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皆様こんばんわ。戦国ジジイでございます。タイトルでお分かりのように、わたくし夏休みに入りまして、某所でバカンスを楽しんでおります。ですので、帰るまで本編の再開はお待ちください。しかし、関東はここ1週間ばかり涼しい日が続いておりまして、もうすっかり「秋深し」といった風情なのに、天気予報で見てたら旅先はフツーに暑いらしくて最高気温が10度くらい違う・・・涼しいのに体が慣れてしまったのに大丈夫かなと思ってました。天気予報では雨マークが並んでたけど、だいたいわたくしが出掛ける時ってのは天気がよくて、特に夏なんかは迷惑なくらい素晴らしく晴れたりするので、あまり天気の悪さは心配してませんでした。ま、さすがに今回は昨日も今日も雨ですが、昨日なんかは要所要所ではぱたっと雨がやんで、わたくしの愛する方々のお恵みだと思いましたね。でもまあ今回は天気の悪さを楽しんでます。その理由はいずれ記事の方で・・・それにしても、未公開の記事ばかりが溜まっていくちょっと叡山攻めで色々書きすぎたからな・・・休みに入る前にも、とある人から今のシリーズ長すぎると言われたばっかで(笑)。それは自分でもわかってるけどね。あちこちで色んな話が絡んでくるので、読む立場からすれば相当読みにくいだろうとは思いますけどね。でも、前にも書いたけど「叡山攻め」ほどためになったシリーズはないです。なんたってアナタ、このシリーズのために読んだ本は40冊越してるんですから。しかも、そのほとんどがシリーズを書き始めてから読んでるというしかも、身に付くだけじゃなく面白い。結局、仏教といっても人間の歴史だから、人間の考えることとは面白いなとも思うし、「高僧」といったら違う世界の人みたいだけど、実際に生きて四苦八苦した血の通った人間なんです。源信の名前だけしか知らない人にとっては手の届かない聖人みたいなイメージがあるかもしれませんが、彼だって伸びた鼻毛を抜いてたんですから。慶慈保胤(寂心)だって周りに音が聞こえるほどのひどい下痢したんですから(ただし保胤の下痢の話はフィクションかも)。そして叡山と切っても切れない関係にあった平安期の中央政界。これも具体的なことを知ってみると実に面白い。もう「戦国ジジイ」は返上しようかと思うほどです。なんでかって、人が死なない。いや、もちろん誰だって死んでくんだけど、その前後の時代に比べたら殺すの殺さないのって話は格段に少ない。これはね~、戦国ジジイやってた頃は、戦なんかがやっぱり華だし、目の前で見てる訳じゃないから特別気になるようなことはなかったけど、人が異常な死に方をしない時代にしばらく浸ってると、「死」が身近にあった時代をやるのがイヤになってきますね。ホント。とは言っても、戦国の旅の大物をまだ1本残してるので、それは遅ればせながら近々書く予定ではおりますが。だって千枚以上の写真があるから、それを埋もれさせるのはちょっと・・・それに、記事にしてしまえば保存する写真はだいぶ数を抑えられるので。それでは、明日も早いのでそろそろ寝ますね。おやすみんさい。にほんブログ村
2015年08月31日

では、土塁へ上がりま~す。 上から見下ろしたところ↓。 結構高い。この土塁は位置的には内寺内の北東側にあたり、この外側にある外寺内と接している土塁のうちちょうど真ん中ら辺にある。つまりはこの土塁は内寺内と外寺内を分けるもので、高さは7m。ここの土塁はどうか知らないけど、発掘調査の行われた御本寺西側の残存土塁からは排水のための濠も検出されているそうな。土塁の上は整備された道が続いていた↓。 土塁には何箇所か階段が取り付けられている↓。 中にはこんな大木が土塁に長く根を垂らしていて↓過ぎ去った年月を思わせる。 現在残っている土塁はごく一部なので、遊歩道をテケテケ歩いているとすぐ終点に着いてしまう。降りて土塁の断面を見たところ↓。 山科本願寺では各郭の境は厳密に区分けされていたそうだけど、土塁の上部は結構広いし高さも寺とは思えぬ規模を誇っているので、単なる外寺内との境というだけでなく、この上に隅櫓のような施設を置いて防御のみならず攻撃にも使える造りとなっていたんじゃないかと推測されているらしい。ここからは土塁の北側にある自由広場を抜けて土塁沿いに公園入口まで戻る↓。 すると、さっき見たすごい根っこの木の下に出た↓。 根が浮いた部分にはギリ小さい人が入れるぐらいのうろができていた↓。 今回わたくしが歩いたのは山科中央公園の3分の1程度のエリア。それでも、疲れていたせいもあってそこだけでも広いと感じたのに、公園全体はもっと広い。それだけ広い公園でも、内寺内のほんの一部。御本寺・内寺内・外寺内の連続した郭を合わせると山科本願寺が大変な規模を持っていたことがよくわかる。 よし、これで山科でのお目当てはゲットしたもう14時を過ぎている・・・そもそも出発したのが遅かったからな。スープジャーで調理したお昼を宿に置いてきてるんだけど、あまりの疲労と空腹に公園入口にある遊具広場に座って手持ちの食料で小腹を満たす。帰りは来た道をそのまま戻っていったが、大丸に連結しているスーパーに寄っていった。1日目の食料を買いにここのスーパーの食料品売り場に行った時、ブリの刺身があって買って帰って宿で食べたら美味しかったので、もういちど食べておこうと買いに寄ったのだ。うちの方ではブリの刺身ってあまり見ないんだよね。史跡めぐりを始めて間もない頃、冬に京都市中心部の戦国関連の史跡を回ったんだけど、その時も晩メシに「ぶりしゃぶ」を食べに行って美味しかった。京都市は海から離れてるけど、「鯖街道」があるくらいだから関東に比べて日本海の新鮮な海の幸が手軽に豊富に手に入るのだろう。ま、この時はブリの他にもケーキとか色々買った気がするけどね。旅先で疲労が限界を超えると見境なく大量に食べるのはわたくしの悪いクセですが、もうこうなってしまった以上は仕方ありません。(そう言って毎回同じようなことを繰り返す)して、ヘロヘロになって東山へ戻る。これが地下鉄東山駅のすぐ東にある白川の流れ↓。 前日の夜、宿替えした時は明智光秀の首塚を横目に見つつこの川沿いを祇園に向けて歩いていきましたが、今度は三条通りをもう少し東に進んで別の道から入る。と、三条通り沿いにはこんな石碑があった↓。 これの側面↓。 【当地は青蓮院の旧境内で、その塔頭金蔵寺跡です。元治元年(1864)8月初旬、 当地本堂で、坂本龍馬と妻お龍(鞆)は「内祝言」、すなわち内々の結婚式をしました。 龍馬とお龍(鞆)の出会いや「内祝言」の具体については、1899年(明治32) ごろに聴きとられた、彼女の回想に詳しい。お龍(鞆)は1906年まで生きていました。 一般には、慶応2年(1866)1月の伏見寺田屋遭難のあと、西郷隆盛(あるいは 中岡慎太郎など)の媒酌で二人は夫婦の契りを結んだようにいわれます。が、この話は 根拠が薄く、他の史料との検討からお龍(鞆)の話こそ信用すべきだと思われます。 この地が選ばれたのは、お龍(鞆)の亡父楢崎将作が青蓮院宮に仕えた医師であった ためでしょう。その縁により金蔵寺住職智息院が仲人をつとめました。 当時は池田屋事件(6月)や禁門の変(7月)のおきたあとで、京都は物情騒然でした。 しばらくして龍馬は、薩摩島津家から望まれ、対立した長州毛利家との和解に奔走します。 龍馬は新婚生活を楽しむいとまもなく、お龍(鞆)を寺田屋などに託します。二人は ながく別居夫婦だったのです。 当地を京都における龍馬とお龍(鞆)の重要史蹟として、ここに建碑します。 歴史地理史学者 中村武生】 (現地案内文より)ほ~、龍馬とお龍(りょう)は結婚式を挙げていたのか。それに、父親が青蓮院宮の侍医だったとは知らなかったな。で、この先の道を南に入っていきます↓。 知恩院や祇園へ行くのに東山駅から歩いていく人はそういないかもしれないけど、同じ方向へ向かうにしても観光客は白川沿いを歩いていく人が多いらしく、この道はあまり観光客は歩かない。その分、静かでゆったりと雰囲気を楽しみながら歩くことができるのでわたくしはこちらの道の方が好きで、駅との往復にはほとんどこの道を使いました。さて、歩いてすぐの場所にあるのがこちら(場所はこのへん)↓。 【粟田口(あわたぐち) 粟田口とは、三条通(旧東海道)の白川橋から東、蹴上付近までの広範囲に渡る 地名である。この付近は奈良時代以前から開かれた土地で、粟田氏が本拠とし、 粟田郷と呼ばれていた。平安京ができると、東国との交通の要衝あるいは軍事上の 要衝にあたることから、やがて粟田口(三条口)と呼ばれ、京の七口の一つにも 数えられた。 鎌倉・室町時代にはここを通って馬借(ばしゃく)や車借(しゃしゃく)など 運送業者が物資を運んだ。江戸時代には東海道五十三次の西の起点、三条大橋を 間近に控え、人や物資の往来で一層にぎわった。またこの付近には、平安時代の末以降、 刀鍛冶(刀を作る職人)たちが住居を構えていた。中でも、童子に化けた狐に鍛冶の 手伝い(相槌)をしてもらい名刀「子狐丸」を打ったという伝説が残る刀匠・ 三条小鍛冶宗近が有名である。江戸時代の元和年間(1615~1624)には 瀬戸から焼き物の技術が伝えられ、「粟田焼」と呼ばれる陶器の産地になった。 この右手にある門跡寺院・青蓮院は「粟田御所」とも呼ばれている。】 (現地解説板より)と、これが山崎の戦い後に明智光秀の首がさらされたという粟田口を示す石碑ですが、「京の七口」は秀吉が天下を取って洛中に御土居をめぐらしたのとセットでできたんだから、光秀の首がさらされたのは必ずしもこの付近という訳ではないのかもしれないな・・・と思ったら、『京都時代MAP』(光村推古書院)にこんな記述があった。 【洛中と洛外の出入り口として、秀吉が御土居につくった「京の七口」。しかし 室町以前から、すでに京都と諸国を結ぶ街道の出入口には「口」があった。 その数は七に限らず、「六口」とも「十口」ともいわれ、一定していない。 実際には十数か所あり、どの口を取り上げるかは時代や解釈で変化するようだ。】ふむ、元々「口」があちこちにあったのなら、京の中心部から見て天然の堀ともいえる鴨川のすぐ東側にあるこの付近にも御土居ができる以前から「口」があった可能性は高いよな。であれば、「粟田」の地は結構広いので場所は多少ズレるかもしれないけど、やっぱりこの近辺で光秀の首がさらしものにされたのかもしれない。にほんブログ村
2015年08月28日

この鐘楼は本堂の向かい側にあったんだっけかな(←覚えてない)。 すごい派手~。これだけデコラティブな鐘楼にお目にかかることはめったにない。もちろん、世間にはこれでもかってぐらいの派手な鐘楼もあるけどね。わたくしになじみ深い、あの系列の寺社とかね。ここへは蓮如の像がお目当てで来ただけなので、別院はこれで終了。元の門から出ようとしてふと塀を見ると アハハハ、境内のこういう注意書き、これまで何度見てきただろういや笑っちゃいかんな、文化財の保護も大変だ。で、これが入ってきた門を外側から見たところかな↓。 しかし、ここまで南下してきたのは別院がお目当てだった訳じゃありません。この近くには西本願寺の別院もあるんだけど、体力不足でパス。東本願寺の別院あたりはかつての山科本願寺の外寺内域にあたるらしく、安祥寺川から離れて外寺内をさらに南下すると、こういう場所が現われます↓。 これが第1のお目当て、蓮如廟の入口(場所はこちら)。入口には大きな灯篭も立っている↓。 入口からそのまままっつぐ進むと奥に御廟がある↓。 筋塀は5本ライン↓。 廟所の中には立ち入れませんが、塀の格子がどうぞご自由に覗いてくださいと言わんばかりの間隔だったのでお言葉に甘えて中を覗き見↓。 あそこに蓮如さんが埋まっておられるのだな。中興の祖にしてはシンプルな造りだけど、大きな石を使った石組は組み方はスカスカなので当時のままじゃないのかもしれないけど、なかなか風格がある。 蓮如は74歳の時に隠居してこの地の南殿に住む。ただ、隠居といってもホントに隠棲してた訳じゃなく、のち石山に御坊ができてからは布教のために精力的に石山と山科を往復していたらしい。前回紹介した、大坂城趾に残る袈裟懸けの松の解説では明応8年(1499)まで石山に住んでいたとあったけど、石山と山科の両方にそれぞれ一定期間滞在していたってことなんだろうな。そして隠居から10年後の明応8年山科へ戻り、そこで没。享年84歳。長い人生の旅路では4度妻に先立たれ、生涯で5回結婚。なした子は総勢27名。実にタフなご生涯であられました。蓮如は土葬ではなく荼毘に付され、骨を拾ったあとに残った灰や土を信者たちは争って持ち帰ったという。まあ、球児たちが甲子園の土をすくって持ち帰るようなカンジ?日本仏教の各宗派には中興の祖がいて、それぞれタイプは異なるものの、鎌倉新仏教に多いのは布教の天才タイプなのかな。ただ、そうした人達は当初尖鋭化していた宗派の教義を大なり小なり変えてより受け入れやすい形としたりして教線を拡大した。それの是非はともかくとして、そういう史実を経て日本仏教は生き残っている。日本天台宗の場合、教義的な面での中興の祖は円仁さんになるんじゃないかと思うけど、堂宇の復興・整備や制度の刷新などのどちらかというと外的な面での中興の祖は文句なく良源さんだろう。円仁さんも後世ではかなりのカリスマとして崇められたけど、良源さんのカリスマ性たるや、それはすさまじいものがある。だって、慈恵大師の名を知る人のほとんどがまず思い浮かべる姿といったら、もはや人間のナリをしてないんだからね時として良源さんへの信仰が宗祖・最澄を上回るほどのものだったことはここまでの記事で書いてきてますが、遠い昔の宗祖よりも身近でその時代に合った整備をした中興の祖に人気が集まるのは人間として素朴な感情だろうという気もする。まあ、同時代の人にとって真宗内で親鸞よりも蓮如の方が人気が高かったかどうかはわたくしは知りませんが、蓮如もかなりのカリスマ性を発揮していたとは言えるんじゃないかな。ここはだだっ広い感じで外寺内のはずれにあたる場所のようだけど、廟所域の隅っちょには「これ土塁か?石垣の名残か?」てな盛り上がりがあった↓。 廟所を出て、お隣の山階小学校との間にある細い道を西に進むと、廟所のすぐ裏を流れる安祥寺川がある↓。 右手の5本ラインの筋塀に囲われているのが御廟所。川を渡って道なりに北上するとすぐに現れるのが山科中央公園(場所はこちら)。公園入口には園内の絵図がある↓。 真ん中にでーんとあるのが多目的広場で、その右上に描かれてるのがここでの第2のお目当て。 山科本願寺の中心部「御本寺」は文字通り寺の心臓部ともいえる堂舎が建ち並んでいた場所で、ここより南西にあり、国道1号線をはさむ南北のエリアで現在ではほとんどが住宅地。南の方にはお店や工場などが建っている。そのメインエリアを取り巻くように御本寺のすぐ外側にあるのが「内寺内」で、本願寺トップの家族や家臣たちが住む居住空間。内寺内の北東にぽこんと突き出たエリアが職人や商人などの町衆の住む「外寺内」。城風にいうなら、御本寺が本丸で内寺内が二の丸、外寺内は城下ってカンジですかね。公園内に残る山科本願寺の貴重な遺構は、内寺内の北東にある外寺内との境目の位置にあたるらしい。立派な「城」だよな。ウィキペディアには 【天文元年(1532年)の『経厚法印日記』によると「山科本願寺ノ城ヲワルトテ」と 記載が見受けられることから、当時より城として呼称されていた。】とあり、 【『戦国の堅城』には「山科本願寺が本格的に城郭化していったのは実如と証如の時代で、 天文元年の焼き討ちに近い時代に完成されたのではないか」と記されている。】ともあるけど、まあそりゃそうだろうな。ただ、石山にいた蓮如が明応8年2月に山科へ戻ってきたのは死期を悟ったためだといい、戻ってからは周囲にある土塁や堀を見回ったともいうから、のちの本格的城塞へ発展する前の蓮如の段階でも城ちっくな体裁はすでに整いつつあったといえるのかもしれない。隠居した蓮如が住んだといわれる「南殿」はここから少し東に行った場所にあり、山科本願寺の遺構として国史跡の指定を受けている。して、ここ山科中央公園の「御土居」は南殿の附(つけたり)としてこれまた国史跡の指定を受けている。が、残存状況はイマイチなものの土塁の遺構はここだけではないらしく、たとえば御本寺の西、現在は住宅地になっている付近にも土塁の下部が残っており、発掘調査も行われているそうな。京都市の発掘調査報告によると、御本寺西側の内寺内とを隔てていた土塁は郭の内側からは4m、外側からは5mの高さを持っていたそうで、高い土塁の内部に堂宇が建っていた様子を想像すると、いかにも本願寺ィィィ~って感じィィィ~。にほんブログ村
2015年08月26日

