかもしれないな。古いお墓もあるし、正直行ってあまりこの辺は居心地よくなかった。でもこの辺で身支度をした。わざわざ亀堂から離れたこんな奥の方まで歩いてきたのは、後続者に姿を見とがめられると無邪気なお子ちゃまたちが後ろをついてきそうに思ったからです。(要するにウザかった)彼らが先に舗道を歩いていくのを確認してから、安心してわたくしも東塔の中心部へと向かう。やっぱり前日、先に円仁廟に行っておいてよかったな そして、観光客が最も集う東塔の中心部へ到着。本坂の入口からここまで、2時間20分近く。でもあちこち寄ったり地図を念入りに確認したりすっ転んだりと色々しているので、わき目もふらずさっさか歩けばもっと早い時間で着けるでしょう。まあ、足が遅いのは昔からだし、花摘堂であれだけ派手に滑って順調に予定をこなせたんだから、全然オッケーっすで、この辺全体の写真などは数枚撮ったように思っていたのですが、写真がない・・・そのかわり、こんな写真はしっかり残ってました↓。 トイレの注意書きです。あとで同僚にカメラを渡して好き勝手に写真を見てもらったのですが、「なんでトイレの写真なんか撮ってんの?」と真顔でつっこまれました。これも楽しい旅の思い出なんだよ・・・前日の東塔訪問でこのあたりはだいぶ把握していたので、まず無料休憩所に寄ってお食事をば。内部の写真も残ってませんが、結構広くて椅子とテーブルもあって暖房が入っている綺麗な建物。こーゆー休憩所はホントありがたいです。わたくしが休憩所に入った時、中には誰もいなかった。ので戸口から遠い奥の席に陣取っていそいそと宴の準備を・・・ここでも例のスープジャーが大活躍です。 マカロニに山科のスーパーで買ったキノコを入れて、市販のパスタソースであえただけなんだけどね。このほか、パン2つ食べたんだよな・・・我ながらよく食うわ寒さと山歩きで消費したカロリーを補ってる最中、2人連れの観光客の姉ちゃんが入ってきてわたくしのすぐ隣の席に座った。他に席はいっぱい空いてんだから、何も隣に座らなくてもいいじゃん・・・と機嫌が悪くなりましたが、姉ちゃんたちはそんなわたくしに気付かず好き勝手に大声でおしゃべりを始めた。声がデカいし隣なのでイヤでも会話が耳に入ってくるんだけど、どこそこが良かったとか過去の旅の話をしているらしい。そのうち、「台湾行きたいね~」とか言い始めた。・・・それ、わざわざ叡山の上でしなきゃいけない会話デスカ?あ~、行ってこい行ってこい、何なら今すぐ伊丹にでも直行してこのまま台湾でもどこでも行っちまえ!真冬の寒い中、車なりケーブルなりで金と手間暇かけてメジャーな観光スポットでもある延暦寺を観に来たであろうに、ろくに堂宇を見もせず無料休憩所なんかでえんえんそんな会話をしてる彼女らがわたくしには永遠に理解できそうもありませぬ・・・寺に興味のない若い姉ちゃんがなんで寺になんか来てるんだろ?それでも日本人は寺が大好きだし、何かっちゃ寺へ行くのを別に不思議とも思ってないんだよなあ。ホントに不思議だよなあ。腹ごしらえが済んで膀胱の準備も済ませたところで、午後の部開始~。今日はこのまま西塔(さいとう)へ向かいます。戻ってきて時間があれば、東塔の主要堂宇を見る予定。わたくしだけかもしれませんが、東塔はホントに道がわかりにくい。看板と地図をにらめっこしながらどうにか着いたのがこちら↓。 ここが、五大堂のところでも書いた52段の石段です。ひとつひとつ数えながら登ってください。これを登りきって悟りを開くと(笑)、 こちらが阿弥陀堂。昭和12年の竣工で、『比叡山 その歴史と文化を訪ねて』によると、法界寺の阿弥陀堂を模したものだそうな。この隣にも大きな堂宇がありますが、今は2つの建物の間を通って西塔への道を急ぐ。奥へ抜けて舗装路に出るあたりには、円珍廟への碑があった↓。 円仁派と円珍派の争いがエスカレートして、のちに円珍派は山を降りて園城寺(三井寺)へと移るんだけど、円珍の廟は叡山に残したんだな・・・今回は残念ながら円珍廟へは行きませんが。道路は一部凍っていたけど、途中からは溶けていたので安心して道路を下る。道の奥に見えているちっこい建物は、西塔から東塔へ入ってきた場合の料金所です↓。叡山は三塔ごとに別料金制となっております。 料金所を過ぎたあたりで道が二手に分かれたので、どっちを歩けばいいのか立ち止まって考えていたら、料金所のおじさんが寒い中わざわざ小屋から出てきて道を教えてくれた。いい人だにほんブログ村
2015年02月12日

平安期、何百人といた貴族のすべてが前回と前々回で紹介したような暴行・傷害事件のエピソードを持っている訳ではない。でも、法興院摂政家の子弟たちだけが暴力をふるっていた訳でもない。平安中期頃は暴力的な出来事が身近にあった、意外にワイルドな時期だったと申せましょう。ここで一瞬、檀那院付近で藤原道長一行が石を投げられた話に戻りますが、道長さんも『御堂関白記』なる日記を遺しているものの、この件については山法師への思い付くだけの悪口雑言を並べ立てるでもなく、あっさりとした記述になっている。これについて、たとえば『僧兵=祈りと暴力の力』(衣川仁/講談社)では 【機嫌をそこねたためか、あえてとりあわない態度を示したとも感じられる。】としているけど、個人的にはこーゆーことに慣れっこだったからという気がしないでもないただ、当時の道長は最高権力者であり、賀茂祭で異母兄の道綱と一緒に石を投げられた左少将の時とは立場が違う。が、『小右記』は道綱・道長の投石事件のほかにも当時似たようなことがあったことを教えてくれる。その頃の京には、数か所の「難所」があったという。前回と前々回の記事で花山院が何度か登場してますが、この方は変人奇人に属する有名な変わり者だった。そもそも即位の当日から変だった。16歳で即位した花山天皇は、儀式の前に正式にはまだ自分のものではない玉座において、なんと1人の女官とエッチしていたという。その後の即位式の最中には「この王冠、重くてのぼせちゃうよ~。えい、脱いじゃえ」と王冠を脱いでしまったというトンデモなお人だった。このわずか2年後には法興院摂政兼家の策にはまって退位することになるが、自由奔放な彼にとっては院の立場の方がのびのびと過ごせたかもしれない。ま、のびのびと言っても奇人変人ののびのびだから、時には周囲を困らせたり耳目を集める出来事も数々あった。そのひとつが花山院邸の門前での通行妨害で、ゆえに花山院さんちは京での難所のひとつとなった。具体的には、門前を牛車に乗って通過しようとすると、ばらばらと石を投げつけられたらしい。牛車だけでなく、騎馬での通行も妨害された。花山院邸前が名だたる難所であることを知らなかった東国人が騎馬のまま門前を通過しようとした時、邸内からわらわらと従者が出てきて東国人を捕らえ、持っていた弓を取り上げてしまったことが『今昔物語集』に書かれている。お茶目な花山院は、前々回紹介した中関白家の隆家に挑戦状を叩きつけたことがあるそうな。「いかにお前でも、我が門前を無事に通過することはできないだろ?」「この隆家、な~んで御門前を通れないことがありましょうか!ええ、通ってみせましょうとも!!」これが史実だとしたら、隆家はある意味そのやんちゃぶりを花山院に認められていたってことにもなると思うけど、負けん気の強い隆家は牛も車も強いものを選んで5~60人の従者を引き連れ、彼らに先払いの大声を上げさせながら勇ましく花山院邸へと向かった。ところが、こーゆー騒動が大好きで、しかも普段から牛車や騎馬での門前の通行を許さなかった院のことだから、迎え撃つ側でも万全の準備をしていたことは言うまでもない。難所へ向かった隆家一行が見たものは、手に杖や石を握りしめて屋敷の周囲に居並ぶ見るからに屈強な法師たち、侍、童子たち7~80人の姿だった。結局、門前へ差しかかる前に隆家は白旗を挙げてしまったそうな。『小右記』には別の難所を牛車に乗ったまま通過しようとした貴族が石を投げられたというエピソードも綴られており、そこから読み取れるのは 【(前略)「たとえ大臣の地位にある者であっても、他の大臣の居宅の門前を 通ってはならない」というのが、王朝貴族社会における門前の礼儀であった。 そして、この場合の「通ってはならない」というのは、厳密には「牛車に 乗ったままで通ってはならない」ということであったわけだが、おそらく、 そこには「馬に乗ったままで通ってはならない」という意味も含まれて いたのであろう。】 (『殴り合う貴族たち』より)という当時の慣習。ただ、原則は「門前」でも時と場合によっては禁止範囲が拡大されたんじゃなかろうか。賀茂祭の際、道綱・道長の兄弟が牛車から下りて右大臣の牛車の前を通過したならば、あるいは2人は石を投げられず、大勢のギャラリーの前で恥をかくこともなかったかもしれない。こういう慣習があったから、檀那院付近で法師たちから石を投げられた道長は門前ルールを拡大適用して、実際はそれほど腹を立てなかったんじゃないかって気もする。そりゃ、いい気分はしなかったでしょうけどね。『小右記』のここまでの話には、いろいろ示唆に富む内容も多い。まず、「石」がずいぶんと活用されていること。石を投げ合う「印地打ち」(いんじうち:雪合戦の石バージョンみたいなもの)が室町頃盛んだったのは知ってたけど、実は鎌倉期にも印地打ちが流行ったんだそうな。けど、二手に分かれて石を投げ合うゲームではなくても、少なくとも平安中期頃には石がポピュラーな攻撃のアイテムだった訳だよな。それから、上流社会も意外にワイルドな生活をしていたこと。