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Oahu Expedition ~自分だけのオアフを探そう~[ カピオラニパーク周辺 ]ワイキキの東端、カパフル・アヴェニューの先には緑溢れる広大なエリアが広がります。ワイキキとダイヤモンド・ヘッドに挟まれたこの場所は、大きく分けるとホノルル動物園とカピオラニ公園で構成されています。このエリア内には実に様々な施設が存在していて、頻繁にイベントも開催されるアクティブなエリアでもあります。ホノルル動物園では、1200種類以上の動物が飼育されていて、ライオンやキリンなどの動物を放し飼いにしたアフリカン・サバンナや、檻から出て来場者の目の前に象が現れるエレファント・エンカウンター、動物たちと直に触れあうことのできるチルドレンズ・ズーなど人気のプログラムもあります。園内には、広々とした芝生エリアもあって、子供と一緒にランチを持ってピクニック気分でやって来るママたちも多いようです。また、夏には恒例となっているハワイの人気アーティストによる屋外コンサートシリーズ、 ワイルデスト・ショー・イン・タウンが開催され、ハワイのビッグアーティストのショーを閉園後の動物園内で見る事が出来ます。 週末には、このエリアはアートなスポットに変身を遂げます。毎週土日に動物園裏を通るモンサラット通り側で行われるのがアート・アット・ザ・ズー・フェンスです。たくさんのアーティストたちが、動物園のフェンスに自らの絵や写真を展示して販売しています。また、月に1度、土日に開催されるのはワイキキ・アート・フェスト。10年以上も続くこのイベントでは、毎回70人以上のアーティスト達がキルト、木工製品、レイ等のハンドクラフト作品を中心に展示即売していて、散歩がてらユニークな作品を見てまわれるイベントです。開催中には、無料で見られるライブ・ミュージックのショーに加えて、ローカル・フード・ブースも色々と出店していて、ゆったりと楽しむ事が出来ます。 ハワイ最大で最古の公園とも言われるカピオラニ公園は、1877年のキング・カメハメハ・デイに、カラカウア王が自分の土地を市民の為に開放し、お后であるカピオラニ女王の名前を冠してつくられました。その当時、この公園には競馬場やポロ・フィールドもあったと言いますが、現在もテニスコート、サッカー場、アーチェリー場など様々な施設があり、すべて無料で誰でも使用出来る様になっています。日本ではすっかり、ホノルルマラソンのゴール地点として有名なカピオラニ公園ですが、日頃は、むしろローカルの人たちが朝夕ジョギングやサーフィンをしに来たり、夕方には子供達がサッカーを練習したりと、日常生活に密着したホノルル市民のための公園と言った雰囲気です。公園内にある野外ステージ、バンドスタンドでは、ロイヤル・ハワイアン・バンドの定期ライブをはじめ、ウクレレ・フェスティバルの様な大きなイベント会場としても使用され、レイ・デー・セレブレーションやオキナワン・フェスティバルなど、多様な文化交流イベントも、この周辺で行われています。その山側には、更に大きくて本格的な野外コンサート施設、ワイキキ・シェルがあり、世界的に有名アーティストによるコンサートやコクア・フェスティバルなどのビッグイベントが開催され、ハワイならではの快適な気候の中で、野外コンサートを堪能する事が出来ます。さて、クヒオビーチの隣、カパフル・アヴェニューが始まる交差点のビーチにはザ・ウォールと呼ばれるボディーボードのメッカとなっている突堤があります。ここをスタート地点に、ビーチ沿いを散歩してゆくと、そこはクイーンズ・サーフ・ビーチ。かつて古代のハワイアン達もサーフィンを楽しんでいたビーチであると言われ、大きなバニヤンツリーの手前にはサーファーの像も建っています。ハワイアン・モンク・シールをはじめ、ハワイ周辺に棲む様々な海洋生物をみる事が出来るホノルル水族館とナタトリウムの先にあるのは文豪スティーブンソンも絶賛したというカイマナビーチ(=サンスーシ・ビーチ)。週末には朝早くからBBQパーティーのための場所取りが繰り広げられる、ローカルに人気エリアであり、美しい夕日が見える、人気のサンセット・ビューポイントでもあります。そして、世界で初めてサーフィン文化を保存するために作られた団体アウトリガー・カヌー・クラブ前のアウトリガー・カヌー・ビーチへと名前を変えながらダイヤモンド・ヘッド方面へとビーチは繋がってゆきます。カイマナビーチから先は、近年、ホノルルのゴールドコーストなどと呼ばれて、ワイキキの喧噪からも離れて、部屋から太平洋の水平線を一望出来るウォーターフロントの高級コンドミニアムエリアとして注目を集めています。 ところで、ワイキキからこの辺りまでまっすぐに公園内を突っ切ってきているこの道。実はまだ、カラカウア・アヴェニューなのです。同じ道でもワイキキの中心とは全く雰囲気が違いますよね。この先の交差点を右に行くと、以前ご紹介したカハラ方面に向かい、左折するとワイキキのアラワイ・ブールバードへとつながっています。最初に交差するモンサラット・アヴェニューを右折して住宅街を登ってゆくと、やがてファーマーズ・マーケットで有名なカピオラニ・コミュニティー・カレッジ(通称KCC)へ、そして、ダイヤモンドヘッド・クレーターの入り口へと繋がってゆきます。ホノルル動物園とワイキキの境界線であるカパフル・アヴェニューは、アンティークショップが点在するオシャレストリートでありながら、度々メディアで紹介されているお馴染みのレインボー・ドライブ・インや、オノ・ハワイアン・フーズ、マラサダのレナーズなどの名物店をはじめ、ローカルに支持される様々なレストランなどが軒を並べるグルメ・ストリートでしたが、大手スーパー、セーフウェイの出店以降、有名店の支店をはじめ、続々と話題のレストランがオープンしていて、さらに活況を呈しています。