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さてと、それでは源信の経歴に戻ります。『往生要集』を書き上げた翌年の寛和2年(986)1月、西海の諸国へ頭陀しに行く。「頭陀(ずだ)袋」なんて言葉はバリバリ現役なので、なんとなくわかるでしょうが、『日本の名著4 源信』の註釈によると頭陀行とは 【梵語ドゥータの音訳。修行者が衣・食・住の欲をむさぼらないための十二の修行法で、 廃物の布を衣服とすることや、一日一食、乞食、樹下や露天に住む、いつも座り、 横にならないなどの制限がある。抖擻(とそう)ともいう。】だそうな。4月、慶滋保胤が叡山で念願の出家を果たし、「寂心」を名乗る。保胤の『日本往生極楽記』は源信の『往生要集』ほどは一般には知られてないけど、2人の著述以前には日本で書かれた往生関係の書は少なかったようなので、極楽往生の実例を集めた保胤の書と、実践に用いるために書かれた源信の書のタイアップがあってこそ、本格的なブームに弾みがついたんじゃないかと思う。その下地を作ったのが空也。空也はこの時点ですでに死亡しているが、保胤と源信はこの後もタッグを組んで極楽往生の実践を続ける。ま、肝心なところで一方の名前が見当たらなかったりしてちょっと歯がゆいような面もあるんだけど、2人が密接な関係であったことは間違いないらしい。同年の夏には源信と寂心が飯室谷の安楽院の供養に赴いた。これはのちの安楽律院のことですが、律院になるのは江戸期だからね。この供養の詳しいことについてはわかってないようだけど、同じ頃重要な動きがあった。それが横川首楞厳院(しゅりょうごんいん)の二十五三昧根本結衆の発願で、「根本結衆」25人の連署による「二十五三昧会」(にじゅうござんまいえ)という念仏結社が結成された。念仏結社としては慶滋保胤らの勧学会の結成の方が早かったけど、「興味のない人が見たら遊んでいるように見える」勧学会よりももっと本格的なもので、源信もこれに参加している。ちなみに、勧学会の方は保胤の出家などもあって第1期の活動はこの頃終了したらしい。『往生要集』の成立の翌年に設立された念仏結社なので、当然源信の働きかけによる結成かと思いきや、発起人である「根本結衆」25人の中に源信の名はない。結社が始動してからは源信が中心的なメンバーでもあったようだけど、源信はあくまで「根本結縁衆」の1人。つまり、二十五三昧会に結縁した人の中の1人だという。「根本結衆」25人はみな僧侶で、この中には良源さんの四哲の1人、覚超さんもいる。結縁衆の方は後代に入れ替えなどもあったようだけど、最初に結縁した19人を「根本結縁衆」と呼ぶらしく、これも全員僧侶。結衆、結縁衆のいずれにも良源さんの弟子で阿闍梨といった高僧も数人含まれており、いかに多くの僧侶が源信の『往生要集』に影響を受けたのかがわかる。源信は押しも押されぬ天台の学匠で、前回の雑談のバイキングの例でいえばテーブルに並んだ料理のほとんどの味を熟知していたけど、そういう豊富な知識の中から源信が選び取った料理は「極楽浄土風料理」だった。四哲の1人、檀那院の覚運さんも浄土への関心が高かったらしいんだけど、覚運が自分の皿に盛った料理は天台僧らしく「法華思想風料理」と「密教風料理」と「極楽浄土風料理」の3つで、しかもまったく味の異なる3つのおかずを1つの皿に載せて混ぜて食べようとしたらしいので、面白い。ただ、覚運の名は二十五三昧会にはない。源信が書いた往生特集本に影響を受けた人達が自発的に結成したのが二十五三昧会だった訳だけど、発起人がたまたま25人揃ったから二十五三昧会なのじゃなく、ちゃんと意味のあるものだったらしい。根本結縁衆の中には叡山を出た増賀の弟子もいる。以前の記事で、増賀は多武峰に移っても叡山と完全に縁を切った訳じゃないと書いたけど、それはこういうことを指している。して、結縁衆の中にはもう1人、本シリーズでもすっかりおなじみ感のある人が混ざっている。奇人変人の花山院、なんとあの方もこれに参加していたんですよ。花山天皇が退位して出家したのが寛和2年(986)6月22日。二十五三昧会結成の日付をどこに置くかというのは明確じゃないみたいだけど、首楞厳院で根本結縁衆連署の発願文が出されたのが同年の5月23日で、会の具体的なルールを定めた最初の起請文の日付が同年9月15日なので、ちょうど会が発足して始動するまでの期間に花山天皇が出家して飯室に入ったことになる。花山院が入山した頃の山内は以前にもまして浄土熱がヒートアップしていた頃だろうから、まだ17歳と多感な時期であり感性も鋭かった若い院もそれに感化されたのかもしれないけど、天台座主であり実の大叔父でもある禅師の君はそんな院をどう見ていたのだろうか・・・とちょっと興味もわきますが、前にも紹介したように花山院には色んなエピソードがあるので結構世間でも人気者だけど、院が二十五三昧会に参加していたことは一般の歴史ファンにはあまり知られていないように思える。で、9月15日に起草された最初の起請文、これは保胤あらため寂心が書いている。この「おきて」は二十五三昧会の枠を飛び越えてのちのちまで源信が改訂を続けるんだけど、せっかくだから寂心が起草した最初の8ヶ条を紹介しましょう。 1、毎月15日に念仏三昧を勤めること。 二十五三昧会に結縁した人々は、身・口・意を特に慎んで戒を守り、気ままな行いをせず、 世渡りのことにかかずらわってはならない。六趣(六道の各世界)の衆生を導くために 『阿弥陀経』を6巻読み、施遶念仏を100回唱え、その後回向と礼拝。最後の巻でも 礼拝。次に三礼、錫杖、結願を行い、結願の時には『宝性論』の偈を唱えること。 結縁衆のうちで当日、やむを得ない故障によって参会できない時は、理由を申し出れば 許可を与える。が、つまらぬことで不参の許可を取ってはならない。 2、念仏結願の次には光明真言を唱えて土砂を加持すること。 これは十悪などの罪を犯して悪道に堕ちる者があっても、108遍の光明真言で加持した 土砂を遺体や墓の上にまけば、地獄・餓鬼・修羅・畜生に堕ちた亡者でも真言で加持した 砂の力によってもろもろの罪の報いを除き去り、極楽に往生することができるという 如来の説によるものである。結縁衆のうちでもし死ぬ者があれば、この砂を遺骸の側に 置いておこう。 3、よく人物を見極めて結縁衆の補充にあてること。 この会に参加する者は、よく心を整えるべきである。もし結縁衆でわずかな過ちで背く 者があっても、すぐに悔い改めるようなら我々はそれを許そう。志を同じくする者は、 互いに釈迦如来に対するように尊敬し合わなければならない。だが、粗暴な振る舞いや 騒ぎを起こす者があれば速やかに結縁衆から外す。理由もなく3回以上参会しない者も 衆議によって結縁衆から外し、えこひいきなく結縁衆にふさわしい者を選んで欠員を 補充することとする。 4、往生院と名付ける別処を建てて、結縁衆から病人が出たらここに住まわせる。 これは、普段と同じ所に病人を置いておけば物事に執着して正念が起こらないからで、 臨終の正念が起こりやすい環境で病人を養生させることを仏が勧めているからである。 別院には阿弥陀仏を安置し、部屋を荘厳し、仏前に捧げる物は病人の要求に従って 送ること。また、病人の往生の妨げにならぬよう、俗事を病人の前で話してはならない。 5、結縁衆から病人が出た時は、交代で看病をする。 病人を看取ってやることは、自分達の功徳にもなる。2人1組で1日1夜看病にあたり、 1人は念仏を勧め説法を聞かせてやり、もう1人は病人の要求に従って雑事をこなす。 病人の不浄や臭気を厭わず、父母や師長に仕えるように接し、次の組が来るのを待って 交代する。病人が危篤に陥れば一同が集まって念仏を行い、病人の所見を聞いて記録し、 葬送の一切を引き受ける。これはどんな重大な故障が起こっても自分の番は果たさなければ ならない。もしよそで病気になった場合でも行って看取ってやらねばならないが、往復に 1日以上かかる場合はこの限りではない。 6、結縁衆の墓所を「花台廟」と名付けて春秋に念仏を行う。 花台廟はまず陰陽師に地鎮をしてもらい、一基の卒塔婆を建ててその中に種々の陀羅尼を 納めておく。結縁衆から死者が出たら、方角や日時のよしあしを問わず3日以内に葬る。 たとえ他国で過ごして遺骸だけを送ってきた場合でもこの地に埋めてあげよう。春秋には 山の花、林の葉をたむけて日が暮れるまで来世のために念仏を行う。それ以外でもにわかに 発心した時は臨時の修行をして差し支えない。 7、常に西方極楽浄土を念じ、深く功徳力を積むこと。 臨終の正念というのは簡単に得られるものではなく、常日頃の修行で功徳力を積んで初めて 臨終の時に正念が得られるものである。だから、結縁衆たちよ、どうか夢うつつの時でも、 寝ても覚めてもいつでもどこでも阿弥陀仏を心に念じ、口に唱える事を忘れてはならない。 8、結縁衆は死後も生前の義を守って修善を行うべきである。 死は永遠の別れだが、我々が最初に約束を交わした時は善人・君子の集まりであったから、 その交わりは楽しいものだった。だから、死んでもその固い交情は忘れない。もし結縁衆 から死者が出たら、一同は力を合わせて葬送を行い、その夜は一同が墓所に集まって夜通し 念仏を行い、遺骨を安置する場所を施遶念仏し、これが終わってから解散する。父母や 師長に重大な事故があった時は不参もやむを得ないが、それ以外の人が勤めを怠ることは 許されない。 7日ごとには一同が集まって念仏を唱え、49日には特に花を折り水を汲んで講筵を開く。 1周忌にも同じことをする。写経や仏画を描くことは故人やその弟子たちの意に従う。 死者の名を過去帳に記し、亡くなった日を往生院に記して毎月の念仏のついでに必ず 阿弥陀仏の宝号を唱えよう。毎年の命日には、別に善根を修する事を我々の勤めとしよう。 (「起請八箇条」より。参考訳文は『日本の名著4 源信』林幹弥氏訳)にほんブログ村
2015年05月31日

ちょっと一息入れましょう。恵心僧都源信の歴バナはもう少し続けるつもりなので、横川を出るまでに200話を突破しそうですが、仏教史というのは勉強すれば勉強するほど色んなことが理解できるようになるので面白くてたまりません。わたくしが『往生要集』を読んだのは、「源信を書くなら『往生要集』ぐらい読まねば話になるまい」という単純な理由からでしたが、源信の訴えたかったことをろくに理解はできなくても、読み終えてみると実に多くのことがわかるようになっていたので、自分でも驚きました。例えて言うなら、何も知らなかった頃は目に何層もの分厚い膜がかかっていてほとんど見えていなかったのが、何かを学ぶたびに一つ一つ膜がはがれて視界がクリアになっていくような感じ。言葉ひとつ取っても、ああ、この言葉は仏教から来ていたのかって思うことは何度もあったし、その他の日本人の慣習や考え方も色々わかるようになりました。「日本から仏教を取り去ったら何も残らない」という世間で言われる言葉を肌で実感しているのがわたくしの現状です。六星占術で天王星人(-)のわたくしは毎年4月~6月が大殺界で去年骨折したのもこの期間中(あと1週間で骨折記念日から1周年を迎えます)で、毎年この時期はホントにロクなことがないんですが、今年は去年なんかと比べて仏教を少し学んだせいか個人的にはずいぶん楽・・・が、ツイッターで「露出狂」と言われたわたくしでも本当に深刻なことはブログに書くことはなく、近年そうしたことはいくつかありましたが、今年の大殺界でもまったく書く気の起こらなかった大事件が発生しまして、参りました。それとの関連で金光明最勝王経の暗記を一旦中断して急遽追善供養に読む「回向文」を先日覚えたのですが、いちおう白川家は浄土宗であるものの、手許には天台宗の勤行式しかなかったので天台バージョンの回向文を覚えて毎日唱えてます。勤行式の回向文には現代語訳は付いていないので、たぶん『往生要集』を読まなかったらこの回向文をただ覚えるだけだったでしょうが、ちょうど源信に関連して浄土教関係の勉強をしていた時期と重なったこともあり、回向文で死者になにを語りかけているのかがわかってしまいました。仏教の知識がなくても、ここまでを読んできてくださった方も何を言ってるのか感覚的にわかるんじゃないかと思いますので、天台宗の回向文全文を勤行式から紹介しましょう。 南無帰命頂礼大恩教主釈迦牟尼如来。 なむきみょうちょうらいだいおんきょうしゅしゃかむににょらい 南無西方極楽世界来迎願王本師阿弥陀如来。 なむさいほうごくらくせかいらいごうがんのうほんしあみだにょらい 南無六方恒沙證誠諸佛。 なむろっぽうごうじゃしょうじょうしょぶつ 南無平等大會一乗妙法蓮華経。 なむびょうだいえいちじょうみょうほうれんげきょう 南無大悲観世音菩薩。 なむだいひかんぜおんぼさつ 南無大智大勢至菩薩。 なむだいちだいせいしぼさつ 南無六道能化地蔵菩薩。 なむろくどうのうけじぞうぼさつ 五五聖衆清浄大海衆等會。 ごごのしょうじゅうしょうじょうだいかいしゅとうえ 哀愍護念。 あいみんごねん 願以上来。至心回向。 がんにじょうらい。ししんえこう。 常住三宝。及極楽界。 じょうじゅうさんぽう。ぎゅうごくらくかい。 所修功徳。念仏誦経一會。 しょしょうくどく。ねんぶつじゅきょういちえ。 白善施主(○○)奉回向聖霊(××)霊位 びゃくぜんのせしゅは○○えこうしたてまつるしょうれいは××霊位 追善供養。仏果増進。 ついぜんくよう。ぶっかぞうしん。 往生極楽。上品蓮台。 おうじょうごくらく。じょうぼんれんだい。 無作行願。永不退転。 むさぎょうがん。ようふたいてん。 遊化法界。平等利益。 ゆげほうかい。びょうどうりやく。 總三界萬霊。有縁無縁。 そうじてはさんがいばんれい。うえんむえん。 怨親平等。出離生死。 おんしんびょうどう。しゅつりしょうじ。 頓證菩提如来大慈悲。哀愍護念。 とんしょうぼだいにょらいだいじひ。あいみんごねん。ね、なんとなくでも結構わかるでしょ?観世音菩薩と勢至菩薩は阿弥陀様の来迎パレードに必ず随行する菩薩で、お地蔵様は地獄の果てまでも現れて衆生を救って下さるという慈悲の菩薩。「六方恒沙」はガンジス河の砂つぶほどの数の各方面の仏という意味で、阿弥陀様の来迎パレードを中心に、念仏の功徳によって西方極楽浄土の上品へ往生させてくれるよう、諸仏にお願いをしている願文だったんです。ここに妙法蓮華経(法華経)が入ってるのがいかにも天台らしいけどね。同じ仏教徒でも宗派によっては往生を願う浄土は違うので宗派による回向文もまた色々と違うんでしょうが、浄土系宗派ならこれと似たようなものなんじゃないのかな。中には本来的に往生する浄土を持たない宗派もあるので、そういう宗派ではどういう供養文を読むのか興味もありますが、あまりそういう厳格なことを言っていたら「葬式仏教」の時代じゃやっていけないのでそれなりの文章が編まれているかもしれないな。今年のお盆ではまた巣鴨の仏具やさんに寄るつもりなので、各宗派の勤行式も見てこようっとさて先日、TVでクイズ番組だか何かを見ていた時のこと。うちの母親は時代劇や大河も観るし、時代小説なんかも好きなのでいくらブッチー(仏教オンチ:わたくしの造語)といえどお祖師や有名どころの総本山などのそこそこの知識ぐらいはあるかと思っていたら、基礎知識すら全くなかったのでこちらの方がびっくりしました。「うちは何宗ですか?」「浄土宗です」「浄土宗を開いたのは誰か知っていますか?」「ええ~・・・わかんない」「法然さんね。浄土真宗は親鸞。親鸞さんは法然さんの弟子だよ」「ほうねん・・・」「浄土宗ではどの仏さまを祀るか知ってますか?」「えっ・・・お釈迦様?阿弥陀様じゃないでしょ、え~とあとは・・・わかんない!!」古くからの慣習が残っている地方や祖父母の代が熱心な仏教徒ででもあれば、若い人でも自分ちの宗派の基本的なことぐらいは知ってるんでしょうが、一般的なブッチーの現代人はまあこんなもんでしょう。かくいうわたくしだって、ほんの3~4年前ぐらいまでは「うちって浄土宗だっけ?真宗だっけ?」って毎回母親に聞いていたぐらいの立派なブッチーでした。まあ、母親は嫁に来るまでは池上本門寺(東京都大田区)のおひざ元で育ったどんつく娘で、浄土宗の家に嫁に来ただけなので浄土宗に関する知識がないのも無理のない話だとは思いますが、それにしたってちょっとこれはあんまりだそのくせ、TVに天台関係の何かが映るとわたくしがそれに食いつくのが気に入らないらしく、先日も真顔で「なんでうちは浄土宗なのに天台天台っていうわけ?」と言われました。「いや、日光には前々から通ってたし、気がついたら天台との縁がいっぱいあっただけで・・・」と言っても憮然としているので、浄土宗のジの字も知らないブッチーが何を言うかとおかしくなりましたが、「法然とかの新仏教のお祖師たちも、みんな天台出身なんだよ。比叡山から出てる人たちだから、天台も浄土宗も兄弟みたいなもんだよ。天台宗は最澄ね。」「でもお経だって違うのに・・・。天台宗のお墓に入るんじゃないでしょうね」わたくしが以前、寛永寺の永代供養墓に入ろうかなと言ってたことをまだ覚えてるのかそれにしても、この一連の会話で一般的なブッチーの基本的な誤解というのがわかりました。あまりに基本的なことなのでこれまで書いたことはありませんが、「仏教よくわっかりましぇ~ん」なブッチーの方のためにわたくし流に簡単に説明してみますと、まず仏教はバイキング(食べる方)だと思ってください。何千とあるお経はすべてお釈迦様の死後に書かれたもの。ここは最初の方の仏バナでも書いたからいいよね。先日とあるお経を調べている時、一切経のタイトルだけを網羅したページをウィキペディアで見つけましたが、お経のタイトルってのはよくできたもんで大体どんなテーマのお経なのかが一目でわかる。で、「うわ~、このお経、読みた~い!」ってのも沢山あったのですが、「こんなのまで出てるのか」と思うものも沢山あった。それだけ膨大な数と内容のお経が仏教界で生み出された訳ですが、大きなバイキングのテーブルにこれら沢山のお経が並んでるのをご想像ください。その沢山の料理(お経)から各人が好きなおかずを選んで自分の皿に盛っていく訳ですが、各人の好みによって取り分けた料理には一定の傾向が出てくる。その「傾向」がそのまま宗派の違いだと思っていただければわかりやすいかと思います。うちの母は宗派ごとにお経が異なってると思ってて、実際皿に盛った料理が違えば宗派ごとに使うお経も違う場合もありますが、お経というのは各宗派が生んだものではなく、もともと仏教界という大きなテーブルに並べられた中からお祖師が選んで皿に盛ったもの。ルーツが同じだから、「法華経」などのように違う宗派でそれぞれ使われるお経もあります。お経の中でも最もメジャーな「般若心経」(般若波羅蜜多心経)は一部の例外を除いて各宗派で用いられるお経ゆえに「超宗派」とも言われますが、解釈は各宗派によっても少し違っているようです。あまりに基本的なことですが、これすらもブッチーの現代人にはわからなくなっているので、日本人の仏教離れは深刻ですね。その一方で、仏教がルーツの文化に今でもどっぷり浸かっていてそのことに当の本人たちは気づいてないんだから、日本人というのはおかしな民族だとつくづく思います。にほんブログ村
2015年05月30日

菩提心を起こせ、死ぬまで常に念仏してろ、戒を守れ、大乗経典を読め・・・まともにこなそうとすれば、かなりハードル高いッス。でもこれは源信が設定した基準ではなく、あくまでお経や先人の論から抜き書きしたもの。菩提心の説明については源信自身の言葉も含まれているけど、全体としては源信は「編纂者」という立場に過ぎない。お経だけだって膨大な数があるというのに、その上先人の解釈も取り込めば中には矛盾してると感じるような内容も当然出てくる。お経の記述を崩さず、整合性のある文章にまとめるのには源信も苦労したんじゃないかと読んでて思ったんだけど、あるいはレベルの低い質問者は執筆に苦慮したもう1人の源信だったのかもしれない。とにかくね、内容が膨大すぎるんですよ。一つ一つの説明を読んでる時はいいんだけど、そこを離れて大きな眼で眺めてみるとあちこちで色んなことを言ってるので、何が何だかわからなくなってくる。「インド人がお経を量産しすぎるからこんなことになったんだよ・・・」と心の中で舌打ちもしましたが、内容が膨大なゆえに難解であることは源信にも自覚があったらしく、行法の要点の最後では総括として 「どの業が往生の要点であるかが、まだわからない。」という質問を質問者に言わせている。もうホントにその通りで、わたくしも「そうだよ、そう!!」と激しく質問者に同意しました。ちなみに、これに対する源信の答えは 「大菩提心と、身・口・意の三業を正しく護ることと、深く信じ、至誠をもって 念仏すること、これで願のままに必ず往生ができる。ましてその他色々のめでたい行をも 兼ねそなえるならば、往生は疑いない。」 (前掲書より)というもの。短い文章にまとめてはいるものの、往生の条件は結構盛りだくさんだよな・・・「その他色々のめでたい行」なんて言ったら、相当幅は広がるぞ「往生要集では盛りだくさん」、これ、覚えておいてね。ここまでの実践編はルーティンワークで、このほか「別行」がある。別行は「尋常の別行」と「臨終の別行」の2つに分けて語られるが、このうち重要なのは臨終。なんでかって、往生譚の記事で「死に際が大事」としたでしょお~。観想であれ称名であれ、念仏というのはイメージトレーニングだと前回書きましたが、結局のところ最も大事な死に際に正しく往生を願うことができるように長い時間をかけて心と体に念仏を叩きこむのが念仏行者の「修行」なんだと思います。つまり、わたくしに言わせると往生を願う者は「死ぬために生きる」ようなもの。これはね~、生き方の多様化してる現代人からすると一発大儲けを狙って全財産を株や宝くじやギャンブルにかけるよりももっとスケールのデカい大バクチですね。だって、一生を「往生」につぎ込むんだからね。もちろん、バカにしてる訳じゃないですよ。でも、もし極楽浄土が存在しなかったら・・・?大乗が後世の人間によって作られた新仏教だからこそ、わたくしは読んでて怖いと感じました。死後の世界はあるのか?特段信じていない現代人でも、死後の世界の一般的なイメージは大部分の日本人に共通しているものじゃないかと思いますが、それはやはり仏教の影響が大きい。「死後の世界を見た」という人が語る世界もまた仏教色の濃いもので、それをウソだと言うつもりは毛頭ありませんが、仏教文化の中で育った人間につちかわれた既成概念が作り上げた世界が一旦死にかけてこの世に戻ってきた人が見た「死後の世界」に影響を与えなかったということは言えないんじゃないだろうか。いやだから、丹波哲郎大先生の言ってることがウソだって言うんじゃなくて、欧米に生まれ育ったクリスチャンも、砂漠に生まれ育ったイスラム教徒もたぶん日本人と同じ「死後の世界」は見ないと思うんだよね。同じ人間なのに、死後の行き先が違うってことがあるんだろうか・・・とつい考えてしまっただけです。まっ、それはともかく、阿弥陀様が一大パレードを展開しながらお迎えに来て下さる時に「まら」とか「酢の入った小瓶」なんか考えたらもうアウトです。いくら念仏行者の死の瞬間に苦しみが少ないと言っても、実際のところまったく平素と同じ状態でそのまま死に至れるってことはほとんどないだろうし、どれだけ準備をしてたって「自分が死んだら酢の小瓶はどうなるだろう」って色々な事を考えてしまうのが自然というもの。でも、極楽往生を願うならそれじゃダメなんです。ちゃんと心と身体を阿弥陀様でなみなみ一杯にしておかないと、観世音菩薩が念仏行者を載せるためにかかげた蓮の台がからっぽのまませっかくのお迎えパレードが途中で極楽へ帰ってしまうかもしれません。世の中には「大舞台」は数知れぬほどあって、そこへ出る人にとってはどれも真剣勝負ですが、往生を例えるなら甲子園や箱根駅伝なんかがぴったり来るかと思います。どちらも世間の耳目を集めるもので、それに憧れて学校を選び、本番へ向けて選手たちはひたすら厳しい練習を重ねていきますが、大勢のギャラリーが見つめる中での一発勝負。やり直しはきかない。実力を出し切ってそれでも負けたのなら、くやし涙もサワヤカなものですが、時に緊張のあまりミスが続いて負ける試合なんか見ると可哀想で仕方ありません。こういう勝負ではよく「自分を信じろ」なんて言われますが、念仏の徒の往生もそれと同じだと思うんです。「(160)」でギリ往生できたケースを紹介してますが、あれ、よく似た話が源信の念仏結社の中にもあってね。源信が『往生要集』で描いた地獄の世界があまりにも強烈だったために、肝心の臨終の際には恐怖が先立ってしまって同じようなビジョンを見た念仏の徒がいます。つまり、強度のプレッシャーに襲われたようなんですね。ずっと念仏の行に励んできた僧でさえこれだから、臨終の時に正しく阿弥陀様をお迎えする態度でいるというのは並大抵のことではないようです。だからこそ、常日頃から念仏に励んで「その時」を正しく迎えられるようイメージトレーニングをしておこうという訳ですが、 問:もし臨終に一たび仏の名を念ずれば、よく80億劫のもろもろの罪を 滅することができるとするならば、尋常の行者もまたしかりとすべきであろうか。 答:臨終の心力は強く、よく無量の罪を滅することができるが、尋常の称名はそうではない。これほどまでに臨終の念仏は大事だと言っています。ここは源信がかなり力を入れたところです。最後は念仏の利益やもろもろの証などの話が続く。称名と観想の2つの念仏のうちで源信が重視していたのは観想だというのはよく言われるところで、『往生要集』を愛読していた貴族のうちで財力のある者は頭の中だけでの観想に飽き足らず、「目で見る浄土」を作り上げた。宇治の平等院なんかもこのテのコンセプトで作られたもの。素晴らしいハズです、あそこは浄土だったんですよ。しかし、あんなもの誰でも作れるものじゃないし、観想だってそんなに簡単にできるものじゃない。でも、救済の道はある。中国の善導いわく、 衆生は罪障が多いから、観想は成就しがたい。このゆえに仏陀は憐れみを垂れて、 ただもっぱら名字をとなえよと勧めるのである。 (前掲書より)観想がダメなら称名で。この場合、前回も引用したように小声でぼそぼそ唱えているととかく気が散ってしまいがちだから、大声で唱えるのがよい。往生の行の中では念仏がベストだから、自分に合った方法を選べばいい。 問:もし深く信じることができずに疑いなからも行を続けていたら、 往生できないのか? 答:疑いながらでもなお往生を願って業を修める者は往生できる。実践に供するために書かれた書だから、こんな問答は色々あります。全体的な内容は難しいですが、現代語訳は色々出版されているので往生に興味のある方はぜひ読んでみてください。『往生要集』は基本的に経や論からの引用で展開しているものの、時に源信自身の解釈や言葉も入っているので、 「間違ったようなことは書いてないつもりだが、もしこれを読んだ人でおかしいと思う 箇所があれば、この書にこだわらず正しい道を進んでいってほしい」とも言っている。分量が多いので、ちょっと読んだぐらいじゃ結局どこが重要なポイントなのかよくわからない部分もあるけど、これをベースとして日本浄土教が発展していったことに変わりはない。よくまあ、これだけのものを書いたもんだとほとほと感心しました。して、最終巻の最後は洒落た問答でシメている。 問:因論生論、多日筆を染めて、心身を労してきた。その功がないことはないであろう。 何ごとを期待しているのか。 答:このもろもろの功徳により、願わくは命の終わる時において、阿弥陀仏の無辺の功徳身を 見ることができるように、私と他の信者と、すでにかの仏を見ることができたならば、 願わくは離垢の眼を得て、無上菩提を証せんことを、ということである。 (前掲書より)にほんブログ村
2015年05月28日