花山院から中関白家隆家への挑戦状のエピソードからは、院が武装した法師やら侍を抱えていたこともわかる。現在だったらVIPの警護には身元調査が欠かせないと思うけど、院はかなりの無頼漢をもボディーガードにしていたらしい。ある時、花山院邸の北門の前を牛車に乗って2人の参議が通り過ぎようとした。が、この時もわらわらと邸内から兵杖をたずさえた数十人が出てきて、一斉に牛車に石を投げ始めた。参議の牛車に随行していた牛飼は邸内に拉致・監禁され、ほかの従者もなんらかの暴行を受けたらしい。それで、実行犯たちは検非違使に追われることになったんだけど、その事件の翌日、院はそやつらを率いて賀茂祭の祭使が還る行列の見物に出かけた。この時、異様ないでたちをしていた従者たちも周囲の目を引いたらしいが、院はといえばミカンをつないで数珠に仕立てたものを牛車にぶら下げていたというから、どんだけ院が奇人だったかこれだけでもうかがえるでしょうさて、そういう悪目立ちの一行の情報は、検非違使の耳にも入った。おたずね者がいるとみた検非違使たちが前日の事件の犯人を捕らえようとやって来るという噂を聞いて、院の従者たちは一目散に逃げ出してしまった。ぽつねんと牛車ごと残されてしまった院はあぜんとしただろう。さらに恥ずかしいことに、牛車を引いてくれる従者がいなくなってしまったので院はよりにもよって従者たちを追い散らした検非違使たちに送られて家まで戻ったんだそうな。院が帰宅したあと、犯人たちを邸内にかくまっている花山院邸は、院のいとこにあたる一条天皇の命によって検非違使たちに包囲された・・・花山院だけでなく、法興院摂政家の子孫たちも気の荒い従者が多かったし、主人も従者もキレやすいアブない奴らが多かったようです。院が抱えるアラクレ者たちの中には、武力を行使する「法師ばら」もいた。隆家との門前の対決の時は、法師らは石と杖は持っていたけど、刀とか弓とかの本気で人を殺そうとするような武器は持っていなかった。ここはちょっと興味深い点です。さて、再び叡山で道長さん一行が石を投げられた話に戻りますが、おそらくそれまでも道長は馬で本坂を登ってきただろうに、なぜ本坂もかなり終点に近い檀那院の付近で石を投げられたのか。これは最澄が定めた結界とはまた別の結界によるもののようです。 【慈恵大師良源は、延暦寺僧が果たすべき十二年の籠山修行中に、大原や小野の 地にまで外出する者がいることを憂慮していた。彼は、「二十六箇条起請」を 制定することで寺院統制上の引き締めを行ったが、その際この問題にも配慮し、 「籠山僧、内界地の際(きわ)を出づべからざる事」という一項を定めた。 その中で彼は、延暦寺の結界を次のように規定している。 東は悲田(ひでん)を限る。南は般若寺を限る。西は水飲を限る。北は楞厳院 (りょうごんいん)を限る。この外これを出づべからず。】 (『僧兵=祈りと暴力の力』より。青字は『平安遺文』からの引用)最澄が定めた結界は、良源さんのそれよりもっと範囲が広い。東に限っていうなら、最澄は日吉神社や本坂入口付近を結界としたのに対し、良源さんの定めた12年籠山修行僧の外出禁止の境界は悲田院。悲田院はかつて東塔東谷にあったもので、檀那院の近くにあったという。つまりは檀那院から先は内地中の内地という訳で、ゆえにそこが下馬所とされたのだろう。円仁派と円珍派の争いが激化した頃、宣旨を持って京側から叡山を登った勅使は西の結界にあたる水飲付近で追い返されたという。ので、籠山僧が出ることのできない聖域に騎馬のまま踏み込もうとした道長に対し、法師たちは石を投げるという手段を取った。道長が石を投げられたのは、良源さんの死後のこと。「門前ルール」もさることながら、そういう叡山側の事情を汲んで道長は『御堂関白記』に格別怒ったような記述を残さなかったんじゃないのかとも思った。にほんブログ村
2015年02月11日

アラクレ伝説の続き。 今度は中関白道隆の弟、道兼さんちに移ります。兼家の三男・粟田関白道兼は花山院をまんまと退位にハメた人で、兄の道隆の死後晴れて関白となったが、その数日後に死去したため「七日関白」とも呼ばれる。ここの息子や孫もろくでもない奴らだった。まずは兼隆。28歳の時、自家の厩舎人を殴殺させたという。その翌年、29歳の時に自家の下女と『小右記』の著者・藤原実資の下女が口論をしてつかみあいのケンカになった。本来、兼隆家の下女の方が大きな顔をできる立場じゃなかったが、自家の下女が正しいと勘違いした兼隆は従者を差し向けてケンカ相手の下女の家の物を略奪した上で家屋を破壊させてしまった。 その息子・兼房は17歳の時、宮中で公卿らと飲み会をしていた時に突然蔵人頭を口汚く罵り、蔵人頭の前にあった食べ物を蹴散らした。これだけでも充分相手には失礼であり実に迷惑な行為だけど、さらに兼房は相手のかぶりものを剥ぎ取ろうとした。蔵人頭はヘタに立ち向かうことはせず、宮中の自分の宿所へ逃げ込んだが、それを見た兼房は蔵人頭の宿所へ雨あられと石を投げつけた。じっと我慢の子で耐え忍んでいた蔵人頭が部屋から出てこないとみると、兼房は今度は殿上の間・・・ここは天皇の寝所に近い場所だけど、そこへ行って大声でさんざんに蔵人頭に対する悪態をつきまくった。その場に居合わせた者たちからは「アイツ狂ってる」と思われたようで、さすがにこの時はしばらく参内を禁止されたそうな。兼房の悪行がこれ一度だったなら、まだ若いし酒グセが悪かったかな、で済んだかもしれないけど、20歳の時には宮中で行われた仏事の最中にまた別の貴族と口論になり、兼房が相手のかぶり物を叩き落とす。怒った相手も兼房のかぶり物をはたき落とし、取っ組み合いのケンカとなった。オイオイ、時と場所を考えろよその2年後、22歳の時にはとある貴族を蔵人頭の宿所に連れ込み、従者に集団でリンチさせながら自分はその被害者に向かって暴言を吐いていたという。この時集団暴行の現場となった蔵人頭の宿所というのが、前回の最後に中関白家の経輔から暴行されたうえ宿所を破壊された人の部屋で、兼房はわざわざ他人の部屋で暴行をしていたことになる。これはまだ経輔に宿所を破壊される前の話だけど、自分の部屋でこんな事件を起こされたものだから、関係ないのに可哀想に事情聴取を受けるハメになった。ところが、蔵人頭は尋問されてもはっきりと口を割らなかったらしい。「知らない」ときっぱり言い切った訳でもなさそうなので、何か知っていたかもしれないけど、ついに真相を語ることはなかった。やっぱ、兼房の報復を恐れたんだろうな。宮仕えってたいへ~ん・・・兼房の叔父・兼綱も17歳の時、宮中行事の準備にあたっていた蔵人たちから行事に使うアイテムを取り上げた上で、他のワル貴族の仲間とともに蔵人たちに集団で暴行するという事件を起こしている。これは宮中行事に関わることだったため、加害者たちには謹慎の処分が下された。さ~、さっさか行きましょう。最後、御堂(みどう)関白・道長さんち。御堂関白といっても道長さんは実際は関白にはなってないんだけど、22歳の時、従者に命じて官人の採用試験に携わる貴族の1人を拉致させた。何でも、自分が目をかけていた人物の採用をゴリ押ししようとして犯行に及んだらしいんだけど、当時の特権階級である貴族はたとえ罪人として連行される場合であっても牛車に乗るというのが慣例だったらしいのに、可哀想に拉致された被害者の貴族は道長邸まで自分の足で歩かされたらしい。白昼堂々の余りにも大胆な裏口採用作戦だったため、後から道長は父親にさんざん叱られたんだとところで、法興院摂政・兼家の息子は3人しか載せていませんが、道隆は長男、道兼は三男、道長は五男で同母兄弟。次男と四男はそれぞれ別の女性から生まれており、四男は早世したのかさっぱりわからないんだけど、次男は道綱という。・・・はい、『蜻蛉日記』の作者、「藤原道綱の母」から生まれたのが道綱さんです。いやあ~、『蜻蛉日記』の息子と道長さんが異母兄弟だったなんて、ついぞ知りませんでしたよ~。じゃなくて、道綱さんは関白・摂政を務めた兄弟たちと母が違うこともあったが、道綱さん自身がちょっとイマイチな人だったらしく、法興院摂政家に生まれながらドロドロした栄達とは遠いところにいた。その道綱と道長の異母兄弟が仲良く賀茂祭り見物に出かけた時のこと。32歳の道綱は右近中将、21歳の道長は左少将。2人が同じ牛車に乗って出かけた先には、時の右大臣が大勢の従者とともにいい場所を占領していた。ので、別の場所を探そうと2人の牛車が右大臣の牛車の前を横切った時、右大臣の従者たちに一斉に石を投げつけられたそうな。祭の場所取りのトラブルといえば『源氏物語』にも出てくるけど、こういう騒ぎは祭につきものだったのかもしれない。さて、道長さんの息子は大勢いますが、道長は「お腹」によって子供たちの扱いに差を設けていたらしい。教通(のりみち)と能信(よしのぶ)は異母兄弟で、能信は教通より少し下の扱いを受ける側だった。そのせいか、能信もまたやりたい放題のドグサレ貴公子だった。能信18歳の時、石清水八幡宮での祭に出かけた能信はすでに他の貴族たちの牛車が居並ぶ場所へ牛車を停めた。能信は後から来たものの、先に陣取っていた貴族たちの方が家格が下だったため、周囲の貴族たちは一緒に祭見物をする許可を能信に求めた。ところが、礼を尽くしたその相手に対し、許可を与えるどころか能信の従者がまず貴族2人を牛車から引きずり降ろし、それを見た他の2人の貴族は牛車を捨てて一目散に逃げ出した。残り2人は牛車に残ったため、能信の従者に石を投げられた。