カパフル・アヴェニューが、H-1ハイウェイのガード下をくぐって合流し、カイムキタウンへと続くワイアラエ・アヴェニュー沿いにも、知る人ぞ知るローカルグルメのレストランや個性豊かなショップが点在していて、ワイキキに戻るタイミングをなかなか見つけられなくなってしまいます。自然溢れる公園内でハワイの文化に触れたり、めいっぱいスポーツをするも良し、カパフル、ワイアラエ・アヴェニューで思う存分食い倒れてみるも良し。ワイキキから徒歩圏内なので、気軽に「探検」の出来るエリアです。また、運良くワイキキ・シェルでコンサートが開催されていたら、すずしい夜風と満天の星空の下、ライブ・ミュージックに浸ってみるのも貴重な体験となる事でしょう。HAWAIIに来たらとにかく歩いてみることです。そして次にThe Busを有効利用することで、おのずとHAWAIIを知り堪能出来ること請け合いです。私はHAWAIIに限らず旅に出ると宿泊施設の周辺は必ず歩き回ります。そうすれば一番その地が分かり理解出来ます。そこから旅は始まるのです。 参考文献 ハワイ州観光協会 go-hawaii オアフ観光協会 visit-oafu welcome to hawaii Hawaii-ai
2011.01.29
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今日は今、HAWAIIで活躍中のフラダンサーのお話をしたいと思います。その人の名はカノエ・ミラー、ハワイ通の方々はよくご存じだと思いますが、彼女は元ミス・ハワイなのです。そして現在はかの有名な豪華ホテル・ハレクラニのガーデンで踊る専属フラダンサーです。私も以前から親しくお付き合いをいただき、一昨年の11月には妻と共に最前列のテーブル席でしなやかな踊りを堪能致しました。彼女のフラの素晴らしさは格別です。指の動き、指先の動きが実に 細やかです。 皆さま方も次にHAWAIIに行かれるときは是非ともスケジュールに組み込みご堪能下さい。カノエ・ミラー(フラダンサー)「フラを踊るのは、他人と競うためではなく自分の生きる世界を表現するため」 ハレクラニホテルのビーチバー、「ハウス・ウィズアウト・ア・キー」のテラス席は、夕暮どきが最高。ダイヤモンドヘッドを眺めながらマイタイのグラスを傾けていると、艶やかなムームーに身を包んだカノエ・ミラーがステージに上がり、フラを披露してくれる。ドレスに合わせてまとうレイ、髪に挿したハイビスカスにも勝る優雅な動きと微笑み。1973年度のミス・ハワイが舞うフラに、観客はため息をもらす。 「フラを始めたのは十三歳の時。三人の娘をフラ教室に通わせている間、母親は息抜きをしたかったみたい。姉妹の中でフラに魅了されたのは、結局私だけだった」と屈託なくフラを始めたきっかけを語るカノエ。フラの動き、チャントには意味があり、それらを理解し踊りで表現することがダンサーの使命だ。彼女は競技会で勝つフラではなく、自己表現としてのフラを師から学んだ。レッスンでは、ハワイ語の詩を英語に直すだけでなく、その内容を自分達の生活体験と関連づけて解釈し、皆の前で発表することが義務づけられた。ストーリーテラーとなるための、必要な修行だったと言える。 十代の頃、カノエは二つの夢を同時に追いかけていた。一つはフラダンサーになること、そしてもう一つはモデルになること。当時のトップモデル、ツィギーに憧れて、髪をショートに切り、濃いメイクでフラレッスン場に出向いては先生に叱られたと、当時を振り返って笑う。「フラを踊るなら、長い髪とナチュラルメイクは必須。フラも好きだったけど、モデルにもなりたかった。結局お叱りを何度も受けて、フラの先生から『もうレッスンに来なくていい』と言われちゃったの」モデル業にキャリアを絞って間もなく、両親の強い勧めで応募したミス・コンテスト。地区予選を勝ち抜き、あっという間にミス・ハワイの座を勝ち取った。「ボーイフレンドに夢中になってた時期で、ミス・ハワイになれば忙しくなってデートどころじゃなくなろうだろうって両親は思ったらしいの」 両親の思惑通り、ミス・ハワイになったカノエの人生は変わった。各地に飛び回り、人に会い、モデルの地位も確立。日本へ親善大使として旅行する機会も何度もできた。後に知り合った夫との結婚生活も、二十七年間ずっと安定している。そのカノエが心から愛してやまない仕事はフラダンサー。彼女にとっての神聖な場所、ハレクラニでのパフォーマンスは、驚くべきことに三十年も続いている。 「この場所が好き。この海、この木、この空気が好きなの。ここはハワイ王朝ゆかりの、スペシャルな場所なのよ。世界中から集まるお客さんが心地よくリラックスされているのを、踊りながら感じるわ。フラを通じてストーリーを伝えるには、ここ以外の場所は考えられないの」 ハワイの大地を愛し、敬う気持ちを込めて踊ると言うカノエ・ミラー。しなやかに表情を作る指先の向こうに、刻々と色を変える空と海が続く。彼女とハワイの自然が見事に溶け合い、完全なる美の世界を創り出している。カノエ・ミラーのサンセット・フラ・パフォーマンスハウス・ウィズアウト・ア・キー(ハレクラニ1階) 毎週月~土曜日 17:00~21:00(時間は変更になる場合があります)TEL:808-923-2311 参考文献 ハワイ州観光協会 go-hawaii オアフ観光協会 visit-oafu welcome to hawaii Hawaii-ai
2011.01.27
