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ナイチンゲールの世界 (53)最後に、ナイチンゲールの生きた時代を振り返りながら、彼女の功績を整理したいと思います。19世紀前半の病院は、医療の中心現場ではなく、救貧院に併置された、病気の貧民を収容し、隔離する施設でした。そしてそこで働く看護婦は、病人の世話をする単なる召使として扱われ、専門知識など必要がない卑しい職業とみなされていました。ナイチンゲールは、この現実を憂慮し、病院内の衛生事情の改善に尽くし、かつまた専門的教育を施した看護婦の必要性を声高に主張し、その実現を目指しました。ナイチンゲールが看護婦としての仕事もしたのは、看護婦の仕事を学ぶ見習いの時間を除くと、そう長い期間ではなく、実際に戦地の病院で負傷兵達に奉仕した2年間に、数ヶ月が加わるだけでした。帰国後の彼女は、公衆衛生学と統計学を武器に、兵舎や病院、貧民窟などの環境改善に取り組み、広く社会環境を改善することを目指しました。そういう彼女の武器となったのが、統計学と数学の知識を駆使したグラフの作成でした。ですから、クリミアでの活動以降の彼女は、統計学者として知られた存在となったのです。そして彼女は、近代看護教育の生みの親でもありました。 続く
2011.11.30
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続 大韓航空機爆破事件爆破犯逮捕のいきさつ爆破犯金賢姫の逮捕には、日本の警察と外務省の連係プレイがありました。それは、重信房子らの日本赤軍の行動に対する警戒から培われたものでした。そのイキサツを記します。事件が爆破によるものと分かってから、バグダッドで搭乗して、爆発前の同機の唯一の経由地だったアブダビ空港で降りた乗客全員が、調べの対象になりました。降りた客は全部で15人でした。中で不審と思われる客は、親子と名乗っていた男女だけでした。2人は日本の旅券を持っており、事件の翌日バーレーンに入り、マナマのホテルに宿泊していました。韓国もこの「日本国旅券」を持つ2人の男女が事件に関与しているとの疑いを強め、バーレーンの代理大使が2人に接触しています。日本では、事件の直前に日本赤軍の丸岡修が東京で逮捕されていました。丸岡は、翌年に迫ったソウルオリンピックの妨害工作のために、ソウル行きを計画していたことが明らかにされたため、日本も韓国も、爆破には中東を本拠地とする日本赤軍が関与しているとの疑いを共有していたのです。そのため韓国当局は、ただちに情報を日本側にも伝えました。日本政府も「日本人による反韓テロ事件」を懸念していました。日本の旅券を持つ2人について、日本側も動いていました。在バーレーン日本大使館は入国記録を調べ、航空券に英文の「姓」が抜けていることに気付きます。日本人であればまずあり得ないことでしたから、2人の旅券番号を本国に照会したところ、女性の旅券番号が徳島市在住の実在の男性に交付されたパスポートと同一であることが判明し、偽造旅券でであることが確定したのです。翌日2人は、バーレーン空港からローマ行きの飛行機に乗ろうとしていたところを、駆けつけた日本大使館員と、日本側が協力を依頼したバーレーン警察の手によって、出国を押し留められました。そして、日本大使館には身柄拘束権がありませんから、同国の入管管理局にも立ち会ってもらって、2人の身柄をバーレーン警察に引き渡したのです。空港内で事情聴取をしようとした時、男は煙草を吸うふりをして、用意していたカプセル入り薬物で服毒自殺した。同伴の女性金賢姫も自殺を図ったのですが、こちらは一命を取りとめました。 彼女の口から、「北朝鮮」の犯行が明らかになるのは、それから半月ほど後のことです。事件は日本赤軍の犯行ではなかったのですが、当初はその可能性も疑われたのですから、事件発生当初は、日本政府も相当緊張したでしょうね。
2011.11.30
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クロニクル 立川基地返還1977(昭和52)年11月30日あれから34年になるのですね。この日、米軍の立川基地が接収から32年3ヶ月振りに全面的に日本側に返還されました。基地内に多くの土地を持つ立飛企業や昭和飛行機といった上場企業の株は、基地返還が噂されるたびに、思惑的に買われ、この時期も高値にありましたが、現実に返還の日を迎えると、見事に材料出尽しで安くなりました。立川基地に続き、横田や朝霞の基地も縮小、返還されて行くのですが、神奈川県の厚木基地は、市街地に隣接しているにもかかわらず、夜間の離着陸訓練が繰り返されるなど、住民感情を刺激する事態が続いています。日本政府の米国と米軍に対する弱腰のなせる業です。この現実を見るにつけ、72年に核抜き本土並みの歌い文句で、祖国復帰を果したにもかかわらず、相変わらず基地の大波の中に、住民の居住地が存在するが如き状況に置かれている、沖縄の皆さんの思いはいかばかりかと、思わずにはいられません。普天間返還問題ひとつ、13年たっていまだに決着できないとは呆れます。 、
2011.11.30
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ナイチンゲールの世界 (52)ナイチンゲールの後半生は、日常生活のほとんどを屋敷の寝室で過ごす、病との闘いの日々でした。ですから、ナイチンゲール・スクールと呼ばれ、とても大事に思っていた看護婦養成学校(看護学校)の校長の仕事も、信頼する部下に委ね、彼女は名誉校長と呼べるような立場になっていました。ナイチンゲールのクリミア熱後遺症を、医師たちは慢性疲労症候群(CFS)と言う病名で呼んでいました。治癒することの少ない、寝たきりで過ごす人の多い難病です。1860年代の中頃から、1910年に死去するまで、彼女は良く頑張ったのです。彼女の病状は、緩慢ながら次第に進行し、1901年には遂に失明します。以後は付き添いの看護婦や召使達が、彼女の目の代わりを務め、手紙は口述筆記で続けるなど、周囲に助けられながら、なおナイチンゲールは社会への働きを続けました。実は、晩年のナイチンゲールは大変なお金持ちになっていました。それは、ナイチンゲール家の身内で、彼女1人が誰よりも長生きしたからなのです。このシリーズの最初の頃に記しましたが、彼女は姉のパーセノーブと2人姉妹でした。パーセ姉さんは、ナイチンゲールのクリミアからの帰還後に結婚し、幸せな生活を送りましたが、子どもには恵まれなかったのです。ナイチンゲールの父は、1874年1月に、母は1880年に亡くなりました。そして姉のパーセも、その10年後1890年に亡くなりました。その結果、ナイチンゲールは、いつの間にか大地主・大富豪だった両親の財産を、全て相続することになったのです。しかし、贅沢とは縁のない暮らし振りのナイチンゲールにとって、それはどうでも良いことだったのです。そしてナイチンゲールは、最後まできらびやかな名誉を嫌いました。1910年8月13日、90歳で死去した彼女は、リーハースト荘に近いナイチンゲール家の墓所に、両親や姉と共に埋葬されました。イギリスでは、国家に貢献した著名人は、政府の推薦によって、ウエストミンスター寺院の墓地に葬る習慣があります。政府はナイチンゲールの功績を認め、国葬とウエストミンスター寺院への埋葬を申し出たのですが、それを予測していたかのような、ナイチンゲールの遺言によって、そうしたきらびやかな葬儀、埋葬は取りやめとなったのです。 続く
2011.11.29
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クロニクル 大韓航空機爆破事件1987(昭和62)年11月29日24年前のこの日、バクダッド発ソウル行きの大韓航空機がバンコク空港と交信中に連絡を絶ち、ミャンマー沖に墜落しました。爆発物によって爆破されたとしか考えられない状況でした。2日後の12月1日、同機に搭乗しながらアブダビで降りてしまった不信な男女2人が、バーレーン空港で、偽造旅券保持の疑いで緊急逮捕されました。2人は蜂谷真一・真由美という日本人名義の偽造旅券を保持していたのですが、拘束中に服毒自殺を図り、男は死亡、女は一命を取りとめ、韓国に護送されました。韓国での取り調べで、女性は金賢姫(キム・ヒョンヒ)25才と判明。2人は北朝鮮の秘密工作員で、当局の司令で大韓航空機を爆破したことが、女性の供述によって明かになりました。この事件の背景には、翌88年にソウル五輪が控えていたことがありました、五輪の報道で韓国のことが取り上げられれば、今まで隠してきた韓国とのとの経済格差が、イヤでも白日の下にさらされ、国民の多くが知るところとなります。金日成政府はそれを恐れ、何とか五輪開催を阻止したいと、瀬戸際政策に打って出たのでしょう。当初頑なに虚偽の供述を繰り返していた金賢姫が、一転して自供を始めたのは、捜査員に連れられ、何度かソウル市内の繁華街の様子を、車で見学した後だったと言います。「北」で聞いた話とは、全く様子が違っている。自分は騙されていた。こう話して、供述を始めたという話が、伝えられています。
2011.11.29
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クロニクル 足利銀行一時国有化2003(平成15)11月29日8年前のことです。この日金融庁は、足利銀行を債務超過と認定し、一時国有化する旨を発表、即日実施しました。地方銀行の一時国有化ははじめてのケースでした。金融庁は4月に、極度の経営不振に陥っているりそな銀行への、公的資金の投入を決め、5月に同行に対し、2兆円の公的資金を投入しています。竹中平蔵金融大臣は、りそな銀行に対しては、経営責任を問うことなく、りそなの債務超過説を一蹴、あくまで健全行に対する資本注入スキームによる公的資金の投入であるとの、立場を崩しませんでした。それに対し、経営規模が小さく、営業基盤が主として栃木県内に限られ、影響力が限定的な足利銀行には、破綻処理を実行するという、どうみても二重基準としか思えない、処理策が実行されたのです。影響力の大きいりそなは救済する。今後は大手行は潰さず、資本不足と認定したら、貸し渋りを防ぐために、経営責任は問わない事で、経営者の抵抗を防ぎながら、積極的に公的資金を投入するという決意を、間接的に表明したのです。このメッセージを積極的に受けとめた外資は、長かった日本の金融不況も、ようやく脱出の糸口を掴んだと評価し、13年振りに、積極的な日本株買いスタンスをとるようになりました。ここに株価は底打ちし、折からの中国市場の急速な成長にも助けられて、日本経済はようやく、バブルの後遺症から抜け出すきっかけを掴んだのです。