次の章からはいよいよ本筋に入る。すなわち、「正しく念仏を行うこと」。ここから実践編です。まずは礼拝で、これは回数ではなく真心を持って行うことが大事だとする。ここでも経の言葉が引用されるが、ちょっと簡単すぎるので礼拝の作法を作ってみた、として「こんな風に念じてみるといい」といくつかの例が挙げられている。 たとい、他の行をしなくても、ただ礼拝だけで、浄土に生まれることができる。 (『東洋文庫8』石田瑞麿訳/平凡社より)次が讃歌。これは身体と口と心の3つが相互に結び合った言語表示の動作だという。 【たとい、他に何もしないで、ただ仏を讃歌するだけでも、願い通りに必ず浄土に 生まれることができるだろう。】一声でも「みなすでに 道はなるなり」と法華経の 詩にあるくらいだから、まして常に讃える時はなおさらである。 (【】内は前掲書より)次が「作願」。これは身体と口と心の3つが相互に結び合った心(意)の働きのことで、中国の先人の書をひいて 当然、菩提心が浄土の悟りの骨子である、と知ることができる。とする。ここは源信が重要視したところで、ゆえに論点を3つに分けて詳述した上で、「念仏に励む者はこの煩雑さを厭ってはならない」として「ここはきっちり読めよ」とあらかじめ念を押している。興味のない人にはつまらない記事かもしれませんが、『往生要集』は源信のコンセプトに基づく撰述になっているものの、基本姿勢はあくまでお経や浄土教の先人たちが説く往生の正統をまとめたものなので、仏教史に興味を持つのであれば源信は何を説いたのか、お経では実際どんなことを言っていたのかということを押さえておくことは非常に大事です。ここは後の記事にもかかってくるところなのでね。で、行を行うツールとしては身体と口と心の3つがあり、後世の念仏行者もどれが一番の「肝心要」にあたるのか色々と頭を悩ますところなんだけど、ここでは悟りへの骨子は菩提心だと源信は言う。つまりまず「心」を持ってきているようですが、菩提心とは何か? はじめに、菩提心のありかたというのは、総括的にいえば、仏になろうと願う心である。 仰いでは菩提を求め、俯しては世の人々を救おうとする心、とも名付ける。 生死の姿がそのまま涅槃であり、煩悩がそのまま菩提(さとり)である。一つ一つの 煩悩をひっくり返すと、それがそのまま八万四千の悟りの修業(波羅密)なのである。 愚痴(無明)が智慧(明)とかわるのは、氷を溶かして水にするようなものである。 それは決して遠い彼方のものではなく、よそからやって来るものでもない。ただ一度念ずる その心にあまねく全てが備わるのであって、如意宝珠のようなものである。「心」がエンジンの役目を果たすのは私達にもわかるけど、多岐にわたる方便は往々にして混乱や誤解を招く。それを見越した源信は、ちょっとレベルの低い質問者を登場させて「よくあるQ&A」風の一人芝居を展開する。たとえば、 「菩提と煩悩とが、もし同じものなら、ただ思いのままに煩悩を起こしてよいか」 (前掲書より)というありがちな質問を載せて、それに答えるというわかりやすいスタイルを取っている。このあたり、個人的には本覚思想が強いように思う。前に最澄コーチと徳一コーチの例えを挙げましたが、大ざっぱに言って最澄コーチの言い分が本覚思想(だと思います)。ただ、質問はわかりやすくても、専門的な分野なので回答の内容は難しい。 「凡夫は苦しい修業に耐えることができない。広大な誓いを立てながら、 虚しく終わらせてよいものか。」という質問に対しては、 たとい修業に耐えられなくても、慈悲の願いを起こすことは必要であり、その利益は 量り知れないほど多い。経典を見ても天に登るも地獄に沈むもそれは心の差に よるものであって、行いにはないことがわかる。と答え、また 菩提心は不壊の薬であり、水底の宝珠であり、永遠に変わらないダイヤモンドである。とも言う。ただし、本覚思想と合わせて考えれば人間はダイヤの原石かとも思う。本質そのものは変わることはない。でも、原石のままだったら大した値打ちはない。上質な原石であればそのままの状態でまれに高値がつくこともあるけど、そんなのはめったにあるもんじゃないし、ほとんどは磨いて初めて輝きを放つダイヤになる。とすると、「ただ一度念ずるその心」が原石を磨く研磨の道具か。 もし誰かが教えられた通りに菩提心を起こして、たとい他の修業はあまりしなくても、 初めに立てた願によって、必ず極楽に生まれることができる。 (前掲書より)こういったことは繰り返し語られる。 仏の菩提(さとり)を求める心(大菩提心)の働きははなはだ深い。量り知れない 多くの罪を滅し、量り知れない多くの福徳を生ずる。だから、浄土を求める時、 その思い通りにただちに得られる。 菩提心は広大な慈悲の心をもって生命あるものを救い護ろうとする本性より生じ、 他の善からは生じない。 全て世にあるものは、願をその本としている。願を離れるならば、そのときは成立しない。 だから、願を起こすのである。 (前掲書より)ただし、菩提心も不退転の位に達するまでは不安定なのだという。 「一心に仏を念ずれば浄土に生まれるという道理だと思うのに、なぜ経や論では必ず 菩提を求める願を立てるように勧めるのか?」「他の修業はあまりしなくても」きちんとした菩提心があれば極楽往生は可能だとしているものの、「菩提心さえあれば修行はしなくていい」とは源信は言ってない。修行と菩提心はセットになっているもので、修行の功徳は車を引く牛で、菩提心が御者のようなものだという例えをひいている。現在なら「車の両輪」というところでしょうが、当時は牛車だし(笑)、正しい御者(菩提心)があって初めて正しい道を進むことができるのだと言う。さて、実践編の中でもここまではメンタルな面の説明でしたが、菩提心の説明のあとはフィジカルな面の説明に入っていきます。 ・念仏は寿命が終わるまで行うべきものである。 ・行住坐臥、常に西方に背を向けず、涙・唾・大小便は西方に向けるな。 ・「観経」にいわく、1に至誠心、2に深く信じる深心、3に一切の功徳を向けて 回向を願う回向発願心を起こせばただちに往生ができる。 が、3つの中の1つでも欠ければ往生はできない。 ・中国の善導いわく、「顔を西に向ける者が最上である。どうしても西を向けない場合は、 ただ西方に向かう想念を起こすだけでもよい」 ・「大集」にいわく、「大念は大仏を見、小念は小仏を見る」といっている。 小声で仏名を唱えるのはとかく心が散ってしまいがちなので、ただいま念仏を行じる 者たちはただただ声を励まして念仏を唱えれば、三昧境に入ることも容易だろう。 ・問:「念仏三昧とは、ただ心に念じるだけのものなのか、それとも口に出して 唱えるべきものだろうか。」 答:「要は唱えるにせよ念じるにせよ、相次いで休む時なく、声々念々、 ただ阿弥陀仏を目指すのみである。」こういう方法論が述べられている訳ですが、ここでいう「念仏」は結局高度なので、在家は行を全うできないじゃないかという疑問も起こってくる。中には、どうにも気が乗らない時のテンションの上げ方についても書かれている。 ・問:「凡夫には常に念仏の心だけを起こしてることなんて無理だし~」 答:「だったら、日常の中で行うありとあらゆるものと浄土を関連づけて考えればよい」念仏には称名念仏と観想念仏があり、「観察」の項では 初心の人では観察という行為を深く追及する能力を持たない。 (前掲書より)として観想の仕方について細かく説明がなされているが、特に源信のオススメが白毫(びゃくごう)の観察。観想の実際について知りたい方は『往生要集』を読んでいただきたいのですが、かなり具体的でしかも文章は長い。これだけ沢山の記述を費やしても、 今は、沢山の行を行う能力のない人のために、ただ簡単な観想を勧めたに過ぎない。 (前掲書より)と言っている。ここまでを簡単にまとめると、常に浄土を思い、時には頭で観想し時には口に弥陀の名を唱えそれを死ぬまで続けろと言っている。常に弥陀と浄土を思うこと・・・行そのものにも功徳はあるけど、それ以上にイメージトレーニングをして浄土を心と体に叩きこむことが大事なんだと言っている気がする。じゃあ、菩提心を起こして常時の念仏でイメトレ武装してれば往生できるのか?どうもそういう訳でもないらしいんだな。 悪を止め、善を修するとは、『観仏三昧経』に、この念仏三昧を成就する者があれば、 それは次の5つの因縁によるものである。その5つは、1:戒を守って破らない。 2:誤った邪見を起こさない。3:驕慢の心を起こさない。4:怒らない、また、 ねたまない5:頭の火を払う時のように、勇猛に精進する。 (前掲書より)このほかに大乗経典の読誦をあわせて6つの行が必要だとする。 「大論」にいわく、仏は優れた医師のごとく、法は良薬のごとく、僧は看病人のごとく、 戒は薬を用いるにあたっての禁忌のごときものだ、といっている。以上であるから、 たとい法の薬を服用しても、戒という禁忌を守らなければ煩悩の病は治せないと いうことがわかる。でも精進も大事だともいい、ここらへんでも問答が続く。もし煩悩に惑わされて戒を破ってしまったら、その日のうちに懺悔をしろと源信は言う。にほんブログ村
2015年05月27日

第1章「 厭離穢土」の最後は総括で締めくくられる。結局、この身は苦しみだけで五官の欲望に執着して耽溺するようなもんじゃない。『宝積経』の詩にいわく、 閻魔のつねに いうならく 「われの加えし 罪はなく 汝(なれ)みずからの 罪にして 業報(ごうほう)招き うくるなり 父母(おや)も妻子も 救うなし 解脱(さとり)求めて はげめかし」 されば繋縛(けばく)の おこないを すてて浄土を ねがうべきかな (『東洋文庫8』石田瑞麿訳/平凡社より) こんな詩もある。 ひとの言葉を ききいれて 不善・非法を なすなかれ ひとのためとて 犯すとも 苦を受くるは ただひとり (前掲書より) 何がきっかけであろうと、どんな理由であっても罪を犯せばその尻ぬぐいは自分がしなければならない。家族や子孫が贖いを手伝ってくれるなんて日本バージョンの甘っちょろい因果応報論ではなく、自分の報いを自分が受けるという本場の因果応報がここにある。ただ、因果律は悪にだけ適用されるものじゃない。自分がよい道を選べば、よい果実を自分で収穫することができる。だからみんな、ぜひともよい道を進もうじゃないか・・・てことで、第2章では「浄土をねがい求めること」として明るい道が示される。戦国ファンなら、「厭離穢土」と聞けば天下を取った某戦国武将のキャッチからすぐ「欣求浄土」を思い浮かべるでしょうが、その「欣求浄土」が第2章のタイトルです。第1章の途中までは思っていたより読みやすかった。が、前章の最後、総括の途中からは本質的な記述が現われてきて難しくなってくる。まあ、西方極楽浄土を求める正統性を論理的に証明しようとしているので当然っちゃ当然なんですが。 生前、悪いことをした人が死を迎える際にはまず生気と体温が消えるので、 それに伴って激しい動きと苦しみがやって来るが、善い行いをした人の場合はまず 固体性と水分が消え去るので動きは緩慢で、苦しみはない。まして念仏の功徳を積み重ね、 長年にわたって極楽往生に心を寄せてきた人はむしろ大きな喜びがわいてくる。 というのも、阿弥陀仏がその誓いによって迎えに来て下さるからである。そして一瞬の うちに極楽浄土へ生まれ変わり、その歓びはとても言葉で言い表せるものではない。ここまでの記述とはうって変わって、「穢土」に光が射し込むような明るいトーンです。第1章ではこれでもかってぐらいの暗い内容が続いていたので、素直にここまでを読んでいればこの効果は大きいでしょう。源信はなかなかの演出家です。して、この他にも西方極楽浄土で受ける楽しみの記述がえんえんと続く。極楽には阿弥陀如来に仕えるたくさんの菩薩たちがおり、極楽へ行けばこれらのほとけ達にも会うことができる。極楽で会える菩薩についても少し紹介がされていて、名前だけは知っていてもどんなほとけか知らない人が多いと思うので、せっかくだからここで紹介される菩薩たちの功徳なども簡単に載せておきます。 ・普賢菩薩 もし普賢の名を聞くことができた人は最高至上の悟りに達して、そこから退くことはない。 夢の中で普賢を見聞きした場合でも同じである。 ・文殊師利菩薩 文殊の名を聞いただけの人は十二億劫にわたる輪廻の罪を逃れるが、礼拝し供養する人は 常に仏を信じる家に生まれ、1~7日間にわたって文殊の名を唱える人がいれば 必ずその人のもとにやって来る。文殊の名を記憶して口ずさむ人はたとえ重い罪を犯しても 阿鼻地獄に堕ちることはなく、いつもどこか他の清浄な仏土に生まれる。文殊師利の名を 唱えるならば、その功徳はかの百千億の仏たちすべての名を教えられ記憶するよりも多い。 ・弥勒菩薩 名を聞くだけで暗黒の闇に堕ちることはなく、一度でも名を唱えれば千二百劫にわたる 輪廻の罪を逃れるが、心から信じるならば悟りから退くことはない。弥勒を称賛し 礼拝する人は、百千万億阿僧祇劫にわたる生死の罪さえ除かれる。 ・地蔵菩薩 毎朝早くガンジス河の砂の数ほどの数多くの三昧に入って、あまねく一切の宇宙の生ある者 すべての苦しみを除く。地蔵菩薩の抱く慈悲の誓いは、他の菩薩よりもはるかに優れている。 ・観世音菩薩 「生ある者が苦しみのあまりに私の名前を三回唱えるのを聞いて、行ってその者を 救えないのであれば、私は悟りを開かないでおこう」という誓いを立てた。 ・大勢至菩薩 様々な悪道に堕ちてかつて救われたことのない者を救う能力がある。この菩薩は 智恵の光によって照らしだすあまねく一切の者を三塗の世界から救いとる再興の力を 持っている。この菩薩を心に思い描く者は、これまでの数限りない生死の間に犯してきた 罪をことごとく除かれ、再び人の胎内に宿ることなく、常に様々な仏の浄土に遊ぶことが できる。どうすか?インド人、話くどいでしょお~あの仏はこんなにすごい、この菩薩はこんなにすごい、ってくだくだ言われると「で結局、どなたが一番すごいんですかね?」と聞き返したくもなりますが、これだけすごい方達が阿弥陀様に仕えてるというんです。極楽浄土にはほとけだけじゃなく、人間界から行った僧もいるようですが、 阿弥陀仏の国には、菩薩の僧が多く、自らのさとりにいそしむ出家の聖者(声聞僧)は すくない。 (前掲書より)「菩薩の僧」というのは、自らも修行に励みながら他人の救いにも手を貸そうという僧。「声聞(しょうもん)僧」というのは、上の文にもあるように「自らのさとりにいそしむ」僧。つまり、菩薩の僧は大乗の僧であり、声聞僧は小乗の僧。ただ、阿弥陀様は大乗の仏だから本当の小乗の僧というよりは「小乗ちっくな大乗の僧」という方が適切かもしれませんが。 娑婆では仏に会って教えを聞くことはとても難しいが、極楽に生まれた人は いつも阿弥陀仏にまみえ、深い教えを聞くことができる。いつでも阿弥陀様に会って直接の教えを受けられることは幸せだけども、極楽浄土に行けば極楽浄土だけにいなければならないという訳でもない。 極楽浄土にいながら他の仏を供養したいと思って阿弥陀仏にそれを話せば、 ただちに許されて思い思いに十方世界に飛んでいって数限りない仏を供養することが できる。念仏にいそしむ行者はこれらの様々な功徳を聞いて憧れ、いつ浄土に 行かれるのかと嘆かないことはないが、もし浄土に生まれることができれば 朝出かけて様々な仏や菩薩に会って常に正しい教えを聞き、悟りを開くことができる という予言を受ける。あるいはあまねく全ての俗世間に入って様々な仏事を行い、 すべてを救おうという普賢菩薩の誓いのもとに修行をする。これもまた 楽しいことではないか。なんと、外出自由だっていうんですよ。こうやって思い思いに好きな浄土に出かけて色んな仏から直接深い教えを受けることができるから、悟りまでの長い階段をひたすら自力で登っていくより、浄土を経由した方が楽に悟りに至れるってことなんだろうな。 娑婆世界では道を修めてその成果をすぐに得ることは難しい。苦があれば憂い、楽しみが あればそれに執着して、苦楽のどちらにせよ悟りから遠ざかっていくからである。しかし、 かの国では最後まで心がくじけることはなく、仏の道を推し進めることができる。 そして最後には必ず、次に生まれる時は仏となることが約束された位に到達するか、 もしくは速やかに最高至上の悟りに至る。極楽での寿命は永遠で、これは仏と同じなんだそうな。だから、わたくしのような頭の悪いニブチンでも、良い先生について学んでいるうちにどうにか悟り、もしくはそれに準ずるレベルに達することができるだろう。しかし、その幸運もまずは浄土へ行かなければ道は開けない。 このいまの生涯を勤めはげむことは、ほんのわずかな束の間である。どうして様々な 雑事を棄てて浄土を求めないのか。どうか、念仏の徒は、決して怠ることのないよう 勤めてほしい。 (前掲書より)この辺りから、ただ参考文献を引用・羅列するだけでなく読者が持つであろう様々な素朴な疑問を質疑応答のスタイルで説いていく記述も混ざる。次の項では、その問答形式で極楽を勧める証拠を挙げていく内容に入る。たとえば、「浄土は十方のいたるところにあるのに、なんで極楽浄土にだけ生まれたいと願うのか?」といった具合に。ここでは経のほか、多くの先人たちの論も引いていて、極楽浄土と兜率天の比較なども行われる。兜率天は弥勒菩薩のおわす浄土のことで、弥勒様は次のブッダとなることが決定している菩薩。ただ、弥勒様がブッダとなるのはお釈迦様の死から56億7千万後のことで、それまでは天界の一部である兜率天で修行、あるいは説法しているとされる。「後生の幸せ」を願うジャンルでは弥勒信仰も人気があり、ブッダになる前でいいから弥勒様の兜率天に往生したいという「上生信仰」と、ブッダになった弥勒様が地上に降り立つ日に備えて準備しておこうという「下生信仰」がある。「埋経」というのを聞いたことがありますか?文字通りお経を埋めておくもので、弥勒様が下生(げしょう)されたら、この世界がそのまま浄土となる。その日に備えて、お経を地中で大切に保管しておこうというのが埋経。戦国時代頃には弥勒信仰もブームになったらしいけど、源信が兜率天のことを持ち出してるあたり、平安期にも根強い信仰があったということだろう。欲張りな藤原道長は、極楽往生を願いながらも弥勒信仰にのっとって埋経もしている。源信は死の少し前ぐらいから不思議なものを色々見ていたらしく、詳しく語ることは差し控えているものの、ある時弥勒菩薩の使いがやって来た。「おめでとう!今までの善行により、あなたは弥勒様の浄土へ往生することが決定しましたよ~」「・・・・・・それは大変光栄なことですが、でも私は長年極楽浄土へ往生することだけを願ってきたのです。ですから、どうか弥勒様が私を極楽浄土へ送ってくれるようお願いしていただけませんか?」と、なんと弥勒様のお誘いを断ってしまったというのだ。まあ、それは『往生要集』の執筆よりかなり後の話ですが。弥勒様のお誘いは断ったものの、極楽と兜率天の違いを色々論じた後で源信は ただ、最後には兜率を求めるのであれ、極楽を求めるのであれ、それぞれに合ったものを 求めて思い通りに修学すればよろしい。それぞれがお互いをそしることだけはしては ならない。としている。にほんブログ村
2015年05月26日

「地獄」の次は「餓鬼」「畜生」「阿修羅」の世界の説明です。ここでは地獄ほど過激な記述はないものの、どういう罪を犯したらどこへ行くかということが相変わらず書かれてます。 ・生き物を殺した者 ・物惜しみし、むさぼり、そねみ、妬んだ者 ・自分は美食を食べながら妻子に与えなかった夫、あるいは夫や子に与えなかった妻 ・愚痴で恥知らずな上に在家信者の真心からの施しをいたずらに受けるだけで 他の何かで償いをしなかった者 ・ひとが苦労して得たわずかばかりの者をだまして取り上げた者 ・旅の商人が病苦に疲れきっているのをいいことにわずかな代価で商品をだまし取った者 ・名誉や利得をむさぼるために不浄の説法をした者近年、農家の人が丹精こめて育てた作物を収穫直前に奪ってしまうというニュースが増えてますが、あれマジ腹立つんだよね。あと、振り込め詐欺などのニュースを見ては「地獄へ堕ちろ」とTVに向かって呪いの言葉を浴びせてますが、これだと奴らは地獄へは堕ちないみたいだなさて、地獄のものすごい記述がまずトップバッターだったので、わたくしも驚きましたし、人々に必要以上の恐怖心を与えたというのもわかる気がしましたが、よくよく読むと地獄より次の記述の方がコワイ。その次とは、「人間」界です。まず最初は人間の体の構成の説明から始まる。骨の数なども書かれているので、平安期はこんな風に考えられていたのか~と面白いと思って読んでいたら、 五つの感覚器官と身体の七つの穴は汚いもので満ちみち、七重の皮で包まれ、 ちょうど火を祭るときのように、六味によって養われて、それらをむさぼり受けて 飽くことがない。このように身体は、どこもかしこも臭く穢れていて、初めから 腐りただれている。このことを知ったならば、誰がこのようなものをいとおしみ、 重んじ、それを得意になって誇りとすることをしようか。 (『東洋文庫8』石田瑞麿訳/平凡社より)と、ぎょっとするような記述になった。次は身体の中に入ってそれぞれの臓腑のはたらきを解説したあとで、 また頭の先から足の裏まで、また骨の髄から皮膚までには八万の穴に棲む虫がいて、 頭が四つあるもの、口が四つあるもの、九十九の尾のあるものなど、形状は一様ではない。 一つ一つの虫の穴にはまた九万の微細な虫がおり、細くなった秋の獣の毛の先よりも小さい。 この数えきれないほどの虫が、人間が生まれて7日目からそれぞれの棲みかである部位を 食い荒らすようになり、身体に激しい苦痛や病気、気の病など様々な苦悩を引き起こす。 これらの虫が原因で病気が起これば、どんな名医でも治すことはできない。そして宿主である人間が臨終の時を迎えると、虫たちはパニックを起こして共食いをする。これにより宿主は非常な苦しみを味わい、見ている家族たちも苦悩する。そうして身体中の虫が食いあって最終的には2匹だけが残り、この2匹は勝者の座をめぐって7日間争い続け、1匹だけが生き残るという。でも宿主は死ぬんだから、生き残った1匹は一体どうなるのか・・・そこまでは書かれていません。さらに続けて、 いくら上等の食事をしても、一晩の間にはすべて不浄なものとなってしまう。 糞などは程度の差はあってもどれも臭いように、この身体も同じように穢(きたな)い。 子供から老人まですべてが不浄で、海水のすべてを使って洗っても清浄にすることは できない。だから、どれほど外見を美しく飾ろうとも、その中には不浄なものを内蔵 しているだけなのだから、絵に描いた瓶に糞などを盛るのと何ら変わるところがない。まあ、確かに何食べたって翌日にはどれも同じようなウンコになって出ていくけどね・・・そうすると、人間はウンコ製造機か?街ゆく人も、TVに出てる綺麗な姉ちゃんたちも、ただウンコが化粧して服着て歩いてるだけなのか?ウンコのあとは、えげつない死後の身体の変化の描写が続き、 この相(すがた)を見ないうちは、愛染の心は大変強いけれども、一旦これを見てしまうと、 愛欲の心はことごとく止んで、とても鼻持ちならなくなる。たった今美しいと感じたものが、 とても鼻持ちならないように思えてくる。ちょうど、糞を見ないときは、よく飯も食える けれども、一旦臭気をかぐと、たちまちむかむかして吐くようなものである。 (前掲書より)今度は周囲の人間すべてがゾンビゲームに出てくるようなおどろおどろしい姿に見えてくる。 もしこの相を悟るならば、また、秀でた眉も、翠に澄んだ眼も、皓(しろ)い歯も、 赤い唇も、ひとかたまりの糞(くそ)に脂粉を施して表面を覆ったようなものか、または ただれた死骸(しかばね)に仮に美しい絹や綾を着せたようなものとしか映らないだろう。 遠くからでも眼で見るに堪えないから、まして身をもって近づくことなど、とてもできない。 かつて身の不浄を厭って鹿杖梵志に頼んで自害して果てた僧があった。まして歓びに むせび泣き抱きあって、淫楽にふけることをしようか。このように想うことこそ、 淫欲の病を癒す優れた煎じ薬である。 (前掲書より)次に「苦」に触れるが、これはいつも眼の前で見ることができるからと割とあっさりした記述になっている。人間最後の項は「無常」で、これは誰も逃れ得ない死について語っている。どんなに財産があろうと何だろうと死だけは誰にも訪れるもので、独りさびしくその道を歩んでいかなければならないのだから、死というより死後に対する恐怖心を一旦持ったならば、熱湯や火の中に足を踏み入れたように、五官の楽しみにふけり、六つの欲望をむさぼっている暇はない。 人間の世界はこのようなものである、これを思って心から厭い離れなくてはならない。 (前掲書より)前回少しだけ地獄の記述を紹介しましたが、それぞれの刑罰は悲惨ですさまじいものではあるものの、あまりに現実世界とかけ離れているのである意味リアリティを感じない。ところが、この「人間」の項は実際のことを語っているだけに正面からこの記述と向き合うと、ずっしりと重い。最初の「地獄」からここまで、こんなことばかりお経から拾い集めて源信は一体何を言いたかったのか・・・この章のタイトルは、「厭離穢土」(おんりえど)。石田瑞麿氏訳の『東洋文庫8』では「この穢れた世界を厭い離れること」となっている。この世に生きる人間はすべて穢れている。その上に罪を犯せば、誰も助けてくれない容赦ない地獄が待っている。こういう現実を正面から受け止めたら、誰しもただ安穏として現世を過ごそうなんて甘っちょろい考えは吹っ飛ぶだろう。いや、吹っ飛ばさなければならない。まずは「この穢れた世界を厭」わせることを目的としてシビア~な話を最初に持ってきてます。しかし、「六道」にはもうひとつ「天人」界が残っている。天界はもちろん地獄なんかと比べたらハッピーでラグジュアリーなセレブの世界だけど、キリスト教でいう天国とは違ってお楽しみは永遠じゃない。天に住む天人にもやがて死は近づき、頭に飾っていた花がしおれるなどの兆候が現われる。この兆候を「天人五衰」という。天での長い生活はハッピーなものではあるけど、ハッピーだからこそそこを去らなければならないとなった時の苦しみは非常に大きく、『正法念経』の詩にいわく、 天上を しりぞくときは 苦しみの 大いなるあり 地獄すら この苦しみの 十六の 一におよばず地獄の16倍以上の苦しみを味わうそうなんです。ここで六道の最上位である天界と最下位である地獄界がつながって輪廻の無限ループの出来上がりです。天界は3つに分けられ、『往生要集』では天人五衰の様子しか書かれてないけど、いつかは終わりが来るものだし、天界を出れば次はどの世界へ転落するかもわかったもんじゃないので、 まず人は欲界・色界・無色界の三界のいずれにあっても休まらないので、 これを離れなければならない。としてやっぱり「厭いのススメ」をしている。 我々は今まで仏道に励んだことがなかったから、これまで数えきれないほどの輪廻を 繰り返してきた。今ここで励まなかったら、この先も同じことを繰り返すだろう。もし 運良く来世も人間に生まれることができても健康な身体で生まれるかはわからないし、 その上仏の教えに巡り合うことは難しい。さらにそこから信仰心が生じさせることは 難しいだろう。 しかし、我々は今幸いにしてこの好条件を備えているのだから、浄土に生まれるために 勤めるのはこの時しかないというのがわかるだろう。それでも、すでに老齢にさしかかっても まだ俗世間の塵に染まり執着を捨てようとしない。死を迎えて独り黄泉の国に向かう途中で 後悔して救いを求めても、もう遅いのだ。 【どうか、道にいそしむ人達は、早くこの汚れた世界を厭う心を起こして、速やかに解脱 (さとり)の道に従い、宝の山に入って、手を空しくして帰ることのないようにして もらいたい。】 (【】内は前掲書より)宝の山に入って手を空しくしてうんたら、ってのは天台大師・智ギの『摩訶止観』にある言葉で、最澄も山ごもりした際の願文に「空手」(くうしゅ)の語を使っている。といっても最澄が願文を書いた時点ではまだ『摩訶止観』を読める環境ではなかったので、渡来僧の法進の著作から吸収した可能性があると佐伯有清氏は言っておられるが、源信のは最澄の願文からの引用というよりはそのものずばり『摩訶止観』からの引用だろう。『摩訶止観』などからの引用は他にもあり、天台の学匠らしい一面をのぞかせている。にほんブログ村
2015年05月25日