わたくしがこの旅で最初の2日間を過ごしたのは、山科駅前にあるホテルブライトンシティ京都山科。そこを通過して南下すると、細い道を挟んでお隣に大丸があるのですが、ホテルと大丸の間にあるこの細い地味な通りが 旧東海道。薗田秀延も、ちょうどこの写真の地点あたりから東海道を外れて毘沙門堂の参道に入っていったかもしれない。大丸の先にある三条通りを西に折れて、安祥寺川が出たところで川に沿ってふたたび南下。 まったく知らない土地でも、馴染みの店なんかがあるとほっとする↓。 デーツーって関東の方にしかないのかと思ってたけど、全国展開なのか?チープな品ぞろえの多いしまむらは、安物買いのわたくしの大好きなお店ですこの近くには東西の本願寺の別院がそれぞれありますが、しまむらを過ぎてまず現れるのが東本願寺の山科別院(場所はこちら)。そうなんです、山科といえばかつて山科本願寺があったところ。ま、今回は叡山関係が中心の旅だったのでぶっちゃけ本願寺なぞ眼中にございませんでしたが、叡山の山内でお祖師たちの旧跡を回ってきたので、山科駅の構内に本願寺の案内が貼り出されてるのを見て戦国モードではなく仏教モードで行ってみようかという気になってここまで足を延ばした訳です。行きあたりばったりでも自由に予定を入れ替えられるのが、一人旅のよいところでございます。 境内に雄々しく立つこのお方は、本願寺中興の祖といわれる蓮如さん。蓮如さんの若い頃については蓮如堂のところで少し書いてますが、浄土真宗を開いた親鸞は意外にも在世中は鎌倉新仏教の他のお祖師と比べて世間的にはそれほど名声を博したというほどではなかったらしい。そうして本願寺は時代を追うごとに落ちぶれていき、叡山で修行中の蓮如は信者からはったい粉を恵んでもらうほどだった。42歳の時に本願寺第8世となるが、その後は延暦寺から仏敵とみなされて弾圧に遭い、現在の知恩院のあたりにあった大谷本願寺は延暦寺西塔の僧徒によって破却された。これにより蓮如は付近を転々とすることになるが、文明15年(1483)8月22日、山科のこの地に本願寺が完成。ただ、本願寺が本願寺たる最重要要素である親鸞の御真影を園城寺(三井寺)から返してもらう際にもイジワルされたなんてエピソードがあるので、蓮如さんも引き続き苦労したものと思われる。蓮如がこの地を選んだ理由としては、もとの大谷での再興を目指して大谷に近いところを選んだのではないかなど色々推測されているらしいが、この辺りには古くから多くの寺院などが存在していたことが発掘調査によって判明しているんだそうな。現在の山科は京都市に属しているものの、中心部から外れた山あいにありちと地味な存在。でも今回、山科に2泊して東山に宿替えしてからも山科へやって来て、実際自分で使ってみると山科という場所は交通の便もいいし、すごく便利な土地だなと思った。もちろん、現在の交通の便というのは当然公共交通機関に左右されるんだけど、すぐ西には逢坂の関もあるし、古くからの交通の要衝だなと実感した。現地で、宿替えしなくてもよかったな・・・と思ったぐらいだから。山科本願寺は6年かけて建設されたといわれ、内外の寺内町を有するなど大きく発展していった。山科の後にできたのが有名な石山本願寺で、新たに石山の地に綺麗さっぱり引っ越したのかと思ったら、まだ蓮如が生きていた頃で山科も残したまま石山本願寺を築いたらしい。石山に本願寺が築かれたのが明応6年(1497)。ふっ・・・室町から戦国にかけては大内氏の歴史が時代認識の基準となるわたくしにとっては、明応はなじみ深い元号です。明応2年(1493)に「明応の政変」で将軍職を追われた足利義材(よしき)は石山本願寺ができた翌年、朝倉貞景(義景のジイちゃん)のもとへ流れ、さらにその翌年の明応8年(1500)大内義興さんを頼って山口へ入る。本願寺が大発展していったのはそういう時期です。義興さんが足利義尹(義材から改名)を連れて京へ進軍し、ふたたび将軍職へ就けてやったあと、中央政界では細川氏の勢力争いなどで混乱の様相を呈し、名実ともに本格的な戦乱の時代に入っていく。そういう中で本願寺も武力を保持し、天文元年(1532)8月、一揆を起こした法華宗と細川晴元が結んで山科本願寺を総攻撃する。この戦いで山科本願寺は見事に燃え尽きて陥落。翌天文2年(1533)に石山へ本拠地を移す。のち、石山合戦を経て石山本願寺の地には秀吉と家康がそれぞれ大坂城を建てるが、大坂城趾には現在でも蓮如が袈裟を懸けたという松が残っている↓。(ほとんど松が写ってないけど気にしないで) 【蓮如上人袈裟懸の松 本願寺第八代蓮如上人は明応5年9月この地をえらんで一宇の坊舎を建立し 明応8年2月まで居住す。天文元年8月第十代証如上人は山科より本願寺をこの地に 移し大坂(石山)本願寺と称す。ここに本願寺は大いに繁昌し道俗男女群集した。 永禄13年(元亀元年)織田信長本願寺に難題を申し入れ遂に石山合戦の発端をなす。 而して11年間攻防の末天正8年3月勅によって和議なる。天正11年豊臣秀吉 大坂城を築く。のち時代は変れども蓮如上人袈裟懸の松の根のみが残りわずかに 往昔を偲ぶ。 本願寺津村別院誌(抜粋)】 (大坂城趾の現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)大坂の陣であれだけの攻撃を受けて蓮如の松が残るってホントかよ・・・とついツッコミを入れたくなるのはわたくしだけではないでしょうが山科別院へ戻りましょう。 え~っと、立派だからこれが本堂かな↓。 破風んとこもすごい↓。ネットがかかっているのが実に惜しまれます。 留蓋は おっと!これは松戸の香取稲荷神社や上野の花園稲荷神社にあったのと同じタイプだな。絶対波だよな、これ。軒丸瓦はもちろん 別の留蓋には狛犬もいたけど、 あらぬ方向を見ているので彼の正面側に回ったらこんな顔だった↓。 笑ってるよ・・・これじゃ魔除けにはならんな。さて、わたくしが入ってきたこの門↓ は脇の門だったらしく、本堂がこれだけ立派な姿をさらしていてもこれは側面だった。のでお堂の正面へ回ります。 お堂の正面を飾る2つの大きな石灯篭は、なんだかすごく変わってる↓。 灯篭の裏には文久2年(1862)の銘が入っている。 賽銭箱の上にはこんなものが懸かってたんだけど↓ 興味を持たなければするっと見過ごしてしまうものだと思うけど、仏教美術ってのも色々あって面白いもんだな~と思いながら撮影。にほんブログ村
2015年08月23日

これは確か公弁法親王の墓の向かって右隣にあったと思うけど↓ 【當山開基久遠壽院准三宮塔】毘沙門堂を現在地で復興させた寛永寺第2世・公海のお墓です。公海がどこに埋葬されたのかは手持ちの資料ではわからないんだけど、わたくしの感覚だと寛永寺に本墓があるんじゃないかって気がする・・・ま、これが供養塔であれ、毘沙門堂が公海を大切に扱うのは当然といえる。で、公海のさらに向かって右隣にあるのがこちら↓。 【當(門)中興慈眼大師塔】(門)としているのは判読しにくいからですが、これは間違いなく供養塔だな。だって天海(慈眼大師)は日光に埋葬されてるからね。ここの墓所はパンピーの墓じゃないからそんなにお墓が林立しているという訳でもなく、比較的ゆったりと造られてはいるけど、その中でも正面側から見た場合、公弁法親王と公海・天海の墓の3つが墓所域にどーんと据えられてるってカンジ。全体の中で公弁法親王のお墓がど真ん中に来ているのは、もともとは宮が御自身で選定して寿塔を建てた場所にその他歴代の寛永寺門主や輪王寺宮のお墓を追加していったってことなんだろうか。道路っぱたから墓所を見た場合、一番手前にあって目につきやすいのがこちら↓。 もっとも、手前にあるとはいっても唐門の方に回らなければ正前からお墓とは向き合えませんが。墓石は公弁法親王と同じスタイルで、デカい玉の下の石には と刻まれている。安楽心院・公延法親王は公遵法親王が輪王寺宮を再任したあとの第8世輪王寺宮で、この裏っかわには と公延法親王の命日が刻まれている。ちいと灯篭に隠れて見えにくいですが、公延法親王の隣がこちら↓。 写真を撮れる場所に制限があるので墓石に刻まれている文字はすべて読めませんが、【隨宜楽院准三宮一品親王】まではわかる。「隨宜楽院」は第5世輪王寺宮公遵法親王の号。この方は中御門天皇の第2皇子です。輪王寺宮は13代続き、うち公遵法親王は再任しているので計12人。「皇子が欲しいよお~」と天海が言って輪王寺宮は後水尾天皇の第3皇子である守澄法親王から始まり、しばらくは皇子の輪王寺宮が続いたが、公遵法親王を最後に以後はすべて親王の子が輪王寺宮を継いでいる。 このお墓も道路から無縫塔の台座部分が見えるんだけど、それには【天明八年戌申三月二五日示寂】と公遵法親王の死亡日が刻まれている。ここまではいいのですが、唐門から見て向かって左手に並ぶお墓↓ この辺になると相当キビシイ ↑これは銘の後半部分が「三宮一品親王塔」とあるのはかろうじて読めるんだけど、肝心の号の部分が「保」しか読めない。 ただ、「三宮」が准三宮のことであるのなら、輪王寺宮で准三宮となった方のうち号に「保」が付くのは「崇保院」の公寛法親王(第6世輪王寺宮)だけだから、これは公寛法親王の塔かもしれない。こちらなどは「一品親王」ぐらいしかまともに読めなくてもうアウトです↓。ま、一品宮なら輪王寺宮のお墓に間違いはありませんが。 唐門から左手側はこんな感じで↓ 今写真を見返すとこの先にも玉垣沿いに他のお墓に近寄れただろうと思うのに、これ以上のお墓の写真はないので、ちょっと手前の木に行く手を阻まれてもいたし、それに何より公弁法親王のお墓がよく見えたことでもう満足しちゃったのかもしれない。一番奥にも無縫塔がひとつあるから、あれも輪王寺宮の塔かもしれないな。他に宝篋印塔と墓石ちっくなものが移ってますが、公遵法親王のお墓の前にある三重の石塔はナントカ陀羅尼塔と刻まれていたので、灯篭以外の石塔がすべて墓石という訳でもないようです。 歴史ファンの中にはこちらの墓所に立ち寄る方もたまにいますが、輪王寺宮に特別に食いつく人って一般の中にはほとんどいないんでね。でも、わたくしが知る限りでは毘沙門堂の輪王寺宮墓所は手軽に比較的間近で宮のお墓にお参りできる唯一の場所だろうと思うので、少々わかりにくい位置ではありますが、毘沙門堂へ来たらぜひ宮のお墓へもお参りしていってください。さて、ここまではまるでコソ泥のように正規の道でないところを進んできましたが、唐門の正面は立派な参道になっているので、帰りはこちらを降ります↓。 一つ一つの灯篭はジミーな造りですが、これだけ参道の両脇にびっしりと並ぶとさすがに壮観です。 写真の右上に無縫塔がいくつか写ってますが、これは歴代毘沙門堂住職のお墓だろうな。下から見上げたところ↓。 墓所へ行くにはこの参道を通るのがベストでしょうが、何の案内板がある訳でなし、参道を降りて道路に復帰するのもちょいと変なところを通ったのでやっぱりわかりにくいかもしれない。場所だけを探すなら、毘沙門堂脇の道路を上がっていく方が見つけやすいかと思います。で、境内のメイン部分の下側へ出ます。 下の矢印が私が戻ってきた道順で、今度は門を外側から見る形になります。まず出るのが薬医門↓。 うむ、これは外側から見る方が立派だな。そのまままた階段を降りて次の門へ向かう。 これが勅使門。ここはご覧の通り通れないので、門の手前でUターンして下へ降りていくと この時は紅葉はなかったけどね。春と秋にはかなりの人出があるんだろうけど、わたくしが行ったのは冬のオフシーズンだったので、静かな境内を堪能することができてよかった。ここまでの行程は予定のものだったけど、ここから先は完全予定外の場所へ行く。当然、地図だとか何の資料も用意してないので、下に降りたところで人の来なさそうな道路っぱたに座り込んですまほでこの先の道順などを確認。3日目の記事からは疲れた疲れた言ってますが、4日目のこの日は疲労のピークどころではない状態だったので、山科は軽く済ませて和順会館に戻ってお昼を食べようと思っていて、軽い食料しか持ってきていなかった。でもそろそろ13時でお腹もすいたので、少しおやつなどを食べながら道端に座り込んでいた。わたくしの趣味を知っている同僚たちは、わたくしが旅先で1日中バカみたいに歩きまわってることは知ってはいても、まさか道路のはじに座り込んでおやつを食べたりしているなんてことは思いもしないだろう。あ~、早く帰りたい・・・でもあとちょっとだ。重い腰を上げて、まずは長い参道を通って山科駅まで戻る。にほんブログ村
2015年08月20日