結局、残ったうちの1人も牛車から引きずり出されてしまったうえ、能信の従者に殴られるという暴行まで受けた。もちろん、祭の場でのことだから、大勢のギャラリーがいたことだろう。その翌年、19歳の時にはとある貴族が近江で女性をゴーカンする計画を立てた。ゴーカンを漢字で書くと楽天ブログでは公序良俗に反する表現としてはじかれちゃうのでね(←過去の記事で経験済)。男なら1人でがんばらんかい!!と股間を蹴りたくなるけど、この性犯罪者予備軍の男はなんと能信に加勢を要請したらしい。能信がこれに応えて従者を派遣したところ、山科で落ちあった男と従者はどういう理由でか口論となり、果ては争って従者が弓矢で射殺されるという事態に発展した。21歳の時には大江至孝(ゆきたか)という貴族が僧侶の娘をゴーカンする計画を立てる。この大江はのちに毛利へつながる大江の一族だと思うけど、こやつは目的の家に侵入し、嫌がる女性を手ごめにしようとした。そこへ、娘の父の弟子が敢然と立ち向かった。男2人は取っ組み合いのケンカとなり、情けないことに大江は弟子に取り押さえられてしまった。しかし、なんとかして目的を果たしたいと思った大江は能信に加勢を要請した。ここで能信がまたしても従者を送り出す。しかもそれなりの人数がいたようで、弟子をボコボコにして一旦は追い払ったらしいが、また戻ってきた弟子が刀を抜いて能信の従者を殺してしまう。これに激昂した能信の従者たちが大挙して押し寄せ、女性の家にあった値打ちのある物や使える物を徹底的に略奪した上で、女性を拉致した。が、なぜか女性は途中で解放されたらしい。まったく、どいつもこいつも頭おかしいんじゃねーのか?27歳の時には、土地をめぐって1歳下で腹違いの弟・教通と大ゲンカをした。まず最初に能信が教通の従者を拉致してひどい暴行を加えた。その3日後、報復として教通の従者たちが朝っぱらから能信の従者の家に押し寄せ、家を破壊してしまったそうな。『殴り合う貴族たち』によると、家屋破壊の前にはたいがい略奪が行われるそうで、破壊した家屋の柱や壁板などの建材も持ち去られることは珍しくなかったというから、教通の従者たちが去った後にはそれこそ何も残っていなかったかもしれない。ちなみに、上の方の記事の、宮中での仏事の席で粟田関白家の兼房が取っ組み合いのケンカをした際、26歳の能信もそこにいた。ケンカは次第に兼房が優勢となり、相手が兼房に一方的に殴られる展開となった。ここで相手の親が能信に何とかしてくれと泣きついた。 【(前略)能信は道方(相手の親:ジジイ註)の希望を容れて腰を上げた。 取っ組み合う二人に近づいた彼は、手に持っていた笏で二人の肩を打ち据え、 両人を引き離したのである。この能信の所作には、ついつい感じ入ってしまう。 実にみごとな手際ではないか。ほれぼれとするほどのかっこよさを感じるのは、 何も筆者だけではあるまい。】 (『殴り合う貴族たち』より)・・・と著者の繁田氏はここでは能信を持ち上げているけど、単に場数を踏んでたからじゃないかって思うのはわたくしだけではあるまいちょっと拾っただけで、法興院摂政家周辺にこれだけの暴力事件があります。中には彼ら自身が被害者になったケースもあるし、『小右記』は全国津々浦々の事件を書き連ねたものではないので、貴族同士、あるいは貴族から庶民へなどの様々な出来事全体からすればこれはほんの一例にすぎないと言えるでしょう。身分社会バリバリの当時は、庶民がどれだけいたぶられようとも貴族はへとも思わなかったでしょうからね。実に陰険で悪質で野蛮な御曹司たちのウラの顔が垣間見える、興味深い史料でございます。にほんブログ村
2015年02月10日
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本筋からは少々外れるかもしれませんが、先日、たまたま『殴り合う貴族たち』(繁田信一/柏書房)という本を知って、最初はタイトルに惹かれただけの興味本位だったのですが、読んでて当時の状況を知るに興味深い話が多かったので、一気に読みました。これは藤原道長と同時代を生きた藤原実資という藤原北家嫡流の公卿が遺した『小右記』という日記史料から様々なエピソードを拾って紹介した本で、さすがに『小右記』の原文にあたるだけの時間的余裕はなかったので『殴り合う貴族たち』から抜粋して少しご紹介します。もっと色々詳しいことを知りたい方は『殴り合う貴族たち』かその原典の『小右記』をご覧ください。 【楽天ブックスならいつでも送料無料】殴り合う貴族たち [ 繁田信一 ]さて、こちら藤原道長さんちの家系図の略図になります↓。 道長の父・兼家以降ここに名を出した多くの方が、驚いたことに多かれ少なかれ傷害・暴行事件のエピソードをお持ちです。他にも子供はいますが、ここで紹介する人だけを系図に載せています。系図を師輔(もろすけ)から始めているのは、腐るほどいる藤原さんちの中でも有名な方でもあるし、前回の表で道長とカブっている時期もある良源さんは師輔と親密な関係にあったので、時代感覚をつかむために名前を出しただけです。と、それから「公卿」とか「上達部」(かんだちめ)などという名称は源氏物語マンガバージョン『あさきゆめみし』(大和和紀/講談社)で知ってはいましたが、その具体的な位置づけなどは知りませんでした。が、『殴り合う貴族たち』によると大体こーゆー感じのようです↓。 貴族は数多いものの、その中で殿上人(でんじょうびと)、さらに公卿などとなると貴族の中のほんのひと握りの人達。兼家の息子たちのうち3人は公卿の最高職の関白を務めてます。その息子ともなれば、サラブレッド中のサラブレッド。今をときめく雲の上の貴公子たち・・・臣籍降下したとはいえ、帝の第2皇子として生まれ、ついには臣下の位を離れて准太上天皇にまで登り詰めたかの光源氏と同じような立場にあった彼らですが、下半身と強度のマザコンを除いてはまずまずの理想的な貴公子だった光君とは違って、法興院摂政兼家の子孫たちはとんでもないあらくれ者揃いでした。では、順番に。まずは法興院摂政・兼家。この方は兄弟との確執もありなかなか晴れがましい地位に就けませんでしたが、息子と組んで花山天皇を退位させ、自家の発展の基礎を築いた方。兼家が40歳の時はまだぱっとしない立場にあったが、右大臣藤原師尹(もろまさ)の従者と兼家の従者がケンカになり、師尹の従者から1人の死者が出た。これに怒った師尹の従者たちが屋敷を飛び出し、兼家の屋敷に大挙して押し寄せ、打ちこわしを始めた。兼家の方でも3人の兵を前に立てて何とか納めようとしたものの、攻撃側にも弓矢を持った者がおり、兼家側からケガ人が出た。さて、兼家の長男・道隆は関白にはなったものの、兼家と道長の間の「つなぎ」という評価が一般的のようで、ゆえに「間の関白」という意味の「中関白」(なかのかんぱく)と呼ばれるそうな。で、中関白家の御曹司たち、こいつらはひどかった。まず息子の伊周(これちか)・隆家の兄弟。内大臣・伊周(22歳)、中納言・隆家(17歳)はこともあろうに花山院に矢を射かけて従者同士が大乱闘となり、花山院の従者の童子2人を殺しその首を持ち帰った。伊周・隆家の2人が直接の実行犯ではないと思うけど、いくらアラクレ者どもとはいえたかが従者が院に弓を引くとも思えず、伊周・隆家の2人の指図によるものだろう。その頃、伊周はとある家の四女を愛人としており、花山院はその家の三女を愛人としていた。が、横恋慕されたと勘違いした伊周が院を襲わせたものらしいが、さすがに本気で院を殺そうと思った訳でもないらしく、ちょっと脅してやれ~と射た矢が院の袖を貫いてしまう。ここから従者入り乱れての大乱闘となったらしい。 【当時の公卿というのは、事実上、超法規的な存在であり、彼らに対する処罰を 決定できるのは、天皇ただ一人であった。】 (前掲書より)で、被害者の花山院はといえば、出家して法皇の身であるのに女の元へ通った際に襲われたというバツの悪い事情があったため事を表沙汰にはしたがらなかったが、自分に次ぐ地位にある伊周の失脚をもくろむ道長によって捜査が進められ、結局伊周と隆家の兄弟は左遷された。大変な罪を犯したにも関わらず左遷だけで済んだのもオドロキだけど、1年後には2人とも許されて帰京する。その2年後、2人の同母姉妹が一条天皇の第1皇子を産んだ。この子が帝位に就けば、伊周・隆家は一発大逆転が図れる。・・・しかし、そうなるには叔父である道長がとてつもなく邪魔。そこで、2人(33歳と28歳)は道長の暗殺計画を練る。当時、少し名の知れた武士を味方に引き入れ、道長が金峰山に参詣して警護が手薄になったところを狙おうとしたらしいが、結局これは実行されることなく噂だけが残った。つぎ~、伊周の息子・道雅。この人は 今はただ思ひ絶えなんとばかりを 人づてならで言ふよしもがなという恋の歌が百人一首に選ばれてもいますが、その実、「荒三位」(あらさんみ)と呼ばれるワルだった。21歳の時、敦明(あつあきら)親王の従者を拉致して自邸に連れ込み、みずから被害者の髪をつかんで自分の従者たちに「打ち踏む」ことを命じ、相当な重傷を負わせたらしい。この時は相手が親王の私的な従者だったこともあって処分を受けたが、それでもただの謹慎。 【もしも小野為明(被害者:ジジイ註)が有力者を主人としていなかったならば、 この事件で誰かが処分を受けることはなかっただろう。当時としては、殿上人の 暴力沙汰について何の処分も行われないというのは、まったく珍しいことでは なかった。