2011.11.29
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ナイチンゲールの世界 (51)ナイチンゲールは、めったに人に会うこともしなくなりました。自分のスクールの限られた人を除くと…。 彼女は、看護学校生の入学時には、必ず1人1人と面接して、力づけました。また、看護学校生に対してだけは、いつでも家の門を開いていました。用件はすべて手紙の往復で済ませたのです。体力を消耗する外出や、緊張を必要とする面会は避け、当代一流の医師や召使に守られながら、主としてベッドが彼女の執務の場所になっていたのです。彼女の組織した看護婦養成学校のカリキュラムは、とてもしっかりしており、卒業生の評判はイングランドのみでなく、ヨーロッパ大陸から遠くアメリカにまで及びました。そのため、ヨーロッパやアメリカの病院からも、卒業生を派遣して欲しいとか、採用したいという申し出が舞い込むほどでした。彼女の願いは、長い時間がかかりましたが、見事に花開いたといえましょう。 続く
2011.11.28
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クロニクル 国鉄民営化関連8法案成立1986(昭和61)年11月28日ちょうど25年前のことです。もう四半世紀も経ったのですね。この日、参議院で国鉄民営化関連8法案が賛成多数で可決、成立しました。ここに、国鉄の分割民営化が確定しました。こうして、翌年4月1日、国鉄は本州部分を、東日本、西日本、東海の3社に、そして北海道、四国、九州が各1社、JR貨物に、国鉄清算事業団の合計8社に分割して、再出発することになりました。
2011.11.28
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クロニクル ドル減らしは名画で…1978(昭和53)年11月28日ティファニーで朝食を…ではありません。名画の購入でドル減らしを実現しようという苦肉の策です。何か笑ってしまいそうですが、当時の政府は大真面目だったのですから、果して笑っていいものかどうか……。33年前のこの日、総額15億円をかけて、文化庁がピカソ・マチスらの名画を購入するための予算措置が、閣議決定されました。 急増する貿易収支の黒字対策として、ドル減らしの一環でした。当時、第1次オイルショックの打撃から、なかなか立ち直れない世界経済の中で、唯一いち早く立ち直りを見せたのが、低燃費で故障も少ない自動車産業を核とした日本経済でした。戦後の焼け跡から立ち直った日本が、経済を中心に世界の一流国にまで駆け上がったのです。しかし悲しいかな、成り上がりの日本人は、手にした外貨をどう使うかのノウハウを持たなかったために、名画だビルだと、値段構わずに買い漁り、世界の顰蹙を買うことになった事は、ご存知の方も多いと思います。それから10数年、バブルの崩壊と共に、日本が高値で買い上げた名画やビルの多くを、安値で手放すことになったことを、記憶されている方もまた多いと思います。 これもまた、必要な授業料だったのでしょうか。名画ではなく、円高を利用して国際的なM&Aを積極化する現在の企業は、やり方がスマートですね。
2011.11.28
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ナイチンゲールの世界 (50)1865年、ナイチンゲールは、ロンドンでのホテル暮らしをやめて、サウス街10番地の屋敷を買い取り、そこに居を構えました。スクタリの陸軍病院から戻ってから、ほぼ9年が経っていました。この間、61年までは、スクタリでの経験を生かした、戦地や国内でのイギリス軍の病院や駐屯地の衛生状態や宿舎の改善、さらにはイギリス国内のあらゆる医療施設や、市民の生活空間の衛生環境の改善に向けて、様々な報告書や統計資料の作成に、熱中してきました。シドニー・ハーバートの亡くなった1861年8月以降は、大英帝国の最重要の植民地だったインドについて、その衛生状態の改善のための報告書と統計資料作りに、寝食を忘れて取り組みました。彼女の良き協力者だったハーバートの霊を慰め、彼との約束を果たす積りだったのでしょう。インドに関する報告書を纏め上げた所で、彼女はようやく一息つきました。いや一息入れるしかなくなっていました。クリミア戦争従軍中に患ったクリミア熱は、身体の奥深い所で、彼女の健康を蝕んでいたのです。ナイチンゲールには休息が必要だったのです。ここで彼女は考えました。「病院や市民の生活空間に関する改善提案は生かされるようになった。今後は良質の看護婦を育成する看護学校の仕事に注力しよう」と。幸いクリミア戦争で、ナイチンゲールと行動を共にした看護婦達が、協力を申し出てくれていました。そこで彼女は看護学校の校長に納まり、学校のカリキュラムについて、あれこれ指示を出すだけで、実務は全て善き協力者達に任せることにしたのです。学校はそれで上手く機能しました。サウス街の住まいに移転後のナイチンゲールは、学校の入学式と卒業式に式辞を述べる外には、年に数回自家用の馬車で公園を散策するくらいしか、外出することはなかったのです。 続く
2011.11.27
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クロニクル 全学連国会に突入1959(昭和34)年11月27日52年前のことです。私は高校2年生でした。この日の出来事が、安保改定反対闘争の存在を一躍全国区にし、戦後日本における最大の反政府運動に育つ、最初の契機とだったのです。社会党、総評、共産党を中心とする安保改訂阻止国民会議は、この年4月に結成され、同月15日に第一波の統一行動を行い、以後毎月1回のペースで統一行動を組み、広く国民に改訂安保の問題点をアピールする活動を行っていました。この日は、その第8回の統一行動日でした。そして、この日の行動には当時大変勢いのあった全学連も参加することになっていました。安保改訂阻止第8波統一行動は2万人のデモ隊で国会への請願行動を行ったのですが、デモ隊の先頭を歩いていた全学連のグループは、国会前で集会を開き、そのうちに「国会へ!」の声に押されて、指導部は国会正門から敷地内に突入することを決断したのです。最初から計画していたわけではなく、いわばハプニングで起きた出来事でしたが、その後、逮捕状の出た、唐牛健太朗(彼は北大の学生でした)委員長らが、東大の駒場寮に篭城して、逮捕を拒み(大学の自治の観点から、当時は大学当局が官憲の大学構内への立ち入りを拒否していたのです。この一線が崩れ、大学当局が官憲の構内立ち入りを認めるようになるのは、1968年の学園紛争がきっかけでした)、それをマスコミが報道する中から、安保とは何か、何が問題かが、詳しく報じられるようになり、米軍の戦争に、日本が引きずり込まれる危険のあることが、次第に広く知られるようになっていったのです。今と違って、当時はマスコミもしっかりと、政治上の問題点を調べ、堂々と政府批判も掲載していましたね。
2011.11.27
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クロニクル 中小企業の1つや2つ…発言1952(昭和27)年11月27日表記は、59年前のこの日、衆院本会議での質疑の際に、池田勇人通産相の答弁で飛び出した発言です。「中小企業の1つや2つ、倒産するのも、社長が自殺するのもヤムをえない」というものでした。池田氏には、かつて「貧乏人は麦を食え…」とい発言したこともあり、歯に衣着せぬ発言で知られていました。この日の議場は、この発言で騒然となり、2日後の29日には辞任することとなりました。1950年6月25日に始まった朝鮮戦争は、当時ドッジデフレによる経済再建の途上にあって(現在でいえば、IMF管理による縮小均衡政策のようなものだと考えれば良いでしょう)、深刻な景気不振に喘いでいた日本経済にとって、まさに恵みの雨となりました。参戦した「米軍」による特需が発生し、日本経済はデフレ脱出に成功、戦後初の好景気に沸いたのです。しかし、52年11月の米大統領戦で、朝鮮戦争の早期終結を掲げた共和党のアイゼンハワー候補が当選すると、戦争の終りを予測して、需給バランスは急速に悪化、経済は不況色を強めていたのでした。資本主義の下では、経済見通しを誤り、大量の在庫を抱え耐えきれなくなった企業が倒産するのは当然のことです。まして、財務基盤の弱い中小企業なら、経営者は常に倒産のリスクを計算に入れ、慎重に経営計画を立てるのが当然です。それを忘れて特需に浮かれて強気になりすぎたのが破綻の原因なのですから、池田通産相の発言は、至極もっともなものでした。当然のことが発言できず、口先だけの建て前しか口に出来ない政治家の発言が、何ともうわべだけのつまらないものに終始するようになったのはこの出来事からのように思えてなりません。
2011.11.27