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ハワイの日本人も聞いていた「浅間丸来る」。戦前の新聞では千人余りを運ぶ豪華客船の入港が記事になった。横浜港の近くに住んでいた伊奈正明さん(85)は十代のころ、何度か見物に出かけた。 外洋べ向かう出航の光景は圧巻だった。色とりどりの紙テープが何百と船から投げられ、大きな汽笛が「ボー」と鳴って鼓膜を震わせた。やがてテープは海に落ち、1万5千トンを超える船が小さく消えていく。「航海をゆっくりと楽しむ船旅は、非常にぜいたくなものに思えました。とてもかなわない夢だった」 1937年の盧(ろ)溝(こう)橋(きょう)事件に始まる戦争は人々の生活に影を落としていく。レコード店を営んでいた伊奈さんの家では、次兄が召集された。シャツの首元にスカーフをあしらうようなしゃれ者だった兄は、中国北部の戦線で散る。父は神棚の前に伊奈さんを正座させ、「こんなに早く戦死するとは」とうつむいた。後日届いた小さな骨つぼには、骨など入っていなかった。 45年5月29日午前9時過ぎには、横浜の上空に600機を超える爆撃機B29と戦闘機P51が現れた。米軍は計2570トンにも上る焼夷弾を降らせ、市内の3分の1を焼き尽くした。当時二十歳の慶応大生だつた伊奈さんは、港北区の下宿で、落ちてきた焼夷弾をとつさに素手でつかんで窓から放り投げ、九死に一生を得る。自宅の方向を見ると、もうもうと黒煙が上がっていた。 翌日、線路伝いに自宅へと歩いていくと、無数の遺体が転がっていた。犠牲者は1万5千人超ともいわれる。町内会の役員をしていた父は町内の女性たちを引き連れて逃げたというが、結局行方不明のまま電車の高架下に山と積まれた焼死体は男女の別さえわからなかった。 その3カ月後、戦争が終わった。世の中は少しずつ上を向き、46年、NHKラジオで「のど自慢」が始まる「戦中に金属供出の対象となって消えた東京・渋谷のハチ公像も48年に再建された。 この年の春、伊奈さんも古い材木とトタン板で父のレコード店を再建し、駐留の米兵相手に流行歌を売った。同年に発売されたのが「憧れのハワイ航路」だった。徹底的な長音階が明るく軽快な印象を与える。「ハワイなんて行けるわけもないし、想像すらできない。だけど不思議と勇気づけられた」と、伊奈されは振り返る。この歌はハワイでも流れていた。日系2世のギルバート・キムラさん(72)は50年代、父親がダウンタウンで経営していた1100人収容の国際劇場で、映画「憧れのハワイ航路」を見た。歌のヒットを受け50年年、岡晴夫主演で作られたものだ。終幕、岡がハワイに向かう船上でギターをつま弾いて歌う。「とてもハンサムな人でしたね。今でもハワイの日系人はカラオケであの歌をよく歌います」とキムラさん。 ハワイで生まれたキムラさんも戦争を経験した一人だ。真珠湾攻撃の時は3歳。たまたま山口県岩国市の祖父をおばと訪ねていて、ハワイに帰れなくなった。父親は戦時中、米国本土の収容所に送られた。終戦の3年後、父親がやっと迎えに来た時にはキムラさんは10歳になっていた。「元気だったか」と自分を抱きしめて泣ぐ男がだれかわからず、困惑するばかりだったという。 ダウンタウン周辺はホノルルの政治経済の中心だ。中でも「J タウン」と呼ばれた地域は、国際劇場のほか、東洋劇場、日本劇場、ホノルル座といった日系人向けの映画館が立ち並んでいた。移民として海を渡り、サトウキビ農場で過酷な仕事に従事していた日本人にとって、映画鑑賞は数少ない娯楽だった。 週末になると、普段はサトウキビを運ぶ列車に乗って労働者たちがやって来た。「日系人はゾロゾロと連れ立つて映画館をはしごしていました。夕暮れ時になると日本食のレストランで食事をとり、家路についたのです」とキムラさんは回想する。 映画「憧れのハワイ航路」が公開されたころ、俳優の月丘夢路さん(88)は日系の興行師の招きでハワイを訪れた。まだ多くの日本人が日々の生活に追われていたこの時期、「憧れの」海外旅行を実現させた人はごくわずかだった。 「日本の女優が何度も使えるガーゼで化粧を落としていた時代に、あちらでは一般の方もティッシュを惜しげもなく使っていてね。豊かだなと実感したわ」と月丘さんは懐かしむ。 当時20代後半。宝塚歌劇団の娘役トップスターから松竹の看板女優になつていた。後に大卒者の初任給が1万円の時代に、映画1本で300万円を稼ぐ大スターになる。 海外渡航は原則禁止だったが、米国側の要請があれば可能だった。外貨の持ち出し制限は厳しく、闇市で1ドルを500円で買って、パンアメリカン航空の飛行機に乗り込んだ。直行はできず、手前のウェイク島で給油をしてようやく到着した。 月丘さんは楽団とともに島々を回った。出演映画の上映の後、ステージで歌を歌い、踊った。観客の移民には同郷の広島県人が多かった。「語尾に『じゃけんのう』となまりがあって良くしてくれました」 日本人は「戦争に負けたかわいそうな人たち」でもあった。日系人たちは洋服や米、砂糖を袋に入れて持たせてくれた。家に招かれては、タロイモを原料とする現地食「ポイ」を振る舞われたという。 米ドルが貴重で、月丘さんは自らサイン入りのプロマイドを1枚数ドルで売った。「夜、ホテルに帰るとベッドの上にドル札を広げて数を勘定したのよ」と思い出す。 ハワイ旅行が特別なものでなくなった今も、かの地へ通い続けている。 参考文献 朝日新聞、中島耕太郎記者の文 朝日新聞、be on Saturday
2011.01.25