したがって、きちんと相手を選びさえすれば、王朝時代の殿上人は、 思いのままに暴力を行使することができたのである。そして、気ままに弱い者 いじめの暴力に興じるというのが、当時の殿上人たちの実像の一端であった。】 (前掲書より)身分社会というのは実に恐ろしいものじゃ・・・ささいなことで貴族の恨みを買うと、いやそんなもの買わなくても貴族の機嫌が悪い時に運悪く通りかかっただけでもヘタしたら石を投げられたりリンチされたり家を壊されたりするかもしれない。そして、下々には直訴することもできない。奈良時代も様々な社会不安がある中で明日をも知れぬ庶民の暮らしというのは大変だったろうな~と思ったけど、平安じゃない平安時代もいつだって涙を呑むのはかよわい下っぱだった。神仏に「明日の小さな幸せ」を祈りたくもなるだろう。品行の悪い荒三位・道雅の醜聞は他にもある。35歳の時、親族と禁制の賭博をしていた道雅は相手と口論になり、別の男が道雅につかみかかって道雅の袖を引き破ったことで取っ組み合いのケンカとなり、通りかかった庶民たちがわんさか見物に集まってきたそうな。従者に指図して弱い者いじめをしただけでなく、御曹司自らも殴る蹴るの取っ組み合いのケンカをしたことがここからわかるけど、道雅のいとこの経輔も18歳の時、なんと宮中で取っ組み合いをしている。天皇の御前で相撲の観戦をしている最中、天皇の身の周りの世話をする蔵人頭と互いの「もとどり」を掴んでの大ゲンカを始めた。当時、烏帽子などの被りものを脱いで「もとどり」を公衆の面前にさらすのは現代でいうとパンツ丸出しのような恥ずかしいことだったらしいが、お互いに「もとどり」を掴んでいたというから両人とも恥ずかしいカッコでしかも天皇の御前でケンカしていたという・・・この一件で経輔の恨みを買った蔵人頭はその4日後、経輔から一方的な暴行を受けた。なんとか隙を見て宮中にある自分の宿所へ逃げ込んだものの、経輔の従者が宿所まで追いかけてきて部屋を打ち壊してしまったという。↓ぽちりとよろしくね。にほんブログ村
2015年02月09日

朝方は今にも降り出しそうな空模様だったのが、この頃には薄日も差してきて、登りも少々キツい場所だったのでゆっくり歩きながら後ろの様子をうかがっていると、後続のパーティーもわたくしと同じ場所で足を止めたらしかったが、前方でわたくしの熊鈴がリンリン鳴っているので後をついてきているらしい。登山をやっていた頃から、抜かされることはあっても抜かしたことはないのがわたくしの自慢で(自慢になるか?)、後ろにつかれると自分のペースで歩きにくいので、人が来ると道を譲って先に行ってもらうのがいつものパターン。今回もできればそうしたかったけど、子ども連れでしかも早い子と足の遅い仲間がおるらしく、早い子はずんずん先に行っては後続を待つという、わたくしにとっては実に迷惑な歩き方をしている。一定のペースで休まず歩き続けるのが疲れない歩き方なんだけど、元気なお子ちゃまにはそんな理屈は通用しない。ので、仕方なくそのまま歩き続ける。 しばらくすると、こういう場所に出た↓。 叡山には一般的な登山道のほかに、行者さんが厳しい修行でとんでもない距離の山道を歩き続ける回峯行者道というのがあり、ここは行者道が合流する場所。本来、回峯行は気の遠くなるような日数を休まず歩くものだけど、近年では一日回峯行というものもあるらしく、『比叡山 その歴史と文化を訪ねて』にはその参考のためにと断った上で2つの回峯行のルートの概略が書かれている。が、 【なお、回峯道を歩こうとする人は、回峯行門先達の引導でなければ不可能であり、 さらには、行門に身を投じなければ正しくこの道を歩くことはできない。】ともあり、ほとんど獣道のようなところを歩いたりもするようなので、一般の人は安易に行者道には立ち入らない方がいいです。このすぐ先あたりにはまた大原への標識が・・・ 行者道との分岐を示す石仏の後ろにこんもりした盛り上がりがありますが、登山道を進むとすぐその盛り上がりの上に上がる石段が現われる↓。 ふう、やっと来たな・・・ここに寄ってる間に後続者が先に行ってくれればいいんだけど。石段を登ると、墓がある。 ここでの主役はもちろん玉垣の中に鎮座するお方の墓なんだけど、そこまで行くのに 明らかに埋もれてるよなあんまし、立ち止まりたくない雰囲気・・・で奥は こちら、「檀那先徳御廟」といい、慈恵大師・良源さんの弟子の覚運(かくうん)さんのお墓です。良源さんの弟子は3千人とも言われ、多くの優秀な弟子を育てたことでも有名ですが、その中でもとくに「四哲」と言われる高弟がおり、覚運さんはその1人。この付近にかつて檀那院という僧坊があり、覚運さんはそこに住んでいたので檀那院覚運ともいわれる。同じく四哲のひとりで覚運さんと並び自らの系統を発展させた高弟に、『往生要集』で名高い恵心僧都源信がいる。源信と覚運の系統はそれぞれが4つの流派に分かれ、「恵心檀那の八流」と呼ばれたそうな。・・・さて、「日本の歴史上ゴーマンだと思う人間を10人挙げよ」と言われたら、たいていの人がノミネートするんじゃないかって思う人に、平安時代絶大な権力をふるったかの藤原道長さんがいます。 この世をばわが世とぞ思ふ望月の かけたることもなしと思へばはあまりにも有名ですね。その道長さん、わざわざ京から坂本へ回ってこの本坂を登って叡山に参詣したことがあります。平安時代ってやたら長くて道長さんがどの時代に位置したのかあまりピンと来なかったのですが、有名どころも交えて図にするとこんな時代を生きたようです。 時は寛弘9年(1012)5月、46歳の道長さんは夜半に京を立ち、この年正月に出家した3男・顕信(あきのぶ)が受戒することになったので、その式に立ち合うため本坂を登っていた。道長が馬に乗ったまま檀那院のあたりを通ろうとすると、行列の先頭に石が投げられ、そのうちのひとつが従者の腰に当たった。「ゴルァ!殿下のお通りだぞ!誰がやったんじゃ、このボケが!!」すると5~6人の覆面をした法師が出てきた。「ボケはどっちじゃ!ここは檀那院。下馬所だぞ。大臣や公卿のクセにそんなことも知らんのか!!」と引き続き投石が10度ばかりあった。道長一行を襲った下手人は捕らえられたが、「騎馬で比叡山に登るなんてボケは今までいなかった。そんな奴はたとえ大臣や公卿であろうと、髪をつかんで引きずり下ろして当然だろう」と言い放った。天台座主・覚慶は「これが天皇であれば、馬も騎乗する人間に準ずるので問題はなかろうが、それ以外の場合は騎馬、しかも数十人での登山などはあってはならないことである。石つぶては三宝の思し召しであろうか。石に当たった者は慎むべきである」とコメントした・・・長徳元年(995)内覧宣下を受け、氏長者(うじのちょうじゃ)として押しも押されぬ天下人であった道長さんに対し、容赦のない投石行為・・・この狼藉について、叡山関係者や世間からは「人の所為にあらず」と噂されたという。といっても、他人に対して石を投げたことが「人非人」とされた訳ではなく、叡山の守護神・山王の神が覆面の法師をして道長に怒りをあらわした、という意味での「人の所為にあらず」ということらしいです。この事件の翌月、道長が病にかかった時、世間では「山王の祟りじゃないか」と噂されたそうな。で、病気平癒の祈祷を依頼された慶円・・・この方は覚慶の次に天台座主となった叡山の僧侶で、この時はまだ権僧正だったが、「このたびの病は山王の祟りだとの夢のお告げがありましてな。我ら天台僧はただひとえに山王を恃み奉る者どもですから、ご依頼の修法はご辞退いたしますじゃ」と時の権力者の依頼をあっさり断ったという。この一連の出来事を、おごり高ぶって騎馬で聖域に踏み込もうとした道長が手痛いカウンターをくらった、って安直な一言で片づけて先へ進んでしまえばわたくしもラクなんですが、この時代の世間やいわゆる僧兵の歴史を知るとどうもそういう言葉で片付けられないように思えるので、ここから少し歴史の話に入ります。平安時代と言われて皆さまが思い浮かべるのはどんなイメージでしょうか?とくに道長といえば、娘の女房には紫式部がおり、姪の女房には清少納言がいる。絢爛豪華な王朝絵巻や源氏物語などのみやびな世界をイメージする方が多いんじゃないかと思います。フジワラムシによる権謀術数は有名でも、平安時代に死刑はなかったし、国風文化が花開いたおおむね平和な時期のように思われている方も多いだろうと思いますが、これよりほんの数百年前はほとんどの人民は竪穴式住居に住んでたし、権力をめぐって皇室で血なまぐさい争いが繰り広げられていた。そして、ここからほんの数百年のうちにはまた血の匂いでいっぱいの戦国時代に突入する。人類はたかが数百年では変わりはしないんです。平安時代だけがのほほんとみやび~を謳歌してた訳じゃありません。王朝を生きる貴公子たちも実にワイルドでした。そんな野蛮な平安貴族たちの事件ファイルを少しばかり紹介したいと思いますが、文字数が残り少なくなったので、それはまた次回に。↓ぽちりとよろしく~にほんブログ村
2015年02月08日