それでは、日本浄土教の歴史に燦然と輝く名著『往生要集』の中身を少し紹介していきましょう。まずは地獄の記述から始まる。「えっ、いきなり!?」てわたくしは驚きました。ここの記述が実に真に迫ってすごいんですが、意外に読みやすくてこれまたびっくりでした。まず、地獄とはサンスクリットの奈落(naraka)を意訳したものをいう。『古代日本文学にあらわれた他界観-日本霊異記における「地獄」を中心に-』(安田夕希子)の分析によると、『往生要集』より200年ほど前に書かれた日本最古の説話集『日本霊異記』にも地獄や浄土を思わせる記述はあるものの、僧である著者の景戒にも「地獄」の観念はなかなかなじまないものだったらしく、古代の他界観と仏教的他界観が融合しつつあるような過渡期の記述が多いらしい。たとえば、「地獄」の場所。日本神話でイザナギが変わり果てた妻から死に物狂いで逃げるエピソードでは、この世と死者の国は歩いていける距離にあり、地上に出たイザナギが黄泉比良坂に岩を置いて人心地つくという流れになっており、古代日本では比較的水平な位置関係と考えられていたらしい。それはインドにおける垂直な位置関係にある地獄観とは違っている。源信が『往生要集』で描いた地獄とは、 わたくし達が今いるこの地上から約14,400Kmの地下にあるもので、下に行くほど受ける苦しみは重く、そしてそこでの滞在期間は長い。「下にィ~、下に!!」これがインドの他界観。安田氏によると、斎明天皇5年(659)には盂蘭盆会の講説が行われ、地獄についても説かれたと考えられているらしく、また奈良時代に入ると東大寺の二月堂に地獄絵が描かれているそうな。だからそこそこ早い段階から仏教的他界観も入っていたようではあるんだけど、過渡期に生きた景戒は、日本古来からの「あの世」観と融合させながら書いている。どちらかというと『霊異記』では日本的なイメージの他界観が強く、「地獄」という語は出てこないし、極楽と地獄を対比させる記述もない。それから200年ほど経った源信の時代には、景戒の頃よりは仏教も浸透して大寺の碩学などには仏教的他界観も理解されつつはあっただろうけど、それまではこれほど経論からあらゆる記述をダイジェストにまとめた本はなかったので、お経に説かれる「あの世」が勢ぞろいした『往生要集』を読んだ人達はかなりの衝撃を受けたことだろう。最初の章ではまず、この世界の様相を明らかにするために、1:地獄、2:餓鬼、3:畜生、4:阿修羅、5:人間、6:天人、7:総括に分けて説明する、として地獄の記述が最初に来る。地獄は、上の図の通り8つ。ご存じの通り、ここでは生前に犯した罪の償いをしなければならない。1つ1つの地獄について、どんな罰が行われるのかということが実に詳細にリアルに書かれているので、源信が本当に伝えたかったことよりも『往生要集』といえばまずここの記述が話題になる。大乗経典の暗記をやっていたり、パーリ仏典を読んでたりすると「インド人、話くどいなあ~」て思うことはままありますが、よくまあこれだけ考え出したもんだと感心するぐらい、凄惨な刑罰の記述が続く。ひとつの例として、焦熱地獄のケースを引用して紹介しましょう。 地獄の鬼は罪人を捕えて、熱い鉄の地面の上に横たえ、仰むかせたり俯(うつ)むかせ たりして、頭から足まで大きな熱した鉄の棒で打ったり突いたりし、肉団子のように してしまう。あるいはものすごく熱い大きな鉄鍋の上において、猛火で罪人をあぶり、 左右に転がし、腹や背を焼いて薄くする。あるいは大きな鉄串で肛門から突き刺して 頭に貫き通し、くりかえし火にあぶって、罪人のさまざまな器官や毛孔、口の中までも、 すっかり火を吐くほどにする。あるいは熱い鉄の釜に入れ、あるいは熱い鉄の高楼 (たかどの)に置くと、鉄の猛火が激しく燃えて骨や髄にまで染み通る。もし、 この地獄の豆粒ほどの火でも、この地上世界に持ってきて置いたら、またたく間に 焼き尽くしてしまうだろう。まして罪人の身体は若草のように軟らかいから、 時間をかけて焼けば、とてもたえられるものではない。 (『東洋文庫8』石田瑞麿訳/平凡社より)こんなのがずっと続くんです。すごいのは罰の内容だけじゃない。上の図の等活地獄のところに「1689億9千5百年」と入れましたが、これが人間の年数に換算した、等活地獄での滞在期間。でも、最初から「1689億9千5百年」なんて書いてある訳じゃないですよ。本文では 人間の世界の五十年をもって一昼夜とする四天王の寿命は五百歳であるが、この 四天王の寿命もこの地獄の一昼夜にしかならないのに、この地獄の寿命がまた五百歳 なのである。 (前掲書より)と書かれてます。これを真面目に計算すると、「1689億9千5百年」なんてとんでもない数になったんです。かなりの年数になるだろうとは思っていたけど、一番ランクの軽い等活地獄で地球の誕生(46億年前)をはるかにオーバーしてしまったので、以下の地獄の年数を計算するのはやめました下の地獄に進むにつれ、刑罰は凄惨さを増しさらに滞在期間も途方もない長いものとなっていきます。さらに驚くのは、それぞれの地獄へ堕ちた人間がどういう罪を犯したのか妙に細かく書かれていることです。具体的には ・生き物を殺した者 ・崖から人をつき落とした者 ・よこしまな淫にふけった者 ・身を慎んでいる信者の女を犯した者 ・嘘をついた者 ・縄で人を縛ったり、杖で人を打ったりした者 ・盗みをした者 ・戒を守っている尼を犯した者 ・他人の女を奪った者 ・よこしまな男色をした者 ・岸から身を投げて自殺した者 ・人を遠いところまで追い立てた者 ・酒を飲んだ者 ・人を縛って食べ物を奪った者 ・杖で人を打った者 ・河を決壊させて人を飢餓に陥れ死に至らせた者 ・殺した生き物の肉を食べた者 ・煙をくすぶらせて人を悩ました者 ・人を殺した者 ・子どもを怖がらせた者こんな感じ~。男色もイカンのか・・・戦国武将はほとんどがアウトだな。『霊異記』では三宝(仏・法・僧)に対して何らかの罪を犯した者は死後じゃなく現世でソッコー報いを受けるというパターンが多かったけど、『往生要集』で説かれる地獄行きの罪の中でもやはり三宝に対する罪は重いです。 ・仏像を焼いたり、僧坊を焼いたり、僧の寝具を焼いたりした者 ・よこしまな考えで教えを説きすべてが偽りであった者 ・出家の身でありながら戒を守っている婦女に酒を飲ませて誘惑し 交わったり金品を与えたりした者 ・不当に信者の施しを受けてのらくらと生活していた者 ・仏に所属する金品を盗んで生活費にあてた者 ・辟支仏(びゃくしぶつ)の食べ物を盗んで食べ、人に与えなかった者 このほか、「5つの逆罪(父母・阿羅漢を殺す、仏を傷つけて血を出させる、教団の分裂を起こさせる)を犯した者や大乗を誹謗した者も当然含まれます。「僧のおふとんて・・・」とついわたくしは笑ってしまいましたが、笑ったら「大乗誹謗の罪」と判定されてしまうのだろうかどの罪を犯したらどの地獄へ行くのか、興味(心配)のある方は『往生要集』をご覧ください。上に並べた罪は、『往生要集』に書かれたすべてを載せたものじゃないし、刑罰のあれこれは実に沢山の種類がありますが、それでも源信は まだ千分の一も説いてないが、いくら説いても説き尽くせるものではないし、 もし誰かが説いて誰かが聞いたとしても、その人は血を吐いて死んでしまうだろう。と言っている。これら8つの地獄は「八熱地獄」と呼ばれ、劫火だとか煮え湯だとかとにかくアツい世界が語られているが、この他に8つの寒地獄があり、八熱地獄と同じく地上の下にあって八熱地獄のすぐそばでそれはそれは寒い世界を展開しているのだという。ただし、『往生要集』では寒地獄については割愛されている。『霊異記』では、罪を犯して一旦は地獄っぽいところへ行かされても生前のわずかな善行のおかげで仏が助けに来てくれたり、あるいは家族がお経を唱えるなどの行為によって助かったりと救済の道が提示されている。まあ、ほとんどは現世で自らが償うというパターンだけど。ところが、『往生要集』で描かれる地獄は一旦堕ちたらもうアウト。規定の長い時間をそこで過ごさなければならない。ある地獄で、地獄の鬼が罪人に語りかける場面がある。 「心が一番あだをなすのだ。このあだがすべての悪をなし、閻魔王のところへ 送らせるのだ。お前一人が地獄で焼かれ、悪事の報いで食われるが、妻子や兄弟、 親族などの誰もお前を助けることはできない」本来、因果応報とは自分がまいた種は自分に降りかかってくるというもの。日本では家族から僧侶を出せば何代先まで救われるとか、「親の因果が子に報い」なんて言葉もあるぐらいだけど、自分の行いが誰かに影響を及ぼすというものじゃない。自分の責任はあくまで自分で取らなきゃならんのだ。地獄の鬼が言っているのは、そういうこと。『往生要集』はお経や論書からさまざまな記述をダイジェストに集めたものだから、『霊異記』よりはもっと純粋な仏教的世界が繰り広げられる。ここの記述があまりにもすさまじいものだから、源信が意図したものとは別の結果を生んだケースもあり、各種地獄絵図にも大きな影響を与えた。文章だけでもまともに読むと繊細なわたくしは貧血を起こしそうなほどなのに、『北野天神縁起絵巻』なんか見た時にはくらくら来ましたね。視覚効果というのは実にすごいものです。にほんブログ村
2015年05月24日

源信が叡山に残ったことは、日本浄土教の発展において大きなプラスになったんじゃないかと思う。日本の仏教史で「入唐八家」(にっとうはっけ)と言われる方たちがいる。その名の通り唐に渡った僧侶たちのことで、最澄や空海、円仁・円珍もこの8人の中に入る。もちろん、大陸へ渡った人は他にもいるけど、唐の時代に渡航した人という意味ね。最澄と一緒に海を渡った義真がこの8人の中に入ってないのがお気の毒だと個人的には思うけど、通訳の立場で入唐したからなんだろうな。義真は入唐前に得度して国費で唐へ渡り、海の向こうで具足戒と菩薩戒を受けているのに、それでも入唐八家にカウントされていない。まあ、ブリタニカ国際大百科事典による入唐八家の定義は「密教の移入に貢献した」人ではあるけど、義真だって最澄に付いて密教のことは学んでいるので多少の不公平感を感じずにはいられない部分もある。・・・が、それは置いといて。唐の終盤、あちらでは排仏運動が起こり黄巣の乱も起こって混乱してきたので、菅原道真の建議によって遣唐使の派遣が停止される。これは完全な停止ではなかったようだけど、延喜7年(907)に唐が滅んだことによって遣「唐」使も終わりを告げ、大陸では五代十国の時代に入る。その頃には唐の時代のような大規模な派遣は行われなかったようだけど、朝廷は呉越国との交渉は続けていたそうな。呉越には天台山がある。時代の混乱や唐末期の排仏などによって中国の仏教はかなりのダメージを受けていたようで、天台山だけがかろうじて法燈を保っていたが、天台山の僧から散逸した経典を補充したいという奏上を受けた呉越国王は高麗や日本へ協力を要請した。それに応えて叡山では保有する天台経典を書写して呉越へ送る使者を立てた。この任にあたったのが日延という天台僧で、藤原師輔の親書をたずさえて海を渡った。日本から経典類が逆輸入されていたとは驚きですが、往復に4年かかって天徳4年(960)に戻ってきた日延さんは千余巻ともいわれる多数の書を持ち帰ってきた。その中には日本初輸入の書も多くあり、仏書以外のものは朝廷に献上され、仏書は叡山に納められた。叡山に納められた中には『往生西方浄土瑞応伝』という書があり、日延がこれを持ち帰ってきた段階では 【源信この時十六歳、良源の下にあって修行中の若輩が容易に近づけるものではなかった であろう。一方保胤は二十五歳前後、文章生で内御書所勤務、外典の一部を書写した かもしれない。しかし叡山山上の仏典に関与できる立場でもないし、興味もなかった であろう。】 (『人物叢書 良源』より)というが、そこから20年ほど経って源信と保胤の2人が浄土信仰に目覚めるとこの書は2人に強い影響を与えたらしい。とくに保胤は『瑞応伝』やほかに唐僧の書いた『浄土伝』という書を読んでから自分でも国史や伝記などを調べ、古老へのインタビューも開始するなど、『日本往生極楽記』の執筆の契機になったのだという。ただ、源信はその頃には叡山を代表する碩学となっていたから『瑞応伝』を読むこともできただろうけど、保胤が叡山で出家するのは良源さんの死の翌年(寛和2年:986)。『日本往生極楽記』の大半は寛和の前の永観期に出来上がっていただろうと川崎庸之氏は推測するので、そうであれば保胤は出家する前に『瑞応伝』を読んだことになる。まあ良源さんなら「部外者への閲覧は許さん」なんてケチケチしたことは言わなかっただろうけど、だからと言って部外者が簡単に見ることができたとも思えない。であれば、すでに保胤と面識のあった源信か、もしくは勧学会を通じて知り合った僧の配慮によって閲覧が可能になったのかもしれない。日本浄土教の大ざっぱな歴史を畑に例えると、あまり手入れされず細々と野菜を作ってきた畑を円仁さんが広く開墾し、空也がきれいに畝を整備して保胤と源信が種をまいたってとこだろうか。中国での排仏の嵐が日本浄土教の発展に多大な貢献をしただなんて、歴史って面白すぎます。さて、各先人たちの努力とは別の次元で日本浄土教の発展を後押ししたものがあります。それが「末法」。末法と一口に言っても色んな側面があって、現代においてさえ末法の受け止め方、解釈の仕方には色々あるようですが、『仏教の歴史8 末法の世の救い』(ひろさちや/春秋社)の解説がわかりやすくて面白かったので、ここではひろ氏の解説に基づいて仏教の時代区分の紹介をします。まず最初のステップ。・正法(しょうぼう)時代 お釈迦様の死後500年までを指す。この期間は正しい「教え」が残っており、 きちんと「修行」する人がおり、「悟り(証)」を開く人がいる。・像法(ぞうほう)時代 お釈迦様の死後501年~1000年までを指す。像法の「像」というのはニセモノという 意味で、ニセモノ時代だから正しい「教え」と「修行」する人はいるが、もう「悟り」を 開ける人はいない。・末法(まっぽう)時代 お釈迦様の死後1001年~10000年までを指す。この期間には「教え」だけが残り、 「修行」する人と「悟り」を開く人はいない。 末法時代が終わるともう「教え」もなくなり、暗黒期に入る。「教え」が「教」、「修行」が「行」、「悟り」が「証」で、初めは「教・行・証」と三拍子そろっていたものが時代が下るにつれ1つずつ失われていくという歴史観です。これが基本形で、図にするとこんな感じ。 問題は何年をスタートとするかですが、ひろ氏によると現在ではお釈迦様の没年は紀元前486年というのが一般的な説だそうで、それを当てはめるとこうなる↓。 ところが、昔の人はお釈迦様の没年を紀元前949年と考えていた。ので、昔の中国人や日本人の認識からするとこうなる↓。 これだと紀元後すぐに末法が始まるという計算になるけど、伝承による中国への仏教伝来の年は紀元後の67年。となると、「オイオイ、もう末法の時代に入っちゃってるんじゃねーか。なら、もう修行も悟りもできないんだし、意味ねーよな」ってことになっちゃう。そこで、身勝手な中国人は勝手に時代区分を変更した。 この力技によって、中国仏教のスタートは末法を逃れ得た。が、この変更が今度は日本仏教に影響を及ぼす。仏教公伝には538年説もあるものの、ひろ氏は552年説を採用しているようです。で、上の図でわかるように、奇しくも中国での変更により日本仏教は末法初年から始まったことになってしまうんですね~。てことで、身勝手な日本人は中国と同じように時代区分を変更しようとするが、正法の期間はすでに中国人がいじっちゃったので、像法の期間に手を入れることにした。 てことで、最初は仏滅後1001年から末法が始まるという考えだったのが、東へ渡るにつれ500年ずつ延びて最後は2001年後から始まるということになったそうな。ただ、面白いことは面白いけど、中国での変更後の末法の始まりと日本への公伝の年が合いすぎて逆に気持ち悪さも感じる。これについては、むしろある目的があってあえて中国版末法初年に公伝の年をセットした、と考える研究者などもいるし、霊異記の著者の景戒なんかは延暦6年(787)に末法が始まっていると考えていたようなので、どれが正しいとか一概には言えない部分もあるようですが、『仏教の歴史』シリーズはシロートにもわかりやすく書かれている本なので、一般的な流れとして押さえておけばいいでしょう。それで、一般的に末法思想が大きな影響をもたらしたのは1052年以降、実際に末法に入ったのだと人々が実感した出来事が続いたからだとされる。空也も源信も慶滋保胤も末法の時代に入る前にこの世を去っている。だからあまりこの3人の先駆者たちや勧学会などの浄土信仰ブームは末法思想と関連づけて考えられることはないようだけど、わたくしは末法が身近に迫ってきた時代に生きた先駆者たちにも危機意識はあったんじゃないかという気がする。では、源信は『往生要集』で何を書いたのか。次回からかいつまんでその中身を紹介しようと思いますが、まず序文で源信は 考えてみると、極楽に生まれるための教えと修行というのは、この濁りはてた末の世の 人々を導く眼であり、足である。そこには出家・在家の別や身分の差は関係ない。 ただ、顕教にしても密教にしてもその教えというのは必ずしも同じではないし、 極楽に生まれるための修行法も色々ある。頭がいい上に努力を厭わない人であれば そうした修行も苦にはならないだろうけど、私のような愚かな者がどうしてそんな修行を 進んで行うだろうか。 こういう訳で、念仏という限られた分野についてわずかながらも「経」や「論」から 要となる文章を集めてみた。これによって修行すれば理解もしやすく、また行いやすくも あるだろう。(中略)これを座右に置いて、記憶のために備えるとしよう。 (参考訳文:『東洋文庫8』石田瑞麿/平凡社) としている。『往生要集』は一言で言うと画像のないムック。あるいは実用書、実践書。またはハウツー本。保胤が『日本往生極楽記』で往生の実例を集めたのに対し、源信は往生の実践に供する書を書いた。同じ「往生」がテーマでも、2人の著作の中身は全然違う。通常、画像を豊富に掲載してるのがムックだと思うけど、単なる実用書よりムックの方がぴったりくると思ったのは、源信自身が言っているように中身のほとんどは経や論書から往生や六道に関することを集めたものだから。「往生特集本」と言ってもいいかもしれませんね。わたくしが源信担当の編集者だったら、本の帯には あなたの知らないあの世とこの世とでもするでしょう。保胤も『日本往生極楽記』の執筆で多くの本を読んだと言ってるけど、源信も相当な数のお経や註釈書などを読んだろうと思います。PCのような便利なツールもない中、しかも5ヵ月足らずでこれだけのものをまとめ上げるのは相当大変だっただろうと思うのですが、それも源信の智恵と熱心さによるものでしょう。にほんブログ村
2015年05月23日

永観元年(983)は良源さん71歳。この頃から病がちになっていたようで、翌永観2年(984)の暮れには病も重くなり、山上から麓の坂本へ移った。まだ天台座主は辞任してないけど、印やら鍵やらの重要なものは禅師の君に預けているので、実質的な引退と言えるだろう。そしてそれと時期を同じくして、源信は『往生要集』の執筆にとりかかった。源信が語るところによると、作業開始は永観2年(984)11月で、完成したのが翌年の4月。こんな短い期間であんなものを書いたのかと思うと一体この人の頭の中はどんなだったろうとそら恐ろしくもなりますが、『往生要集』の話に入る前にまず慶滋保胤をば。『往生要集』と同じ時期に保胤は『日本往生極楽記』という本を書いている。これは読んで字のごとく往生譚を拾い集めたもので、日本で最古の往生伝とも言われている。ただ、執筆に際して往生に関する経論で読まなかったものはないと保胤は言ってるものの、橘成季(『古今著聞集』の著者)のように自分が集めた話を沢山詰め込んだという訳でもなく、『日本往生極楽記』で取り上げられたのは45人。仮に日本の仏教のスタートをいわゆる公伝に置いたとしても、そこからすでに400年以上経ってる。もともと紀伝道を目指し、かつ同じ僧侶でさえ呆れるほどの信仰心を持っていた保胤が極楽往生の証しをしようと本気で材料を収集したのであれば、名僧・高僧の類だけでも相当の数のエピソードが集まったろうと思うのに、保胤が自らの著作で紹介したのはたった45人。わたくしは『日本往生極楽記』は読んでませんが、どうも保胤は明確な意図を持ってこの45人を選んだらしい。『日本往生極楽記』の情報源は国史などの書物や古老からの聞き取り。保胤以外の人が書いた往生伝は往々にして著者の脚色なども交じっているそうなんだけど、保胤は一切そういうことをしていないんだそうな。基礎知識として先の記事で往生譚や失敗例をいくつか紹介しているので、なんで脚色が必要なのかはおわかりでしょうが、極楽往生を勧めるのに必要なファクターは、浄土信仰すなわち阿弥陀様への帰依。それから臨終の際の奇瑞。この2つは欠かすことはできないので、ストーリーとしてはいいけど阿弥陀如来じゃなく弥勒菩薩への信仰だったり、熱心な念仏行者であってもお迎えサービスの来訪を告げる瑞兆がなければ当然説得力は薄れる。そこで多少の潤色という手段を取った場合もあるらしいんだけど、保胤の場合は徹底していて保胤の目的に合わない往生譚は思い切りよく丸ごと取り上げなかったらしい。 【もし取り上げた場合には原典に従つて忠実に記すという姿勢を持している。 保胤にとつて恣意の潤飾を行つて往生伝風の体裁を作り上げることは何の意味も 持ちえなかつたのであろう。】 (「日本往生極楽記の撰述について」/中尾正己より)保胤の道心の深さを思えば、この姿勢はしごく当然のものだろう。『日本往生極楽記』は保胤が真摯にリアルに「往生」と向き合った書だといえる。ウィキペディアによると、『日本往生極楽記』の成立年代は 【寛和年間(985年-987年)頃と見られている】だそうな。が、川崎庸之氏によると源信のように一気呵成に書き上げたのではなくそこそこの時間をかけているようで、 【今日伝わる本は、保胤の出家(986)以後に加筆された部分を含んでいるが (加筆したのは兼明親王、918~987)、大部分は永観年間(983~985) に成ったものと思われ、それがすぐ源信に呈示されて、『往生要集』(985)にも 引照されるにいたったものである。】 (「源信の生涯と思想」より。漢数字は戦国ジジイが変換)だという。なんと、まあ!この2人はお互いに影響を与えあっていたのかと保胤をつい最近まで知らなかったわたくしはかなり驚きました。『往生要集』は間違いなく歴史の教科書にも載ってるハズ・・・でも『日本往生極楽記』のことは書いてあったろうか?紙面の都合があるとはいえ、浄土信仰の歴史にとってかなり重要な書なのに、保胤のことが書いてなかったら不公平ってもんだよな・・・と思って高校の日本史の教科書をめくってみたら、『往生要集』はやっぱり本文に書いてある。けど、『日本往生極楽記』は書いてない。やっぱ書いてないか・・・と残念に思ってなにげに脚注の部分を見たら、そこに保胤と『日本往生極楽記』のことが簡単に紹介されていたのでほっとした。さて、『往生要集』の完成は本人の跋文によると永観3年(985)4月。「元三大師」の愛称を持つ良源さんの死亡日は永観3年1月3日。つまり、『往生要集』は師の良源さんが重病の床についた頃に書き始め、良源さんの死をまたいで死の3ヶ月後に完成している。ところが、本文はおろか序文や跋文でも良源さんや師の著作について何ら源信は触れていない。源信の執筆の直接の動機が良源さんと無関係であったとしても、せめて跋文くらいには「師に捧げるオマージュ」とかの(笑)追悼の言葉ぐらいあってもいいのに、いやあってしかるべきなのにそれが全くない。良源さんも源信もともにビッグなので、この不自然さについて諸人の興味を引かないはずがなく、 【そのことで『往生要集』の成立を別の年次とする考え方もあったが、良源と源信の 生き方の違いとする考え方が主流となって肯定されている。権門によしみを通じ、 壮大な堂舎を作り、華美な法会を行った師良源にたいし、僧官の昇進に意をつくさず、 弟子から贈官されて権少僧都となる有様で横川に籠り、述作に没頭する源信とでは 全く相反するという。源信は師を黙殺したことになるのであろうか。】 (『人物叢書 良源』平林盛得/吉川弘文館より)わたくしが持っているこの本は昭和51年の初版本なので、現在ではまた違った見方が増えているのかもしれないけど、「俗物」とも評される良源さんなので、こういう考え方は今でも根強いんじゃないかと思う。でも、もし源信も心の中では「俗物め」と思っていたのなら、何も叡山の中心的存在となった横川に無理して居座ることはなかったのだ。現に、同じ良源さんの弟子の増賀や性空は別天地を求めて出ていったのだから、源信だってもっと静かに隠棲できる場を求めて出ていけばよかったのだ。ところが、源信はそうしなかった。叡山で僧侶生活をスタートし、叡山に骨をうずめて一生を叡山で過ごした。良源さんは自筆の遺言の中で、禅師の君以外の弟子にも細々と指示をして後事を託している。それらの遺言に名前の出てくる弟子たちは 【(前略)それぞれ昇進して僧綱入りをしている。良源が見込んだ、いわば実務派の 僧侶たちであろう。ここで注意したいのは、良源の四哲といわれた高弟たちの位置で、 尋禅・源信・覚運・覚超の四人のうちで、尋禅以外の三人は遺言の中に全く名前が 記されていない。たとえばさきの天禄三年四月三日に行われた五大堂落慶供養のさい、 源信(大講堂供養)は静安(総持院供養)と同じように右方の梵音衆となっており、 覚運も右方の錫杖衆(大講堂供養)の中に見えており(『叡学要記』)、僧位などで 源信等が著しく劣っていたとは考えられない。源信等を煩わしい寺院運営や行事面から 除外しているのは、むしろ良源の配慮であったように思われる。横川が研学の中心と なり、良源の弟子たちが数多くそこから巣立ったのにはこうしたいわば学究派とも いうべき僧侶を寺院事務から解放したところにあるのではなかろうか。】 (『人物叢書 良源』より)と平林氏は推測する。わたくしもこの見方に賛成ですが、この推測が合っているのであれば良源さんは弟子のそれぞれの適性や進むべき道を理解し考えていたことになる。弟子たちもそういう師の考えはよく理解していたんじゃないだろうか。価値感の相違はあったとしても、そういう師のもとにいるメリットを総合的に考えて、デメリットが許容範囲だと判断した弟子たちが叡山に残ったんじゃないかと思った。一般的な良源さんと源信のイメージはそれぞれ「お祭り好きな俗物」と「隠棲の人」てな感じじゃないかと思うけど、そこだけを見れば2人はかなり対極にあるようにも思える。が、源信が浄土信仰にのめり込んでいったことも考えると、「華美な法会」にも源信は一定の理解を示したんじゃないかと個人的には思う。それで、『往生要集』の中で良源さんに触れていないことについて平林氏は 【源信にとって自著とはいえ、浄土を願うすべての人の実践書である書に、個人的な 哀悼は師の教えからしても意味のないことであったろう。】とし、師の著作『極楽浄土九品往生義』を無視している点については、 【良源が仰を奉じて『九品往生義』を編したことになっているが、それは名目上のことで あって、現実には良源門下の弟子たちの作ではないだろうか。源信は無理としても 上席の弟子たちが良源の命を受けて編纂し、良源の名のもとに奉呈した。源信はこの 作業に従事しないまでも、その事情を知っていた。したがって、『九品往生義』を 師作とはせず、直接には自著とはかかわらないこともあって、これにふれなかったと 推測したい。】 (いずれも前掲書より)とする。わたくしはもちろん、『九品往生義』を誰が書いたかなんて論じる知識はありませんので何とも言えない部分はあるものの、ありえない話でもないと思う。増賀や性空は、叡山を出ても完全に縁を切った訳じゃない。ので、自分の道を求めて出ていった弟子たちも単純な感情論でその道を選んだということでもなさそうで、やはり良源さんや叡山には魅力があったのだろう。叡山に残った源信たちはなおさらその魅力を感じていたんじゃないかと思いたい。にほんブログ村
2015年05月21日

康保3年(966)に良源さんが54歳で天台座主に就任した時、源信は24歳。その翌年、六月会に広学竪義者1名の設置が朝廷から認められる。さらにその翌年(968)から横川で広学竪義者となるための勉強のシステムが組まれた。応和の宗論のあとから横川の良源さんの住房では四季に講会が行われており、春は花厳(華厳)経、夏は涅槃経、秋は法華経、冬は大集経を講するというもので、この四季講会のうち春と秋に竪義が加えられるようになったが、その二季の竪義者・・・年間たった4名の竪義の定員枠を勝ち取るためにはまず四季講会を6~7年務める必要があるという実に厳しいものだった。上記リンク先でも書いたように、東塔と西塔では横川のような練習の場を設けたという記録がないようなので、晴れの竪義者となる意欲のある者にとっては厳しくとも横川のシステムは魅力的だっただろう。「絶倫」とも評された横川のヌシのもと、我こそはと思う僧たちが集まって研鑽を積み、叡山の教学面でも復興の機運が訪れていた。そういう中、源信が六月会での広学竪義を務めたのが天延元年(973)、31歳の時だった。横川で竪義のシステムが生まれてから5年。 【いわば、良源の定めたコースを忠実に歩いてきたわけで、その間にはたして勧学会に 参加するとか、空也(九七二寂)に謁するというような機会があったかどうか、 ありえないことではないと思うものの、現在のところでは決め手がないというより 他はない。】 (「源信の生涯と思想」川崎庸之/『日本の名著4 源信』より)鴨長明の『発心集』には源信が空也を訪ねたという記載があるそうでね。まあ念仏ブームの噂なんかは源信も色々耳にはしていただろうけど、竪義が導入されてから早い段階で、しかも若い身で六月会の竪義を務めているので、それまでは必死こいて勉強している期間だったろうとは思うけどね。その5年後、36歳の時に現在知られている中で初の著作となるものを書いている。これは『因明論疏四相違略註釈』というものだそうで、 【因明とは論理の学問をいい、中でも「四相違」というのは一種の矛盾論で、「論議決択」 の場には欠くことのできないものである。だから、この時期の学僧は、競ってその 研究に従事したもので、(中略)因明の研究は、ある意味でいわば、一つの時代の 流行でもあったわけである。】 (前掲書より)で法相宗の碩学なんかも因明研究の著述を残しているんだそうな。11世紀後半から12世紀初めに生きた大江匡房は一条天皇の時代の各ジャンルの傑物を挙げて「天下の一物」と評しているそうなんだけど、仏教界は4つのカテゴリーに分類してそれぞれの「一物」を計15人挙げている。4つのカテゴリーは有験(うげん)・真言・能説・学徳でこのうち「学徳」のトップに挙げられているのが源信。四哲のひとり、檀那流の覚運も「学徳の一物」に入ってます。ちなみに、15人の宗派の内訳は真言が3人、法相が1人で残りはすべて天台。のちの虎関師錬(こかんしれん:臨済の僧)は 台嶺の教法は此時を盛となすとも評したそうで、15人のうち11人までが天台僧だというのは実にすごいことだと思います。具体的には 有験・・・真言1、天台2 真言・・・真言1、天台1 能説・・・真言1、法相1、天台2 学徳・・・天台6となっているので、学徳においては天台の独壇場。まあこれも、良源さんの施策が功を奏したとも言えるワケでしょうな。この他にも、天台や他宗には名僧と言われる方達もいたけど、ひとまずこの15人は名実ともにエリート中のエリートとも言えるでしょう。中でも、学徳トップの源信は師の路線の中で知識を深めていった秀才。因明研究の著述も、そういう源信の学徳を物語るものと思われます。のち、長和2年(1014)72歳の時に源信が書いた願文によると、それまでの生涯での成果は 念仏・・・20俱胝(くてい)遍 大乗経・・55,500巻(「法華経」8千、「阿弥陀経」1万、「般若経」3千余等) 大呪・・・100万遍(「千手呪」70万、「尊勝呪」30万)この他に「弥陀」「不動」「仏眼」などの呪を少々唱えたという。「俱胝」とは聞き慣れない語ですが、インドの数の単位で1000万だそうな。つまり1000万×20で2億ただ、『三省堂 大辞林』には【漢訳仏典はしばしば億と訳す】ともあるので、源信が自己申告した念仏の回数は20億だったのかもしれない。実に驚異的な数ですが、まだ話が念仏までたどり着いていないので、ここでは読んだ大乗経の数を紹介したかっただけです。これらの合間に書いたものが数部数十巻あると自分で言っているので、勉強熱心な学僧だったようです。さて、因明研究の著述と同じ年、源信は播磨へお出かけしたそうな。旅の目的は書写山にいる性空(しょうくう)聖人を訪ねるというもの。性空さんは良源さんの弟子だったが、その後日向や筑前で修行したといい、名声の誉れ高い聖だった。性空さんは別のところでまた顔を出すかもしれませんが、それは今は置いといてこの性空詣での旅には連れがいた。まずは村上天皇の子である具平(ともひら)親王。それから天台僧。ほか数人がいて、慶滋保胤(前回参照)もこのメンバーの1人だった。源信と保胤が初めて会ったのかがいつかはわからない。ただ、少なくとも天元元年(978)には顔見知りになってはいた。具平親王はウィキペディアには【一条朝における文壇の中心人物】とあり、保胤に師事していたともある。具平親王は「保胤と源信が知己の間柄だったから、混ざっちゃった」てなことを言っておられるんだけど、たまたま播磨へのお出かけで一緒になったのではなく具平親王の言う通りなのであれば、保胤と源信の出会いはこれより遡る可能性もある。天元4年(981)源信39歳の時、第2の著作となる『阿弥陀仏白毫観法』を著す。鎌倉新仏教以後に生まれたわたくしたちは、念仏といえばなんまいだ~(南無阿弥陀仏)と唱えることだと考える人がほとんどだと思いますが、これは「称名念仏」というタイプのもの。そもそも念仏とは「仏を念ずる」もので、ウィキペディアの解説が比較的わかりやすいと思うので引用しますと 【「仏」とは、この場合「仏身」、「仏名」の意味がある。「仏」を「仏身」とみる場合、 具体的な仏の相好(そうごう)とか仏像とかとみる時と、仏の本質的な実相の理をあらわす 法身(ほっしん)とみる時とでは、「念」の意味もおのずから変わってくる。法身を念ずる 場合は、それは「理を観ずる」のだから、念は憶念、思念、心念などの意味である。 具体的な仏や仏の相好にむかえば、それは生身や像身の色相(すがたかたち)を観ずること であるから、念は観念の意味が強い。仏を仏名とみれば、名は称えよぶものであるから、 念は称念の意味とみるべきである。】「理を観ずる」というのが「観想念仏」と呼ばれるもので、ひらたく言うと頭の中で仏の姿を思い描くことをいう。わたくしは『阿弥陀仏白毫観法』は読んでませんが、のちの著述から類推するに、観想念仏、それも初歩的な作法についてのハウツー本だろうと思われます。ちょっとここまでの流れを並べておきましょうか。 応和3年(963:21歳)応和の宗論・空也の経供養。 康保元年(964:22歳)勧学会始まる。 康保3年(966:24歳)良源、天台座主。六月会に広学竪義を置く勅許が下りる。 天延元年(973:31歳)源信、広学竪義を務める。 天元元年(978:36歳)『因明論疏四相違略注釈』を著述。書写山に性空を訪ねる。 天元4年(981:39歳)『阿弥陀仏白毫観法』を著す。源信36歳の時まではエリート学僧にふさわしい経歴となっている。『因明論疏四相違略注釈』は同門の僧の勧めによって書いたとされるものの、自発的な著述でなかったにせよ高い学識がなければ因明研究の本なんて書けないでしょうから、ここまではまあ順当に「学徳」を積んできたと言えるだろう。それが、因明研究の著述からわずか3年後には観想念仏というかなりカラーの違う本を書いている。もちろん念仏が低レベルだなんて言う訳じゃないんですが、論議決択に必須の内容と極楽往生のためのノウハウを述べた本の内容がかなりかけ離れた内容であることは誰しもわかるでしょう。言ってみればこの頃を境に源信は鮮やかな転身を遂げたワケで、この劇的な変わり方が大変興味深いと思ったのでここまで源信の経歴を紹介してきました。源信だけじゃなく、のちの浄土教の巨人・法然房源空も実は相当な知識の持ち主だった。教義を究めるような秀才たちがひたすら弥陀の慈悲を願う浄土信者に転向したことは、実に興味深い・・・源信について言えば、空也や勧学会、そして保胤が大なり小なりの影響を与えたと思われる。まあ空也や勧学会が源信と直接の接点を持ったかはわからないけど、間接的な影響があった可能性は充分にあると思うし、保胤とは遅くとも36歳までには面識があった。それから、叡山浄土教の存在。実は良源さんにも浄土関係の著述があると言われ、それが本当に良源さんの著述なのかわたくしは意見を保留にしているのですが、良源さんが直接書いたものではなかったにせよ、良源さんの在世中にそういう著述が生まれていたことは事実で、源信以外にも叡山の中で浄土ブームが起こりつつある時期だったということはできるだろう。そういう世間の流れと源信の転向が、恵心僧都源信の名を広く長く世に知らしめることになったあの大作へとつながっていくのです。にほんブログ村
2015年05月20日

