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え~とそれで、北条早雲が関東の風土病に侵されず東へ展開していくあたりを少しだけ書いておきますかね。後北条氏が東へ展開するということは、すなわちそれまで関東を支配していた名家が没落していくことでもあるのでね。北条早雲が興国寺城主となった4年後、堀越公方・足利政知が死去。ここで「豆州騒動」と呼ばれるお家騒動が起こる。政知には茶々丸という嫡子がいたが、後妻との間にも2人の男子をもうけていた。豆州騒動はお家騒動にありがちな話で、3男・潤童子を溺愛した後妻が茶々丸をうとんじるようになり、素行不良を理由に廃嫡して茶々丸を土牢に押し込め、潤童子を継嗣とした。これは政知がまだ生きてる時の話で、執事の犬懸上杉政憲はこれを強くいさめたという。犬懸政憲は前回書いたように、父の跡を継いで執事となってから同族である諸上杉氏との関係改善に努め、長く続いた享徳の乱が文明14年(1483)に古河公方と上杉氏の和解および都鄙合体で終結を迎える際には、政知にこれ以上の戦闘の継続の困難を説得して交渉などにも尽力したという。外野としては「とりあえず終わってよかったね」ってところだけど、これまでは古河公方が朝敵で「旧・鎌倉公方」、堀越公方が幕府公認の「新・鎌倉公方」という路線だったハズなのに、都鄙合体によって古河公方の立場が公式に復帰し、関東一円の統治がふたたび認められることになった。その結果、堀越公方・政知は伊豆一国のみを統治するハメになった。政知にしたら面白いハズがない。ま、犬懸政憲が説得したというぐらいだから、古河公方と幕府が和解されては自分の立場がなくなると思って政知も都鄙合体には反対していたのかもしれない。堀越公方の執事は世間的にはあまり「関東管領」という表現はされないけど、都鄙合体するまでは本来は関東管領だったと言っていいんだと思う。つまりはこれまでの鎌倉府の関東管領と同様に堀越公方と幕府の両方に仕える立場だった訳で、ここがフツーの大名家などとは違う面でもある。江戸期の「附家老」みたいなカンジといえばイメージもしやすいかな。だから、政知が都鄙合体に積極的に反対していたのなら、合体に尽力した犬懸政憲は直属の主である政知より幕府の意向を重視したということになるけど、その結果政知はたった伊豆一国の統治しか認められなくなったので、政知は犬懸政憲を恨むようになったという。そうしたところに茶々丸廃嫡の件が起こり、政知は自身の方針に異を唱える犬懸政憲に自害を命じて、政憲は死んだ。シチュエーションはそれぞれ違うけど、関東の「公方」に仕えた上杉氏はその立場上みんな色々苦労していて、中には犬懸政憲やその父・犬懸教朝、山内憲春、山内憲忠のように命を落とした者あり、政界からすっぱり身を引く選択をした山内憲実のような者あり、関東管領としての上杉氏は実にお気の毒だと思う。享徳の乱の終結にあたって犬懸政憲が政知を説得しなかったら、酒井根(境根)で追討された千葉孝胤のように上杉氏から攻撃されたかもしれないし、今度は堀越府が「朝敵」とされたかもしれない。たった伊豆一国の支配にとどまったとはいえ、古河公方が公式に復帰した中で堀越府が存続できたのは、幕府と上杉氏の双方にパイプを持つ犬懸政憲の尽力があってこそのものだろう。茶々丸を廃嫡した件については、幕府管領の細川政元と連携して政知の後妻の産んだ2人の子をそれぞれ将軍と堀越公方にする心づもりだったともいう。政知の子がいきなり将軍だなんて話が飛躍しすぎてると思ってしまいますが、行動がロクでもなかったためについ忘れがちなものの(笑)、 血筋(だけ)はいいんだわ。政知の子の清晃は「せいこう」と読む。清晃が幼い頃はまだ異母兄で長男の茶々丸が継嗣だったので、清晃は5歳にして京・天龍寺の後継者となることが決められていた。ので「清晃」は法名。9代将軍・義尚(よしひさ)が男子をもうけないまま死去すると、当然のことながら後継問題が持ち上がった。将軍家に血の近い堀越公方の子・清晃もこの時候補に上がったものの、ここでは義材(よしき)が10代将軍となった。義材はのち義尹(よしただ)、さらに義稙(よしたね)と名を変える・・・ええ、これが本ブログでもおなじみ、一旦は将軍職を追われたものの大内義興さんの保護を受けてのちに将軍に返り咲いた「流れ公方」義尹です。系図を見ておわかりのように、清晃は義澄と改名して11代将軍となる。つまり義尹が放浪している間に義澄が次の将軍となった訳ですが、豆州騒動に話を戻しますと、政知の死後、幽閉されていた茶々丸は牢番を殺して脱獄。そして継母と潤童子を殺して自力で堀越公方となった。身内を殺した上、讒言を信じて重臣を殺したことなどもあったそうで、茶々丸の評判はかんばしくなく、伊豆は混乱に陥った。伊豆にほど近い東駿河・興国寺城にいた北条早雲はこれを好機と見て侵略を開始する。茶々丸がセンセーショナルな当主デビューを果たしてから2年後の明応2年(1493)のことだった。従来は早雲が一気に伊豆を攻め落として茶々丸が自害したという風に言われていたようだけど、堀越府の南に早雲が築いた城は敵を意識して西と南の防御を厚くしており、4年経ってもなお既存の城の普請が命じられてもいる。そしてウィキによると、近年では茶々丸がすぐに自害した訳ではなく、山内上杉氏や武田氏などの助勢を仰いで伊豆の奪還を目論んでいたと判明したそうで、早雲が伊豆に攻め入ってから数年の間はまだ「平定した」といえる状況ではなかったらしい。ただ、結果的には茶々丸は捕らえられて自害する。そして茶々丸の死によって堀越府は滅亡する。まあ、義澄が将軍となってその子孫たちが室町幕府崩壊までの将軍を務めるので、政知の血は本家に戻って生き続けるのだけど。なんで茶々丸が山内上杉氏を頼るのかと思ったら、当時山内家は伊豆を領国としており、山内家のライバル・扇谷上杉家当主が早雲と通じて伊豆を攻めさせたという記述が『鎌倉九代後記』にあるそうな。初期の侵攻がスムーズに進んだ理由のひとつに扇谷家の手引きがあっただろうという点は確かにうなずけるものがありますが、茶々丸が山内家を頼ったという事もこの記述を裏付けるものと言えるんじゃないかな。ということで、堀越府の内紛プラス上杉氏の内紛というダブルのチャンスをうまくつかんで、早雲はまず伊豆をゲットした。堀越府の内紛は、トラブルのタネを作り出した政知が悪い。単に後妻への愛情にほだされたのではなく、細川政元と連携する腹があったとしても、それなら茶々丸をきっちり始末しておくべきだった(子殺しで政知の評価がガタ落ちになる可能性は十二分にあるけど)。廃嫡されて幽閉なんてされなければ、茶々丸ももう少しまともな当主になっていたかもしれない。いやそれより、ヘンな野望なんか抱かずに、堀越府に忠誠を尽くしてきた犬懸政憲の諫言を素直に受け入れるべきだった。そして上杉氏も、いつまでもごちゃごちゃやってる場合じゃなかった。よりによって早雲の手引きをするなんて、結果を知ってる人間からするとバカじゃねーか!?とつい言いたくなるものの、とどのつまりは早雲を甘く見ていたんだろうな。さてと、早雲飛躍の第一段階を終えたところで一旦本文を止めまして、2015年も本日でラストとなりました。年末にはそれなりに1年の総括をするのが恒例となってますが、この1年は全体的にあまりいい年ではなかったので、総括を書く気も起こりません。ただ、去年の総括を読むとすでに金光明最勝王経の暗記を始めていたようで、長いお経のために途中ダラケながらもそれなりに頑張ってきたものの、まだあと6ページほど残っているのでひとつの品(章)に1年以上かかっていることになり、般若心経のような短いお経ではなく長文のお経の持経(じきょう:お経の暗記)というのは大変なことなんだな~と実感しております。『今昔物語集』だったか、ある凡僧がいて特段の取り柄もなかったので師僧が法華経の持経をさせてうんたら・・・という話がありましたが、いくらそれだけをやっていたといっても法華経すべての暗記となるとマジ大変だろうと思います。ま、何にせよ弁才天女との付き合いももう1年以上。特段の目的があってお経の暗記を始めた訳ではないものの、やっている中で思いもかけぬオマケもついてきたりして楽しくもあり、1年以上やってると天女への愛着も湧いてくる。少し前の記事でも書いた気がしますが、一般に「弁財天女」と呼ばれ福徳・財運のほとけとしてのイメージが浸透している天女も、金光明最勝王経の中ではおもに弁舌・学徳のほとけとして語られる。わたくしもこうして歴史に関わるブログなぞ書いている手前、天女の御利益におすがりして少しでも血の通った歴史を書き留めていけるよう願いつつ、本年のシメといたします。自分も忙しい中でぼちぼちわたくしのブログを読んでくれているらしい上司に、話がなかなか進まなくてブログネタだけが溜まっていくと言ったところ、「手を広げすぎなんだよ。あれじゃ大変だろ?」と言われましたが、ぶっちゃけ大変です。得るものも大きいですが、そりゃもう大変です(笑)。本文を書くだけじゃなくて、勉強だとか他にもやることが沢山あるし。年が明けてからもしばらくは諸々の事情で忙しくなりそうなので更新頻度も以前のペースにはなかなか戻せないかもしれませんが、仕方のないことなので地道に頑張る所存でございます。それでは今年もつたないブログを読んでいただいてありがとうございました。どなた様もよいお年をお迎えくださいませませにほんブログ村
2015年12月31日

将軍・足利義政が上杉氏を保護し渋川義鏡を堀越府から追放したことで、堀越公方・足利政知の立場はよろしくないものになった。先年死去した堀越府の執事・犬懸上杉教朝の跡は教朝の子・政憲が継いで上杉氏との関係回復に努め、また一連の騒動によって軍備の再補強が御破算になったため、堀越府は周辺の諸氏との結びつきを強めてそれなりの勢力を維持したらしい。それらの勢力を借りて、またもや堀越府を襲撃してきた古河公方陣営をはね返し、すでに応仁の乱が始まっていた京からの援軍が得られない中で一時は足利成氏の本拠・古河を攻めるところまで行ったというから政知も頑張ったじゃねーのと思うものの、関東全体で見ればなんのこたぁない、やっかいな勢力がまたひとつ増えただけだった。さてと、かなり大回りをしましたが、今川家の家督争いに戻ります。 幼い嫡子・龍王丸とその叔父・小鹿範満をそれぞれ擁立するグループによる内紛は、周囲にとってはおいしいチャンス。特に小鹿範満は堀越府執事の犬懸政憲の娘を母に持つという関係もあって、東駿河の国人を味方に付け始めていた堀越公方・政知が介入を目論み、犬懸政憲に兵を付けて駿府へ派遣して小鹿範満擁立へ圧力をかけてきた。さらに、扇谷上杉氏も犬懸政憲への加勢のため、家宰の太田道灌に兵を付けて同じく駿河へ派遣。放っておけば小鹿範満が優勢だっただろうところへ、早雲が登場する。ここでのエピソードが戦国の梟雄としての早雲の華々しい第一歩、的な扱いになる。すなわち、龍王丸不利に危機感を抱いた母の北川殿が兄弟の早雲へSOSを出し、早雲の機略で見事切り抜けたというんだけど、近年の研究では幕府の命を受けて、父の代理として早雲が駿河入りしたというのが有力な説だそうな。ま、確かに前後の状況などを考えると、そちらの説の方が無理がない気はする。調停に乗り出した早雲が出した案は、龍王丸が元服するまでの間、小鹿範満が当主を代行するというものだった。単純な目で見れば、自分の甥にあたる龍王丸の味方に付きつつも武力衝突による内紛の拡大および他家の介入を防ぐための現実的な折衷案を提示した、という感じではあるけれども、現実はそんな単純明快なものではなかったともいう。前回、前当主の今川義忠が応仁の乱で東軍として活動し、遠江国人と戦っていたとしましたが、どうも義忠が戦っていた相手は同じ東軍に属する国人衆だったらしい。早雲の父・伊勢盛定からすれば娘の夫である今川義忠はムコ殿になるけど、幕臣の盛定はムコ殿が戦っていた相手を支持していたらしく、その相手を討ったムコ殿は盛定および幕府からは反逆者という立場になる。そのため、龍王丸は家督相続どころじゃなくなる可能性もあり、母の北川殿とともに一時避難したともいうんだけど、ここに来て幕府が龍王丸擁護の側に回ったのは、堀越公方や上杉氏の駿河への影響力が増すことを幕府が嫌ったからだという説もある。それが真実かどうかはわかりませぬが、室町の歴代将軍は関東にはほとほと手を焼いていたので、さもありなん、という気もするよな。なら、政知や扇谷家がしゃしゃり出てこなければあるいは小鹿範満が家督を継いでいた可能性もあるのかという想像が頭をもたげますが、小鹿範満は犬懸政憲の血をひいているので、結局は同じことだろうな。そして、龍王丸派と小鹿範満派の双方はこの調停案を受け入れ、小鹿範満が今川館に入って一時的に統治をすることになった。そもそもこの調停劇に早雲が登場すること自体を疑問視する向きもあるようだけど、もし早雲がこの場で活躍していなかったら無残に散ってしまうドラマティックなエピソードがもうひとつある。内紛の鎮圧という名目で兵を率いて駿河まで来ていた太田道灌のもとに早雲がやって来て、「いや~、今回のことは単なる家中の私闘で、別に幕府に対して一物あるとかいうワケじゃないんスよ。今、私が説得しているところなんで、もうちょっと待っててもらえませんかね?そりゃもう、頑張ってますから、私。