今回、本坂を歩くことを決めたのはひとえに最澄とその母・藤子の花摘堂のエピソードにかかっていた。ま、早い話がちょっと藤子RPGをしてみたかっただけなんですが最澄が生まれたとされる場所は山麓の坂本にある。ただ、「叡山攻め(32)」でも書いたように、最澄が生まれる少し前頃は実家の三津首氏は坂本より少し南の古市郷に住んでいたという史料が残ってるけど、最澄の父・百枝は三津首氏の戸主ではなかったようなので、古市に本籍は置きつつもあるいは百枝一家は氏の名のもととなった三津付近に家を構えていたかもしれない。もし古市郷に住んでいたとしたら、坂本まで歩いて結構かかるよな・・・あとで行く藤子ゆかりのスポットにあった年表では、 天平19年(747) 4月28日、藤子(妙徳)が生誕 757~764 三津首百枝と藤子が結婚 天平神護2年(766) 広野(最澄)生誕の説あり 神護景雲元年(767) 8月18日最澄、近江国滋賀郡で生誕 藤子を妙徳と改名 大同元年(806) 最澄が開宗した天台宗が公認 弘仁2年(811) 妙徳の夫、百枝が没。妙徳、夫死後、住居が凶族に焼かれ 実家の京都山ノ内へ身を寄せる 弘仁3年(812) 京都山ノ内の正雄宅で妙徳の夫、百枝の一周忌法要 弘仁8年(817) 2月15日妙徳が没 という流れになっている。本ブログでは最澄の生誕年は佐伯有清氏に従って天平神護2年説を採用してますので、10~17歳で結婚、19歳で最澄を産んで70歳で死没だな。興味深いのが64歳の時に百枝の死後家を焼かれ実家に身を寄せたって記事だけど、おそらく弘仁2年以降はずっと京に住んでたんだろうな。 とするとそれ以前に叡山へ登った可能性が高いように思われるけど、個人的には最澄が山ごもりを始めて入唐するまであたりの話じゃないかな~って気がする。ま、藤子が山登りをしたのは1回だけとは限りませんが。最澄が正式に結界を定めたのは藤子の没後と思われるけど、仮にそれ以前に女人禁制という暗黙の了解がなかったとしても、その頃はまだ俗人、しかも女人が気軽に山に入るなんてことはなかったハズ。わたくしが本坂を登り初めて花摘堂に着くまで、ゆっくり歩いて五大堂に寄ったりしたのを含めて50分くらい。でもそれは整備された登山道を歩いての時間で、藤子が若い頃はそれこそ踏み跡があるかどうかって程度の道だったんじゃないかと思う。藤子が花摘堂で足を止めたのは、道のキツさにギブアップしたのかあるいは勢いで登ったものの、聖域の奥へ足を踏み入れることをためらったのかはわからない。ただ、藤子が息子に会いたい一心で登ってきたという道を、わたくしも歩いてみたいと思った。ホントにただそれだけ。まあ、現地では前回書いたような怖いと思った場所もあったし、山道を1人で歩くとなるとどうしても登山者としての顔が表に出てくるので、藤子RPGどころじゃなかったんですが(笑)。前回の解説版だと、智証大師・円珍が自分の母を祀る三宮を建てたとあるけど、円珍が建てたのは藤子を祀るお堂だという話もある。さて、藤子のエピソードにより山歩きを決定したわたくしですが、事前の準備でいろいろ調べているうち、もうひとつ花摘堂詣でを後押しするエピソードを知った。現在「花摘堂跡」の石碑が立つ場所は稜線を単にならしたような地形で、細長い平坦地。のちにお釈迦様のバースデーにのみここまで女人が登ることを許されたというものの、地形的に小さなお堂が立ってたというのがせいぜいのところだろう。で、場所ははっきりしないんだけど、花摘堂の近くには「要の宿」(かなめのやどり)という休憩所が設けられていたんだそうな。かつて要の宿にあったというお地蔵様は現在東塔の中心部へ移されているので、要の宿の名残は本坂にはもう残っていないのかもしれないけど、年に1度ここまで登ってきた女性たちはこのお地蔵様を相手につらつらと自分の悩みを語り、ゆえに「悩みの地蔵」という別称を持っているという。ということは、要の宿はここまで登ってきた女性たちの休憩所でもあったのかもしれない。だとしたらホントに石碑のすぐ近くにあったものかもしれないけど、要の宿が使われたのは年に1度の女人参詣デーだけじゃなかったらしく、本坂を登ってきた人達の休憩場所でもあったらしい。その中には高貴な方々もいた。「三つ子の魂百までも」とはよく言ったもので、どんなことでも最初の印象というのは結構後をひく。『愚管抄』を著した鎌倉初期の天台座主・慈円とわたくしの出会いは、相当昔に読んだ(たぶん)吉川英治の親鸞の時代小説だった。関白・九条兼実の弟でもある慈円は「青蓮院の君」として登場し、ストーリーはまったく頭に残ってないものの、高貴な「青蓮院の君」に対する憧れだけが残った。つまり、ロクなことを知らないのに妙な愛着だけを大事に抱えているワケで、その憧れの君が要の宿に立ち寄ったという話を知って、花摘堂詣でが確定いたしました。・・・あらためて文章に書き出してみると、我ながら実に単純でバカバカしい動機だという気がしてきました藤子と慈円、この2つのキーワードだけで叡山を相手に孤独に山登りなんてしてるのですから(笑)。でも、史跡めぐりなんてそういう奮起させる「何か」があって初めてできるものでしょ。で、このあたりで休憩した青蓮院の君は 唐崎の松は扇の要にて こぎゆく舟は墨絵なりけりという歌を詠んだんだそうな。ただ、わたくしは花摘堂跡の石碑のところで展望が得られた記憶はないんだけど。花摘堂へ上がるまでに少し汗をかいたので、上に着いてから上着を脱いだら上は冷たい風が強く吹き付けていたのですぐ汗がひいた。ここは小高い稜線のような場所にあたるから、木がなければ確かにそれなりに展望は良かったかもな。風が強くてあまり長居もできる感じじゃなかったので、上着を着て早々に来た斜面を降りる・・・この時、先行して現地から報告したように滑って尻モチつきました。ホントにあれはケガしておかしくない体勢だったんです。とりあえずその場から慎重に登山道まで復帰して肩や首や腕をぐるぐる回してみましたが、骨折も脱臼もしてない。2~3日は後をひくのはしょうがないと覚悟しながらまた本坂を歩き出したけど、「広野さま・・・」とこの山のヌシに感謝せずにはいられませんでした。さて、歩き出して少しすると登山道の左手にこんな場所があった↓。 なんだ、あの標識?と思って近寄ってみると ・・・・・・・・・・この道は、わたくしが登ってきたのと同じ方角へ延びている。で道の方に目をやると なんだ、つまりここから行けば稜線伝いに花摘堂跡へ出られたのか~。そうと知ってればあんな危ない斜面なんか登らず、ゆえにわたくしがすっ転ぶこともなかったのにな~。この先へはもちろん行ってませんが、たぶんゆるやかに少し登る程度の道だと思います。ただ、この道から行っていたらおそらく一段下がったところへ降りようとは思わなかったと思うので、前回の石垣は見落としていたでしょう。とりあえずケガもなかったしな、結果オーライだよな。登山道をまた歩き出すと、この分岐のすぐ先の谷側には石積みの跡か?と思うようなものがあった↓。 さらに歩くと、こんなものが道にあった↓。 おお、瓦だ、瓦!!ちょっと持ってみたけど、ずっしりと重い。平瓦(ひらがわら)だな。なんでこんなとこに平瓦が落ちてるのかはわからないけど、石積みのようなものもあったし、あるいはこの近くに本瓦葺の小さな建物かお堂でもあったのかもしれない。瓦でテンションが上がったところでまた歩き出すと、丁目石があった↓。 入口が5丁目だったからな。終点は何丁目になるんだろう。このすぐ先で、妙に開けた場所に出ます↓。 あ~、こーゆー場所のが厄介なんだよな・・・というのも、道がクロスしてるように見えなくもないし、それに正面は ここまでの本坂は、鉄塔のあたりを除いておおむね広くて安心して歩ける道だった。が、ここで急に雰囲気が変わったようになるし、この先はカーブで見通せないのでこのまま進んでいいのかちょっと迷った。もちろんここにも標識なんて立派なものはありません。前後左右を見て色々と比較検討した結果、まっつぐ行ってみることにした。 ここまで山中で誰にも会うことはなかったけど、この辺で下の方から人の声が聞こえてきた。チッ、せっかく1人で静寂を楽しんでいたのに・・・にほんブログ村
2015年02月06日

え~、前回の五大堂で動画を撮っていたのを忘れてました(笑)。短いですが、東が開けているので琵琶湖がよく見えます。山道に入ってしまうとこれだけの展望は得られません。さて、前回の続きです。「叡山攻め(82)」で半泣きになった場所があったと少し書きましたが、それは山道に入って少しした場所でのこと。何てことない登山道を歩いていてふと道の脇に目をやると、そんなに木が密集しているという訳でもないのに、木の向こうは漆黒の闇というようなところがあってね。一瞬目をやって、あまりの暗さにソッコー目をそらしました。別に何の恐怖体験をしたという訳でもありません。けど、フツーに木が立ってるだけの場所なのにあんな闇ができるなんて、ちょっと考えられません。ホントにフツーに木が立ってるだけなんですよ。樹齢が4ケタを超えるレバノン杉が1メートル間隔に密集してるとか、そういうレベルじゃないんです。登山は結構長いことやっていたので山の中の薄暗いところなんかは見慣れてますが、そういうわたくしが驚くほどホントに木の奥は真っ暗闇でした。しかも、登山道のすぐ脇だからね。もう、見てはいけないものを見たという感覚で、半泣きになりながら後ろも振り返らず足早にその場を離れました。この時ばかりはマジ後悔しましたね。この先を登る気力も失せたけど、かと言ってここから引き返すにもまたあの場所を通らなければならない・・・それは絶対ヤダ。てことで仕方なく山歩きを続行したのですが、前回「1人で叡山に入るな」とあえて書いたのは、登山そのもののリスクもさることながら、この時感じた恐怖が大きいです。