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ナイチンゲールの世界 (49) 1861年8月、ナイチンゲールの戦友とも言うべき、良き相談相手であり、協力者でもあったシドニー・ハーバートが亡くなりました。その時ナイチンゲールは、ハーバートと協力して、専門家の協力を得ながら、インドで生活するイギリス人コロンやインドの人々の生活空間の衛生状態の調査を進め始めていたところでした。そのための質問票をインド政庁やその支部に送っていました。ハーバートの死の直後から、インドからの質問への回答書が、ナイチンゲールの手元に集まってきました。ナイチンゲールは、親しい人たちの手を借りて報告を整理・分析して、これまた1千ページに近い報告書を纏め上げました。それは、ナイチンゲールにとって、故人となったハーバートに贈る弔辞の替わりだったのでしょう。この報告書を纏め上げた後、ナイチンゲールは公の席にほとんど顔を出さなくなり、公の仕事にも加わらなくなりました。新聞記者の間では、「イングランドで最も会うことが難しい人は、ヴィクトリア女王とミス・ナイチンゲールだ」という、嘆き節が囁かれるほどだったのです。これはどうしたのでしょうか。 続く
2011.11.26
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クロニクル プロ野球2リーグへ1949(昭和24)年11月26日62年前になりますか。この日、プロ野球に太平洋野球連盟(パシフィックリーグ)が誕生しました。12月5日には、セントラル野球連盟も誕生し、プロ野球は2リーグ制の時代を迎えることになりました。両リーグの構成球団を、初年度1950年の順位順に記すと、セ・リーグが松竹ロビンズ (消滅)中日ドラゴンズ巨人ジャイアンツ阪神タイガース大洋ホエールズ (現横浜)西日本パイレーツ (消滅)国鉄スワローズ (現ヤクルト)広島カープ の8球団パ・リーグは毎日オリオンズ(現ロッテ)南海ホークス (現ソフトバンク)大映スターズ (現ロッテの一部)阪急ブレーブス (現オリックス)西鉄クリッパース (現西武)東急フライヤーズ (現日本ハム)近鉄パールズ (現楽天?)と7球団の変則でした。その後、セ・リーグも7球団となったり、パ・リーグが8球団となったりの紆余曲折があり、両リーグ揃って6球団になったのは、1958(昭和33)年のシーズンからでした。
2011.11.26
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クロニクル 公労協スト権ストに突入1975(昭和50)年11月26日公共企業体等労働協議会(略称 公労協)を組織する3公社、5現業(国鉄・電電公社・専売公社、郵便・林野・印刷・造幣・アルコール専売)の総評系9組合(当時の組織人員は総計86万人といわれました)は、この日、ストライキ権の奪還を目指して、統一ストライキに入りました。3公社・5現業に属する労働者たちには、企業の公共性に鑑み、労働三権のうち団結権と団体交渉権は認められていましたが。争議権(その最高の形態がストライキです)は認められていなかったのです。そのため、公労協の諸組合にとって、彼等が奪われていると考えていたスト権の回復は、長年の悲願だったのです。当然スト権回復にかける組合員の意気込みも半端でなく強かったのですが、当時の三木首相は「スト権ストは政治ストであり、一切の妥協はしない」と言明、12月3日まで、8日間192時間に及んだストライキは、結局何の成果もなく、労働側の敗北で終息しました。スト権ストの敗北を1つの大きな曲がり角として、戦後の労働運動は退潮に向いました。若者の労組放れも著しく、8日間の連続ストに至っては、今や昔といったところです。後日談として三公社はその後民営化され(国鉄は分割の上での民営化でした)ましたが、現在は夫々、JR各社、NTT,JTとして、各組合にはスト権も認められています。しかしストを打つような気配は今のところ見られません。5現業に関しては、郵政解散と郵政の民営化が記憶に新しいところですが、林野や造幣等については、なお今後に議論が残されています。
2011.11.26
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ナイチンゲールの世界 (48)国勢調査、昨今の日本では5年毎に行なわれますね。欧米で始まり、世界的に普及してきているのですが、英国では01の年ごとでしたから、10年毎に行なわれていました。1861年、その10年毎の国勢調査が行なわれることになりました。そしてナイチンゲールの統計の相談役だったファー博士が、国勢調査の担当委員おアドヴァイザーとして、事実上国勢調査の調査項目を洗いなおす責任者となったのです。これはナイチンゲールにとってチャンスでした。彼女は、ファー博士に対して、衛生問題の項を加えてはどうかと提案したのです。彼女の狙いは、軍隊生活における衛生環境の改善に続いて、市民の生活面における衛生状態を改善したいと考えたのです。22日の(45)にグラフを掲載した、居住空間における人口密度の比較を、国勢調査の調査項目に加えることで、全国規模で調べることが出来ればと、考えたのです。ナイチンゲールは、居住空間の広さと個々人の健康の間には、何らかの関係があるのではないかと、考えていたのです。病人や虚弱者の数を調べ、同時に家屋の状況について調べれば、この点をはっきりさせることが出来る。この調査が実施できれば、衛生状態の改善を優先すべき地域を、全国規模で把握できると考えたのです。しかし、残念ながら61年国勢調査では、彼女の希望は実現しませんでした。「そんな面倒な」という地方の反発が強く、その反対を説得するための時間的余裕がなかったのです。識字率の低い地域も多く、地域によっては、調査員が代筆する所も多く、そういう地域で住まいの状況まで調査するのは、とても骨の折れる作業だったからです。ナイチンゲールが念願とした、住宅環境と健康の問題に関する統計は、次回1871年の国勢調査でようやく実現したのです。そういえば、日本の国勢調査にも、住居面積の記入項目はありますね。
2011.11.25
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クロニクル 三島事件1970(昭和45)年11月25日もう41年になるのですね。41年前のこの日、東京市ヶ谷の自衛隊駐屯地に、作家の三島由紀夫と彼の結成した「楯の会」のメンバー4人が現れ、総監室に乱入して、総監を監禁、自衛隊の決起を促しましたが、聞き入れられませんでした。そこで、三島は庁舎前に、隊員を集めることを要求し、バルコニーから、「軍の圧力で憲法改正を実現しよう」と隊員達に呼びかけましたが、受け入れられませんでした。意気消沈した三島は、総監室に戻ると、割腹自殺を図り、隊員の1人が介錯しました。介錯した隊員自身も切腹して果て、他の3人の隊員は投降しました。この自衛隊駐屯地は、現在は民間に払い下げられ、東京ミッドタウンとなっています。自衛隊に決起を呼びかけるという行動自体が、大時代的パフォーマンスで貫かれ、本人は真剣でも茶番劇にしか見えない出来事でした。作家として行き詰まっていたのでしょうかネェ。
2011.11.25
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ナイチンゲールの世界 (47)勅選委員会の報告書は、1000ページに及ぶ大部のものでした。そこでナイチンゲールは、自ら執筆した部分の一部を抜粋して、小冊子を作ります。カラーのグラフも含め、ふんだんにグラフの入った小冊子なら、そう身構えずに読むことが出来ます。「国内、国内と海外、そしてイングランドの一般市民の死亡率と比較したロシア戦役当時における英国陸軍の死亡率 --数表とグラフ付きーー 陸軍の衛生状態の悪化を規制するための勅選委員会報告書より抜粋」と題した、この小冊子は2千部印刷されました。この2千部が、ヴィクトリア女王はじめロイヤルファミリー、大臣たち、上下両院の議員たち、英国内外の軍医や司令官、そして社交界の名士たちに配られました。その効果は推して知るべしですね。軍病院や兵舎の状況は、この報告書のおかげで、その後目に見えて改善されていきましたが、ナイチンゲールの活動はさらに続きました。若き日のナイチンゲールが、むさぼるようにその著作に読みふけった、統計学の大御所ケトレ博士が主催する国際会議が、1860年にロンドンで開かれました。この時、ナイチンゲールは、憧れのケトレ博士との初体面を果たしました。この会議でケトレ博士は、国際的な統計調査の標準を作ろうと提案します。博士の好意で、会議への参加を認められたナイチンゲール(女性は彼女1人でした)は、「統一的な」病院統計のための標準調査形式」を提案しました。彼女は戦地での体験で、統計の取り方が、病院によってマチマチであることに気付いていました。そこで病気や怪我の種類別に、罹病率、回復具合、死亡率などの集計方法を規格化することを考えたのです。全ての病院が、同一の調査形式で統計を取って公開すれば、医療機関全体での情報の共有、技術の向上が望めると考えてのことでした。こうしてナイチンゲールの努力は、国際会議のお墨付きを得て、欧州世界に広く共有されることになったのです。 続く
2011.11.24
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クロニクル 山一証券自主廃業 1997(平成9)年11月24日14年前になります。この日の2日前、11月22日土曜日の日本経済新聞朝刊がスクープした、「山一証券自主廃業へ」の記事は、当日朝のワイドショーなどで大きく報じられ、その日のうちに、既定のコースとなって行きました。そして、この日、24日振り替え休日の月曜日に、山一証券は、正式に自主廃業を届け出ました。預かり資産24兆円、連結負債総額6兆7千億円という巨大企業の倒産劇でした。後日談を記します。山一証券は自主廃業を届け出ましたが、自主廃業に向けた98年6月の株主総会は、経営陣に対する株主の不満から、委任状が集まらず不成立になりました。そのため、山一は自主廃業できず、99年6月、東京地裁に自己破産を申請して、破産処理されました。なお、大蔵省の査定で、当初債務超過にあらずとされていましたが、事務処理の遅れと、その間の景気低迷による資本の劣化もあり、日銀の予測通りに債務超過に陥り、その額は何と1602億円もの巨額に達しました。この額は、そのまま日銀特融のコゲツキ分となりましたが、当時の小渕首相と宮沢蔵相が「大蔵省のとりわけ、大蔵大臣の責任である」と答弁して、特融は完済されることになりました。この分は結局税金が使われました。