でも、万が一和解させられなかったら・・・その時はもうしょ~がありません。どうぞ武力で鎮圧しちゃってください。だからあと少しだけ待っててちょ」英雄は英雄を知る。近年では早雲の生年は結構遅いという説も出されているようだけど、従来の説では早雲と道灌さんは同い年とされていた。片や扇谷上杉氏の重鎮・・・つか実質上のトップともいうべき活躍ぶりで、片やまだ無名といっていいような「臥龍」の状態。でも道灌さんは静かに早雲の話を受け入れ、事の成り行きを見守った。そして見事調停が成功すると、これまた静かにいさぎよく帰っていった・・・尼子経久と若き毛利元就の出会いよりドラマ度が高いじゃあ~りませんか!!単なる俗説であったとしても、これに関しては俗説の通りであってほしいと願うのはわたくしだけではありますまい・・・さて、この問題が解決すると早雲はとっとと京に戻ってしまったという。いくら現時点では小鹿範満が当主ということになったとはいえ、龍王丸は成人すれば次期当主が確約されており、龍王丸の母方の叔父であり今回の調停の殊勲者である早雲は今川家で重んじられる立場についてもよさそうなのに、そうはならなかった。そして、文明15年(1483)から長享元年(1487)までの間は幕府で申次衆を務めていた。ここの経歴は確かなようだけど、今川家の調停からは少し時期が空いていて、小和田哲男氏はこの間は禅寺で修行していたのではないかと見ておられる。時期についてははっきりしていないものの、京・建仁寺や同じく京の大徳寺で修行していたことがうかがわれる史料があるそうでね。で、申次衆の最後の年になる長享元年。これもまた今川家の家督にからんで駿河へ下向したためのものらしい。そしてこれこそが、早雲の人生を大きく変える転機となる。今川龍王丸の生年は、ウィキによると文明3年(1471)と文明5年(1473)の2つの説があるようだけど、長享元年(1487)時点では、文明3年生まれなら実年齢で16歳、文明5年生まれなら14歳という計算。当時はもちろん「数え」で、単純に1を足せば17歳か15歳ということになる。どちらにしても龍王丸は元服の時期を迎えていたのに、小鹿範満からは当主を譲る気配がなかった。しっかり者の早雲は、以前の調停後に前将軍・義政から龍王丸が家督を相続することの内書を取り付けていたという。つまり「龍王丸が成人したら家督を継承する」という幕府の公認があった。にもかかわらず、なんか家督を譲ってもらえそうもない。そこで、早雲はひそかに駿河に入ってチャンスをうかがい、長享元年11月9日に今川館を襲って小鹿範満を討った。おそらく北川殿からの窮状を訴える報せを受けての行動じゃないかと思うけど、それにしても以前に内紛をうまく丸めた時とはだいぶ趣きが違う。「ちょっと、話が違うじゃないの!」というような折衝などは一切なく、事前通告ナシにいきなり急襲したというのが定説なので、だとすれば元服の時期もとっくに過ぎて家督を譲渡する意思が小鹿範満にないことが確実視された時点で武力行動に出た・・・であれば、龍王丸は文明3年(1471)生まれの17歳だったという可能性の方が高いようにも思われるけど、もちろん武力による内紛を長引かせればまた周囲がしゃしゃり出てくると踏んでの行動でもあっただろう。幕府の御内書という大義名分もあるしね。そしてめでたく龍王丸は元服して当主となり、氏親(うじちか)と名乗った。この氏親の子がおなじみの今川義元。・・・ふっ、だいぶ江戸が近くなってきたぜ。あざやかに今川家の危機を乗り切った早雲は、今度は京に戻らなかった。そして富士山の真南、東駿河の興国寺城を与えられた。広域の地図で見ると興国寺城はこの場所(←Mapfanへのリンク)ですが、ここから東へ東へ、後北条氏の発展が始まる。関東の歴史、特に室町から戦国初期にかけてなかなかわたくしが手を付けられなかった(手を付けたくなかった)のは、事態がどんどん泥沼化していく「風土病」のせいで、鎌倉府設置以降の関東の権力者はみな外から来た「よそ者」だったのに、関東に入るや風土病に侵されてずぶずぶと泥沼に足を取られていったというのがわたくしの印象。しかし、後北条氏だけは風土病に侵されることなく、逆に風土病・・・要するに他家の内紛をうま~く利用して、あざやかに関東を切り取っていった。でも、その風土病に侵されないあざやかさが逆に後北条氏への心証を悪くしている部分もあるような気がする。後北条氏の戦歴なぞすべて書いてたら大変なことになるので、今回の歴バナでは「なれそめ」中心で終わらせますが、早雲の子・氏綱が江戸城に入って以降67年間、江戸城は後北条氏のものだった。 【六十七年とは短くはない。だが、この期間は、江戸城の歴史において、もっとも 短く表現されるか、あるいは記述があっても、もっともおもしろくない。これは いったいなぜなのか。わたしのむかしからの疑問であった。】 (『賤民の場所 江戸の城と川』塩見鮮一郎/河出文庫より)塩見氏はこの本を書く前、小田原に住んでいたそうで、その時は後北条氏が東に発展していくさまを想像していたらしいんだけど、そのあとで東京に引っ越してくると、視点がまるで変わってしまったという。 【しかし、同じ世界を、東京にいて想像すると、後北条の軍馬は、相模川をこえ、 多摩川を渡ってどんどん近付いてくるのである。しかも、ひとつひとつ城を 落としながら、東京湾ぞいと、八王子の側からくるのだ。実にスリリングでおもしろい はずだが、東京にいると、あまりいい気持ではない。この視点のちがいはどうしようも ない。江戸城に関する歴史で、後北条に乗りこまれた時代にはうとましくなるのも 仕方がない。】 (前掲書より)これを読んだ時、ああなるほどね~と納得した。下総に生まれ育ったわたくしは、戦国に興味を持ってから「関東の殿様って後北条になるんだよな」と思って勉強しようと思った。でも、それは続かなかった。感情がついてこなかったのだ。関東は「武者が駆け抜けたという表現がぴったりくる」と前の記事で書きましたが、後北条氏の場合は「席巻」という言葉がぴったりくる。けれど、席巻される側にとっては「侵略」以外の何者でもない。わたくしの両親はどちらもよその土地の者なので、血統的には下総に縁もゆかりもないけど、人は生まれ育った土地の子なんだと思う。だから、下総の子であるわたくしにとっては、関東の風土病に侵されて「よそ者」が「現地人」になった鎌倉公方や上杉氏と違って、風土病に侵されず関東に覇をとなえた後北条氏はやっぱり「侵略者」だと深層意識で捕らえているんだろうな、と塩見氏の文を読んで思った。にほんブログ村
2015年12月28日

さあて、ここからは「新興勢力」の登場です。関東における戦国時代は享徳の乱から始まるという見方もあるようだけど、鎌倉がずっと「副都心」的な存在だったがために、関東では鎌倉幕府の成立以降ずっと「上部権力」に振り回されてきて、特に鎌倉幕府の滅亡以降はたえずドンパチやっているような状態で、関東の場合は「ここから戦国時代」なんて区分けができないんじゃないかというのがわたくしの率直な感想ですが、ここで初めて「上部権力」からほぼ卒業した勢力が出来上がります。それが、後北条氏。まずは、北条早雲。「梟雄」として名高い彼は、かつては一介の素浪人から戦国大名にのし上がった下剋上の典型として語られていましたが、近年の研究では名族の伊勢氏の出で、素浪人どころか将軍に近侍し幕府申次なども務めた立派な経歴を持つ人だということが判明したそうな。ま、早雲自身は「北条」を名乗ってはいないし「早雲」ものちの号ではありますが、ここでは(めんどくさいので)「北条早雲」で通します。早雲は備中の生まれだそうだけど、姉妹が駿河守護の今川義忠に嫁いだ関係で今川氏との縁が深い。この姉妹は「北川殿」と呼ばれ、早雲が素浪人だと見られていた頃は側室だろうとされていたものの、近年では正室だろうと推測されておるそうな。成長した早雲が歴史に登場するのは、足利義視(よしみ)の近士という立場。義視は6代将軍・義教を父に持ち、7代将軍・義勝と8代将軍の「東山殿」義政を兄弟に持つ。義視は幼い頃から僧として育つも、将軍・義政が子に恵まれなかったため、僧侶から還俗して次期将軍として迎えられた人だったが、のち義政の正室・日野富子に男子が生まれたためビミョ~な立場となり、この将軍継嗣問題が応仁の乱の一因ともなる。そして畠山政長が京・上御霊社において挙兵すると義視は伊勢に避難し、早雲も義視の供をして伊勢に行っている。その翌年、義視は京に戻るがその中に早雲の姿はなかった。早雲が義視に従って京へ行かなかった理由は不明のようだけど、小和田哲男氏はこの頃、北川殿から駿河へ来ないかという誘いを受けていたのではないかと推測しておられる。早雲が駿河へ行ったことは間違いないものの、その具体的な時期が不明で、仮に義視から離れてプータローになって間もなく下向したんだとしても、駿河での早雲の具体的な動向は当面は現れない。ところが文明8年(1476)、今川家当主の義忠が急死する。今川義忠は応仁の乱では東軍として活動していたようで、ちょいちょい遠江に出兵していたらしい。で、この時も遠江の国人を討って凱旋したのに、討った国人の残党に帰国途上に襲われてあえない最期を遂げた。今川義忠と北川殿の間には男子・龍王丸(たつおうまる)が生まれていた。が、龍王丸はまだ3歳かもしくは5歳という幼児で、戦火が全国的に広がる中で幼い龍王丸を当主に据えることに不安な空気が家中に広がり、義忠のいとこにあたる小鹿範満(おしか・のりみつ)を当主に立てようとする家臣も現れた。これが単なる今川家内での家督争いというんならわたくしもラクなんですが、すぐ東の関東ではここまで見てきたように諸家入り乱れての泥沼合戦が続いており、ゆえにここにも関東の面々が乗り出してくる。 かなり大ざっぱな関係図ですが、小鹿範満の母は犬懸上杉氏の政憲。犬懸政憲は足利政知(まさとも)の執事を務めた方でね。今回の歴バナは「点描」を念頭に置いているので、ものすごく複雑なところは簡単な説明だけでスルーしようと思って一旦はそういう文章を書くものの、流れを説明する上でどうしても省けない部分もあり、また戻っては書き直すということを繰り返しておるのですが、ここでもまた足利政知に戻ってしまいます。関東の歴史はエリア全体で動いているために総じて複雑ですが、鎌倉幕府の滅亡後は複雑さが加速しており、鎌倉公方がどんどんおかしな方向へ行くに従って混迷度を増殖させております。特に永享の乱以降はその度合いがひどくて、限りなく透明度の低い泥沼、もしくは日本一汚い沼として有名だったかつての手賀沼のようにヘドロが溜まりまくった水面下ではさらに元気な藻がこんがらがっているようなもんです。で~え、堀越公方・まさとも。政知は幕府から公認された正式な「鎌倉公方」で、京から下向する際には「執事」を2名連れてきた。そのうちの1人が犬懸政憲の父・教朝(のりとも)。結果的には政知は鎌倉に入れず伊豆止まりのままだったので「堀越公方」とされるものの、当然ハナから堀越に落ちつくつもりだった訳じゃない。本当は鎌倉に入って、時の将軍家に血の近いあらたな血統の「鎌倉公方」を再スタートさせるハズだった。そういう政知を補佐する「執事」は、これまたあらたに公認された「関東管領」だった。政知さんという人は可哀想っちゃ~可哀想な人で、「新・鎌倉公方」として「旧・鎌倉公方」の足利成氏を討つ大仕事もあった。これは政知単独での任務ではなく、幕府からは関東周辺の諸氏にも動員命令が出ており、彼等と協同して成氏包囲網で一気にカタをつけるハズが、まず強大な軍事力を持つ斯波氏が氏族内の内紛にかかずらわっていて包囲網に参加できず、大幅な戦力減で第一段階敗退。ただ、一般的に「古河公方・成氏の勢力が強大だったため政知は鎌倉に入れずまず伊豆の国清寺に入った」と言われるものの、政知が関東に来た頃にはまだ駿河の今川範忠が鎌倉を押さえたままだったし、相模に地盤を持つ上杉氏は幕府ともつながっていたので、何で政知が鎌倉に入れなかったのかがどうもよくわからないんだけど、鎌倉に入っていれば政知は「鎌倉公方」と呼ばれていたハズなので、鎌倉というゴールにたどり着けなかったことは事実なのだろう。そして政知が伊豆に来て2年ほどすると、鎌倉にいた今川範忠が駿河へ戻る。本来であれば、政知を鎌倉に迎え入れるまで今川範忠は頑張るべきところだろうけど、新・鎌倉公方の誕生を果たさないままなぜか帰国。帰国の翌年には子の義忠に家督を譲ってまもなく死去しているようなので、体調が思わしくなかったのか、あるいは斯波氏の内紛の影響が駿河にも及んでいたともいうので、政治的な理由によるものか。なんにせよ、今川範忠の帰国によって防衛ラインが少し緩んだところで古河公方陣営が政知のいる国清寺を攻撃してきたので、もう少し西に拠点を移し、ここが堀越御所と呼ばれる。ええと、近年世界遺産にもなった韮山反射炉から結構近い場所のようですね。(伝・堀越御所の場所はこちら)古河公方のおもな勢力範囲はかつての利根川を挟んで関東の東半分だったから、陸路なら伊豆の政知を攻撃するには相模・武蔵に強い地盤を持っていた上杉氏の領地を突破しなきゃならないと思うんだけど、房総半島から海路で攻めたのか?あるいは、今川範忠が家督を相続する際も当時の鎌倉公方・持氏に与する国人が蜂起したというから、鎌倉公方の駿河への影響力もあなどれないもので、伊豆周辺の公方勢力が国清寺を攻めたのかもしれないな。