1人で呑気に歩いてると、登山道のすぐ脇に広がる異界に引き込まれちゃうかもしれませんよ~昔、相棒と登山をしてた頃はなんかヤな雰囲気の時は2人で歌を歌ってカラ元気を出してしのいだものですが、さすがに1人で歌を歌うのはちょっとな・・・いつ人に出会うかわからないし。で、重い気持ちを引きずりながらもなるべくイヤなことは考えないようにして歩いていくと、鉄塔が出た↓。 五大堂先のゲートからここまで10分くらいかな。もともと鈍足な上に周囲を見ながら歩いているので、かなりゆっくりなペースです。上部に出るまでに目当てになるポイントはそう多くはない。そのうちのひとつがこの鉄塔だったので、ちょっと安心した。が、鉄塔にある看板には え・・・ここ、「出る」の?ここから南、織田軍の武将・森可成(よしなり)が城主を務めた宇佐山城のあたりは現在ではすっかり野生の猿のパラダイスになってると聞いたことがあるので、ここまで猿が散らばっていたとしてもおかしくはない。が、クマもおるのか?もちろん、クマ除けに熊鈴は付けてますが、さっきの「異所」で受けたダメージがまだ回復してないところへクマ情報を出されると、またわたくしのライフゲージが下がっていく・・・ それにこの場所、写真にはあまり写ってませんが進行方向まっつぐはあまり道らしくない。登山道を示す看板なんかもここにはないし、クマの看板の裏を覗いてみるとなんか踏み跡のようなものがある・・・どっちへ進めばいいのかしばらく地図などを見て考えましたが、ここには作業の人も来るだろうから、道じゃないところにもそりゃ踏み跡はあるだろう。順当に考えてここはやはりまっつぐが正解かと思ったので、フェンスに沿って登っていくと広い道に出られた↓。 さすがに表参道なだけあって、本坂ではこんな風によく踏まれた広い歩きいい道が多かったです。『比叡山 その歴史と文化を訪ねて』によると、 【法要などに参詣する信者たちの列は、蟻の行列のように坂本から根本中堂まで 続いたという。】という大賑わいの参道だったようですが、参詣の庶民や僧、資材や生活物資のほかにもここを通った方達がいました。近江と京の間にまたがる比叡山へは京側からも登るルートがあります。宣旨を持った勅使や横川へ行くような場合は京側から登ったりもしたようですが、都びとみんなが京側から直接登った訳でもないらしく、わざわざ近江側の坂本へ回ってこの本坂をみやびな方々が登ったりもしました。そして、この道を登ったのは生者だけじゃありません。上記リンク先の「叡山攻め(82)」でも紹介したお盆の伝承がそれで、「叡山攻め(84)」の慈忍和尚の話に続く、2つめの延暦寺七不思議でもあります。お盆になるとぞろぞろ登っていくというユーレイたちは自分の足で歩いたのではなく、船に乗って本坂を登っていったそうな。叡山にたちこめる特有の「もや」に浮かぶその船には額に三角布をつけて白い経かたびらという、いかにもないでたちの亡者が乗っており、それを目撃した僧たちが腰を抜かしたという・・・ふん、わたくしなんかちゃんと自分の足で歩いたのにささてと、少し先あたりにはわたくしが楽しみにしていた場所があるハズだ。先人の訪問記によるといちおうそこに行く表示が出てるらしいんだけど、見落とさないようにしないとな。周囲に気を付けながら進むと、カーブの先に表示が立っていた↓。 が、最初はこの大きな標識しか目に入らず、あやうくスルーするところだった↓。 左にある小さなものに目をやると、 あっ、これだ!表示から少し奥へ入っていくのはわかっていたので周囲を見ると う~ん、道じゃないなあ・・・でも踏み跡らしいものもあるし、表示があるからこの奥でいいハズだ。木の根や落ちた小枝などを踏みしだいて斜面を上がり始めると、上の方は結構踏み跡がしっかりしていた↓。 歩いてみると結構急な斜面だし、小枝や落ち葉はしっとりと濡れていて見るからに滑りやすそう。足場を選びながら登ったけど、下りは気をつけなきゃならんな。上部には立派な木もある↓。 3分ほど登ると、一旦傾斜は落ち着いて細長い踊り場のような場所に出る。ここにあるのが おお、石垣だ~、石垣!!上に目をやると うん、石垣の組み方といい、ここがかつての通路だった気がするな。できれば石垣の間を通ってこのまま直登したかったけど、 さすがにここは落ち葉や小枝が積もりすぎてて人の歩いた形跡もないし、ちょっとムリ。 ので、脇の斜面を上がる。石垣の前には落ち葉に埋もれた石もあって ただの自然石とも思えないので、礎石か敷石の類なのかもしれない。で、最後の急斜面を上がると 出たっ!出たでたあ~!!登り下りにケーブルを使えば時間も節約できてもっと主要堂宇も色々見られたのに、それでもあえて山道を登ることを選んだのはここに来たかったからなのです。 【花摘堂(はなつみどう)跡 伝教大師の御母堂・妙徳(藤原藤子)夫人は、山上の大師の坊を訪ねてこの峰に 至ったが、これより進むことはできず、大師が山を下って母と謁した由緒の地である。 後に智証大師は、ここに自らの悲母を祭る三宮(そうのみや)を建てた。その後 4月八日の釈尊降誕会に限って伝教・智証大師の母君を偲んで女性もこの地に 花を供えることが許された。花はこの峯(花摘峯)の花を摘んで供えたので 花摘堂と呼ばれた。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)という、母の愛と子の愛満載の場所です。『叡岳要記』には東西南北に最澄が張ったとされる結界が書かれていて、「東限比叡社幷天之塠」とある。「比叡社」は日吉神社のことで、「天之塠」は「アマナミノツカ」とフリガナが振ってあるけど、どうもこれは正しい読み方じゃないらしい。で「天之塠」の正確な場所はわからないけど、大ざっぱに言って日吉神社の裏手あたりからは結界に入っていたと見て間違いないだろう。日吉神社をも含むということであれば、結界の東限はもう少し東寄りにずれて本坂の入口、デカい常夜灯のあったあたりから西はもう女人禁制ということになる。なら、藤子(とうし)は愛する息子がせっかく張った結界を乗り越えてここまでやって来たのか?恐るべし、母の愛しかし、最澄が結界を定めたとされるのは弘仁9年(818)4月21日。あとで藤子のゆかりのスポットに行った時、そこにあった年表には「弘仁8年2月15日 妙徳が没」とあった。なら、まだ正規の結界を定める前の話ってことだな。にほんブログ村
2015年02月04日

石段の正面側、分岐の柵がしてある右の道を覗くと 林道だな。「火の用心」の手前にある看板は ほ~・・・・・後から地図などを見ていてわかったんだけど、三塔の中でもっとも北に位置する横川へ行くにもいくつかのルートがあり、そのうちのひとつがこの林道を使うルートだったらしい。『比叡山 その歴史と文化を訪ねて』によると、この道を進むのが「横川本坂」なんだそうな。【この道はよく整備されていて歩行も容易である】とあるけど、確かに地図を見ると割にゆるやかそうな道だし、そもそも作業車が通れるぐらいの林道だからそりゃ歩きいいだろう。翌日は横川へ向けて歩きましたが、わたくしは別のルートを選んでいたのでここが通れなくても支障はない。ここのゲートにはなぜかこんなものが・・・↓。 ゲートを離れて真正面の道を進もうとしたら、 大原って!! そりゃ間違いじゃないけど、山越え、つーか縦走の果てに大原があるんだぞ。なぜに最終目的地を大原に設定したのか、皆目理解できぬ。ま、とりあえず正面の道で良さそうだな。 右手の谷の方を見やると 遠くに琵琶湖が見えた。真ん中の木がない部分には、ケーブルの架線が見える。ここまでで結構上がってきたな。少し歩くと分岐に出た↓。 車道はまだまっつぐ延びている。車道をそのまま行ってもこの上と合流できるらしいんだけど、ここは分岐を右に、石段を登る。 石段の右に張られたネットの向こうには おお、宝篋印塔だ。色が変わってる部分は何なんだろう・・・あと、こんなのも↓。 ほかにもこんなのがいくつかあったけど、この頃雨が少し落ちてきたので、先を急ぐ。この石段、一見いい道のようだけど いびつな石を並べているので、実に歩きにくい ここには南善坊という僧坊があり、ワンコがいた↓。 「おはよお~」と手を振ってあいさつしたのに、「ウオオオォン!!」と吠えられた南善坊には六角のお堂もあったけど これは脇から見るだけ~。この写真の左はしに写ってるのが五大堂↓。 朝もはよから地元の方がお掃除に精を出していたので、邪魔にならないように軽く参拝。 五大堂の詳しいことはわからないんだけど、境内にはお不動様もおられるし、五大明王を祀ってるお堂なのかな。水に打たれるお不動様を見ていたら、だいぶ雨が降ってきた。うっ、ヤバイ。雨具を着こもうかとも思ったけど、もう石段の上部まで来ているのでとりあえずここはとっとと山へ入ってしまおう。『比叡山 その歴史と文化を訪ねて』には【坂本から比叡山へ登る途中に五十二段という石段がある】と書いてある。登り口にも石段があったし、現地では段数まで数えなかったからどちらの石段を指しているのかはわからないけど、写真を見るとここも50段近くまでは数えられるので、この石段のことかもしれない。52段の石段は東塔にもある。『比叡山 その歴史と文化を訪ねて』によると、 【天台宗の高祖天台智者大師が、未修行の凡夫から、悟りを開いた仏までの、 修行の段階を五十二段にわけて教えられた。十信、十地、十行、十回向、十住、 等覚、妙覚である。登るとき、是非一段ずつ数えていただきたい。】登る時、数えるどころか「歩きにくい道だな~」とボヤいていたわたくしはすでにアウトです 五大堂を出て石段に復帰すると、最上部はこんなだった↓。 