2011.11.24
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ナイチンゲールの世界 (46)昨日の(45)に掲載した「陸軍兵士と一般市民の死亡率」の比較、「居住空間における兵士と一般市民の人口密度」の比較に関する資料は、ナイチンゲールが、クリミアから持ち帰った資料ではありません。彼女が帰国後に、兵士の生活環境を改善し、可能な限り死亡率を下げたいという決意の下に、大車輪で蒐集した資料を、自ら分析グラフ化したものです。勿論ファー博士に相談しながらのことでしたが…。ファー博士は、1851年の国勢調査の際に、担当者を補佐してアドヴァイスする立場にありました。博士からその時の手法を学び、調査票を回収して、夫々の死亡者数を割り出し、さらに単位面積当たりの居住者数を割り出して、グラフとしてまとめたのです。こうして、彼女は兵士の生活環境を改善することの有効性を、視覚に訴えることで、説得的に説明したのです。国会に提出された報告書には、さらに兵舎の生活環境の改善について、具体的に何処をどのように改善すべきか、具体的な改善点を設計図を添えて説明しています。この時活躍したのが従姉妹の夫のゴールトンでした。こうして報告書は完成し、印刷されて議員たちに配られました。 続く
2011.11.23
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延坪島 ( ヨンピョンド )1年昨年の今日、夜7時のニュースで、朝鮮民主主義人民共和国(「北朝鮮」)軍の韓国領延坪島 ( ヨンピョンド )砲撃を知りました。これには驚きました。幸い、その語は両国軍の自制もあって、戦禍はそれ以上に拡大せず、今日に至っています。しかし、しれで安心できるかというと、そうでもなく、一触即発の状態が今も続いているようです。延坪島 ( ヨンピョンド )砲撃事件を受けて、米軍は東シナ海や日本海への海軍の展開を強め、北朝鮮や中国を刺激し、中国もまた海洋派遣の確立に熱心になるという副産物を産みました。この間に、リーマンショックで顕在化した欧米経済の危機は、緩やかに深刻さを増し、一時は世界経済の底抜けを防いだ中国経済も、無理をした咎めから先行きに注意報が出てきており、次第に出口のない袋小路に向かっている感を強めています。そして日本では3月11日の、あのショッキングな出来事が、フクシマ第1原発の大事故をも招き、世界最大の原発事故による放射能汚染が、現在もなお広がりを見せ続けている状況にあります。チュニジアに始まったアラブ世界の地殻変動は、今もなお続き、シリアやイエメン、ヨルダンの動きが喧しくなってきました。アメリカで「ウオール街を選挙せよ」の座り込み運動は、テント村の様相を広げつつあり、来年にむけて、何が起きても不思議でないような雰囲気をかもし出しています。話題のTPPは、形を変えた経済のブロック化を目指すものであり、自由貿易の名を冠してはいても、実際は排他的貿易圏にどれだけの国を囲い込むかの競争になっています。日本がTPP交渉への参加を表明しただけで、日中韓のFTA交渉が急に動き出したのが、その好例です。1930年代の経済のブロック化は、経済戦争から第二次世界大戦という大戦争に繋がりました。出口のない経済不振の本格化は、間違いなく戦争の危険も高めます。延坪島 ( ヨンピョンド )から1年、世界は決してよい方向に動いたとは言えないように思います。先行きの危うさに注意を払いながら、そして子ども達を放射線被害から守りながら、これからも足元を固めてゆこうと考えているこの頃です。
2011.11.23
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クロニクル 心斎橋誕生す1909(明治42)年11月23日101年前のこの日、大阪南に心斎橋が完成しました。 大阪で初めての石造りの眼鏡橋として、浪速っ子の話題を呼んだと聞きます。何だか、当時の大阪にタイムスリップしてみたいですね。
2011.11.23
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ナイチンゲールの世界 (45)ナイチンゲールの作成したグラフは他にもあります。次に紹介するのは、国内の兵営で生活する陸軍兵士の死亡率と、市中で生活する一般男性の死亡率の比較です。年齢を揃えるために、20歳~25歳、25歳~30歳、30歳~35歳、35歳~40歳と5歳刻みの4つのブロックに区分し、年代別に比較しています。次に掲げたグラフがそれです。年齢の若い20歳~25歳のブロックが一番上、35歳~40歳のブルックが一番下になっています。各年代ともに、上段が一般市民、下段が陸軍兵士です。どの年代をとっても、一般市民の死亡率よりも兵士の死亡率が平時においても高いことが、一目瞭然に読み取れます。このグラフを提示した上で、彼女は死亡率に有為の差が出た原因を探ります。様々な資料を渉猟し、グラフ化を試みた結果、彼女は一般住宅と兵舎における居住環境の差に気付きます。兵舎において、兵士1人が占める平均的床面積が、一般市民は勿論、ロンドンの貧民窟として名高いイーストエンドの住人と比べても、遙かに狭いことに気付いたのです。下の2つのグラフをご覧ください。本当は一つながりのグラフなのですが、掲載する都合上、分割せざるを得なかったことを申し添えます。上の三つの円グラフは、陸軍の兵舎の人口密度を示しています。陸軍兵舎には、3つのタイプがあり、夫々のタイプによって、1人当りの居住面積が違っていたのです。一番左のグラフが見やすいと思いますが、円の中に小さな六角形が描かれ、その中に点が打ってありますね。六角形が兵士1人当りの占有面積を示し、点が兵士を示しています。右のタイプの兵舎に移る程に、兵営での兵士の生活空間が手狭になっていくことが、見て取れると思います。このように陸軍兵士はすし詰め状態で生活している様子が、このグラフから読み取れます。そこで下の2つのグラフをご覧ください。 左がロンドンの貧民窟、最下層の労働者達、定職のない日雇い人足など、最底辺の民衆が生活するイーストエンドの人口密度を示しています。狭い居住空間に多数の人間が押し込められている、そんな場として名高イーストエンドでも、軍の兵舎に比べると、遙かに1人当りの居住空間が広いことが読み取れます。右はロンドンの一般的な市民の住宅地での人口密度を示すグラフです。陸軍兵舎の劣悪な居住環境が、ここから浮き上がってくるという寸法なのですね。 続く
2011.11.22
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ナイチンゲールの世界 (44)昨日の(43)の右側のグラフですが、1855年の1月(時計の6時の部分)の伝染病による死亡率は、1022,8と1000を越えています。こうしたことが何故起きるのでしょうか。これは死亡率の計算では時折ありうることです。本論と少しはなれますが、ナイチンゲールが作成したグラフに使われた死亡率の計算法を記します。死亡率は当時も現在も千分比で計算されます。1千人を単位にして年間で何人が死亡したかを示す指標です。分母に集団の人数を、分子に年間の死亡者数を置き、割った数字を1000倍すると千分比は出ます。さて、そこで1855年1月の死亡率です。分母はクリミアに派遣された軍人の総数です。毎月変動しますが、こちらは年間の平均を出します。これに対して伝染病の死亡者数は平均ではなく、1月の死亡者数2,761人を12倍します。求めるのは55年1月1ヶ月の死亡率ですから、1月の死亡者数が、同じペースで1年間続くと仮定して、計算するのです。そのため12倍して年間の推定死亡者数を出すのです。1年間の推定死亡者数を、年間を通じての平均兵力で割り、千分比に治して月刊の死亡率とするのです。1855年1月の死亡率計算では、平均兵力は32,393人、伝染病死亡者は2,761人です。後者は12倍されますから33,132人となります。割り算すると、確かに1を越えます。これを千倍するのです。答えは1022,8となりますので、1000人当りりの死亡率が1000を越えてしまうのです。1ヶ月の死亡者数が、1年間続くと仮定して計算されるところから、月間の死亡率については、時々こういう紛らわしいことが起きてしまうのですね。 堅苦しい話で失礼しました。 続く
2011.11.22
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クロニクル ケネディ大統領暗殺1963(昭和38)年11月22日48年も前のことになるのですネェ。この日、アメリカ合衆国大統領J.F.ケネディは遊説先のテキサス州ダラスで、オープン・カーでパレード中を狙撃され、死亡しました。狙撃時刻は午後0時35分、搬送先の病院での死亡時刻は午後1時とされています。後任には副大統領のリンド・B・ジョンソンが就任、彼の下で、公民権法案などが推進され、黒人差別の改善が図られましたたが、一方で彼の下で米国は、ヴェトナムにおける民族解放闘争への介入を積極化するなど、ヴェトナム戦争の泥沼に嵌っていきました。。
2011.11.22