古河公方・成氏の討伐と関東の安定統治というミッションを背負って下向したのに、予定していた戦力は整わなくて戦に負けるし、住んでた寺は焼き討ちされるし、つい「ミッション・インポッシブル」のテーマソングなんか歌っちゃうような展開に至って政知は幕府へ使いを出す。幕府としても放置しておく訳にもいかないので、再度斯波氏の兵の派遣を検討し、この時あの朝倉氏からも兵が出されたというからオドロキ。軍備補強でやっと新・鎌倉公方の誕生か!?と思いきや、 【しかし、政知が斯波軍の兵力を背景に鎌倉へ移ろうとすると8月22日に義政に 制止された。これは幕府が関東の幕府方勢力である上杉氏と堀越府が結びつき、 堀越府の自立することを恐れて幕府の統制下で繋ぎ止めようとしたからであり、 軍事指揮権も政知ではなく幕府が掌握、政知の頭越しに関東諸侯に命令していたため 政知に実権は全く無かった。】 (ウィキペディアより)・・・読んでるわたくしも、他人事ながら「なんだと!?ふっざけんなよ、テメー!!」と憤慨したし、当の政知はもっとやるせない気持ちでいっぱいだっただろう。関東の歴史がごちゃごちゃになるのは一種の風土病のようなものかもしれん、とわたくしは思うのですが、政知が新・鎌倉公方になりそこねて堀越公方として関東の辺縁で日を過ごすうち、堀越府もじわじわと風土病に侵されて独自の動きを始める。政知が下向して3年後の寛正2年(1461)、共に下向してきた執事の犬懸上杉教朝が死去。享年53歳。死因は病死とも自害ともいわれるが、教朝の死の翌年には政知が扇谷上杉氏当主・持朝(もちとも)の謀叛を幕府に報告しており、扇谷家宰の太田資清(道灌の父)は隠居、さらに扇谷家の重鎮数名も隠遁している。もともと上杉氏は憲顕以降、幕府とも関係を持っていた。ので、幕府もすぐに政知の注進を信じた訳ではなく、まずは政知に扇谷持朝の保護を命じたという。ところが、政知は扇谷持朝から相模守護職を奪い取った。これ以前から、政知の家臣が相模国人の所領に勝手に入り込むというような事態も起こっているので、堀越府が自力で関東をもぎ取ろうと独自の動きを始めたのかもしれない。上杉氏内では、当然堀越府の行動が問題視された。鎌倉には入れなくても、政知はいちおう幕府から公認された新・鎌倉公方予定者だったし、犬懸教朝のように政知を補佐する者もいたので、両者は協調関係にあったと思われるが、すでに現時点で関東はほとんどコントロールのきかない状態なのに、このうえ上杉氏が堀越府・・・ひいては幕府からも離れるようなことにでもなれば、完全に手のつけられない危険な状態に陥ってしまう。こうした経緯を見るにつけ、将軍・義政が東山山荘(銀閣寺)で自分の世界に没頭したくなったのもわかる気がするわ~とつくづく思いますが、とりあえずこの時は関東の危機に際して義政みずから調停に乗り出し、扇谷家の地位を安堵し上杉氏をつなぎ留めることに尽力した。その一方で、扇谷教朝とともに政知を補佐していたもう1人の執事・渋川義鏡(よしかね)を堀越府から追放した。こうした流れから、一連の出来事は渋川義鏡の讒言によるものと世間では推測される。だから、扇谷教朝の死はそれと関連する自害であった可能性が高い。にほんブログ村
2015年12月25日

さてね、山内上杉憲実が子に家督および関東管領職を継がせようとしなかったのに、享徳の乱で結果的に憲忠が殺されるハメになったのは、家宰の長尾景仲が憲忠を担ぎ出したからだった。江ノ島合戦の時も、鎌倉公方の御所を襲撃したのは山内上杉の長尾景仲と扇谷(おうぎがやつ)上杉の太田資清だった。つまりこの頃、各上杉氏の中でもそれぞれの家宰がかなりの力を持っていたらしい。戦国時代から日本史に入ったわたくしとしては、上杉といえば春日山城のある越後であり、関ヶ原後に押し込められた米沢のイメージが強い。結構最近になって上州も上杉の領地だったことを知って、なるほど、謙信の執拗なまでの関東攻めはそういう足掛かりがあったからなんだなと納得をしましたが、謙信よりほんのちょっと前までの上杉氏は越・上なんて辺鄙な土地ではなく、関東平野のど真ん中を我が物顔に闊歩する関東の王者だった。もちろん、名目的には関東のトップは鎌倉公方だけどね。ここまで書いてきたように、頼朝以降、鎌倉は武家の聖地的扱いであり、実質的な関東の支配にあたっては特に相模と武蔵を押さえることが重要で、上杉憲顕以降、上杉氏が関東管領を独占するようになってはじめのうちは山内と犬懸(いぬかけ)が交互に関東管領を継ぎ、あわせて武蔵守護も兼帯した。そのほか、山内は上野・伊豆・越後守護を、犬懸は上総守護を相伝した。守護職以外にも各上杉家ではひろく関東のあちこちに所領を持ってはいたが、おもに南関東を陣取っていたものとイメージください。扇谷家は当初は山内家の家宰の長尾氏にすら遠く及ばなかったともいうものの、申し分のない実力者の山内憲実がガンとして身を引いたため、憲実の弟・清方が憲実親子の穴を埋めたものの、まだ若く経験不足に見えたので清方のサポートにつく形で扇谷家の発展も始まる。扇谷家の家宰は、太田氏。太田氏は信憑性の高い系図がほとんどないらしく、ゆえに系図詐称の疑いはあるものの、平賀義信とともに頼朝に優遇された源広綱の子孫にあたるという。広綱は何を思ったか突然出奔したという人で、伝承によると広綱の子が朝廷に仕え、のち丹波に所領をもらってその子孫が関東に移住してきたって流れのようで、上杉氏も丹波から関東へ移住してきた氏族だから、その当時から上杉氏と太田氏に主従関係があったかはわからないものの、まあ上杉重房あたりの下向に伴って太田氏も関東に土着したものと思われる。で、山内憲忠が殺されて「古河公方」が誕生したあたりまで話を戻しますが、この頃、扇谷の太田資清は子に家督を譲った。その子が太田氏でもっとも有名となる太田資長(すけなが)・・・戦国ファンの中には「三楽のが有名じゃん!!」て方もおるかもしれませんが、歴史に興味のない人にも「太田道灌」の名(だけ)を知る人は多いでしょう。ま、家督を譲られたといってもまだオヤジもバリバリの壮年だったので、資清&資長で親子鷹のよーに果敢に現実に立ち向かう。山内憲忠が殺されたあと、公方の足利持氏みずから出陣して上杉氏を苦しめたあたりを前回書きましたが、この戦いの中で扇谷当主・顕房も討ち死にしてしまう。のでマジモードはさらにエスカレートし、成氏が古河に拠点を置いてからは利根川をはさんで東(おもに下野・常陸・下総・上総・安房)の古河公方陣営、西(おもに上野・武蔵・相模・伊豆あたり)の堀越公方&関東管領陣営と真っ二つに割れることになった。もちろん、ここでいう利根川の流れは現在とはまったく違うものです。それで、川向こうの古河公方陣営に対抗するため、太田の親子鷹は川に近い要所に3つの城を築くことになった。それが河越・岩槻・江戸の各城で、資長はそれまでは品川あたりに居を構えていたらしいが、あらたに城を整備するに至って江戸城に移ったそうな。もっとも、3つの城のうち岩槻は近年になって古河公方方の忍城主・成田氏による築城だということが有力視されているようだけど、いずれにせよ古河公方方との全面戦争に際して前線基地を利根川に近い場所に置き、それまで相模を中心として活動していた扇谷家が武蔵に進出する足がかりを作ったことに変わりはない。そして長い戦いの中で資長は出家し「道灌」となるのでもうここからは道灌さんとしますが、道灌さんはあっちに行きーのこっち来ーので獅子奮迅の大活躍をしている。その中で、実は柏にも来ていましてね。単なる来訪ではなく、この享徳の乱にからむものです。 【酒井根合戦場 現在は光ヶ丘地区となっていますが、このあたり一帯は「酒井根合戦場」といわれ、 ここにあるような小塚が数十もありました。酒井根原合戦場と言われているのは、穀倉地帯で ある下総国を求めて太田道灌と千葉孝胤が一戦をかわしたところからこういわれています。 この戦いの最も激戦の地は、現在の麗澤大学の前(小字赤作)あたりとされています。 当時の模様は、松戸市小金の本土寺の過去帳に「文明15年(1478)12月10日 於境根原打死諸人等皆己成仏云々」とあり、また鎌倉大草紙に「太田道灌は、国府台より はせ向かい、合戦終日、木内、原(千葉勢)ことごとく討ち死にし、千葉孝胤は臼井城に 退いた」とあります。戦いに勝った太田道灌は、戦死した者の霊を弔うため、敵、味方の 区別なく首、武具をそれぞれより分け、首塚、胴塚、刀塚としたと伝えられています。 その一部と伝えられている塚がここに保存されています。地名の「酒井根」は、ちょうど このあたりが相馬郡と葛飾郡の境だったことから「境根」と呼ばれたそうです。また、 合戦に勝った太田道灌が乾いたノドを酒井根薬師堂近くの井戸の水でうるおし、まるで 酒のようにうまかったので以後「酒井根」に変わったなどの言い伝えが残っています。 また、平成11年、12年度の団地建て替えに伴う財団法人千葉県文化財センターの発掘調査 によって中近世と思われる道路状遺構、溝状遺構、土抗などの遺構や常滑・渥美産の陶器、 宝篋印塔、板碑、銭貨などの遺物が確認され、交通路あるいは墓地に利用されていたことが 明らかになりました。 このように本地域と歴史上の太田道灌とのつながりは深いものが見られます。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)「ここにあるような小塚」の写真がないのでとりあえず解説板にある小塚の測量図だけ載せておきますが、 ホントにちっさくて地味な塚。この塚があるのは、かつてはホントに昭和の団地~ってカンジの場所で今ではそれが大きくて近代的な建物に建て替えられたので、住民でも最近住み始めた人の中にはここが古戦場だったなんて知らない人もおるんじゃないかと思いますが、わたくしの知り合いがここの近くの小学校卒でしてね。彼が小学校在籍中、付近の古老が昔話にやってきたことがあったそうで、この小塚のある場所から南東にある坂が激戦地だったので坂の下は討ち死にした兵たちの血で真っ赤に染まった・・・なんて話を聞かされたらしい。この坂は解説にある麗澤大学の前とは違う場所のことだと思うんだけど、解説にある激戦地の小字は「赤作」だとあるから、これも流れた血を連想させる字名ではあるよな。ちなみに、道灌さんが出陣した理由は「穀倉地帯の取り合い」なんて単純なものではなく、長く続いた享徳の乱の1ページ、千葉氏の跡目争いによるもの。古河公方と対立したといっても、道灌さんは乱の鎮静化に努めたらしく、最終的には古河公方と幕府の和解が成立して(=都鄙合体)長い享徳の乱が終焉を迎えるんだけど、個人的都合から都鄙が合体されては困る者もいた。その1人が酒井根で対戦相手となった千葉孝胤で、要するに乱を終結に導くために道灌さんが柏にお出ましになったということらしい。千葉氏はその名の通り千葉県の氏族だから、道灌さんはよそから来た攻撃者ということになるけど、柏には酒井根以外にもずばり「道灌」の名を冠する小字が9つもあるそうで、意外にもよそ者の道灌さんに対し好意的に受けとめているらしい。道灌さんといえば足軽の創始者のように言われたりもするけど、実際にはもっと以前から足軽は活躍し始めていたらしい。それでも道灌=足軽軍法みたいに言われたりするのは、それだけ縦横無尽に活躍したヒーロー的存在だったということかもしれない。しかし、目立つ活躍をする家臣を持ってそれに心から感謝するには、その主君は相当「できた人」でなければならない。あいにく、道灌さん晩年の主君である扇谷定正は「できた人」ではなかったので、道灌さんを糟屋の館に招き、家臣に命じて風呂から上がった道灌さんを斬り殺させてしまった。享年54歳。扇谷定正が忠実な家臣を殺してしまった理由については諸説ある。もっとも有名なのが山内家の陰謀によるというもので、道灌さんの大活躍によって存在感を増した扇谷家に危機感を持った山内顕定が扇谷定正にあることないこと吹き込んで殺させたとか、他にも自分の力におごった道灌を扇谷定正が誅伐したという説などもある。そして、斬られた道灌さんも「当方滅亡!!」というナゾの言葉を残したとされる。この言葉についても色んな解析がなされているようだけど、いずれにせよ「ワシがいなくても、扇谷家は永遠に不滅ですっっ!!」て祝福した言葉でないことに間違いはない。有名な「太田道灌状」では、頑張った家臣に対して正当な評価がなされていないと一種の不満を表明しているようなので、あるいは扇谷定正から見て我慢のならない粗暴な振る舞いなんかも時にはあったのかもしれない。それでも、これは時期が悪かった。同じ上杉氏でも山内家と比較にならないほどの小勢力だった扇谷家はかつて「小さな鳥」と笑われていたそうで、それを山内家と肩を並べるほどの勢力に育て上げたのが道灌さんだったのに、その家臣を無残に殺したことで扇谷定正の人望はガタ落ちとなり、扇谷家を出て山内家に走る者が続出したという。すぐ近くでは虎視眈々と付け入るスキを狙う者がいたのに、大勢を見ることができずに小事にこだわってみずからスキを作り出した。ここから扇谷家のみならず、上杉氏全体の凋落が始まる。にほんブログ村
2015年12月23日