さて・・・一般にはあまり名を知られていないと思うけど、勧学会の学生側の主要メンバーの1人であり、日本浄土教の歴史において重要な存在でもある1人の男を紹介します。その男の名は、慶滋保胤(よししげのやすたね)。保胤は陰陽家の賀茂忠行の子として生まれた。この父はあの安倍晴明の師とされる方だけど、保胤は陰陽師とはならず紀伝道(大学寮における歴史学科みたいなもの)に入った。保胤の名字である「慶滋」は実家の「賀茂」を読みかえたものだという。この人はかなり年がいってから出家をするんだけど、若い頃から仏教への関心が高く、念仏にも熱心だったそうな。保胤の生年ははっきりしていないようだけど、勧学会が結成されたのは保胤が30歳の手前頃のことと思われる。保胤の話が『今昔物語集』に載っているので、まずはどういう人だったのか出家して以降のエピソードを紹介しましょう。 今は昔、内記(ないき)慶滋保胤という人がおった。この人は慈悲深く、学問にも 優れていたが博士の養子となり、若い頃から朝廷に博士として仕えていたが、老年に なって剃髪して寂心と名乗った。世間で内記の聖人というのはこの人のことである。 寂心は空也聖人の弟子となったが、元々仏道にも通じた人であったので、功徳となる 行いで何が最も尊いか考えた結果、仏像を造り堂を建てることがベストだとした。 しかし、自分の力だけではできないので、まず人々の喜捨を仰ぐことにして方々で カンパを求めたところ、いくぶんかの資金が集まったのでこれで資材を手に入れようと 播磨へ向かうと、そこでも資金が集まった。 そうして寄進を募って歩いているうち、川原で紙の宝冠をかぶった僧体の者が陰陽師風に お祓いをしているのを見た。寂心は急いで馬から降りて、陰陽師に言った。 「何してるんですか?」 「お祓いですよ」 「そりゃわかりますが、なんで紙の宝冠なんかかぶってるんですか?」 「お祓いの神たちは僧侶がお嫌いなんですよ。だから、祓いの時はこうしてかぶるんです」 これを聞いた寂心はキレた。 「○△×□?☆÷~~~!!!」 寂心は大声でわめきながら陰陽師につかみかかった。陰陽師は掴まれてわけがわからず 祓いの手も止めてしまい、 「ちょ!なにするんですか~!なんなんですか、アナタ!? やめてやめて、やめてってばさ~!!」 これを見ていた者たちもただ呆気に取られるばかり。寂心は泣きながら紙の宝冠を取り上げて びりびりに引き裂き、 「あなたはみ仏の弟子でありながら、なんで神に遠慮してこんな冠なんかかぶるんですか! 無間地獄に落ちる罪を作るだけじゃないですか!仏弟子ともあろう者が、なんと情けない。 もういっそのこと私を殺しちゃってください!!」 と言っておいおい泣いた。 「なんと気違いじみた方だ。まあまあ、泣かないでください。 私には妻も子もあり、僧だけでは養っていけません。だからこうして陰陽道を習って生計の 足しにもしているのですよ。もともと道心がある訳でもないし、修行だけに生きる聖人には 私にはなれません。僧のナリはしていても俗人と何ら変わることのない生活をしているので 悲しくなる時もありますが、これも世の習いですからやむを得ません」 「だからと言って、現在・過去・未来の三世の諸仏の頭に紙の冠をかぶせるなんて あんまりです。貧しさのゆえにこんなことをしているというのであれば、私が募った喜捨の 品々をあなたにすべて差し上げます。たった1人に菩提を勧める功徳も塔や寺を建てる功徳に 劣ることはないはずです」 と言ってこれまで集めた物をすべて取り寄せてこの陰陽師に施してやった。ああもう、貴方には寄附による堂塔建設は永遠にムリ。現在だったら、ことによったら「寂心、寄付金横領!」ってスクープされちゃうよ。ま、先を続けましょう。 寂心が東山の如意輪寺に住んでいた頃のこと。六条院から急ぎのお召しがあったので、知人の 馬を借りて朝早く出かけていった。普通の人なら当然急いで行くところを寂心はのんびりと 馬にまかせて進んでいき、馬が立ち止まって草を食えばいつまでも馬が食べ終わるのを 待っている。そんな道行きなのでまったく進まず、馬の口取りがしびれを切らして馬の尻を 叩くと、寂心は馬から飛び降りて馬の口取りにつかみかかり、 「なにするんだ!この馬は前世以来何度もお前の父母になっていたのだと思わないか?何度も お前の父母となってお前をいとおしみ、その恩愛の執着の咎によってこうして獣の身となり、 多くの地獄道や餓鬼道にも堕ちて苦しみを受けたんじゃないのか?今、こうして馬となって いるのも子をいとおしむゆえの報いなのだ。そして、どうにも何か食べたくなったので 美味しそうな草を見てむしり食べようとしていなさるのを、どうしてお前は打つのだ。 それに、この馬は前世で数えきれぬほど私の父母となっておられたと思うと実にもったいない ことではあるが、私も年老いて遠い道は早く歩くことができないので、畏れ多いと思いながら 乗らせていただいているのだ。その上、草を食べなさろうとするのを妨げることなど私には できぬ。なんとお前は慈悲のない男なのか」 と大声で泣いた。男は内心笑ったものの、寂心があまりに泣くので気の毒にもなり、 「おっしゃることはごもっともです。乱心してつい叩いてしまいましたが、下郎ゆえ そのような事情とは知らずにおりました。今後はこの馬を父母ともお頼みして大切にします」 と言ったので寂心はしゃくり上げながら 「あ~、もったいない、もったいない!」 と言ってまた馬に乗った。ああもう、根性出して六条まで歩いたら?いや違う、ツッコミ入れるために紹介してる訳じゃありません。まだ話は続きます。 寂心が石蔵(いわくら)に住んでいた頃、腹を冷やして下痢をした。隣の僧坊にいる僧が 聞いていると、厠からたらいの水をぶちまけるような音がする。年寄りがこんなひどい下痢を しているのを聞いて僧が気の毒に思っていると、聖人の話し声が聞こえた。誰かが厠の中に いるのだと思って壁の穴からそっと覗いてみると、年老いた犬が聖人と向かい合っていた。 聖人が立ち上がったらその便を食おうと思って待っているのだろう。その犬に向かって 話しているのだった。 「あなたは前世で人に汚いものを食わせ、欲張りで、偉ぶっては人を軽蔑し、父母には孝行 せず、もろもろの悪いことを行って善心を持つことがなかったのでこうして獣に生まれ 変わり、どうしようもなく汚いものを狙って食べるようになったのです。でも、遠い前世で 何度も私の父母となったその身にこんな汚いものを食べさせるのは畏れ多いし、しかも 風邪をひいてこんな水のような便しか出ませんので、とても食べられたものじゃありません。 代わりといってはなんですが、明日美味しいものをこしらえてあげましょう。 それを思う存分召しあがってください」 と繰り返し言ってはさめざめと泣いていたが、やがて立ちあがった。 僧はこのことを誰にも言わず、翌日になって聖人の様子をうかがっていると、聖人は 「お客様にお食事を出そう」 と言って庭にむしろを敷き、その上に山盛りの飯を入れた土器と3、4種のおかずを置いて その前に座り、 「お食事の用意ができましたよ~!早くおいでなさい!!」 と声をかけると、昨日の犬がやって来て食べ始めたので、それを見て聖人は手をすり合わせて 「おいしいですか?あ~、よかった。こしらえた甲斐があった」 と泣いて喜ぶ。 すると脇から若い大きな犬がやって来て、飯を横取りする前にまず老犬を突き倒して食べ物を めちゃめちゃにしてしまった。聖人はあわてて立ちあがり、 「そんな乱暴しないで。あなたの分も用意しますから、仲良くおあがりなさい。そういう心を お持ちだから、あなたは情けない獣の身にお生まれになったのですよ」 と止めに入ったが、もちろん聞き分けるはずもない。大声で噛みあっては食べ物を踏み 散らし、何もかも泥だらけになって大騒ぎしているところへ他の犬たちも集まってケンカ するやら食べるやらの大混乱になってしまった。聖人は、 「な、なんてことを・・・!こんなあさましい心を持つ方たちの振る舞いは 見ない方がよい!」 と言って縁側に逃げてしまった。 一部始終を見ていた隣の僧は思わず吹き出した。仏道に達した人なので前世のことだけを 考えて敬ったものの、犬の方ではどうしてそんなことを知るだろうか。 内記の聖人は仏道に深く達し、道心が盛んでやむことのない尊い人であったということだ。 (『今昔物語集』巻19の3)汚物ネタが大好きなわたくしですので、「平安時代の犬は人糞を食っておったのか!うちの娘さんたちがもし平安時代に生まれていたら・・・」と結構衝撃も受けて食いつきましたが、もちろんそこが主題でもありません。これらの寂心のエピソードについて、「馬鹿じゃねーの!?」と思う方も多いかもしれませんが、雑念がなく信心深い人というのはこういうものであったのかとうならせる話だと思います。これはあくまで出家して以降の話で、しかも事実かどうかはわかりませんが、たぶん似たような出来事は色々あったのでしょう。ウィキペディアには出家が遅くなったのは子が成人するのを待っていたためだとあるけど、上の話にも元々仏道に通じていたという風に書かれており、出家する前から仏道に関してかなりの知識を持っていたことがうかがえる。勧学会は途中で途絶えたりしながらも結構長く続いたようで、その最初の主要メンバーに保胤が入っていることからしても、勧学会設立の時点でそれなりの仏教的知識とかなりの関心・信心を持っていたものと思われる。こういう人が空也に影響を受け、浄土信仰に食いついた。慶滋保胤、覚えておいてね。にほんブログ村
2015年05月19日

さてね、臨終の現場について書こうかと思ってる話はまだありますが、一旦ここで止めて「(158)」の続きの源信の経歴に話を戻しましょう。応和3年(963)は良源さん大飛躍のきっかけとなったと思われる「応和の宗論」が行われた年。これの天台側の参加者に源信は名を連ねていない。良源さんの「四哲」についてはこれまで3人を紹介してきましたが、源信が最後の1人。 【その徒三千と雖も、堂に登る者七十子、室に入るもの四哲、曰く源信、曰く覚運、 曰く尋禅、曰く覚超、或ひは顕に秀で或ひは密に秀づ】 (『慈慧大僧正伝』より)「室に入るもの四哲」と言っても、良源さんは遺言で他の弟子にも色々託しているのでもちろん四哲以外にも部屋に出入りしたり直接教えを受けたりした僧はいると思うけどね。このうち、「(157)」の覚超さんは顕(止観)を源信に学び、密(遮那)を良源さんと慶有という人に学んでいるようなので孫弟子に近いんじゃないかな~と思うものの、『類聚伝記大日本史』にある法統の系図には1人をのぞいて四哲の3人の名前が載っている。書かれていない1人とは誰か・・・これがなんと、禅師の君なんですね~。禅師の君もいくつか著述を遺しているみたいなんだけど、すべての僧を系図に載せてたらとんでもないことになるし、理仙のようにぶっちゃけ個人としてははかばかしい成果は遺していなくても、優秀な弟子を持ったというだけで系図に載る方もいる。良源さんが広学竪義を導入したことによって、その弟子たちから幅広く発展していくので、数多い弟子の中でもそういう未来へつながる人だけを系図に載せたと思うんだけど、でも増賀は載ってるんだよな・・・(←禅師の君が載ってないことが不満)いやいや、それはともかく、源信と覚運はそれぞれ恵心流、檀那流という流派を築き上げた。それに、この後で出てきますが、源信の知識といったらハンパなかったらしい。それでも、応和の宗論には参加しなかった。その時点で源信はまだ21歳だったので、さすがの秀才でもちょっと若すぎたか。応和の宗論を境に良源さんはさらなる飛躍を果たし、増賀は多武峯に去った。源信は宗論に直接タッチはしていないと思われるものの、彼にとって、いや日本浄土教にとってもこの年は大きな転機となった。それが、応和の宗論と同じ日に賀茂川の河畔で行われた空也の経供養。空也が公的な記録に初めて顔を出すのは天慶2年(939)だそうで、空也は36歳。その初出ではわずかな記述にとどまっていたが、そこから応和の宗論までの24年の間に地道かつ独特な活動によって着実に信者を増やし、賀茂川での経供養の際には藤原師輔の兄で左大臣の実頼も結縁するまでになった。ちょっとここで、ひとつのエピソードを紹介しましょう。ぬわんと、余慶さんと空也が顔合わせしたというお話です。 ある時、空也上人が源雅信公にお話があったので蔵人所で待っていたところ、余慶僧正が その場に来合わせて雑談などをしているうち、余慶僧正が 「そのひじ、折れてます?どうなさったのですか?」 と聞くと、 「私が子供の頃、母が怒って片手を持って投げたらしいです。私は覚えてませんが。 まあ、右だったら不便だったでしょうが、左でよかったですよ~」 「あなたは尊い方で、天皇の御子だと人は噂しております。まことに恐れ多いことですが、 よければ私が心をこめて祈ってあなたのひじを治して差し上げたいのですが・・・」 「えっ、マジで!?いや、それはありがたい。ぜひお願いいたします」 そして余慶僧正が上人に近寄ったので、殿中の人々がこれを見ようと集まってきた。 僧正は頭のてっぺんから黒い煙を出して熱心に祈っていたが、しばらくすると曲がっていた 上人のひじがピン!と音を立てて延び、2人を取り巻いていたギャラリーたちは歓声を上げて 感動するやら、涙を流すやら・・・上人も涙を流して喜び、三度礼拝した。 その日、上人は若い僧3人を供に連れてきていた。3人のうち1人は道に落ちている古い縄を 拾って壁土に混ぜて古いお堂の破損した壁に塗る聖。もう1人は瓜の皮を集めて綺麗に洗い、 獄中の囚人に与えるという聖。最後の1人は落ちている反故紙を拾ってすき直し、お経を書写 するという聖だった。 上人はひじを治してもらったお礼にと、反故の聖を僧正に差し上げた。僧正は喜んで反故の 聖を弟子とし、義観と名付けた。実に珍しく尊いことである。 (『宇治拾遺物語』巻12の6)はじめは「おお、こんなとこに余慶さんが・・・」と思っただけでしたが、視点を変えると実に興味深いお話です。わたくしが興味を持ったのは、前半部ではなく後半部。空也といえば念仏を広めた人という面が有名ですが、ウィキペディアで経歴を見ると行基菩薩のように民衆の生活に根ざした社会福祉事業も行っていたことがわかる。宇治拾遺物語のエピソードは、具体的にどうやってそういう事業を行っていたかがうかがえるので、リアリティがあるなと思いました。もちろんこの他にも寄付を募ったりしたのでしょうが、他人のふところをアテにするばかりでなくカネの代わりに頭を使ってエコに独力での事業も行っていたようですね。して、応和3年の経供養は自力・他力の力を結集し、長い期間をかけて書写した大般若経が主役のイベントで、朝廷からは銭10貫文を賜り、僧600人が参加、その他にも実頼のような高位の貴族までもが結縁するという盛大なものとなった。そうはいってもやはりそこは空也らしく、会場は仮に建てたお堂だったという。そして昼はお経を読み、夜は万灯会を行ったそうな。長い地道な活動の中で帰依した者は貴賤を問わず幅広い身分層だったらしいが、結構早い段階から若い文人たちの注目も集めていたらしい。その文人たちのうちでも中心的な存在であった前文章得業生の三善道統という人は空也の経供養イベントに際して願文を寄せている。わたくし達は最終的に空也の人気が高まったという結果を知っているから単に「念仏を広めたパイオニア」ぐらいにしか思わないけど、当時の世相としては素直に念仏を受け入れるというものでもなかったらしい。 【上人が入京された天慶以前は、道場でも家々でも念仏三昧を修することは稀だった。 普通の人々の多くは念仏を忌み嫌っていた。しかし、上人の入京以後は自分から唱え、 他の人にも勧めて唱えさせている。その後は世を挙げて、もっぱら念仏している。 これは誠に、世の人々を教化する上人の力の故である。】 (出典:『日本極楽往生記』/『日本仏教史入門-基礎史料で読む』山折哲雄・大角修より)なぜに念仏が忌み嫌われたのか、上の文の註釈には 【葬送に関して念仏が称えられたことから、念仏は死の穢れを連想させ、嫌われた。空也は 野に打ち捨てられた遺骸を荼毘に付したが、忌み嫌われるものに触れることで、人々の目に 異能をもつ僧として映っただろう。】 (前掲書より)とある。ま、念仏にも色々あるんだけど、そういう嫌われた面もあったらしい。このイベントより15年も前に空也は叡山で受戒して正式な僧となっているのに、正式な法名「光勝」ではなく空也の名を使い続け、相変わらず民衆の生活に混ざって地道な活動をしていたらしい。文人たちに知られるぐらいだから当然叡山でも空也のことを知っている人は多かっただろうけど、空也自身がこういう人だったから、念仏を嫌った民衆だけでなく叡山からも「変わった人」と思われていたかもしれない。さて、良源さんと空也の2大スターがそれぞれ成功を収めた翌年の康保元年(964)、大学寮の学生たち・・・ここまでで「若い文人」としてきた人達が中心となって、「勧学会」(かんがくえ)という会が結成された。これは毎年3月と9月の15日を開催の日時と決め、叡山の京側の麓で行われたものだそうで会のスケジュールは 【開催日前日の14日夕方に延暦寺の僧侶が下山して会場となる寺院を訪問し、学生ら 俗世側の参加者は予め会場に集って詩句や経文を誦しながら僧侶の来訪を待つ。勧学会 初日の15日は朝から『法華経』の購読を行い、夕方に弥陀を念じ(阿弥陀の名前を 唱える)、夜は仏教の功徳を称える漢詩を作成する。その後、俗側は白居易(儒教的 教養の持ち主ながら仏教を擁護した)の詩を、僧側は『法華経』を朗読して夜を明かし、 翌16日朝に解散したという。】 (ウィキペディアより)といったもので、俗世の学生達が叡山の僧をお招きしてともに夜を過ごすというスタイル。会で作った詩は寺に納めたそうな。ただ、学生側の主要メンバーの1人は「わかる人にはこの会の良さがわかるだろうけど、わかんない人にはただ風月詩酒に遊んでるだけに見えるんだろうな~」と言っているのでそういう雰囲気の集まりを想像すれば現実に近いんだろうけど、わざわざ叡山の僧を招いて念仏を唱えたりするあたり、結構気合いが入っていたものと思われる。勧学会の会場は専用の場所があった訳ではなく、時には空也が自分の開いた東山西光寺(のちの六波羅蜜寺)を会場として提供したこともあったそうで、空也の経供養の翌年に結成されたことといい、空也の影響を強く受けその後も空也と親しい交わりがあったものと思われる。ちなみに、勧学会へ参加した叡山僧の顔ぶれはわかっていないそうで、ゆえに源信がこれに参加したかもわからない。にほんブログ村
2015年05月18日

前回の天狗にだまされて魔往生した僧の話は、聖自身にはそれほど落ち度がなかったようにも思えるけど、今度は本人のミステイクによる失敗例です。 今は昔、比叡山の横川に1人の僧がおった。この聖は教学面での知識も深かったが、 長年の間念仏を唱えて極楽に往生したいと願っていたので、他の聖人たちもこの人は 必ず往生できるだろうと言って尊んでいた。この聖は丈夫な人だったが、70歳を 過ぎると風邪などもひきやすくなり、食欲も落ちて体力も衰えていった。僧は死期の 迫ったことを覚悟して、以前にもましていっそう念仏に余念がなかった。 そのうち聖は重い病にかかったが、病床にあって一心に念仏を唱え、弟子たちにも 「ただ念仏だけを聞かせてくれ」と命じたので、弟子たちも往生のことだけを話し、師に 念仏を勧め続けた。9月20日の明け方頃、ひどく弱ってきたようなので弟子たちは 枕元に阿弥陀仏を安置し、仏の手にかけた五色の糸を持たせて4~50回ほど念仏を 唱えているうちに眠るように息が絶えた。弟子たちは間違いなく師が往生できただろうと 喜んで葬儀を終え、四十九日が過ぎて弟子は去っていったが、1人の僧が僧坊を受け継いだ。 ところで、聖は生前素焼きの小さい瓶にいつも酢を入れていた。僧坊を継いだ僧がある時 納戸の棚の上にあるくだんの小瓶を見つけ、 「あ、こんなとこにあったのか。なくしたのかと思ってた」 と瓶を洗わせようとしたところ、中で何か動く気配がする。中を覗いてみると、5寸ほどの 小さい蛇が中でとぐろを巻いていた。僧は怖くなったので、離れた場所にある長押の上の 棚に上げておいた。すると、その夜の夢に師の聖が現われて言った。 「お前達も知っての通り、わしは長年ただ極楽往生だけを願って念仏以外のことは しなかった。臨終の時には余念を抱かずにただ念仏だけを唱えて命を終えようと常々思って いたが、棚の上の酢瓶をふと目にしたとたん、『わしが死んだら誰がこれを持っていくの だろうか』と、口では念仏を唱えながらたった一度だけ心の中で思ってしまった。また、 そのことを罪だとも思わず、悪いことを考えたと反省することもなく息が絶えた。 その罪のために、わしはこうして酢瓶の中に小蛇として生まれ変わることになってしまった。 どうか、今すぐ小瓶を誦経料に換えてわしのためにねんごろに経文を供養してくれ。 そうすれば、きっと往生ができるだろう」 そこで目が覚めてあの小蛇は師の聖人だったと初めてわかり、非常に悲しく思ったが、師の 言う通り翌朝すぐに小瓶を中堂に誦経料として奉り、仏像と経典を用意してねんごろに 供養してやった 思うに、あれほど尊く念仏に明け暮れた聖人でさえ、臨終の一瞬につまらぬ物を見たがために 小蛇に生まれ変わることになったのだ。まして、妻子に取り囲まれて死ぬ人はどれほどの 信仰心があったとしてもよほどの仏縁でもなければ往生は難しいだろう。そう考えると、 なんとも悲しい思いがする。 こういうことがあるから、死ぬ時にはつまらぬ物は一切隠して、仏以外は見てはならぬと 横川の源信僧都はおっしゃったということだ。 (『今昔物語集』巻20の23)ここは後の記事にかかってくるところなので今は先へ進めますが、こんな面白い話もあります。 南都に一生不犯を守った尼がいた。浮ついた噂なども聞かなかったので、この尼の臨終の時は 一体どんな奇瑞が現われるだろうかと人々は思っていたが、そのうち病で危険な状態に なった。心安らかな臨終を迎えられるよう、小僧を1人招いて念仏を勧めさせたが 尼は念仏は唱えずに 「まらのくるぞや、まらのくるぞや」 と言ってそれで息絶えてしまった。 一生の間、立派に仏の教えを守ってきた尼だったが、心の中ではこのことを思いかけて いたからこそ、こんな最期の時にも言ったのだろう。何事もただ心の引き締め方が善悪の 果報を決めるのだから、よくよく準備をしておくべきなのだ。 (『古今著聞集』巻16、552)「まら」は本ブログでもおなじみですね~とはいっても、註釈には 【ただ、「魔羅」は単に魔、あるいは欲界の第六天の魔王を意味するので、尼は実は 「魔が近づいて来る」と繰返したのだととることもできる。】 (「新潮日本古典集成」西尾光一・小林保治氏の校注によるもの)ともあるので、尼がどちらの意味で言ったのかはわかりませんが、話の筋が「心の中じゃこんなこと考えてたんだね~」となってるので、臨終に侍った僧も、これを伝え聞いた者も、そして橘成季もわたくしがよく使う方での「まら」と受け取ったのでしょう。わたくしも気をつけないとな・・・て、いつも「まら」の事を考えてる訳じゃありませんが(笑)。この尼が往生できたのかどうかは書いてないけど、たぶん無理でしょう。不犯は貫いたもののこれまでの説話に出てきたような念仏行者だったとも書いてないし、単に「魔が近づいてくる」という意味で言ったにせよ、念仏も唱えてないもの。それに、「魔が近づいてくる」であれば地獄行きのサインとも取れる。今回の記事での2話から言えることは、要するに 死に際が大事ということです。これ、覚えておいてね。往生には死に際が大事だからこそ、余計なお世話とも言いたくなるぐらい往生ブームの頃には他人の死に際について高い関心が寄せられたという訳です。とはいっても、中には思うがままの振る舞いをして往生したツワモノもいます。ここでは源信の兄弟子である増賀を紹介しましょう。本シリーズではあえて増賀については極力触れないようにしてきていますが、色々と奇人変人のエピソードが多く、死に臨んでも独特な人でした。 80歳頃になるとなんとなく身体の調子も思わしくなくなり、死期を悟った聖人(増賀)は 死の10日ほど前に弟子を集めて 「わしの長年の願いが今ようやく叶えられようとしている。極楽浄土へ往生する時は もう近い。これこそ、わしが最も喜ぶことなのだ」 と言って講義を行い、論議をさせて教義を語った。また、弟子たちに極楽浄土によせた歌を 詠ませ、聖人も和歌を詠んだ。 竜門寺の春久聖人は増賀聖人の甥で長年親しく付き合ってきたが、この時はそばに付き添って 喜んだ増賀聖人とともにあれこれ語りあっていた。 やがて入滅の日を迎えると、竜門の聖人や弟子に向かって 「今日、わしは死ぬ。おい、碁盤を持ってきてくれ」 と言うので、碁盤の上に仏像でも安置するのかと思って持って来ると、抱き起こさせて 竜門の聖人に碁を一番打とうと誘った。 「えっ・・・念仏も唱えずに?頭がおかしくなったんじゃないだろうか」 と竜門の聖人は思ったが、日頃から敬っている聖人の言うことなので、言われるがままに お互いに碁盤の上に石を10個ほど置くと、聖人は 「もうよい」 と言って石を崩してしまった。 「あの~・・・なんで碁を打たないんですか?」 と竜門の聖人が恐る恐る聞いてみると、 「わしがまだ小坊主だった頃、人が碁を打つのを見たことがあってな。今、念仏を唱えて いたらふとその事が思い出されたので、『わしも碁を打ちたいな~』と思ってちょっと 打ってみたのさ」 と言う。 その後また抱き起こさせると、今度は泥障(あおり:泥よけの馬具)を持ってこいと言うので 探して持ってくると、泥障を結んで首にかけさせた。聖人は苦痛をこらえながら両の腕を 伸ばし、 「古泥障をまとって舞っちゃうよ」 と言って2~3度舞う仕草をしてから、泥障を外させた。 「あの~・・・なんで舞なんかするんですか?」 と竜門の聖人が恐る恐る聞いてみると、 「わしが若い頃な、隣の僧坊から笑い声が聞こえて賑わしかったので覗いてみたら、 1人の小坊主が泥障を首にかけて 「胡蝶胡蝶と人は言うけど、古泥障をまとって舞っちゃうよ」 と歌いながら舞っていたのを見て、『わしもやってみたいな~』と思っていたが、すっかり 忘れてしまっていた。それが今、急に思い出されたので、昔の思いを果たそうと思って 舞ったのだ。これでもう思い残すことはない」 と言ってみなを帰し、聖人は仏堂に入って西を向いて縄床に座り、手に金剛合掌の印を結んで そのまま入滅した。その後、多武峰の山に埋葬した。 こういう訳で、最期の時に思い出したことは必ずなし遂げるべきである。それを知っていた 聖人は碁を打って舞を舞ったのだ。 聖人の死後、竜門の聖人の夢に聖人が現われて、 「わしは上品上生に往生したよ」 と告げたということだ。 (『今昔物語集』巻12の33)往生にはランクがある。まずは上品・中品・下品があり、さらにそのそれぞれに上生・中生・下生と来るもので、合計9つのランクに分けられる。増賀が報告したという「上品上生」(じょうぼんじょうしょう)は最高ランク。往生以外にも物や人の性質を同じ9つのランクに分ける分類法があり、現代人もフツーに使う「上品」(じょうひん)や「下品」(げひん)はこの九品(くほん)がルーツだという。増賀はもうすべてやり切って思い残すことはなかったから往生できたのか・・・いやでも、最後の最後、死に際にはちゃんとしてるしな。にほんブログ村
2015年05月17日