導師公然も悲嘆に堪えがたかったのか、時おり諷誦文を読む声がとぎれ、 居合わせた者たちで涙に袂を濡らさない者はいなかった。 寛永寺にも宮の御宝塔を建てることになったようで、ようやく法要が終わると その供養が行われた。 まことに、宮が長生きされることが世の助けともなるべきお方だったことは 世の人にもよく知られたことなので、私がここでくだくだ言うことでもないだろう。 聞くところによると、寛永寺では四七日(28日め)の法要に法華経の頓写(写経)が 行われ、水原検校が平家物語を吟じ、導師は霊山院大僧正の恵寂が務めたが、 宮の御在世中のことなどを表白で述べた時には皆涙で袂を絞ったという。 五七日(35日め)には逮夜から当日にかけて法華八講が行われたが、同僚の坊官である 吉川養盛がその日詠んだという御追善の歌が感慨深いので、ここに記しておこう。 <五七日に当たる日に詠める> よる昼とわかぬ涙の露のまに 三十余りのいつかへにけむ 六七日(42日め)の逮夜にも論議が行われ、西方浄土の阿弥陀仏は法身仏(絶対的な真理 そのものの姿)なのか、応身仏(時に応じて様々な姿で現れる)なのかという議題だったと 聞いて一首。 四十余り八の誓の数をたに 君か齢とおもふかなしさ そして私も御追善のための連歌を詠もうと思う。 大明院准后一品親王は正徳6年3月の24日、山階へ発たれ、4月5日に毘沙門堂の 御寺に入られた。6日に体調が悪くなられ、同じ月の17日に薨去された。 千年も長生きしてほしいと常々神仏に祈り、このたびのご病気には特にあらゆる 仏天に病気平癒の願かけなどをした甲斐もなく、にわかにこのようなことになって しまったので誰もがただ茫然として驚き嘆いたことは言うようもない。 宮が寛永寺に住んでおられた間は、不思議なる御果報にて堂塔伽藍の建立や 数多くの写経をなされ、比叡山飯室谷の安楽寺を律院と定めて僧を置かれた。 また宮の御母君が眠る(百萬遍)知恩寺には永代の追善料を贈られ、さらに 故母君に正三位の位を贈ることを奏上されて、天台宗のみならず人々にも 恵みを与えられるという御徳行は世間の知るところである。 まさに『心地観経』の一節にある「欲知過去因見其現在果」(過去の因縁を知ろうと 欲するならば、現在の果報を見よ:浦井正明氏の訳より)の通りであるから、 御自身の積善によって宮はすみやかに安養の浄土に至り、上品蓮台に住まわれることは 疑いがない。 去年の秋、山階にておん自らの墓所として塔を建てられ、死後はここに葬るようにとの 仰せだったが、今こうして宮が薨去されたことを思えば、すでに十界一如の悟りを 得ているお方だったので、生死をも自在に考えておられたのだろう。 宮は本来いるべき浄土の都へお帰りになったのだと思いつつも、宮を失って悲しむ 我らの心は一体いつの世のどんな時になったら嘆きを忘れられるのだろうか。 せめてもの御追善にと連歌の百韻の初折(はつおり・しょおり:一巻の最初の一句)の 面のうち6句に「南無阿弥陀ふ」の字を置いて書きつらねてはみたが、 もともと私は愚かな上に、ましてこの頃では句を考えていても御在世中の宮の面影が 思い出されて、悲しみだけが胸に満ち広がって涙に目はかすみ、筆の置きところも わからないぐらいなのでどうやって句を吟じようか。 師匠に添削してもらおうかとも思ったが、魂が抜けてぼんやりした状態なので 人と話すのも物憂い。だからこのままで私の思いを手むけにと宮の御霊前に捧げよう。 飾り立てた言葉の誤りがあればそれは翻してただ宮の御菩提の善縁となさせ給えと 三世(過去・現在・未来)の仏に申し奉るものである。 なけゝ世は卯月のかけの雲隠 むかしを忍ふやまほとゝきす あちきなし花橘の香は消て みきりの草そあめにしほるゝ たゝしはし休ふ旅の中やとり ふくと吹なりせきのあさ風 限りない嘆きを込めて詠むのは実に悲しいことだ。筆の行くべき方さえもわきまえない ままに表の6句ばかりを写しておく。このほかにも、唐や大和の歌なども多く あるのだが、ここには書かない。 我もまたことのはくさの手向山 明ぬ暮ぬと涙ながらに 坊官の法印養盛がこの巻を開き見て、「老いの涙とは実にとどめ難いものだ」と言って 一首詠んだ。 誠あることはの花の手むけこそ 仏の国に雨とふるらめ そして私も一首詠む。 一とせもまた過やらてことのはの むかし語りと成そ悲き (終) こうして薗田秀延が操を立て・・・いへ、忠義を尽くした公弁法親王へ、尽きない涙を手向けとした手記「手むけ山」は終わる。正徳6年(1716)4月17日に亡くなった公弁法親王の後を追うように7代将軍・家継も4月30日に薨去したため、同年6月22日には正徳から享保へ改元。その2ヶ月後には8代将軍・吉宗が誕生する。まるで宮の四十九日が明けると同時に一つの時代が終わったかのような流れとなる。秀延はこの年の冬に40歳で引退する。「手むけ山」に出てきた同僚の吉川養盛などは引き続き公寛法親王に仕えたようだけど、5年ほどしてやはり引退している。手記の最後、連歌の前書きの部分ではとめどない悲しみをつづっているものの、宮のお墓に直接お参りできたことで秀延の中では気持ちにひと区切りついたんじゃないかな、って気がする。というのも、帰路では天気がいいからと矢橋から舟に乗ってみたり、歌もちょっと洒落てきたりと気持ちに余裕が出てきたような印象があるのだ。浦井正明氏も、悲しい言葉を連ねてはいても帰りは少し物見遊山的なところがあると言っておられる。吉川養盛については具体的なことはわかってないのかもしれないけど、引退後に上洛したというから、宮のお墓へもお参りしてるんじゃないだろうか。お別れはいつの世でも悲しいものだけど、これだけ尽くせる主人に出会えたことは彼らにとって幸せなことだったろう。さてと、それでは秀延もお参りした輪王寺宮の墓所へ戻りましょう。「209」で載せた写真と同じですが、これが道路っぱたから見える墓所の全景↓。 最初はここから望遠で撮ったりして奮闘していたのですが、なんとか奥の墓の方まで見たくて玉垣沿いに歩いていったらば上の写真の奥の方に写っている唐門の前に出られたのでそれなりにお墓を見ることができました。ただ、ほとんど手当たり次第に写真をばんばん撮っていったので、ちょっと墓の位置関係までは覚えてません。ので、順不同になりますが判別できた墓を紹介していきます。まずはこちらが墓所の正門にあたる唐門↓。 戸には大きな菊の御紋。宮内庁からのお掃除隊はまんず脇の小さな門から入るんでしょうから、この門は皇室などから正式な使者が来る時ぐらいしか開けられないのかもしれない。 で、こちらが門の正面付近にある公弁法親王のお墓↓。 前回の記事にあったような、秀延が見たそのままの墓石がそこにある。輪王寺宮は漢文風の呼び方では「東叡大王」という仰々しい名称になることは「上野第二編(19)」でも紹介してますが、これは寿塔だから公弁法親王おんみずからも「大王」という名称を使っていたらしいことがわかる。手記で秀延は宮が自ら撰した文章を刻ませたものがあると書いてるけど、脇に碑らしきものは見当たらない。「大明大王塔」とある石は6面ぐらいの角材のようだけど、「大明大王塔」の向かって左隣の面にはなにやら碑文らしきものがうっすらと見えるので、これのことかもしれない。寛永寺に建てられたという公弁法親王の塔はたぶん両大師にある例のガードの固い墓所内にあるんだろうけど、秀延の手記からも公弁法親王の場合は寛永寺にあるのが供養塔で、宮ご自身は間違いなくここに眠っておられる。秀延の当時は墓所はここまで整備されてなかっただろうし、秀延の立場としてはいちおう公寛法親王および寛永寺一山の名代でもあるから、わたくしのように遠いところからではなく、墓石のすぐ近くで宮が生きていた時と同じようにぶつぶつと語りかけていたのだろう。男のロマンだなあ。(えっ、違う?)にほんブログ村
2015年08月17日

5月17日は初めての月命日だということで山門(延暦寺)から僧がやって来て 法華経の読誦が行われたが、毘沙門堂の御所に集まった人々に何かを言うことも できず、ただ涙にくれるばかりだった。 そしてまずは宮の御霊牌を拝ませていただいた。 葬儀は5月3日に行われたのだという。 葬儀の日には霊空和尚が宮の棺の前で 人間功業早円成 浄刹真遊忽啓行 偏恨老身違素願 不陪聖衆立相迎 と詠じ、大声で泣いたと聞いた。 それから私は宮の御廟に詣でたのだが、宮が生きていた時と同じように 廟に向かってあれこれと申し上げる自分は狂っているのではないかとも思った。 去年の秋、宮が上洛されて建てた寿蔵(生前に造った墓)の前には鳥居が建てられ、 廟に据えられた丸い石の大きさは一尺にもなろうか。 丸い石の下にある石には「大明大王塔」と刻まれており、そのかたわらには 宮がおん自ら造った碑文が刻まれていた。 大■名公辨字脩礼号玄堂当門第三世後住東叡輪王寺叙一品再補天台座主 准三宮崇班封三千戸退隠当山奏太上法皇号大明院 (ジジイ註:原文では欠損している文字もあるものの、「大王の名は公弁、 字は脩礼、玄堂と号し毘沙門堂第三世にしてのち寛永寺に住まう。一品宮。 天台座主を務めること2回。准三宮という高い地位にあり、封は三千戸、 毘沙門堂に退隠して霊元法皇から大明院という号を賜った」という感じかな) これを見て宮がご生前の頃に自分に命じたことなどが思い出された。 その中には果たせたものもあったし、いまだ果たせていないものもあるが、 いずれにせよ涙の種でしかなく、 無限悲心何日伸 不堪血涙満衣巾 令名須是垂竹帛 愁絶人間夢裏春 (浦井正明氏の意訳によると、「限りない悲しみに閉ざされた心は、いつになったら のびやかになるのだろうか。今は血涙が出るのを堪えることができず、その涙が 衣服を濡らす。宮の名はすべて歴史に残されるだろう。今のこの愁いが人々の間から 消えたらなあと、夢のうちに来る春を待っているのだ」という感じらしい) と詠んだ。 18日から20日にかけては前に同じく勤行が行われた。明日は五七日(35日め)の 逮夜だということで山門から20人の僧がやって来て、段捨不捨の論議が行われた。 21日、正覚院大僧正を導師として曼荼羅供が修された。 法会が終わると、まずは公寛法親王の名代として凌雲院(寛永寺の学頭であり、 公式の場で輪王寺宮の名代を務められる唯一の有資格者)の大僧正が納経し、 ついで寛永寺と日光輪王寺から、さらには諸寺諸山の門主の名代が次々と納経をした。 これを見て私は大変うれしく思った。 御生前に世間から尊崇された宮だからこそ、こうして亡くなってからも 貴族から武家に至るまで日々多くの品が毘沙門堂に届けられ、 その数は置き場もないほどおびただしい。 宮の御霊前には交代で常時10人の僧が詰めて、初後夜3回の勤行を行い、 7日ごとに行われる法会には山門の大衆などがかわるがわる毘沙門堂に来て 法要を行っていた。 そうこうするうちに2、3日が過ぎて24日になった。 いつまでもこうしていても涙には果てがないので、まだ暗いうちに山階を出立した。 最後に毘沙門堂を仰ぎ見て一首。 ミしめなわ結ひもとめぬ玉の緒を 何長かれとかけて祈りし 鳥が鳴く東に行く(江戸に帰る)のだからもっと意気揚々と勇んでもいいはずなのに、 変わりゆく世のはかなさを誰に語ったらよいのだろうか。 今は語り合う友もなく、ひとり逢坂山で一首詠む。 これや此行来人よこと問ん うきに誰かはあうさかの関 この日は天気も良かったので琵琶湖の矢橋(やばせ)を渡ろうと舟に乗る。 かの万葉歌人の満誓沙弥が「漕行舟の跡■白波」(「世中を何にたとへむ朝ぼらけ 漕ぎ行く舟の跡の白浪」:拾遺和歌集)と詠んだことなどが特に思い出されて、 鏡山を見ながら一首。 旅■ろうきにあふミのかゝみ山 やつれしまゝの影をうつして その夜は水口に泊まった。 明けて25日は夜明け前に水口を出て夕方に四日市に着き、そこで宿泊。 26日は早くに四日市から舟に乗り、日の出る頃熱田に着いた。熱田という地名に ふさわしく、暑さも堪えがたくて参った。 もちろん、沈んだ心が慰められる訳もない。 旅寝の夜が続いているので、まるで夢路をたどっているような心地がする。 鳴海潟を過ぎる時に一首。 けふ幾日かへりミやこのふしのねも 遠くなるミの涙なからに 28日、早朝に赤坂を発って浜松で風の涼しい宿を探す。 29日、午前6時頃浜松を発って小夜の中山を越える時にまた一首。 ふる里にうき旅衣かさねきて 帰る夢路や小夜の中山 菊川でも一首。 いか■せん千とせの秋ときく河の 露にはあらてぬるゝ袂を 大井川は増水していて渡るのには苦労したが、明日は江尻に泊まろうと決めて この日は嶋田に泊まった。宇都山には思い出すことが多くて一首。 われもまた夢とや越る宇都の山 うつゝなき身の現成世に 6月1日、今日はことのほか暑い。 去年の末から疫病が流行って、駅ごとに100人、千人という多くの人が死んだという 事を聞いて、旅人の多くも病にかかったようなのでその辺りは通過し、蒲原で 食事を摂る頃には激しい雷雨に遭った。そのおかげで先ほどまでの暑さも忘れて 生き返った心地がした。今日も富士山は見えず、また一首。 けふハ猶都のふしの面影も 幾重の雲やたちへたつらむ 三島で仮眠を取ってまだ夜が明けないうちに箱根路にさしかかると尋常でない雨に降られ、 従者もひどく疲れたのでやおら小田原に宿を取る。 3日、小田原を出て大磯にかかる頃に一首。 駒とめていかに問ましもしほやく 浦の煙の行末のそら 鴫立沢(しぎたつさわ)でも一首。 おもふ其哀れハ今もしられけり 此夕くれは秋ならねとも 今夜は神奈川に泊まる。もうここまで来れば明けるぞ暮れるぞと時間に追われて 心せくこともなく、4日の正午頃寛永寺に帰り着く。 戻るとすぐに公寛法親王からお召しがあり、かたじけないお言葉を戴いて 涙ながらに退出した。 翌日は七七日(49日め)の御逮夜ということで布薩戒が修せられる。 6日の御法要は合曼荼羅供(金剛界と胎蔵界の両方の曼荼羅を懸けて行う)が行われ、 僧正公然が導師として御霊前に諷誦文を読み上げた。 『私共の師である大明院一品大王は、皇室の御出身であられるのに、仏門に入られ、 天台の法門を体得され、その学識は他に越えていた。このため朝廷も格別の目を懸けられ、 同時に帰依もされた。宮は私物は皆人々に施して手許に遺されなかったようなお方 だったが、爵位だけは頂点にまでのぼられた。 東叡山においては、(綱吉公の協力を得て)素晴らしい大伽藍を建立され、天台宗の 光を輝かされた。また、東叡・比叡・日光の三山を管領されるとともに、宗内各寺院の ために尽力されたことは、言葉では言い尽くし難いものがある。このように、次々と 業績を遺された上、公寛法親王を後継の宮と定められ、昨年の夏には湯島の別荘に 退隠された。今春、山科の旧院(毘沙門堂)に帰られて、ゆっくりとされたいとの 御意向で京都に上られたが、あに計らんや、そこでご入滅されてしまわれた。 まさに沙羅双樹の木立も悲しみの声を上げるように、断腸の思いである。 今日の七七日には36人の僧侶が集まって法要の席を設け、曼荼羅供の供養会を営む ことにした。もしこの法会に功徳があるならば、その功徳を尊霊に捧げ、尊霊が 弥陀浄土の上品蓮台の座に坐すことを心から願い、尊霊がそこからただちに毘盧の覚王 (毘盧舎那仏)となって、今度はそのお姿を現して、我々に説法して戴くことを願う のみである。 正徳6年6月6日 住東叡山第6世■公寛法親王敬白』 (原文は漢文でしかも長いので、『上野寛永寺 将軍家の葬儀』(浦井正明/吉川弘文館) 所収の意訳文をほぼそのまま引用しました) にほんブログ村
2015年08月16日