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戦後日本に希望の歌声 岡 晴夫「憧れのハワイ航路」 うなりを上げていたエンジンが止まると、静寂が訪れた。常夏の国、米国・ハワイも夜には涼しい風が吹く。マウイ島を海から眺める観光船「アリイカイ号」が、ホノルル港に帰港した。「ここは太平洋のど真ん中。かっては交通の要衝でした」と船の総支配人、D・J・ハルクロさん(62)は振り返る。ハワイでは1920年代からの40年間を「ボート・デーズ(船舶の時代) 」と呼ぶ。飛行機による移動が一般化するまで、港は栄華を極めた。 日本で「憧れのハワイ航路」が流行した48年には、米国内外から3万6千人余りが訪れたとハワイ州の統計が残る。 大型の客船が港に入ると、カメハメハ王家ゆかりの「ロイヤル・ハワイアン・バンド」が、ハワイ音楽の名曲「アロハオエ」を奏で、フラダンサーが腰を揺らして出迎えた。色とりどりのレイを抱えた売り子が列をなし、警察が整理にあたった。 船からは客や船員が硬貨を海に向かって投げ込む。岸壁から子どもたちが次々と海中に飛び込んでは拾い上げ、船に向かって「もっともっと」と声を上げた。 その光景は、この港近くに住んでいた、日系2世のジョージ・アリヨシさん(84)にも懐かしく思い出される。86年までハワイ州知事を14年務めた。 父親は福岡出身で力士を辞めた後、貨物船の船員になった。19年、寄港したハワイが気に入って脱走。別に来た熊本生まれの母は、「10日ほどのハワイ航路は船酔いがひどかった」と話していたという。2人は豆腐を作って売り、後にクリーニング業に転じて子どもを育てた。 アリヨシさんは太平洋戦争直後の46年夏、生まれ育ったハワイを後にして占領下の日本に海軍の船で渡った。連合国軍総司令部(GHQ)で通訳として働くためだった。 高いビルなどまばらになった東京・丸の内で、初めて言葉を交わした日本人が、靴磨きの少年だった。聞けば7歳だという。「まだ子どもじゃないか」。アリヨシさんは驚いた。日本人に食料品を渡すことは禁じられていたが、次に会った時、パンをナプキンに包んでそっと手渡した。 ところが少年はそのまま道具箱の中にしまい込む。「腹が減ってないのか」と問うと、「ペコペコだ。でもこれはマリコに持っていってやるんだ」と答えた。マリコとは少年の3歳になる妹だった。 その2年後、日本全国に響いたのが、岡晴夫の「憧れのハワイ航路」だった。突き抜けるような高音で「晴れた空・・・」と歌う。庶民の南の島への願望をかき立てて大ヒットとなった。 実は、「太平洋の女王」とうたわれた豪華客船「浅間丸」など、かつて日本人をハワイヘ運んだ船は、戦時中に軍事転用された末、米軍の攻撃でほとんど沈められていた。横浜- ハワイ間の航路は米国の船会社「APL」が47年に再開させていたが、クルージングなど庶民には夢のまた夢。作詞した石本美由起もハワイに行ったことはなく、想像で詞を書いた。 後に知事になったアリヨシさんは観光施策に力を入れ、ピークの97年には222万人もの日本人がハワイを訪れた。「日本人は他国の人々の3倍もの金をハワイに落としていくようになった。あの苦しかった日本が豊かに成長したことには驚くばかりなのです」と、アリヨシさんは語るのだった。 文・中島耕太郎 写真・河合博司Song晴れた空 そよぐ風港出船の ドラの音愉(たの)し別れテープを 笑顔で切れば希望(のぞみ)果てない 遥(はる)かな潮路ああ憧(あこが)れの ハワイ航路 波の背を バラ色に染めて真赤(まっか)な 夕陽が沈む一人デッキで ウクレレ弾けば歌もなつかし あのアロハオエああ憧れのハワイ航路 常夏の 黄金月夜のキャビンの 小窓を照(てら)す夢も通うよ あのホノルルの椰子(やし)の並木路 ホワイトホテルああ憧れの ハワイ航路JASRAC許諾石本美由起作詞、江口夜詩作曲、自石十四男編曲。岡晴夫の歌で1948(昭和23)年にヒットした。昨年5月に亡くなった石本は2002年、「週刊ポスト」誌上で、「戦後の混乱からまだ抜けきつていなかったこの時代、前を向いていこうじゃないか、夢を持って生きようじゃないか、そんな思いを込めて作詞しました」と語っている。地元の広島でヽ瀬戸内海を航行する神戸発大分・別府行きの白い汽船を見て、イメージを膨らませたのだという。 参考文献 朝日新聞、中島耕太郎記者の文 朝日新聞、be on Saturday『うたの旅人(song) No.6』に続く
2011.01.22
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◆ダイヤモンドヘッドシアター公演 「I Hate Hamlet」日時: 2011年 1月28日(金)~2月13日(日)場所: ダイヤモンドヘッドシアター (520 Makapuu Ave.)ニュヨーク在住の若手俳優をメインにしたコメディ。ハムレットに出演するはずの主人公は、公演がキャンセルになったことからシェイクスピア劇の名優ジョン・バリーモーアの亡霊を見るようになるというストーリー。問い合わせ: (808) 733-0277ウェブサイト: http://www.diamondheadtheatre.com/◆2011年 NFLプロボウル日時: 2011年 1月31日(月) 10:30~16:30場所: アロハスタジアム (99-500 Salt Lake Blvd.)アメリカのNFL(ナショナルフットボールリーグ)の選抜プレーヤーがAFC、NFCの2チームに分かれて対戦するフットボールの試合。プロのアメリカンフットボールを間近で見るチャンスです。ウェブサイト: http://nflonlocation.net/probowl.php◆ワイキキ・ファーマーズマーケット日時: 毎週火・金曜 7:00~12:00場所:ワイキキ・コミュニティセンター (310 Paoakalani Ave.)ワイキキ・コミュニティセンターで開催されるファーマーズマーケットには、地元産の新鮮な野菜やフルーツ、ホームメイドのパンやお菓子、スパイスなどがリーズナブルな値段で並びます。ワイキキ在住のローカルはもちろん、長期滞在のビジターで毎回大変賑わいます。 問い合わせ:(808) 923-1802ウェブサイト: http://www.waikikicommunitycenter.org/ 参考文献 ハワイ州観光協会 go-hawaii オアフ観光協会 visit-oafu welcome to hawaii Hawaii-ai