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ナイチンゲールの世界 (43)ナイチンゲールは、統計学者のファーと相談して、兵士の原因別死亡者数煮に関する表を、グラフ化することにしました。現在ならありそうなことですし、お利口なパソコンがあっという間にグラフにしてくれます。プレゼンなどで良く利用されることも、ご存知のとおりです。しかし、舞台は1850年代後半のロンドンです。棒グラフでさえ、めったにお目にかかれない時代、グラフそのものが極めて珍しい時代に、専門家に相談し、その協力を得たとはいえ、戦地帰りの病気がちな女性が、あれこれ工夫しながら創り上げた円グラフなのです。しかも彼女は、おそらく史上初めてではなかったかと思うのですが、グラフをビジュアルなカラーグラフに仕上げたのです。下に掲げたカラーグラフが、その苦心作です。 2つの円がありますね。右側が1で左側が2になるのですが、この2枚を時計の文字盤とみてください。右のグラフの9時の位置がスタートの1854年4月を示します。以下時計回りに1時間ごとに1ヶ月進むのです。ですから10時は54年の5月、11時は6月、この調子で12時は7月、3時は10月、5時は12月で、8時が55年の3月を示します。そして、55年の4月から2の左側の円グラフに移って、9時の位置が4月となり、右のグラフと同じように1回転して1856年3月までが記録されるのです。こうして2つの時計(円グラフ)を用いて、1854年4月~56年3月までの死亡率が示されるのです。夫々の月の位置で、死亡率の大きさに比例した距離を、円の中心から辿って点を打ち、点と点を結んで年間の死亡率の変化を、見事に表しています。そして死亡原因による色別表示で、原因別の死亡者の大小を、一目瞭然に明示しています。伝染病死は緑で、戦死は赤で、そしてその他の原因による死亡は黒で示されています。一目瞭然、緑の伝染病死が、赤の戦死や黒のその他の死に比べて、圧倒的に多い現実が読み取れます。ナイチンゲールは優れた統計学者でもあったのです。 続く
2011.11.21
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ナイチンゲールの世界 (42)ナイチンゲールは、持ち帰った資料を整理し、統計的に処理した上で、様々な形のグラフや図表とすることで、資料を読む議員たちや関係者の視覚に訴え、事態を理解してもらうことに全力をあげました。彼女は戦地の病院で、負傷による死亡者よりも、衛生状態の不備で蔓延した、伝染病による死亡者の方が、グンと多いことに気付いていました。先ずこのことを、統計的なデータで示すことで、陸軍施設の衛生状態の改善が実現すれば、兵士の死亡数を大きく減ずることが出来ると考えたのです。英国兵士の原因別死亡者数と題された表をみますと、クリミア戦争に動員された兵士の数と、原因別(伝染病、負傷、その他の3分類)死亡者数が月別に記入されています。この表を見ると、クリミア戦争の全期間を通じて、病死が戦死を大きく上回っていることが一目瞭然です。伝染病は1854年の7月頃から猛威をふるい始めます。54年7月の病死者は359人(この月の戦死者はまだ0人です)ですが、次第に増えてゆきます。それでも11月までは三ケタの死亡者に留まっていましたが、12月には1725人に急造、1月2761人、2月2129人、3月1205人を数えています。戦死者の最高は、1854年11月の287人ですから、10倍近い差がありました。ナイチンゲールらの提言で、病院や施設の衛生環境が少しづつ改善されたことで、55年の4月以降は、死者数は大幅に改善されるのですが、それでも8月までは500人前後の兵士が病で亡くなっていることが、はっきりと読み取れます。ナイチンゲールは、こうしたデータをグラフ化して示すことで、さらにインパクトを強めています。 続く
2011.11.21
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クロニクル 三原山大噴火1986(昭和61)年11月21日ちょうど25年前のことです。この年11月15日に噴火し、その後小康を保っていた伊豆大島の三原山が、この日午後4時過ぎ、209年振りと言われる大噴火を起こしました。噴煙は3700メートル、火山弾は2000メートルまで噴き上げました。流れ出た溶岩は、島の中心の元町地区に1キロメートルの地点まで迫り、全島民10,300人と、2000人の観光客に避難命令が出されました。避難する人々は、大島航路の客船、海上保安庁の巡視船、海上自衛隊の艦船などで、翌朝までかかって、東京や伊豆方面に脱出しました。この模様は夜の各テレビ局の報道番組で報道されました。迫り来る溶岩の中で、子どもや高齢者、婦人達を優先的に乗船させる、島の人達のチームワークに心打たれたことが,今でも甦ってきます。こうして、しばらくの間、大島は島に残った保安要員を除くと、無人の島になりました。避難の解除は、12月22日となったため、島の皆さんは、1ヶ月の避難生活を余儀なくされました。 でも、現時点で考えると、1ヶ月で帰村できて良かったですね
2011.11.21
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TPPと日本の農業 (6)もう少しだけ、農水省の主張の問題点を記します。彼らは、60年代お日本と同じように、高度成長の最中にある、中国社会の変化を無視しています。中産階級の層が厚く現象です。この時期の日本は1億総中流化が指摘されました。中国社会が豊かになり、中産階級の層が厚くなれば、インディカ米をやめて、ジャポニカ米を口にする中国人が増えます。現在でも中国の豊かな層はジャポニカ米を好んでいることは、統計的に証明されています。当然ジャポニカ米の需要は大きく伸び、価格は上昇します。高品質の日本の米の需要は高まるというもです。さらに、米の自由化までには時間がありますから、国内農業の強化策を徹底し、専業農家による大規模農業を奨励すれば、現在よりもかなりのコストダウンが可能になります。アメリカやオーストラリアの大規模農家とは、勝負にならないと主張される方が多いのですが、この考え方は量ばかりを重視した見方です。品質では十分に勝ち目があるように、私には見えます。香港などでの日本のブランド米の人気を忘れてほしくないですね。農水省は「日本の農業がいかに弱いか」をアピールしてばかりですが、日本の農業がそんなに弱いとすれば、それは農水省の政策の失敗を意味しています。もし農水省の主張が本当ならば、農水省には詰め腹を切らせて解体し、新しい農業政策を実現できる体制に変える必要があります。実際には、日本の農業がそこまで弱くはないでしょう。野菜や果樹の伸びを見れば、その点は見えてくるように思われます。意欲のある若い世代が農業に加わり、競争力のある産業にで育つように、」、新しい農政を考えていくべき時であるように思います。 終わり
2011.11.20
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ナイチンゲールの世界 (41)戦地の様子をナイチンゲールが語る部分は、勅選委員会の委員の質問に彼女が答える形式で綴られています。この部分は、報告書の証拠資料の部分にまとめられていますが、実際はナイチンゲール自身の筆になるものとされています。タイトルは「委員によってミス・ナイチンゲールになされた文書による質問に対する回答」となっています。最初の部分を抜粋しますと、質問 : あなたは永年にわたり、一般病院や陸軍病院の組織について、関心を持ち続けてい ると言われていますが?回答 : はい、13年になります。質問 : 国内や国外でどんな病院を訪ねれたのですか?回答 : ロンドン、ダブリン、エジンバラの全ての病院を訪ねました。沢山の地域病院や海 軍病院、そして陸軍病院も訪問しました。パリでも沢山の病院を訪れ、慈善活動をす るカトリックの修道女と一緒に勉強もしました。ライン河畔のカイザースベルトにあ るプロテスタントの修道女のための施設では、看護婦としての訓練を2回受けていま す。ベルリンやリヨン、ローマ、アレクサンドリア、コンスタンチノープル、ブリュ ッセルの病院も訪問しました。フランス軍やサルディーニァ軍の戦地の病院にも参り ました。質問 : あなたは、コンスタンチノープルに近いスクタリのイギリス軍の戦地病院に、いつ 到着されましたか。回答 : 私たちは、1854年の11月4日に到着しました。ざっとこんな調子です。こうして質疑応答は、少しづつ衛生状態の不備をつく核心へと迫ってゆくのです。必要な所では、詳細な数表とデータが添えられ、さらに計算の根拠となる数式まで示されています。最後には、指摘した問題点の解決方法までが、示されるのです。この形式は効果的でした。堅苦しい論文調の報告書よりも、短い文で綴られる会話形式の文章は、読みやすい上に、臨場感を伴うからです。 この質疑応答部分が、400ページにのぼる第1部の証拠資料の末尾に置かれていました。第2部の追加資料に含まれた周到に工夫されたグラフや表に、報告書に目を通す議員の目を惹き付ける効果を狙ってのことでしょう。 続く
2011.11.20
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クロニクル 士官学校事件起きる 1934(昭和9)年11月20日77年前のことです。この日、陸軍の士官候補生を中心としたクーデタ計画が発覚、皇道派の村中孝次大尉、磯部浅一1等主計らが逮捕されました。2/26事件のおよそ1年3ヶ月前のことでした。村中大尉らは、翌年3月の軍法会議で、証拠不十分として不起訴となりましたが、軍内部での皇道派と統制派の対立は、士官学校事件と呼ばれたこの出来事を契機に、抜き差しならないものとなっていきました。2/26事件に至る昭和史の一齣です。
2011.11.20