それでは、薗田秀延の手記「手むけ山」の本文に入りますが、予備知識として背景の事情を簡単に書いておきますと、徳川5代将軍・綱吉の将軍就任が延宝8年(1680)。その2年後に公弁法親王が13歳で毘沙門堂門主となり、翌天和3年(1683)、14歳で輪王寺門主。ウィキペディアによると公弁法親王が関東に下向したのは元禄3年(1690)とあるんだけど、同じ年に秀延が公弁法親王付きとなっているから、宮が寛永寺入りした当初から秀延は宮に仕えていたということかもしれない。宮と綱吉との付き合いは実際には宮が寛永寺入りした時から始まったのかもしれないけど、その後2人は天下を治める上でのよきパートナーとして政界と仏教界に君臨し、20年近くの時を共に過ごした。宝永6年(1709)、63歳で綱吉が死去。宮は大導師として綱吉をあの世へ送り出す大役を果たしている。正徳5年(1715)5月5日、公弁法親王は引退して輪王寺宮を公寛法親王へ譲る。もう輪王寺宮ではなくなったためか、「大明院宮」という名になったらしい。同年の秋、宮は上洛して毘沙門堂に自らの墓所として塔を建てる。この時、公弁法親王は46歳。翌正徳6年(1716)3月24日、公弁法親王は山階(山科)へ向けて出立する。宮が上洛したのは里帰りでバカンスを楽しむためではなく、その少し前から病がちになっていたため、山階で養生するためだったという。それは、幕府から小普請組の武士が宮の護送を命じられ、また幕府の命により御典医が同行していたことからもわかる。養生するのになんでわざわざ山階まで行ったかというと、京には宮の体をよく知る医師がいたので、その治療を受けるためだったらしい。秀延は宮の山階行きには同行せず、品川まで見送りに行っただけで江戸に残っていた。時の将軍はまだ幼い7代目・家継。宮が山階へ向けて出立した同じ頃、家継もまた病に伏せっていた。さて、背景はここまで。秀延の文章だけを追ってるとちょっと経緯が見えにくい部分もあるのですが、本文を中断して解説を挟むのは極力避けたいので、過去の記事と関連する内容についてはリンクを貼って、あとは本文だけでも意味が通じるように本文の中に説明を埋め込みます。斜め文字の部分は秀延が詠んだ歌です。「209」でも書きましたが、秀延の文章そのものを読みたい方は『横浜市歴史博物館紀要 VOL.9』をご覧ください。 正徳6年4月17日、大明院宮が薨去されたと21日の夕方知らせが入った。 突然の報を受けて皆が集まってきたものの、ただワタワタオロオロするばかりで なんともしようがなかったが、とにかく定例のお勤めのために日光においでになっている 公寛法親王に急ぎお知らせした。 思えば先月の24日、宮が山階毘沙門堂へ向けて駕籠で出立する際、 私も品川の駅まで見送りに行ったのだが、少年の頃に下向して以来、 長く上野におわして住み慣れていらしたのだから宮もずいぶんとお名残惜しかったようで、 お支度もいつもとは違うようにも見えたものだ。 宮はこの春頃より体調が優れなかったところへ、長旅の疲れが出たのか 四日市に着く頃にはかなりご気分が悪くなっていたようで、これはマズいとのことで 山階への旅路を急ぎ、4月の5日に山階へ着いたのだが、 その翌日からはさらに病状が悪化した。 将軍から遣わされて山階まで同行した武家医師たちはここで役目を終え、 京の医師・原芸庵にバトンタッチした。かねてから宮のお身体を熟知していた芸庵は 早速治療にあたったが、あいにくはかばかしい効果はなく、どうしよう、 誰を呼ぼうなんてことを言ってるうちに感染症が広がり17日の朝6時頃に 亡くなられたということだ。 ああ、あの品川への見送りが終(つい)の別れだったなんて、涙が止まらない。 22日には仮のお位牌を設けて御追福の法要が営まれた。 23日には早くも初七日を迎えるとのことで、宮にお目をかけていただいた僧達が 集まって法華三昧を修す。 午後4時頃、日光におわす公寛法親王からの指示が届いた。 明日はまず初七日の御追善法要を行うようにとのことなので、 早速忌み日の前夜に行う逮夜(たいや)法要として一山の衆徒を集めて 例時の光明供を修した。 またこの日、お城からは3日間の鳴物停止令(なりものちょうじれい。歌舞音曲を 禁止すること)が出されたので、いつもはもの騒がしい江戸の町も、 宮の死を悼んで静まりかえっている。 24日の朝6時頃、袂も濡れる大雨の中、一山衆徒が集まって法華三昧を修した。 山階から使者がまたやってきて、去る18日に御入棺を終えたとのことだった。 あ~あ、せめて宮の御遺骸を拝めたらなあ! とは言っても、私には仙術で上野と山階の距離を縮めることなんかできやしないし。 この日知ったところによると、山階へ向かっている宮に対し、 将軍家からねぎらいのお言葉と折櫃(おりびつ)に入ったさまざまな贈り物が 届けられていたようだ。 せめて宮があと1~2日早く山階へ着いていたら、 もっと芸庵の治療も受けられただろうに。 また、宮からも将軍へ病気見舞いのために坊官の長門守が使者として遣わされていたのだが、 折からの大井川の増水によって足止めされたため、 長門守も将軍の御薨去に間に合わなかったのだという。 25日から29日には今まで通り初後夜(しょごや:夜8時と朝4時に行う)の勤行が 行われた。<ジジイ註:これに日中の勤行を合わせて1日3回行うのだが、 これは将軍の薨去の時と同じ扱いだと浦井正明氏は語る> 29日、公寛法親王が日光から還御されたが、法親王はすぐに宮の御霊前へ行かれた。 その様子を見て、流れる涙を押さえることができず、この上はなんとしても山階へ行って 宮のお墓を拝みたいものだと強く心に念じて嘆いていた。 そんな私の願いが天に通じたのだろうか、公寛法親王からお召しがあり、 寛永寺の一同になり代わって山階の御墓に参って香花を手向けてくるようにとの 仰せを承った。 このありがたい仰せに、ただ涙の他にはお返しする言葉もなく、 公寛法親王のもとから下がった。 晦日は二七日(14日め)の御追福に金剛界の曼陀羅供が行われた。 導師は伝法院僧正公然。 将軍家からは老中・久世大和守重之が遣わされ、香典として白銀五千両が贈られた。 5月1日から7日までも同じように勤行が行われた。三七日(21日め)の御作善に 施餓鬼供が行われ、観理院僧正が導師を勤めた。 明日はいよいよ山科に出立の日なので公寛法親王に暇乞いをしたが、 公寛法親王からいただいたねぎらいのお言葉に涙が溢れた。 8日、夜半から激しく雨が降り続いていたが、明け方に出立。 見送る年老いた両親や妻子の心のうちはどのようなものだろう。 私は長い人生の旅路を宮と共に過ごし、宮のご長寿を常々願ってきたのに、 宮は48歳という若さで早々に輪王寺宮の職を譲られてしまった。 今にして思えば、宮にはまるでこうなることがわかっていたかのようで、 隠居も致し方なかったのかな。 品川の駅を過ぎる頃にはまだ雨は降っていて、この春にここで 宮を見送ったことなどが思い出されて世のはかなさを感じた。 夕方には雨がやんだ。 まねきてと思ひ入日のかけもをし 帰らぬ君か行末のそら この夜は藤沢に泊まった。ちょうど将軍が亡くなった時でもあるのだから もっと世間はワサワサしても良さそうなもんなのに、これも太平の世のしるし なのだろうか、旅の夜の寝づらさもなかった。 9日は小雨。箱根路に近くなるほど風が強くなって、雨はやんだ。 ようやく峠に出てそこで泊。 翌日は鶏の鳴く頃、食事を取って出発。 雨のそぼふる蒲原の茶店で従者たちと共に食事を取る。 富士山を見ても心は晴れず、一首詠む。 富士の根の知らでやいかにうき雲の かかればかかるわが涙とは 薩埵山を越える頃には雨風が激しく、興津川も増水していたのでやおら興津に宿を取る。 11日はよく晴れた。興津を発ち、午後4時頃に大井川を渡る頃には激しい雷雨で、 やっとのことで金谷に着いてみると、ちょうど同僚の長門守が京から江戸に戻るのに 嶋田に向けて通るということを聞いたので、会って一緒に泊まったが、 寝ながら別れを告げただけで積もる話を語り合うこともなかった。 ただでさえ気の沈む旅だというのに、こんなことがあってさらに気は沈んだ。 うきかなやともに涙の大井川 哀(あわれ)をとむる袖のしからみ 12日は朝早く金谷を出た。 小夜の中山を越える時に一首詠んだ。 松か枝に朝日のかけはさしなから 涙にくれぬ小夜の中山 今日は1日晴れ渡って、日の高いうちに浜松の宿に到着。 ずいぶんと江戸から遠くなったけど、まだ目的地まで遠いと思うと 心も落ち着かない。きっと都に着く頃にはますます悲しみも深くなっているのだろう。 そうして日を重ね、16日の午後2時頃とうとう山階に着いた。 途中、勢田(瀬田)の唐橋を渡る時にも一首詠む。 幾千代と祈りしものを君まさて われのみ渡る勢多の長橋 にほんブログ村
2015年08月13日

すみません、ついでにカレーいっちゃいます最初にカレー報告をしたのが2013年10月だから、探索を始めてもうすぐ2年になるのか。自分で買ったもの、人からもらったものを取り混ぜてこれまで結構紹介してきたと思うけど、いくつぐらい記事に載せただろう・・・と思って数えてみたら、きっかり100種類だった。書きもらしてるのもいくつかあると思うし、出かけた先で買ったものはそちらのシリーズで載せているので、実際はもう少しあると思うけど。それでもまだまだご当地カレーのたぐいは沢山あるだろうし、大辛やアジアンなのはパスしてるから全国で販売されているレトルトカレーの総数は一体どのくらいあるのだろうかと空恐ろしくなるぐらい、レトルトカレー市場は奥が深い。カレーの探索はまだしばらく続くだろうし、後からいちいちいくつ紹介したのか数えるのも面倒なので、今回からはタイトルにカレーの数をナンバリングすることにしました。さてと、セキュリティよしおが立て続けにカレーを送ってくれたので、まずはそちらから紹介しようかな。 ↑酒カレーは食べた。ほんのり酒の味がして、美味しかった。 ↑これも先日食べた。 わたくしのおすそ分けを食べ続けてレトルトカレーの美味しさに慣れてしまった母親は、「久しぶりに美味しいカレーを食べた」と言っていた。そりゃ近江牛だもん。あ、肉がウリのカレーはよく混ぜてから食べると旨みが全体に広がって美味しいですよ。以前買った飛騨牛のカレーの箱に混ぜて食べろと書いてあったので混ぜてみたところ、確かに美味しかった。それ以来、濃厚な肉のカレーの時はまぜまぜしてから食べてます。 近江牛だの神戸牛だの、高そうなものばっかり・・・過去の記事でもよしおが送ってくれたものが多く混ざっているので、彼女はわたくしのためにかなりお金を使ってます。よしおから食べ物が届くと、母親はいつも「なんでそんなに買ってくれるの?」といつも首をかしげてます。そりゃ愛でしょ、愛・・・彼女はなぜかわたくしにはいつも大甘なのだ。 ↑フツー、レトルトカレーといえば1食分だけど、これは珍しく2食分入っている。 【呉海軍亭肉じゃがカレーとは・・・ 軍港の町呉市。呉市は肉じゃがの発祥の地として名乗りを上げています。海軍では 航海に出た際、月日の感覚が解り憎くなるため毎週金曜日にはカレーが出されて いました。その「肉じゃが」と「かれー」を合わせたのがこの商品です。 肉じゃがの様な大きな具と中辛のレトロ感あるカレールーが特徴です。】 (外箱の解説より原文のまま)肉じゃが発祥の地?そんなのあるんだ・・・海軍のカレーは以前にも「よこすか海軍カレー」を紹介してますが、同じ金曜日のカレーでも基地によって特色があるもんなのかな。少し前から、TVでは連日のように自衛のための新しい法案のニュースが報道されてますが、自衛隊を「軍隊」なんて言おうものならソッコー世間は食いつくのに、カレーの世界では「海軍」の表記がまかり通っている・・・税金で食ってることを忘れて与党の上げ足取りに奔走するセンセイ方や「誰の子供にも人を殺させません」て最近結成された主婦連合の奥様方の中にも、「海軍のカレーって美味しいわよね」なんて言っちゃってる人は案外多かったりしてね。よしおシリーズ最後はこれ↓。 今回ここまで紹介したのは最近もらったのがほとんどなのでまだ食べてないのも多いですが、これもまだ食べてない。が、外箱の解説によると 【辛いものが苦手なロンドンブーツ1号2号の田村淳が、自分でも食べられる ”辛くなくておいしいカレー”を作りました。浜ちゃんのような普通の人には パンチが足りないかもしれないので、辛くなる魔法の粉(とうがらし)を入れて 調節してください。】とあるので、「唐辛子つき甘口カレー」ってことらしい。色々考えるなあ。さてここからは自分で買ったものです。ほとんどのカレーはフツーに美味しいけど、たまに「ハズレ」もある。最初はレトルトカレーの美味しさに感激したものの、100食以上食べてるとその美味しさにも慣れてしまって、最近じゃよほどのことがないと印象に残らない これは柏の名店「ボンベイ」から出してるカレーで、「柏のご当地カレーだ」と思って買ったのですが、味は・・・(←記憶にない)。確かもひとつ骨つき肉のカレーも出してたな。でも結構高かったからこれしかまだ買ってない。 たいめいけん2種は東武ストアに並んでたから買っただけなんだけど、カレー屋さんかと思ったらこないだTVでたいめいけんが映ってて、洋食屋さんだと初めて知った。確かにどちらの箱にも「洋食屋さんの」って書いてあるけど、見ちゃいねえし 結構チーズカレーって多いんだけどね。チーズを具材にするよりも、どうせチーズを使うんなら「焼きカレー」にした方が美味しいようにわたくしは思う。わたくしが焼きカレー方式で食べるようになったのは、昔懐かしい「赤間ヶ関編」以降のこと。久々に赤間ヶ関編をちょっと読み返してみたけど、門司港名物焼きカレーを食べられなかったことは書いてあったものの、カレーを買って帰ったことまでは書いてなかった。結局ちゃんとしたお店で門司港名物焼きカレーを食べられなかったわたくしは、門司港駅でレトルトの焼きカレーを売ってるのを見て買って帰りました。箱の解説にはカレーの上に卵を落としてチーズを乗せて焼いて食べろと書いてあったのでその通りにやってみたところ、これが美味しかった。うちではカレーは結構大量に作るので、何度か同じカレーを食べ続けることになる。そんな時、門司港名物風にして食べるとまた目先が変わって飽きない。ま、カロリーは少々高くなるけどね。今日は事情があってわたくしの晩メシはレトルトカレーだったので、平凡そうな味のカレーを選んで門司港名物風にして食べました。普通のカレーに飽きたら、ぜひお試しください。 ↑これは先日食べたもので、これにも具材としてチーズが入ってるんだけど、全体的に濃厚で美味しかった。これ結構オススメ。 キーマカレーはハズレが少ないというのがわたくしの持論だったけど、やはり当たり外れはあることを知った(笑)。いや、別にマズかった訳じゃないんだけど、ちょっと薄いとゆーか・・・ 【インド エビのココナッツミルクカレー 南の海沿いでは、魚が豊富にあり、多く食べられております。ヒンドゥー教徒の 割合が多く、肉類の料理はほとんどありません。スパイスも多くとれる地方ですが、 ココナッツが多くとれることでも有名です。よって、牛乳やヨーグルトよりも ココナッツミルクを使う頻度が多く、コクを出すのに使われます。たっぷりの野菜に、 えびとココナッツミルク、そしてスパイスにこだわった、えびのココナッツミルク カレーをお楽しみいただけます。】 (パッケージの解説より)エビは確かに入ってたけど数えるほどしかなかったのでシーフードカレーという感じでもない。ココナッツミルクならマイルドな感じなのかと思ったら、インド風カレーなだけあって結構スパイシーだった。にほんブログ村
2015年08月12日