2011.01.20
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今日は今、日本とHAWAIIで半々を過ごしている元相撲界の大関「小錦」ことタレント名「KONISHIKI」について記述したいと思います。KONISHIKI 元大関/タレント「相撲界に入るため18歳で後にした故郷に、家を建てた。自分の夢が、いつか地元に住む子ども達の夢になるように」 オアフ島のウエストコースト、ワイアナエ地区にあるマイリビーチは、白砂と透き通った海、まん丸の太陽が水平線に沈む美しい夕景で有名だ。KONISHIKIはハワイの自宅から毎夕その素晴らしい景色を眺め、愛しい家族ととっておきの時間を過ごしている。気が向けばビーチでリラックス、バーベキュー・パーティーを催せば、家族や友達が百人単位で集まることのできる広々とした自宅でくつろぐ生活が彼の夢だった。外国人力士として初の大関昇進を成し遂げた6代目小錦を10年前に引退した現在、日本では歌やテレビの芸能活動に忙しい彼が、やっと一息つけるのが故郷ワイアナエに建てた夢の家だ。そこで最愛の父親、妻、甥っ子やたくさんの家族や仲間に囲まれて、現実となった夢を目一杯楽しんでいるKONISHIKIがいる。 サモア人の両親から生まれたKONISHIKIの本名はサレバ・ファウリ・アティサノエ。旅行者には楽園であるハワイも、サモア移民の家庭には経済的困難があった。「キッチンやシャワーは家の外にあったし、ちゃんとしたごはんじゃなくて、缶詰なんかをよく食べた」と彼は幼少時を振り返る。高校時代にフットボールで活躍したことで、高砂部屋にスカウトされ相撲の道に入った。相撲界を一気に上りつめ、日本で成功した25年間。芸能活動の他、ハワイ料理のレストランを経営、多数の執筆もこなす。しかしKONISHIKIは自分だけが成功し豊かになることに満足はしなかった。「故郷ワイアナエの人々は今も貧しい。だからといって機会が与えられないのはおかしいと思う」自分の地元が抱える問題について真剣に語るKONISHIKIは、テレビで見せる明るいキャラクターとは少し違う。愛するハワイのため、ハワイの将来のために両手を迷いなく差し伸べる、社会的責任感の強い人物なのだ。1996年にKONISHIKIキッズ基金を設立し、毎年ワイアナエ地区の35人の小学生に日本旅行をプレゼントし、視野を広げ将来の夢を見るチャンスを与え続けている。「僕は相撲界で一番になる夢があったし、故郷ハワイの家族を幸せにしたいという夢があったからがんばれた。自分の夢だったこの家をみて、地元ハワイの子どもが大きな夢に向かって生きていってほしいんだ」 KONISHIKIは日本社会に対する思い入れも強い。痛ましい事件が続く日本社会を少しずつでも変えて行くためにも、シンプル&イージーなライフスタイルに戻ることが大切だと言う。とりわけ大事なのは家族の会話や結びつき。ハワイに家族で来る人たちに、彼はこんな言葉を伝えたいと言った。「家族でゆったり、のんびりと吹く風や空気を楽しんでほしい。ワイアナエのビーチは素晴らしくきれいだし、バーベキューするならアラモアナビーチパークがおすすめ。ハワイじゃバーベキューグリル買うのも"ヒバチ"で通るんだから。家族揃って料理して、食べて、お腹がいっぱいになったらビーチで遊んで、また食べて。最高に楽しいよ!」KONISHIKIhttp://www.konishiki.net/ 参考文献 ハワイ州観光協会 go-hawaii オアフ観光協会 visit-oafu welcome to hawaii Hawaii-ai
2011.01.18
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ALOHA!!皆様お元気ですか・・・?今日お話ししたいとおもっているのは、「ハワイのイアヌアリ」についてです。イアヌアリ睦月。Januaryはハワイ語で「イアヌアリ」と発音します。白い息も凍りそうな北米でのフットボールのテレビ中継などを見ていると、冬でも海で泳げるハワイの季候をつくづく素晴らしいと感じます。1822年1月、極寒のニューヨーク州、ハドソン川を北に遡ったところに位置するグレンズ フォールズの町で、後にハワイ王国で活躍することになるチャールズ リード ビショップが生まれています。当時のオレゴンに新天地を求め、船で南米を廻り太平洋へ出ましたが、1846年にホノルルに上陸。カメハメハ大王の曾孫にあたるバニース パウアヒ王妃とロイヤルスクールで知り合い、その四年後に二人は結婚しました。カメハメハ三世が統治するハワイ王国が、太平洋の捕鯨基地として栄えていた時代、チャールズ二十八歳、パウアヒは十八歳の時でした。ビショップ氏は王国の国籍を取得し、ハワイで初の銀行を創り、上院議員となり、王国の経済発展と文化の保持に寄与する事となります。1884年10月、チャールズは最愛の王妃を癌で亡くします。その一年前に用意されたパウアヒの遺言の十三条には「ハワイに、寄宿舎を伴う男女の為の二校を創立し運営し、それをカメハメハ スクールと名付けるように」と書かれており、氏は妻の遺志を守り、1887年(明治20年)に現在ビショップ博物館が在る「カイヴィウラ」の地に、ハワイアンの子弟の為の学校として「カメハメハ校」を開校しました。 その二年後、学校の敷地内に博物館が建てられましたが、建設の目的の影には、ハワイアンの人々の深刻な人口減少問題がありました。バニース パウアヒ王妃の生まれた1831年(天保2年)のハワイアンの推定人口は十二万四千人でしたが、亡くなった1884年(明治17年)には、その数、何と四万四千人まで減少していました。人口減少には様々な理由が考えられます。