右手の奥にも少し行かれそうな感じはしたけど、ここは左にあるこのゲートを通過する↓。 これは先人の登山記で読んでいたもので、知らなければちょっとまごついたかもしれない。で、ここからが山道。 ゲートを通り抜けると左右に道が延びていたので、たぶん五大堂への石段を登らずまっつぐ行ってもここに出たのだろう。もう舗装路じゃないけど、初めはまだ林道といった雰囲気。が、少し歩くと山道らしくなってくる↓。 坂本と東塔を結ぶこの本坂は、 【坂本からのケーブルカーが開通するまでは殆どの人はこの道を登り下った。僧も 参拝者もこの道を大通りとして通いつづけたのである。仏前への供物も僧の生活物資も、 そしてお堂建築の諸材料もみなこの道を通ったのである。】 (『比叡山 その歴史と文化を訪ねて』より)かつては賑わったこの道も、参詣者全体から見れば今では通る人も少ない。オフシーズンということもあったかもしれないけど、本坂でわたくしが会ったのは1グループだけだった。同書にはこうも書いてある。 【しかし、登山道の独り歩きはすすめられない。道に迷うこともあり、天候などの変化も 計算に入れて、友達などとともに、じっくりと山を楽しみつつ、なごやかに登って いただきたいものである。】思いっきり単独行のわたくしが言うのもなんですが、結論から言うとこれはホントに正しいです。なぜって、東塔にかなり近づくまで標識らしい標識はほとんどないからです。分岐はほとんどないものの、変に目が慣れてくると涸れ沢だとかの登山道でないところまで道のように見えてもくるので、分岐がほぼないからといって迷わない保証はどこにもありません。特に叡山は山自体も大きいし、谷の傾斜はかなりきついところが多いので登山道を外れるとかなり危ないです。登山をやる人は当然それなりの準備もしてくるものですが、表参道だからといって山に慣れていない人が安易に歩くような場所じゃないです、叡山は。ので、きちんと山用の装備・対策をした上で複数のパーティーで歩くことをお勧めします。ただね、信仰の山・比叡山を感じたいのなら、やっぱり一人で静かに叡山に向きあわないと難しいかもな、というのも正直な感想です。みんなでワイワイ登ってるとただの登山で終わっちゃうでしょ。今回わたくしが用意したのは、登山の時は必ず持つ25,000分の1地形図。それから「山と高原地図」シリーズ(昭文社)の「京都北山」。昭文社の登山地図の方はすまほのアプリにもなっていて、ルートと現在地がすまほで確認できるのでこれはお役立ちでした。わたくしが登山を始めた頃はまだすまほなんてモノはなく、登山用のGPSを買って地図と突き合わせて現在地を確認したものですが、当時はまだ軍事用にわざと精度を落としていたこともあってそんなにお役立ちグッズというほどでもありませんでした。精度の低いGPSは参考程度で、地形図や高度計などを見ながら山道を歩いたもんです。それが今や、すまほのマップで確認できる現在地はかなり正確。叡山は山の奥だと衛星を捕まえにくい場所もあったけど、おおむね現在地は容易に把握できたので、このアプリは良かったです。現在地を常に把握するのは登山の鉄則だからね。叡山は気軽に入るような山じゃないですが、車やケーブルで楽して上がって三塔の中心部だけを手軽に見るのと自分の足で山を歩くのとでは全然印象が違います。本坂なら他のルートよりは比較的楽に歩けると思うので、是非一度は山を歩いてみることをお勧めします。ただし、1人はダメよにほんブログ村
2015年02月03日

早尾神社の石垣に沿って右に目をやると、お寺があった↓。 Mapfanの地図では、ここは「求法寺」としか書いてなかった。これがどういうお寺か現地ではわかっていなかったので寄らずに登山道へ向かったんだけど、後から別の地図を見て「走井元三大師堂」とあったので、「ぎゃああああ~!マジでええええ~~~!!」と悲鳴を上げました。くそっ、そうと知っていたら何が何でも寄ったのに・・・はい、ここは「走井堂」(はしりいどう)ともいい、良源さんを祀るお寺だったようです。『比叡山』によると、走井堂は円仁の跡を継いだ第4世天台座主・安慧(あんえ)の里坊があった場所で、良源さんが入山する時、ここに立ち寄って休憩し修行の決意を固めた場所なんだそうな。走井堂の本尊は鎌倉期の良源さんの木造坐像(重文)。写真を見ると手には数珠と五鈷杵(ごこしょ)らしきものを持ってるけど、ちょっと変わってる。というのも、五鈷杵などの密教法具を持つ高僧の木像ってのはたいがい鈷を持つ手がものすごく不自然な角度になってるのに対し、走井堂の良源さんはフツーに持っている。そして顔も変わっている。お不動様などの憤怒相の仏像によくある天地眼(片目ぱっちりで片目はしかめる)。こういうかなり異色の像だけど、走井堂も元亀の織田氏の攻撃の際焼失してのち再建されたんだそうな。元亀を生き延びた、鎌倉期の木像ね・・・走井堂は焼かれても、像高78.2cmという等身大の良源さんを背負って逃げるぐらいの余裕はあったってことじゃないのか?この坐像、現地でいつでも見られるんだったらリベンジも考えねばならんな・・・ついでと言っちゃ~なんですが、良源さんも今回の旅の主役の一人です。良源さんも叡山の僧侶、つか天台座主だからね。「慈恵大師」は日光でも聞いたことのある名前だったけど、まともに良源さんのことを知ったのは寛永寺シリーズ。あの時はお手軽なウィキペディアで簡単な経歴を学んだ程度だったけど、今回はもう少しリアル良源について詳しく書こうと思っていますが、まだそれは先の話。が、書きたいことは沢山あるので、ひとまずここでは本人の死後、神仏なみに崇められた良源さんについて少々。良源さん・・・いえ、神仏のように信仰の対象となった彼については、ここでは「元三大師」と表現しておきましょう。元三大師への信仰はかなり古い時代からあったようで、時には最澄をもしのぐほどの人気があったらしい。『比叡山 その歴史と文化を訪ねて』によると、 【ことに元三大師に対する全山の信仰は中世においてはとくに盛んであったらしく、 三塔十六谷にはみな主要な大師肖像を伝えている。例えば東塔北谷の降魔大師、 東谷の木葉大師、西塔本覚院の鏡大師、大林印の鈴振大師、横川の廻り大師と いったものはとくに有名で、これらの肖像はみな各谷々でそれぞれに特殊の 信仰のものに生きて来たものであって、それぞれに由来や伝説がいろいろと 附会されている。】ということで、良源さんの本拠地であった横川のみならず、東塔・西塔をも含めた三塔のすべてのエリアに元三大師の画像や彫刻があったという。その沢山の元三大師像には、人間の姿をした良源さんもいれば、鬼や魔物、観音様などの場合もあり、実に多岐にわたる姿の肖像があったものと思われる。解説にある「東塔北谷の降魔大師」は総持坊が所有するもので、鎌倉末期の画像のほか、一巻の縁起書まであるそうで、 【これは北谷の各坊が昔から交代制で護持して来たものだそうである。】 (前掲書より)「横川の廻り大師」の方は 【各坊の廻り持ちで護持して礼拝を行っていくのを廻り(めぐり)信仰というので あるが、横川の各坊で廻り持ちしたこの画像をとくにこういう名で呼んでいる。】 (前掲書より)だそうな。つまりは少なくとも東塔北谷と横川では定期的に元三大師画像が回覧板よろしく各坊を廻っていたってことだな。と、ここで寛永寺のことを思い出した。そう、金札を僧坊の前に立てて元三大師画像の所在を示した、あの廻り持ちのことです。(「上野第二編(8)」 「上野第二編(12)」参照)寛永寺の周辺に叡山周辺と似たもの、同じものなどがあるのは知っていたし、寛永寺発行の『寛永寺』では【こうした例は挙げていけば際限がない】とも言っている。たとえば「にない堂」のように同じ名称を持つお堂とかなら、誰にだってわかる。しかし、ぱっと見ではわからない慣習やしきたりとなると、これは歴史を知らないとどうにもならない。前回の日光詣でで輪王寺三仏堂の近くにある黒門の前に金札があるのを見つけた時、おそらく日光でも寛永寺と同じように元三大師画像が各坊を廻って、金札も寛永寺と同じ使われ方をしたんだろうとは思った。が、その慣習はてっきり寛永寺から来ているものだと思っていた。ところが、『比叡山 その歴史と文化を訪ねて』に廻り持ちのことが書かれた箇所を見て、そもそものルーツは叡山だったんだと初めてわかった。いやはや・・・三山をめぐって自分の目で「同じもの探し」をするのもひとつの楽しみ方かもしれませんよ。さて、早尾神社の左手にあるのが登山道の入口↓。(場所はこちら) これがかつての主要な参道で、「本坂」(ほんざか)という。これをずっと登っていけば昨日見た聖尊院堂経由で東塔の中心部へ出られる・・・はず。昔はこの道を自分の足で登るしかなかったので交通量も多かっただろうけど、今は車やケーブルで簡単に山上まで上がれるので、昔に比べれば歩く人は少ない。写真に写ってるおじさんは結構長居して邪魔だったんだけど(笑)、彼も結局本坂は上がってこなかったんだよな。まあ、見るからに山歩きするような格好じゃないしな。常夜灯の前には、丁目石がある↓。 未公開の廿日市編で宮島の山を登った時はびっちり丁目石も完備してたから、それを頼りにしながら歩いたもんだけど、本坂ではこれ以外見た覚えがないぞ。ので、これはアテにはできません。自分で事前にちゃんと準備してってくださ~い。この時ちょうど9時。ホントはもっと早くスタートしたかったけど、この時間だからこそ雨も上がって歩く決断ができた訳だから、しょうがないよな。