それでは、往生譚をいくつか紹介していきます。全文を書いてたら相当長くなるので、往生に関する部分を中心とした要約です。まずは成功例から。トップバッターは玄奘三蔵に大切に扱われたという、道昭(原文では道照)さんです。 今は亡き道昭法師は河内の人で、中国に渡って玄奘三蔵の弟子となった。三蔵は弟子達に 「この方は国に帰って多くの人々を教化する方なので、決して軽んじることなく、 よくよくお世話するように」と言ったほどだ。道昭の知恵は無欠の玉のように円満完璧で あり、知識は曇りのない輝く鏡のようであった。帰国してからは各地を歩き回り、仏法を 広めた。晩年には寺に住んで持ち帰った経典をもとに弟子たちを教え導いた。 死に際しては身体を洗って着物を着替え、西方極楽浄土の方を向いて正座した。すると、 部屋の中が光で輝いた。道昭は弟子を呼んで、この光が見えるかと聞くと弟子は見えたと 答えた。そこで、道昭は「このことをむやみに人に言いふらしてはならぬ」と口止めをした。 夜が明けようとする頃、光が部屋から出て庭の松の木をしばらく輝かせ、その後光は西を 指して飛んでいった。弟子たちは皆驚いて不思議に思ったが、ちょうどその時、法師は 西を向いて正座し、静かに心安らかに息絶えた。ひじりが極楽浄土に往生したことは 疑いのないところである。 (『日本霊異記』上巻第22) 「浄土に往生する」ということについては龍樹(150-250年頃)も書いているようなので、その歴史は相当長いことになるけど、タイトルから探した霊異記唯一の往生譚はごくシンプル。霊異記にも「死」は色々出てくるけど、転生してナントカになったとかって話の方が多い。もっと多いのが現世の報いを現世で受けるという類の話で、バリバリの因果応報話集であり現世に比重を重く置く。たぶん、景戒や最澄の頃にはそれほど他人の死の状況がクローズアップされてはいなかったんだろうな。これが、『今昔物語集』になると浄土教カラーが前面に押し出される。 今は昔、比叡山の西塔に仁慶という僧がおった。幼い頃に出家し長年山に住んでいたが、 暇さえあれば法華経を読誦し真言の行法を修行していた。年輩になって山を下り、 人の世話を受けて京に住んでいたが、諸国の霊場を旅することもあった。それでも毎日 法華経一部を読誦することは欠かさなかった。最後は京にとどまったが、年をとるに従い 世のはかなさを思い道心なども起こったのであろうか、わずかばかりの自分の僧坊の道具 などを売り払って曼荼羅を描き、阿弥陀仏の像を造り、法華経を書写して四恩と世界の すべてのために供養をした。 その後ほどなくして病になり、数日間病床で苦しんでいたが、それでも法華経の読誦は 欠かさなかった。自ら誦経したほか、僧を招いて法華経を読誦させて心をこめてそれを 聞いていた。そうして数日を過ごしたあと仁慶は息絶えたので、彼を葬った。 その後、隣の人が夢を見た。 空から五色の雲が妙なる音楽とともに大宮大路に降りてきた。髪を剃って立派な僧衣を 身につけ、香炉を持った仁慶が西を向いて立っていたと思うと、空から蓮華の台が降りて きて、それに仁慶が乗るとはるか西を指して去っていった。その時、誰かが「仁慶持経者が 極楽に往生するよ」と言っているのが聞こえた 目覚めた隣の人は、仁慶の僧坊に行って夢の内容を仁慶の弟子に告げた。それを聞いた弟子は 尊んで喜んだ。また、四十九日の法事を終えたその夜、別の人が隣の人とまったく同じ夢を 見たといって弟子の元に報告に来た。これを聞いた人々は、仁慶は必ず極楽浄土に往生 したのだと言って尊んだということだ。 (『今昔物語集』巻15の11)往生譚で語られる往生のサインの定番はいくつかある。仁慶の場合は五色の雲、妙なる音楽、蓮華の台、で西に向かうというものだけど、その他には紫の雲がかかったとか、死臭どころかかぐわしい香りが部屋いっぱいに広がったとか。阿弥陀様は信者が臨終の時を迎えると、手下の菩薩たちを引き連れて死者を極楽へ迎え入れるために雲に乗って出張サービスをしてくれるというありがたい仏様。その親切な出張お迎えサービスの様子を描いたものが来迎図で、阿弥陀様に従って雲に乗ってやって来る菩薩たちは音楽を奏でたり踊ったり、みやびやかなパレードを展開している。姿は見えていなくても、五色や紫の雲の上には阿弥陀様をはじめお迎え連中が乗っており、そこから発せられる音楽や香りが往生のサインとされたのだろう。お迎えが来ているなら、行き先は間違いなく西方極楽浄土のはずなのだから。仁慶は他人の夢の中で西を向いて立っていたけど、道昭は西を向いたまま死んだ。これはもちろん極楽浄土が西にあると考えられていたからで、ゆえに源三位頼政も平等院で西を向いて自刃した。ただ、死ぬ時だけではなく、阿弥陀様を信じる者は西方に対してシツレイな事をしてはいかんというのがマナーだった。たとえば、背を向ける。放屁放便をする。これらはタブー。平敦盛を討ったことで有名な熊谷直実はのち出家し、浄土教の巨人・法然の弟子となる。そのため、京から鎌倉へ下向する際などは馬の背に鞍を前後逆に置いて西に背を向けず後ろを向いて馬に乗ったという。ことほどさように、浄土信者は西を大切にする。次はギリ往生できたというケース。 今は昔、比叡山に明請(みょうじょう:原文では明清)という僧がおった。幼い頃に出家して 真言密教を学び、長年密教の修行を怠ることはなかったが、その一方で道心も深く、日夜 念仏を唱えて極楽に往生することを心から願っていた。やがて高齢になって軽い病になった。 明請は弟子を呼んで、 「わしは極楽への往生を願って長年念仏をひたすら唱えてきたが、わしの期待に反して今 地獄の火が現われた。実に残念なことだが、だからと言ってやはりわしには弥陀のお力に すがるより他はない。だから、お前たちもわしと共に心をこめて念仏を唱えなければならん」 と言って僧を集めさせ、明請の枕元で念仏を唱えさせた。 しばらくして明請は最初の弟子を呼びよせて言った。 「先に話した地獄の火はわしの眼の前にあったが、たった今それが消えた。そして西の方から 月の光のようなものが射しこんできた。これは念仏を唱えたがために、まさに弥陀がわしを 助けてお迎えに来てくださるという前兆なのだろう」 と言って泣く泣く念仏をいっそう唱え始めた。弟子は喜んで、招いた僧たちにもそのことを 伝えた。みなも尊んで一同でまた念仏を唱えた。 それから数日後、死期を悟った明請は沐浴して身を清め、西に向かって端座合掌してそのまま 息絶えた。その様子を見た弟子は、師の言った通り往生したことを喜んで、いっそう念仏を 唱えた。これを聞いた比叡山の僧侶たちもことごとく尊んだということだ。 (『今昔物語集』巻15の10)説話集には失敗談もあるので、いくつか紹介しましょう。ま、失敗してるのでこれらは往生譚とは言わないんでしょうが。 昔、美濃の伊吹山にひたすら念仏を唱えて過ごした僧がいた。ある時、夜もふけて仏前で 念仏を唱えていると空から声が聞こえた。 「お前は私を頼みとし、今はずいぶん念仏の数も積もった。そこで、明日の午後2時頃必ず やって来てお前を迎えよう。それまではゆめ念仏を怠ることのないように」 聖はこれを聞いて一心に念仏を唱え、また約束の刻限にそなえて水を浴び香を焚き花をまいて 弟子達にも念仏を唱えさせ西に向かっていた。そのうち、きらめく物があったので念仏を 唱えて手をすってよく見てみると、それは仏の御身から放たれた光が射し込んでくるもので、 花を散らし仏の白毫から射す光が聖の体を照らしている。聖は尻をさかさまにして拝み伏し、 数珠の尾も切れてしまいそうだった。観音菩薩が蓮華の台を差し上げて聖に近づくと紫の雲が 厚くたなびき、聖ははい寄って蓮華の台に乗って西に飛んでいってしまった。弟子たちは 泣きながらも尊び、聖の後生を弔った。 7~8日した頃、風呂を沸かすために下役の僧たちが木を伐りに奥山に入ると、遠くの滝を 覆うように立っている杉の木の上から叫ぶ声がする。不思議に思って見にいくと、裸の法師が 木に縛り付けられていた。木登りのうまい僧が登ってみると、それは先に極楽へ行ったはずの 師の姿だった。 「ど、どうしたんですか?一体、何でこんな目に・・・」 と言って聖を縛り付けている縄をほどくと、 「『すぐ迎えに来るから、しばらくこうしていよ』と仏がおっしゃったのだ。 縄をほどくでない!」 と聖は言ったが、近寄って解いてやった。 「阿弥陀仏、わしを殺す者がいるぞ~!おうおう!!」 と聖は叫んだ。 そこで大勢の法師が木に登って、聖をかかえ下ろして坊舎へ連れて帰ったが、弟子たちは 「情けない!あ~情けなや!!」 と言って嘆き騒いでいた。 聖はといえば、もう正気をなくしてしまい、2~3日後に今度は本当に死んでしまった。 結局、聖は天狗にだまされたのであって、聖に智恵がないからこんなことになったのである。 (『宇治拾遺物語』巻13の9) 聖に智恵がないと言っても、生身の身体じゃ極楽へは行かれないんだから、弟子達もおかしいと思わなかったのか。なんにしてもお気の毒な話で、この聖がその後極楽へ行かれたのかはわかりませぬ。ちなみに、この話のタイトルは「念仏の僧魔往生の事」です。 にほんブログ村
2015年05月16日

ここからは少し浄土教についても触れていきます。と言っても所詮はシロートなので難しい話なぞはありませんし、「私的まとめ」程度のものですが。日本の浄土教において源信は欠かすことのできない存在だけど、浄土教の発祥は古く、インドで大乗が生まれた頃だという。もちろん、それは中国にももたらされた。世界史派の期間の方が長かったわたくしにとっては清代の白蓮教徒の乱の概略程度は記憶にあるところですが、白蓮教ってのは念仏結社だったんだってね。そんなことは知らなかったので、正直驚きました。中国で念仏結社「白蓮社」が結成されたのは5世紀初頭。日本に浄土教が入ってきたのは7世紀前半だそうな。そして、天台宗においては慈覚大師・円仁さんが密教とともに声明(しょうみょう)を伝え、さらに中国・五台山の念仏を叡山で行ったところから天台浄土教が始まったという。『比叡山 その歴史と文化を訪ねて』によると、声明は密教の法要とともに発展し、また念仏とも深い関係にあったらしい。『今昔物語集』には円仁さんの常行三昧についてこんな風に書かれている。 【また、貞観七年という年、常行堂を建て、そこで七日七夜にわたり不断念仏が 修せられる。八月十一日から十七日の夜までだが、その念仏は極楽の聖衆(しょうじゅ) たちが阿弥陀如来をたたえ奉る声である。引声(いんじょう)というのがこれだ。大師が 唐から伝えてきて、後世まで続くこの山に伝えるようにしたもので、身にはつねに仏を 迎え、口にはつねに経を唱え、心にはつねに極楽浄土を思い続ける。人間の身・口・意の 三つがもたらす罪障を消滅すること、これに過ぎるものはない。】 (小学館「日本古典文学全集」/橘健二氏の訳によるもの)「四種三昧」のうち、良源さんが座主になった頃にはひたすら念仏を唱える常行三昧が流行っていたことは「(112)」で書いてますね。ウィキペディアによると奈良時代頃にはすでに阿弥陀仏の造像が盛んだったようで、源信が青年となる頃には叡山で念仏三昧が流行っていた。最澄がゼロの状態から天台宗を見つけ出した訳じゃないように、源信が日本浄土教を発展させるまでにもこういう前段階があった。さて、まずは基本的なことから。「浄土」については過去の記事でも多少触れてきてはいますが、大乗独自の考え方で、仏の住まう清浄な地(仏国土)を指す。原始仏教においても「ブッダ」はお釈迦様以外にもいるという考え方はあったものの、大乗はもっと大衆的というか、十方世界にいろんな「ほとけ」がいて、浄土もそれぞれの「ほとけ」が支配する仏国土があるという風に全宇宙的でSFちっくなものへと発展する。わたくしのお経暗記は金光明最勝王経で大辨才天女がギャラリーの中からお立ち台へ立っていって、「誰でも幸せになれる洗浴法」のプレゼンを終えて席に戻り、1人の坊さんが大辨才天女を称え、それに応えて大辨才天女が長い陀羅尼を唱え出したところまで進みましたが、ふと思ったことがある。大辨才天女品にはお釈迦様も登場してて、辨才天女のプレゼンが終わったところで「善哉善哉」つまり、オッケー!天女、いいじゃん!ヒューヒュー・・・みたいに称賛してる訳ですが、本来であればお釈迦様の口から色んな功徳を言わせる方が重みがあってベストなんだと思う。けど、人間の欲にはキリがないから、すべての功徳をお釈迦様に言わせてたらとりとめもなくなるし、そのうち矛盾も出てくる。外から大乗を見ていると、なんでこんなに腐るほどの如来だの菩薩だの天部だのを生み出す必要があったのかと思ってたけど、ピンポイントの御利益を担うほとけを創った方が全体としてはまとめやすかったのかな、と金光明最勝王経をやっていて思った。で、そうして生まれたほとけたちのうちで浄土(仏国土)を持っているのは如来。多少の例外もあるけど、基本的には如来。大乗的SF世界で「悟った者」から神仏的存在へとバージョンアップしたお釈迦様ももちろん「無勝荘厳国」という浄土を持っている。・・・フツーの日本人にはあまり耳慣れない浄土だけどね。自力の修行で悟りを開くというコンセプトから出発した仏教は、大乗の発展とともにいわば自力を放棄して、まずは最初のステップである浄土を目指すという考え方が生まれた。ただ、浄土へ行けばそこで終わりという訳でもない。浄土へ行けたらそこで浄土のヌシであるほとけの助力によって「悟り」という最終目的地へ着くのが楽になるというだけのこと。例えて言うなら、悟りへの階段が1000段あったとして、自力なら当然ヒイヒイ言って自分の足ですべてを登らなければならないところを、階段の途中にある浄土までは自分の足で登って、そこからはエスカレーターに乗って頂点までたどり着くことができる、みたいな~。本シリーズの仏バナで、お釈迦様の直接の教えを受けた弟子たちはボロボロ悟りを開いていった、てなことを書いたと思いますが、実在の人間であるお釈迦様が死んでしまったら当然その後に生まれた人間達は直接教えを受けることはできない・・・なら、運悪くお釈迦様の死後に生まれた人間はもう悟りを開く(=成仏する)道は閉ざされるのか?そこを打ち破る新しい概念が「浄土」だったんじゃないかという気がします。しかし、浄土へ行くには一旦この世での仮のイレモノである肉体を脱ぎ棄てなければならない。つまり、「死」です。「往生」ともいいます。現代日本では「成仏」「往生」ともに「死」と同義語で使われますが、ウィキペディアには 【往生(おうじょう)とは、大乗仏教の中の成仏の方法論の一つである。】とあって、そうかこれは方法論なのか、うまいこと言うな~と妙に感動しました。往生して浄土に行って、自力よりは楽してほとけになれる。これが大乗の編み出した成仏の新システム。して、薬師如来の瑠璃光浄土、大日如来の密厳国土、毘盧舎那如来の蓮華蔵世界など色々ある中で中国や日本で最もメジャーになったのがおなじみの極楽浄土。正しくは「西方極楽浄土」であり、死者の供養に読まれる『回向文』では「西方極楽世界」となってます。日本では「浄土」は西方極楽浄土の代名詞というぐらい有名ですね。ここの教主は阿弥陀如来。なんで阿弥陀様の極楽浄土がウケて浸透したかといえば、やっぱりわかりやすいからでしょう。これもね、ほかの如来が不親切なんじゃなくて、「ねえねえ、もちっとわかりやすく浄土への行き方を教えてくれるほとけがいてもいいと思わない~?」「ああ、確かにそうだね。じゃ、ちょっと待ってて、考えてみるから。う~~~ん・・・ホラ、こんなのはどお?」「あっ、いいね~!でさでさ、ここをこうして・・・」「ふんふん、なるほど。じゃ、ここはこうしてさ・・・」みたいによりわかりやすい教えを作ったんじゃないのかな~なんてお経制作の現場を想像したりしました。・・・ええと、仏バナのとこでも何度も書きましたが、別にわたくしは大乗をバカにしてる訳じゃないですよ。大乗のほとけ達は古代インド人の誰かが霊感で感得したものかもしれないし、それ自体をどうこう言う訳じゃありません。ただ、史実という点から言えば大乗はお釈迦様とは何の関係もない。誰かが感得したものをそのままお経にしたにせよ、あるいはお経作家(?)が創作したものにせよ、お釈迦様の死後だいぶ経ってからお釈迦様以外の誰かが書いたものには違いないので、そういうお経の制作現場を想像してみただけです。宗教ってのはナーバスな面もあるからね、逐一言っておかないとね。阿弥陀様の誓願を信じ、阿弥陀様のお力によって極楽浄土へ往生する。これが「浄土教」であり、「浄土門」「浄土信仰」「浄土思想」などとも呼ばれます。浄土は色んな如来が持ってるものだから、本来的にはかなり幅広い意味を持つ言葉だと思いますが、ここからは日本的に阿弥陀様の極楽浄土を指すものとして意味を狭めて使います。日本での浄土教のブームは平安中期以降というイメージが一般的じゃないかと思いますが、その頃の成立とみられる『今昔物語集』には確かに往生譚が多い。うん、でも平安京以前に浄土教が入ってきていたのなら、その当時って「往生」はどう扱われていたんだろう?仏教が時代を下るごとにどんどん変化していったように、浄土教の流入からだいぶ後になって「往生」がもてはやされるようになったんだろうか。そこで、手持ちの『日本霊異記』をちょっと見てみました。霊異記の著者の景戒は最澄と同時代の人だからね。したら、タイトルから見つけ出せた往生譚はたった1話だった。あとはこれでもかってぐらいの因果応報の話ばっかり。「往生」はちょっと大事なところなので、次回から往生譚をいくつか紹介します。今回はもう文字数が残り少ないのでね。「往生」が大事な訳はもうわかるよね。死んで浄土へ行くことがすなわち「往生」だからです。浄土教信者にとっては、まず浄土へ行くことが必須。ウィキぺディアによると、 【何故仏国土に往生する事が、成仏の方法となるかというと、成仏には、仏の導きと 仏による成仏への保証(授記)がなければならないからで、これらのない独自の修行は、 阿羅漢(あらかん)や辟支仏(びゃくしぶつ)となる事は出来るが、それらになると 二度と仏となる事が出来ない、と大乗仏教では考えられていた。】だそうな。ここまでの文章で「自力」という言葉をさらっと使ってきましたが、仏教でいう自力にも色々ある。ウィキの解説で言ってる「独自の修行」は小乗的な本当の意味での自力を指すと思われますが、原始仏教では個人の努力により心と身体をコントロールして悟りを目指すのが修行だった。が、上の解説によるとその自力を完全に否定したことになる。仏教の長い歴史の中では星の数ほどの大陸の僧や日本の僧が倦むことなくあれこれ悩んだり考えたりしてきたので、こういう考え方は後の時代の発展形じゃないかと初めは思ったのですが、考えてみればこういう力技の教義の変更をしないと浄土ルートの価値が高まらない。ので、初期大乗の頃からこういう考え方をしていたのかもしれない、と思った。とは言っても、これは小乗的自力を否定しただけのことで浄土ルートにはまだ自力の余地は残されている。源信の頃はその余地が残されている時代で、のち浄土教の巨人が出て余地を狭めた。そしてついには巨人の弟子の原理主義者が綺麗さっぱり自力を取っ払った。ま、それはもう少し後の話になりますが、日本浄土教が発展していくに従ってわずかな自力をどう扱うか、つまりは今生をどう過ごすかという点に興味が集まるようにもなった。さらには、他人の死の状況にも高い関心が寄せられるようになる。説話集に多く収められている往生譚とは、そういうご時世を反映したものです。にほんブログ村
2015年05月15日

こちらが恵心(えしん)院↓。 ガイドブックなどでは「恵心堂」とも書かれますが、ここが恵心僧都・源信の住房だったところ。前回紹介した解説板に藤原兼家が建立したとありましたが、それは兄の兼通は亡くなったもののいとこの頼忠が政権のトップに就いていた天元2年(979)のこと。この時点で兼家は右大臣になっていたが、『人物叢書 良源』によると、横川の整備が父・師輔の遺志を継ぐものだとして良源さんが兼家に恵心院の建立を勧め、 【こうして良源は兼家に慈覚大師がかつて卜定していた楞厳三昧院の南の勝地を示し、 恵心の名跡をあげた。兼家は感動し、父の遺志を継ぎ「生々世々、永ク大師ノ遺弟ノ 道ヲ伝エル」ことを確約、百石の米を建立の費用として喜捨、日ならずして恵心院が 完成したのであった。】という流れだと語るが、同時に 【兼通との接触には後手を踏んだ良源も、兼通との接触は早かった。この時点で政権は 頼忠であるが、これは兼通の執念による横車で、早晩兼家の政権の誕生間違いないと 読んでいたのであろう。】とも語る。後手を踏んだといっても兼通も晩年には良源さんと親しくなり、子を叡山に入れてもいる。そしてさらに兼家との接触。実に効率良く九条家の中の実力者と結んでいるので「計算高い」と言われる良源さんのさすがのお手並み、と言いたくもなりますが、現実的には兼家はこの時点で「未来の外戚」ではあっても、実際に外祖父になれるかどうかは危ぶまれる状態だった。それを現実のものとしたのが兼家の実力行使だった訳だけど、それは良源さんの死後のできごと。まあ、そもそも師輔にとって横川は菩提寺的存在でもあったから、九条家の実力者と結んでいくのは当然の話だし、師輔の息子たちが頑張って政界の中心の座をキープしたから結果的に良源さんの行動が計算高く見えるだけという言い方もできるんじゃないかなって気もする。 ただ、「未来の外戚」であり九条家の中心になろうとする兼家にとって、「師輔の遺志を継ぐ」という誘い文句はかなり魅力的な言葉だったろう。それから、兼家にとって腹違いの弟にあたる禅師の君の後押しもあったかもしれない。ということで、開創からすでに1000年以上の時を越えている恵心院ですが、現物はずいぶん新しめの建物で綺麗だった。これは創建当時のものじゃないな・・・と思っていたら、延暦寺会館で買った『比叡山』という小冊子にふもとの坂本にあった「別当大師堂」を移築したものだと書いてあった。別当大師・光定さんを祀っていたこのお堂の元あった場所へはこの後で行きます。ただね、『比叡山』に載っている恵心院の写真と現物とでは屋根の葺き方も違うし、写真の方がだいぶくたびれ感がある。この建物の感じだと、移築したあとに近年になって大幅に改修されたらしいな。ついでに言うと、正確には恵心院はこの場所ではなくもう少しずれた場所にあったらしい。さてと、ここまでの記事でずいぶん色んなことを書いてきましたが、ここからは本シリーズで紹介する叡山僧のうちの最後の大物、恵心僧都源信について少し書いていきます。良源さんについてもまだ少し書き残しはあるけど、主要な部分はもう終わったようなもんだから、叡山の記事である程度まとまった歴バナはこれが最後になるでしょう。源信は卜部氏の父と清原氏の母との間に生まれた。大和の葛城郡の生まれだとされる。母は信仰心の篤かった人だといい、女子はもうけていたが男子には恵まれなかった。そこで高尾寺に詣でて子授け祈願をしたところ、夢で梵僧からひとつの白玉をもらい、その後授かった子が源信だという。源信は幼少の頃から道心が篤く年に3回の精進潔斎をしていたという。その潔斎のある時、夢を見た。夢の中の経蔵には大小2つの鏡が置いてあり、僧が小さいくもった方の鏡を源信に渡すと「えっ、こっち!?あの~、あっちの大きくて光った鏡のがいいんですケド・・・」「あれはお前のじゃないよ。お前のはこの小さい方だ。これを持って横川できれいに磨いておいで。しっかりやれよ!」と言われたところで目が覚めた。横川がどこにあるのかも知らなかった源信だったが、ふとしたきっかけで叡山に上がることになり、横川の良源さんに付いた。これが入山前の有名な話ですが、モノによって多少のディテールの差はあるものの、おおむねこんな感じの伝承になってます。源信が叡山に入った時期というのははっきりしていない。『類聚伝記大日本史』では7歳で父に死に別れ、9歳で入山、13歳で得度とある。出典はわからないけど、ウィキペディアも同じ流れを採用してるみたいだな。『日本の名著4 源信』では15歳以前の出家ということにとどめておくしかないだろう、としている。源信は禅師の君より1歳上で、15歳以前の出家といっても数えだろうから天徳2年(958)に受戒した禅師の君より少し早い出家で、禅師の君の兄弟子ということになる。『今昔物語集』によると、源信は良源さんに弟子入りしてから天台の顕密を学び驚くほどの理解力を示し、さらに他宗の顕教、真言の密教をも学びことごとくその教えを究めたという。源信の有名なエピソードには母に関するものがいくつかある。時期がはっきりしていないようなので、まず母についてまとめて書いちゃおうかな。源信が宮中での法会に呼ばれてごほうびの品を戴いた時のこと。初めていただいたごほうびなので、いくつか取り分けて母に送ってやった。すると、母から返事が来た。「送っていただいたものは喜んで頂戴しました。あなたが立派な学僧になったことは嬉しいし、生活に必要なものを送って下さったことには感謝しています。でも、私はあなたを有名な僧にしたかった訳ではないのです。たった一人の男の子を叡山に上がらせた以上は、多武峯の聖人のように立派な聖人となって私の後生を助けてほしいと思ったからです。もう私もトシだし、せめて生きているうちにあなたが立派な聖人となるのを見届けてから死にたいものです・・・」「多武峯の聖人」というのは、良源さんの元を離れて禅師の君の兄の高光が入った多武峯に移ってしまった増賀のことを指します。増賀は奇矯な振る舞いのエピソードが多いけど、一般的に実力も才能もあるのに世間での栄達を嫌って隠棲したという評価を受けており、増賀のように静かに叡山で修行に励んでいてほしい、と母は言ったようです。母の手紙を見た源信は涙ながらに返事を書いた。「ごめんなさい。でも私は決して出世をしようなどとは思っていません。ただ、高貴な方々の法会にも出席したことをお知らせしたくて。母上のおおせは誠にありがたく、嬉しく思います。これからは山に籠もって聖人となり、母上が会ってもよいと言って下さるまで決して叡山からは出ません。それにしても、我が母ながらなんと立派な導き手でしょう」これがきっかけで世間での出世を嫌った、という風に紹介されることが多いような気がしますが、時期不明なるも実際には内供にもなってるし、ウィキペディアでは15歳の時のエピソードだとしてるけど、『今昔物語集』の註釈だと50歳を過ぎてからのことじゃないかとしており、実のところはよくわからない。個人的には、結構あとの話じゃないかと思うんだけどね・・・というのも、上の話にはまだ続きがあるのだ。母の叱咤から6年の間山にこもり、7年目にして「しばらくお目にかかっていませんが、私を恋しく思っておられるのではないですか。であれば、ほんの少しだけお伺いいたしましょう」と母に手紙を送ったところ、母の返事は自分から言い出さない限り叡山から出るなというものだった。「フツー、こう言えるもんじゃないよな・・・」と感心しながらまた修行に励むうち、9年が経った。母は自分から言うまでは来るなと言っていたけど、どういう訳か無性に母が気がかりで会いたいと思うようになった。これは母の死が近いのか、それとも自分の死が近いからなのか・・・えい、いいやもう行っちゃえと決めて母に会いに行く途中、大和に入ったところで手紙を持った男に会った。源信が男に行き先を聞くと、なんと母が自分によこした手紙を持って横川へ行くところだった。男から手紙を受け取って馬上で母の手紙を見てみると、ずいぶんと乱れた筆跡で「ちょっと風邪をひいただけかと思ってましたが、ここ2~3日は気力もなく弱々しくなってしまいました。これが最後かと思うと限りなく恋しく思われたので、お便りいたします。どうか早くおいでになって下さい」とあった。さては虫の知らせであったかと急いで家に向かって、日暮れには着いた。急いで母のもとに行くと、かなり危険な状態だった。今朝使いを出したばかりなのにもう源信がやって来たのを見て驚く母にこれまでの出来事を話すと、最後に会えたことを母は喜んでくれた。念仏を唱えているかと母に聞くと、気持ちはあるけど気力がないし、周囲に勧めてくれる人もいないという。そこで源信が説法なぞして念仏を勧めたところ、母は心からの道心を起こして念仏を1~200回ほど唱えていたが、夜明け頃になって静かに息絶えた。「私が来なかったら、母上の最期はこうはいかなかっただろう。親子の深い縁のある私が来て念仏を勧めたのだから、母上の往生は疑いない。これも、私を仏道へ入れた尊い志によるものだろう。親は子にとって、子は親にとっての優れた仏道への導き手であったことよ」と言って泣きながら横川へ帰っていった。これを聞いた横川の僧たちも、なんと心打たれる親子の契りかと泣く泣く尊んだ・・・事実かどうかは別として、道心深い母の存在が源信に少なからぬ影響を与えたとは言えると思います。にほんブログ村
2015年05月13日