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TPPと日本の農業 (5)農水省の予測によると、日本がTPPに参加した場合、米の生産は9割も減少するそうです。1割の銘柄米以外は、すべて輸入米に切り替わるというのです。本当でしょうか?まず前提条件が、かなりいい加減です。中国の現地市場の米の値段と日本米を比べていますが、ここでは輸送費や流通コストが度外視されていて、経費に入っていません。次に、品質面を無視して、中国の現地市場の米と日本米を比べています。これも強引すぎます。また日本のジャポニカ米とインディカ米のちがいもあります。国際市場で取引されるお米の大半は、インディカ米です。日本人はインディカ米を好みませんし、嫌います。1993年の冷害の時に、米不足からタイ米を輸入したものの、日本人の口にあわず、あまり売れなかったことがありました。皆さんも御記憶と思います。もし日本に大量にジャポニカ米が入ってくるようなら、ジャポニカ米の国際市場での価格は一気に暴騰するでしょう。93年の冷害の時に日本が国際市場で米を大量に買ったので、国際価格は約2倍に高騰しました。国際価格が高騰すれば、日本の米との価格差が小さくなります。すると日本のお米に回帰する消費者も多くなるでしょう。穀物全般に国際市場の価格は上昇傾向にあります。農水省の主張は、こうした要素を全て無視して、自説に都合の良い部分だけを並べ立てています。公平を期すべき官僚の首長とは到底思えないお粗末な内容です。 続く
2011.11.19
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ナイチンゲールの世界 (40)ナイチンゲールと彼女のチームが心血を注いだ勅選委員会の報告書は、1858年4月に完成し、国会に提出されました。その報告書は、『国王陛下の命によって組織された、陸軍の衛生状態、陸軍病院の組織、そして病人や怪我人の扱いに対する、悪影響の規制を調査するための委員会報告ーー証拠資料及び付録ありーー』という長いタイトルを付した、1000ページに及ぶ大部のものでした。この報告書の本隊部分は僅か85ページほどですが、その行論の1ページ1ページに、行論の証拠となるような資料が付されているのです。一例をあげると、そこでは戦場と本国との間でどのような通信がなされたかが、通信文を添付して示されていました。こうした添付資料が400ページ分もありました。さらに報告内容を分かり易くするための数表やグラフ、図面などが付録として付されていました。この「付録第1」から「付録第78 」までが、200ページあまりになっています。さらに別冊として追加された「付録第79」に一括された資料が210ページもあったのです。これに目次や折込資料が加わりますから、全体では1000ページを越えていたのです。ナイチンゲールが、この全文を執筆したわけではありません。報告書の作成者は、公式的にはあくまでも勅選委員会なのですから。それに彼女でなく、ファーやサザーランドが執筆した部分もありました。しかし、委員会はナイチンゲールが委員会に寄せた意見書や、提供したか講師料の多くを、そのまま報告書に加えることで、彼女の熱意と苦心に応えたのです。とりわけ、戦地の状況について、委員たちの質問にナイチンゲールが答える対話形式の部分は、ナイチンゲールの体調を考慮して、委員会が書面で質問を提出し、それに彼女が手紙で返事をしたものが、そのままの形で掲載されています。そこには、委員会の質問にないことなのに、ナイチンゲールが是非知ってほしいと、自ら質問を追加して答えている部分も含まれたいました。 続く
2011.11.19
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クロニクル 東京開市1868(明治元)年11月19日143年前になります。この日、東京の開市が正式に宣言されました。これより先、9月20日に、天皇は京都を離れて東京に向かっており、東京遷都の準備を進めていたのです。因みに江戸を東京(当時はトウケイと発音)と改めたのは、7月17日のことでした。しかし、遷都論には反発もあり、この日11月19日に東京開市を宣した後、天皇はいったん京都に帰り、翌年正式に東京遷都を発表、3月に東京に移られたのです。こうして江戸城改め東京城が、皇居と定められたのでした。しかし、東京城とは…何か違和感がありますね。
2011.11.19
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ナイチンゲールの世界 (39)勅選委員会のメンバーが決まり、委員会の仕事が具体的に動き出すと、ナイチンゲールはほとんど仕事場を兼ねた自室(1856年~65年まで、ロンドン滞在中は借り切っていた市内のホテルを使っていました)に籠もりきりで、委員会に提出する報告書や手紙を書いていました。帰国後も体調は優れず、たびたび激しい動悸やめまいに襲われ、医師からはもっと安静にして、書き物の時間を減らすように勧められていました。彼女自身も、自分の命がそう長くないように感じていました。それ故に彼女は、不摂生だと思いながらも、医師の命令に従うことをしなかったのです。自分の命のある間に、委員会の委員たちにつたえたいことは全て伝えてしまわなければ、クリミア戦争で非業の死を遂げた兵士たちに申し訳が立たない、こう彼女は考えていたのです。ファーやサザーランド、そしてゴールトンらと意見交換をしたり、彼らの助言を求めたりしながら、ナイチンゲールは統計の裏づけとなる資料を整理し、追加のデータを集め、提言や報告を書き進めました。何度も手直しすることも厭わずに…。ナイチンゲールは、陸軍施設での病気の発生率を抑えることが、先ずもって陸軍兵士の死亡率の逓減に大きく役立つこと、次に陸軍病院の衛生状態を改善することで、さらに死亡率を改善することが出来ることを、統計を駆使して証明しようとしたのです。死亡率を下げること、彼女はそこに拘っていました。目標は明快で分かりやすかったのです。そのために、死亡率を悪化させている最大の原因から、取り除いていこうとしたのです。軍の兵舎の居住環境を改善し、病院の風通しや衛生状態を改善すれば、兵士の死亡率は大きく下がります。そうなれば、次に一般病院の衛生状態の改善に手をつける。最後に市民の居住空間の衛生状態を改善する。こうすることで、世の中全体の死亡率は大きく改善する。彼女はこのように考え、自分の立てたプラン通りに、報告書の素案を書き記していったのです。 続く
2011.11.18
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クロニクル フォード米大統領来日1974(昭和49)年11月18日37年前のこの日、フォード米大統領が、現職大統領としては、初めて来日、日本の土を踏みました。米国大統領としては、1960年に改訂安保条約の調印を記念して、当時のアイゼンハワー大統領が、初来日を果たす予定が練り上げられていたのですが、日本国内の安保改訂反対闘争の盛りあがりの中で、大統領訪日の露払い役として来日した新聞係秘書のハガチー氏が、羽田空港で立往生して、ホウホウの態で引き返したいきさつから、訪日は中止されました。こうして74年のフォード大統領の来日が、現職のアメリカ大統領としては、初めての来日になったのです。大統領は、翌日の19日に昭和天皇とも会見してします。
2011.11.18
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クロニクル 第1回東京国際女子マラソン開催1979(昭和54)年11月18日32年前のこの日、第1回の東京国際女子マラソンが、世界最初の公式女子フルマラソンとして挙行されました。世界10カ国から50名の女性ランナーが参加し、イギリスのジョイス・スミス選手が映えある第1回の優勝者として、その名刻みました。 こうした積み重ねの上に、今日の女子マラソンの隆盛が築かれているのですね。
2011.11.18
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TPPと日本の農業 (4)ところで農水省の主張によると、日本がTPPに参加した場合、国内農業生産額が4兆1000億円減少し、関連産業を含めたGDP損失は約8兆円に達するそうです。随分と吹っかけたものです。こんな丼勘定を信じるわけにはいきません。併せて2兆7千億円に達する野菜と果実は、自由化が進んでいて既に低関税になっているものが多いのです。もう30年以上も前の話ですが、牛肉・オレンジの自由化が問題となった時も、農水省は、今にも日本のミカン農家と畜産が壊滅すると大騒ぎをしました。結果はどうでしょう。畜産は米を抜いて最大の生産額を誇っており、果実も高品質の製品を開発して、堂々と外国産と競争し、共存しています。日本の農業の足腰は、農水省が騒ぐほど、弱くはないのです。どうみても、農業生産が半減してしまうとは、とても思えません。百歩譲って、もし本当に農業生産が半減してしまうとするなら、それは今までの農水省主導の農業政策が、誤っていたからに外なりません。日本の農業の足腰をそこまで弱めた責任をとって、農水省は廃止した上で、全く異なった視点の農政を導入する必要があります。農水省が騒げば騒ぐほど、自らの農政の失敗を告白していることになるのですが、そんなあたり前のことも、彼らは分からないようですね。 続く
2011.11.17