江ノ島合戦の際には鎌倉公方・成氏方についた上杉氏もいたようで、江ノ島合戦は上杉氏の総意ではなく山内・扇谷の家宰が勝手な行動を起こしたものだと見る向きもあるようだけど、それは裏を返せば成氏から見て陪臣である者たちがかなりの力を付けていたとも言えると思う。成氏は合戦の引き金を引いた長尾・太田両氏の処分を幕府に求めたが、結局彼らに明確な処分が下されることはなく、幕府からは関東の諸氏たちへ成氏に従うよう訓告が下されるという程度にとどまり、上杉憲実とその子の憲忠には鎌倉への帰参命令が下った。憲忠は江ノ島合戦における自分の家臣たちの画策には関与しておらず、それどころか初めは上杉の者が成氏を襲撃したことを知らなかったので成氏への加勢を出したという。その後、現実を知ってから家臣の責任を取るような形で鎌倉を出ていたらしくてね。憲実にはまたもや関東管領への復帰命令が出たようだけど、もはや憲実がこれに応じることはなかった。して、成氏が鎌倉に戻ってしばらくすると憲忠も復帰する。当時のシステムとして、鎌倉公方といえど単独で幕府への申し入れはできず、関東管領の副状がセットでないと取り合ってもらえなかったようで、特に江ノ島合戦の2年後に幕府の管領となった細川勝元はその点厳しかったともいい、成氏にしたら苦々しい思いでいっぱいだったかもしれない。そして享徳3年(1454)12月27日、あらたな火ぶたが切って落とされた。長尾景仲が鎌倉を留守にしたスキを狙った成氏は鎌倉の御所に憲忠を招き、家臣に命じて憲忠を殺してしまったのだ。享年22歳。成氏が憲忠を殺した理由については、諸説ある。中には政治的な理由だとする推測もあるようだけど、父(持氏)の仇という怨恨がまったく含まれていなかったというのはかなり無理がある気がするし、大方は怨恨に加えて何らかの理由があったという推測をしている。さて、上杉憲実を少し書こうと思っているうちに結局鎌倉公方がらみの代表的な乱をおおむね追う形になってしまいましたが、憲実は前回憲忠を義絶して以降、ふっつりと記録から姿を消すらしい。まあ、江ノ島合戦後に幕府が関東管領復帰を要請したというからその頃はまだ関東付近にはいたのかもしれない。が、次に姿を現すのが宝徳4年(1452)で江ノ島合戦の2年後。場所は関東ではなく、本州の西の果て、山口。大内義隆は本ブログでもおなじみですが、その義隆の最期の地となった長門大寧寺に入ったらしい。「歴史の町山口を甦らせる会」様のサイト「大内文化まちづくり」によると、憲実は師を求めてあちこちさまよい、もし国内に師となるべき人物がいなければ海を渡って大陸まで行こうとしていたらしい。が、ギリ大寧寺で竹居正猷(ちっきょしょうゆう)という禅僧に出会い、国内にとどまった。この頃の大内家当主は教弘で、憲実が大寧寺に入る前年には遣明船に参加し、翌年にはずっと交易を続けていた朝鮮から通信符をもらっていて、大内氏の黄金期の入口にさしかかったところ。大寧寺は山口市の中心部からはだいぶ離れたところにあるけど、憲実は「西の京」山口にようやく安住の地を見つけたのだ。けど、憲忠が殺されたのは享徳3年(1454)で、憲実が大寧寺に入ったとされる2年後のこと。『鎌倉大草紙』では、教弘が関東管領を務めた憲実の実績および上杉憲顕以降関東管領を独占した上杉氏の家格を利用しようという狙いを持って憲実を積極的に招いたとしている。それが事実かはわからないけど、仮に教弘がそういう意図を持っていたところで、ここまでの経緯では憲実が政治に疲れ果てて出家の道を選んだように思えるので、政治がらみの理由があったのだとしたらむしろ憲実は教弘の招きに応じなかったんじゃないかという気もする。憲実が政治に疲れ果てたというのは単なるわたくしの印象ですが、自分だけが出家したのではなく、子も出家させた上に還俗するなと言い、さらには政界デビューをした憲忠を義絶してるんだからね。関東管領は鎌倉公方を補佐しつつ、将軍とのパイプも持つという2人の高貴な主人を持ってるような立場だった。上杉氏の中でも惣領的立場であり、多くの関東管領を輩出した山内家の当主である憲実が自分1人の引退・出家にとどまらず、子にも山内当主を継がせようとしなかったことはどう見ても尋常じゃない。だからこそ、「上部権力」に深く関わる政治にほとほと嫌気がさしたんじゃないかとわたくしは思ったのですが、実は憲実が師とあおいだ竹居正猷の弟子の中には足利学校で学んだ者もおったそうな。さらに竹居正猷も儒学で高名な方だったようで、その縁で「ちっと大寧寺に行ってみっか~」って流れだったのかもしれない。それでも、大寧寺は大内家の保護も受けており、憲実ほどの(もと)将が領国内の寺に入ったと聞いて教弘が放置するハズもなく、現に大寧寺に入った憲実と教弘は直接の交流もあったようで、憲忠が足利成氏に殺されたというニュースは大内家を通じて憲実にももたらされただろう。それを聞いた憲実はどう思ったのか・・・「だから、ワシがあれほど言ったのに・・・」だったのか、あるいは持氏の死の状況を思い出して、人間の業の深さにまた古傷がうずき出したか・・・それはわからない。大寧寺のホームページによると、大寧寺で憲実が構えた庵は「槎留軒(さりゅうけん)」といい、この庵名は「いかだをしばらく留める」という意味なんだそうな。上の方の文章ではギリ国内にとどまったとしましたが、憲実はあるいはハナから日本脱出を考えていたのかもしれない。別の見方をすれば、渡航のチャンスをうかがう者にとって大内家のお膝元は幸運に恵まれるチャンスが他のどこよりも多い。だとすれば、教弘の招きに応じたというよりも自ら積極的に山口を選び、縁のある大寧寺に入って「いかだをしばらく留め」て渡航のチャンスを待つつもりだった可能性もある。しかし、憲実が日本を出ることはなく、死ぬまで大寧寺で僧として過ごした。場合によっては糸の切れたタコのようにふわふわとどこまでも飛んでいってしまったかもしれないのに、いかだを留めたままで文字通り大寧寺に骨をうずめた。憲実を引きとめたものが憲忠の死による衝撃だったのか、あるいは竹居正猷に心服して本当の安住の地を得たからなのか、はたまた別の理由によるものなのか、それはわからない。だけど、関東と山口の距離はそのまま憲実の心の傷の深さを表しているんじゃないかとわたくしは思った。だから、竹居正猷の下に安住の地を見つけて心穏やかに過ごせたという方であってほしいと願う。で、戦乱続きの関東の話に戻りますが、憲忠を殺されて上杉氏が黙っているハズがない。鎌倉に戻ってきた山内の長尾景仲は憤慨して幕府へ事の次第を知らせ、兵を集めて成氏方と戦うものの緒戦は敗退続きだったようで、自ら出陣した成氏に追われ続ける。が、成氏が鎌倉を留守にしている間に、幕府から命を受けた今川氏が鎌倉を制圧するなどの動きがあり、成氏は鎌倉に戻れなくなって下総の古河に入り、あらたな本拠地とした。 系図で成氏が「古河公方」となっているのはこのためで、成氏は臨終の際に遺言として「鎌倉を何としても取り返せ・・・それがワシへの何よりの手向けじゃ」と子に言い置いているものの、成氏の子孫がその後鎌倉に復帰することはなかった。上杉憲忠謀殺事件が発端となった戦乱は「享徳の乱」と呼ばれる。これは28年にも及ぶもので、ここでは逐一経過などは書きませんが、上杉一族VS.古河公方という単純な争いにとどまらず色々な戦いを引き起こし、諸問題が噴出してどんどこ泥沼化していった。泥沼を一言で片付けますと、上杉VS.古河公方、山内上杉VS.扇谷上杉、上杉VS.家宰などと実にバリエーションのあるもので、山内家の家宰の座をめぐる「長尾景春の乱」が起きた時などははじめ長尾景春が古河公方と結んでいたものが、のちに上杉の当主が古河公方と和睦する。その合間には、6代将軍・義教の子で8代将軍・義政の異母兄にあたる足利政知(まさとも)が新しい鎌倉公方となるべく、幕府の命で下向する。しかし、政知は鎌倉に入ることはできず、伊豆で足止めとなる。これが系図にある「堀越公方」で、成氏はこれをも攻撃する。そうこうするうち京では応仁の乱が勃発して、幕府はもう関東に派兵するどころじゃなくなる。複数の権力がくっついたり離れたりえんえんと繰り返すさまは、まさに「いつか来た道」・・・そうこうしているうちに応仁の乱も始まり、戦国時代に突入する。関東でも家臣が主君に反逆し、主君が忠実な家臣を殺したりのせめぎ合いのスキに新興勢力がじわじわと関東を侵し始める。鎌倉公方から古河公方に至る「公方」たちは、たいがいロクな評価をされない。未公開の取手編では、戦国期の企画展を観に行きましたが、最後の古河公方・義氏が子を遺さず亡くなったという紹介文では 【何の功績も名前も残さない名門でしたが、これ以上の戦乱の元を残すことだけは なかったようです。】と酷評していて、埋蔵文化財センターがこんなこと書いちゃっていいのか!?と驚きましたが、実際の流れを見るとそれもやむなしかなと思う。大きな歴史の流れというのは止めようもないから、最終的には同じ結果になったのかもしれないけど、鎌倉公方の面々がその時々で冷静な判断と対応をしていたならこれだけの数の戦いは起こらず、上杉憲実のような選択をする者もいなかったかもしれない。けれど、関東は伝統的に簡単に治められるようなエリアではなかった。鎌倉公方および古河公方の権威はどんどん失墜していったから、「公方」が「家臣」レベルに低下して公方・山内上杉・扇谷上杉の3つの「家臣レベル」の勢力ができたという見方もあると思うけど、わたくしはそれよりも「上部権力」が3つに分裂したと言った方がいいんじゃないかとも思う。「上部権力」に反発しつつも、「上部権力」をいつまでも求め続けていた、鎌倉期から新興勢力に席捲されるまでの関東とはそういうものだったんじゃないかとなんとなく感じました。にほんブログ村
2015年12月18日

上杉憲実は、永享の乱だけではなく、金沢文庫や足利学校を再興させた人としても有名な方。ウィキペディアのブラックユーモア版ともいうべきアンサイクロペディアでは、 【上杉憲実とは、室町時代に活躍した、足利学校の先生である。学識に富んだ人物 だったが、一番の教え子である足利持氏の教育に失敗してしまったので、 模範的な教師としては及第点に及んでいない。 】としている。「足利学校の先生」というのはもちろん冗談だけど、憲実の正確な生年は不明のようであるも、鎌倉4代公方・持氏よりは年下らしく、 【応永25年(1418年)には関東管領の憲基が急死し、幼少であった憲実が後任に 就任すると若年の鎌倉公方を更に幼い関東管領が補佐するという事態が発生する。 そのため、本来は上位者である鎌倉公方の命令を伝えるために関東管領が作成する 施行状を作成することが出来ず、持氏本人が憲実の代理で施行状を作成するという事態が 応永31年(1424年)まで続いている。】 (ウィキペディアより)という笑える現象もあったらしい。んで前回の続きですが、足利持氏の死後、将軍・義教は自分の子を鎌倉公方としてあらたに鎌倉府を再建しようと画策するが、これは上杉氏などの反対にあったという。憲実はなにも持氏を討てという義教の命令に「合点承知のすけ!!」とホイホイ従った訳ではなく、なんとかならないかと固辞しているうちにうたぐり深い義教が「まだ持氏に未練があんのかよ?まさかワシを裏切ろうってんじゃ・・・」っておかしな方向へ進みそうになったので、やむなく持氏を攻めたという。そして乱後に弟を呼び寄せ、自分の子が成人するまでの名代として弟に関東管領を譲ったと『永享記』ではいうものの、ウィキでは関東管領職の委譲は幕府が認めなかったとしている。いずれにせよ、憲実は身を引き、出家した。その後、持氏の墓前に詣でて焼香し、涙を流しながら「このたびは讒者のために君のお怒りを買い、思いがけず御敵となってしまいました。しかし、決して心中に不義があった訳ではございませぬ・・・どうぞ、御照覧あれ!!」とぱっと脇差を引きぬいて左脇腹に突き立てた。後ろに控えていた憲実の家臣たちは主人の突飛な行動に仰天して「ぎゃああああ、殿!!なにやっちゃってるんですかあああ~~!!」と急いで脇差を取り上げ、館に連れて帰って看病したのでどうにか回復したという。その後憲実は伊豆に引きこもって隠棲した。ところで、持氏の遺児が数名生き残っていたようで、結城氏が2人の遺児たちを奉じて幕府に対し反乱を起こした(結城合戦)。これはあちこちに飛び火し、 前回は省きましたが、持氏の叔父で稲村公方の満貞も永享の乱で持氏とともに自害している。が、篠川公方・満直の方は前回義教に持氏討伐を命じられてましたね。篠川公方・稲村公方はともに奥州対策のための鎌倉府の出先機関のようなもので、鎌倉公方の一族でもあるし心を一つにしていたのかと思いきや、満直は色々あった末に義教と誼を通じるようになっていったようで、それゆえに永享の乱では幕府の命に従って持氏の敵に回った。そういう人だったので、結城合戦が起こると満直の篠川御所も奥州南部の諸氏に攻められ、満直は自害に追い込まれる。『永享記』によると、上州で評議が行われ鎌倉方は蜂起軍討伐の軍を募ったが、どちらが有利とも判断がつかず日和見を決め込む者が多かったのでなかなか軍勢が集まらなかったという。それでも、反乱軍を放置しておく訳にもいかなかったので手勢だけで出陣したところ、ぼちぼち兵も集まり出してそれなりの数になったので、寄せ手の数を見て城に籠っていた結城方は再起を約して一旦は落ちていった。鎌倉方では越後上杉や犬懸上杉などが軍勢を集めていたが、幕府からは伊豆で引きこもっていた憲実のもとにも再三の出撃命令が届いており、憲実もついに重い腰を上げて出陣した。