しばらく歩くと、こんな道に出た↓。 ここまでのところ、踏み跡はまあしっかりしてたし注意して歩けば迷うこともないし、危険な道はなかった。が、上の写真でちょうど木が倒れてるあたりの道は細くて雪があって、しかも道自体が斜めになっている。 あれはちょっと危ないな・・・ここまで来てケガなんかしてたまるかまず危険箇所の手前まで行って写真を撮る。 おお、立派でねえの~注意して危険箇所を渡ると、その先にも石垣が続いていた↓。 ここを石垣に沿って上がっていくと、そこがゴールだった。 ふう、やれやれやっと着いたぞ・・・しかしさすがにここは結構雪が残ってるな。延暦寺三塔のうちもっとも新しく独立した横川(よかわ)は、叡山の奥座敷と呼ぶにふさわしい奥地にあり、このエリアが延暦寺の北限でもある。昔はもっと雪も多かっただろうな。良源さんはこんな場所に自分の城ともいえるエリアを築き上げたのか。良源さんのパトロンでもある藤原師輔が横川へ行った際、師輔は本坂を登って東塔から西塔を通り横川へ入っている。今回、わたくしは西塔から横川への道は歩かなかったけど、ただでさえ都の華やかなものを見慣れている目で堂塔伽藍の整備された二塔を見たあとに横川へ向かう師輔にはどんどん山深くなっていく景色は別世界のように見えたんじゃないだろうか。あるいは「うっわ、ド田舎~」って師輔は思ったかもしれないけど、好みは人それぞれでしかも実際に横川を見たあとで隠棲の気持ちを打ち明けてもいるので、都からほど近い場所にありながらも山深い横川だからこそ師輔はここで後生を願う気持ちになったのかもしれない。横川へ入るには何本かのルートがある。そのうち、中尾坂が「横川本坂」と呼ばれるのならメインの参道という位置づけになるんじゃないかと思うけど、上がってきたところを振り返ると本坂を示す標識などは何もなかった。ので、山道を歩いて横川から飯室へ向かう場合はちょっと入り口がわかりにくいかもしれないけど、こんなの↓ があるところがちょうどカーブの角っこなので、そこから谷へ降りて行ってください。「滋賀医大霊安墓地」を示している方は左手でそちらにも道が延びているけど↓ ここは雪が積もっている右手の道へ進む。その先にはこんな標識もある↓。 なんで個別の企業や大学が横川にこんな場所を持ってるのか理解に苦しみます・・・これも一種の霊園経営なのかな。横川エリアの配置図は持ってきてるけど、なんだか思ったよりわかりにくい。配置図とにらめっこしながら中心部と思われる方へ歩く。 ここ、車なんか通るのか?轍(わだち)の跡はあるけど、人間の足跡はない。そのかわり 動物の足跡がてんてんと・・・雪が降ってから、人間ではワシ以外に誰もここを通っておらんのか。オンシーズンならバスで横川へ入ることもできるけど、今は運休期間。なので、マイカーかマイ足で来るしかない。オンシーズンでも東塔なんかに比べれば横川への参拝客は少ないだろうし、ましてこの時期でこの雪だから今日は中心部でもほとんど人に会うことはないかもな。そんなことを考えながら雪道を歩いていたら、これが出た↓。 これまでの記事にも書いてきたように、叡山には「これより何町」といった具合にそのスポットからかなり離れた場所にも道標があちこちに立ってるので逆にわかりにくい面もあるんだけど、地図を見ると確かにこの辺に廟があるらしい。道路から見る分には何もないので、道標のある斜面を登ってみた。 おっしゃおっしゃ、ビンゴ~キノコのような墓標は禅師の君のと似てるな・・・今回は行かなかったけど、もうひとつこれとよく似た墓石を写真で見ている。それが、ここまでの記事で名前だけ何度も出てきている恵心僧都源信のお墓。源信の墓石は胴の部分が角形なんだけど、『比叡山を歩く旅』(山と渓谷社)によるとそれは良源さんが考案したものだという。ん~、でも覚運さんのお墓はちょっと違ってたけどな。同じ良源さんの高弟なのに、何でじゃろ?さて、このお墓のヌシの覚超(かくちょう)さんは覚運・禅師の君(尋禅)と並ぶ良源さん門下の四哲の一人。覚超さんのお墓のある場所は兜率谷といい、横川六谷のひとつ。覚超さんについては手持ちの資料ではあまり詳しいことはわからないんだけど、『類聚伝記大日本史』(雄山閣)にある法統の系図には覚超さんの名は止観業(天台教学)と遮那業(台密)のそれぞれに載っている。それには、止観業の方では良源さんの高弟に付いて学んだことになっており、一方の遮那業では良源さんと良源さんの弟子の教えを受けたという系図になっている。どちらかというと良源さんの孫弟子に近い立場のようでもあるけど、ウィキペディアによると覚超さんは密教に秀でていたそうで、「台密川流」と呼ばれる流派を作ったそうな。四哲のひとり、檀那院の覚運さんは「檀那先徳」とも呼ばれるけど、覚超さんは兜率院にいたためか、「兜率先徳」とも呼ばれる。覚超さんのお墓から道に戻る。右手にはこんなだだっ広い場所もあった↓。 中尾坂から上がってくると、意外にも道がわかりにくくてねえ~。いや、横川全体もわかりにくかったな。東塔もさっぱりと言っていいほど道がわからなかったので山の中の高低差のある地形ということもあったかもしれないけど、ちょっと体内の磁場が狂うとゆーか・・・しかし、その先あたりまで行くとだいぶ中心部も近くなってきます↓。 もう14時近いのであまりゆっくりもできなくなってましたが、ここには寄らねばなるまい・・・ここは 【恵心院 恵心僧都の旧跡で、藤原兼家が元三慈恵大師のために建立した寺です。門前に「極重 悪人無他方便唯称弥陀得生極楽」とあるように、念仏三昧の道場です。 恵心僧都は恵心院に篭り、仏道修行と多くの著述に専念され、有名な「往生要集」や 「二十五昧式」「六道十界ノ図」「弥陀来迎ノ図」等を著し、浄土教の基礎を築かれ ました。毎年六月十日のご命日には「二十五三昧式」の講式が唱えられ、僧都の報恩 法要が営まれています。付近の都率谷墓地に恵心廟があります。】 (現地解説板より)という場所なのでね。まず先に境内を紹介しましょうか。 この写真の右に写ってるのが 「源氏物語」の「横川の僧都」のモデルが恵心僧都源信だというのは有名な話だけど、わたくしは原文じゃなく不朽の名作マンガ「あさきゆめみし」で読んだ派だからな。光る君が天台座主から受戒したという記述があるとは知らなかったな。宇治十帖の方は古典の現代語訳で1回読んで吐きそうになったので、「あさきゆめみし」でも読んでませんで写真には写ってませんが参道の左手には割と新しめの建物があり、そこに どれかよくわからなかったけど、この木あたりかな↓。 にほんブログ村
2015年05月12日

安楽律院を出て不動堂の入口まで戻る。安楽律院へ行く時に横切った細い道を、今度は北西へ向けて歩き出す。 奥に小さく写ってる碑には、「横川本坂」とある。あれ、こっちがやっぱり横川への本坂なのか。てっきり林道ルートの方がそうかと思ってた。ここを上がると小広い広場のようになっており↓ どこから山道に入ればいいんだ・・・と戸惑いながら奥へ進んでいくと、石碑があった↓。 浄刹結界碑だ・・・『叡岳要記』にはいくつか結界に関する記述もあるんだけど、飯室を結界と定めるってのはないんだよなあ。もちろん、良源さんが籠山僧が出てはいけないとした結界でもない。谷崎潤一郎が「母RPG」をした時、 【因みに云ふが、叡山の結界は此の附近は湖岸になつてゐるけれども、浄殺界は 飯室谷から山上へかけてゞあつて、乳野一帯は俗結界と云ふことになつてをり、 女人禁制の掟はなかつたものであると云ふ。】 (『乳野物語』より)と言っているから、それからすると浄刹結界は女人禁制という意味ってことかな。ああ、私はジジイでよかったあ~・・・なんて冗談こいてる場合じゃなく、昔だったらわたくしはここから一歩も入れなかったことになる。でも元三大師信仰は結構早い時期からあったようなんだけどな。どれほど元三大師を信仰しようとも、女性は一切おことわりだったんだろうか。それとも花摘堂のように、特別な日には途中ぐらいまでは行かれるルールなんかあったんだろうか。結界碑のあるあたりの右手には少し石積みも残っている↓。 さらに奥にも石碑があったので行ってみると 「横川 元三大師堂えの道」とある(誤字じゃなくホントにこう書いてある)。よしゃ、これだな道はわかったけど、ちょうどこの頃配達の人のような業者さんのトラックが入ってきてなんやかややっていたので、身支度を整えつつ間合いを取る。前日の本坂以上にこの道は歩く人が少ないのは初めからわかっていたので、こーゆー場合はむしろ1人で山に入っていく姿を見られない方がいいのだ。これでもいちおう防犯には気を遣ってるんです。して、頃あいを見計らっていよいよ横川へ向けて出発。 これは不動堂の入口にあった保存地区の領域を示す看板の地図ですが、車道が通じてるとはいえ飯室谷もしっかり山の中。でもここからはもっと山です。入ってすぐの道は意外にしっかりしていた↓。 少し歩くと横川への標識も出る↓。 もっと悪路を想像してたんだけど、これなら大丈夫かな・・・と思っていたら、 やっぱり、だんだん頼りない道になってきた。ま、山道には慣れてるから歩きにくくはないんだけど、うかうかしてるとルートでない方へ入り込んでしまう可能性も充分にあるので、前日以上に周囲に気を配りながら歩いた。この日もすまほの「山と高原地図」の登山アプリを使ってルートを確認しながら歩いたんだけど、少し歩いた頃からだんだん衛星が捕まえにくくなってきた。前日の本坂ではまったくそういうことはなかったから、さすが山深い横川だな、と思ったもんです。歩くにつれ衛星がなかなか捕まらず、何分もGPSの位置情報が得られなかった時もあったし。西教寺から飯室谷までの道は「奈良坂」だったけど、飯室から横川へ通じるこの道は「中尾坂」と名を変える。中尾坂をGPSだけに頼って歩くのは危険なので、ここを歩く場合は必ず登山地図やコンパスなどの登山の基本グッズを揃えていって下さい。もちろん、どこの山を歩くのだってそれらのグッズは必需品だけどね。静かな山の中に、わたくしの熊鈴の音だけがカランコロンと響く・・・結局、横川に上がるまで中尾坂では誰にも会うことはなかった。約1000年の間に元三大師を信仰する熱心な庶民が歩いたこの道を、わたくしも同じように横川を目指して歩いていく。そういう「信者RPG」をしたいと思ったからこそ中尾坂を歩くことを選んだんだし、誰にも会わなかったので静寂の中を1人静かに歩けたのはよかったのですが、現実のわたくしにはとてもまったりする余裕はありませんでした。なにしろ、3日目で疲れは溜まっている上に寝不足。さらにこの日は前日よりも気温が高めでもう昼を回っていた。駅伝などでちょっと気温が高めだと選手も苦しそうにしてますが、山登りも同じ。ま、高めったってせいぜい数度の差なんですが、冬用ウェアでしかも寒さの厳しい叡山用に整えた装備にはそのわずかな差がこたえる。そして衛星はなかなか捕まらねえそれでも途中には道標があったりしたので ルートを外れていないことをはっきり確認できるのだけが救い。本坂より中尾坂の方が道標の類は多めかもしれませんね。疲労のせいもあってかとにかく暑かったので、野球拳のように途中で少しずつウェアを脱ぎながら歩く。登山地図による不動堂の入口から横川の外れまでの標準コースタイムは1:10。写真の時間から計ると最終的に10分オーバーしたけど、ウェアを脱いで休憩したり衛星が捕まらない分地図を見るのに立ち止まったりしてるので、鈍足なわたくしにしては悪くないペースだったようだけど、悪条件が重なってたこともあってとにかく体がきつかった。比高としては飯室からたかだか400mぐらいなんだけど、結構等高線の詰まってる箇所もあるからな・・・そういう場所ではかなり精神的にも参っていたので、せめて確実に高度を上げていることを確認したくてすまほを見てもそういう時に限って衛星が行方不明で何分も前の高度のままで何の気休めにもならず確か、横川に近づくほど衛星が捕まえにくかったんだよな。そうして暑さと体の重さにあえぎながらつづら折りで高度を上げていた頃、これが出た↓。 あ~、ツライ・・・ちょっとここで休憩しよう。このあずまやの隣には小さなこれがある↓。 片膝を立てる輪王座に考え込むポーズ・・・手は2本しかないけど、如意輪観音様かな。多くの如意輪観音は6臂で、6本の手のうち1本には意の如く願いを叶える如意宝珠を持っているようなんだけど、「考える人」になってるのはどうしたら人々を救うことができるのかと一生懸命考えておられる姿だとされる。あと、こんなのも地面にあったな↓。 ずいぶん立派なものじゃないか~。あずまやのある場所は小さな削平地になってるので、かつてここかこの付近に瓦で葺いた建物があったのかもしれないな。しばしの休憩のあとでまた歩き出す。ここまでは雪はなかったけど、もう少し高度を上げたあたりからは道に雪が残っていた。 ふむ、当初の予定ではもうとっくのとーに横川を見て次に向かってる頃だったけど、早い時間に歩いてたらもう少し雪も残ってたかもしれないな。それに、右手の方には空が見えてきているので、稜線が近そうだ。あともうちょっとの辛抱だ~。・・・と思いながら稜線を見つつ歩いてたら、すぐ先で稜線へ出そうになった↓。 やった!ゴールか!?と心の中でバンザイしながら上がっていくと まだ道は続いていた。しかも、結構雪が残っている。まあこの程度なら全く問題はないし、ゴールが近いことはわかっていたので少し元気になってザクザク雪道を歩く。にほんブログ村
2015年05月11日

お堂の先にもまだ道は続いていた↓。 この道は先の方で右に折れていたんだっけか。上がっていくと、小さな建物がある↓。 小さいし、僧坊ってカンジの建物だな。が、これ・・・ 軽く蹴るだけで戸が開きそうだな人の手が入らないとこうやって傷んでいくのか・・・今すぐ倒壊してもおかしくないぐらいだし、こんな静かな山の奥にぽつんと廃屋があるとなんだか「出そう」なカンジでもあるけど、自然に建物が朽ちていく様子なんてなかなか見られるもんじゃないので興味津々でこれをしばらく眺めていました。変人?ふん、どーせね・・・しかし、まだ終わりじゃありません。この先も道は続いてます↓。 ほおお~、石垣といい石段といいずいぶんと立派だな。「安楽律院」と一口に言うけど、立派な「谷」を形成していたらしいことが奥まで歩いてきてはじめてわかる。それで、奥まで行ってみると建物の向かって左側にまだ石段が続いていた↓。 おおお~、なんかずいぶん雰囲気が違うぞ。しかし、それもそのハズ、ここは 墓所です。道はここで終わり。高低差のある地形なら、通常こーゆー大事なモノは一番奥まった高い場所に持ってくるのが普通。ま、それに気がついたのはこの旅の最後の方でしたが。今回の旅で詣でた叡山の墓は、みんな低い文字通りの谷の場所にあった。その中で唯一の例外がこの安楽律院の墓所と申せましょう。では、向かって左側から順々に見ていきます。 ↑「玄門大和尚塔」。 ↑「霊空大和尚塔」。 ↑「睿桓大禅師塔」。 ↑「妙立大和尚塔」。はい、もうおわかりですね。安楽律院で戒の復興運動を発展させた妙立とその弟子たちのお墓です。 3番めの叡(睿)桓(えいかん)さんだけは前回の記事には出ていませんが、そもそも安楽谷は985年・・・良源さんの亡くなった年に開かれたとされる寺で、叡桓さんはその設立メンバーの一人。ちょっと詳しいことはわからないんだけど、師輔一族の出だという話もあるようで、だとすれば年齢的に禅師の君の兄弟か、あるいは甥にあたると思われる。叡桓さんの母は『今昔物語集』に熱心に念仏を唱え往生したという話があるんだけどね。ということで、開基および安楽律の主導者たちの墓が集うこの場所は安楽律派にとっては聖地のような場所だったことでしょう。ただ、戒律復興運動の祖・妙立さんは『比叡山 その歴史と文化を訪ねて』には「一時追放された」とあるんだけど、妙立の墓ははじめ北白川にあったというから、もしかしたら最後まで叡山には復帰できなかったのかもしれない。それで、霊空が「開山堂侍真条例」を定めた年の前年に妙立の墓は北白川からここへ移されたらしいんだよね。安楽谷および律院のお祖師たちとも言える方々が背後で見守る中、江戸中期以降ここで多くの僧が兼学に励んできたのだろう。これで安楽律院は一通り見たことになりますが、まったりしてるうちにもう11時を回ってしまった。このあとは横川まで山歩きだから、しばらく食事できるような場所はないだろうな。横川まではとてもわたくしの小さな胃袋が持ちそうにない・・・てことで、ここで昼食を取ることにする。安楽律院の訪問記をいくつか見たけど、その中にはわたくしと同じくメシ時を迎えたものの境内で食事するのは申し訳ないからと山門を出たあたりで食事をしたという律義で清楚なお心を持つ真面目な方がおられた。が、わたくしはどっかと腰を下ろして、しっかり食べさせていただきましたここまで歩いた中で座れるような場所はほとんどなかったけど、墓から一段下がった建物の前に手ごろな石があったので、そこに座ってしばしの休息。ここでもまた相棒からもらったスープジャーが大活躍。前日と同じくマカロニにキノコなどを入れて市販のパスタソースであえたもので、作ってから何時間も経ってるし外気温が低いのでアツアツという訳にはいかなかったけど、何もない寒いところで温かいものを食べられる幸せというのはやはり山歩きなどを経験した人にしかわからないでしょう。奴はわたくしが叡山の山歩きをするなんてことは知らずにこれを選んでくれたのですが、実にいいモノを選んでくれたもんだ・・・山科に戻ったら大丸に入っているマールブランシュで土産を揃えるつもりなので、「とってもよかったよ~」と奴にも美味しい菓子を買って送ってやろうかな・・・そんなことを考えながらお腹いっぱい食べたらもう11:40を過ぎていた。朝のタクシーのおじちゃんには大体昼頃と言っておいたので、おじちゃんが首を長くして待ってたらいかんと思っておじちゃんに電話を入れた。電話に出たおじちゃんは朝と違ってテンションが低かった。関西弁だし、声が遠いので何言ってるかよくわからない部分もあったんだけど、結局のところ、「横川まで行くんなら、東塔まで歩いた方が早いんとちゃう?迎えの料金もかかるしさ・・・」てことらしい。なんだよ、あれだけ行く行くって連呼してたくせに・・・もっと色んなことを言ってたんだけど、感じが悪かったので、じゃあいいですと電話を切った。まあいいさ、気に入らない部分もあったし、帰りはおじちゃんがけなしたライバル会社のタクシーを呼んでやる それにしても、ちょっとのんびりしすぎちゃったな。西教寺から横川までの全工程のうちまだ半分もこなしてないのに、もうお昼だよ。ここからはちょっと頑張らないとな・・・安楽律院を出る前に、ちゃんと膀胱の準備もしておかねば。で、仮称・馬出にある簡易トイレへ。 きっと、閉め忘れて大事な用の真っ最中に開けられたりしたトラブルなどがあったのだろう。わたくしも韓国でそういう現場を目撃したことがある。そのためかここはしごく合理的なシステムになっていて、ドアの取っ手には でこれを裏返すと と書かれたものがぶら下がっている。おもしれ~、ここ!!おじちゃんとの会話でぷりぷり怒っていたわたくしの機嫌はこれを見て少し治りました。 にほんブログ村
2015年05月10日

中部北陸自然歩道を外れて参道に入った時から安楽律院跡の持つなんとも言えない雰囲気に魅かれていたものの、このメインエリアでの時を忘れさせる感慨というのは入口の比ではない。そこでまず、石段を上がったところで例によって動画を撮りましたので雰囲気を味わってみたい方はどうぞ。初めにフルスクリーンにしてから見る方が画面がボケないようです。 して、左奥へと進みます。 小さいけど、正方形の建物だな。お堂かな。こんな風にかなり綺麗に石列が残っているので、いっちょメインエリアの建物配置図でも描いてみるかとメモ帳にボールペンで描き始めた。新高山城と高山城で自己流に縄張図を描いた時、次回の城攻めの時には鉛筆とスケッチブックがいるなとは思ってたけど、ここ寺だしさ。用意してなかったんだよね。で、しばらく描いていたものの結構ここは広いのでまともに描いてたらかなり時間がかかることがわかってきた。ので途中でやめました(笑)。でも描きたくなるぐらい、綺麗だったんですよ。その辺から中心部を見たところ↓。 結構大きな建物だな。位置的にも、これが本堂かな。この奥には石仏↓。 ぱっと見、ここが左側のどん詰まりですが、これを越えてもうちょっと奥へ進めるようになっている↓。あ、奥に碑みたいのが見える・・・あれかな。 これが前回の簡単な解説にあった定家の碑です。このタイプの碑ならフツーは真ん中に碑文があるもんだけど、碑文はほとんど壊滅的と言ってもいいようなぐらい、文字は残ってません。それより、碑の左右の部分が少し赤くなってるな・・・これも火に巻かれたのだろうか。正面は完全にアウトですが、側面には歌が残っている↓。 ふむだにも縁なるてふ此山の土となる身はたのもしきかな 平安の大歌人・藤原定家は小倉百人一首の撰者としても有名ですが、道長の子孫にあたる方だそうな。ウィキペディアで経歴を見ると定家も若い頃に新嘗祭で乱闘騒ぎを起こしたことがあるらしく、これまたアラクレ貴公子であったようです。で、歌碑のすぐ先だったと思うけど崩れかけた石段があり、 その上にあるのが定家の爪塚と思われます。歌碑の方は明治に入ってから建立されたもののようだけど、定家は叡山を愛し安楽谷にいたこともあるといわれるので、爪塚という伝承が正しいのであればかなり古い石塔といえるでしょう。わたくしはここでストップしましたが、この上の小高い場所は定家にちなんで「定家峰」とも呼ばれるそうな。ではここから、メインエリアの向かって左はじを奥へと歩きます。境内のところどころに残る石組を見てここにはどんな建物があったのだろうかと想像するのもまた楽し。 ネットで他の方の訪問記を見るとそれなりにここを訪れる人はいるようだけど、一般の観光客などはまず来ない場所でしょうから、よほど運が悪くなければここでは静かでおだやかな時間を過ごせるんじゃないかと思います。興味のない方にとっては何も見るところはないでしょうが、たいがいの人は好きでここに来るんでしょうから、安楽律院跡の持つ独特の土地の雰囲気を存分に味わいながらゆったり過ごすことをお勧めしますね。かくいうわたくしも、脳内がどんどんユルんでこの時点でもう11時近い・・・でも無理。ぱっと見てぱっと戻るなんてことはわたくしにはできない。そしてまったり境内散策は続く。 ここからは入口から見て正面側の並びになります。 ↑ここにはかつて上に上がる通路があったようで、木の陰に宝篋印塔らしきものも見えるけど、確かここからは上がらなかった。振り返った中心部の全景↓。 火事の後、燃えカスを撤去して見栄え良く整備もされてるんでしょうけど、基本的な石列の配置は往時のままだろうと思われる。どういう堂宇があったかなどの具体的な知識はなくても、わたくしが思わずこの石列をもとに配置図を描きたくなったのもわかる人にはわかるでしょう。時計回りに正面側を歩いていくと、上に上がる道が出た↓。 この道は歩きやすそうだし、さっき見た宝篋印塔の前に行かれそうなので上がってみる。上から撮った中心部分↓。 ほう、なんて美しい・・・建物が残ってないのが実に惜しまれる。でもこれだけ綺麗に残ってれば、どういう建物配置だったのかはそれなりにわかる。そして動画その2。やっぱり高いところからの方が見やすいですね。 して宝篋印塔の前へ↓。 ため息をつきながらしばらくこの下の光景に見とれたあとで、入口の方へ戻る。山城であれば通常は郭内をてろてろ歩くところですが、ここは結構苔むしているので建物跡の中へ入ることはしなかった。で、こちらが入口すぐの場所にある建物↓。 お堂ってより僧坊ってカンジの建物だよな。これは焼けなかったのか?それとも後から建てたのかな?ここから向かって右側は 奥にも建物が見える・・・思ってたより広いな。 うん、いい感じ。ここの蟇股の菊は、天皇家というよりも三山管領宮である輪王寺宮のゆかりで付けられたものかもしれないな。↓ぽちりとよろしく~。にほんブログ村
2015年05月09日

門から先へ進むと、まずトイレがある↓。 うむ、いつ人が来るかわからんからな・・・ここは様子を見てから後で使うことにしよう。このトイレのある場所は城でいうなら馬出みたいなもんで(笑)、左と左前方に進む石段が2つある。安楽律院全体の構造は全く把握してないので、とりあえずここは順当に左の大きな石段を進む。石段を上がりきる頃、前方に約1名おじさんがいるのが見えたが、ちょうどわたくしと入れ違いになる形でおじさんは石段を下りていった。上がりきったところに広がる光景は おおお、すっげえ!礎石が綺麗に残って、建物配置がわかる!!見ておわかりのように、すでに僧坊はなく廃寺です。入ってすぐのところには簡単な解説があり、 【安楽谷は横川飯室谷の別所である。恵心僧都なども隠棲したところであったが、江戸中期に 妙立、霊空らがきびしい戒律主義を唱導し、その一門を安楽律とよびここに住した。 律院はおしくも放火でほとんど失った。ここには比叡山を愛した藤原定家の碑、爪塚などが ある。】 (現地解説板より)という歴史を持つ寺ですが、せっかく戒についても過去に触れているのでもう少し安楽律院の歴史の話をば・・・え~と、戒の話は「(122)」が最後ですかね。その後最澄の変えた戒のシステムは鎌倉新仏教に至って独自の進化を遂げるんだけど、それについてはこの後で触れるとして、ここは江戸期へジャンプします。最澄が大乗戒壇の設立によって変えたのは、はるばる大陸から渡来僧を迎えて導入した小乗戒による受戒ではなく、もっと戒の数の少ない菩薩戒(梵網戒)でヨシとしたものだった。言ってみれば、正式な僧侶となるハードルを下げたようなもの。長い叡山の歴史の中では、その菩薩戒ですら守られない時期もあり、そういう状況に異を唱えた僧がいた。真盛さんもその一人になると思うけど、その後にもそういう人が出た。上の解説にある妙立(みょうりゅう)は江戸初期に美作に生まれた人で、妙心寺派の花山寺で出家したというから禅僧としてスタートしたらしい。「花山寺」は花山天皇が剃髪した元慶寺かと思ったけど、隣接しているものの別の寺みたいです。して泉涌寺などで勉強した後に天台教学にハマった。が、妙立は菩薩戒のみならず具足戒も受け、中国の天台の律僧を模範としていたそうな。具足戒壇なんてその頃もあちこちにあった訳でもないでしょうから、東大寺にでも受けにいったのかね。そして、戒の復興を叫ぶことになる。安楽律院の戒律復興運動は、最澄の定めた12年の籠山制の復活もセットになっていた。妙立の弟子の代の頃は浄土院に侍真がいない時だったらしく、ただ最澄に仕える僧を置くんじゃなくて12年籠山僧をもって侍真にあてることを定めた。これが現在まで続いている。「(106)」に出てきた復興運動は、この妙立の始めた運動を指します。妙立は梶井宮・盛胤法親王の帰依なども受けたらしいが、大乗戒一本で長くやってきたところに四分律(具足戒)の兼学ということを盛んに訴え始めたもんだから、信者を惑わすなということで延宝6年(1678)に叡山から追放されたらしい。妙立は元禄3年(1690)に亡くなった。元禄といえば~、「元禄赤穂事件」の起こった時期であり、将軍は5代・綱吉。綱吉といえば~、その時期の三山管領宮は本ブログでもあちこちで顔を出している公弁法親王。綱吉と公弁法親王の親密な関係は「上野第二編(23)」などの寛永寺シリーズで少し紹介してますね。妙立の死の3年後、公弁法親王は「大戒旧跡再興」という令旨を出し、安楽院を四分律兼学の律院とした。ここでの厳格な戒律は「安楽律」と呼ばれ、妙立の弟子の霊空が住僧となった。輪王寺宮・公弁法親王の援護も受けた霊空は東叡山に浄名院、日光山に興雲院を開く。つまり寛永寺と日光輪王寺に安楽律院の支院を置いたってことらしい。これで三山に律院が整った。霊空は妙立が叡山から一時追放された際にも師に従っていたそうで、その頃には摂津などで天台経疏の講義を行ったり、また著述も多く沢山の妙立の弟子たちが霊空の元に集まったという。霊空の代には幕府から寺領の寄進も受けている。晩年の霊空はここ安楽律院で妙立の始めた戒律復興運動のさらなる発展に尽力した。そのうちのひとつが、先にも出てきた12年籠山と侍真制のコラボ。元禄12年(1699)に霊空が「開山堂侍真条例」を定め12年籠山の復活を提唱すると5人の志願者が現われ、同年中に死亡した1人をのぞいた4人が12年籠山に入った。最澄はハードルを下げたけど、てんから具足戒を否定した訳でもない。霊空が模範とした中国の天台律僧たちは大乗・小乗を兼学していたそうで、安楽律院の改革はこれに多大な影響を受けたものと見られているらしいが、最澄の思想に還った点も一部あるものの、違う点もある。最澄は具足戒に替えて大乗戒にしようとしたのであり、菩薩戒を受けたあとに具足戒を受けたら大乗・小乗兼行の寺に住することを許すとしているものの、必ず両方を受けろと言ってる訳でもない。あるいは最澄自身は両方受ける方が望ましいと思っていたのかもしれないけど、ノーマルラインとしては菩薩戒で充分だとした。長い歴史の中には妙立のように個人的に具足戒を受けた僧もいるのかもしれないけど、そもそも大乗戒壇自体が最澄の死後にできたものなので、わたくしが知っている分には最澄以前で兼学した者は最澄と義真しかいない。この2人はそれぞれ日本と唐で具足戒を受けたあと、唐で道邃(どうずい)から菩薩戒を受けてるからね。叡山に大乗戒壇ができる前は叡山の僧もみんな東大寺へ具足戒を受けに行ってたから、最澄の直接の弟子、あるいは孫弟子あたりまでは兼学したと言えるかもしれない。ま、最澄が具足戒を捨てちゃってるので、それにならって弟子たちも捨てちゃって兼学したことにはならないのかもしれないけど。それを、霊空は菩薩戒を受けて12年の籠山をこなしたら、必ず安楽律院で四分律(具足戒)を受けるようにと明確に規定をした。最澄以前に戻したというより、最澄以前以上に戒を守ろうぜとしたのが霊空。霊空の後は妙立の弟子の玄門が引き継いだ。この代では安楽律院に正殿ができて公弁法親王から「弘律場」の書が贈られたという。きっと扁額だろうな。能筆家の公弁法親王のお手になるものだから、さぞ立派だったことだろう。玄門の最晩年には、輪王寺宮第5世・公遵法親王が12年籠山を終えた僧は山上で教育にあたる僧をのぞいてすべて四分律を兼学するようにと命じている。これが元文4年(1739)のこと。妙立が目指したものは3代でほぼ完成を見たと言っていいんじゃなかろうか。ところがその一方で、兼学に疑問を呈する者がいた。それが横川の僧・円耳で、宗祖・最澄が廃したはずの四分律を兼学しろというのはおかしいんじゃないかとした。いかにも、ごもっとも。ここでもっともとするのはもちろん兼学の是非ではなく、最澄の遺志にかなっているかという意味です。そして兼学派と論争が起こり、教団内でも意見が割れ始める。宝暦2年(1752)、玄門が死去。弟子がその後を継いだ。一方、輪王寺宮も代替わりして第6世輪王寺宮・公啓法親王の代に入った宝暦8年(1758)、宮は兼学を停止して安楽律院や末寺は兼学の寺から大乗の寺となった。そして、兼学に反対していた円耳が安楽律院に入り、兼学派は山を下りた。兼学派の中には幕府へ訴えた僧もいた。察するに、円耳ら反対派が宮に強く訴えたんだろうな。その数年後には幕府へ訴え出た安楽律派の僧たちが脱衣追放の処分を受けている。この年、江戸では芝浦で1丈(約3m)という巨大マンボウが捕獲され両国で見世物になったらしいが、そんな世間の賑わいとは裏腹に安楽律派の僧たちは厳しい時期を過ごしていた。公啓法親王の時には安楽律派にとっては大逆風が吹きまくりだったが、明和9年(1772)に宮が40歳という若さで他界する。その時点で公啓法親王の後継は決まっておらず、引退した第5世・公遵法親王が第7世輪王寺宮に再任される。公遵法親王は30歳という若さで公啓法親王に輪王寺宮を譲っていたので、まだこの時は50歳だった。公遵法親王の返り咲きは緊急のつなぎだったろうと思われ、早々に次の輪王寺宮となるべき皇族を寛永寺に入らせたものの、その皇子は江戸に下向した翌年に亡くなってしまう。これにより、公遵法親王は再任してから8年輪王寺宮を務めた。でっ、公遵法親王が返り咲いたあと、と言っても正確には次の輪王寺宮の代のようだけど、第8世の宮はまだ若かったので公遵法親王の意向も反映してるんじゃないかって気がするものの、今度は兼学に反対した円耳が追放されて安楽律派・・・つまり兼学が復活する。こんな感じで輪王寺宮が変わるたびに方針も変わっていき、混乱の様子を呈していたらしい。その後は兼学が基本とされたものの、反対派がいなくなった訳でもないらしく、12年の籠山を終えても兼学する者としない者がいたみたいだけど、明治に入ると兼学派は絶えてしまったんだそうな。安楽律院の本堂には恵心僧都源信によるとされる阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩の三尊が安置されていたらしいが、昭和24年、放火による火災でほぼ全焼。誰が放火したのかはわたくしは知らないけど、火災にあったのがごく最近のことだからあれだけ綺麗に礎石類が残っているのかもしれない。にほんブログ村
2015年05月08日