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ナイチンゲールの世界 (38)ナイチンゲールは、自ら持ち帰った資料を、どのように整理したら勅選委員会の委員たちや政府の有力者に理解してもらえるかを考えました。その結果として、集めた資料に統計処理を加え、さらにグラフ化することを考えたのです。10代の後半、彼女は父の許しを得て、数学と統計を学んでいます。その知識があったので、統計の有効性に自信が持てたのです。しかし、統計処理にミスがあっては、折角の努力がフイになります。そこでフローレンスは、1851年の国勢調査で、英国民の年齢構成や男女別、さらには職業構成までも調査し、統計的に処理する作業を補佐した、当時売り出し中の気鋭の統計学者ウィリアム・ファーを訪ねて教えを乞うたのです。話を聞いたファーは、フローレンスの構想に賛意を示し、彼女の作業を協力者として、手伝ってくれるようになったのです。陸軍病院の衛生面の提言については、衛生学の権威、ジョン・サザーランドがナイチンゲールの私的アドヴァイザー役を引き受けてくれました。衛生管理面の改善は、具体的な解決方法を添付して示すことで、改善のイメージが湧き、早くに実行に移すことが可能になります。兵舎や病院の衛生状態の改善について、彼女は設計図をつけての提言を目指したのです。しかし、さすがのナイチンゲールも、建築についてはまったくの門外漢でした。この点では身近に打ってつけの人物がいました。彼女の従姉妹メアリー・ニコルソンの夫、ダニエル・ゴールトンが陸軍工兵隊で、鉄道建設を担当していたのです。フローレンスは、従姉妹の夫のために、ハーバート委員長に働きかけ、陸軍省と勅選委員会の双方に関連するポストを新設してもらいました。以後ゴールトンは、建築と衛生に関する研鑽を重ね、その道の第一人者となるのです。こうした協力者に恵まれたナイチンゲールは、報告書の作成に全力をあげたのです。 続く
2011.11.17
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クロニクル プロ野球 第1回新人選択会議(ドラフト)開催1965(昭和40)年11月17日46年前のこの日、プロ野球機構と各球団は、第1回の新人選択会議(通称ドラフト会議)を開きました。金持ち球団が資金力に物を言わせて、高校・大学・社会人の有力選手を次々とさらっていったのでは、チーム間の実力差が開き過ぎて試合がつまらなくなり、お客さんにも厭きられてしまうという危機感からのことでした。しかし、当時はスカウト網を整備した球団も少なく、指名が競合するような有力選手を除くと、スカウトの眼力の差が、歴然としておりました。最近のように、各球団のスカウト網が整備されてくるのは、施行後、5年10年と経った後のことでした。因みにこの年、ジャイアンツの1位指名は監督も務めた200勝投手の堀内恒夫、近鉄バッファローズの1位指名は300勝投手の鈴木啓示でした。阪神タイガースが江夏豊投手を指名したのは、この翌年のことでした。
2011.11.17
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TPPと日本の農業 (3)農水省の言う食糧自給率とは、カロリーベースの食料自給率を意味しています。このカロリーベースの食糧自給率には、大きなカラクリが隠されています。カロリーベース自給率を重視する政策では、米以上の生産額を誇る野菜の重要性が、評価されないのです。野菜のほとんどは低カロリーだからです。しかし、健康志向の強まった現在では、低カロリーであるがゆえに、野菜の摂取量は伸び続けているのです。現代の食生活に野菜の占める位置を考えれば、カロリーベースの食料自給率などという、農水省にだけ都合のよいような指標を振り回すことは止めるべきでしょう。カロリーベースの食料自給率を上げようとするならば、裏技があります。これは青年海外協力隊のメンバーとして、難民キャンプでの支援活動に携わった若い友人に聞いた話なのですが、食用油の原料の自給率をあげればかなり改善するのだそうです。食用油のカロリーが大変高いので、自給率の大幅アップに大きな効果があるというのです。。実際に難民キャンプでは、油の配給が重視されているそうです。少ない油でも、大幅なカロリーアップに繋がるからです。カロリーベースの食料自給率というのは、日本以外ではほとんど使われていない、農水省の発明したまやかしの指標と言っていいでしょう。カロリーベースの食料自給率とは、農水官僚が既得権確保のために考えついた道具なのです。こうした数字を鵜呑みにしないようにしたいですね。 続く
2011.11.16
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ナイチンゲールの世界 (37)それでもなお、勅選委員会が開かれるまでには、なお紆余曲折がありました。陸軍の将軍達が反発し、陸軍大臣も簡単に動くことが出来なかったのです。ナイチンゲールはここでもあらゆる人脈を辿って、委員会の開催に尽力しました。こうした彼女の努力が実って、「陸軍の衛生状態を調査し、その改革をめざす」ための勅選委員会がスタートすることになりました。ナイチンゲールの熱意が実ったのです。現在であれば、ナイチンゲールはこの委員会の委員として、中心的な役割を演じるポストに就いたでしょう。しかし、今は19世紀半ばのイギリスです。女性の参政権など、とても考えられない男性中心の社会です。女性が政府が設立する公的な政治的機関の委員ポストに就任することなど、とてものことに出来ない時代でした。ですからナイチンゲールは、時折参考人として委員会に呼ばれる立場に、留まったのです。しかし彼女には、、彼女の話を理解し、彼女の意図を委員会の答申に生かそうとしてくれる友人たちが、委員会の内外に、何人もいたのです。ナイチンゲールをクリミア戦争の野戦病院に送り込んだ、友人のシドニー・ハーバートじゃ勅選委員会の委員長に就任しました。首相のパーマストン卿も委員に名を連ねていました。そして委員会の外にも、彼女の仕事を手助けしてくれた何人ものその道の専門家がおりました。 続く
2011.11.16
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クロニクル 消費税法案衆院を通過1988(昭和63)年11月16日23年前のこの日、3%の消費税の導入を柱とする税制改革6法案が、自民・公明・民社3党の賛成で衆議院を通過、即日参議院に送付されました。ここに、大平内閣での附加価値税、中曽根内閣での売上税と2度挫折した大型間接税の導入が3度目の正直とばかり、ようやく実現を見る見込みが立ったのでした。この法案は12月24日、参議院も通過、翌89年(平成元年)4月1日からの消費税の導入が、正式に決定したのです。時あたかも、昭和天皇の病状は重く、全国的に秋祭りの自粛など、お祝い事自粛ムードが続く中でした。そんな中、株式市場のみは自粛ムードなど何のその、日経平均は年末に3万円を超えるなど、バブルの絶頂へ向けてハチャメチャに浮かれて、ユーフォーリアの全盛期を迎えていたのです。それにしても、随分消費税を払い続けている気がしますが、まだ、22年に過ぎないのですねぇ。何だかキツネにつままれたような気も……
2011.11.16
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TPPと日本の農業 (2)今晩は。昨日の最後の部分に以下のように記しました。農業総算出額は8兆491億円、内訳は、 米 : 1兆7950億円 野菜 : 2兆 221億円 果実 : 6751億円 畜産 : 2兆5096億円 (畜産のうち) 肉用牛 :4406億円 乳用牛 :8041億円 豚 :5085億円 鶏(卵含む):7028億円となっています。皆さんは、この数字をどうお考えになりますか。米から畜産までの合計は7兆18億円です。残りの1兆円強は、最近生産が拡大している花類、小麦や雑穀、茶やタバコなどの生産が占めています。ジョーさんが御指摘くださいましたが、米の生産が農作物全体の22%にまで落ちていることが、私には驚きでした。農業生産における米の比重は、畜産や野菜に抜かれ、今や3位にまで落ちています。その米に対する戸別所得補償の予算額は約5600億円もあります。生産額が1兆8千億円の米に対する補助金としては、多すぎると思いませんか。この戸別補償の外に、農村の灌漑施設や農村インフラへの税金投入を考えると、農業の中でも、米の優遇ぶりは明らかに突出しています。これだけの補助金を投入しても、米生産はがジリ貧なのですから、米への補助金のつけ方が間違っていたことは明らかです。米に関しては専業農家の強化に力を入れつつ、農外所得が収入の大半を占める兼業農家に補助金をばらまく愚策は、すぐに止めるべきでしょう。こんな愚策が何故、民主党得意の事業仕分けにかからないのでしょうか。米は兼業農家の割合が多く、米農家の人数が多いために、稲作農家が政治的に重視されてきたからです。選挙の「票田」としての米重視、米以外の農作物の軽視が、日本の農業政策をいびつにしてきたことは、もはや隠しようがないのです。いまだに強い、「農政=米」という発想を改め、畜産や野菜、果実の生産の重要性を認めた上で、米以外の農業も強くする方策を考える中で、TPPへの参加問題を議論することが必要なように思います。その際、原発擁護、原発維持に執念を燃やす経産省と同じように、平気でウソばかりついている農水省を外したところで議論することが大事なように思います。明日は、食糧自給率に焦点をあて、農水省のウソを記したいと思います。 続く
2011.11.15