鎌倉方には東海道の諸国および信濃・上野・武蔵・越後からも軍勢が集まり、あれこれの攻防の末、結城方は敗北した。首実検の際には、つい昨日まで仲間だった者たちの変わり果てた姿を見て大名小名僧俗貴賎問わず涙を流したそうな。そして、打ち取った首のうち大将格の29の首は、捕らえられて輿で護送される持氏の遺児たちに添えて京へ送られた。が、2人の遺児が生きて京に入ることはなく、途中の美濃垂井で義教の命によって殺された。ここまでが結城合戦。乱の終結後、憲実はまた隠遁する。『永享記』では、2人の子を連れ、三男坊だけを伊豆に置いてきぼりにして諸国漫遊・・・いや、修行の旅に出たという。結城合戦の勝利の2ヶ月後、将軍・義教が赤松邸に御成の最中に殺される「嘉吉の乱」が起こる。赤松邸に招かれた口実の一つは「結城合戦の慰労」だったそうな。この時、大内家当主の持世も巻き添え食って後日死亡したことは過去の記事でも何度か触れてますが、大内氏と上杉憲実の関わりはこの件じゃありません。永享の乱での憲実の行動は、持氏に対する不忠の思いから出たものではなかった。でも義教の圧力に屈して、直属の上司である持氏に刃を向けることになったので、憲実は不忠のそしりを受けることを恐れていたともいう。赤松氏の場合は、義教の恐怖政治に追いつめられての行動で、赤松氏がやらなくてもいずれ誰かが同じようなことをした可能性はあるとは思う。ま、どちらも「やむなし」の感はあるものの、理由はどうあれ主君、それも仮にも「公方」を名乗る持氏と義教がほぼ同じ頃に家臣によって殺されたことは、次の時代を予感させる象徴的な出来事ともいえるだろう。さて、鎌倉府は持氏の死によって一旦滅びたものの、幕府は関東に統括者を置くというこれまでの路線は変えなかった。そこで、上杉憲実に再び関東管領に復帰するよう命じるが、憲実はこれを固く拒否。どころか、1人を除いて子供達も出家させ、「絶対に還俗すんじゃねーぞ!!」と厳命したというから徹底している上の方の文章で、永享の乱のあと憲実が弟に職を譲ったと書きましたが、憲実親子が出家して身を引いてしまったことで、結局幕府も憲実の弟の関東管領職を認めざるを得なかったという。しかし、その弟が亡くなってしまうと、山内上杉当主の座と関東管領がカラになる。それでも憲実は初志貫徹で自分の子に跡を継がせることはせず、なんと血縁の佐竹氏に継がせようとしたというからどんだけ・・・まあな、持氏を殺しただけでも深い心の傷になっただろうに、さらには結城合戦で持氏の子まで攻めるハメになった。憲実に対して幕府は相当御執心のようだから、文武のバランスの取れた有能な将ではあったんでしょうけど、鎌倉経営のナンバー2であり、実務においてはトップだったであろう関東管領をこなした憲実にしてこれだから、過酷な状況ではあったのだろう。ここまでのところではあえて割愛してますが、山内上杉氏の家宰は長尾氏。上杉謙信を輩出した、あの長尾氏です。山内上杉の立場が上がれば上がるほど当然家宰の地位も向上し、結城合戦でもずいぶんと長尾氏が活躍している。で、その長尾氏は「ハア?佐竹から当主を迎えるですって!?冗談もほどほどにしてくださいよ!!」とばかりに憲実の長男・憲忠を引っ張り出した。これにキレた憲実は憲忠に対し、「なんちゅう不忠の子じゃ!!も~、お前の所領はボッシュート!もはや親でも子でもないわ!!」とした。あまりの徹底ぶりについ笑いが出てしまうのはわたくしだけでしょうか・・・で、永享の乱の8年後には持氏の子・成氏(しげうじ)を立てて鎌倉府が再興される。再興された理由について『永享記』では、上杉氏が中心となって関東にも公方と関東管領を置かなければ世は鎮まらないと幕府に嘆願したというが、ウィキペディアでは 【永享の乱とその後の結城合戦を経て、上杉氏と伝統的豪族層・国人層との対立が 顕在化すると、両者ともにそれぞれの思惑から新たな鎌倉公方を必要としたのである。】とする。まあ、上杉氏と国人衆の対立をも含めて「世が鎮まらない」と表現したとも読めるからな。もう本格的な戦国時代の幕開けはすぐそこまで来ているので、成長してきた国人衆と関東管領の対立構造があったというのが実情なんでしょうが、関東には鎌倉府があったので、群雄割拠というよりは相変わらず「上部権力」との対立を続けていて、そこが関東と他のエリアとの違いだろうと思う。して、成氏は8代将軍の義成(よししげ)から偏諱を受けて、再び将軍の家臣として再スタートを切った。義成はのちに義政と名を変え、この方が本シリーズ最初の東山御物で出てきた義政さんです。成氏の補佐には、長尾氏が担ぎ出した憲実の子・憲忠が関東管領として付いた。扇谷(おうぎがやつ)の上杉氏は最初はあまりぱっとしなかったようだけど、この頃には有能な家宰がいた。扇谷上杉の家宰は太田氏で、この時は資清(すけきよ)。資清さんの子は超有名人ですが、それは後にして・・・永享の乱では扇谷上杉は山内上杉方についた。その後どちらの上杉の当主も引退したので、両上杉の新当主はまだ若く、それぞれの主を補佐した山内の家宰・長尾景仲と扇谷の家宰・太田資清は2人あわせて「関東無双の案者(=知恵者)」と評された。で、せっかく鎌倉公方になれたんだから成氏も過去のことは水に流して頑張ればよかったのに、親の仇を討ってうっぷんを晴らしたいという感情を捨て切れず、山内上杉の憲忠と反目し合うようになっていった。さらには成氏の家臣が長尾氏の所領を押領する事件が起こり、怒った長尾氏と太田氏が手勢を率いて成氏の御所を襲撃。成氏は江ノ島に逃れて、成氏を支持する千葉・小山・宇都宮などの諸氏が応戦する。これが「江ノ島合戦」で、緒戦は成氏方が優勢だったようだけど、次第に膠着状態になり、和議が結ばれて成氏は4ヶ月ぶりに御所に戻る。にほんブログ村
2015年12月15日

ふっっっ・・・歴バナを書き始めてから「やめときゃよかった~」と後悔するのは毎度のことですが、これを読んでいる方の中には、江戸の記事のハズなのに戦国ジジイは何を書きたいんだ?と思う方もおられるかもしれません。基本的にはシリーズのテーマである「江戸」が中心で、多少枠を広げて武蔵国の簡単な流れを書き留めておこうという意図なのですが、実は関東の歴史というのは、大きな眼で見るとただ一国の中にちんまり収まるようなものではなく、国をまたいで関東というエリア全体で動いております。もちろん、個々の国の流れもあるし、国人の動向なども色々あるのですが、こと関東に関しては広いエリアを「武者たちが駆け抜けた」と表現するのがぴったりくるとわたくしは思います。西国なんかでもたとえば大内氏や尼子氏、山名氏などのように何ヶ国もの守護を兼ねた大々名もいるにはいますが、それとはまたちょっと違うイメージなんだよな。それはやはり、坂東武者が発展したエリアであり、朝廷からの独立性の高い武家の最初の政権が鎌倉に置かれたことが大きいと思う。鎌倉に幕府が置かれたからこそ、次の時代でも関東を直接統治する鎌倉府が設置され、関東に独自の争乱をもたらした。何でそんなことになったのか、そのなれそめを押さえるにはどうしても広く歴史を眺める必要がある。ゆえにこんな記事となっている訳でございます。え~とそれで、上杉氏が関東管領として確固たる地盤を築いたあたりまで来ましたが、鎌倉公方は次第に幕府から自立するような姿勢を見せ始める。 足利2代将軍・義詮と初代鎌倉公方・基氏の兄弟は仲良く同年に亡くなったので、3代将軍・義満と2代鎌倉公方・氏満はほぼ同じ頃にそれぞれの父の跡を継いだ。実際には鎌倉公方(=関東管領)の歴史は足利義詮に始まるんだけど、一般的に義詮は「鎌倉公方」としてはカウントされないので、ここでも初代鎌倉公方を基氏としておきます。のちの俺様・義満も将軍就任当初はまだ少年だったので、室町のジイ・細川頼之が補佐についた。が、義満が20歳を超えた頃、ジイが失脚する事件が起こる(康暦の政変)。ジイの失脚については色んな推測がなされているけど、この政変を敏感にキャッチした鎌倉の氏満は京のスキに乗じて挙兵しようとした。しかし、氏満の軍勢が京に入ることはなかった。上杉憲顕の子で関東管領となっていた上杉憲春が、氏満をなんとか止めようと鎌倉の自邸で自害したからだという。憲春の諌死についてウィキペディアでは 【氏満に加担すれば関東管領の地位を失い、対立すれば氏満の信頼を失い、いずれに しても正当な後継者とされた憲方と彼を押す上杉氏一門による政治的失脚は 避けられなくなる。】としている。前回、上杉憲顕が死去すると憲顕の実子で宅間上杉の養子となっていた能憲が関東管領になってますが、憲春は能憲の弟にあたる。本来であれば能憲のあとはその子(憲方)が継ぐべきところ、憲春が上野守護となり関東管領にもなったことで一族内でも問題になったらしい。鎌倉公方・氏満が危険な方向へ進み始めたのと同様に、上杉氏内でもすでに分裂の萌芽が見え隠れしている訳ですが、いずれにせよ上杉憲顕の代から関東管領は幕府の取り次ぎ役も務めていたので、一族内での問題がなかったとしても、氏満が危険な思想を持てば持つほど関東管領である上杉憲春は幕府と鎌倉府の板挟みで苦しい立場になっただろう。そこから20年経つと俺様・義満の権威は絶大なものとなり、明徳の乱で山名氏を叩き、九州探題・今川貞世(了俊)を罷免するなどして有力大名を排除する方向へ進み、さらには大内氏に矛先が向けられる。堺で挙兵(応永の乱)した大内義弘は諸大名に連合を呼び掛けた。応永の乱の頃には義満の権威は相当なものだったから、諸大名を誘うなんて義弘もずいぶん大胆なことしたよな~とこれまで思ってたけど、尊氏から義詮までの室町初期よりはずっと世情もおさまっていたものの、長すぎた内乱の傷跡はまだ残っていた。だから、義弘の読みもあながち間違ってたとは言えないのかもしれない。その傷跡とゆーか、直義の置き土産の影響を恐らくもっとも強く受けたのが関東で、鎌倉3代公方となっていた満兼が義弘に呼応した。この時も上杉憲顕の孫で関東管領の上杉憲定に止められて、武蔵国の府中まで進軍したものの、大内義弘が討ち死にして総崩れとなったため、途中で引き返した。俺様・義満が当然この動きを看過するハズもなく、さらに鎌倉4代公方・持氏は、関東にいながらにして幕府と主従関係を結んでいた「京都扶持衆」と呼ばれる武士たちの討伐なども行ったので、幕府と鎌倉府の溝はますます深くなっていく。そのうち、上杉氏が鎌倉公方に反乱を起こすようにもなってきて、関東では鎌倉公方と関東管領・上杉氏との反目が続く。そこに幕府の思惑も絡む。さらに、上杉氏内でも勢力争いがエスカレートするようになる。全国的に見れば、ある程度の時期までは南北朝や観応の擾乱の影響が遠ざかって落ち付いていったのに対し、関東だけはいつまでも直義の遺した熾火がくすぶり続けていたようなもんだった。実は、この時期の1人の上杉氏当主は大内氏と関係を持っています。その名は上杉憲実(のりざね:1410?-1466)。山内上杉氏の出で、4代鎌倉公方・持氏のもとで関東管領を務めた方ですが、京では将軍の後継者問題が持ち上がり、神意(くじ引き)によって義教が6代将軍となった。この辺の経緯は「道灌山城」でも簡単に書いてますが、将軍になれなかった持氏は将軍・義教への祝賀の使者を送らず、元号が改元されてもシカトして前の元号を使い続けるわ、将軍に任命権があった鎌倉五山の住職を勝手に指名するわ、将軍家に露骨に対抗する姿勢を見せ始める。関東管領・上杉憲実は当然必死になって持氏をいさめ、京への取りなしも行ったが、持氏はそんな憲実をウザいと感じ始め、遠ざけるようになる。果ては、持氏が憲実を討伐するというウワサまで流れるようになり、憲実は関東管領を辞職する。憲実が辞職した翌年は持氏の嫡子がお年頃を迎えた年で、持氏の子は元服した。上の系図をちょっと見てください。2代・氏満と3代・満兼は将軍義満から一字をもらい、4代・持氏は将軍義持から一字をもらった名前。主君である将軍から偏諱を受けるというのがこれまでのルールだったから、持氏の子は本来であれば「教氏」とかいう名前になるハズだったのが、義教から一字はもらわず、それどころか将軍家の通字である「義」の字を用いた「義久」という名前を勝手に付けた。さらには義久の加冠を鶴岡八幡宮で行い、通称を「八幡太郎」とした。・・・つまり、源義家にならった訳ですね。八幡太郎義家から続く嫡流だと誇示したかったのかもしれない。ここに至って憲実は「コイツ、もうアカンわ~」と思ったのかもしれない。憲実は義久の元服式には出席せず、領国の上野へ帰っていった。ところで、6代将軍・義教といえばもと僧侶だったのにも関わらず独裁政権を目指してエネルギッシュに行動した方として有名ですが、義久の元服より少し前には、鎌倉公方・持氏と叡山が共謀して義教を呪詛しているというウワサが流れ、義教は叡山の僧侶4人をだまし討ちにして殺している(「叡山攻め(86)」参照)。義教が叡山を攻撃したのは、持氏がらみの理由だけではなく、呪詛の噂が流れる前からひと悶着あったが、最初の頃はまだ将軍職継承の世話人ともいえる満済ちゃんや畠山満家がいてなだめたのでどうにかおさまっていた。が、義久の元服の頃にはその2人もこの世の人ではなく、もはや義教を止める人は誰もいなかったとウィキは語る。して、次代の鎌倉公方となるべき義久の元服式に出席せず、領国へ帰った上杉憲実の行動を、持氏は「謀叛」と認定して軍を起こした。これに対し、義教も持氏の叔父にあたる篠川公方・満直や駿河の今川氏など手近な勢力に持氏討伐を命じ、加えて幕府軍も出した。さらに義教は朝廷に綸旨を出させて、持氏を「朝敵」に仕立てあげた。これに敗れた持氏は、偶然なのか何なのか、鎌倉へ戻る途中で憲実の家宰に出会ったそうで、憲実に調停を依頼したそうな。それで、鎌倉に戻った持氏は称名寺で出家したというんだけど、この称名寺は金沢文庫(現・神奈川県立金沢文庫)の裏手にある寺で、戦国ジジイになってまだ初めの頃に1度行ったことがある。『永享記』によると、持氏は異心のないことを示すためにまだ40歳という若さで出家し、長春院殿揚山道継と号した。ところが、山内上杉氏の家宰が率いる軍勢が称名寺へ押し寄せ、持氏の近臣たちの多くが討たれた。そのほかにも永安寺で討たれた家臣もいた。持氏の近臣の中には、常々持氏に諌言していた者もおり、憲実はその者を討たないように使者を送ったが、間に合わず殺されてしまった。永安寺に入った持氏には扇谷(おうぎがやつ)上杉氏や千葉氏が交代で監視につき、さながら「禁籠」のようであった・・・あの静かな称名寺でそんなことがあったなんて、現地に行った時は全く知らなかったので驚きましたが、憲実はそんな持氏の助命と、義久の鎌倉公方就任を京に懇願した。が、義教は持氏を許さず、憲実に持氏を討つように命じた。これに従って憲実は永安寺を攻め、持氏は自害し、鎌倉府は終焉を迎えた。これを「永享の乱」という。将軍に代わって関東を統括し、治安の維持を図るハズだった鎌倉公方本人が乱の当事者になってどーする!!ってカンジですが、系図はまだ続いてますね。混乱はまだここでは終わらないのだ。つか、南北朝&観応の擾乱からイエアスの入府までの間、関東に平和な日々はやって来なかったというのが実情じゃないかと思うにほんブログ村