首切地蔵のすぐ近くの塀には寄付のお願いの看板があり、延命地蔵尊についても少し載っているので、少し長いですが全文を紹介します。 【荒川区指定有形文化財・歴史資料 「小塚原の首切地蔵」修復寄付募集のお願い 江戸時代の寛保元年(1741)建立から関東大震災も耐えてきた「首切地蔵」が 東日本大地震に罹災し左腕が落下するという被害を負いました。 「小塚原の首切地蔵」は、江戸の刑死者をはじめとする無縁の供養のために小塚原の 仕置に建立されました。この地蔵尊は、鈴ヶ森と並び称された江戸の二大刑場の一つ 「小塚原の仕置場」の象徴であり、柔和なお顔で時の流れを静かに見守り、江戸の 歴史を今日に伝えてきました。 建立年代 寛保元年(1741) 法量 一丈二尺(約3.6m) 願主 東都浄心 石工 大坂西横堀 中村半六 材質等 花崗岩 20数個の石を組み合わせて建立 もとは、隅田川貨物線の南側に安置されていましたが、明治28年(1895)、 鉄道敷設工事のため現在地に移設されました。地元の南千住の皆様に「延命地蔵尊」 と呼ばれ、暮らしの安穏を見守る地蔵尊として親しまれています。しかしながら、 平成23年3月11日午後2時46分に発生しました東日本大地震により延命地蔵尊 の左腕が落下、また胴体部分も大きくズレが生じ、倒壊の危険性が高くなったことから、 3月17日荒川区文化財保護条例に基づく文化財修復のための補助を受け、第一期 修復工事(解体施工:清水建設株式会社)を実施しました。 今後、荒川区教育委員会・荒川区文化財保護審議会のご協力のもと復元に向けた調査・ 研究を経て、第二期修復工事を実施する予定でおります。区内外の皆さま、文化・観光等 各界の文化財を愛好される方々のご理解・ご支援をいただき、修復の事業完遂に邁進 致したいと存じます。つきましては、ご出費多端の折、誠に恐縮に存じますが、特段の 浄財の御寄進を賜りますよう伏してお願い申し上げます。 募金目標 600万円 勧募請願一口 500円(窓口:延命寺寺務所) (寄付頂いた方は、お手数ですが、寄進帳にご記帳願います)】 (現地看板より。漢数字は戦国ジジイが変換)看板には写真も載っており、こちらが震災前のお地蔵様↓。 んで、こちらが罹災後↓。 なんだかダルマ落とししたような状況になっちゃってますが、宝珠を持つ左手がなくなっちゃってますしてこんな風に↓ 大がかりな修復工事が行われたようです。第二期の工事を目指してるってことは、そのうち電車からお地蔵様が見えない日々が続くのかもしれません。ただ、看板はもうひとつあって、東日本大震災で罹災した文化財に対する復旧支援事業からの助成も受けられることになって平成24年7月から工事開始のメドが立ち、8月末の完成を目指しているとの説明があるので、あるいは工事はもう終わってるのかもしれない。終わってるのならなぜカンパのお願いの看板が残されてるのかといえば、第二期工事のメドは立ったものの、その時点でまだカンパが目標額に到達していなかったということらしい。それからちょうど3年経った今でも看板があるので、まだ穴埋めができていないのかもしれないな。看板には修復工事の手順の図も載っていた↓。 でも一口500円てのはいいよな。寺によっては最低出資金が5千円とかいちまんえんに設定されてることもあるけど、500円なら色んな人が気軽に出しやすい金額だ。しかし、もうそ(猛暑)の中で体力の限界を越えていたわたくしは汗だくで寺務所に入っていくのがイヤで、延命地蔵尊の前にある賽銭箱で失礼させていただきました。さて、首切地蔵の奥には何やら赤い屋根が見えたので、脇の方にあるのかと回り込んでみたら 現代的な永代供養墓があるだけだった。お地蔵様のおしりの方にあるのか。それでまたお地蔵様の正面側に戻ったんだけど、刑場跡地でなくたって古い石仏などが密集している場所というのはあまり正視したくないセキュリティよしおにも、やたらと無縁仏などに手を合わせるもんじゃないと注意されてるし。けど、ちらりと見るとそんなに怖がることもなさそうなのも多く混ざっている。まずは首切地蔵の手前に立つお地蔵様↓。 ほお?子供とセットなのは、あまり見たことないよな。ヒゲ文字の石碑の裏にあるのは 大きい方には馬頭観世音とあり、右のは剥落してるけど残っている文字からは、お不動様を祀ったものらしい。あ、そうか、こういうものが集められているのかと少し安心して周りの石仏を見ると 名前らしきものも刻まれているので、これは庚申塔じゃなくあるいは墓石なのかもしれないけど、それにしても如意輪観音多し。読めるものでは元禄とか享保という元号が刻まれているのもある。しかし、その頃はここで一般人の埋葬はされなかったと思うんだけどな。近在のものをここに集めたのだろうか?で、お地蔵様の脇へ行ってみると あ、お稲荷様だったのか。しかしここに鎮座されるお狐様は なぜかシングル。相棒はどこへ行かれましたん?以上で今回の行動は終了。でも帰りの電車でも親子連れがウザくて途中で席を移動するハメになったし、実にツイてない1日だった・・・最寄りの駅から家までは自転車で5分ぐらいなんだけど、ジリジリと太陽に焼かれながら漕いだ最後の5分はこたえた。普段はあまり炭酸を飲まないわたくしが、信じられないほどコーラをがぶ飲みしたぐらいだから。それにしても、トラブルの連続で最後に行き着いたのがケージョーとはね。まさかあそこに呼ばれるために一連のトラブルがあった訳じゃないだろうな、と思ったけど、まあそーゆーことを考えるのはやめましょう。あとは鈴ヶ森に行けば江戸のケージョー制覇か!?といけない妄想が頭をもたげたけど、まだ他にも刑場はあったらしい。この日の歩数は14.975歩。もひとつおまけに、この日は帰ってからもちょっとしたトラブルがあった。セキュリティよしおから岡山のブドウを送ったから、という連絡を前日あたりにもらってたんだけど、夕方になってそれが届いた。よしおは「ぶどうを送った」としか言ってなかったから、紫のぶどうかな、それともマスカットかなと思っていたら、伝票には「ぶどう」に○があり、品名は「マスカット」と書いてあった。やったあ、マスカットだ~と思いながら開けたけど、やけに箱が大きいのでまさか2房入ってるのか?と思ったら、 ・・・どう見ても桃だよな、コレいや桃も好きだし、これも大きくて美味しそうだからどっちでもいいんだけど、伝票にははっきりマスカットって書いてあるのに。しかし、開けた瞬間から桃の香りが広がって、うちの娘さん(大)は少し前から目が見えなくて耳もほとんど聞こえない状態で、でも鼻だけは利くのでわたくしが桃を前にしてもんもんとしている間もしつこく匂いを嗅いでたんだけど、気がついたら桃に前歯を立てていた。あ~、もう返品できね~。まあうちは桃でも全然オッケーなんだけど、よしおにどうやって報告しよう・・・でも届いた連絡はしなきゃならんし、配送の間違いは明らかなのでもしよしおが他の人のために手配した桃がうちに届いたんならマズいことになる・・・のでありのままを報告したんだけど、翌日買ったお店に問い合わせをしたらしく、桃は返品しなくていいし、あらためてマスカットを送ってくれるということだった。うわあ、フルーツ王国・おきゃやまの桃とマスカットをダブルで!?現地で贈答用の果物を買ったらかなり値段が張るということを知っているので、まともに2つの品を買えば総額では結構なお値段になったハズ。という訳で、この日最後のトラブルは盆と正月が一緒に来たような実にシアワセなハプニングでございました。後から届いたマスカット↓。 沢山あるので桃は姉のところにもおすそわけしたんだけど、後から聞いたらうちの両親はこの見事な白桃をカットせず、なんと丸のままかぶりついたらしい「美味しかったよ~」と言ってたけど、そりゃそうでしょう。高級果物に丸ごとかぶりつくなんてフツーしませんから。にほんブログ村
2015年08月11日

橋本左内の墓のすぐ隣にあるのがこちら↓。 こちらが吉田寅次郎松陰先生のお墓です。先生の埋葬の経緯について少々ネットで調べてみましたが、ま~幕末随一の過激な人であり有名人で人気者の先生ですから、先生を扱った物語などにもかなりフィクションが混じり込んでいるらしく、そういう怪しげな情報がさも史実かのようにネットで飛び交っているので、自分で史料などにあたっていないわたくしには何がホントで何がガセなのか判断できない・・・ので、ネットで読んだものを基にしてそれらしい話などを書くのはやめますが、小伝馬町の御椓場(おたくば)で刑を受けた先生の遺体はここ回向院に運ばれ、「高杉晋作らが金を握らせて埋葬させた」という話もネットで読んだけど、橋本左内の件を考えれば全くあり得ない話でもなさそう・・・ただ、もしそういうことがあったとしても、左内も立派な墓を建てることは許されなかったんだから、せいぜいのところ簡単な埋葬ぐらいだったんじゃなかろうか。春嶽公は「幕末の四賢侯」と謳われ、幕府の政事総裁まで務めた方だけど(ただし公の政事総裁就任は安政の大獄以後のこと)、そういう方のバックがあってさえ、左内は堂々とした墓石を建てることが許されなかった。まして一介の長州藩士が金を握らせたところで、ちょっと穴を深めに掘るぐらいが関の山だったんじゃないかという気がする。しかしその4年後、左内と同じように松陰先生の罪も許されたので、高杉ら門弟によって松陰先生の墓も改葬された。その改葬先が現在世田谷区にある松陰神社で、ここで初めてまともな埋葬がなされたんじゃないかと思われる。つまりは左内と同じく現在の回向院の墓はからっぽという訳だけど、さすがに松陰先生のお墓というだけあって枯れた花が残っている。誰かファンが手向けたのだろうか。 それにしても、超有名人のお墓だというのに解説板も碑もないのが意外だったけど、左内の墓と違って松陰先生のお墓の前には ナニコレ・・・なんで1円玉と5円玉限定なのだ?不思議な光景に首をひねっていると、すぐ近くを日比谷線が走っていった↓。 ええと、松陰先生のお墓のすぐ脇には頼三樹三郎の墓もあったようなんだけど、そういう記憶は暑さで綺麗に昇天してしまって、先生のお墓にお参りして満足したわたくしは、まっつぐ墓地の入口まで戻った。もともとここに墓があることは知らなかったし、今回南千住で降りたのはアレを見るためだったんだけど、アレがないな、アレが・・・史跡エリアとは別に回向院には墓地が広がっているのでアレを探しにそちらの墓地へ入ろうとしたら、こんな貼り紙が目に入った↓。 迷惑ってしかし、この貼り紙のおかげでアレが回向院にないことがわかった。そう、クソ暑くてヘロヘロな中わざわざ南千住で降りたのは、「首切り地蔵」へお参りするためだったのです。え~、お隣のお寺ね・・・お隣っていうから当然隣接してるもんだと思って、とりあえず回向院を出て線路沿いの道を歩いていった。ここはJR常磐線とメトロ日比谷線が通っていて、確かどちらの窓からも首切り地蔵が見えていたはずだから、線路から離れなければいいんだろ?と思って回向院と線路の間の道をしばらく歩いていったけど、寺なんかどこにもない 途中の道沿いには何やら人だかりがあって行列などを作っていたので、まさかこれじゃないよな、と思ったけど、どうやらそれは食べ物やさんだったらしい。このクソ暑い中、食事のために列に並ぶなんて元気な人達だ・・・しばらく歩いても寺らしきものは見つからなかったので、途中で引き返しながらすまほで検索してみた。「お隣の寺」としか書いてくれてないんだもんなあ・・・「○○寺です」って書いてくれればいいのに。で、手前にあるJRの線路を越えたところに「お隣の寺」があるとわかったので地図を見ながら歩いていくと、高架をくぐったすぐ先にその寺はあった↓。(場所はこちら) すぐ脇には日比谷線の線路が通っている↓。 そうか、JRと日比谷線のどちらからも見えるんだから、線路に挟まれた場所にあるってことだな。つまりはどちらの線路もケージョーの中を突っ切ってるってことで、どちらも平日の通勤時間帯なんかはものすごいラッシュですから、1日で小塚原を通過する人数は相当のものになります。わたくしはいまだTX(つくばエクスプレス)に乗ったことはないんだけど、この辺りはTXは地下を通ってるのかな。平成10年、ここらあたりでTXの工事をしていた時、人骨が発見された。工事関係者は仰天してお祓いをし、工事は中断されて急遽発掘調査が始められた。『南千住回向院別寮埋葬地の調査』(八代和香子・水山昭宏/江戸遺跡研究会会報NO.91)の図を見ると、調査区域は回向院から延命寺へ向かう途中のちょうどJRの高架下にあたるようで、最初の時点では頭骨ばかり104体(105体とも)出て、のちの調査では「お頭つき」の骨なども発掘されているらしい。同論文によると、最初に発掘された104体を調査したところ、 【性別は、男性100体(うち疑問9体)、女性4体(うち疑問3体)。 推定年齢は成人102体、未成年の個体は2体である。動物の噛み痕は無かったが、 多くの損傷が見られた。但し、残首の明白な痕跡は確認されなかった。】だそうな。のちの調査では 【馬を中心に猫・犬など100点ほどの獣骨が出土した。驚くべき事に、B区中央の 包含層基底から出土した木棺は、馬の棺であった。A区も合わせ、骨格が揃っている 可能性のある馬が数カ所で出土しているが、棺に埋葬されていたのはこの1点である。 A区では馬頭骨の集積もあった。】 (前掲論文より)だそうで、きっと棺に納められていた馬は徳川家で特にかわいがられていた馬だったんだろうな。なんでも、この辺りには近世には湧水池があった可能性が高いらしく、そのため骨の保存状態はいいらしい。ただ、いいと言っても普通の墓地とは違うので、かなり散乱しているものもあるようなんだけど。骨というと白いものを思い浮かべる方がほとんどだろうと思いますが、空気に触れると骨は白くなるそうで、最初に発掘された頭骨の写真を見るとどれも黒っぽい。調査は恐らく限定された区域だけだろうから、この近辺には今も黒ずんだ骨が埋まっているのだろう。南千住の駅から日光街道に出るまでの区間にある商店街は「コツ通り商店街」というそうで、もちろん「コツ」は「骨」のことですが、文字通りのコツ通りだったことがわかる。さて、こちら延命寺はもとは回向院の境内だったのがのちに独立したお寺らしいんだけど、まずは入口にある解説板から。 【小塚原刑場跡と小塚原の首切地蔵 小塚原刑場は、火罪・磔・獄門などの刑罰、無縁の埋葬・供養、刀の試し切り、 腑分け(解剖)などが行われ、また、徳川家の馬の埋葬地としても利用された。 間口60間余(約108メートル)、奥行30間余(約54メートル)の敷地が あったが、明治初年に廃止となり、回向院の境内や官有墓地、宅地などになって いった。 首切地蔵は、寛保元年(1741)に造立された石造の延命地蔵菩薩である。 無縁供養のため、建てられたといわれる。明治29年(1896)に開業した 隅田川線の敷設予定地に安置されていたため、工事に伴い移された。 明治30年代から昭和30年代、毎月5日、14日、27日に地蔵の縁日が 行われていた。多くの露店や見世物小屋が出るなど大変な賑わいを見せたという。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)そうか、もともとは行き倒れの人の供養のためのお地蔵様だったのか。そういえば、中山道の行き倒れの人馬を埋葬した場所にあったのも「延命地蔵」だったな。小伝馬町の「穴」の上に鎮座しているのも延命地蔵だったし、刑場なのに「延命」なんて変じゃね?って書いてる人を見たことがあるけど、供養のために「延命」と言挙げしているのでしょう。 中へ入ってみると、檀家さんの法事が終わった時のようだったけど、あんまり寺っぽくない。 少し進むと、正面にお目当てが見えた↓。 あれ?延命寺は浄土宗だっていうんだけど、こんなとこにヒゲ文字のなんみょ~ほ~れんげ~きょ~が?ちとこれの由来はわかりませんが、ともかくこちらが首切地蔵(延命地蔵尊)↓。 ん~、電車から見てたのとはまた感じが違うな。と思って眺めていたら、後ろを常磐線が通っていった↓。 にほんブログ村
2015年08月09日