ハワイ王国中期の経済を支えていたのは捕鯨基地としての存在で、有能な船乗りとして捕鯨船に乗り込んだものの、そのまま帰らぬ人となった男性がかなりの数に上りました。金鉱が発見された米国西部に移り住んだ人も居たでしょう。しかし最大の問題は、西欧人の来島に伴い、それまで外界から閉ざされていた土地に島外から入ってきた病気との闘いでした。カメハメハ王家の末裔として、ビショップ婦人は自国民の急激な人口減少と、他国民の流入と共になだれ込んで来る西欧文化の中で、如何にハワイの文化と歴史を残すべきかと腐心していました。夫妻で欧州を旅行し、英国のビクトリア女王やローマ法王にも謁見し、ミュージアムの有用性もご存知だったのでしょう。民族固有の文化を次の世代に伝え後世に残すべく博物館を創り、収集していた王家に伝わる伝統の品々や、ハワイを象徴する数々の貴重な品を保存し、多くの人々が見学出来るように展示したのでした。 ハワイアンの生徒達の教育と研修を一つの目的に、校内に建てられた博物館でしたので「カメハメハ博物館」と名付ける案もありましたが、カメハメハ四世の寡婦であったエマ女王の推奨で、ビショップ夫妻の意思と情熱を尊重し、王妃の名を採り"The Bernice Pauahi Bishop Museum"と称されることになりました。さて、2009年8月に新装なった同博物館のハワイアンホールの構成は、夫妻の思いに少しでも近づけようと再検討され、ハワイ固有の文化を示す貴重な品々が、ハワイ語の説明と共に多数展示され、開設当時の趣がみごとに再現されました。そして冬のマカヒキの時期には、古来の習慣に則り、ホールの中央に平和と豊穣の神「ロノ」の象徴が飾られています。ビショップ氏は、1915年(大正4年)6月にサンフランシスコでこの世を去りました。バニース パウアヒ王妃の亡骸は、ホノルルのダウンタウンの山手に在るマウナアラの王廟に、カメハメハ系の王族と同じ墓に安置されていますが、ビショップ氏は、西欧人ながら王家の一員として、その傍らに墓が設けられ、今でも二人並んで眠っています。 現在カメハメハ校は、博物館の北、カパラマの丘に移転し、その充実した施設と広大な敷地を誇っています。山にかかる雲がちぎれて流れてくる冬の午後、ビショップ博物館から見上げるカメハメハ スクールのキャンパスにはビショップ夫妻の功績を称えるがごとく、虹のアーチがかかって見えます。浅沼 正和ビショップ博物館でボランティア ドーセント(案内人)を務め、博物館のメンバー組織の代表機関 "Bishop Museum Association Council" にも参加。ハワイとポリネシアの歴史文化の紹介に力を注いでいる。ハワイ在住通算20年、ハワイ日米協会やアロハフェスティバル等の非営利財団理事も務める。ビショップ博物館ウェブサイト http://www.bishopmuseum.jp/ {ハワイ語一口メモ}カメハメハ校は現在、小中高を併せ持ち、他島にもキャンパスを広げていますので総称して "Kamehameha Schools" と呼ばれています。ハワイ語でも複数の冠詞「ナー」をつけて「ナー クラ オ カメハメハ」と呼びます。「クラ」は学校を意味します。今日のお話は如何でしたか、参考になりましたでしょうか!!!A Hui Hou!(じゃまたね!) 参考文献 ハワイ州観光協会 go-hawaii オアフ観光協会 visit-oafu welcome to hawaii Hawaii-ai
2011.01.15
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マーティン&マッカーサーで 優雅にショッピングメイドインハワイのアイテムを取り扱うことで知られるマーティン&マッカーサーが、ワイキキのアウトリガー・リーフ・オン・ザ・ビーチ・ホテルに昨年12月10日オープンしました。店内にはハワイ島産の貴重なコア材でできたジュエリーボックス、フォトフレームなどマーティン&マッカーサーならではの商品がいっぱい。ハワイらしいおみやげ探しにどうぞ。マーティン&マッカーサーアウトリガー・リーフ・オン・ザ・ビーチ(カニ・カ・ピラ・グリル近く)http://www.martinandmacarthur.com/カーチスP-40E キティホークが新登場旅の口コミ情報サイト「トリップアドバイザー」の米国航空アトラクションで8位にランクインしたオアフ島の人気スポット、太平洋航空博物館パールハーバーに、第二次世界大戦中に活躍した米国の戦闘機カーチスP-40Eキティホークが仲間入り。館内にはフライトシミュレーター、ギフトショップなどもあるから、のんびりと訪れてみて。太平洋航空博物館パールハーバーHangars 37 & 79 on Ford Island, 319 Lexington Blvd?441-1000www.pacificaviationmuseum.org/jpキティファン注目の 「マキティ」がワイキキに!行列のできる店として人気の「まきの茶屋」が、ワイキキのクヒオ通りにサンリオとのコラボレーションによる「マキティ」をオープン。店名は、オーナーのまきの氏とハローキティにちなんだもので、インテリアからカトラリーまでキティちゃんがいっぱい。食事は、新鮮なシーフードとオリジナルスイーツが食べ放題のビュッフェスタイルで楽しめる。マキティ ハワイ2380 Kuhio Ave?923-2260人気弁当店がモイリイリに 新店舗オープンハンバーグ弁当、のり弁などおなじみのお弁当で知られるワイキキのこころ亭が、ハワイ大学に近いモイリイリに開店! 日本料理をはじめとする腕利きのシェフたちが、食材や調理法にこだわって作るお弁当の数々は、ビジターはもちろんローカルにも大好評。店内にはおむすびをはじめ、お総菜、手作りデザートも並んでいる。