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ナイチンゲールの世界 (36)クリミア戦争は終りました。1つの戦争は終りましたが、次の戦争がいつ始まるのかは、分かりません。クリミア戦争にみる如く、各国の植民地獲得競争は、激しさを増しています。クリミア戦争の始まった1853年は、日本にペリー提督の黒船がやってきた年でもあることを、思い出してください。戦争はなくても、多数の兵士が集団生活を送る兵営は、不衛生になりがちな場所であり、衛生環境が劣悪であれば、それだけ伝染病が蔓延する危険の高い場所です。ですから、軍に附属する医療施設、並びに軍そのものの衛生環境の改善は、喫緊の課題であると、ナイチンゲールは考えていたのです。しかし、それをどのように実現すべきか。そこにナイチンゲールの悩みがありました。彼女がスクタリの病院やクリミアの病院で集めた資料を公開すれば、マスコミや世論は大騒ぎとなり、彼女を後押ししてくれるでしょう。しかし、それは大きな政治的スキャンダルになります。資料の公開は、陸軍のみでなく政府の対応ミスをも白日の下に晒す事になり、彼女の理解者であるパーマストン内閣をも、辞職に追い込むことになりかねないからです。思いあぐねた彼女は、前軍務大臣のシドニー・ハーバートに会い、ヴィクトリア女王への面会の斡旋を依頼したのです。しかし、そんな寄り道は必要なかったのです。女王自身、帰国したナイチンゲールに自ら慰労の言葉をかけ、彼女の戦場での苦心談を聞きたいと、宮殿へ招待してくれたのです。女王の夫君アルバート公も同席して、ナイチンゲールの話を聞いた女王は、彼女の戦場談に強い関心を示し、その後もしばしばナイチンゲールと話し合われたのです。この会談の中で、ナイチンゲールは、陸軍の衛生状態の改善を検討するための勅選委員会を作って欲しいと、熱心に要望したのです。当時のイギリスは、「君臨すれども統治せず」を旨とする立憲君主制が根付いていましたが、議会は国王に敬意を払っており、国王は勅選委員会の設置を命じることが出来たのです。ただし、委員会の作成した報告書や答申は、そのまま実現するわけではなく、国会に報告され、審議されるのです。この点ナイチンゲールには自信がありました。勅選委員会に手元の資料をまとめた報告書を提出し、委員会報告の中に加えてもらえば、必ずや国会議員を動かすことが出来ると、確信していたのです。そして、国会への報告書であれば、中味がマスコミに漏れることはなく、軍や政府の名誉を傷つける心配もない。彼女はこう考えたのです。 続く
2011.11.15
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クロニクル 第一回先進国首脳会議(ランブイエサミット)始まる1975(昭和50)年11月15日この日、フランスのパリ近郊の古城、ランブイエにおいて、米・西独・日・英・仏・伊6ヶ国の首脳による、先進国首脳会議(サミット)が始まりました。首脳同士が泊り込んで胸襟を開いて語り合うことで、現下の関心事に共通の理解・認識を持とうという主旨で始まったのですが、この試みの背景には、73年のオイルショックに端を発した戦後初めての資本主義世界の同時不況がありました。スタグフレーション(不況下の物価高)に苦しむ先進経済諸国が、相互に勝手な行動に走るのではなく、互いに協調しながら不況克服という統一目標に邁進することを申し合わせることに、大目標があったのです。3日間にわたって、6ヶ国の首脳を缶詰にしたこの会議は、15項目に及ぶ合意事項をランブイエ宣言として発表、成果をアピールしたのでした。 ところで、この会議は当初イタリアを除く5ヶ国の会議として計画されたのですが、途中で計画を察知した同国の猛烈なアピールでイタリアの参加が実現したのです。それならGNPの規模からいってカナダも有資格ではないかと、翌76年からは、アメリカの後押しでカナダの参加も認められて、参加国は7ヶ国になったのです。さらに77年からは、EUも参加することになりました。サミットは当初は、経済問題を首脳だけで討議する場だったのですが、経済の立ち直りと共に、次第に政治問題のウェートが高まり、官僚たちによる事前会議も周到に行われるようになって、次第に現在のような大掛りな政治ショーに堕していったのです。
2011.11.15
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TPPと日本の農業 TPP(アジア太平洋パートナーシップ協定)の交渉参加を巡る論議が喧しいですね。TPPへの賛成・反対の議論を見聞きしていると、賛成派も反対派も多分に我田引水の眉唾物の議論を展開していることが分かります。私はTPPへ参加しないと、日本の輸出産業が壊滅的打撃を受けるという主張には組しませんので、TPPに参加するプラス面よりもマイナス面の方が大きいと考えていますので、実質的に日米FTA(自由貿易協定)であり、日米EPA(経済連携協定)であるTPPには、参加する必要はないと考えています(実質的に日米だというのは、TPP参加国のGDPは、日米のみで91%に達しているからです)。アジア重視の面からもTPPに参加すべきだという主張も根拠がありません。経済規模の大きい中国・インド・韓国・台湾・インドネシア・タイ・フィリピンは交渉参加を見送っています。そういう自らの立場を明らかにした上で、TPP 交渉参加に反対の姿勢の私にも、農業団体と農水省の突出した反対姿勢には、呆れると同時に怒りを感じています。その主張に大きなウソがいくつも含まれているからです。平気でウソをつく農業団体、そしてそれを容認し、さらには煽っている政治家や役人、彼らが一緒になって日本の農業予算を食い物にし、日本の農業の国際競争力の強化を、妨げてきたように思うからです。細かな分析は明日にしますが、次の数字を挙げておきます。この数字は、昨年11月中旬に農水省が発表した平成21年の農業総産出額です。それによりますと、農業総算出額は8兆491億円、 内訳は、 米 : 1兆7950億円 野菜 : 2兆 221億円 果実 : 6751億円 畜産 : 2兆5096億円 (畜産のうち) 肉用牛 :4406億円 乳用牛 :8041億円 豚 :5085億円 鶏(卵含む):7028億円となっています。皆さんは、この数字をどうお考えになりますか。 続く
2011.11.14
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ナイチンゲールの世界 (35)セヴァストポリ要塞の陥落から、およそ半年が過ぎた1856年3月、ようやく講和条約が結ばれ、クリミア戦争は終りました。戦争が終ってもすぐにスクタリの陸軍病院を閉じるわけにはいきません。最後の患者を病院から移送することが出来るようになるまで、存続する必要がありました。ナイチンゲールがスクタリを離れ、帰国の途についたのは、7月16日のことでした。さて、ナイチンゲールに残されたなすべきこととは何でしょうか。確かに看護婦養成学校の創立も大事でした。しかし、その前になすべき喫緊の課題があったのです。「ナイチンゲール基金」の委員たちに、彼女が書き送った手紙が残されています。そこには、次のように記されています。「皆様の申し出は大変有り難いのですが、私が看護婦養成の仕事に取り掛かるのは、当分先のことになると思います。いつになるかは、まだ見当もつきません。今の私には、外にしなければならないことが残っているのです」と。イギリス国内では、ナイチンゲールの帰国を待ち構え、歓迎ムードが高まっていました。歓迎式典やパレードの準備が進められていたのです。しかし、ナイチンゲールは華やかな歓迎を嫌い、偽名を使ってしかも外国船に乗り込んで、ひっそりと帰国する道を選んだのです。8月7日、彼女は家族が夏をすごすリーハースト荘に、ひっそりと帰還しました。数日の休息後、彼女は早速動き出しました。クリミア半島やスクタリの病院で、多くのイギリス兵が亡くなりました。その中には重傷で助けようがなかった兵士もいましたが、衛生状態の悪さから合併症を併発したり、病気で命を落とした兵士の方が、ずっと多かったのです。即ち、陸軍病院の衛生状態さえ良ければ、死なずに済んだ兵士が、沢山いたのです。ナイチンゲールはこの事実に気付き、客観的な数値を残そうと、かつて習い覚えた統計数値にしようと考えていたのです。父の支援で身につけた高等教育、特に数学的知識を、生かすときが来た、彼女はこう考えていたのです。 続く
2011.11.14
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クロニクル 「新しき村」スタート1918(大正7)年11月14日白樺派文学の旗頭、武者小路実篤は、この日宮崎県児湯(こゆ)郡木城(きじょう)村に生活共同体の建設を目指して「新しき村」を開所しました。 会員=村民は平等互恵の原則の下に、皆が平等に働き、平等に余暇を楽しみ、農業等の生産物は平等に分配するという、一種のユートピア社会主義の試みでした。会員は武者小路夫妻を含む15名でした。 武者小路はトルストイに私淑し、彼の人道主義的な世界観を実践しようと試みたのですが、トルストイが範としたロバート・オーウェン流のユートピア社会主義の試みは、既にアメリカにおいて失敗、挫折しており、武者小路の試みもまた、成功に至る社会的基盤を欠いた空想的な試みに留まりました。 しかし、彼の試みは、後に農本主義の思想と結びついて、農本主義思想を広める役割を果すのです。
2011.11.14
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ナイチンゲールの世界 (34)1855年の9月、1年を越える攻防の果てに、ようやくロシア軍のセヴァストポリ要塞は陥落し、クリミア戦争は山場を越えました。講和条約の締結まで、小規模な散発的な戦闘はありましたが、イギリスもフランスも、クリミアに派遣した兵団を半分以下に縮小しました。財政の負担が大変だったのです。戦場から本国に戻った帰還兵たちが、負傷の時や伝染病で苦しんだ時、ナイチンゲールにどれだけ力づけてもらったかを、口々に語ったのです。「タイムズ」の報道は本当だった。こうして「ランプをもったレディ」の話は、国中に広まったのです。上流階級の社交界も例外ではありませんでした。フローレンスの行動にあれほど反対していた母や姉も、今や彼女のおかげで時の人の扱いです。当時社交界で大流行の競馬では、自分の持ち馬に、フローレンスとかナイチンゲールと名付ける人まで、現れたという笑えない逸話も残されています。社交界では、ナイチンゲールを支援するための活動が組織化され、彼女が看護婦養成学校を開く手助けをしようと、早手回しに「ナイチンゲール基金」を創設し、資金集めを開始したほどです。しかし、ナイチンゲールには、まだなすべきことが残っていました。 続く
2011.11.13
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