回向院の墓地はおおむね奥の方にまとめられているけど、観臓記念碑の隣にはこんなのがあって↓ この裏手にいくつもの墓が整然と並べられている。回向院には安政の大獄で処刑された志士や桜田門外の変の実行犯やその他著名な犯罪者など色々な墓があるらしいが、今回は思いつきで寄っただけで事前の知識は何もなかったし、このクソ暑い中でわたくしがお目当てとしていた墓は限られていたので、ここのエリアはスルー。それに、正直言ってこの付近には長居したくないので、そのまま境内の奥の方へ進むと正面に解説板があった。 【荒川区指定記念物(史跡) 小塚原の刑場跡 回向院 小塚原の刑場は、寛文7年(1667)以前に浅草聖天町(現台東区)辺りから 移転してきたといわれています。間口60間(約108m)、奥行き30間余り (約54m)、約1,800坪の敷地でした。日光道中に面していましたが周囲は 草むらだったといわれ、浅草山谷町と千住宿の間の町並みが途切れている場所に 位置していました。 小塚原の刑場では、火罪・磔(はりつけ)・獄門などの刑罰が執り行われるだけではなく、 刑死者や行倒れ人等の無縁の死者の埋葬も行われました。時に刑死者の遺体を用いて 行われた刀の試し切りや腑分け(解剖)も実施されました。また、徳川家の馬が死んだ 後の埋葬地として利用されることもありました。そして回向院下屋敷(現回向院)は これらの供養を担っていました。 明治前期には、江戸時代以来の刑場としての機能は漸次廃止、停止され、回向院は顕彰、 記念の地となっていきました。また「観臓記念碑」は、杉田玄白や前野良沢らが、 ここで腑分けを見学したことをきっかけとして「ターヘルアナトミア」の翻訳に着手し 「解体新書」を出版したことを顕彰するため建てられたものです。回向院境内には こうした数多くの文化財が残っており、刑場の歴史を今に伝えています。】 (現地解説板より)この解説板の向かって右手が史跡エリア。解説板には墓の場所を示す図もついている↓。 あれ、鼠小僧の墓がこんなとこにある。まあ本所の回向院の墓は供養墓って書いてあったもんな。埋葬はこっちにされたってことか。解説の中に「回向院下屋敷」とありますが、ここはもとは本所回向院の別院という立場だったらしい。でも本所の鼠小僧の供養墓には昔から多くの参詣人が詰めかけ、「欠き石」は現在までに数百基置き替えられていると本所の解説にあったし、今では受験生まで祈願に来るというから、昔も今も「鼠小僧の墓」は本所の方がメジャーだったってことだな。徳川家の馬がここに埋葬されたっていうのも、徳川家綱の愛馬の話を考えればいかにも回向院らしいエピソードだってカンジですね。え~と、鼠小僧の墓の近くには「毒婦」といわれた高橋お伝の墓もあるな。ふんふん、今回のお目当ては一番奥のようだから、通る時に見ていこう。そういえば、八百屋お七が火あぶりになった時の台の石が残ってるとかって話を前に読んだことがあるけど、あれは鈴ヶ森の方だったかな。で、大体の場所を確認してから墓地へ向かうと、史跡エリアの門扉には やっぱ、回向院だ~(←こればっか)。門を入ったところの全景↓。 墓地に慣れているわたくしといえど、今回ここに来る予定なんか全くなかったし、ゆえにノリノリで来ている訳でもない。勢いで南千住で降りてしまったのは本当に魔が差したとしか言いようがないのですが、ここはただの墓地ではなく有名な刑場地。ので、暑かったせいもあるけど手早く観るものを観て早くここを離れたかった。そのためか、墓地の配置図を確認して1分も経ってないのに、鼠小僧と高橋お伝の墓のことは門を入った時点で綺麗に忘れてましたそれで、ずんずんと奥まで進む。 これが橋本左内の墓で、この手前にはデカい顕彰碑が建っていた↓。 文字は細かいし漢文だしとてもまともに読もうなんて気にはなれなかったのでボケ~としてこれを眺めていたのですが、静かな境内に突然かすかな音がした。小伝馬町の「穴」の近くにいた時、風もないのに急にのぼりがギイギイと嫌な音を立てていたのを瞬間的に思い出した。ここでも、風がないのに変な音がするう・・・と思って音のする方を見たら、墓のすぐ裏手に建つ建物で静かにカーテンを閉めている音だった。なんだ、カーテンか。おどかすなよ。つか、墓の裏手に住む人ってなんでわざわざ人が墓参りしている時に邪魔するような音を立てるんだろう。中なんか覗かないっつの(以前に墓参りを邪魔された記事は「吉備路編(5)」を参照)で、こちらが墓石↓。 ここには碑文がある。 【橋本景岳先生の生涯と墓所の由来 橋本景岳先生は、天保5年(1834年)3月11日、福井藩の藩醫橋本長綱の 長男として生れ、名を綱紀、通稱を左内、号を景岳(けいがく)又は藜園(れいえん) といった。幼少の時から学問を好み、やがて藩儒の吉田東篁(とうこう)について 儒学を学び、ついで大坂の緒方洪庵、江戸の坪井信良、杉田成卿について蘭学を修め、 その見識は当時の第一流の人々を驚かせるまでに至った。有名な「啓発録」 (けいはつろく)は、嘉永元年、15歳の時、自戒のために書いたもので、先生の人物、 思想は、すでにこの著書の中に示されてゐる。 嘉永6年のペルリ来航以来、わが國は急速に内外の問題が多事多難となり、しかも藩主 松平春嶽公は、幕政改革の先頭に立ってゐたので、この俊秀なる青年を抜擢してその 側近に加へ、これより先生は公の理想の具現のために心血を注ぐこととなる。しかるに 春嶽公の政策は、新たに大老に任ぜられた井伊直弼のそれと相容れず、公は幕命によって 隠居慎しみを命ぜられ、ついで先生も幽囚の身となり、翌6年10月7日、江戸傳馬町の 獄内において死刑に處せられて、26歳の短かい生涯を終へた。長州藩の吉田松陰とともに、 安政の大獄において日本が失った最も惜しい人物である。 先生刑死の日、同藩の長谷部恕連(よしつら)は、春嶽公の命を受けて先生の遺骸を 小塚原の回向院、すなはちこの地に埋葬して、「橋本左内墓」と刻んだ墓表を建てたが、 幕吏は刑人の墓を建ててはならないといって、これを許さなかったので、改めて「藜園墓」 の三字を刻んだものを建てた。しかるにその後、井伊大老は倒され、先生の罪も許された ので、文久3年(1863年)5月、この墓石は遺骸とともに福井に移され、善慶寺の 橋本家墓所に改葬されたが、明治26年、その墓石のみ、再び回向院のもとの地にもどして 再建され、さらに昭和8年、破損の甚しくなった墓石を風雨より守るために新たに套堂が 設けられて今日に至った。 套堂の向って右に聳えてゐる巨碑「橋本景岳之碑」は、明治18年、先生と親交のあった 福井藩士及び先生門下の人々によって建立されたもので、碑文は先生の盟友西郷隆盛の 友人重野成齋の作により、巌谷修が書し、三條實美が篆額したものである。 昭和49年10月 景岳會】 (現地碑文より原文のまま。ただし旧字は一部新字に改めた箇所あり)とな。春嶽公(松平慶永)も一時期は苦しい立場にあったからねえ・・・この頃の福井藩のことはあまり知らないんだけど、側近の三岡八郎(由利公正)も蟄居させられたりしてるしなあ。左内が処刑された時はさぞかし春嶽公も心を痛めたに違いない。にしても、一旦は福井へ帰郷した墓石がここに戻されたというのがオドロキだけど、刑場の歴史を伝えるという意味では有意義なことだと思う。↓ぽちりとお願いなっし~。にほんブログ村
2015年08月08日

回向院の入口の門扉には とあり、見上げると とある。ほお、史跡か。ここはピロティを抜けられるようになっていて、中へ進むと何やら碑があった。 【蘭学を生んだ解体の記念に 1771年・明和8年3月4日に杉田玄白・前野良沢・中川淳庵等がここへ腑分を 見に来た。それまでにも解体を見た人はあったが、玄白等はオランダ語の解剖書 ターヘル・アナトミアを持って来て、その図を実物とひきくらべ、その正確なのに おどろいた。その帰りみち3人は発憤してこの本を日本の医者のために訳そうと 決心し、さっそくあくる日からとりかかった。そして苦心のすえ、ついに1774年・ 安永3年8月に、「解体新書」5巻をつくりあげた。 これが西洋の学術書の本格的な翻訳のはじめでこれから蘭学がさかんになり、日本の 近代文化がめばえるきっかけとなった。さきに1922年推進医会が観臓記念碑を 本堂裏に建てたが、1945年2月25日戦災をうけたので、解体新書の絵とびらを かたどった浮彫青銅板だけをここへ移して、あらたに建てなおした。 1959年 昭和34年3月4日第15回日本医学会総会の機会に 日本医史学会 日本医学会 日本医師会】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)南千住についてはさらっと行きたいところですが、松陰先生の遺体の埋葬について少し調べてみたところ、そこでも「腑分け」(ふわけ:解剖のこと)が出てきたので、腑分けって何じゃい・・・と思って検索したらば当然のことながらどんなものにも歴史があるもので、ちょっとだけ学んだことを書き留めておこうかな。コワい話じゃなくて医学の話だと思えばいいんだ。そうそう。医学、いがく・・・小伝馬町の牢屋敷から刑の執行のためにここ小塚原まで引き回されるあたりは、鼠小僧のところでも少しだけ書いてますが、松陰先生のように小伝馬町で刑を受けた方もいたし、小塚原や鈴ヶ森などの処刑場へ連れていかれた方もいたと思われる。石出猛史氏によると、身分の高い囚人以外は小伝馬町で刑が執行されて遺体が小塚原に運ばれたというけど、小塚原でまったく刑が行われなかったという訳でもないようなんだよね。刑にも色々ランクがあり、引き取りを許されるケースもあったようだけど多くはそのまま「取り捨て」・・・つまり埋葬も許されず簡単に土をかぶせた程度だったので、雨が降ったりすると簡単に遺体は露出し、当時の主な刑死者の埋葬地ではかなりすごいことになっていたらしい。要するに江戸期の江戸の刑場は仕置き場であり埋葬地で、ために、ここ小塚原もかつては「骨ヶ原」と呼ばれていたそうな。ただ、小塚原の場合は罪人だけじゃなく、江戸市中で斃れた牛馬なども埋葬されたようなんだけど。『江戸幕府による腑分の禁制』(石出猛史/千葉医学)によると、日本の歴史の中では基本的に遺体に傷をつけたり損壊を与えるような行為はタブーだったようで、実際に江戸期にそれが明文化されていたのかどうかは見解の分かれるところのようだけど、現実的には腑分けは何度も行われていたようで、杉田玄白らが立ち会ったのが本邦初ではないらしい。医学的立場からも、江戸期に腑分けを特に認めてほしいといったような嘆願があったようなんだけど、腑分けにはライバルがいた。それが処刑人として有名な山田浅右衛門。浅右衛門は遺体を使って刀の試し斬りもしていた。幕府によって遺体の損壊を認められているケースを「御様御用」というそうで、 【小伝馬町牢屋敷で行われた御様御用には、囚獄石出帯刀・腰物奉行・町奉行所の 与力らも立ち合った。従って牢屋敷における様し斬りは、将軍家の刀剣の利鈍を 試すために行われたものであった。山田浅右衛門は小塚原回向院裏手の仕置場でも 様し斬りを行っている。この様し斬りは大名・旗本などからの依頼で行われたもので あろう。】 (前掲論文より)上つ方の依頼によって様斬(試し斬り)をすることは公認されており、 【山田浅右衛門にとって様し斬りとは次のような意味をもっていた。(1)家業である 剣術流派「据物斬」の維持存続と弟子の指導(2)刀剣類の鑑定(3)罪因の遺体から 取り出した胆嚢を薬種(人胆丸)として独占販売すること。(2)(3)は浅右衛門の 重要な収入源であった。そのため、浪人でありながら高禄の旗本並の生活振りで あったといわれている。】 (前掲論文より)熊の胆のう・・・いや胆汁かな、がいまだに現代の中国で漢方薬になるからとして生きたまま胆汁を取り出している行為を動物虐待だといってうんたら、って番組を以前アニマルプラネットか何かで観たことあるけど、こっちは人間の胆のうか象のフンの丸薬とどちらか選べと言われたらどっちがいい?(笑)杉田玄白らが立ちあった腑分けが本邦初でないのなら、なぜ彼等は功績を称えられるのか?これは杉田ら以前の腑分けとは違っていたからなんだそうな。そもそも杉田ら以前の腑分けの具体的な記録はほとんど残っていないらしく、なんで残されなかったのか明確な理由はわかっていないようだけど、それ以前に腑分けに立ちあっていたのは幕府の医師だった。でもその医師たちが直接解剖を行ったのではなく、実際に解剖行為をしていたのは当時「えた・非人」と呼ばれていた人たち。手慣れた彼等は身体を開きながら「これは○○、これの名前はわからない」てな風に立ちあいの医師たちに説明をしていったらしい。ただ、当然医学的見地から腑分けに参加していたにも関わらず、幕府の医師たちはただおとなしく聞いていただけで質問などはしなかったそうな。疑問がなくて質問しなかった訳じゃないようなんですよ。彼らの教科書は中国の医学書だったので、実際の人体と彼らが学んできた医学書とは違う箇所もあり、「中国人と日本人の体の構成は違うのかな~」なんて思いながらも、質問はしなかったらしいのだ。あるいはその立場上、できなかったのかもしれないけど。杉田らの時も、自分達で直接解剖をした訳ではなく、解剖のプロにお任せした。なんでも、非人の虎松という人が解剖にたけているとのことで虎松に腑分けを依頼していたのが、当日虎松が具合が悪くなったので90歳にもなる虎松のジイ様が腕前を披露したのだという。ここまでは幕府の医師たちと同じだけど、杉田らは西洋の医学書のターヘル・アナトミアを持っていた。若狭小浜藩の医師であった杉田玄白はオランダ語の勉強はしなかったそうなんだけど、小塚原で一緒に腑分けに立ちあった中川淳庵からターヘル・アナトミアを見せられてその内容に驚き、高額な本のため藩にお金を出してもらってターヘル・アナトミアを手に入れた。前野良沢も同じ本を手に入れていた。杉田らが参加した腑分けより20年ほど前には京都で山脇東洋という人が腑分けについて紹介しており(ただし、山脇東洋の腑分けが本邦初でもない)、東洋医学と西洋医学のどちらが正しいのかを見極めたいと考える者たちが増えていた頃だったのかもしれない。さて、腑分けに立ちあった者たちはおのおのの所持する本と逐一見比べながらターヘル・アナトミアの記述の正しさを自分の目で確認し、また解剖人に質問なども浴びせたという。「こんな風に質問したのは、あなたたちが初めてですよ~」と解剖人は言ったそうな。ウィキペディアの杉田玄白のページには『解体新書』の複製の写真が載っていて、そこには骨格の詳細な絵が描かれている。腑分けって骨まで切り刻んでいくのか?と思ったら、やはり腑分けは臓腑までで、一連の見分が終わったあとで「じゃあ、ついでに骨も見ていくか~」ってことでそこらに転がっていた骨を観察してから帰ったらしい。それで「これは後世のためにぜひとも翻訳しなきゃならん!」と気負って翻訳に取りかかったそうなんだけど、まあ言葉もロクに知らないし、訳に困るような場面もあったりして色々大変だったらしい。それでも、「神経」や「軟骨」などという新しい語を生み出しつつ、正確な翻訳に務めたそうで、これ以後蘭学が盛んになったという。ちなみに、杉田らに人体の内部を見せたのは「青茶婆」(あおちゃばばあ)と呼ばれていた女性の囚人で、これは養育費を目当てに子供を引き取っては殺していたという極悪人だそうな。前掲論文によると試し斬りに用いられる遺体には制限があって、「士分、社人、僧徒、婦人、剃髪ノモノ、及ビ悪瘡ヲ患フル者、非人ノ類ノ如キハ、其用ニ供セズ」と決められていたそうなんだけど、青茶婆は老女。 【医師からの強い要望によったものか、あるいは様し斬りの対象から除外されて いたために、腑分に供されたものであろうか。】 (前掲論文より)また、同じ石出猛史氏の『江戸の腑分と小塚原の仕置場』によると、江戸にいくつかあった刑場のうち、腑分けが行われたのはここ小塚原と小伝馬町の牢屋敷だけだという。にほんブログ村
2015年08月06日