2015年12月13日

さて、前回のおしりに出てきた関東からの遠征の続きですが、遠征軍を率いていた畠山国清は、勝手に本国に帰ってしまった者たちの処罰を始めた。具体的には被告人の所領を取り上げてしまったようで、これを不服とする被告人たちから鎌倉公方・基氏に対し国清の罷免の嘆願が寄せられた。そして基氏は国清へ「ま、とりあえず話を聞くからさ、ちょっとボクのところへ来てよ。もし、あんまり来るのが遅れるようなら攻め込んじゃうよ~」と弁明の機会を与えるも、国清は応じず伊豆に立てこもる。そして、基氏は旧・直義派と思われる家臣などに命じて国清を攻めさせ、降服させた。ウィキペディアによると、 【その後の国清の消息は定かではなく、降伏時に斬殺されたとも流浪の末に大和で 窮死したともいう。】だそうだけど、そもそもこの遠征についてウィキでは【名目は義詮からの要請であるが実際は基氏独自の判断によるものであり、父の死去に伴う地域内の動揺を外征によって抑えようとする意図が】あって、【この遠征の失敗は主導した基氏の責任が問われるものであったが、基氏の失脚は鎌倉府自体の崩壊を導きかねない以上、代わりに関東執事で実際に軍を率いた国清が補佐・軍事の両面で責任を問われることとなった】と国清が基氏の身代わりになったように解説しているページがある。この見解が歴史学での主要な見方なのかはわかりませんが、個人的にはそうかな~?と思う部分もある。まあそりゃ、国清が勝手に東国武士を動員した訳でもないだろうし、基氏の命によるものではあっただろうけど、観応の擾乱の傷跡がまだ残る東国武士の間では一族の中で尊氏派と直義派に分かれていた氏族もあったようで、国清攻めに前後して基氏は旧尊氏派の武士の所領を没収するといったことも行っていたらしい。だから、国清の結末が惨殺であれ窮死であれあるいはひっそり生き延びたんであれ、関東経営の中心から転落して可哀想なものだったことに違いはないものの、身代わりになって責任を押し付けられたというよりも、基氏のあらたな計画の一環だったんじゃないかとも思うのだ。して、国清が追われた関東管領の座についたのは、高師有という人だった。高氏は旧直義派にとって宿敵じゃないかという気がするけど、 系図の一番下で、上杉憲顕の姉妹が高師秋に嫁いでますね。師有はこの師秋の子で、憲顕の姉妹を母に持つ。同じ上杉氏の娘を娶っていても、高師泰は上杉能憲に殺されたけど(前回参照)、師泰は兄・師直とともにバリバリの尊氏派だった。ところが、師秋は妻の関係からか直義派に属しており、師秋の弟も、そして子の師有も直義派だった。師秋の弟は、一時畠山国清に所領を没収されていたようなんだけど、基氏によってその所領が返されたようで、 【(前略)明らかに国清の統治を否定しようとする意図がみえる。 尊氏に任じられた国清の統治を否定するということは、国清(=尊氏)と対立した 勢力を復活させることであって、それはいうまでもなく旧直義派の人びとなのであった。】 (『動乱の東国史4 南北朝内乱と東国』より)その「旧直義派の人びと」を代表するのが、尊氏に追われた上杉憲顕。尊氏は上杉憲顕から剥奪した越後・上野守護を宇都宮氏綱に与えて氏綱を薩埵山体制の中心に据えた。それを基氏は上杉憲顕に戻してやった。その措置に反発した宇都宮氏の家臣の越後守護代が憲顕を攻撃。が、これは憲顕に破られて、今度は基氏の矛先が宇都宮氏綱に向けられ、宇都宮氏は基氏に降服する。薩埵山3人組の残る1人、河越直重も相模守護を解任されて、ここに薩埵山体制は崩壊した。で、上杉憲顕が関東の経営に復帰する。そして、尊氏が憲顕から取り上げて宇都宮氏に与えてしまった越後と上野の守護も復権。これまでのわたくしの鎌倉公方に対するイメージは、アクが強くてギラギラしていて、ただ周囲を振り回しただけといったもので、幕府への対抗心などから将軍家に張り合おうとする人たちだと思っていた。が、初期の頃はまだそれほどでもなかったらしい。というのも、上杉憲顕の復帰は足利2代将軍・義詮も早々に了解していたらしいのだ。義詮は尊氏の嫡子で将軍職を継いだのだから、旧・直義派の旗頭ともいえる憲顕の関東管領復帰に手を貸すのは不思議な気もするけど、櫻井氏によるとまず基氏の方針転換は、薩埵山体制が地元の有力な勢力を活用したものだったのが、畠山国清が強権を発動したことによって関東の武士たちの反発を招いたので、 【基氏はこうした守護と東国武士との関係を清算し、鎌倉公方を中心とした東国社会 作りを目指したのではなかったか。そのような理想を実現するうえで、養父直義の 施策は参考になったに違いない。直義は、幕府の統治下における武士の「自立」 発動を禁じようとしていたのであり、これは各国の守護が実力によって東国武士を 統治している薩埵山体制とはまったく異なる方法であった。この大きな政策転換を 図るうえで直義の側近であり、基氏を「懐きそだて」たとされる憲顕への期待は 大きかったであろう。】 (前掲書より)とする。直義の方針である「自立の発動の禁止」は戦時を収束させるのに必要なもので、基氏は単なる養父への恋慕の情からではなく、身近で学んだ養父の政策を引き継いで自身の政策の中心に据えようとしたということらしい。ただ、同時期には別の考え方を持つ者も確かにいたので、基氏が直義のもとで育てられていなかったら、直義の方針を参考にすることもなかったかもしれない。義詮の場合は、直義の養子にはならなかった。でも、上の系図からわかるように、尊氏・直義の兄弟と上杉憲顕はいとこにあたり、義詮からすれば憲顕はパパのいとこという関係で、親族でもある。加えて、鎌倉府ができて義詮が鎌倉公方(実際は関東管領)になった時、上杉憲顕の補佐も受けていた。その際に、実務派官僚の家柄である上杉憲顕の実務能力を認めていた可能性もある。関東管領(実際は関東執事)は(当初は)鎌倉公方の直臣だったが、憲顕が関東管領に復帰すると幕府からの命令を取り次ぐ職務も与えられた。(当初は)としたのは、時代が下ると関係性が変わってくるからなのですが、ひとまずこの段階では 【上杉憲顕は、義詮にとっても幕府・鎌倉府間の連絡調整役となる人物として適任者であり、 なかば幕府と鎌倉府に両属する存在として、両者(義詮と基氏)が合意した憲顕の 関東管領復帰であったといえる。】 (前掲書より。カッコ内は戦国ジジイが追加)という訳で、義詮と基氏の兄弟が連携し、上杉憲顕がサポートするという新体制がスタートする。これ以降、関東管領は上杉氏が独占することになる。そういう中、大内氏のひろよん(弘世)がようやく幕府方に帰参する。大内家の帰属がこんなに遅い時期だとは思ってもみなかったんだけど、山名氏も同時期に政治的判断によって幕府方に帰参したらしい。世情が少しずつ安定に向かう中で足利将軍家は次第にその権威を高め、基氏の晩年には奥州経営をめぐって方針の違いなどがあったらしく、幕府と鎌倉府の対立の兆しが見え始める。して、貞治6年(1367)4月、基氏が27歳の若さで死去。その後の処理について幕府が遣わした使者は、バサラで鳴らしたあの佐々木導誉だった。新しい鎌倉公方には基氏の子・氏満が就き、上杉憲顕が引き続き関東管領として氏満を補佐した。同じ年の11月には、足利2代将軍・義詮が死去。義詮の子で9歳の義満が3代将軍となる。関東管領・上杉憲顕は将軍・義満の祝賀のために上洛するが、そのスキを狙って河越氏が拠り所としていた平一揆の蜂起などがあった。これは倒幕などのドラスティックな計画ではなく、武蔵の自治を要求するような目的だったらしい。これらを平定したあと、上杉憲顕も死去。関東管領は憲顕の子の能憲、弟・憲藤の子の朝房が継ぎ、守護職も子たちに譲られた。上杉氏は諸家がかなり多いようで、上の系図以外にも「ナントカ上杉」ってのが沢山いますが、初めの頃は宅間・山内・犬懸が関東管領を担っていた。 【能憲の就任は憲顕一族(山内上杉氏)が同職を世襲することの端緒となった。】 (前掲書より)というんだけど、前回書いたように能憲は宅間の重能の養子になってるからな・・・それに、フツーの家では嫡流ってものがあるもんだけど、上杉氏ははっきり惣領家ってものがあるんだかないんだか、よくわからない。でも山内(やまのうち)が宗家的な立場ではあったようで、実際に関東管領のほとんどは山内上杉の者で占められている。が、時代を追うごとに上杉氏内での勢力争いも激しくなっていき、関東で心機一転の新参者としてスタートした上杉氏も、関東争乱の主役としてのちの世に広くその名が知られるようになる。基氏が上杉憲顕を復帰させなかったら、関東の歴史も大きく変わっていたかもしれない。前の記事で「直義の亡霊はその後も生き続ける」としたのは、そういうことを指します。にほんブログ村
2015年12月10日

足利直義の挙兵に呼応して、直義派の上杉氏も挙兵した。上杉憲顕の子で、前回高師直に殺された重能の養子になっていた能憲(よしのり)が常陸で挙兵。憲顕も、能憲と連携するために領国の上野国へ向かう。さらに奥州でも直義派の挙兵が相次いだ。これを受けて、鎌倉公方・基氏の補佐にあたっていた高師冬は基氏を連れて鎌倉を脱出するも、途中で反乱にあって基氏を奪われてしまい、師冬はその後討ち死にする。尊氏の方は摂津での合戦に敗れて、直義と和睦することになった。高師直・師泰兄弟の出家という条件で講和が結ばれたものの、京に戻る途中で高氏兄弟らは上杉能憲らに殺される。高師直が上杉重能を殺してなかったら自分も殺されることはなかったかもしれないけど、まあこれは仕方ないわな。で、尊氏・直義とも京に戻って一旦は落ち付きかけたものの、何やかやで再びキナ臭い匂いが漂い始め、結局また2人は決別。その過程で南北朝も統一された。そして合戦に敗れた直義は再び兄と講和を結ぶが、鎌倉に入った尊氏によって幽閉され、その翌月に急死する。高師直・師泰兄弟が殺された日からちょうど1年後のことだった。享年46歳。直義の死は表向き病死とされているが、毒殺説もある。ま、あまりにもタイミングの良い死でもあるし、誰がどう見ても不自然。実父の尊氏に嫌われながらも養父の直義に尽くした足利直冬はまだその後も10年ちょっと頑張りを見せるので、直義を生かしておくのは危険すぎる・・・尊氏と直義の兄弟は母を同じくし、1歳違いと年の近いこともあってすこぶる仲が良かったらしく、尊氏は直義に全幅の信頼を置いていた。直義だってそんな兄を全力でサポートし、兄が身体を張ってもぎ取った勝利をしっかり統治し続けていくために理想を掲げて頑張った。でも、やはり二頭体制というのは無理があった。観応の擾乱は、尊氏と直義のどちらが悪いということでもなく、必然の結果とも言えるのかもしれない。さて、直義の死によって幕府は一本化され、一件落着・・・となるハズが、直義の亡霊はその後も生き続ける。亡霊っていうと「出た」みたいだけど、別に「出た」訳じゃなくて、直義の遺志が引き継がれたって意味ね。養子の直冬ももちろん直義の遺志を引き継いだといえるだろうけど、そんな遠い場所の話じゃありません。観応の擾乱の最中、尊氏も直義も戦況を有利に進めるためにそれぞれがこともあろうに南朝に投降していた。それがために、南朝が再び息を吹き返して京の奪還を目論むなど「戦時」はまだ続いていた。して、鎌倉の制圧までも目論んだ南朝は、前回の中で北畠親房の船団がちりぢりになった際に遠江に漂着して井伊氏に保護された親王を征夷大将軍に任じて関東に向かわせた。