こころ亭モイリイリ店2424 S. Beretania St.(モイリイリフィールド向い)?951-5656http://www.kokorotei.com/コオリナ・リゾートに ショッピングスポット誕生!コオリナ・リゾートに、買い物や食事が楽しめる「コオリナ・ステーション」が新登場。食品から雑貨まで揃う「アイランド・カントリーマーケット」をはじめ、アイスクリームパーラー、メキシカンレストランなど、隣接するマリオット・コオリナ・ビーチクラブのオーナーや宿泊客にとってエキサイティングで大変便利なショッピングスポットに。マリオット・コオリナ・ビーチクラブ92-161 Waipahe Place, Kapolei?679-3929 参考文献 ハワイ州観光協会 go-hawaii オアフ観光協会 visit-oafu welcome to hawaii Hawaii-ai
2011.01.13
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◆ソニーオープン・イン・ハワイ日時: 2011年 1月10日(月)~16日(日)場所: ワイアラエ・カントリークラブ (4997 Kahala Ave.)その年のPGAツアーの最初を飾る公式トーナメント。歴代チャンピオンのほか話題のプロが出場するこの大会では、毎年エキサイティングなゴルフが繰り広げられます。ワイキキからは送迎シャトルも運行します(片道2ドル)。問い合わせ: (808) 732-1457ウェブサイト: http://www.sonyopeninhawaii.com/◆クヒオビーチ・フラショー 日時: 毎週火、木、土、日 18:00~19:00場所: ワイキキ/クヒオビーチ フラステージホノルル市とワイキキ・インプルーブメント協会が共催するフラショー。サンセットタイムにワイキキビーチで潮風に吹かれながらのんびりとフラを鑑賞できます。入場無料。会場へは、ビーチチェアやマット、カメラを持参で。問い合わせ:(808) 843-8002ウェブサイト: http://www.waikikiimprovement.com/ 参考文献 ハワイ州観光協会 go-hawaii オアフ観光協会 visit-oafu welcome to hawaii Hawaii-ai
2011.01.08
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◆ファーストフライデー日時: 2011年 1月7日(金) 17:00~21:00場所: ダウンタウン毎月第1金曜日の夜に開催されるカルチャーイベントです。各ギャラリーでは絵画や写真の作品展、ライブミュージックなどが楽しめます。また、この日はダウンタウンの多くのレストランやショップが営業時間を延長しています。問い合わせ: (808) 739-9797ウェブサイト: http://www.firstfridayhawaii.com/◆特別展示「深海の生き物たち」日時: ~2011年 1月9日(日) 9:00~17:00 (1月1日と毎週火曜休館)場所: ビショップ・ミュージアム (1525 Bernice St.)深海の物理的特性とそこに生息する魅惑的な生物について、実物大の模型や保存標本などを通して学ぶことができます。問い合わせ: (808) 847-3511ウェブサイト: http://www.bishopmuseum.jp ◆ニューイヤーズ・オハナ・フェスティバル日時: 2011年 1月9日(日) 10:00~16:00場所: ハワイ日本文化センター (2454 S. Beretania St.)ハワイ日本文化センター主催による新年のイベント。食べ物の販売、ゲーム、アクティビティのほか、ステージでは日本の伝統舞踊や太鼓のパフォーマンスも披露されます。家族揃って楽しめるイベントです。入場無料。 問い合わせ: (808) 945-7633ウェブサイト: http://www.jcch.com/ 参考文献 ハワイ州観光協会 go-hawaii オアフ観光協会 visit-oafu welcome to hawaii Hawaii-ai
2011.01.06
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おとその由来おとそは元旦を祝うお酒です。御神酒(おみき)と同じ清酒のように思われがちですが、漢方薬を浸した薬酒で、家族の健康を願う気持ちが込められています。中国で邪気を祓い不老長寿になれる薬酒として、大晦日に井戸の中に漢方薬をつるし、元旦に引き上げて酒に浸したものを年少者から順番に飲んだことに由来し、「御屠蘇」と書いて、邪気を屠(ほふ)り魂を蘇らせるという意味があります。日本には平安時代の宮中儀式として取り入れられ、江戸時代に庶民の間に広がりました。現在でも、薬局などで「屠蘇散」「屠蘇延命散」というお屠蘇の素が販売されていますし、年の瀬ならではの景品になっている場合もあります。大概ティーパックのようになっているので、これを大晦日に準備して、すっきり好みなら日本酒に、甘いほうが好きならみりんに浸し、元旦に引きあげれば出来上がりです。山椒、肉桂、桔梗、蜜柑の皮などを調合した健康に良い薬酒で、完成品も販売されています。正式には屠蘇器と大・中・小の三つ重ねの盃でいただきますが、なければ手持ちの酒器で構いません。さらに銚子に水引きや正月飾りをつけると、小さな屠蘇に年神様が降りる目印になります。飲む順番は、若い人の生気を年長者に渡すという意味や毒見の名残で、若い人から年長者へと順番に盃を進めていきます(これが中国伝来の正月ならではのしきたりですが、通常の祝杯に準じて、家長から年少者へと進める方法もあります)。また、厄年以外の人が口にした杯には厄を祓う力があることから、厄年の人は最後に飲みます。