こちらが本堂↓・・・になるのかな?向かって左に少し写ってますが、隣には大きな現代的な建物があってね。そちらの中には入ってないけど、たぶんホールのようになってるんじゃなかろうか。法事とかならお隣の方でやりそうだけどね。 賽銭箱は鶴かと思いきや、 変わった紋だな・・・これ何だろ?パイナップル?カブ?(笑) 中からは読経の声が聞こえてくる。一通り写真を撮り終えた頃、読経が止んだのでガラス越しに中を覗いてみたけど、あまりよく見えなかった。デカい提灯の脇に2つ鰐口が下がってますが、わたくしがこのお堂の脇にいた頃、若めの姉ちゃんがお参りに来た。すると姉ちゃんはお賽銭を入れたあと、カン!カン!と左右の鰐口をそれぞれ連打して一心になむなむしてた。ええ、両方叩くのがここの作法かえ?向かって右側の海老紅梁(えびこうりょう)は これだけだと、なんかすげえなってだけでよく構造がわからなかった。で左側の海老紅梁を見ると ん、紅梁にまたがってる?で外側に回ってみると ああ、なるほど。紅梁に巻きつくデザインになってるのか。あまりにダイナミックすぎてぱっと見わからなかったわ。このテの紅梁はわたくしは見たことないな。 ここまで写真を撮ってからお参り。もちろんわたくしは1つの鰐口だけを叩きました。フツーは2つ鳴らさんじゃろ・・・お堂の脇には自販機のおみくじがあったので、100円投入。「吉」だけど、内容はすこぶるよかった。ただしそれは前半だけで、 【しかれども信心よわくして法謗のさまたげあらばみなむなしかるべし。 その時くやむとも甲斐有べからず。】・・・・・・・・・「信心よわく」はいいとして、フツーおみくじで「法謗のさまたげ」なんて言葉出すか?まあわたくしもシロートなもので好き勝手書いてますよ。時には大乗を誹謗してるような表現もあるかもしれませんよ。でも、わたくし自身は誹謗してるつもりはないし、故意に何かをおとしめようとかの悪意を持って書いてる訳じゃありません。それどころか、仏教史は面白いし、特に原始仏教的部分については充分現代にも通用する内容だと思うので、わたくしと同じブッチーの方々にもそれなりにわかりやすく紹介してるつもりなんだけどな・・・意外なおみくじの内容に少々憮然としながら本堂に背を向けると、そこにあるのがこれ↓。 あ、賽銭箱と同じ紋だ・・・野菜っぽいけど、手持ちの家紋の本などを見てもこれに似たのはなかった。カブとも大根ともちょっと違うみたいだしな。さて、眞源寺はこれで終わり。もうもうもう~のもうそ(猛暑)なので、もうムリ~。寛永寺は今回パス!!もろもろのお礼参りをしたかったんだけど、軟弱なわたくしを許して、良源さん今さら取り返してもしょうがないけど、上野に戻ったらいちおう遺失物預かり所へ行ってわたくしの失せ物がないか聞いてみるつもりだったし、恒例の上野みやげ、マミーズ・アン・スリールのパイも買うつもりだったけど、もうこれ以上このクソ暑い中を歩きたくない。もう12時少し前で、都内の史跡めぐりでも食糧持参で歩くわたくしですので今回もドーナツなどを持ってきてはいましたが、このクソ暑い中公園などで食べる気にもならんお腹もすいてきたので、とっとと入谷駅へ退散する。地下鉄日比谷線はその昔わたくしが通勤に使ってた路線で、このまま上野とは反対方向の北千住まで行けば常磐線に乗り換えられる。ので、北千住からまっつぐ帰るつもりで日比谷線に乗り込んだものの、三ノ輪を過ぎて次はあ~、南千住~の車内アナウンスが入って、はたと思いとどまった。南千住からでも常磐線に乗り換えできるじゃん・・・南千住なら駅からすぐのところにアレがあるじゃん・・・と考えて、入谷から2つめの南千住で降りた。もうね、クソ暑い中を歩くのがイヤで寛永寺をパスしたというのに南千住なんかで降りちゃって、魔が差したとしか思えませんね。だって、これから行こうとしているのは「新春はケージョーから」を書いた後にやっぱり行くのはやめようと思った場所なんですから。南千住を電車で通る機会のある方は最後のお目当てがどこかすぐにわかるでしょうが、日比谷線からJRの駅に向かう途中の道の向かいに早速お目当てが見えた↓。 遠目にもすぐそれとわかる、デカい葵の紋。ここは 【回向院 回向院は、寛文7年(1667)、本所回向院の住職弟誉義観(ていよぎかん)が、 行路病死者や刑死者の供養のために開いた寺で、当時は常行堂と称していた。 安政の大獄により刑死した橋本左内・吉田松陰・頼三樹三郎ら多くの志士たちが 葬られている。明和8年(1771)蘭学者杉田玄白・中川淳庵・前野良沢らが、 小塚原で刑死者の解剖に立ち合った。後に『解体新書』を翻訳し、日本医学史上に 大きな功績を残したことを記念して、大正11年に観臓記念碑が建立された。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)はいはい、この付近は有名な小塚原(こづかっぱら)の刑場だったんですよ。ただ、電車から見えるので線路沿いにこれがあるのは知っていたけど、事前の下調べなどはせずにまったくの思いつきでここへ来たので、本所の回向院の兄弟分だとは知らなかった。寛文7年なら、本所の回向院ができてからまだ10年だな。その頃には実質的な本所回向院の住職・信誉上人貞存から代替わりしていたのだろうか。回向院のすぐ近くには日比谷線が通っている↓。この少し先で電車は地下へ入っていくのだ。 回向院の前には史跡めぐりの案内板があって、それを見るとわたくしが行こうとしているのは回向院の中にあるんじゃないみたいだけど、せっかくだから寄ってみることにする。それにしても、橋本左内や松陰先生の墓がここにあるなんて知らなかったぞ。小伝馬町のあの「穴」に首を落とされてからこちらに移されたのか?『お~い!竜馬』(原作:武田鉄矢、作画:小山ゆう)だと確か高杉ら門弟が遺体を引き取りに来て、高杉が遺体にかぶせられたむしろをめくるとお首がなかったので「首はどうした!首は!!」とかって叫んで皆で雨の中大泣きしてたけどな・・・「穴」のリンク先でも書いてますが、橋本左内・頼三樹三郎とも小伝馬町で亡くなられてます。思いがけず墓参りをすることになろうとはね・・・回向院の入口にはお地蔵様が立つ↓。 現地には何も書いてなかったのでフツーのお地蔵様かと思ったら、昭和38年に下谷で誘拐・殺害された吉展ちゃんを供養するために建立されたお地蔵様なんだそうな。ああ、やっぱ回向院だ・・・にほんブログ村
2015年08月04日

竹隆庵岡埜さんでは他にも色々とお菓子を買いましたが、こごめ大福の賞味期限は当日中だったので帰ってから早速大福を食べてみたところ、とっても美味しかった。大福とかの和菓子って、皮が薄くてあんこがびっしりの方が美味しいイメージがあるけど、こごめ大福はもっちり皮が厚い。だけどサイズが大きいので気にならないし、小さな米粒が残っている皮はふっかり柔らかくて、麩まんじゅうみたいな感じ。あんこも甘すぎない。お値段はちょいとお高めですが、それだけの価値はあります。宮が召し上がった当時の大福とは多少変わってる可能性もあるけど、それでも公弁法親王にゆかりのお菓子ではあるし、薗田秀延ら側近も御相伴にあずかったかもしれないなんて妄想しながら食べるのもまた楽しお店を出て、当初の予定では上野に戻って寛永寺に行くはずだったけど、入谷に着いて地上に上がった時に方角をすまほで確認してたら、有名なお寺が駅のすぐ近くにあることを知ったので、駅を越えて言問通りをそのまま歩いていくことにした。昭和通りにかかる歩道橋の上からは、前方に妙な物体が見えた↓。あれかな。 この歩道橋の下には、入谷朝顔発祥の地の碑がある↓。 言問通りと昭和通りがクロスするこの交差点にはおまわりさんが立ってたし、その先の道にも2人制服をびっちり着込んだおまわりさんがいた。このクソ暑いのに、大変だな・・・熱中症にならないといいけど。で、少し歩くとすぐそれっぽい塀が見えてきた↓。 世間的にはかなり有名なお寺だけど、わたくしはここへ来るのは初めて。もそっと下町っぽいごちゃっとしたお寺を想像してたんだけど、ずいぶん小綺麗だな・・・ここの塀は低いので、例によって軒丸瓦をチェックしながら歩いていたら、 いちじく・・・?いや、ブツブツがあるから、ざくろか!ほおほお、ざくろか。なるほどね~。しかし、フツーは軒丸瓦って同じ模様の瓦がずっと続くもんだけど、ざくろの隣には これがざくろと交互に並んでいるのだ。これは珍しい。で、お寺の正面↓。 【入谷鬼子母神(いりやきしもじん) 入谷鬼子母神は、日蓮上人の尊像とともにここ眞源寺に祀られている。眞源寺は、 万治2年(1659)日融(にちゆう)承認により創建された。 鬼子母神は、鬼神般闍迦(はんしか)の妻で、インド仏教上の女神のひとりである。 性質凶暴で、子供を奪い取っては食べてしまう悪神であった。釈迦は鬼子母神の末子を 隠し、子を失う悲しみを実感させ、改心させたという。 以後、「小児の神」として 児女を守る善神となり、安産・子育の守護神として信仰されるようになった。 入谷鬼子母神では、子育の善神になったという由来からツノのない「鬼」の字を 使っている。 また、7月上旬、境内及び門前の道路沿いは「朝顔市」で賑わう。入谷名物となったのは 明治に入ってからで、十数軒の植木屋が朝顔を造り鑑賞させたのがはじまりといわれて いる。当時この地は、入谷田圃といわれ、朝顔や蓮の栽培に適していた。 大正初期、市街化により朝顔市は途絶えたが、昭和25年復活。以後、下町情緒豊かな 初夏の行事として親しまれている。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)も~お入谷っつったら朝顔とココ!「恐れ入谷の鬼子母神」といえば大抵の方が知っているでしょう。塀の軒丸瓦がざくろだったのは、鬼子母神がざくろを手にしているからだと思われます。眞源寺で使っている「鬼」の字はてっぺんの点がない漢字なのですが、常用漢字じゃないのでここでは使えません。悪い神様からいい神様になったのでてっぺんの点(ツノ)を取ったってことらしい。境内はあまり広くはない。中に入ってみると、すぐ右手にはこれがあり↓ その脇の塀には下谷七福神の場所を示す看板がある↓。 ふ~ん、ここにあるのはどれも近そうだけど、7体そろってないぞ。竹隆庵さんでもらった「下谷おさんぽマップ」を見ると、布袋さんなんかは三ノ輪(入谷の次の駅)の方まで行かなきゃならないようだから、このもうその中じゃ七福神制覇はムリだな。ちなみに、寛永寺の西にあたる谷中(やなか)にも谷中七福神があり、寛永寺の堂宇もひとつ谷中七福神に入ってます。まだわたくしはそこへ行ったことはないんだけどね。で、眞源寺の福禄寿↓。 しかし、わたくしの目はイレモノである厨子の造りに向く↓。 すげえな、この組物。ちいちゃな部材を本式の建築物のようにきっちり正確に組んで上を支えてるって訳でもなさそうだけど、だからと言って「組物風」に斗供(ときょう)の彫刻を施した訳でもない。しばらく厨子を眺めたあとでふと足元に目をやると、お堂にはもう一人福禄寿がひっそりとおられた↓。 お堂の脇には百度石があり、その隣にある石燈籠はちょっと変わってる↓。 銘を覗いてみたけど、あいにくいつのものかわからなかった。お堂から離れて正面へ向き直ると ずいぶん新しい建物みたいだな。まあ、この辺も戦災に遭っているだろうから古い建物が残ってないのはしょうがない。 右手の白い建物が「玄関」にあたるんだろうか。上にある紋は これが寺紋かな。それぞれを拡大すると いやん、ちょっと目がコワイんだけど入口の向かって左側にもいくつかの碑などがある。大きいのが日蓮さんを祀るもので、その隣が針供養碑↓。 その奥には歌碑↓。 字がよく読めないところもありますが、正岡子規の歌碑のようです。その奥↓。 中にどなたかいる・・・ 台座には「日朝聖人」とある。眞源寺は日蓮宗の一派である法華宗本門流。 日朝さんは室町頃を生きた方のようなんだけど、日蓮宗の宗祖の日蓮さんでもなく、法華宗本門流の派祖とされる日隆さんでもなく、眞源寺の開祖である日融さんでもなく、日朝さんがここにいる。眞源寺の中興の祖という訳でもなさそうだけど・・・その隣には日蓮宗のバイブル、法華経がある↓。 こーゆーのも珍しいよな・・・さすが日蓮宗だ、という感もなきにしもあらずですが、鬼子母神のエピソードは法華経に出てくるんだそうな。何十年先になるかはわからないけど、いずれは法華経全制覇してみたいので、鬼子母神の出てくる品(ほん)をやるのが今から楽しみです。たぶん、それも話長いんだろうなそもそも、金光明最勝王経だってやっと半分までいったものの、前半は陀羅尼が入ったり本文の調子に色々変化があったのでまだよかったけど、後半部は単調な文章が延々と続くようなので、逆に大変そうなのだ。韻を踏んでるのかもしれないけど、似たような文言を繰り返し使う単調な文章を正確に覚えるってのはなかなかしんどくてね。たぶん、今年中には金光明最勝王経は終わらんな。↓ぽちりとよろしく~。にほんブログ村
2015年08月03日