『今昔物語集』には、とある高僧が天皇の后の病を治したが、彼女に一目ぼれした高僧が死んで鬼となって后の前に現れて惑わし、なんと天皇やその他公衆の面前で后と「睦みあった」という話がある。いちおう名前は伏せてあるものの后は実在の人物で、誰であるかも明白。「こんな話書いちゃっていいのか!?」とそれを読んだ時思ったものですが、『天狗のイメージ生成について』(伊藤信博)では 【この修験者がなるとした鬼には「天狗」の字が当てられており、仏道などの修行より 天狗の妖術の魅力に取り込まれてしまい、仏道からはみ出てしまった修行者を天狗と 呼び始めていることがわかる。】とする。これがさらに発展し、呪力を持つアウトローから呪力のゆえに天狗になれた、となり、さらに日本の歴史に深く関わる怨霊信仰とも融合して 【政治的に抹殺され、非業の最後を遂げた特定の人間の霊が人や社会に祟り、災禍を もたらすという御霊信仰の図式、つまり、死んだ人間が神に生まれ変わる「人(霊) から神へ」の信仰から、呪力の高い高僧の霊が、神ではなく、天狗に生まれ変わる という逆の「人(霊)から魔へ」の図式まで生まれている(後略)】 (前掲論文より)となり、天狗の中でも善なる者と悪の者がいるという考え方まで生まれるようになる。現代の私達が「天狗」と言われて想像するとがった鼻、赤い顔、鳥の羽を持つというものはかなり後になってから生まれてきたものらしく、そこまで行くのに天狗の概念は実に様々な変遷をたどっている。輪廻といえば「六道」ですが、仏道を学んだ僧が天狗になった場合、学はあっても道心はないので六道からも外れてしまうんだそうな。これも違う意味での「解脱」だよな、と思ったものの、それはもちろんお釈迦様が説く本来のルートではない。天狗バージョンの「解脱」は復帰不可能なので永遠に救済の道は断たれたってことになるけど、裏を返せば輪廻を超越してしまった存在なので、逆にその優位性も語られることになり、天狗ルートで解脱して輪廻から外れたものを「天狗道」と言ったらしい。六道に続く第七の世界の誕生です。前回の『太平記』の雲景は、座にいた長老といくつか問答をかわしたがそこに偉い人が来たというので退出する。と、もうそこに寺はなく、最初に山伏と出会った太政官庁の跡地あたりに1人ぽつねんと立っていた。そこで雲景は「自分は天狗道にいたのだ」と気付く。ならやっぱり、『太平記』に出てくる良源さんは天狗だった訳だよな・・・『今昔物語集』にはタイトルのみで本文が欠落しているものがあるんだけど、そのうちのひとつに良源さんが死後天狗となって余慶さんを調伏したという話がある。円珍派には確かに頭を痛めていただろうけど、そこまで余慶さんに恨みは持っていなかったんじゃ・・・ただ、『太平記』より早くに成立したであろう『今昔物語集』にすでに天狗バージョンの良源さんが登場していることから、呪術力では評判のあった良源さんが『太平記』の怨霊サミットにまで顔を出す栄誉(?)にあずかったという想像もできる。本人がこれを知ったら何と言うでしょうか・・・ま、天狗以上の不思議な姿のお札が現在でもバリバリ現役で頑張ってますけどね。わたくしも70体以上持ってますけどねさてそれでは現地紹介を続けます。不動堂境内を出て細い道をまたぐと、次のお目当てを示す標識が出る↓。 これに従ってまっつぐ進む道は中部北陸自然歩道で、すぐ先に案内板がある↓。 ここからは山道。不動堂にも参拝客はいなかったけど、こちらにも人の気配はない。 ほどなくして、まっつぐ上に上がる階段と左へ曲がる道が出た↓。 ええと、確かここは道なりに左へ行ったんだよな。 石垣の間を抜けると、寺の入口を示す碑が出る↓。 その先がたぶん下り↓。あんまり時間を空けすぎるとかなり記憶もアヤシくなってきます。特にこの日は禅師の君のお墓以降、まったり感がどんどん加速してその上疲れがたまっていたもんだから、頭の中はかなりユルんでました。 降りきってから振り返ったところかな↓。風情はあるし静かだし、あくせくしろって方が無理ってものです(笑)。 その先に門がある↓。 ちょっと、すげえイイ感じ。最後の写真が一部ボケているのは、心霊写真じゃありません。枝に積もっていた雪が溶けてぱらぱらと降っていて、その水滴がカメラにかかったからです。ちょうどテンションが上がってきたところだったので、この門の裏手で「チッ!」と思いながらザックを下ろしてレンズのお掃除をした記憶があります(←そーゆーことだけは覚えている)。 いや、それにしても思ってたより随分といいな。マイナーな飯室谷の中でも不動堂と並ぶそこそこのメジャースポットだから「ついで」感覚でここへ寄ることにしたんだけど、こんなにいい場所だとは思わなかった。上の入口の写真にも看板が写ってましたが、ここは安楽律院といってここがそこそこメジャーなスポットな訳は、お寺ファンや歴史ファンという「来てしかるべき」人種以外の「第3の人種」がやって来るからです。その理由がこちら~↓。 これは先年の大河ドラマ「江」のワンシーンで、ロケに安楽律院が使われたそうです。も1枚写真があった気がしたんだけど、どうでもいいから撮らなかったのかも(笑)。で写真がないですが、映画「るろうに剣心」でもロケに使われたそうです。そういうドラマ・映画やその出演者のファンが舞台となった場所を追いかけてやって来るという訳です。ま~ロケの様子の記事などもネットで観ましたが、とっても不便なところにある上、車は多く止められないし、不動堂の駐車場に車を置かせてもらってそこから機材を運んでたいへ~んとかぶつくさ言ってて「だったら来るんじゃねえ!そもそもこんな浄域をそんなくだらん事に使うな!!」と現地を大変気に入ったわたくしは声を大にして言いたいですが、とりあえずこの日はそんなロケなどもないし、キャーキャー騒ぐミーハーな輩もおらずほとんど一人占め状態でここの素晴らしさを満喫できたので良かったです。現代日本では時代劇に使えるような場所が限られてるから、ロケ地を選ぶのも大変だろうとは思いますけどね。ただ、そういう人達ってのは公共の場所を使わせてもらってるにも関わらず得てして大変自分勝手なので、寺とか神社、史跡などでの撮影は勘弁してほしいですね。嫌いと言ったってロケなんかにそうそう当たることはないハズなので問題ないですが、有名寺社での結婚式はあちこちであるからねえ~。あれ、拝観するためにわざわざ遠方から来た人間にとってはマジ迷惑なんだよね~。おめでたいのはいいですが、前にそれで非常に不愉快な思いをしたことがあるからな。いかんな、ついグチが・・・この安楽律院を含む飯室谷は、歴史的風土特別保存地区に指定されています。 【この付近は、古都保存法に基づき延暦寺飯室谷歴史的風土特別保存地区に指定されて います。比叡山の山麓部に位置する延暦寺三塔十六谷の中でも、独特の風情を持つ 松禅院と安楽律院が中心となる飯室谷地区は、これらの歴史的文化資産と緑豊かな 樹林とが一体となって古都大津の特徴ある歴史的風土を構成しています。 現代を生きる私たちが先人たちから脈々と受け継がれてきたこれらの枢要な歴史的風土を 次世代に継承し、古都における伝統と文化を育んでいくことが必要です。】 (現地解説板より)松禅院てのは禅師の君のお墓から不動堂へ行く途中にあった僧坊のこと。飯室谷で現役なのは松禅院と不動堂ぐらいしかわたくしは知らないんだよなあ。現実的な意味での立地としては少々不利な場所にあるので、観光客でも何か特別なお目当てがなければ来ることはないであろう飯室谷だけど、こんないい場所があるよ~と知ってほしいと思う反面、知名度は上がるけどロケなんてここに似つかわしくないものはやってほしくないと思う複雑なジジイ心・・・にほんブログ村
2015年05月07日

前回の続き。 「どうしてそのように隠れていなさる?」 と日本の天狗が聞くと、 「い、今そこを通っていったのはどなたかな?」 と永寿が言うので、 「あれは余慶といってな、すぐれた験者と評判の高い奴じゃ。 山の千寿院から修法のために内裏へ向かっていったのだろう。 尊い僧だからお主がどのように恥をかかせてくれるのか楽しみにしておったに、 見逃すとは惜しいことをされましたな」 「いや、それなんだがな・・・ 一目見てあれがそなたの言った者だろうと嬉しくなって飛び出そうとしたところ、 僧の姿は見えず手輿の上には炎が高く燃え上がっておった。 うかつにそばに寄れば火に焼かれるのは明白なので、こやつは見逃してやろうと そっと隠れたのでござるよ」 「ハア!? はるか震旦から飛んできて、あれしきの奴も引き転がせないとは情けない。 まあ、済んだことは仕方ない。次の奴は必ずやっつけて下されよ」 と日本の天狗はあざ笑った。 「いや、お主の言う通りじゃ。 よし、今度こそは見ていて下されよ」 と永寿が前のように卒塔婆の脇に座ったので、日本の天狗もヤブに戻った。 するとまた声がして誰か下りてくるので見てみると、飯室の尋禅僧正で その100mほど前を縮れ髪の童子が杖を手に腰をかがめて人払いしながら歩いてくる。 「さて、どうするか」 と永寿を見てみると、先払いの童子に杖で打ちすえられながら追い立てられて 永寿は頭をかかえて逃げまどっていた。 結局、永寿は尋禅の輿に近づくこともできず、永寿を追い払った一行は行ってしまった。 日本の天狗はまた永寿を探し出して、余慶の時のように罵倒した。 「そ、そんなひどいこと言わなくっても・・・ あの童子の面構えがとても近寄れないものだったので、頭をぶち割られる前に 逃げようと思ったのだ。 ワシは震旦からここまで片時の間に飛べるという素早さだが、あの童子の すばしっこさはワシより勝ってそうだったので、争っても無駄だと思って・・・」 「ざまあないなあ、もう。 もう一度だけチャンスをやろう。今度こそ頼みますぞ。 せっかくこの国に来たのに、なす術もなく帰ったのでは震旦の恥になりますぞ」 と繰り返し念を押してから、日本の天狗はまたヤブに隠れた。 すると、今度は下から上がってくる一行があり、まず先に赤い袈裟を着けた先払いの僧、 次に僧衣を入れる箱を持った若い僧、そしてそれに続く輿に乗っていたのは天台座主、 横川の慈恵大僧正だった。その左右には髪を結った童子が2、30人歩いている。 永寿はと見ると、またいない。 「アイツ、また隠れやがったのか!」 と日本の天狗が思っていると、童子の1人が 「こーゆー場所にはくだらん者がひそんでいて、悪さをしようとすることが あるんだよなあ。おいみんな、その辺に散らばって周囲をあさりながら行こうぜ」 と言ったので、元気いっぱいの童子たちが手に木のムチを持ちながら 道の両側に散らばってきた。見つかっては大変と日本の天狗が谷の下の方へ降りて 注意深くヤブの中に隠れていると、南の谷の方から 「あっ、見~っけ おーいみんな、ここにアヤシイ奴がいるぞ~!!」 という声が聞こえ、ほかの童子も走り寄って騒いでいる声が聞こえた。 「アイツ、つかまっちゃったか・・・ ヤバイなあ」 と思っても、日本の天狗も恐かったのでそのままヤブの中に突っ伏していた。 ヤブの隙間から恐る恐る永寿の方を見ると、10人ばかりの童子が老法師を 殴るわ蹴るわでめちゃめちゃに暴れている。 「ひいいぃぃぃ~~~! たっ、助けて~~! 誰かぁぁぁ~~~!!」 「オイコラ坊主! お前は一体どこの誰だ! 何でこんなとこに隠れていた! 白状しろよ、この老いぼれ!!」 と童子がさんざんに殴って責めたので、永寿はついに白状した。 「わ、私は震旦から来た天狗ですうう~。 ここをお通りになる方を拝見しようとここにいたところ、最初にお通りになった 余慶律師というお方は火界の呪を終始誦しておられたので、輿の上に火が上がり、 どうすることもできずに逃げてしまいました。 次の飯室の僧正は不動の真言を誦しておられたので、制多伽童子(せいたかどうじ: 不動明王の侍者で八大童子の1人)が鉄の杖を持って僧正につき従っており、 ゆえにこの方にも手向かいできず逃げました。 この座主様は前のお二方のように霊験あらたかな真言も誦しておられず、 ただ(摩訶)止観の法文を念じておられただけのようなので恐ろしさも感じずに 近寄っていきましたところ、こうして捕らえられてしまったのでございます。」 これを聞いた童子たちは 「結局、大したこともできなかったようだな。 もう許してやるか。おい、二度と来るなよ!」 と言ってそれぞれの童子が老法師の腰を踏みつけていったので、老法師の腰の骨は 折れてしまい、一行が去った後も1人腰の痛みにうめき続けていた。 日本の天狗はこっそり這い出してきて、 「どうだった? うまくやれましたかの?」 と聞いた。 「黙らっしゃい! わ、ワシはお主を頼りにしてここまで来たのに、あんな生き仏のような方達だと ちゃんと教えても下さらず、助けを求めても来てもくれないなんて ひどいじゃありませんか~~!! あげくには腰を折られて、もう痛いのなんの・・・ めそめそめそ・・・」 「いや、ごもっとも。 でもあなたは大国の天狗なので、こんな小国の人など簡単にやっつけるだろうと思って お教えしたのですよ。 なのにこうして腰を折ってしまわれるとは、ほんにお気の毒な・・・」 と言って北山に連れていき、湯治で腰を治させてから震旦へ送り帰した。(後略)こんな感じの話ですが、『今昔物語集』には天狗の話多いんだよなあ。当時の人には天狗は見えていたのかもしれない。余慶さんと禅師の君のケースはわかりやすいけど、良源さんの場合は法力なのかどうか・・・『摩訶止観』を念じてたって言われてもなあ・・・ま、説話集には実在の人物も多く出てくるので、登場人物がどういう人かわかるとこんなフィクションちっくな話でも素直に楽しめます。ところで、天狗のことを何の気なしに検索していたところ、びっくりするものを見つけました。それは『太平記』の中の一説。雲景という羽黒の山伏が全国行脚していて京に寄った際、1人の山伏に出会って「いいところがあるよん」とある寺に連れて行かれると、そこには金の鳶がお誕生席にいて、その周囲にいるのも立派な方たちばかり。これはどういう集まりなのかと雲景が山伏に聞くと、なんと金色の鳶は祟徳院で集まった魔の棟梁たちと共に天下を乱す会議の最中だという。この会議の話自体はだいぶ前から知っていました。が、驚いたのはそのメンバー。鎮西八郎為朝、淳仁天皇、井上皇后、後醍醐院。淳仁天皇と井上皇后は最澄の歴バナに出てきたからわかるよね。他の2人も政争の敗者で、主催者の祟徳院は不幸な出生から保元の乱へ到り、日本一の大怨霊となった方・・・あ、これも最澄のところで少し書いたな。つまり「怨霊サミット」とも言うべき集まりだったのですが、参加者は他にもいる。それが玄ボウ、真済、寛朝、慈慧、頼豪、仁海、尊雲という高僧たち。慈慧って慈慧って慈慧って良源さんじゃん!!!いや、こんな会議に出席してたなんて・・・違う、出席したことになってるなんてびっくらこいたどころじゃないッスよ~!!この高僧の中には、まあここに名前を挙げられるのもわかるよなって方もいるにはいますが、なぜこの人が?って方もいる。良源さんももちろん「なぜ?」の中の1人。祟徳院は死の少し前に烈火のごとく怒って朝廷を呪い、生きながらにして天狗となったという伝承のある方で、天狗は鳶の姿をしているとされることもあるのでここでは金の鳶になってると思われるけど、じゃあ天狗主宰の会議のメンバーなら良源さんは天狗になったのか?そこでちょっと『天狗のイメージ生成について-十二世紀後半までを中心に-』(伊藤信博)という論文を読んでみたところ、天狗というのは中国発祥のもののけでもとは流星、または彗星が尾をひく様子を指していたんだそうな。それが朝鮮にも渡り、日本にも入って舒明天皇9年(637)に流星が現われた際に僧侶が「あれは流星じゃなくて天狗だ」と言ったという記録が日本での文献上の天狗の初見なのかな。日食や彗星などは不吉なものと見られていたから天狗もそういうイメージだったのが、次第に護法神のような存在として捉えられるようにもなるが、不浄や邪悪といった面が強調されるにつれ仏敵な存在とされ、仏法に排除されるようになる。智羅永寿の話なんかはその頃にできたものかもしれない。ほかの『今昔物語集』に出てくる天狗たちも、僧にしてやられるというパターンが多いし。しかし、その後も天狗の概念はどんどん進化していく。 にほんブログ村
2015年05月06日

前回の禅師の君の起請文の続きですが、最後の方の文章に「墓」とか「骨」といった文字がある。良源さんのように禅師の君も自分の死後の処置について遺言しておいたのかと読もうとしたらば、あいにくここの文章には文字の欠損が多くなんて書いてあったのかよくわからない。が、自分の住したこの飯室谷に地味に葬ってくれといったような内容だったんじゃないかと思う。そうして今も禅師の君はあの聖域で飯室を守り続けているのだろう。さて不動堂の前には仏足跡があった↓。 むう、この上に立つお釈迦様を想像しなさいって言われてもな・・・やっぱり「モノ」を作りたくなるのが人情ってものだよな。左右を見ながら写真をぽんぽん撮ってるのでかなり記憶のアヤシイところもありますが、これが不動堂の奥の方だったかな↓。 不動堂のホームページによると、元亀の織田軍による「叡山攻め」で不動堂も攻撃を受けて荒廃し、しばらく復興されなかったという。今のお堂がいつの建立かはわからないけど、お堂正面の意匠からするとやっぱり江戸期ってのが妥当なところだろうし、古い部材を残しながらも一部は近年になってからの修築が入っているように見える。で、一番奥の建物はこれ裳階(もこし)だよな・・・『山門堂舎記』によると不動堂は禅師の君の在世中からあったお堂らしく、良源さんが所持して霊験のあったお不動様を禅師の君が譲り受け、それを不動堂に安置したんだそうな。『比叡山 その歴史と文化を訪ねて』によると、不動堂のお不動様は重文で東塔の国宝殿に安置されているらしい。でも鎌倉期の作らしいんだよな・・・円仁さんと良源さんのお不動様は現存しておられるのだろうか。お堂の向かって左側には小さなお堂がある↓。 お稲荷様かと思いきや、「赤山明神」とあり、 お色気顔の狛犬がおわした。赤山大明神は円仁さんが唐から帰国する際に円仁さんを守護したという伝承のある神様で、円仁さんの死後に京側の山麓に大明神を祀る赤山禅院が建てられたが、のちに赤山明神が語ったところによると円仁さんの遺法を護るためにほうぼうにいたといい、中でも横川には多くいたという。そういう横川とは縁の深い神様なので、飯室でも祀ってるのかな。普段の寺めぐりならそこそこ細かいところまで見たがるわたくしですが、今回は山歩きに多く時間を割いていることもあり、はっきり言って叡山の堂宇はロクな見方をしていない。ので、これで不動堂は終わり。不動堂は小高いところにあり、お堂の前の石段を下っていく。 一段下がったところがわたくしが入ってきた横道のあるところで、苔むした石垣は風格がある↓。 石段を下りきると、ちょっとオドロキの空間が広がっていた。 真新しい灯篭が沢山並び、さらに 真新しい仁王様の真っ白い肌がまぶしい(笑)。仁王様の足元には ぬわんと照明器具まで置かれていたので、常時かはわかりませんがライトアップされる時もあるようです。あと100年、200年でも経てば少しはくたびれてイイ感じになるんでしょうが、とにかくこの時は洗濯用洗剤のキャッチばりの「白さがまぶしい」状態だったので何とも・・・あと、これがあったな↓。 これは修法用のお水だそうで、飲用不可とある。親切に「ご自由にお持ち帰りください」ともあるけど、詰められるようなペットボトルもないのでいただくことはしなかった。開放ブースの隣は 隙間から覗いたと思うんだけど、岩があったんだっけか?それとも全然見えなかったんだっけっか?(←覚えてない)不動堂境内入口はこんな感じで驚くほどのぴかぴかの空間でしたが、まあこれも信者さんがいてこそだよな・・・上の段の境内には日本橋の女性信者の方が寄進した記念碑のようなものもあったし、そういう熱心な信者さんに支えられて維持整備ができるという現実がある。そこから進行方向へ進むと、上へ上る石段があった↓。 八角のお堂だ・・・あれも不動堂の一部かな。境内図を見るとあの上あたりにも色々とあったらしいんですが、まだこの先も長いのでそのまま先へ進む。 飯室谷不動堂へは、ここまで車で入れます。が、飯室奈良坂は入口だけはちょっとわかりにくいけど歩きやすい道だし、このぐらいの距離だったら歩いてみるのもいいんじゃないかと思いますね。さて、次のスポットへ行く前に、『今昔物語集』に面白い話を見つけたので紹介します。なんと、第18世から20世までの天台座主という豪華キャストが登場するお話なんですよ。内容的にはとても現実のものとは思えない話ですが、それぞれの座主についてはここまでの記事でもあれこれ書いてますので、素直に楽しめる内容じゃないかと思います。残り文字数が少ないので記事をまたいでしまいますが、ご容赦を。 『今昔物語集』巻第20の2 「震旦の天狗智羅永寿(ちらようじゅ)この朝(ちょう)に渡ること」 今は昔、震旦に智羅永寿という強い天狗がおり、日本へ渡ってきた。 永寿は日本の天狗に会い、 「ワシの国には悪僧が沢山おるが、ワシにかなう奴はいない。 この国には修験の僧がおるそうだが、ひとつ、力比べをしてみたいもんじゃ。 どうだ?」 と言った。 日本の天狗は面白いと思い、 「この国にも高僧はおるが、みなワシの思うままじゃ。 気に入らない奴には思う存分ひどい目にあわせてやったものさ。 お主がそう言うなら、近々ワシがこらしめてやろうと思っていた者どもが おるので、教えて進ぜよう。 ついておいでなされ」 そして2人は飛んでいき、叡山の大嶽の石の卒塔婆のところに並んで座った。 日本の天狗が言うには、 「ワシは面が割れておるので、人に見られるとまずい。 お主は老法師に化けて、ここを通りかかる奴を必ずやっつけて下されよ」 と下のヤブに隠れて永寿の様子を見ると、もう永寿は偉そうな老法師に化けて 座っていたが、その目には尋常でない光をたたえいかにも恐ろしげなので、 これは期待が持てると思って永寿のお手並み拝見とほくそ笑んだ。 しばらくすると名僧との評判の高い余慶律師が山の上から手輿に乗って降りてきたので、 「さあ、どうやってやっつける?」 と日本の天狗はわくわくした。 いよいよ余慶が卒塔婆の脇を通ろうとする頃、期待を持って永寿の方を見ると 永寿の姿は影も形もなく、余慶は大勢の弟子を引き連れながら平然と下っていった。 「どうしたんだ、アイツ・・・」 と思って永寿を探すと、永寿は南の谷に尻を逆さまにして隠れていた。(つづく)にほんブログ村
2015年05月05日