飲み方は、まず最年長者が最年少者に屠蘇を注いで飲み干し、その最年少者が二番目に若い人に注ぐ......というように、飲み終えた人が次の人に注いでいきます。三つ重ねの盃の場合、正式には小・中・大の順番でそれぞれ1杯ずつ飲みますが、略式なら1つの盃に3回に分けて注ぎ、3回に分けて飲みます。祝いごととはいえアルコールが入っていますから、お子様や車の運転をする人は口をつけるだけの真似ごとで構いません。おせちの由来そもそも、なぜ「おせち」というのでしょう?「おせち」は御節料理のことですが、これは、季節の変わり目(=節)の大切な日(=節日)をお祝いする行事(=節供、節句、節会)のために、神様にお供えする料理(=節供料理)という意の「御節供(おせちく)」を略したものです。神様にお供えしたものを分かちあうことで結びつきを深め、供に祝い、その恩恵にあずかるという意味があります。本来はお正月だけのものではありませんが、年に何度もある節日の中で正月が最も重要だったため、おせちといえば正月料理をさすようになりました。おせちのルーツは平安時代の宮中行事で、元日や五節供(五節句のこと)などの節日に節供料理をふるまう習わしがありました。それは当時の庶民には縁遠いものでしたが、江戸時代に一般大衆に広がり、やがて1番目の節日であり最も重要な正月の料理を意味するようになりました。お正月は、五穀豊穣を司る年神様をお迎えし、新年の幸福を授けていただく行事なので、収穫物の報告や感謝の意をこめ、本来はその土地でとれたものを用いますが、暮らしや食文化が豊かになるに従って山海の幸を盛り込んだご馳走となり、現在のおせちの原型ができました。また、おせちに保存の効く料理が多いのは、お迎えした年神様が静養できるよう台所で騒がしくしないため、かまどの神様に休んでいただくため、神聖な火を使うのを慎むため、多忙な女性が少しでも休めるように、などと言われています。おせちは年神様への供物であり、家族の繁栄を願う家庭料理でもあるため、縁起のよいいわれやしきたりがたくさんあります。そのひとつが重箱に詰めることですが、なぜ重箱に詰めるのでしょう?・「福を重ねる」「めでたさが重なる」という意味があります。・昔は祝い肴を「喰積(くいつみ)」と呼び、重詰めにしていたことに由来します。・年賀に来るお客様にも振る舞えるように。・保存しやすい。また、重箱の詰め方にもしきたりがあります。・正式には五段重。1段目から4段目までは料理を入れ、5段目は年神様から授かった福を詰める場所として空っぽにしておきます。・各段ごとに詰める内容が異なり、それぞれの料理に家族の幸福を願う気持ちが込められています。・各段の料理の数は、5種・7種・9種の吉数で詰めると縁起が良いとされています。現代のおせちはとても多彩になりましたが、こうした知恵とこころを上手に取り入れてみてはいかがでしょう。■重箱とお雑煮今は西暦が採用されて、ヨーロッパの新年が使われていますが、日本で初めて暦が作られたのが604年。中国の元嘉暦が百済を通じて伝わり、採用されたのが始まりです。それ以降、江戸時代まで中国の暦がそのまま使われ、日本の年初が中国と同じ太陰太陽暦で立春となりました。お正月にかかせない"おせち料理"は、平安時代の朝廷での節目、節句を祝う料理である「節会の料理」がその起源のようです。そして「節会(せちえ)」「御節供(おせつく)」から『おせち』といわれるようになったわけです。盛り付けに使う重箱は三段が標準で、これは正月三が日の一日を一段で過ごす保存食の意味合いがあったとか。重箱は、「お重」とか「組重」「重詰め」などの呼び方で親しまれています。そして、お正月にはかかせないもののひとつである「お雑煮」。そのルーツは、大晦日に神様にお供えした餅や食べ物をひとつの鍋で煮て食べたことから、煮雑(にまぜ)というようになり、その言葉が転じて"雑煮(ぞうに)"というようになったとか。特に正月に限らず、おめでたい席で食べられてきたそうです。雑煮は白みそ仕立てだけでなく、赤みそ仕立てもあります。その中に、丸餅を入れ、芽が出るようにとクワイが入り、その他にカシライモ、雑煮大根などが入ったのが一般的な雑煮です。
2011.01.04
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謹 賀 新 年 明けましておめでとうございます Hau`oli makahiki hou あけましておめでとう 皆様方にとって幸多い一年となりますように こころよりお祈り申し上げます 本年もよろしくお願い申し上げます 平成23年元旦◆初詣日時: 2011年 1月1日(土) 12:00am~17:00pm場所: ハワイ金刀比羅神社/ハワイ太宰府天満宮(1239 Olomea St.)ハワイでの初詣。獅子舞、お雑煮のサービス、お守り、おみくじなどもあります。神社へ車で来る場合は、神社の近くにあるダミアンスクールに駐車してください。◆ホノルル・シティライツ日時: ~2011年 1月2日(日)場所: ホノルル・ハレ(ホノルル市庁舎)前とその周辺 ホノルル市庁舎前のクリスマスツリーや巨大なシャカ・サンタ、スノーマンファミリーなどがライトアップと共に飾られ、市庁舎内には市職員らによるツリーやリースの展示もあります。また、ダウンダウンのビル街もライトアップされています。問い合わせ: (808) 769-6622ウェブサイト: http://honolulucitylights.org/ 参考文献 ハワイ州観光協会 go-hawaii オアフ観光協会 visit-oafu welcome to hawaii Hawaii-ai
2011.01.01
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