いつも巣鴨へ来ると「おばあちゃんの原宿」地蔵通り商店街で大福を買う。けど今回は入谷(いりや)で由緒ある大福を買う予定なので、商店街はパス。ホントはとげぬき地蔵の前にある仏具やさんで経本を仕入れたかったんだけど、まだ金光明最勝王経もやっと半分まで来たところで、その後は観音経をやる予定だから、まあ次の機会でもいいや。ので、来た道を素直に巣鴨駅まで戻ることにしたんだけど、東京スイミングセンターの前はすっかり落ち着きを取り戻していた。センターの前を歩いていた時、中からビールのCMに使われているテンポのいい耳慣れた音楽が聞こえてきた。センターはガラス張りなので歩きながら中を覗いてみると、インストラクターが威勢よく指示を出していて、プールぎわにはおばさんらしき物体が貼りついているのが見えた。水中エアロビか・・・これの開始時間が迫ってたから、さっきはえらい賑わってたんだな朝から元気な人たちだ・・・さらに歩くと、本郷高校のグラウンドではこのクソ暑い中野球をやっている。連日のもうその中、千葉市に住むわたくしの甥っ子は先日部活中に熱中症になりかけたそうで、朝からこの暑さだから条件がいくつかそろえばそりゃ5分や10分で簡単に熱中症にもなるだろう。多い日では1日に千人近くの人が熱中症で救急搬送されるというのもうなずける。過去の大津の旅で熱中症になりかけたわたくしは、長く屋外にいる場合にのみ熱中症になるんじゃないということを経験的に知っている。あの時、付き合ってくれたセキュリティよしおの症状はかなりひどかったし。こんなでオリンピック大丈夫なのかよ・・・マジで死人が出るぞ真夏の日本でオリンピックなんてやっていいのは、北海道だけだと思うけど。あとは日光の戦場ヶ原(←有名な冷涼地)くらいかな(笑)。で、巣鴨駅に着いて汗で流れ落ちた化粧などを直してから上野方面へ向かう電車を待つ。よしよし、去年は足が本調子じゃなかったせいもあって昼を回っちゃったけど、これなら今日は余裕で早い時間に帰れそうだぞ。ほどなくしてやって来た電車にはいくつか空席があったけど、どうせすぐ降りるのだからとドア付近に立って発車を待つと、車内アナウンスが入った。「ただいま、神田駅で人身事故が発生したため、この電車は発車を見合わせます。外回り電車での事故発生ですが、山手線は外回り・内回りとも運転を見合わせております。復旧は10:40頃の見込みですが、前後する可能性もあります。なお、三田線への振り替え輸送を行っておりますので、ご利用ください。お急ぎのところ、大変ご迷惑をおかけいたします。」げええ~、内外ともストップ!?この頃は確か9:50よりちょっと前で、9:45に事故発生らしいので事故直後に急報が入ったということになる。1時間近くも待つの?とりあえず、空いてる椅子に座って今後の対策を練る。駅では刻々ともたらされる情報がその都度アナウンスされ、どうも電車がホームに侵入する際に人と接触をしたらしいんだけど、帰ってから調べると飛び込みだったらしい。ま、現地ではそのことは知らなかったので、神田はまだホーム柵を設置しておらんのかな・・・あそこ、利用客も多いしホームは狭いからな。ホーム柵があればこーゆー事故は減るんじゃないかと考えもしたけど、山手線で数駅、時間にして10分ちょっとぐらいで着くところに行かれないとなって、非常にわたくしの機嫌は悪かった(←文句のツイートした)。しかし、三田線に乗り換えられるといっても、どうやって行けばいいんだ・・・日比谷線なら上野に乗り入れるけど、相当大回りになるぞああ、あのお花を忘れるという大失態さえ犯さなければ、こんな事故に巻き込まれずに済んだのに・・・あらためて「うっかり」を悔やんだけど、わたくしの目の前には旅行者らしきガイジンの親子がボケ~と座っている。あ~、せっかくの旅行なのにこんなことになって気の毒だな。車内アナウンスの意味、わかってるんだろうか?そんなことを考えながら路線図を調べて代替ルートを検討して、三田線で春日(東京ドームの近く)まで出て大江戸線に乗り換えれば上野御徒町に行かれることがわかった。これが最善の策だろうな。まず入谷の方に行きたかったけど、御徒町なら不忍が近いから、先に寛永寺にお参りしよう。そうしよう。巣鴨からまっつぐ帰る分には、そう悩むことはない。けど、わたくしには予定のプランを変えるつもりはなかった。こんなことになってまで大福を諦めようとしない自分に鼻で笑ったけど、次の機会に譲りたくない理由もそれなりにあった。時計を見ると、電車が止まってから20分ぐらい経過していた。あと30分ちょっとか・・・このまま待ってもいいけど、予定の時間に復旧するかはわからない。電車と接触したという人がどうなったのかというアナウンスは入らなかったけど、故意であれ事故であれ何とも迷惑な話には違いない。わたくしが乗っているのは外回り電車だけど、途中、内回り電車が巣鴨を出発した。あれ?内回りだけ動かすことにしたのかな?と思ったら、山手線は全線止まっているので、停車する駅を変更しただけらしい。電車から降りて改札へ向かうと、沢山の人の列ができている。そこでは、「回数券や切符をお持ちの方はそのまま改札を抜けてくださ~い!三田線で見せれば代替輸送ができま~す!」と言っている。わたくしはPASMOで入っているので、やっぱり入場の記録を消さなきゃダメなんだよな。そう考えて列のおしりに並ぶと、前にいる子供は旅行などで使う大きな切符を握りしめている。あ~、せっかくの楽しいお出かけが台無しだな。予約の電車や飛行機に乗れなかったりしたらどうなるんだろうか。今回は本当に内外とも全線が完全ストップしていたので、各駅でも同じような光景が繰り広げられただろうし、相当多くの足に影響が出たんじゃないかと思います。それでも、ほとんどの人は静かに並んだり三田線に向かったりしていたので、震災の時なども日本人の礼儀正しさが世界で話題になったりしましたが、ここでもそういう日本人の態度を見ることができました。列に並んでいる時、止まっている外回り電車の停車駅を田端に変更するから、ご利用の方はお急ぎくださいというアナウンスが入った。田端まで行けば目的地は近くはなるけど、別の路線への乗り換えはきかなくなるから、田端まで進んだところでどうにもならない。列はなかなかはけなくて、しばらく並んでだいぶ前の方に近づいてきた頃、駅員が拡声器で「ICカードの方は、到着地でも清算できま~す!」と言った。そうなの!?だったら、早く言えよ!!わたくしが激怒したのは言うまでもありません。それで三田線のホームまで降りていったのですが、回り道分の交通費は自分持ちだし、駅員の対応の遅さにも呆れたしでぶりぶり怒っていたら、後ろで電車待ちをしていたおじさんが「なんかさ~、事故で電車止まっちゃってさ~。どうしよっかな~。とりあえず、どこどこの現場に寄るつもりだからこれからそこへ向かってさ~」なんて電話で悠長な会話をしている。気の長い人だ・・・もしかしたら、この日足止めを食った中で一番怒っていたのは別に急ぐ予定もないわたくしだったかもしれない春日で大江戸線に乗り換えて上野御徒町で降りる。メトロも混んでいたので、皆様事故のあおりを喰らった人達だろう。改札を出たところにある構内図で出口を確認している時も結構多くの人がわたくしと同じように看板を確認していたので、これまた予定外の行動で御徒町を利用することになったのだろう。不忍に一番近い出口に向かって歩いていくと、出口付近で日比谷線ホームへ行く分岐があった。一旦は通り過ぎたものの、日比谷線に乗ってしまえば入谷に出られるな~と思い出して、寛永寺は後廻しにすることにした。入谷で降りたのは初めてだったけど、道にあるタイルは入谷らしく うんうん、入谷っつったらコレだもんな~。で、クソ暑い中をしばし歩いて着いたのがこちら↓。 竹隆庵岡埜(ちくりゅうあんおかの)さん(場所はこちら)。入口に大きく「こゞめ大福」とありますが、これがお目当てでここまで来たんです。そのこごめ大福がこちら↓。 輪王寺宮第3世・公弁法親王は歴代輪王寺宮の中でも一般に知られているエピソードを多くお持ちの方で、寛永寺シリーズで鶯谷(うぐいすだに)の地名の由来を紹介してますが、あれも公弁法親王のことらしくてね。で、こごめ大福は公弁法親王に献上したところ大変宮のお気に召されてこごめ大福と命名したという由緒ある大福なんだそうな。「叡山攻め」でこれから書こうとしているイベントの件もあるので、今が「旬」でございましょ?竹隆庵さんはいくつか支店があって、本店は根岸(輪王寺宮の隠居所のあった付近)らしい。同じ根岸には「笹乃雪」さんというお豆腐やさんがあって、笹乃雪さんのホームページによると、元は京にあったお店で初代が絹ごし豆腐を発明して公弁法親王の関東下向とともに江戸に移り住んだそうで、笹乃雪さんのお豆腐を宮が大変気に入って「笹乃雪」と名付け、それを屋号としたんだという。笹乃雪さんのホームページにはもうひとつ、公弁法親王に関するお話が載っている。宮に伴って江戸入りし、宮のお気入りのお豆腐があるぐらいだから宮の御用を務めることもたびたびあったそうで、赤穂浪士が討ち入り後に4大名にお預けとなっていた際、大石良雄らがいた細川家に宮が笹乃雪さんのお豆富(かのお店ではトーフをこう書く)を差し入れしたんだそうな。できればそのお豆腐もゲットしたかったけど、笹乃雪さんの方は販売ではなく料理を提供するお店のようなので、今回は諦め。にほんブログ村
2015年08月02日

突然ですみませんが、ここで少し短編を挟みます。7月は公私ともにクソ忙しい日が続きまして、ためにブログの更新頻度が落ちている訳ですが、「公」の部分は根本的な解決をしてもらわないとどうにもならないものの、「私」については昨日第一段階をクリアしましたので今日は急遽恒例の巣鴨への墓参りに行ってきました。ホントは7月中に行きたかったんだけど、これまではとてもそんなヒマはなかったので仕方がありません。でもまあ、ひとまずは進展があったのでよかったです。それにしても、連日暑い・・・どうも時間に制限がないと気持ちがゆるみがちで、いつも墓参りの時は予定より遅く家を出ることになるので、今年はきっちり乗る電車を決めて早い時間にメインをこなし、あとは軽く2,3の場所に寄ってすぐ帰るつもりだった。ちなみに、今回の予定。・8時には蓮華寺に着いてお墓の掃除をする。・巣鴨から鶯谷に出て、入谷方面へ少し歩いてお目当ての和菓子を買う。・寛永寺観音堂と不忍池に寄ってお参り。これだけ。だってこのもうそ(猛暑)ですもの。こんな時に歩きまわるなんて無理です。無謀です。ところが今日は信じられないくらいのトラブル続きで、これっぽっちの予定すらこなせませんでした。それどころか、行くのはやめようと思っていた場所になぜか寄ってしまいました。もうそは人を狂わせる・・・2015年8月1日(土)クソ暑い墓参りの報告はこれまでも何度かしてきていますが、うちのお寺は都立染井霊園に隣接する蓮華寺。霊園の入口には花屋さんがありますが、現地で買うと高いので(笑)近所のスーパーで買った安い花を持参して墓参りに向かいます。今回ももちろん、そうだった。前日の仕事の帰りに買った花を、現地でそのまま花立てにさせるように短く切りそろえて2つのお墓の花をセットしておいた。お花はそのまま水に漬けておいて、出かける直前に濡らしたキッチンペーパーを根元に巻いて、少しでも花の持ちをよくさせる。しかし今日は何だか段取りが悪くて、バタバタとマイお掃除用具のタワシ、あと万が一のための花切りバサミとお花を紙袋に突っ込んで、あわてて出発をした。自転車で駅まで向かう途中、部活に登校する中学生が水筒を振り回してるのを見て「あっ!飲み物忘れた!!」とまず気がついた。しかし、今から家に戻ると予定の電車に乗れない。最近の魔法瓶は性能がいいので、冷やした飲み物に氷を入れておけば氷は結構持つ。ペットボトルごと凍らせてしまうと、飲みたい時に満足に飲めなかったりするので今回は魔法瓶で持っていこうと、前日からポカリを冷やしておいたのに魔法瓶作戦だったので、当然ペットボトル用の保冷ケースなんか持ってきてないし。仕方ない、小さめのやつを何度か買ってしのぐか・・・そう諦めてそのまま駅へ向かったけど、これが今日最初の失敗だった。予定していた電車には、乗れた。今日は茨城の方でなにかイベントがあるらしく、臨時の特急電車も出ていた。他の駅でも、ある意味コワイ感じのビジュアルの人が多く、しかもみんな大きなコロコロをひいていたので、コスプレ系のイベントかもしれない。常磐線に乗り換えた時も、まだ早い時間だったので座れた。ラッキー!と思って「叡山攻め」が終わったら書こうと思っている短編の城に関する本を読み始めた。で、日暮里から山手線に乗り換えるともう巣鴨は近い。車窓から「偉大なる崖」を見ながら電車に揺られて田端を過ぎた地点で、ふと手許がさびしいことに気がついた。「ああっ、お花を網棚に忘れてきたあ~~!!!」どどど、どうしよう。お花の他にはハサミとタワシしか入ってないから貴重品はないんだけど、せっかく用意したのに・・・それに、手ぶらで墓参りってアリか?今年に入って上野~東京ラインが開通してから、常磐線利用者はわざわざ上野で降りなくっても東京や品川まで行かれるようになったけど、さっきわたくしが乗ってきたのは上野止まりだった。上野から車庫に入る電車はあまりなく、ほとんどがそのまま折り返し運転になるので、まだ今ならわたくしの乗ってきた電車が上野に止まってるかもしれない。で、巣鴨の一つ前の駒込で降りて急遽反対方面行の山手線に乗り換えて上野に向かう。ああ、もうなんてことなの・・・「久々の寛永寺だ」なんてことばっかり考えて肝心の大事な用事を忘れるからこんなことになるんだショックでかなりへこんだけど、とりあえずお花を取り返せれば万々歳だ。それでやっと上野に着いて急いで常磐線ホームに止まってる電車の車内を探したけど、わたくしの紙袋はついに見つからなかった。う~ん、朝から車内清掃をするかは疑問があるけど、せっかく上野まで戻ってきたんだから、ついでに遺失物として届けられてないか聞いておこう。改札を出て遺失物預かり所まで行ってみると、10時からとなっていた。「10時~!?おそっっっ!!そんなに待てるかよ」プリプリしながらまた改札を入って(←逆ギレ)、仕方なく巣鴨へ向かう。巣鴨の駅前には、古くから西友がある。その前を通り過ぎた時、「24時間営業」の貼り紙が目に入った。へえ、ここ、24時間だったんだ~・・・と思いながら通り過ぎて、待てよ、西友ならお花もあるんじゃないのか?と気がついて来た道を戻って西友へ入ってみた。24時間営業とはいっても、全館がすべてオープンではないようだけど、とりあえず食料品のフロアは開いていたので行ってみると、やっぱりお花があった。しかも、安い。けど、これじゃ長すぎるのでハサミがどうしてもいるぞ・・・後から考えたら、お寺でハサミを借りてもよかったんだけど、この時はそんなこと考えもしなかった。で、ハサミを探したけど文具品のフロアはまだ開いていなかったので西友で買うのは諦めた。こうなったら最後の砦は霊園入口の花屋さんだけど、この時間だから開いてるかわからないからなあ・・・とぼとぼと手ぶらで霊園に向かって歩く。そういえば、去年のお墓参りは松葉杖が外れてまだ間もない頃で、結構苦労してこの道を歩いたんだっけか・・・健康っていいよな、と気持ちを盛り上げようとするものの、わたくしのテンションは下がったまま。そんなわたくしの脇を、子供を搭載したママチャリやおばさんの自転車がすいすい追い越していく。あ~、朝もはよからスイミングか・・・染井霊園の手前には、東京スイミングセンターがあるのだ。あの北島康介氏もここで水泳を始めたそうで、それもあってか結構人気があって、スイミングセンターには車の整理をするおじさんもいたりする。そんなスイミングセンターの賑わいを横目で見ながら、霊園へ向かう。入口にある花屋さんのガラス戸は閉まっていた。けど、「営業中」の札がかかっていたので入ってみたら、ありがたいことにすでに開店していてようやくお花をゲットすることができた。しかし、綺麗で結構花束も大きいし、墓参り用の花がメインなので短く切り揃えられているものの、やはり高い。ちょうど同じくらいの値段の花を用意していたので、花代は倍かかったことになる。仕方ない、フンパツしていいお花を供えたと思えば・・・霊園に入ってお寺へ歩き出して時計を見ると、もう9時近い。去年は8時過ぎには巣鴨に着いていて、去年より早く家を出てるのに去年よりはるかに遅くなっちゃったよ~蓮華寺に着いてお水を手桶に汲んで累代のお墓の方へ向かうと、ぶ~~~ん!とデカいハチが飛んできた。泣きっ面にハチとはまさにこのこと・・・幸い、ハチはすぐにいなくなったので、ハチがまた来ないうちに手早くお掃除をする。よく晴れたもうその中、累代と大おじさんのお墓にお花とお線香を供えて任務完了大おじさんの方の線香立てには、片方にだけお線香のカスが残っていた。おととし、偶然ここでいとこのSちゃんに会った時、Sちゃんはお線香を2組買って累代と無縁仏にお供えすると言っていた。無縁仏へのお線香はSちゃんの母親の指定らしくてね。Sちゃんが買ってくれた線香を持って大おじさんのお墓に供えていた時、気がついたらSちゃんが隣に来ていた。大おじさんのお墓があることは知っていたけど、普段来ないので初めてだったらしく、2人で墓碑名などを見て話したので、もしかしたらSちゃんがこれまで無縁仏に捧げていた2束の線香のうち1束を大おじさんに捧げてくれたのかもしれない。ま、わたくしだって大おじさんのことはほとんど知らないんだけどね。先の大戦で沖縄方面で戦死したことに間違いはないものの、なぜか硫黄島のことが頭から離れなくて過去の記事でもそう書いてるけど、今回お掃除の時にあらためて見てみると「沖縄本島で戦死」と刻んであるし。そうか、本島だったかと思いながらお掃除したけど、たぶん来年の墓参りの頃にはまた忘れてるんだろうな去年、お線香をもらう時に大黒さん(ご住職の奥さん)に寺の由来を聞いて、今はないけどそういうことなら用意しておきましょうか?と言ってくれたけど、今回お線香をもらう時には大黒さんは何も言わなかった。こちらから聞いてみようかとも思ったけど、テンションが低々ピューだったので聞くのはやめた。本堂の縁に座って任務終了のメールを家に入れてから、蓮華寺を後にする。9:10を少し過ぎた頃だったかな。にほんブログ村
2015年08月01日
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