もうここは延暦寺五大堂のひとつ、飯室谷不動堂(場所はこちら)。結局わたくしは脇っちょから入る形になったと後からわかったんだけど、境内に入るとまずあるのが鐘楼↓。 その奥へ進むとお不動様を祀る不動堂がある。 飯室谷(いむろだに)は叡山三塔のうち横川の所属で、横川六谷のひとつ。ここも慈覚大師・円仁さんによって開かれたという。『比叡山 その歴史と文化を訪ねて』によると、円仁さんがここでお不動様を彫っている時、童子が現われて日に3度の食事を運んで世話をしてくれた。そうしてお不動様を彫りあげた時、円仁さんが「あなたは誰ですか」と聞くと、自分は「飯櫃(ぼんき)童子」で円仁さんの浄業の手伝いをするためにやって来たと答えたそうな。相手が誰だかもわからないままずっと世話になっていたのか、とか一般で1日3食が定着するのは江戸期だし、まして僧侶なら食事は1日2回じゃないのか、とかツッコミ入れちゃいけませんわたくしのお経暗記はまだ金光明最勝王経の弁才天女品を継続中ですが、その経本の裏には宇賀神(うがじん)関係の短いお経がいくつか書かれている。宇賀神てのはどうも弁才天と習合した神のようで、飯櫃童子は弁才天に仕える十六童子のひとりだというので裏のお経を見てみたら、2箇所載っていた。ええと、『仏説最勝護国宇賀耶頓得如意宝珠陀羅尼経』では十五王子の第七王子で、名は「飯櫃(はんき)童子」、真言は おんぎゃぎゃなうびじゅだねいうかやそはかで、『宇賀神将十五王子事』・・・あ、これはお経じゃないな。そちらでもやっぱり第七王子で 飯櫃(はんき)童子又は質月(しつげつ)童子と名付くとある。ほかの王子はたとえば筆硯童子とか金財童子、衣裳童子、酒泉童子、牛馬童子、船車童子なんて名前が並ぶので、要するにこの名前の示す功徳があるみたいだな。飯櫃童子はその名の通りご飯でいっぱいになったお櫃(ひつ)を持つという童子なので円仁さんはご飯を食べられたけど、もし飯櫃童子じゃなくて酒泉(しゅせん)童子が「私が行く、私が!」って出張ってきていたらば、円仁さんは酒浸りでレロレロになってお不動様を彫り続けなければならなかったかもしれないな。・・・なんてバカな冗談はさておき、お経の暗記などをしてるうち、仏像の容姿とか持物とか、あと説かれる功徳なんてのもすべてお経から来ているってことがわかってきたので、お経を読む楽しさはこーゆーところにもあるんだよって言いたかっただけです。よく色んなモン考え出したよな~とも思うけどね。不動堂のホームページにある伝承では若干ディテールが違ってるけど、どちらも飯櫃童子の縁によって円仁さんがここを「飯室」と名付けたという話になっている。良源さんの元に弟子入りした禅師の君は、はじめは良源さんの住む定心房にいたようだけどのち独立して妙香房に移った。その妙香房はここ飯室谷にあったという。わたくしはてっきり良源さんの近くに住んでいて、飯室谷にこもったのは座主職を返上してからの話かと思ってたんだけどね。してみると、出家した花山院がはじめ飯室に入ったというのも、座主であり大叔父でもある禅師の君が飯室にいたからなのかもしれない。ちなみに、花山院は藤原隆家と門前対決をしたり女の元に通っていたことからもおわかりのように、一生を飯室谷で過ごした訳ではありません。これも、あるいは禅師の君が早くに亡くなったこととも関係があるかもしれないよな。花山院に従って共に出家した藤原義懐の方は、『大鏡』によると死ぬまで飯室谷で修行しておったそうです。『古今著聞集』には花山院が叡山を下りた際、ふもとの坂本にあった紅梅が趣き深く咲いているのを見てしばし足を止めたというエピソードがあり、その時には花山院のもう一人の寵臣、藤原惟成が供をしており、紅梅を愛でている院に対し「皇位を捨ててもう出家された身なのですから、こーゆー俗人のようなお振る舞いはいかがなもんかと・・・」とつついたところ、院は 色香をば思ひもいれず梅の花 つねならぬ世によそへてぞみる別に梅の花の美しい色やよい香りに心を留めてる訳じゃなくってさ、無情なこの世を梅の花になぞらえて見てるだけさ・・・と返したという。これが一時的な下山なのか、それとも飯室から引っ越しする際のことなのかはっきりとはしないんだけど、話に出てくるのが義懐じゃなく惟成ってあたり、引っ越しのための下山だったという気がしないでもない。「新潮日本古典集成」シリーズの『古今著聞集』(西尾光一・小林保治校中)の註釈には『小右記』の著者・藤原実資(実頼の孫)が妙業房(元慶寺)にいる花山院を尋ねた際、院が「しばらく横川に住むよ」と言ったとある。妙業房という場所と話の内容から剃髪直後の出来事だと思うけど、これが事実であれば飯室に長く住むつもりはなかったとも言えるし、結果的に義懐は叡山に骨を埋め、惟成はふもとの東山で修行に励んだのでともに出家した3人はしばし叡山で一緒にいたものの、院の下山に惟成は従い、義懐は残る道を選んだ、って想像もアリだよな。え~、で、飯室を開いたのは円仁さんとされるものの、実質的に発展をしたのはおそらく良源&禅師の君の頃じゃないかと思われます。不動堂のホームページには「990年に藤原師輔が荘園を施入した」という歴史が書かれており、他の歴史ブログにも同じことを書いている方がいる。これは『山門堂舎記』からひいているものらしいんだけど、実は大変な矛盾があります。そもそも良源さんが亡くなったのが985年で、その頃師輔はとっくのとーにあの世へ旅立ってます。たぶん、『山門堂舎記』にある永祚2年(990)2月14日付けの禅師の君の起請文を元にしてるんだとは思いますが、この3日後の2月17日に禅師の君は亡くなってます。この前年に天台座主職を辞したのも病気が原因の可能性もあるし、死の3日前ともなれば自分の死を予期した禅師の君がその後のことを考えて書き残したものと思われます。その中に書かれているのが、父・師輔から受け継いだ遺産で師の良源さんが管理していた所領を、父の希望によって妙香院の附属とさせるというもので、自筆じゃなく口述筆記させたものにせよ自分の所領のことだから当然間違うハズもなく、「師輔が施入した」という風にはとてもじゃないけど読めません。あ、別にツッコミ入れてる訳じゃないんですが、かなり誤解を招く表現だと思うのでね。ただ、師輔から禅師の君に譲られた遺産は良源さんがその遺言の中で色々分配していて一部は禅師の君に託すとしているんだけど、正式には房の所領として組み入れられてなかったのかもね。その他に書かれているのは、後任者のことなど。叡山に関しては一般書なども含めそれなりの資料は用意しているものの、資料がありすぎて隅から隅まで熟読して完璧に把握している訳ではなく、この禅師の君の起請文についても「990年の荘園施入なんてどこに書いてあるんだ」と『山門堂舎記』の妙香院や不動堂のあたりを何度も読んでやっと見つけたぐらいの勉強不足なのですが、さすがに本人考案の文章だけあって固い文章の中にも禅師の君の人柄がうっすら垣間見える気がしました。まあ、死の直前の日付なので文章自体も周囲の人間が書いたものかもしれないけど、それでもその骨子は禅師の君の発案とはいえるでしょう。それで、わずかな文章から推測される禅師の君は、まず結構厳しい面を持っていたこと。それから、意思の強い人であったこと。あと、父の遺志を生涯守り続けて、それを後代にも引き継がせようとしたこと。あ、なんかどれも良源さんとよく似てるな・・・これはあくまで個人的な印象ですが、多少なりとも当たってるとすれば禅師の君が叡山入りしてからは良源さんと2人で文字通りの二人三脚だったのかもしれないな~とあらためて感じました。あとひとつ気になるのが、「宝満寺」。これは『大鏡』の禅師の君の註釈にあるもので、師輔が飯室に建立し禅師の君がそこに住んだと書かれている。不動堂のホームページにも宝満寺の記述があるんだけど、それには飯室と名付けた円仁さんが寺を宝満寺と称えたとある。円仁さん当時からあったお堂を師輔が立派に改修したって可能性もあるかと思うけど、これについては手持ちの資料ではこれ以上のことはわかりませぬ。いずれにせよ、横川同様飯室も九条家のテコ入れによって発展した場所とはいえるでしょう。にほんブログ村
2015年05月04日

それでは、久々に現地へ戻って「(134)」の慈忍和尚廟の続きに移ります。天梯権現社が根性入れて探さないとわからなそうな場所にあるのに対し、第2の魔所は実にオープンな場所にある。石段を登りながら前方を見ると巨木がそびえ、墓域に足を踏み入れる前からなんか雰囲気が違う↓。 石段を上がると鳥居があり、参道を奥へ進んだ先に廟所がある↓。 まずは手を合わせて禅師の君にご挨拶してから、ちょっと失礼して脇に回って玉垣ごしに墓石を覗く。 へえ?面白い形・・・円仁さんの墓石は無縫塔だったけどな。ただ、僧侶の墓石イコール無縫塔の図式が一般化したのがいつ頃かは知らないけど、個人的には円仁さんの墓石が無縫塔だったって方が違和感あるんだよなあ。まだひとケタ世紀の頃は禅師の君みたいなスタイルの方が一般的だったんじゃないかって気がするんだけど。円仁廟の方は全体的に新しい感じがしたから、近世以降あたりに綺麗に整備し直されてるかもしれないしな。もっとも、飯室谷不動堂のホームページに掲載されている略歴を見ると、江戸中期の1753年に慈忍和尚廟も修復されてるらしいんだけどね。でも墓石の上の部分なんかはかなり古そうだから、やっぱり元からこのスタイルだったんじゃないのかな。『比叡山 その歴史と文化を訪ねて』によると、毎年3月17日には「慈忍講」という法要が厳粛に行われているんだそうな。禅師の君の命日は永祚元年2月17日で西暦に直すと990年3月16日。「慈忍講」は新暦での命日にちなむ法要だとは思うんだけど、1日ズレているのはなぜなんだろう・・・さてここはこの日のお目当てのひとつと言っても、誰もいない静かな谷にお墓の前に一人ぽつんといるのもちょっと怖いようなイメージもあったし、それにここは三大魔所のひとつ。長居するのもどうかと初めは思っていたし、長居するつもりもなかった。しかし実際に現地へ来てみると これは禅師の君にお尻を向けて来た道を振り返ったところですが、巨木が立つ中にも若木などもあるので、文字通りの谷という地形にあっても意外に明るく、冬の叡山の清冽な朝の空気が清々しい。それに何と言っても、この静けさ。いちおうこの日のメインは良源さんの横川なので、結果的にここにはそう長い時間はいませんでしたが、そのわずかな間にも時間が経つごとに足の裏から根っこが生えてきてここから離れたくなくなる衝動にかられた。「(106)」で叡山に大のお気に入りが2つあって、ひとつが最澄の眠る「掃除地獄」の浄土院、もうひとつは魔所だと書きましたが、そのもうひとつのお気に入りの魔所がここ慈忍和尚廟です。魔所といってもここは聖域だとわたくしは感じました。ここと最澄の浄土院、この2つの聖域を訪れた時の感覚は1年以上経った今でもはっきりと覚えています。叡山のお坊さんの中にも、ここを聖域だと言っておられる方もいます。ぶっちゃけわたくしは、もうこの日はここだけで終わらせてもいいと思った。この先で待っているのが良源さんでなかったら、あるいはホントにそうしていたかもしれない。それぐらい、理屈じゃなく無性に惹かれる場所でした。それにしても、なんでこんな聖域が魔所と言われてるんだろう・・・プラス、叡山七不思議のひとつでもある禅師の君のユーレイの伝承。禅師の君の情報は少ない。わたくしは良源さんのことを勉強する間に必然的に禅師の君の経歴などについても知ったものの、それでも彼自身の人柄を語るようなエピソードは知らない。『大鏡』で紹介するのは藤原北家の中心メンバーとその子弟、およびそれに関連する天皇たち。九条家繁栄の基礎を築いた師輔の子である禅師の君もいちおう出ては来るものの、今のところ2箇所しか記憶にない。師輔の子のうちで僧侶となったのは禅師の君とその同母兄の高光の他にも数人おり、 【これらの方々は、法師とは申せ、当代第一の験者で、朝廷でも民間でも 生き仏のように信じあおがない人はありません。】 (小学館「日本古典文学全集」/橘健二氏の訳によるもの)と僧侶になった子をひっくるめての紹介となっている。もう1箇所は兼家の娘の詮子が宮中で加持祈祷を依頼したというもので禅師の君が導師として出かけていったらしいんだけど、その話のメインは禅師の君が連れていた伴僧の中に人相見に長けた者がいて、あの人の人相はどうか、この人の人相はどうかって話ばっかりで肝心の禅師の君は一切話に出てこない。まあ、『小右記』のような日記類を根気良く探せば多少の情報はつかめるのかもしれないけど、今回はそこまでしていない。飯室谷へは車で入ることもできるので、慈忍和尚廟もそれなりに史跡めぐりブログなどで紹介されているものの、歴史ファンにも色々いるもので、ごく一部には玄人顔負けの研究や考察をしている方もおられるものの、お出かけ前の事前の下調べで先人の訪問記などもいくつか見てみるとほとんどの「歴史ファン」はネットで得られる情報だけを基に世間で言われることをうのみにしてそのまま紹介している方が多いように思われる。禅師の君のように情報が少ない人の場合は、必然的に皆様よく似た表現をしておられる。ただ単に誰かの文章をコピペしてるんじゃないかと思うんだけどね。で、例の伝承とからめて禅師の君が何て言われてるかとゆーと、「自ら魔道に身をおとしめて叡山の守護をした」なんてのが実に多い。それと、伝承そのものの説明にもある「戒律を守って厳しい修行をした人」ぐらいのもんかな。魔道に身を落としてはいないと思うんだけどね・・・だってここは、神々しいまでの聖域なんだもの。修行に厳しかったってのはあるかもしれない。良源さんと師輔の夢を背負って誕生した、九条家出身の第1号叡山僧だから。にしても、なんであんな伝承が生まれたろうか・・・疑問を抱えながら何かをネットで検索している時、なるほどと思う記事を見つけた。 【寺によると、みだりに立ち入られることを防ぐ意味もあり、特に明治時代以降、 慈忍和尚のような怪談話が流布するようになったらしい。魔所といえばいかめしいが、 延暦寺にとっては、聖地にほかならない。】 (’13年8月16日付 YOMIURI ONLINE/ 「お寺と神社と その物がたり~第5部 異界と交わる~」より)これだよ、これ!聖域を守るために生まれた伝承だったんだ~!!そうに違いない。うんうん。別に、禅師の君が魔物になったって一向に構わないんですが、彼自身の経歴と廟を訪れた印象からはどうもしっくり来なかったもんでね。どっちかってーと、魔物になるなら良源さんの方がぴったり来るような『比叡山 その歴史と文化を訪ねて』には 【慈忍廟の周囲は、樹齢五百年以上の杉の大木が十数本、亭亭と天をついているが 決して伐採しないのも魔所なるが故である。】という解説があるけど、「魔所」を「聖域」と読み替えてもいいでしょう。さて、不思議な伝承にケリがついたところで先へ進めましょう。強い磁場のような慈忍和尚廟の持つ引力をどうにか振り切って廟を出て奥へ進むと おお、石垣だあ~。この日は平日だから人もいないし、禅師の君のお墓という聖域もあるし飯室谷サイコーーー!!と心の中で叫びながら石垣の間を歩く。途中には僧坊もあるが、入れない場所もある↓。 少し歩くと道が上下に分かれてたんだっけか。正面の道は門が開いていたので、とりあえずまっつぐ進む。 ↓ぽちりとよろしく~。にほんブログ村
2015年05月03日

花山天皇の御所脱出は藤原道兼が中心となって極秘裏に行われた。側近で実権を握っていた母の弟の義懐(よしちか)や乳兄弟の藤原惟成(これしげ)は後から天皇がいなくなったことに気づいて探し回ったというから、ごく少人数で山科へ向かったのだろう。ただ、道中には兼家の差し向けた護衛もいた。『大鏡』では「なにがしかがしといふいみじき源氏の武者(もさ)たち」として護衛の名をぼかしているが、この武者たちこそ「ただのまんじゅう」源満仲の子の頼光や頼信とされる。頼光の大江山酒呑童子退治の伝承はあまりにも有名ですね。まんじゅうの子やその郎党たちは花山天皇の護衛というより、もっと大事な使命を帯びていた。すなわち、道兼が花山天皇に同情して、あるいは天皇などから強要されて共に出家してしまうことのないよう、監視するためだったというのだ。この者たちははじめは物影から護衛をしていたが、賀茂川あたりから姿を現し一行を守護したという。そうして一行が向かったのが山科の元慶寺。良源さんに阿闍梨を譲ってくれた覚恵のいた、あの元慶寺です。おそらく阿闍梨を譲られたあとのことだと思うけど、良源さんは妙業房ともいった元慶寺も所管していたらしく、良源さんは死の前年の永観2年(984)、娘・詮子の産んだ皇子の立太子を祈願した兼家の依頼を受けてこの元慶寺で祈祷を行っている。これにはひとつエピソードがある。その時の房の責任者は良源さんの弟子の静安だったが、詮子なども列席した修法の各護摩壇には曼荼羅が懸けられていた。ところが、肝心の中壇に安置するべき本尊が見当たらない。しかし良源さんはあわてず、妙業房の開基とされる僧正遍昭の経蔵にあるからと言って本尊を探させた。すぐには見つからなかったが、夜になってもう一度経蔵を探させたところ、厨子の上におわす御本尊様を見つけた。房を管理していた静安をはじめ、居合わせた者たちはいずれも初めて見る御本尊様で、居場所をぴたりを当てた良源さんに一同は喜び、かつ畏れたともいう。良源さんの祈祷の甲斐あってか、同年8月には円融天皇が退位し望み通り兼家の外孫が花山天皇の皇太子となった。その花山天皇は同じ妙業房で落飾した。兼家の栄華への執念が染みついたこの寺は、花山天皇にとってはいわく付きの場所とも言えるかもしれない。妙業房での剃髪の際にも、当然護衛たちはいた。ここで道兼が剃髪を強要されることになっては大変なので、一尺ばかりの刀に手をかけて見守っていたと『大鏡』はいう。さて、道兼はかねがね花山天皇に「私も一緒に出家して天皇のお弟子となり、一生お仕えしますよ」と言っていたものの、天皇が落飾すると「ちょっと家に戻って、父に出家前の最後の姿を見せてきます。出家する事情なども話してからここに戻ってきますから~」と言って妙業房を出ていってしまった。ここに至って花山天皇は「さてはアイツ、騙したなぁぁぁ~!!」と気づいて泣いたものの、もう後の祭り。兼家の方では天皇が御所を抜け出したあと各門を封鎖したともされるが、無事にもとどりを乗っけたまま戻ってきた道兼の姿を見て安堵しただろうし、まんじゅう一族も大役を果たしてほっとしたことだろう。天皇の行方を捜していた義懐と惟成は急ぎ妙業房へ向かい、天皇に従って共に剃髪した。翌日、禅師の君(尋禅)が呼ばれて天皇に菩薩戒を授け、花山天皇は「入覚」と名乗った。禅師の君は花山天皇にとって父方・母方どちらから見ても大叔父にあたる。一門の守護・繁栄のために僧侶となった禅師の君だったが、自分の腹違いの兄とその子たちの強引な手段によって出家することになった花山天皇を見て、禅師の君はどう思ったのか・・・出家した花山天皇はしばらく飯室谷(いむろだに)に住んでいたらしい。ともに出家した義懐も飯室谷で修行したというから、天皇の身辺の世話などもしながら同じ仏弟子として過ごしたのだろうか。惟成の方の出家直後のことはわからないけど、ウィキペディアによると東山の円山公園あたりにあった長楽寺のあたりに住み、修行に励んだという。長楽寺は最澄が延暦寺の別院として創建したともいわれる寺なので、だとすれば三者とも天台僧としてその後を過ごしたことになる。過去には称徳天皇が出家した身で政務を執った例もあるので、出家イコール退位という訳ではなかったかもしれない。ただ、花山天皇の場合は御所を出る前に三種の神器のうちの2つの勾玉と剣がすでに皇太子に移されていた。モノによっては天皇が御所を出たあとに兼家が移したともいうが、いずれにせよ出家前に神器が移されていることから退位したあとでの出家、と世間一般では見られているらしい。神器のうちの残り、八咫鏡(やたのかがみ)は本体が伊勢神宮に置かれ、そのレプリカが皇室にあったものらしいが、鏡の方は賢所に置かれ天皇の身辺には通常置いてなかったものらしいんだな。こうして花山天皇は退位し、実権を握っていた義懐と惟成も出家した。立場としてはトップにいた小野宮家の頼忠は新帝との外戚関係はなかったため、これまた辞職した。藤原南家に勝ち、源高明などの他氏も排除して北家の勢力が増大した後で今度は北家の中で勢力争いが起こり、イマイチ子宝に恵まれなかった実頼の小野宮家や師尹の小一条家を制して師輔の九条家が中心となった。そして九条家の中では兄たちの死という幸運にも後押しされた兼家が最後は自力で権力をもぎ取った。どんどん土俵が縮められていく中で、最後は血縁の近い者同士での争いとなっていくので、まだ若い高光が妻子を置いて突発的に出家したのもわかる気がするし、禅師の君は良源さんの弟子に入ってよかったんじゃないかな~とも思えてくる。平安期は極端に「死」を嫌ったので血で血を洗うような抗争こそなかったものの、一族同士の争いというのもなかなかエグい。花山天皇の出家劇にともなう一連の政界の異動は「寛和の変」と呼ばれ、兼家のあとは道隆・道兼と続き道長の代で摂関政治のピークを迎える。が、道長の代まで行かなくても兼家の時点でほぼ「満月」と言っていいような状況にあった。小野宮家の頼忠が摂関だった頃は、頼忠は普段着で参内することはなく天皇へ奏上する時や勅命を承る時は正装に近い装束で蔵人の取り次ぎを介して礼節をわきまえた態度で臨んだという。『大鏡』では、頼忠は花山天皇の外戚ではなかったから遠慮したのでしょうか、と語る。それに対して兼家は、孫の一条天皇やその皇太子(これも孫)が臨席する宮中での相撲観戦の際には上っぱりを脱いで肌着だけでいたといい、晩年には自邸の東三条殿の西の対を清涼殿と同じ造りにして、内装なども御所と同じにしてそこに住んでいたともいう。『大鏡』では人臣としてはこれだけ栄華を極めながらも臣下の位に生まれたことは前世の果報が足りなかったからだろうかと言い、また身分をわきまえない素行の悪さのために外戚として長くこの世にとどまることができなかったと世間では非難したと語る。兼家の図々しさはその子孫たちにも受け継がれた。これは前々回の系図ですが、緑字の2人は『小右記』からの記事に登場した人物。花山院に弓を引いたあの事件の張本人です。小野宮頼忠は関白を辞した後、太政大臣となって円融天皇の中宮の遵子とともに四条宮に住んでいた。隆家は花山院からも挑戦状を叩きつけられるほどのやんちゃっ子だったが、兼家が摂政になったことで態度も横柄になっていったようで、その横柄ぶりは頼忠に対しても向けられた。隆家の妻の一人は六条に住んでいたので、そこから参内する場合は頼忠の四条宮の前を通るという道筋だったらしい。フツーの人なら四条宮の前は避けて通っていたところが、隆家はなんと馬に乗ったまま通っていたんだそうな。上記リンク先の門前ルールの記事を読んだ方には、これがどんだけ失礼なことかおわかりですね。頼忠も隆家のこの無礼のことは知っていた。他の貴族だったらあるいは石を投げていたかもしれないけど、それはなかったようなので、常識人・頼忠の統制がよく取れていたのかもしれない。とはいえ、あまりの無礼にさすがの頼忠も気が気ではない。そこでつい廊下の格子の隙間からどんな風に隆家が通るのかと覗き見してみると、やたら勇みたった馬に乗った隆家は装束のひもを解いたままという無作法な姿で、先払いに大声を出させながら自分は扇をゆうゆうと使ってわざとゆっくり馬を歩かせながら邸の様子を覗いているというあんばいだった。が、そもそも隆家はなんと妻の母方の祖父が頼忠なのだ。しかも四条宮に住む遵子は先の帝の中宮であり、自分のおばでもある。だから、本来であればこの道を通るべきではないし、通るにしてもきちんと身なりを整えてもちろん馬から降りて、頼忠へご機嫌伺いでもするべきだったと『大鏡』のジジイは言う。隆家本人もきかん気だったけど、兼家の一門の権勢がどんなもんだったかうかがえるエピソードでもあります。にほんブログ村
2015年05月02日

鏡モノというのはうさん臭い話が多いのかと思っていたけど、実際に『大鏡』を読んでみるとどーしてどーして、なかなかにリアルで細かい話が多い。が、それもそのはず。『大鏡』の著者などの詳しいことはわかっていないものの、著者の候補の1人にはアラクレ貴公子の藤原能信(よしのぶ)の名がある。もっとも、近年で有力視されている著者は能信じゃないようだけど、ほぼ同時代の人が書いたものなら妙なリアル感があるのも納得だと思った。系図を作っていると複雑すぎる姻戚関係にうんざりするものの、勉強してるうちに腐るほどいる藤原さんちの個々の名前も少しは覚えてくるもので、個体識別できるようになると『大鏡』も実に楽しく読める。色んな話があって面白すぎるので、本編で書ききれなかったエピソードについては本シリーズが終わった後に番外編にでもして紹介しようかとも思ってますが、本編から外れない程度の話は引き続き『大鏡』を中心に書いていきます。でまた『大鏡』からのエピソードですが、藤原師輔がまだ若い頃、朱雀門の前に立って左右の足を東西の大宮通りまで伸ばして踏ん張り、北向きに宮城を抱える夢を見たという。目覚めてから御前に控えていた小利口な女房にそれを話したところ、「まあ。それはさぞ、お股が痛かったでしょうね」と女房は言ったそうな。「小利口な女房」とあるのでてっきりこれが気のきいた返答なのかと思ったら全くその逆で、せっかく師輔が宮城を抱えるという壮大な夢を見たのに女房がそれに合わせた解釈をせずにとんちんかんな答えをしたものだから大望が叶うという夢が外れ、ために師輔の子孫は繁栄しながらも師輔自身は摂政にも関白にもなれずに命を終えた、とある。つまり、夢のお告げは絶対的なものじゃなく、それに合わせた解釈をして「言挙げ」をすることで初めて効力を持つものだと当時は考えられていたらしい。だから、道理のわからない人の前で迂闊に夢の話をするもんじゃないと『大鏡』はいう。 まあな、光る君(by源氏物語)もあれだけ下半身が元気だった割に子は3人しか生まれなかった。だけど、夢占をさせて子がそれぞれ栄達を遂げるという解釈だったからこそ、隠棲した須磨でも元気に子作りをして夢を現実に変えた。もちろん光る君は架空の人物だし、師輔のエピソードも事実かどうかはわからない。が、紫式部はこのサイドストーリーと同時代の人なので、この時代の人は夢と現実の境を明確に分けて考えていなかったということはできるだろう。師輔の子・兼家にも夢の前兆はあった。なんでも、兄の兼通にドンの座を奪われて兼家が不遇の時期を過ごしていた頃、ある人が兼通の邸から沢山の矢が飛んで兼家の邸に落ちる夢を見たというのだ。日頃仲の悪い兄弟のことだから、これは悪い夢かと思って兼家に話したところ、兼家も不吉な夢かと思ったので占い師を呼んで夢の解釈をさせた。占い師は、これは兼通の家から兼家の家に権力の座が移り、夢で矢が降ってきたように兼通の家から沢山の人が流れてくる素晴らしい夢だと言った。そして兼通は死に、兼家は一旦は格下げされたものの、すぐにいとこの頼忠によって右大臣に昇進する。自分の孫は花山天皇の皇太子となったので、このまま順当に行けば次の世代では外祖父となれる・・・師輔と密な関係を築いた良源さんは、兼通とははじめは上手いつなぎが取れなかったものの、のちには兼通とも誼を通じるようになり、兼家とも親しい関係を築いてうまく援助を引き出している。こうして見てみると、良源さんは師輔以降時の権力者とのパイプをしっかり作ってキープしていったことがうかがえ、よく情勢を見極めて行動していたであろうとも推測されるので政治的手腕はかなりのものがあったとも思われるけど、やはり禅師の君の存在というのは大きかっただろう。藤原北家と叡山の架け橋のトップバッターは禅師の君だけど、その後も北家の子弟たちがぽつぽつと叡山へ入って、きずなはより深くなっていった。さて、花山天皇。即位当日からの奇人変人ぶりのいくつかはすでに紹介してますが、源高明の子の俊賢(としかた)は「冷泉天皇のお狂いよりも、花山天皇のお狂いの方が始末が悪いよな~」と言って、それを聞いていた藤原道長は「失礼なヤツだな」と言いながらも大爆笑していたというエピソードが『大鏡』にある。ま、冷泉天皇も退位した後も子供を作ったり結構長生きもしてるのでホントに重度の精神障害だったのかは疑わしい部分もあるものの、花山天皇は各方面に才能もあった人なので、「お狂い」とはいってもそれは奇人変人の類だと思うんだけどね。しかし、花山天皇のネックとなったのは個性的な性格ではなく、やはり姻戚関係にあった。花山天皇の父は、冷泉院。母は、藤原懐子。即位した段階でもう外祖父の伊尹はこの世にいない。条件としては冷泉・円融の両天皇も同じ。この2人の天皇が即位した時、両親も外祖父の師輔も死んでいた。師輔に代わって天皇の補佐を務めたのが大伯父にあたる実頼であり、伯父である伊尹だった。実頼は『大鏡』では諸事にすぐれお心が端正で世間の人に模範とされたといい、伊尹は容貌も良く学才もあり、何事にもすぐれていたという評価をされている。両者とも生まれが生まれなのでそれなりに外戚レースに参加はしていたものの、個人の人柄としてはまずまずの人だったと思われる。が、花山天皇の場合、母方の大伯父で有力だったのは兼通・兼家だが兼通はすでに死んでおり、師輔の九条家ではもう兼家しかいない。舅としては小野宮家の頼忠がいてこの人の人柄には期待が持てたが、入内させた娘には子が生まれず、さらに伊尹の子・義懐(よしちか)が天皇の補佐役として抜擢されたことで権力が分散。そして皇太子の外戚である兼家の勢力も強かった。禅師の君の同母兄の為光は娘を入内させて天皇の寵愛を受けていたが、その娘は花山天皇が即位した翌年の寛和元年(985)7月18日、懐妊中に死亡する。まだ16歳という若さだった。天皇は悲嘆にくれたが、兼家にとっては願ってもないチャンスと言えた。兼家の孫は皇太子であり、黙っていてもそのうち外戚になれる。しかし、花山天皇はまだ17歳で、この先何年生きるか知れたものじゃない。それに引きかえ、自分はもう56歳・・・自然の成り行きを大人しく待っていたら、父・師輔のように孫の即位を目にしないまま死んでいかなければならない可能性が限りなく高い。そこで、花山天皇の退位を目論む。以下、『大鏡』を中心に流れを紹介します。運命の日は翌年の寛和2年(986)6月22日。月の明るい晩、傷心の花山天皇は出家するために御所を抜け出す。実のところ、為光の娘・忯子(系図では「し子」)の死去から1年近く経っているけど、この間に道兼などが根気よく出家を勧めていたのだろうか。まず部屋から外へ出た時、あまりの月の明るさに「ずいぶん月が明るくて、なんだか気がひけるなあ。どうしようかなあ」とためらったので、兼家の三男・道兼は内心あわてて「そうおっしゃられても、今さら中止もできませんよ。もう勾玉と宝剣は皇太子に渡してるんですから」とせき立てた。天皇が姿を現す前にすでに道兼は三種の神器のうちの八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)と天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を皇太子に渡してしまっていた。道兼にはもう後戻りすることはできない。天皇が月の明るさにぐずっている間に月に雲がかかり、少し暗くなったので「やっぱ、出家しよ。これで私の出家も成就するんだ」と言って、ようやく歩き始めた。と、大切に取ってこれまで眺めてきた忯子の手紙を置いてきたことを思い出して「あ、あの手紙取ってくる。ちょっと待ってて」と言って戻りかけた。イラついた道兼は泣き落とし作戦に出た。「どーしてこう未練がましいんですか。このチャンスを逃したらあるいは邪魔が入ってもう出家できなくなっちゃうかもしれませんよ。出家したいとおっしゃるから私がこうして手を尽くして準備したというのに、あなたというお方は・・・ああ情けない。ああ悲しい。めそめそめそ・・・・・・」もちろんウソ泣きです。いや、ここですべてが御破算になったら今度は道兼やその父が泣きを見るハメになるから、そのことを考えたらあるいは本当に泣けてきたかもしれないな。とにかくここが兼家親子にとっての正念場。道兼の涙にほだされた天皇は、そのまま土御門通りを通って東へ向かった。その途中、安倍晴明の家の前を通りかかると中から晴明の声が聞こえた。「天皇ご退位の天変が現われたぞ。もはや事が進んでいるようだが、とにかくすぐに参内しよう。車の用意を」激しく手を叩きながら言う晴明の言葉を聞いた天皇はどう思ったのか・・・『大鏡』では、自分の意思による出家とはいえ、さぞかし感無量でありましたろうと語る。「もう手遅れかもしれないが、とりあえず式神1人宮中へ行ってこい」と晴明が式神を使いに出すと、戸を開けて晴明邸を出た式神が見たのはちょうど邸の前を歩いていく天皇の後ろ姿だった。「たった今、当の天皇が前を歩いていきました」と式神が報告したというが、出家劇はそのまま続行された。晴明は良源さんの9歳年下で、この時65歳。花山天皇の皇太子時代には那智の天狗封じを行ったことがあるそうで、その頃から花山天皇の信頼を受けるようになっていったらしい。この時晴明がなりふり構わず追いかけて天皇を羽交い締めにしとけば止められたんじゃないのか?とついツッコミを入れたくなるのはわたくしだけではあるまいにほんブログ村
2015年05月01日
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