本坂の入口にある常夜灯は、台座も含めるとすごくデカい。裏には火を入れる時のためか階段まで付けられていた↓。 本坂の初めは、比叡山高校の脇に付けられた石段をしばらく登る。ゆっくり周りを見ながら登ったけど、ぐんぐん高度が上がっていくのがわかる。で、ここが石段の終点↓。 5本のポールはただの車止めかと思ったら、なにやら文字が書いてある。 右から順番につなげていくと、 「樹の雫しきりに落つる暁闇の 比叡をこめて啼くほととぎす」これは天台宗僧侶にして野鳥研究家・歌人・詩人の中西悟堂(1895-1984)によるものだそうな。悟堂は「日本野鳥の会」の創立者でもあり、ウィキペディアによると 【Wild Birdに対応する語として、中西悟堂が「野鳥」の言葉を造語した。】だという。ポールの前には左手に進む道路もあるし、正面側は ・・・なんか、いろいろ道があるなあ。最初が肝心なので、入る道を間違えないようにしないと。左へ延びる道はどう見ても違うよな。比叡山高校の上にケーブル坂本駅があるので、たぶん左の道はケーブルの方へ出られる道じゃないかな。で正面側に進んでみるけど、ここでも道が二手に分かれていて右は柵がしてあるぞ。進む途中には 【藤ノ木 比叡山西ノ谷ハナツミ 危険地区 この地区は山地災害が発生する恐れがありますので、大雨のときは充分注意 して下さい。】との看板がある。看板の図によるとこの周辺が藤ノ木で、その先のエリア一帯、法然堂の手前あたりまでをハナツミというらしい。う~ん、まあ大雨が降った訳でもないし、登山道を歩いてる分には注意して歩けばそんなに危険はないハズだよな。にほんブログ村
2015年02月02日

現在の大講堂は亀腹↓。 お堂の正面には菊に転法輪の寺紋の幕がかかる↓。 ま、建築好きにとっちゃあまりこういうデカい幕はありがたくないんだけど・・・法華大会のようなイベントの時は拝観も制限されるでしょうが、平時は中へ入れます。内部は撮影禁止なので写真はありません。まだこの頃は今ほど仏教に興味を持ってた訳じゃないので、1年前のことだし正直言ってあまり内部は覚えてません。ケーブルの時間を気にしながらだったしね。ただ、確かここには数種類の本などが置いてあって、天台の勤行式もここで買ったんだよな。それから、「緑鳳」(りょくほう)という高級木材で造られた珍しいモスグリーンの腕輪念珠があったので、それもお買い上げ~。この時、お守りなどの売店コーナーの脇の展示物だか何かに輪王寺宮の「かすがい山」があったのを見つけた。あれっ?これって、もともと叡山のマークだったの?会計に買うものを持っていった時、売り子のおじさんにちょっと聞いてみた。「あのマークって、延暦寺のものなんですか?」「あれはかすがい山って言ってね~、古くから使われてるものなんですよ~」いや、かすがい山はわかるけど、私が聞きたいのはそんなことじゃなくて・・・でちょっと突っ込んで質問をしてみたら、おじさんは後ろにいた職員さん風のお兄さんに話を振った。「あのマーク、寛永寺でも見たことあるんですけど」「ああ、まああちらさんはそりゃ・・・・・・ここと似ている物が色々あるって聞いてますしね・・」てんてんの部分はお兄さんが言葉を濁した部分。でもわたくしには「寛永寺はウチを山ほどパクってるからそりゃ同じものもあるでしょうよ」ってお兄さんの心の声が聞こえた。結局、なんで叡山に宮のかすがい山が使われていたのかはわからなかったけど、「寛永寺は三山のほかのお仲間からは嫌われているのか?」と思ったのはこの時。もちろん、お兄さんが言葉を飲み込んだ部分は叡山の公式見解じゃない。けど、関係者の中には「ウチが本家本元なんだ」ってプライドを持ってる人もいるみたいだな~と思った。以前、日光輪王寺のお護摩の導師様との会話からも「寛永寺は日光から嫌われておるのか?」とちらりと思ったことがあるので、ブルーな気分になって大講堂をあとにした。ケーブルの最終を狙ってもし何かあったら困るので、最終の1本前に乗ろうと思って今日の行動はこれで切り上げることにした。初日の東塔めぐりの成果↓。 主要堂宇はわずかに大講堂だけというわたくしが史跡めぐりのプランを立てる際には迷って何度もプランを入れ替えて、ってのがいつものパターンで、今回も当初とはかなり毛色の違ったものになったし、それどころか現地で大幅に予定を入れ替えたりもした。見たいところは沢山あるのですが、結局のところわたくしの史跡めぐりというのは「人」が主役なので、必然的にこーゆー行程になります。ま、ケーブルを使う時には東塔も通ることになるから、余った時間で東塔の主要堂宇を見るつもりではあったからな。明日があるさ、明日が・・・本日の歩数は18,285歩。山内ではそんなに歩いてないと思うけど、家からの歩数だからね。<2日目>2014年1月26日(日) くもりのち晴れあとで雪ゆんべは雨が降って、今日の天気予報もイマイチな感じ。山を歩く前提で来てる以上、それなりの雨具の準備もしているものの、雨の時間が長いようだったらなにも無理して歩くこともないので今日の山歩きはカットしようかと考えてもいたけど、朝にはひとまず雨は上がっていた。ただ、坂本へ向かう電車の中から見る叡山は厚い雲がかかっていて、なんか今にも降り出しそうなカンジ。途中、車窓に雨がかかった時もあった。いや~、今日はぜひとも自分の足で登りたいんだけどな。どうせなら雪になってくれた方が、行動はしやすい。何とかもってくれないかな・・・天気を気にしながらも、車内アナウンスでは「堅田」が「博多」に聞こえるし、「敦賀」が「駿河」に聞こえて「ここはどこやねん!」とちょっと笑いをこらえるのが大変でした。電車を降りると、いちおう雨は降ってなかった。雲はあるけど明るくなってきてもいるし、予定通り山登りをすることにした。時間と体力の節約のためにタクシーで山麓まで向かう。降ろしてもらったのが、ケーブル駅から少し手前の日吉大社。 叡山の鎮守であったこの神社は、全国の日吉神社・山王神社・日枝神社の総本宮。江戸城の鎮守として赤坂にも日枝神社があるので、あれも叡山の模倣でここからの勧請かと思ったら、赤坂の勧請元は仙波(川越)だったらしい。ここにも数々の歴史を物語る見どころが沢山ありますが、たぶんわたくしは相当時間がかかると思うので、今回は予定に入れてない。過去の坂本訪問の際も、時間切れで行かれなかった(笑)。確かこの手前に休憩所っつーか古い小さなあずまやみたいのがあったので、ザックを下ろして山歩き用に身支度を整えてから行動開始。日吉大社の鳥居の前には ハハハそんなに犬を連れ込む人間が多いのか?鳥居のすぐ脇には 歴史を感じるなあ。 延暦寺と日吉大社といえば、いわゆる「強訴」(ごうそ)を真っ先に思い浮かべる方も多いんじゃないかと思いますが、強訴の際に叡山の僧兵が担ぎ出したのが、ここ日吉大社の神輿。ただ、叡山がいわば公然と武力行使を始めた10世紀の良源さんの頃にはまだ神輿を担ぐという手段は取っていなかったらしい。『僧兵=祈りと暴力の力』(衣川仁/講談社選書メチエ)によると、史料で確認できる初の神輿による強訴は熊野社の永保2年(1082)だそうな。歴史上有名な僧兵のツートップである興福寺があとに続く(1093年)。興福寺では神輿は出なかったけど、鎮守である春日大社の御神木が用いられた。叡山ではその2年後、嘉保2年(1095)に初めて強訴で日吉大社の神輿が使われたという。神輿が出る前にも、山法師(叡山の僧兵)による武力行使は山内のみならず俗世にも及んでいたが、武力だけでなく宗教的権威まで持ち出されたら俗人にはたまったものじゃない。叡山で神輿が担ぎ出されたあとくらいには、 【諸社の神人は神輿を舁(か)いて神境を出てはならない、違反すればその職掌を 解き、以後は用いない】 (『僧兵=祈りと暴力の力』より。出典は『中右記』)という内容の宣旨がたびたび出されたらしい。今は神仏分離ですっかり別の宗教法人におさまっているものの、ここも長い歴史の中では延暦寺と切っても切れない関係にあったといえるでしょう。さてさて、鳥居の脇を通って登山道へ入る前にはちょっと見たいものがある。 ほお、思ってたよりずっと立派なお堂だな現地に解説版があったような気がしたんだけど、写真がないな・・・こちらは早尾地蔵といい、六角のお堂の中におわすのは 最澄は在世中、6体のお地蔵様を彫ったといい、のち円仁がその功徳を広めるために近在の各所へ分散して安置したという。そのうちのひとつがこの早尾地蔵尊。ここから少し北に行ったところに、天台宗の一派・天台真盛宗の総本山、西教寺(さいきょうじ)がある。天台真盛宗の宗祖・真盛(しんせい)上人(慈摂大師)も叡山出身の僧で、ここのお地蔵様が真盛上人となって人の世に生まれ、真盛上人の死後、ふたたび地蔵尊となって現れたという伝承がある。そのエピソードから、「かくれんぼ地蔵」ともいうそうな。石仏は2つあるのでどちらが最澄自刻といわれるものかわからないんだけど(笑)、両脇の壁にも小さなお地蔵様がびっしりと並んでいてなかなか迫力がある。お堂の扉にかかっているのは、「あぶちゃん」。ここはまたの名を「子育て地蔵」ともいうらしい。早尾地蔵のすぐ先には、早尾神社がある↓。 古い石垣が素敵でつい吸い込まれそうになるけど、スタート前にあまりまったりすると後に響くので、迷った末にこの時は上には上がらなかったんだよな。にほんブログ村
2015年02月01日
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