この皇子・宗良親王は遠江に上陸したあと各地を転々としたらしく、最終的には信濃に拠点を置いて頑張っていたそうで、オヤジ譲りのしぶとさにちょっと笑いましたが、宗良親王の軍には新田義貞の遺児もおり、さらに上杉憲顕や坂東の一揆勢も呼応した。なんでここで憲顕が南朝に混ざるんだよ~と理解に苦しみましたが、旧・直義派として尊氏に対抗したってとこなんだろうか。宗良親王の軍は一旦は鎌倉に入ったものの、すぐ合戦に負けて尊氏に奪還される。勝利した尊氏は東国の体制を整備し直す。すなわち、直義との合戦および宗良親王との合戦において功のあった尊氏派を据える人事を行い、直義派だった関東管領・上杉憲顕は排除された。この時の人事を「薩埵山(さったやま)体制」といい、宇都宮氏綱・畠山国清・河越直重の3者が中心となって「尊氏の、尊氏派による、幕府のための東国支配」てな新体制ができた。このうち、畠山と河越は源頼朝のリベンジ戦に遅れて参陣した仲良し秩父トリオで、どちらの当主も鎌倉期に滅ぼされたことを「(13)」で簡単に触れてますが、河越氏の方は重頼の死後もどうにか存続したらしい。ただし、薩埵山体制を担った直重が最後の当主となるそうな。畠山といえば~、室町幕府内で斯波・細川とともに三管領として華々しく活躍した有名な氏族ですが、実はこれは秩父流平氏の畠山の名跡を継いだもの。ただ、秩父流の畠山は平氏だったのに対し、室町の畠山は足利一門の出で源氏なので、足利の者が畠山を継いだ時点で秩父流畠山氏は消滅したことになるらしい。観応の擾乱の前、直義は一揆の禁止を打ち出していた。が、泥沼の兄弟試合の最中に、一揆勢は自然発生的な連帯からのちの戦国時代でも見られるような契約状を取り交わしてのスタイルへと進化を遂げており、河越氏などは「平一揆」という集団を拠り所としていたらしい。足利系畠山氏も、武蔵の名族・秩父流畠山氏を継いだことでその存在が重要視されるようになったようで、尊氏は信頼する者を関東の支配に就けながらも、そうした地元の勢力を取り込まざるを得なかったともいい、 【上部権力の側も一揆を自らの権力構造に取り込むうえで、彼らが自立的行動をとる危険性を もつことを承知しながらも、こうした動きを受容・促進したのである。】 (『動乱の東国史4 南北朝内乱と東国』より)・・・つまりは、直義の政策を否定したことになる。とは言っても、各地でまだ戦乱は続いており、いつまでもそんな状況を放置する訳にもいかないので、あらためて直義の定めた故戦防戦の停止を命じており、基本的に直義の路線を継承しながらも一部現実と妥協したというところだろうけど。して、直義の死の翌年、尊氏は帰洛するが、出発の前日、鎌倉公方・足利基氏を武蔵の入間川(現・埼玉県狭山市)に移した。基氏はこのあと、足かけ9年を入間で過ごし、基氏の在所は「入間川御陣」と称される。基氏はこの時点で13歳。そんな基氏をなんでまた武蔵なんかに据えたのか、その理由については色々な推測がなされているようで、 ・武蔵に地盤を持ちながら相模守護となっていた河越直重を牽制するため ・越後、信濃、上野、武蔵などの周辺諸国でまだ反幕派が健在だったため、 それに対する備え ・薩埵山3人組の中で尊氏が最も信頼できる畠山国清の庇護下に置いて、 周辺の反幕派へのにらみをきかせるためなどの諸研究者の論が前掲書で挙げられているが、それに加えて櫻井彦氏は基氏がかつて直義の養子として育てられていたことももっと考慮に入れてよいだろうし、直義の養子として育った基氏だからこそいくばくかの警戒心を尊氏は持っており、ゆえに腹心ともいえる畠山国清の庇護下に置いたのではないか、ともしておられる。はたして尊氏の真意がどこにあったのかはわかりませんが、幕府内部だけに絞ってももうほっとんど訳のわからない状況になっている。足利一門にしても、それぞれの立場で尊氏につくもの、旧直義派となっていた者などさまざまおり、直義が死んでも観応の擾乱の影響はすぐに消滅するようなものではなかった。まあ、武士を統括するにもっともふさわしい鎌倉を出てまだ幼さの残るような基氏をわざわざ武蔵に置いた理由は、たった1つに限定されるというよりも、総合的な政治判断だっただろうけど、もし「直義の養子」という経歴を持つ基氏に尊氏がいくばくかの警戒心を抱いていたのなら、さすがに室町幕府を開いただけのことはあるじゃねーのとも言いたくなる。京に戻った尊氏は、旧直義派や南朝勢力に対し、幕府方として戦功を挙げれば本領は安堵するという呼びかけをした。なんせ、両派のそもそものトップである直義も後醍醐天皇ももはやこの世の人ではない。尊氏のこの呼びかけに早速応じた者もいたが、本州の西のはずれでは大内家のひろよんがやっと周防を平定したところで、大内氏が幕府方に帰属するのはこれよりまだ10年先のこと。全国を巻き込んだ争乱は少しずつ収束に向かう流れが始まっていたものの、まだ先は遠い。そんな中、尊氏が死去して義詮が2代将軍を継いだ。新体制がスタートした義詮の幕府は早速南朝叩きに乗り出し、基氏も関東から兵を出した。この兵を率いたのは、畠山国清だった。この時の出兵は一定の成果を挙げたものの、まだ帰国命令も下りないうちに畠山国清は関東に戻ってしまう。なんでも、配下の武士たちが何やかやの理由を付けて勝手に領国に帰り始めてしまったそうで、 【今回の国清の上洛が、国清にとってさまざまな意味を有していたとしても、それに動員 された東国武士に上洛の直接的な必然性は存在しなかった。(中略)『太平記』が伝える 「国清の軍勢は長い移動と在陣にくたびれてしまったうえ、馬や武具を売らねばならない ような状況になったので、とうとう我慢できずに、国清に挨拶もなくばらばらと本国へ 帰っていった」という光景は、実態をかなり正確に描写したものではなかったか。国清は、 東国武士の強い要望を無視できず、帰国しなければならなかったものと思われる。】 (前掲書より)尊氏や直義は、禅に深く帰依していたという。禅といっても当然臨済の方だろうけど、吐きたくなるほど長く流転する情勢の中で、静かに自己を見つめる禅は確かに彼らの救いとなっただろうと流れを追う中で思った。鎌倉幕府の滅亡からここまで、26年。戦働きによる恩賞にあずかれる可能性はあっても、そりゃ~武士たちも疲れるだろう。しかも、さしあたって直接的な利害の絡まない戦への動員で、坂東武者の我慢も限界にきていたかもしれない。それでも、この時点での国清には知るよしもないが、社会の混乱は収束に向かっているといってもまだまだ続く。そして、東国にはいよいよ新しい風が起ころうとしていた。にほんブログ村
2015年12月07日

さて、鎌倉府の長となった足利義詮を補佐する最初の関東管領となったのは、足利一門の斯波家長だった。後醍醐天皇方の陸奥守・北畠顕家は、前回少し書いたように奥州経営に尽力した方で、京から遠く離れた場所で一定の成果を挙げていただけでもすごいと思うのに、奥州から2度も上洛を敢行している。海路じゃなく、陸路をですよ。当然足利方は妨害するものの2度とも顕家に突破される。最初に顕家が奥州を離れた際にはそのスキを狙って、顕家が奥州で築き上げた秩序を事実上の鎌倉府のトップである斯波家長が崩壊させてしまう。そのため、奥州に戻った顕家は元の秩序を回復することが困難となり、奥州を諦めて2度目の上洛を決行することになる。そして顕家2度目の上洛の際も下野小山城を攻撃したりしながら南下し(小山朝氏が捕獲されたのはこの時)、ずんずん鎌倉に迫ってきた。この時、斯波家長ら家臣は一旦房総に引いて体制を立て直そうと進言するも、足利義詮が鎌倉での決戦を主張したといい、激戦の末ここも突破され、斯波家長は討ち死にしてしまう。その翌年5月に北畠顕家が和泉で討ち死に。7月には新田義貞(これも南朝)が越前で討ち死に。合間の6月には新しい関東管領として上杉憲顕(のりあき)が鎌倉に下向した。上杉氏の登場で時代が進んだ感がちょっと出てきますが、そもそも上杉氏というのは藤原北家の出らしい。北家は「叡山攻め」でさんざん出てきた藤原師輔の九条家などと同じ系統ね。 良房の系統は参考までに載せただけですが、上杉氏は藤原北家といっても傍系で、勧修寺高藤流という系統の末だそうな。ウィキペディアによると勧修寺流は【家職として朝廷の実務を担当する家】が多かったそうで、「上杉」の名は上杉氏の祖とされる重房が丹波の上杉荘を所領としたことに始まるという。重房の祖父は崇徳院に仕え、重房の父は後鳥羽院に仕え、どちらも主の天皇の配流にともなって流されており、ゆえに 【重房の一族は天皇家を中心とした政争に翻弄された感があるが、実務官僚として 評価されていたからこそ巻き込まれたともいえよう。】 (『動乱の東国史4 南北朝内乱と東国』より)という貴族だったようですが、足利尊氏は丹波の上杉荘で生まれたともいわれる。もっとも尊氏の出生地にはほかに鎌倉と地元・足利の2つの説もあるようなんだけど、ウィキによると3つの推測地のうち上杉荘がもっとも有力視されているらしい。いずれにせよ、後嵯峨天皇の皇子である宗尊(むねたか)親王が鎌倉6代将軍に就任するために下向した際、重房も同行して鎌倉入りし、上杉氏では2代続けて娘が足利家の子を産んでいるように足利家と積極的に縁組をした。ま、子を産んだといっても上杉氏の娘たちは正室ではなかったんだけど、上杉氏の婚姻政策は足利氏の家臣にまで及ぶ。足利氏の家臣といえば、尊氏とラブラブだった高師直に代表される高(こう)氏が何といっても有名ですが、高氏は代々足利惣領家の執事を務めた家柄で、その師直の弟にまで娘を嫁がせていることから 【足利総領家ばかりでなく、その執事の家にも女子を送り込みながら東国における基盤を 勝ち取ろうとする上杉氏の姿がみえてくる。そして足利氏との関係が深まれば深まるほど 惣領と執事との関係の緊密さを実感したはずで、上杉氏が尊氏ではなく同じく清子の子で ある直義に接近したのは必然であっただろう。そして、尊氏の側近として成長していく 高氏との溝が深まっていくこともまた、当然の結果であった。】 (前掲書より)前の記事でも書いたように、足利尊氏と直義は2人あわせてバランスが取れるというような別の優れた才能を持った兄弟であり、前掲書によると2人で分担した管轄から見えてくる役割は、尊氏が【武士を家臣として従属させる「武家の棟梁」】(=主従制的支配権)で、直義は【全国を統治する政務の統括者】(=統治権的支配権)といったものだったらしい。もっと単純に言うと、尊氏が軍務、直義が政務てカンジなんだろうけど。戦国風にいえば、武断派と文治派ってとこでしょうか。もともと実務派官僚だった上杉氏が直義に接近したのは、確かに尊氏&師直主従のラブラブ度が強すぎて割り込めないから弟にすっか~的側面もあったかもしれないけど、得意分野の同じ直義についた方が上杉氏にとっても無理のない選択だったんじゃないかとも思う。関東管領に話を戻しますと、上杉憲顕は関東管領になった同じ年の末に解任された。替わって関東管領となったのが高師直のいとこにしてのちに猶子となる高師冬だった。上杉憲顕の解任の理由はよくわかっていないようだけど、憲顕が関東管領になった年は、1月に南朝の北畠顕家が上洛して一旦東国は落ち着きを取り戻したものの、5月の顕家の戦死を受けて顕家のオヤジの親房が秋に下向するなどの出来事があった。北畠親房の下向については、もともと親房が主役ではなく、北畠顕家の死によって奥州経営の任にあたったのは顕家の弟の顕信で、さらに後醍醐天皇の皇子たちもいた。伊勢から海路で東に向かった南朝の船団は途中で暴風雨にあい、ちりぢりになった船は鎌倉・房総などの太平洋沿岸に漂着し、北畠顕信と皇子の1人は伊勢へ吹き戻された。もう1人の皇子は遠江に漂着して井伊氏に保護されたというんだから、実にドラマティックというか、歴史って面白すぎ。初心者にとっては南北朝ってホント勘弁してよ~ってウザいくらいのめまぐるしさですが、その一方で南朝の足跡ってあちこちにあるので、集中して勉強すればこれはこれで面白いのかもしれないな。あ、それで、北畠親房は常陸に漂着したそうな。現在の稲敷市というから、霞ヶ浦の周辺てことですかね。そこからつくば市あたりの小田氏に迎えられて常陸を拠点に活動する。つまりは東国において再び南朝の動きが活発化した訳で、その後北畠親房が上洛するとその翌月には高師冬は関東管領を解かれているようなので、南朝対策のために武断派の高師冬が一時的に関東管領になっていたことがわかるという。さて、戦争状況が少し落ち着いてくると直義の出番が増える。直義が行ったことは、京と鎌倉の禅宗寺院に「五山十刹」の称号を与えるというものから、武士に対して「故戦防戦の停止」、一揆と号することや党類を率いての合戦の禁止、守護が非法を行えば職を没収するといった内容で、故戦防戦の停止とは戦いを仕掛けた者は理由の如何に関わらず処罰、防戦側は正当な理由があれば無罪だけどそれ以外の場合は処罰するというもの。これは治安と秩序の回復のために、紛争を武力で解決することを禁じたもののようで、戦国ファンなら「惣無事令」を連想しますわな。でも、鎌倉幕府滅亡以降の「戦時」を収束させるには必要な規定といえる。その次の項目は、血族間や地域間で連帯して保身の手段としてきた武士たちに対し、徒党を組むなとしており、最後の項目では上に立つ守護でさえ勝手なことすんじゃねえ!と言っていて、 【(前略)直義はすべての階層の武士に対して、幕府の統治下における自立した行動、 「自力」の発動を禁止した。】 (前掲書より)ところが、実際にはなかなか混乱は収まらなかったらしい。どころか、直義の施策は幕府上部での争いのタネを蒔くことにもなった。まあここも、豊臣家における武断派と文治派の確執を思い出していただければ話が早いワケで、武断派の代表格ともいえる高氏の間に不満がつのっていったらしい。そして貞和5年(1349)、あらたな紛争が勃発する。すなわち、直義が上杉重能らと図って尊氏に高師直の執事職を解任させる。怒った師直は直義を襲撃、直義は尊氏の家に逃げ込んだ。ああ、豊臣家のアイツらにホント似てるよな。尊氏の仲介によって、直義の側近・上杉重能と畠山直宗は越前へ配流、直義は引退して尊氏の子・義詮に譲るといったような内容で和解が成立したが、高師直も直義もすぐに元の職に復帰する。が、流罪となった上杉重能と畠山直宗は、高師直の差配により途中で殺害されてしまう。さらに翌月には、尊氏の実子で直義の養子となっていた長門探題・足利直冬に対する討伐軍が催され、直冬は九州に追われることになる。して、鎌倉殿代理であった尊氏の嫡子・義詮が上洛、同じく尊氏の子の基氏が鎌倉へ下向する。基氏の執事には高師冬がついた。尊氏って人はホントによくわからない人で、直義の養子となった直冬は一説に「ただ1度のアバンチュールでできちゃった~」という生まれだといい、尊氏に認知してもらえない可哀想な境遇だったのを、直義の配慮で養子にしてもらったという。また、新たな鎌倉公方となった基氏も直義の猶子だったらしい。とはいえ、基氏は義詮と同じ正室の子なので、基氏の場合は直義に実子がいなかったことによるものなのかもしれないけど。けど、直冬は成長して軍功を挙げるようになってからも尊氏やその周辺からは嫌われていたともいい、陰湿な一面がうかがわれる。その昔やった大河では、真田広之が尊氏を演じてたな。真田広之はカッコいいけど、どうもあの人が演じるとどの役も暗くなるような気がして演技を観るのはあまり好きじゃない・・・でも、ある意味尊氏は似合いの役だったかもな、なんて思ったりもしてじゃなくて、基氏は尊氏の子として鎌倉に下向した。この時点で京にいた直義は、高師直との抗争が勃発した年の末に出家した。九州へ落ちのびた直冬は直義派を集め始め、次第に同調者は増えていった。そして、直冬が九州で挙兵したという報告が入るや、尊氏や高師直はすぐさま九州への討伐の準備を整えたが、尊氏が出発する前日に直義がひそかに京を脱出し、高師直とその弟の師泰の討伐を呼び掛けて、ここに尊氏と直義の兄弟が決定的に決別する観応の擾乱(じょうらん)が起こる。関東の歴史を主眼に置けば、南北朝よりもこっちの方がよっぽど重大で、かつ深刻。これがなかったら、あるいは関東の歴史は大きく変わっていたかもしれない。だからこそ、かいつまんででもこうして書かざるを得ないんだけどね。にほんブログ村
2015年12月05日

前回は天皇方に2つ、足利方に2つの計4つ(実質的には3つ)の「上部権力」ができたあたりまで書きましたが、実はもう1つあります。話の流れで順序が入れ違ってしまったので、前回は違う表現を取りましたが、小山氏の話でわたくしが「新・直義派」としたのがそれで、一般的には「鎌倉公方」と呼ばれる方です。コイツが・・・いえ、この方がまた厄介な存在で、でも関東の歴史において外す訳にはいかないので、過去の記事でもさわりだけ少し書いてます。(「道灌山城」参照)簡単な経緯としては「道灌山城」の記事の通りなんですが、思っていたのと少し違うようなことを読んだので、ここでもそっと詳しく鎌倉公方について書いておこうと思います。そもそも、鎌倉幕府は倒されたのになんでまた鎌倉が重要視されたのかといえば、前々回で紹介した建武式目のトップ項目に柳営(幕府)をどこに置くかという問題が来ていたように、曲がりなりにも150年ほど鎌倉に幕府が存在し、武家政権の象徴となっていたからに他ならない。歴史というのは当然連続しているものなので、南北朝での全国規模での長い内乱の過程で、下級レベルの武士たちが血族での連帯から地域での連帯へ軸がスライドした一揆を成立させる以前から武士の自我のようなものはすでに芽生えており、それが鎌倉幕府を崩壊させる原動力にもなった。が、 【(前略)地方行政にもっとも期待されたのは、地域社会の要求をすくい上げ、 治安を回復することであった。】 (『動乱の東国史4 南北朝内乱と東国』より)これにいち早く応えたのが足利尊氏であり、後手に回るハメになった後醍醐天皇は「鎮守府将軍」・・・これは河内源氏の祖・源頼信なども任じられた官職で、ウィキによると【平安時代中期以降は武門の最高栄誉職と見なされた】というもので、尊氏を鎮守府将軍に任じて「武家の棟梁」的な立場を認めざるを得なかったという。鎮守府は陸奥に置かれ、歴代鎮守府将軍の中では陸奥守を兼任している者も多くいる。「叡山攻め」の最澄の歴バナに蝦夷への出兵も出てきましたが、古代では陸奥にあって蝦夷と対峙し、さらには奥州を統括して治安を回復させるのが職務だった。だから、陸奥守を兼務するのは当然とも言えるわな。だけど、中央集権を目指す後醍醐天皇はいつまでも尊氏ごときに遅れをとっている訳にはいかない。そこで、天皇が帰京してから4ヶ月ほどした頃、自分の子の義良(のりよし)親王に側近の北畠親房・顕家親子を付けて奥州へ下向させた。北畠顕家は、敵地の真っただ中とでもいうような遠い奥州にあって尋常でない頑張りを見せた南朝の雄ですが、この方は陸奥守を拝命していた。鎮守府将軍は尊氏、陸奥守は顕家・・・職務内容のカブる陸奥守に顕家を任じてわざわざ奥州へ下向させたのは、臣下でありながらどうも目障りな動きをする尊氏への牽制もあっただろうという。それから、奥州には滅ぼされた北条の得宗家の所領も多くあったそうで、ここを速やかに押さえることがすなわち治安の回復にも直結したんだそうな。その2ヶ月後には鎌倉に「鎌倉将軍府」が置かれた。これは関東の10ヵ国を統括するもので、鎌倉期の関東御分国が最盛期で伊予・豊後などの相当遠い国や信越を含んでいたのに対し、もっと関東らしい顔ぶれ(武蔵・伊豆・相模・上総・下総・上野・下野・常陸・安房・甲斐)に入れ替わっている。鎌倉将軍府にも後醍醐天皇の皇子(成良親王)を下向させたが、成良親王を奉じたのは後醍醐天皇の近臣ではなく、尊氏の弟・直義だった。 【体裁としては鎌倉の頂点に立つのはあくまでも成良であったが、実質的な実力者が 直義であったことは明らかであり、この人事の背景には、「武家の棟梁」を自負する 尊氏の強い要請があったものと思われる。尊氏には、ひと足早く奥州に下向し、 周辺の武士を掌握することに成果を上げつつあった、奥州鎮守府を牽制する意図も あっただろう。】 (前掲書より)まだこの段階では、足利方は天皇に敵対してはいない。が、すでに泥沼の内戦の準備は着々と整いつつあった。ただまあ、尊氏は結構ギリギリまで「自分は天皇の臣下だ」みたいなことを言ってぐずっているので、尊氏本人の意思というよりは直義を初めとする周辺の思惑が強かったんじゃないかとも思うんだけど・・・でその直義が鎌倉でまず行ったのは、「関東廂番(ひさしばん)」を置くことだった。 【廂番は、鎌倉幕府の初代親王将軍宗尊(むねたか)親王のために置かれた将軍護衛役で、 直義がこれにならって関東廂番を設置した背景には、成良を宗尊に擬して、東国政権 (武家政権)を復活させようとする意図が存在したといえるだろう。】 (前掲書より)そして廂番には足利一門と足利家臣団から選抜したメンバーが就いた。鎌倉で着々と「足利幕府」の準備が進められていく中、後醍醐天皇の足下から建武政権を揺るがす事件が起こった。それが、処遇に不満を抱く公家によって北条高時の弟を担ぎ出すクーデターで、これは早々にバレて大規模なクーデターとはならなかったものの、今度は北条高時の子・時行が信濃の諏訪氏の助力を得て蜂起した。この挙兵は「中先代の乱」と呼ばれ、時行軍は立ちふさがる信濃国司軍や廂番の軍を次々に撃破して南下していった。目指す先は、当然鎌倉。直義も軍を率いて武蔵で迎え討ったものの、あえなく敗退。結局、成良親王を連れて鎌倉から逃げ出して、親王を京へ帰してやったらしい。これによって鎌倉将軍府は終焉を迎える。長い目で見れば、これはまだほんの序の口なんだけど、逃げ続ける直義に対し、鎌倉を奪還した時行軍に呼応して各地で挙兵する者も相次ぎ、まだまだ予断を許す状況ではなかったことがうかがえる。この時期の武士の姿を象徴する人物として、前掲書では常陸の小栗重貞という人物を挙げている。 【すなわち、自己の権利を建武政権に否定された重貞は、建武政権打倒を目指す時行軍に 従軍するが、尊氏の下向によって時行軍が崩壊すると、さっそく時行軍の大将の首を 取って(この点は伝承の可能性があるものの)尊氏軍に投降しているのである。 こうした重貞の行動から、自らの権利を保障してくれる存在は誰なのかといった点を 基準に、彼が行動を選択していたことは明らかだろう。そしてこの基準は、多くの武士 たちに共通するものであったに違いない。】後醍醐天皇は戻ってきた成良親王をあらためて征夷大将軍に任じて中先代の乱を収めようとしたけど、直義救援のためにさっさと下向した戦上手の尊氏が鎌倉を奪還して大勢が決まる。そこからは足利方が天皇方と決別しーの、南朝ができーの、混乱の度合いがどんどんヒートアップする。尊氏や直義が京におさまっては脱出し、南朝方が京に入っては脱出し、京の庶民たちもいいかげん呆れてたんじゃないかと思うほど激しく入れ替わりが続く。後代の室町将軍も権威が低下するにつれよく京を脱出するようになるけど、京の脱出は尊氏以来の伝統とも言えるかもな京の町が戦で荒廃したというのは何と言っても応仁の乱が有名だけど、南北朝の争乱の過程でも戦禍に巻き込まれてかなり被害を被ったらしい。これまで、なんで足利家は京に幕府を置いたかな~と思ってきたけど、こういう激しいバトルがあったことを知って初めて京に本拠を置かざるを得なかったことを理解しました。南朝ってなんか好きじゃなかったんだけど、結構いい人材が揃ってるんだよね。特に北畠親房・顕家親子なんかは案外まともな進言をしてるんだけど、もし後醍醐天皇がそれを受け入れていたなら、歴史はもう少し違っていたかもしれないなんて思ったりもした。けど、数々の戦いの中で南朝の有力な武将がどんどん失われ、政権復帰の夢は次第に遠ざかりながらも、上部権力同士の争いに加えて小栗重貞のように庇護者を求めてさまよう武士たちの動向などもからんで南北朝時代は実に56年も続く。今年は戦後70年の節目にあたるけど、たとえば終戦を朝廷の分裂の時に置き換えれば、2001年までずっと分裂が続いていたという計算になる。どんだけ長く続いたのか感覚的にわかろうってもんですが、色々流れを追って読んでくと、歴史の大きなうねりの中でどいつもこいつも頑張ったんだよな~としみじみ思いました。南北朝の歴史を見ていて思うのは、倒幕そのものよりも一旦倒幕運動で起こったエネルギーを収束して統治していく方が大変なんだなってこと。そう考えると、徳川3代なんかのすごさがあらためてわかったりもしたのですが、この歴バナはまだまだ江戸まで遠うございます。で話を戻しますが、建武3年(1336)11月7日、建武式目の成立を以って室町幕府が誕生する。「室町」はのちの3代・義満が京都北小路室町に花の御所を置いたことに由来する名称で、幕府成立の直後に後醍醐天皇が吉野に逃げ出して朝廷が分裂する。そういう時期だから京にあって直接統治するのは必然の選択でもあったけど、武家政権の中心という長い伝統を持つ鎌倉、および周辺の坂東諸国をきっちり統括する必要性も十二分にあったので、尊氏は鎌倉将軍府の後身となる「鎌倉府」を鎌倉に設置して、嫡子の義詮を鎌倉府の総帥「関東管領」とした。関東管領と聞けば多くの人が上杉謙信に代表されるような上杉一族を思い浮かべるんじゃないかと思いますが、最初は鎌倉府のトップが関東管領で、上杉氏などの家臣が就いたのは関東管領を補佐する「関東執事」だった。それがのちに関東管領⇒鎌倉公方、関東執事⇒関東管領へスライドすることになるんだけど、 【鎌倉公方はあくまでも歴史学用語及び鎌倉公方の自称であって当時の一般呼称ではない。 当時の一般呼称は“鎌倉御所”か“鎌倉殿”である。また、鎌倉公方は将軍から任命 される正式な幕府の役職ではなく、鎌倉を留守にしている将軍の代理に過ぎない。】 (ウィキペディアより)まあここでは、鎌倉府のトップを「鎌倉公方」としておきますが、鎌倉府も鎌倉将軍府と同じ関東10国を統治した。当初の鎌倉公方はウィキの解説の通り、「鎌倉を留守にしている将軍の代理」的な存在で鎌倉府は副都心みたいなもんだっただろうけど、次第に独自性を強めてプチ独立国みたいな様相を呈するようになった。「大阪都構想」にちょっと似てる?(笑)そして、独立性を強めることによって、東国では中央での上部権力同士の争いの影響を受けながらも、また別の次元の争いや問題を抱えることになった。それゆえに、中央で南北朝問題が収束しても、坂東は坂東で鎌倉府独自の問題がずっと後をひき、そのまま戦国時代へ突入していく。にほんブログ村
2015年12月01日
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